青空文庫アーカイブ
幽霊と推進機
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)推進機《スクリュウ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)荷物|汽船《ボート》が、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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[#ここから1字下げ]
元の日活会社長S・M氏といったら、その方面の古い関係者は大抵知っているであろう。娑婆《しゃば》の波風の中でも一番荒い処を渡って来た人で、現在は香港《ホンコン》に居住して日本人の父M翁と呼ばれている。左記は同氏が、筆者に書いてくれないかと云って話した怪談の体験である。かなり古い出来事ではあるが、純然たる実際家肌の同氏が真剣になって話す態度を見ていると事実としか思えない。細かい部分は筆者から質問したものであるが、多少の記憶の誤りがあるかも知れない。謹しんで翁の是正を乞うておく。
[#ここで字下げ終わり]
明治十九年の夏、七月二十五日朝五時半に、ピニエス・ペンドルという南洋通いの荷物汽船《カーゴボート》が、香港《ホンコン》を出て新嘉坡《シンガポール》に向った。噸《トン》数は二千五百。船長は背《せ》の高い、色の黒い、チョット仏蘭西《フランス》人に見える英国人であった。経歴はよくわからないが、何となくスゴイ感じのする無口な男で、海員クラブでも相当押しが利いていた。
一等運転手は若いハイカラなヤンキー、客船《メイルボート》出身だけに淡水と、襟《カラ》と、ワイシャツの最大浪費者だと聞いた。二等運転手は猶太《ジュー》系の鷲鼻《わしばな》を持った小男で、人種はよくわからない。世界中の言葉を使ってクルクルと働きまわる男、機関長は理窟っぽいコルシカ人と聞いたが成る程、憂鬱そうな風付《ふうつ》きがどこやらナポレオンに似ていた。
それから水夫長は純粋のジョンブル式ビール樽《だる》で、船長よりも風采が堂々としていた。おまけに腕力が絶倫と来ているので、頭の上らないのは古くから居る船長だけ……気に入らないと運転手にでもメリケンを喰わせるというのだから、船の中のぬし[#「ぬし」に傍点]みたような男に違いない。水夫でもウッカリ反抗したら最後、足を捉《つか》まえて海に放り込むという評判を、まだ陸に居るうちに海員仲間から聞いた。ツイこの間も香港に着く前にチョットした口論から船医をノシてしまったので、出帆間際まで船医が帰って来なかった。だからトウトウ待ち切れないで船を出したという話を、船に乗ると直ぐにボーイに聞かされた位である。
私はソンナ内幕を聞いているうちに、コイツは物騒な船に乗ったもんだと思った。しかし実をいうと私は、その水夫長の世話でこの船へ便乗して、ボルネオに密航するつもりだったので今更驚いても追っ付かなかった。
もっともソウいう私もまだ若かった。最近にヤンキーのインチキ野郎を一人、半殺しにしたのが八釜《やかま》しくなって、領事の顔を立てるために香港を飛び出した位の荒武者だったから、普通人程にビク付きはしなかった。殊に強慾な水夫長はシコタマ掴まされている関係上、私を特別の親友扱いにして、やたらにチヤホヤしてくれたのであったが、しかし、それでも私は、陸《おか》の上と海の上と、勝手が非常に違うことを知っていたので、停泊中の二三日ばかりは頗《すこぶ》る神妙にして、水夫長の室《へや》に小さくなっていた。
香港を出てから二日の間、コレダケの人間が皆揃って食堂に出た。つまり私を入れた都合六人の上級船員が、一番先に食事をするのであったが、阿片《アヘン》を積む船だけに相当|美味《うま》い物が喰えた。
食堂は水夫長の室《へや》の前に在った。別に広くもなく、綺麗という程でもなかったが、通風の工合《ぐあい》がよかった上に、馬鹿に贅沢で安全な石油ランプが一個、中央にブラ下がっていたから、その下で六人が、夜遅くまで、酒を飲みながらトラムプをやった。むろん手剛《てごわ》い相手は一人も居なかったが、新顔の私が交《まじ》っているので皆スバラシク気が乗っていた。おまけにワイシャツの背中にまで札束を落し込んでいた私は、出来るだけ景気よく負けたり勝ったりしてやったので、スッカリ英雄《ヒーロー》扱いにされてしまった。
ところが三日目の昼の食事が始まると間もなく、給仕の黒ん坊が眼の球《たま》をクルクルまわしながら重大な報告をした。水夫の中で二人病人が出来た。熱が非常に高くて苦悶しているというのであった。
背の高い、色の黒い船長は、静かにナイフを置きながら二人の水夫の名前を聞いた。それから左右に並ぶ五人の顔をズラリと見渡して、
「香港土産のチブスだ。助かるまいナ」
とつぶやいた。同時に……船医が居ない……という当惑の色をアリアリと顔にあらわしながら、水夫長の顔をジロリと見た。
皆は森《しん》と静まり返ってしまった。私もナイフとフォークを置いてナプキンで口を拭いた。
水夫長は非常に感情を害したらしかった。大きな、灰色の眼を剥き出して真蒼になりながら、船長を見下すようにソロソロと立ち上ったが、それを見上げた船長はイヨイヨ平気な顔になって冷笑を含んだ。
「……フフ……消毒も出来んからなあ……フフ……」
そんな場面に慣れていた私は、今にもナイフか皿が飛ぶものと思ってコッソリ椅子を浮かしていた。しかし水夫長はジッと我慢した。毛ムクジャラの両の拳《こぶし》をワナワナと震わして、禿《は》げ上った額《ひたい》の左右に、太い青筋をモリモリと浮き上らせていたが、突然にクルリとビール樽を廻転さしたと思うと、モウ水夫部屋に通ずる入口の扉《ドア》に手をかけていた。
その幅広い背中を船長はピタリと睨んだ。
「……オイ……どこへ行くんだ」
「……消毒しに行くんだ……」
と水夫長は見向きもせずに怒鳴りながら、ガチャガチャと把手《ノッブ》を捻《ねじ》った。
「……馬鹿ッ……」
と、底力のある声で船長が云った。腕を高やかに組みながら……。
「……俺の部下を海に投《ほう》り込むような真似をしやがったら……貴様もだぞ……」
扉《ドア》の内側に半分隠れていた水夫長の巨大な尻がピタリと動かなくなった。そのまま背後《うしろ》向きにソロソロと引返して来ると、火の出るような一瞥《いちべつ》を船長にくれた……と思ううちにツカツカと自分の室《へや》に這入って轟然《ごうぜん》と扉《ドア》を閉めた。
そのあとから二等運転手と機関長が勢よく駈け込んで行ったが、これは水夫長を慰撫するためだという事がすぐにわかった。だから私もそのアトから静かに這入って、運転手と機関長の背中越しにジッと様子を聞いてみると、水夫長が激昂するのには、やはり相当の理由があった。
そのチブスに罹《か》かった二人の水夫というのは、船長が最近に、新嘉坡《シンガポール》で拾い上げて、水夫長に押し付けたものであった。むろん船長の見込だけあって、腕は相当に立つし、温柔《おとな》しくもあったが、しかし、その陰気臭い、妙に気取った二人の姿を見た最初から、水夫長は何となく「虫が好かない」と思った。……というのは元来、新嘉坡《シンガポール》あたりで投げ出されている船員《ボーイ》に碌《ろく》なものが居よう筈がなかった。密航者《インチキ》か、懶怠者《ヤクザ》か、喧嘩狂《アマサレ》か、それとも虐殺《ノサレ》覚悟の賭博《カスリ》専門か、海賊間者《クチビ》ぐらいの連中に定《き》まっているのに、この二人に限ってソンナ態度がミジンもない。それこそ見付け物といってもいい位に柔順《すなお》で、無口で、俺(水夫長)の目顔《めづら》ばかり見ながら、スラスラと立ちまわるのだから、薄気味の悪いこと夥しい。ドッチにしてもコンナ荒稼ぎ(密輸入)の船員連中《ボーイズ》と肌が合わないのは、わかり切っているばかりじゃない。給料が又、滅法安かった。どこかの国のスパイじゃないかと思われる位なのを船長は、俺(水夫長)に一言も断らないまま約束《チャーター》してしまったんだから結局、俺の顔を丸潰しにした事になる。
「だから俺は癪《しゃく》に障って癪に障ってたまらなかったんだ。船長の昔なじみ[#「なじみ」に傍点]だか何だか知らねえが、あんな不景気な野郎が、一人半分でもこの船に乗っていると思うと俺あクサクサしちまったもんだ。野郎等二人はドッチミチこの船の貧乏神に違いないんだ。……だから機会《おり》があったら抓《つま》み出してくれようと思っているところへ、ツイこの間の事だ。香港の奥の支那酒場《チンク》の隅ッコで、野郎等二人が飲んでいるところを発見《めっけ》たから大勢のマン中で毒気を吹っかけてくれた。散々《さんざっ》パラ罵倒して、二度と俺の顔《つら》を見られないくらい恥を掻かしてくれたもんだが、それでも野郎等、反抗《てむかい》もしなければ船を降りもしなかった……ノメノメと船長のポケットにブラ下って帰って来やがった……アンナ奴は船乗仲間の面《つら》よごしでこの船の穢《けが》れになるばかりだ……船長もヤキが廻ったらしいからこの船もオシマイだろう……俺がオン出るか船長をタタキ出すか二つに一つだろう……今に見ろ……ドウスルカ……」
……といったような事を喘《あえ》ぎ喘ぎ云いながら水夫長は、寝台《ベッド》の上に引っくり返って、ブランデーをガブガブと喇叭《らっぱ》飲みにしていた。
そうした事情がアラカタわかると、私はソッと室《へや》を辷《すべ》り出た。この仲裁は場違いだと思ったから……。
船長はまだ食堂に残っていた。自分の椅子に反《そ》りかえってマドロスを吹かしながら、マジリマジリと天井のランプを仰いでいたが、私が傍を通っても眉一つ動かさなかった。もしかすると病人の処置を考えていたのかも知れないが、とにかく薄気味が悪い人間だと思いながらソッと甲板に出た……と……同時に素人ながら、これはと気が付いた。
一時間ばかり前までカラカラに晴れ渡っていた空が、いつの間にか蒸《む》し暑い灰色に掻き曇って来て、油を流したように光る大ウネリが水平線の処まで重なり合っている。ハイカラの一等運転手がその舳《みよし》に突立って、高い鼻を上向けながら、お天気を嗅ぐような恰好をしていたが、私が近づいて行く靴音を聞くと、急に振り返って片手を揚げた。
「……ヤッ……済みませんが……大急ぎで水夫長を呼んで来てくれませんか」
言葉付は叮嚀《ていねい》であったが、顔色はかなり緊張していた。
「……それからですね……今大きなスコールが来かけていますから、そいつが通過するまで君は甲板に出ないで下さいね」
……果して……と思うと、暴風《あらし》に慣れない私は少々ドキンとした。そのまま大急ぎで船室に引返したが、水夫長はモウ別の階段から出て行ったらしく、船室の扉《ドア》が開け放しになっていた。
私は船酔の薬を混ぜたウイスキーを一息に嚥《の》み下しながら、寝台《ベッド》に頭を突込んだ。夕食は無論喰わなかった。
南支那海の三角波というのは、チョウド風呂敷を下から突き上げるような恰好に動くものだそうで、船首に落ちかかる波の頭だけでも大きいのは十|噸《トン》ぐらいの力がある。そんなのにタタキ廻されると、イクラ馬力をかけてもかけても船が進まないどころか、逆戻りしている事さえあるという。世界を股にかけた船員でも、真剣になってその恰好の恐ろしさを説明する位であるが、二昼夜の間角瓶を抱いてヘベレケになっていた私は、トウトウその珍らしい波を見ないでしまった。
舷側のボートを一艘犠牲に供して、船が再び、明るい太陽の下に出ると、腹を減らしていた連中が期せずして食堂に集まった。むろん船はまだ大揺れに揺れていたから皆、素足のままで、室《へや》の中に張り廻した綱に捉まって、青い顔を見合せただけであったが、その時に二等運転手がフト気付いたらしく皆の顔を見まわした。
「チブスの奴等あドウしたろう。チャンコロ部屋に隔離さしておいたんだが、死にやしめえな……マサカ……」
皆は愕然《がくぜん》となった。
すると何を考えたのか水夫長が大急ぎで自分の部屋に飛び込んで行ったので、皆は又ハッとさせられた……ところが間もなく、その水夫長が片手に小さな提燈《ランタン》をブラ下げて出て来たので、ホッとした連中が訳もなくアトからゾロゾロとクッ付いて行った。だから私も何の気なしに先を争って行ったが、アトで止せばよかったと思った。
チャンコロ部屋というのは船尾の最下層に近い部屋で、ズット以前に支那人の奴隷を積んだ寝床の取り崩し残りを、荒板で無造作に囲んだものであった。その真暗な蚕棚《かいこだな》式の寝床の間を、突き当りまで行った処で、ランタンの赤い光りが停止している。それを目標にしてタマラナイ異臭がムンムンと蒸《む》れかえる中を手探りして行くと、そのうちにヤット眼が慣れて来た。
一人の水夫は上半裸体の胴体を、寝床の手摺に結び付けたまま、床《フロア》の方へ横筋違いにブラ下っていたが、左手の関節が脱臼するか折れるかしたらしく、ブランブランになって揺れていた。それから今一人は、これも半裸体のまま床の上に転がり落ちて、蚕棚の下を嘔吐《は》き続けながら、ズット向うの船底《ダンブル》の降り口の所まで旅行していたが、どこかに猛烈に打《ぶ》つかったものと見えて、鼻の横に大きな穴が開いて、そこから這い出した黒い血の塊《かた》まりが、頬から髪毛《かみ》の中に這い上っていた。その惨《むご》たらしい死相《しにがお》を、ユラユラと動くランタンの光越しに覗いていると、何だか嬉しそうに笑っているかのように見えた。
皆はシインとなった。息苦しい程|蒸《む》し暑かった。
「……ウ――ム……ムムム……」
とその時に水夫長が唸り出した。
白いハンカチで何度も何度も禿げ上った額を拭いているうちにランタンの火がブルブルと震え出した。
「……オ……おいらの……せいじゃ……ねえんだぞ……いいか……いいか……」
私は水夫長の声が、いつもと丸で違っているのに気が付いた。響きの大きい胴間《どうま》声が、難破船のように切れ切れにシャガレていて、死んだ水夫の声じゃないか知らんと思われた位であった。
その声を聞くと皆はモウ一度ゾッとさせられたらしい。足を踏み直す音が二三度ゾロゾロとしたと思うと、又シインとなってしまった。
そのうちに誰だかわからない二三人が、ダシヌケに私を押し除《の》けながら板囲いの外へ出ようとした。だから私も押されながら狭い棚の間を食堂の方へ引返した。トタンにたまらない鬼気にゾクゾクと襲われかかったが、これは大暴風《あらし》のアトの空腹と、疲労でヒョロヒョロになっていた神経が感じた幻覚だったかも知れない。もっともこうした状態は私ばかりではなかった。水夫長もおんなじように気が弱っていたものに違いなかったが、しかし場合が場合なので誰一人ソンナ事に気付いてはいないらしかった。
それから一時間と経たないうちに、いい加減に薄められた石炭酸だの、昇汞《しょうこう》だの、石灰水だのがドシドシ運びおろされて、チャンコロ部屋一面にブチ撒《ま》かれた。するとどうした都合か、その猛悪な刺戟性の臭いが、アノ忘れられない屍臭と、嘔吐臭を誘いながら、食堂の中一パイにセリ上って来たので、綱にブラ下りながら受取ったパンと水が咽喉《のど》に通らなくなってしまった。
皆|忌々《いまいま》しそうにペッペッと唾液《つば》を吐きながら、パンを噛《か》じって水を飲んだ。
その中に交《まじ》った黒ん坊の給仕も、生石灰で火傷をした手の甲の繃帯を巻き直しながら、不平そうに涙ぐんでいた。
船長も片手で綱を掴みながら、その黒ん坊が給仕する生《なま》ぬるい水を二三杯、立て続けに飲んだが、ヨッポド胸が悪かったのであろう。そうしてコップの中をジイッと透かして見ているうちに、間もなく低い声で、
「……ボン……」
と叫んだと思うと、飲み残しの水をパッと床の上に投げ棄てながら、皆の顔を見まわして冷笑した。
皆は真青になった。何かしら薄気味悪い、暗い気持に船全体が包まれている事実を、船長とおんなじように感じているらしかった。
そのせいか二人の死骸は、極力念入りに包装された。そうして大揺れの下甲板に粛々と担《かつ》ぎ上げられると、午後の正四時に船長がヒューウと吹き出した口笛を合図にして、厳《おごそ》かな敬礼に見送られつつ水葬された。
その黒長い二つの袋が、船よりもズット大きい波の中に、泡の尾を引いて吸い込まれて行くと間もなく、私達の背後からケタタマシイ爆音が起ったので、皆ビックリして振り向いた。それは、どこから探して来たものか水夫長が、支那製の爆竹に点火して、二人の霊に手向《たむ》けたものであったが、その花火筒のアクドイ色彩を両手にブラ下げて、起重機の蔭から舷側によろめき出た水夫長のうしろ姿が、不思議なほどゲッソリして見えた。
その夕方の夕焼けのスバラシサは、今でもハッキリと眼に残っている。あらん限りの綺麗な絵の具に火を放《つ》けて、大空一面にブチ撒いたようで、どんなパノラマ描《か》きでもアンな画は書けなかったろう。眼が眩《くら》んで息が詰まる位ドエライ、モノスゴイものであった。
私は潮飛沫《しおしぶき》を浴びながら甲板の突端《トップ》に掴まって、揺れ上ったり、揺れ下ったりしいしい暗くなって行く、真青な海の向う側をボンヤリと見惚《みと》れていた。するとその肩をダシヌケに叩いた者が居たのでビックリして振り返ってみると、それは小男の二等運転手であった。
その顔を見た瞬間に……又|暴風《あらし》だな……と直覚した私は、空っぽになったウイスキーの瓶を頭の中で、クルクルと廻転させた。
小男の二等運転手は鈎鼻《かぎばな》をコスリコスリ下手《へた》な日本語で云った。
「水夫長ドコ行キマシタ」
「先刻《さっき》頭が痛いと云って降りて行ったようですが?」
「困リマス、バロメーの水銀無クナリマス」
「……驚いたなあ……また時化《しけ》るんですか」
運転手は返事せずに、階段の方向へ駈け出した。同時に下から不安な顔をさし出した一等運転手と、肩を並べて降りて行った。だから私も何かしら不安な気持に逐《お》われながら、下甲板伝いに食堂へ降りて行ったが忽ち……アッ……と叫んで立ち止まった。
船室の扉《ドア》が半開きになっている蔭から、水夫長の巨大な身体《からだ》がウツムケに投げ出されている。襯衣《シャツ》の上のズボン釣りを片っ方|外《はず》して、右手は扉《ドア》の下の角《すみ》を、左手は真鍮張りの敷居をシッカリと掴みながらビクビクと藻掻《もが》いているようである。ランプが点《つ》いていないせい[#「せい」に傍点]か、顔と手の色が土のように青黒い。
私より先に立っていた二人の運転手が、同時にタジタジとよろめいた。船が揺れたせい[#「せい」に傍点]ではなかった。同時に水夫長がウームと唸った。
私はイキナリ駈け寄って抱き起そうとしたが、まだ水夫長の身体《からだ》に触れないうちに、思いがけない二人の人間が、水夫長の足の処に立っているのを発見したので、ビックリしながら手を引いた。その二人の背後からは、夕映えの窓明りがピカピカとさし込んでいたが、それでも二人の服装が、細かい処まで青白くハッキリと見えたから不思議であった。
それはツイ一時間ばかり前に、二重の麻袋《ドンゴロス》に入れて、松脂《チャン》やタールでコチンコチンに塗り固めて、大きな銑鉄《せんてつ》の錘《おもり》を付けて、確かに海の底へ沈めた筈の二人の水夫に違いなかった。
青い夏服をキチンと着た二人の姿は、消毒された時と一|分《ぶ》一|厘《りん》違ってはいなかった。向って右側に立っている水夫の鼻の横に出来ている疵口《きずぐち》が、白くフヤケた一寸四方ばかりの口を開いている向うから、奥歯の金冠が二三本チラチラと光っていた。その疵口は水夫長が手ずから強いアルコールで拭き浄めてやったものであった。
その水夫は私の顔を見ると、二つの口を歪《ゆが》めてニヤリと笑った。そうして明瞭な英語で、
「……水夫長を連れて行きますよ」
と云った。その声は二人の運転手も一緒に聞いたのだから間違いない。口の横に大|怪我《けが》をしている人間とは思えない、ハッキリした、静かな口調であった。
……轟然一発……。
私は自分の頭が破裂したのかと思った。振り返ってみると、それは一等運転手が、私の背中越しに、二人の水夫を目がけてピストルを発射したのであった。給仕、水夫、コック、船長などがその音を聞き付けたらしい。
「ドウシタドウシタ」「……どうしたんだ……いったい……」
と口々に叫びかけながら走り込んで来た。その中には、私達三人を幽霊じゃないかと疑った慌て者も居たそうであるが、これは考えてみると無理もなかった。本物の幽霊はピストルの烟《けむり》と一緒に消え失せてしまって、アトにはウンウン藻掻《もが》いている水夫長の肉体だけが残っていたのだから、説明の仕様がなくなった三人が、三人とも、思い切った珍妙な顔をしていたのは当然である。
その水夫長の額や手足は、火のように熱くなっていた。取り巻いた連中は皆、チブスに違いないと云いながら処置に困った顔をしていたが、そういううちにも水夫長は真鍮張《しんちゅうば》りの敷居に必死と獅噛《しが》み付いたまま……
「勘弁してくれ勘弁してくれ」
と叫び続けた。
後から這入って来た船長が、そうした水夫長の姿をジッと見下していたが、やがて、超然たる態度で咳払いを一つした。
「……三人が飲んだというアノ支那人《チンク》の酒場が怪しかったんだナ。……俺はソウ思う。……厄病神がドッカの隅に隠れてやがったんだ。……そうして三人に取憑《とりつ》きやがったんだナ。俺はソウ思う……」
とユックリユックリ断言しながら、食堂のマン中に引返した。すると、その左右から二人の運転手が近付いて、私と一緒に見た通りの幽霊の姿を報告し初めたので、皆眼を光らして聞いていたが、しかし船長は苦り切ったまま眼を閉じて、腕を組んで棒立ちに突立っているキリであった。そうして二人の言葉が終っても暫くの間、おなじような状態を続けていたが、やがて青い眼をパッチリと開くと、天井の一角を睨みながら薄笑いをした。
「……フフン……恩を仇《あだ》にしやがるんだな……フン。連れて行くなら行ってみろだ。水夫長は死んでも新嘉坡《シンガポール》まで持って行ってくれるからな。アームストロングの推進器《スクリュウ》と、貴様等の幽霊の力とドッチが強いかだ……フフン……」
二人の運転手が同時に肩をユスリ上げた。申合せたように青白いタメ息を吐《つ》いた。
船長はその場で命令を下して水夫長の身体《からだ》を、下甲板に在る船長室のスグ横の行李《こうり》部屋兼、化粧室に移させた。あとの消毒と水夫長の介抱は私が引受けたが、これは皆から強いられぬ先に申出たものであった。
スッカリ片付いた時は日が暮れていたが、同時に嵐の前兆もイヨイヨはっきりとなっていた。デッキを駈けまわる足音が時々きこえて来る。
小さな丸窓から、厚い硝子《ガラス》越しに時々、音の無い波頭が白く見えるのは、どこかに月が出ているせいであろう。
流石《さすが》に無鉄砲な私も、そうした光景をジッと見ているうちい、云い知れぬ運命の転変をゾッとする程感じさせられたものであった。同時に何とも知れない恐ろしいものが、室《へや》の中に満ち満ちて来るような感じがしたので、私は思わず身ぶるいをしてポケットの五連発を押えた。それから水夫長の焼けるような額に手を当ててみた。
その瞬間に入口の扉《ドア》が、ひとり手に開いて真黒な烈風がドッと吹き込んだ。
私は慌てて扉《ドア》を押えながらシッカリと閉め直したが、その片手間に室内を振り返ってみると……ギョッとした。
腰が抜けるとはあんな状態をいうのであろう。扉《ドア》の把手《ノッブ》を後手《うしろで》に掴んでヤッと身体《からだ》の重量を支えた。
二人の水夫が又来ている。ほの赤いランタンの光りの中に、菜《な》ッ葉色《ぱいろ》の作業服がハッキリと浮き出している。何もかも先刻《さっき》の通りの姿で、しかも一人の水夫の片腕がブランブランになっているのが幽霊以上の恐ろしいものに見えた。
五連発を取出す間もなく二三歩進み出た私は、何やら狂気のように大喝した。すると二人は、無言のまま私の左右を通り抜けて扉《ドア》の方に行った。それと同時に私は無我夢中で室《へや》の奥に突進して、今まで二人が立っていた寝台《ベッド》の前に来た。
入口に並んだ二人は、私の顔にマトモな冷たい一瞥《いちべつ》を与えた。それから頬に傷をした水兵が、最前の通りに妙な、笑顔とも付かない笑顔を見せながら、静かな声で云った。
「この船はモウ沈みます。船長が馬鹿だったのです」
私はその言葉の意味を考えたが、そのうちに二人は、今|閉《し》めたばかりの扉《ドア》を、音もなく開いて出て行った。
私も続いて出た。氷嚢《ひょうのう》を掴んで悶《もだ》え狂う水夫長を手早く閉め込んで鍵をかけた、氷のような汗がパラパラと手の甲に滴《したた》り落ちた。
しかし私は屁古垂《へこた》れなかった。なおも二人の跡を逐《お》うて船首の方へ行こうとすると、出会い頭《がしら》に二等運転手が船橋《ブリッジ》から駈け降りて来た。見るとこれも顔の色を変えている。
「……今君の室《へや》へ……例の二人が……来たでしょう」
私は黙って二人が立ち去った舳《トップ》の方向を指《ゆびさ》した。
今から考えてみるとこの時に船は、スピードをグッと落していたらしい。風に捲き落された煙が下甲板一パイに漲《みなぎ》っていたが、その中で二等運転手が、突然に鋭い呼子笛《よびこ》を吹くと、待ち構えていたらしい人影がそこここから、煙を押し分けるようにして出て来た。船長、一等運転手、賄長《まかないちょう》、屈強の水夫、火夫、等々々、只、機関長だけは居なかったようである。皆、手に手にピストルだの、スパナだの、ロープの切端《きれはし》だのを持っていた。その十四五人が、逆風と潮飛沫《しおしぶき》の中をよろめきながら船首まで行ったのは、私が扉《ドア》に鍵をかけてから三十秒と経たない中《うち》であった。
風が千切《ちぎ》れる程、吹き募っていた。切れ切れに渦巻き飛ぶ雲の間から、満月が時々洩れ出した。その光りで船首に近い海の上に二つの死骸の袋がポッカリと並んで浮いているのが見えた。
皆はあらん限りの弾丸を撃ちかけた。そうして、とうとう二つの袋が波の間に沈んで見えなくなると皆、ホッとして顔を見合わせた。
云い知れぬ恐怖が船全体に満ち満ちた。
眼のまわる程忙がしいのをソッチ除《の》けにして、あらん限りの火薬を集めて、あらん限りの爆竹が作られた。船員の中で出られる限りの者は皆、船首に集まって手に手に爆竹を鳴らしながら二人の霊を慰めた。
潮飛沫《しおしぶき》に濡れたのはそのまま海に投込んだ。空砲も打った。短銃《ピストル》も放った。
その音は轟々と吹く風に吹き散らされ、※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]々《どうどう》と崩れる波に入り乱れて物凄い限りを極めた。
けれども、結局この船に付いた怪痴《けち》を払い除ける事は出来なかったらしい。
出帆してから一週間目に来た、その大|時化《しけ》の最高潮に、メイン・マストも、舵《かじ》も、ボートも、皆遣られた丸坊主のピニエス・ペンドル号は、毅然としている船長と、瀕死の水夫長と、狼狽している船員を載せたまま、グングンと吹き流され始めた。そうして一日一夜の後《のち》に、どこともわからない海岸に吹き付けられて難破してしまった。
私は水夫長の救命胴着《コルク・チョッキ》を身に着けて、真暗な舷側から身を躍らせた。
それから暫くの間暗黒の海上を、陸地らしい方向へ一生懸命に泳いでいるつもりであったが、やがて、腕に火が付いたような感じがしたのでビックリして眼を開いてみると、意外にも私は、一等船室らしい見事なベッドの中に、リンネルの寝間着《ねまき》に包まれて寝かされている。その二の腕に出来た原因不明の擦過傷《すりきず》を、黒いアゴヒゲを生《は》やした医者らしい男が、
「……静かに……静かに……」
と云いながら叮嚀に拭き浄めているのであった。
その男が使う独逸《ドイツ》ナマリの英語は実にわかりにくくて弱った。しかし大体の要点だけは、暫く話しているうちにヤッと呑み込めた。
この男はこの船の船医で、ブーレーというミュンヘン出のドクトルであった。船は昨日《きのう》香港を出て来たばかりのクライデウォルフ号という七千|噸《トン》級の独逸汽船で、長崎から横浜へまわる客船《メイルボート》であったが、今朝《けさ》早く浪《なみ》の間を転々《ロール》している私を助け上げてみると、宝石や札束を詰めた自転車のチューブを、胴体一面に巻き付けていたので、皆ビックリさせられた。しかし相当の身なりをしていたし、領事の名刺や手紙などを、旅行免状《パスポート》と一所《いっしょ》に、チャント肌身に付けていたので、然るべき身分の者と思われたらしく、何もかも大切に……蘇蘭《スコットランド》製のコルク・チョッキまでも一緒にして事務長の手に保管して在るから、安心して養生なさい……と云うのであった。
私はそれから急に元気付いた。
ブーレー博士が質問するまにまにポツポツと遭難談を初めたものであるが、話が二人の水夫の幽霊のところまで来ると、不思議にもブーレー博士が一層熱心になって、鼻眼鏡をかけ直しかけ直し謹聴してくれた。そうして話が終ると、ボーイが持って来た美味《うま》い玉子酒をすすめながらコンナ事を云い出した。
「……ヤ……お疲れでしたろう……ところで私はこうして船医を専門にする片手間に、海上の迷信を研究している者ですが……既に二三の著書も刊行しているような次第ですが……その中でも貴方《あなた》のような体験は実に珍らしい実例であると信じます。その幻覚と、現実との重なり合いが劇的にシックリしているばかりでなく、色々な印象が細かい処まで非常にハッキリしている点が、特に面白い参考材料であると思います。……勿論……その幽霊の正体なるものは、学理的立場から見ますと、極めて簡単明瞭なものに過ぎないのですが……」
「……エッ……簡単明瞭……」
と私は思わず叫び出した。流石《さすが》は独逸の学者だけあると感心しながら……。
ブーレー博士は厳《おご》そかにうなずいた。
「……そうです。極めて簡単明瞭な現象に過ぎないのです。お話のような幽霊現象は、遭難海員が屡々《しばしば》体験するところですが、実は、その遭難当時に感得した、一種の幻覚錯覚に外ならないのです」
「……というと……ドンナ事になるのですか」
「……という理由は外《ほか》でもありません。貴方《あなた》はこの船に救い上げられる前後に、暫くの間失神状態に陥っておられたでしょう。現にこのベッドの上に寝られてから今までの間でも、既に九時間以上を経過しておられるのですがね」
「九時間……」
「そうです。……ですから……その間に貴方の脳髄が描き出した夢が、貴方の現実の記憶と交錯したまま、貴方の記憶の中に重なり合って焼き付けられてしまったのです。ちょうど写真の二重曝露式に、シックリとネ……勿論それは極度の疲労と衰弱の結果であることが、学理的に証明出来るのですが……」
「……プッ……バ……馬鹿なッ……」
と叫びながら私は起き上ろうとした。トタンに口の中の玉子酒に噎《む》せ返りながらモウ一度、枕の上に引っくり返ってしまった。
「……ゲヘゲヘ……ゲヘンゲヘン……そ……そんな馬鹿な話が……あるものか……アレが夢なら何もかも……夢だ……」
「静かに……静かに……」
「……ぼ……僕と一緒に助かった者はおりませんか……一緒に幽霊を見た……現実の証人が……」
私は黄色い吸呑《すいのみ》を抱えながらキョロキョロとそこいらを見まわした。この室《へや》には寝台《ベッド》が一つしかないのを知っていながら……。
しかしブーレー博士は私と反比例に、沈着《おちつ》いた態度で鼻眼鏡を外《はず》した。微笑しいしい両手の指を組み合わせた。
「……イヤ……助かったのは貴方お一人なのです。ほかには船具の破片すら見付からなかったのです」
底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年3月24日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
1933(昭和8)年5月15日発行
※底本の「抓《つみ》み出してくれよう」を、「抓《つま》み出してくれよう」に改めました。
入力:柴田卓治
校正:浅原庸子
2004年2月19日作成
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