青空文庫アーカイブ
山羊髯編輯長
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)汚穢《きたな》い
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二階の窓|硝子《ガラス》が
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)山羊髯のおやじ[#「おやじ」に傍点]は
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[#本文中、新聞記事の見出しを模した箇所では、入力者注で文字の大きさを表した。大きさの比率は、見出し文字:小見出し文字:本文の文字=5:4:3]
女 箱 師
一
「玄洋日報社」と筆太に書いた、真黒けな松板の看板を発見した吾輩はガッカリしてしまった。コンナ汚穢《きたな》い新聞社に俺は這入《はい》るのかと思って……。
古腐ったバラック式二階建に塗った青い安ペンキがボロボロに剥《は》げチョロケている。四つしかない二階の窓|硝子《ガラス》が新聞紙の膏薬《こうやく》だらけだ。右手に在る一間幅ぐらいの開《あ》けっ放しの入口が発送口だろう。紙屑だの縄切れだのが一パイに散らかっている。
その前に掲示してある八|頁《ページ》の新聞を見ただけで吾輩は読む気がしなくなった。旧五号の薄汚れた潰れ活字で、日清戦争頃の号外でも見るようだ。コンナ新聞が、まだ日本に残っているのかと思われる位だ。
しかし吾輩自身の姿を振り返ってみるとアンマリ大きな事も云えなかった。
東京一、日本一の東洋時報社で、給仕からタタキ上げた腕ッコキの新聞記者といえば、チョット立派に聞こえるかも知れないが、それがアンマリ腕ッコキ過ぎたのだろう。新聞記者としてアラン限りの悪い事を為尽《しつく》した揚句《あげく》、大正十一年の下半期に到って、東京中の新聞社からボイコットを喰った上に、警察という警察、下宿という下宿からお構いを蒙《こうむ》って逃げて来たんだから大したもんだ。モウ十一月というのに紺サージの合服と、汽車の中で拾った紅葉材《もみじざい》のステッキ一本フラットというんだから蟇口《がまぐち》の中味は説明に及ぶまい。タッタ今博多駅で赤い切符を駅員に渡したトタンに木から落ちた猿みたいな悲哀を感じて来た吾輩だ。三流か四流か知らないが、こんなボロ新聞社にでも押し込まなければ、押し込みどころのない身体《からだ》だ。
「ここを押……」と書いた白紙の下半分が「……して下さい」と一所《いっしょ》に切れ落ちている扉《ドア》を押すと、イキナリ販売兼、会計部らしい広間に這入った。しかし人間は一人も居ない。マン中の鉄火鉢の前に椅子を引き寄せた小使らしい禿頭《はげあたま》が、長閑《のどか》に煙草を燻《くゆ》らしているだけだ。
「きょうはお休みなんですか」
と少々面喰った顔で吾輩が尋ねると、禿頭《はげあたま》の小使が悠々と鉈豆煙管《なたまめぎせる》をハタイた。
「イイエ。販売部は正午《おひる》切りであすが……何か用であすな……」
と云い云い如何にも横柄《おうへい》な態度で、自分の背後の古ぼけたボンボン時計を見た。二時半をすこし廻わっている。少々心細くなって来た。
「アノ編輯長は居られるでしょうか」
「編輯長チウト……津守《つもり》さんだすな」
「ええ。そうです。そのツモリ先生に一寸《ちょっと》お眼にかかりたいんですが……」
「何の用であすか」
「新聞記事の事ですが」
「……………………………」
小使は中々腰を上げない。苦り切った表情で又も一服詰めて悠々と鉄火鉢の中に突込んだ。吾輩は心細いのを通り越して腹が立って来た。コンナケチな新聞社にコンナ図々しい小使が居る。まさか社長が化けているのじゃあるまいに……と思いながら……。
するとそのうちに小使がヤットコサと腰を上げた。煙管を腹がけの丼《どんぶり》に落し込みながら、悠々と俺の前に立塞がって、真黒な右手をニューと差し出した。俺は面喰って後退《あとずさ》りした。
「何ですか……」
「名刺をば……出しなさい」
吾輩は街頭強盗《ホールドアップ》に出会った恰好で、恐る恐る名刺を渡した。「中央毎夕新聞編輯部|羽束《はつか》友一」と印刷した最後の一枚を……。
小使は、この名刺をギューと握り込んだまま、吾輩の直ぐ横に在る真暗い、泥だらけの階段を上って行った。その一足|毎《ごと》に、そこいら中がギシリギシリと鳴って、頭の上の天井の隙間からポロポロとホコリが落ちて来たのにはイヨイヨ驚いた。
たまらない不安な気持で待っているうちに、階段の上から大きな声がした。
「コチラへ上って来なさっせえ」
どこの階段でも一気に駈け上るのが癖になっている吾輩もこの時ばかりは気が引けた。匐《は》い上るような恰好で、杖を突張り突張り段々を踏んだ。スッカリ毒気を抜かれていたばかりじゃない。古い板階段の一つ一つが、磨り残ってビィヨンビィヨンしている上に、下向きに反《そ》り返っているので、ウッカリすると辷《すべ》り落ちそうな気がしたからだ。今朝《けさ》早く、汽車|弁当《べん》を一つ喰った切り、何も腹に入れていなかったせいかも知れないが……。
ヤットの思いで上に登り付くと、小使が仁王立ちになって待っていた。それでも最上級の敬語であったろう……、
「ココへ這入って待って居《お》んなさい。今津守さんが見えますけにナ……」
と云うと、又もドシンドシンと雷鳴を轟《とどろ》かしながら暗い階段を降りて行った。
……又、心細くなりそうだな……と思い思い出来るだけ心細くならないように……イヤ……出来るだけ威勢よく見せかけるために部屋の中を見まわした。
多分、応接室のつもりだろう。穴だらけの青|羅紗《ラシャ》を掛けた丸|卓子《テーブル》の左右に、歪《ゆが》んだ椅子がタッタ二つ置いてある。右手の新聞|原紙《ゲラ》で貼り詰めた壁の上に「南船北馬……朴泳孝《ぼくえいこう》」と書いた大額が煤《すす》け返っている。それに向い合《あい》に明治十二年発行の「曙《あけぼの》新聞」の四|頁《ページ》が、硝子《ガラス》枠に入れて掛けてあるのはチョット珍らしかった。泥だらけの床の片隅に、古い銅版がガチャガチャと山積してあるのは、地金屋《じがねや》にでも売るつもりであろうか。……そんなものを見まわしているうちに思いがけなく腹がグーグーと鳴り出してタマラない空腹を感じ出した。そこで吾輩は意気地なく杖を突張って我慢しようとしているところへ、うしろの方に人の気はいがしたので、ビックリして振り向いてみると、すぐに奇妙な恰好をした小男と顔を合わせた。
背の高さは五尺足らず……ちょっと一寸坊といった感じである。年は四十と七十の間ぐらいであろうか。色が真黒で、糸のように痩せこけているので見当が付きにくい。白髪頭を五|分刈《ぶがり》にして分厚い近眼鏡をかけて、顎の下に黄色い細長い山羊髯《やぎひげ》をチョッピリと生やしている。それが灰色の郡山の羽織袴に、白|足袋《たび》に竹の雪隠草履《せっちんぞうり》という、大道易者ソックリの扮装で、吾輩の直ぐ背後《うしろ》に突立っていたんだからギョッとさせられた。今の腹の音を聞かれたんじゃないかと思って……。
その山羊髯の一寸坊|爺《じい》は、身体《からだ》に釣合った蚊の泣くような声を出した。
「お待たせしました。わたし……津守です……」
と云い云い傍《そば》の椅子を指したので、イキナリ腰をかけようとすると忽《たちま》ち引っくり返りそうになったから、慌てて両足を突張った。椅子の足がみんなグラグラになっているのだ。吾輩は下ッ腹を凹《へこ》ましてステッキを突張った。
山羊髯の爺《おやじ》は、その吾輩の真正面に、丸|卓子《テーブル》を隔ててチョコナンと尻を卸《おろ》した。向側《むかいがわ》の椅子も相当歪んでいるようであるが、引っくり返らないのは身体《からだ》が軽いせいであろう。その貧弱な事、踏台にハタキを立てかけた位にしか見えない。コンナ奴の下になって働らくのか……オヤオヤと思いながらも吾輩は、絶体絶命の雄弁を揮《ふる》って採用方を願い出た。今までの事を残らずブチ撒《ま》けてしまった。
「……だからモウすっかり屁古垂《へこた》れちゃったんです。編輯の給仕から、速記者から、社会部の外交まで通過して来るうちに、悪い事のアラン限りを遣り尽して来たんです。そうしてモウすっかり前非後悔しちゃったんです。これから一つ地道《じみち》になって働らいてみようと思いましてね……どんなボロ新聞社でもいいから……イヤナニその……何です……僕を買ってくれる人の下ならドンナ仕事でもいい……月給なんかイクラでもいい……やってみようと思ってお訪ねした訳なんですが……東京中の新聞社と警察と下宿屋連中にお構いを喰っちゃったんで行く処が無いんです……今年二十四なんですが……いかがでしょうか……」
そう云う吾輩の顔を山羊髯はマジリマジリと見ていた。吾輩が臓腑《はらわた》のドン底の屁《へ》ッ滓《かす》の出るところまで饒舌《しゃべ》り尽してしまっても、わかったのか、わからないのかマルッキリ見当が付かない。朝鮮渡来の木像じみた表情で、眼をショボショボさせながら、片手で吾輩の名刺をヒネクリまわしているキリである。
吾輩もその顔を見詰めて眼をショボショボさせた。真似をしたんじゃない。気味が悪くなって来たからだ。同時に中風病《ちゅうぶうや》みみたような椅子の上に、中腰になっている吾輩の両脚が痺《しび》れそうになって来た。汚れた名刺を取返して、諦らめて帰ろうかと思い思い、尻をモジモジさせていると、又も下ッ腹が大きな音を立ててグーグーと鳴った。今度こそ慥《たし》かに聞こえたに違いない。
吾輩は心細いのを通越して涙ぐましくなった。見得も栄《は》えもなくステッキの前にうなだれてしまった。この間、酔っ払った勢いでナグリ倒した救世軍士官の顔が、眼の前にチラ付いて来た。
「……ヒッ……ヒッ……ヒ……」
山羊髯が突然に妙な声を出したので、吾輩はビックリして顔を上げた。まるで山羊のような声だと思いながら……その時に山羊髯はヤッと咽喉《のど》に絡まった痰《たん》を嚥《の》み下して、蚊の啼くような声を切れ切れに出した。
「……まあ……何か……記事になりそうな話を……一つ……取って来て御覧なさい……ヒッ……ヒッ……ヒヒ……ゴロゴロゴロ……」
と云ううちに又一つ痰《たん》を嚥《の》み下して眼をショボショボさした。生きている甲斐も御座いません……と云いたいような表情をしたと思うと、そのままスウスウと煙のように立上って廊下に出た。廊下の向うの、板壁の向うの編輯室らしい方向へ消えて行った。右足が曲っているらしく非道《ひど》いビッコを引きながら……。
吾輩は呆気《あっけ》に取られてその背後《うしろすがた》を見送った。頭の芯《しん》がジイーンと鳴り出したような気がした。
「……山羊髯のオジサン。ちょっと待って下さい。実はその現在一文もお金が無いのです。僕を採用するならするでイクラカ前貸しして頂きたいのですが」
と呼びかける勇気も無くしてしまったまま杖に縋《すが》ってヒョロヒョロと立ち上った。
コンナ編輯長に出会った事は今までに一度も無い。
コンナ屁ッポコ新聞社に跼《かが》まっているヨボヨボの編輯長が、吾輩のモノスゴイ、スバラシイ性格や技能をタッタ一眼で見貫《みぬ》き得る筈は絶対に無い訳なのに、何一つ尋ねるでもなければ、社としての希望を述べるでもない。おまけに採用するつもりか、そうでないのかテンデ見当の付かない事をタッタ一言、云いっ放しただけで、ビッコ引き引き引上げるなんて、無責任なのか、乱暴なのか、礼儀を知らないのか、それとも吾輩の事を同業者仲間の誰からか聞いて知っているのか……又は新聞記者を鉛筆|担《かつ》いだ木ッ葉職人同然に心得ているのか……何が何だか見当が付かない……とに角にも編輯長をつとめている以上キチガイじゃないと思うが……。
そんな事を考えてボンヤリ突立っているうちに編輯室の方向から電話にかかっている速記者らしい声が聞こえて来た。
「……何だア……武雄から急報……何だア……犯人は何だア……税関……税関がどうしたんだア……ナニイ……マージャン……マアジャンたあ何だあ……朝の雀と書くウ……チューチューという雀かア……何だアサ違いだア……着物の麻だア……わかったわかった。馬鹿にするナア」
その声を聞いているうちに俺はブルブルと胴ぶるいがして来た。
「ヨシッ……何でも構わない。一つビックリするような記事を取って来てやろう。……こうなれば絶体絶命だ。どうするか見やがれ。……肝を潰すな山羊髯おやじ」
と決心するとモウ一つブルブルと胴震いがした。持って生まれた新聞記者本能が、ツイ今しがたの電話の声で眼覚め初めたのだ。そうして腹の減ったのも忘れて一気に応接間の暗い階段を駈け降りた。
当てどもない福岡の町のマン中へ飛び出した。生れ変ったような溌剌とした気持で……。
二
生れて初めて来た……知っている者が一人も居ない……西も東もわからない田舎の町でイキナリ新聞記事を探して来いと云われたら大抵の記者が屁古垂《へこた》れるだろう。
ところが吾輩は屁古垂れなかった。
ポケットに残っていた五十銭玉を、東中洲の盛り場で投出して、飯付《めしつき》十五銭の鋤焼《すきやき》を二人前詰込んだ吾輩は、悠々とステッキを振り振り停車場へ引返した。三等待合室へ張込んで、クチャクチャになった朝日の袋の中からモウ一本引出して美味《うま》い美味い煙を吸った。
……実際自信があったのだ。どんな小さな都会でも新聞記事が無ければ停車場に行くに限る。アトは眼と頭だ。それから足だ。
煙草吸い吸い構内を一周《ひとめぐ》りして見ると、新聞記者らしい者の影が一つも見えない。町が小さいのか、新聞社が貧弱なのか。停車場専門の記者が居ないと見える。モウ四時半の上り下り急行列車が着く間際なのに……と思いながら一二等の改札口に来て左右を見まわすと……居た……。
但、新聞記者じゃない。茶の中折に黒マントの日に焼けた男がタッタ一人駅長室の前に立っている。その引締まった横頬と、精悍《せいかん》なうしろ姿はドウ見ても刑事だ。ことに依ると毎日張込んでいる掏摸《すり》専門の刑事かも知れないと思ったが、それならタッタ今改札し初めた、改札口に気を付ける筈なのに、そんな気ぶりも無い。心持ち前屈《まえこご》みになって、古い駒下駄の泥をステッキの先で落している。たしかに大物を張込んでいるらしい態度だ。その態度を片目で注意しいしいプラットフォームに突立っている群集の姿を一人一人見まわしているうちに上り列車が着いて、こっちのプラットフォーム一パイに横たわった。……と思うとその刑事は、さり気ない風情《ふぜい》で、郵便車の前に佇《たたず》みながら、改札口の方向を監視し始めた。四十恰好の眼の鋭いチャップリン髭《ひげ》を生やした男だ。
そのうちに下りの急行も着いたらしく改札口が次第にコミ合い初めた。駅員が三人で三処《みところ》の改札口を守っているが仲々|捌《さば》き切れない。バスケットを差上げる田舎者。金切声を出して駈け出す令嬢。モシモシと呼び止める駅員。オーイオーイと帽子を振る学生なぞ。然し吾輩はソンナものには眼もくれないで刑事の眼付きを一心に注意していた。煙たそうに口付《くちつき》を吸いながら改札口を見守っているその眼付きを……。
するとその口付が半分も立たない中《うち》にポイと刑事の口から吹き棄てられた。同時に刑事がノッソリと郵便車の前を離れて、群集に混っているモウ一人の刑事らしい男とうなずき合った。群集の中のどれか一人を眼で知らせ合いながら……どこからか跟《つ》けて来た犯人をリレーしている気はいである。
吾輩はすぐに一二等改札口から引返して出口に向った。
見るとチャップリン髭の刑事は大急ぎで駅前の青電車(東邦電力経営)の方へステッキを振って行く。その五六間先に、派手なハンチングを冠《かぶ》って、荒い格子縞の釣鐘《つりがね》マントを着た男が、やはり小急ぎしながら電車に乗りに行く恰好が眼に付いた。これが新聞記者特有の第六感というものであったろうか。それともその釣鐘マントが急ぐ速度と刑事が跟《つ》けて行く速度が似通っているせいであったろうか。その釣鐘マントの影に重たそうな風呂敷包を携《さ》げているのが見えた。結び目の隙間《すきま》から羊歯《しだ》の葉がハミ出しているところを見ると、果物の籠か何からしい。
吾輩は足を宙に飛ばした。満員になって動きかけているその電車の前の方から飛び乗った。うしろの方のステップには刑事がブラ下がっているから遠慮した訳だ。「モット中へ這入って下さい」と運転手から怒鳴られるまにまに吾輩はグングンと中の方へ身体《からだ》を押し込んだ。マン中の釣革にブラ下っている縞《しま》の釣鐘マントの横に身体を押し付けながら、素早くマントの裾をマクリ上げて、風呂敷包みの横の隙間から気付かれないように手を突込んでみた。
羊歯の葉が指の先に触った。それから柿……と思ううちに電車が駅前の交叉点のカーブを曲ったので車内が一斉にヨロヨロとよろめいた。その拍子に思わずグッと手を突込んでみると、固い、四角い、新聞包みらしい箱に触った。その箱の中央に何かしら金具らしいガタガタするもの……麻雀《マージャン》?……
……何をするんです……
といわんばかりに若い男が眼を剥《む》いて吾輩を睨み付けた。青白い、鼻の高い、眉の一直線な、痩せこけた男だ。どこかで見たような顔だ……とは思ったがその時はどうしても思い出せなかった。まだ、さほど寒くもないのに黒い襟巻を腮《あご》の上まで巻き付けていたせいかも知れない。そうして慌てて果物? の包みを左に持ち換えた。その態度を見た瞬間にハハア……怪しいナ……と気付いた吾輩は、何気なく笑って見せた。
「イヤ失礼しました。田舎の電車は揺れますから……」
ナアニ、東京の電車だって揺れるのだが、取りあえず、そんなチャラッポコを云って相手の顔をジロジロと見ると、その男は忽ち頬を真赤に染めて、ニヤリと笑い返しながらヒョコリと一つ頭を下げた。喧嘩したら損だと気付いたのであろう。そのまま何となく落付かない恰好で背中を丸くしながら、次第次第に前の方へ行くと、身動きも出来ない乗客の間を果物の籠で押分け押分け袖の下を潜るようにして運転台へ出て、呉服町交叉点から一つ手前の店屋町《みせやまち》停留場へ近づくと、まだ電車が停まらないうちに運転手台の反対の方からヒラリと車道へ飛び降りた。その時に果物の籠の中でガチャリと音がした。疑もない麻雀《マージャン》の音だ。……ここいらの奴はまだ麻雀なるものを知らないらしいが……それを聞いた瞬間に、最前新聞社で聞いた急報電話の内容がモウ一度耳の穴の中で繰り返された。……税関……税関がどうしたんだ……何だ……マージャン……マージャンたあ何だ……。
吾輩は運転手に切符を渡すと、横っ飛びに電車から降りて、角の焼芋屋の活動ビラの蔭に佇んだ。向う側を見ると、飛び降りた若い男は、スレ違って停車した電車の蔭に隠れるようにして西門《にしもん》通りの横町に走り込んだ。
走り込んだと思うと、取っ付きの薬屋に這入って仁丹《じんたん》を一袋買った。それから暑そうに汗を拭き拭き鳥打帽と釣鐘マントを脱いで、果物の包みの上に蔽いかけたが、今までの風呂敷では間に合わなくなったので、別の新しい大風呂敷を出してキューと包み上げながら店を出た。紺羅紗《こんラシャ》の筒ッポーに黒い鳥打帽、黒い前垂れに雪駄《せった》という扮装だから、どこかの店員が註文品でも届けに行く恰好にしか見えない。しかも、そうした前後の服装の態度の変化がチットも不自然じゃない。慣れ切っている風付《ふうつ》きを見ると、一筋縄で行く曲者《くせもの》じゃなさそうだ。二人の刑事が車掌台に頑張っていなかったら吾輩とても撒《ま》かれたであろう。
若い男は大胆にも、タッタ今刑事を載せて行った電車のアトから電車道の大通りをこっちに渡って、吾輩が立っているのに気が付いてか付かないでか見向きもせずに通り抜けて、西門通りの横町に這入って行った。それから二三町行って小さな坂道を降りると、郵便局の前から又右に曲った。オヤオヤこの辺をグルリと一廻りするつもりかな……と思い思いあとから電車通りに出てみると、先に立った若い男は呉服町の停留場まで来て、ちょっと躊躇しながら、右手の博多ビルデングの中へスウッと消え込んだ。
博多ビルデングというのは、この頃建った福岡一のルネッサンス式高層建築で、上層の三階が九州随一の豪華を誇る博多ホテルになっている。その下の方はカッフェ、理髪、玉突、食堂なぞいうデパートになっていて、いずれも福岡一流のダンデーな紳士が行く処だそうな。
そんな処とは知らないもんだから、若い男の後《あと》から跟《つ》いて行った吾輩は、ビルの玄関に這入るとギョッとした。ナアニ、設備の立派なのに驚いたんじゃない。正面の大鏡に映った吾輩の立姿の見痿《みすぼ》らしいのに気が附くと、チャキチャキの江戸っ子もショゲ返らざるを得なかったのだ。同時に、今の田舎からポッと出の青年店員みたような男が這入る処じゃないと気が付いた。
「畜生。俺を撒く了簡《りょうけん》だな」
と思うと直ぐ鼻の先に居る下足番に帽子《シャッポ》を脱いで聞いた。
「今ここへ若い店員風の男が這入って来たでしょう」
「ヘエ……」
と下足番は眼を丸くして吾輩を見上げ見下《みおろ》した。やはり刑事か何かと思ったのであろう。
「そのエレベーターに乗って行きました」
と指さす鼻の先へ、小さなエレベーターがスッと降りて来た。青い筋の制服を着たニキビだらけの小僧が運転している。
吾輩は直ぐにその中に飛び込んだ。
「お待遠様。どちらまで……」
とニキビ小僧が平べったい声を出した。
「今、ここへ店員みたような若い男が乗ったろう」
「ヘエ。……イイエ……」
「どっちだい。乗ったか乗らないか」
「若い断髪のお嬢さんならお乗りになりました」
「ナニ。若い断髪……」
吾輩は下足番の顔とエレベーターボーイのニキビ面《づら》を見比べた。二人とも妙な顔をしている。吾輩も多分妙な顔であったろう。このビルデングの真昼さなかに幽霊が出るのじゃあるまいかと疑っていたから……。
「向うの洗面所《トイレット》から出て来られた方でしょう。大きな風呂敷包をお提げになった……」
「ウン。それだそれだ。鼻の高い、眉毛の一直線になった女だろう」
「ヘエ。ベレー帽を冠った、茶色のワンピースを召して、白い靴下にテニス靴をお穿きになった」
「畜生。早い変装だ。黒羅紗の筒ッポの下に着込んでいやがったんだ」
「ヘエ。変装ですか……今のは……」
「イヤ。こちらの事だ……君は東京かい」
「私ですか……」
「ウン君さ……」
「ヘエ。東京の丸ビルに居りました」
「道理でベレー帽なんか知っている……どこへ行ったいそのワンピースは……」
「四階の博多ホテルへお泊《とまり》になりました」
「フーン。支配人は何という人だい。ホテルの……」
「霜川さんですか。支配人ですが……」
「ありがとう。一泊イクラだい。ホテルは……」
「ヘエ。特等が十円、一等が七円、普通が四円で、ダブルの特等は十五円になっております。別にチップが一割……」
「フウン。安いな。俺も泊るかな」
ボーイが吾輩の顔を見てニヤニヤと笑いやがった。どうも貧乏をすると余計な処へ来て、余計な恥を掻《か》く……畜生。どうするか見やがれ……。
「ヘイ。お待遠さま。ホテルで御座います」
ボーイが開けた網戸から追い出されるように飛び出した吾輩は、久し振りに眼の醒《さ》めるようなサルーンに直面させられて、少なからず面喰らった。
けれどもその次の瞬間にはモット面喰らわせられる大事件が持上った。そのサルーンの一番手近い向う向きになっている長椅子の派手な毛緞子《ダマスク》の上からスックリと立上った艶麗、花を欺くような令嬢……だか化生《けしょう》の女だかわからない女が吾輩と直面した。しかも、その直面した白い顔がタッタ今追いかけて来た若い店員の顔だったのには肝を潰した。ちょっとトイレットに這入って、黒い外套と、雪駄《せった》と、鳥打帽を風呂敷に包み込んで、テニス靴を穿いて、白い粉をポカポカッとハタいて、棒紅をチョコチョコと嘗《な》めただけの芸当には違いないが、それにしてもアンマリ早過ぎる。況《いわ》んやそれを玄関番が見た時は店員で、エレベーターボーイが見た時は令嬢だったというんだから大胆といおうか不敵といおうか、唯々舌を捲かざるを得ない。おまけにその容易ならぬ曲者《くせもの》は、吾輩の顔を見ると、溶《と》ろけるような心安さでイキナリニッコリと笑いかけたものだ。
「お久しう御座います。羽束さん」
吾輩は二三歩ヨロヨロと後《うしろ》に退《さが》った。
……何がお久し振りだ。……何が羽束さんだ……。
と唾液《つば》を嚥《の》み込み嚥み込み相手の顔を白眼《にら》み付けたが、その瞬間に……ヤアーッ……と叫んで天井に飛び上りたくなった。
……お久しい筈だ。この女こそ箱師のお玉といって名打ての女|白浪《しらなみ》だ。東京で警視庁に上げられる度《たび》に、吾輩から感想を話させられた女だ。この女の身の上話を雑誌にヨタッたお蔭で吾輩は多量の原稿を稼いでいる。いわば吾輩の大恩人だ……と気が付くトタンに吾輩の心理状態がクルリと転向した。
西洋の名探偵心理から、一足飛びに、純粋の江戸ッ子心理に寝返りを打った訳だ。もっとも好き好んで変化した訳じゃない。そうしなければ太刀打《たちうち》出来ない窮境に陥りかけている事を本能的に自覚したせいであったろう。トタンにお玉が差し伸べた手をシッカリと握ったものだ。お玉は吾輩の耳元に唇を寄せて囁いた。
「羽束さん。あんた非道《ひど》い人ね、あたしをどこまで苛《いじ》めるつもり……」
可哀相にお玉の眼には涙が浮かんだ。あとの文句は聞かずともわかっている。東海道で稼げなくなって、上海《シャンハイ》、長崎の門管ラインに乗換えたところを又、古|疵《きず》同然の吾輩に附き纏われてはトテモ叶《かな》わないというのだろう。吾輩は然《そぞ》ろにお玉の窮況に同情してしまった。
「ね。後生《ごしょう》だから今日だけ、お狃染甲斐《なじみがい》に妾《わたし》を助けて頂戴。ね。妾、武雄《たけお》の温泉で長崎から宝石入りの麻雀《マージャン》を抱えて来た男の荷物を置き換えて来たんだから。その男が税関の役人に押えられる間際によ。そうしたら、武雄の刑事が喰い付いて来たから、妾ここで振り撒《ま》くつもりで降りたらモウ一人福岡署から加勢が来ている上に、アンタまで跟《つ》けて来るんだもの。妾モウすっかり観念しちゃったけど、アンタの気心がまだわからないから、行くところまで行ってみるつもりでここまで来てみたのよ。……ね……アンタ後生だから今夜妾と一緒に泊って頂戴。アンタ今、どこかここいらの新聞社に這入っているんでしょ。だから妾を奥さんにでもして、一緒に泊めて頂戴。御恩は一生忘れないから。仕事は山分けにしてもいいから……ね……後生だから……ネッ……ネッ!」
と云ううちに燃ゆるような熱情を籠めた眼付で、今一度、吾輩を見上げ見下《みおろ》した。吾輩はその瞬間純色透明になったような気がした。この素寒貧《すかんぴん》姿を見上げ見下ろされては、腸《はらわた》のドン底まで見透《みす》かされざるを得ない。純色透明にならざるを得ない。吾輩は黙って一つ大きくうなずいた。大いに引受けたところは誠に立派な男であったが、トタンに眼の前で、桃色と山吹色の夢の豪華版が渦巻いたのは吾ながら浅ましかった。事実この時に吾輩は夢ではないかと自分自身を疑ったくらいだ。地獄から極楽へ鞍替えをした亡者はコンナ気持ちだろうと思って、ひとりでに胸がドキドキした事を告白する。
吾輩はそれから鷹揚《おうよう》な態度で、支配人の霜川なる人物を呼び出して特等の部屋を命じた。中禿《ちゅうはげ》の温厚らしい支配人は、叮嚀に分けた頭を叮嚀に下げて、紅茶を入れた魔法瓶を手ずから提げて来て最上階の見事な部屋に案内した。さながらに映画スターの私室《プライベート》然たる到れり尽せりの部屋だ。モット立派な部屋を見た事は何度もあるが、しかしそれは単に見ただけで泊った事は一度も無い事を念のため今一つ告白しておく。況んや、お玉みたような別嬪《べっぴん》と、同じ卓子《テーブル》でカクテルを傾けようなんて運命を、夢にも想像し得なかったのは無論であった。甚だ甘いところばかり告白して申訳ないが、事実は甚だ苦々しいんだから勘弁して頂きたい。
「ねえ御覧なさい。いい月夜じゃないの」
「ああ。博多湾ってコンナに景色のいい処たあ思わなかったね。玉ちゃん初めてかい」
「ええ。初めてよ。いわば商売|讐《がたき》のアンタとコンナ処でコンナ景色を見ようなんて思わなかったわ。チイットばかりセンチになりそうだわ」
「――僕もセンチかミリになりそうだ。ねえ玉ちゃん。僕も実はスッカリ東京を喰い詰めちゃってね。はるばる九州クンダリまで河合又五郎をきめて来たんだ。そうしてタッタ今、玄洋新聞社に這入って、記事を取って来いって云われたもんだから、一気に飛び出して来たら君にぶつかっちゃったんだ」
「大変なものを自摸《ツモ》しちゃったのね」
「ウン、万一ヘマを遣ると君と一緒に新聞記事にされた上に、オマンマの種に喰付き損になるんだ」
「困るわね」
お玉は真剣に吾輩の事を心配しているらしく、両手をワンピースの膝の上で拝み合わした。実は、吾輩もここでこの女に宿賃なんか払わしちゃ江戸ッ子の名折れになる。どうかして編輯長に電話をかけて、せめてここの宿賃だけでも月給の前貸しをしてくれと頼みたい一心でコンナ話を持ち出したのであったが、そこは相手が女だけに、吾輩のそうした腹を察し得なかったらしい。何か思案しながらジッと閉じていた眼を、やがて嬉しそうに見開くと、両手をポンとたたき合わして椅子をスリ寄せて来た。
「――それじゃアンタ……いい事があるわ。明日《あした》ね。妾が、この麻雀《マージャン》の籠を持って大阪へ行ったら、ここの警察へ思い切り馬鹿にした投書をするから、その投書を新聞に素《す》ッ破抜《ぱぬ》いてやったらいいじゃないの。アンタが書いた文句を妾が写して行ってもいいでしょう。そいつを記事にしたら警察でもビックリするにきまっているわよ」
「ウーム。それもそうだな」
「何とか面白い文句を考えて頂戴よ」
「駕籠《かご》を抜けたが麻雀《マージャン》お玉。警察《さつ》のガチャガチャ置き土産。アラ行っちゃったア……っていうのはどうだい」
「――ナアニ。それ安来節!」
「ウン。今浅草で流行《はや》り出している」
「面白いわね。妾今夜踊るわ、その文句で――」
「止せよ。見っともない。ワンピースの鰌《どじょう》すくいなんかないぜ」
「新聞記者救いならワンピースで沢山よ」
「巫戯化《ふざけ》るな」
「フザケやしないわ。真剣よ。東南西北《トンナンシーペー》苦労の種をツモリ自摸《つも》って四喜和《スーシーホー》っていう歌もあるわ」
「アラ。振っチャッタア……ってね」
「まあ憎くらしい」
「アハハハ……あやまったあやまった……」
三
あくる朝眼が醒めた吾輩は象牙色の天井を仰ぎながら考えた。夢を見ているのじゃないか知らんと思った。それから博多湾の朝景色を見晴らす窓を見て、ヤット昨夜《ゆうべ》の事を思い出した。その時にフイッと気が付いて隣りの部屋を覗いて見ると、箱師のお玉が居ない。卓子《テーブル》の上に香水のプンプンするハンカチが一つ残っている切りである。
吾輩は無性に腹立たしくなった。何かしらシテヤラレタという感じに打たれながらベルを押すと、ボーイが来ないで、支配人が、魔法瓶と新聞を両手に持って這入って来た。
「お早よう御座います。お風呂が湧いております」
と云い云い妙にニコニコ笑っているのが気になった。
「連《つ》れの人はどうしたい」
「ハイ。今朝《けさ》早く、お出ましに……お立ちになりました」
と云い紛らしながら、うつむいた。
可笑《おか》しくて堪まらないのをジッと我慢している恰好である。いよいよ気になった。
尤《もっと》も笑われるのも無理はないと云えば云える。日本一の間抜け面《づら》に違いなかったんだから……。
「今何時頃なんだい」
「ハイ……五時過で御座います」
「何……五時過……いつの……」
「ヘヘヘ……今日の……」
「きょうは何日だい」
「二十一日……」
「ハイ……只今出ました夕刊で御座います」
と夜卓子《ナイトテーブル》の上に置くや否や、支配人は最早《もう》一刻もたまらないという風に、お辞儀をしてコソコソと出て行った。吾輩は博多湾内の光景を今一度見まわした。成る程夕方に違いない。曇っているもんだから、夕景色が朝景色に見えたんだ。
何ともいえない不安な気持に包まれた吾輩は、取る手遅しと玄洋日報の夕刊を引き開くと、下らない海外電報が、薄汚ない活字で行列している。東京の新聞の切抜らしいのが特に大きく載せてあるのが浅ましい。吾輩はチョットの間《ま》憂鬱になった。昨日《きのう》門司で質に置いた懐中時計が、矢張り五時頃を指しているだろうと妙な悲哀《センチ》に囚《とら》われながら、第二面を開くと、アッと驚いた。マン中の目貫《めぬき》の処に、お玉の写真がデカデカと載っている。
箱師のお玉捕えらる[#見出し文字]
今朝博多駅にて[#小見出し文字]
警察を愚弄した手紙と[#ゴシック体]
密輸宝石数万円携帯[#ゴシック体]
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兼ねて東海道線を荒しまわって東京と大阪の警察に散々御厄介をかけていた箱師のお玉(二七)という有名な掏摸《すり》が、福岡署の網に引っかかって捕えられた。同女は最近、その筋の手配が厳しいため、東海道線では仕事が出来なくなり、長崎|上海《シャンハイ》航路に眼を付けて九州線に入り、武雄温泉に入浴中、同宿の浴客の手廻りの中より、宝石密輸入用の麻雀《マージャン》(支那の賭博具)一箱を盗みて博多に来《きた》り、氏名不詳の青年と同伴して、巧みに追跡の刑事の眼を眩《くら》まし、博多ホテルに投宿し、夫の如く装わせたる同宿の青年に麻酔薬を飲ませ、ホテルの支払を済ませて後《のち》、今朝上り七時三十分の急行列車にて大阪に高飛びせむとするところを、張込の刑事に押えられたるものなるが、懐中には、「梅田駅」より「お玉拝」「福岡警察署御中」と認《したた》めたる当局を愚弄《ぐろう》せる手紙を所持しおりたる模様にて、その大胆不敵さには福岡署員も呆れおりたり。
[#ここで字下げ終わり]
四
ここ迄読んで来た吾輩も呆れて了《しま》った。昨夜飲まされたカクテールの睡眠薬に引っかけられて二十時間近くも白河夜船《しらかわよふね》でいる間《ま》にチャント新聞記事にされて了《しま》っている。おまけにホテルの支払まで済まされて姓名不詳扱いにされていれあ世話はない。アラ行ッチャッターの辻占《つじうら》がチット当り過ぎた。
「畜生……どうするか見ろ」
と独言《ひとりごと》を云いながら起き直ってみたがモウ間に合わない。
その時にフト寝台の下を見ると、タッタ今新聞の間から落ちたらしい手紙が一通、脱ぎ揃えたスリッパの上に載っかっている。オデコを窓枠にぶっ付けながら拾い上げて見ると赤インキの走り書きで、
羽 束 友 一 大兄
霜川支配人委托
と表に……裏面には読み難《にく》い蚯蚓体《みみずたい》の走書《はしりがき》で「津守老生」と署名してある。慌てて封を切ってみると、いよいよ読み難い赤インキのナグリ書きが古い号外の裏面に行列している。
[#ここから1字下げ]
「冠省《かんしょう》、昨夜博多ホテル霜川支配人より、玄洋日報社に羽束と称する記者ありやと尋ねられしまま、失礼ながら小生保証|致置候《いたしおきそうろう》。序《ついで》に御同宿の婦人の事、同支配人より委《くわ》しく拝承、貴殿ならではそこまで引っぱり込み得ざる相手と存じ、本社の特種と致度《いたしたく》、警察と打合わせ手配を依頼|仕候《つかまつりそうろう》。そのため貴殿にも何事も洩らさず同婦人に自由行動を執《と》らせ候段、何卒《なにとぞ》不悪《あしからず》御諒恕《ごりょうじょ》賜《たま》わりたく、貴殿の御骨折に対しては警察当局も感謝|致居候《いたしおりそうろう》。御ゆっくりと御休息の上、明日より御出社|相願度《あいねがいたく》委細はその節を期し申候《もうしそうろう》。
封入の金子《きんす》、貴殿俸給の内渡《うちわたし》に有之《これあり》候間《そうろうあいだ》御査収|願上候《ねがいあげそうろう》
[#ここで字下げ終わり]
匆々[#地より4字上げ]
つ も り印[#「印」は○付き文字]」[#地より2字上げ]
封入の札を数えてみると十円で七枚あった。吾輩は舌なめずりをした。それから顔をツルリと撫でまわして又一つ舌なめずりをした。津守編輯長のためなら火水《ひみず》にでも飛込む気で、靴下を穿いた。
[#改頁]
両切煙草の謎
ちはやふる[#「ちはやふる」に傍点]山羊髯の、津守編輯長ばっかりはドウ考えても奇妙な人間だ。内容、外観共に、古今|稀《まれ》に見る麻迦《まか》不思議な存在だ。
誰でも新聞紙を拡げて見ればわかるだろう。どんなにケチな新聞社でも編輯長となると、生優《なまやさ》しい脳髄や精力では勤まるものでない。第一面の海外電報、東京電話の早し遅し、捏造《ねつぞう》記事か与太《よた》記事かを見分けるためには、猫の眼玉みたいに変化する世界列強のペテンのかけ合いから、インチキとヨタでゴッタ返す政局の裏表、瓢箪鯰《ひょうたんなまず》の財界の趨勢、銀行会社の金庫のカラクリ仕掛まで看破していなければならない。第二面の地方硬派、鼻糞《はなくそ》記事の軽重、大小を見分けるためには鶏《とり》の餌箱《えばこ》式の県予算、賽《さい》の河原《かわら》式土木事業の進行状態、掃溜《はきだめ》式市政の一般、各市町村のシミッタレた政治分野、陣笠代議士、同じく県議、ワイワイ市議、それらの動静、財産、趣味、道楽まで知っていなければならない。又、お次の所謂《いわゆる》三面、軟派記事の取扱い方については、その新聞の読者の智識、生活程度の各層の神経の過敏程度は申すに及ばず、ヒネクレまわる思想傾向の機微から、全国一般の社会悪の種類、程度、各地方の風俗習慣、又は、ダラシのない支局通信員の特質、能力、市内その他の花柳界の情勢、待合、芸者のパトロンの尊名から、今東京で封切られている映画が、いつ頃、どこの社の手で、当地方《こちら》のどこの館にかかるか……なぞいうヤヤコシイ事まで、要するにそこいら中に在りとあらゆる何でもカンでも知っていなければ勤まらない。おまけに競争相手の新聞社の通信、編輯能力、工場の能率なぞいうものを隅から隅まで見透しているという、つまるところ、大艦隊の指揮官級の頭脳で、善悪共に社会のトップのトップを切った記事を撰《よ》りすぐって、ほかの新聞と競争して行かなければならない……と云ったら大抵の人間が眼を眩《ま》わすだろう。そんなドエライ人間が、各新聞社に一人ずつ割当てるほど日本に居るか知らん……と肝を潰すかも知れないが、論より証拠だ。そんな人間が一人でも半分でも居なければ、新聞記事の統一が出来ないのだから仕方がない。
実際一つの新聞の編輯長となると、どんな貧弱な新聞社へ行っても相当の働らき盛りの、生き馬の眼を抜きそうな人間が頑張っている。一筋縄にも二筋縄にもかからない精力絶倫、機略縦横、血もなく、涙も無いといったような超努級《ちょうどきゅう》のガッチリ屋が、熊鷹式の眼を爛々と光らしているものだ。
ところがこの玄洋日報社はドウダ。
見る影も無いビッコの一寸法師で、木乃伊《ミイラ》同然に痩せ枯れた喘息《ぜんそく》病みのヨボヨボ爺《じじい》と云ったら、早い話が、人間の廃物だろう。そいつが煎餅《せんべい》の破片《かけら》みたいな顎に、黄色い山羊髯を五六本生やして、分厚い近眼鏡の下で眼をショボショボさせている姿は、如何に拝み上げても山奥の村長さんか、橋の袂《たもと》の辻占者《うらない》か、浅草の横町でインチキ水晶の印形《いんぎょう》を売っている貧乏おやじが、秋風に吹かれて迷い込んで来たとしか思えないだろう。吾輩みたいな、東京中の新聞社を喰い詰めた、パリパリの摺《す》れっ枯らし記者の上に立つ編輯長とは、どう割引しても思えないだろう。
ところがその山羊髯|老爺《おやじ》がソレでいて、ドコか喰えない感じがする。凄いところが在りそうな気がして、たまらなく薄気味が悪いから怪訝《おか》しい。早い話が昨日《きのう》だってこの老爺《おやじ》は、タッタ一眼、顔を見合わせただけで、どこの馬の骨だか、牛の糞だか判然《わか》らない……しかも悪タレ記者である事を名乗り上げている吾輩を見事手玉に取った上に、黙って七十円の大金を呉れている。むろん吾輩も七十円以上に価する名記事を取るには取った……取らせられたつもりだが、今日会って、改めて御礼を云っても……オヤ、そうでしたか……といったような顔で朝日を輪に吹いている。続いて働らいてくれとか、履歴書を出せとかいうような挨拶を一言もしないで空嘯《そらうそぶ》いている事は昨日の通りである。むろんこっちからも……引続いて雇ってくれるかどうか……なんて念を押すようなヘマはしない。ウッカリ云い出して「別に雇った訳ではありませんが」とか何とかフワリと遣られたら、摺《す》れっ枯らしの沽券《こけん》に拘《かか》わるばかりじゃない。折角《せっかく》あり付きかけた明日のオマンマがフイになる。何とも云わずに図々しく居据わる事だ。そうして追い出そうにも追い出し得ないスバラシイ記事を今日も一つ取る事だ。……そう思い思い編輯室の隣室《となり》の応接間に架けて在る玄洋日報|綴込《とじこみ》を、丸|卓子《テーブル》の上に引出して、前月以来の三面記事を次から次へと引っくり返してみると……。
……あるある………。
福岡県の管轄内だけでも未解決の犯罪記事がウジャウジャ在る。……どうせ田舎の警察と新聞だから、見落しばっかりの手抜かりばっかりで、片端《かたっぱし》から迷宮に逐《お》い込んだのだろう……なんかと思い思い、そんな迷宮事件や尻切蜻蛉《しりきれとんぼ》事件の一つ一つを点検して行くと、目星《めぼ》しい記事がタッタ一つ見付かった。
それは殆んど完全に近い迷宮事件と見える殺人事件であった。手口は極めて残忍な割に犯跡がわからないらしく、既に捜索に次ぐ大捜索後、一箇月を経過している。……ヨシ……コイツを一つ解決して吾輩の腕前を見せてやろう。吾輩一流のヨタやインチキを絶対に用いない地道《じみち》な、五分も隙の無い本格式の探偵法で、ドン底までネタをタタキ上げて、あの山羊髯をギャッと云わせてくれよう。ついでに県下の警察と新聞社の眼球《めだま》を刳《く》り抜いて、押しも押されぬ雷名を轟かしてくれよう。
……事件の内容は極めて簡単である。
去る十一月三日(大正十一年)、の午前中の出来事だ。
福岡市外、箱崎というと有名な筥崎《はこざき》八幡宮の所在地だろう。その八幡宮の横町に在る下駄屋が、まだ寝ていると見えて、表の板戸をピッタリ卸《おろ》したままである。……いつも早起きの爺さんが……と近所の者が不審を起して、午前の十一時頃になってから、表の板戸を引っぱってみると、何の苦もなくガラガラと開《あ》いた。見ると下駄や草履《ぞうり》を並べた表の八畳の次の六畳の間《ま》の上《あが》り框《がまち》の中央に下駄の鼻緒だの、古新聞だのが取散らしてある中に、店の主人一木惣兵衛(六十四歳)が土間の方を向いて突伏《つっぷ》している。そのツルツルの禿頭《はげあたま》は上框からノメリ出して、その真下の土間に夥しい血の凝塊《かたまり》が盛り上っている。脳天の中央に、鉄槌《かなづち》様の鈍器で叩き破られた穴がポコンと開《あ》いて、真黒な血の紐《ひも》がユラユラとブラ下がっていた。何等の苦悶の形跡《あと》も無い即死と見えた……という簡単な死に方だ。その屍体の両手は、鼻緒をスゲ掛けた、上等の桐柾《きりまさ》の駒下駄をシッカリと掴んでいた……というのだから、註文したお客が、仕事に気を取られている老爺《おやじ》の油断を見澄まして、一撃《ひとう》ちに殺《や》ったものに違いない。現に兇行用のものに相違ない、尖端《はし》に血の附いた仕事用の鉄槌が、おやじの右脇に在る粗末な刻みの煙草盆の横に転がっていた。兇行後、無造作に投出して行ったものと認められた。そのほかに手懸りらしいものといっては一つも半カケも認められない(参考のために附記しておくが、その時分大正十一年頃までは指紋法が全国に普及していなかった)。
ただ、それだけの現場《げんじょう》である。何も無くなった品物も無く、荒らされている形跡も無い。近所の者の話によるとこの爺さんは綽名《あだな》を仏《ほとけ》惣兵衛と呼ばれていた位の好人物だったそうだ。古くからこの土地で小さな下駄屋を遣っていたが、儲《もう》けた金は病人の女房の養生費にアラカタ注《つ》ぎ込んでいたものだという。だから今度の災難もその女房が、養生に行った留守中、タッタ一人で自炊していたために起った事件に違いないが、売溜《うりだめ》の十一円なにがしの金は、三百四十円ばかりの貯金の通帳と一所《いっしょ》に、手提金庫の中にチャンと在ったのだから、それを目的の仕事とは思えない。しかし又一方にこの惣兵衛さんはモウ六十いくつで、仏と云われる位の好人物だったし、女房のおチカ婆さんというのが又、近所でも評判の堅造《かたぞう》だったから、色恋の沙汰も、人に怨まれるような事も在りそうに無い……というのがこの事件の核心的な不思議の一つであった。
そのうちに伊勢の山田の灸点《きゅうてん》の先生の処へ行って養生をしていた、女房のお近婆さんが驚き慌てて帰って来たが、大学で解剖後、火葬に附せられた亭主の骨壺を抱いて、涙に暮れるばかりであった。
「只今まで警察で厳しいお調《しらべ》を受けましたが、妾《あたし》はマッタク何も存じません。妾はこの亭主に一生苦労をさせ通して死に別れました。子供は無いし、これぞという親戚も無いし、跡《あと》はどうしてよいやら途方に暮れております。
結婚後、血の道から癆性《ろうしょう》になって、そこの灸が利くとか、御祈祷がよいとか聞くたんびに、西から東と走りまわって養生をしておりましたが、その養生の費用を稼ぐばっかりで亭主は一生を終りました。お前が健康《じょうぶ》になってくれさえすれば、どこからか二千円ばかり算段して来て、下駄の卸問屋《おろしどんや》をして、自分で卸してまわるのに……と云うておりましたが、それも今は夢になってしまいました。この家《うち》でも売ってお金にして、門司に居る甥《おい》の処へでも行くより外に仕方はありませぬ……云々……」
こうした言葉を警察では図星《ずぼし》に信じてしまったらしい。結局、犯行の目的がわからぬとなると、直ぐに市内の浮浪狩を初めて、怪しいと思う奴を片《かた》ッ端《ぱし》からタタキ上げたらしい記事が、それから二三日おいて連続的に掲載されているが、つまらない狐鼠泥棒《こそどろ》ぐらいのものを掘出しただけで、下駄屋殺しの嫌疑者らしい者は影法師すら発見出来なかった。それっきり事件は迷宮に這入ってしまって、世間からも新聞社からも忘れられているらしい。
これだこれだ……。
コンナ美味《うま》い材料《ねた》が外に在るものか。特に吾輩のために警察が取っといてくれたような迷宮事件だ。
第一、人を殺すのに目的無しで殺す奴があるものじゃない。
第二にコンナ気の小さい、苦労性な老爺《おやじ》は、儲けた金を銀行や郵便局へ預けるほかに、よく現金のマンマで、どこか人の知らない処にシコ溜めている例があるものだ。殊に世間から、正直とか、仏とか呼ばれている人間にソンナ種類の金溜《かねた》め屋《や》が多いのは、吾輩が覗きまわった種々雑多な社会層の中《うち》で屡々《しばしば》見聞しているところである。――とか何とか気取らなくとも、新聞の所謂《いわゆる》三面記事に気を附けている人なら、直ぐに首肯出来る事実であろう。
第三に、この兇行は元来、計劃的のものらしい臭味《におい》がして仕様がない。現場《げんじょう》を見なければ判然《わか》らないが、その秘密の現金を狙った奴が、わざと老爺《じじい》に上等の下駄を誂《あつら》えて、仕事にかかった油断を見澄《みす》まして一気に遣っ付けた仕事だ……という感じが新聞記事を読んだだけで直ぐにピインと来るのではないか。そうなれば犯人は、事に慣れた前科者か、又は、ズブの初心者が演出した偶然の傑作か、どちらかの二つに一つでなければならぬ。……が……しかしこれは前にも云う通り現場を見なければ、何とも断定出来ない。
これだけの見当が付けばアトは犯人の手がかりだが、サテ一個月以上も経過している今日まで、現場に手がかりらしいものが残っているか……残っていても吾輩みたようなインチキ名探偵の眼に映るか、映らないか……そこが問題だ。
お恥かしい話だが、吾輩、コンナに真剣になったものは四五年以前に東洋時報社で、初めて社会部外交記者に編入されて三面記事を取りに行った時以来、今度が初めてである。その途中から今日までは百中九十九パーセントまでヨタとインチキのカクテル記事で押通して来たものであるが……。そのお蔭で色々な失策《エラー》を連発して、方々で首種《くびだね》が尽きるくらい馘《くびき》られ続けながらノコノコサイサイ生き永らえて来たものであるが、今度という今度ばっかりはそうは行かない。ヨタやインチキが直ぐに暴露して、身に報《むく》いて来る世の中の恐ろしさを既に知り過ぎるくらい知っているばかりじゃない。人間、喰えるか喰えないか……最後の米櫃《こめびつ》を、取上げられるか、られないかのドタン場まで来ると、こうも真剣になるものかと、我ながら感涙に咽《むせ》ぶばかり……。
なんかと浅ましい感傷《センチ》に陥りながら吾輩は、その記事を持って、眼立たないように編輯室に這入った。モトの我輩なら昨日《きのう》の山羊髯の手紙を見ただけでイキナリ編輯室に乗込んでノサバリ返っている筈だが、今度は正式に社長から入社の許可を受けるまで、客分のつもりで応接室に腰を据えて、恭倹《きょうけん》己《おのれ》を持《じ》するつもりだ。これも吾輩のセンチかも知れないが……。
見ると山羊髯のおやじ[#「おやじ」に傍点]は仕事が閑散だと見えて、大阪の新聞の経済欄を読みながら、朝日を吸っては咳《せ》き入り、咳き入っては水ッ洟《ぱな》をすすり上げている。タヨリない事夥しい。
その背後から近付いて、吾輩が赤鉛筆の筋を引いた下駄屋殺しの記事を指して見せたら、山羊髯は例によって小さな眼をショボショボさせた。蚊の啼くような声を出した。
「ホホホ。又何か仕事を見付けなさったか」
ずいぶん人を喰った挨拶だとは思ったが、この場合、腹を立てる訳にも行かない。
「エエ。仕事を見付けなけあ逐《お》い出されそうですからね」
「ヒッヒッヒッ。ジッヘン。ゴロゴロゴロゴロ。ホホホ。何の記事かいな」
吾輩が差出した新聞の綴込を抱えた山羊髯は、紙面を鼻の先に押付けて、初号活字の標題《みだし》を探り読んだ。コンナ盲目《めくら》同然のおやじ[#「おやじ」に傍点]を、御大層に飼っとく新聞社は、まったくのところ、日本全国に無いだろう。
「この記事は今でも迷宮ですか」
山羊髯は記事を半分読みさしたまま、分厚い鉄縁の近眼鏡を外して、郡山の羽織の袖で拭いた。それからその眼鏡を片耳ずつ叮嚀に引っかけると、痩せ枯れた手でノロノロと山羊髯を撫でた。これだけの科《しぐさ》でも、生き馬の眼を抜く編輯長の資格は落第なんだが。
「ホッホッホ。新聞では迷宮じゃが……サアテナ……実際はモウ解決が付いておりはせんかナ……ホッホッヒッヒッ……」
「それじゃ貴方《あなた》には見当が付いてるんですか」
「付きませんな。現場《げんじょう》を見ておらんから」
「ヘエ。そんならドウ解決が付いてるんで……」
「目的無しの犯罪チウは在りませんてや」
「賛成ですね。僕も同意見です。ですから……」
「それじゃからその目的はモウ遂《と》げられとる頃と思う」
「その目的というのは金《かね》でしょうか、それとも……」
「加害者に聞いてみん事には解りませんな」
「被害者の後家《ごけ》さんはどこに居るか御存じですか」
「後家さんに当っても無駄じゃろう。根が馬鹿じゃけに何も知らんじゃろう」
「そうですかなあ。僕は後家さんが一番怪しいと思うんだがなあ。その後家さんと、どうかして心安くなった犯人が、共謀して……」
「ヒッヒッ。箱崎の警察もアンタと同意見じゃったがなあ。後家さんは何も知らいでもこの事件は立派に成立する可能性がある。寧《むし》ろ後家さんは全然無関係の者として研究した方が早くはないか。後家さんを疑うたらこの事件は迷宮に這入るかも知れんと、ワシが最初に云うておいたが、果してそうじゃった。それじゃから、よしんばアンタの男前で後家さんを口説《くど》き落しても何も掴めまいてや。無駄な事は止めなさい。昨夜のお玉さんなんぞと違うて、モウええ加減な婆さんじゃからのう。ヒッヒッヒ」
「ジョ冗談じゃない。モウそんな裏道へは廻りません。真正面から現場《げんじょう》を調べてみます。それから近所の住人の動静を探ってみます。とにかく僕が一つ迷宮の奥まで突抜けてみます」
「ホホ。中途で警察の世話にならんようにナ」
「承知しました」
吾輩はそのまま、威勢よく玄洋日報社を飛出した。
外に出てみると晩秋から初冬にかけて在り勝ちな上天気だ。
福岡市外というから箱崎町はかなり遠い処かと思ったら何の事だ。町続きで十分ぐらいしか電車に乗らないうちに、筥崎《はこざき》神社前という処に着いた。鳥居前に立ってみると左手の二三町向うに火見櫓《ひのみやぐら》が見える。田舎の警察というものは大抵火見櫓の下に在るものだ。事件は警察の直ぐ近くで起ったんだなと気が付いた。
思ったよりも立派な神社なので、思わず神前にシャッポを脱いで一銭を奮発した。今日の探険を成功せしめ給えと祈った。自分でも少々おかしいと思ったが、人間、行詰まると妙な気になるもんだ。俺みたようなインチキ野郎の御祈祷に、見通しの神様が引っかかってくれるか知らん……なぞと考え考え、お宮の北側の狭い横町に出て来た。境内一面の楠《くすのき》の下枝と向い合って、雀の声の喧《やかま》しい藁葺《わらぶき》屋根が軒を並べている。御維新以前からのまんまらしい、陰気なジメジメした横町だ。
……ここいらに違いない……と気が付いて見廻わすとツイ鼻の先に、軒先一面にペンペン草を生やした陰気な空屋があって、閉《た》て切った表の戸口に「売貸家《うりかしや》」と書いた新聞紙がベタベタと貼ってある。その左隣は近ごろ開店したらしい青ペンキの香《におい》のプンプンする理髪屋《とこや》で、右隣は貧弱な荒物屋兼駄菓子屋だ。どうもこの家《うち》らしいと思って、右側の駄菓子屋のお神《かみ》さんに聞いてみると果してそうだった。
「何か判然《わか》りまっせんばってん、事件から後《のち》、夜になると隣家《となり》の家《うち》の中をば、火の玉が転めき廻わるチウお話で……」
と魘《おび》えたような眼付をした。その火の玉というのは、犯人が被害者の隠している金《かね》を探している懐中電燈の光りじゃなかろうか……といったような想像が、直ぐに頭へピーンと来た。だいぶ神経が過敏になっていたらしい。
「隣家《となり》の地面はまだ売れないんですね」
と店先の燐寸《マッチ》でバットに火を点《つ》けて神経を鎮《しず》めながら聞くと、
「イイエ。貴方《あなた》。人殺しのあった家《うち》チウて、あんまり評判が悪う御座いますけに誰も買いに来《き》なざっせん。わたしの家も気味の悪う御座《ござん》すけに、どこかに移転《うつ》ろうて云いおりますばってんが、この頃、一軒隣に、新しい理髪屋《かみつみや》が出来まして、賑やかしうなりましたけに、どうしようかいと考え居《と》ります」
「ヘエ。あの理髪屋《とこや》はここいらの人ですか」
「いいえ。どこの人か、わかりまっせんばってん、親方さんが愛嬌者だすけに、流行《はや》りおりますたい。あなた……」
「僕は隣家《となり》の空屋を見たいんですがね」
「ヘエ……あなたが……」
「僕が……実は隣家《となり》を買いたいんですが」
お神さんは妙な顔をして吾輩を見上げ見下《みおろ》した。ドンナに見上げても見下しても家屋敷を買おう……なんていう御仁体《ごじんてい》でない事を自覚していた吾輩は、内心ヒヤヒヤしながら拾い物のステッキを斜《ななめ》に構えて、バットの煙を輪に吹いて見せた。するとお神さんが、慌てて襟元を繕《つくろ》って、櫛巻髪《くしまきがみ》を撫で上げて敬意を払ったところを見ると、多分ソレ位の金持に見えたのであろう。
「ヘエ。それは貴方……それならこの家《うち》の裏からお這入りなさいまっせえ。表の戸口は鍵掛《かか》ってはおりまっせんばってん、裏口の方からは眼立ちまっせんけに……どうぞ……」
お神さんは吾輩が、もしかすると隣家《となり》へ来る人かも知れないと思ったらしく早くも親切と敬意を見せ初めた。ここで本格式に行くとこのお神さんを捕まえて、根掘り葉掘り当時の状況を聞き訊すところであったが、気が急《せ》いていたのであろう、吾輩はそのまま駄菓子屋の裏庭を通り抜けて、問題の空屋の裏口から、コッソリと這入って行った。
勿論被害者の後家さんが何とか処分したものと見えて、家《うち》の中の畳は一枚も敷いて無いし、建具も裏二階の階子段までも外《はず》してあった。台所には水棚も水甕《みずがめ》も無く、漬物桶を置いたらしい杉丸太の上をヒョロ長い蔓草《つるぐさ》が匍《は》いまわっていた。空屋特有の湿っぽい、黴臭《かびくさ》い臭いがプンと鼻を衝いた。
犯行の現場《げんじょう》は直ぐに判明《わか》った。裏口から這入ると、田舎一流の一間幅ぐらいの土間が表の通りへ抜け通っている。その右側は土壁で、左側に部屋が並んでいる。その中でも表の八畳が下駄を並べた店らしく、ホコリだらけの棚が天井裏からブラ下がっている。その次の六畳の中《なか》の間《ま》が被害者……仏《ほとけ》惣兵衛の仕事場だったらしく、土間の上《あが》り框《がまち》の真上の鴨居《かもい》に引き付けた電燈の白い笠が半分割れたまま残っている。球は無くなっているが、土間の上の屋根裏の天窓から射し込む、青い青い空の光りで見ると、その上り框の前の土間に、血の上に灰を撒《ま》いたらしい一尺四方ばかりの痕跡が一個所残っている。その灰の痕跡は最初、堆《うずたか》かったものであろうが、血餅《ちのり》が分解して土間に吸い込まれるし、盛上った灰が又、湿気のためにピシャンコになっているので、その下に在った塵屑《ごみくず》の形を、浮彫《レリーフ》みたいに浮き出させている。マッチの棒、鼻緒の切端《きれはし》、藁切《わらきれ》など……その中に煙草の吸殻らしいものが一個、平べったく粘り付いているのが眼に付いた。多分、犯行当時は真黒な血餅の下に沈んでいたので、誰にも気付かれないまま灰を振りかけられたものであろう。
その吸殻に懐中電燈を照しかけながら、念入りに検分してみると、それは半分以上吸い残した両切《りょうぎり》煙草が、血の湿気のために腹を切って展開《ひろが》った奴で、バットかエアシップぐらいの大きさの巻きらしい。ステッキの尖端でその周囲を引っ掻いてみたが、吸口《すいくち》らしいものはどこにも見当らなかった。ただ血と灰とが混合して発生したらしい※[#「※」は「草かんむり+斂」、第4水準2-87-15、257-10]《えぐ》い、甘い臭気がプーンとしただけであった。吾輩はホッと溜息をして顔を上げた。
金口《きんぐち》でない両切煙草を、吸口無しで吸う奴は、相当のインテリだろう。新聞記事によると、殺された老爺《じじい》は傍に刻《きざ》みの煙草盆を引寄せていたというのだから十中八九、これは犯人が吸い棄てたものではないか……しかも半分以上残っているところを見ると、吸いさしたまま投棄てて犯行に移ったものではないか。その上から血餅が盛り上り、灰が引っ被《かぶ》さって今日《こんにち》まで残っていたものではないか。犯人が絶対に予期しなかった……同時に警察にも新聞記者にも気付かれなかった偶然の結果が、今日に到って、吾輩の眼の前に正体を暴露しているのではないか。
……占《し》めた……名探偵名探偵。何という幸先《さいさき》のいい発見だろう……これは……。
……神は正直の頭《こうべ》に宿るだ。吾輩の投げた一銭玉に八幡様が引っかかったらしい……。
……モウ他には無いか……スバラシイ手懸りは……。
吾輩は暗い空屋の中で朗らかになりかけて来た。すこし注意力を緊張さえすれば名探偵になるのは造作もない事だ……なんかとタッタ一人で増長しいしい消えたバットに火を点けた。悠々たる態度でその血の痕跡《あと》と、上り框の関係を見較べた。
被害者の右脇に在る鉄槌《かなづち》を右手で(犯人を右利きと仮定して)取上げて、老爺《おやじ》の頭を喰らわせるのに都合のいい位置を考え考え、上り框に腰を掛け直してみた結果、老爺の右手の二尺ばかり離れた処が丁度いいと思った。
吾輩……すなわち犯人は、おやじがどこかへ現金を溜めている事を人の噂か何かで知っている。だから家内の様子を見定めるつもりで……泥棒に這入る瀬踏みのつもりで、夜遅く、老爺がタッタ一人で寝ているところを、近所へ気取《けど》られないように呼び起して、取りあえず上等の下駄を買って、上等の鼻緒をスゲさせている……つもり[#「つもり」に傍点]になってみる。そうして正直者の老爺が一生懸命に仕事をしている隙《すき》に、煙草を吹かし吹かしジロジロとそこいらを見廻していたであろう犯人の態度を真似てみる。つまり一廉《ひとかど》の名探偵を学んだ独芝居《ひとりしばい》であるが、やってみると何となく鬼気が身に迫るような気がする。そのうちに、フト頭の上の半分割れた電燈の笠を見上げたトタンに我輩は又、一つの素晴らしいインスピレーションにぶつかった。犯人のその時の心理状態がわかったように思ったので、吾ながらゾーッとさせられた。
その電燈の位置と、血の痕跡《あと》の位置とを見比べて、老爺《おやじ》が仕事をしている状態を想像すると、ちょうど電燈の真下の処に老爺の禿頭《はげあたま》が来る事になる。デンキとデンキの鉢合わせだ。嘸《さぞ》テカテカと光っていた事であろう。
近所|隣家《となり》は寝鎮《ねしず》まった、深夜の淋しい横町である。ほかには誰も居ない空屋同然の家の中で、両切《りょうぎり》を吹かしながらその禿頭を睨んでいた犯人の気持は誰しも想像出来るであろう。そこへ何も知らない老爺が、鼻緒を引締めるために、力を入れながら前屈《まえかが》みになる。テカテカ頭を電燈の下にニューと突き出す。トタンに使い終った重たい鉄槌《かなづち》を無意識に、犯人の鼻の先へゴロリと投出す。
……これじゃ殴らない方が間違っている。何の気も無い人間でもチョットの間《ま》……今だ……という気になるだろう。笑っちゃいけない。そんな千載の一遇のチャンスにぶつかれば吾輩だって遣る気にならないとは限らない。禿頭と鉄鎚の誘惑に引っかからないとは限らない。人間の犯罪心理というものはソンナところから起るものだ。つまりこの事件はホンノ一刹那に閃めいた犯罪心理が、ホンノ一刹那に実現されたものに過ぎないのではないか……という事実が考えられ得る。両切を吸口無しで吸ったり、上等の下駄を穿いたりするインテリならば……殊に虚無主義的《ニヒリステック》な近代の、文化思想にカブレた意志の弱い人間ならば尚更、文句なしに、そうしたヒステリー式な犯罪をやりかねないであろう可能性がある。
吾輩はズット以前、借金|取《とり》のがれの隙潰《ひまつぶ》しに警視庁の図書室に潜り込んで、刑事関係の研究材誌を読んだ事がある。その時に何とかいう仏蘭西《フランス》の犯罪学博士の論文の翻訳の中に出ていた「純粋犯罪」という名称を思い出した。犯罪に純粋もヘチマも在ったものではないが、つまり何の目的も無しに、殺してみたくなったから殺した、盗んでみたくなったから万引したという、ホントウの慾得を忘れた犯罪心理……生一本《きいっぽん》の出来心から起った犯罪を純粋犯罪というのだそうで、この種の犯罪は世の中が開けて来るに連れて殖《ふ》えて来るものである。如何なる名探偵と雖《いえど》も、絶対に歯を立て得ない迷宮事件の核心を作るものは、外ならぬこの「純粋犯罪心理」……とか何とか仰々《ぎょうぎょう》しく吹き立ててあった。……まさかソレ程の素晴らしい、尖端的なハイカラ犯罪が、勿体なくも八幡宮のお膝下に住居《すまい》する仏惣兵衛の、正直の頭《こうべ》に宿ろう等《など》とは思われないが、しかし現場から感じた吾輩のインスピレーションの正体は、突飛《とっぴ》でも何でも、たしかにソレなんだから止むを得ない。つまるところ全くの初心者が偶然に演出した迷宮事件の傑作としか思えないのだから止むを得ない。
だから犯人はアトで自分の犯した罪の現場《げんじょう》の物凄さに仰天して狼狽して逃出したのではないか。だから犯人のアタリが全然付かないまま事件が迷宮に這入ってしまったのではないか。論より証拠……そう考えて来ると万事都合よく辻褄《つじつま》が合って来るではないか。あらゆる材料が必然的に絶対の迷宮に行詰って来るではないか。
……ナアンダイ……。
迷宮を破りに来て、迷宮を裏書きしていれあ世話はない。
……どうも驚いた。最初には目的無しの犯罪は無いと断定していた吾輩のアタマが、物の一時間と経たない中《うち》に今度は、正反対の断定を下している。そうした事実を物語る厳然たる事実を認めて面喰っている。……どうも驚いた……。
金箔《きんぱく》付の迷探偵が一人出来上った。八幡様の一銭がチット利き過ぎたかな。それとも名探偵のアタマが少々冴え過ぎたかな……と思い思い吾輩は縁日物の中折《なかおれ》を脱いで、東京以来のモジャモジャ頭を掻き廻わした。同時にムウッとする程の頭垢《ふけ》の大群が、天窓の光線に輝やきながら頭の周囲に渦巻いた。
いけないいけない。コンナに逆上《のぼ》せ上っては駄目だ。気を急《せ》かしては駄目だ。一つ頭髪《あたま》でも刈直《かりなお》して、サッパリとしてからモウ一度、ここへ来て考え直してみるかな。
吾輩は表の戸口をソッと開いて横町の通りへ出た。
すぐ隣家《となり》の、新しい理髪屋《とこや》の表の硝子《ガラス》障子を、ガラガラと開いた。
「いらっしゃいまし」
という女みたような優しい声が聞こえた。火鉢の横に腰をかけて、長羅宇《ながらう》の真鍮|煙管《きせる》で一服吸っていた、若い親方が、直ぐに立って来た。
吾輩は一瞬間ポカンとなった。トテモ福岡みたいな田舎に居そうにもない歌舞伎の女形《おやま》みたいな色男が、イキナリ吾輩の鼻の先にブラ下がったので……。
吾輩も色男ぶりに於ては、東京|初下《はつくだ》りの自信をすくなからず持っているつもりであるが、残念ながらこの若い親方にはトテモ敵《かな》わないと思った。
一軒隣りの荒物屋のお神さんが移転《ひっこ》すのを考えているというのも無理はないと思った。芝居の丹次郎と、久松と、十次郎を向うに廻わしてもヒケは取りそうにないノッペリ面《づら》が、頬紅、口紅をさしているのじゃないかと思われるくらいホンノリと色っぽい。それが油気抜きの頭髪《あたま》にアイロンをかけてフックリと七三に分けている。
白い筒袖の仕事着を引掛けているから着物の柄はわからないが、垢の附かない五日市の襟をキュッと繕って、白い薄ッペラな素足に、八幡黒《やはたぐろ》の雪駄《せった》を前半《まえはん》に突かけている。江戸前のシャンだ。二十七八の出来|盛《さか》りだ。これ程の男前の気取屋《きどりや》が、コンナ片田舎のチャチな床屋に燻《くす》ぼり返っている。……おかしいな……妙だな……と男ながら惚れ惚れと鏡越しに見恍《みと》れているうちに、若い親方は、吾輩の首の周囲《まわり》に白い布片《きれ》をパッと拡げた。
「お刈りになりますので……」
と前こごみになって吾輩の顔を覗き込む拍子に、その白い仕事着の懐中《ふところ》から、何ともいえない芳香がホンノリと仄《ほの》めき出た。
馬鹿馬鹿しい話だが吾輩の胸がチットばかりドキドキした。……江戸ッ子に似合わないイヤ味な野郎だな……とアトからやっと気が付いた位だ。
「失礼ですが旦那、東京の方で……」
若い親方が吾輩の首の附根の処でチョキチョキと鋏《はさみ》を鳴らし初めた。
「ウン。これでも江戸ッ子のつもりだがね」
「東京はドチラ様で入らっしゃいますか」
少々言葉付きが変態である。江戸前の発音とアクセントには相違ないが、語呂《ごろ》が男とも女とも付かない中途半端だ。しかし愛嬌者と聞いたから一つ話相手になってやろうか……気分の転換は無駄話に限る……事によると隣家《となり》の迷宮事件のヒントになる事を聞き出すかも知れない……と気が付いたから出来るだけ気軽く喋舌《しゃべ》り初めた。
「東京だってどこで生れたか知らねえんだ。方々に居たもんだから……親代々の山ッ子だからね」
「恐れ入ります」
「君も東京かい」
「ヘエ……」
と云ったが言葉尻が聊《いささ》か濁った。
「いい腕じゃないか。鋏が冴えてるぜ。下町で仕込んだのかい」
「ヘエ……」
と又言葉尻が薄暗くなる。愛嬌者だというのに、どうも、おかしな男だ。東京を怖がっているような言葉尻の濁し方だ。多分東京で色事か何かで縮尻《しくじ》って落ちぶれて来たんだろう。東京と聞くとゾッとするような思い出があるんだろう。
「どうしてコンナ処へ流れて来たんだい。それくれえの腕があれあ、東京だって一人前じゃないか。ええ?……」
「そんなでも御座んせん」
「ござんせん」がイヤに「ござんせん」摺《ず》れがして甘ったるい。寄席《よせ》芸人か、幇間《たいこもち》か、長唄|鼓《つづみ》の望月《もちづき》一派か……といった塩梅《あんばい》だ。何にしてもコンナ片田舎で、洗練された江戸弁を相手に、洗練された鋏の音を聞いているともうタマラなく胸が一パイになる。眼を閉じていると東京に帰ったようななつかしい気がする。
「どうだい。東京が懐かしいだろう」
「……………」
今度は全然返事をしない。よっぽど気の弱い男と見える。
「ずいぶん掛かるだろうなあ。コレ位の造作《ぞうさく》で理髪屋《とこや》を一軒開くとなると……ええ?……」
「……………」
話頭《はなし》を変えてみたが、依然として返事をしない。眼を開《あ》いて鏡の中を見ると、真青になったまま、婆《ばばあ》じみた、泣きそうな笑い顔をしいしい首を縮めて鋏を使っている。鏡越しに顔を見られたので、仕方なしに作った笑顔らしかった。
「ヘエ。すこしばかり……山が当りましたので……」
とシドロモドロの気味合いで答えた。まるで警察へ行って答えるような言葉遣いだ。……どうも怪訝《おか》しい。とにかく一種変テコな神経を持った男に違いない……と思った。それでも頭髪《あたま》はナカナカ上手に刈れている。吾輩の薄い両鬢《りょうびん》に附けた丸味なぞ特に気に入った。巾着切《きんちゃくきり》かテキ屋みたいに安っぽい吾輩の顔の造作が、お蔭で華族の若様みたいなフックリした感じに変って来たから不思議だ。
「山が当ったって相場でも遣ったのかい」
「……ヘエ……まあ。そんなところで」
若い親方の返事がイヨイヨ苦しそうである。吾輩は又、話頭《はなし》を変えた。
「隣りの家《うち》ねえ」
「ヘエッ……」
トタンに若い親方の顔が、鏡の中でサッと変った。鋏を動かす手がピッタリと止まった。ヨクヨク臆病な男と見える。そんなに魘《おび》える位なら、そんな恐怖《こわ》い家の近くへ来なけあいいにと思った。
「実はねえ。あの隣家《となり》の屋敷を買いたいと思って、今日覗いて来たんだがね。持主は誰だい……今のところ」
「……ヘエ……あれはねえ……」
若い親方の顔色が、見る見る柔らいで来た。肩の下と両頬に赤味がポーッと復活して来る中《うち》に鋏がチャキチャキと動き出した。
「あれはですねえ。今んところあの一木ってえお爺さんの後家さんのものになっているんですがねえ。実はあっし[#「あっし」に傍点]頼まれているんですけども……」
「フウン。心安いのかい後家さんと……」
若い親方の顔が急に苦々しい、虫唾《むしず》の走りそうな恰好に歪《ゆが》んだ。同時にその眥《めじり》がスーッと切れ上って、云い知れぬ殺気を帯びた悪党|面《づら》に変った。
「いいえ。……その……別にソンナ訳じゃありませんけど、あの後家さんがツイこの間来ましてね。呉々《くれぐれ》もよろしく……買手があったら安く売りますからってね」
「フウン。君はそれじゃ、古くからここに居たんだね」
親方は白い眼尻でジロリと吾輩の顔を見た。不愉快そうに答えた。
「いいえ。ツイこの頃ここに来たんですけどう」
「いつからだい……」
ここまで尋ねて来るうちに吾輩はヤット気が付いた。どうも最前からの話ぶりが陰気臭い。怪訝《おか》しい怪訝しいと思ったが、この男の過去には何か暗いところがあるらしい。おまけに被害者の後家さんと懇意らしいところをみると、これは何かしら大きな手がかりになるかも知れない。相場が当った……とか何とか云っているがヒョッとすると……そう思うと吾輩の胸が又も、別の意味でドキンドキンとした。
しかし……それにしても迂濶《うっかり》した事は尋ねられない。何しろ相手は腕の冴えた職人に在り勝ちな一種特別の神経の持主だ。虫も殺さない優しい顔を一瞬間に老人の顔から、悪党|面《づら》へとクラリクラリ変化させる位カンの強い人間だから、万一、この男が事件に関係を持っているとすれば、既に今まで尋ねた事柄だけでも、尋ね過ぎる位、手厳しく突込んでいる筈だ。身に覚えのある人間なら、余程の自信が無い限り、トックの昔に感付いている筈だ。
況《いわ》んやその当の相手は、現在ドキドキと磨《と》ぎ澄ました大型の西洋|剃刀《かみそり》を持って、吾輩の咽喉《のど》の処を、ゾリゾリやっている。もしもこの男が、所謂「純粋犯罪」を遣りかねない種類の脳髄の持主で、吾輩に感付かれたと感付くと同時に、今が絶好のチャンスだ……気が付いたら最後、吾輩のグリグリの処あたりをブッツリと遣らないとは限らないだろう。そうなったら羽束友一、生年二十四歳……アアもスウもない運の尽きだろう。中途で警察の世話にならないように……と山羊髯が云ったのは、もしかするとここの事かも知れないぞ……人通りの無い淋しい横町だし、店には誰も居ないのだから……。そう気が付くと同時に吾輩は今一度、念入りにゾッとさせられた。名探偵|生命《いのち》がけの冒険とはこの事だと気が付いた。左右のお臀《しり》の下が一面にザラザラと粟立ったような気がした。
……しかし……と思い直しながら、吾輩は咳払いを一つした。若い親方がビックリして剃刀を引っこめた。
男は度胸だ。かよわい女だって荒波に潜って真珠を稼ぐ世の中だ。オマンマに有付《ありつ》くか、付かないかの境い目だ。行くところまで行ってみろ。こっちで気を付けて用心をしていたら、万一の場合でも怪我《けが》ぐらいで済むだろう。況《いわ》んや相手は蔭間《かげま》みたいなヘナヘナ男じゃないか。柔道こそ知らないが、スワとなったら、銀座界隈でチットばかり嫌がられて来たチョボ一だ。どうなるものか……と少々時代附きの覚悟を咄嗟《とっさ》の間にきめた。同時に、上等の廻転椅子に長くなって、シャボンの泡を頬ペタにくっ付けながら決死の覚悟をしている自分自身が可笑《おか》しくなったので、又一つ咳払いをした。不意を打たれた親方が又ビックリして手を離した。
「いつからここに引越して来たんだい」
「ヘエ。アト月《つき》の末からなんで……」
親方の返事は何気もなさそうだったが吾輩は取りあえず腹の中で凱歌をあげた。アト月の末といったら、ちょうど事件のホトボリが醒めかかった時分である。それだのに被害者の後家さんと識《し》り合いというのは、いよいよ怪しい。
「繁昌してるってね」
とウッカリ口を辷《すべ》らしてハッとした。近所の噂を探って来た事を疑われやしないかと思って……。しかし親方の返事は依然として何気もなかった。
「ヘエ……お蔭様で……」
「隣の家には火の玉が出るってえじゃないか」
「ヘエ……そ……そ……そんな噂で……」
「君。這入ってみたかい。隣の家に……」
「……いいえ。と……飛んでもない……」
「今時そんな馬鹿な話があるもんじゃない。ねえ親方……」
「まったくなんで。永らく空いてるもんですからね。そんな事を云うんでしょう」
「ウン。是非買いたいんだが、どうだい。坪十円ぐらいじゃどうだい。裏庭を入れて百坪ぐらいは有るだろう」
「そんなには御座んせん。六十五坪やっとなんで。裏庭の半分は他所《よそ》のなんで……」
「向うの駄菓子屋のかね」
「そうなんで……十円の六十五坪の六百五十円……じゃチョット後家さんが手離さないでしょ。建物を突込んで千円位でなくちゃ」
「坪当り十六円か。安くないなあ」
「相場だと二十四五円のところですが」
「しかし八釜《やかま》しい曰《いわ》く附の処だからな」
「旦那は御存じなんで……」
「知ってるとも……迷宮事件だろう……怨みの火の玉が出るってな無理もないやね」
吾輩の頸動脈の処から親方がソッと剃刀を引いた。頬を青白く緊張さしてゴックリと唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
吾輩は少々面白くなって来た。どうもこれが悪い癖なんだが……。
「ねえ。そうだろう。何の罪も無い、ただお金をポチポチ溜めて、お神さんを養生させるだけが楽しみといったような仏性《ほとけしょう》のお爺さんが、怨みも何も無い、思いがけない人間から、思いがけない非道《ひど》い殺され方をしたんだからね。殺されたッ……と思った一刹那の一念は、後を引くってえじゃないか」
親方が何気なく、剃刀を磨ぎに行った。吾輩は追いかけるように振返って問うた。
「君はドウ思うね。この犯人は……」
「……………」
親方は吾輩の質問を剃刀を磨ぐ音に紛らして返事をしなかった。しかしその一心に剃刀を磨ぐ振りをしている色悪《いろあく》ジミた横頬の冴えよう。……人間の顔というものは、心の置き方一つでこうも変るものかと思いながら鏡越しに凝視していた。そのうちに剃刀を磨ぎ澄まして神経を落付けて来たらしい親方が、さり気なく吾輩の背後に立ち廻わって剃刀を構えた。淋しい淋しい微笑を薄い唇に浮かべた。
吾輩は白い布片《きれ》の下で全身を緊張さした。両の拳を握り固めて、無念流の棄て構え……といった恰好に身構えたが、白い布片を剥《め》くったら、虚空を掴んで死にかけている人間の恰好に似ていたろう。コンナに真剣な気持で顔の手入れをしてもらった事は生れて初めてだ。
「モミ上《あげ》は短かく致しましょうか」
「普通《あたりまえ》にしてくれ給え。短かいのは亜米利加《アメリカ》帰りみたいでいけない」
「かしこまりました」
「僕は絶対に迷宮事件だと思うね。犯行の目的がわからないし、盗まれた品物も無い。女房は評判の堅造《かたぞう》で病身、本人も評判の仏性で、嚊《かかあ》孝行の耄碌爺《もうろくおやじ》となれあ、疑いをかけるところはどこにも無いだろう。要するにこれは何でもない突発事件だと思うね」
「ヘエ。突発事件……と……申しますと……」
「つまりこの犯人は、いい加減な通りがかりの奴で、最初から被害者を殺す量見なんか毛頭無かったんだ。仏惣兵衛の老爺《おやじ》がどこかに現金を溜め込んでいる位の事を、人の噂か何かで知っている程度の奴が、何の気も無く這入って来て、下駄を誂《あつら》えながらそこいらを見まわしているうちに、フイッと殺す気になったんじゃないかと思うんだがね。これで殴ってくれといわんばかりに鉄鎚《かなづち》を眼の前に投出して、電燈の下に赤いマン丸い頭をニュッと突出したもんだから、ツイフラフラッとその鉄鎚を引掴んで……」
「……………」
耳の附根の処をゾキゾキやっていた剃刀の音がモウ一度ソッと離れ退《の》いた。同時に吾輩のお尻から両|股《もも》にかけてゾーッと粟立って来た。見ると若い親方は、眼を真白くなる程|瞠《みは》って、鏡の中の吾輩の顔を凝視している。ピリピリと動く細い眉。キリキリと冴え上った眥《めじり》。歪《ゆが》み痙攣《ひきつ》った唇。……吾輩の耳の蔭でワナワナと震える剃刀……。
……これは不可《いけ》ない。大シクジリだ。何とかしてこの親方を安心させて、気を落付かせなければいけない。薬がチット利き過ぎるようだ。このまま表へ飛出して行衛《ゆくえ》を晦《くら》まされたりしては面倒だ。
「アハアハアハ。どうだい親方。驚いたかい。俺あタッタ今行って現場《げんじょう》の模様を見て考えて来たんだ。何一つ盗まれていない原因もハッキリとわかったんだ。殺《や》ってしまってから急に恐ろしくなって逃げ出したものに違いないんだからね」
「……………」
「つまりアンナ空屋の中にタッタ一人で住んでいた禿頭の老爺《おやじ》が悪いという事になるんだ。迷宮事件を作るために居たようなもんだ。ねえ君。そうだろう……僕は犯人に同情するよ」
「そうですか……ネエ……ヘエ――ッ」
と若い親方が五尺ばかりの長さの溜息を吐《つ》いた。衷心《ちゅうしん》から感心してしまったかのように……。
「……おどろきましたねえ。旦那のアタマの良いのには……」
「ナアニ。外国の犯罪記録を調べてみるとコレ位の事件はザラに出て来るよ。山の中の別荘で寝しなに、可愛がって頂戴と云った女を急に殺してみたくなったり、霧の深い晩に人を撃ってみたくなってピストルを懐《ふところ》にして出かけたりするのと、おんなじ犯罪の愛好心理だ。所謂《いわゆる》、純粋犯罪というのとおんなじ心理状態が、この事件の核心になっていると思うんだ。そんな人間が都会に住んでいる頭のいい学者とか、腕の冴えた技術家とかいうものの中からヒョイヒョイ飛出す事がある……と横文字の本に書いてあるんだ。つまり文化意識の行き詰まりから生まれた野蛮心理だね」
「ヘエエ。なかなか難解《むずか》しいもんで御座いますね」
親方の剃刀が、微かな溜息と一緒に吾輩の襟筋で動き出した。同時に吾輩も心の中でホッとした。生命《いのち》がけの冒険が終局に近付いて来たらしいので……。
「日本の警察なんかじゃ、そんなハイカラな犯罪がある事を知らないもんだから、犯罪と云やあ、金か女かを目的としたものに限っているように思って、その方から探りを入れようとするんだ。だからコンナ事件にぶつかると皆目《かいもく》、見当が附かないんだよ」
「ヘエ。警察では、その目的って奴を、まだ嗅ぎ付けていないんでしょうか」
「いないとも……浮浪人狩なんか遣っているところを見ると、この事件の性質なんか全然《てんで》問題にしないで、見当違いの当てズッポーばっかり遣っているらしいんだね。そうしてこの頃ではモウすっかり諦らめて投出しているらしいね。だからこの犯人は捕まりっこないよ。絶対永久の迷宮事件になって残るものと僕は思うね」
「ヘエ。どうしてソンナ事まで御存じなんで……」
吾輩はヒヤリとした。そういう親方の声が妙に図太く聞えたので、扨《さて》は感付かれたかナ……と内心狼狽したが、色にも出さないまま、眼を閉じて言葉を続けた。
「ナアニ。僕はソンナ事を研究するのが好きだからさ。だからあの空屋《あきや》を買ってみたくなったんだよ。そんな犯罪事件のあった遺跡《あと》を買って、落付いて調べてみると、意外な事実を発見する事があるんだからね。そんな山ッ子が僕の商売なんだがね」
「へえ――。うまく当りますかね」
親方がニヤニヤ冷笑しながら云った。……吾輩の言葉の意味がわかっているのだ。犯人の盗み忘れた金《かね》を探そうと目論《もくろ》んでいる吾輩の気持がわかったので冷笑しているのだ。その金がモウ無い事を知っているもんだから……。
吾輩は腹の中で二度目の凱歌をあげた。
「ウン。僕が狙った事件で外れた事件《やつ》は今までに一つも無いよ。要するにこの頭一つが資本だがね。ハッハッハッ」
「ヘエ。珍らしい御商売ですね」
親方が又コッソリ三尺ばかりの溜息を吐いた。吾輩のチャラッポコを信じて安心したらしい。吾輩も二尺五寸位の溜息をソッと洩らしながら椅子の中から起上った。
「お待遠さま……お洗いいたしましょう」
サッパリと洗って、いい気持になった吾輩が又、椅子に腰をかけると、親方が新しいタオルで拭き上げて、上等のクリームを塗って、巧みにマッサージをしてくれた。
「……こんにちは……御免なさっせ……」
「入らっしゃい」
新しい客が来た。ここいらの安見番《やすけんばん》の芸者らしい。但、着物の着附だけが芸者と思えるだけで、かんじんの中味はヨークシャ豚の頭に、十銭ぐらいのかしわ[#「かしわ」に傍点]の竹の皮包みを載っけた恰好だ。そいつが腐りつきそうな秋波を親方に送った序《ついで》に吾輩をジロリと睨みながら、吾輩がタッタ今立上った椅子の座布団の中へドシンと巨大《おおき》な大道臼《だいどううす》を落し込んだ。愛想《あいそ》もコソもあったもんじゃない。
「イヤ。お蔭でサッパリした。ところでどうだい。今の地面の話は……モウ少し歩み寄ってもいいんだが……。決して君を跣足《はだし》にしやしないが、先方はどこに居るんだい」
「ヘエ。これはモウ……何でも門司の親類の処に居るんだそうですが、時々八幡様を拝みかたがた様子を聞きに参りますんで。モウ今日あたり来る頃と思うんですが。二三日中に来るってえ手紙が、二三日前に参りましたんで……」
「ヘヘッ。お安くないね。うまく遣ってるじゃないか一木の後家さんと……」
「じょ……じょ……じょうだん……」
と親方は何かしら顔色を変えながら芸者の方をチラリと見た。しかし吾輩は何も気付かなかった。背後を振向いた時には、大きなお尻を振り振り、表口を邪慳《じゃけん》に開けて出て行く、豚芸者の後姿が見えた。……何という変な芸者だ。そんなに待たせもしないのに……と思っただけであった。
そのサッサと帰って行く後姿を見送りながら、苦々しい表情で瀬戸火鉢の前に腰を卸して、長羅宇《ながらう》で一服しかけた親方は、何気なく吾輩が差出したバットの箱を受取ってチョット押し頂きながら一本引出した。慣れた手附で、火鉢の縁へ縦にタタキ付けて、巻《まき》を柔らかくしながら吸い付けた。
「吸口はまだ這入っているぜ……君……」
「ヘエ。どうも済みません。……わっしゃドウモこの吸口の蝋《ろう》の臭いが嫌いなんで……ヘヘ……有難う存じます。只今お釣銭《つり》を……あ……どうも相済みません。お粗末様で……」
吾輩は、五十銭玉を一個、若い親方の手に握らせて表へ出た。ブラリブラリと歩き出しながら町角を右へ曲ると、急に悪夢から醒めたように火見櫓《ひのみやぐら》の方向へ急いだ。
翌る朝、玄洋日報の第三面に特号四段抜の大記事が出た。
「筥崎の迷宮事件……下駄屋|殺《ごろし》犯人捕わる……隣家《となり》の理髪店主……端緒は現場の吸殻から……」云々と……。
記事は面倒臭いから略するが、犯人の理髪屋の若親方甘川吉之介(三十)と、昨日《きのう》の正午《ひる》過ぎに、偶然に訪ねて来た被害者、仏惣兵衛の後家さんチカ(五二)が、筥崎署へ引っぱられると同時にスッカリ泥を吐いてしまった。
後家のお近婆さんは共犯ではなかったが、しかし犯行の動機は婆さんの不謹慎から生み出されたものに相違なかった。
お近婆さんは評判の通りの堅造《かたぞう》であった。結婚匆々から病身のために亭主と離れ離れになっていたせいであったろう。五十を越しても生娘《きむすめ》のように肌を見せるのを嫌がったので、行く先々の鍼灸《はりきゅう》治療師が困らせられる事が多かった。同じ治療を受けに来ている患者達の間で浮いた話が始まると、すぐに席を外すくらい物堅い女であった。
ところが俗に魔がさしたとでもいうのであろう。伊勢の天鈴堂《てんれいどう》という大流行の灸点師《きゅうてんし》の合宿所の共同風呂で、東京から神経痛を治療しに来ている理髪職人の甘川吉之介とタッタ一度、あやまって一所に入浴して以来、スッカリ吉之介に迷い込んでしまって、治療をソッチ退《の》けにして、名所名所を浮かれ廻わっている中《うち》に、亭主の惣兵衛が生前、長年の間、五十銭銀貨ばかりをコッソリとどこかへ溜め込んでいる事実を、何の気もなく喋舌《しゃべ》ってしまった。
これを聞いた吉之介は、東京で色々な女を引っかけ飽きた揚句《あげく》、親方の女房と情死をし損ねて、新聞に色魔と書かれたので一縮《ひとちぢ》みになって逃げて来た男であった。所謂《いわゆる》、江戸ッ子の喰詰めで、旅先へ出ると木から落ちた猿同然の心理状態に陥っている矢先であった。溺れた者が藁《わら》でも掴む気で、お近婆さんの好意に甘えていたもので、今ではもうウンザリしかけているところへ、この話を聞かされたので、何の事はない五十銭銀貨の山を目当てにフラフラと九州へ来て、フラフラと八幡宮横の惣兵衛の家を探し当てて、フラフラと惣兵衛を呼起して下駄を誂《あつら》えたものであった。だから惣兵衛の横に腰をかけてバットを一服吸い付ける迄の吉之介には、殺意なんか無論、無かった。その五十銭銀貨の山を盗み取る気さえ無かったという。
むろん警察ではソンナ申立ては絶対に信じなかった。無理遣りに計劃的な犯罪として調書を作り上げて検事局へ廻わしたもので、新聞記事もその調書の通りに書いておいたが、それでも後家のお近婆さんだけは大目玉を喰っただけで無罪放免をされた。つまりこの後家さんとこの事件に対する関係は、山羊髯編輯長と、警察の見込との双方ともが適中して、双方とも外れていた訳である。
その以外の事実は全部名探偵……すなわち吾輩の推量通りであった。
元来が荒事《あらごと》に慣れない、無類の臆病者の吉之介は兇行後、現場《げんじょう》の恐ろしさに慄《ふる》え上がって一旦は逃げ出して附近の安宿に泊った。しかし、それから又、五十銭銀貨の事を思い出したので、翌る晩の真夜中から、一生懸命の思いで、人目を忍んで、空屋に這入って懐中電燈の光りで探しまわった結果、やっと三晩目に台所の漬物桶の底から、真黒になった銀貨二千余円を発見するとスッカリ大胆になってしまった。その金を稀塩酸で磨いて、紙の棒に包んだのを資金として、故意《わざ》と直ぐの隣家《となり》に理髪店を開いていたところは立派な悪党であった。こうしていれば誰にも判明《わか》る気遣いは無いと、安心し切っていたものであった。だから後家さんが帰って来てから自分に疑いをかけて、何度も何度も詰問しに来たけれども都合よくあしらって、知らん顔をしていたという。その大胆不敵さには箱崎署も舌を捲いていた。
発覚の端緒は現場に捨てて在った両切の煙草であった。斯様《かよう》な微細な点に着眼して、附近に住む両切煙草の使用者を片端《かたっぱし》から調べ上げた箱崎署の根気と苦心は実に惨憺たるものあり……云々という記事であったが、この最後の文句を書き添えた吾輩の文章の苦心が、如何に惨憺たるものがあるかを知っている者は我が山羊髯編輯長だけであろう。
それはいいが、その記事の終尾《おしまい》の処に次のような記事がデカデカと一号|標題《みだし》で掲載されていたのには驚いた。
密告者は芸妓《げいしゃ》だ[#見出し文字]
女の一念は恐ろしい[#小見出し文字]
=犯人の第二告白=[#前の行とは0.5行アキ、「犯人の第二告白」はゴシック体]
[#ここから1字下げ]
箱崎署員の談によると、犯人は発覚の端緒を箱崎見番の芸妓《げいしゃ》某の密告と認めているらしい。犯人の告白に依ると該箱崎見番の芸妓某は犯人の男振りに夢中になり、毎日のように客足の絶えた頃を見計《みはか》らって犯人の処へ顔を剃りに来たもので、その都度、お前と下駄屋の後家さんとは兼ねてから懇意ではないかと念を押すので、犯人は知らぬ知らぬの一点張りで追払っていた。ところへ昨日、隣家の地面の事に就いて、後家さんとの交渉取次を犯人に希望する客人が来たので、後家さんが時々来る旨を迂濶《うっかり》、お客に話したのを、例の通り顔剃りに来た芸妓が耳にするや憤然として理髪店を出て行ったが、彼《か》の女《じょ》が、憤慨の余り後家さんとの関係を箱崎署へ密告したものに相違ない。女の一念ぐらい恐ろしいものはありませぬ。私は元来無類|飛切《とびきり》の臆病者の神経屋ですから、人殺しをしてからというものは、あらん限り気を付けて、万に一つも手落ちの無いように心掛けていたものですが……と犯人は繰返し繰返し戦慄している。
[#ここで字下げ終わり]
後家を殺して[#見出し文字]
高飛びの計劃[#小見出し文字]
=犯人の第三告白=[#前の行とは0.5行アキ、「犯人の第三告白」はゴシック体]
[#ここから1字下げ]
犯人は箱崎署の厳重な取調べに包み切れず、次のような恐ろしい犯行の予定計劃を白状した。
恐れ入りました。私の人殺しの真実の動機を教えてくれたものはあの後家さんです。ですからあの後家さんが生きている間は、枕を高くして寝る事が出来ません。現に後家さんは私を疑って、時々そんな口ぶりを洩らしている位ですから、後家さんから頼まれている地面の売れ次第、その金を捲上げて、後家さんの口を閉《ふさ》いで、高飛びするつもりでした。
どうせ死刑になるんなら何も彼《か》も申上げて死にます。御手数をかけて済みません。云々。
[#ここで字下げ終わり]
吾輩は呆れた。驚いた。昨日《きのう》、後家さんの話をした時に急に変った理髪屋《とこや》の親方の悪魔|面《づら》を思い出して飛び上った。まるで名探偵の吾輩の行動を一から十までチャント見ていたような名記事だ……と思い思いその新聞を持って編輯室に押しかけて行った。
安い弁当飯を頬張って山羊髯をモクモクと動かしているおやじ[#「おやじ」に傍点]の鼻の先へ新聞記事を差付けて指《ゆびさ》した。
「この記事は誰が書いたんですか」
「ムフムフ。わしが……書いたがナ……」
と云い云い山羊髯にクッ付いた飯粒を抓《つま》んで口の中へ入れた。序《ついで》に総入歯の下の段を鼻の先へ抓み出して白茶気《しらちゃけ》た舌の先でペロペロと嘗《な》めまわした。
不愉快なおやじ[#「おやじ」に傍点]だな……と思ったが、それどころではなかった。
「……冗談じゃない。コンナ馬鹿な事を犯人が喋舌《しゃべ》ったんですか」
「ムフムフ。第二の告白の方は昨日《きのう》の夕方箱崎の署長が当社へ礼云いに来た。お蔭で、永い間の不名誉を回復しましたチウテナ。法学士出のホヤホヤの署長じゃが、学生上りの無邪気な男でな。その序《ついで》に何も彼《か》も喋舌って行きよりましたよ」
「第三の告白の方も署長が喋舌ったんですか」
「イイヤ。それはわし[#「わし」に傍点]が署長に入れ智恵したことですわい。犯罪の定石ですからな。あの署長は無経験な正直者ですけにキットわし[#「わし」に傍点]が云うた通りに誘導訊問をしましょうて……」
「ヘエ……それじゃ、まだ実際に白状した訳じゃないんですね」
「……モウ今頃は白状しとりましょう。犯人もむろん後家さんと同棲する腹じゃないのじゃから、将来の考えが頭の中でチグハグになっとるに違いない。それじゃからどこかで返事をし損ねてキット誘導訊問に落ち込んで来ますてや。たとい犯人が否定し通しても箱崎署から文句を云うて来る気づかいはありません。君の手腕に恐れ入って感謝しとるのじゃから……実はこの朝刊の記事がすこし足りませんでしたからな。アンタのお株をチョット拝借したまでじゃ……ヒッヒッ……」
「驚いた。生馬《いきうま》の眼を抜く以上だ」
「あんたが昨夜《ゆうべ》の中《うち》に犯人と後家さんの写真を探して来とるとこの記事は満点じゃったが……」
吾輩は唖然となった。吾輩以上のモノスゴイ、インチキ記事の名人に、生れて初めてお眼にかかったので……。
[#改頁]
真実百%の与太
今朝《けさ》の玄洋日報紙を見ると社会面に一大事件が持上っている。
低い、うねりを打ったような丘陵続きの海岸に近く五|艘《そう》の水雷駆逐艇が、重なり合って碇泊している。その横に三号活字でベタベタと「呉淞《ウースン》に着いた分捕《ぶんどり》、独逸《ドイツ》潜水艇」という説明が付いている。
「馬鹿ッ」と思わず口走りながら吾輩は、寝床の中から飛び起きた。「頓間《とんま》。間抜け。トンチキ。これあ潜水艇じゃねえやい……何という恥曝《はじさら》しだ。これあ……」
大正の三四年頃だったか東京の某新聞社に居た時分に、桜島の大噴火、鹿児島市の大混乱と題して吉原の火事の写真を使ったことがある。その逃げ迷っている群集の足下に「吉原町」と一パイに書いた手|提灯《ぢょうちん》が転っているのを、後から気が付いて冷汗を流した事があるがソレ以来の……イヤ、それ以上の大失敗だ。あんまりハッキリし過ぎているので頬返《ほおがえ》しが付かない。
間違いのソモソモは昨夜の午後四時頃の事だ。警察|種《だね》の記事を仕舞《しま》って帰りかけようとしている吾輩の処へ、眼をショボショボさせながら山羊髯編輯長がスリ寄って来た。
「君は写真の補筆が出来ますか」
断っておくがこの時の吾輩は最早《もはや》、正式に入社していて、社長以下小使に到るまで顔が通っている。行く処、可ならざるなき吾輩の活躍ぶりに皆、舌を捲いているところだった。だから、もしやと思って山羊髯がコンナ事を頼みに来たのだろう。吾輩がうなずいて見せると山羊髯がモウ一度、眼をショボショボさした。
「それではこれを一つ直してくれませんか。上海《シャンハイ》○○新聞の切抜ですが。タテ二段ぐらいに縮めます。向うの海岸の形が大切ですからね。ヒッヒッ」
受取ったのは極めて紙質の悪い新聞ザラに、目の荒いボヤケた六十線の銅版を、汚れたインキで印刷した切抜写真で、薄ボンヤリした雲みたような陸線のコチラ側に筏《いかだ》みたような船が五艘かかっている。どうやら水雷艇らしい恰好だ。上海○○新聞というのは最低級の邦字新聞と聞いたが、成る程、汚い紙面だ……なぞと思い思い、給仕に十銭のチャイニーズ・ホワイトのチューブを買って来さした。写真室に在る日本の水雷艇の写真と引合わせながら一生懸命に腕を揮《ふる》って、十銭の水彩顔料と、墨汁を塗りこくった。ところで、それから今一度、山羊髯に見せればよかったのだが、早く帰りたかったものだから、
「銅版屋へ廻わしてもいいですか」
と怒鳴ったら朝刊の記事を直していた山羊髯が、手軽くうなずいた。そこで補筆価値百二十パーセントの堂々たる日章旗を翻した司令塔、信号マスト、水雷発射管、速射砲の設備整然たる五百|噸《トン》級、乃至《ないし》二百噸級の水雷駆逐艇が五艘、九十線の銅版キメ細やかに浮き出しているとは夢にも知らずに、山羊髯が「分捕潜水艇」の標題を附けた版下《はんした》の寸法書《すんぽうがき》を印刷部へまわしたものだろう。
近頃大評判の独逸《ドイツ》潜水艇の写真を、不思議に早く着いた上海○○新聞から切抜いて東京大阪の新聞をアッと云わせようという山羊髯の心算《つもり》だったのだろう。
「飛んでもない事をした。この新聞が佐世保へ廻わったらドンナに笑われるか……イヤ。大阪の新聞がドレ位腹を抱えるか。つまるところ、山羊髯と俺が同罪なんだ。チョットした不注意だったのだが。イヤ。ヒドイヒドイ」
そう考えるとスッカリ眼が醒《さ》めてしまったが、何だか社に出るのが気まりが悪いような気がした。何とかして記事で正誤、訂正するか、取消しにする方法は無いものかと考えたが、生憎《あいにく》な事に写真ばっかりは一度掲載したが最後、取返しが絶対につかない事を覚った。
弱ったな……と悲観しているところへ下宿の女将《かみさん》が、梯子段の下から顔を出した。
「羽束さん。もうお眼醒めだすな」
その櫛巻《くしま》きの肥っちょう面《づら》を見ると思い出した。この女将《かみさん》は吾輩に度々特種を提供している。
……巡礼|婆《ばばあ》の行倒おれ……
……近所のドクトルの淋病……
……タキシー屋の幽霊……
……町内の標札の紛失……
なぞ、なかなか面白いが、今朝《けさ》も何か、そんなニュースが這入《はい》ったらしい。吾輩は頭のフケを狂人《きちがい》のように掻きまわしながら起上った。
「何ですか。お神《かみ》さん。又事件ですかい」
女将《かみさん》は返事をする準備として、とりあえず取って付けたように魘《おび》えた顔をした。この辺には珍らしく眉を剃って鉄漿《おはぐろ》をつけているからトテモ珍妙だ。
「ヘエ。アナタ。向家《むかい》の煙草屋の二階だす。あの二階に下宿して御座った別嬪《べっぴん》さんなあ!」
「ウン。知ってるよ。二十二三の……」
「ヘエ。アナタ。あの人がカルモチンとかで自殺して御座るちうてアナタ……今朝……」
話の終らないうちに吾輩は猿股一つになって立上った。顔も何も洗わないまま洋服に手足を突込んでしまった。スウェターに首を突込んで、靴下を穿いて、帽子を引っ掴むと、梯子段の途中に引っかかっている女将の巨体を飛び越すようにして上《あが》り框《かまち》から半靴を突かけると表の往来……千代町《ちよまち》の電車通りに飛出した。
「まあ。早さなあ。消防のごたる」
と女将が感心している間《ま》に、モウ五六人、人だかりのしている向家の煙草屋に駈込んだ。
いつも煙草を買うので新聞記者という事を知っていたのであろう。野次馬に覗かれないように表の板戸を卸《おろ》しかけていた博奕打《ばくちうち》の藤六という宿屋の親仁《おやじ》がヒョコリと頭を下げて通してくれた。こっちも頭を下げながら出会い頭《がしら》に問うた。
「どうしたんですか」
親仁《おやじ》は妙に笑いながら表の戸をピッタリと閉め切った。上り框に腰をかけて声を潜めた。
二階の女は此村《このむら》ヨリ子という別嬪《べっぴん》で二個月前から下宿している。毎日十時頃に起きて、朝湯に這入って、念入りにお化粧をしてから十二時頃飯を食う。それから午後の三時頃になって綺麗に着飾ってどこかへ出かけて、夜の十一時か十二時頃帰って来て、自分で表の入口の締りをして寝るだけが仕事で、宿主の方ではまことに手数がかからない。下宿料もキチンキチンと入れる。今朝はどこかへ奉公のお眼見得《めみえ》に行くのだから早く起してくれと云って寝たが、十時頃まで起きないから、起しに行ってみると、イクラゆすぶっても眼を開けない。どうも様子が怪訝《おか》しいようだから、近所の医者を呼んで来て診《み》てもらったら、睡り薬を服《の》み過ぎているらしい。自殺かも知れないという話。万一自殺となると身よりタヨリの事はヨリ子から一つも聞いていないし、第一何の商売だか全くわからないから、今も巡査に聞かれて困ったところだと云う。
「ナアンダイ。お爺《とっ》さん。胡麻化《ごまか》しちゃイケないぜ。大抵わかってんだろ」
と一本|啖《く》らわしてやったら親仁が禿頭《はげあたま》を掻いた。
「エヘヘ。済みません。実は新聞に書かれちゃ困りますけに……レコだすけにな」
と小指を出して見せた。
「ヘエ。旦那は誰ですか」
親仁は又頭を掻いた。両手を膝に置いて頭を一つ下げた。
「そ……そいつは御勘弁下さい。……わたくしが、お世話しましたとですけに……」
「アハハ」と今度は吾輩が頭を掻いたが、親仁《おやじ》がちょっと両手を合わせて拝む真似をしたのを見ると可哀相になった。
「失敬失敬。それじゃ本人が死んだらスッカリ事情を話して下さいよ。決してこちらさんに御迷惑になるような事は書きませんから……」
親仁は苦笑して首肯《うなず》いた。その首肯き方で女の旦那というのはヨッポド大物らしいと思った。
二階へ上ってみると六畳ばかりの床の間附の部屋の中央《まんなか》に、花模様のメリンスの布団を敷いて、半裸体の女が大の字に寝かしてある。
その枕元に近所の医者……下宿の女将《おかみ》の報告に係る淋病のドクトルがタッタ一人坐って胃洗滌をやっている。
金盥《かなだらい》の中を覗くとドロドロの飯粒と、糸蒟蒻《いとこんにゃく》が漂っている中に白い錠剤みたようなもののフヤケたのがフワフワと浮いている。
患者は、
「ガワガワ……グルグル……ゴロゴロゴロ……」
と二重|腮《あご》をシャクリながら嘔《は》いているが、そのまま手足を長々と投出しながらスヤスヤと睡《ねむ》っている。
変テコな状態だが、まだ相当麻酔しているのであろう。
流行の庇髪《ひさしがみ》に真物《ほんもの》の真珠入の鼈甲櫛《べっこうぐし》、一重|瞼《まぶた》の下膨《しもぶく》れ。年の頃は二十二三であろうか。
顔から肩から胸元……背中はわからないが手首、足首まで真白に化粧して頬紅、口紅をさしているが、その色っぽい事。正に熟《う》れ切った、女盛りの肉体美だ。
吾輩が上って行くと、ドクトル淋病氏が、ハッとしたらしい。
吾輩が女のオデコの上に名刺を置いて見せたらドク・リン氏が叮嚀に頭を下げて説明してくれた。
好人物らしい微笑を浮かべて、
「私はタッタ今来たんです。広矢《ひろや》と申します。今朝早く、夜中に、かなり多量のカルモチンを嚥下《えんか》したらしいですが、胃洗滌をやってみたら残りを出してしまいました。消化不良らしいですから大抵助かるでしょう」
「警察から誰か来ましたか」
「千代町の派出所から巡査が一人来ておりましたが大丈夫助かると云ったら、そのまま帰って行きました」
「成る程。死なない限り用は無いと思ったのでしょう」
と云ううちに吾輩は、そこいらを探しまわったが、成る程|遺書《かきおき》らしいものはどこにも無い。女の袂《たもと》から額縁の裏まで引っくり返してみたが、出て来たものは袂糞《たもとくそ》とホコリばかりだ。ただ机の曳出《ひきだし》から分厚い強度の近眼鏡と、カルモチンと同じ位のカスカラ錠の瓶を探し出しただけであった。そんな物を探しているうち偶然に、机の前に投出してある女の足袋《たび》を踏付けると、踵《かかと》の処が馬鹿に固いのに気が付いた。
覗いてみると、背が高く見えるように女が入れるファインゴムだ。
吾輩はソレを抓《つま》み上げて広矢氏に見せた。
「この足袋は貴方《あなた》が脱がせたんですね」
広矢氏は海老《えび》のように赤くなって弁解した。
「そうです。足が冷えると見えて、穿いて寝てたんです。こんな場合には、全身の束縛を解くのが、手当の第一ですからね」
そう云い云いドク・リン氏は新しい白襦袢《しろじゅばん》と、小浜の長襦袢をキチンと着せて、博多織の伊達巻を巻付けはじめた。
「アハハ。これあ自殺じゃありませんぜ」
「エッ。どうして……わかりますか」
ドクトルが眼を丸くして振返った。
「カスカラ錠は下剤じゃないですか」
「そうです。緩下剤《かんげざい》です」
「ドレぐらい服《の》めば利きますか」
「そうですね。人に依りますが少い時で×粒ぐらい。多い人は×××粒ぐらい用いましょうな」
「カルモチンをソレ位|服《の》めば死にますか」
「死にませんなあ。ちょうどコレ位の睡り加減でしょうなあ。人にもよりますが」
「この女は近眼ですね」
「どうしてわかります」
「ここに眼鏡があります。近眼だもんですからカスカラとカルモチンを間違えて服《の》んだんですね。朝寝の人間には常習便秘が多いんですから……」
「……ハハア……」
と医者が感心してタメ息を吐《つ》いた。気味わるそうな顔をして吾輩を見上げた。
「まだ、なかなか醒めないでしょうね」
ドク・リン氏はうなずいた。……というよりも吾輩に圧倒されたように頭を下げた。
「何時間ぐらい睡《ねむ》るでしょうか」
「わかりませんねえ。夕方までぐらい睡るかも知れません」
「助かりますか」
「大抵助かります」
「ハハア……そこんところを一つ、まだ助かるか助からぬか、わからない事にして書きたいですが、含んでおいてくれませんか。そう書かないと新聞記事になりませんから……」
ドク・リン氏は眼をパチパチさせた。妙な顔をして不承不承にうなずいた。大して事実を偽る訳ではないし、吾輩に痛いところを見られているもんだから余儀なく承知したのだろう。
押入から布団をモウ一枚出して掛けてやりながら考えた。何とかして女の旦那を探し出す工夫は無いか。下宿の親仁《おやじ》は遊び人だから滅多《めった》に口を割る気遣いが無いし、ドク・リン氏だって知らないにきまっている。身のまわりのものに見当をつける品物も無いし、手紙なんかも在りそうにないし……ハテ。困ったな。相手の旦那を見付けて「彼女自殺の感想談」を一席弁じさせなくちゃ、記事にならないんだが……と頻《しき》りに首をひねっているところへ、下から煙草店に坐っている小娘が上って来た。藤六の娘らしく鼻っ株が大きい。
「あの……お迎えの俥《くるま》が参りましたが」
「誰をお迎えに……」
「此村さんをお迎えと申しまして……」
「どこから来たんだい」
「存じませんが……」
「お父《とっ》つあんはどこへ行ったんだい」
「今ちょっとお電話をかけに……」
「立派な俥かい」
「ハイ。お抱えらしい御紋付の……」
「占《し》めたっ」
と云うなり吾輩は、階子段を二股に飛び降りて靴を穿いた。表に出るなり俥夫《しゃふ》に云った。
「急いで僕を、お邸まで乗せてってくれ給え。此村さんが自殺してんだから」
面喰《めんくら》った俥屋が駈け出すと、吾輩は威勢よく仔熊の皮の中に反《そ》り返った。……ヘン。どんなもんだい。これだから新聞記者が止められないんだ……と云いたいくらいだ。おまけにどこへ連れて行かれるんだかテンキリわからないんだからイヨイヨ以て痛快だ。
石堂橋を渡って電車通を東中洲、西中洲を抜けて春吉《はるよし》へ曲り込んで、渡辺通りから郊外へ出たと思うと、驚ろく勿《なか》れ、九州の炭坑王と呼ばれた、安島子爵家の門内に走り込んだ。
流石《さすが》の吾輩も……コレハ……と驚いた。何かの間違いじゃないかと思ったが、まさかに俥《くるま》から飛降りて逃出す訳にも行かない。……ええ糞。どうでもなれ……と思って玄関に立つと俥夫が呼鈴《よびりん》を押してくれた。出て来た小間使に名刺を渡して、案内さるるままに美事な応接間に通った。まるでアラビヤン・ナイトだ。
どうも美事なのに驚いた。青豆色《フーカスグリン》の天井。古黄金色《こもんいろ》の四壁。五色七彩の支那|絨氈《じゅうたん》。蛇紋石《じゃもんせき》の大暖炉。その上に掛かった英国風の大風景画。グランドピアノ。紫檀《したん》の茶棚。螺鈿《らでん》の大|卓子《テーブル》。ロココ風のクリスタル・シャンデリヤ。南洋材のキャビネット。黄緞子《きどんす》の長椅子《ソーファ》。安楽椅子《イージイチェア》。白麻ドロン・ウォークの窓掛などをキョロキョロと見まわしているうちに、フト傍《そば》の飾戸棚《キャビネット》の横に附いている小さな鏡の中に自分の顔を発見してギョッとした。頭髪《あたま》がまるで煙突の掃除棒だ。おまけに眼鏡を忘れて来ている面付《つらつき》のまずい事。分捕《ぶんどり》スコップに洋服を着せたってモウすこしは立派に見えるだろう。洗い直して来ようかしらんと思って、洗面所らしい処を見まわしているうちに背後の扉が音もなく開《あ》いた。スバラシイ幻影が音もなく辷《すべ》り込んで来て、しなやかに吾輩の前に立止まった。香水の匂いの棚引く中に恭《うやうや》しく頭を下げた。
何という生地《きじ》かわからぬ金線入《きんせんいり》、刺繍裾模様の訪問着に金紗《きんしゃ》の黒紋付、水々しい大丸髷《おおまるまげ》だ。上げた顔を見ると夢二式の大きな眼。小さな唇。卵型の腮《あご》。とても気品のある貴婦人だ。年齢なんかわからない位だ。
吾輩は二重三重に面喰って頭を下げた。
「僕は……私は……只今名刺を差上げました玄洋日報社の羽束という者ですが」
「わたくしは安島二郎の家内で御座います」
「あ……そうですか」
やっとわかった。安島二郎というのは当主、安島一郎子爵の弟で、現在、鎮西《ちんぜい》電力会社の重役をしている。有名な道楽者だ。兄の炭坑王の家《うち》に同居していると見える。
「……あの……何か御用で……」
そういう地声が、すこしシャ嗄《が》れているところをみると、どうやらこの夫人の素性がわかるようだ。無論、風邪を引いてるんじゃあるまい。
「……実は……その……」
と吾輩は眼を白黒した。来るんじゃなかったかな……と思った。元来、何しにここへ来たんだか吾輩自身にもわからないので、いわば好奇心に駆られて来たに過ぎない。とりあえずこれから用向きを考え出さなければならないのだが、コンナ婦人に改まられると、考えて来た用向きでも引込んでしまうのが吾々、男性の弱点である。
「只今。千代町の藤六|爺《じい》から電話がまいりましたが……生憎《あいにく》途中で切れましたが……」
ああ助かったと吾輩は思った。チャンスチャンス……。
「……あの娘がどうか致しましたので……」
「ヘエ。実はその……此村……ヨリ子さんが……」
「どうしたんですか一体……」
急《せ》き込んだ夫人の語気が、だんだんお里をあらわして来た。吾輩は思い切って打明けた。
「実は……その自殺未遂で……」
「エッ。自殺……」
この時の夫人の驚きようの美くしかったこと……市川|松蔦《しょうちょう》だって、こうは行くまい。細長い三日月|眉《まゆ》の下で、大きな瞳をゆっくりとパチパチさした。唇を半分開いてワナワナと震わした。白い両手を胸の上でシッカリと握り合わしてヨロヨロと背後《うしろ》へよろめいた。たしかに西洋映画の影響だ……と思ううちに、美しい幻影は、そのまま扉《ドア》を開いてスウと応接間の外へ辷り出た。
……が間もなくその幻影が、黒ずくめの風采堂々たる紳士の手を引いて這入って来た。四十四五の新調モーニングの白金《プラチナ》鎖だ。新聞で知っている電力重役、安島二郎氏だ。
二人は吾輩の眼の前に立並んで威厳を正した。瓦斯器修繕屋《ガスなおしや》然たる吾輩を二人で、マジリマジリと見上げ見下《みおろ》し初めた。何だか新派悲劇じみて来たようだ。
手に持った吾輩の名刺をチラリと見た安島二郎氏はブッスリと唇を動かした。
「私は安島二郎です。何か……その……此村とかいう娘が自殺したと云わるるのですか」
「そうです。あの下宿の二階でカルモチンを服《の》んで、目下手当中です。まだ生死不明ですが、とりあえず、お知らせに……」
二郎氏は今一度、吾輩を見上げ見下《みおろ》した。新聞記者の機敏なのに驚いたらしい。
「ハハア。どうして私の家《うち》と関係がある事が、おわかりになりましたかな」
「お迎えの人力車が参りましたので、それに乗って参りました」
夫婦は顔を見合わせた。今度は図々しいのに驚いたらしい。
二郎氏が貴族風に肩を一つゆすり上げた。苦り切って夫人を睨み付けた。
「だから云わん事《こっ》ちゃない。余計な事をするもんじゃから……」
「イヤ。どうも済みません。その俥《くるま》を利用した僕が悪いんです」
「イイエ。貴方がお悪いのじゃ御座いません。主人が悪いのです」
「コレ。余計な事を……」
「イイエ……」
夫人の眼がギリギリと釣上った。純然たる新派悲劇式の、キチンとした立姿になって主人と吾輩を等分に見比べた。鬢《びん》の毛が二三本ホツレかかってトテモ凄《すご》い。
主人の二郎氏が吾輩にチラチラと眼くばせをした。早く出て行ってくれ……と云いたい意味がよくわかったが、吾輩は出て行かなかった。何だかわからないがトテモ面白かったので……。
夫人は人形のように冷静に、唇を動かした。
「イイエ。申します。どうぞ新聞に書いて下さい。その方がいいのですから……」
見る見る血の気《け》を喪った二郎氏は、万事休す……といった風に頭を抱えてドッカリと安楽椅子《イージイチェア》の中へ沈み込んだ。どうやらこの夫人のヒステリーは天下無敵のシロモノらしい。
冷やかに主人の態度をかえりみた夫人は突立ったまま、両手を静かに揉《も》み合わせた。冴え切った微笑を含み含み天下無敵の科白《せりふ》を並べ初めた。
「わたくし、ちゃんと存じております。……あの此村ヨリ子と申します娘は鎮西電力のタイピストで、この安島の妾《めかけ》になっていた女で御座います。……安島の浮気はいつもの事で、相手も数限りない事で御座いますから、わたくしは何も……申しませんでしたけれども、主人が、あんまり見瘻《みすぼ》らしい処へ通いますから、家柄にも拘わると思いまして、それほど気に入った女《ひと》なら、当宅《うち》へ引取って召使ってはどうかと勧めましたけれども、安島は、そんな事はない。アレは妾でも何でもない。気の毒な孤児《みなしご》だから、人から頼まれて世話しているだけだと申します。タイピストを辞《や》めさせてまで世話する筋合いがドコに在るか存じませんが……ホホ……それで、わたくしは決心を致しまして、あの宿の主人と相談を致しまして、ヨリ子を今朝《けさ》から当宅《たく》へ引取って、わたくしの側で召使う事に致しましたが、あまり来方《きかた》が遅う御座いましたので、当宅《こちら》の自用車を迎えに出したので御座います。これは妻として主人の名誉を大切に致しますために、取計《とりはか》らいました事で、決して余計な事を致したおぼえ[#「おぼえ」に傍点]は御座いません」
吾輩は恭《うやうや》しく夫人の前に頭を下げた。安島二郎氏はイヨイヨ椅子の中へ縮こまった。
「……多分……キット……主人がヨリ子に申し含めたので御座いましょう。ヨリ子は、それを信じて覚悟をきめたので御座いましょう。どんな事があっても安島家へ来てはいけない。奥さんに殺されるから……とか何とか……」
「……と……飛んでもない。そんな馬鹿な事を俺が云うか……そんな事……」
安島二郎氏が突然に歪《ゆが》んだ顔を上げた。中腰になって両手を伸ばした。両袖のカフス・ボタンからダイヤの光りがギラギラと迸《ほとばし》った。
夫人は冷然と尻目に見た。
「ヨリ子のような卑しい女が、何で自殺しましょう。貴方のお言葉を信ずればこそです。貴方に生涯を捧げる純な気持があればこそです。……貴方は安島一家の呪いの悪魔です。お兄様や、お姉様がお可哀そうです」
「コレッ。コレ……余計な事を……」
「申します。安島家のために、すべてを犠牲にして申します。わたくしはドウセ芸人上りの卑しい女です。けれども貴方のような血も涙も無い人間とは違います。……どうぞ新聞に書いて下さい。そうすれば主人は破滅します。その方が安島家にとってはいいのです。どうせ一度はここまで来る筈ですから……チット荒療治ですけど……ホホホ……」
「……イ……イケナイ。オ……俺には血もあれば……涙もあるんだ。あり過ぎるんだ……」
「オホホホホホ。ハハハハハハ……。血もあり涙もあり過ぎる方なら何故《なぜ》すぐに、あのヨリ子の処へ飛んで入らっしゃらないのですか。死にかけているのに……ネエ。そうでしょう。オホホ……」
二郎氏は立上って来た。素焼のように白い、剛《こ》わばった顔に、絶体絶命の血走った眼が二つ爛々と輝いている。
「……馬鹿……ソレどころじゃないんだ。安島家の名誉を守らなければ……」
「……白々しい。名誉を思う人が、どうして、あんな女に手をかけたんです。早くヨリ子の処へ行ってらっしゃい……何を愚図愚図……」
夫人に突き飛ばされて、よろめきながら二郎氏はポケットから一掴みの札束を出した。吾輩の鼻の先に突付けた。
「君は帰り給え。帰ってくれ給え。何でもない事だから……これを遣るから……サア……」
吾輩は後退《あとじさ》りをした。
「……僕は……乞食じゃありません」
「イヤ……わ……悪かった。この場だけはドウゾ……拝むから……」
「いけません。書いてちょうだい。すっかりスッパ抜いて頂戴……」
「承知しました。ヘヘヘ……これで血も涙もありますよ」
「……ハハア。貴様は社会主義か……」
安島二郎氏の顔付きが突然、打って変ったように兇悪になった。
金持のお道楽に反抗する奴は、みんな社会主義者と思っているらしい口ぶりだ。
警察に命じて容赦なく引っ括《くく》らせて、貴様の口を塞《ふさ》いで見せるぞ……という威嚇も、その兇悪な面構《つらがま》えの中に含んでいるようだ。
「ナニッ……」吾輩はいきなりグッと来てしまった。「……ナ……何を吐《ぬ》かしやがんだ。貴様みたいな奴が社会主義者を製造するんだ」
二郎氏は素早く右のポケットに手を入れた。その手に飛び付いて吾輩はシッカリと押えた。
「俺を殺して、暗《やみ》から暗《やみ》へ葬る気か。エエッ。これでも日本国民だぞ。犬猫たあ違うんだぞ……」
「……イ……犬猫以上だ。コ……国体に背《そむ》く奴だ」
「ウップ。血迷うな。貴様の家《うち》の……安島子爵家の定紋の附いた俥《くるま》が、ヨリ子の下宿の前に着いているところを、写真に撮ってあるんだぞ。その方が国体に拘わるじゃないか……エエッ……」
この威嚇は、たしかに利き過ぎるくらい利いたらしい。夫婦の顔色が同時に土のように暗く変化した。同時に二郎氏のポケットの中の指がムズムズと動いた。ピストルの引金を探っている様子だ。
……ハッ……と思ったトタンに吾輩の手が反射的に動いた。安島二郎の下顎がガチンと鳴った。義歯《いれば》の壊れたのがダラリと唇から流れ出した。そいつを一本背負いに支那|絨氈《じゅうたん》の上にタタキ付けると同時に、轟然とピストルが鳴った。その弾丸《たま》が部屋の隅のグランドピアノを貫いたらしく、器械の間を銛丸《ブレット》がゴロゴロと転がり落ちる音が、何ともいえない微妙な音階を奏《かな》でた。
その音が消えないうちに吾輩は応接間を飛出した。
夫人はトウの昔に眼を白くして、床の上に引っくり返っていた。
社へ帰ると吾輩は、すぐに写真室に駈け込んだ。千代町の電車通りの角に行って、ヨリ子の下宿の写真と、ヨリ子の寝顔を撮って来いと、飲み友達の写真師に命じた。序《ついで》に安島二郎氏夫妻の写真をカードの中から探し出して、それを見い見い記事を書いているうちに一時間ばかりして写真師が濡れた臭素紙《しゅうそし》を二枚持って来た。
見ると驚いた。
まだ生死不明の境に昏睡している筈の此村ヨリ子が、寝床の上に坐っている大ニコニコの愛嬌顔が堂々とあらわれている。吾輩はちょっと面喰ったが、モウ一枚の煙草店の写真の前に、古い写真の中に在る人力車の向う向きの奴を切抜いて貼り付けて、工合よく補筆した上で、俥《くるま》の背後に安島家の定紋三階菱を小さくハッキリと描いた。その写真をモウ一度複写した奴に、ヨリ子のニコニコ顔と、安島夫妻の写真を添えて、記事と一所に山羊髯に差出した。
記事の内容は「自殺を企てた安島二郎氏の愛妾」「その自殺を知らずに本邸から迎えに来た、二郎夫人の自用車」「ソレとわかった安島子爵家の大狼狽」という意味で、見た通り、聞いた通りの事実を、普通の記事|体《てい》に一直線に書き流して、夫妻の感想談を麗々しく並べた興味百パアセントの夕刊記事であったが、その分厚い原稿を山羊髯は夕刊の二面にデカデカと載せた。
多分臨時議会後で記事が足りなかったんだろう。
するとコイツが恐ろしく利いたと見えて、その夕方、安島家から厳《いか》めしい顧問弁護士が、玄洋日報社へ乗込んで来て、社長と山羊髯に面会して記事の取消を厳命したという事で、その翌る日の朝刊の一面に「事実無根……安島家云々」の二号活字の取消広告と、社会記事の末尾に小さな取消記事が五行ばかり出た。
吾輩は、それを見ると大いに不服で、早速山羊髯に抗議を申込んだが、山羊髯は平気で眼をショボショボさした。
「ヒッヒッ。安島家はのう。玄洋日報社の一番有力な後援者じゃけにのう。否《いや》とも云えんでのう……社長どんも弱っとったわい」
「そんならモウ一度、安島家に談判して下さい。玄洋日報社へ十万円寄附するか……どうだと云って……。イヤだと云えあ玄洋日報社員をピストルで撃った事実を公表するがドウダと云って下さい。グランド・ピアノが証人だ。失敬な……」
「まあまあ。そう腹を立てなさんな。あの取消広告はのう。誰も信じやしませんわい。……のみならず取消広告たるものは大きければ大きいだけ記事の内容を強く、裏書きする意味にもなるものじゃけにのう。ホッホッ……」
「それ位の事は知ってます。あいつは僕を社会主義だなんて吐《ぬ》かしやがったんです。おまけに犬か猫みたいに僕を撃殺《うちころ》そうとしやがったんです。あんな奴が社会主義を製造する奴なんですから徹底的にタタキ附けとかなくちゃ……」
「ヒッヒッ。もうアレだけ書かれりゃ大抵ピシャンコになっているじゃろう。おまけにイクラ広告や記事で取消しても、あの写真ばっかりは取消せんけにのう。たしかにあの煙草屋の門口に安島家の俥《くるま》が着いとるけにのう。自殺を知らずに迎えに来たちう現《げん》の証拠が……」
「アハハハ。ちょっと待って下さい。あの写真はインチキですよ。あの家《うち》の写真と、人力車の写真を僕が貼り合わせたんですよ」
「ホホオ。そんならあの紋所は……」
「あれも僕が白絵具で描《か》いたんです」
「……………」
山羊髯が唖然となった。
吾輩は入社以来、初めて山羊髯を一パイ喰わせたので、スッカリ機嫌を直してしまった。
……これだから新聞記者は止められない……。
底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年9月24日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年9月9日公開
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