青空文庫アーカイブ

街頭から見た新東京の裏面
杉山萠圓(夢野久作)

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)流行《はや》ったり

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)九月初めから十月|半《なかば》まで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しけ[#「しけ」に傍点]の時などは、
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   市政の巻



     品川駅の蓄音機

 万世一系のミカドの居ます東京――。
 黄色人種中最高の民族のプライドを集めた東京――。
 僅か五十幾年の間に日本をあれだけに改造した東京――。
 思想でも流行でも何でもかんでも、日本でモテたり、流行《はや》ったりするものの大部分はここからはじまる東京――。
 日光、京都、奈良そのほか日本の古美術や名所古跡に感心し、ゲイシャガールに涎《よだれ》を流し、能楽《ノーダンシング》に首をひねる前に、是非ここの黄色いホコリを吸わねばならぬことになっている東京――。
 そのほかあらゆる意味に於てヤマト民族を代表し、国際問題の大部分に於て東洋を代表し、芸術なんどの方面ではうっかりすると人類文化の最も高い方面を代表しているところもある東京――。
 その東京が一撃の下に殆ど全域にまではたきつぶされたという事は、日本全国はもとより世界の人々を驚かすに充分であった。
 更にその一度たたきつぶされた東京が、どんな腰付きで、どんな表情をして起き上るかということは、全人類の視聴を惹《ひ》くに充分であった。
 記者が震災一年後の東京を見に行ったのも、この意味に外ならなかった。
 震災後初めて東京に行く人は、先ず品川駅に着くとホームの雑音にまじって、
「品川ア――……品川ア……山の手線、新宿……方面|行《ゆき》乗換えエ……品川ア――……品川ア――……お早く願いまアす……」
 という特別に異様な割れ鐘声を聞くであろう。記者も変な声だなと思って、窓から首を出して見た一人であったが、不思議なことには怒鳴っている駅夫の顔が見えない。変だなと思ってキョロキョロ見まわすと、それはホームに備え付けられた蓄音機で、声自慢の駅夫に吹きこませたものだとわかった。
 いずれ鉄道省の新しい試みであろうが、折角《せっかく》の事なら鶯の初音のような声にしたらどんなに有り難いことであろう。それとも寧《いっそ》の事、有名な女優か何かの声にでもしたら、ホームの雑音にまぎれず、旅客も耳を澄まして聴くだろう。殺気立ったり疲れたりした旅客の心理状態を和《やわ》らげる上からいっても、御趣旨徹底の上から見ても、まことに結構であると思われるが、いずれにしても新しいには間違いない。この塩梅《あんばい》では震災後の東京は余程新しくなっているであろう。交通巡査に自動人形を立たせ、市長の椅子に盲判押捺《めくらばんおうなつ》器を据え付けていはしまいかと、取りあえず度肝を半分ばかり抜かれたのであった。
 東京駅に着くと、駅前に何百となく蟻《あり》のように這《は》いむらがる自動車、その向うに流るる電車の行列、煙のように集散する人、その又向うに数万の電気を点《とも》して、大空を蔽うて立つ数個の大ビルディング、そのようなるものの間から湧き起り、渦巻き散る様々の雑音、うなり、響き、叫び、とどろきは、気のせいか震災前に数倍して物凄いようで、田舎に居てはかなり気の利いたつもりの記者も、暫くの間ぼんやりとそこいらを見まわさせられた。
 誰しも田舎から都会に出ると、一種の圧迫を感ずるものである。家の大きさ、往来の烈しさ、その中を見かえりもせずサッサとあるく人々の態度なぞが、いずれも特別に自分だけを意地わるく、ひややかにあしらっているようで、われしらず襟元《えりもと》をつくろい、ポケットの中のものをたしかめる気になるものである。わけても日本一の東京駅前の広場には、そうした気分を作るものがすっかり取り集められている。その中を記者は、昂然と肩をそびやかして、電車道に出たのであった。

     糜爛《びらん》する浅ましい姿

 記者はこうして、九月初めから十月|半《なかば》までの東京市中を、縦横むじんにあるきまわった。蜘蛛手《くもで》掻く縄十文字に見てまわった。用事の隙々《ひまひま》や電車待つ間《ま》にはスケッチも試みた。こうして見ては考え、考えては見ているうちに、現在の新しい東京の裏面が次第に次第に見えすいて来た。あっちこっちで見たり聴いたりした事が、次第次第に一つの大きな焦点を作って来た。
 そうしてその焦点にハッキリと、又は朦朧と現われて来たものの姿と、そのうごめきを見出した時、記者は思わず眼を蔽うたのであった。
 東京は如何に甦えりつつあるであろうか。秩序、真面目、光明、穏健といったような思想を基調としているであろうか。
 市政は整然と行われているであろうか。
 市街建築や交通機関は、理想ある統一の下に整備されつつあるであろうか。
 市民の娯楽機関は、果して健全に発達しつつあるであろうか。
 風俗は新日本の流行の中心たるに恥じないものであろうか。
 犯罪の数は、又不良少年少女の数は震災後減ったであろうか。
 各種の商売は合理的に繁昌しているであろうか。
 そうして復興の意義は、一般市民に正しく理解され、達成されつつあるであろうか。
 記者は遺憾ながら、これ等《ら》の質問に対して一つも満足な答えをすることは出来ない。唯一言「否」という言葉で片付けてしまいたいが、それすら出来ない程に東京の現在は意外な状態にあるのである。
 記者はこの稿を発表する前に幾度《いくたび》か躊躇《ちゅうちょ》した。
 これを発表するのは、新しい東京の前途に希望を持つ人々に対して、あまりに残忍な仕打ちであるばかりでない。この中にある醜い事実や例証やが、さなきだに東京を唯一無上の都市と思っている地方の人々に悪い影響を与えはしまいか、又はまだ東京を知らぬ健全な地方の人々の頭を刺戟して、「東京がそんな風ならおれ達だって」といった調子に地方堕落の素因を作ることが、万に一つでもありはしまいかと心配されたからである。
 更に今一つの心配は、記者が自身の観察力に対する疑いであった。東京の裏面を見て驚いたと同時に、記者は自分の眼と耳を疑ったのであった。果してこれが東京の真相であろうか。かように東京のすべてが浅ましく恐ろしく見えるのは、記者の感違いではあるまいか。たった一年前、記者があらゆる讃辞を以て報道した震災直後の東京の人心は、かく短時日の間に、かくも浅ましく堕落し果て得るものであろうか。願わくは記者の観察が誤りであれかし。聴き誤りであれかし……。
 こうした記者の最後の気弱さは、記者を東京市役所、警視庁、その他二、三の官庁に押し遣って、それぞれの当局者について質問をさせた。
 然るにその人々は、皆記者の観察や説明に平気で……否、寧《むし》ろ吾が意を得たりといった風に裏書をしてくれたのみならず、記事に適切に当はまる参考材料まで提供してくれた。
 その態度は記者がその誠意を疑うほどに非官吏的、公開的であった。寧ろ投げ遣り的に「秘密」の印を押した書類なぞを見せて、あくびまじりにいろんな呑気《のんき》な話までした。
 その話の中に記者が聴きのがすことが出来なかったのは、どの官吏もが共通的に左の意味の言葉を口にしたことであった。
「駄目ですよどうせ。なるようにしかならないのです。私の方から発表は出来ませんが、あなたの見た通りを地方の新聞に大いに書いて下さい。東京の新聞にはいくら書いたって駄目です。東京のものが読んだって、堕落し切っているんですからちっとも感じはしませんが、全国地方の各新聞が一斉に『東京を救え』とでも書き立ててくれたら、いくらか刺戟になるでしょう。新聞に書いたら一部送って下さい」
 その言葉の中には、何のあてどもない、行き当りバッタリ式の仕事をしている人々の心の痛みがこもっていた。見かけだけ美しくて、内容の乱れ腐れて行く東京を見ながら、どうする事も出来ない人々のダラケタ頽廃した哀愁がこもっていた。
 又或る退職した高級官吏はこう云った。
「『東京を救え』も面白かろう。しかし大抵の奴が東京を救いに来たって、木乃伊《ミイラ》取りの木乃伊になってしまうよ。東京に一日も居れあ、大抵田舎が馬鹿臭くなるからね。アハハハハハハ」
 記者は頭をうなだれてその人の門を出た。秋の日と、赤トンボの流るる東京郊外から、牛込の宿まで帰りながら考えた。そうして思い切ってこの筆を執《と》りはじめたことであった。
 勿論これが記者の見たり聴いたりした全部ではない。その大体の概念だけ(たとえば市政の項)、又はその一部の要点の中で面白いところ(たとえば不良少女の手紙)だけである。あまり深く突込めないところもあるし、又いくら書いても書き切れないところもあるからである。唯これに依って、新しい東京の裏面が如何に浅ましく、悲しく、奇怪なものであるかということを読者に印象せしめ得れば、記者の望みは足りるのである。

     市長|更迭《こうてつ》の表裏

 ジャンジャンジャンジャンジャン、「東京市長の辞職……」
 という声をきいて、車の窓から買って見る。
「大道良太氏東京電気局長に就任と共に市長永田秀次郎氏の辞表提出云々」
 と大みだしが付いて、永田市長の談が掲載してある。
「只今東京市長の椅子を去るのは実に遺憾千万である。殊に市街の整備を理想的にやるつもりでいたのが出来なかったのは千秋の恨みである。しかし止むを得ない。更迭した電気局長即ち市の重要機関の首脳者と僕との間に何等の理解も存在しないのだから」
 東京市民の大部分は皆驚いた。そうして変に思った。
 東京市長永田秀次郎氏は、後藤新平氏のあとを受け継いで東京市長の椅子に座ると間もなく、彼《か》の大変災に出会った。高知の富豪の子で、人格者で、大男で、文芸趣味に造詣《ぞうけい》が深く、寝ころんでも愉快に生涯を送れる身分でありながら、七面倒臭い東京の市長になって、兎《と》も角《かく》も利欲に眼をくれず、どっちかといえば大した過ちもなく、あれだけの世話を焼き通して来たところを見ると、余程の自信と覚悟とがあったものと見なければならぬ。それが市区改正の大事業……言葉を換えて云えば東京の改造……否、寧ろ日本文化の中心改造という大仕事を眼の前に控えながら、高が一局長の椅子に市会が押し上げた人物が気に入らぬ位の事で、市長の椅子を蹴飛ばす程短気であろうとは、誰しも想像し得ないところであっただろう。
 永田氏が去ると同時に、その部下の有力者数名もバタバタと辞表を出して椅子を離れたので、東京は首無し死体どころではない。首から上が抜けてしまって、一時ヨイヨイのようになってしまった。
 も一つ驚いたことには、新たに電気局長の椅子にねじ据わった大道良太クンが、なかなか座り腰の強いことであった。部下がストライキを起しても、新聞で嘲られても恬《てん》として知らぬ顔で、あべこべに盛《さかん》に熱を吹いて、「俯仰天地に愧《は》じぬ」とか、「断じて市会議員を買収したおぼえはない」とか云っていた。
 その口の下から、怪しい市会議員がドシドシ検事局へ引っぱられた。そうして買収された罪状が一々明白になったにも拘らず、大道局長は依然として反《そ》り身《み》になって、例の鼻眼鏡を光らしていた。
 サア、みんなわからなくなって来た。見様《みよう》によっては永田が意気地なしで、大道がシッカリしているようにも見える。とにかく門鉄局長以来、好人物の小才子で通って来た大道良太先生に、どうしてあれだけの糞度胸があるのだろうとみんな舌を捲いた。
 すると又わからないことが出てきた。
 後任市長が無いというので、方々《ほうぼう》の人格者や名望家なぞに市会の銓衡《せんこう》委員が押しかけてまわったが、みんな体《てい》よく断られた。その断りかたがいずれも奥歯に物の挟まったように叮嚀《ていねい》で、何だか「東京市長になるのは一大の恥辱です」という、恥辱の二字を光栄という言葉に取りかえて云っているように思われた。
 それはまあいいとして、最後に前の東京市長、今の日露政治ブローカー後藤新平の処へ持って行くと、一度断られ、二度ことわられ、それでも三度まで持って行くと矢っ張りことわられた揚句《あげく》、「余が東京市を愛するのは、市長となって愛するよりも、市民として愛した方が適切と思う」というような意味の宣言書を、新平の名前で東京中の新聞に発表されてしまった。「お前の旦那になってやるよりも、情夫《いろ》になって可愛がってやる方が洒落《しゃれ》てるじゃないか」といったようなことわりようである。何だかカラハンあたりから直伝のような響もあるように思われる。
 然るにこの新平さんは実は第一候補で、第二候補はこれも前の満鉄総裁、文豪夏目漱石の友人で、女好きで、酒好きで、ウソかホントか、梅毒で片目をつぶしているという中村是公のオヤジさんであった。そこへ水を向けると一も二もなく承知して、「オヤまあ」と思う間もなく、ノコノコサイサイ永田秀次郎氏があと釜に座ったのが、丁度十月の初旬のことであった。同時に、その間一ヶ月間市長の椅子を空《から》っぽにした責任を負うというので、市会議長の沢田氏が辞職すると大|見得《みえ》を切ったところを、「マアマア」が出て来てゴタゴタさした。
 こうしてやっと東京市の首が出来て、市民も新聞もヤレヤレと云っているうちに、今度は又大変な評判が事実として伝えられた。永田市長が辞職してから以後これまでの出来事は、みんな芝居だというのである。否、永田市長の辞職からして芝居だと云うものすらある。あれだけの大記事や号外を出して、十字街頭の人々を驚かし、電気局の喰うや喰わずの月給日給連に局長反対のストライキまでやらせたのが、みんな芝居だとは、生き馬の眼を抜くどころの騒ぎじゃない。
 恐れ多くも中村東京市長の御裁可書が、内務省と市役所との間で一時|行衛《ゆくえ》不明になって大騒ぎをしたというが、それまでも何かの芝居ではないかと考えられて来る位である。

     あきれた漢語芝居

 ここで又一つわからない事が出来て来る。前の東京市長永田秀次郎氏も、今の東京市長中村是公氏も、それから電気局長の大道|朝臣《あそん》もみんな後藤系のチャキチャキである。だから芝居とすれば、座長が後藤新平で、市会議員中の或る一派が狂言作者でなければならぬが、同じ後藤系の人物を抜きさしするのに、何でこんな芝居を打たなければならぬのであろう。
 仮に永田氏が立派な人物で、市会の悪議員が仕事の邪魔になるから追っ払ったものとしても、又は永田氏がケチな人物で、今までに儲けるだけ儲けたから、いい潮時と逃げを打った芝居だとしても、或は又すべての魂胆の策源地を後藤新平側だとしても、どっちにしてもわけのわからないところが出来て来る。
 それかといって、全然芝居でない白真剣《しらしんけん》の立ち廻りだとしたら、いよいよ奇妙奇天烈で、狐や狸や貉《むじな》の類が乗せっこのバカシックラをしているのを、遠くから見ているようなわけになってしまう。
 これを要するに、記者がこれまで一生懸命に説明したことは、トドのつまり何のことやらわけのわからぬ事を、自分でもわからないままに述べ立てたわけになる。まことに申し訳ない次第であるが、これは決して読者を馬鹿にしているのでもなければ、記者の頭がわるいのでもない。
 すべて政界の出来事の表面がトンチンカンに見える時、その裡面に卑怯な真相が横たわっていることは、誰でも感付くことである。
 東京市政界の裡面に、何者か知らず大きな卑怯な事実が動き流れていることは、その表面の矛盾の大きさでもあらかた推測される。その卑怯な事実を支配している連中は、その矛盾を塗りつぶすためには……そこから市井《しせい》の内幕を見すかされないために、いろんな形式や、相談や、挨拶や、宣言や、発表や何かでその間を埋めてしまった。つまり芝居をやったわけである。
 その芝居たるや、役者は悉《ことごと》く羽織袴《はおりはかま》、もしくはフロックコートで、科白《せりふ》が又初めからしまいまで、漢語に片仮名まじりの鹿爪《しかつめ》らしい言葉ばかりである。
「職責」とか、「面目」とか、「感銘」とか、「遺憾」とかいう漢語が、如何にも重大な意義を持っているかのように持ちあつかわれている。
 その筋の宣伝や布告が日に増し民衆的になり、言文一致に近づいて、債券のまき上げ方? なぞは玄人《くろうと》が舌をまく位に進歩している矢先だから、この礼服総出の漢語劇は一層人眼に立って見えた。それがみんな、市民を煙にまく目的でやったのだから、呆れ返らざるを得ない。
「ナアンダ。馬鹿馬鹿しい」
 と東京市民が相手にしなくなればなる程、彼等市政の黒幕連は勝手なまねが出来るわけになるのだから、ウンザリせざるを得ない。
 こうして東京市民の頭は、刻一刻と東京の市政に対する興味を喪って行く。否、現在では、愛市心なぞいうものは、殆ど絶無としか記者の眼には認められない。
 故勝海舟翁はこんな意味のことを云ったことがある。
「昔、江戸市中のお布告《ふれ》だの掟書《おきてがき》なぞいうものは、みんな人民にわかり易い文句ばかりで書いてあった。それが御維新後になると、急に八釜《やかま》しい漢語になってしまったが、これは人民に政治をわからないものと考えさせて、お上《かみ》のなさることに口出しさせないために持って来いの妙案かも知れぬ」
 と。この言葉を味わって見ると、云うに云われぬ皮肉な意味が出て来て、思わず膝を打つようなところがある。
 誰でも自分のわるいことを弁解をして塗りかくすためには、鹿爪らしい漢語を使うものである。勿体《もったい》らしく構えて、腹の底を見すかされまいとする時も同様で、こんな場合に漢語位便利なものはない。
 明治維新後、新政府の権威を見せるために、又は人民を煙に捲いてドンドン改革をして行くためには、法令でも、布告でも、何でも、漢語と片仮名で塗りかためて人民の前につき立てて、内幕をのぞかれないようにする必要があった。官僚や藩閥は漢語の蔭にかくれて、あれだけのわるいことをした。社会主義者なぞいうものは、人民の学力が進んで、この漢語の眼かくしが楽に見透かされるようになったために出て来た不平だとも云える。
 海舟翁は、幕末の遺臣で、大勢に押されて江戸城を官軍に渡したとはいえ、新政府の連中の腹の中はちゃんと見すかしていた。だから、それとなくこんな皮肉を云ったのではないかと記者は思う。
 折しもあれ、東京市長更迭に際して、こんな古めかしい漢語芝居が行われつつあるのを見て、今昔の感に打たれざるを得なかった。今に東京の市政は、漢語の本家本元の支那のようになりはしないかと思われる。
 いずれにしても、事実上、東京の市政はこうして次第に暗黒化されて行くのである。

     チグハグな道路工事

 往来で買った新聞を通じて東京市政を見ると、こんな風にトンチンカンに見える。ところで街頭から東京市政の裡面を見るには、新聞にたよるほかは、テクシーで見てまわるほかはない。記者は今度は市でやっているいろんな工事を見まわってみたが、この「トンチンカン」さが一層ヒドいのであった。
 たとえば、丸の内やその他各区の各方面の往来の到る処に行われている道路工事が、下水の事を殆ど念頭に置かないでドシドシ行われていることは、どんな素人眼にもわかる。否、下水ばかりでない。少し気を付けて見ると、水道管や瓦斯《ガス》管、地下線、そんなものは一切お構いなしに、只|上《うわ》っ面《つら》だけをアスファルトや木煉瓦《もくれんが》で塗り埋められていることがよくわかる。
「こうやっておいて、又じきに掘り返すんだからなあ。そうして税金をドシドシかけて来るんだから、イヤンなっちまう」
 という言葉は、道路工事で入り口を閉《ふさ》がれた商店の人々が一様に云う不平である。
「何でもおれ達の任期中にやっ付けてしまえ、今度当選するかどうか分からないから」
 と市会議員が相談したかどうか知らないが、こんな乱暴な工事をこう無暗《むやみ》に進行させるところを見ると、何だかそう思われてならぬ。
 この工事がちゃんと筋道の立ったもので、将来の都市計画に差支えない処だけやっているものであるかどうかということは、市民にちっとも知られていないらしい。隅田川にも、大きな橋が一つ二つ新しく架けられているようであるが、これとても同様である。
 永田前市長の案か市会側の提案か知らぬが、事実から推して見ると、東京市の道路工事は、都市計画なんぞはどうでもいい、復旧も復興も構うことはない、工事だけドシドシ進行すればいいのだという風に見える。
 それを東京市民はアッケラカンと立ち止まって見物しているのである。
 それ許《ばか》りでない。
 震災後、東京市中の道路は恐ろしく悪くなった。日比谷公園前の近江《おうみ》の湖《み》を初めとして、新しい東京八景が出来ているが、それは皆、往来に山や谷や湖や川が出来たのに対して名づけられたものである。何も無い処でも一間置き位に、深さ数寸、さし渡し一尺位の穴がベタ一面にあいている。
 そのために東京市中をテクる腰弁の群れは、殆ど全部が雨天の時に長靴をはくようになった。当り前のオーバーシューズではうっかりすると沈んでしまうし、自分のハネや自動車の泥煙を防ぎ切れないからである。
 晴天の日でも自動車は出来るだけ徐行する。うっかり急ぐと、乗っているものは腰かけからハネ落されるからである。過日《こないだ》のしけ[#「しけ」に傍点]の時などは、下水を溢れて滝のように流るる汚水の中に、押し合いヘシ合って電車に乗る人々、自動車のタイヤの両側に破れむしろを袴のように垂らして、その中を押しわけて行く自動車の笛、雨の音、叫び声なぞいう修羅場が東京市中到る処に展開された。行って、実際に見た上でなければ、とても想像は及ばぬ。
 こんな悪道路が東京市中の大部分を占めているのを打っちゃって、アスファルトや木煉瓦の上等の道路を極めて局部的に作って行く必要がどこにあるであろうか。
 昨年の震災直後二三日の中《うち》に、東京市中の道路という道路は皆、人と車馬の混雑で穴だらけになってしまった。市では早速|俄《にわか》雇いの人夫を駆り集めて、九月の十日前後から東京市中にバラ撒いて、ドシドシ補修工事を開始した。それを記者は十四日頃やっと気が付きながら、流石《さすが》東京と舌を捲いて感心した。その感銘は一年後の東京市の道路工事を見て、すっかり引っくりかえされてしまった。これも、東京市政裡面のダラシなさを暗示する、一つの太き材料ではあるまいか。

     醜業不許可と実際

 今から十何年前、東京市に初めて都市計画に関する課が出来た当時の事、そこの、公園に関する図を引く腰弁に、松戸の園芸学校の卒業生が居た。今の荒川公園なぞはその男が図を引いたのであるが、その男が、浅草公園の第六区の道路を広めないと衛生上悪いというので、今は無くなった十二階下真正面に通ずる道路の両側、活動館や見世物が行列しているところを実地に調査して帰って見ると、彼の下宿に黄白《こうはく》を詰めた菓子箱が山積みしていた。
 流石の彼もその早いのに仰天したが、ここぞ一生の思い出というので、その菓子箱を悉くたたき帰して先ず溜飲を下げた。
 それから鉛筆をとって、十幾つの見世物館の軒先から一間ばかりうしろの方に定木《じょうぎ》を当てると、ズーと太い線を引いた。
「それが今の活動写真小舎の軒並みさ。おれはそのあとですぐに辞表をタタキ付けて九州に来たが、あとで聞くと、間もなくおれの課長も首をチョン切られたそうだ。おれ見たいな奴に仕事を任せたむくい[#「むくい」に傍点]かと思うと、今でも気の毒になる」と彼はよく記者に語った。
 これは一つの昔話(事実にあった)に過ぎないが、ここで考えて行くと、大東京の改造が如何に困難なものであるか容易に推察されるであろう。記者の疑いの眼《まなこ》がそれからそれへ飛んで行く理由もうなずかれるであろう。
 今度の震火災を機会に、浅草千束町の醜業窟が一掃されたという。行って見ると、成る程無い。只《ただ》果物なぞを売っている店が十五六軒並んでいるばかりである。当局者は云う。
「こうして大いに東京市内の風紀を改善するのです。彼等がもし醜業を営んだことがわかれば、一月近く拘留した上に写真を撮って、二度と再び営業出来ないようにするのです。元来浅草区はこれ等醜業婦のために拭うべからざる汚名を受けているのです。浅草区役所の収入の大部分は彼等醜業婦が持っているのだとか、浅草に来る警官はみんな彼等から袖の下を貰ってぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]をしているとか、浅草区から立つ候補者は醜業を理解しなければ立つ資格が無いとか云われていたものですが、そんな世間の誤解を一掃するには昨年の震火災が絶好の機会でした」
 云々と大得意になっている。
 その追い立てられた醜業婦が立ち去ったところ、又そのあとに当局の所謂「一掃された」という言葉を裏切って続々と殖《ふ》えている怪しい女の事に就いては、後の研究問題に楽しんでおくとして、取りあえず浅草の新券番に行って、芸妓の名寄《なよ》せを取って見ると六百名ばかり居る。しかもこれは、震災前醜業窟を経営していた連中が喰うに困るという名の下に、新たに許可したものだというのだから、開いた口が塞《ふさ》がらぬ。何の事はない、浅草区内に今まで居た醜業婦をほかへやって、あとに今までよりも白首をふやした上に、こんな大券番を増設したことになる。
 これは見様《みよう》によっては市役所にかかる問題ではないかも知れぬ。しかしこの券番の許可に就《つい》ては、二つの或る有力なる団体が当局に対して猛烈な運動をした、その背後と正面には抜け目のない東京市政の有力者が立っていたというのだから、大抵察しが付く。
 もっと酷いのになるとこんな話がある。
 目下、市内各所の公園付近に市から建てられたバラックがある。これは市の体面を傷つけるし、衛生上又は公園の本来の性質上立ち退かせねばならぬというので、市の方から八釜しく云っているが、酢のコンニャクのと云ってなかなか立ち退かない。(この事に就ても後に述べる)。目下、市と押し問答の最中であるが、それにつけ込んだ或る市会議員がバラックへ押しかけて行って、
「一戸当りいくら宛《ずつ》出せば立ち退かないようにしてやる」
 と談判したところが、物の美事にはね付けられたという。
 これはあんまり篦棒《べらぼう》な話で、多分、或るデモ主義者かゴロ付きの一人が思い付いてやった事を、市会議員の所業と結びつけた一片の噂《うわさ》に過ぎないであろうが、それにしても、こんな事にまで結び付けられ易い、東京の或る種の市会議員の平生の素行が忍ばれるではないか。火の無い処に煙はあがらぬとはいうものの、これは又あんまり情ない噂である。
 こんな風に疑って来ると、見るもの、聴くもの、何一つ疑いの種とならぬものはない。同時に、こんな事実を見たり聞いたりして来ると、東京の前途が思い遣られる。同時に、東京を中心とし、頭脳として生きて行かねばならぬ、未来の日本の運命を悲しまずにはおられぬのである。

     市議の不正公表

 ここまで観察して来ると、東京市政の裡面はハッキリとした焦点を作って読者の眼前に現像されるであろう。
 先ず現われて来るのは、市会議員の或る一派が往来のバラスや、市で使う石炭や、水道の鉄管や、又はあの大きな瓦斯《ガス》タンクなぞをバリバリ喰っているところである。
 納豆《なっとう》売りの云い草ではないが、ちょっと見たところ、こんなものはとても歯にかかりそうにもなく、おまけに下品な悪臭芬々として、いかにも顔をそむけたくなるが、喰いなれて見ると案外おいしくて、消化がよくて、身体《からだ》のこやしになること受け合いだそうである。殊に永年東京に住んでいると、こんなイカものが喰えるようになるらしいので、江戸ッ子になると納豆が好きになるのも、そんな感化を受けるからかも知れない。
 納豆を喰うと掃き溜めの腐ったにおいがして、何とも云われずうれしい。殊に豆の本当のうま味がわかるような気がして、とてもこたえられぬ。
 ところが東京市政でつかう砂利や石炭や鉄カンを喰うと、文化のにおいがして素敵にうれしい。そのうえに自治制の本当のうま味がわかって、あした懲役に遣られることがわかっていても、やめる気にならぬものだそうである。
 目下の東京は、大仕かけの復旧から復興へと、全力を挙げねばならぬ時機に際会している。これから先、バラスや鉄管や石炭、木材、セメントなぞいう、自治制のうま味をタップリ含んだ「復旧」、又は「復興」と名づくる御馳走の材料がどれ位入るかわからない。
 東京の市会議員は多少に拘らずこれがたべたいにちがいはない。この際、市長に自治制のうま味を知っている市長が居れば、市会議員はかなり遠慮なくこれを頂戴することが出来るのである。
 話は前にもどって、永田市長が去ったあと、市長の事務管掌として堀切という若いお役人が来た。その人は、中村是公さんが市長にきまるとすぐに、市長事務管掌としての感想を新聞に発表した。その趣意をかいつまんで云うと、
「東京の市政はこのままにしておくとすっかり堕落し切ってしまう。第一、今のような市会議員を選挙した市民がわるい。第二には、市長の権利が薄くて、市の下っ端の役人と市会議員とが、勝手に話し合って仕事をするような事がある。これをすべて、市長の承認を経なければ出来ないようにしたならば、市政はもっとよくなるであろう」云々。
 これは手早く云えば市会議員の不正公表で、或る新聞は、
「東京市もたまには腰弁を雇って意見や指導を仰ぐ必要がある」
 と書いていた。
 記者は後藤、中村、永田、大道諸氏と私的に会った事が何ベンもあるので、その性格や何かもかなり知っている。これに反して堀切という人は全く知らない人であるが、この意見には賛成である。
 つまり、市会議員が市の政治を料理する台所の役人の処へ押しかけて行って、勝手につまみ喰いやお毒見をするのを禁ぜよ、と云うのである。
 東京市という一家の家令たる市長が知らぬ間に、台所で議員と吏員がうなずき合って、すき勝手に献立てを作って、ドシドシつまみ喰いをしたり、折に詰めて持って帰ったりする。東京市の真実の主人たる市民は、そのお流れを頂戴するために高い税金を払っているということになる。これが自治制という者ならば、世の中に自治制位阿呆らしいものはないことになるのである。
 この自治制のうま味を占めた市会議員連は、こうして「復旧」という御馳走や、「復興」という二の膳に満載してある御馳走がたべたくてたまらなくなった。
 いくらたべてもずんずん消化して尽きるところを知らぬ御馳走が、彼等の眼の前に山積している。真に千載一遇である。百年に一度位しか行き当らぬ宝の山にぶつかったのである。意地にも我慢にも辛棒が出来るものでない。そこで色々魂胆をしぼったあげく、始終台所に眼を光らしている前の市長を逐い出して、片っ方の眼のつぶれた豪傑を市長に、又は、部下の風紀取締になると公言して待合に入りびたる今業平《いまなりひら》を電気局長に引っぱり込んだ。
 しかしそうとも云えないから、いろんな市政|行《ゆき》なやみの芝居を持ちまわってゴマ化した。後藤の親分も馬鹿馬鹿しいと知りながら、予定の通りおことわりして、いい加減な宣言書を部下に作らして新聞に発表さした。
 それから市会議長の辞職、マアマアの止め役に到るまで、扨《さて》たくんだり、こしらえたりと申し上げねばならぬ。

     自治制の悪模範

 ここに於て記者は、高知の富豪のお坊ちゃんと生れた永田氏が、東京を去るに臨んで述べた「遺憾」という言葉に同情し、又一介の腰弁堀切氏の「意見」に共鳴せざるを得ない。何だか弱者の肩を持ちたがる江戸ッ子カブレしたようであるが、決してそうでない。何等の利害関係なしに見ていると、東京市の腐敗荒廃を救い得る唯一の道は、このお坊ちゃんと腰弁の言葉に含まれているのである。
 日本の首都東京の市政の腐敗堕落が、政界の一お坊ちゃん永田氏、又は一腰弁堀切氏の言葉で救われようと思うのは非常識かも知れぬ。しかし東京市政の裏面を語るには、二人の東京市に対する告別の辞に註釈を加えるのが一番早道である。二人の言葉を記者が読んでみると、どうしても東京に対する捨てぜりふ、も一つ進んで罵倒の言葉としか思えないのである。しかもこのお坊ちゃんと腰弁の東京に対する「遺憾」を裏書するものが、かくの如く夥《おびただ》しく、到る処の街頭に満ち満ちているのである。
 記者は、白日青天の下に此《かく》の如く無残に曝《さら》し出されている東京市政の破綻を見て、無限の感慨に打たれざるを得なかった。
 これは決してひとごと[#「ひとごと」に傍点]でない。日本中の市という市は悉く自治制である。その自治制の欠点(うま味[#「うま味」に傍点])を最も多量に持っているのが東京市なので、或る意味から見れば流石は日本の模範都市と云えるであろう。同時に日本全国の市政にあずかる人々は、この意味で東京を模範としようと努力していないとも限らぬであろう。研究に値することは無論である。
 先年、英京|倫敦《ロンドン》が大火事で焼き払われたあと、時の当局者は人類文化発展の将来を見越し、世界通商交通の前途に鑑み、将来の世界的都市として差支えないだけの市街にすべく、大英断を以て新たに都市計画を立て、今までの町割りに構わずにドシドシ理想的の図面を引きはじめた。
 これを見て驚いたのは倫敦《ロンドン》市中の富豪連であった。そんなことをされては、地面の価格やのれんのねうち[#「のれん」と「ねうち」に傍点]、その他あらゆる方面に困るというので大反対の運動を起した。これに英国人一流の保守気質が共鳴して、とうとうその計画者の首を切り、富豪連の御機嫌にさわらない、昔の不便なままの形をした都市計画を遂行する役人を押し立てて、とうとう今のロンドンを作り上げた。
 その不便な、不衛生な、貧民窟の増加し易い、犯罪の行われ易い、そうして保守的なブル階級にだけ都合よく、進取的なプロ階級にとって不愉快極まるロンドンが、如何に新しい英国の発達を妨げたことであろう。
 更にそこから湧き出した病毒、悪思想が、或は肉体から肉体へ、又は紙から紙へと伝わり拡がって、どれ位現在の英国を悩まし労《つか》れさしていることであろう。
 東京はちょうどそうなりつつある。
 復興院が握り潰され、復旧案が持ちあつかわれて、今ではその復旧すらも容易に行われそうにない。恰《あたか》も東京の裡面に何者かが潜んでいて、東京を出来るだけ永く復興させまい。いつ迄も暗黒状態に置いて、自治制を思い切り腐敗させたい。そうして最後にブル階級にのみ都合のいい復旧案を保留しておきたいと考えているかのように見える。
 或る種の市会議員が活躍するのはこの意味を含んでいるのである。永田前市長が、
「市区改正をやり遂げ得なかったのが残念だ」
 と云ったのはここの事である。
[#改頁]


   江戸ッ子衰亡の巻



     日本第一の無自覚

 何でも裡面の消息を素《す》っ破《ぱ》抜くと、大抵は皮肉か憎まれ口になる。「新東京の裏面」の一篇もまたこの例に洩れない。
 ところがその市政のアラを往来から数え立てて、その堕落腐敗の原因はどこにあるかと見まわして来ると、その罪は東京市民が負わねばならぬ。ことにその大部分の罪は、震災以前の東京市民、わけても吾が敬愛する「江戸ッ子」諸君が負わなければならぬことになるのである。
「江戸ッ子」というのは、つまり生《は》え抜きの東京人で、吾が大和《やまと》民族の性格の生《き》ッ粋《すい》を代表していると云われている。
 京都人が日本人の上品さと意気地なさを代表し、大阪人が日本人の利口さとキタナさを代表しているものならば、それ等をゼイロクと罵《ののし》り去って、玉川上水に尻《けつ》を使い、天下の城の鯱《しゃちほこ》を横眼に睨んだ江戸ッ子は、正に大和民族の男性的な性格を最も痛快に代表しているものと云えよう。その大和民族の精華たる江戸ッ子の故郷たる東京の市政が、どうしてこんなに腐敗して行くのか。
 音に名高いあの江戸ッ子の潔癖と義侠心は、こうした東京市政の腐敗堕落を見て何とも感じないのか。天下の旗本を焼豆腐になぞらえた、昔の意気はどこへ行ったか。それは昔の夢物語りで、今の江戸ッ子は切っても赤くなくなったのか。
 東京市政頽廃の裏面にはいろんな原因がかくれているであろうが、堀切前市長管掌はその原因を「選挙民の無自覚」に帰している。
 選挙民の「無自覚」ということは、吾が大和民族が天から授かった美徳で、別段珍らしい言葉ではない。吾国の村会、町会、市会、県会、国会等いう議員が、今日の如く竹篦《しっぺい》下がりに堕落して行く根本的の原因が、国民の政治的智識の欠乏、言葉を換えて云えば愛村、愛町、愛市、愛国心等が薄いのに原因していることは誰でも知っている。仮令《たとえ》普選になっても、美徳がある限り天下はいつまでも太平であろうとは誰でも感じていることで、この美徳を打破って憲政有終の美を満たすには、唯一つ「選挙民の自覚」あるのみというも亦《また》十人が十人自覚している。
 唯、それが実際に行われないまでのことである。
 これがわかっていて行われない事実が、東京では最も甚だしい。つまり東京人は、大和民族の実際上の無自覚性を、最も極端に発揮していることになるのである。
 羅馬《ローマ》を亡ぼしたのは羅馬《ローマ》市民の「無自覚」であった。同様に時代は違っても、仏蘭西《フランス》を亡ぼすものは仏蘭西《フランス》国民、わけて巴里《パリー》ッ子の「無自覚」である。英国の倫敦《ロンドン》ッ子に於ける関係も同様であるという議論を、記者は方々で聴いた。
 一国の首都の住民がその国の文化の粋を集めた生活に酔うと、その国民性の美点と弱点とを極度に代表した性格となる。これにあこがれた地方人は皆これを真似ることを名誉とするようになる。それはいいが、そのいいところはまねずに、まね[#「まね」に傍点]易い頽廃的なところばかりをまね[#「まね」に傍点]るために、国民一般が懦弱《だじゃく》となり、センチメンタルとなる。遂《つい》には美しく果敢《はか》ない滅亡の床に喘《あえ》ぐようになるのは、今も昔も同じことである。
 こうして「江戸ッ子衰亡」の事実は、やがて大和民族衰亡の警鐘を乱打していることになるのではあるまいか。
 否、これは疑問でない。明白な事実である。新東京の秋深きところ、十字街頭の見聞と所感が、自らここに落ちて来るのを拒否することが出来なかったのである。

     自己を嘲ける勿《なか》れ

 東京のバラック町をウジャウジャあるいている人間を、大別して二つにわける。古い江戸ッ子と新しい江戸ッ子と……。
 古い江戸ッ子というのは、講談や落語に出て来るアレであるが、新しい「江戸ッ子」というのはどんなのか。
 これはなかなか説明しにくいが、手早く云えば、「江戸ッ子」というよりも「現代東京人」と云った方がわかり易い。震災後各地から押寄せて……又は前から居残って、新しい東京の気分を作りつつある連中で、江戸前の風味なぞはあまりかえり見ない。乙《おつ》な洋食や支那料理、凝ったアイスクリームを求め、カフェー女の本名を探り、ヤゾーを作って大向うから怒鳴る代りに、亜米利加《アメリカ》ものや新派の甘い筋に手をたたき、歌沢の心意気よりも、マンドリンに合わせた「籠の鳥」のレコードを買う。もし一人か二人の社会主義者、某署の刑事、有名な芸術家や選手なぞと心安ければ、現代式東京人としては申し分のない資格が付く。況《いわ》んや女優と片言でも話をしたとなれば、新人として無上の尊敬を受けるであろう。
 こんな連中がバラック町を横行して、ムッとする位新しい東京気分を作りつつあるので、東京市はまるで生れかわって、古い江戸ッ子は絶滅したかとは思われる位である。
 とはいえ、古い「江戸ッ子」も居るには居る。ただ北海道のアイヌ人が、日本人に圧迫されて次第に衰滅して行くように、彼等も現在の新しい東京人に押されて、衰滅の一路を辿っていることは疑われぬ。殊にその衰滅の速度が、昨年の震災を一期として、著しく早くなったことは一層明白な事実である。
 記者は新しい東京人の裏面を研究する茲《ここ》に、順序として古い江戸ッ子の末路を弔《とむら》わねばならぬ。
 記者は所要で東京に行くうちに、かなり江戸ッ子や江戸通の知人が出来た。そのために直接間接に「江戸ッ子」なるものに対して興味を持つようになったのであるが、不思議な事に記者の知り合いの江戸ッ子や江戸通に限って、屡《しばしば》「江戸ッ子滅亡論」を口にするのであった。
 その議論の根拠をきいて見ると、
[#ここから項目の2行目以降2字下げ、本文とはアキナシ]
 ◇江戸ッ子は個人主義で、自惚《うぬぼ》れが強くて理解が一つもない。
 ◇洒落気《しゃれけ》ばかり強くて、物事に根気が無く、趣味が古くして、進取的気象に乏しい。
 ◇生活は頗《すこぶ》る平民的のようで、その精神は小さな貴族である。
 ◇天下を取る頭も力も無く、只その日その日の趣味的生活を貪って、誰が天下を取ろうが、政治をしようが平気の平左である。
 ◇江戸ッ子は亡国の民である。
[#ここで字下げ終わり]
 といったようなもので、極端なのになると……、
「江戸ッ子は講談や落語に出て来るほかには、現代のどこにも居ない人種である。居るとすれば、それは昔の江戸ッ子の風《ふう》付きや気分を真似る掴ませもので、そんな奴は亡びちまうが日本のためになる」
 というような極端なのもあった。
 記者はこうした「江戸ッ子衰亡論」を、しかも江戸ッ子自身から聴くとき、いつも一種の不愉快さを感じた。
「江戸ッ子自身が江戸ッ子を馬鹿なんて怪《け》しからんじゃないか。君等は地方の田舎者が、どれ位『江戸ッ子』を尊敬しているか知らないのか。ことに地方の青年少女たちは、死ぬ程東京を恋い焦れると同時に、一日も早く『江戸ッ子』になりたがっているんだよ。彼等は云わず語らずのうちにこう思っているんだよ……日本中の人間が、あの頼もしい、サッパリした『江戸ッ子』みたいになったら、どんなに嬉しかろう。日本はどんなに強い美しい国になるだろう。早く東京へ行って、文化的自覚の洗礼を受けて、『江戸ッ子』になって帰りたい。そうして田舎のシミッタレた無自覚さを片っ端から眼ざめさしてやりたい……と胸をドキドキさせているんだよ」

     新日本赤化主義

「だから田舎はだめだというんだ」
 と或る文士は云った。
「田舎は唯『江戸ッ子』という言葉の感じだけを崇拝しているんだ。ベランメー語の威勢に驚いてるんだから駄目だよ。江戸ッ子という言葉の強みや、頼もしい感じをそのまま体現した『江戸ッ子』は一人も居ないんだよ。
 それあ、江戸ッ子の垢《あか》の抜けた個人主義と神経過敏とは、どこの人間でも敵《かな》いっこないさ。それを田舎者は矢鱈《やたら》に崇拝するから困るんだ……。
 見たまえ!
 苟《いやしく》も江戸ッ子を以て自ら任ずる者で、二重橋にお辞儀をするものは一人もあるまい。馬鹿馬鹿しい……そんなのが忠義じゃないと思う位に彼等は頭がいいのだ。却《かえっ》て手を合わせている田舎者を腹の底で笑っているのだ。
 しかし見たまえ!
 日本民族が滅亡する時、最後まで踏み止まって闘うものは江戸ッ子じゃないよ。無論、主義者でもなければ、憲法学者でもない。二重橋前の玉石砂利にオデコを埋めて涙を流す赤ゲット連だよ。彼等の無知の底には、切っても切れぬ民族的自覚が流れているのだ。
 彼等は先祖代々、本能的に天朝様を拝み、太陽に手を合わせ、親孝行を知り、老人を尊敬し、子供を愛し、土をなつかしみ、倹約をして天然に安んずるのだ。しかも彼等は自分でもそれを知らない。その自然さと底強さが日本の文化を今日まで背負って来たのだ。この民族の文化的使命を人類世界に発揮する根本動力が彼等赤|毛布《ゲット》の群なのだ……。
 ほかの連中はイザとなると逃げ失せる亡国の民だよ。わけても江戸ッ子はそうなのだ。彼等みたいな田舎者を軽蔑するものが殖えればふえるほど、日本は滅亡に近づくのだ。それを救うためには、おれの所謂《いわゆる》労農尊重主義が必要になって来るのだ……。
 労農とかソビエットとかいうと当局はビクビクしているが、実はこんな土百姓や労働者を最も尊重した政治をすることだと思う。田舎を嫌って、東京の新知識にカブレて、ルパシカを着て、カフェーで威張っている連中のアタマは、いつの時代にもある文化カブレのなまけ者だよ。本当の労農尊重主義から見れば、実に唾棄すべきプロ型のブル思想なのだよ……。
 江戸ッ子は特に文化カブレの小ブルなのだ。田舎者は『江戸ッ子』を崇拝すべからず。東京は大和民族の大きな事務所、又は勉強所に過ぎないので、そのほかのものはみんな昔からある頽廃気分の変形したものなのだ。江戸ッ子や社会主義者はその中毒者だと云いたい。もとをいえば、そんな気分を作ったブルがわるいのだが、それかといって、そのブルが作った毒|瓦斯《ガス》に当てられた連中を尊敬するわけに行かないだろう……。
 レーニンは赤旗を尊重した。これに対して日本人は赤ゲットを尊敬してもらいたい。青白い江戸ッ子を尊敬してもらいたくない。そうして日本のブル思想と偽もののプロ思想を全滅さして、すべてを赤ゲット化してもらいたい。
 ……おれは江戸ッ子に生れた御蔭で、これだけのことがわかった。実は江戸ッ子の生れ損ないかも知れぬが……」
 と彼は淋しく笑った。記者もうなずいて一所《いっしょ》に笑った。
 彼も記者と同じようにペンを荷《かつ》いだ職人で、都会カブレをしなければ飯の喰えない人種である……赤ゲットを尊敬は出来るが、自身赤ゲットになることは容易な事業でない……寧ろ自分の生活の無意義を呪うあまり、こんな議論に落ちて来た事を互によく自覚していたからである。
 彼はこの新しい日本赤化主義について、まだいろんな事を云った。レーニンの執権政治だの、トルストイのブル思想だのと、記者が耳には初耳のことばかりであったが、要するに江戸ッ子の罵倒論でここには略する。唯、記者の「江戸ッ子衰亡」の観察が、田舎者たる記者の頭から出たものでなく、彼等江戸ッ子からヒントを得たものであることを証明するために、この一節を書き加えたのである。

     最高級の文明人

 ところでそれはいいとして、今度の上京の序《ついで》に、そんな「江戸ッ子衰亡論者」たちがどうしているか、震災後の所感でも聴いてやろうと思って心当りを探して見ると驚いた。山の手の潰れないところに居た連中まで、どこへ行ったか一人も居ない。無論、その後、手紙を出したが、彼等は申し合せたように返事を呉《く》れなかったので、手紙が帰って来ないのだけは生きているとしても、そのほかのは生死の見当さえ付かない。綺麗サッパリと消え失せていた。
 記者は呆れ返った。そうして苦笑した。彼等は矢っ張り江戸ッ子たるを免れなかったか。彼等が罵っていた消極的な個人主義をまぬがれることが出来なかったかと思って……。
 ところがその後、二科会へ行って絵を見ていたら、うしろからソッと肩に手を置いた奴がいる。ふりかえって見たら、美術学校を出た芝居の背景師の下廻りで、有力なる江戸ッ子衰亡論者の一人であった。彼はニヤリと笑って平気な顔で、
「いつ出て来たんだ」
 と云った。記者は開いた口が塞がらなかった。
 それからいろいろ聞いて見ると、みんな無事で、家賃の安い郊外へ引越しているという。久し振り話そうじゃないかと、手紙を出して場所と時日を約束して待っていると、平気な閑寂な顔が昔の通りに寄って来た。地震なんぞはとっくの昔に忘れたという風である。但《ただし》、手紙は見たと云うから、何故返事を呉れなかったのかと聞いて見ると、
「田舎者はオセッカイだなあ」
 とあべこべに笑われた。彼等が江戸ッ子の中の高踏派だとはこの時初めて知った。文明人種の中でも最高級に属するデカダン趣味を、記者はこの時初めて理解し得たのであった。
 こんなのは例外として、今度は往来を歩いている普通の知識階級の江戸ッ子を見まわしてみよう。そうして、彼等が本当に滅亡すべき人種かどうか研究してみよう。
 智識階級の江戸ッ子といっても、一概には云えない。中には変りものや、凝り性、気まぐれもの、又は一種のダダイズムとも見るべき変通人なぞが居るから、往来を歩いてもちょっと見わけにくい。支那や朝鮮の留学生を見わけるのよりも無論骨が折れる。
 殊に震災後は服装がまちまちになったので一層わかりにくくなったが、しかしすこし気を付けるとじきに眼につくようになった。江戸ッ子は飽くまでも江戸ッ子である。
 東京に初めて出て来て往来をあるく人を見て、真先に眼に付くのは田舎者とハイカラ、貧乏者と金持ちの対照である。
 これに反して、江戸ッ子は最も眼に付きにくい部類に属するのであるが、しかし彼等の大部分は気取り屋だから、自ら平凡な市民と区別が付く。しかもその気取りかたは、そこいらの気どり方とはまるでちがう。江戸ッ子特有の気取りかたで、これを解剖的に見てゆくと、現在の江戸ッ子のねうちが自然とわかることになる。
 第一は服装である。
 古いありふれたところでは、足袋《たび》と下駄《げた》が新しいとか、襟垢《えりあか》がついてないとかいうのであるが、前にも云ったようにこの頃の服装はいろいろになって来たから、それ位のことでは標準にならない。要するにちょっと眼に立たないで、よく見ると垢抜けがしている……というのが最も平たい言葉であろう。
 パッとした、気取った風采をしているのは、江戸ッ子ではない。
 最新流行仕立|卸《おろ》しのパリパリを着ているのも、どちらかといえば江戸ッ子でないのが多い。
 こう云って来ると馬鹿に六ケ《むずか》しいが、とにかくどんな姿をしていても、アクドイ嫌味なところがなく、女の髪の結い振り、化粧ぶり、襟や着物の取り合わせ、男なら帽子とオーバー、持っている風呂敷の柄やネクタイなぞ、色や柄がちっとも眼に立たずにチャンと気取っていて、しかもどことなく気位を持っている。すべての点に於て、田舎者や無教育なもの、又は無趣味なものと思われまい、そこいらの野暮天と一所に見られまいという注意が、極めてこまかく払ってある。

     亡国的の消極主義

 次は彼等の態度である。
 東京のことなら俺に聞けというような態度をしているものは、彼等の仲間には決して居ない。
 男と女とあまい風《ふう》付きで並んで行くもの、電車の中でツンとしているもの、大声でシャベルもの、矢鱈に他人に親切なもの、ドッシリと落ち付いているもの――こんなのは江戸ッ子の智識階級には少い。
 如何にも街なれた歩きかたでありながら、つつましやかで、人の眼に付かないようにスラスラと影のようにあるく。口を利いても極めて低声で、要点だけ云ったあとは、又さり気なく澄ましている。電車の中でも空いた席を見まわすようなことはないが、見付けるのは極めて素早い……といって、慌ててそこへ尻を持って行くのではない。あたりに気を配って、紳士淑女として恥かしくない場合にソッと座る……といったようなのがそうである。
 こうした彼等の風《ふう》付きや態度を一貫しているものを一言にして尽せば、消極的文化式個人主義(少々ややこしいが)である。彼等は先祖代々の都会生活と、自分自身の教育の御蔭でここまで自己を洗練したのである。彼等は極めて消極的な態度で自分の気位を守ると同時に、無言の裡に他のハイカラや蛮《ばん》カラ、又は半可通連を冷笑しているのである。
 彼等は買物をするにも、ほかの非江戸ッ子のようにキョロキョロ往来を見まわしたり何かしない。きまりきった店のほかは滅多に行かないので、彼等がデパートメントストアを田舎者の店と云うのはこの理由である。書物のようなものでも、古本をあさるほかは、知った店に行ってさっさと買って、そこいらの雑誌を二三冊見まわした位ですぐに引き上げて来る。縁日なぞにもよく行くが、只行き抜けて引きかえして来る位のことで、あちこち覗《のぞ》いて見るようなことは先ずない。寧ろそんな連中を見遣りながら、冷やかに笑って帰る位のところである。
 喰い物でもそうで、彼等が這入《はい》っている処は、どちらかと云えば顔の通った、価格の知れた、比較的上等の処が多い。彼等は月に一度か二度こんな処へまわって、友人と一杯傾けたりするほか、無駄な銭を使わないが常である。これは記者がそんな通人の行く処へ行って、妙に叮嚀《ていねい》な冷たい待遇をされた経験から知ることが出来た。
 このような実例を見ると、彼等が如何に消極的の面倒臭がりであるか。同時にその消極的のプライドがいかに高いか。プロ型のブル気分、平民式の貴族気質の持ち主であることもよく察しられるのである。
 こうした彼等の持前は、彼等の家を訪問して見ると一層よくわかる。
 彼等の家は台所の隅までチンマリと小奇麗である。彼等の応対振りもそうで、御馳走ぶりもこの範囲を免れない。一しきりはお世辞を云うがじきに黙ってしまう。よほど気を詰めて、当り当りだけ挨拶をしてサラリと引き上げなければ、こちらはともかくも、彼等の神経がお客に対してそう長く持ちこたえられないらしい。
 そんなら彼等は忙しいかというとそうではない。お客を追っ払った後は、水入らずでボンヤリしている。極く懇意な友達と寝ころんで話す。寄席に行く。講談や夕刊を読む。世間話をする。茶を飲んで寝るといったような風で、その趣味までも極めて消極的な文化式である。
 彼等はだから現代の文化に何者をも与えない。彼等は只批評をするばかりで、共鳴も反対もしない。只冷やかに笑って見ていたいのである。新聞の三面記事を見ても、つまりは「馬鹿だなあ」とか、「つまらねえ」とか云って、自分のプライドを満足させるだけであとは忘れてしまう。
 こうした消極的な文明的な「個人主義」が、江戸ッ子の智識階級をすっかり冷固《ひえかた》まらしているから、東京の市政が如何に腐敗していても、彼等には何等の刺戟を与えない。彼等の前にそうした記事を満載した新聞をさしつけても、彼等は只一渡り見まわして気の利いた批評をする位のことで、あとは顧みない。あくる日は、又何か別の面白い記事はないかと探している。
 だから選挙なぞは、彼等にとってうるさいものでこそあれ、責任感はすこしも受けない。天下の事に憤慨するよりも、一鉢の朝顔に水を遣る真実味を愛するといった風で、驢背《ろはい》の安きに如《し》かずという亡国の賢人に似たところがある。

     熊公八公の消息

 江戸ッ子の智識階級は亡びてはいない。しかし只《ただ》一人一人に生きているというだけで、世間とか、他人とかいうものとは深く関係する事を好まない。
 彼等の性格は、墓石のように、向う三軒両隣がお互に無関係でいたいのだ。彼等の魂は、燐火のように、お互に触れ合わずに、只自分自身だけ照して行きたいのだ。
 こうして彼等は彼等自身を葬ってしまっている。極端にデリケートな自覚のために、無自覚と同じ姿になってしまっている。それを最も利口な文明的生活だと思っている。彼等の霊魂は、こうして青白く、つめたく、浅い光りを放ちつつ、東京市中をさまようているのである。そうして田舎者を魘《おび》えさしているのである。
 流石の大地震も大火事も、彼等の自覚的無自覚を呼びさます事が出来なかったらしい。彼等は永久に彼等の墓原……都大路をさまようのであろう。
 しかし彼等智識階級ばかりが江戸ッ子ではない。まだほかにいろんなのが控えている。
 まっ先に飛出して来るのは熊公八公の一派で、記者が最も敬愛する連中である。記者みたいな田舎者を見ると、
「てめえ達あ、しるめえが……」
 と来るから無性に嬉しくなる。
 屋台店なぞをのぞくと、
「おめい、どこだい。フン九州か……感心に喰い方を知っているな。どうだい、一《ひと》ツ、コハダの上等の処を握ってやろうか。何も話の種だ。喰ってきねえ、ハハハ」
 という大道|傍《ばた》の親切が身に沁みて忘れられぬ。
 智識階級の連中はどうでもいいとしても、そんな連中は震災後どうしたか。いくらか昔の俤《おもかげ》を回復したか知らんと、見に行って見た。
 智識階級は主として山の手や郊外に居るが、彼等は大抵下町に居る。先ず神田辺から相生町、深川の木場、日本橋の裏通り、京橋の八丁堀、木挽《こびき》町、新富町あたりの彼等の昔の巣窟を探検して見ると、どうしたことか彼等の巣窟らしい気分がちっともない。
 ひる間ならオッカーのスタイルや、井戸端ではない共用栓の会議ぶり、朝夕なら道六神や兄いの出這入り姿、子供の遊びぶりを見ると、すぐに江戸ッ子町なると感づかれるのである。さもなくとも理髪店のビラの種類、八百屋や駄菓子屋の店の品物、子供相手の飴細工《あめざいく》や※[#「※」は「米+參」、47-5]粉細工《しんこざいく》の注文振りを見ても、ここいらに江戸ッ子が居るなと思わせられるものである。それが震災後のバラック町になってから、そんな気はいがちっとも見当らなくなった。
 神田の青物市場付近なぞは随分神経をとんがらして見たが、成る程、江戸ッ子らしい兄いや親方が大分居るには居るけれども、よく見ると、彼等のプライドたる鉢巻きのしぶりや売り買いの言葉なぞに、昔のような剃刀《かみそり》で切ったような気が見えぬ。その他、朝湯に行くらしい男のスタイルを見ると、頭の恰好、着物の着こなし、言葉付き、黒もじのくわえぶりに到るまで、非常に平凡化しているのは事実である。
 記者は少々落胆の気味で、今度築地に出来た魚市場に行って見ると、居た居た、鬚《ひげ》を皮の下まですり込んで、肉に喰い込むような腹かけ股引きに、洗い立ての白鉄火を着た兄い連が、新しい手拭《てぬぐい》を今にも落ちそうに頭のテッペンに捲き付けて、駈けまわっていた。
「アラヨーッ」
 トットットットッと曳き出す掛け声をきいて、記者は久し振りで溜飲が下がったような気がした。

     吝《しみ》ったれた兄哥《あにい》

 魚市場のすぐうしろにある、無線電信のポールを秋空高く仰いだ向う岸の築地三丁目以南、起生橋を中心としてベタ一面に並んだ店は、いかさま彼ら兄い連の御蔭で繁昌しているものと見えた。
 つい一年前までは、この辺は墓原や成金壁なぞで埋められていて、夏なぞはせんだんの樹の蝉時雨《せみしぐれ》の風情があるという、かなり淋しいところであった。それが魚市場が出来て、純粋の江戸ッ子が集まって来るにつれて、急にこんなに賑やかになったのだから、ここの店をのぞいて見たら、彼等の趣味や嗜好が手っ取り早くわかるかも知れぬと考えた。
 然るに情ない事に、記者は正しく熊襲《くまそ》の末裔と見えて、江戸ッ子の風《ふう》付きは一眼でわかるが、彼等の喰い物に対する趣味がどれ位高いかは、まだ充分に味わい出したことがない。喰うのは一渡り通《つう》なものを大抵喰って見たが、物の本や通の話にあるような風味はなかなかわからぬ。只そうかなと思うばかりである。もっともそんな喰い物の材料の上等なこと。店がキタナイようで、実に非常に気が利いていること。その中に一種の江戸趣味といったような気分が流れていることなぞはどうやらわかる。それから、眼の玉の飛び出る程高価なことが、最もよくわかったくらいのことである。
 これ位の程度の江戸通をたよりに、記者はその辺の往来をノソノソあるいて見た。
 寿司を握っている手付きや、海苔《のり》をあぶるにおい、七厘《しちりん》の炭のよしあし、火加減、又はまぐろの切り加減なぞをよっく見た。
 天プラ屋の煮え立つ油のにおいを嗅いだり、ころもの色をながめたりした。
 煮売屋に据えてある酒樽の商標や、下げてあるビラの種類を見た。洋紅《ようこう》で真赤に染めてあるウデ蛸《だこ》の顔をながめた。
 どれを見ても江戸ッ子のにおいが薄いようであった。上等とは思えなかった。醤油もいいにおいや味がしなかったようである。
 塩せんべいは大枚十銭がものを買って噛《か》じって見たが、焼き加減にムラのあるのがよくわかった。
 ソバ屋へ這入って見たが、ツユの味なぞは福岡あたりのよりおいしいと思った。薬味のネギの中に古葉と新葉とあるのが、百姓だけにすぐ気が付いた。モリやカケはあまり売れず、弁当代りと見えておかめなんぞよく売れると聴いた。天麩羅《てんぷら》もよく喰われるそうであるが、そんな意味なり随分あじけない話だと思った。
 それから大奮発をして、この辺で一番上等だという小さなうなぎ屋に這入って、丼《どんぶり》を喰いながら店の若い衆に聴いて見たら、大串、中串、小串のどれでも、別に八釜《やかま》しい注文はあまりない。「アライところで一本」なぞいう御定連《ごじょうれん》は無いと云った方が早いくらい。しかも鰻《うなぎ》は千葉から来るのだと、団扇《うちわ》片手の若い衆が妙な顔をして答えた。
「本牧《ほんもく》から洲崎あたりのピンピンしたのは来ないのかい」と通らしい顔をして聴いたら、若い衆は「エエ」とニヤニヤ笑いながら返事をしなかった。念のため、「お客はみんな河岸のだろうね」と聴いたら、「ええ、だけどこの節は駄目ですよ。不景気でね。おまけに震災後手が足りないってんで、方々から来た人間を使っているんでね」と苦笑していた。記者は折角喰った丼が胸につかえるような気がするのを、流石にこれだけは昔のままの、濃い熱い「お煮花《にえばな》」で流し込んでここを出た。
 江戸ッ子の喰い物は田舎者の口や眼にもわかる位安っぽくなっている――「熊公八公の滅亡」という感じが直覚的に頭に浮かんだのはこの時であった。

     どこからか拳骨が

 しかし……と記者は又考え直した。
 こんな上っ面の見方ばかりでは駄目である。「わかりもしない癖に」と笑われそうな気がする。そこで今度は本願寺の横を河岸へかけて、この辺一帯に並んでいる小間物屋、仕立て屋、そのほかいろんな店を一々のぞいて見た。
 今度はよくわかった。喰い物の方は別としても、雑貨や何かの方は手に取って見ればわかる。否、手に取って見なくても、一わたりズラリと見ただけで、安っぽい店かどうかすぐにわかる。
 ……記者は江戸ッ子の衰亡を眼《ま》のあたり見せ付けられたような気がした。彼等はこんな見かけだおしの安物で満足しているのかと思うと、つくづく情けなくなった。十円の雪駄《せった》を素足で踏み、帷子《かたびら》に背当て尻当てをするのを恥辱とした、彼等の気前はどこにあるであろう。魚河岸ではしゃいでいる連中は、みんな見かけだけの江戸ッ子で、中味は「ヒマシ」になってしまったのか。そういえば、彼等のかけ声には昔のような中ッ腹式の威勢がなく、彼等の眼の光りも昔のようにキラリと光らないように見える。しかも何がしのパリパリでさえこうだから、他は推して知るべしだと思った。
 しかし……と又もや記者は考え直した。記者の観察にはまだ不充分なところが沢山にある。
 第一、記者がお見舞いした前記の喰い物店は、上等のところのつもりで、実はなっていない処ばかりだったかも知れぬ。又、魚河岸付近の店は、本物の江戸ッ子相手ではなく、江戸ッ子の中に立ち交った新分子ばかりを相手にしているのかも知れぬ。
 さもなくとも、記者が江戸ッ子を主眼として見てまわったのは、僅かの時日である。勿論、始終気をつけるにはつけていたが、本気に見てまわったのは二日か三日で、かなりの大急行である。震災後の江戸ッ子の真面目な活躍ぶり、もしくは生活ぶりを見聞できる時間をはずしてばかりあるいたかも知れぬ。
 これで江戸ッ子の滅亡をたしかめようというのはちっと気が早過ぎる。うっかりするとどこからか拳固が飛んで来るかも知れぬ。
 まだある。
 記者が見てまわったのは、震災前江戸ッ子の住んでいたところばかり。そのほかのところは調べてない。つまり今まで目標として研究したのは純プロ階級の江戸ッ子……熊公、与太郎、ガラッパチの旧跡で、ブル階級のそれではない。
 ブル階級の江戸ッ子……すなわち御隠居や若旦那の一人二人、鳶《とび》の頭《かしら》位はいつでも飼っておくからという連中は、もうとっくの昔に東京目抜の通りに帰って来て、古いのれんの蔭から盛に芽を吹いている。そうした大《おお》どこの旦那衆や親方たちの御蔭で東京に帰って来て、新しい、又は昔の商売をやっている江戸ッ子は随分居る筈である。
 まだある。
 昨年の震火災のあと、プロ階級の江戸ッ子はチリヂリバラバラになった。故郷の親戚に便《たよ》って逃げて行ったのもあれば、市から建てたバラックに逃げ込んだのもある。又は郊外に避難小舎を建てて、そのまま居据《いすわ》ったのもあるであろう。そんなのが、どれ位東京に引っ返して来て、どんな風に散らばって、どんな生活をしているかはまだ調べられていない。しかもその数はちっとやそっとではあるまいと思われる。
 それから今一つ、立ちん坊級の江戸ッ子というのがある。
 これは、プロに今一つ輪をかけたプロで、或る意味から云えば江戸ッ子以上の江戸ッ子とも云える。
 彼等のむれ[#「むれ」に傍点]は諸国から集まった労働者、又は江戸ッ子の成り下がりなぞから成り立っていて、金が無いのは勿論の事、知恵も才覚も気力も無い。うっかりすると名前までも忘れてしまって、只生れ故郷の国の名を呼ばれているといったような、理想的のプロが多い。
 もっとも、その収入はどうかすると日に二三円にもなるのがあるが、それは大抵飲んだり喰ったりして、上機嫌で寝るという風である。
 但し彼等の言葉だけはたしかに江戸弁で、しかもそれが又恐ろしく早い。俗に江戸ッ子の早口と云うが、立ちん坊の江戸弁と来ると、早口は通り越してアクセントばかりである。言葉の頭と尻、又は途中だけをツンケンと並べるのだから、余程慣れないとわからない。といって、正真正銘の江戸弁には相違ないから、彼等も江戸ッ子に相違ない。
 彼等は江戸ッ子のブル階級と同様に、震火災の打撃を徹底的に感じないだけの資格を持っているのだから、焼け死んでいない限り、東京に帰って来ているに違いない。そんなのは今どこに居るか。

     納豆の買いぶり

 こう考えて来ると、江戸ッ子の現状調査は非常な大事業になって来る。自転車に乗って、江戸八百八街を残りなく駈めぐるだけでも大変である。
 市政調査の結果はまだわからないし、わかっても、特に江戸ッ子だけ調べてはないだろうし、調べてあるにしても、昔から東京に居る人間を江戸ッ子と見てある位のものなら何にもならぬ。それよりも、人間のあたま[#「あたま」に傍点]に直接感じた事実の方が、よっぽどたしかであることは云うまでもない。
 何とかして東京市内に居る江戸ッ子の行衛《ゆくえ》を探る方法はないかと考えた末、納豆売りの巣窟を探しまわって売り子の話を聴いて見た。
 江戸ッ子の住家であるかないかは、ナットーの買いぶりや、喰いぶりを見るが一番よくわかるということを予《かね》てから聴いていたが、彼等売り子の話を聞くと、成る程とうなずかせられる。
 時間で云えば朝五時から八時まで、夕方は六時から九時頃まで納豆を喰う人種のうちに、江戸ッ子が含まれていることは云うまでもない。それから、買う時に苞《つと》をのぞいて、一目でよしあしを見わけるのは大抵江戸ッ子である。
「オウ、納豆屋ア」
 という短い調子や、
「ちょいと納豆屋さん」
 という鼻がかったアクセントを聞くと、いよいよ間違いはない。お神《かみ》が買い渋るのを、怒鳴り付けて買わせるのも大抵は江戸ッ子である。それから、買うとすぐに器用な手付きで苞から皿へ出して、カラシをまぜて、熱い御飯にのっけて、チャッチャッチャッと素早く掻きまわして、鼻の上に皺《しわ》を寄せながらガサガサと掻っ込んで、汗を拭う風《ふう》付きは、何といっても江戸ッ子以外に見られぬ。
「駄目じゃねえか、こんな納豆を持って来やがって。仕方がねえ、一つおいてきネエ。明日《あした》っから、もっといいのを持って来ねえと、承知しねえぞ」
 など云うのも江戸ッ子に限っている。
 こうして調べて見ると、江戸ッ子の居るところはあらかたわかる。
 先ず下町は山の手よりも多いのは無論であるが、山の手でも早稲田から青山、四谷、大久保方面にはかなり居る。下町では、初めに書いた昔の江戸ッ子町のほかに、大森から蒲田《かまた》へかけてはかなり居るらしく、小梅あたりには純江戸ッ子らしいのが居る。北の方、千住《せんじゅ》、亀戸、深川、それから芝の金杉方面にも居るには居るが、これは江戸ッ子としては少し品《しな》が落ちる。北の方から深川方面のは寧ろ貧民に近い方で、芝の金杉方面のは貧民ではないが、イナセな気分が些《すく》ない。尚、山の手で純江戸ッ子らしい気前を見せるのは青山方面だけで、そのほかのは矢張り貧民に近いか、又は多少シミッタレているとのことである。
 しかし、何といっても江戸ッ子が一番よけいに逃げ込んでいるのは、東京市内の各所にある市営の避難民バラックである。しかもここには江戸ッ子のあらゆる階級を網羅しているので、こちらには立ちん坊、そっちには俥《くるま》屋、隣りには呉服屋の旦那、向家《むかい》には請負師といった風である。非道《ひど》いのになると、新橋の芸者を落籍《ひか》して納まっている親分や、共同水栓で茶の湯を立てている後家さんも御座るといった調子で、これが大多数の熊公八公や諸国人種と入れまじって、天晴れ乞食長屋を作り、お上の立ち退き命令を鼻であしらっているわけである。
 ちょっと見ると、どれがどうやらわからぬし、納豆を売って見ても、その買いぶりに各所共通の避難民式というのが出来ていてわかりにくいが、流石に育ちは争われぬもので、よく気をつけて見ると、どことなく買いぶりが違う上に、言葉が第一争われぬそうである。
 記者が在京中のぞいて見たのは、日比谷と上野と芝公園のバラックだけであったが、こんな話を聴いたあとで見に行っただけに、バラックに居る江戸ッ子が想像以上に多いように思えた。

     かお[#「かお」に傍点]が焼け失せた

 以上述べたところで、震災一年後の江戸ッ子の消息はあらかたわかった。勿論極めてあらかたではあるが、彼等の東京市に対する価値や権威を考えて見るには、これで充分である。
 江戸ッ子衰亡の事実をたしかめるには沢山である。
 震災後、東京では救護事業が一渡り落ち付いて来ると、間もなく労働紹介や身上相談と共に、市内各地に巡回の調停裁判所を設けて、借家人と家主や地主の喧嘩をさばいてまわった。
 家主や地主は、これを機会に焼けあとに新しい家を建てて、高い家賃を貪ろうとする。そこへ前《まえ》居た店子が帰って来て、バラックを建てようとする。権利だ義務だと押合っている奴を、当局では片ッ端から裁判して、出来る限りブル階級の家主、地主をたたきつけ、プロ階級の店子や借地人の肩を持って、一日も早く昔の住民を落ち付かせて、家を建てさせ商売を始めさせようとした。これは明らかに当局の民衆化で、賞讃に価する所置であったが、一方に於いてこの方法が極端な江戸ッ子保護となったことは云うまでもない。
 然るに事実はどうかというと、この江戸ッ子保護の御蔭を蒙《こうむ》ったものは、或る一部のプロ階級の江戸ッ子で、大多数のプロ階級……即ち生っ粋の江戸ッ子はもとの処に帰っていない。東京郊外の空地の多いところのバラックに落ち付いたり、山の手の貧民窟にもぐり込んだり、又は深川、本所、千住あたりの乞食長屋に入りまじったりしている。そうしてそのほかの大部分は、市内各所のバラックに納まっていることがわかる。
 このほか東京近所の各府県、又は遠国に逃げ去ったままのものもあろうが、要するに彼等にはもとの処に帰って来る力の無いものが多いらしい。
 これは彼等が宵越しの銭を使うものを軽蔑したむくいもあろうが、一方には昨年の変災で受けた精神的打撃もあるに違いない。これを要するに、彼等の無気力さ加減はこの一事を見ても充分である。
 一方に、彼等が馬鹿にし切っていた田舎っペイは、この一年の間に潮の如く東京市を眼がけて押寄せて来た。実に素晴らしい勢であった。
 彼等は生え抜きの江戸ッ子のように贅沢でなかった。その趣味は浅草程度で充分であった。彼等は古い江戸ッ子がバラック趣味を軽蔑し、オツな喰い物、意気な音締《ねじ》め、粋な風俗の絶滅を悲しんで、イヤになって引っ込んでいる間に、ドンドン彼等の趣味を東京市中に横溢させている。彼等の御機嫌を取るべく、東京市中到るところに流れ出て来た浅草趣味、又は亜米利加《アメリカ》風――安ッポイ、甘ったるい、毒々しいものに満足して、ドンドン東京の繁栄を作るべく働き始めた。
 彼等の耳には、江戸ッ子ということが、最早《もはや》古い時代の人間としか響かなくなっている。江戸趣味というものは、骨董的の価値しかないもののように考えられている。彼等はもうすっかり江戸ッ子を葬り去っているかのように見える。
 これに対して江戸ッ子は何等の反抗を企てようとしない。否、反抗力も何もなくなって、只《ただ》納豆売りの声や、支那ソバのチャルメラの声に昔の夢を思い出して満足しているように見える。
 しかしこれには又無理からぬわけがある。
 彼等江戸ッ子が如何に痩せ我慢で高く止まっていても、彼《か》の昨年の大変災に出会っては、かいもく[#「かいもく」に傍点]意気地がなくなったは止むを得ないところであろう。彼等はほかの非江戸ッ子……上は成金から下は乞食まで、あらゆる種類階級の人々と共に、一様に阿鼻叫喚の巷《ちまた》にさまようた。御同様に抱き合い、わめき合って、助かったり、死んだりした。
 死んだのはいいとして、助かったものはほかの非江戸ッ子以上に困ることになった。……というのは彼等の「かお」が利かなくなった事である。利くにも利かぬにも、町は茫々たる焼け野原となり、どっちを見ても見ず知らずの赤の他人となって、泣いてもわめいても追っ付かなくなったことである。

     宵越しの銭溜め

 東京に住んだ人は知っているであろう。壁一重向うは赤の他人である。引っ越しソバを配るだけの義理が済めば、あとはどこの馬の骨か牛の糞かといった風である。うっかりすると、借りたおして引っ越しされるような心配があるかと思うと、隣の喧嘩を二階から見ている冷やかな面白さもある。これを極端に云うと、「人を見たら泥棒」式で、すべてのつき合いが何となく現金式である。そこが又東京の住まいよいところで、同時に住みにくいところともなっている。これは東京が江戸の昔から諸国人の集まりであるのに原因していること云う迄もない。
 然るにその中でも純江戸ッ子だけは、「顔」という人類最高のパスを持っている。このパスの利くところは町内や市場、又は出入りの旦那やおやしきは勿論のこと、大きいのになると随分遠方の隅々まで利く。しかもこのパスは金ばかりでなく、いろんな意味にもパスとして使える。「何とかの何とかを知らねえか」と大きな眼を剥《む》くのは、このパスを見せているので、「宵越しの金は使わぬ」という気前も、このパスがあるから安心して見せられたものである。
 こうしたパスが利くようになった原因は、彼等が「町内」という故郷を持っているからで、その又ずっと遡った由来を尋ねると、旧幕時代の自身番や家主制度を育てた習慣ではあるまいかと思われる。
 とにかく大多数の江戸人が見ず知らずの赤の他人である中に、彼等ばかりは故郷たる町内を持っていた。その町はいくつかの大集団をなして下町を蔽うていたので、すくなくとも彼等の町内には「かお」が通っていたのである。
 それから今一つ。
 彼等兄い連の商売の二大中心は、何といっても神田と日本橋の両市場であるが、宵越しの銭を持たぬ彼等は、仕入れをするのにいつも「カリ」で押し通すほかはなかった。
 尤《もっと》もこの式の習慣は日本全国にあるのであるが、彼等の「カリ」はタチがタチだけによっぽどヒドかったらしく、しかもそれが又彼等のプライドと結び付いて、篦棒《べらぼう》に利くパスが出来上ったわけである。借用証文、小切手としては無論のこと、喧嘩でも仲裁でもこのパスで押通したもので、彼等の「刺青《ほりもの》」がこの「顔パス」の利き眼を一層高める意味を持っていたことは明らかである。
 もっともこのパスは彼等の器量に応じて通用の範囲も大小があるが、いずれにしてもこのパスが利く限り、彼等はどこへ行っても肩で風を切って歩けた。言葉を換えて云えば、この「かお」というパスが、彼等の精神的、又は物質的の生活の安定をドン底まで保証していた。維新後も同様にして今日に及んだので、昔ほどのことはなくとも、この習慣が残っていたには間違いない。
 そのパスがアッという間に灰になってしまった。パスが焼けたのではない。パスの利くところが無くなってしまった。タンカを切っても、眼玉を剥いても、だれも相手にしなくなった。
 こうなると彼等はスッカリ意気地がなくなってしまう。彼等は、今まで軽蔑し切っていた宵越しの銭をためる連中と一所《いっしょ》に、往来に並んでお救《すく》い米《まい》を貰わなければならなかった。焼けたトタンを以って乞食小屋を作らなければならなかった。そうして何でもかんでも喰うために働かなければならなかった。引き続いて地震がガラガラと来るたんびに、彼等はとりあえず宵越しの喰い物を準備しなければならなかった。
 彼等の気概やプライドは、こうしてすっかりタタキつぶされてしまった。彼等がこのパスを誇りとしていただけ、それだけ屁古垂《へこた》れ方もヒドかった。彼等はとうとうまずいものを喰って、安ッポい身のまわりで我慢する気になってしまった。パスの代りに宵越しの銭をためねばならなくなった。
 但、これは当分の間だけで、彼等は遠からず、昔の景気に帰るのかも知れぬ。彼等の居どころがあらかたきまって、「かお」のパスが利くようになれば、昔のようにタンカを切り、肩で風を切るようになるので、結局、江戸ッ子復興の途中にあるのかも知れぬ。
 それを記者は、江戸ッ子が衰滅して行く途中と見ているのかも知れぬ。

     亡国的避難民根性

 たとい、これを彼等「江戸ッ子」が息を吹き返しつつある一時の現象と見ても、最早《もはや》非常な立ち後《おく》れになっていることはたしかである。彼等が今から如何に猛烈な馬力をかけても、この滔々《とうとう》としてみなぎり渡る新しい東京人の勢力には到底|敵《かな》うまい。
 過去何百年の太平に依って洗練された、極めてデリケートな彼等の趣味と生活とは、もう見る見る中《うち》に、新しい荒っぽい新東京人の生活と趣味に圧倒されてしまいつつある。
 彼等の大好きな芝居や、浪花節《なにわぶし》や、寄席がだんだん這入らなくなって来る。江戸趣味の喰い物店、又は渋い趣味のものを売るいろいろの店なぞが、次第に、ケバケバしい硝子《ガラス》瓶を並べた酒場《バー》やカフェー、毒々しい彩りを並べたショーウインドに追いまくられて行く。気の利いた凝った趣のあるビラ、昔風のなつかし味のある簡素な看板なぞは、活動や、缶詰や、最新流行洋式雑貨なぞのデコデコのポスターに蔽い隠されて行く。同じ絵葉書屋の店でも、芸妓や役者の写真は何となく光らなくなって、汚い歯をむき出した活動男優や、化け物みたいな女優のソレが日に増し幅を利かして来る。
 こうした現象は、新東京の街をあるく人の眼にイヤでも這入るところで、彼等の勢力が次第に弱って行く気持ちを、云わず語らずのうちにあらわしているのではあるまいか。
 いずれにせよ彼等江戸ッ子は、こうして精神的、物質的に無力になりかけていると見ねばならぬ。殊に避難バラックの住民の多数を占めている「江戸ッ子」が最近に見せている気分は、この気味合いを最も明らかに見せているので、一言で云えば、唯呆れ返るほかはないのである。
 彼等は避難民バラックに居て、芸者を落籍《ひか》せて、茶の湯をやり、毎朝ヒゲを剃り、上酒を飲み、新しいにおいのするメクの股引を穿《は》いて出かけるだけの生活の余裕を持っている。これはその筋のしらべであるが、彼等の中では百五十円以上の金を取るものがザラにあるそうである。
 ところが、一度当局の立ち退き命令にぶつかると、彼等の態度は俄《にわか》にちぢこまってしまう。
「おまえたちはみんな相当の収入があるではないか。もう立ち退けぬことはあるまい。今は不景気で家賃も高価《たか》くないから、そんなに困ることはあるまい。東京市民の税金で東京市民のために作った公園だから、そういつまでも、みっともない家で塞いでいるわけに行かぬ。東京の恥、日本の恥だ。無理なことをせぬように何ヶ月前からちゃんと予告してあるのだ。この際是非立ち退いてくれ」
 と、噛んで含めるように腰弁から説明を受けながら、チュウとも云い得ず首をちぢめている。そうして立ち退くかと思うと、矢っ張りグズグズして、屋根の破れに莚《むしろ》をのっけたり、壁の穴に紙を貼ったりしている。
 とうとう当局で業を煮やして、強制的に立ち退かせようとすると、
「われわれはほかに行く力が無い。われわれの生活を奪うのは残酷ではありませんか」
 と社会主義の腐ったような理窟を、憐《あわれ》っぽい声で並べて動かないので、始末におえない。
「それは一種の復興気分かも知れぬが、あまり情ないではないか。ほかの市民がちゃんと家賃を払って生活しているのに、お前たちだけ出来ないということはない。飽くまでもお情にすがって、只の家賃にしがみ付いて暮そうという、なまけた乞食のような心を取り去って、この際是非一つ奮発して立ち退いてくれないか」
 と市では今一度念を押したが、それでも返事をしない。

     強制的屋根メクリ

 彼等避難民は、こうして巧妙に裏からと表からと皮肉られ、恥《はずか》しめられながら、大きな声で不平も云い得ぬ。それかといって、避難バラック大会を開いて、輿論《よろん》に訴えるという図々しさもない。……というのは、彼等自身がお互に、恥も体裁もかまわない、市民のために大切な公園を汚すと云われても公共的精神が無いと云われても聴かぬふりをしていよう、出来るだけ無家賃の処にヘバリ付いていようという、サモシイ心根を認め合っているからで、大びらに発表するような理由は無論ない。又|仮令《たとえ》発表しても、世間の同情がとっくの昔に彼等を離れている。彼等が、身から出た錆《さび》とはいいながら、一種の侮蔑的の眼で見られていることはよく知っているからである。
 彼等のうちの或るものは止むを得ずドウゾヤどうぞと日延べを願った。そうしてその日限りが来てもグズグズベッタリをきめ込んだ。催促されると、済みません済みませんと云っては、又日延べをする。
「そんな事じゃ埒《らち》があかぬ。お前たちがそんな腹なら、こちらも強制的態度を執《と》るぞ」
 と云われても、返事が出来ないで、
「相談をして来ましょう」
 と引き退った。
「しかし覚悟がきまらない以上、相談する事はない筈」と冷笑されながら……。
 こんな風で、彼等はほかの市民が揚々と大手をふってあるく中に、意気地もなく取り残されてちぢこまっているようになった。しまいにはそれに慣れてしまって、現在では、警察や市役所のお役人を只《ただ》無意味に恨めしいものと思うような連中が殖えたらしい。
 一方に青山あたりのバラック民は敷地が陸軍省のものなので、市役所から立ち退きの日を限られると、すぐに陸軍省へ行って、別に延期の約束をして得意になっているといったようなスバシコイのも居る。
 どちらにしても、一般市民からいくら軽蔑されても構わないという精神のあらわれで、一般の敬意や同情を受けていない事は明らかである。
 とうとう当局では堪忍袋の緒を切らして、去る十月中旬、月島のバラックであったかに吏員を派して、片っ端から屋根をメクリ始めた。そのバラックの連中は大いに驚きあわてて吏員と争ったが、吏員はドシドシ屋根めくりを強行したので、訴えるとか何とかいうことになった。この納《おさ》まりがどうなったか聞き洩らしたが、その最初にメクラれたのが、堂々たる江戸ッ子の、しかも問屋の屋根であったことは記憶している。
 記者は避難民のこの態度を憎むものではない。又当局のヤリ口を賞めるものでもない。これは震災後に於ける、一時的の気分のあらわれでなければならぬ事は無論である。しかしこのバラックの中に居る人々の中に、大和民族の代表的性格を体現した、あの「江戸ッ子」が居ようとは、どうしても信じられないことを悲しむのである。
 あれだけの侮辱を受けながら返事もし得ないで、只お金だけ溜めたい、自分の趣味だけを満足させるだけで満足して生きて行きたい、一日恥を忍べば一日だけ得だという亡国的の根性を、これ程までに罵られてだまっている意気地なさ……日本中の或る一部の人種ならいざ知らず(うっかりすると大部分かも知れぬが)、すくなくとも江戸ッ子としては忍び得ないところであろうと考えられる。
 それがそうでないのだから呆れざるを得ない。「江戸ッ子滅亡」を思わざるを得ない。そうしてこの無残な、果敢《はか》ない江戸ッ子の現状に対して、一滴の涙なきを得ない。
 彼等の宣言は真に口先ばかりであったか。彼等は真に東京の文化を背負って立つものではなかったか。彼等の腸《はらわた》は昔から本当に無かったのか。彼等の本当の魂は、彼等が足下に踏みにじっていた田舎者のソレよりも、無自覚な、意気地ないものであったか。
 更にもし彼等が日本民族の性格を最高潮に代表していたものとすれば、そうしてもし日本民族の全都が一度《ひとたび》恐るべき打撃を受けたとするならば、すぐに彼等と同様の亡国的の根性になり果てて、再び立つ勇気が無くなる事を、彼等の現状が説明しているのではあるまいか。
 これはあまりに先走り過ぎた想像、もしくは神経過敏のお仲間で、江戸ッ子ばかりでなく、吾が日本民族を侮辱するものと云う人があるかも知れぬ。
 ……それは実際そうである……実に申しわけがない……相済まぬ次第である……そんな事があってはならぬ……ない方がむろんいいにきまっている……しかし江戸ッ子の現状を見ると、思わずそんな事を考えさせられるのだから仕方がない。
 江戸ッ子の出来た由来を考えて、震災後の現状に照し合わせて見ると、これが天の啓示でなくて何であろうと、思わず身の毛が竦立《よだ》つものがあるのを、記者はどうしても否定することが出来ないのである。

     プロ文化の開山

 すこし話が学校じみておかしいが、順序だからちょっとの間《ま》勘弁していただきたい。
 日本民族はちょっと見ると、純プロ式の性格を持っているように見える。うっかりすると直ぐに浴衣の尻をマクリたがる、外国に行ってもお茶漬の夢を見るところなぞは正にそうとしか見えない。
 ところがその作った文化を見ると、初めからおしまいまでブル式の文化である。
 言葉を換えて云えば、ヤマト民族はどうしてもプロ階級の文化を作る資格がない。ブル根性が死んでも抜けない人種だと云い得るようである。
 論より証拠、日本の文化は先ず蘇我氏や藤原氏なぞいう貴族の手で、奈良や京都、浪華《なにわ》なぞを都として開かれた。それは勿体《もったい》ぶった、優にやさしいものであった。
 その貴族が太平に慣れて、増長をして、無力になると、今度は彼等が馬鹿にしていた賤《いや》しい武人が天下を取って、鎌倉を中心にして、反ブル的な剛健質朴な武人の文化を作った。その親玉となったものは源氏、北条氏であったが、これがだんだんと堕落してブル気分を含んで来た挙句、足利時代の半分貴族半分武人式の文化を作ると亡びてしまった。
 この頃から、天下を取るものは氏素姓を構わぬという思想が、いよいよ深く一般に行き渡り始めた。これが戦国の世の幻影で、見方に依ってはこの時代を政権に対するプロ思想の普及時代とも考えられるのである。
 余談は扨《さて》置いて、結局、氏素姓のちゃんとした織田信長が天下を取ったが、彼の政権に対する思想はともかくもとして、その国家的文化に対する考えはその性格から見てもブル式であった事は疑われぬ。その次に本当のプロレタリアットたる秀吉が天下を取ると、これは又特別|誂《あつら》えの一代分限式ブル思想の持ち主で、見る見るうちに亡びてしまった。
 この時まで日本民族が作り得た文化は、プロ式なものは一つも無かったと云える。
 ところが徳川の天下になると、今度は江戸城下の新開地に日本各国の人民が集まって、ここに日本式最初のプロ文化を作り始めた。しかも前に立った貴族文化が主として藤原氏を中心とし、武人の文化が源氏や北条氏を首石《おやいし》にしたのと違って、江戸に生れた平民の文化は、正真正銘、日本全国の寄り合い勢《ぜい》で作ったものに相違なかった。
 千代田の城の千代かけて、あおぐ常盤《ときわ》の松平《まつだいら》――花のお江戸か八百八町――昔にかわる武蔵野の、原には尽きぬ黄金草《こがねぐさ》――土一升に金《かね》一升、金の生《な》る木の植えどころ――百万石も剣菱も、すれちがいゆく日本橋――。
 こうした太平繁華の気分は、日本諸国の集まる勢を夢のように酔わした。
 その中に行わるる激烈な生存競争は、彼等の神経を「生き馬の目を抜く」までにとんがらした。
 この競争に打ち勝って、この盛り場に生存し得るという誇りは、彼等の感情を「誰だと思う、つがもねえ」まで昂ぶらせた。
 こうして日本民族の中に選《よ》りに選った勝気な、飲み込みの早い、神経過敏な連中ばかりが、この新たに出来た平民の生存競争に居残って、益《ますます》その平民的なプライドを高め、町人的|日本《やまと》魂を磨いて行った。
 奇麗好き、率直、無造作なぞいう性格は極度にまで洗練されて、所謂江戸ッ子の中ッ腹となって現われた。
 趣味の方も同様であった。気の利いたもの、乙なもの、眼に見えずに凝ったもの、アッサリしたものなぞいう、彼等の鋭い神経にだけ理解されるような生活品や見物《みもの》、ききものがもてはやされた。そうして、そんな趣味のわからぬ者を、彼等は一切馬鹿にした。
 事実彼等は一切の他国人の趣味を軽蔑した。そこには、彼等が日本中で最高の人種である「天下の町人」だというプライドが、云わず語らずのうちに流れていたのである。

     プロ文化の末路

 しかしこうした江戸草創時代の元気横溢した平民の気象――逃げ水を追《おい》つつまきつつ家を建てた時代の芳烈な彼等の意気組は、太平が続くに連れて、次第に頽廃的傾向即ちブル気分を帯びて来た。
 彼等が「江戸ッ子」という集団を作って江戸の町々に根を卸《おろ》して、最早どんな偉い人様が来ても彼等の前に頭が上らぬとなると、彼等は永久に彼等を踏み付けると同時に、自然仲間同士でもプライドの競争を始めることとなった。
 彼等はその御自慢の性格や趣味を弥《いや》が上にも向上さして、あらん限りののぼせ方をした。その結果、その云うことやすることがみんな上《うわ》ずって、真実味が欠けて来た。うわべは昔以上に生気溌剌たるものがあるようで、実は付け元気や空威張りになって来た。
 彼等の負けぬ気は口先ばかりの腸《はらわた》無しとなった。彼等の奇麗好きはカンシャクとなった。率直が気早となり、単純が早飲み込みとなり、無造作が無執着となった。
 彼等の中ッ腹は無知、無定見の辛棒無し……つまり無鉄砲の異名となった。江戸前の気象というのは、只《ただ》鼻の先の事にばかりカッと逆上《のぼ》せあがる、又はほんの一刹那の興味ばかりを生命《いのち》よりも大切がって、あとはどうでもいいという上っ調子を云うことになって来た。
 熱い湯に這入れぬと云って山の手のものを軽蔑した。洒落《しゃれ》がわからぬと云って学者を馬鹿にした。話が早わかりせぬと云って算盤《そろばん》を取るものを仲間外れにした。十両の花火のパッと消えて行くのを喜び、初|松魚《がつお》に身代を投げ出し、明神のお祭りに借金を質に置いた。
 彼等の平民的性格の中にこうしたブル気分が流れ込んだ原因の中には、天下泰平から来た武士の無力と、彼等の富の膨張も勿論加わっているのであるが、とにかくこうして彼等の気象の中《うち》には次第に亡国的気分があらわれて来たのである。
 トドのつまり、彼等は六ケしいことがわからないのを誇りとするようになった。政治向きのこと、法律のこと、経済のこと、物の道理や筋道……そんなジミな、シッカリしたようなことはかいもくわからぬ単純さを、江戸ッ子の自慢にするようになった。彼等の平民的気象は、太平が長かったためにあまりに洗練され過ぎて、サッパリを通り越してアッサリとなり、とうとう空っぽになってしまったと見られる。
 その癖《くせ》彼等は、器用にお金を使ったり呉れたりする人間を、すぐに親方とか兄いとかにあおいだ。
 彼等はいつでも金に困り抜いていながら、金を欲しくないという顔をしている。だからその意気を賞め、その同情を得るだけの言葉……つまり、頼むとか何とか云いさえすれば、「ええ、もう金なんぞはどうでも」と云いながら金を手にするようになった。
 その憐れむべき心理状態に自ら気が付かぬほど彼等は無知となった。金で使われているのを気が付かずに、向う鉢巻きの双肌《もろはだ》脱いでかけまわるほど憐れな人種となり果てたのであった。
 勿論、その間《かん》の気合いは支那人のそれとはまるで正反対であるとしても、事実に現われた結果は極端と極端の一致で同じことになる。無気力、無節操なぞいう亡国的人民の資格をすっかり備えていることになるのである。
 唯その間に一片同情の涙を灌《そそ》ぐ余地があるかないかの違いである。
 こうしてドン底に近づいた彼等の無気力さが、維新の時、江戸城を安々と官軍に明け渡してしまったのである。勝安房は彼等の無力を理解し過ぎる程理解していたから、あんな手段を執ったのである。江戸城明け渡しは徳川国の滅亡であると同時に、江戸国民が亡国の民たる事実を裏書したのであった。
 同様にこうした彼等の無知さが、東京市政を今日の如く腐敗さしたことは、最早疑う余地はないであろう。彼等はその故郷たる東京市の市政がどんなものか、その選らむべき候補者がどんなものでなければならぬか、そんなことを考え得る人民ではない証拠がとっくの昔挙がっている。
 特に明治維新後の彼等は、「ギャッと生れたその時から」亡国の民であったのだ。伝統的なお祭りとベランメイ語と、有り来《きた》りの江戸趣味のために存在している、古代民族の名残りに過ぎなかった。「ドテッ腹へ風穴をあける」なぞと大きな事を云い合いながら、いつまでも何もし得ない支那人式喧嘩を見得《みえ》にしている、気の毒な民族であったのだ。
 彼等に選挙に対する自覚を望むのは、比丘尼《びくに》に○○を出させるより無理な注文かも知れぬ。

     江戸ッ子の人口減少

 江戸ッ子は大和民族としての最初の民衆《プロ》文化を作った。その性格は大和民族の平民|気質《かたぎ》を煎じ詰めたものであった。そうして、昔、貴族階級や武士階級の文化がそれぞれブル式に爛熟して亡びたように、彼等の文化も平民的の形をとったブル気分を帯びつつ亡びてしまった。
 この事実は何を語るか。
 ヤマト民族が到底ブル根性を離れ得ないことを示しているのではあるまいか。吾がヤマト民族が、初めは武人の手に依って、変形的プロ文化を作って失敗した。続いて全国民の中から選り抜いた理想的平民を以て、純真のプロ文化を作ったが、とうとう我慢し切れずにブル気分にカブレて堕落衰亡したものと云えないであろうか。
 この次に又別のプロ文化を作る見込は絶えた。そうしてプロの文化を作り得ない民族は必ず堕落滅亡するものとしたら、吾大和民族の文化的使命もこれでおしまいに了《おわ》ったのではあるまいか。
 一方に彼等の文化は徳川の封建制度の反映を受けて堕落したとも云える。吾等大和民族は、このような政治的の反映を受けぬ、純平民的文化を作る力はもう無いのであろうか。そうして平民文化はこうした都会にしか作られないものであろうか。
 とにかくにも帝都に居る古代民族……「江戸ッ子」の命脈はとうの昔に上がってしまっている。維新を一段落として、今度の大地震を打ち止めとして、消え消えとなって行きつつある。
 彼等のことを思うてここに到ると、思わず身うちがふるえるような気がする。
 しかし尚《なお》最後に、彼等江戸ッ子の衰亡の原因が、こうした精神的方面からばかり来たものでないことを付け加えておきたい。彼等は人数の上から見ても、早かれ遅かれ亡びて行かねばならぬと考え得べき理由がある。
 江戸ッ子の人口減少……何という悲惨な言葉であろう。このような事実を調べた人が前にあるかどうか知ら。記者は只いろんな方面から見て、この悲惨な言葉が事実上にあり得ることを疑い得なくなったのであるが、実に情ない恐ろしいような気がした。殊にその減少の事実とこれを裏書する原因が、どれもこれも深刻な或る意味のことばかりで、書くに忍びないような気がした。
 しかし「新東京の裏面」を語るには、どうしてもこの点を明らめねばならぬ。しかもそれは、一面、文化人種滅亡の真原因とも見られるのであるから、思い切って書くことにした。
 江戸ッ子減少の第一の事実は江戸ッ子に親類が少いということである。日比谷を初めとして東京市内各所の避難バラックに逃げ込んだ避難民の中で、江戸ッ子が一番多いに違いないという推測は、この事実からでも推測されることである。純粋の江戸ッ子……すなわち永年東京に居るもので、地方に親類を持っているものは極少数であるとは震災前から聴いたことであった。そんなのが昨年の変災後落ちて行く処が無くて、仕方なしに取りあえず避難バラックに逃げ込んだであろうということは、誰しも容易に想像が付く。又事実、避難バラックの住民に江戸ッ子が大多数を占めていることは、前記の通りである。
 江戸ッ子に親類がすくないということは彼等の人口が殖えぬということで、結局、彼等の子を産む数が些《すく》ないということになる。この事は古い統計にも載っているそうで、江戸ッ子は只新しく仲間入りをする田舎者で補充されて、やっとその命脈を保って来たらしいことが朧気《おぼろげ》ながら推測される。
 さもなくとも、一般に或人種が文化の絶頂に達すると人口が減少する、殊に永年都会に居て、文化的な神経過敏な生活を続けている者は、自然と産児が減少して行くものであることは、近頃の学問でよく問題になっている。東京ばかりでない、世界各国の都市がみんな間違いなくそうなって行くのだそうである。

     潔癖から産児制限

 都会人は何故繁殖力が減るか!
 この疑問を学者たちに説明してもらうと大変な八釜《やかま》しいことになる。
 第一は風俗の淫靡から来るものであるが、これは別としても都会人は減るのが当り前だそうである。
 つまり、
 ▽土と日光と新しい空気と食物に遠ざかったもの
 ▽運動不足で精神過敏になったもの
 は、人間でも動物でも、赤ん坊を生む数が減って行くと考えていればいいのだそうである。
 或る人情哲学者はこれに付け加えて、
 一|法螺《ほら》 二お世辞 三洒落
 を喜ぶ真実味の些《すく》ない人間は、いつも魂が上付《うわつ》いているから充実した機能の満足を遂げ得ぬ、だから将来滅亡するようになると云ったが、少々乱暴な議論だけれども、そんなこともないとは限らぬであろう。
 とにかく憐れむべき江戸ッ子はこれ等の資格をみんな備えている。彼等は江戸ッ子になった当初から、こうして呪われ続けていると云っていいのである。
 しかも江戸ッ子の人口減少の原因はこればかりではないと考えられる。
 或る智識階級の江戸ッ子はこんな話をした。
「江戸ッ子が減って行くってのは本当だろうよ。私の友人で子の無いものがある。妻君は江戸ッ子のチャキチャキで、健康状態にはすこしの申し分もなく、どんな医者に見せても子の出来ない筈はないと云う。自分自身も子の無いのを苦にして度々見せたが、同様の診断で、女の上を飛び越しても子が出来るかも知れぬと冷かされた。それでも子が出来ぬから、おかしいと思って気を付けて見ると、私の妻は非常な疳持ちで、尾籠《びろう》な話だが、事ある毎にそこを徹底的に洗うことに気がついた。これは医者が何と云うか知らぬが、子の出来ぬ唯一の原因と私は思う――とその男が云った。つまり江戸ッ子はあんまり潔癖だから子が出来ないのだね。だから江戸ッ子には親類がすくない訳だろう」
 これは余りに江戸ッ子の早合点かも知れぬ。
 又或る通人はこう云った。
「江戸は何でも日本一だが、遊びの場所も日本一であった。上は芳町、柳橋の芸者から松の位の太夫職、下は宿場の飯盛《めしもり》から湯屋女、辻君《つじぎみ》、夜鷹に到るまで、あらゆる階級の要求に応ずる設備が整っていた。そこへ以って来て、江戸ッ子は金離れがいいと来ているからたまらない。川柳に……三人で三分無くする知恵を出し……というのがあるが、その三分は三人持ち寄りの最後の財産であったろうと思われる。うちを空っぽにして遊ぶことばかり考えている……儲けた金で妻子を肥やすのをシミッタレと考えている心理状態がよくわかる。だから江戸ッ子のうちは繁昌しないのだ」
「江戸ッ子は道中をして帰って来ると、すぐに友達の処へ挨拶にまわる。その先から友達と一所に遊びに行って、道中の使い残しを空っぽにする。『久し振りうちに帰って、嬶《かかあ》珍らしさに出て来ない』と云われたくないために、こうした見得を張ったもので、詰るところ、こんな江戸ッ子の負け惜みが直接の産児制限となったわけだ。花柳病にかかって、間接に子種を亡ぼしたのは云う迄もないだろう」
 又或る獣医はこんな話をした。
「牝馬で競馬に出る位の気の勝った馬は、いくら種をかけても決して子を生みません。原因はわかりませんが、一種の神経作用かも知れません。江戸ッ子の女は勝ち気だと云いますから、自然子を生みかねるのでしょう」
 こんなのはいずれもうがち過ぎ、又は突飛な議論であるが、参考のため紹介しておく。勿論、いずれも一理屈あるのはあることである。

     江戸を呪う隅田川

 それはともかくとして、記者は江戸ッ子衰亡の事実を見たり、聞いたりする度毎に、あの隅田川を思い出さずにはいられない。否、あの隅田川の岸に立つ毎に、記者は、この河に呪われて刻々に減って行く江戸ッ子の運命を思わずにはいられないのである。
「富士と筑波の山合《やまあい》に、流れも清き隅田川」
 と奈良丸がうたい、
「向うは下総《しもうさ》葛飾郡、前を流るる大河は、雨さえ降るなら濁るるなれど、誰がつけたか隅田川ドンドン」
 と昔|円車《えんしゃ》が歌った隅田川――ドンヨリと青黒く濁って、東京の真中を渦巻き流るるあの隅田川が、昔も今も江戸ッ子の滅亡を呪うていようとは滅多に気が付く人はあるまい……と云うと、何だかエライ神秘的な由来でもありそうであるが、説明は頗《すこぶ》る簡単である。
 隅田川は昔から身投げが絶えぬ。都会生活に揉まれて、一種の神経衰弱に陥った人間が、彼《か》の広い、寂しい、淀みなく流るる水を見ると、吸い込まれるような気持ちになるのは無理もないであろう。しかし江戸の人口に差支える程身投げがあったら大変で、隅田川が江戸を呪っていると云うのはそんなわけではない。もっと深刻な意味があるのである。
 隅田川は昔から水ッ子の初まった処であった。
 水ッ子と云っても、その中には堕胎《おろ》した児、生れてから殺した子、又は捨て児(これも結局は同じ事であるが)が含まれている。しかもその数は統計にも何にも取られたわけのものでないが、江戸ッ子の人口減少の一半を引き受けたと認められているのだから恐ろしい。
 隅田川はこんな残忍な、つめたい流れなのである。
 但、この水ッ子の親は決して江戸ッ子に限っていなかったことを、ここに断っておかねばならぬ。
 旧藩時代の武家は皆きまり切った縁をたよって、子孫代々まで暮さなければならなかった。三百年近く太平の世が続いたために、彼等の大部分は加増を受ける機会もなく、只夢のように生れては死んだ。只恐るるのは家族の殖えることであった。その結果が産児制限となったことは云うまでもない。
 その次にはブル階級の江戸ッ子の風俗の堕落である。彼等が如何に奢《おご》りを極めたか、彼等の主人が如何に甚だしい道楽を試みたか、彼等の妻子や召し使いなぞが如何に風俗を乱したかは、江戸時代に現われた小説や芝居や絵を見てもわかる。その結果が忌まわしい手術、又は恐ろしい犯罪となって、幾万の生霊を暗《やみ》から暗《やみ》へ葬ったことであろうか。
 その次は一般市民の生活難である。
 前にも述べた通り、花の都の生存競争は生き馬の眼を抜く程激烈なものであった。その間に生存して行くのはとても生やさしいことではなかった。その結果、矢張り前のような恐ろしい習慣を、平気で行って行くよりほかに道が無い事は明らかである。
 なおまたこのほかに問題にせねばならぬのは、徳川幕府が江戸に於ける軟文学の流行をそれとなく奨励したことである。幕府は、参覲交代で江戸に集まって来る諸国の武士を意気地なくするために、こんな方法を執《と》ったと伝えられているが、これが永い間の太平と共に上下一般に染み渡って、極度にまで人心を堕落さした事は実に非常なものであった。不義者に同情し、心中に共鳴し(これは大阪の方が本家かも知れぬが)、野合を讃美する芸術が流行し、上下の隔ても思案も度外視した恋愛至上主義が一般に崇拝された。
 こうした「上下の隔てない」、又は「思案のほか」の花が結んだ因果の種はどうなったか。
 田舎なら木の根や石の下、草原なぞの到るところに葬ることが出来るが、名にし負う土一升に金一升の都には、そんな余地は滅多にない。出入りの田舎者に頼んで情を明かしてことづけるほかは、とりあえず流れて行く水にことづけて、あとかたもなく葬ってもらうよりほかに仕方がなかったのであろう。
 東京の中にはいくつも掘割がある。その橋や石垣、柳の下には隅田川から汐がさし引いている。この浄化作用は、こうした深刻な意味の巷の産物をも、不断に引き受けているのである。

     群れ飛ぶ都鳥

 隅田川が、その青黒い不可思議な力で、如何に江戸の住民に魅入っていたか。その川あかりが、如何に江戸ッ子を罪の子として堕落させて、秘密にその子孫を呪い殺していたか。
 その事実を裏書するものはまだいくらでもある。
 第一は徳川幕府が幾度も幾度も出した産児制限法の禁令である。これはおしまいまで無効に了《おわ》ったと認められているが、一面、このような禁令が度々出ただけ、それだけこの産児制限が烈しかったことを裏書しているのである。
 事実、こうした江戸文華の裡面の秘密を握って、喰って行く商売人が非常に多かったのである。いろいろな随筆、わけても極《ごく》平凡な明るい意味で、「医を仁術」と心得ている医師たちの記録には、彼等の職業を極度に攻撃したものが些《すくな》くなかった。それにも拘わらず彼等は、「必要の前に善悪無し」という程度の格言を信条として、益《ますます》盛に横行したらしい。
 その大部分は女医であったそうで、就中《なかんずく》中条流という堕胎の方法が最流行したと記録に残っている。そのほかおろし[#「おろし」に傍点]婆、御祈祷師なぞは勿論の事、普通の漢方医でも内々この医術を売り物にしていたと察せられる。一説に依ると、徳川時代のすべての医術の中で最も有効に発達したものはこの方法で、この方法の下手な医者は大家に出入りする資格は無かった。否、この手術だけ心得ていれば、あとは売薬を詰めた百味箪笥と、頭の形と、お太鼓持ちだけで、立派なお医者様として生活が出来たという位だから恐ろしい。
 このほか医者でも何でもなくて、のれん[#「のれん」に傍点]や看板に堕胎を業とする意味のものを染めたり、描いたりしているものがあったという。たとえば子持縞《こもちじま》に錠を染め出すとか、温州の種なし[#「種なし」に傍点]みかんの絵とか、山吹の花を表したものなぞである。
 そうした中でも、この種の商売を殆ど公然の秘密のように行っていたのは、今でもある悪姙婦預り所であった。つまり女医や産婆の宅あずかりである。殊に面白い――といってはわるいが、その預り賃が七八ヶ月間最低一両内外で、上は限りなし、大家のお嬢さんなぞで間違いの出来たのが、よく乳母の里へ預かるなぞいうことが物の本にも出ているが、実はここに来て始末したのが多かったそうである。そうしてその流した子は、一朱内外を添えて、隅田川のほとり、本所《ほんじょ》の回向院《えこういん》へ収めたという事が書き添えられている。
 しかしこのような冷酷な商売をする人非人が、果して約束通り残らず回向院へ納めたかどうか怪しいものである。これはその親に対するせめてもの気休めで、実は手軽く水に流したと考え得る理由が充分にある。
 この種の例は深く立ち入ったらどれ位あるかわからぬが、ここでは「江戸ッ子減少」の原因を明らかにするだけに止めておく。そうした都会の真ん中を流るる河は、いつもこうした呪わしい、忌まわしい使命を持っていることを説明するに止めておく。
 昨年の変災の折、あれだけの生霊を黒焦《くろこげ》にした被服廠――。
 その傍を流れて、あれ程の死骸を漂わした隅田川――。
 その岸に立つ回向院――。
 それ等はかほどまでに「江戸」を呪った……そうしてこの後も呪っている、或る冷たいたましいのあらわれに他ならないのである。
 ……墨堤の桜……ボート競漕……川開きの花火……両国の角力《すもう》や菊……扨《さて》は又、歌沢《うたざわ》の心意気や浮世絵に残る網舟……遊山船、待乳《まつち》山の雪見船、吉原通いの猪牙船《ちょきぶね》……群れ飛ぶ都鳥……。
 両国橋の上に立って、そうした行楽気分を思い得る人は幸福である。
[#改頁]


   建築交通の巻



     現代式の新東京人

「江戸ッ子」はこうして亡びかけている。
 山の手の智識階級も、下町のベランメイ党も、共々に昔の夢をなつかしみつつ影のように生き残っている。
 そのあとへ新しい「江戸ッ子」、すなわち「現代式東京人」が寄り集まって「新東京の新生面」を作りつつある。
 その新生面はどんな光彩《いろどり》を放っているか、どんな香霧《におい》を漂わしているか。
「バラック」という言葉は珍らしくなくなった。東京に行った人は飽きる程見ているように、バラック生活、バラック趣味、バラック的なぞといろんな熟語が出来て、バラック気分を天下に宣伝している。現在、その中で呼吸をしている新東京の住民なぞは、もうバラックという言葉までも忘れているらしい。
 然るにバラックの中に居ながら、バラックの中に居る事を忘れている時は、バラック生活が苦にならなくなっている時である。魂までバラック式になっている時でなければならぬ。
 新しい東京に来る人も何より先にバラックが眼につく。すべてがバラック式……派手で便利で手軽でハイカラで……といった調子で、「サスガ東京」とすっかり感化されてしまう。「新しい東京人」が出来上るといった順序である。
 恐ろしいもので、こうして東京人の精神的生活の裏面には、チャンと「バラック」の感じが反映している。そうしてバラック式のリズムを作って、様々の悲喜劇を漂わし、いろいろな流行を移りかわらせている。
 そこに吾が大和民族の新しい文化の中心の「におい」があり、色彩《いろどり》がある。
 生れかわった彼女……「東京」は新しい「バラック」の着物を着てシャンシャンシャンとあるいて行く。どこへ行くのかわからぬが、如何にも得意そうで又嬉しそうである……が……扨《さて》……。
 高い処に上って見ると、見渡す限りバラックの海である。青、赤、茶、白、黒、黄、紫、灰色なぞの屋根が、生地のトタン屋根と一所《いっしょ》に太陽の下に波を作って、焼け木の森に打ち寄せ、鉄橋を漂わせ、小山を這い上り、煙突を浮かせつつ、果ては銀灰色の空の下に煙のように消え込んでいる。その間に黒い枯木が散らばる、廃墟のような大建築が隠見する、煤煙が流れ、雲が渡り、鳶が舞い、飛行機が横切る。
 震災後間もない去年九月十四日に撮った写真を見ると、一町内に二三軒|宛《ずつ》位の割合で建っていたのが、今では殆ど立ち塞がっていると云ってよかろう。黴菌《ばいきん》や虫ケラの力も恐ろしいが、人間の力もこうなるとエライものである。
「早いものですなあ」
 とみんな挨拶のように云うが、実際挨拶に云っても差支えない位すさまじい早さである。
 バラックの海を眺めて復興の力の偉大さに驚く人は、同時にその底を流るる活動力の清新さを感ずる人である。新しい板壁の反射や生々しいペンキの色は、そうした感じを象徴して際涯《はてし》もなく波打ち続いている。
 一度|灰燼《かいじん》となった吾が大和民族の中央都市が、かような活力と元気とに依って溌溂と蘇らせられつつあるのを見ると、真に涙ぐましい程の心強さと嬉しさを感じさせられる。
 併し又、バラックの眺望は一種の哀愁をも漂わしている。
 昔の東京の眺めは何となく奥床しいところがあった。彼《か》の青黒く影絵のように並んだ屋根瓦の一つ一つにも、徳川から明治まで何百年かの歴史の重みが結び付いていた。云い表わし難い情緒が流れていた。
 それが今のバラックにはない。その色の安っぽさ、毒々しさを通じて、只《ただ》生存競争、見かけばかりといったような、さもしい浅墓な気持ちしか感ぜられぬ。
 しかしこれ等の感想のどれが中《あた》っているかは、まだ容易に断定出来ない。
 今度は山を降って下町をあるきまわる。

     鉄コンクリの悲哀

 下町に来てまっ先に眼に付くものは、丸の内に並んだ大建築である。そこに暴露された鉄筋コンクリートの悲哀である。
 余談に亘るが、世界中で亜米利加《アメリカ》位オセッカイな国はあるまいと思われる。
 先ず嘉永六年に日本に来て、浦賀の港で大砲というものをブッ放して、「文明開化」という珍らしいものを教えてくれた。慌て者の日本人はすっかり驚いて、日本《やまと》魂までデングリ返らせた結果が、今日では処《ところ》構わず爆弾を取り落すような悲しい民族的精神となり果てた。
 亜米利加《アメリカ》はそれでも飽き足らずに、今度は日本に鉄筋コンクリートというものを教えてくれた。
「地震位に恐れて、そんな燐寸《マッチ》箱みたいな家に縮こまってる必要はない。学理と実際の研究で生み出された鉄筋コンクリートの力は、絶対に信用してよろしい。日本中が引っくり返っても、これだけは残る」
 と宣伝した。
 日本の建築界は浦賀の大砲以上に仰天した。
 日本の博士、技師、請負師なぞの歓迎ぶりと来たら大変なものであった。何しろ学理と数字の上の云いわけは世界に劣らぬが、実際上の損害賠償は一切しないというのが、博士や技師の道徳である。その又博士や技師に一切の責任を負わせて仕事をするのが、請負師の習慣と来ているから堪らない。金は取り放題、責任はアメリカへというので、腕に撚《より》をかけると、ここ東京の丸の内、日本丸の機関部という、堂々青天を摩する大建築を並べた。その中《うち》で最新式|請合《うけあい》付きのものが、曰《いわ》く「内外ビル」、曰く「東京会館」、曰く「有楽館」、曰く「丸ビル」、曰く「郵船ビル」……。
 たった五ツと云う勿れ。これ等の一つでも大人国の重箱の何千層倍あろうか。学理と実際……鉄とセメントの化け物然として、吾が国の建築界空前の盛観を作るかのように見えた。
 これを見て憤慨したのは日本の「地震|鯰《なまず》」であった。
「ヤンキーがヤンキーなら、ジャップもジャップだ。学問だの数学だのと、あとから出来たものにばかり驚いて、弄戯化《ふざけ》た真似をしやがる。百年前に生れた奴は一匹も居ないと見える。憚《はばか》りながら日本の地震鯰様は昔から無学文盲で押して来た人だ。文明や最新式位に驚く人じゃねえ。畜生、見やがれ……」
 と云ったかどうか。
 これも腕に撚《より》をかけた向う鉢巻という奴で、そこいらを一ツゆすぶった。
 東京会館は腰を抜かした。
 丸ビルは全癒三ヶ年の重傷を受けた。そのほかのも、腰から向う脛《ずね》のあたりに半死半生の大傷を受けて、往来から中の方がのぞかれるという始末。内外ビルなんぞは、最初の一ユレで八階から地下室までブチ抜けて、数百の生霊をタタキ潰すというウロタエ方であった。
 そのみじめな残骸を見てまわると、吾が日本の「地震鯰」も嘸《さぞ》かし溜飲が下ったろうと思われる痛快さである。
 然しこれは学理ばかりで実際を推し測った最新式の建築ばかりで、そのほかの「地震鯰」を馬鹿にしなかった建築はチャンと残っている。その多くは割り合いに時代の古い、旧式の設計で出来た鉄筋や煉瓦なぞで、海上ビル、東京駅、帝国ホテルその他である。
 その中でも帝国ホテルは極《ごく》新しい方ではあるが、その代り「地震鯰」に敬意を払い過ぎて、地面に四ツ這いに獅噛《しが》み付いた形をしていただけに、ヒビ一つ這入っていない。聞けば技師は米国でもかわり者で、「おれの建築のねうちは今は分らない」と云っていたそうであるが、成る程もうわかった。日本の鯰と親類だったかも知れぬ。
 こんな事実を眼のあたり見て行くと、そこに何らかの暗示がありはしないか。
 活動や風俗はもとより、商店の広告からカフェーの設備と、何から何まで米国式流行の日本に何等かの警告を与えている「ある意味」が潜んではいないか。
 すくなくとも、一種の「恐米病」又は「酔米病」に囚われている日本には、しっかりしたものは一人も居ない。只「地震鯰」が一匹控えているだけという証拠になりはしまいか。

     青空を又押上げる?

 地震に居残った旧式の大建築、又は最新式の丸潰れや半壊れのすき間すき間を、丸の内一面にバラックが建て込んでいる。
 そのうち七割は飲食店や、菓子、缶詰なぞいう食料品店。あとの三割が煙草屋、雑誌屋、玉突き、理髪、銭湯、占師、貸本屋といったようなもの。それが又大部分が中等以下の安バラック式で、何の事はない、目下の丸の内は、西洋式の大建築と日本式のゴチャゴチャした小店を詰め込んだ、極端な和洋折衷の姿である。
 その中にも飲食店は東京の安ッポイ処を代表していると云っても差支えない。カフェー、すき焼、天プラ、すし等はほかに見られぬ安価なうまいものが見られる。
 たとえば洋食や支那料理で二十銭から五十銭も奮発すれば、充分に腹が張るのがある。簡易の一汁一菜が十二銭|乃至《ないし》十五銭、かなりの出前弁当が二十銭、アイスクリームとアズキアイスは最下五銭から十銭位のがある。
 どうしてこんな店ばかり集まっているかと云うと、この辺の商売の大|顧客《とくい》とするものは、主として日比谷の避難バラックの住民と、前に述べた大建築の修繕や何かに雇われた人足達と、その大建築に雲の如く出入りする腰弁達の三つである。その中でも腰弁たちは、身なりだけはなかなか立派なのが多いが、その割りに安物を漁《あさ》るので、扨《さて》こそ彼等を当て込んだ「うまい」「安い」という文化的? な看板がこの辺に殖えたのである。
 とにもかくにも、日本の中心の、その又中心の丸の内で仕事をする人達が、こうした安物で養われていることは、「東京の裏面」に現われた興味ある現象と云ってよかろう。
 銀座に来ると模様がガラリと違う。
 地震前から持ち越しの永久的大鉄筋の間に、半永久的の上等なバラックが犇《ひしめ》き並んで、見様《みよう》によっては昔の銀座よりも美しくて変化がある。何しろ日本目抜の商店が、「サア来い。数年後にはブチ壊すにしても、そんな粗末なものは作らないぞ」と腕まくりをして並んでいるのだから無理もない。ちょっと見るとこれがバラックかと思われるようなのもあって、新開地式の安ッポイ気分があまり流れていない。
 裏通りも同様で、表通りよりは新開地式であるが、それでも丸の内のソレより数等上である。今春あたりから粋な横町辺に並んだ格子先には、昔にかわらぬ打水に盛塩《もりじお》の気分がチョイチョイ出ている。
 京橋を渡りすこし宛《ずつ》落ちて来て、バラック気分が次第に露骨になって来る。同じ毒々しさにも重みがなくて、今にも剥げチョロけそうである。その中に性懲りもなく建てた化粧煉瓦のセメント建築や、昔の焼け残りの大建築が並んでいるといった塩梅《あんばい》で、この辺迄来ると青空も余程広々と輝いて、往来に近付いて見える。
 震災前まで東京の空は、次から次に建った大建築のために高く高く押し上げられる一方であったが、それが又こうして急に落ちて来た。これを又押し上げるか押し上げぬかは、日本の建築界の将来に於ける興味ある研究問題ではあるまいか。
 裏通りも同様にアケスケな処が殖えて来て、飾も何もないボール箱式が多く、かなりの大きな家をトタン板で貼《はり》固めた、ペスト予防よろしくといったようなのも珍らしくない。
 この程度のバラックが神田あたりまで続いているが、一度万世橋と東京駅を連ねる高架線のガードを潜ると、又一段と安っぽくなって来る。
 表通りか銀座の裏通りか、もしくは日本橋辺のソレ以下になって来て、その中に名高い呉服屋や老舗のシッカリしたバラックがチラホラとまじっている。北海道あたりの新開町でもこれ位の処はザラにありそうに見える。
 外神田の河岸近くの一帯は、あの大火に不思議に焼け残ったのであるが、その黒い土蔵や、昔風の瓦葺《かわらぶ》きの屋根、寂《さ》びた白壁などが並んだ落ち付いた町並みと、柳原あたりの(この辺は昔もあまり立派な町並みではなかったが)バラックを見比べると、坐《そぞ》ろに今昔の感に打たれざるを得ない。

     一年後の死骸臭

 上野に近付くと、バラックの趣が又違って来る。銀座あたりのソレがどことなく気取って、勿体ぶっているのに反して、無暗《むやみ》に大きな看板や、家に不似合な強烈な電燈を並べた店が、広小路を中心に高く低く並んで安ッポイ派手な気分を見せている。これは処柄《ところがら》から止むを得ないであろう。尤《もっと》もそのウラには、寧ろ貧民窟に近い長屋式の家が、ゴチャゴチャしている事が表通りから見える。
 ここから電車通りを菊屋橋伝通院の方へ、平凡なバラック気分を通り抜けると浅草へ来る。
 ここへ来ると又ガラリとバラック振りが違って、内容も外飾りも只派手一方になる。真に五色五彩、眼も眩《くら》むばかりで、何の事はない、児童の絵本の中を行くような気がする。正にバラックの「安ッポサ」と「アクドサ」を極度に発揮したものである。これも処柄《ところがら》とはいいながら、あまり甚だしいのでギョッとするようなのも珍らしくない。
 この気分の中心は、無論、浅草の第六区であるが、ここは論外である。
 尤も論外と云えば浅草全体が論外かも知れぬが、震災後はそれが一層甚だしくなった。ヘドの出そうな建築の彩り、眼の玉を引っ掴む広告、耳にたたき込む音楽、魂を奪わねば止まぬ旗や、看板なぞが、押し合いヘシ合い競争をして、気も遠くなる程バラック気分を煽《あお》り立てている。その安ッポさ……物凄さ……。
 ところが吾妻橋を渡って河一すじ向うに行くと、ガラリと別世界に来たような気持ちになる。
 深川のセメント、安田邸、日本ビールなぞいう大建築がチラリホラリとしているだけで、あとは二階さえない位の安バラックや、震災当時のままの掘立小屋、又はそれ以下の乞食にも劣る「屋根石――十間板」のつながりである。
 しかもそれがベタ一面にあるわけではない。震災後まだ草も生え込み得ない焼け土の空地が到る処にあって、甚だしきに到っては、震災当時この辺に漲っていた死骸のにおいを残しているところもある。
 このにおいは、震災直後の東京を見た人たちの鼻に死ぬまで付いているのだそうで、云うに云われぬ陰惨な気持ちを暖《あたた》むるものである。
 記者が今度東京に来た初めに、「鍛冶橋から日本銀行へ行く河岸をあるいて見ろ、死骸のにおいがするから」と云われて行って見たら、成る程忘れもせぬにおいがした。しかし、まさか丸一年も経った今日この頃まで、こんなにおいがする筈はないと疑っていたが、この辺へ来て見るといかにも間違いないと思った。この辺にあった死骸はみんな半焼けになっていたので、腐りかねているのかも知れないが、とにかくいい気持ちでない。その酢っぱい腥《なまぐさ》いにおいは、バラックの生々しい赤や青の屋根の間を仄《ほの》かに漂うて、云うに云われぬイヤラシイ深刻な気分を作っている。小雨の降る夜中なぞはとても平気で通れまいと思われるような処もある。
 序《ついで》に書いておくが、この辺は震災前まで「河向う」と云われていた……今でも河向うには相違ないが……日本橋、京橋、神田なぞいう江戸ッ子の本場で商売をしくじった連中の逃げ込み処であった。しかも一度この「河向う」へ落ちて来た江戸ッ子は、二度と再びこの河を越えて一旗揚げた例がない……「河向う」という言葉と「絶望」という言葉とは、場合によって同じような意味に使われている位であった。極端に意味を強めて云えば、「河向う」は「生きた江戸ッ子の墓場」であった。
 然るに昨年の九月一日夜の大火は、そこを最も猛烈に焼き立てて、あれだけの死骸の山を築いた。その死骸の臭《におい》が今も残っているとは、何という深刻な自然の皮肉であろう。
 以上述べた処は、東京の中心の通りから、被服廠あたりまでのバラック振りである。まだこの外《ほか》に、いろんな特徴を持ったバラックが、東京市の内外一面に拡がっていることは云うまでもないが、しかしこれでバラック以上の鉄筋建築から、バラック以下の避難小屋まで見物したわけで、東京のバラックを批評するには充分と思われるから、ほかは略する。
 只、東京の内外を通じてあれだけ猛烈な勢で建てられたバラックが、目下の不景気で増加の度をゆるめている事を付記しておく。

     日本人の頭の悲哀

 一口にバラックと云っても、その中にいろんな階級がある事は前に述べた通りであるが、その各階級の中にも又いろんな変化があって、なかなか面白い。一々見て行くと、何の事はない、人間の智恵や工夫の展覧会である。思い切ったものや、セツナイもの、又は御尤も至極なのや、呆れ返らせられるものなぞが、それからそれへと果てしもない。
 そのどれもこれもが、申し合わせたように一致しているのは、「何でも驚かしてやろう」という気分である。
 尤もこれは表通りの競争の烈しい町並に多く見受けるのであるが、裏通りでもこの気分は多少に拘らず流れている。
 中にはコリント式やイオニヤ式、ドリヤ式なぞいう恐ろしく気取ったのもあるが、しかしその生地がセメント塗りで恰好だけ作ってあるので、却《かえっ》てつまらなく見える。
 それよりもルネッサンス式の変化したもの、ゴシック式を今一層シツッコクしたものなぞが光っている。その中でも又一番活躍して眼を惹くのは、セセッション式以後の新様式を用いたものである。
 未来派式、印象派式はもとより、何という式かわからぬが、往来に面した窓を様々の形にして色|硝子《ガラス》と鏡をチャンポンにはめ込んだり、要りもしないバルコニを突出して白ペンキ塗りの格子を張りまわしたり、外側の壁をわざと板張りにして色ペンキで表現派模様を塗りコクッタリ、そのほか、飾り煉瓦や色の付いた壁土であらん限りの模様を工夫して、屋根の形や柱の恰好までも変化を与えている。
 特別に変ったのでは、青黒いセメントで陰気な牢獄のような四角い家を作り、前にタッタ一ツ孤光燈を燭《とも》している(水銀燈ではなかったとも思う)のがある。
 亜剌比亜《アラビア》式の平べったい煉瓦積み(煉瓦は板壁にペンキで描いたもの)に、カーキー色と赤のダンダラの日除けを張りまわしているのがある。
 復興《ルネサンス》式に支那式の色硝子の窓をはめて済ましているかと思うと、小学校のような平凡な家に北欧式の急傾斜な屋根を乗っけている……その近所に露西亜《ロシア》式の旧教会のような丸屋根がある……洋館に破風作りがある……と思うと、南米やアルプスあたりの絵はがきにある丸木小屋をわざわざこしらえたのもあるといったような始末……で、一面から見れば世界各国の建築様式の掃き集めと云ってよい。
 ショーウインドや内部の模様はあまり管々《くだくだ》しくなるから略するが、要するに外観と同様変化自在で、その大部分は俗悪な壁紙、色ペンキ、又はケバケバしいカアテンや鏡の応用であることは云う迄もない。
 東京人は、その家が地震で潰れて、大火で焼けてしまうと、すっかり気がかわった。今までの江戸時代の名残、又は明治時代の建築の中にジッと我慢していなければならぬ境遇から、一時に解放された。
 同時に、地震と火事でみじめにたたき付けられた気持ちのする反動が、これに加わった。そこへ市区改正を予期した、一時|間《ま》に合せの気分が加わった。
 そうした気分の東京人は、与えられたバラック建築の自由自在な手軽い特徴を利用して、持っている限りの建築趣味を発揮した。有らん限りの智恵と工夫とを表現した。その結果がこの通りだとすると、日本人の思想もあらかたこんなものではあるまいかと考えられる。誠にハヤ恐れ入った光景である。
 千変万化なバラック表現の底を流るる智恵と工夫の浅墓さ、そこに流るる一種の悲哀は、直ちに日本人のアタマの悲哀を裏書するものではあるまいか。
 こうした見かけばかり恐ろしく、派手な内容の、薄ッペラなバラック町の気分に朝から晩まで涵《ひた》っている新しい東京人の気持ちが、そうした影響を受けずにいられぬ事は誰しも想像が付く。しかし東京人の気分に影響するものは、単にバラックばかりではない。東京市内の交通機関、わけても電車と自動車がどんな風に人の神経をゆすぶっているかということは、「東京の裡面」を作る「東京人のあたま」を理解する上に就いて、バラックと同様の価値があるのである。

     全市が親知らず

 東京市当局の言明を聞いて見ると、電車は目下が極度の増発で、この上|殖《ふ》やせば到る処の停留所に電車の行列が出来るばかり――否、現在でもその傾きがあって困るとの事。こうなると、あとは地下線と高架線よりほかに抜け道がないとは、一般の所謂識者の観察である。
 何だか知らないが、こむ[#「こむ」に傍点]ことこむ[#「こむ」に傍点]こと。
「須田町は花の都の親知らず」
 と云うが、今ではその親知らずが東京中に拡がって、とても女子供や老人と構ってはいられない。生存競争とか優勝劣敗とか、適者生存とかいう学問上の言葉を、一番手っ取り早く説明するのは電車の昇降であるが、それにしても東京のはあまり極端である。そのせいか、この頃出来た新しい車台は、車掌と運転手の居る処を交通遮断している。そうでもしなければ運転不能に陥るかも知れない。
 そんならば空いた電車は一つも無いかというと、そうでもない。非常に混んでいる反対側の線は、大抵ガラ空きだから、いよいよ困る。
 東京に来てから二週間ばかりの間に、停電と架線修繕のための停車を各二度と見たが、僅かの間に数町の間電車の行列が出来た。その行列のおしまいをのぞいて、際限が見えなかったことも一度あった。それは小川町でのことであった。
 九月の二十八日か九日であったと思う。午後七時頃、小川町の交叉点の架線工事が、十五分間、三方の電車を喰い止めた。その間に電車から降りて歩き出した人で、往来は人の波を打った。電車が動き出してから、その人の波がどこまで続いているか見ていたら十二三町に及んだ。
 電車を降りてあるき出す人の心理状態はいろいろであろうが、十五分位の停車で、しかも架線工事だから山は見えている。いくら降りても知れたもので、記者の見たところでは全車台の三分の一位にしか見えなかった。それで往来は博覧会の出盛りのようになるのだから、全く恐ろしい。これで電車が無かったら、東京の町はどんなになるだろうと思わせられる。
 或る人の話に依ると、震災の時に約百万の人々が狂気のように東京を逃げ出した。そのゆりかえしが今やって来て、以前の東京の約一倍半位にはなっている。
 その中には東京の復興が釣り寄せた人間が大多数を占めている。今東京に出れば、仕事が多くて、賃金が高くて、生活が安い。東京は一躍して新開地になった。新しい東京は今や新しい血と肉の力で復興さるべく飢えているのだ。行け行け……といったような気持ちで押し寄せた人々の大多数は、自動車や何かに乗らない。電車に乗るにきまっている。「だからこんなにこむのだ」と。成る程さもあろうかとうなずかれる。
 序《ついで》に説明しておくが、この頃の電車には早朝の割引時間のほかに、急行時間というのが出来た。これは遠距離から往来する腰弁や労働者の便利を図るために出来たものらしく、朝は六時前後から三時間内外、午後は三時頃から四時間位、すべての電車が急行時間という札をかける。小さな停留場には一切止まらず一気に走って、重立《おもだ》った停留所や乗り換え場所だけ拾って行く。或る意味から見れば、東京がそれだけ広くなったとも云えよう。
 震災後東京市内は、事務所といわず商店といわず、大抵はバラックで間に合わせて、主人を初め雇われ人は成るべく市外から通おうとする傾向がある。
 一方に、遠からず市区改正があって、どこが取り潰されるかわからぬという考えがあるために、大層なシッカリした建築が出来ない代りに、矢鱈《やたら》に東京の町は横へ広がる事になる。そこへ郊外生活に対する憧憬《あこがれ》とか、又は経済上、精神上なぞのいろんな原因が手伝って、東京市外の最近の発展は驚くばかりである。二里三里の遠方から来る労働者は珍らしくなくなって来た。
 こうして無暗《むやみ》にダダッ広くなった東京に、電車の急行が必要になったのは、当り前過ぎる位当り前の事である。
 この頃ならば午前の六時半から九時半まで、午後は三時半から七時半まで、合計七時間というものが東京中の電車を急行にする。小さな停留場には止まらないから、市内でこまかい用事を足すことはなかなか困難である。今に東京がもっと広くなったら、今一つ急行電車専用の線路を作らねばならぬかも知れぬ。否、現在でもその必要があり過ぎる位あるのであるが、遺憾ながら今の東京の道幅では不可能である。結局、小さな停留場を廃して、朝から晩まで急行にせねば追付《おっつ》かぬようになりそうな傾向が見える。そうなったら、今の乗り合い自動車は勿論の事、人力車が幅を利かし始めるような奇現象を呈するかも知らぬ。否、現在でも急行時間には人力車が繁昌するそうである。
 福岡あたりの電車は、小さな停留場を無闇《むやみ》に殖やして、お客を拾うことに腐心しているようであるが、東京では正反対だから面白い。

     一寸坊揃の女車掌

 東京は広くなるばかり。
 人間は殖《ふ》えるばかり。
 電車はこむばかり。
 この三ツの「ばかり」のために東京市民がどれ位神経過敏になるかは、実際に乗って見た人でなければわからぬ。
 前に云った電車の昇降口の生存競争、優勝劣敗から来る個人主義は車の中までも押し及ぼされて来ることは無論で、時と場合では、福岡あたりでは滅多に見られぬ、釣り皮の奪い合いまで行われるようになっている。
 世間は広いもので、たまには老人や女子供に席を立ってやる人もないではないが、ごく珍らしい方で、見付けたが最後、早く腰をかけなければすぐに失敬されてしまう。同時に、初めから腰なぞをかけようとは思わない覚悟の人も多いらしくて、却《かえ》って夕刊を読むために、電燈に近く陣取って動かない人なぞがチョイチョイ見うけられる。
 車掌はこれと反対に、益《ますます》冷静になって来たようである。これも一種の個人主義であろうが、車内が雑踏すればする程、彼等は落ち付き払って、只義理に声ばかりかけているのが多い。
「もっと前の方に行って下さいよ。降りる時にはチャンと卸《おろ》して上げるから。掴まって下さい。動きますから。オヤオヤ又停電か。どうも済みませんね。尤もこの電車ばかりではありませんがネ。一つコーヒーでも準備しますかね」
 といった調子で、まるでお客を馬鹿にしているが、それでもお客は笑いも怒りもしない。生活に疲れたあげく、こうした電車に押込まれて神経過敏になった人々は、イヤでも青黒く黙りこくった個人主義になって、只気もちばかりイライラするのをジッと我慢しているという姿になるのは止むを得ない事である。このような烈しい個人主義的の神経過敏たるべく、朝夕訓練されている東京人が、どんな性格に陥って行くか、どんな文化を作り得るか……これも想像に難くないであろう。
 電車の次には自動車である。
 東京市内に自動車が驚く程殖えた事、その流行や、ガソリン、運転手なぞの事は茲《ここ》に詳しく報道したから、此処には省いて、只種類と感じに就いて二三説明しておきたい。
 死体や罪人を別として、東京市内の人間を運ぶ自動車の種類がザッと四ツある。第一は自家用自動車で、震災後一番殖えたのはこの種類である。某自動車会社の専務取締の話に依ると、現在の東京人は「家よりも自動車」という傾向で、万一事ある場合はこれに乗って、という……矢張り地震と火事に脅かされた一種の個人主義のあらわれだそうな。いい自動車を一台置くのと、県知事を一人飼っておくのと同じ位の費用だというから、かなり相当の身分の人々にも、こうした貧民のソレと同様のみじめな個人主義が侵入して来たと見える。一寸《ちょっと》面白いような、悲惨なような、又は恐ろしいような気もする話である。
 次はタキシーだの何かいう貸自動車と辻待ち自動車で、福岡のメートル自動車と同様なものである。賃金は東京の真中から端までが平均三四円程度であろう。三人も乗れば人力車より安いが、これにはチップを遣る場合が多いからかなり高価《たか》いものに付く上に、行きと帰りの賃金が一定しない欠点がある。それから、辻待ちは殆ど東京市の目抜の通りにしか居ないので、ちょっとオックウな場合が多い。
 その次は私営の乗り合い自動車で、型のズッと大きいのが幅を利かしている。角の丸い四角型で、艸緑色《フーガスグリーン》に塗って、お尻の処にお化粧の広告を貼付けている。中には腰かけと釣皮があって、ギッシリ詰めたら二十人位乗れよう。賃金は一里三十銭位でもあろうか。電車を追い越し追い越し行くので、割り合い乗り手がある。
 運転手は電車のような制服を着た男で、車掌は福岡あたりの女学生と寸分違わぬ姿の若い女である。どっちが真似たのか知らぬが、前にガマ口の大きな位の鞄を下げていなければ、とても区別は出来ぬ。
 も一つ面白い事に、どれもこれも揃って一寸坊の姉さん位のばかりだから、どういうわけかと思ったら、これは車内の天井が低いので大きなのを採用しない結果だと、或る「通」が教えてくれた。初めは随分|別嬪《べっぴん》が居たが、切符を売る序《ついで》にほかの約束まで売るので、とても長続きがしない。今残っているのは極めて現実的な売れ残りばかりだと、序にその「通」が説明してくれた。「それはちと怪しい。万更《まんざら》でもないのが居るぜ」と云ったら、その方が怪しいと云う。何が怪しいと云ったら、怪しいと云うから怪しいんだと……何だかわからなくなった。

     半狂人を作る都会

 市営の乗合自動車で、俗に「円太郎」というのがある。話の種に是非一度乗らねばと思いつつ、ついに光栄に浴し得なかったから詳しい事は知らぬが、見かけばかりでなく内容までキタナイのは事実である。ガタ馬車を自動車にしたようなもので、運転手に帽子を持たない奴などが居るところは、市営とも思えぬ位である。その代り賃金はずっと安くて、速力は私営のとあまり変らない。車台の数も多く、盛にブーブーやっている。人も相当に乗っている。客種はズッと落ちる。
 あんまりこれでは不体裁な上に収支相償わぬからと、市で廃止しかけたら、運転手連がストライキ……ではない、その反対の運動をやってとうとう喰い止めた。
 そこで市でも考えて、今度は新しいハイカラなのを作るというので、その見本を市会議員が下検分したのが十月の上旬であったと記憶する。
 以上述べた私立乗合いと円太郎自動車は、東京市内の主として下町の目抜の通りにそれぞれ停留場を作って活動しているのであるが、東京市内はこんな自動車が引っ切りなしに飛び違う上に、無数の貸物自動車や公私用のサイドカー、オートバイ、自転車と往来を八重七合に流れているので、ちょっと往来を横切るにも、耳に飛び付くようなベルや警笛の音を喰らわせられる。
 云う迄もなく震災後には特別に繁華になったので、雨天の時なぞ、こんな自動車が警察|除《よ》け(これは自動車のタイヤの横に警察の命令で取り付けたハネ押えの異名で、何の役にも立たぬが多いから、運転手仲間でこう名付けている)をふりまわしながら、電車と一所《いっしょ》に泥煙を揚げて群衆に突貫して行く光景は、壮観? というも愚かである。
 こんな風だから、辻々に立っている交通巡査や電車の旗振りでも、生やさしい事ではつとまらない。見る間に電車や自動車が畳み重なって、盛にベルや笛を鳴らして催促をする有り様は、見たばかりでも神経衰弱の種である。
 ちょっと余談であるが、この交通巡査の身ぶりを見ていると、なかなか面白いものである。電車の旗振りの方は旗でさしまねくのだから、あまり眼には立たぬが、交通巡査は大抵白い手袋をはめて、手ぶらで交通を支配するのだから、その身体《からだ》付きや手よう[#「よう」に傍点]、眼よう[#「よう」に傍点]に自然と個性があらわれていて、小学生なぞが遠くから真似しているのをよく見受ける。
「ホラ、お出《いで》お出だ。今度はフラフラダンス。失敬失敬。体操だ体操だ。オイチニオイチニ。又かわるよ。赤旗になったから……」
 なぞとやっている。驚いたのは、女学生がこんな事によく気をつけている事で、山の手線電車の待ち合いで大勢寄って、真似し合って笑っているのを見た。
「須田町のはこうよ……駿河台下のはこうよ……」
 といった風で、名前ばかりでも十二三聴いた。その中で記者のノートに残っているのは、
 まねき猫、お湯|埋《うず》め、蠅追い、スウェーデン式、鰌《どじょう》すくい、灰掻き、壁塗り
 なぞ……女学生と小学生と名前のつけ方が違っているところが面白い。
 こんな風に電車の中ばかりでなく、普通の往来まで緊張して来たことは非常なもので、殊にその音響と来たらちょっと形容が出来ない。東京の悪道路の事は前に書いたが、それだけに自動車や電車のわるくなり方も甚だしいと見えて、さなきだに八釜《やかま》しい往来が一層烈しくドヨメイて、肩を並べながら話しも出来ない有り様である。
 その中を只専心一途に自分の方向を守って、眼を光らし、耳を澄まして行かねばならぬのが東京人の運命である。そのためにその神経は益《ますます》冴え、その気持ちには余裕が無くなって疲れ易く、興奮し易く、泣き易く、怒り易くなる運命に陥ることは云う迄もない。
 以上述べたところで、東京の新しい町と交通機関が与える感じは、あらかた説明し得た事と信ずる。
 こうしたバラックの安ッポイ強烈な神経にあおられ、交通機関の物凄い雑踏に押しもまれた東京人の神経が、如何にデリケートなセンチメンタルさにまで高潮されているかは、想像に難くないであろう。
 警察で自由恋愛論をやる女学生……今の夫を嫌って前の夫の名を呼びながら往来を走る女……それを間男と間違えて追っかける男……世を厭《いと》うて穴の中に住む男……母親にたった一度叱られただけで自殺した女生徒……五円の金を返せないので自殺した妻……逃げた犬を探して公園のベンチに寝る男……なぞいう、狂人に近いあわれな人間の事がこの頃の新聞に多く見受けるようになったのは、そうした東京人の心理状態を強く裏書しているのではあるまいか。
[#ここから巻末まで2行目以降3字下げ、本文とはアキナシ]
  ▲備考[#「備考」に傍点] この傾向は紐育《ニューヨーク》のような大都会になると一層烈しいので、同市の自殺原因の統計の中には、朝牛乳瓶が割れたためとか、ヘアピンをなくしたためとか、又は学校に遅刻したためとかいうような物凄いのが驚くべき多数に上っている。
[#改頁]


   商売の巻



     最新式「無言の正札」

 或る哲学者がこんな事を云った。
「おかめ[#「おかめ」に傍点]とヒョットコの小さなお面を背中合わせにして、中に笛を仕込んだオモチャが昔あった。あのおかめ[#「おかめ」に傍点]の愛嬌が『商売』を象徴《あらわ》し、ヒョットコの仏頂面が『生活』を標示している。これを両方から押えるから、ピーピーと世間が成り立って行くのだ」
 そのつもりで東京人の商売振りを観察して見る。
 ボンヤリと浅草に来て見る。ここならいろんな商売があるだろうという了簡《りょうけん》である。
 雷門前の仲見世は昔にかわらぬ繁昌で、雨の降る日でも一軒二百円の収入があるというが、何だかあまり儲かり過ぎるようだから噂だけにしておく。
 どの店も大勢の人通りの前にズラリと商品を並べているが、どの店もどの店も黙りこくった愛嬌のない顔が並んでいるのが一寸《ちょっと》眼につく。無論、立寄ればすぐに、「入らっしゃいまし」とか何とか黄色い声を出すが、さもない時は口を一文字に閉じ、つまらなさそうな眼付きをして往来をジロジロ見送っている。
 紅梅焼きを焼く銀杏《いちょう》返しを初め、背広を着て店に並んで、朝から晩まで三円五十銭の蓄音機を鳴らす三四人の青年、お人形のお腹を鳴らすお神さん、猫や兎のオモチャを踊らすお婆さん等、どれもこれも買って下さいというような顔は一つもない。只まじめ腐って、生き人形のように手を動かしているばかりである。
 震災後二三ヶ月の間のここいらはこんな事ではなかった。皆声を限りにお客を呼んで、素通りをしても昂奮《のぼ》せ上る位であった。これが今では、「入らっしゃい」とも「如何様」とも何とも云わないから、何だか浅草らしくないような気がする。
 しかし考えて見ると、いろんな呼び声を出してお客の反感を買うのは野暮の骨頂である。こうして品物を並べたり動かしたりしているのが、最も適切に「イラッシャイ」や「イカガ様」を表現している事は見易い道理である。
 しかもその品物のどれにもこれにも、一つ残らず大きな正札が付いているから、一層現実的である。中には五六間離れても見える位大きな価格札《ねだんふだ》があって、品物に依っては札の下に隠れてしまっているのもある。この辺が浅草式であろうか。
 こうした現代式は単に浅草の仲見世に限らない。第六区の方へ抜けて行く左右の通りの店はみんなそうである。
 かなり大きな洋品店でも奥の方から一々持ち出す模様はなく、洗い浚《ざら》い店に並べて、一ツ残らず名刺型の紙に洋数字を書いてくっつけている。
 中には半紙三枚続き位の西洋紙に、
「可驚《おどろくべき》提供《ていきょう》……二円八十銭」
 と色インキで書いてブラ下げて、その下に相当な中折れ帽を硝子《ガラス》の箱入りにして、店の前に出してあるのもある。つまり値段を看板にしたわけである。「薄利多売主義」とか「負けぬ代りに安い」という看板は、こんなのに比べるととても廻りクドくて問題にならぬ。
 但、その帽子を手に取って見ると、途方もなく大きいので誰も買おうとしないが、それでも相当に人だかりがしている。この辺も浅草式の代表的なところであろう。
 そのほか浅草のカフェーの菓子、握りすし、盛すし、天プラ、印形、青物なぞ、何でもカンでも正札付きで、中には支那料理の折詰なぞいう珍品もある。

     無正札は「女」だけ

 浅草辺の店ではショーウインドに凝った趣向なぞを用いない。旗や看板なぞを極端に派手にする代り、店の中は窓も棚もテーブルも一面に商品を並べて、悉《ことごと》く大文字の正札をつけておく。いらっしゃいとも何とも云わぬ……という式が多い。
 こうしておけば、買わぬはお客の自由というように見えるが、実はそうでない。安いものは通りかかりにでもちょっと眼に付く。ふりかえる。立ち止まる。よく見る。ほかのと見比べる。気に入ったのがあれば買う。無ければ買わないという直接法の一点張りで、品物のよしあしは別として、まことに手数がかからない。
 流石《さすが》に丼屋や何かいう喰物店は実物を並べて正札をつけてはないが、それでも中に這入《はい》ると壁一パイの正札である。喰べる処は大抵椅子|卓子《テーブル》式で、腰をかけるとすぐに、
「何に致しましょう……畏《かしこ》まりました……エエ、五十銭に八十銭に一円……一円二十銭と四通りで……」
 とあたりに響く大きな声で正札を云う。これに屁古垂《へこた》れる人間は浅草で物を喰う資格はない。
 ギリギリ決着のところ、浅草で正札の付いていないものは、「女」だけと云ってもいい位である。
 こうした大文字の正札式は浅草ばかりではない。神田、本郷、牛込あたりの第二流の繁華な通りはもとより、銀座あたりの一流どころにもポツポツ見受けられる。しかしこの式の最も盛なのは浅草で、ここを遠ざかるに従ってチラリホラリとなって行くところを見ると、この式の開山は矢張り浅草で、ここを中心として東京の商売は「現実化」して行くのではあるまいかと考えられる。
 そうして仲見世の実地試験応用の無言の行は、現実式中の現実式と云うべきであろう。
 こんな事を云うとその道の人に笑われるかも知れないが、論より証拠、こうした正札一点張りの店で買ったり喰ったりしたあと、正札の付いていない店へ行くと、何となく不安心な上に、一々店の人に出してもらったり、価格を聴いたりしなければならぬので、恐ろしく面倒な気持がする。
 店の方では叮重《ていちょう》なつもりかも知れぬが、忙しい人間にとっては迷惑千万である。そんな事で手間取らせられてはたまらない。おまけに小僧や女店員がわからないで番頭の処に聞きに行ったりすると、いよいよそうした気もちになる。
 殊にお世辞や、お愛想はまことにうるさい。余計なものまで買わなくてもいいのに買わされるような気がして、一種の不愉快さえ覚える。それを思い切ってやめると、
「まことにお気の毒様」
 と心からあやまられて、逃げるように表へ出てホッとするような事が珍らしくない。
 浅草ではそんな気兼ねは向うにもこちらにも無い。お金はこちらのもの、品物は向うのもので、あとは「もの」と「ねだん」の相談ずくで済む。しかも売り買いの中心は要するにそこ[#「そこ」に傍点]だけである。そこ[#「そこ」に傍点]を最も露骨に大道に表現しているから、浅草の店は現代式と云い得るわけである。追々《おいおい》と世の中が世智辛《せちがら》くなって来たら、こうした正札一点張りの無言の商売が大流行《おおはやり》をするようになりはすまいか。
 こう考えて来ると、浅草の観音様はエライものである。この無言と正札一点張りの仲見世の商売振りに、今一層輪をかけた商法《あきない》の名人である。第一正札も無ければ、「毎度有り難う」も云わぬ。御利益のねだん[#「ねだん」に傍点]は向うで勝手にきめて、ドシドシ賽銭《さいせん》箱に放り込んで行くのだから、お手に入ったもの。しかも自分ばかりでなく、まわりに大黒様だの何だの彼《か》だのと、数十の神仏に元手要らずのデパートメントストアを出させて、何百年間大繁昌をして御座るのだから恐ろしい。おまけに御本体が一寸八分の黄金仏だとも云うし、木仏だとも云う。本当に御座るか御座らないか、それすらわからないのだから驚き入るほかはない。理想的と云っても現実的と云っても、天下これ以上の商法の名人はあるまい。

     犬と羊と熊の皮

 扨《さて》……観音様の商売振りには及びもないが、日本中の商店が浅草式の「無言正札」で、時間と人間経済の現代式一点張りになったとする。そうしたら只さえ人口過剰の日本は、フン詰まりになりはしまいかと云う人がないとも限らぬが、「心配無用」……。
 雷門をくぐって、観音様の前を左へ行くとすぐにわかる。
 第六区へ行く途中の往来に茣蓙《ござ》を敷いて、白や黒や茶色の毛皮を十五六枚並べる。その上に日に焼けた若い男が前垂れをかけて鳥打を冠って、しきりにベランメー語を高潮している。
「どれでも構わねえ、手に取って見ておくんなさい。正真正銘の熊の皮が犬や猫の皮とおんなじ[#「おんなじ」に傍点]値で買えるんだから、安いと思ったら持ってっとくんなさい。二枚か三枚はけ[#「はけ」に傍点]れあ、あっし[#「あっし」に傍点]等《ら》あ帰《け》えるんだから……。
 あっし[#「あっし」に傍点]等あ、ふだん北海道に出かけている皮商人《かわあきんど》ですがネ。ちょうど北の方の千島、カムサツカ、北海道の山奥あたりから引《し》き上げて来る熊の皮屋から皮を仕入れて、あと月の半ばに東京へ着いたんです……。
 ところで御承知の通り、毛皮商人《けがわあきんど》ってえなあ半期取引ですから、今コレだけの皮を捌《さば》いても、この節季でなくちゃ金が取れねえ。そこへ金の要ることが出来たんで、こんな事をやっているんですがネ。慣れねえから、失礼なことを云ったら御免なさい。だが本物の熊の皮が二十円や三十円じゃ、あなた方の手には這入りっこない。御承知かしらねえが、熊の皮には二十八通りあって、価格《ねだん》もいろいろあるが、これは北海道の羆《しぐま》の皮だ。こんな立派な皮で、この通りお上《かみ》の検査済みの刻印の付いた奴が、只の十円と云いたいが、思い切って八円半までお負けしとく……。
 御存知か知らないが、皮のなめし[#「なめし」に傍点]は東京が一番ですよ。梅雨時になって虫の這入るような事は絶対にない。その代りなめし賃が高価《たか》い。差引くとあとは幾何《いくら》にもならないのを、今云ったようなわけで捨て売りにするんだ……。
 失礼ながら皆さんは職業紹介所のアブレじゃあるめえ。バラックの東京から鉄筋コンクリートの東京になるまで奮闘しようという人だろう。そのバラックの寒さを凌《しの》ぐにゃあ、これが一番だ。ボロボロ綿の晒《さら》しグルミの夜具を買ったって、五円十円は飛んで行く。それがどうです、この熊の皮が八円半だ……こっちの大きい方は二十円コッキリと云いたいが、もう仕舞い時だから只の一本半……十五円に負けとく……。
 それからどうです……こっちの白いのは……これが北極の氷山に住んで人を喰う白熊だ。五十や百のハシタ金で手に入る代物じゃない。これが昨日《きのう》までは四十五円と云っていたが、今日は諦めて四十円にしておく。惜しいけれども仕方がない。その上負けろったら四十一円だ……どうです、買いませんか旦那……まったく末代道具ですよ……こっちの親方あ、どうです……」
 こう聴いているうちに、扨はバラック住居《ずまい》の連中の稼ぎ溜をねらっているなと感付いた。しかしそれにしてもあんまり安過ぎるから、調べて見たら、みんな黒犬と羊の皮だと聴いて開いた口が塞がらなかった。
 その後気を付けたら、方々の縁日でやっているので、益《ますます》驚いた。とても「無言正札主義」なぞの及ぶところでない。つくづく日本は広いと思わせられた。

     一円七十銭争奪戦

 前に述べた「無言の正札主義」と「おしゃべりのゴマカシ流」とは、現代式営業の両極端を見せている事になる。これに観音様の「無言の無正札」式営業振りと、境内の乞食の稼ぎ振りと、チンピラの掻《か》っ泄《さら》い生活、立ちん坊の働き具合まで加えると……大きく云えば人間世界……小さく見れば全東京のあらゆる商売振りを代表したものが、十八間四面のお堂のまわりに集まっている事になる。
 但、これは昔からあるので、今度震災後特に眼に付いたのは、その売り物の価格が向上した事と、そのねらっている客筋が違うことである。
 毛皮売りは大道商人の中でも一番|高価《たか》いものを売るのだそうだが、まだこのほかにも一円以上のものを大道で売るのが沢山居る。
 万年筆売り(一円位から十四五円)、友禅《ゆうぜん》のセリ売り(負けたところで一丈五尺一円二三十銭から三四円まで)、ガスの靴下やメリヤスのシャツの糶売《せりう》り(前同様で一円から四五円まで)、銀台|鍍金《めっき》の銀眼鏡と鎖売り(三四円から七八円)、水晶の印形売り(同じく一円以上)なぞ数え立てて来ると際限もない。五銭や七銭のものは震災後ズッと減ったので、縁日物と云っても馬鹿に出来なくなった。
 こんな縁日商人は上等のところを一つ売れば、二三日乃至一週間は楽に喰えることが、品物のタネを洗って見ればすぐにわかる。
 靴下は二度染め。シャツは洗い返しで、糊とアイロンが巧妙に利いている。硝子《ガラス》の水晶、鉛やアルミの鍍金《めっき》鎖なぞは説明までもない。友禅と名づくるものは、浅草の活動館のメリンスの旗や何かを強い薬で色を抜いて、印刷同様の片側染めにしたもので、汗が出ると肌に染みる、引けば破れるという代物である。
「天保銭一枚がもう無くなった」というのは疾《とう》の昔の事。三人で一円持って浅草に行って、活動を見て、すしを喰って、それで電車賃が余るか余らないかという十年前の勘定でさえ、今はもう夢の夢となっている。
 昨年か一昨年かの事であったそうな。観音様のまわりに居る興行師が寄り合って、面白い統計を作った。その統計の眼目となっているものは、浅草に来る人々の懐にいくら金があるかという事である。
 これはその組合の仕事の標準となるべきもので、非常に厳密な且つ巧妙な手段に依って作られたものだそうだが、その結果、あの雲霞の如く浅草に押し寄せる人々は、平均三人で五円の金を持っている事がわかった。それが現在の浅草に於ける芝居、活動の観覧料の標準となり、延《ひ》いて日本全国の活動や何かの料金にも或る影響を与えている訳である。
 取りあえず三人で五円持って浅草に来ると、一人前七十銭の活動を見て二円九十銭残り、二円九十銭で何か食べようか、それとも今一つ何か見ようかという事になる。
 浅草の空に翻る旗差し物、鐘、太鼓、鳴り物の響き、鬨《とき》の声、矢叫《やたけ》びの音は、皆この一人当たり一円六十八銭弱の争奪戦のどよめきと見るべきである。
 但、これは平均の勘定で、殊に大事に大事を取った数字だそうだから、実際はもっと余計に持っている者がすくなくないわけである。その中でもどんな客筋が一番余計金を持っているか。浅草に来る最上のお客様は矢張り昔の通り赤|毛布《ゲット》諸君であるかどうか。
 浅草一帯の店の「正札無言主義」は、明らかにこの狙っている客筋が田舎者でない事を証明しているが、更に一層ハッキリと説明するものは前に述べた縁日商人の口上である。

     大貴金属商の失敗

「どうだい、本型の友禅だ。しかも最新流行の埃及《エジプト》模様と来ている。京都の織元で織り上げたところで疵《きず》が出来たから、こうして切って売るんだ。一丈五尺以上あるんだから、帯の片側と繻絆《じゅばん》の袖位は楽に取れる。バラックの窓かけにでもしたら素敵なものが出来る。手土産にして大したもんだ。一尺の元値が三十銭だから、これだけで四円五十銭になるんだが、負けて三円……二円半……エエ、ヤッチマエ……二円だ……一円八十……」
「甲州産の水晶は世に定評あるところ、殊に印形となりますと、水晶のに限って贋ものが出来ませんから、まことに重宝で御座います。この節のお仕事を遊ばすには、印形ほど大切なものは御座いません。水晶の印をお用いになれば、彼《か》の新聞に出まするような恐ろしい詐欺や横領、その他文明社会に流行しまする法律悪用の悪漢の毒牙にかかる患いは一切ございません。わけてもこの東京に於てお仕事を遊ばすお方様には、特におすすめ致します。指紋は間違うとも、水晶の印だけは間違わぬ。文明の悪徳退治、地位と名誉と財産の守り神と云われる本場水晶の印が、御覧の通り一円から十五円まで取り揃えて御座います。お高価《たか》いようでお安いもの……」
「エエ、これが畳針《ふとはり》でございます。厚いものをお綴じになるので、市中の相場が一本十二銭。これが大皮針の十銭に、中の七銭、小さいのが五銭。先の処が鋭利な三角になっておりまして、舶来のトランクでも楽に通ります。その他|木綿《もめん》針、メリケン針、絹針、刺繍針、合わせて三十本で僅か二十銭……これだけあればどんな縫い物でも出来ます。奥様やお嬢様へのお土産はもとより、独身生活のお方の福音として歓迎されております。サックまで付けて今夜は只の十五銭……折れるの曲がるのという御心配のないメリケンスチールの精製品……ハイ只今――」
 これだけの口上を聞けば、浅草に来る人々にバラック住居《ずまい》の稼ぎ人が多勢居ることがわかるであろう。そんな連中が、こんな品物に釣られる程度に東京慣れしない田舎者で、しかも、懐《ふところ》具合いは割り合いにいい事が推測されるであろう。
 いずれにしても浅草は昔の浅草でなくなった。赤毛布《あかゲット》が上花客《じょうとくい》でなくなった。現代式とか文化的とかいう言葉を理解する新東京人……半田舎者を相手にしていることがわかるであろう。
 その中に観音様だけは、昔の通り純江戸ッ子と純|赤毛布《あかゲット》だけを相手にして御座るわけになる。
 新東京人――即ち半分東京化したバラック住民の偉大な勢力は、単に浅草の商売に反映しているばかりでない。第一流どころの大商店の商売振りにも明らかに影響しているのである。
 全国的に有名なる貴金属商店では、地震が落ち付かぬうちに全国の各都市に支店を作って、有らん限りの品物を送り付けた。もう東京は駄目だ、その代り地方が繁昌するに違いないと、機敏なところを見せたつもりであったらしいが、豈計《あにはか》らんや事実は正反対になった。
 昨年の冬から今年の春へかけて、貴金属や宝石の売れる事売れる事。但、それは大抵中等以下の品で、買いに来るものは、十中八九まで大工、左官その他の労働者の家族であった。
 遷都の御沙汰がないときまった復興気分の凄じさ。その反対に人手は不足と来たので彼等の恵まれた事。大工や左官なら仕事の真似さえ出来れば一日五円六円という景気で、銀行や会社が地震をキッカケに大淘汰や大縮小をやったのと正反対の現象を呈した事。その勢《いきおい》が東京市中に数倍の飲食店を作り、安流行、安贅沢品を流行《はや》らせると同時に、かような大商店にまでも影響したので、一時は実に物凄い程の売れ行きであった。
 その貴金属商の支配人は驚くまい事か、各支店に「品物を大至急送り返せ、あとは店を畳んで引返せ」と、電報の櫛の歯を引いたという喜劇をやったそうな。

     眼を驚かす眼医者

 今一つこれも全国的に名を知られている或る百貨店《デパートメントストア》では、地震後の東京を見限らずに、却《かえ》って大拡張をする方針を取った。即ち本店を復興すると同時に、東京市内各区に一つ宛《あて》デパート式のデパートを作ったが、それがズドンと当って繁昌するわ繁昌するわ。尤《もっと》も一時その筋で各商店の品物を調べた時、味噌の斤量が足りなかったというので、「ミソコシが怪しい」という洒落《しゃれ》まで出来たが、それでも驚かずに盛に押寄せる。しかも品物を先ず支店に廻して、売れ残ったのを本店に持って来ると、忽ち売れてしまうという新発見をしたというので評判になっている。
 その各支店をまわってその売れ残りの特徴を聞いてみたら、各区民の生活状態を考えるために面白い材料になるだろうと思ったが、あまり大袈裟になりそうなのでやめにした。
 広告を見てもこの傾向――新東京人の勢力がわかる。
 先ず東京市内の大商店の広告をいろいろ見比べて見ると、第一に信用戦で暖簾《のれん》を守り、次第に流行戦に移って他を圧倒してやろうという気合いが見える。
 或る呉服屋が一流どころの画家を集めて裾模様の展覧会を遣ると、一方では西陣の腕ッコキ連を呼び出して友禅染の品評会をやるといった調子である。出来る限り一般の批評に訴えて信用ある仕事をしたいという傾向が、震災後すべての方面に見えるが、これなぞもその一つであろう。
 この辺まではまだ民衆的といいながら上品な方で、東京カブレをした田舎者釣りという気持ちがすくない。つまりバラック気分が薄い方であるが、この以下となるとそうした気味合いが特に露骨になって、地方人の眼をまわすような実例が到る処に発見される。
 尤も東京は元来こうした処で、何も今更驚くには当らぬと思う人があるかも知れぬ。又実際その通りであるが、只その風《ふう》がバラック以来東京の全市に拡がっただけが昔と違うのである。東京市中の最大と称する以下の商店は全部が全部、広告戦の人呼び戦と云って差支えない。その中で昔風の商売振りをしてこの風潮に対抗しているのは、前記の大商店だけと云ってもいい位である。
 言葉を換えて、東京の商売の中心である下町の商売振りは、全然バラック式になったと云う方がわかりいいであろう。実例を挙げるまでもあるまいが、眼に止まったままを前後お構いなしに左に掲げて見る。
「最新の学説である問題の『若返り法』はわざわざ九州クンダリまでお出《いで》にならずとも当店で達せられます。当店の最新流行の衣裳をお召しになれば……」
 云々の大文字をお祭の大|燈籠《どうろう》位の箱に書いて、下に禿頭と大|丸髷《まるまげ》が狸《たぬき》と手を引合ってダンスをやっている絵が描いてあるかと思うと、家伝「禿頭病専門名薬」という広告が何かの新聞に出ていた。いずれも九州帝国大学の向うを張ったものらしく、ここに書くのも失礼な位である。
 序《ついで》にお医者様の方を挙げると、或るお医者様は排米問題が起るとすぐに、表に「米国人の診察お断り」という張り札をして都人士の眼を驚かした。その註に曰《いわ》く……米国人は日本人を獣《けもの》扱いにした……そんな獣の眼まで診察してやる義務はない……と。今に親米になったらどうするだろうと思うが、そんな事は構わない。目下の人気さえ取れればというつもりらしい。

     「商品の民衆化」とは

 今一つ、記者の「眼」を驚かした眼のお医者がある。銀座尾張町の四辻で電車を待っていたら、袢纏《はんてん》着の男がビラを一枚|呉《く》れた。活動の引き札かと思ったら大違い。
「あなたの眼は健康ですか。文明社会の生活では眼ほど大切なものはありませぬ。眼の良し悪しは直《すぐ》に一身の安危になるのですから、不断の注意を怠ってはなりません。おわかりになりましたならば、○○ビルディング何号医学博士の診察所へいらっしゃい。何曜と何曜は診察無料です」
 という意味で、福岡市のお医者様でこんな事をやったら、忽ち仲間外れにされそうな広告である。
 人格と徳義を最も大切にするお医者様の、しかも何々博士と銘打った人までがこうした最新式の営業振りを見せる程、震災後の東京の商売は発達しているのだから、他は推して知るべしである。勿論、蒸溜水を注射して十円取るのと違って、国家に貢献する事は大であるが。しかもこういった式がバラック以来の流行である事は間違いない。先年、京都で或るお医者様がビラを配って大問題になった事を考えると、隔世の感があるのである。
 特に九大を有する福岡市のために書き添えておく。
 次に御紹介をしておきたいのは、「商品名懸賞募集」と「価格懸賞投票」という二つの広告法である。この方面の智識に暗い記者は未だ福岡市でこの種のものを見た事がないから、バラック式の一例として挙げたのであるが、珍らしくなかったら御免なさい。
 商品名募集というのは、鼻紙とか鉛筆とかいうものの新製品を、繁華な往来に並べて価格を付けておく。買いたい人は買うのであるが、その紙なら紙が上等なわりに価格が安いのに、何という紙か名前が付いていない。
 その側に大きな看板を立て、
「名前をつけて下さい
   (商品の民衆化)
 皆様の文化的要求に応じて
   新しく生れたこの紙に……」
 と大書して、締切り期日や審査員の文士? の名前となにがしかの懸賞金額が赤丸付きで発表してある。その傍《かたわら》には鉛筆五六本と紙と投票箱が置いてある。
 こうして一月ばかりして開票されると、投票数が何千何百人、当選者の氏名なぞをその往来に貼り出して、今度は名前入り引き札付きの紙を売るので、押すな押すなの盛況で売れて行く。
 次に価格懸賞募集というのは、たとえば或る洋品店で毛糸のシャツの山をショーウインドの中に三つ作って、一号から三号まで印を付ける。一方に一等賞から五等賞まで、十円以下の品物の賞品を二三十積み上げて、表にこんな大看板を立てる。
「当店が今秋の破格大安売りとして提供すべきこの品の一号二号三号までの価格を御決定下さい。公正なる発表を致しまして当選者には陳列の品物を一個|宛《ずつ》呈上致します。当店の社会奉仕的精神の発露は今や極度に……」
 云々と書いて、鉛筆と紙と投票箱が添えてある事は前の通りである。
 通りかかりの労働者、学生、紳士などは勿論、人通りのすくない雨の日なぞは、女子学生らしいのまで硝子《ガラス》窓の外から穴のあく程品物をのぞいては鉛筆をヒネクッていた。
 十四五日にして開票の結果は、総数二千有余、何円以下何円以上何名何名、一等八円いくら、二等六円何ぼ、三等五円なにがしと決定して、一等二等の当選者の宛名にした賞品の小包みが山積してあった。無論、その価格でドシドシ売り出している。
 以上は不道徳でない範囲の広告法で、殊に最後の二つは人通りばかりを相手にした極めて真剣斬新な広告法である。これ以下の不道徳な範囲になって来るともう数限りないので、東京の新聞の案内欄を見ただけで思い半ばに過ぐるものがある。しかも震災後そのようなものの増加は特に著しく、一々挙げたら際限がないから略する。
 これを要するに、以下述べたところで東京市内の中流以下の商店の広告が如何に平民化しているか……否、東京市内の商売振りが如何にバラック気分に充たされているかが容易にわかる事と信ずる。
[#改頁]


   生活の巻



     東京人の色別け

 この間の大地震と大火事とは、東京人の非常な多数を東京から追い出した。そのあとへそれ以上の地方人を迎え入れた。
 この推測は当らずと雖《いえど》も遠からずであろうと考えられる。交通機関の混雑ぶり、市内の商店の営業振りを見てもわかる。
 その新しい東京人は次第に都会化して、現在その中途半端なところに居る。各種の商店の広告振りや、大道商人のオシャベリ振りがこれを暗示している。その土地の商売はその住民の生活の反映とはよく云ったものである。
 この半分東京化した地方人の大多数に、従来から東京に居た人間の種類を加えて見ると、現在の東京にはどんな人間が居るかという事があらかたわかる。
 いの一番の筆頭は華族様、富豪なぞいう御方々で、東京では勿論の事、日本でも上流のパリパリ。汽車なら無論白切符か特等車で、自動車なら紋章入り、一台以上の格である。人数は無論震災前とあまり変らぬ。又|無暗《むやみ》にかわっては大変である。
 第二は知識階級を中心とした江戸ッ子と非江戸ッ子で、切符なら青赤混合というところ。自動車ならば無論持たず、プロ意識の最強烈な中流の種族である。
 この非江戸ッ子の中に学生と腰弁がいる。学生の方は家族同伴が些《すく》ない事と、東京の復興に直接努力をしない事を特徴としている。その代り最新式の気分を真先かけて高潮させる役目は、いつものがさずに受け持っている。腰弁の方は家族同伴でやって来た新分子が多い。しかも学生と違って、直接復興事業に携わっているのが半数以上と想像される。
 次は純赤切符(といっても小学卒業内外)階級の江戸ッ子と非江戸ッ子である。その中で後の連中には、各種の車掌や運転手(巡査級もこの中に入れていいかどうかは考慮中である)なぞいう壮年青年の男、又は若い女が多い。東京復興の下廻りをやる労働者、又は復興気分を飾る女事務員、給仕女といった人々で、現在の東京の各階級の中で最大多数を占めている事は、町を歩いて見れば一目瞭然である。
 以上の各人種の居る処を極く大まかに区別すると、中流以上は山の手から郊外に居るので、旧東京人が多い。それ以下が下町のバラックに居て新東京人となり、新東京の新文化を作りつつある事になる。
 このような各人種がどんな生活を営んでいるかという事は、面白い且つ大なる研究問題である。
 東京人の生活といっても一概に云えぬ。世界一の大都市だけに、上中下どれともつかぬ階級の人間や、思い切った変態生活者が夥《おびただ》しい。
 金鎖を下げた乞食……三年も湯に入らぬ富豪……家の無い自動車持ち……妾の四五人も居る無妻主義者……愛国的の名目を持つ亡国運動者……社会主義的団体名を振りまわす成り金崇拝者なぞ、数え立てれば限りもない。
 勿論地方にも居るが、東京には特別に多い。
 それは十把一カラゲに街頭から見た観察だから、多少の見損いは許していただきたい。

     百万円の花火一発

 今仮りに或る一文無しが百円の金を儲けたとする。
 その中から二十円を奮発して芝居見に行く事になったとする。
 これを聞いた人々が、
「ソレは身分不相応だ……ブル思想だ……二十円の金で何十人の飢が凌《しの》がれると思う……血も涙も無い奴だ……第一百円の金を儲けるのが不都合だ……大方泥棒でもしたんだろう……元来金というものはソンナに一人占めにすべきものではないのだ……ソレを自分の物のように心得て、事もあろうに芝居見に行くとは非国民の行為だ……国賊の所業だ……民衆の敵とは貴様の事だ……行くなら行って見い……打ち殺してくれるから」
 と罵《ののし》ったらどうであろう。
 罵しられた方は当り前の人間で、罵った方が馬鹿か気違いにきまっている。そうでなかったら、お金欲しさに血迷った奴である。こんなのがお金に有り付いたら、二割や三割どころでない、十割以上も飲み喰いして足を出す輩《やから》である。ブル以上のブル根性を発揮する連中である。だから平生貧乏しているのだと冷かされても仕方があるまい。
 ところが事実はこれを裏切った。天下の富豪大倉喜八郎氏が百何十万円とかを投じて賀筵《がえん》を張る。そのために支那から俳優を招くという事が一般に伝わると、真剣な意味で非常な輿論《よろん》を捲起《まきおこ》した。
 大倉家の財産がいくらあるか知らぬが、割合にすれば百円に対する二十円よりも小さいにきまっている。さあ新聞でタタク。何とか会員が脅迫に行く。いよいよ賀筵になると、警察が青くなって巡査に護衛させるという騒ぎであった。
 何がどうした、だれがどうなったという事は一つもない。只百何十万円という声に昂奮しただけである。大倉の爺さんが爺さんなら民衆も民衆で、馬鹿馬鹿しいと云おうか情ないと云おうか。日本のブルジョアとプロレタリアットとが、大体に於てコンナ浅薄なブル思想に囚われた議論で押し合っているのなら、どちらにしても「ドッチモドッチ」である……記者は街頭に立って夕刊を読みながら天を仰いで嘆息した。
 笑ってはいけない。記者は真剣である。国賊だの民衆の敵だのと、まわりくどい事は頭に浮ばぬ。只、「それだけのお金が欲しい」とシミジミ思わせられたのである。
 それはそれとして、日本の上流社会の一番ドエライところを代表したのがこれ位のところで、紀文《きぶん》や奈良茂《ならも》の昔語りよりも大分落ちるようである。
 この百万円の花火がタッタ一発上がった切りスッと消えてしまうと、あとの世界は又薄暗い不景気になってしまった。
 皇室では内帑《ないど》を御|約《つづ》め遊ばすという。浜口蔵相は大整理を断行するという。銀行は大合同になりそうだという。復興債券が売れたのは、不景気でもがいている人間が多いためだという。
 何だか知らぬが、東京市の内外に空屋が殖《ふ》えたのは事実である。新しいバラックもたしかに殖《ふ》えなくなったようである。それかあらぬか、浅草へある用事で一ヶ月ばかり通っているうちに、賑やかな店のかわったのがいくつも眼に付いた。中には半月ばかり置いて、二度も商売のかわった店を見受けた。尤《もっと》も、浅草の六区界隈の地代は一坪で三四十円は間違いなく取られるので、不景気だと真先にこたえるのはここであるが、それにしてもあんまり甚だしい。
 然るにこの不景気も、日本橋から銀座という東京目抜の通りに来ると、余り眼に付かない。三越、丸善、ホシ製薬、玉屋、天賞堂、白木屋と、まだいくらでもある有名な大商店、大銀行、大会社、大ビルディングがドシドシ復活して、古い暖簾《のれん》を振りまわしている。こうした大商店の復活は、或る一面から見れば、東京の貴族や富豪、又は中流以上の階級が、震火災の打撃をあまり受けなかった証拠とも云える。殊にそうした階級の連中は、純粋の田舎者と同様に大きな名の通った店から物を買うので、一層この事実を裏書していると云えよう。
 上流はこれ位にして中流に移る。

     地震|鯰《なまず》と大蔵大臣

「不景気の最もコタエないのは学生で、その次は腰弁だ」という。そう考えられぬ事もない。
 腰弁は月給、学生は為替《かわせ》で、いずれもあまり照り降りはないと云える。あるとすれば身から出た錆《さび》か、冬物の質受け、もしくは病気等いう内側から湧いた照り降りである。下層や上層の社会のように、仕事にアブレたり、行き詰まったり、破産したりするような心配は先ずない筈である。
 しかし腰弁は、不景気となると、「首」という問題が起る。さもなくともボーナスの減少と来るから、照り降りはなくとも心臓には応える。寧《むし》ろ極度の貧血に陥るものが多いので、結局ノンビリしているのは学生ばかりとなる。
「ジョジョ冗談じゃない。東京はこの頃とても遣りにくくて……」
 なぞ云う学生諸君があったらウンと窘《いじ》めて上げる事にして、ここでは先ず腰弁諸君の御噂から申上げる。
 コザコザした物価調べなぞは抜きにして、東京の物価を福岡のソレと比較すると、牛肉が二倍、鶏が三倍、野菜や生魚が二倍半位にも当ろうか。十月から十一月頃、百円の月給では気の利いた下宿にも這入れぬ。
 しかも学校を出てブッ付け百円取れるところは、東京中に無いと云った方が早道である。役所の帰りに荷車を引いて帰る男、制服のズボンで我慢をしている会社員、女持ち洋傘《こうもり》を翳《さ》して行く役人なぞいう式は、いくらでも見付かる。番傘とゴム靴に到っては数限りないと云ってよかろう。
 こんな風をしてあるけるようになったのも偏《ひとえ》に震災の御蔭である。「地震鯰」もこういう風にばかりゆすぶっていれば、大蔵大臣にして差支えない。
 も一つ序に地震の御蔭を云えば、前に云った日比谷や芝離宮(これは焼けてしまったが)、その他の避難民小舎にかがんでいる腰弁連で、百五十円取って、家族同伴で家賃を払うとすれば、どうしても十五円や二十円は取られる。無家賃でも、すこし油断をすれば生活費が一パイ一パイになる事|請合《うけあい》で、軽蔑されても罵られてもバラックに獅噛《しがみ》付いていたいという心理状態は、可愛相と云えば可愛相である。
 茶色になった麦稈《ばっかん》帽子は以前にも増して殖えたように見えた。汗でリボンを真黒に染めた中折れも御同様に思える。それかあらぬか、さる富豪が二十何年同じ麦稈帽を冠ったというので、新聞に大々的に推賞されたのは、どれ位彼れ等の参考になった事であろう。
 こうした事実の半面には、又彼等をギューギューいわせている或る種の圧迫がある。それは着物道楽と文化生活である。
 この二ツは現在の東京の腰弁級の最高の理想と云って差支えない。この二ツの理想が彼等を刺戟している間に、彼等はいつまでもピーピー風車でいなければならぬのである。
 ここで一寸《ちょっと》説明しておきたいのは、腰弁の上中下三階級である。
「腰弁」という名称の起りは、腰にブラブラしたアルミの弁当からであるが、それが今では月給取りの総称になってしまった。そうして本当の腰弁はその中の最下層に位する事になったので、それ以上のは有名無実の贋腰弁である。甚だしきに到っては奏任以上までが腰弁を僭称しているが、その実《じつ》弁当は洋食や丼にするという有様で、正に「腰弁精神」を穢《けが》すと云って差支えない。正真正銘の腰弁である記者はいつも衷心から憤慨しているものである。
 閑話休題……ここでは月給取りの総称を便宜と習慣上腰弁と云っているが、今まで見渡して来た生活は、その腰弁中の腰弁の生活である。
 彼等の収入は先ず百円内外で、ウッカリしなくとも、事実上労働者以下の生活と云った方が早い。
 この頃の労働者の間違いない収入が、月に見積って最低百円とする。腰弁も同じく百円取るとしても、こっちは身なりが要るのと、教育があるために労働者程度の交際は出来ないので、その生活の程度はイヤでも労働者より落ちなければならぬ。
 震災後、東京市中到る処に軒並べて(法螺《ほら》ではない)出来た安飲食店や弁当屋、カフェー等は彼等の唯一の慰安所でなければならぬが、そんな処でビールの満《まん》を引いたりしているのは大抵稼ぎ人風の男である。腰弁風のは居ても、独身者らしい若いので、隅ッ子に小さくなっているのが多い。

     中流の着物道楽

 中流以上の腰弁、ここでは主として男となると、こんな安飲食店や何かに来ない。下宿生活にしろ住宅生活(すくないようで案外多い)にしろ、東京市内ならばダリヤの一鉢、市外ならばコスモスの十四五本も植えた庭を睨めて納まっている。這入《はい》るにしても相当の体裁をしたカフェーや飲食店で、アイスクリームや曹達《ソーダ》水位は平気で嘗《な》めたり吸ったりしている。
 この連中の最近の道楽が、前に云った着物道楽と文化生活である。強いて階級を付くれば、着物道楽が二百円級、文化生活が三百円級の理想と云えようか。
「東京の中流階級の男の風采がジミになった。その基調色は茶や黒又は鼠色で、昔のような派手なスタイルは下火になった」と或る新聞に出た。これは万人がそう認めているところである。「日本の中央都市にこんな堅実な風俗が流行するのは慶賀すべき現象である」とさえ云っている。
 果してそんな結構な流行かどうかは別として、そのジミになった彼等の服装をよく気をつけて見ると、決してジミでないことがわかる。
 如何にも色だけは渋い目立たぬ柄を選んであるが、その生地を見ると、田舎者の肝を潰すようなのが珍らしくない。こんな高価な服を着る人が、何でムザムザ電車に乗るのだろうと思うのさえある。つまり、皆がいい服を着るようになったために、自然と柄が高等になったので、決して渋い柄が流行する訳でない。高価な服が流行し始めたために、安い服までも渋い色調が流行するようになったと見るべきである。
 御蔭で派手なヤンキースタイルは殆ど一掃された。水蒸気の多い日本の空気と、日本人の皮膚の色とに、最もよく調和する洋服が流行するようになった。結構といえばこの方が結構であろう。
 震災直後の秋は別であるが、今年も春から秋へかけて、浴衣《ゆかた》一枚の帽子無し、足袋《たび》なしの連中が下町の通りを毎晩一パイにゾロ付いた。彼等は他所《よそ》行き一張羅にばかり全力を注いでいるのだ。
 も一つ例を挙げると、昨年の冬まで各種の雑貨店は安物全盛であったが、この頃では全然一変して高価な物をかなり多く並べる。五円級以上のワイシャツ、十円級以上の冬帽子は珍らしいものでなくなった。就中《なかんずく》プラチナの腕時計が如何に彼等腰弁の仲間に流行しているかは、一寸東京に行った人でもすぐに眼に付くところである。
 彼等の中でも独身者は二百円以上取りながら……そうして相当の年輩となりながら、この身のまわり道楽に見込まれて、依然として洗濯を他人任せにしているのが珍らしくない。これには性の問題も影響している。自己紹介の必要の度合も昔よりも高まったというような理由もあろう。しかし、とにもかくにもこの道楽は忘れられないと見えて、月給の力を出来るだけこちらに注ごうと試みていることは事実である。

     駱駝《らくだ》の胃、猿の頬

 この中流階級の身のまわり道楽……一方から見れば渋い物流行は、呉服屋の宣伝でもなければ、その筋の奨励でもない。矢張り過般の大震災の影響と見るのが一番当っていると思う。
 こんなところでウロ覚えの進化論なぞを持ち出すのは工合が悪いが、説明に便利だから一寸失敬さしてもらう。何かの本にこんな事があった。
「生きているものは一度でも或る変災に出会うと、二度とそんな眼に会いたくないという消極的な気もちと、これに抵抗してやろうという積極的な気持ちで、習慣や何かを一変させる事がある。これは一面から見ればたしかに進化に相違ないが、一方から見れば退化としか見られぬ事が多い」
 この事実を最も著明に証拠立てたのが今度の地震であった。
 今度の地震で、あらゆる家が焼けたり、たおれたりして、多勢の人が逃げ迷うのを見た東京人は、家とか財産とかいうものがまるで当てにならないものであると感じた。
 さなきだに東京の人間は、江戸の昔から家に対する執着心が薄かった。
「一人もの店賃《たなちん》程は内に居ず」
「煤掃《すすは》きも面倒臭いと移転する」
 で、家に対する執着が誠に少ないところへ、大地震と大火事で肝の潰れる程の教訓を受けたのだからたまらない。その後も引き続きグラグラと来るたんびに、何でも身に付く以外のものは無くなっても構わないようにという気持ちになって来た。
 一方、震災後地方から押し上った連中も、早速この風《ふう》にカブレてしまった。コレという家財も無い身の軽い生活がこの道楽に陥り易い事は云う迄もない。況《いわ》んや「風采即信用」という風俗の格言が滔々として世を蔽いつつあるに於てをやである。
 つまり、こうしておつとめ服の身のまわりにさえ金をかけておけば、借金取りでも滅多に寄り付けぬ。質に置くにも都合がいい。そうして素破《すわ》という場合にはいつ何時でも、手と身とツンツンで飛出しさえすればこっちのものになるというわけである。
 支那人が股倉に金を貯め、駱駝が胃袋に水を溜め、猿が頬ペタに袋を下げ、牛が胃袋を四つ持っているところを、日本人だけに着物で気前を見せているのであろう。
 進化か退化か知らないが、東京人がこうまで魘《おび》えてちぢこまっているかと思うと情なくもある。東京の新聞に大きな標題《みだし》を付けた地震の学説がこの頃まで出ているところを見ると、こんな知識階級のビクビク加減は地方人の想像以上であるらしい。
 着物道楽……独身主義の延長……という、虚栄に囚われた女にでもありそうな傾向が男の中に流行している……女は無論の事……というこの二ツが東京にどれだけの独身生活者を殖やしているか、そうしてそれがどれ位まで東京の風俗を乱しているかは、話の筋をそれるから後まわしにする。
 扨《さて》……こんな着物道楽の連中がいよいよ身のまわりを充実さして、新しい「アアラ吾が君」と同棲したとなると、今度は文化生活が理想となって来る。
 つまり着物道楽は独身者《ひとりもの》の心理表現で、文化生活は夫婦者の理想の発表とでも定義しようか。

     文化とは「ブル化」?

 東京人の憧憬する文化生活を研究するには、先ず「文化」という言葉の定義からきめてかからねばならぬ。
 文化という言葉はバラックと同様あんまり有触れ過ぎて、どんな事を意味するのか訳がわからなくなっている。
 文化生活、文化村、文化住宅、文化机、文化|竈《かまど》、文化タワシ、文化丼、文化|饅頭《まんじゅう》、文化|煎餅《せんべい》、文化まめとなって来ると、どこが文化なのか見当が付かぬ。
 縁日に出ている停電用の燭台や電球蔽い、書翰箋やインキ壺まで文化と名づけてある。かと思うと、書物には文化出版、売り出しは文化的提供、文化的家具一式、叮嚀親切薄利多売は文化的広告なぞいう看板がある。
 つまり安くて便利で重宝でハイカラなのが「文化」かと思うと、そうでもないらしい。
 この頃、文化納豆というのが出来たというから八百屋(東京の)に行って見せてもらうと、羊羹《ようかん》包の位なヘギの折りに這入っていて一個十銭である。普通のが五銭だから、よっ程上等だろうと思って喰って見ると、只の納豆で別にかわった事はない。只|高価《たか》いだけである。
 生れつき頭の悪い記者は、念のため今一度買った八百屋に行ってきいて見たら、「今までの藁苞《わらづと》に這入っているのでは、そのままお膳に乗っけられませぬ。つまり文化的でないというので」と云う。「じゃどうして高価《たか》いのだ。この箱代が五銭するのかね」と聴いたら、「新婚の御夫婦や何かは、大きな声でナットー屋アなんかとおっしゃりにくいと見えましてね、こちらがお気に召すらしいのですよ。エヘ………」と妙な文化式の笑い方をした。トテモワカラナイ。
 新聞の広告や何かに「文化的○○薬」だの「文化○○サック」なぞいうのを発見して、文化の意義をいよいよ怪しんでいると、或る横町で文化焼芋というのを発見した。近寄って見ると、皮を剥《む》いて丸焼きにしたところが「文化」なのだそうな。アライヤダ。イヨイヨ小三の落語式になって来た。
 この塩梅《あんばい》じゃ足を棒にして眼を皿にしても、「文化」の定義は見つからないと諦めた。
 ところが文化の方では、なかなかそれ位の事では承知しない。まだまだ沢山あるという。何だと聴いて見ると、必ずしも文字に書いてなくとも、文化の意義を含んでいるものが数限りない。近頃|八釜《やかま》しい「性教育」には立派な文化的意義があるので、女学校で教えるお料理に必ず出て来るテンピも、文化生活になくてならぬものだそうである。フライパンや紅茶沸かしは云うまでもない。
 こいつを今一層文化的にすると、
「御飯とお惣菜《そうざい》は女中が作るでしょう。漬物は売りに来るでしょう。お料理は取るでしょう。だから家事科なんて必要はないわ」
 という式になる。つまり奥様は一切手を濡らさないのが最高の文化なのだそうな。
 まだある。
 音楽なぞも文化生活には必要なものだそうで、楽譜や楽器の売れる事売れる事。よくきいて見ると、ハーモニカやシロフォネンなどは子供のオモチャで、マンドリン、ギタ、ヴァイオリン、洋琴やピアノなぞが本当の文化的価値があるものだそうだ。しかも昔なら、
「鐘一つ売れぬ日も無い江戸の春」
 というところを、今日では「ピアノ一つ」と改めて差支えない勢である。
 尤《もっと》も本当のピアノは高価《たか》いから、この頃では和製の手軽い安いのがドッサリ出来るからで、正にピアノ全盛になって来た。
 尤もこれはブンカブンカと鳴るからかと思うと、蓄音器も文化生活に必要なものだそうで、この頃では縁日なぞでもチーチーガアガアとレコードを売っている。
 まだまだ数え立てると限りもないが、要するにトドの詰まるところ文化生活の理想は何かと考えて来ると、彼等が学生や腰弁時代に口を極めて罵っていた、ブルジョアの金殿玉楼生活だという事になるようである。つまりそんなに早くブルにはなれないし、よしんばなれても近頃流行の社会主義が怖いから、止むを得ずいくらか安っぽいブル趣味に「文化」と名をつけて、お茶を濁した生活をしているのだとも見える。
 何の事だ、馬鹿馬鹿しい。それならそうと早く云えばいいに、「文化」だとか何とか今道心見たような名を付けるからわけがわからなくなる。
「ブル化」と云った方が早わかりするじゃないかと一時は思ったが、これは文化生活の内容を見ない前で、一度実際をのぞいて見たらナアール程と又首をひねらせられた。
 文化生活にはもっともっと深い意義がありそうである。頭の悪い記者にも気の付いた条件が三ツ四ツあるが、そのいずれもがなかなか意味深長である。

     老人と子供排斥

 文化生活とはどんなものかと、所謂《いわゆる》文化住宅をのぞきまわって見る。
 文化住宅は市内にもチラチラ見える。中野や大崎には集団を作っている。文化住宅の模型だけを並べている建築屋もある。
 そんなのを見てまわると、どれもこれもバラック趣味の凝り固まりである事が第一番眼に付く。文化生活の第一条件は、その住宅が必ずやバラック趣味でなければならぬ事であると云ってもいい位である。
 文化趣味からバラック趣味が生れたのか、バラック式が文化式の元祖なのか、その辺はまだ研究中であるが、現在東京市の内外で見受ける文化住宅には、バラック建築の余興位にしか見えないのが多い。
 先ず暗い色のセメント壁に、白いペンキ塗りの窓がある。そこへ生蕃人の腰巻見たようなカアテンがブラ下って、その蔭に十五銭位の草花の鉢が置いてあれば、間違いない、文化住宅と云ってよろしい。
 第二の条件は、文化住宅のどこかに立派な書物を詰めた上等の本箱が光っている事で、これは説明するまでもなく是非必要である。床の間に真黒い軸をかけて、前に品のいい花を活けた精神修養式の趣味は時代遅れである。新しい智識や情緒を詰込んだ金文字の権威を見せるのは、文化住宅として当然の心掛けでなければならぬ。
 近頃活躍し出した出版界が何々全集、何々叢書と矢鱈《やたら》に金文字気分を煽るのは、主としてこの流行を当込んでいるものと考えられる。
 第三の条件は甚だ怪《け》しからぬもので、仁義道徳はもとより国体にも背くのであるが、最も大切な条件だというからイヤでも書いておかねばならぬ。即ち文化生活に老人の必要を認めない事で、その次は成るべく子供のいない事である。
 文化生活の片隅に老人がウロウロしていたり、子供がワイワイ云っていたりしては、「文化」の意義をなさぬのだそうな。記者の如き親孝行者は実に憤慨の余り涙がこぼるる次第である。
 第四の条件は、前のと違って一寸愛嬌がある。文化生活には犬か猫か何かが是非一匹いなければならぬというのである。
 これは一つには装飾や楽しみの意味もあるが、今一つには、こんなものを可愛がっていると自然と人間の優越感を享楽する。同時に彼等の自然な動作から、極めてデリケートな或る神秘的のヒントを受けるので、文化の文化たる所以が一層高潮されるのだそうな。
 ……と或る文士から説明を聞いたが、記者には何の事かわからなかった。或は頭のいい読者諸君にもわからぬかも知れぬ。しかし、わからなくとも事実は事実である。
 或る大きな活動写真の撮影場《セット》に行って見ると、九官鳥、鸚鵡《おうむ》、インコ、紅雀、カナリヤ、※[#「※」は「(鷄−鳥)+隹」、143-6]《にわとり》なぞが籠に入れて備え付けてある。これは新派の文化生活の場面を撮る時に、是非共こうした鳥籠を持ち込まなければ納まらぬからだそうである。
 又、東京市中をまわって見ると、新しい鳥屋がかなり多い。這入って話を聴いて見ると、「震災後、小鳥道楽は下火になりました。鶉《うずら》はもとよりの事、鶯なぞも古くから研究している方がないでもありませんが、次第に廃《すた》れて行くようです。一番小鳥を余計にお買いになるのは若い御夫婦連れで……」という話。直接文化住宅をのぞいて見ても、大抵は何かほかの動物が付きものになっているようである。
「文化文化」と啼く鳥がいたら、どれ位歓迎されるであろう。
 こうなると「文化」の意味が一層わからなくなる。何の事はない。文化生活という事は、老人や子供を人間世界から追い出して、代りに禽獣や書物を取り入れた事になる。書物が親の代り、禽獣が子供の代りでもするのであろうか。とても当り前の教育程度では要点が掴みきれぬ。
 ところがその掴まれぬところがいいかして、猫も杓子《しゃくし》も文化文化とあこがれている有様は、さながらに青空を慕う風船玉よろしくである。
 こうして昇って昇って昇り詰めたら、日本はおしまいにどこへ持って行かれるだろうと心配になる位である。
 こんな風船玉のようなフワフワした文化気分が、例のバラック気分と心安いのは云う迄もないので、東京人の魂はバラック生活と文化生活との間をフラ付いている。商売でも風俗でも何でもが、大体に於てこの気分の中で色めいていると見てよかろう。

     学生生活の色々

 東京の学生は全国のあらゆる種類と階級を網羅している。
 その中で中流、即ち腰弁と同等の生活をしているのは、全体の何分の一か何十分の一位であろうが、しかし大体から見て中流生活と云ったら中《あた》らずと雖《いえど》も遠からずであろう。
 学生の生活といっても、学校の種類に依って非常な差があるが、その学校の種類が驚くべき多数に上っているからなかなか調べにくい。
 その筋の帳面を調べても驚かされるが、なかなかそれ位の事でない。昔風の寺小屋式から男女の大学まである。これを官立、私立、営利、非営利、年齢別、性別、専門別と区別して来たらとても大変である。
 更に昨日《きのう》出来て今日潰れる式のもあれば、地方の人には学校と見えて、東京に来て見ると事務所だけというようなのもある。
 その中で大学と専門学校程度の学生の生活を見当にして寸法を測って見る。一つはそのほかのが調べにくいからでもあるが、今一つには彼等の生活を学生生活の華として敬意を払ったわけである。
 東京に家のある学生の生活は一寸見当が付かぬが、為替党にもいろんな階級がある。一ヶ月二百円以上も送って来るのが居るかと思うと、労働して大学に通った上に、故郷の弟に四円|宛《ずつ》送っている非為替党もある。
 毛色の変ったのでは、春画を描いて学資を作って美術学校を出たのが居る。後家さんの男妾になって専門学校に通っているのがある。米相場が名人で親仁《おやじ》にしかられしかられ語学をやっているのが居る。養子政略、入り婿政略で、学校を出たあとは野となれ山となれ式の生活や、納豆屋の元締をして奢《おごり》を極めている大学生なぞ、調べるとなかなか面白いがここには略す。
 何しろ学生だから、年が若くて元気で、無責任な延び縮みが出来るから、これ位面白い生活をやっているものはない。
 先ず普通八九十円以下五六十円以上の為替生活者が大多数で、下宿料が三四十円位、汚い間借りで十円から十五円どころであろう。但、間借りは飯抜きだから、下手を遣ると下宿以上になる。尚このほかに月謝、書物代、洋服代なぞが時々足を出すのは止むを得ない向きもある。こんな「足」が本当にこんな足なら、先ず音《おと》なしい足であろう。
 この程度の学生を先ず中流生活者として、その純小遣いを十五円乃至四十円位に見積る。彼等の驚くべき贅沢さや質素さは皆この範囲から出て来るのである。更に質屋や古本屋、又は友人間の貸し借りなぞいうのを加えると、一層活躍の範囲が広まることになる。
 しかも彼等の小遣いは、普通の中流生活者の小遣いのように世間的の意味を含んでいる分量がまことに少い。頭を使わずに只漫然と遣い棄てるのが多いので、この点から云うと彼等の生活は中流の中《うち》でも上流に属している。
 その上に彼等は、当り前に学校に通って当り前に勉強さえしていれば、首の心配は無論ない。只怖いのは落第ばかりとなる。それも十中八九は為替の多寡に影響しないのだから、真に不景気知らずと云ってよかろう。
 こう云うと又、記者の非常識を攻撃する諸君が出て来るかも知れぬ。
「新聞記者なんてものは筆の先でどんな事でも書く。いくら学生だって、不景気を知らないでどうなるもんか。第一下宿の飯が不味《まず》くなるから、時々滋養分を摂《と》らないと頭がわるくなる虞《おそ》れがある。フレッチャー式なぞを遣ったら落第するにきまっている。空気も悪いから郊外へ行く必要があるし、ホコリが非道《ひど》いからロイド眼鏡も奮発せねばならぬ。雨が降ると靴カバーが利かないから、八円のゴム靴を買わなくちゃならぬが、そいつが又じきに駄目になる。電車はコムし書物はよごれるしで、オツユの出る弁当箱は持てないし、嗜眠《しみん》性脳炎がまた流行《はや》っているので、一寸風邪を引いても医者に見せなくちゃならないし、五十円や百円の仕送りでは人間らしい気持ちで勉強は出来やしない……」
 承われば一々御尤も千万であるが、さて街頭に立って諸君の生活振りを拝見すると……。

     制帽と鳥打帽の手品

 近頃東京の往来を歩いて見ると、学生仲間に鳥打帽が非常に流行している事に気が付く。
 学生だから鳥打帽を冠るのが当り前かも知れぬが、それが又タダの鳥打帽でない。気をつけて研究すると実に変妙不可思議の鳥打帽で、支那や印度の魔術師でも眼をまわす位である。
 勿論、その鳥打帽は普通の鳥打帽で、価格の上下や型の変化こそあれ種も仕かけもない。しかもその鳥打帽でどうしてそのような奇術を使う事が出来るかという事は、苟《いやしく》も東京の学生たらんもの片時も忘るる能わざる研究問題であるのみならず、地方に居る父兄のためにも実に見逃すべからざる参考材料であろうと信ずる。
 前口上はこれ位にしておいて、実地の使用法を取り立てて御覧に入れる。
 第一、彼等学生が、下宿屋や又は預けられ先を出る時に、学校の制帽を冠って出るものは殆ど九牛が一毛と云ってもいい位である。学校に行く時も、散歩に行く時も通じてそうなので、その十中八九は鳥打帽を冠って行くにきまっている。
 ところで登校の際に冠って行く鳥打帽は、私立の学校だとそのままズンズン這入って行けるのが多いが、官立の学校だとそうは行かぬ。どうするのか知らんと運動場をのぞいて見ると、これはしたり。校庭一パイに散らばっている生徒の頭には鳥打帽は一ツもない。皆キチンとした制帽を冠っている。これが鳥打帽の第一の手品である。
 この手品の種はどこにあるかというと、彼等の制帽の構造にある。近頃の学生の制帽はどれもこれも、一つとして昔のような頑固な枠を入れたのはない。馬の尻毛や亜麻の極《ごく》柔かい弾力の強いもので、目庇《まびさし》までも薄い上等のエナメル皮や何かが使ってある。小さく押し曲げさえすればズボンのポケットにでも何でも這入るから、鳥打帽と両方持っていてもちっとも邪魔にならない。すなわち校門を這入る時には制帽を冠り、電車に乗る時には鳥打を冠る位の手品は何でもないので、只その都度魂を入れかえるのが面倒臭いだけになる。但、そんなに手早く魂を入れ換え得るかどうかは、帽子と違うからちょっと外から見わけにくい。そこを付け込んで彼等は盛に制帽と鳥打帽を使いわける。
 使いわけると云っても取り換えるだけの事だから、ちょっと考えると何でもないようであるが、なかなかどうして、大学を卒業してもこの鳥打帽使いわけの奥義に達しないのがいくらでも居る。ウッカリすると学校のどの科目よりも六ケ《むずか》しいかも知れぬ。
 先ず見易いところから例を取ると、真面目な家庭を訪問する時には制帽を冠る。散歩する時には無論鳥打帽である。
 儀式ばった処へ行くのには制帽で、活動を見に行く時は鳥打でなければ工合が悪いらしい。
 お医者に診てもらいに行く時には制帽がよろしいが、弁当代りにサンドウィッチを喰いに行く時は鳥打帽にかわる。
 割引切符を買う時は無論制帽の方が都合がいいが、汽車に乗り込んでしまうと必要はない。
 教科書を買う時の気分は制帽であるが、Y書を買う時の心理状態は鳥打の下に隠れねばならぬ。
 故郷の親元に送るらしい写真は大抵制帽を冠るので、顔付きが似なくて困ると写真屋が云うが、鳥打帽のはどんな処に送るのやら……。この辺になると大分手際が鮮かな方であろう。
 女学校の運動会見物、慈善市《バザー》、野外劇《ペーゼント》、クリスマス、その他の催しのお手伝いなぞには、制帽の方が殊勝らしくていいそうであるが、それが済んだ夜の帰りがけに、思う人と連れ立って行く時は鳥打帽を冠るべしだそうである。
 そのほか展覧会、校友会、由緒ある会、出たらめの会なぞ、それぞれ鳥打帽と制帽の使いわけ方がある。その冠って来た帽子が制帽か鳥打帽であるかに依って、その会合を理解しているかいないかがわかるという位デリケートな研究を要するので、無暗《むやみ》に上等の新流行で身のまわりを飾って、ハイカラと心得ているような連中は一ペンに落第してしまう。

     学生と見られぬため

 東京の学生の制帽と鳥打帽の使い分け方を街頭から見ただけでもかなりいろいろあるが、単に鳥打帽だけの冠りわけでもちょっと研究を要する。
 当り前に正しくすこし前下がりに冠るのは、当り前のすこし前下がりの外出の場合であるが、横っチョに冠るのは見もの聞き物に這入る場合、カフェーの中では阿弥陀に冠り、運動遊戯ではうしろ向きにかぶる。それからずっと目深く、うしろはボンノクボから前は眼から耳まで隠れるように冠る場合は、秘密の外出か訪問、又は変装用で、これに襟巻きをしてロイド眼鏡でもかけて首をちぢめると、ドンな名探偵でも誤魔化《ごまか》し得るという迷信から来たものである。
 更にその鳥打帽の下に這入っている香水入りのハンケチの種類、その隅《すみ》に縫い込んである文字の意義、そのハンケチの香《におい》に沁《し》みている頭の苅り方、その頭の香《におい》に沁みたハンケチと、女の内懐の香《におい》に沁みたハンケチとがどんな処で交換されて、どんな風に尊重されるか、こんな研究はあまり脱線し過ぎるからここでは略する。
 鳥打帽と関連して、東京の学生の生活を街頭に示しているのはその服装である。
 今度東京に来て暫くウロ付いているうちに、記者は不図《ふと》妙な事に気が付いた。どうも往来を歩く学生の数が震災前よりもすくないようである。変だと思って本郷、神田辺へ行って見ると、居るには居るが、それでも震災前よりは制服制帽の数が尠《すくな》い。早稲田や三田へ行くと、制服鳥打帽すらチラリホラリとしている位のことである。尤もこの辺は学校の近くだから、これは学生だなあと気が付き易いが、その他の処へ行くと余程気を付けないと学生とは気付かない位である。
 昔のような長い釣鐘マントはもう流行|後《おく》れになってしまって、オーバーを着ていなければトテモ幅が利かない。しかも学生のオーバーと来ると、普通の腰弁のよりも上等なのが多く、これに鳥打を冠って襟巻でもしていれば、黒いズボンに気が付かない以上、ドッチから見ても堂々たる紳士か貴公子である。
 ところがこの頃は又、私立大学仲間で変りズボンを穿き出した。しかも裾のマクレたのが流行《はや》るので、いよいよ学生だか何だかわからなくなった。おまけに鞄《かばん》まで鞣皮《なめしがわ》製の素晴らしいのが出来て来たので、最早《もはや》学生と見えるところは一ヶ所もない。只オーバーの下に隠れた金|釦《ボタン》だけという事になる。それでもまだ学生らしくなくするために、鞄を棄てて、書物やノートをポケットに入れて、指環をはめたりステッキを持ったりする。
 そんなに制帽が気に入らないのなら、寧《いっそ》の事制服までやめてしまって、背広か何かにしたらよさそうであるが、それは又そう行かない理由がある。
「アラチョイト、あなた学生さん? 可愛いわね!」
 てな声を聞きたいために、時々金釦を光らかして見せなければならないからである。今一つには給仕や安腰弁と見られないためもあろうし、も一つには上等の学問をしているエライ人の卵で、金を持っている時は、気前よく使う人種であるという事を、先方に合点させる必要があるかららしい。
 これを要するに、東京の学生はみんな出来るだけ制帽を冠るまい、鳥打帽を冠ろうと心掛けているので、トドのつまり東京で朝から晩まで真面目に制帽を冠っているのは、浅草の仲見世や縁日に出て来る物売りの角帽だけと云っても過言でない。
 余談に亘るが、こうした傾向は単に学生ばかりではない。日本全般のすべての方面にあらわれていて、云わず語らずの中《うち》に日本人全般の思想が或る重大な変化を来しつつある事を示している。
 皇室では恐れ多い事ながら成るべく民衆に親しく御接し遊ばすよう、すべての形式を御改廃中とかに洩れ承る。これに準じて官辺はもとよりすべての事が民衆化しつつある事は云う迄もないが、これにカブレて軍人までが官服を嫌うようになったそうである。そのような思想の変化が学生の鳥打帽となって現われた事は云う迄もない。

     鳥打帽下の新日本

 こうした学生仲間の鳥打帽の大流行に対して、学校当局はかく云う。
「震災後、学校の制服がどうでもよかった時代がありましたので、その影響でもありましょうか。いずれにしても彼等学生の腐敗と堕落は、この鳥打帽に原因しているに違いありません。大学生の中折れは、いくらか真面目な感じを含んでおりますので、まあいい方ですが、鳥打帽を見ると私共は、実に不愉快な、学校を軽蔑しているような、又は彼等の人格が疑わるるような一種の危惧の念に打たれざるを得ません。しかしこれを許さないと、学校の人気がわるくなるので止むを得ません。実に国家の青年の風紀上慨嘆に堪えぬ次第であります」
 これに対し学生の方はこう云う。
「制服制帽は官僚政治の遺風だ。偽善とか束縛とか因襲とかいう旧思想のお名残だ。学問は民衆的でなければならぬ。智識には囚われたところがあってはならぬ。だから鳥打帽の下に這入る智識こそ本当の智識と云うべきである。これを理解しない学校当局が日本にはまだ沢山居るから情けない。日本の前途のため実に慨嘆の至りだ」
 こう両方で慨嘆されては手の付けようがない。全く慨嘆の至りである。
 東京の中流学生の生活の中で鳥打帽一つを研究しても、かほどに広大無辺な意義を持っているので、そのほかの広大無辺さは到底筆舌の及ぶところでない。悉《ことごと》く鳥打帽の下に収めるのは不可能で且つ不自然である。
 併《しか》し彼等の生活の裡面は、よくこの鳥打帽で代表されていると思う。勿論それは物質的の生活と云うよりも、精神的生活に近い方面を主として象徴している。
 極めて低い意味で云う物質と精神の二つのうち、学生の生活はどちらに傾いているかと云うと、無論後者の方である。言葉を換えて言えば、学生の生活は世間一般の人のソレよりも、物質に支配される割合がごく少い。鳥打帽を買うにしても必要からでなく、只そういった気分に涵《ひた》りたいために二円乃至四円を奮発するので、参考書を買う余裕はなくても、新流行の鳥打を買う銭はあるのが彼等の生活の特徴である。
 こんな風だから彼等東京の学生生活には、一般人の生活と違った底抜けの自由さと奔放さがある。そうしてその自由さと奔放さは、震災後に流行する鳥打帽の下から現われたものでなければならぬ。
 彼等はこの鳥打帽式の自由な奔放な生活振りに依って東京を色付けている。風俗、商売、女等に彼等の思想傾向を反映さしている。
 排米問題の時、真先に米国物を買わなくなったのは彼等学生であった。ところが近頃舶来品排斥思想が一般に行き渡ると、真先にこの習慣を打ち破って舶来のノートや鉛筆を買い始めたのは矢張り彼等学生であった。舶来の石鹸、香水、歯みがき、ハンケチ等いうものを惜し気もなく買うのは彼等学生であるという。下宿屋で文化生活に凝るのは学生に限るとまで云われている。
 日本第一の剛健質朴を以て東都に幅を利かした一高の学生は、この頃|羅紗《ラシャ》のマントを好まなくなった。彼等の仲間にも鳥打帽が流行《はや》り出したという。
 一葉落ちて天下の秋である。震災後の東京に於ける制帽の凋落……鳥打帽の流行は、単に学生の平民化、智識の民衆化ばかりを意味するものであろうか。
 その鳥打帽は前の学校当局の言を借りて云えば、矢張り地震鯰が揺り出したものである。将来の新日本の中心文化が東京のバラックの下に芽生え育まれているものとすれば、その新文化の骨子たるべき新智識と新思想は、東京の学生が挙《こぞ》って冠る鳥打ち帽の下に養成されている筈である。その新智識と新思想は角帽や金釦を馬鹿にするだけの権威あるものでなければならぬ。鳥打帽を冠る学生諸君たるもの……豈《あに》奮発勉励せずんばあらざるべけんやである。

     職人の供給過剰

 東京市中の第三階級、即ち赤切符等は現在どんな生活をしているか。
 これはなかなか大問題で、記者のノートに止めてあるだけでも一年や二年では書き尽されぬ位である。だからその中で二ツ三ツ面白い事実だけを紹介して、その中に反映する彼等の生活を見て頂く事にする。但し街頭観の主旨にはそむくが……。
 第一は警視庁の人事相談所に持ち込まれて来るプロ階級の悲喜劇である。これを順序立てて観察すると、震災直後から今日までの彼等の生活の変遷がわかる。
 警視庁の人事相談所が丸の内のどこにあるか。どんな組織になっているか。そんな事はここには必要がないから略して、直接本論に移る。
 昨年、例の震火災があるとすぐに、警視庁では救護班を組織して、逃げ迷い、弱りたおれた人々の救護に従事した。これを九月十三日まで継続すると、次第に新しく持ち込まれる救護が減少して来たので仕事を打ち切った。
 この事実を逆に考えると、東京全市民が最も甚だしい酸鼻な境界にいたのは、九月の中旬頃までと見る事が出来る。……東京市中の手まわしのいい新聞社が、無代配布をやめて、月極めにし始めたのも丁度この頃からである。死ぬものは死に、助かるものは助かり、怪我人や病人はそれぞれ手当てを受けて落ちつく事になったのであろう。
 次に起る問題は助かった者の鼻の下の問題である。
 昨年九月十三日以後、警視庁で開始した労働紹介には非常な大群衆が押し寄せた。
 当局では管内の各署と協力して、これを片端から灰片付け、食料運搬等の仕事にまわして奮闘していると、約一ヶ月ばかりしてから市内の各自治団体で本式の職業紹介を開始したので、そっちに仕事を譲って、今度は人事相談所を開始した。
 以上の筋道を裏面から見ると、東京市中の人々は、生命を助かる道から生命をつなぐ道へという差し詰まった問題から、次第に人事のコザコザした相談へと落ち付いて来たその間が二ヶ月足らずという事になる。
 警視庁の人事相談所開始当時(大正十二年十月)は流石《さすが》に人探しの相談が多かった。これと一所《いっしょ》に家主や地主に対する苦情も非常に夥《おびただ》しく持ち込まれた。すなわち震災後二三ヶ月の間、東京市中の家や人が別々の意味で宙に迷いつつあった事を裏書している。
 その中《うち》に押し詰まって来ると、次第に人探しの申込みが減って来た。代りに対家主の苦情が殖《ふ》えると同時に、金の相談や証文の鑑定なぞが加わって来た。
「資本がほしいですが、無抵当で薄利で貸してもらう方法は」
「この金を預けるたしかな銀行は」
「これは焼け残った祖父の時代の証文ですが」
 なぞいうので、東京市内が次第に落ち付いて来た程度を説明している。
 このような状態が大正十三年度の三四月頃まで続いた。
 大正十三年度の三四月頃は、東京中の人気があらゆる意味でグラリと引っくり返った時機と見られているが、警視庁の人事相談所にもそうした影響が現われた。
 第一に大工や左官、その他の職人なぞいう労働者の賃金不払問題が盛に流れ込み始めた。
 震災直後の節季まではこんな現象は見られなかった。東京の復興を目がけて地方から押し寄せた連中は、皆引っぱり凧《だこ》にされていたのである。只釘を打って鋸《のこぎり》を使えれば大工で通る。藁《わら》さえ刻めば左官で通る。賃金が四五円から五六円という景気であった。
 その中《うち》に大正十三年の春になった。
 東京市中は次第に落ち付いて、ソロソロ日本中の不景気の影響を受け始めた。同時に今まで復興の労働者を歓迎していた親方や請負師連は、逆に賃金の不払を始めた。
 もともと震災直後の東京に押寄せて来た連中は田舎者にきまっているので、欺され易く、馬鹿にされ易い。そこをつけ込んで使うだけ使って突放して終《しま》うので、金は取れず、食費は嵩《かさ》む、仕事には有り付けぬ、というのが続々と出来る。そこへ春先の時候がよくなるに連れて、田舎の不景気にアブレた連中、又は前の年の東京の景気を聞き伝えた面々が、何という事なしに押上って来たので、いよいよ不景気の上塗《うわぬり》となった。
 東京は今日までもこうした職人の供給過剰となっている。
 ひと頃、いい加減な大工や左官が五円の六円のという勢であったのが、今では立派な腕の大工で四円五十銭、左官が三円以下という相場で居据わっている。それ以下のいい加減な職人が相手にされなくなったのは云う迄もない。
 その尻がドシドシ警視庁の人事相談所に押しかけて来たのである。

     自由恋愛と離婚

 その次に矢張り十三年度の三四月を区切って急に殖《ふ》えて来たのは、取引上の紛紜《いざこざ》、喧嘩の後始末、夫婦喧嘩の尻拭いなぞである。このような傾向になった原因は小さくややこしいが、つまり一般の景気が落ち付くと同時に生活に多少の余裕が出来た。一方に今までの奮闘気味がダレて来たために不景気をシミジミと感ずる向きも出来たという、職業紹介所の係員の見方が穏当であるまいかと思われる。
 その中でも面白いのは夫婦別れの相談で、三四月頃まで絶対にないと云ってもよかったのが、花時から急に殖えて来て押すな押すなの盛況を見せた。
 このような夫婦別れに関係した法律その他の相談は、今日迄も引続いて警視庁の人事相談所に持ち込まれている。右に就いて相談所側の係員はこう観察している。
 東京の震災後、一般民心の昂奮状態は実に異状なものがあった。男も女もまるで小説中の人物であるかのように頭がすっかり一本調子になって、僅かの事にも感謝したり感激したりする状態であった。
 その結果、到る処に出来合いの夫婦関係が成立したもので、その当座世間がザワザワしているうちは、そのまま一所に生活や何かの問題に紛れて関係が続いて来た。ところが翌年の春となって、世間が落ち付いて、お互の間の緊張味がなくなって来ると、今更にお互の顔が見合わされて来た。アラが見えたり、イヤになったり、その他経済上の問題や夫の不品行なぞが問題になったりして、方々で別れ話が持ち上り始めた。
 この議論はチト乱暴であるが、元来が出来心の関係だから、花時になって急に合せ物の離れ物気分になったのも無理はないと云えば云える。
 さてこの夫婦別れの人事相談でも、よく観察するといろんな筋道があって、東京市民――もしくは現代人の生活の裏面の或る物を暗示している。
 先ず夫に別れたいという相談を持って来るのは、大抵学問や理性の備わっている人が多い。つまり夫婦になろうという時の気持ちは、学問や理性を超越した気持ちになっている時であるが、すこし落ち付いて来ると、その学問や理性が頭を持ち上げていろんな事を考えさせる。そうして別れ話を持ち上げさせるという順序で、彼等の身の上相談を聴いて見るとこの消息がよくわかる。現代の婦人がその得手勝手な理智と情緒とのために如何に苦しめられているかは、この一事でも遺憾なく説明されている。
 次に人事相談所に別れ話を持って来る女の中には職業婦人が非常に多い。それは男の欠点を最もよく知っているからだそうである。
 これ等の事実を煎じ詰めると、現在の東京で最不幸な結婚をするものは、学問のある婦人と技術を持つ婦人であると云える。普通ならば幸福と見て差支えない結婚を彼女等の技芸や学問が不幸なものと感じさせるのか、それとも彼等の学識や技術が初めから彼等に幸福な結婚をさせなかったのか、その辺の事は大いに研究に価する。些《すくな》くとも親兄弟や親戚友人なぞの意見に盲従した結婚の別れ話がめったに人事相談所に来ない。自由結婚から来た自由離婚だけが来る。しかもそれが大正十三年の春以後の東京に激増した事は、新日本の新紀元を画すると云ってもいい位だそうである。
 も一つ序に書いておくが、警視庁の人事相談所ではこんな恐ろしい実例が挙がっている。

     乱暴な結婚媒介

 震災後の東京には、結婚媒介を商売にするものが雨後の筍《たけのこ》のように出来た。これはさもあるべき事であるが、しかし如何に需要と供給の烈しい関係からといえ、その無責任な営業振りには驚かざるを得ぬ。
 ほかの商売と違って、どうでもいいようで実は極めてどうでもよくない事を、無暗矢鱈《むやみやたら》とどうでもよい式に取り扱うので、その結果は大抵滅茶滅茶と云う。それでも相当に繁昌しているのだから恐ろしい。東京の人々は棄て鉢で結婚するのではないかと思われる位である。
 しかし満更棄て鉢でもない証拠には、そうした結婚の失敗したあとをドシドシ警視庁の人事相談所へ持ち込んで来る。そのおのろけと涙の紋切形をば一々聴いてやる係員も大抵ではいともあるまいと思われる。
 係員の話に依ると、こんな不良結婚媒介所では売淫の仲介はしないらしい。その代りその仲介の方法は極めて乱暴である。
 誰でも結婚媒介所の門口をくぐった者は申込料として五円取る。それから似合いのがあるという通知を出して、何月何日の何時に双方やって来ると、今度は会見料として又五円取る。しかもこれは成功不成功に拘《かかわ》らずで、おまけに男女双方から取るのだから一会見やらせると十円になるわけである。
「あんな女に紹介をして五円取るとは怪《け》しからん。いけないにきまっているじゃないか」
 というような不平が相手にされない事は無論である。
 ここで双方よろしいとなると、成立料と名付け二十五六円以上三四十円位取るのであるが、そこの取り具合がなかなか手腕を要するのだそうな。
 こうした五十円内外の手数料で出来た結婚が破れ易いのは云う迄もない。男が手数料を出したとすれば、高価《たか》い、まずいオイランを買って流連《いつづけ》した気で思い切る事になる。女が出したのならば……安い情夫に入れ上げた位の気持ちであきらめるのでもあろうか。
 警視庁の人事相談に持って来るのでは、早くて一週間、長くて一年持つ位のものだそうである。尤も震災後まだ二年にはならぬが……。
 夫婦別れの人事相談を持って来るのは大抵女である。彼女等は十人が九人まで媒介所の不親切を鳴らすが、媒介所では一切責任を持たぬ。
「何も無理に押し付けたわけではありませぬ。私の方では只料金を取って便宜を計らったまでで、申込みから結婚成立まで、皆お客様の御随意に任せたまでです」
 と云う。そんなら事実はどうか。
 結婚媒介所が結婚成立料を取りたがるのは云う迄もない。そのためには随分無理な押しつけ方をする事も云う迄もない。そうしてその結果、飛んでもない喜劇や悲劇を捲き起すのも亦《また》云う迄もない事である。
 そんな例を挙げると数限りもないが、その中《うち》で最も極端な例を挙げるとこんなのがある。
 日比谷公園のバラックの中に、子供二人を持った二十七八の婦人があった。彼女は職業に就《つい》て二人の子を育てていたが、如何にも心もとない結果、五円を奮発して結婚媒介所の門を潜った。
「イヤ。それには持って来いのがあります」
 と媒介所でも揉み手をして彼女に一人の男を紹介した。
 その男は年齢四十歳位、極めて上品な、音なしい風采の男で、ちょっとよさそうであるが、只顔色があまり健康そうでなかったので、彼女は五円の会見料を納めたあと、
「とにかくも一ペン考えさして下さい」
 と云って日比谷のバラックに帰った。
 ところが驚いた事には、あくる朝になると、媒介所の男がその四十恰好の青い男を連れて彼女の居る日比谷バラックに押しかけて来た。青い男は一寸した羽織を着て袴《はかま》まで穿《は》いている。
「この辺のところでどうです。こんないい方は又とありませんよ。私の方では成立料が欲しいから云うのではありません。貴女《あなた》のおためを思って云うのです。略式ですが結婚式の調度も持って来ています。ここですぐに式をお挙げになってはどうですか。あとの手続や何かはすっかりこちらでやって上げます。どうです。善は急げです。今のところ、貴女の御注文にはまるお方《かた》はこの方しかありません」
 とか何とか媒介所の男が無茶苦茶に勧めた。
  ………連載一回分(二千字前後)欠………

     東京の犯罪地帯

 東京市中でほかの犯罪はみんな殖えているのに、殺人傷害だの、強盗だのいう荒っぽいところが枕を並べて減少しているのも面白い。
 震災後の東京は一時無警察に近い状態となって、寂寥《せきりょう》たるバラック街に強盗が盛に横行した。このままで行ったならば、日本の首都は今に大晦日《おおみそか》の北京のようになりはしまいかと思われたが、案に相違して一時の現象で済んだのは芽出度い。
 こんな風に荒っぽい犯罪が減った原因については、いろんな見方がある。第一は震災後の東京市民が一体に文化的――言葉を換えて云えば理智的に気が弱くなった事、第二には一時減少した人間がその後《ご》急に殖えて、家数が建込んだ事、第三は復興気分で下層社会の景気がよくなった事等であるが、その中でも第一の原因が最も有力であるらしい事を警視庁の統計が示している。
 すなわち「傷害」と「殺人」の原因のうち、酩酊の結果だの、痴情の果だのいうのは極めて少い。一番多いのは腹立《はらたち》紛れの傷害殺人であるが、それでも傷害が百人に対し殺人は一人弱の割合に当っている。すなわち彼等の傷害三昧が、殺すつもりは滅多にない、理智的の動機から出た脅かしの意味が多量に含まれている証拠である。
 東京の人間が温柔《おとな》しくなった、言葉を換えて云えば文化的に利口になった証拠が、今一つ前記の表の中に現われている。
 全体から云って、いろんな犯罪が無茶苦茶に殖えたのと正反対に、捕まる数が恐ろしく減ったのもその証拠と云えば云える。
 しかしこれは、東京市内の各署が若い巡査をドシドシ採用したり、震災を機として烈しい異動を行ったりしたのが影響しているとも云えるし、又住民の状態や何かに大変化を来して、今までのように捜索が楽でなくなったというような関係もあるから一概には考えられぬ。
 しかし又前記の表に依ると、東京市中で詐欺脅喝や横領がかなり増加している一方に、捕まる数が恐ろしく減った事になっている。これは明らかに東京市中の震災後の人気を物語っているので、殊にそれが、震災の影響を遠ざかった大正十三年前半期中の状態であるだけに、一層の興味を惹くのである。或る署員の話に依ると、この頃の詐欺の被害者の届出は非常に早くなった。これは泥棒でも同様で、一体に出来るだけ警察を頼るようになったようである。しかし一方、逃げる手段も非常に巧妙になったので、なかなか捕えるのに骨が折れるとは、そうもありそうな事である。
 これに反して東京市中の賭博《ばくち》は非常に増加しているが、捕まる数も同様に非常に殖えている。これは下層民に金が多いのと、射倖心《しゃこうしん》が旺盛なのと、素人《しろうと》賭博が殖えたのと、家がバラックで露見し易いなぞいう原因からこうなったのである。
 序に書いておくが、震災後の東京に賭博の殖えた事は非常なものである。その中でも支那式と朝鮮式が最も多い。これはそういった労働者が多数に入り込んで宣伝した結果で、しかも労働者ばかりでなく、昨今では中流から上流まで押上って旺盛を極めている。殊に支那式の麻雀なぞいうのは、高価な道具を使うので上流社会に持《も》て囃《はや》されて、多額の金が賭けられているが、取締が非常に困難だそうである。
 次に面白い統計は、東京市内に於ける犯罪者の捕まった場所と、犯罪者の住所である。ここにその最も多い処だけを数字抜きにして掲げると、捕まった場所は亀井戸が最も多く、その次が浅草付近で、その次が外神田から巣鴨という順序である。又犯罪人が住んでいる場所は、第一番が矢張り亀井戸で、その次が南千住、巣鴨、浅草という順で、あとはズッと落ちるが坂本署、四谷署の管轄内といった順序になる。
 このような地名が醜業婦と貧民窟の名所として知られていることは云う迄もない。震災後、浅草やその他の醜業婦を一掃したと誇っている当局の統計に、こうした反証が挙がっているのは実に面白い皮肉な現象である。
 極めて大まかな眼で見ると、東京の北部、吉原と浅草を中心とする一帯の地域は、東京に於ける犯罪者の根拠地といって差支えないであろう。
 東京市中の第三階級の生活はこれ位にして、浅草と活動写真、醜業婦の現況、不良少年少女の研究に移り、この稿を終る事にしたい。



底本:「夢野久作全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年6月22日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年4月25日公開
青空文庫作成ファイル:
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