青空文庫アーカイブ

衝突心理
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一寸《ちょっと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)同県下|子安《こやす》、
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 昭和九年四月一日の午前十時頃、神奈川県川崎の警察署へ新聞記者が五六人集まって、交通巡査から夕刊記事を貰っていた。
 それは一寸《ちょっと》聞いたところ、極めて簡単明瞭な交通事故であった。
 その早朝の三時頃、京浜国道川崎市の東の出外《ではず》れでトラック同志が衝突した。突きかけた方は同県下|子安《こやす》、妹田《いもだ》農場の一|噸積《トンづみ》シボレーの使い古した牛乳|車《トラック》で、衝突と同時に機械と運転台をメチャメチャにした上に、運転手の蟹口才六《かにぐちさいろく》(三十一)は頭蓋骨粉砕、頸骨、左|肋骨《ろっこつ》を打折り即死、助手兼、乳搾夫《ちちしぼり》、山口|猿夫《さるお》(十七)は左脚の大腿部を骨折し人事不省に陥っている。又、突っかけられた方の車は、深川の三徳製材会社用、新着のビック特製二|噸《トン》半|積《づみ》ダブルタイヤで、横浜市外の渋戸《しぶと》材木倉庫から米松《べいまつ》を運搬すべく、交通の少い夜半に同国道を往復していたもので、損害といってはヘッド・ライトと機械を打壊《うちこわ》し、前部右車軸を押し歪《ゆが》めて運転不能に陥り、運転手、戸若市松《とわかいちまつ》(二十九)は硝子《ガラス》の破片による前額部の裂傷、治療一週間を負うて一時失神、同乗の助手と材木仲仕の二人が、顔面や胸部に治療二三週間の打撲傷を負うて、同じく一時失神しただけであった。
 衝突の原因は小型シボレーの牛乳|車《トラック》がヘッド・ライトを消したのに対して、大型ビックの材木トラックの運転手戸若市松が、ヘッド・ライトを消さなかったため、牛乳|車《トラック》の運転手、蟹口が、眼を眩《くら》まされてハンドルを過《あやま》ったらしい事が、その朝になって意識を回復した同乗者、材木仲仕某の言によって判明した……というだけで新聞記者は皆満足して記事を作上《つくりあ》げて帰った……が、しかし若いロイド眼鏡をかけた交通巡査は、記者たちにそう説明しながらも何となく腑に落ちない点があるように思った。
 交通規則の中に、夜間、自動車同志がスレ違った時にヘッド・ライトを消すべしという箇条は別にない。ただ、お互い同志が眩しくて危険なために消し合うのが一つの不文律、兼、仁義《あいさつ》みたようになっているのであるが、しかし、たとい相手がヘッド・ライトを消さなかったにしてもコースの不安定な自転車ならばイザ知らず、慣れた運転手ならば眩しい方向に吸い寄せられてブッツケ合うようなヘマをする気遣いは先《ま》ずないといってもいいので、その点に就いて川崎署の交通巡査はチョッとした不審を起したらしい。傷の手当が済んで元気を恢復した大型トラックの運転手、戸若市松を巡査部長室に連れ込んで、その当時の模様を今一度聞いてみた。
「相手は、お前の車のヘッド・ライトが眩しいためにハンドルを誤ったんだな」
「……ヘエ……」
 戸若運転手は何故か返事を躊躇した。青白い魘《おび》えたような眼付きで交通巡査の顔を見た。
「どうかね。衝突の原因について、ほかに心当りはないんか。ええ?」
「……ヘエ……」
 活動俳優みたような好男子の戸若運転手は、無粋な恰好に巻いた頭の繃帯をうなだれた。
「免状を見るとお前は、かなり古い運転手やないか」
「……ヘエ……」
「どうしてヘッド・ライトを消さなかったんか。別に咎《とが》める訳じゃないが」
「……………」
 黙って考え込んでいた戸若運転手は、やがてゴックリと一つ大きくうなずいた。何事か決心したらしく深いため息をして顔を上げた。昂奮したらしく眼を光らして乾燥《かわ》いた唇を嘗《な》めた。
「……ハイ。実は殺されるのが恐ろしゅう御座いましたので……」
「……ナニ……殺される……」
 交通巡査はビックリしたようにロイド眼鏡をかけ直し、腕章を上の方へ押上げた。
「フーム。妙な事を云うのう。ヘッド・ライトを消やせば何故、殺されるんか……お前アタマがどうかしとらせんか」
 戸若運転手は眼をしばたたいた。気の弱い男らしく泪《なみだ》を一パイに溜めると、机の向側の端に両手を突いて頭を下げた。
「ヘイ、恐れ入ります。私はモウすっかり前非後悔をしております。何も彼《か》も白状致します」
「フーム。白状するちうて何か悪い事でもしたんか」
「ヘエ。私は大罪人です。姦通《まおとこ》と泥棒《ぬすっと》の二重の大罪人です。それを知っている者は、あの惨死しました蟹口さんだけです。蟹口さんは私から、女と二千円の金を盗まれたまま、黙っていてくれたのです。しかしあの恐ろしい死顔を見たら迷《まよい》の夢が醒めました。何もかも白状致します……ハイ……ハイ……」
 戸若運転手は机の端にヒレ伏したまま涙をバラバラと落し初めた。
「……ちょっと待て……ちょっと……」
 少々驚いたらしい交通巡査は、帳面片手に立上ってソソクサと部長室を出て行った。広間の大火鉢の前で煙草を吸っている巡査部長の傍へ近付いてコソコソと耳打ちした。
「そんな事を云い出したもんですから……どうも僕の受持ではなさそうです。ちょっと立合って頂きたいんですが」
 巡査部長は面倒臭そうにアクビしいしいうなずいた。向い合って煙草を吸っている二人の刑事をかえり見た。
「この頃ソンナ話は聞かんな。姦通とか、二千円の盗難とか……」
 二人の刑事は眼をパチパチさせて部長を仰いだ。一人が頭を左右に振った。
「おかしいですね」
「ブツカッた拍子に頭が変テコになったんじゃねえかな」
「ウム。とにかく君等も一所《いっしょ》に来てくれ給い」
 部長と二人の刑事が交通巡査を先に立てて部長室に這入《はい》った。
 四人の警官に取巻かれた戸若運転手はチョッと魘《おび》えたらしい。サッと唇の色をなくしたが、交通巡査が注《つ》いで遣った熱い茶を啜《すす》ると又一つホッと溜息をした。覚悟をきめたらしく、次のような奇怪な陳述を初めた。

 戸若運転手は鹿児島の生れで、昭和六年に同郷の先輩蟹口運転手を頼って上京し、一所に東京虎の門の千番トラックに勤めていた。蟹口は好人物の変り者という評判であったが、兄貴分だけに戸若を色々と世話して、着物や金を与えた事が度々であった。だから戸若は蟹口を深く恩に着ていた。
 戸若は千番トラックのギャレジの二階に寝泊りしていたが、蟹口は、淀橋《よどばし》で煙草店を出している妻女ツル子(二十五)の処から通勤していた。その妻女のツル子というのは、頑固な、グロテスクな顔をした蟹口とは正反対に江戸前のスッキリした別嬪《べっぴん》で、この上なしの亭主孝行、又蟹口も自烈度《じれった》いくらいの嬶《かかあ》孝行というのが評判であった。
 蟹口夫婦の間に子供はなかったが、蟹口は植木物が好きで、狭い庭に縁日から買って来た朝顔や、茄子《なす》や、トマトの鉢を並べ、店先にも見事な朝顔や、菊を飾ったりしたので、それが目印になって煙草店が益々繁昌して行くらしかった。戸若は一度、そのツル子に会って今までの礼を云いたい云いたいと思っていたが、忙しいのでツイ機会を失していた。
 ところが一昨昭和七年の夏、蟹口は突然に二三日の予定で神戸に行く事になった。何でも千番トラックの主人の命令で、神戸へ行って、中古《ちゅうぶる》のトラックを二台仕入れて来る……という話であったが、出かける時に、
「戸若君。済まんが俺の留守中に、植木鉢へ水を遣ってくれんか。朝はツル子が遣るが、午後になると店からドウしても手が離されんけに……な。頼んますど……」
 と呉々《くれぐれ》も云いおいて行った。
 戸若は喜んで引受けた。翌《あく》る日は午後から半日、暇を貰って頼まれた通りに蟹口の処へ来て、ツル子に色々と永々《ながなが》の礼を述べた。それから植木鉢の世話をツル子の指図通りにしたが、その時に、お互いに魔がさしたとでも云おうか。ツル子が無理に引止めて戸若に夕飯の御馳走をしたのがキッカケとなって、二人は退引《のっぴき》ならぬところへ陥込んでしまった。

 二人がズルズルと深間《ふかま》に陥る早さよりも、そうした噂《うわさ》の立つスピードの方が早かった。
 すると、その噂を聞いたものか、どうだかわからないが、蟹口は突然に、戸若にもダンマリで千番トラックを引いて、ツル子と共に淀橋の煙草店まで引払い、子安の妹田農場の専属運転手となった。そうしてその中《うち》に、だんだんと園芸の方へ頭が傾いて来たらしく、農場内の自宅の庭へ苺《いちご》や胡瓜《きゅうり》の小さな温床《フレーム》を造ったり、屋根一面に南瓜《かぼちゃ》の蔓《つる》を這わしたりして肥料《こやし》の異臭《におい》を着物まで沁《し》み込まして喜んでいた。……今にどこかで小さな土地を買って速成栽培でも遣ろうか。毛唐相手にすれば苺一粒が十二銭……胡瓜一本が三十銭もするんだから……などと妻のツル子へ相談することがあった。
 しかしツル子は極力不賛成を唱えた。折角油の異臭《におい》に慣れたところに、肥料《こやし》のにおいなんか押し付けられちゃ、たまらない……なぞと我儘を突張《つっぱ》った。無理にも亭主に運転手稼業を止めさせまいとした。
 ツル子と戸若の関係は切れていないのであった。結局蟹口がどうしても農業に転向するものと見込をつけた姦夫姦婦は、蟹口が汗を絞った貯金二千余円を捲上げる計劃を立てた。
 戸若は一昨昭和七年の十二月の初めの或る夕方、日が暮れると直ぐに、蟹口の留守宅に忍び入り、ツル子を細帯で縛り上げ、猿轡《さるぐつわ》を噛ました上で、二千円の貯金の通帳と印形《いんぎょう》を奪って逃走した。アトにはオモチャのピストルを一梃落しておいた。
 程なく帰って来た蟹口は、この体《てい》を見て大いに狼狽し、警察に訴えようとしたが、ツル子は私の恥が明るみに出るから厭《いや》だと主張して、とうとう訴えさせなかった。そうして、それから三日ばかり経った頃、
「妾《わたし》は一旦、泥棒に身を穢《けが》された以上、貴方《あなた》のような潔白な、正しい人の妻になる事は出来ません。思い切って死にますから縁のない昔と諦めて下さい。貴方の好きな人と結婚して下さい。妾は人の知らない処に死骸を隠したいのですから、どうぞ警察に届けないで下さい。妾の恥を曝《さら》さないようにして下さい。妾の一生のお願いです。
 妾は泣きながら死にます。死んで貴方の幸福を祈ります」
 という意味の遺書《かきおき》を残して、真昼間《まっぴるま》、家出してしまった。好人物の蟹口はこの遺書《かきおき》を真面目に信じて、届出《とどけで》なかったらしい。

 二人は、それで安心して道行をきめ込み、一旦、山陰地方の乗合《バス》会社に身を潜めたが、二千円の金を費《つか》い果すと大胆にも、昨、昭和八年の夏、又もや東京へ舞い戻って来て、小梅に同棲し、姦夫の戸若は三徳材木店専属のトラックの運転手となっていた。
 そこで、それとなく様子を聞いてみると、蟹口運転手は、それ以来スッカリ自棄《やけ》気味となり、大酒を飲み習い、誰、彼の見境《みさか》いなく喧嘩を吹っかけるようになっている。何故だかわからないが戸若という若造を見付けたら直ぐに知らしてくれ。ブチ殺してくれるからと云っている……という運転手仲間の噂話なので、戸若はモウすっかり震え上ってしまった。すこし旅費が出来たら直ぐに都落ちをするつもりでいた。
 そのうちに今年の春から幾らかの貯金が出来たので、イヨイヨどこかへ飛ぶつもりになったが、そのお名残《なご》りといったような気持で、ツイこの間の三月の末コッソリ蟹口の家の様子を覗きに行ってみると、裏庭の野菜や菊畑、屋根の南瓜《かぼちゃ》の蔓も枯れ枯れになって、ペンペン草が蓬々《ぼうぼう》と生えている廃屋《あばらや》の中に、泥酔した蟹口がグーグー睡っていた。その瘠せ衰えた髯だらけの恩人の姿を見た時に戸若は……ああ……済まない事をした……と思った。それ以来、後悔の念が高まるばかりで、東京を離れるのさえ気が済まないような気がしていた。

 そこへ昨夜、支配人から京浜国道の材木運搬を命ぜられて午後の十時から二回往復したが、最初は子安の近くを通るのが恐ろしくて仕様がなかった。もしや蟹口のトラックに行き合いはしないだろうかと思ってヒヤヒヤしいしい運転して行くところへ、向うから来たトラックがヘッド・ライトを消したから、こちらも直ぐに消したが、その消した瞬間に、蟹口の頑固な顎と、物凄く光る眼が、真正面に見えたのでゾッとしてスレ違った。
 よもや気付かれはしまいと思ったが、思い出すたんびに頭の毛がザワザワして仕様がなかったので一旦、材木を積んで深川へ帰ってから、一杯酒を飲んで、モウ一度、往復するために、手拭《てぬぐい》で下顎を覆面して深夜の京浜国道を下った。
 川崎の町あかりの中から見おぼえのある子安農場のトラックが出て来るのを見た時には、思わず緊張して鳥打帽を眉深《まぶか》く冠り直した。思い切って全速力を出した。ヘッド・ライトを消したまま猛然とスピードをかけて来るトラックの横をこちらはヘッド・ライトを消さないまま一気に駆け抜けようとしたが、その刹那に鬼のような形相に変った蟹口運転手が、思い切りハンドルを右に廻している姿がチラリと見えたと思う間もなく、轟然《ごうぜん》と衝突してしまった。こちらのトラックの方が新しくて頑固だったので、相手のヤワな車を引っかけて引ずり倒したまま二十|米突《メートル》ほど前進して停車したが、停車すると同時に相手のトラックのデッキに並んだ牛乳が大波のように舞い上って、そこいら中に滝のように降り注いだ事だけを夢のように記憶している。
 今朝《けさ》になって正気付いて、病院から警察へ連れて来られて、表のタタキに茣蓙《ござ》を被《かぶ》せたまま置いてある、あの蟹口運転手のメチャメチャになった妖怪じみた死骸を見た瞬間に……壊れた額から飛出《とびだ》した二つの眼球《めだま》が私を白眼《にら》んでいるのに気付いた時に私はモウ一度気が遠くなりかけました。
 蟹口運転手は私という事に気付いていたに違いありません。私と刺違《さしちが》えるつもりで、あんな事をしたに違いないと思います。
 私は何もかも白状します。どんな罪でも受けます。そうして蟹口さんの怨みを晴らしてもらわなければトテも恐ろしくてたまりません。
 妻のツル子にもそう云って下さい。二人は同罪だから罪ほろぼしをしろと云って下さい。……云々というのが戸若運転手の告白であった。
 流石《さすが》に事に慣れた川崎署員たちも、こうした告白は珍らしかったらしい。戸若運転手が告白を終って頸垂《うなだ》れてしまってからも、四人の警官が互いに顔を見合わせてシインとしていた。しかしその中《うち》に巡査部長が、何かしら憂鬱そうな眼を据《す》えながら戸若の繃帯頭を凝視した。
「ウムよく白状した。お前の後悔は認めてやるぞ」
 戸若は又一つ頭を下げた。シクシクとシャクリ上げ初めた。
「私が悪う御座いました」
 最前から手持無沙汰でいた交通巡査がロイド眼鏡をかけ直した。帳面をヒネリながら問うた。
「ウム。それはそれでいいとして、衝突の原因はお前がライトを消さなかったせいじゃない。蟹口が故意に衝突さしたと云うんだな」
「ヘイ。そうなんで……思い出してもゾッとします」
「フーム。しかし、そいつは何ともわからんな。イクラ怨みが在るにしても、そんな無茶をやるのは……」
「イイエ……」
 戸若は昂奮して立上った。自分の告白の神聖さを侮辱されたように眼の色を変えて、口を尖《と》んがらした。
「……そ……それに違いないんです。……でなけあコンナ事まで白状しやしません。ぶつかったトタンに私は……俺が悪かったッ……と怒鳴った位だったんです。ハタの奴には聞こえなかったかも知れませんけど……間違いありません」
 と云ううちに額の傷が昂奮のために破れたらしい。繃帯の上に新しい血が真赤にニジミ出した。
 交通巡査も二人の刑事も巡査部長と同様に憂鬱な顔になってしまった。相手の見幕の森厳《しんげん》さに圧倒されたかのように……。
「つい。まあええ。もちっと調べてみんとわからん」
 交通巡査は幾分意地になったような語気で巡査部長に向って頭を下げた。
「ちょっと蟹口の助手をしていた山口猿夫という小僧の容態を見て来ます。口が利けたら審問してみたいですから……」
 衝突|現場《げんじょう》附近の烏頭《うとう》外科医院に入院していた乳搾《ちちしぼり》少年、山口猿夫は左脚に巨大な石膏型《ギプス》をはめたまま意識を回復していた。枕頭《まくらもと》には妹田農場の牧場主任と園芸主任が突立ってヒソヒソ話をしていた。
 警官の姿を見た二人が別室に退《しりぞ》いたアトで、交通巡査から委細の話を聞いた山口少年は、眼を光らして頭を左右に振った。
「違います。そんな事があるもんですか。僕は蟹口さんの近所に居ますし、いつも牛乳|車《トラック》に一所に乗って行くんで、よく知っています。そんな事があったかも知れませんが蟹口さんは一口もそんな話をしませんでした。……しかし……蟹口さんがこの頃スッカリ自棄《やけ》になっていた事は事実です。自分の子供のように可愛がっていた野菜や植木にも水を遣らないで、お酒ばっかり飲んでいたんです。短気で喧嘩ばかりしていて、いつも困っていたんです。途中で降りて酒場《バア》で一杯引っかけて来ると一層気が荒くなって、運転が乱暴になっちゃってトテモ恐ろしかったんです。……この頃、×締りがズボラになったんで……御免なさい。蟹口さんが、そう云ったんですから……ゆるくなったんで礼儀も何も知らない土百姓みたいな運転手が、京浜国道をノサバリやがって仕様がねえ。こちらでチャンとヘッド・ライトを消してやっても挨拶も何もしねえで通り抜ける奴が多いんだ。××の奴等あ……御免なさい……そう云ったんですから……別嬪《べっぴん》の乗っているエロ・ハイヤばかり××××××トラックなんか見向きもしねえからコンナ事になるんだ。今に見てろ。挨拶しねえ車に真正面からブッ付けてくれるから……って云うんです。僕、恐ろしかったんですけど、まさかに、そんな無茶な事をしやしめえと思ってたら今夜は特別に酔払っていたんでしょう。ホントウに遣っつけたんです。クソッタレ……って云ううちにハンドルを曲げちゃったんです……。
 僕、ハッと思った拍子に夢中で外へ飛出《とびだ》したんですけど四十か五十ぐらい出していたもんですから飛び降りるなりタタキ付けられちゃったんです。相手の車ですか……見《め》えるものですか。ライトが眩しくってトラックだかハイヤだかわかりゃしません。……ヘエーッ。おどろいたなあ。蟹口さん死んだんですか。無茶だなあ……」



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:しず
2001年1月16日公開
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