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白髪小僧
杉山萠圓(夢野久作)

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)銀杏《いちょう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)皆|遣《や》ると云い出しました。

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(例)※[#「※」は「目+爭」、114-6]《みは》った
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   第一篇 赤おうむ


     一 銀杏《いちょう》の樹

 昔或る処に一人の乞食小僧が居りました。この小僧は生れ付きの馬鹿で、親も兄弟も何も無い本当の一人者で、夏も冬もボロボロの着物一枚切り、定《きま》った寝床さえありませんでしたが、唯《ただ》名前ばかりは当り前の人よりもずっと沢山に持っておりました。
 その第一の名前は白髪《しらが》小僧というのでした。これはこの小僧の頭が雪のように白く輝いていたからです。
 第二は万年小僧というので、これはこの小僧がいつから居るのかわかりませぬが、何でも余程昔からどんな年寄でも知らぬものは無いのにいつ見ても十六七の若々しい顔付きをしていたからです。又ニコニコ小僧というのは、この小僧がいつもニコニコしていたからです。その次に唖《おし》小僧というのは、この小僧が口を利いた例《ためし》が今迄一度もなかったからです。王様小僧というのは、この乞食が物を貰った時お辞儀をした事がなく、又人に物を呉《く》れと云った事が一度も無いから付けた名前で、慈善小僧というのは、この小僧が貰った物の余りを決して蓄《た》めず他の憐《あわ》れな者に惜《お》し気《げ》もなく呉れて終《しま》い、万一他人の危《あやう》い事や困った事を聞くと生命《いのち》を構わず助けるから附けた名前です。その他不思議小僧、不死身小僧、無病小僧、漫遊小僧、ノロノロ小僧、大馬鹿小僧など数えれば限りもありませぬ。人々は皆この白髪小僧を可愛がり敬《うやま》い、又は気味悪がり恐れておりました。
 けれども白髪小僧はそんな事には一切お構いなしで、いつもニコニコ笑いながら悠々《ゆうゆう》と方々の村や都をめぐり歩いて、物を貰ったり人を助けたりしておりました。
 或る時白髪小僧は王様の居る都に来て、その街外《まちはず》れを流れる一つの川の縁に立っている大きな銀杏の樹の蔭でウトウトと居睡《いねむ》りをしておりました。ところへ不意に高いけたたましい叫び声が聞こえましたから眼を開いて見ると、つい眼の前の川の中にどこかの美しいお嬢さんが一冊の本を持ったまま落ち込んで、浮きつ沈みつ流れて行きます。
 これを見た白髪小僧は直ぐに裸体《はだか》になって川の中に飛び込んでその娘を救い上げましたが、間もなく人々の知らせで駈けつけた娘の両親は、白髪小僧に助けられて息を吹き返した娘の顔を見ると、只《ただ》もう嬉《うれ》し泣きに泣いて、濡《ぬ》れた着物の上から娘をしっかりと抱き締めました。そして直ぐに雇った馬車に娘と白髪小僧を乗せて自分の家に連れて行きましたが、その家の大きくて美しい事、王様の住居《すまい》はこんなものであろうかと思われる位で、お出迎えに出て来た娘の同胞《きょうだい》や家来共の着物に附けている金銀宝石の飾りを見ただけでも当り前の者ならば眼を眩《ま》わして終う位でした。併《しか》し白髪小僧は少しも驚きませんでした。相も変らずニコニコ笑いながら悠々と娘の両親に案内されて奥の一室《ひとま》に通って、そこに置いてある美事な絹張りの椅子に腰をかけました。
 ここで家《うち》中の者は着物を着かえた娘を先に立てて白髪小僧の前に並んでお礼を云いましたが、白髪小僧は返事もしませぬ。矢張りニコニコ笑いながら皆の顔を見まわしているばかりでした。
 お礼を済ました家《うち》中の者が左右に開いて白髪小僧を真中にして居並ぶと、やがて向うの入り口から大勢の家来が手に手に宝石やお金を山盛りに盛った水晶の鉢《はち》を捧げて這入《はい》って来て、白髪小僧の眼の前にズラリと置き並べました。その時娘のお父さんは白髪小僧の前に進み出て叮嚀《ていねい》に一礼して申しました。
「これは貴方《あなた》の御恩の万分の一に御礼するにも当りませぬが、唯《ただ》ほんの印ばかりに差し上げます。御受け下さるれば何よりの仕合わせで御座います」
 白髪小僧はそんなものをマジマジ見まわしました。けれども別段有り難そうな顔もせず、又要らないというでもなく、家来共の顔や両親や娘の顔を見まわしてニコニコしているばかりでした。この様子を見た娘の父親は何を思ったか膝を打って、
「成《な》る程《ほど》、これは私が悪う御座いました。こんな物は今まで御覧になった事がないと見えます。それではもっと直ぐにお役に立つものを差し上げましょう」
 と云いながら家来の者共に眼くばせをしますと、大勢の家来は心得て引き下がって、今度は軽くて温かそうで美しい着物や帽子や、お美味《い》しくて頬《ほお》ベタが落ちそうな喰べ物などを山のように持って来て、白髪小僧の眼の前に積み重ねました。けれども白髪小僧は矢張りニコニコしているばかりで、その中《うち》に最前の午寝《ひるね》がまだ足りなかったと見えて、眼を細くして眠《ね》むたそうな顔をしていました。
 大勢の人々は、こんな有り難い賜物《たまもの》を戴《いただ》かぬとは、何という馬鹿であろう。あれだけの宝物があれば、都でも名高い金持ちになれるのにと、呆《あき》れ返ってしまいました。娘の両親も困ってしまって、何とかして御礼を為様《しよう》としましたが、どうしてもこれより外に御礼の仕方はありませぬ。とうとう仕方なしに、誰でもこの白髪小僧さんが喜ぶような御礼の仕方を考え付いたものには、ここにある御礼の品物を皆|遣《や》ると云い出しました。けれども何しろ相手が馬鹿なのですから、まるで張り合いがありませんでした。
「貴方をこの家《うち》に一生涯養って、どんな贅沢《ぜいたく》でも思う存分|為《さ》せて上げます」と云っても、又「この都第一等の仕立屋が作った着物を、毎日着換えさせて、この都第一等の御料理を差し上げて、この街第一の面白い見せ物を見せて上げます」と云っても、「山狩りに行こう」と云っても、「舟遊びに連れて行く」と云っても、ちっとも嬉しがる様子はなく、それよりもどこか日当りの好い処へ連れて行って、午睡《ひるね》をさしてくれた方が余《よ》っ程《ぽど》有り難いというような顔をして大きな眼を瞬いておりました。
 とうとう皆持てあまして愛想を尽かしてしまいました処へ、最前《さっき》から椅子に腰をかけてこの様子を見ながら、何かしきりに溜息《ためいき》をついて考え込んでいた娘は、この時|徐《しず》かに立ち上って清《すず》しい声で、
「お父様、お母様。白髪小僧様は仮令《たとい》どんな貴《たっと》い品物を御礼に差し上げても、又どんな面白い事をお目にかけても、決して御喜びなさらないだろうと思います。妾《わたし》はその理由《わけ》をよく知っています」
 と申しました。
「何、白髪小僧さんにどんな御礼をしても無駄だと云うのかえ。それはどういうわけです」
 と両親は言葉を揃えて娘に尋ねました。傍に居た大勢の人々も驚いて皆|一時《いちどき》に娘の顔を見つめました。皆から顔を見られて、娘は恥かしそうに口籠《くちご》もりましたが、とうとう思い切って、
「その訳《わけ》はこの書物にすっかり書いて御座います」
 と云いながら、懐《ふところ》から黒い表紙の付いた一冊の書物を出しました。
「この書物に書いてある事を読んで見ますと、白髪小僧様は今までこの国の人々が見た事も聞いた事もない不思議な国の王様なので御座います。ですからこの世の中でどんなに貴い物を差し上げても、どんなに面白い物を御目にかけても、御喜びになる気遣《きづか》いはあるまいと思います。そうしてそればかりでなく、白髪小僧様が妾《わたし》の命を御助け下さるという事は、ずっと前から定《き》まっていた事で、その証拠にはこの書物には、妾が水に落ちましてから、助けられる迄の事が、ちゃんと書いてあるので御座います。決して御礼を貰おうなどいう卑《さも》しい御心で御助け下さったのでは御座いませぬ」
 と決然《きっぱり》とした言葉で申しました。
 両親は云うに及ばず、大勢の人々もこの娘の不思議な言葉に、心の底から驚いてしまって、暫《しばら》くはぼんやりと娘の顔と白髪小僧の顔とを見比べていましたが、何しろあんまり不思議な話しで、どうも本当《ほんと》らしくない事ですから、父様は頭を左右に振りながら――
「これ娘、お前は本気でそんな事を云うのか。私はどうしてもお前の話しを本当《ほんと》にする事は出来ない。一体お前はどこでそんな奇妙な書物を手に入れたのだ」
 と言葉せわしく尋ねました。娘はどこまでも真面目《まじめ》で沈《お》ち着《つ》いて返事を致しました――
「いいえ、妾はちっとも気が狂ってはおりませぬ。そして又この書物に書いてある事を疑う心は少しも御座いませぬ。お父様でもお母様でもどなたでも、一度この書物に書いてあるお話しを御聞き遊ばしたならば、矢張《やっぱ》り屹度《きっと》妾と同じように本当に遊ばすに違いありませぬ。でもこの書物には白髪小僧様と、妾の身の上に就《つ》いて、今まであった事や、行く末の事が些《すこ》しも間違いなく委《くわ》しく書いてあるので御座いますもの。ですからこの書物を読みさえすれば妾がどうしてこの書物を手に入れたかという事も、すっかりおわかりになるので御座います。又今から後《のち》白髪小僧様と妾の身の上がどうなって行くかという事も、追々とおわかりになる事と思います」
 皆の者は、聞けば聞く程不思議な話に、驚いた上にも驚いて、開《あ》いた口が塞《ふさ》がりませんでした。
 両親もとうとう思案に余って、とにかくそれでは娘にこの書物を読まして一通り聞いた上で、本当《ほんと》か嘘《うそ》か考えてみようという事に定《き》めました。
 両親の許しを受けて娘が書物を読み初めると、室《へや》中の者は、皆《みんな》水を打ったように森《しん》となりました。只その中で白髪小僧ばかりは何の事やら訳がわからずに大きな眼をパチパチさせながら、娘の美しい声に聞き惚《と》れていましたが、間もなく聞き疲れてしまって、又うとうとと居睡《いねむ》りを初めました。
 お嬢様はそれには構わずに、書物を繰り拡げて高らかに読み初めました。その話しはこうでした。

     二 黒い表紙の書物

 この書物に書いてある事は、世界一の利口者と世界一の馬鹿者との身の上に起った、世界一の不思議な面白いお話しである。
 この話しを読む人は誰もこの中に書いてある事を本当《ほんと》に為《し》ないであろう。皆そんな馬鹿気た不思議な事がこの世の中に在るものかと思うであろう。唯世界一の利口な人と世界一の馬鹿な人だけは、これを本当《ほんと》にして読むのである。今のところそんな人はこの世の中《うち》に唯二人しかいない。その一人はニコニコ王様の長生《ながいき》の乞食の白髪小僧で、今一人はこの国の総理大臣の美留楼《みるろう》公爵の末娘|美留女姫《みるめひめ》である。そうしてこの書物の持ち主は、この書物に書いてある事を、初めからおしまいまで本当《ほんと》にして読む人――つまりこの白髪小僧と美留女姫二人より他には無いのである。
 この書物にはその持ち主が、自分や他人の身の上について知りたいと思う事、又は他《た》の人に知らせたい、話して聞かせたいと思う事が、自由自在に挿《さ》し絵《え》や文字となって現われて来る。今美留女姫は自分がこの書物を手に入れた仔細《わけ》を、両親《ふたおや》やその他の人々に読んで聞かせたいと思っているから、このお話しは先《ま》ず美留女姫の身の上の事から始まらなければならない。
 今この書物を声高らかに読んでいる美留女姫は前にもある通り、この国第一の金持ちで、この国第一の貴《たっと》い役目と身分とを持っている公爵美留楼という人の末娘で、今年十四になったばかりであるが、生れ付きお話が大好きで、毎日一ツ宛《ずつ》新しいお話を聞かねばその晩眠る事が出来ないのが癖《くせ》であった。姫の両親《ふたおや》はそのために、毎日毎日新しいお話の書物を一冊|宛《ずつ》買ってやったが、今は最早《もはや》その書物が五ツの倉庫《くら》に一パイになってしまった。この上にはどこの書物屋を探しても、今までと違った新しいお話の書物は、一冊も無いようになってしまった。
 ところがここに一ツ困った事には、この美留女姫は大層|物憶《ものおぼ》えがよくて、どんなに古く聞いた話でも少しも間違わずにはっきりと記憶《おぼ》えていて、初めの二言三言聞けばすぐにあとの話を皆思い出してしまうから、古い書物を二度読んで聞かせる訳には行かなかった。それかといって、この上に新しいお話は世界中に只の一ツも無いのだから、姫は毎日毎晩新らしいお話が聞きたくて聞きたくて夜もおちおち眠る事が出来なかった。
 けれども姫は両親《ふたおや》にこの事を話すと、却《かえっ》て心配をかけると思ったから、毎晩|故意《わざ》とよく眠ったふりをして我慢《がまん》しながら、どうかして新しい珍らしいお話を聞く工夫はないかと、そればかり考えていた。
 ところが或る日の朝の事であった。姫は昨夜も夜通しまんじりとも為《し》なかったので、呆然《ぼんやり》しながら起き上って顔を洗い御飯を喰べて、何気なく縁側に出て庭の景色に見とれた。丁度秋の半ば頃で庭には秋の草花が露に濡れて、眼眩《めまぐる》しい程咲き乱れていたが、姫は又もやお話の事を思い出して、吁《ああ》、あの花が皆|善《い》い魔物か何かで、一ツ一ツに面白い話しを為《し》てくれればいいものを、彼《か》の林の中に囀《さえず》っている小鳥が天人か何かで、方々飛びまわって見て来た事を話して聞かせるといいいものをと独《ひと》りで詰《つま》らなく思っていると、不意に耳の傍で――
「美留女姫、美留女姫」
 と奇妙な声で呼ばれたので、吃驚《びっくり》してふり向いた。見るとそれはつい昨日《きのう》の事、美留女姫の兄様の美留矢《みるや》が、明日《あす》王様に差し上げるからそれまで飼っておいてくれと云って、美留女姫に預けた一羽の赤い鸚鵡《おうむ》で、美留矢の家来が東の山から捕《と》って来たものであった。美留女姫はこれを見ると淋《さび》しい笑みを浮かめて――
「まあ、お前だったのかい、今呼んだのは。まあ、何という利口な鳥でしょうねえ。最早《もう》妾の名前を覚えたの。大方お父様かお母様の真似でも為《し》ているのでしょう。本当にお前は感心だわねえ」
 と云いながら、籠《かご》の傍に近寄った。けれども鸚鵡は籠の真中の撞木に止まりながら、矢張《やっぱ》り姫の名を呼び続けた――
「美留女姫、美留女姫、美留女姫」
 これを聞くと姫は益々笑いながら――
「まあ、可笑《おか》しい鸚鵡だ事。わかったよ、わかったよ、妾はここに来ているではないの。そうして妾に何か用でもあるの」
 と尋ねた。すると不思議なことには赤鸚鵡が忽《たちま》ち姫の前の金網へ飛び付いて、姫の顔を真赤《まっか》な眼で見つめながら――
「美留女姫、美留女姫、用がある。話がある、面白い話しがある」
 と呼んだ。
 美留女姫はこれを聞くと、真青になって驚いた。真逆《まさか》こんな鳥が、人間と同じように、しかも自分に話しかけようとは夢にも思わなかったのだから、怪しんだのも無理はない。余りの事に呆《あき》れて口も利けなくなって、茫然《ぼんやり》と鸚鵡を見つめていると、赤鸚鵡は構わずに叫び続けた――
「怪しむな、驚くな、美留女姫、美留女姫。
 お前の願いは今|叶《かな》った。
 新規の話しを聞きたいという。
 お前の願いは今叶った。
 行け行け、街に行け。
 たった独《ひと》りで街に行け。
 この広い街中で一番長く生きている。
 白髪《しらが》頭の人に聞け。
 不思議な姿の人に聞け。
 その人の身の上話しを……
 悧口な美留女姫。
 賢い美留女姫。
 疑うな、怪しむな、夢でない、本当だぞ。
 疑うな、怪しむな、夢でない、本当だぞ」
 美留女姫はこの時やっと吾《わ》れに帰って、夢から覚めたように思いながら、鸚鵡の言葉を一心に聞いていた。そうして心の中《うち》で、この不思議な鳥の言葉を、驚き怪しみながらも亦《また》、その云う事が決して偽《いつわ》りでも出鱈目《でたらめ》でも何でもなく、本当に珍らしい話しを聞くのに、一等都合の宜《よ》い巧《うま》い工夫を教えている事が解《わ》かって、心から感心した。成る程この街で、一番珍しい奇妙な風体《なり》をしている、一番|長生《ながいき》の白髪頭の老人を見付け出して、その人の身の上話しを聞かしてもらえば、屹度《きっと》面白い新規の話を聞く事が出来るに違いない。又|仮令《たとい》そんな人でなくとも、身の上話しならばどんな人を捕まえても、十人が十人違っている筈《はず》だから、同じ話を二度聞かされる心配はない。そうしてその御礼には、書物を一冊買うだけのお銭《あし》を遣れば、貧乏人等は喜んで話して聞かせるに違いないと、こう考え付くと美留女姫は、最早《もう》一秒時間も我慢が出来なくなった。眼の前の鸚鵡の事も忘れてしまって、直ぐに自分の室《へや》に帰って帽子を頭に載《の》せるが早いか、たった一人で家を出て只《と》ある人通りの多い橋の袂《たもと》へ駈けて来た。
 そこに暫《しばら》くの間立って待っていると、間もなくよい都合に向うから、お誂《あつら》え通りの奇妙な風体《なり》をした白髪頭の人が遣って来たから、姫は天にも昇らんばかりに喜んで、いきなりその人の前に駈け寄って袖《そで》に縋《すが》りながら十円の金貨を出して、身の上話をしてくれと頼んだ。その人は頭に高い帽子を三段も重ねて耳の処まで冠《かむ》っていた。そして身には赤い襯衣《しゃつ》を着て、青い腰巻の下から出た毛だらけの素足に半長《はんなが》の古靴を穿《は》いていたが、赤い顔に白髪髯《しらがひげ》を茫々《ぼうぼう》と生《は》やして酒嗅《さけくさ》い呼吸《いき》を吐《は》きながら、とろんこ眼で姫の顔を呆れたように見つめていた。けれども姫から大略《あらまし》の仔細《わけ》を聞くと、大きな口を開いて笑い出した――
「アハ……。そうか。ではお前はここまでお話しを買いに来たのか。成る程、それは巧い思い付きだ。そうして第一番に俺を捕《つか》まえたのは感心だ。
 世界中で俺位面白い愉快な身の上を持っているものは、他に唯の一人も無いのだからな。では今から話すからよく聞きなよ。俺は小さい時から酒が好きで、どうしても止められなかったんだ。親が死んでも構わずに酒を飲んだ。嬶《かかあ》や小供が死んでも矢張《やっぱ》り酒を飲んだ。家《うち》が火事になっても、打《う》っ棄《ちゃ》っておいて酒を飲んでいた。嬉《うれ》しいと云っちゃ飲んだ。悲しいと云っちゃ飲んだ。昨日《きのう》も飲んだ。今日もたった今まで飲んだところだ。明日《あした》も明後日《あさって》も……大方死ぬまで飲むんだろう。今からも亦《また》、お前のお金で飲んで来ようと思うんだ。これでお仕舞い……目出度《めでた》し目出度しかね。ハハハ。イヤ有り難う。左様なら」
 と云ううちに姫の掌《てのひら》の中の十円の金貨を引ったくって、よろよろとよろめいて行った。
 姫は大層面白い話だとは思ったが、何しろあんまり短くて張り合いがなかった。だから今度はなるべく長く委《くわ》しく話してもらおうと思って、酔《よ》っ払《ぱら》いのあとから通りかかったお婆さんの傍へ寄って、事情《わけ》を話して身の上話しを聞かしてくれと頼んだ。
 このお婆さんも不思議な風体《ふうてい》で、頭は白髪が茫々《ぼうぼう》と乱れているのに、藁《わら》で編んだ笠を冠《かむ》り、身には長い穀物《こくもつ》の袋に穴を明けたのに両手と首を通して着ていて、足には片方《かたっぽう》にスリッパ、片方には膝まで来る長靴を穿《は》いて、一尺ばかりの杖を突張って地面に這い付く程に腰を曲げていた。そうして矢張《やっぱ》り最前の酔払いと同じように、美留女姫が出し抜けに奇妙な事を頼んだのに驚いたと見えて、杖につかまって腰を伸ばしながら、霞んだ眼を真《ま》ン円《まる》にして姫の顔を見ていたが、やがてニヤリと笑いながら金貨を貰ってそのまま杖を突張って行こうとした。姫は慌てて袖に縋《すが》って――
「アレお婆さん。お話しはどうしたのです。何卒《どうぞ》あなたの身の上話を聞かして下さいな」
「何も話す事はありませぬ。只《ただ》三万日の間つまらなく長く生きていたばかりで御座います」
「まあ三万日……八十年ですわね。でもその間に何か珍しい事があったでしょう」
「アア。そうそうたった二ツありましたよ」
「それはどんな事ですか?」
「一ツは生れてはじめてお話気違いというものを見た事で御座います」
「オヤ。いつ、どこで?」
「今、ここで」
「マア。ではも一ツは?」
「十円の金貨というものをこの手に生れて初めて握った事で御座います。ほんとに有り難う御座いました。さようなら」
 と云いながら袖をふり払ってどこかへ行ってしまった。
 こんな風に遇《あ》う者も遇う者も皆姫を気違いか馬鹿扱いにして、散々|嘲弄《からか》ってはお銭《あし》を持って行ってしまったから、一時間と経たぬうちに姫の財布はすっかり空っぽになってしまった。その中《うち》でも非道《ひど》い奴はお金も何も取らない代りに――
「俺は今忙がしいんだ。そんな馬鹿の相手になってはいられない」
 と剣突《けんつく》を喰《くら》わして行ったものもあった。
 姫はもうすっかり気を落してしまって、迚《とて》もこんな塩梅《あんばい》では一生涯面白い珍らしい話を聞く事は出来ないであろう。彼《か》の赤|鸚鵡《おうむ》は嘘を吐《つ》いたのか知らん。もし本当にこれから一ツも新しいお話を聞く事が出来なければ、もう一生涯何の楽しみも無くなってしまったのだから、死んだ方がいくら良《い》いか知れない。噫《ああ》、情ない事になった。詰《つま》らない事になったと、しくしく泣きながら、街外れの只《と》ある河岸まで来るともなく歩いて来ると、そこに立っている大きな銀杏《いちょう》の樹の根元に腰をかけて、疲れた足を休めようとした。けれどもまだ腰をかけぬ前に姫はその銀杏の樹の根元に思いがけないものを見つけて、忽《たちま》ち躍《おど》り上らんばかりに喜んだ。その時姫が見付けたのがこの白髪小僧と題した不思議なお話の書物であった。
 姫はこの書物が、竜《りゅう》のようにうねった銀杏の樹の根本に乗っているのを見つけると直ぐに、この書物こそ自分が今まで一度も見た事のない書物だと思って、思わず駆《か》け寄って手に取ろうとしたが、又ハッと気が付いて立ち止まった。見れば大分古びた書物のようだから、これは屹度《きっと》誰かがここに置き忘れて行ったものに違いない。して見ればこれを黙って開いて見るのは泥棒と同じ事だと思って、出しかけた手を引っこめた。
 姫は折角こんな有り難い事に出くわしながら、指一本指す事も出来ず、持ち主の来るのを待っていなくてはならぬのが、自烈度《じれった》くて堪《たま》らなかった。早く持ち主が来てくれればいい。そうして自分にこの書物を貸してくれればいいと、足摺りをして立っていた。けれどもどういうものか、持ち主は愚《おろ》か人間らしいものは一人も遣って来ないで、その代りに空から銀杏の葉が黄金《こがね》の雪のようにチラチラと降って来て、書物のまわりに次第次第に高く積りはじめた。そうしてその黒い表紙がだんだんと見えなくなって、もうあと一二枚落ちるとすっかり銀杏の葉で隠れてしまいそうになると、最前《さっき》から我慢の出来るだけ我慢をしていた姫は、もう堪《たま》らなくなって、我れ知らず傍に走り寄って、銀杏の葉を掻《か》き除《の》けて書物を拾い上げて、表紙を一枚夢中でめくって見た。
 すると姫は又もやそこに夢ではないかと思う程不思議なものを見つけた。その初めの処にはっきりとした文字で『白髪小僧と美留女姫《みるめひめ》』という言葉が、チャンと二行に並んで書いてあったのである。姫は白髪小僧の事は兼々《かねがね》お附の女中から委《くわ》しく聞いて知っていたが、今目の前に自分の名前と一緒にチャンと並べて書いてあるのを見ると、どうしても誰かの悪戯《いたずら》としか思われなかった。
 けれども姫が又急いで次の頁《ページ》を開いて見ると、今度はいよいよ二人の名前が出鱈目《でたらめ》に並べてあるのではなく、この書物には本当に、自分と白髪小僧の身の上に起った事が書いてあるのだという事がわかった。その第三頁目には王冠を戴《いただ》いた白髪小僧の姿と美事な女王の衣裳を着けた美留女姫が莞爾《にっこ》と笑いながら並んでいる姿が描《か》いてあった。
 もう姫はこの書物から、一寸《ちょっと》の間《ま》も眼を離す事が出来なくなった。すぐに第四枚目を開いてそこに書いてあるお話を次から次へと読んで行くと、疑いもない自分の身の上の事で、姫がお話の好きな事から、身の上話を買いに出かけた事、そうして銀杏の根本でこの書物を見つけたところまで、すっかり詳《くわ》しく書いてあるものだから、全く夢中になってしまって、これから先どうなる事だろうと、先から先へと頁を繰りながら、家《うち》の方へ歩いているうちに、一足|宛《ずつ》川岸の石崖の上に近づいて来た。折からそこを通りかかった二三人の人々はこの様子を見て胆《きも》を潰《つぶ》し――
「危いッ、お嬢様危い。ソラ落ちる」
 と大声揚げて駈け附けた。
 併《しか》し姫は書物に気を取られていたから人々の叫び声も何も耳に入らなかった。
 矢張《やっぱ》り平地《ひらち》を歩いているつもりで片足を石垣の外に踏み出すや否や、アッと云う間もなく水煙《みずけむり》を立てて落ち込んでドンドン川下へ流れて行った。
 けれども仕合わせと白髪小僧の御蔭《おかげ》で危い命を拾ったが、これが縁となって美留女姫は白髪小僧を吾《わ》が家《や》へ連れて来て、両親を初め皆の者に白髪小僧と自分との身の上に起った、今までの不思議な出来事を読んで聞かせると、皆心から驚いて、一体これはその書物に書いてあるお話しか、それとも本当に二人の身の上に起った事かと疑った。そうして今の話で、この間赤い鸚鵡が云った一番|長生《ながいき》の白髪頭の奇妙な姿をした老人というのはお爺さんでもお婆さんでも何でもなく、この白髪小僧の事に違いないことがわかった。成程、白髪小僧ならば、世界中で二人とない不思議な身の上話を持っているに違いない。そうしてそれを聞くのは世界中でこの人達が初めてで、しかもそれが美留女姫の身の上と一所になって、どこかまだ知らぬ国の王様と女王になるらしく思われたから、皆の者は最早《もう》先が待ち遠しくて堪《たま》らなくなって――
「それからどうしたのです。早く先を読んで下さい」
 と口々に催促《さいそく》をした。

     三 青い眼

 美留女姫も同じ事で、最前《さっき》水に落ちたのを、白髪小僧に救い上げられてから今までの出来事は、皆本当に自分の身の上に起っている事か、それともこの書物に書いてあるお話しかと疑った。そうして皆から催促される迄もなく、白髪小僧と自分の身の上のお話がどうなるか、早く読みたくて堪らなかったけれども、一先ずじっと気を落ち着けて皆の顔を見まわしながらニッコリと笑った。そうして――
「待って下さい。妾《わたし》もこれから先どうなるか知らないのです。今から先を読みますから静かにして聞いていて下さい」
 と云いながら、胸を躍らせて次の頁を開いた。
 見ると……どうであろう。次の頁は只の白紙《しらかみ》で、一字も文字が書いて無いではないか。これは不思議……今まであった話が途中で切れる筈《はず》はないと思いながら、慌てて次の頁を開いたがここも白紙《はくし》で何も書いて無い。その次その次とお終い迄バラバラ繰り拡げて見たが矢張《やっぱ》り同じ事。真逆《まさか》白髪小僧と自分の身の上が、これでおしまいになった訳ではあるまいと、美留女姫は胸が張り裂ける程驚き慌てて、今度は前の方を引っくりかえして見ると又驚いた。今まであんなに書き続けてあった文字が一字も無く、この書物は全くの白紙《しらかみ》の帳面と同じ事になっていた。
 美留女姫はあまりの事に驚き呆《あき》れて思わず書物から眼を離すと又不思議、今までたしかに大広間の中で大勢の人に取りまかれて、書物を読んでいた筈なのに、今見まわせばそんなものは、書物の文字や挿《さ》し絵《え》と一所に、どこかへ綺麗《きれい》に消え失せてしまって、自分は矢張り最前の銀杏《いちょう》の根本に、書物を持ったままぼんやりと突立っているのであった。しかも眼の前の最前書物の置いてあった銀杏の樹の根本には、いつの間にどこから来たか、白髪小僧が腰をかけていて、お話を聞きながらうとうとと居睡《いねむ》りをしているではないか。姫は何だかサッパリ訳がわからなくなった。最前からのいろいろの不思議の出来事は、矢張り本当の事ではなく、皆この書物を読みながらそのお話しの通りに自分が為《し》たように思っただけで、本当は矢張り最前《さっき》からここに立ったままで、白髪小僧は自分の気付かぬ間《ま》にここに来て眠っているのだとしか思われなかった。姫は益々呆れてしまって、思わず手に持っていた書物をパタリと地上《じべた》に取り落すと、間もなく颯《さっ》と吹いて来た秋風に、綴《と》じ目《め》がバラバラと千切れて、そのまま何千何万とも知れぬ銀杏の葉になって、そこら中一杯に散り拡がった。見るとその葉の一枚|毎《ごと》に一字|宛《ずつ》、はっきりと文字が現われている様子である。
 重ね重ねの不思議に姫は全く狐に憑《つま》まれた形で、ぼんやりと突立って見ていると、その内に又もや風が一しきり渦巻《うずま》き起《た》って、字の書いてある銀杏の葉をクルクルと巻き立てて山のように積み重ねてしまった。
 するとそこへどこからか眼の玉と髪毛《かみのけ》と鬚《ひげ》が真青な、黄色い着物を着た一人のお爺《じい》さんが出て来たが、この銀杏の葉の山を見ると、これも何故《なぜ》だか余程驚いた様子で――
「これは大変な事になった。一時《いっとき》も棄てておかれぬ」
 と云いながら直ぐ傍《そば》の石作りの門の中に這入ったが、やがて大きな袋と箒《ほうき》を持って来てすっかり銀杏の葉をその中へ掃《は》き込《こ》んで、どこかへ荷《かつ》いで行く様子である。これを見ていた姫はこの時はっと気が付いて、あの銀杏の葉に書いてある字を集めると、屹度《きっと》今までのお話しの続きがわかるのに違いないと思ったから、持って行かれては大変と急に声を立てて――
「お爺さん、一寸待って下さい」
 と呼び止めた。
 けれども青い眼の爺様は見向きもしないで唯《ただ》――
「何の用事だ」
 と云い棄ててずんずん先へ急いで行った。
 美留女姫はこれを見ると、慌ててお爺さんに追《お》い縋《すが》って――
「お爺さん。何卒《どうぞ》御願いですから待って下さい。そうしてその銀杏の葉に書いてある字を妾に読まして下さい」
 と叮嚀《ていねい》に頼んだ。けれどもお爺さんは矢張り不機嫌な声で――
「馬鹿な事を云うな。これは悪魔の文字だ。これを見ると悪魔に魅入られるのだ。見せる事は出来ない」
 と答えながらなおも足を早めて急いで行く。
 美留女姫は気が気でなくなおもお爺さんに追い縋って尋ねた――
「では貴方《あなた》はそれをどうなさるのですか」
「うるさい女の子だな。山へ持って行って焼いてしまうのだ」
「エエッ。それはあんまり勿体《もったい》ないじゃありませんか。それには面白いお話しが沢山書いてあるのです。妾はそれを読んでしまわなければ、今夜から眠る事が出来ませぬ。明日《あした》からは生きている甲斐《かい》が無くなります。何卒《どうぞ》、何卒《どうぞ》後生ですから妾を助けると思って、その銀杏の葉に書いてある字を読まして下さい。ね。ね」
 と泣かんばかりに頼みながら、老人に追い付いて袖に縋ろうとした。けれども爺さんは尚も意地悪くふり払って――
「そんな事を俺が知るものか。この銀杏の葉に書いてある文字は、藍丸国《あいまるこく》の大切な秘密のお話しで、これをうっかり読んだり聞いたりすると、藍丸国に大変な事が起るのだ。とてもお前達に見せる事は出来ない。諦《あきら》めて早く帰れ」
 と云いながら一層足を早めて歩き出した。
 するとこの様子を見ていた白髪小僧は、何と思ったか忽《たちま》ちむっくり起き上って、大急ぎであとを追っかけはじめた。その中《うち》に美留女姫も一生懸命に走ってお爺さんに追い付いて、何を為《す》るかと思うと、懐《ふところ》から小さな鋏《はさみ》を取り出して、お爺さんが荷《かつ》いで行く袋の底を少しばかり切り破った。そうして、その破れ目から落ちる銀杏の葉を、お爺さんが気付かぬように、ずっと後ろから拾って行きながら、その上に書いてある一字一字を清《すず》しい声で読み初めたが、その一字一字は不思議にも順序よく続き続いて、次のような歌の文句になっていた。

     四 石神の歌

「三千年の春|毎《ごと》に、栄え栄えた銀杏の樹。
 三千年の夏毎に、茂り茂った銀杏の樹。
 梢《こずえ》に近い大空を、月が横切る日が渡る。

 流るる星の数々は、枝の間に散り落ちて、
 千万億の葉をふるう、今年の秋の真夜中の、
 霜に染《そ》め出《だ》す文字の数、繋《つな》ぎ繋がる物語。

 春はどこから来るのやら。秋はどっちへ行くのやら。
 毎年《まいとし》毎年花が咲き、毎年毎年葉をふるう。
 昔ながらの世の不思議、今眼の前に現われて、
 眼は見え耳はきこえても、手足は軽く動いても、
 昨日《きのう》為《し》た事今日忘れ、先刻《さっき》した事今忘れ、
 自分の事も他事《ひとごと》も、忘れ忘れていつ迄も、
 限りない年生き延びた、聞こえ聾《つんぼ》の見え盲目《めくら》。
 不思議な王の知ろし召《め》す、奇妙な国の物語。

 昔々のその昔、世界に生きたものが無く、
 只《ただ》岩山と濁《にご》り海、真暗闇《まっくらやみ》のその中《うち》に、
 或る火の山の神様と、ある湖の神様と、
 二人の間に生れ出た、たった一人の大男。
 金剛石の骨組に、肉と爪とは大理石。
 黒曜石の髪の毛に、肌は水晶血は紅玉《ルビー》。

 岩角ばかりで敷き詰めた、広い曠野《あれの》の真中で、
 大の字|形《なり》の仰向《あおむ》けに、何万年と寝ていたが、
 或る時天の向うから、大きな星が飛んで来て、
 寝てる男の横腹へ、ドシンとばかりぶつかった。

 男はウンと云いながら、青玉の眼を見開いて、
 どこが果ともわからない、暗《やみ》の大空見上ぐれば、
 左の眼からは日の光り、右の眼からは月の影、
 金と銀とに輝やいて、二ツ並んで浮み出し、
 一ツは昼の国に照り、一ツは夜の国に行く。

 瞬《まばた》きすれば星となり、呼吸をすれば風となり、
 嚏《くしゃみ》をすれば雷《らい》となり、欠伸《あくび》をすれば雲となる。

 男はやがてむっくりと、山より大きな身を起し、
 ずっと周囲《まわり》を見まわせば、四方《あたり》は岩と土ばかり。
 もとより生きた者とては、艸《くさ》一本も生えて無い。

 男はあまりの淋しさに、オーイオーイと呼んで見た。
 けれどもあたりに一人《いちにん》も、人間らしい影も無く、
 大石小石の果も無い、世界に自分は唯一人。

 青い空には雲が湧く。幾個《いくつ》も幾個も連れ立って、
 さも楽し気に西へ行く。けれども自分は唯一人。

 黒い海には波が立つ。仲よく並んでやって来て、
 岸に砕けて遊んでる。けれども自分は唯一人。

 もとより不思議の大男。家《うち》も着物も喰べ物も、
 何んにも要らぬ身ながらに、相手といっては人間や、
 鳥や獣《けもの》はまだ愚か、艸《くさ》一本も眼に入らぬ、
 広い野原の恐ろしさ。石の野原の凄《すさま》じさ。

 折角生れて来たものの、話し相手も何も無い、
 淋しさつらさ情なさ。男はとうとう焦《じ》れ出して、
 一体誰がこの俺を、こんな野原に生み出した。
 一体誰がこの俺を、こんな荒野《あれの》に連れて来た。

 寧《いっ》そ眠っているならば、死ぬまで眠っているならば、
 こんな淋しい情ない、つらい思いはしまいもの。
 一体誰がこの俺を、ドシンとなぐって起したと、
 ぬっくとばかり立ち上り、声を限りに怒鳴《どな》ったが、
 答えるものは山彦の、野末に渡る声ばかり。

 青い空には雲が湧く。けれども自分は只一人。
 黒い海には波が立つ。けれども自分は只一人。

 男はとうとう怒り出し、吾れと吾が髪引掴み、
 赤く血走る眼を挙げて、遠い青空|睨《にら》みつつ、
 大声揚げて泣きながら、天も響《ひび》けと罵《ののし》った。

 大空も聞け土も聞け、山も野も聞け海も聞け。
 目に見えるもの見えぬ者、あらゆる者よ皆《みんな》聞け。
 俺は死ぬのだ今直ぐに、この場で死んで了《しま》うのだ。
 われと自分の淋しさに、天地を怨《うら》んで死ぬるのだ。
 こんな淋しい恐ろしい、所に長く生きていて、
 悲しい思いするよりは、死んでしまった方が好い。

 こんな眼玉があったとて、面白いもの見なければ、
 綺麗なものを見なければ、何の役にも立たないと、
 われと吾が眼をえぐり出し、虚空《こくう》はるかに投げ棄てた。
 その投げ上げた眼の玉が、地面《じべた》に落ちたその時は、
 一字も文字の書いて無い、巻いた書物となっていた。

 二ツの耳もこの上に、面白い事聴かれねば、
 他人《ひと》の話しもきかれねば、何の役にも立たないと、
 両方一度に引き千切り、地面の上に打ち付けた。
 すると二ツ耳も亦、地面に落ちると一時《いちどき》に、
 一ツも穴の明いて無い、重たい石の笛となる。

 鼻はあっても見る限り、咲く花も無い広い野の、
 埃《ほこり》に噎《む》せるばかりでは、却《かえっ》て邪魔《じゃま》にしかならぬ、
 糞《くそ》の役にも立たないと、これも千切って打ち付けた。
 するとガタンと音がして、糸を張らない月琴《げっきん》が、
 この大男の足もとの、石の間に落っこちた。

 又|一人《いちにん》も話しする、相手が無ければこの舌も、
 無駄なものだと云ううちに、ブツリとばかり噛み切って、
 石の間に吐《は》き棄《す》てた。それと一緒にコロコロと
 振り子の附かない木の鈴が、地面の上に転がった。

 こうして我れと吾が身をば、咀《のろ》い尽《つく》した大男、
 息は忽《たちま》ち絶え果てて、石の野原に打ちたおれ、
 手足も頭もバラバラに、胴と離れて転がった。

 折しも四方に雲が湧き、雷が鳴り風が吹き、
 月日の光りも真暗に、砂や小石を吹き上げて、
 車軸を流す大雨を、泥や小砂利の滝にして、
 彼《か》の大男の亡骸《なきがら》も、埋もるばかりにふりかけた。

 その時海も野も山も、砕くるばかりに鳴り渡る、
 さも物凄い恐ろしい、真暗闇のただ中に、
 彼《か》の石男の眉間《みけん》から、赤い光りが輝やいて、
 額の骨が真二《まっぷた》ツに、パッと割れたと思ううち、
 真赤な鸚鵡が飛び出して、東の方へ飛んで行《っ》た。

 又石男の胸からは、青い光りが輝やいて、
 身に宝石の鱗《うろこ》着た、細い海蛇《かいだ》を巻き付けた、
 大きな鏡が現われて、南の方へ飛んで行《っ》た。

 やがて空には雲が晴れ、地には嵐が吹き止んで、
 泥の野原に泥の山、濁った海のその他は、
 何にも見えぬその涯《はて》に、真赤な真赤な太陽が、
 ぐるぐるぐると渦巻いて、眩《まぶ》しく沈みかけていた。

 その時地面のドン底の、彼《か》の石男の亡骸《なきがら》の、
 数限りない毛穴から、何億万とも数知れぬ、
 大きい小さい様々の、石の卵が湧き出して、
 暖かい日に照らされて、一ツ一ツにかえり出す。

 足から出たのは艸《くさ》や木に、胴から出たのは虫けらに、
 手から出たのは鳥獣《とりけもの》、水に沈めば魚《うお》くずに、
 又頭から湧いたのは、数限りない人間に、
 われて這い出て世の中に、今の通りに散らばって、
 一ツの国が出来上り、藍丸という名が付いた。

 扨《さて》その中に只一つ、臍《へそ》の中から湧き出した、
 小さい白い一粒は、気高い尊い御姿の、
 若いお方に抜けかわり、藍丸国の王様の、
 位に即《つ》いてそのままに、何千何万何億と、
 数限りない年月《としつき》を、無事に治めておわします。

 この藍丸の国のうち、津々浦々に到るまで、
 皆正直に働いて、この珍しい長生《ながいき》の、
 王に忠義を尽《つく》す故、王はおいでになりながら、
 広い国中何一つ、御気にかかった事もなく、
 いつも御殿の奥深く、銀の寝台《ねだい》に身を休め、
 現《うつつ》ともなく夢ぞとも、御存じのない魂は、
 他の世界へ抜け出でて、他の世界の人々に、
 王の心の気楽さを、示し歩いておわします」[#最後の5行は底本では字下げなし]

 ここまで読んで来ると生憎《あいに》く、先に立ったお爺さんは、この時|不図《ふと》袋が軽くなったのに気が付いて、変だと思いながらふり返って見ると、自分の背中の袋から落ちた銀杏の葉が、ずっと背後《うしろ》まで長く続いているのを見付けた。これは大変と吃驚《びっくり》して袋を調べて見ると、最前《さっき》美留女姫が鋏で切り破った穴が、袋の底に三角に開《あ》いている。お爺さんはこれを見ると憤《おこ》るまい事か――
「奴《おの》れ小娘、覚悟をしろ。こんな悪戯《わるさ》をして俺の大切な役目を破ったからには生かしておく事は出来ないぞ。どうするか見ておれ」
 と大きな声で怒鳴りながら、忽《たちま》ち鬼のような顔になって袋も何も打《う》っ棄《ちゃ》って、あと引かえして追っかけて来た。
 美留女姫は二度|吃驚《びっくり》。もう銀杏の葉の字を読むどころの沙汰《さた》ではない。慌てて逃げ出して、後《あと》から来た白髪小僧の袖に縋って――
「あれ、助けて頂戴。白髪小僧さん。助けて頂戴。あのお爺様に殺されます。妾《わたし》を助けて頂戴。連れて逃げて頂戴。早く。早く」
 と云いながら、もう先へ立って駈け出した。この様子を見たお爺さんは益々腹を立てて真赤になって、
「奴《おの》れ悪魔の娘、逃げようとて逃がすものか。空の涯までも追っかけて引っ捕えてくれる。引っ捕えたら生かしてはおかないぞ。あとから行く白髪の男、貴様も待て。二人共悪魔であろう。国を乱す悪魔であろう。石神の文《ふみ》を読んだからには悪魔の片われに違いない。逃がす事は出来ないぞ。生かしておく事は出来ないぞ」
 と大きな声で喚《わめ》きながら追っかけた。
 ところがこの時白髪小僧は、美留女《みるめ》姫に誘われて一所にあとから逃げながら、このお爺さんの喚《わ》めき声を聞き付けて不図うしろをふり返ると、その顔を一目見るや否や、お爺さんは又もや腰の抜ける程驚いた様子で――
「ヤヤ。貴方《あなた》様は藍丸国王様では御座いませぬか。どうしてここにお出で遊ばしました。そうしてそのお姿は……まあ、何という恐れ多い……浅ましいお姿……」
 と呆気《あっけ》に取られて立ち止まった。けれども美留女姫は少しも気が付かずに先へ走るし、白髪小僧もそのあとからくっついて、お爺さんが立ち止まった隙《ひま》にドンドン駈け出して行った。この様子を見るとお爺|様《さん》はもう狂気《きちがい》のように周章《あわて》出して――
「あれ。王様。王様。これはどうした事で御座います。お待ち下さりませ。お待ち遊ばせ。その女は悪魔……大悪魔で御座いますぞ。飛んでもない。飛んでもない。お待ち……お待ち遊ばせ。王様。王様」
 と息を機《はず》ませて、又もや宙を飛んで追っかけた。
 こうして三人は追いつ逐《お》われつ、だんだん人里遠く走って来たが、美留女姫はもう苦しくて苦しくて堪《たま》らないような声を出して――
「白髪小僧さん……白髪小僧さん……」
 と呼びながらふり返りふり返り走って行く。うしろからはお爺さんが青い眼玉を血走らして――
「藍丸王様……王様……藍丸様ア」
 と呼びながら追っかける。白髪小僧は只|無暗《むやみ》に息を切らして駈け続けた。
 やがて夕日は西の山にとっぷりと落ち込んで、あたりが冷たく薄暗くなった。野原には露が降りて、空には星が光り初めた。けれどもお爺さんは追っかける事を止めなかった。とうとう山の中へ分け入って、小さな池の縁をめぐって、深い大きな杉の森に這入った時は、あたりがすっかり真暗になって、あとにも先にももう何にも見えず、只怖ろしさの余り声を震わして泣いて行く美留女姫の声を便りに、木の幹を手探りにして追うて行った。その内に白髪小僧は、ヒョロヒョロに疲れて、息をぜいぜい切らすようになった。それでも構わずに走っていると、あっちの根っ子に引っかかり、こっちの幹に打《ぶ》っつかり、もうこの上には一足も行かれないようになって――
「オーッ」
 と呼んだと思うと、そのままそこによろめき倒れてしまった。

     五 七ツの灯火

 すると不思議な事には今呼んだ声が、誰かの耳に這入ったものと見えて、遠くで高らかに――
「オ――オ……」
 と返事をする声がきこえた。白髪小僧はじっと顔を挙げて向うを見ると、丁度《ちょうど》今声の聞こえたあたりに小さな燈光《あかり》が一ツチラリと光り初めた。やがて、その光りが三ツになった。五ツになった。七ツになった。と思う間もなくその七ツの燈火《ともしび》が行儀よく並んでこちらへ進んで来た。その七ツの燈火《ともしび》に照らされた向うの有様を見ると、見事な飾りをした広い廊下で、天井《てんじょう》や壁に飾り付けてある宝石だか金銀だかが五色《ごしき》の光りを照り返して、まことに眼も眩《くら》むばかりの美しさである。そのうちに燈火《あかり》はだんだん近附いて、やがて持っている人の姿がはっきりと見えるようになった。
 見ると七人の持《も》ち人《て》の内真中の一人だけは黄色の着物を着たお爺さんで、あとの六人は皆空色の着物を着た十二三の男の児であった。そうしてそのお爺さんは、最前《さっき》美留女姫と白髪小僧とを追っかけた、眼の玉の青いお爺さんに相違《ちがい》なかった。その中《うち》に七人は直ぐに自分の傍まで近付いて来たが、その持っている手燭《てしょく》の光りで四方《あたり》を見ると、ここは又大きい広い、そうして今の廊下よりもずっと見事な室《へや》である。そうして白髪小僧自身の姿をふりかえって見ると、こは如何《いか》に。最前《さっき》までは粗末な着物を着た乞食姿で、土の上に倒れていた筈なのに、今は白い軽い絹の寝巻を着て、柔らかい厚い布団《ふとん》の中に埋もっている。その上に自分の顔にふりかかる髪毛《かみのけ》を見るとどうであろう! 今まで滝の水のように白かった筈なのが、今は濃い緑色の光沢《つや》のある房々とした髪毛《かみのけ》になって、振り動かす度《たんび》に云うに云われぬ美しい芳香《かおり》が湧き出すのであった。重ね重ねの奇妙不思議に当り前の者ならば、屹度《きっと》気絶でもするか、それとも夢を見ているのだと思って身体《からだ》でも抓《つね》って見るところだが、併《しか》し白髪小僧は平気であった。昨夜《ゆうべ》も一昨夜《おととい》もそのずっと前からここに居て、たった今眼が覚めたような顔をして、先に立ったお爺さんの顔を横になったまま見ていた。
 お爺さんは六人の小供を従えて、寝台《ねだい》の前に来て叮嚀にお辞儀をした。そうして畏《おそ》る畏る口を開いた――
「藍丸王様。青眼爺《あおめじい》で御座います。お召しに依って参りました。何の御用で入らせられまするか。何卒《どうぞ》何なりと御仰せ付けを願います」
 白髪小僧はこう尋ねられても何《なんに》も返事をせずに、只ぼんやりと青眼爺さんの顔を見ていた。
 するとお爺さんは何やら思い当る事があると見えて、傍の小供に眼くばせをしたが、やがてその中《うち》の一|人《にん》が玉のような水を水晶の盃《さかずき》に掬《く》んで来て、謹《つつ》しんで眼の前に差し出したから、取り上げて飲んで見ると……その美味《おい》しかった事……そうしてその水には何か貴《たっと》い薬でも這入っていたものと見えて、今までの疲れも苦しさもすっかりと忘れてしまって、身体《からだ》中に新らしい元気が満ち渡るように思った。
 青眼|爺様《じいさん》は白髪小僧の藍丸王が飲み干した盃を受け取って、傍の小供に渡すと直ぐに又眼くばせをして、六人の小供を皆遠くの廊下へ退《しりぞ》けて、只《ただ》独《ひと》り王の前に蹲《ひざまず》いて恐る恐る口を開いた――
「王様。恐れながら王様は只今何か夢を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか」
 藍丸王は又もや言葉がよく解らないために返事が出来なかった。只何だかわからないという徴《しるし》に、頭を軽く左右に振って見せた。けれども青眼爺は何だか心配で堪《たま》らぬように、じっと藍丸王の顔を見つめていた。そうして重ねて一層叮嚀な言葉で恐る恐る尋ねた。
「王様。私は今日迄王様のお守り役で御座いました。で御座いますから、今まで何事も私にお隠し遊ばした事は一ツとして御座いませんでした。私は王様を御疑い申し上げる訳では御座いませぬけれども、もしや王様は、只今御覧遊ばした夢を御忘れ遊ばしたのでは御座いませぬか。白い着物を着た悪魔の娘と一所に、私の跡をお追い遊ばして、銀杏の葉に書いた文字を御覧遊ばしたのでは御座いませぬか。屹度、屹度御覧遊ばしませぬか。もし御隠し遊ばすと王様の御身《おみ》の上やこの国の行く末に容易ならぬ災《わざわ》いが起りまするぞ」
 青眼の言葉は次第に烈《はげ》しくなって来た。そしてさも恐ろしそうに王の顔を見入りながら、力を籠《こ》めて問い詰めた。
 青眼がどうしてこんな事を尋ねるのか、又あの銀杏の葉に書いてあったお話が何故こんなに気にかかるのか。そうして又あのお話を聞けば何故そんな災いがふりかかるのか――そして青眼はどうしてそれを知っているのであろうか。藍丸王がもし当り前の人間ならば、こんないろいろの疑いを起して青眼にその仔細《わけ》を尋ねるであろう。ところが藍丸王は旧来《もと》の白髪小僧の通り白痴《ばか》で呑気《のんき》でだんまりであった。第一今の身の上と最前《さっき》までの身の上とはどっちが本当《ほんと》なのか嘘なのか、それすら全く気にかけなかった。その上に自分が白髪小僧であった事なぞは疾《とっ》くの昔に忘れてしまっている。そして只眼を丸く大きくパチパチさせながら頭を今一度軽く左右に振った切りであった。
 青眼は、いよいよ王があの夢を見ていないのだと思うと、急に安心したらしく、ほっと嬉《うれ》しそうな溜《た》め息《いき》をした。そして又|恭《うやうや》しく長いお辞儀をしながら――
「王様。私はこのように安堵《あんど》致した事は御座いませぬ。夜分にお邪魔を致しましていろいろ失礼な事を申し上げた段は、幾重《いくえ》にも御許し下さいまし。最早《もう》夜が明けて参りました。小供達を喚《よ》んで朝のお支度を致させましょう」
 と云った。
 老人が又改めて長い最敬礼をして退くと、入れ交《かわ》って空色の着物を来た最前《さっき》の小供等が六人、今度は手に手に種々《いろいろ》な化粧の道具を捧げながら行列を立てて這入って来て、藍丸王に朝の身支度をさせた。
 一人がやおら手を取って王を寝床から椅子へ導くと、一人は大きな黄金《きん》の盥《たらい》に湯を張ったのを持って、その前に立った。傍の一人は着物を脱がせる。他の一人は嗽《うがい》をさせる。も一人は身体《からだ》中を拭《ぬぐ》い上げる。残った一人はうしろから髪を梳《す》く。おしまいの一人は香油《においあぶら》を振りかける。皆順序よく静かに役目をつとめて、先《ま》ず黒い地に金モールを附けた着物を着せ、柔らかい青い革の靴を穿《は》かせ、金銀を鏤《ちりば》めた剣を佩《は》かせて、おしまいに香油を塗った緑色の髪を長く垂らした上に、見事な黄金《きん》の王冠を戴《いただか》せて、その上に厚い白い、床に引きずる位長い毛皮の外套《がいとう》を着せたから、今まで着物一枚に跣足《はだし》でいた白髪小僧の藍丸王は、急に重たく窮屈なものに縛《しば》られて、身動きも出来ない位になった。それから六人の小供達は三組に分れて、室《へや》の三方に付いている六ツの窓を開いて、朝の清らかな光りと軽い風とを室一パイに流れ込ませた。そうして暁の透《す》き通った青い光りの裡《うち》にうつらうつら瞬く星と、夢のように並び立っている宮殿《ごてん》と、その前の花園と、噴水と、そのような美しい景色を見て恍惚《うっとり》としている藍丸王を残して、種々《いろいろ》の化粧道具と一所に、六人の小供はどこへか音も無く退いてしまった。

     六 大臣と漁師

 これから後《のち》、藍丸王が見たいろいろの出来事は、当り前の者ならばその都度《つど》驚いて、眼でも眩《ま》わして終わなければならぬような事ばかりであった。
 今日は藍丸国王の御誕生日だというので、紅木《べにき》公爵という、丈の高い、黒い髪を生やした、あの美留女《みるめ》姫のお父様によく肖《に》た総理大臣と、沢山の護衛の兵士に連れられて、お城の北の紫紺樹《しこんじゅ》という樹の林の中に在る、石神の御廟《みたまや》に朝の御参りをしたが、その時沢山の兵士が皆一時に剣を捧げて敬礼をした時の神々《こうごう》しかった事。それから宮中の大広間に出て、大勢の尊い役人や、この国の四方を守る四人の王様や、その家来達から、一々御祝いの言葉を受けた時の厳《おご》そかだった事。又は美事な十二頭立の馬車に乗って、前後を騎兵に守らせながらお城の南の広い野原に出て、何万何千とも知れぬ兵隊の観兵式を行《や》らせた時の勇ましかった事。それから夜になって、宮中に催された大音楽会と、大舞踏会と、大晩餐会《だいばんさんかい》の大袈裟《おおげさ》であった事。その他見る者聞くもの何一ツとして、眼を驚かし耳を驚かさぬものはなかった。
 けれども白痴《ばか》の白髪小僧の藍丸王は、相変らず悠々と落ち付いて、まるで生れながらの王ででもあるように、ニコニコ笑いながら澄まし込んで、大勢の家来に平常《ふだん》よりずっと気高く有り難く思わせた。
 けれどもこの日の内に藍丸王が心から美しい、可愛らしい、珍しい、不思議だと感心したらしいものが只一ツあった。それは一羽の赤い羽子《はね》を持った鸚鵡であった。この鸚鵡は最前《さっき》の紅木という総理大臣の息子で、平生《ふだん》王の御遊び相手として毎日宮中に来ている紅矢《べにや》という児《こ》が、今日は少し加減が悪くて御機嫌伺いに参りかねます故《から》、代りの御慰《おなぐさ》みにと云って遣《よこ》したもので、王の室《へや》の真中の象牙張《ぞうげば》りの机の上に籠《かご》に入れて置いてあったが、奇妙な事にはその歌う声が昨夜《ゆうべ》夢の中《うち》で聞いた美留女姫の声にそっくりで、眼を瞑《つぶ》って聞いていると姫が直ぐ側に来ているように思われた。
 その上にも不思議な事には、何事に依らず見た事は見たまま、聞いた事は聞いたままその場限りで綺麗に忘れて了《しま》う白髪小僧の藍丸王が、彼《か》の美留女姫の姿や声だけははっきりとよく記憶《おぼ》えていたものと見えて、今しも宴会が済んで自分の室《へや》に連れられて帰ると直ぐに、この赤鸚鵡の声に耳を留《と》めて、着物を着かえる間《ま》も待ち遠しそうに、急いで傍の銀の椅子に腰を卸《おろ》すとそのまま一心にその歌に聞き惚《と》れた。
 その歌の節は云うに及ばず、文句までも昨夜《ゆうべ》の夢の美留女の読み上げた歌によく似ていた。
「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。
 黒い海には波が立つ、それでも直ぐに消えて行く。
 昔ながらの世の不思議、見たか聞いたか解かったか。

 昨夕《ゆうべ》妾《わたし》が見た夢の、扨《さて》も不思議さ恐ろしさ。
 白髪小僧の物語。そして妾の物語。

 その又夢の中で見た、この身の上のおしまいに、
 昨夜《ゆうべ》どこかの森|中《なか》へ、白髪小僧と逃げ込んで、
 樹の根に倒れたそれ迄は、妾は美留楼《みるろう》公爵の、
 第三番目の女の子、名をば美留女というたのに、
 今朝《けさ》眼が覚めて気が付けば、扨も不思議や見も知らぬ、
 藍丸国の大臣で、紅木と名乗る公爵の、
 第三番目のお姫様《ひいさま》、これはどうした事でしょう。

 着物も家も何もかも、すっかり変って吾が名さえ、
 美紅《みべに》とかわっておりまする。只変らぬは御両親、
 お兄様や姉様や、又は家来の顔ばかり。

 これは夢かと疑えば、傍から皆《みんな》笑い出し、
 お前は何を云うのです、何か夢でも見たのかえ。
 お前は旧来《もと》からこの家《うち》の、可愛い可愛い美紅姫。

 ずっと前からお話が、何より何より大好きで、
 御本ばかりを読み続け、夢中になっておった故、
 いくらか気持が変になり、十幾年のその間、
 他《た》の処へ居たという、馬鹿気た長い夢を見て、
 それを本当にして終い、寝ぼけているのに違いない、
 可笑《おか》しい人と皆《みんな》から、お笑い草にされました。

 けれども妾はどうしても、今の妾が本当か、
 昔の妾が夢なのか、疑わしくてなりませぬ。

 妾の今が夢ならば、あれだけ皆《みんな》で笑われて、
 また疑っている筈は、どう考えてもありませぬ。
 昔の妾が本当《ほんと》なら、まだ夢を見ぬその前を、
 少しも思い出す事が、出来ない筈はありませぬ。
 今も昔も本当《ほんと》なら、又はどちらも夢ならば、
 妾は居るのか居ないのか、解らぬようになりまする。

 よし夢にせよ何にせよ、妾の不思議な身の上を、
 よく考えて頂戴な、妾の窓の直ぐ傍に、
 妾の歌の真似をする、大きな綺麗な赤鸚鵡。

 怪しい夢の今朝|醒《さ》めて、日が出て月は沈んでも、
 鳥が木の間《ま》に歌うても、まだ眼に残る幻影《まぼろし》は、
 白い御髪《おぐし》に白い肌、月の御顔《おんかお》雲の眉《まゆ》、
 世にも気高い御姿《おんすがた》、乞食の王の御姿。

 白い御髪《おぐし》を染め上げて、緑の波をうずまかせ、
 金《こがね》の冠《かんむり》差し上げて、銀の椅子に召されたら、
 まだ拝まねどこの国の、尊いお方に劣るまい。

 妾の大切《だいじ》な姉様は、はや近い内皇后の、
 位に御即《おつ》きなさるとか、今朝兄上が仰《おっ》しゃった。
 兄上様の御名前は、聞くも凜々《りり》しい紅矢様、
 姉上様の御名前は、花の色添う濃紅姫《こべにひめ》。

 妾は大切《だいじ》な姉様の、世にも目出度い御仕合わせ、
 嬉しい事と思いつつ、楽しい事と思いつつ、
 自分は独り居残って、昨夜《ゆうべ》の夢の御姿《おんすがた》、
 白いお髪《ぐし》の御方《おんかた》を、又無いものと慕《しと》うては、
 淋しく暮す身の上を、誰かあわれと思おうか。

 よしや憐《あわ》れと思うても、よしや不憫《ふびん》と思うても、
 昨夜《ゆうべ》の夢をくり返し、又見る術《すべ》はないものを、
 青い空には雲が湧く、けれども直ぐに散り失せる。
 黒い海には波が立つ、けれども直ぐに消えて行く。
 消えぬ妾のこの思い、見たか聞いたか解ったか。

 空行く鳥を追い止むる、それより難《かた》いこの願い。
 早瀬の香魚《あゆ》を掬《すく》い取る、それより難いこの願い。
 夢かまことかまだ知らぬ、うつつともないまぼろしを、
 愚かに慕うこの心、見たか聞いたか解ったか」
 藍丸王は我れを忘れてこの歌に聞き惚《と》れていた。そうして昨夜《ゆうべ》の夢の続きでも見ているように、美留女姫の姿を想い浮めていると、暫《しばら》く黙っていた鸚鵡は又もや頭を低く下げて前と同じ声の同じ節で違った歌を唄い出した。
「青い空には雲が湧く、けれども直ぐに消え失せる。
 黒い海には波が立つ、けれども直ぐに凪《な》いでゆく。
 昔ながらの世の不思議、見たか聞いたかわかったか。

 藍丸国のその中で、南の国に湖の、
 数ある中で名も高い、多留美《たるみ》と呼ばるる湖は、
 お年寄られた父《とう》様と、妾《わたし》が魚《うお》を捕るところ。
 翡翠《ひすい》の波を潜《くぐ》っては、金銀の魚《うお》を追いまわし、
 瑠璃《るり》の深淵《ふかみ》に沈んでは、真珠の貝を探り取る。
 捕って尽きせぬ魚《うお》の数、拾うて尽きぬ貝の数。
 扨《さて》は楽しい明け暮れに、小さい船と小さい帆を、
 風と波とに送られて、歌うて尽きぬ海の歌。

 けれども妾は昨夜《ゆうべ》から、この身の上の幸福《しあわせ》は、
 只これ切りのものなのか、それとももっとこの世には、
 楽しい事があるのかと、疑わしくてなりませぬ。

 今朝《けさ》明け方に見た夢の、扨も不思議さ面白さ。
 漁師であった父様が、美留楼公爵様となり、
 おわかれ申した母《かあ》様と、兄《にい》様|姉《ねえ》様お揃いで、
 十幾年のその間、楽しく暮したものがたり。

 銀杏《いちょう》の文字のお話しの、惜しいところであと絶えて、
 石神様のお話しは、わが身の上の事となり、
 白髪小僧と青眼玉、それに妾と三人で、
 追いつ追われつ行く末は、真暗闇の森の中。

 扨《さて》眼が覚めて気が付けば、この身は矢張|旧《もと》のまま。
 十幾年の栄燿《えよう》をば、只片時の夢に見た、
 枕に響く波の音、窓に吹き込む風の声、
 身は干《ほ》し藁《わら》のその中に、襤褸《ぼろ》を着たまま寝ています。

 今の妾が仕合わせか、夢の妾が仕合わせか。
 青い空には雲が湧く、黒い海には波が出《い》づ。

 よしや夢でも構わない。よしうつつでも構わない。
 妾は不思議な珍しい、又面白い恐ろしい、
 あの石神のお話しの、続きをもっと見たかった。
 ほんとに惜しい事をした、ほんとに惜しい事をした。

 おやまあお前は赤鸚鵡、夢に出て来た赤鸚鵡。
 まだ夜《よ》も明けぬ窓に来て、窓の敷居に掴《つか》まって、
 星の光りを浴《あ》みながら、ハタハタ羽根を打っている。
 お前は本当に居たのかえ、本当にこの世に居たのかえ。

 もしもお前が夢でなく、本当《ほんと》にこの世に居るのなら、
 お前の仲間の化け物の、四つの道具や扨《さて》は又、
 蛇や鏡もこの国の、どこかに居るに違いない。

 そしてお前が眼の前に、今まざまざと居るように、
 美留女の智恵や学問を、妾はちゃんと持っている。
 夢は覚めても忘れずに、妾はちゃんと持っている。

 扨は今のは正夢か、本当にあった事なのか。
 そして妾があのように貴い身分になる事を、
 前兆《まえじ》らせする夢なのか、本当《ほんと》に不思議な今朝《けさ》の夢。

 銀杏の根本で繙《ひもど》いた、不思議な書物の中にある、
 妾の女王の絵姿は、絵空事ではなかったか。

 空には白い星の数、海には青い波の色。
 棚引く雲の匂やかに、はや暁の色染めて、
 東の空にほのぼのと、夢より綺麗な日の光り。

 赤い鸚鵡よどうしたの、まあ恐ろしい美しい、
 真赤な真赤な光明を、眩しい位輝やかし、
 あれ羽ばたきをするうちに、窓から高く飛び上り、
 東の空に太陽の、光りが出ると一時《いちどき》に、
 海の面《おもて》に湧き上る、金銀の波雲の波、
 蹴立て蹴立てて行く末は、あと白波の沖の方、
 あれあれ見えなくなりました……」
 藍丸王は又もやこの歌に聞き惚《と》れて、うっとりと眼を細くして夜《よ》の更《ふ》けるのも忘れていた。
 するとその中《うち》お寝《やす》みの時刻が来たと見えて、今朝《けさ》の青眼老人が、六人の小供と一所に、手燭を持って這入って来たが、王が真暗な室《へや》の中《うち》に鸚鵡の籠を置いて、一心にその歌に聞き入っている様子を見ると、何故だか大層驚いた様子で、慌てて王の前に進み寄って――
「王様は飛んでもない事を遊ばします。王様はこの国の古い掟をお忘れ遊ばしましたか。『人の声を盗む者、他《ひと》の姿を盗む者、他《ひと》の生血《いきち》を盗む者、この三つは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ、打ち殺せ、焼いて灰にして土に埋めよ』この言葉をお忘れ遊ばしましたか。この鳥こそは今申し上げた、人の声を盗む悪魔で御座りまするぞ。悪魔が王様の御声を盗みに来ているので御座りまするぞ。吁《ああ》。恐ろしい、恐ろしい。御免下されませ。この鳥は私が頂戴して殺して仕舞います」
 と云う中《うち》に籠を取り上げて持って行こうとした。するとその時どうした拍子《ひょうし》か籠の底が抜け落ちたから、鸚鵡は直ぐにパッと飛び出して、さも嬉しそうに羽ばたきを為《し》たが、忽《たちま》ち眼も眩《くら》む程真赤な光りを放ちながら闇の中を大空高く舞い上がって雲の中へ隠れてしまった。

     七 眼、耳、鼻、口

 藍丸王は翌《あく》る朝眼を覚ますと直ぐに身支度を済まして、昨日《きのう》のように紅木大臣と一所にお城の北の先祖の御廟《おたまや》へ参詣《おまいり》をしたが、それから後《のち》は昨日のように種々《いろいろ》な大仕掛な出来事は無かった。お附の者に連れられて自分の室《へや》に帰って、昨日にも倍《ま》して結構な朝御飯を済ました。ところがその御飯が済むと、やがて一人の立派な軍人が這入って来て藍丸王に最敬礼を為《し》ながら――
「紅矢《べにや》様が御出《おい》でになりました」
 と云った。そうして王が軽く頷《うなず》くと間もなく軍人と入れ違って、紅い服に白い靴を穿《は》いた、彼《か》の美紅《みべに》姫とよく肖《に》た少年がさも嬉しそうに元気よく走り込んで来た。そうして藍丸王と抱き合って挨拶をしたが、紅矢は抱き合った手を離すと直ぐに口を開いた――
「王様。昨日《きのう》は私、本当に参りたくて参りたくて堪《たま》りませんで御座いましたよ。本当に私は一日《いちじつ》王様にお眼にかかりませぬと、淋しくて淋しくて一年も二年も独りで居るような心地が致しますよ。今日はその代り何か面白い遊びを致しましょう。魚釣《うおつ》りに致しましょうか、馬乗りに致しましょうか。それとも山狩りに致しましょうか。私は何でも御供致しますよ」
 と凜《りん》とした活発な声で熱心に話す顔を見ると、どんな者でも誘い込まれて、一所に遊びたくなりそうである。すると紅矢は不図、昨夜《ゆうべ》青眼老人が机の傍に置き忘れて行った鸚鵡の空籠を見付けて、驚いて眼を真円《まんまる》にして尋ねた――
「オヤ。この籠は空では御座いませぬか。あの赤い鳥は逃げたので御座いますか」
 王はニコニコ笑いながら点頭《うなず》いた。
「オヤッ。最早《もはや》逃げてしまったか。憎い奴め。私がいろんな面白い芸当を教えておきましたのに。そしてどちらへ逃げて参りましたか」
 藍丸王は矢張《やっぱ》り黙って、昨夜《ゆうべ》鸚鵡が逃げ出した東の窓を指《ゆびさ》した。これを見ると紅矢は膝をハタと打って――
「ああ。解りました。解りました。それでは自分の旧《もと》居た山へ帰ったので御座います。何でも私の家来が四五日前に彼《か》の山へ小鳥を捕りに参りました時に一所に網に掛かりましたのだそうで、私もあまり珍しゅう御座いましたから妹に預けておいたので御座います。名前は何と申しますか存じませぬが、何の声でもよく真似る面白い鳥で御座いましたのに惜しい事を為《し》ました。ではこう遊ばしませぬか。今日は山狩りの御供を致しましょう。そうして今一度|彼《か》の鳥を捕《とら》えようでは御座いませぬか。何、訳は御座いませぬ。直ぐに捕まえてこの籠に入れられますよ。如何《いかが》で御座います。そう為様《しよう》では御座いませぬか」
 と熱心に勧めた。そうして藍丸王が軽く点頭《うなず》くのを見るや否や、気の早い児と見えて直ぐに兵隊に云い付けて狩りの支度をして仕舞った。
 弓矢を背負うた四十人の騎馬武者と、角笛を胸に吊した紅矢を後前《あとさき》に従えた藍丸王は白い馬に乗って、華やかな鎧を着た番兵の敬礼を受けながら、悠々とお城の門を出かけたが、流石《さすが》藍丸国第一の都だけあって、王の通った街々はどこでも賑《にぎ》やかでない処は無く、雲を突き抜く程高い家が隙間《すきま》もなく立ち並んでいるために、往来は井戸の底のように昼間でも薄暗く、馬や、牛や、犬や、駱駝《らくだ》や、駝鳥だの、鹿だの、その他|種々《いろいろ》のものに引かせた様々の形《かた》をした車が、行列を立てて歩いて行く。そうして髪毛《かみのけ》や、眼色《めいろ》や、顔色が赤や、白や、鳶色《とびいろ》や、黒等とそれぞれに違った人々が、各自《てんで》に好きな仕立ての着物を着て、華やかに飾り立てた店の間を、押し合いへし合《あい》して行き違う有様は、まるで春秋《はるあき》の花が一時《いちどき》に河を流れて行くようである。けれども藍丸王の行列が見えると、こんなに繁華な往来が皆一時にピタリと静まって、見る間に途《みち》を左右に開いて、馭者《ぎょしゃ》は鞭《むち》を捧げ畜生は前膝を折り、途行く人々は帽子を取って最敬礼をする。その間を王の行列は静々と通り抜けて、間もなく街外れに来ると、そこから馬を早めて野を横切って、東の方に並んでいる山の中に駈け入った。
 この日お供をしている四十人の騎馬武者は、皆紅矢の命令《いいつけ》を守って他《た》の鳥|獣《けもの》には眼もくれずに、只赤い羽根を持って人間の声を出す鳥が居たらばと、そればかり心掛けて、眼を見張り、耳を澄まして行った。中にも紅矢は真先に立って、もしや人間のような鳥の鳴き声がするか、赤い羽根の影が見えはせぬかと、皆と一所に油断なく気を付けて次第に山深く分け入ったが、見ゆるものとては山々の燃え立つような紅葉《もみじ》ばかり。聞こゆるものとては遠くを流るる谷川の音。それさえ折々は途絶え途絶えて、空には雲一つ見えず、地には木《こ》の葉一枚動かず、気味の悪い程静かに晴れ渡った日であった。
 それでも皆気を落さずに一心になって探し続けたが、やがて正午《ひる》近くなって、人も馬もとある樫《かし》の樹の森に這入って、兵糧《ひょうろう》を遣《つか》いながら一休みしてからは、夕方ここで又会う約束で、四十人が四組にわかれて、四方の山や谷を残る処無く探した。けれども相変らず森閑《しんかん》としていて、眼指す赤い鳥は影も形も見せない。
 中にも藍丸王の十人の組は、以前《さっき》の樫の森から東側へかけて、夕方まで探していたが、最早《もはや》日が暮れかかってもそれらしい影は愚か、小雀《ことり》一羽眼に這入らぬから、皆|落胆《がっかり》して疲れ切ってしまって、約束の通り最前《さっき》の樫の樹の森へ帰ろうとした。
 するとこの時不意にどこか遠い処で、鳥のような人間のような奇態な声で歌を唄っているのを十人が一時に聞いた。
「妾《わたし》はここに居りまする。淋しくここに居りまする。
 恋しい御方の御出《おい》でをば。御待ち申しておりまする。

 青い空には雲が湧く。黒い海には波が立つ。
 昔ながらの世の不思議。見たか聞いたか解ったか。

 よしや夢でも現《うつつ》でも。妾はここに居りまする。
 淋しくここに居りまする。妾の名前は赤鸚鵡」
 皆は顔を見合わせて、それっというと俄《にわか》に元気百倍して駈け出したが、どう為《し》たものか十人が十人共、各自《てんで》に一人は東、一人は西と違った方に声を聞いて、こっちだこっちだと云いながら、八方に散って行った。
 あとに残った藍丸王は、どっちとも解らず、只その声の為《す》る方に迷い迷うて、いつの間にか只《と》ある谷の奥深く、真暗な杉の木立の中へ這入って仕舞った。
 その時は最早《もう》短い秋の日が暮れて、鳥の声も聞こえなくなっていたが、その代り真暗な杉の森の奥にチラチラと焚火《たきび》の光りが見えて来た。その火を見ると今まで音《おと》なしく王を乗せて来た白馬《しろうま》が驚いたと見えて、急に四足を突張って動かなくなったから、藍丸王は馬から降りて手綱《たづな》を放り出したまま、つかつかと焚火の側に近寄って来た。
 見ると火の傍には四人の不思議な人間が、寝たり座ったりして火にあたっている。右の端に坐っているのは黄色い髪を垂らして、穴の無い笛を吹いている汚《きたな》いお爺さんで、その次に寝ころんでいるのは絶えず振り子の無い木の鈴を振り立てている、眉毛も髯も無いクリクリ坊主である。
 それからその端にうつ伏せに寝ころんでいるのは、瘠《や》せこけて青ざめた、眼ばかり光る顔に、黒い髪毛《かみのけ》をバラバラと垂らした女で、手には一冊の字も絵も何も書いて無い、白紙の書物を拡げて読んでいる。そしてその右には赤|膨《ぶく》れに肥った真裸体《まっぱだか》の赤ん坊が座って、糸も何も張って無い古|月琴《げっきん》を一挺抱えて弾いていた。並大抵の者がこのような処でこんな者を見たならば、身体《からだ》中の血が凍《こご》えて終うかも知れないのであるが、そこは藍丸王は平気な者で、却《かえっ》て珍しそうにニコニコ笑いながらその前へ近寄って、火の上に手を翳《かざ》した。
 すると今まで顔中皺だらけで、どこに眼があるか口があるか解からなかったお爺さんは、藍丸王が側に来て踞《しゃが》んだのを見るや否や、皺の間から大きな皿のような眼と、真赤な口をパッと開いてゲラゲラと笑ったと思うと、それを相図に他の三人は一度に立ち上って、焚火と藍丸王の周囲《まわり》をグルグルまわりながら、奇妙な舞踊《おどり》を始めた。先《ま》ず瘠せ女が白紙の書物を開いて、奇妙な節を付けて歌を唄いながら踊り初めると、あとから赤ん坊が糸の無い月琴をバタンバタンと掌《てのひら》で叩きながら従《つ》いて行く。それにつれてあとの二人は、手に持った道具を振り廻しながら、まるで蟋蟀《こおろぎ》か海老《えび》のように、調子を揃えてはねまわって行った。その歌はこうであった。
「占《し》めた。占めた。旨《うま》い。旨い。
 王様になる時が来た。
 この国取って我儘《わがまま》云うて
 楽しみをする時が来た」
 俺達は石神様の
 大切な四人の家来。
 眼と口と。鼻と耳と」
 藍丸の国のはじめに
 御主人の石神様が
 見るもの聞くもの何にも無くて
 たった一人の淋しさつらさ
 我慢出来ずに吾が身を咀《のろ》い
 天地を咀って死んでしまった」
 眼には荒野《あれの》の石より他に
 見るものも無い恨みを籠《こ》めて
 耳には風音波音ばかり
 他には何にも聞かれぬ恨み
 鼻には湖の香|埃《ほこり》のかおり
 他には何にも嗅《か》がれぬ恨み
 舌には話しの相手も無くて
 泣くも笑うも只身一ツの
 淋《さみ》しい淋しい怨みを籠めて
 あとに残して死んでしまった」
 見たい見たいが眼玉の望み――
 耳は何でも聞きたい願い――
 鼻は何でも嗅《か》ぎたい願い――
 舌は何でも話したい――
 俺等《おいら》が主人《あるじ》の石神様の
 怨みの籠もった四つの道具」
 書物から出た瘠せ女。
 笛から湧き出たお爺さん。
 月琴から出た裸体《はだか》の赤児《あかご》。
 鈴から出て来たクリクリ坊主」
 四人の家来は石神様の
 この世を咀う使わしめ」
 坊主の持ってる木の鈴は
 王の口をば閉じるため。
 女の持ってる書き物は
 王の眼玉を潰すため。
 赤児の持ってる月琴は
 王の鼻をば塞《ふさ》ぐため。
 爺《じじい》の持ってる石笛は
 王の耳をば鎖《とざ》すため。
 そうして王を追い出して
 四人が代りに王様の
 一人の姿に化け込んで
 王の威光を振りまわし
 勝手な事を為度《した》いため」
 面白い。面白い。有難い。有難い。
 占めた。占めた。旨い。旨い。
 王様に。なる時が来た。
 この国とって。我儘云うて
 楽しみをする時が来た」
 とこんな風に繰り返し繰り返し唄っては踊り、踊っては唄いしていたが、その内に真裸体《まっぱだか》の赤ん坊が、糸の無い月琴を弾き止《や》めると、皆一時にピタリと踊りを止《や》めて、手に手に持っている道具を藍丸王に渡した。
 藍丸王が何気なく、クリクリ坊主から振り子の無い木の鈴を受け取ると、こは如何《いか》に、急に唇や舌が痺《しび》れて仕舞って声さえ出なくなった。次に瘠せ女から白紙の書物を受け取ると、今度は眼が見えなくなった。赤ん坊から月琴を受け取ると鼻が利かなくなってしまった。爺《じじ》から笛を受け取るととうとう耳まで聾《つんぼ》になって、どっちが西やら東やら、自分がどこに居るのやら、全く解からなくなってしまった。
 この体《てい》を見た四人の魔者は、又もや嬉しそうに藍丸王の周囲《まわり》を踊り廻わって――
「藍丸王はとうとう死んだ。
 生きていながら死んで終った。
 この世に居ながらこの世に居ない」
 面白面白面白い。
 俺等《おいら》の主人の石神様は
 眼も見え耳も聞こえていたが
 広い荒野《あれの》のその只中に
 見るもの聞くもの何にも無くて
 たった一人の淋しさつらさ
 堪《こら》え切れずに天地を恨み
 吾が身を怨んで死んでしまった」
 残る怨みのその一念が
 眼玉に移って女に化けて
 口に残って坊主になって
 鼻に移って赤児に化けて
 耳に残って爺《じじい》になって
 今はこの世で藍丸王に
 昔の主人の淋しさつらさ
 思い知らせる時が来た」
 花が咲いても紅葉《もみじ》をしても
 風が吹いても時雨《しぐれ》が来ても
 見えもしなけれあ聞こえもしまい。
 飢《う》えも渇きもせぬその代り
 どんな御馳走《ごちそう》貰ったとても
 味もわからず香気《におい》も為《し》まい」
 鞭に打《ぶ》たれて血が浸《し》み出ても
 痛くもなければ悲しくもない。
 音も香《か》も無い不思議な身体《からだ》。
 この世に居ながらこの世を知らぬ。
 夜か昼かは愚かな事よ
 我が身の在り家も我が身に知らぬ
 世にも淋しい憐《あわ》れな生命《いのち》」
 世界の初めの石神様が
 闇へと生れて闇へと帰る
 たった一人の淋しい心
 思い知ったか。思い知れ」
 と口々に唄って踊っていたが、やがて赤ん坊が一声ギャッと叫ぶと一所に、四人は一度に燃え立つ火の中へ飛び込んで終《しま》った……と思う間もなく燃え上る火の中から、一人の少年が髪毛《かみのけ》の色から衣服《きもの》まで藍丸王そっくりの姿で、藍丸王の眼の前に踊り出した。見ると今までの藍丸王はいつの間にか見すぼらしい乞食の白髪小僧の姿に変って終《しま》って、緑色の房々した髪の毛も旧来《もと》の通り雪のように白くなっていた。
 この有様を見た新規の藍丸王は、忽ちカラカラと笑って、直ぐに傍の焚火の中へ右手を突込んで掻きまわしながら、高らかに呪文を唱えた――
「世界中の何よりも赤い
 世界中の何よりも明るい
 世界中の何よりも美しい
 火の精、血の精、花の精――
 その羽子《はね》が羽ばたけば
 瞬《またた》く間に天の涯
 すぐに又土の底
 一飛びに駈け廻る――
 その紅《あか》い眼の光りは
 夜も昼も同様に
 千里万里どこまでも
 居ながらに皆わかる――
 声という声、音という音
 皆聞いて皆真似る――
 声の精、言葉の精、歌の精――
 赤い鸚鵡出て来い」
 と叫びながらその手を火の中から引き出すと、その拳《こぶし》の上には一匹の赤い鳥が乗っかっていた。その赤い鳥は藍丸の王宮から逃げ出して今大勢の兵隊に一日がかり探されている彼《か》の赤鸚鵡と寸分違わなかったが、只その眼玉ばかりは今までと違って、紅玉《ルビー》のように又は火のように、あたりを払って輝やいていた。
 それを左の手に据えて、新規の藍丸王はつかつかと白髪小僧に近寄りながら――
「どうだ、藍丸王。見えたか、聞こえたか、解かったか。ハハハハハ。見えまい、聞こえまい、解かるまい。併し無駄だろうが云って聞かせる。云うまでもなく俺は最前の四人の魔者が化けたのだ。石神の怨みの固まりだ。今まで赤鸚鵡を種々《いろいろ》に使って、やっとお前をここまで連れ出して来たのだ。気の毒だがお前の姿は俺が貰った。只|生命《いのち》だけは助けてやるから、その代り賤《いや》しい乞食姿になって、何も見ず、何も聞かず、食べず云わず嗅《か》がずに、世界中をうろ付いておれ。その間《ま》に俺は王に化け込んで、勝手|気儘《きまま》な事を為《す》るのだ。
 ああ、東の山に月が出かかったようだ。どれ。そろそろ出かけようか」
 と二足三足踏み出したが、又引きかえして来て――
「待て待て。ここでは顔付きがまるで同じだからどっちが本物か解からない。序《ついで》にこうしておいてやる」
 と云いながら傍に消え残った真赤な燃えさしを取り上げて、ニコニコ笑っている白髪小僧の顔へいきなりぐっと押し付けて、大きな十文字の焼け痕《あと》を付けた――
「ハハハハ。こうしておけば、よもや本当の藍丸王と気付く者はあるまい。おお。馬よ、来い来い」
 と招き寄せると、不思議や立《た》ち竦《すく》んで石のようになっていた筈の馬が、今は易々《やすやす》と動き出して直ぐに王の傍へ来た。王はそれにヒラリと飛び乗って、赤鸚鵡の眼の光りを便りに、森の外へと駈け出した。あとに残った盲目《めくら》の唖の白髪小僧は、最前の焼けどは熱くも何ともなかったと見えて、赤く腫《は》れ上って引《ひっ》つった顔のまま、ニコニコ笑いながら四ツの道具を抱えて、どこを当《あて》ともなく、この森を彷徨《さまよ》い出た。
 話し変って、最前四方にわかれて、赤鸚鵡を探しに行った紅矢や兵隊達は、何も見つからぬ内に日が暮れてしまったので、急いで約束の樫の木の森に来て見ると、今度は他の者は皆揃ったが肝要《かんじん》の王様が居ない。これは大変だと皆一度に馬に飛び乗って、口々に藍丸王様藍丸王様と叫びながら暗い山の中を駈け出すと、その中《うち》に南の方の立木の間から、真赤に光る松明《たいまつ》が見えて来た。
 ところが不思議や四十人の騎馬武者が乗っている馬は、この光りをチラリと見るや否や一度に立ち竦んで一歩も前へ進まなくなった。打っても叩《たた》いても動かない。蹴っても煽《あお》ってもどうしても、石のように固くなっている。
 皆は驚き慌てて、これはどうした事と騒ぎ立てたが、中にも紅矢は吃驚《びっくり》して――
「皆の者、気を付けよ。あの光りは怪しい光りだぞ。事に依《よ》ると魔者かも知れぬぞ。皆馬から降りて終え。弓を持っている者は矢を番《つが》えよ。剣を持っている者は鞘《さや》を払え。あれあれ。だんだん近付いて来る。皆紅矢に従《つ》いて来い。相図をしたらば一時に矢を放して斬りかかれ」
 と叫んだ。声に応じて四十人の武者《さむらい》は、一度に馬から飛び降りて、二十人は弓を満月のように引き絞り、あとの二十人は剣を構えて眼の前に近付いて来た光る者にあわや打ちかかろうとした。ところがこの時遅く彼《か》の時早く、紅矢は又もや一声高く――
「待て。粗相するな。王様だぞ」
 と叫んだ。それと一所に、向うから来る者は赤い鳥を左の拳《こぶし》に据えて馬の上でニコニコ笑いながら帰って来る藍丸王だという事がわかって、兵隊共は皆一度に矢を外し剣を納めて、地面《じべた》の上にひれ伏した。中にも紅矢はホッと一息安心すると一所に、今までと打って変った鸚鵡の眼の光りに驚いて、どういう訳かと怪しんだ。
 その時に王は皆の前に馬を停《とど》めて、左の拳を高く差し上げながら――
「皆の者。よく見よ。これが今まで探していた赤鸚鵡という鳥だぞ。今までこの山の神様の使わしめで有ったのだぞ。自分は今まで彼《か》の谷底の杉の森に行って神様にお目にかかって、この鳥がいろいろの不思議な役に立つ事を教えてもらっていたのだ。皆の者、よく見ておけ」
 と云いながら鸚鵡に向って――
「ウウウウ。月が出たぞ」
 と云い聞かせると忽ち今までの赤い眩《まば》ゆい光りが消え失せて、四方が真暗になった。その代り東の方の林の間には、黄色い大きなお月様が、まんまるくさし昇っていた。
 皆の者は夢に夢見る心地がして、互にその不思議な術を驚き合いながら、この時やっと動くようになった馬に乗って、王の後《うしろ》に従って、月の光りを便りに王宮へ帰って行った。

     八 象牙《ぞうげ》の机

 贋《に》せ藍丸王は狩場から宮中へ帰って、晩の御飯を済ますと直ぐに、家来に云い付けて、自分の室《へや》に新しい椅子を四ツ運ばせて、象牙の机の周囲《まわり》に並べさせた。それからお傍の者を遠ざけて自分独りになると、入り口の扉を固く閉めて、閂《かんぬき》を入れて、真暗になった中で一声高く――
「鸚鵡。鸚鵡。赤鸚鵡」
 と叫んだ。
 その声の終るか終らぬに、忽ち室《へや》の隅から真赤な光りが輝き出して、赤鸚鵡はさも嬉しそうに羽ばたきをしながら、室《へや》の真中の机の上に来たが、その眼の光りで室《へや》の中を見るとこは如何《いか》に……。今までこの室《へや》には藍丸王唯一人しか居なかった筈なのに、今見ると最前の森の中に居た四人の化け物――爺《じじ》と、女と、赤ん坊《ぼ》とクリクリ坊主とが、四ツの椅子に向い合って、ちゃんと腰を掛けていた。
 その中でお爺さんが真先に皺枯《しゃが》れ声で口を利いた――
「どうだ、赤鸚鵡、嬉しいか。嬉しいか。いよいよこの国は俺達《おらたち》のものになった。これから何でも見たい、聞きたい、話したい、嗅ぎたい放題だ。ところでこれからどうすれば、この国に大騒動を起させて、珍しい事や面白い事に出会《でっくわ》す事が出来るか。赤鸚鵡よ、考えてくれ。お前は今の事ばかりでなく、行く末の事までも少しも間違わずに考える事が出来るのだから。先ず俺は石神の耳から現われたのだから、何でもかんでも聞くのが役目だ。何卒《どうか》面白い話を沢山聞かせてくれい」
 と云った。するとその横に座っていた青い瘠せ女は直ぐにその言葉を打ち消した――
「イヤ。妾《わたし》は石神の眼から生れたもので、何でもかでも見るのが役目です。何卒《どうぞ》早く面白いものが見たい。赤鸚鵡よ、早く面白い珍らしいものを見せておくれ」
 瘠せ女がこう云い切ってしまわぬうちに、今度は向側《むかいがわ》に居た、赤膨れの赤ん坊《ぼ》が甲走った声で――
「否《いや》だ。否《いや》だ。イケナイイケナイ。私から先だ私から先だ。私は美《い》い香気《におい》が嗅《か》ぎたい。花だの香木だのの芳香《におい》が嗅ぎたい。早く早く」
 と叫んだ。すると直ぐ横に居たクリクリ坊主も負けていず、頓狂《とんきょう》な声で――
「ドッコイ待った。俺が先だ。石神の舌から生れた俺こそ、真っ先に美味《うま》いものを頂戴せねば相成らぬ」
 と云い張った。四人はこうして暫《しばら》く睨《にら》み合いの姿で黙っていたが、赤鸚鵡はこの様子を見て奇妙な声を出して、ケラケラと笑いながら云った――
「耳の王。眼の王。鼻の王。舌の王。よく御聞きなされよ。よく御味《おあじわ》いなされよ。どなたが先という事はない。どなたが後という事もない。
 皆様|一同《いっしょ》にアッと御驚《おんおどろ》き遊ばすものを近い内に御覧に入れます。
 貴方がたはこの世界の初め、石神の身体《からだ》から出た三つの宝物、白銀《しろがね》の鏡と宝石の蛇と私の役目をお忘れになりましたか。
 私は生れ付いて知っている魔法で以《もっ》て、世界中の事を見たり聞いたりしまして王様方にお話し申すのが役目で御座います。又兄弟の白銀の鏡は、そんな面白い有様を王様に御目にかけるのが役目で、それから宝蛇奴《たからへびめ》は、そんな面白い出来事の初まるようにするのが役目で御座います。
 今白銀の鏡と宝蛇は、南の国の多留美《たるみ》という湖の底に沈んでおりますが、その中で宝蛇は、貴方方四人が一人の藍丸国王となって、初めてこの国に御出《おい》で遊ばしたその最初の御慰《おんなぐさ》みに、世にも美しい怜悧《りこう》な、それこそ王様が吃驚《びっくり》遊ばすような御妃を一人、御話し相手として差し上げたいと思いまして、私に探してくれと頼みましたので御座います」
 これを聞くと坊さんは横手を打って感心をした――
「成る程、これはよい思い付きであった。わし等の主人の石神様が初めてこの世にお出で遊ばした時に、第一番に御困り遊ばしたのは、一人も話し相手の無い事であった。もしも彼《か》の時一人でも御話し相手があったならば、あんなに淋しがりは遊ばさなかったであろう。してその妃は見つかったか」
「はい、三人見つかりました」
「してその名は何と云うのだえ」
「年は幾つだ」
 とあとの三人が畳みかけて尋ねた。
「はい。第一番に見つけましたのは、紅木大臣の姉娘で、紅矢《べにや》の妹の濃紅《こべに》姫と申しまして、年は十六。温柔《おとな》しい静かな娘で御座います。この娘はこの間|真実《ほんと》の藍丸王様が御妃に遊ばす御約束を、兄の紅矢と遊ばしたので御座いますが、もし王様がこの娘を御妃に遊ばしたならば、この国はいつでも泰平で、王様はこの世の果までも、御位《みくらい》に御出で遊ばす事が出来るで御座いましょう」
「何だ、その濃紅姫を妃にすると、この国はいつも静かに治まるというのか。イヤ、そんな静かな温柔《おとな》しい娘では、話し相手にしても嘸《さぞ》面白くない退屈な事であろう。俺達はそんな女は嫌いだ。それにこの国がいつまでも静かでは詰らぬ。何でも何か大騒動《おおさわぎ》が起って、珍らしい事や危ない事や不思議な事が、引っ切りなしに始まらなくては駄目だ」
 とお爺さんは頭からはね付けてしまった。
 これを聞くと赤鸚鵡は、さも困ったらしく首を傾《かし》げて黙り込んでしまった。そうして暫《しばら》くの間何か考えている様子だから、四人の者は待ち遠しくなって――
「これ赤鸚鵡。それではあとの二人の娘はどんな女だ」
「早く聞かせておくれな」
「どこに居《お》るの」
「何を為《し》ているのか」
 と口を揃えて尋ねた。
 赤鸚鵡はこう急《せ》き立てられると仕方なしに答えた――
「はい。それでは申し上げますが、あとの二人は二人共、この世に又とない賢い美しい娘で、一人は紅木大臣の末娘|美紅《みべに》と申し、今一人は南の国に在る多留美という湖の傍《かたわら》に住む藻取《もとり》という漁師の娘で、名を美留藻《みるも》と申します。けれどもその二人の内どちらが王様の妃になるかという事が私にわかりませぬ。それで考えているので御座います」
「何……どちらか解からぬ」
「はい。その二人は、どちらも顔付きから智恵や学問や背恰好《せかっこう》、髪の毛の数まで、一分一厘違わぬので御座います。で御座いますから、どちらが王様の御妃になる運を持っておる女なのか、今では全く区別《みわけ》がつかないので御座います」
「フーム。ではしまいになればわかるのか」
「ハイ。けれども王様の御命の尽きる迄はわからずにおしまいになるだろうと思います。何故《なにゆえ》かと申しますと、もし藍丸王様がその娘のどちらかわかりませぬが御妃にお迎い遊ばすと、どうしても王様の御命は来年中に、丁度その御妃の素性がおわかりになる少し前にお果てになりますし、私や鏡の生命《いのち》も、それと一所に尽きてしまうからで御座います。その代りその間は毎日毎日不思議な話や珍らしい物語の詰め切りで、濃紅姫と千年御一所に御暮し遊ばすよりもずっと面白う御座います」
「ふむ。それは成る程面白かろう。けれどもその面白い出来事の根本《もと》になるその妃の素性がはっきりわからないではつまらないではないか。折角、今この世に王となって現われて面白い事を見聞きしながら、その事の起りがわからないというのは何にしても残念な事だ。折角の面白い事も楽しみが半分になってしまうであろう。これ、赤鸚鵡。どうかしてその妃の素性だけを知る事は出来ないか。美留藻か美紅かどちらかという事がわかる工夫はないか」
「はい。それは当り前から申しますれば到底出来る事では御座いませぬが、只一ツここに私が世にも不思議な魔法を心得ておりまする。
 その魔法を使う事を御許し下されますれば、王様がこの世を御去り遊ばして後《のち》の事までもはっきりとおわかりになる事が出来るので御座います。そうすれば王様のお妃が美留藻か美紅かという事もやがておわかりになる事と思います」
「何《なに》、俺達がこの世を去っても。それは可笑《おか》しい話ではないか。俺達がこの世を去れば又|旧《もと》の森に帰ってこの眼を閉じ、この耳を塞《ふさ》いで、この鼻から呼吸《いき》を為《せ》ずにしっかりと口を閉じて、じっと焚火《たきび》にあたっていなければならぬではないか。何も見る事も聞く事も出来ないではないか」
「イエイエ。それが出来るので御座います。私もまたこの世では殺されながら、この世の事を詳《くわ》しく見たり聞いたりして王様に御伝え申し上げる事が出来るので御座います」
「何だ。それではお前も俺達も生きているのと同じ事ではないか」
「はい。死にながら生きているので御座います」
「フム。それは不思議な魔法だ。してその魔法というのはどんな事を為《す》るのだ」
「私が今から行く末の事をすっかり考えてお話し致すので御座います。皆様が眼を瞑《つむ》ってそのお話しを聞いておいで遊ばせば、本当に御自分がその場においでになってその事を見たり聞いたりしておいで遊ばすのと同じ事で御座います」
 これを聞くと四人は手を拍《う》って感心を為《し》た――
「成る程、それは巧い法だ。お前がたった今の事からずっと後《あと》の事まで考えて、それをすっかりここで話す。それを俺達が聞いていれば、どんな恐ろしい危い事でも安心して面白がっておられる。そんな危なっかしい妃を迎えて生命《いのち》を堕《おと》すような事があっても、根がお話しだからちっとも差し支えはない。その後《のち》の後《のち》の事までもすっかりわかる。妃の素性もわかるに違いない。成程、返す返すもよい工夫だ。では今から直ぐに話してくれ。四人一所に聞いていようから」
「一体これからどんな事が始まるのか」
「嬉しい事か。悲しい事か」
「楽しい事か。恐ろしい事か」
「早くその魔法を使ってくれ」
「待ち遠しくて堪らない」
 と四人は口を揃えて頼んだ。
 けれども赤鸚鵡は暫くは話しを初めなかった。じっと耳を澄まし眼を光らし、遠くの後《のち》の事を考えている様子であったが、やがて羽根づくろいをして静かに奇妙な声で話を初めた。
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   第二篇 水底の鏡


     九 湖の秘密

 この藍丸国は四つの国にわかれておりまして、東の方を日見足国《ひみたるこく》といい、西の国を夜見足国《よみたるこく》といい、北を加美足国《かみたるこく》といい、南の方を宇美足国《うみたるこく》といって、それぞれその国の名を名前にした王様が治めているので御座いますが、藍丸王はその四人の王の上の王様で、四ツの国を合わせて一つの藍丸国と称えているので御座いました。
 又藍丸国の北と西は、涯《はて》しない沙原《さばく》で囲まれていて、南と東側はどこまでも続いた海になっていますが、中にも南の宇美足国には湖や河が沢山あって、商売の盛んな処で御座います。その湖のうちで一番広い、多留美という湖の傍《かたわら》に住んでいる漁師で、名を藻取《もとり》という爺さんがおりました。お神さんと小供二人を早く亡くして、今では末の一人娘の美留藻《みるも》というのが大きくなるのを、何よりの楽しみにして仕事に精を出していましたが、美留藻は実《まこと》に美しい娘で、その上に村一番の水潜りの名人だと近郷近在の評判になっておりました。そうして誰がその婿《むこ》になるだろうと、方々で種々《いろいろ》噂をしていましたが、やがて美留藻が年頃になると、その噂は一ツになって、隣り村の宇潮《うしお》という漁師の二番目の息子で、これは水潜りも上手だが、取りわけて横笛が名人で、お母さんの身体《からだ》の中から鉄の横笛を握って生れて来たという評判の、香潮《かしお》という若者が、一番似合った婿であろうという事に定《き》まりました。
 この噂はすぐに本当になりました。両方の間に或る世話好きの男が這入りまして、相談をしますと、両方の両親も、本人同志も喜んで、承知をして、はや今年の秋の末には、婚礼をするという事に定《き》まりました。
 両方の親達や親類や又は香潮や美留藻の喜びは申すまでもありませぬ。村同志の人々も皆その婚礼の日が来るのを楽しみにして今か今かと待ちかねていましたが、最早《もはや》その日まで三週間しかないという時になって、大変な御布告《おふれ》が藍丸王の御言葉だといってこの湖の岸に伝わりました。その御布告はこうでした。
「王様はこの頃世に珍らしい赤い鸚鵡《おうむ》という鳥をお捕《とら》えになった。その鸚鵡という鳥の話で、この多留美の湖の底に白銀《しろがね》で出来た大きな鏡という宝物が沈んでいるという事が解かった。その鏡というものは自由自在に人の姿を写し取るもので、大昔世界の初めに出来た石の神様の胸から現われ出たものだが、今度王様が是非その鏡が御入り用だと仰《おお》せ出された。だからこの湖の縁に住む者のうち誰でも、水潜りの上手な者が水底《みずそこ》の鏡を取って差し上げねばならぬ。その鏡は湖の真中の一番深い処に沈んでいるのだから素《もと》より並大抵の者では取れぬが、併し首尾よくこの役目をつとめて水底の鏡を取って来たものには、男ならば金の舟、女ならば銀の舟を一|艘《そう》御褒美《ごほうび》に下さるとの事だ。誰でもよい、王様のためにこの鏡を取りに行く者は無いか」
 この御布告《おふれ》を、美留藻と香潮が住んでいる村の間の、丁度中程に在る魚市場で、役人が大勢の人々を集めて申し渡した時に真先に――
「それは妾《わたし》が取って参りましょう」
 と願い出たものは誰あろう、水潜りにかけては村一番と評判の美留藻でした。そうしてそれと一緒に、美留藻の許嫁《いいなずけ》の香潮も美留藻と共々に鏡を取りに行きたいと申し出ました。
 これを聞いた役人は躍り上らんばかりに喜んで、今までこの湖のふちをぐるりと布告《ふれ》てまわったが、まだ二人のような勇ましい青年《わかもの》と少女《むすめ》は一人も居なかったと賞《ほ》め千切《ちぎ》りましたが、とにかくそれでは今から直ぐに支度をして、明日《あす》にも取りに行くようにと申し渡して、やがて都の方へ帰りました。村の者の喜びも一通りではありませぬ。何しろこの大きな湖のふちで、この二ツの村より他にこの大役を引き受ける処が無く、しかもその引き受けた者は、村第一の立派な青年《わかもの》と、村第一の美しい少女《むすめ》ですから、皆は最早自分達が取りに行くよりもずっと勢い付いて、直ぐに支度に取りかかりました。その中でも美留藻のお父さんは取りわけ大威張りで――
「どうだ。俺の娘と婿殿を見ろ。えらいもんだ。二人で行けばどんな深い海に沈んだ者でも、直ぐに見つけるに違いない。又どんな恐ろしい魚《うお》が来ても大丈夫だ。二人共魚よりよく泳ぐのだから。ああ嬉しい。俺の娘と婿を見ろ。豪《えら》いもんだ。豪いもんだ」
 と無性に喜び狂うておりました。
 村人は先ず沢山の湯を沸《わ》かして、二人の身体《からだ》を浄《きよ》めました。それから髪を解かして、身体《からだ》と一所に新らしい布で包みました。そして新らしく作った喰べものを喰べさせて、新規に作った布団《ふとん》の中に、静かに二人を寝かしました。そうして翌《あく》る朝、まだ太陽の出ないうちに種々《いろいろ》の準備《したく》をすっかり整えまして、一ツの船には布で巻いた二人の潜り手、それからもう一ツの船には長い綱を積み、それから村中有り限《き》りの船を皆、沢山の赤や青の藻で飾り立てまして、陸《おか》の方から吹く朝風に一度に颯《さっ》と帆を揚げますと、湧き起る喊《とき》の声と一緒に舳《へさき》を揃えて、沖の方へと乗り出しました。
 折柄風は追手《おって》になり波は無し、舟は矢のように迅《はや》く湖の上を辷《すべ》りましたから、間もなく陸《おか》は見えなくなって、正午《ひる》頃には最早十七八|里《り》、丁度湖の真中程まで参りました。そこで皆帆を巻き下して、船と船とをすっかり固く繋ぎ合わして、どんな暴風雨《あらし》が来ても引っくり返らないようにして、二人の潜り手が乗っている船と、綱を積んでいる船とを真中に取り囲みました。この時二人は身体《からだ》に巻いてあった布を取って、各自《てんで》に綱を一本|宛《ずつ》身体《からだ》に結び付けますと、船の両側から一時に、水煙《みずけむり》を高く揚げて、真青な波の底に沈みました。
 その中で美留藻は香潮よりも余程水潜りが上手だったと見えまして、香潮よりもずっと先に水を蹴って、銀色の泡を湧かしながら、底深く沈んで行きましたが、沈むにつれて四周《まわり》が次第に暗くなって、今まで泳いでいた魚《うお》は一匹も見えず、その代り今まで見た事もない、身体《からだ》中口ばかりの魚《うお》だの、眼玉に尻尾《しっぽ》を生やしたような魚《うお》だのが泳いでいます。しまいにはとうとう真暗闇になってしまって、遠くから蛍の火のように光る者が見えて来て、だんだんはっきりと傍へ寄るのを見ますと、人間の頭や、鳥の足や、狼の尻尾のような種々《いろいろ》の形をした魚で、それが方々で青い提灯《ちょうちん》のように光ったり消えたりしまして、何だか様子が物凄くなって来ました。美留藻は恐ろしさの余り、よっぽど引き帰そうかと思いましたが、又考え直しまして――
「こんなに気が弱くては仕方がない。妾《あたし》はこの間の夢が本当《ほんと》か嘘か、たしかめに来たのではないか。わざわざお役人様に願って、彼《か》の石神の胸から出た鏡が、本当にあるのか無いのか、見に来たのではないか。もし鏡が本当にこの湖の底にあって、その上に彼《か》の石神の歌の通り、宝蛇が見付かれば、いよいよこの間の夢は本当の夢で、妾は夢の中の美留女姫の生れ変りで、行く末は女王になれるのではないか。
 そうしてあの面白い、石神の話しの続きがわかるのではないか。このまま止めて引っ返しては何にもならない。妾は矢張り旧《もと》の漁師の娘になって、面白い事、楽しい事は一ツも見る事も聞く事も出来なくなるではないか。妾は死んでも引き返す事は出来ない。そしてもし妾が女王になるならば、ここで魚《うお》に喰われるような事はあるまい。もし女王になれないのならば、一層《いっそ》の事喰われて死んでしまった方がいい。何でも彼《か》でも運だめしだから、このまま行けるだけ行って見よう」
 と勇気を奮《ふる》い起こしてなおも底深く沈み入りました。すると又あたりの様子が変って来て、何の影も見えなくなり、水は死んだ人の肌のように冷たく、静かに、動かなくなりましたから、その恐ろしさ、気味の悪さ。却《かえっ》て最前の怖い形をした魚《うお》が居た方が、余程淋しくなくていいと思った位でした。
 けれどもその中《うち》にそこも通り越したと見えまして、はるかの底に、何か美しく光るものが見えて来ましたから、嗚呼《ああ》嬉しい、あれこそ鏡の置いて在る処に違いないと、なおも水を掻《か》き分けて潜って行きますと、やがてそこら中が眼の醒《さ》める程美しく、明るくなって来ました。見ると湖の底の深い、透《す》き通った緑色の水の中に、滑《なめ》らかな光沢《つや》を持った藻が、様々の色の花を着けて茂り合っていて、その間を眩《まぶ》しい光りを放つ魚が、金色銀色の泡を湧かしながら、右往左往にヒラヒラと泳ぎまわり、中には不思議そうに眼玉を動かしながら、美留藻の顔を覗《のぞ》きに来たり、または仲よさそうに身体《からだ》をすり付けて行くのもあります。
 その中《うち》に湖の底と見えて、沢山の宝石が一面に敷き並んで、色々の清らかな光りを放っている処へ来ました。
 何しろ美留藻は生れて初めて、こんな不思議な美しい処へ来たのですから、感心のあまり暫くは夢のように、恍惚《うっとり》と見とれていましたが、又鏡の事を思い出しまして、斯様《かよう》な美しい処に隠して在る鏡というものは、どんな美しい不思議な宝物であろう。早く見付けたいものだ、と思いながら、又もや長い深い藻を掻き分け、魚を追い散らして、宝石の上を進んで行きますと、間もなく向うの一際美しい藻の林の間に、チラリと人間の影が見えました。扨《さて》は香潮さんが最早来ているのかと思いまして、急いでその方へ足を向けますと、向うでも気が付いたと見えて、この方《ほう》へ急いで来る様子です。その中《うち》にだんだん近寄って参りますと、香潮と思ったのは間違いで、彼《か》の夢の中で見た美留女姫に寸分違わぬ、凄い程美しいお姫様《ひいさま》がたった一人、静かに歩いて来るのでした。美留藻は今更にその美しさに驚いて思わず立ち止まりますと、向うも美留藻の姿を見付けて、驚いたような顔をして歩みを止めました。美留藻はこれは屹度《きっと》夢の中の美留女姫が現われて、妾に鏡の在《あ》り所《か》を教えにお出でになったに違いない。そうして妾は矢っ張り旧来《もと》の通りの美留藻で、お姫様でも何でもなかったのだと思いまして、あまりの恥かしさに顔を手で隠しますと、先方《むこう》でも顔に手を当てました。自分の真似をされて、美留藻はいよいよ恥かしくなって、宝石の上にペタリと座りますと、先方も亦ペタリと座ります。オヤと思いながら立ち上って向うを見ますと、向うも矢張り立ち上ってこの方《ほう》を見ていました。試しに両手を動かして見ますと、向うでも動かします。足を踏みますと先方《むこう》も踏みます。
 扨《さて》はと思って近寄って見ますと、これが紛《まぎ》れもない白銀の鏡で、今まで美留女姫と思ったのは自分の姿が向うに映っているのでした。
 美留藻は驚いた余りに、我れを忘れて、あっと叫ぼうとしましたが、その拍子《ひょうし》に冷たい水が口の中に這入りましたので、又やっと自分が湖の底に居るのに気が付きました。そうして手足をぶるぶると震わせながら、眼の前の不思議に見惚《みと》れて、恍惚《うっとり》としてしまいました。美留藻は今まで賤《いや》しい漁師の娘で、自分の姿なぞを構った事は一度も無く、殊にこの国では昔から、鏡というものを見た者も聞いた者も無く、つまり自分の姿を見たのはこれが初めてでしたから、驚いたのも無理はありませぬ。
 扨はこれが妾の姿か。妾は矢張り美留女姫であったのか。妾はこんなに美しかったのか。こんなに気高い女であったのか。漁師の娘なぞというさえ勿体《もったい》ない。女王と云った方がずっとよく似合っているこの美しさ、気高さ、優しさ。まあ、何という艶《あで》やかさであろう。そうして妾は矢張り彼《か》の夢の中の書物で見た通りに、女王になるのであったかと思うと、最早嬉しいのか恐ろしいのか解からずに、そのまま気が遠くなりまして、宝石の上に座り込んで、一生懸命気を押《お》し鎮《しず》めました。
 扨やっと気が落ち付いてから、又もや鏡の傍へ差し寄って、つくづくと自分の姿に見とれましたが、見れば見る程美しくて、とてもこの世の人間とは思われませぬ。こんな綺麗な容色《きりょう》を持ちながら、こんな気高い姿でありながら、もし彼《か》の夢を見なければ、彼の低い暗い家の中に住んで、あの泥土を素足で踏んで、彼《か》の腥《なまぐさ》い魚《うお》を掴むのを、自分の一生の仕事に為《す》るところであったのか。姿は美しいとはいえ、又笛は名人とはいえ、どうせ只の漁師の伜《せがれ》の、彼《か》の汚い着物を着た香潮の妻になって、つまらなく暮すのが自分の身の上だったのか。嗚呼《ああ》、勿体ない。勿体ない。この鏡や宝石を海の底に沈めておくよりも、まだずっと勿体ない事だ。どうかして妾は妾に似合ったずっと気高いお方の処へお嫁に行って、彼《か》の絵の通りに女王になって見たいものだ。藍丸国の天子様の御妃になって、この姿をもっと美しく気高くして、国中の人達に見せびらかしたいものだ。思えばこの鏡は世界中の女の中《うち》で、妾が一番最初に自分の姿をうつしたのだから、もしかしたら妾をそういう身分にするためにここに沈んで、妾を待っていたのかもしれぬ。いや、屹度そうなのだ。それに違いない。そうだそうだと、忽ちの内に気が変りました美留藻は、最早《もう》女王になった気で腰に結んだ縄も何も解き放して、又もや鏡を覗きながら莞爾《にっこ》と笑ったその美しさ、物凄さ。あたりに輝いていた宝石の光りも、一時に暗くなる程で御座いました。その時に鏡の上からぬらぬらと這い降りて来て、美留藻の髪毛《かみのけ》の中に潜り込んだ一匹の小さい蛇がありました。その蛇は身体《からだ》中宝石で出来ていて、その眼は黄玉の光明《ひかり》を放ち、紅玉《ルビー》の舌をペロペロと出していましたが、この蛇が美留藻の紫色の髪毛《かみのけ》の上に、王冠のようにとぐろを巻いて、屹《きっ》と頭を擡《もた》げますと、美留藻は扨こそと胸を躍らせまして、今は彼《か》の石神の物語の赤い鸚鵡と、鏡と、蛇の話しはいよいよ夢でなく本当に在る事で、しかも三ツ共妾が誰よりも先に見付けたのだ。つまりは妾が女王になるその前兆《まえしらせ》に違いないと思い込んで、嬉しさの余りに立ち上って鏡のまわりを夢中になって躍りまわっていました。

     十 生きた骸骨

 ところが一方は香潮《かしお》です。
 香潮は美留藻《みるも》よりも潜るのが下手だったと見えまして、余程美留藻より後《おく》れて沈んで行きましたが、その中《うち》に香潮も亦、最前《さっき》美留藻が通ったような恐ろしい処にさしかかりました。すると今度は形の恐ろしいものばかりではありませぬ。鱶《ふか》だの鮫《さめ》だのは素より、身体《からだ》中に刃物を並べた鯱《しゃち》だの、棘《とげ》の鱗《うろこ》を持った海蛇だのが集《たか》って来て、烈しい渦を巻き立てて飛びかかりましたから、香潮は一生懸命になって、拳固で擲《なぐ》り飛ばし、足で蹴散らして、追いつ追われつ底の方へわけ入りましたが、その中《うち》にやっとこんな魚《うお》の居る処から逃げ出した時には、もう身体《からだ》がグタグタになって、胸が苦しくて眼が眩《くら》んで、死にそうになっていました。けれどもここで引き返しては、村の人々や、両親や、兄弟や、美留藻に対しても極《き》まりが悪いし、第一王様の御命令に背《そむ》く事になりますから、ここは一番死んでも行かねばならぬと、固く思い詰めまして、夢中で手足を動かして行きました。その苦しさ、切なさ。その苦しみのために香潮の身体《からだ》は見る見る肉が落ちて、顔は年寄りのように痩《や》せこけてしまいました。そうしてとうとう底まで行きつかぬうちに気が遠くなって、手も足も動かなくなったまま、ずんずん沈んで行きまして、やがて鏡の傍の宝石の上に落ち付きました。
 これを見付けた美留藻は、最前《さっき》ならば驚いて直ぐにも駈け寄って助け上げるところですが、今ははやすっかり気が変っていましたから、そんな事はしませぬ。香潮の顔を一目見ると、あまりの変りように愛想《あいそ》をつかしまして、いよいよこんな鬼のような顔をした者の妻となる事は出来ないと思いました。
 そうしてここで香潮に捕まっては、逃げて行く事も出来ぬし、女王になる事も出来ぬ。どうしたらよかろうと鳥渡《ちょっと》困りましたが、又気を落ち付けて傍へ寄って見ますと、全く死んだように見えましたから、ほっと一息安心をしまして、何かうなずきながらそっと香潮を抱き上げて、鏡の前に寄せかけました。
 それから最前《さっき》自分が解き棄てた綱の端を見付けて、香潮の身体《からだ》を鏡にグルグル巻きに縛ってしまいますと、その綱を三度強く引いて、上で待っている人々に引き上げてくれと相図をしましたが、自分はそのまま藻を押し分けて、水底《みずそこ》を伝って、どこかへ逃げて行ってしまいました。
 美留藻が引いた三度の相図は、舟の上に両方の綱を持って待っていた、藻取の手にはっきりと伝わりました。それっというので選《よ》り抜きの力の強い若者が四五人、バラバラと駈け寄って綱に取り付いて、一生懸命引き初めましたが、こは如何《いか》に。綱はピンと張り切ったまま、一寸《ちょっと》も上へ上がって来ませぬ。これではいかぬと又四五人綱に取り付きましたが、それでも綱は動きませぬ。それではというので今度は船の上に、かねて用意の車を仕掛けて、それに綱を引っかけて二三十人の者が力を揃えて巻き上げにかかりましたら、やっと二三寸|宛《ずつ》綱が上がり初めました。占めたというので気狂《きちが》いのように勇み立った藻取と宇潮の音頭取りで、皆の者は拍子を揃えて曳《えい》や曳やと引きましたが、綱は矢張り二三寸|宛《ずつ》しか上りませぬ。そうして不思議な事には、最早《もう》鏡を見付けて、綱を結び付けたら用事は済んでいる筈の香潮も、美留藻も、波の上に影さえ見せませぬ。その中《うち》に短い秋の日は、とっぷりと暮れてしまいました。
 今まで最早《もう》香潮が上がって来るか、最早《もう》美留藻が浮き出すかと、一心に海の面《おもて》を見つめていた親や身内の者共は、最早《もう》いよいよ二人共に、死んだものと諦めるより他に、仕方がなくなりました。
 二人の両親の歎きは素より、村の者共の悲しみと驚ろきは一通りではありませんでした。いくら水潜りが上手でも、こんなに長い事水の底に居て生きておられる道理はありません。
 けれどももしや船と船との間に、浮かみ上っているのではあるまいか。又はもしや悪い魚《うお》に喰われたとしても、せめて髪毛《かみのけ》位浮き上がりそうなものだ。いや、死んでいないから浮き上らないのだ。いや、死んでいても浮き上らないのだろう。
 ああかも知れぬ、こうかも知れぬと、吾が事のように皆の者は八釜《やかま》しく評議を初めましたが、この時宇潮と藻取とはやっと気を取り直して、皆の者に向って異口同音に叫びました――
「皆の衆《しゅ》、聞いて下さい。私達はもう立派に諦めを付けました。二人の者は水の底で、鏡を見付けて、綱を結び付けて帰って来る途中で、何か悪い魚《うお》の餌食になったに違いない。そうでなければ最早《もう》疾《とっ》くに浮き上って来る筈だ。こうと知ったらば、前から刃物の一ツも持たせてやるところだったものを。けれども今は歎いても仕方がない。それよりももっと大切な鏡を引き上げるのが、何より肝要だ。
 この鏡は二人の身代りだ。この上もない大切な形見だ。王様のお望みの品だ。さあ御苦労だが皆の衆、元気を出して引いた引いた」
 と涙を払って頼みましたから、皆の者も励まされて、疲れた身体《からだ》を起こして、一所に涙を拭き拭き、又もや綱に取り付きました。
 それからその夜は夜通し引きましたが、綱は相変らず二三寸|宛《ずつ》しか上って来ませぬ。とうとうその翌日《あくるひ》終日《いちにち》、その翌る晩も夜通し、その又翌る日も終日《いちにち》、入れ代り立ち代り大勢の人々が、オイオイ泣きながらこの綱を引きましたが、やっと三日目の晩方、いよいよ綱が残り少なくなりますと、不思議や今まで雲一ツ見えなかった空が、俄《にわか》に墨を流したように掻《か》き曇《くも》って来まして、忽《たちま》ち轟々《ごうごう》と雷鳴《かみなり》が鳴り初め、風が吹き、雨が降りしきりまして、海の上は何千何万の白馬黒馬が駈けまわるように波が立って、沢山に繋《つな》ぎ合わせた船を一時《いちじ》に揉《も》み潰《つぶ》そうとしました。けれども皆の者は、今度はちっとも気を落しませんでした。最早《もはや》この鏡を取らなければ、香潮と美留藻が死んだ甲斐もなく、王様のお望みも絶えてしまうのだ。死んでもこの鏡を引き上げなければ、第一亡くなった二人に対して済まないと、死に物狂いになって夜半過ぎまで引いていますと、その中《うち》に雨も止み風も絶えて、湧き返る波の上の遠くに、電光《いなびかり》がするばかりとなりました。
 すると間もなく海の上に何か真黒な大きなのが出て来て、舷《ふなばた》にドシンと打《ぶ》っつかった様子《ようす》ですから、ソレッとばかり皆が手を添えて、船の上に引き上げました折柄、又一しきり吹き出した風に忽ち空の黒雲が裂けて、磨《と》ぎ澄《す》ましたような白い月の光りが、颯《さっ》と輝き落ちて来ましたから、その光りで初めて浮き上ったものの正体を見ますと、皆の者は一度にワッと叫んで飛び退《の》きました。
 真黒く、又真白く湧き返る波の飛沫《しぶき》を浴みて、船の上に倒れているものは、見るからに凄い程光る白銀《しろがね》の鏡で、ギラギラ月の光りを照り返しています。そうしてその真中には顔や手足の肉が落ちて、濡れた髪毛《かみのけ》をふり乱して、眼を剥《む》き歯を噛み出した生きた骸骨《がいこつ》のようなものが、呼吸《いき》をぜいぜい切らして、あおむけに寝ているではありませんか。皆の者はその恐ろしさ物凄さに、皆ペタペタと座ったまま、暫くは口も利けず、身体《からだ》も固くなっていますと、今の怪物はなおも烈しい呼吸を続けて、唇を笛のようにヒューヒューと鳴らしていましたが、やがて片手で身体《からだ》の綱を解《ほど》いて、立ち上ってあたりを見まわしまして、皺枯《しゃが》れた声で――
「美留藻は帰ったか」
 と尋ねました。その時その白い歯は、月の光りに輝いて、皆を嘲《あざけ》り笑っているように見えました。
 この声を聞くと、今まで腰を抜かしていた藻取|爺《じい》と宇潮は、こいつが何でも香潮と美留藻を殺した化物に違いないと思い詰めましたから、急に元気が出て立ち上りまして――
「これ化物、美留藻も香潮も帰って来ぬぞ」
「大方貴様が喰ったのだろう」
 と掴みかからんばかりに睨《ね》め付けました。
 その声を聞くと又怪物は急に嬉しそうに――
「オオ。そう云う貴方はお父さん、私はその香潮です。そして美留藻はまだ帰らぬと仰《おっ》しゃるのですか」
 と早《は》や声を震わしています。二人は香潮と聞いてハッと驚きましたが、併しこんな化物が香潮などとは思いも寄りませぬから、異口同音に怒鳴り付けました――
「馬鹿な事を云うな。香潮は貴様のような化け物ではない」
「そんな事はありませぬ。私は香潮です。私が香潮です」
 と云いながら狼狽《あわて》て宇潮の傍へ走り寄ろうとしましたが、折から又もや雲の間を洩る月の光りに自分の姿がありありと鏡の中へ映りました。その姿をチラリと見ますと、化物は今度は自分の姿に驚いて、キャッと云うとそのまま眼をまわして、又もや湧き立つ大浪小浪の間に真逆様《まっさかさま》に落ち込んでしまいました。そうしてあとには只|白銀《しろがね》の鏡だけが、ありありと月の光りに輝いて残っておりました。

     十一 金銀の舟

 香潮《かしお》は浅ましい姿になって、不思議に生命《いのち》を長らえまして、一度は人々の前に姿を見せましたが、憐れや化物と間違えられて、そのまま又、湖の波の間に沈んでしまいました。美留藻《みるも》も最初から湖に沈んだまま姿を見せませぬ。とうとう二人共死んだ事に定《き》まりましたから、人々は泣く泣く船を陸《おか》の方へ漕ぎ返しました。二人の形見の鏡を載せて、漕いで行く二人の両親の心地《こころもち》はどんなでしたろう。又|彼《か》の鏡を車に載せて、都へ送る両方の村人の思いはどんなでしたろう。やがて藍丸の都の王様の御殿へ着いて、御殿の大広間で皆が王様にお目通りを許されて、この鏡を取った前後《あとさき》のお話しを申し上げた時、この珍らしい鏡というものを拝見に来ていた、沢山の貴《たっと》い人々の内で、泣かぬ者は一人もありませんでした。そうして両方の村の人達には、王様から沢山の御褒美を下さるし、又香潮と美留藻の両親《ふたおや》には、約束通り金の船と銀の舟を一艘|宛《ずつ》賜わってお帰しになりましたが、二人の親達はもしも今二人が無事に生きていて、この金銀の船を見たならば、どんなにか嬉しかろうと云って歎きました。
 藍丸王はこのお目見得が済むと、直ぐに紅木大臣を呼んで二つの事を申し付けました。一ツはこの鏡を自分の居間の壁に掛けて、まわりに美事な飾りを付ける事。それからも一ツは国中に布告《ふれ》を出して、「今度藍丸王様がお妃を御迎え遊ばすに就《つい》ては、国中で一番の美しい利口な女を御撰みになる事になった。だから今から一週間の内に、東西南北の四ツの国の中《うち》で一番の美しい賢い娘を一人|宛《ずつ》撰《よ》り抜いて御殿まで差し出せ。一週間目の朝、藍丸王様が御自身で御撰みになるから」という事を知らせろとの事でした。
 第一の命令は、この都で第一の名高い飾職《かざりや》と宝石|商人《あきんど》とが、大勢の弟子を連れて御殿へ参りまして、その日の内に仕上げてしまいました。それから第二の御布告《おふれ》は銅《あかがね》の板に書きまして、馬乗《うまのり》の上手な四人の兵士に渡して、四方の国々の王宮へ即座に出発させました。
 藍丸王は鏡の取り付けが出来上るのを待ちかねて、直ぐに只一人、自分の室《へや》に這入って、入り口の扉の内側からピタリと掛け金をかけました。それから四方の窓をすっかりと締め切って真暗にしてしまいますと、今まで室《へや》の隅の留り木に凝然《じっ》として留っていた赤鸚鵡は、忽ち真赤な光りを放って飛んで来て、王の頭の上に停まりました。そうしてその眼の光りで水底《みずそこ》の鏡の表面《おもて》を照しますと、鏡の表面《おもて》は見る見る緑色に曇って来まして、間もなくその中から美紅《みべに》姫の姿が朦朧《ぼんやり》と現われましたが、見ると今美紅姫は自分の室《へや》に閉じ籠もって、机の上に頬杖を突いて窓の外を見ながら何か恍惚《うっとり》と考えているところでした。この時赤鸚鵡は一声高く叫びました――
「王様。王様。御覧遊ばせ。
 美紅の姿。美紅の姿。
 紅木の娘。美紅の姿」
 王はこれを聞くと莞爾《にっこ》と笑いまして――
「ハハア。これが美紅姫か。成る程、これは美しい利口そうな娘だ」
 と申しましたが、その中《うち》に鏡の中の美紅姫がこの方《ほう》を向いて、王の顔をじっと見たと思うと、美紅の室《へや》も机も着ている着物も消え失せてしまって、あとに残った美紅の姿はそっくりそのまま、海の中の藻の林で、美留藻が鏡を覗いているところになりました。この時赤鸚鵡は又も一声高く叫びました――
「王様。王様。御覧遊ばせ。
 美留藻の姿。美留藻の姿。
 藻取の娘。美留藻の姿」
 美留藻は鏡の中から王の姿を見て莞爾《にっこり》と笑いましたが、王もこれを見て莞爾《にっこり》と笑いまして――
「オオ。これが美留藻の姿か。成る程。美紅姫と少しも違わぬわ。してこの美留藻の許嫁となっていた、香潮というのはどんな男であろう」
 と身を乗り出しました。すると間もなく美留藻の姿は鏡の表から消え失せまして、今度は醜い、怖《おそ》ろしい、骸骨のような化物の姿が現われました。そこは丁度鏡を取り上げた船の上の景色で、荒れ狂う波の上には、月の光りが物凄く輝いて、化物の姿を照しておりました。
「何だ。これが美留藻の許嫁の香潮という奴か。何という恐ろしい姿であろう。此奴《こいつ》が今に美留藻が俺の后《きさき》になった事を知ったならば、嘸《さぞ》俺を怨む事であろう。成程、これは面白い。赤鸚鵡赤鸚鵡、何卒《どうぞ》して此奴《こいつ》が死なないように考えて話してくれ。そうして俺に刃向って、大騒動を起すようにしてくれ。こんな珍らしい化物を無残無残《むざむざ》と殺しては、面白い話しの種が無くなる。相手に取って不足のない化物だ」
 と叫びました。すると赤鸚鵡は静かに答えました――
「はい、畏《かしこ》まりました。もとより御言葉が無くとも香潮の身の上は今に屹度《きっと》そうなって参ります」
 この言葉の終るか終らぬに又鏡の中の様子が変って、今度は広い往来が見え初めました。その往来の左右はどこかの青物市場と見えまして、大勢の人々が、新らしい野菜や果物を、忙しそうに売ったり、買ったり、運んだりしています。そこへどう迷ったものか、白髪小僧が遣って来ましたが、見るとこの間の通り顔は焼け爛《ただ》れて、眼も鼻もわからず、身には汚い衣服《きもの》を着て、鈴や月琴を一纏めにして首にかけ、左手には孔《あな》の無い笛を持ち、右手には字の書いてない書物を持っておりました。その姿が珍らしいので、あとから大勢の小供が従《つ》いて来て、石や泥を雨のように投げ附けていますが、白髪小僧は痛くも何ともない様子で、平生《いつも》のようにニコニコ笑いながら、ぼんやり突立って逃げようともせぬ様子です。するとそこへ又一人、手足から顔まで襤褄《ぼろ》で包んだ男が出て来まして、白髪小僧の様子を見て気の毒に思いましたものか、小供を四方に追い散らして白髪小僧の傍へ寄って、手を引いてどこかへ連れて行こうとする様子でしたが、その時どうした途端《はずみ》か顔を包んでいた布《きれ》が取れると、これが彼《か》の半腐れの香潮で、集まっている者は皆その顔付の恐ろしさに、大人も小供も肝を潰して、散り散りに逃げ失せてしまいました。
 その間に香潮と白髪小僧が急いでここを立ち去りますと、その後暫くの間は誰一人ここへ出て来るものはありませんでした。
 すると不思議にも直ぐに眼の前に並べてある昆布《こんぶ》の籠《かご》の内の一ツが、独《ひと》り手《で》にむくむくと動き出して、やがて横に引っくり返りますと、その中から海に飛び込んで行衛《ゆくえ》知れずになっていた美留藻が、首だけ出しましてじっと周囲《まわり》の様子を見まわしました。見るとそこ等には誰も居《い》ませんで、直ぐ前の横路地に、香潮の姿を見て逃げ出して行った果物屋の婆さんが、逃げかけに打っ棄《ちゃ》って行った灰色の大きなマントと、黒い覆面の付いた茶色の頭巾と、毛皮の手袋と木靴とがありましたから、それを盗んで手早く身に着けて、すっかりお婆さんに化けてしまいました。それから又あたりを見まわして、まだ誰も来ない事がわかりますと、今度は傍にあった果物の籠を抱えて、その中にいろいろの果物を拾い込んで外套の下に隠して、傍に在る金箱《かねばこ》に手をかけようとしました。その時にどうしたものか鏡の表が急に暗くなって、何も見えなくなったと思うと、今まで身動きもせずに王の頭の上に留っていた赤鸚鵡が、何に驚いたか急にバタバタと飛び降り、机の下に隠れてしまいました。

     十二 三ツの掟

 藍丸王はこれを見ると、急に不機嫌な顔になって、椅子から立ち上りました――
「何だ。何だ。誰かお前の嫌いなものが、扉の外に近づいて来るのか。よしよし。お前はそこに隠れておれ。俺が追い払ってやる」
 と云いながら急いで四方の窓を明け放して扉の傍へ来て――
「誰だ。そこに来ているのは」
 と云いながら扉を開きました。
 外には黄色い着物を着た青眼が、謹しんで敬礼をして立っていました。
「何だ。お前か。そして何の用事があってここへ来たのか。又この間の鸚鵡の時のように、鏡を乃公《おれ》から奪いに来たのか。鏡は最早《もはや》疾《とっ》くの昔に受け取りの儀式を済まして、居間の壁に取り付けてあるぞ。それとも他に用事でもあるのか。早く云え」
 と畳みかけて尋ねました。
 青眼は静《しずか》に顔を挙げて王の顔を見ましたが、忽ちハラハラと涙を流して申しました――
「嗚呼《ああ》。王様。御察しの通り、私が参りましたのはその鏡の事に就てで御座います。承《うけたまわ》れば王様は、私がお止め申し上げるのも御聴き入れ遊ばさず、あの水底《みずそこ》の白銀《しろがね》の鏡を御取り寄せ遊ばして、御居間に御据え遊ばしたとの事。まあ、何という恐ろしい事を遊ばすので御座いましょう。
 この間申し上げた、この国の古い掟を最早《もう》お忘れ遊ばしましたか。
『人の声を盗む者。人の姿を盗む者。人の生き血を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち壊せ。打ち殺せ』
 只今までこの国に、人の声を盗む鸚鵡という鳥が一匹も居ず、人の姿を盗む鏡というものが一ツも無く、人の生血を盗む蛇というものが一ツも無いのはこの掟があるために人々が……」
「八釜《やかま》しい。黙れ」
 と王は烈しく叱り付けました。
「そのような事は貴様から聞かずとも、疾《とっ》くに俺は知っている。俺は今までのように、貴様に欺されてばかりはおらぬぞ。貴様は悪魔でもないものを悪魔と云って、俺を馬鹿にしようとしたのだ。この鸚鵡の御蔭で、俺は居ながらに世界中の声を聞き取る事が出来、又この鏡の御蔭で、俺は世界中の出来事をいつでも見る事が出来るのだぞ。この二ツのものがある御蔭で、俺は世界一の賢い者になったのだぞ。それに貴様はこの重宝な宝物を無理に俺から取り上げて、俺を王宮の中に睡むらせて、世界一の馬鹿者にしようとする。貴様はこの国第一の不忠者だぞ。貴様、よく考えて見ろ。何にも知らぬ世界一の馬鹿が王様になっているがいいか。それとも何でも知らぬという事は一ツも無い、世界一の賢い者が王様になっているがいいか。どっちがいいか」
「はい。それは賢こいお方が王様になっておいでになる方が、この国の仕合わせで御座います」
「それ見ろ。それに貴様は何のためにこの俺を、何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのか。何のために鸚鵡や鏡を王宮に入れまいとするのか」
「噫《ああ》、王様。それは御無理と申すもので御座います。王様はそんな鏡や鸚鵡をお使い遊ばさずとも、旧来《もと》から御賢こい有り難い王様でいらせられるので御座います。それにその鏡や鸚鵡が参りましてからは、王様の御眼を眩まし御耳を聾《し》いさせて……」
「黙れ。黙れ。この二ツのものは、今まで一度も俺を欺いた事はないのだぞ。それにこの二ツの物を悪魔だなぞと、無礼者|奴《め》が。何を証拠にこの二つが悪魔だと云うのだ。その証拠を見せろ」
「その証拠は昔から申し伝えて御座りまする、この三ツの掟が何よりの証拠……」
「アハハハハ」
 と王は不意に高らかに笑い出しました。そうして意地の悪い眼付で青眼の顔を見つめながら尋ねました――
「その掟は誰が作ったのだ」
「ハイ。それは私の先祖の矢張《やっぱ》り青眼と申す者が、申し残しておるので御座います」
「ウム、そうか。してその先祖はなぜこの三ツのものを悪魔だと定《き》めたのか。この三ツのものを悪魔と定《き》めるには何か深い仔細《わけ》があるのか。仔細《わけ》が無くて、只無暗にこのような重宝なものを悪魔だと定《さだ》めるわけはあるまい。その仔細《わけ》を云え」
 この藍丸王の言葉を聞くと青眼はどうした訳か急に真青になって、唇までも見る見るうちに血の色が失せてしまいました。そうしてそれと一緒に手足をぶるぶると震わせながら、返事も何も出来なくなって、只その青い眼を一層まん丸く見張って、王の顔を見つめておりました。この様子を見ると王は益々|勢《いきおい》込んで青眼の前に一歩《ひとあし》進み寄りながら、一層厳格な顔をして睨《にら》み付けて申しました――
「これ、青眼。貴様はなぜ返事を仕《し》ないのだ。なぜその証拠が云われぬのだ。さ、その証拠を云え。その仔細《わけ》を云え。なぜその三ツの者が悪魔なのだ。なぜこの鏡と鸚鵡が悪魔の片われなのだ。貴様は今まで何一ツとして俺に隠した事はないではないか。云え。云え。その三ツの掟の出来た訳を云え」
 と王は如何にも言葉鋭く詰め寄りました。けれども青眼先生は王の勢《いきおい》が烈しくなればなる程縮み上って、ふるえ方が烈しくなって、今は立っている事が出来ず、床の上にペタリと座り込んでしまいました。王はじっとその有様を見ておりましたが、なおも厳《おご》そかな口調で責めました――
「青眼。これ、青眼。貴様はなぜそのように恐れるのだ。なぜそのように顫《ふる》えるのだ。なぜその仔細《わけ》を俺に隠すのだ。一体貴様の為《す》る事は俺にはちっとも訳が解からぬぞ。この間のように見もせぬ夢を見たろう等と尋ねたり、又はこのような重宝なものを俺から奪い取って、罪も無い鸚鵡を殺そうとしたり、又は大勢の者が生命《いのち》を棄てて拾い上げてくれたこの貴い鏡を打ち壊そうとする。俺にとってはこれ位有り難い貴い重宝な宝物《ほうもつ》は無いのだぞ。それをなぜ貴様はそのように悪《にく》むのだ。そうしてその仔細を云えと云えばそのように青くなって顫《ふる》え上ってしまう。一体どういう訳でそのような妙な事を云ったり為《し》たりするのだ。少しも訳がわからぬではないか。なぜそのように隠すのだ。なぜそのように恐れるのだ。さあ、云え。さあ、返事をしろ。すっかり白状してしまえ」
 王はこう云いながら一層鋭く青眼を見つめました。けれども青眼は矢張《やっぱ》りその眼を※[#「※」は「目+爭」、114-6]《みは》ったまま返事をしませぬ。じっとその顔を見ていた王は、やがて莞爾《にっこり》と笑って申しました――
「ハハア、解かった。貴様が隠す訳がわかった。恐れる訳がわかった。隠す筈だ。云えない筈だ。その掟は矢張り嘘の掟だからだ。貴様の先祖から代々貴様までも、根も葉もない作り事をして、俺にこのような貴い有り難い宝物《ほうもつ》を近づけぬようにして、自分だけ世界一の利口者になろうとしているのだ」
「いえ、決してそんな事は御座いませぬ。悪魔はどうしても悪魔で御座います。何卒《どうぞ》何卒王様、私の申す事を……」
 と青眼は慌てて口を利きました。
「黙れ。青眼。貴様はどうしても俺を欺そうとする。貴様こそ悪魔だぞ。イヤ悪魔だ。悪魔に違いない。貴様の家は先祖代々云い伝えて、俺のお守役になって、嘘の掟を作って、こんな重宝なものを遠ざけて終《しま》いに俺を何にも知らぬ馬鹿者にしようとしたのだ。最早《もはや》俺は貴様の云う事を聞かぬ。俺はこの鸚鵡から、世界中の事を聞かせてもらった。又この鏡から、世界中の事を見せてもらった。御蔭で大層利口になった。こんな嬉しい事はない。こんな有り難い事はない。今まで俺に何事も知らせまい知らせまいとしていた貴様は、大不忠者だぞ。これ兵隊共、此奴《こいつ》を王宮の外に抓《つま》み出せ。以後俺が許す迄は王宮に来る事は相成らぬぞ」
 と云いながら扉をドシンと閉めました。
 青眼は忽ちむっくと起き上って、今閉まったばかりの扉に取り付いて男泣きに泣き出しました。
 青眼は藍丸王のこのように荒々しい、狂気《きちがい》じみた姿を見たのはこれが初めてでした。又このように無慈悲な言葉で、嘲けられ罵《のの》しられた事も初めてでした。あまりの事に扉に取り付いて、流るる涙を拭《ぬぐ》いもあえず――
「王様。王様。王様は気でもお狂い遊ばしましたか。この間まであのように優しく、あのように気高くておいで遊ばした王様が、どうしてそのようなお情ない浅ましい御心にお変り遊ばしたので御座いましょう。これと申すもあの鏡と鸚鵡、二ツの魔物が、王様の御心を眩《くら》ましたからで御座いましょう。何卒《どうぞ》、王様。御心を御静め遊ばして私の申す事を御用い遊ばして……」
 と喘《あえ》ぎ喘ぎ口説き立てましたが何にもなりませんでした。扉の中からは何の返事も聞こえず、却《かえっ》て廊下番の兵隊共に引き立てられて、王宮の御門から逐《お》い出されてしまいました。
 ところが青眼先生が引っ立てられて行くと間もなく、又もや赤鸚鵡が叫び立てました――
「あれあれ、王様、今度は紅矢が御目にかかりに来る様子で御座います。今|家《うち》から馬に乗りまして、この御殿の方へ出かけるところで御座います。
 只今紅矢が参りますのは他の事でも御座いませぬ。紅矢はずっと以前《まえ》に旧《もと》の藍丸王から、自分の第一番目の妹|濃紅《こべに》姫をお后に差し上げるよう、固い御言葉を受けておりまして、まだ家《うち》の者には話しませぬが、兄妹《きょうだい》共はそれを楽しみに致しておったので御座います。ところが紅矢はこの間から父の用事で、北の加美足国へ参いっておりましたが、今日帰って参りますと、今朝《けさ》王様があのような御布告《おふれ》をお出し遊ばして、他の国々からお后をお選みになるという事を聞いて、妹思いの事で御座いますから、夢かとばかり驚きまして、直ぐに王様の御布告《おふれ》が本当かどうか伺いに参いるので御座います。今紅矢は廊下の番兵にお取次を頼みました。御聞き遊ばせ」
 と云いも了《おわ》らぬうちに兵士の声が扉の外から――
「紅矢様の御出《おい》でで御座います」
 と高らかに聞こえました。
 王は直ぐに返事をしました――
「まだ誰もこの室《へや》に這入る事は相成らぬ。用事があるなら後《のち》に来い」
 この言葉を扉の外で聞いていた紅矢は、全く夢に夢見る心地がしました。紅矢も青眼先生と同じように、王様からこのような荒々しい、菅無《すげな》い言葉を受けたのは、これが初めてでした。それでなくても濃紅姫の事を思うて、胸が一パイになっていた紅矢は思わず扉に取り付いて叫びました――
「王様。王様。王様は如何《いかが》遊ばしたので御座いますか。どうしてそのようなお情ない事を仰せられますか。紅矢で御座います。紅矢で御座います。何卒《なにとぞ》一度だけ御眼にかからせて下さいまし。私の妹の濃紅の事で、是非申し上げなければならぬ事が御座いますから」
「濃紅がどうしたというのだ」
「エエッ。最早《もはや》王様は御忘れ遊ばしましたか。彼《か》の御約束を御忘れ遊ばしましたか」
「忘れはせぬ。けれども約束を守るなぞという事は大嫌いになった。昨日《きのう》の王と今日の王は別人だ。そんな約束を守らなくともよい。もしその濃紅姫とやらを后に為《し》たいと思うならば、最前《さっき》国中に布告《ふれ》さした通りに、今日から一週間の後《のち》に、国々の女と一所に宮中へ差し出せ。もし気に入ったら后にしてやる。帰ってその事を妹に知らして、支度をさせておけ。間違うと許さぬぞ。その他に用事は無い。帰れ」
 と世にも無法な言葉です。紅矢は今日まで、両親《ふたおや》よりも、妹共よりも、誰よりも慕わしく懐かしく、天にも地にも二人と無い、慈悲深い気高い王様と思い込んでいたのに、今は鬼よりも無慈悲な、獣《けだもの》よりも賤《いや》しい御心になられて、その声までも虎のように荒々しくなられた事が解かりました。その上に今まで、何よりも楽しみにしていた濃紅姫の事を、王は自分で約束しながら、自分で破って、あられもない国々の賤《いや》しい女共と一所に、一週間の後に御目見得に出せとは、まあ何という浅ましい仰せであろうと、余りの悲しさ情なさに紅矢は前後を忘れてしまって、泣くにも泣かれず、只狂気のように頭の毛を掻《か》きむしりながら、驀然《まっしぐら》に王宮を駈け出ました。

     十三 名馬の蹄音

 紅矢が王宮を駈け出ますと、直ぐに王は又鏡に向って、最前の美留藻《みるも》がお婆さんに化けた後《のち》の有様を見せろと命じました。けれどもまだ鏡に何も映らぬ前に、王は不意に恐ろしい物音を聞きつけて叫びました――
「あれ。あの音は何だ。雷の響か。霰《あられ》の音か。否々《いやいや》。馬の蹄《ひづめ》の音だ。何という高い蹄の音であろう。何という疾《はや》い馬であろう。あれ、王宮の周囲《まわり》を街伝いに、もう一度廻ってしまった。あの馬の騎《の》り手はこの夜更けに何のためにこの王宮のまわりを駈けめぐるのであろう。あんな疾い馬がこの世に在るか知らん。騎《の》り人《て》は俺の知らぬ魔者ではないか知らん。あれ、最早《もう》二度まわってしまった。今度は三度目だ。これ、白銀《しろがね》の鏡。赤鸚鵡。美留藻の行衛《ゆくえ》は最早《もう》見なくともよい。それよりも早くあの馬と、その騎《の》り人《て》を見せてくれ。あれ、もう三度まわった。疾い疾い。何者だ。何者だ」
 と呼吸《いき》は機《はず》ませて尋ねました。この言葉の終らぬうちに、早くも赤鸚鵡の眼から電光のように光りがさして、鏡の表面《おもて》が颯《さっ》と緑色に曇って来ました。そうして又ギラリと晴れ渡ったと思うと、一人の騎馬の少年の姿が現われました。それは最前王宮を出て行った紅矢でした。
 紅矢は今まで親よりも敬って、兄弟よりも親しく思っていた藍丸王が、まるで鬼よりも無慈悲な心になり、虎よりも荒々しい声に変って、その上に今は又、自分の妹の事を露程も思って下さらない事がわかりますと、あまりの事に驚き悲しんで狂気《きちがい》のようになって王宮を駈け出ると直ぐ、そこに繋いでおいたこの国第一の名馬「瞬《またたき》」というのに飛び乗って、手綱《たづな》を執《と》るが早いか馬の横腹を拍車で千切れる程蹴り付けました。すると今まで只の一度も鞭の影さえ見せられた事のない「瞬」は、思いがけない主人の乱暴な乗り方に驚いて、これも夢中になってしまいまして、ヒーンと一声|棹立《さおだ》ちになったと思うと、そのまま一足飛びに駈け出しました。
 けれども紅矢は「瞬」がどんなに驚いて、どんなに疾く駈けているのか気が付きませんでした。只最前の王の荒々しい言葉や声が、まだ聞こえるように思い、又家に帰ってこの事を濃紅姫に話す時の濃紅姫の顔が、今眼に見えるように思って、胸の内は掻き※[#「※」は「てへん+劣」、120-10]《むし》られるようでした。そうしてこのままこの馬と一所に高い崖からでも落ちて死ねばいいと思いながら、両手を手綱から放して、頭の毛を掻き掴んで、星の光りの冴《さ》え渡った空を仰ぎながら、馬の横腹を蹴立て蹴立てて、人通りの無くなった都の街を、滅茶苦茶に走らせました。
 すると馬は益々驚き慌てまして、白泡を噛み立髪を逆立てながら、足を空に揚げて王宮の周囲《まわり》を瞬く間に六七遍ぐるぐるとまわりましたが、七遍目に王城の前の広い通りへ出ますと、そのまま南の宇美足国へ通う街道を一散に駈け下りました。
 紅矢は馬が走れば走る程、気持ちがだんだん晴々《せいせい》して来るようですから、なおも構わずに走らせていますと、その中《うち》に夜が明け離れて、向うに遠く白く光るものが見えて来ました。これは一つの湖で、大層大きい様子ですから、紅矢ははじめて馬を控えて通りがかりのお婆さんに――
「お婆さん。あの湖は何という湖ですか」
 と尋ねました。そのお婆さんは頭巾と覆面で顔をすっかり隠して、片手に短い杖を突き片手に重たい果物の籠を提げて、さも疲れたらしくよぼよぼと歩いていましたが、今紅矢からこう尋ねられると、立ち停まりながらやっとこさと腰を延ばしまして――
「はい。あれは多留美という湖で御座います」
 と教えました。紅矢は思いの外に遠くに来ているのに驚きまして――
「何。あれが多留美という湖かい。これは驚いた。では南の国の都も最早《もはや》遠くないんだ。それではそろそろ引き返そうか」
 と馬の首を引き廻しましたが、又|不図《ふと》このお婆さんが如何にも疲れているのに気が付きまして――
「お婆さんはどこへ行くのですか」
 と尋ねました。そのお婆さんは覆面の下から、しきりに紅矢の様子を見ている様子でしたが、この時さも弱り切ったように溜息《ためいき》をしまして、自分はあの多留美の湖の片傍《かたほと》りに住んでいる者だが、近い内に王様がお后を御迎え遊ばすという事を聞いたから、そのお祝いに自分の家の庭の樹に生《な》った果物を籠に入れて差し上げに行くのだと答えました。これを聞くと紅矢は濃紅姫の事を思い出して、嗚呼《ああ》これをもし自分の妹が受け取るのだったら、どんなにか嬉しい事だろうと胸が一杯になりました。併し今このお婆さんの忠義な心掛けにも大層感心をしまして、いよいよその疲れているのが気の毒になりまして、それでは自分も都からここまで散歩に来たもので、今から引きかえすのだから丁度いい、一所に馬に乗せて宿屋の在る処まで連れて行って上げようと勧めました。お婆さんは頻《しき》りに遠慮をしました。けれどもとうとう紅矢の親切な言葉を断り切れず、鞍の前輪《まえわ》に乗せられて都の方へ連れて行かれました。
 紅矢はお婆さんが眼をまわすといけないと思いまして、わざとそろそろ馬を歩かせましたが、このお婆さんは中々話し上手で、紅矢の顔色の悪いのを見て、いろいろ親切に尋ねましたから、紅矢もうっかり釣り込まれまして、自分の心配の種の濃紅姫の事や、王様の御気性が荒々しくならせられた事、それからあまりの事に驚いて何が何やら解からなくなって、夢中に王宮を飛び出して、無茶苦茶に街中を駈けめぐって、夜通しの裡《うち》にここまで来た事、又この馬はこの国第一の名馬で瞬く間に千里走るという評判があるから、名を「瞬」と付けてある事等を、詳しく話して聞かせました。お婆さんは聞く事|毎《ごと》に感心をして、紅矢が天子様の御言葉に少しも反《そむ》かなかった心掛けを無暗《むやみ》に賞め千切りましたが、なおその上にも紅矢の家や、王宮の中の模様を根ほり葉掘り尋ねましたから、紅矢は少し気味が悪くなりまして、終いには極く短い返事ばかりしていました。けれどもお婆さんは中々止めませぬ。
 やがてさも勿体《もったい》らしく、咳払いを一つしまして――
「紅矢様。よく教えて下さいました。御蔭で妾《わたし》は貴方様の御宅《おうち》の様子や、王宮の中の様子がよくわかりました。けれどもそれと一所に、妾は世にも恐ろしい災が、貴方のお身体《からだ》や、貴方の御家にふりかかっている事を知りまして、どうしたらよいかと思っております」
「何。災が降りかかっている」
 と紅矢は思わず釣り込まれて尋ねました。
「お婆さん、それは本当《ほんと》かえ」
「ハイ。何をお隠し申しましょう。妾は南の国で名高い女の占者《うらない》で、今年で丁度八百八十歳になりますが、まだ一度も嘘を云った事は御座いませぬ。今ここに持っておりまする果物も、その占いに使うための不思議な果物で、今度王様が御妃を御迎え遊ばすに就いて、この世で一番賢い美しい姫君をお撰みになるように、この果物を差し上げに行くので御座います。この果物がどんな不思議な働《はたらき》を致しますかという事は、直きに貴方にもお目にかける事が出来ましょう。そうしたら貴方もこの婆《ばばあ》の申し上げる事が、嘘でないと思《おぼ》し召《め》すで御座いましょう」
 と申しました。
 この婆さんの落ち付いた話ぶりには、流石《さすが》の紅矢もすっかり引き込まれてしまいました――
「何。それは本当《ほんと》かえ。私の家にはそんな恐ろしい災が降りかかろうとしているのかえ。どうしてそれがわかるの、お婆さん。教えておくれ」
 と急《せ》き込んで尋ねました。

     十四 果物の占い

 するとお婆さんはうしろから覗き込んでいる紅矢の顔を、黒い覆面の下からそっと見返りながら申しました。
「そんなにお騒ぎにならなくとも大丈夫で御座います。災というものは前からわかっていれば、誰でも免れる事が出来るもので御座います。けれども貴方のお家の災がどんな災か、はっきり前からわかるためには、妾《わたし》はまだもっと貴方のお家の中の事に就《つ》いて、お尋ね申し上げねばならぬ事が御座います。貴方は少しも隠さずに、私が尋ねる事をお答えになりますか」
「ああ、どんな事でも。屹度《きっと》」
「ではお尋ね致しますが、貴方の末のお妹さんは、美紅《みべに》姫と仰《おっ》しゃるのですね」
「そうだ」
「その美紅姫は貴方とお顔付きがよく肖《に》ておいでになりますか」
「ああ……よく肖《に》ていて、着物を取りかえると一寸わからない位だよ」
「その美紅姫に就いて、この頃何か不思議な事は御座いませぬか」
「ああ、よく知っているね。お婆さん。本当《ほんと》に私はその妹の事に就て解からない事があるのだよ。一体その美紅姫は、小さいときからお話が何より好きで、今まで毎日毎日お話の書物ばかり読んでいたのだが、この頃急にそのお話が嫌いになって、只一人自分の室《へや》に閉じ籠もって何かしきりに考えながら、折々解からない解からないと独言《ひとりごと》を云っているのだよ。だから皆心配してその訳を聞いて見るけれども、どうしてもその訳を云わないで、只明けても暮れても解からない解からないと云い続けている。けれども別段病気でもなさそうだから、打っちゃらかしておくのだよ」
「まあ、そうで御座いますか。それでやっとわかりました。それではその美紅姫は、黒い大きな眼をした、眉《まゆ》の長い、そして紫色の髪毛《かみのけ》が地面まで引きずる位、長いお方では御座いませんか」
 紅矢はこのお婆さんが、自分の妹の事を、どうしてこんなによく知っているのかと、怪しみながら答えました。
「そうだよ。それにすこしも違《ちがい》はない」
「フム、そうで御座いましょう。ではもしやその美紅姫は、この間の朝不思議な夢を御覧になりはしませんでしたか」
 この言葉を聞いた紅矢はあまりよく中《あた》るのに驚いてしまって、口を利く事が出来ず只やっとうなずいたばかりでした。けれども婆さんは構わずに――
「フム。フム。フム。いよいよ妾の占いは本当だ。では今一つお尋ね申し上げます。その美紅姫がその夢を御覧遊ばした朝、お眼が覚めて吃驚《びっくり》なすった時、窓の処に一匹の赤い鳥が居はしませんでしたか」
 紅矢はもう、余りの不思議に呆《あき》れてしまって、只深いため息をつくばかりでした。
「ヘヘヘ……。よく中《あた》りましたで御座いましょう。妾はこの国第一の年寄りで、又この国第一の占者《うらない》なので御座いますもの。当らない筈は御座いませぬ。妾は初め、向うから貴方が馬に乗ってお出でになるのを見付けまして、貴方のお顔を見ました時、すぐに貴方は貴い身分の御方で、御両親や妹御様方があり、しかもその末の妹御様は、この間十何年の長い間、他の国で美留女姫と名乗ってお話|狂気《きちがい》とまで云われた夢を御覧になって、その夢が覚めると、枕元の窓の処に一匹の赤い鳥が居た事、そうしてその長い夢の間に、昨日《きのう》までの事を忘れてしまって、却《かえ》って今の御身の上を夢ではないかと思っておいでになる事なぞが、一時《いちどき》にすっかり解かったので御座います。
 紅矢様。お気をお付け遊ばせ。その妹御様の美紅姫こそ、貴方のお家の災の種で御座いますぞ。美紅姫はこの間御覧になった夢の中で悪魔になってしまって、赤い鸚鵡という鳥を召し使いにして、貴方のお家に恐ろしい災を降らせ、貴方の御両親や、貴方や、濃紅《こべに》姫や、家中《かちゅう》の人々を鏖《みなごろし》にして、只自分独り生き残って、そうしてこの国の女王となって、勝手気儘な事をしようと思っておられるので御座いますぞ」
「では濃紅姫はお后になる事は出来ないのか」
 と紅矢は声を震わして尋ねました。
「はい、出来ませぬ。出来ませぬ。妹御の美紅姫が邪魔を遊ばします。いや、美紅姫ではない。悪魔に咀《のろ》われた美紅姫、つまり夢の中の美留女姫が邪魔を遊ばします」
「嘘だ。美紅姫はそんな悪い女でない。又そんな悪魔に魅入られるような女ではない。私はお婆さんの云う事を本当にする事は出来ない。他の占《うらない》は皆当ったけれども、今の占だけは決して当らない」
 と紅矢は顔を真赤にして、身を震わしながら云い切りました。けれどもお婆さんは中々|凹《へこ》みませんでした――
「今までの占がもし当ったとすれば、今の占も決して中《あた》らぬ筈は御座いませぬ。嘘だと思《おぼ》し召《め》すならば、その証拠を御覧に入れましょうか」
 紅矢はお婆さんからこう云われても、どうしても妹の美紅がそんな事をするとは思われませんでした。そしてあの可愛い妹を悪魔のように云うこの婆さんが、心から憎くなりまして、もう一時も馬に乗せておく事は出来ない位腹が立ちました。けれども又思い直しまして、この婆さんは決して悪い気で云っているのではあるまい。屹度占いを間違えて、それを本当にして心配して、自分に教えてくれるのに違いないと考え付きましたから、それならば一つその証拠を見て、それから間違っている事を教えてやろうと思いまして――
「では、お婆さん、その証拠を見せておくれ」
 と頼みました。
「その証拠というのは、これ、この果物で御座います」
 と云いながら婆様《ばあさん》は、手に持った果物の籠を見せました。
「何、その果物が証拠とは……」
 と紅矢は驚いて中を覗きますと、中には見事な林檎が七ツ這入っておりました。
「妾はこれでその占いを立てたので御座います。御覧遊ばせ、七ツ御座いましょう。丁度悪魔の数で御座います。これを倍にすると美紅姫のお年になります。つまり美紅姫は悪魔に取り付かれて身体《からだ》が二ツになって、その半分は今貴方の御命をつけねらっているという事になります」
「馬鹿な。そんな事があるものか。都からここまでは何百里とあるものを」
 と又紅矢は馬鹿馬鹿しくなって笑い出しました――
「ではその果物が美紅姫だと云うのかえ」
「イイエ。そうでは御座いませぬ。けれども悪魔の美紅姫はこの果物の直ぐ傍に居るという事で御座います」
「何、私の傍に」
 と紅矢は思わずそこらを見まわしましたが、そこは丁度|只《と》ある森の中の橋の上で、あたりには人一人通らず極く淋しい処でした……と思う間もなくどうした途端《はずみ》か、お婆さんは不意に今まで大切に抱えていた果物の籠を、馬の上から取り落しまして――
「あれっ。大変だア」
 と叫びながら、自分も一所に馬の上から転がり落ちて、周章《あわて》て果物を拾おうとしましたが、生憎《あいにく》果物は橋板の上を八方に転がり出して、大方河の中へ落ちてしまいました。するとお婆さんは俄《にわか》に泣き声を張り上げて――
「あれッ。大切な果物が皆河へ落ちた。王様へ差し上げる占《うらない》の果物は皆流れて行って終う。ああ、勿体ない。勿体ない。あれ、取って下さい。取って下さい。誰も取ってくれなければ妾が行く」
 とそのまま欄干《てすり》に走り寄って、今にも飛び込もうとしました。これを見た紅矢は驚くまい事か、「お婆さん、危い」と叫びながら直ぐに馬から飛び降りて、お婆さんを抱き止めて、代りに自分が素裸体《すはだか》になって、橋の欄干《てすり》から身を躍らして河の中へ飛び込みました。
 この体《てい》を見ますと、今まで橋の欄干《てすり》に縋り付いて泣いていた婆さんが、急に泣き止んで矗《すっく》と立ち上りまして、いきなり頭巾や、外套や、手袋をかなぐり棄てますと、お婆さんと見えたのは美留藻《みるも》が化けたので、今ドンドン流れて行く果物と、それを追《おい》かけて行く紅矢を眺めて気味悪くケラケラと笑いました。そうして声高く、
「お兄様……悪魔の美紅をよく御覧なさい」
 と云うかと思うと直ぐに、傍に脱ぎ棄ててある紅矢の帽子から靴まですっかり盗んで身に着けるが早いか、ヒラリと「瞬」に飛び乗って、強く横腹を蹴《けり》付けながら、一足飛びに都の方へ飛び出しました。

     十五 白木綿

 悪魔美留藻はやがて何百里という途を矢のように飛ばして、名前の通り瞬く間に都に到着しますと、美留藻は先ず呉服屋へ参りまして、晒木綿《さらしもめん》を買いまして、それからとある人通りの少ない横路地へ這入りました。そうして上衣やズボンの方々に泥を沢山なすり付け、その上に顔中すっかり繃帯《ほうたい》をして眼ばかり出して、男だか女だか解らぬようにして終いますと、今度はこの都第一の仕立屋へ這入りまして、紅矢の声色を使って、自分は総理大臣の息子の紅矢である。最前馬から落ちて顔に怪我をした上に、大切な着物を汚してしまったのだが、明日《あす》は又王宮に行かねばならぬから、今日の正午《ひる》迄に今一着同じ服と、外套一枚を仕立て上げろ。但し材料《しなもの》や飾りは出来るだけ派手な上等のものにして、鈕《ぼたん》にはこれを附けるようにと云いながら、髪毛《かみのけ》の中から大粒の金剛石《ダイヤモンド》を十二三粒取り出して渡しました。
 折よくこの仕立屋の亭主は紅矢の家《うち》へ出入りの者で、紅矢の身体《からだ》の寸法を心得ていて、委細承知致しましたと受け合って、金剛石《ダイヤモンド》を受け取りましたから、美留藻はなおも念を押して、家《うち》中総掛りで屹度間に合わせろと命じて、又馬を飛ばせました。それから帽子屋へ参りまして上等の帽子を、矢張り正午《ひる》迄の約束で誂《あつら》えまして、その飾りにと云って、ここへも大きな金剛石《ダイヤモンド》を一粒渡しました。それから剣屋《つるぎや》へ行って剣を、靴屋へ行って靴を、手袋屋へ行って手袋を、皆|正午《ひる》までに最上等の分を調えておくように申し付けまして、今度は王城の西の方に向って馬を飛ばせました。どこへ行くのかと思うと、やがて美留藻は紅矢の家を尋ね当てまして、大胆にも表門から駈け込みましたが、馬から降りると直ぐに玄関に駈け寄って、その石段の上に伏し倒れて、悲し気な声で家《うち》の者を呼びました。
 家《うち》の者は、紅矢が昨日《きのう》旅から帰ると、直ぐに王宮へ行って、又王宮を飛び出して、「瞬」に騎《の》って王宮の周囲《まわり》を七遍も駈けまわって、そのまま昨夜《ゆうべ》の内に行衛《ゆくえ》が知れずになったという噂を聞きまして、薩張《さっぱ》り理由《わけ》が解らず、もしや王様から大層な急用でも仰せ付かったのではあるまいか。それとも帰り途に散歩に行って、大怪我でもしたのではあるまいかと、大層気を揉んでいるところでしたが、この声を聞くや否や皆一時に、素破《すわ》こそと胸を轟かして玄関に駈け付けて見ますと、こは如何《いか》に。
 紅矢は余程の大怪我をしたものと見えて、顔中繃帯をして、呼吸《いき》を機《はず》ませて倒おれております。この体《てい》を見た両親や、その他の者の驚きは一通りでありませんでした。直ぐに大勢で紅矢の寝床へ担《かつ》ぎ込《こ》みましたが、生憎な時は仕方のないもので、この家《うち》のお抱えの医者は、二三日前から遠方の山奥へ薬になる艸《くさ》や石を採りに行った留守で、とても一月や二月で帰って来る気遣いはなく、今の間《ま》には勿論《もちろん》合いませんでしたから、仕方なしに宮中のお抱えの青眼先生の処へ使いを立てて、大急ぎで御出《おい》で下さるようにと頼みました。丁度青眼先生は藍丸王のお叱りをうけて家に引き籠もっているところでしたが、紅矢が怪我をしたと聞くと直ぐに承知をしまして、薬を取り揃えて出かけました。
 青眼先生が来る迄に、美留藻の似せ紅矢は鋭く眼を配って、家《うち》の中の様子を見ますと、案の定この家の中に居る人々は、この間自分が夢の中で見た、美留楼《みるろう》公爵の家の人々にそっくりで、声までも少しも違いませぬ。美留藻は吾《わ》れながら眼の前の不思議に、今更に驚いてしまいましたが、又気を取り直しまして、それではこの家の末娘の美紅というのが、いよいよ自分と同じ夢を見て、吾れと吾が身を疑っているのに違いない。そうしてその姉の濃紅姫は、自分と一所に王様の前にお眼見得《めみえ》に出るとの事、念のため今一度、二人の顔を見ておきたいと、なおもよく気を付けて眼を配っていますと、この時|姉妹《あねいもうと》の二人は、兄の怪我を気遣いながら、両親の身体《からだ》の間から涙ぐんだ顔を出して、一心に様子を見ておりましたが、やがて美留藻が二人の顔を見付けて、繃帯の中からじっと眼をつけますと、二人は悲しさと恐ろしさに堪え切れないで、顔に手を当ててこの室《へや》を出てしまいました。
 あとを見送った美留藻は、ほっと深い溜め息をしました。美紅姫の姿の美しくて気高い事。湖の底の鏡の中で見た自分の姿に、一分一厘違わぬばかりでなく、ずっと清らかに神々《こうごう》しく見えたからで御座います。又姉の濃紅姫の方は、流石《さすが》に紅矢が自慢するだけあって、本当に温柔《おとな》しく優しいには違いありませぬが、併しその美しさは迚《とて》も妹の美紅や、又は美留藻自身の美しさとは比べものにならないと思いましたから、これならば自分と一所に藍丸王様の御前にお目見得に出ても、決して負けるような事はないと安心をしました。
 けれどもとにかくこの家の人々は、この間の夢の中で、美留女姫の両親や兄妹《きょうだい》となった人々で、しかもその末娘の美紅姫は、矢張り自分と同じように、美留女姫になった夢を見たのみならず、不思議にも自分と少しも違わぬ姿を持っているのですから、もしかすると美紅姫の方が本当の美留女姫の生れ変りで、自分が女王になるというのは嘘かも知れないと思いました。もしこの美紅姫があの夢を本当にして、女王になろうとでも思ったならばそれこそ大変で、折角自分が骨を折って、本当の事にしようと思っているあの夢が、皆嘘になって仕舞いますから、最早《もはや》一寸《ちょっと》も油断がなりませぬ。これは何でもこの美紅姫を亡《な》いものにして、出来る事ならあの夢の事を知っているものは皆息の根を止めてしまわなければ、自分は一寸の間も安心して眠る事は出来ない。そうしなければあの夢のために自分に向いて来た幸福《しあわせ》を、自分一人占めにする事は出来ないのだと、恐ろしい覚悟を定《き》めてしまいました。けれども紅木公爵も公爵夫人も、こんな悪い女が似せ紅矢となって、今眼の前に寝ていようとは夢にも知りませぬ。只思いもかけぬ吾が児の大怪我に気も狂う程驚き慌てまして、一体どうしてこんな事になったのかと言葉を揃えて尋ねました。
 似せ紅矢の美留藻はこの言葉を待ちかねて、紅矢の声色を使いまして、さも苦しそうな呼吸《いき》の下から、「何卒《どうぞ》皆の者を遠ざけて下さい。只御両親だけ御残り下さい。他人に聞かれてはよくない事で御座いますから」と申しました。そうして両親と差し向いになりますと、美留藻はさも痛々し気に床の上に起き直りまして、両手を支《つか》えて、繃帯の間から涙をポロポロと落して見せました。
 両親は益々驚き周章《あわ》てまして左右から、
「お前はどうしたのだ。訳を云わずに泣いたとて訳が解からんではないか。どういう訳で涙を流すのだ。これ。紅矢。早く聞かせてくれ。心配で堪《たま》らない。ええ、紅矢」
 と問い詰めました。この様子を見て美留藻は、先《ま》ず占《し》めた、両親は飽《あ》くまで自分を紅矢と思っていると安心しました。そしてなおも弱り切った声で――
「実は私は御両親に今日只今まで、固く御隠し申していた事が御座います。けれども最早|斯様《かよう》になりましては到底《とても》御隠し申す訳に参りませぬ故、すっかりお話し致します」
 と申しましたが、これから濃紅姫が王様をお慕い申し上げていた事を初めとして、今度王様が御自身で濃紅姫を妃に迎える約束を遊ばしながら、又御自身でその約束をお破り遊ばした上に、今から一週間の後《のち》に他《た》の女と一所にお目見得に出せと仰せられた事、自分は余りの切なさに夢中になって「瞬」に乗って駈け出した事、それからその夜《よ》の内に多留美の湖の傍まで行って帰りがけ、只《と》ある橋の上で馬が躓《つまず》いたために落ちて怪我をした事など、有る事無い事、紅矢から聞いた話に添えて、詳しく話して聞かせました。
 両親は聞く事毎に驚く事ばかりでした。そうして事情《わけ》はすっかり解かりましたが、その中で濃紅姫を他の女と一所にお目見得に出す事だけはあまりに情ない浅ましい事で、殊に都合よく御妃になる事が出来れば兎も角も、もし間違って王様の御気に入らないような事があると、これ位|恥辱《はじ》な事はないからと云って、両親は容易《たやす》く承知致しませんでした。
 併し美留藻の似せ紅矢はここが大切なところと思いまして、一生懸命になって濃紅姫の容色《きりょう》を賞め千切って、仮令《たとい》どんな女が来ても妹以上に美しい女は居ないから大丈夫だ。それに藍丸王様も今は濃紅姫の美しさをお忘れになったから、あのような菅無《すげな》い事を仰せられたのであろう。けれども又今度御覧になれば、屹度昔のように御気に入るに違いない。そしてもし濃紅姫がお目見得に出ないために、他の賤《いや》しい女がお妃になるような事になると、かえって王様に対して恐れ多い事になる。だから濃紅姫が今度のお目見得に出るという事は、十方八方のために大層都合のよい大切な事で御座いますと、さも苦しそうな呼吸《いき》の下からあらん限りの言葉を尽して勧めました。
 両親も聞いて見れば成る程|道理《もっとも》ですから、一つは濃紅姫の可愛さと親の贔負目《ひいきめ》で、やっとの事それに定《き》めて両親揃って濃紅姫の室《へや》へ相談に出かけました。
 そのあとへ青眼先生が、女中の案内を受けて大急ぎで遣って参りました。先生は今まで宮中より他にはどこにも行った事がなく、この家に来たのはこれが初めてで、宮中に来る紅木大臣と紅矢の他は一度も会った事のない人ばかりでしたから、一々皆に叮嚀に挨拶を致しましたが、只美紅姫だけは自分の室《へや》に隠れていて、姉様《ねえさま》の濃紅姫が呼んでも出て来ませんでした。
 美紅姫は青眼先生が来たと云う声を聞くや否や、もしやあの夢の中の怖いお爺さんではあるまいかと思ったので御座います。そうしてもしそうなれば、今の自分の身の上はどこからが夢でどこからが本当だかいよいよ解からなくなる。いよいよ不思議に恐ろしくなる。何にしても青眼先生という人が、あのお爺様かどうか見て見なければわからないと思いました。けれどももし真正面《まとも》に顔を合わせて、又悪魔と間違えられでもしては大変と思いましたから、そっと扉に隙間を作ってそこからそっと眼ばかり出して様子を見ておりました。
 その前を通る青眼先生の顔を一眼見ると、美紅姫は思わずアッと声を立てるところでした。その肩まで垂れた青い髪毛《かみのけ》、その青くて鋭い眼付、青い髯《ひげ》、黒い顔色、そうしてその黄色い着物、皆あの夢の中のお爺さんにそっくりそのままで、歩きぶりまで違ったところはありません。美紅姫は恐ろしさの余り身体《からだ》中の血が凍ったように思いました。
 そうして慌てて扉を閉じて、内側から鍵をしっかりとかけて、ほっと一息安心すると、そのまま気が遠くなって、床の上に倒れてしまいました。けれども家中は今、上を下へと混雑しているところでしたから、気の付く者は一人もありませんでした。
 ところが似せ紅矢の美留藻も青眼先生の顔を見ると、同じように慄《ふる》え上る程驚きました。そうしていよいよあの夢が嘘でない事が解かりましたが、それと一所に青眼先生の眼付が如何《いか》にも鋭くて、もしやあの夢の中であの銀杏《いちょう》の葉を容《い》れた袋の底を鋏《はさみ》で切り破った女が自分だという事が繃帯の上からわかりはしまいかと心の中《うち》で恐れた位でした。けれども又よく考えて見ると、青眼先生がもしあの美紅姫を一眼でも見ていれば、妾《わたし》より先に姫を疑う筈なのに平気でこの家に遣って来るところを見ると、青眼先生はこの家に初めて来たので、まだ美紅姫の顔を見た事がないのかもしれぬ。それとも初めからあの夢を見ないのであろうか。イヤイヤそんな筈はない。美紅姫があの夢を見たように、この青眼先生も、それからあの白髪の乞食小僧も屹度あの夢を見たに違いない。それでなければ理屈が合わなくなる。そしていよいよ見たか見ないかは、そのうちに美紅姫とこの青眼先生と出会わして見ればわかる事だ。とにかく今のところではこの青眼先生はまだ一度も美紅姫と顔を合わせず、又自分が似せ紅矢という事も気が付かずにいるに違いないと、ほっと安心をして気を落ち付けました。
 けれども青眼先生の方はそんな事は露程も気が付きませぬ。徐《しずか》に進み寄って美留藻の似せ紅矢に敬礼をしまして、それから先ず脈を見ましたが何ともないので、これならば死ぬような事はあるまいと安心をしました。ところがその次に顔の繃帯を取ろうとしますと、似せ紅矢は無暗に痛い痛いと金切声をふり絞って、どうしても繃帯に触らせませぬ。青眼先生は仕方なしに、薬籠の中から油薬を出して、繃帯一面に浸《し》ませて、こうやっておけば直《すぐ》に痛くないように繃帯が取れるであろう。それからこの薬は一滴程|嘗《な》めておくと一週間眠り続ける事が出来る薬だ。その間には大抵痛みも取れるであろうから、あとであまり痛みが烈しいならば、飲ましておくがよいと云って、小さな瓶《びん》を一ツ病人の枕元に置いて行きました。
 青眼先生が帰ってから暫くの間、美留藻は痛みが取れたように見せかけてスヤスヤと眠っておりました。ところがやがて正午《ひる》頃になって、看病のために残っていた女中が一寸の間居なくなりますと、美留藻は急にむっくりはね起きて、枕元の眠り薬の瓶を取るが早いか、又|室《へや》の窓から飛び出して、裏手の廏《うまや》へ来て馬丁を呼んで「瞬」を引き出させました。そうして怪我が急に痛くなったから青眼先生の処へ行くのだと云い捨てて、ヒラリと鞍に飛び乗るが早いか、裏門から一目散に逃げ出しました。

     十六 金剛石

 美留藻は紅矢の家を逃げ出しますと、先ず一番に仕立屋に行って着物を受け取りまして、賃《だちん》には一粒の大きな金剛石《ダイヤモンド》を投《ほう》り出して来ました。
 その次には帽子屋、その次には靴屋、その次には剣屋と、それぞれ尋ねてまわって、品物を受け取って、代金には皆宝石を一粒|宛《ずつ》、髪毛《かみのけ》の中から摘《つま》み出して与えましたが、それから都の大通りを驀然《まっしぐら》に南に走りますと、暫《しばら》くして向うから美留藻の脱《ぬ》け殻《がら》のお婆さんの着物を着て、喘《あえ》ぎ喘ぎ走って来る紅矢に出会いました。すると美留藻は乱暴にも、突然《いきなり》馬を紅矢に乗りかけて、逃げる間もなく踏み蹂《にじ》り蹴散らして、大怪我をさせてしまいました。そうして全く呼吸《いき》が絶えて、うつ伏せに倒れたのを見澄まして引き返して来て、助けて行く風をして馬の上に抱《かか》え乗せて、只《と》或る森の中へ這入りました。
 そこで美留藻は自分の顔の繃帯を取って、紅矢の血まみれの顔をすっかり包んでしまいまして、それから今まで借りていた紅矢の着物を返して旧《もと》の通りに着せて、自分は新しい男の着物を着込んで、お婆さんの着物は打《う》っ捨《ちゃ》ってしまいました。
 こうしておいて、美留藻はグタリとなった紅矢を、又もや「瞬」の上に抱え乗せて、再び都へ一散に駈け上りましたが、今度は王城の西の大銀杏の樹を目標《めあて》に、青眼先生の門の前に来まして、紅矢を馬の上から突き落し、自分はキャッと叫びながら馬から飛び降りると、そのまま素早くどこかへ逃げて行ってしまいました。
 あとに残された名馬の「瞬」は畜生の事ですから何事も知っていよう筈がありませぬ。けれども今自分の背中から落っこちたものを見ますと、自分の主人の紅矢ですから、畜生ながら気にかかると見えまして、しきりに紅矢の身体《からだ》を嗅ぎながら、ぐるぐる歩きまわっていましたが、やがて首を擡《もた》げて高く悲し気に嘶《いなな》きました。
 最前から青眼先生の家へは、紅矢の家から引っ切りなしに使いが来て、紅矢はまだ来ぬかまだ来ぬかと尋ねていました。そのお使いから詳しい様子を聞いて、青眼先生はどうしたことであろうと立っても居てもおられず心配をしているところへ、不意に表の門の前で馬の嘶《いなな》き声が聞こえましたから、もしやと思って駈け出して見ますと、こは如何に、紅矢は銀杏の樹の根元に血まぶれになって倒れていて、傍には「瞬」が心配そうにうろうろしています。
 青眼はこの有様を見て、腰を抜かさんばかりに驚きましたが、兎《と》も角《かく》も紅矢の家から使いに来たものに頼んで、二人で紅矢を自分の寝台《ねだい》に運び入れて、すっかり裸体《はだか》にして血を拭い清めて、傷口を調べて見ますと、案外に傷は浅くて、ここ一週間も経ったら癒《なお》りそうです。只胸と頭を非道《ひど》く打ったと見えまして、全く気絶して呼吸も通わず、脈も打たず、身体《からだ》は氷のように冷たくなって、唇は紫色になっていました。けれどもお使いの者が「瞬」に乗って帰って、取るものも取り敢えず紅矢の両親を連れて来ました時には、紅矢は青眼先生の上手な介抱と、良い薬の利き目とで呼吸《いき》を吹き返して、スヤスヤと静かに眠っていました。
 これを見ると両親は、又もや一人小供が生れたように喜んで、嬉《うれ》し泣きに泣きました。そうして今更に青眼先生の介抱の上手なのに感心をしまして、紅矢のみならず私共の生命《いのち》の親と云って深く深く御礼を申しました。

     十七 銅の壺

 紅矢はその夜家の者に担《かつ》がれて、自分の家に連れて行かれましたが、大層熱が高くて平生《いつも》の自分の寝床に寝かされても、まだ夢中でうんうん唸《うな》っておりました。そうしてその夜は夜通し囈言《うわごと》ばかり云っていましたが、時々眼を開いて両親や妹共の顔を見るかと思うと、忽ち狂気のように騒ぎ出しまして――
「この室《へや》へ這入っちゃいけない……お父様も……お母様も妹共も……家来共も皆いけない。聞け……聞け……私は悪魔に咀《のろ》われている。悪魔の果物。悪魔の美紅。そうして悪魔の『瞬』……七ツの果物は悪魔の数《すう》であった。……私は七ツの数《すう》に咀われた。悪魔の美紅に欺された。悪魔の『瞬』に踏み蹂《にじ》られた。吁《ああ》恐ろしい。……嗚呼《ああ》苦しい。お父様……お母様……妹共……危い危い。私の傍に居ると危い。悪魔は娘の美紅に化けている。そうしてあの悪魔の乗り移った『瞬』に乗って今にもこの窓から駈け込んで来たら……危い危い。出て行って下さい。妹共、出て行け。一人も私の傍へ居ちゃいけない。早く早く」
 と叫ぶかと思うと、又ガックリと枕に頭をのせて、うとうと睡《ねむ》ってしまいました。こんな事が夜通しに二三度もありましたが、傍に居る人々は何の事やら訳が解からずに、唯《ただ》驚き慌てるばかりでした。そうして何は兎《と》もあれ用心のために、お母様や妹共をこの室《へや》から遠ざけまして、お父さんとその他にも一人、気の強い、力も強い家来の黒牛《くろうし》という者と二人で枕元に居る事にしまして、一方は、廏屋《うまや》の馬丁《べっとう》に申しつけて、『瞬』を厳重に柱に縛り付けて動かぬようにして、その上に番人を二人までもつけておきました。
 翌る朝になりますとまだ薄暗いうちに、青眼先生が見舞いに来ました。紅矢の両親や家《うち》の人々はもう昨夜《ゆうべ》から心配に心配を重ねて、夜通しまんじりともせずに先生が来るのを待ちかねていたところでしたから、先生の顔を見るとまるで神様がお出でになったように前後《まえうしろ》から取り付きまして、昨夜《ゆうべ》からの事をすっかり話しました。すると青眼先生はどうした訳か、見る見るうちに顔色が変って、唇がぶるぶると震えて来ましたが、やがて思わず――
「七ツの悪魔。七ツの悪魔。そんな筈はない。そんな筈はない」
 と口走りました。けれども皆から、どうかしてこの紅矢の不思議な病気を助ける工夫はないかと責め立てられますと、いよいよ何だか恐ろしくて堪らなくなった様子で、歯を喰い締め眼を見張ったまま天井を睨《にら》んで立っていました。併しやがて先生はほっと一息深いため息をしながら皆の顔を見まわして申しました――
「はい、承知致しました。もし悪魔が、私の知っている悪魔で御座いましたならば、屹度退治して差上げまする。けれども私の考えではこれは悪魔の仕業ではないと思います。私は悪魔の居所《いどころ》をよく存じておりますから」
「そしてその悪魔とはどんな悪魔ですか」
 と紅木大臣は言葉せわしく尋ねました。青眼先生はこの問いを受けると又ハッと驚いた様子でしたが、やがて又何喰わぬ顔をして答えました――
「ハイ。その悪魔は世にも恐ろしい悪魔で、誰でもその悪魔の名前だけでも聞くと直ぐに悪魔に乗り移られて、自分が悪魔になってしまうので御座います。ですからその名前は申し上げられませぬ」
「では貴方はその名をどうして御存じですか」
 紅木公爵夫人がこう尋ねますと、青眼先生はグッと行《ゆ》き詰《つ》まりました。そうしてさも苦しそうに返事をしました――
「それは私だけはその名前を聞きましても、又その姿を見ましても何ともないので御座います」
「まあ。不思議ですね。何か悪魔に乗り移られないいい工夫でも御座いますのですか」
「ハイ。それはあります。けれどもそれは私の家の先祖代々の秘密で、今申し上げる事は出来ませぬ。私の家は代々この秘密を守って、そして彼《か》の昔からの掟――人の姿を盗む者。人の声を盗むもの。人の生血《いきち》を盗む者。この三ツは悪魔である。見当り次第に打ち殺せ。打ち壊せ――という言葉を国中に広く伝えるのが役目で御座います」
「そうだそうだ。皆そんな掟が在ったという事を聞いた。それで思い出した。今美紅の姿を盗んでいる奴は悪魔に違いない。何卒《どうぞ》青眼先生、是非その悪魔を退治て下さい。貴方は病気の事ばかりでなく悪魔の事までも詳しく御存じだ。何卒《どうぞ》何卒御頼みします」
 と紅木大臣は青眼先生の手を握って涙をこぼしながら頼みましたが、これを聞いていた他の者は皆真青になりまして、扨《さて》はいよいよ本当の悪魔が、紅矢様を狙っているのかと恐れ戦《おのの》いておりました。
 青眼先生は承知したという印に胸に手を当て、敬礼をしました。そうして静かに紅矢の室に這入って、病人の様子を見ましたが、すっかり見てしまいますと、青眼先生は、ほっと安心した様子で皆に向って――
「皆様、御安心下さいまし。紅矢様の御病気は矢張り私の思い通り普通の怪我で、決して悪魔が狙っているのでは御座いませぬ。その御怪我も、只今は余程よくなっておいでになって、遠からず起きてお歩きになれる事と思います。けれどもなお用心のために、皆様は今までの通り、充分御気を附け遊ばして、御介抱なさるが宜《よろ》しゅう御座いましょう」
 と申しました。そうして皆に挨拶をして悠々と家《うち》に帰って行きました。
 けれども青眼先生は紅木大臣の家の門を出ると直ぐに、腕を組んで頭をうな垂れて、何かしきりに考えながら歩き出しました。そうして口の中で絶えず――
「悪魔。悪魔」
 と繰り返して行きました。やがて自分の家《うち》の門の前に来ますと、青眼先生は立ち止まって、矢張り腕を組んだままじっと門の前の銀杏の樹を見上げました。
 銀杏の樹は最早すっかり葉が落ちてしまって、晴れ渡った大空に雲のように高く枝を拡げておりました。青眼先生は暫くその梢を見上げていましたが、やがて又眼を落してその根元を見ました。根元には黄色い葉がまだ腐らずに重なり合っています。そこをじっと見ていた青眼先生は、何か決心したらしく、独りで大きくうなずいて四方をグルリと見まわしましたが、人間は愚か猫一匹も通らない様子で、只前を流るる川の水音ばかりがサラサラと聞こえていました。この様子を見定めると青眼先生は又何かうなずいて、急いで門の中に這入って行きましたが、やがて又出て来たのを見ると、肩に一梃の鍬を荷《にな》えておりました。
 何を為《す》るのかと思うと先生は、又一度あたりの様子を見渡して、誰も通らないのを見澄まして銀杏の根方に立ち寄って、積った葉を掻き除《の》けると、切々《せつせつ》そこを掘り初めました。そして四五尺も掘ったと思うと、一枚の鉄の板が出て来ました。
 青眼先生がその板の端を鍬の先でやっと引き起こしますと、その下は石の箱になっていて、中には余程大切な秘密のものでも入れてあるらしい、真鍮の帯で厳重に封をした、銅《あかがね》の壺が一ツ置いてありました。けれどもその周囲《まわり》には、太い頑固な銀杏の根っ子が、幾重にも厳重に取り巻いていて、中々鍬の一梃や二梃持って来ても掘り出す事は出来そうに見えませんでした。まるで銀杏の樹がこれは俺のものだ。誰にも渡す事は出来ないといって、確《しっか》り掴んでいるようです。青眼先生はこれを暫く見つめていましたが、やがてほっと一息安心をした様子で、
「先ず大丈夫。この塩梅《あんばい》ならば残りの四ツの悪魔はまだ、あの壺の中から逃れ出していない。今のところではあの鏡と鸚鵡と、それからまだ現われて来ない宝蛇の三ツだけは退治ればよいのだ。それにしても宝蛇はどこに隠れているのであろう。そしてどこから現われて来るのであろう。心配な事ではある。もしや事に依ったらば紅矢様を狙っているものは宝蛇ではあるまいか。もしそうならばいよいよ油断がならないぞ」
 と独り言を云いながら、じっと王宮の方を睨んでおりましたが、やがて又気が付いて、急いで壺の上に土を被《かぶ》せて、銀杏の葉を撒き散らして、あとをわからないようにしておきました。

     十八 氷と鉄

 その日も無事に過ぎて翌る朝になりますと、紅矢の家から又もや急な使いが来て、青眼先生に大急ぎで来てくれとの事でした。先生は取るものも取りあえず直ぐに駈け付けて見ますと、昨夜《ゆうべ》夜通し寝ず番をした紅矢のお父さんと黒牛とが、玄関に出迎えていまして、両方から手を引いて、紅矢の寝床へ案内をしました。そうしてそこの椅子に腰かけさせまして、暫く黙って紅矢の様子を見ていてくれと頼みました。青眼先生は愈々《いよいよ》不審に思って、一体これはどうした事と怪しみながら、頼まれた通りにじっと紅矢の寝顔を見つめていますと、やがて紅矢は頬の色を真青にして、火のように血走った両方の眼をパッチリと開きました。そうして天井を睨《にら》みながら身もだえをして、
「昨夜《ゆうべ》来た、悪魔が来た。美紅姫にそっくりの悪魔が男子の着物……紫の髪毛《かみのけ》……銀の剣《つるぎ》……金剛石《ダイヤモンド》の鈕《ぼたん》……窓から白い手を出して……手には美しい宝石の紐《ひも》を持って……その紐を投げ付けた。
 お父さんも眠っていた。黒牛も眠っていた。
 私だけ知っている。悪魔だ。悪魔だ。この間の悪魔だ。おのれ悪魔。もう一度来い。今後は逃《の》がさぬぞ。この繃帯を解いてくれ。この蒲団《ふとん》を取ってくれ。早く。早く」
 と叫びましたが、やがて又疲れたと見えてグタリと横になって、ウトウトと眠り初めました。
 この様子を見た青眼先生は又もや腰を抜かさんばかりに驚いたらしく思わず――
「ム――ム。悪魔……」
 と叫びましたが、有り合う椅子にドッカと腰を下して、眼を閉じ口を一文字に結んでさも口惜《くや》しそうに――
「宝蛇だ。宝蛇だ。扨《さて》は自分の思い通りであったか」
 と独り言を云いました。
 傍に居た人々は両親を初め皆、いよいよ不思議な青眼先生の言葉や行いに驚いて、一体これはどうした訳であろうと怪しみました。そうして黙って考え込んでいる青眼先生の、物凄い顔付きを穴の明く程見つめていました。すると青眼先生は間もなく考《かんがえ》が付いたと見えまして、眼をパッと開いて――
「よし。覚悟した。私はどうしてもその悪魔の正体を見届けずにはおかぬ」
 と申しました。
 それから青眼先生は紅木大臣夫婦に、今夜からは自分一人で夜伽《よとぎ》をして、悪魔の正体を見届けたいから、何卒《どうぞ》自分に任せて下さるようにと熱心に願いました。両親はこの頼もしい青眼先生の言葉を聞きますと、何で否《いな》やを申しましょう。直ぐに承知を致しまして、青眼先生を只一人この室《へや》に残して引き取りましたが、なお念のため家の周囲《まわり》には、力の強い勇気のある家来を大勢配って、油断なく見張らせるようにしました。
 青眼先生は、室《へや》の中に一人も居なくなりますと、やおら立ち上ってそこらを見まわしましたが、この室は扉を締めておきさえすれば、あとは只窓一ツしか無く、他に出入りする処はありませんから、悪魔は屹度あの窓から這入って来たに違いないと思いました。青眼先生はこれを見定めて、なおもその窓の外をよく見ようと思って、不図窓の縁に手をかけますと、その隅の処に妙なものを見つけました。それは三粒の美しい紅玉《ルビー》でした。
 青眼先生はこの世の中にありとあらゆるもので知らぬものは無く、殊に宝石の事は詳しく知っていましたから、この三粒の紅玉《ルビー》を一目見ると、直ぐに、これは世にも稀《まれ》な上等飛び切りの紅玉《ルビー》で、当り前の者が持っているものではないと思いましたが、扨《さて》誰が何のためにこんな処に置いているかという事は全くわかりませんでした。只《ただ》もしかすると、これは悪魔が何かのためにした悪戯《いたずら》かも知れぬ。それならばなるべくいじらぬ方がよいと思って、そっくりそのままにしておきました。
 その中《うち》に夜はだんだん更《ふ》けて来ましたから、青眼先生は眠られぬ薬を飲みまして、只一人紅矢の枕元に椅子を引き寄せて座りました。そうしてその懐中《ふところ》には、悪魔を見たらば直ぐにも注ぎかけるために、別に一ツの薬瓶を用意して、その夜《よ》夜通しまんじりとも為《せ》ずに過ごしました。その薬は一寸でも身体《からだ》にかかると、直ぐに身体《からだ》中の血が氷になってしまうという恐ろしい毒薬でした。けれどもその夜は何事も無くて済みました。その次の夜《よ》も次の夜《よ》も無事に明けました。いよいよ明日《あす》は宮中でお目見得の式があるという晩になると、その間|家《うち》中は濃紅姫の身支度で大変な騒ぎで御座いましたが、すっかり支度が済みますと、姫はこの家の一番の奥の石の神様を祭ってある大広間の真中に、寝台《ねだい》を置いてその上に寝かされて、その周囲《まわり》には四人の家来が代り番に寝ずの番をしておりました。これは姫の身体《からだ》に万一の事が無い用心です。
 両親はこの様子を見て安心をして自分の室《へや》に引き取りました。美紅姫もその枕元に来て――
「お姉様、お寝《やす》み遊ばしまし」
 と云って、あとを見返り見返り出て行きましたが、その顔は云うに云われぬ悲しさに満ち満ちていました。これを見ると濃紅姫は――
「ああ、美紅姫と一所にこの家《うち》で眠《ね》るのもこれがおしまいになるかもしれぬ。美紅はそれで泣いているのであろう。何という悲しい事であろう」
 と思いながら美事な香木で作った格天井《ごうてんじょう》を見ていましたが、熱い熱い涙が自《おの》ずと眼の中に溢れて、左右にわかれて流れ落ちました。その時にこの広い宮中はひっそりと静まり返って、針の落ちる音までも聞こえる位でした。
 この時青眼先生は只一人紅矢の枕元に座って、毒薬の瓶《びん》を懐《ふところ》に入れたまま、最早《もう》悪魔が来るか来るかと待っていました。けれども夜中過ぎまでは何事も無く、只紅矢の苦しい呼吸の音が、夜の更けると一所に静まって行くばかりでした。ところが真夜中が過ぎて、やがて夜が明けようかと思わるる頃になりますと、庭のどこからか歌を唄う女の美しい声が聞こえて来ました。
「紅矢は顔を見た。
 悪魔の顔を見た。
 悪魔の顔を見たものは
 殺されるのが当り前。

 妾《あたし》は悪魔。妾は悪魔。
 屹度紅矢を殺すぞよ」
 その声は、青眼先生がどこかで一度聞いた事のある声のように思いましたが、この時はどうしても思い出せませんでした。この声を聞き付けますと、紅矢は忽ち眼を見開き、頭を擡《もた》げて――
「あの声。あの声。悪魔のこえ。妹の美紅の声」
 と叫びました。
 青眼先生は直ぐに窓から飛び出して、声のする方に駈け出しました。そうして片手を罎《びん》の栓へかけて、出会い頭《がしら》に毒薬をふりかけてくれようと、血眼《ちまなこ》で駈けまわりましたが、不思議や悪魔はどこへ行ったか影も形も無く、只|霜風《しもかぜ》が身を切るように冷たくて、大空には星の光りが降るように輝いているばかりでした。
 青眼先生は何だか狐に抓《つま》まれたような気がして、呆然《ぼんやり》と立っていました。けれどもその中《うち》に又不図これは悪魔の計略《はかりごと》だなと気が付いて、急いで紅矢の室《へや》に帰って見ますと、こは如何に。紅矢は何を為《し》たのか、布団の中から身体《からだ》を半分脱け出しまして、呼吸《いき》をぜいぜい切らして、眼を怒らして、歯を喰い締めて、窓の外を睨んでいます。そうして左の手には何か固いものを一ツ、しっかりと握り込んでいる様子です。青眼先生はハッとしまして、扨は悪魔は自分を誘い出しておいて、又もや紅矢を苦しめに来たのだなと気が付いて、急いで紅矢の傍へ寄って――
「紅矢様。若様。どう遊ばしたので御座います。悪魔がここへ参りましたか。そうしてどちらへ逃げて行きましたか」
 と尋ねました。けれども紅矢はそれには返事を為《せ》ずに――
「悪魔。悪魔|奴《め》。美紅の悪魔奴、取り逃がしたか」
 と叫びました。そうして又がっくりとうしろに倒れますと、どうでしょう。この間から窓の処に置いてある紅玉《ルビー》と同じ位に美しい、同じ位の大きさの紅玉《ルビー》が一掴み程、バラバラと寝台《ねだい》から転がり落ちて、床の上で血のような光りを放って散らばっているではありませぬか。この様子で見るとこの紅玉《ルビー》は、紅矢の妹共が忘れて行ったものでも何でもなく、全く悪魔が何かのために置いて行ったものに違いないと思われました。青眼先生は一寸の猶予《ゆうよ》も無く両親を呼んで紅矢の番を為《さ》せました。そうして自分は有り合う提灯に火を灯《とぼ》して、窓の外へ出まして、そこらをよく検《あらた》めて見ますと、石畳のあすこここに、一粒か二粒|宛《ずつ》紅玉《ルビー》が落ちています。青眼先生は占めたと思いまして、なおも提灯を地面にさし付けて、紅玉《ルビー》を探しながら、だんだんと跡を付けて行きますと、その跡は一間《ひとま》置いて隣りの室《へや》の窓の下に来て止まっています。そうしてその窓掛けの間からは薄い黄色い光りが洩れていました。
 青眼先生はこの室《へや》が美紅の室《へや》という事をかねてから聞いておりました。けれども中を覗いた事は一度もありませんでした。ですから直ぐに提灯の火を吹き消して、その窓からそっと中を覗いて見ました。
 窓の中の有様を一眼見るや否や青眼先生は思わず棒のように立《た》ち竦《すく》んでしまいました。窓の直ぐ傍の寝台《ねだい》の上には一人の美しい少女が寝ております。その顔。その姿。それから寝台《ねだい》の左右に垂れた髪毛《かみのけ》の色から縮れ工合まで、あの夢の中で、自分の背中の銀杏の葉の袋を切り破った女の子に一分一厘違いないではありませぬか。
 青眼先生は暫くの間は、あまりの不思議に呆気《あっけ》に取られて、茫然《ぼんやり》と少女の寝顔に見とれておりましたが、やがてほっと大きな溜息をつきますと、何やらぐっとうなずきまして、震える手で窓をそっと押して見ますと、訳もなくスーッと左右に開きました。そこからそろそろと音を立てぬように中に這い込んだ青眼先生は、床の上に下りると直ぐに、毒薬の瓶の口を切って右手に持って身構えをして、丸|硝子《ガラス》の行燈《あんどん》の薄黄色い光りに照された少女の寝顔を又じっと見入りました。
 見れば見る程美しい少女の姿。夕雲のように紫色に渦巻いた長い髪毛《かみのけ》。長い眉と長い睫毛《まつげ》。花のような唇。その眼や口を静かに閉じて、鼻息も聞こえぬ位静かに眠っている姿。見ているうちにあまり美しく艶《あで》やかで、何だかこの世の人間とは思われぬようになりました。けれどもなおよくあたりを見まわすと、その髪毛《かみのけ》の中や枕のまわりに一粒か二粒|宛《ずつ》、紅矢の枕元に在ったのと同じ位の大きさの紅玉《ルビー》が散らばっているではありませんか。
 青眼先生はこれを見ると思わず声を立てて――
「悪魔」
 と呼びました。
 この声を聞くや否やその少女は直ぐにむっくりはね起きて、青眼先生の顔を一眼チラリと見ましたが、忽ち物凄い形相《かおかたち》になって――
「あれッ。青眼先生……妾《あたし》は美紅です。この家《うち》の娘です。悪魔ではありません」
 と叫びながら紫の髪毛《かみのけ》をふり乱し、紅玉《ルビー》を雨のようにふり散らして、物をも云わず窓から逃げ出そうとしましたが、最早《もはや》遅う御座いました。青眼先生が注ぎかけた薬が身体《からだ》のどこかへ触《さわ》ると直ぐに、身体《からだ》中の血が氷になって、寝台《ねだい》の上にドタリと落ちて、見る見る内にシャチコばってしまいました。
 青眼先生はこれを見ると、ほっと一呼吸《ひといき》胸を撫《な》で下しましたが、なおじっと気を落ち付けて動悸を鎮めて、それから死骸の傍へ寄ってよく周囲《まわり》を検《あらた》めて見ました。そうしていよいよ死んだという事をたしかめてから、薬瓶の仕末をして懐《ふところ》に入れて、又こっそりと窓から出て行きましたが、もしや今の叫び声が聞こえはしなかったかと思いながら、急いで紅矢の室に帰って見るとこは如何《いか》に! 紅矢の容態は一寸居ない間《ま》に急に悪くなって、今にも呼吸《いき》を引き取る様子です。そうして固く握り詰めた左手の拳を千切れるばかりにふりまわしながら、囈言《うわごと》のように切れ切れに――
「口惜《くや》しい。口惜しい。悪魔。美紅」
 と云っています。
 その枕元に集まって泣きながらどうなる事かと心配をしていた紅矢の両親は、青眼先生が帰って来たのを見ると一時に走り寄って――
「助けて下さい。助けて下さい。紅矢を助けて下さい」
 と口々に叫びながらその袖に縋《すが》りました。
 流石《さすが》の病人に慣れた青眼先生も、これには驚き慌てまして、紅矢の左の手に飛び付いて、一生懸命こじ明けようとしましたが、どうして梃《てこ》でも動かばこそ、かえってだんだん強く握り締めるために、拳固が紫色から黒い色に変って行きます。青眼先生はいよいよ驚き慌てまして――
「失策《しま》った、失策った」
 と叫びながら、懐から鋭い小刀《ナイフ》を出して、その腕を黒くなった処から切り落そうとしました。これを見た両親はいきなり青眼先生の腕を捕えて引き離しながら――
「ナ、何をするのです。何をするのです」
 と叫びました。
「エエ。お放し下さい。今切らなければ鉄になりますぞ。紅矢様は鉄になってしまいますぞ。ハ……放して下さい」
「エエッ。鉄になる……」
 と両親は肝を潰して、青眼先生を放しました。
 先生は直ぐに紅矢の腕に取り付いて、二の腕の処に小刀《ナイフ》を突き立てて、ギリギリと引きまわしましたが、何の役にも立ちませんでした。骨でも肉でも豆腐のように切れる鋭い小刀《ナイフ》も、まるで鉛か銀のように和《やわ》らかく曲がり折れて、疵痕《きずあと》さえ付ける事が出来ません。その間《ま》に見る見る紅矢の身体《からだ》は腕から肩へ、肩から腕へと紫色が鈍染《にじ》み渡って、やがて眼を怒らし、歯を喰い締めて虚空を掴んだまま、身体《からだ》中真黒な鉄の塊となってしまいました。
 この恐ろしい不思議な死に態《ざま》を見た紅矢の両親は、足の裏が床板に粘り付いたように身動き一つ出来ず、涙さえ一滴も落ちませんでした。
 青眼先生も最早手の附けようもなく、紅矢の死骸を見詰めたまま、呆然《ぼんやり》と突立っていました。そうして独り言のように――
「身体《からだ》が鉄になる
 身体が鉄になる。
 見た事もない。
 聞いた事もない。
 悪魔の為業《しわざ》か。
 鬼の悪戯か。
 不思議。不思議。驚いた驚いた」
 と云っておりました。
 その中《うち》に東の空はほのぼのと明け渡って、向うの庭の枯れ木立の間から眩しい旭《ひ》の光りが、この室《へや》の中へ一パイに映《さ》し込みました。そうして大理石のように血の気が無くなったまま立ち竦んでいる三人の顔をサッと照しました。けれども三人は瞬《またたき》一つ為《せ》ず、身動き一つ出来ず、只黒光りする鉄の死骸の、虚空を掴んだ恐ろしい姿を、穴の明く程見つめて立っていました。
 するとはるか向うの丘の上に在る王宮の中から、美しい音楽の響《ひびき》が、身を切るような霜風《しもかぜ》に連れて吹き込んで来ました。それは今日宮中でこの国から選《よ》り抜いた、美しい賢い少女のお目見得をするという、世にも珍らしい儀式が初まるその前知らせでした。
 その時、二人の女中が来て室《へや》の入口で叮嚀に頭を下げました。その一人は静かな低い声で――
「濃紅姫のお支度が済みました。只今食堂で御待ちかねで御座います」
 と申しました。ところが今一人はこれと反対に歯の根も合わぬような震え声で――
「美……美紅姫……が……お平常着《ふだんぎ》のままで……寝台《ねだい》の中で……コ、コ、氷のように……冷たくなって……」
 と云う内に床の上に座り込んでワッとばかりに泣き崩れました。
[#改頁]

   第三篇 宝  蛇


     十九 黄薔薇の籠

 濃紅《こべに》姫は昨夜《ゆうべ》夜通し、少しも眠る事が出来ませんでした。この頃自分のまわりに起ったいろいろの不思議な事や、恐ろしい事を考えながら、夜を明かしましたが、併《しか》しずっと奥の部屋に寝ていたのですから、その夜の中《うち》にどんな事が兄様や妹の身の上に起こったかという事は、まるで知りませんでした。そうしていよいよ夜が明けますと、お附の者に扶《たす》けられて湯に這入って、すっかり身体《からだ》を浄《きよ》めてお化粧をしました。先ず髪毛《かみのけ》には香雲木という木に咲いた花の油を注ぎ、白百合の露で顔を洗いました。身には袖の広い裾の長い白絹の着物を着て、上に黒狐の皮の外套を重ね、頭に碼瑙《メノウ》の冠を戴いて、手に黄薔薇の籠を持ちました。そうして足に鹿の鞣皮《なめしがわ》の細い靴を穿《は》いて、いよいよ支度が出来上りまして、これから食堂で皆とお別れの食事を喰べて、それからお伴の女中と一所に馬車に乗って、宮中に行くばかりとなりました。
 するとこの時不意に化粧部屋の扉を開いて中に駈け込んで、驚く間もなく濃紅姫を抱き締めて――
「お前はどこにも遣《や》らない。どこにも遣らない。死ぬまでこうやって抱いている」
 と叫んだ人がありました。それは濃紅姫のお母様でした。
 お母様は今朝《けさ》二人の小供が、世にも恐ろしい不思議な死に方をしたのを眼の前に見て、狂気のようになってしまったのでした。そうしてたった一人あとに残った濃紅姫を、どこにも遣るまいと思って、こうして抱き締めたので御座います。けれども濃紅姫はそんな事は知りませんから吃驚《びっくり》しまして――
「アレ。お母様、どう遊ばしたので御座います」
 と叫ぼうとしましたが、この時遅く彼《か》の時早く、直ぐにあとから今度はお父様が駈け込んでお出でになりました。そうしてものをも云わずお母様から濃紅姫を無理に引き取って、その手をぐんぐん引きながら表へ出まして、用意の出来ている白馬三頭立ての花で飾った馬車へ乗せると、直ぐに馭者《ぎょしゃ》に向って――
「さ。一時も早く王宮へ行け。濃紅。驚く事はない。訳はあとでわかる。それより早く王宮へ行け。お前は紅木公爵の娘だ。決して意久地のない顔をするな。悲しい顔をするな」
 と叫びました。
 馭者は心得て鞭を挙げて敬礼をしながら、手綱《たづな》を取ってしゃくりますと、馬車は忽ち王宮の方へと走り出しました。
 その時狂気のようになったお母様が駈け付けまして――
「あれ、濃紅姫。行ってはいけない」
 と追い縋《すが》ろうとしました。馬車の窓からも濃紅姫が顔を出して――
「お父様。お母様」
 と叫びましたが、お母様の方を紅木大臣が抱き留《と》める……濃紅姫の方は三匹の白馬に引かれて見る見るうちに遠く遠く小さくなって、間もなく馬車のあとから湧き上る砂煙のために隠されてしまいました。
 紅木大臣はいつの間にか気絶している公爵夫人をあとから駈け付けた女中に介抱させて、夫人の室《へや》に連れて行かせましたが、自身は只一人|紅矢《べにや》の室《へや》に這入って行きました。そこには青眼先生が鉄になった紅矢の死骸と氷になった美紅《みべに》姫の死骸とを二つ並べてじっと睨み詰めたまま、枯れ木のように突立っていました。
 紅木大臣は静《しずか》にその傍に歩み寄って、じっと二つの浅ましい死骸の姿を見ておりましたが、やがて今まで堪《こら》えに堪えていた涙が一時《いっとき》に眼に溢《あふ》れて、両方の頬を流れては落ち、流れては落ちました――
「紅矢、美紅……お前達はどうしてそんな姿になったのだ。どんな罪を犯してそんな罰《ばち》を受けたのだ。お父様は今朝《けさ》濃紅姫が家を出る時、たった一目お前等二人に会わせてやりたかった。けれどももし濃紅姫がお前達の姿を見たらば、どんなにか驚くであろうと思って、無理矢理に我慢をした。けれどもこの胸は張り裂けるようであったぞ。許してくれ、濃紅姫。噫《ああ》、妻よ。お前も辛かったであろう。お前の云うのは尤《もっと》もだ。紅矢は鉄になった。美紅は氷になった。残るは濃紅只一人。どこへも遣りたくないのは尤もだ。遣りたくない遣りたくない。けれども遣らねばならぬ。遣るならば両親《ふたおや》が附き添うて、腰元に供《とも》させて、華やかに喜び勇んで遣りたかった。けれどもそれも出来なかった。身内の者が死ねば、その血筋の者はその日|一日《いちじつ》と一夜《ひとよ》の間、宮中へ出られないのがこの国の掟だ。だから紅矢や美紅はまだ生きている事にして、お前を宮中に出そうと思ったが、そのために又|却《かえ》って驚かして、悲しまして、涙と一所に送り出した。
 噫《ああ》、兄は鉄になった。妹は氷になった。あとに残ったたった一人は、花で飾った馬車に乗って女王になるために泣きながら王宮に行った。女王になるのが何の嬉しかろう。王宮が何で楽しかろう。ああ。ああ。俺は気違いになりそうだ」
 その声は次第に高まってしどろもどろに乱れて来ました。とうとう立っていられなくなって、両手を顔に当てたまま床の上に泣き倒れましたが、間もなくよろよろと立ち上って、
「石神に祈ろう。石神に祈ろう。濃紅姫の無事を祈ろう」
 と云いながら室《へや》をよろめき出て行きました。
 あとに残った青眼先生は、矢張り二ツの死骸を見つめたまま立っていました。けれども紅木大臣がこの室《へや》を出ると間もなく、有り合う椅子にドッカと腰を下して、腕を組み眼を閉じてじっと考え込みました。そうしてさも悲しそうに独り言を云いました。――
「噫。やっとわかった。悪魔の逃げ途《みち》がやっとわかった。悪魔はあの銀杏の樹から逃げ出したのだ。この間の夢は正夢であった。美紅姫はたしかにあの夢を見たに違いない。そして王様も御覧になったに違いない。
 そうだ。王様は美紅姫と一所に悪魔に魅入られておいでになるのだ。否《いや》。事に依るとあとの四つの悪魔が……王様の御姿を盗んで……」
 青眼先生はここまで云って来ますと、忽ちブルブルと身ぶるいをして屹《きっ》と王宮の方を眺めました。その顔は見る見る青褪《あおざ》めて、眉を釣り上げ唇を噛み締めました。
 けれどもやがて何かに心付いた事でもあるのか、ホッと深いため息を吐《つ》いて、頭《かしら》を低《た》れて両方の拳を固く握り締めて申しました――
「そうだ。自分はどうしても王様の正体を探り出さねばおかぬ。恐れ多い事ながら、もし今の藍丸王様が本当の藍丸王様でなかったならば……自分は是非本当の藍丸王様を探し出して、それを守《も》り立て、今の藍丸王様を退けねばならぬ。悪魔を退治てしまわなければならぬ。美紅姫のようにしてしまわずにはおかぬ。それにしても宝蛇……この家を咀《のろ》った宝蛇はどこへ行ったであろう。差し当り先ずこれから探り出さねばなるまい。
 気の毒なのはこの家《うち》の人々だ。家《うち》中すっかり美紅姫に魅入った悪魔のために咀われてしまった。そして私はそれを助ける事が出来なかった。私の力が及ばぬとはいいながら二人までも死人を出してしまった。この家の人々は嘸《さぞ》私を怨んでおいでになるであろう。嘸《さぞ》頼み甲斐の無い奴と思っておいでになるであろう。
 けれども仕方がない。その申訳をすればこの国の秘密をすっかり話して終わなければならないのだから。噫、この秘密……誰にも話す事の出来ないこの秘密。焼いて灰にしてあの銅の壺に入れた秘密。そしてそれを番するという、世にも六《むず》ケしい私の秘密の役目。国中の人間を皆殺しても、守らねばならぬ秘密の役目。何という不思議な六ケしい役目であろう。噫、私は何故《なぜ》青い眼に生れたろう。青い髪毛《かみのけ》と青い髯を持った男に生れたろう。最早他に青い毛を生《は》やした青い眼玉の男は一人も居ないかしらん。居たら直《す》ぐに、私はこの大切な秘密の役目を譲ってしまいたい。
 そうして私は毒でも飲んで死んでしまいたい。
 噫。藍丸の国の秘密は灰になった。美紅姫の心の秘密は氷になった。紅矢の拳固の秘密は鉄になった。私の役目の秘密は何になるであろうか。石か。木か。水か。土か。何でもよい。早く青い眼、青い髪の男に出会って、この秘密を譲って、この恐ろしい役目を忘れたい」
 青眼先生の独り言の中《うち》には次第に不思議な言葉が、いくつもいくつも出て来ました。けれどもここまで云って来ました時、青眼先生は唇を閉じてじっと窓の外の遠い処を見ました。そこには絵のように美しい藍丸王の宮殿が見えて、そこから又もや最前よりもずっと賑《にぎ》やかな音楽の響が聞こえて来ました。これはいよいよお目見得の式がはじまるという前兆《まえし》らせでした。

     二十 海の女王

 この日御目見得に来た女は都合六人ありました。その内四人は、東西南北の四ツの国から、一人|宛《ずつ》選《よ》り抜かれて集まった女で、皆|各自《めいめい》の国の自慢の冬の風俗をしておりました。北の国の女は、美事な獺《かわうそ》の皮の外套を着ておりました。南の国の女は、水鳥の毛で織った上衣を着ておりました。東の国の女は、空色の絹の裾を長く引いておりました。そうして西の国の女は、夕陽のように輝やく緋色《ひいろ》の肩掛けを床まで波打たせておりました。この四人は皆四つの国々の中で、一等利口な一等美しいお姫様でしたが、併し他の二人の美しさに比べますと、まるでお月様と亀如《すっぽん》程違っておりました。
 他の二人は濃紅《こべに》姫と美留藻《みるも》でした。
 濃紅姫は、最前家を出た時の通り白い着物の上に黒狐の外套を重ねて黄薔薇の花籠を手に持っていましたが、その何となく悲し気な気高い優しい姿は、他《た》の四人の女達と一所に置くのも勿体ない位に思われました。けれども今一人はこれと違って、大きな金剛石《ダイヤモンド》の鈕《ぼたん》を着けた紫色の男の服に華奢《きゃしゃ》な銀作りの剣を吊るして、頭《かしら》に冠《かむ》った紫色の帽子には白鳥の羽根を只一本|挿《さ》していました。そうしてどうした訳か、その上衣の上から第一番目の鈕は他《た》の金剛石《ダイヤモンド》と違って一輪の大きな白薔薇を付けていましたが、それが又誠によく似合って、眩《まぶ》しい位|凜々《りり》しく華やかに見えました。
 この珍らしいお目見得の式を見に来ていた国々の貴い人々は、皆二人の美しいのに驚いて、神様か人間かと怪しみまして、一体どこにこんな美しい姫君が居たのであろうと怪しみました。けれども又その中に、皆が怪しみ驚いたよりもずっと驚いて、世の中にこんな不思議な事が又とあろうかと、吾れと吾が眼を疑っていた人がありました。それは他でもない濃紅姫でした。
 濃紅姫はこの時までまるで夢中でいたのでした。お母様に抱き締められ、お父様に引き離されて王宮に来て、何が何やら解からず、泣く事も出来ずぼんやり立っていたのでしたが、この男姿の少女を一目見ると、ハッとばかりに驚いて、思わず声を立てるところでした。そうしてこれは本当に夢ではあるまいか。美紅《みべに》はどうしてここへ来ているのであろう。あの姿はどうしたのであろう。もしや妾《わたし》の眼の迷いではあるまいかと思いましたが、併し眼の迷いでも何でもありませんでした。顔色は常よりも紅《べに》をさして、姿も男の着物こそ着ておれ、あの紫に渦巻いた髪の毛。あの屹《きっ》と王様を見詰めている眼付。キリリと結んだ口もと。どうしても美紅にそっくり……これはどうした事であろう。他人の空似にしてはあまりよく似過ぎていると、呆れて穴の明く程その横顔を見ておりました。すると、この時その少女が、六人の中からズカズカと前に進み出て、王様の前に恐れ気もなく近寄りました。そうして帽子を取って最敬礼をしますと、やがて銀の鈴を振るような声で挨拶を致しました。
「王様。妾《わたし》はこの国の南の海の底にある海の国の女王で御座います。この度の王様の御布告《おふれ》を家来の蟹奴《かにめ》から承りまして、御恥かしながら海の底から、はるばると御目見得に参ったもので御座います。妾はこれまで参りますのに、誰も従《つ》いて来る者が御座いませぬから、旅を致すのに都合のよいように、こんな男子《おとこ》の姿を致して参りました。こんな勝手な風采《なり》を致しまして、陸の大王様に御目見得に参りました失礼の程は、何卒《どうぞ》御許し下さいまし。そうして御目見得の印に持って参りました、この宝石の少しばかりを御受け収め下されましたならば、妾はもとより海の底の国人《くにひと》も皆、王様の広い御心に対して、はるかに御礼を申し上げる事で御座いましょう」
 と云いながら、懐中から海の藻の一掴みを出して高く捧げましたが、その中から大きな紫色の金剛石《ダイヤモンド》の光りが虹のように輝き出て、さしもに広い大広間中に照り渡りました。
 集まっていた人たち皆、この有様に眼も心も奪われて、酔うたようになってしまいました。そしてその場でその少女はお后に定《き》まりましたが、又濃紅姫の閑雅《しとやか》な美しさも藍丸王の御眼に留《と》まって、王様のお付の中《うち》で一番位の高い宮女として宮中に置く事に定《き》まり、又|他《た》の四人の女も王様のお側付となって、直ぐにその日から御殿に留《とど》まる事になりました。
 けれども濃紅姫は自分がどんな役目をうけているか、自分の事を人々がどんなに評判をしているか、そんな事は少しも気にかける間《ま》がありませんでした。只一心に海の女王と名乗る少女の姿に見とれて、呆れに呆れておりました。ところがその中《うち》に不図《ふと》濃紅姫は、恐ろしい事を思い出して、思わず身ぶるいをしました。「この少女はもしやあの、悪魔とかいうものではあるまいか。紅矢兄様は御病気の時、悪魔が美紅に化けていると仰《おっ》しゃった。あの悪魔がこの女王ではあるまいか。それでなくてもし美紅ならば、妾の前に来てあんなに平気でいられる筈はない。そしてもし美紅でもなく又悪魔でもないとすれば、あのように、姿から声から髪毛の縮れ工合まで、美紅に似ている筈はない。悪魔。悪魔。悪魔に違いない。美紅に化けて兄様に大怪我をさせて、今度は海の女王に化けてこの国の女王になりに来たのか。事に依るとこの妾を咀《のろ》うて、妾が女王になるのを邪魔しに来たのかも知れぬ。それに違いない。それに違いない。吁《ああ》。妾の家《うち》はどうしてこんなに悪魔と縁が深いのであろう。何という執念深い悪魔であろう」
 こう思うと濃紅姫は、今まで美しい妹そっくりの少女であった男姿の海の女王が、角《つの》を生《は》やして口が耳まで裂けた悪魔の姿に見えて来て、恐ろしさの余り気が遠くなりそうになりました。そうしてその海の女王が、王様の傍近く進み寄って、女王の冠を戴いているのを見ると、さしもの大広間が大勢の人々と共にぐるぐるとまわるように思われました。そしてやがて皆の者が、一時に手を挙げ足を踏み鳴らして――
「陸の大王様万歳!」
「海の女王様万歳!」
 と割れるように叫びますと、濃紅姫は思わず声を挙げて――
「海の女王は悪魔です」
 と叫びましたが、可愛そうにその声は大勢の声に打ち消されてしまいまして、それと一所に濃紅姫は、あまりの恐ろしさに気絶して、床の上にたおれてしまいました。

     二十一 死の夢

 それから何日経ったか、何時間経ったか知りませぬが、濃紅姫は不図《ふと》気がついて眼を開いて見ますと、自分はいつの間にか、今まで見た事もない美しい室《へや》の真中に寝台《ねだい》を置いて、その上に白い布団に包《くる》まって寝かされております。そうして頭の上に灯《とも》った絹張りの雪洞《ぼんぼり》から出る蒼白い光りで見ると、自分の左右には、御目見得の時に居た四人の女が宮女の姿をして、自分の介抱をしながら寝台の縁によりかかって、四人共いぎたなく睡《ねむ》っている様子です。
 濃紅姫はまだ夢を見ている気で、又眼を閉じてスヤスヤと眠りました。するとこの時に寝台の蔭から一匹の蛇が宝石の鱗《うろこ》を光らせながらぬらぬらと這い上りました。そうしてスヤスヤと眠りに落ちている姫の懐《ふところ》に這い込んで、玉のようにふくらんだ乳房の下を静かに吸い初めました。そうして間もなく腹一パイに血を吸いますと、口からポタポタと吐き出しましたが、その血は皆燃え立つような紅玉《ルビー》になって、サラサラと濃紅姫の胸から寝床や床の上に転がり落ちました。こうして吸っては吐《は》いて、何度も繰り返す内に、濃紅姫の身体《からだ》は、まるで宝石に埋まったようになってしまいました。
 この時濃紅姫はスヤスヤと眠りながら不思議な夢を見ておりました。
 その夢はいつか知らず濃紅姫が睡っている時に、どこか遠い遠い処で歌を謳《うた》う声が聞こえて来ました。その声は如何にも清く美しくて、自分の妹の美紅姫の声によく似ておりましたから、濃紅姫は不思議に思いまして、どこで謳っているのであろうと、耳を聳《そばだ》てて聞いておりますと、その声はだんだん近くなってつい直ぐ隣りの室で謳っているようで、しかもその歌は美紅姫が謳っているのでなく、この間紅矢兄様が王宮に差し上げた、あの赤い鳥の為業《しわざ》だという事がわかりました。その歌はこうでした。
「扨《さて》もあわれや濃紅姫。
 扨も悲しや濃紅姫。
 親兄弟に生きわかれ、
 又死にわかれ泣きわかれ。

 花の冠戴いて、
 花の束をば手に持って、
 花で飾って馬車の中、
 身は生きながら葬《とむら》いの、
 姿となった濃紅姫。

 藍丸国の王様を、
 慕《した》う心の一すじに、
 今日のお目見得来て見れば、
 藍丸王のお后は、
 自分でなくて妹の、
 美紅か悪魔か海の魔か。

 今王宮の奥深く、
 ひとり静かに眠る時、
 熱い涙が眼に湧いて、
 右と左にハラハラと、
 流れ落ちるは夢ながら、
 夢ではないという証拠。

 夢の中なる夢を見て、
 夢とは知らぬ現《うつつ》にも、
 つらい悲しいこの思い。
 われから迷う身の行衛《ゆくえ》、
 知っているのは世の中に、
 赤い鸚鵡の他にない。

 世に美しい柔順《おと》なしい、
 女の中の女とも、
 見ゆる濃紅が何故《なにゆえ》に、
 王の后になれないか。
 美紅か悪鬼《あくま》か王様の、
 后になったは何者か。

 知ってる者は他にない。
 黒い海には波が立つ、
 青い空には雲が湧く、
 昔ながらの世の不思議、
 今眼の前に現われた、
 赤い鸚鵡の他にない」
 濃紅姫はこの歌を聞きながらソロソロと起き上って、隣りの室《へや》の戸口に来て、なおも耳を澄ましていますと、たった今まできこえていた鸚鵡の歌はピタリと止みまして、室《へや》の中に人の居る気はいも為《し》ませぬ。
 そうして思いもかけぬ後《うし》ろから、そっと姫の肩に手をかけた者がありますから、ハッとしてふりかえって見ますと、それは懐かしい藍丸王でありました。王は親切に姫の手を執《と》って――
「お前はもうすっかり気分はよいのか。昨日《きのう》の朝お前が気絶した時、俺《わし》は随分心配したが、最早すっかり治ったのか。それは何より嬉しい事だ。では最早《もう》夜が明けたから二人で花園に散歩に行こうではないか」
 と仰せられます。濃紅姫は不思議に思って、今は冬で御座いますから何の花も御座いますまいと申しますと、王様は御笑いになって、まあ来て見るがいいと無理に姫を花園に連れておいでになりました。
 来て見るとこれは不思議――春秋の花が一時に咲き揃って、露に濡れ旭《あさひ》に輝やいていますから、濃紅姫は呆れてしまって、恍惚《うっとり》と見とれていますと、王様はニコニコお笑いになりながら――
「どうだ、濃紅姫。俺《わし》が咲かせようと思えば花はいつでもこの通りに咲くのだ。併しお前に聞いて見るが、お前はこの沢山ある花の中で、どの花が一番好きなのか。赤か。青か。黄色か。それとも白か。黒か」
 とお尋ねになりました。
 濃紅姫は暫く返事に困って考えていましたが、やがて悲し気に低頭《うなだ》れて――
「妾はもとは桃色の花が大好きで御座いましたが、今は青いのが大好きになりました」
 とこう御返事を申し上げました。すると王様は暫くの間何のお言葉もなく、棒のように突立っておいでになる様子ですから不思議に思って、姫はヒョイとお顔を見上げますと、こは如何に。王の顔はいつの間にか恐ろしい青鬼の顔に変っていました。
 姫は気絶する程驚いて、そのままあとも見返らずに、夢中で王宮を走り出て自分の家《うち》に逃げ帰りましたが、門を這入るとほっと一息安心すると一所に、急に淋しく悲しくなりました。そうして早くお父様やお母様に会おうと思って、家中を探しましたが、家は只一日しか留守にしないのに、ガランとした空家になって、庭には草が茫々と生い茂り、池の水も涸れてしまって、まるで様子が変っています。濃紅姫はこの有様を見て、何だかもう堪らない程悲しくなって来て、思わずそこに泣き倒れようとしますと、不意にうしろから兄様の紅矢が来て抱き止めて、何をそんなに泣いているのだと尋ねました。姫は嬉しさの余り紅矢に獅噛《しが》み付いて――
「あッ。お兄様。お父さまやお母様やそれからあの美紅はどこに居ますか」
 と聞きました。すると紅矢はニコニコ笑いながら――
「妹は兄さんのお使いで今一寸|他所《よそ》へ行っている。それから御両親は今遠い処へお出でになっているが、そこを知っているのはあの『瞬』だけだ。丁度今『瞬』は門の前の馬車に繋いであるから、あれに乗って行ったら会えるだろう」
 と申しました。姫は直ぐにその気になりまして、急いで門の前に引き返して見ますと、兄様の言葉の通り、「瞬」が馬車を引っぱって、そこにちゃんと待っていましたから、直ぐに飛び乗って手綱を取り上げて、鞭を高く鳴らしました。
 馬車は野を越え川を渡って、山を乗り越し谷を飛び渡りながら、北の方へ流星のように走りましたが、やがて涯《はて》しもなく広い砂原へ来ますと、轍《わだち》が砂の中へ沈んで一歩も進まなくなりましたから、今度は馬車を乗り棄てて徒歩《かち》で行きました。やがて四方には何も見えず、只砂の山と雲の峰ばかり見える処に出ましたが、そこには山のように大きな石で出来た男が寝ていまして、濃紅姫を見るとむっくりと起き上って、見かけに似合わぬ細い優しい声で――
「お前さんはこんな処へ何しに来たのだ。どこから来てどこへ行くのだ」
 と尋ねました。姫はこの石男のあまり大きいのに吃驚《びっくり》して、暫くは返事も何も出来ませんでしたが、併し別に悪い者でもなさそうですから、今までの自分の身の上をすっかり話して、何卒《どうぞ》お父さまやお母様に会わして下さいと頼みました。石男は濃紅姫の身の上話を聞きますと、どうした訳か解かりませんが大層歎き悲しみました。そうして吾れと自分の頭の毛を掻《か》きむしって――
「吁《ああ》。皆《みんな》俺が悪いのだ」
 と泣きながら水晶の玉を眼からぼろぼろと落していましたが、やがて気を取り直しまして、濃紅姫に向って親切に――
「噫《ああ》、お嬢様。貴女《あなた》がそんなに非道《ひど》い目にお会いになるのは、皆私が悪いからで御座います。何卒《どうぞ》御勘弁なすって下さいまし。けれども今更どうする事も出来ませぬから、その代り貴女に御両親のおいでになる処を教えてあげましょう。そこへ行って貴女は今までの苦労をすっかり忘れて、楽しく眠っておいでなさい。決して眼を覚ましてはいけませぬよ。眼を覚ますと貴女は又、あの恐ろしい藍丸王や海の女王の処に帰って、悲しい目を見なければなりませぬから、そのおつもりでいらっしゃい。貴女はこれから真直に北の方へ、どこまでも歩いてお出でなさい。そうすれば決定《きっと》そこで貴女の御両親にお会いなさるでしょう。左様なら。御機嫌よう。可愛い、可愛い濃紅姫」
 と云うかと思うと、そのまま又もやゴロリと仰向《あおむ》けに引っくり返って眠ってしまいました。
 姫はこの石男に別れてから、その教えの通りに猶《なお》ずんずんと北に向って進んで行きますと、やがて日が暮れ初めた頃、向うに火に柱を吹き出している岩山と、その火の柱の光りに輝やいている一つの湖が見えて来ました。その火の柱の美しい事。まるで千も万もの花火を一時に連《つづ》けて打ち上げるようで、紅《あか》や青や黄色やその他|種々《いろいろ》の火花が散り乱れて、大空に舞《ま》い昇《あが》っていましたが、不思議な事にはその轟々《ごうごう》と鳴る音をじっと聞いていますと、お父様の声のように思われるではありませぬか。濃紅姫は嬉しくて堪らず、足の疲れも忘れてなおも進んで行きますと、やがて今度はどこからとなく懐かしいお母様の声が聞こえて来ました。姫は思わずその声の方に誘われて、その方へ迷って行きますと、やがて湖の岸まで来ましたが、その声はどうも湖の真中あたりから聞こえて来るようです。
 姫は直ぐにザブザブと湖の中に這入って行きましたが、水は次第に深くなって、膝《ひざ》から腰へ腰から胸へと届いて来ました。それでも構わずになおも進んで行きますと、姫はとうとうすっかり水の底へ沈んでしまいました。けれどもちっとも息苦しい事はなく、四方《あたり》は皆緑色になってしまって、その中に火の山の光りが輝き落ちて、沢山の花の形になって浮かんで、まるで花園のようになってしまいました。その中を押しわけ押しわけ行きますと、やがてその花園の真中に、お母さまが白い衣服《きもの》を着て立っておいでになりまして、姫を見ますと莞爾《にっこり》とお笑いになり、そのまま姫を軽々と抱き上げて、優しい手で髪を撫で上げながら――
「まあ、お前は今までどこへ行っていたの。これからお母さまに云わないで遊びに行ってはいけませんよ。さぞお腹が空いたでしょう。さ、お乳をお上り」
 と云いながら懐を開いて、乳房を出してお含ませになりました。
 姫は身も心もいつの間にか、赤ん坊になってしまった心地がして、何だか悲しいような嬉しいような気になりまして、涙が止め度なく流れましたが、やがてお母様の静かに御歌いになる子守歌を聞きながら、暖い乳房を含んで柔順《おとな》しく眠ってしまいました。
「牡丹《ぼたん》の花がひイらいた。
 桜の花がひイらいた。
 夢の中からひイらいた。
 可愛いお眼々がひイらいた。
   お太陽様《ひさま》がニコニコと、
   お月様がニコニコと、
   可愛いお眼元お口もと、
   一所に笑ってニコニコと。
 百合の花が閉《つぼ》んだ。
 お太陽様《ひさま》が沈んだ。
 可愛いお眼々もうとうとと、
 夢の中へと閉《つぼ》んだ」

     二十二 白木の寝台

 翌る朝まだ夜が明け切らぬうちに王宮の表門が左右に開いて二人の騎兵が駈け出しましたが、門を出ると二ツにわかれて、一ツは青眼先生の方へ駈け出し、一ツは紅木大臣の家の方に飛んで行きました。
 紅木大臣は昨日《きのう》濃紅《こべに》姫を送り出すと直ぐに門を固く鎖《とざ》して、二人の小供の死骸を石神の部屋に移して、そこで公爵夫人と一所に一日一夜《いちじつひとよ》の間泣き明かしましたが、一方濃紅姫の事も気にかかって心配で堪《たま》りませぬ。最早《もう》お后になった知らせが来るか。最早《もう》王宮からお祝いの品物が届くかと待っておりましたが、とうとうその日一|日《じつ》は何の知らせもありませぬ。紅木大臣は心配のあまり家来を町に出して人の噂を聞かせますと、お目見得に来た女は六人共、皆宮中に留っているとの事で、詳《くわ》しい事はよくわかりませぬ。その中《うち》にやがて翌る朝になって、夜がやっと明けかかった時、紅木大臣は室《へや》の窓を開いて王宮の方を見ました。すると王宮の方から馬の蹄鉄《ひづめ》の音が高く響いて来て、その一ツは青眼先生の家《うち》の方へ行き、一ツは自分の家の門の中へ駈け込んで、玄関の処でピタリと止まりました。紅木大臣はこれは屹度《きっと》濃紅姫が后になったその知らせのための使いであろうと思って、取り次の者も待たずにツカツカと玄関に出て見ますと、案の定、背《せい》の高い騎兵が一人、見事な逞《たく》ましい馬を控えて立っています。
 その騎兵は紅木大臣を見るとハッと固くなって敬礼をしました。そうしてはっきりとした言葉付で――
「女王様からのお言葉で紅木大臣へ直ぐ宮中にお出で下さるようにとの事で御座います」
 と申しました。
「何。濃紅女王様が俺《わし》に直ぐ来いと仰せられたか」
 これを聞くと騎兵はキョトンと妙な顔をしました。
「イエ。女王様は濃紅という御名《おんな》では御座いませぬ」
「エエッ。ナ、何という」
 騎兵は紅木大臣のこう云った声と見幕に驚いて震え上って了《しま》いました。そうして六尺にあまる大きな身体《からだ》をブルブルと戦《おのの》かせて返事も出来ずにいますと、紅木大臣はつかつかと玄関の石段を降りて来て騎兵の胸倉をぐっと掴みました――
「ナ、何という……御名《おな》だ」
「ウ……海の女王」
「どんなお方だ」
「美しい……お方」
「馬鹿者……それはわかっている。どんなお姿だ」
「紫の髪毛を垂らして」
「エエッ」
「銀の剣《つるぎ》と……コ、金剛石の……」
「何ッ」
「オ……男の着物を召して……」
「悪魔だッ……」
 と叫びながら紅木大臣は、騎兵を突き飛ばして奥へ駈け込みました。そうして何事と驚く家の者には一言も云わず、剣を腰に吊るして外套を着て帽子を冠《かむ》るが早いか、廏《うまや》へ行って馬を引き出して鞍も置かずに飛び乗りますと、イキナリ馬の横腹を破れる程|蹴《けり》付けました。
 馬は驚いて狂気《きちがい》のようになって、一足飛びに飛び出しましたが、いつ迄も往来に出ずに同じ処ばかりぐるぐるまわっていますから、紅木大臣は自烈度《じれった》がって――
「エエ。何をしているのだッ」
 と叫びましたが、見ると馬はいつの間にか、紅木大臣の屋敷の中にある、大きな丸い馬場の中に駈け込んで、死に物狂いに駆けまわっています。紅木大臣は歯噛みをして――
「エエッ。この畜生ッ。表門へ出るのだッ」
 と罵《ののし》りながら、馬をキリキリ引きまわして、花園も芝生も一飛びに、表門に飛び出しましたが、その時はもう最前の騎兵は疾《とっ》くに王宮に帰り着いている頃でした。
 紅木大臣は王宮の表門を這入ると、一直線に玄関まで乗り付けて、馬からヒラリと飛び降りましたが、帽子はいつの間にか吹き飛んで了《しま》っていました。そうして取り次の者も待たずに勝手知った奥の方へズンズン這入って行きますと、今日は平生《いつも》と違って王宮の中はどの廊下もどの廊下も鎧を着た兵士が立っていて、皆|鞘《さや》を払った鎗《やり》や刀を提《ひっさ》げて、奥の方を一心に見詰めながら、素破《すわ》といわば駈け出しそうにしています。けれども紅木大臣はそんなものには眼もくれず、つかつかと奥へ進み入って、王様のお居間に参りましたが、そこには只玉座ばかりで王も女王もおいでになりませぬ。そうしてずっと向うの腰元の室《へや》から、思いがけない青眼先生の慌てた声で――
「女王様。お気を静かに。お気を静かに」
 と云うのが聞こえましたから、扨《さて》はと思ってその方に急ぎました。
 ところが腰元部屋の入り口に来て中を一眼見るや否や、紅木大臣は身体《からだ》中の筋が一時に硬《こ》わばって、そのまま床から生《は》えた石像のように突立ちながら、中の様子を睨み詰めました。
 室《へや》の真中には綺麗な白木の寝台があって、その上には絹張りの雪洞《ぼんぼり》が釣るしてありました。寝台の上には死人があると見えて、白い布《きれ》が覆せてあり、寝台の四隅の足には四人の宮女と見える女が髪をふり乱して気絶したまま、グルグル巻きに縛り付けてあります。寝台の向うにこちら向きに椅子を置いて、腕を組んで、眼を閉じて座っているのは藍丸王で、寝台の前には青眼先生が突立って、両手をさし展《の》べています。そしてその手に縋《すが》って、青眼先生の顔を見上げている、女王の姿をした者の顔を見ると、どうでしょう。一晩夜《おととい》の晩氷になってたった今まで石神の前に置いてあった、あの美紅《みべに》姫に寸分|違《たが》わぬではありませんか。
 悪魔、悪魔と思い込んで来た紅木大臣も、これを見ると今更に、吾れと吾が眼を疑って呼吸《いき》も出来ぬ位固くなってしまいました。そうして眼を皿のようにして女王の姿を見詰めていました。
 女王は髪を藻のようにふり乱し、顔の色は真青になって、震える唇を噛み締め噛み締め、はふり落ちる涙を拭いもせずに、青眼先生の顔をふり仰いでおりましたが、忽ち血を吐くような声をふり絞って叫びました――
「青眼先生。教えて下さい。これは夢でしょうか。本当でしょうか」
 すると青眼先生は女王の顔を穴の開く程見ながら、落ち付いた力強い声で答えました――
「夢だか本当だかは女王様のお言葉に依って定《き》まります。何卒《どうぞ》、何事も包まずに、私にお話し下さいませ。私は只今王様からの御使者《おつかい》を受けまして、女王様が今朝《けさ》濃紅《こべに》姫の御逝《おかく》れになった御姿を御覧になると直ぐに、恐れ多い事ながら気が御狂い遊ばして、あるにあられぬ奇妙な事ばかり仰せられるとの事。それで私の今までの罪を赦すから、直ぐに女王の病気を見に来るようにとの、有り難い御言葉を承りまして、取るものも取り敢えず参いった次第で御座います。ところが只今女王様の御姿を拝しますると、女王様は決してそんな忌《いま》わしい御病気におなり遊ばしたのでは御座いませぬ。そして私はそれよりもずっと驚きましたのは、女王様がどうして生きてここにおいでになるかという事で御座います。何をお隠し申しましょう。昨日《きのう》の朝女王様がまだ美紅姫で入《い》らせられる時に、私はたしかに女王様を殺しました。その女王様がここにこうして生きておいでになろうとは、私は夢にも存じませんで御座いました。何《なん》に致してもこれには何か深い仔細がある事と思います。私は、決して女王様の御言葉を御疑い申し上げませぬ。さあ、女王様。決して御心配には及びませぬ。女王様が、その石神の夢を御覧遊ばしてからどうなされましたか、詳しく御話し下されませ。石神の話はこの国の秘密の話で、これを聞いた者は、その話しの中に居る悪魔に取り憑《つ》かれると、昔から申し伝えて御座います。私は今日までその悪魔を固く封じておりましたが、それがいつの間にか逃れ出て、女王様に取り憑いたと見えまする。こうなれば王様と女王様には、秘密に致す要も御座いませぬ。却《かえ》ってその秘密を破って、何も彼《か》も御話し下されました方が悪魔を退治るのに都合がよろしゅう御座います。ここには仕合わせと王様と私より他に聞いているものは御座いませぬ。何卒《どうぞ》御構いなく御話し下さいませ。決定《きっと》女王様の御心の迷いを晴らして、悪魔を退治て差し上げましょう」
 と云いながらも女王の手をしっかりと握り締めました。女王は最早《もう》立っている力も無くて床の上に頽折《くずお》れました。そうして――
「ハイ。何卒《どうぞ》聞いて下さい。そうしてよく考えて妾《わたし》を助けて下さい」
 と云いながら、涙を拭い拭い言葉を続けました――
「妾はあの夢を見てから後《のち》は、明け暮れ自分の室《へや》に閉じ籠もって、美留女《みるめ》姫であった昔が本当か、今の美紅の身の上が本当か考えましたが、どうしても解りませんでした。そうしてこれが解からぬ内は、何をしても張り合いがないような気がして、誰に何と云われても何も為《す》る気になりませんでした。紅矢……兄様のお怪我も……濃紅姉様の身の上も……何だか……夢のような気がしていたので御座います。
 すると丁度そのお兄様がお怪我遊ばした日の事、妾は青眼先生がお出でになるという事を聞き、扉の隙間からソッと覗いていましたが、前をお通りになる先生の御姿を一目見るや否や、妾は扉をしっかり閉じると、そのまま気絶してしまいました。青眼先生は妾の思い通り、あの夢の中で、妾を悪魔だといって殺そうとしたお方で御座いましたから、もし見付かったらどうしようと思ったからで御座います。
 それからどれ程位の間気絶したままでいましたものか、不図気が付いて見ますと、時分は丁度真夜中で、妾はいつの間にか戸棚の中に突立っています。そうして戸棚の扉の鳥の形をした透《すか》し彫《ぼ》りが、丁度眼の前に見えます。
 妾は暫くの間は何事かわからずに、ぼんやりと鳥の透し彫りから洩れて来るラムプの光りを見詰めたまま突立っておりました。もしやこれはまだ本当に眼が醒めずに、夢を見ているのではないかと思いました。ですから妾はよく心を落ち付けて、眼をしっかりと見開いて、鳥の透し彫りから覗いて見ました。そうして室《へや》の中に灯《とぼ》れている丸|硝子《ガラス》の行燈の、薄黄色い光りで向うを見ますと、妾は自分の眼を疑わずにはおられませんでした。妾の寝台《ねだい》の上には、妾の寝巻を着た、妾そっくりの女が、平然《ふだん》妾がする通りに髪毛《かみ》を寝台の左右に垂らして、スヤスヤと睡っているでは御座いませんか……ハッと驚いて自分の着物を探って見ますと、どうでしょう。妾の着物はいつの間にか、奇妙な男の着物とかわっていたので御座います」
「貴女そっくりの女。そうして貴女は男の着物……」
 と青眼先生は魘《おび》えたような声で申しました。

     二十三 自分の寝姿

 外に立っている紅木大臣も、この時両方の拳《て》も砕けよと握り締めましたが、女王も亦《また》恐ろしくて堪《たま》らぬように、身を震わして答えました――
「ハイ。昨日《きのう》海の女王と名乗って、お眼見得に来た時の姿と同じ男の着物でした」
「してそれから貴女《あなた》はどうなされましたか」
「妾はあまりの不思議に身動き一つ出来ず、自分の寝姿を見詰めていました。そしてその中《うち》にどちらが妾なのかわからなくなりました。妾が美紅《みべに》か、向うが美紅か。妾が美紅ならばあの眠っているのは誰であろう。睡っているのが美紅ならば、この醒めている妾は何者であろう。もしや妾が何かの魔法で、二人にされているのではあるまいか。それでなくてこんなによく肖《に》ている筈はない。それとも身体《からだ》が向うに残って、心がこちらにあるのではあるまいか。それならばこの身体は誰の身体であろう。又は心が向うに幽霊になって抜け出して現われているのであろうか。それならばこの心は誰の心であろう。どちらが本当であろう。どちらが嘘であろう。両方とも本当か。両方とも嘘か。向うとこちらは別か一所か。もしや眼の迷いではあるまいか。心の迷いではあるまいか。それとも夢かまぼろしかと、すっかり迷ってしまいまして、今にも太陽の光りがさし込んで来たらば、妾は消え失せてしまうのではないか。それでなくとも、このまま戸棚の外に出たならば、直ぐに眼が覚めるのではあるまいかと、迷って、恐れて、震えて、立ち竦んでおりますと、不意に窓の外に人の来る気はいがしました。
 妾はこの時何だか自分の身の上に、怖ろしい事が起りかかっているように思われて、恐ろしさの余り呼吸《いき》を吐《つ》く事も出来ませんでした。そうして戸棚の中から一心に、窓の処を見つめておりますと、間もなく窓からそっと顔を出して中の様子を見た人がありました。それが青眼先生、貴方でした」
「あっ。それではあの時貴女は戸棚の中から見ておいでになりましたか」
 と青眼先生は呼吸《いき》を機《はず》ませて尋ねました。
「けれどもその時の恐ろしかった事。扨《さて》は青眼先生はいよいよ妾がこの家に居る事がおわかりになって、この間の夢の中で銀杏の葉の袋を切り破った時と同じように、妾を矢張り悪魔と思って、殺しにおいでになったに違いない。それにしても青眼先生は、あの寝床の中の美紅を妾と思ってお出でになるのであろうか。それとも妾がここに隠れているのを御存じなのであろうか。どちらを御殺しになるであろうと、息を殺して震えながら見ておりました」
「噫《ああ》。私はあの時|寝台《ねだい》の中の女を悪魔だと思い込んで殺したので御座いました。この国の秘密を守るため。王様のため。国のため」
 と青眼先生は吾れを忘れて叫びました。
「ハイ。けれどもそれは大変な間違いで御座いました。貴方が悪魔と思ってお殺しになった女は、悪魔でも何でもない美紅姫で、かく云う妾こそ悪魔で御座いました。妾はその時から美紅姫では御座いませんでした」
「エ。エ。エ」
 と青眼先生はよろよろとあと退《しざ》りをして、屹《きっ》と身構えをして女王の顔を穴の明く程見詰めました――
「女王様。貴女は本当に気がお狂い遊ばしたので御座いますか」
「イエイエ。少しも狂いませぬ。又嘘も申しませぬ。妾こそ悪魔で御座いました。美紅姫にそっくりそのままの姿をした悪魔で御座いました」
「ウーム」
 と青眼先生が両方の手を石のように握り固めながら、女王の顔を睨み詰めますと、室《へや》の外の紅木大臣も、思わず刀の柄に手をかけて身構えました。けれども女王は騒ぎませんでした。落ち付いて床の上に座ったまま、青眼先生の顔を仰いで話しを続けました――
「御疑いになるのも御尤《ごもっと》もで御座います。本当は妾もまだその時の疑いが晴れませぬ。ですからこのように打ち明けてお話しをするので御座います。本当の事を申しますと、妾はあの時貴方にあの毒薬を注ぎかけられて、氷になってしまった方が仕合わせで御座いました。なまじいに生き残ったために、妾は悪魔に魅入られた女になってしまいました。
 あの時あの少女が悪魔と呼ばれて眼をさまして、『妾は美紅です。この家の娘です』と叫ぶ間もなく、青眼先生から毒薬を注ぎかけられてたおれました時、妾は自分の身体《からだ》の血が凍ったように思って、心も身体《からだ》も一所に消え失せたと思いました。けれども間もなく又ふっと気が付きますと、不思議やその時妾の心は、今までとすっかり違って、世にも恐ろしい女の心と入れかわっておりました。妾はその時から今朝《けさ》まで、美紅姫でも何でもない――多留美という湖の近くに住む、藻取という者の娘で、美留藻《みるも》という女――美紅姫と同じように夢の中で美留女姫となって、白髪小僧と一所に銀杏の葉に書いた石神のお話を読んだ女――湖の底に鏡を取りに行ったまま、行衛《ゆくえ》知れずになった女そのままの美留藻になっておりました。そしてそれと一所に、妾はたった今まで美紅姫であった事を忘れてしまって、貴方が美紅姫の死骸を残して、窓から出てお出でになると直ぐに、戸棚の扉を開いて外に出まして、眼の前の寝台の上に横たわっている、美紅姫の氷の死骸を見ると、思わず莞爾《にっこり》と笑いました。そして先ずこれで美紅は死んだ。あとは明日《あす》のお眼見得の式で濃紅姫に勝ちさえすれば、妾は間違いなく女王になれると思いました。
 青眼先生。妾は全く恐ろしい女で御座いました。悪魔よりももっと無慈悲な女で御座いました。初め妾が夢の中で美留女でいる時に、銀杏の根元で拾った書物《かきもの》に、妾が女王になった挿し絵があるのを見ますと、妾は急に女王になりたくなりました。それと一所に石神のお話の続きも見とう御座いました。つまり夢の中で見た美留女姫の心を、眼が覚めてからも忘れる事が出来なかったので御座います。そうして眼が覚めて後《のち》赤い鸚鵡だの、宝蛇だの、水底《みずそこ》の鏡だのを見ますと、いよいよあの夢は本当の事に違いないと思いまして、どんな事をしても構わないから、あの夢の通りに自分の身の上をして仕舞おうと思いました。それから妾は親を棄て、夫を捨てて只一人、女王になるために都に向いました。
 妾はそれから女王になるためにいろいろな悪い事を致しました。
 青眼先生。この間紅矢様が大怪我をなすった時、初めに先生が御覧になった紅矢様は、本当の紅矢様では御座いませぬ。妾が紅矢様の馬と着物を詐欺《かた》り取って、紅矢様に化けて来ていたので御座います。それから二度目の時は、妾が『瞬』に乗って、紅矢様のお帰り途に押しかけて、出会い頭に馬を乗りかけて怪我をさせましたので、妾はその死骸を先生の御門の処まで持って来て、放り出して逃げて行ったので御座います。
 妾はそれから又もや紅木大臣のお邸敷《やしき》へ、騒ぎに紛れて忍び入って、美紅姫の室《へや》に這入りました。見ると美紅姫はどうした訳か、気絶して床の上に倒れたまま、誰も気付かずにおります。妾はよい都合と喜びまして、兼《か》ねてから髪毛《かみ》の中に隠しておいた宝蛇を、美紅姫の懐に押し込みました。これが今のように、美紅と美留藻と一所になってわからなくなるはじめとは、その時夢にも思い当りませんでした。
 宝蛇が美紅姫の胸から血を吸い初めますと、不思議や妾は自分の身体《からだ》の血が消え失せるように思いまして、急に眼が眩んで立っている事が出来ずに、床の上にたおれました。
 妾はその時夢中になって藻掻きました。そして自分が宝蛇に噛まれて血を吸われていると思いましたから、一生懸命になって自分の胸を掻きまわして、掴み散らしますと、やがて急に胸の苦しみが除《と》れてしまいましたから、ほっと一息安心をしました。が、それと一所にやっと正気になりましたから、眼を開《あ》いてあたりを見まわしますと……どうでしょう。最前お話しました時とは反対に、妾はいつの間にか美紅姫が今まで着ていた寝巻と着かえて、片手に宝蛇をしっかりと握って床の上に寝ております。そして直ぐ傍には妾そっくりの男の姿をした女が、あおむけにたおれているでは御座いませぬか。妾は驚きの余り思わず立ち上りました。するとそれと一所に妾の懐から一掴みの紅玉《ルビー》の粒がバラバラと床の上に落ちました。
 その時の妾の心地――それは最前妾が美紅としてお話し致しました時と少しもかわりませぬ。全く妾は美紅か美留藻か自分でわからなくなりました。妾が誰を殺そうと思って宝蛇に血を吸わせたのか、それすらわからなくなりました。今の様子では自分を殺すために自分の胸に宝蛇の牙《きば》を当てがったとしか思われませぬ。妾はあまりの不思議にぼんやりとして、眼の前に横たわっている男の姿の自分そっくりの娘を見詰めたまま突立っておりました。
 けれども暫くしてから、妾はやっと気を落ち付けて考える事が出来ました。これは屹度悪魔の仕業に違いない。何故かと云えば、美紅姫も妾も二人共同じ夢を見て、同じ悪魔の話を聞いたに違いないのだから、二人共悪魔に魅入られているにきまっている。そうして鏡だの、蛇だの、鸚鵡だのを妾の方が先に見たから、悪魔が妾の方に加勢して、妾に知恵を授けているのに違いない。妾に美紅姫に化けよと教えるのに違いない。屹度そうだと思いますと、妾は最早《もはや》すっかり疑いが晴れました。妾は矢張《やっぱり》美留藻であった。行く末は、この国の女王になる美留藻であった。こう思って妾は最早《もはや》女王になったように喜び勇みました。そうして直ぐにたおれている美紅姫の懐を探って、兼ねてから隠しておきました青眼先生の眠り薬を取り出して、美紅姫に嗅がせまして、そのまま戸棚の中に押し隠しました。こうして妾はいよいよお目見得の式の朝になった時、着物を取り換えて自分の代りに本当の美紅姫を寝台《ねだい》に寝せて逃げて行くつもりでした。そして昼の間は妾は室《へや》に閉じ籠もって、成るたけ家の人にも姿を見せぬようにして、真夜中になってから起き上って、薬のために眠っている美紅姫の着物と着換えては、窓から飛び出して悪い事を致しました。
 妾はこの時自分で自分の智恵に感心をしておりました。こうすれば妾はいつ家《うち》の人に見咎《みとが》められても美紅としか見えませぬ。けれども一番おしまいの晩にとうとう貴方――青眼先生に見付けられてしまいました。
 あの時妾は、紅矢様を苦しめに行きましたが、折角歌で誘い出した貴方が、引き返してお出でになる様子ですから、急いで自分の室に帰ろうとしましたが、その時妾があまり急いで紅矢様の身体《からだ》から蛇を引き放しましたために、紅矢様は眼をさまして、妾を見るといきなり飛び付いて、左手で妾の胸の鈕を掴みました。今でも紅矢様の掌《て》の中には一ツの大きな金剛石《ダイヤモンド》を握っておいでになるに違いありませぬ。妾はそれを振り千切って逃げて帰って、知らぬ顔をして寝ておりました。それを貴方に見付けられたので御座います。妾が貴方から氷の薬を注ぎかけられました時、妾はもう助からぬと思いました。けれども一旦気絶して、たおれて又気が付きますと、どうでしょう、妾はいつの間にか戸棚の中に、男の服を着て立っていたので御座います。
 この時もし妾に今までの美紅の心が少しでも残っていたらば、妾は女王にはならなかったで御座いましょう。こんな恐ろしい悲しい思いを為《せ》ずとも済んだで御座いましょう。けれどもこの時は妾はすっかり美留藻の心になり切っておりましたから、少しも疑わず恐れずに、美留藻そのままの仕事を続けました。
 妾はこの時美紅姫と紅矢様が、鉄と氷の二ツの死骸になってしまったのを見て、すっかり安心をしまして、この塩梅ならば紅木大臣を初め家の者は明日《あす》のお目見得に来ないであろう。そうすれば自分を見咎めるものは一人もあるまいから、安心して女王になる事が出来る。それからあとは青眼先生――貴方をどうかして罪に落して亡《な》い者にし、又濃紅姫を無理にも宮中に止めて殺してしまえば、あとは一生安心と、こう思って紅木大臣の家を脱け出ました。そうして大急ぎで宮中に駈け付けて、お眼見得の式に間に合いました。そのあとは御存じの通り首尾よく女王になり済まして、濃紅姫を宮女にしました。そうして……そうして……」
 と云う中《うち》に女王は急に床の上に突伏してワッとばかりに泣き出しました。
 今まで固くなって身構えをしていた青眼先生は、これを見ると慌てて跪《ひざまず》いて、女王の手を取って引き起しました。そうして声を震わせながら――
「お泣き遊ばしてはわかりませぬ。それから……それからどうなされました」
 と女王の顔を覗き込んで尋ねました。
 するとこの時女王は急によろよろと立ち上りましたが、忽ち身を寝台《ねだい》の上に投げかけて泣き叫びました――
「許して下さい、お姉様。貴女《あなた》を殺したのは四人の女では御座いませぬ。妾で御座います。美留藻の美紅で御座います。昨夜まで美留藻であった妾は貴女が憎くて堪らずに、宝蛇を使って貴女の血を吸わせました。そうして……そうして……今朝《けさ》……紅玉《ルビー》に埋まった貴女を見た時……その時の悲しさ恐ろしさ……。噫《ああ》。妾は美留藻でしょうか。美紅でしょうか。噫。お父様。お母様。許して下さい。妾は兄様を殺し……姉様を殺しました。そうして妾は何故……何故死なぬのでしょう。噫、恐ろしい。情ない。死にたい死にたい。お姉様と一所に死にたい」
 と死骸に縋り付いて、消え入らんばかりに泣き狂うて叫びました。
 これを見た青眼先生の眼からは、忽ち涙がハラハラと溢《あふ》れ落ちました。そうして慌てて走り寄って、女王を抱き除《の》けながら――
「女王様。気をお静かに。お静かに。女王様は美紅姫で入《い》らせられます。今は御心も御|身体《からだ》も、美紅姫で入らせられます。貴女のお家に災《わざわい》を致しましたのは……お兄様やお姉様を殺しましたのは、今氷になっているあの美留藻の魂が、貴女に乗り移って為《し》た事……」
 と申しましたが、その言葉のまだ終るか終らぬかに、雷が落ちたような声を立ててこの室《へや》に飛び込んで来て、二人を左右に突き飛ばした者がありました。それは紅木大臣でした。それと見ると女王はよろめき倒れた身を起して――
「あれ。お父様」
 と一声高く叫びながら駈け寄ろうとしましたが、紅木大臣の見幕があまり恐ろしいので、思わずハッと踏み止まりました。そうしてワナワナ震えながら――
「オ……お父様……お父……様……」
 と云う中《うち》に次第にあと退りをして、一方の壁に倚《よ》りかかって身体《からだ》を支えました。青眼先生も紅木大臣の見幕に驚いて、床の上に尻餅を突いたまま、呆気《あっけ》に取られて大臣の顔を見詰めておりました。
 紅木大臣はその間につかつかと寝台《ねだい》に近寄って、白布《しろぬの》を取り除《の》けました。その下には髪毛から首のあたり――胸から爪先へかけて、一面に紅玉《ルビー》に包まれて、臘《ろう》のように血の気を失った濃紅姫の死骸が仰向けに横たわっております。
 それをじっと見ていた紅木大臣の髪毛は、見る見る中《うち》に皆逆さに立ちました。顔色は真青になって、眼は火のように血走りました。そうして歯をギリギリと噛み鳴らし、身体《からだ》をワナワナと震わせながら、剣の柄を砕くるばかりに握り締めて、屹《きっ》と女王の顔を睨み付けましたが、やがて火を吐くような声で罵《ののし》りました。
「悪魔。悪魔。貴様は美紅ではない。女王ではない。又美留藻とかいう者でも何でもない。美紅を身代りとして青眼先生に殺させ、その次には紅矢を殺し、今は又この濃紅を殺して、この国の女王の位を奪おうとする悪魔。悪魔。大悪魔だ。根も葉もない作り事をして、美紅に化けて欺こうとしても、この紅木大臣は欺されぬぞ。その化けの皮を引ん剥《む》いてくれる。吾が児の讐《かたき》覚悟しろ」
 その声は暴風のように室の中を渦巻きました。
 そうして一歩退ってギラリと剣を引き抜いたと思うと、女王に飛びかかろうとしましたが、彼《か》の時早くこの時遅く、青眼先生がうしろからしっかりと抱き止めました。すると紅木大臣は歯噛みをして――
「エエッ、放せ。放さぬか。貴様も悪魔の片割れか。今まで悪魔と馴れ合っていたのか。放せ。放せ。奴《おの》レッ」
 と身もだえをするその手に女王は走りかかって縋り付きました。そうしてその顔を見上げながら叫びました――
「殺して下さい。お父様。妾は……もう……この上の苦しみは見られませぬ。生きては……生きてはおられませぬ。この剣で……さあ一思いに殺して下さい。姉様と一所に死なして下さい。青眼先生、放して下さい。この手を……お父様を放して下さい」
 と無理に青眼先生の手を捕まえて引き離そうとしました。紅木大臣はこの時あらん限りの力を出して――
「エエッ」
 と一声叫ぶと一所に二人を両方に振り放しました。そうしてなおも縋り付こうとする二人を、又も左右に蹴倒しますと、二人共一時に気絶してグタリと床の上に横たわりました。
 この時最前から椅子に腰を掛けたままこの場の様子を冷やかに笑って見ておりました藍丸王は、矗《すっく》とばかり立ち上りましたが、その右手を高く挙げたのを見ると、一匹の恐ろしい姿をした蛇が、宝石の鱗を眩しい程光らせながら、真赤な舌をペロペロと吐いて巻き付いておりました。こうして王は高らかに叫びました――
「紅木大臣。よく見よ、よく聞けよ。この蛇はこの国の大切な宝だ。誰でもこの蛇を持って来た者はこの国の女王になるのだ。美紅であろうが美留藻であろうが、そんな事は構わぬのだ。そうして女王に害をする者は、皆殺して終うのがこの蛇の役目だ。貴様とても許さぬぞ」
「何を……何をッ」
 と紅木大臣は血走った眼で王を睨み付けて叫びました――
「それならば貴様も悪魔だ。本当の藍丸王ならば、そんな汚《けが》らわしいものをお持ちになる筈はない。そんな無慈悲な事をなさる筈はない。貴様も悪魔が化けたのであろう。女王も悪魔。貴様も悪魔。悪魔。悪魔。大悪魔だ。エエ知らなんだ。気付かなんだ。そうと知ったら早く退治ておく者を。最早容赦はならぬ。この紅木大臣が忠義の刃を受けて見よ」
 と云うより早く王を眼がけて飛びかかろうとしましたが、この時王が右手を挙げるのを見るや否や、一時にドッと籠《こ》み入った多くの兵士は、一方は王の周囲《まわり》を取り囲んで仕舞い、一方は紅木大臣を取り巻いて身体《からだ》中隙間もなく鎗《やり》を突き付けて、動かれぬようにしてしまいました。そうしてその間にその他の者は気絶した女王と青眼先生を抱え上げて、急いでどこかの室《へや》へ運んで行きました。
 槍の穂先に取り囲まれた紅木大臣は、身動きも出来ぬようになりまして、棒のように突立ちながら歯切《はぎし》りをして、兵士の顔を睨みまわしていましたが、やがてその持っていた剣をカラリと床の上に取り落すと、そのまま高い暗い天井を仰いで、髪毛を一筋|毎《ごと》にビリビリと震わしながら――
「アーッハッハッハッ」
 と高らかに笑い出しました。その気味悪さ。恐ろしさ。周囲《まわり》の兵士は思わず槍《やり》を手許《てもと》に控えて、タジタジとあと退《ずさ》りをしました。
 けれども紅木大臣の笑い声は、なおも高らかに続きました――
「アッハッハッハッ。可笑《おか》しい可笑しい。こんな可笑しい事が又とあろうか。何という馬鹿馬鹿しい事だ。アッハッハッハッ、俺は今やっと思い出した。昔の名前を思い出した。俺の名前は美留楼《みるろう》公爵というのだった。何だ、馬鹿馬鹿しい、馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい。アッハッハッ。
 あれ、美留女が本を読んでいる。白髪小僧が居眠っている。アハ。アハ。何の事だ。俺はこのお話を本当の事かと思った。これ、美留女。止めろ。止めろ。そんな本を読むのを止めろ。あんまり非道《ひど》いではないか。あんまり情ないではないか。お前はそれを平気で読むのか。お父さまは最早《もう》聞いていられない。コレ。止めろ。止めろと云うに」
 と云いながらよろよろと前の方によろめき出ましたが、濃紅姫の寝台《ねだい》に行き当って、又ハッと気が付きました。そうして寝台に倒れかかったままじっと濃紅姫の死体を見ていましたが、見る見るその眼は又|旧《もと》の通りに釣り上りました。
「エエッ。矢張り本当の事であったか。濃紅姫は死んだのであったか。よしそれならばこうして……」
 と云う中《うち》に自分の外套を脱いで、濃紅姫の死体をクルクルと巻いたと思うと、肩に荷《かつ》ぐが早いか一散にこの室《へや》を走り出ました。これを見ると火のように怒った藍丸王はそのあとから叫びました――
「ソレッ。あの家の者を鏖《みなごろし》にしてしまえ。あとは火を放《つ》けて焼いてしまえ」

     二十四 生首の言葉

 一方青眼先生は、一旦《いったん》はすっかり気絶して終《しま》って、何も解からなくなっていましたが、やがて自然と気が付いて見ますと、どうでしょう。最前自分は藍丸王の眼の前で、紅木大臣に蹴られて気絶していた筈なのに、今は王宮の内のどこかの室《へや》で、見事な寝台《ねだい》の上に寝かされて、傍には最前縛られていた四人の宮女が控えております。そうしてなおよくあたりを見まわしますと、自分の枕元には藍丸王がニコニコ笑いながら立っていまして、その背後《うしろ》には宮中の凡《すべ》ての役人が星のように居並んで、自分に向って敬礼をしている様子です。青眼先生はこの有様を見て何事かと驚きまして、慌てて寝台の上から辷《すべ》り降りて床の上にひれ伏しますと、王はその肩に手を置きまして、
「オオそんなに恐れ入るには及ばぬ。俺は今までのお前の罪を許したのだぞ」
 これを聞くと青眼先生は床の上にひれ伏して、恐れ入って申しました――
「ハイ。有り難い事で御座います。私はもうその御言葉を承りました以上は明日《あす》死んでも少しも心残りは御座いませぬ。私の心がおわかり遊ばしますれば、何で私が王様の御心《みこころ》に背《そむ》き奉りましょう。何卒《どうぞ》今日までの私の無礼の罪は、平に御赦し下されまするよう御願い致します」
 と誠意《まごころ》を籠《こ》めて申しました。藍丸王も如何にも嬉しそうに――
「ウム。お前の罪は女王の言葉ですっかり許したから安心をしろ。女王は今居間で養生をしている。そうして世界中で本当の自分を知っている者はお前ばかりだと喜んで泣いているのだ。そうして今日お前の女王に尽した忠義の褒美《ほうび》に、女王は今からお前をこの国の総理大臣にしてくれと云ったぞ」
 と思いもかけぬ御言葉です。青眼先生はあまりの不意な御言葉に驚いて、夢に夢見る心地で叫びました――
「エッ。私をあの総理大臣に。そ……それは王様、私のようなものには」
「黙れ。もう俺《わし》の云う事には背かぬと、たった今云ったではないか。この心得違い者|奴《め》が。貴様も矢張り紅木大臣のような眼に会いたいのか」
 と忽《たちま》ち王は最前のような恐ろしい顔に変りました。
「エエッ。そして紅木大臣はどう致しましたか」
「ハハハハハ。紅木大臣がどんなになったか見たいのか。よし。それではお前は直ぐ紅木大臣の家へ行って、どんなになったか見て来い。そうして女王に無礼をする奴は親でも兄弟でも誰でも皆、こんな眼に会うのだという事をよく覚えて来い」
 と言葉厳しく申し付けました。
 このお言葉を聞くと一緒に青眼先生は、王が最前蛇を見せた時の事を思い出して、思わずゾッと身震いをしました。そうして直ぐに独りで王宮を出まして、急いで紅木大臣の家へ行って見ましたが、来て見るとどうでしょう。今まで深く茂った大きな常磐木《ときわぎ》の森の間に、王宮と向い合って立っていた紅木大臣の邸宅《やしき》は住居《すまい》も床も立ち樹もすっかり黒焦《くろこげ》になってしまって、数限りなく立ち並んだ焼木杭《やけぼっくい》の間から、白い烟《けむり》が立ち昇っているではありませぬか。そうして玄関のあたりに大臣夫婦は手も足も切り離されて、方々焼け焦げたまま、眼も当てられぬ姿になって倒れております。
 青眼先生は震える手で、その手足を集めて見ましたが、最早何の役にも立ちませんでした。大臣夫婦の死体は最早切れ切れに焼け爛《ただ》れて、とても青眼先生の力では助ける事が出来ませんでした。
 青眼先生は余りの事に声を立てて泣き出しました。そうしてもしや一ツでもいいから助かりそうな死骸は無いかと、暗《やみ》の中に散らばっている死骸を一ツ一ツに検《あらた》めながら、奥の方へ来る中《うち》に、不図青眼先生は屋敷の真中あたりで、切れるように冷たい者を探り当てて、ヒヤリとしながら手を引《ひ》き退《こ》めました。それは鉄と氷との二ツの死骸でしたが、薄い月の光りはその物凄い白と黒の二ツの姿を照して、何だか両方とも青眼先生を睨んでいるように思わせました。
 青眼先生は思わずタジタジとあと退《ずさ》りをしました。そうして二ツの死骸をじっと見入りました。すると不思議や、青眼先生の直ぐうしろに寝ていた一ツの首が、白い眼を開いて月の光りを見ながら、唇をムズムズと動かし始めましたが、やがて不意に――
「嘘|吐《つ》き」
 と云いました。青眼先生はハッと驚いて背後《うしろ》をふり向きますと、うしろにはたった今|検《あらた》めた馬丁《べっとう》の死骸があるばかりで、しかも手も足もバラバラになっているのですから、口を利く気遣いはありませぬ。先生は大方耳の迷いだろうと思って、ここを立ち去ろうとしますと、今度は別の死骸の、身体《からだ》から離れて転がっている首級《くび》が、眼をパッチリ開いて、月あかりに先生の顔をジッと睨みながら――
「不忠者」
 と叫びました。青眼先生は身体《からだ》中が痺《しび》れる程驚いて、立ち竦んでしまいますと、今度は四方八方の死骸の首が、一時に眼を見開きまして、方々から青眼先生を睨みながら、口々に罵り始めました――
「不忠者」
「紅矢を殺した」
「濃紅を殺した」
「美紅を殺した」
「女王に諛《へつろ》うた」
「紅木大臣を殺させた」
「紅木大臣の位を奪った」
「悪魔の王の家来になった」
「俺達までも皆殺させた」
「そして自分独り生きている」
「悪魔のために尽している」
「忠義に見える不忠者」
「善人のような悪人」
「卑怯な浅墓な」
「藪医者の青眼|爺《じじ》」
「貴様のために殺された」
「沢山の死骸を見ろ」
「俺達はこの恨みを」
「屹度《きっと》貴様に返して見せる」
「死ぬより苦しい眼を見せるぞ」
「生きられるなら生きて見ろ」
「死なれるなら死んで見よ」
「覚えておれ」
「覚えておれ」
 こう云って口々に罵る声が次第に高くなって来て、しまいには耳の穴が裂けてしまう程烈しくなりました。青眼先生はまるで氷の中に埋められたように、身体《からだ》中がブルブルと震え出して、眼が眩んで倒おれそうになりましたが、やっと一生懸命の勇気を奮い起こして――
「お前達は皆間違っている。私は一人も殺しはせぬ。私はこの国の秘密を守るため……宮中に出入りして悪魔の正体を見届けるため……そのために総理大臣になったのだ。それも自分からなったのではない。王様が無理になすったのだ。紅木大臣をこんな目に合わせたのは私ではない……王様でもない……」
 こう申しますと、沢山の生首は一時に口を揃えて――
「そんなら誰だ」
 と申しました。
 青眼先生は云おうとして云う事が出来ずに、ワナワナと戦《おのの》きながら身のまわりを見まわしますと、沢山の生首が皆一心に自分を見つめて、今にも飛びかかりそうにしています。そうしてその真中の自分の足下《あしもと》には鉄と氷の二タ通りの死骸が虚空を掴んで倒れたまま、これも自分を睨んでいます。青眼先生はその氷の死骸を指して――
「ココココココ……此奴《こいつ》だ」
 と叫ぶと一所に力が尽きて、ウーンと云って気絶してしまいました。
 するとこの時又もや耳の傍で不意に――
「青眼総理大臣閣下へお祝いを申し上げます」
 と云う声が聞こえましたから、誰かと思ってフッと眼を開きますと、こは如何に、最前から見たのはすっかり夢で、自分はちゃんと旧《もと》の寝台《ねだい》の上に寝たままでした。そうして寝台の周囲には最前の通りに御殿中の大勢の役人共が集まっておりました。
 その役人共は青眼先生が眼を覚ますのを見るや否や、皆一時に手を挙げ頭《かしら》を下げて――
「総理大臣公爵青眼閣下。御祝いを申し上げます」
 と口々に申しました。これを見た先生は呆気に取られてしまって、どこからが夢で又どこからが本当なのか、いくら考えてもわかりませんでした。そうしてこれはあまりいろいろの心配をするために、気持ちが変になっているのではあるまいかと思いました。けれども斯様《かよう》に役人が大勢集まって、口々にお祝いの言葉を云うところを見ると、自分がこの国の総理大臣になった事だけは、どう考えても本当で、疑う事が出来ませんでした。

     二十五 止まらぬ花馬車

 一方、気が狂った紅木大臣は、濃紅《こべに》姫の死骸を荷《かつ》いだまま、一息に廊下をかけ抜けて、馬にも乗らず真一文字に、自分の家《うち》に帰り着きました。そうして門を這入るや否や、玄関の横に置いてあった昨日《きのう》の花馬車の中に、濃紅姫の死骸を外套に包んだまま放り込んで、それから廏へ行って名馬の「瞬」を引き出して、自身に馬車に結び付けると、いきなり鞭をふり上げて――
「もとの世界へ帰れ」
 と叫びながら、尻ペタを千切れる程殴り付けました。
 馬は驚いて棹立《さおだ》ちになって、驀然《まっしぐら》に表門を駈け出しますと、丁度そこへ王宮から、紅木大臣を追っかけて来た兵隊が往来一パイになって押し寄せて、一度に鬨《どっ》と鯨波《ときのこえ》を挙げました。馬は益々驚いて、濃紅姫の死骸を載せた馬車を引いたまま大勢の兵隊の真中に駈け込んで、逃げ迷うものを蹴散らし轢《ひ》き倒して、あれよあれよという中《うち》に往来を向うの方に疾風のように駈け出しました。
「それッ。今の馬車には誰か乗っていたぞ。一人も残さず殺してしまえ。逃がすな。余すな。追っかけろ」
 と四五人の兵士が怒鳴りましたが、何しろこの国第一の名馬「瞬」が夢中になって駈け始めたのですから、迚《とて》も人間の足の力では追い附く気遣いはありませぬ。砂埃《すなぼこり》と蹄の音を高く揚げながら、千里一飛びという勢いで都の南の端にある青物市場へ一目散に飛び込みました。さあ大変だと大勢の人々が逃げ迷う間《ま》もなく、往来に積み重ねてある野菜や果物の籠を踏み散らし蹴飛ばして、雨か霰《あられ》のように馬車に浴びせ、直ぐにその隣りの肉類の市場に暴れ込んで、鳥か獣《けもの》のブラ下がったのを片端《かたっぱし》から引き落して駈け抜けると、今度はその次の反物市場に躍り込み、絹や木綿を引き散らして窓や轅《ながえ》や方々に引っかけ、穀物の市場では米麦や穀類を滝のように浴び、瀬戸物市場では小鉢を滅茶滅茶に打ち壊《こ》わし、花市場の花を蹴散らし、魚市場の魚《うお》を跳ね飛ばして散々に暴れ散らした揚句《あげく》、今度は南の国へ通う広い往来を駈け下りました。
 その間幾人の人間を轢《ひ》きたおし、いくらの品物を打ち壊したかわかりませぬ。それでも狂うが上にも狂うた「瞬」の馬車はどうしても止まりませぬ。なおも足を宙に揚げて、死んでも止《とど》まらぬ勢いでどこまでもどこまでもと走りました。
 すると丁度晩方頃「瞬」の馬車が走って行く向うから、顔や身体《からだ》を襤褸《ぼろ》切れですっかり包んで眼ばかり出した香潮《かしお》が、白髪小僧の手を引いてやって来ました。雷のような音を立てて来る「瞬」の馬車を見て、慌てて白髪小僧を片傍《かたわき》へ引っぱって避けさせようとしましたが、彼《か》の時早くこの時遅く、大風のように近附いた「瞬」の馬車は白髪小僧の背中を掠《かす》めて、背負っていた月琴を梶棒に引っかけたままドンドン走って行って、あれよあれよという中《うち》に見えなくなってしまいました。



底本:「夢野久作全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年5月22日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:江村秀之
2000年2月5日公開
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