青空文庫アーカイブ
創作人物の名前について
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)端役《はやく》
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これは探偵小説に限らない。小説を書く人は誰でも経験するところであろう。
如何なる作家の場合でも小説の中の主人公や相手役、端役《はやく》の人物が決定するのと、その人物の名前が決定するのは殆んど同時ではあるまいかと思う。
AともBとも名前をきめないで書いて行く事は、ちょっと不可能のように考えられるし、単に名前だけきめて、性格や年齢、身分までをハッキリさせないまま行き当りバッタリに筋を運ぶのは、少々乱暴であり、危険ではないかと考えられるので、些《すくな》くとも私などには到底出来ない芸当である。
ところでその名前の選み方であるが、これがナカナカ容易でない。性来カンの悪い私などはこの名前の選定について特別に悩まされるので、何の苦もない名前を付けているらしい他人の創作なぞを読んでいる中《うち》に、つくづく自分の無器用さに愛想を尽かす事さえある。
仰向けに引っくり返って太平楽を並べている読者諸君にコンナ愚痴をこぼしても初まる話ではないが、創作の中の人物の名前なんかドウデもいいじゃないか。どうせ出鱈目《でたらめ》に附けるんだから……とか何とか云っている血も涙も無い人々には特に大きな声で申上げておく。創作中の人物の名前を選むという事は、吾児の名前や、自分のペンネームを附けるよりもモットモット苦心するものである。それこそ血のにじむほど涙ぐましい……という程でもないが、相当の神経衰弱に価する苦心を要するもの……という事だけは記憶しておいて頂きたい。
極端に神経過敏になって来ると、その創作の出来不出来は、その作中に活躍する人物の名前の選み方一つに在ると云ってもいい。いい名前が出来ると思わず筆が進んで筋が面白く変化して来る。「金色夜叉」の妙味は貫一、お宮の名前の対照に在る。「不如帰《ほととぎす》」の生命は川島武夫と片岡浪子の八字によって永遠に生きているのじゃないかといったような気持になって来るのだから容易でない。
そんな馬鹿な事が……と笑いたくなる人はもうすこし先を読んでから笑いたくなってもらいたい……と開き直りたくなる位、作家にとっては重大な問題であると思う。
特にこの感が深いのは主人公の名前で、特に探偵小説の場合に於て、そうではないかと思われる。明智小五郎、手塚竜太、帆村荘六、俵巌、シャアロック・ホルムズ、アルセーヌ・ルパン、ルコック、ソーンダイク、エラリー・クイーン等々の名前は、単にその名前が紙面に顔を出しただけでも読者の血を湧かす。その人物の風采《ふうさい》性格から、その服装までもが躍如として眼前に浮み上る。朝雲を破る太陽の如く、深夜を掃照するサーチライトの如く、全篇の生気を一挙に躍動させ初めるのだから大したものである。しかも、ほかの名前では絶対に読者が承知しないのだから作者も一生懸命になって首をひねらざるを得ないのである。
名前は忘れたが露西亜《ロシア》の或る作家は、作中の人物の名前に相応《ふさわ》しいのが見当らないために一日中モスコーの町中の表札を覗きまわって、足が棒だか棒が足だかわからなくなったという。そうしてヤットの思いで気に入った名前を発見した時のその作家の喜びようといったら、それこそ歓天喜天、手の舞い足の踏むところを知らなかったという。
もちろん私は、それ程の苦心をしたおぼえはない。今の世の中では電話帳というものや、紳士録というものがあるから東京市中をウロウロする必要ナンカないのであるが、それでも電話帳や紳士録に乗っている名前では何だかインテリやブルジョアじみているような気がして満足出来ない場合が屡々《しばしば》ある。のみならず私は九州の山奥みたいな処に、狐や狸と一所《いっしょ》に住んでいるのだから、どうしても空に名前を考え出さなければならない場合が非常に多いのであるが、しかもこの空に考えるということが甚だ骨の折れる問題でセッパ詰まった揚句、眼を閉じて字引を開いて、指で押えた処を見ると犇という字であったり、一という字であったりするのでがっかりする。又は女の名前のために博物字典を開くとジャガイモが出て来たりポンカンが出て来たり、バクテリヤという片仮名が並んでいたりする。何々ジャガ子、ポン子、バク子なんていうのはないのでウンザリしている中《うち》に一時間や二時間は飛んでしまう。
大正七年頃であったか、何とかいう飛行将校が夫婦相談の上で、今度生れる子を男の児ときめてナポレオンという名前にきめているところへ女の子が生まれたというのでナポ子と附けたという話が新聞へ出ていたが、吾が児なら構わないかも知れないが、小説は売り物だからそうはいかない。読者を馬鹿にしているといって憤《おこ》られてしまうにきまっている。
そのほか与謝野オーギスト、今井手川四郎五郎左衛門、股毛一寸六、福田メリ子なんていうのは実在の人物ではあるが、小説の場合ではちょっと通用し難いようである。
のみならず小説の中の名前の附け方には色々な条件があって、束縛され方が普通の場合よりも甚しい。特に探偵小説の場合に於て、そうした傾向が甚しいように思われる。
第一の条件というのは自分の書こうと思っている人物の性格や、風采にピッタリした名前でなくてはならぬ事である。もっとも昔の小説だと風采と心が一致している場合が大変に多いのであるが、それはお伽話か神話以来の遺習で、現実味の強い今の小説ではそう手軽く行かないから困る。人は見かけによらぬものという原則に従って、風采の感じと性格の感じとが全然正反対みたような人物が出て来ないと筋の都合が悪いような場合が甚だ多いのであるが、そのような場合でも、そうした矛盾した人物にピッタリと来る名前でなくてはいけない。風采の方にピッタリとする名前を選めば、同時にその正反対の性格の感じも、その中に籠《こ》もっていなければならない。同時にこれに反する場合には、やはりこれに反する条件の下に名前を選まなければならない。さもないと読者はペテンにかけられたような不愉快を心の片隅に残すところがあるのだから、ナカナカ事が面倒である。
おまけにそこへ作者の好みが附随して来るのだからイヨイヨ事が面倒になる。徳富蘆花は片岡浪子を美人と感ずるかも知れないが、私には大した美人とは感じられない。中年以上のオバサンで好人物には違いないが、或《あるい》は相当のオシャベリではないかとさえ感じられる。それだけ蘆花と久作の頭のネウチが違うのだと笑われたらそれ迄であるが、しかし、それは腕前の問題ではない。個性の問題と思う。
探偵小説の中では、昔風に悪人と善人とを区別しなければならない場合が非常に多い。ズット昔(今でも歌舞伎なぞ)では悪人の人相が悪く、名前までも毒々しいが、この頃では……特に探偵小説の中では……人相の柔和な、美しい人物が思いもかけぬ大悪党だったり、札附の前科者が善人であったりしなければならない事が多いのだから、そんな感じの名前を最初から考えておく必要がある。衷心から気心の優しそうな名前の人間が、最後に手錠をかけられるような事を書くと、前にも述べたような理由で読者は何となく欺《あざ》むかれたような不満を感ずる虞《おそれ》があるのだからそのヤヤコシイ事一通りでない。
第二の条件は、その人物の風采が苗字だけ、もしくは名前だけでもスラリと眼に浮ぶような名前を附けなければ損である。もちろんそのうらを行って現実性を強める方法もないではないが、普通の場合、岩山銅蔵という美少年だの、青柳美代吉なんという醜怪な兇漢なぞは落第である。トラ子と花子と二人並べたら花子の方が美人にきまっているし、松子と清子なら清子の方が病身にきまっている。大山壮太郎が小男で、小川一平が雲突く大男と書いたら読者はちょっと首をひねるであろう。
第三の条件は読者に記憶され易いことである。これは特にむずかしい条件であるが、創作人物の名前を選むについては第一の条件と共に最重要な考慮を払わなければならぬ問題である。
……といっても理屈は別にむずかしい事ではない。
早い話が田中とか、山本とか、林、中村、又は長兵衛、芳夫、太郎、次郎、三郎といったようなアリフレた名前をヤタラに組合わせて並べて行くと、読者はキット途中で作中の人物を混線さしてしまう。筋からハグラかされてアクビを出すか、本を投出すかするところがあるのだから、こんなのは先ず遠慮した方が賢明である。
そうかといって猫舌とか、鰐口とか、黒手とか赤足とかいったような突飛《とっぴ》な名前を持出すと、その一つでも全篇の実感をワヤにする虞《おそれ》がある。又は長谷倉とか東海林とかいったような稀有の実在名を持出すと振仮名の間違いという恐ろしい危険に陥り易いし、わざとらしい感じが必ず附き纏うのだから万止むを得ない限り使わない方が無難と考えられる。
第四の条件は実在の名前を……たとえば電話帳などに多く出て来る名前をなるだけ使いたくない事である。
前にも述べた通り、実在しない突飛な名前を使うと、読者の記憶へは残り易い代りに、この全篇の迫真性を極度に薄める虞《おそ》れが非常に大きい。馬琴などは石亀屋地団太だの鼠川嘉治郎なんていうのを平気で使っているが、今頃使ったら物笑いの程であろう。
しかし一方に実在の名前をなるたけ使おうとすると困る問題が一つ出て来る。
これも前述の通り探偵小説では善人と悪人とをハッキリ区別しなければならない場合が非常に多いのだから、善人の場合は差支えないが、悪人の名前にウッカリ実在の名前を使うと意外な結果を招き易い。
これは架空の話だから御差し合いの方には真平《まっぴら》御免下さいであるが、田中という人物が唾棄すべき悪党であったり、林という美人が自動車に轢《ひ》き潰されたり、中村という先生が八ツ切りにされたりしたら日本中の田中氏、林氏、中村氏は、作者に対して報復しようのない怨恨を抱き、不浄を感じ、嫌悪の情を以て本を投出す虞《おそれ》がある。それ程でなくとも作者として一種の変テコな失礼を四方八方に働らいたような良心的な苛責を感ずる事になるのだからツイ遠慮したくなるのである。
こうして種々な条件を附けて来ると、創作人物の名前なるものは、いい加減、神経衰弱のタネになるものである。だから私などは今日まで気に入った名前ばかりで一篇を創作した場合は一度もないので、十中八九は、いい加減なところで辛抱して来た場合が非常に多い。
無責任なようではあるが、そんな風に考えて徹底的に神経衰弱が静まるところまで満足し得る名前を発見しようとしていたら、締切りに間に合わない場合が多いのだから止むを得ない。
又一方から見ると作者が創作人物の名前を悠々閑々と思案する……などいう事は今のスピード時代には望まれない事かも知れない。
作者の道楽かもしくは、お庭の石を彼方《あっち》此方《こっち》と動かしては眺めるのと同じ格の一種の隠居仕事かも知れないと思われる。
妙なものと云おうか、又はありがたい事と云おうか、ここに一つ不思議な現象がある。
最初はいい加減な名前で我慢して、そのうちにいい名前を附けてやるつもりで筋を進めて行く中《うち》に、その名前と、その人物が、いつの間にかシックリして来て、到底切り離すことが出来なくなる場合が非常に多い。
最初は不似合に思っている名前でも原稿紙の十四五枚も書いて行く中《うち》に、その名前を書いただけで、その人物の顔形から、背丈、体格から、その地位、趣味、ステッキやハンドバックの色恰好、その書斎に並んでいる愛読書の種類まで一ペンにズラリと眼の前に浮かみ上って来るようになるので、そうなると、ほかの名前を持って来ても絶対に受付けられなくなる。それを読者に対する気兼ねや何かで、無理にほかの名前に改名させると、全然別人の感じになってしまって全体の筋から書き直さなければならなくなる事が度々《たびたび》である。つまり作者はその名前から受ける感じで筋を運んで行くものらしい事が、ここに於てハッキリと自覚されるので、これは自分ばかりに限った事ではあるまいか、それとも他の作者にも共通した心理現象であろうか時々首をひねってみる事がある位である。
もう一つ面白いのは主役と端役《はやく》とで名前の附け方が違うことである。
端役の名前などはドウでもいいと思うのは大変な間違いである。主役の名前はどこでも主役らしく、端役の名前は必ず端役らしく附けて行かなければならぬ事は無論であるが、その主役に対する色どり、対照の軽重なぞを一歩誤ると、読者に余計な注意力を浪費させ、筋の混濁を惹起し、全篇の風姿を打毀すことがあるのだから油断がならない。
同時に後から主要な役割を受持つ端役の名前は、最初からそうした用意も籠めて名前を選んでおかなければならないのだから、端役の選名といっても中々軽々しく行かないのである。
おかしいのは赤ちゃんの名前を、やはり赤ちゃんらしく可愛いくしておかなければならないので、そいつが大きくなって悪党になったりする時に非常に困ることがある。
更にモウ一つ厄介なことに作者がそういった感じをもって選名をしても、読者の方でそう感じない場合を考慮しなければならないという問題があるが、しかしこれはチョット見当が附かないから困る。
私なぞに云わせると栗島スミ子という名前は中年のインテリ婦人の名前がするし、江川蘭子はスレッ枯らしの有閑令嬢らしい感じがするのであるが、しかし万人が万人、そう感ずるかどうかは疑問である。
全く閉口するのは西洋人の名前である。外国人の名前の特徴なんか外国語の出来ない私にとっては全然わからないし、況《いわ》んやその名前によって、その髪毛や瞳の色を想像させるような芸当は一生涯出来ないものと諦らめている。
万止むを得ない場合には世界地図を開いて、その人間の生れ故郷の地名や、附近の地面の発音の特徴をもじって作るよりほかに方法を知らないので、こうして白状するさえ情ない気がする。
厳密に云うと日本でも、その地方地方で特有の名前がある。
蛙鳴くや一村姓を同じうす
という素人俳句が記憶に残っているが、そんな工合で或る地方の出来事を書くに、その地方に有り勝ちの名前ばかりを使って事件を運べば、非常によく実感が出る筈であるが、そこまでは行届かないから略する事にしている。
いずれにしても創作人物の名前が、神経衰弱のタネになるのは私一人ではないらしい。
しかもウッカリすると、作者の個性だか趣味だかが一定しているために、全然別の創作の中の同じような性格の人物の名前が、似通ったようなのがチョイチョイ出て来る事もあるのだから油断がならない。
しかし又一方にそうした傾向を利用した、作者の趣味とピッタリした人物を中心にして色々な物語を書いて行くのはたしかに賢明な方法である。
ホームス、ルパン、ミッキーマウス、ノラクロ何とかいったような名前は、要するに創作人物の名前の持つ魅力を百パーセントに利用したもので、そんなダシの利く名前を発見した人の喜びは考えるさえ嬉しくてならない。
まだまだ創作人物の名前については重要な事を沢山に書残しているようであるが、さてこうして書き初めてみるとナカナカ重大な問題らしく、あとから――書く事がイクラでも出て来るのに驚いている。
まことに辻褄の合わない事ばかり並べ立てたようであるが、今までの小説評に、名前の附け方の評なぞ出ないようである。しかも考えようによっては、創作人物の名前の附け方というものは、たしかに一つの立派な芸術のように思われるから、ちょっとその口開きまでにコンナ愚文を発表してみた。
底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2001年10月29日公開
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