青空文庫アーカイブ

狂人は笑う
夢野久作

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)可笑《おか》しい

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)特別|誂《あつら》えの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改頁]
-------------------------------------------------------


   青ネクタイ


「ホホホホホホホ……」
 だって可笑《おか》しいじゃありませんか。
 ……妾《わたし》はねえ。失恋の結果世を儚《はか》なみて、何度も何度も自殺しかけたんですってさあ。
 いいえ。妾は知らないの。そんな事をした記憶《おぼえ》はチットも無いのよ。初めっから失恋なんかしやしないわ。第一相手がわからないじゃないの……ねえ。可笑しいでしょう。ホホホホホホ……。
 それあ変なのよ。女学校を出てからというもの毎日毎日お土蔵《くら》の二階の牢屋みたいな処に閉じ込められて、一足も外へ出ちゃいけないって云い渡されていたの。何故《なぜ》だかよくわからないけど……おまけに着物も何も取上げられちゃって、妾ほんとうに極《きま》りが悪かったわ。着物を引裂いて首を縊《くく》るからですってさあ。妾はもう情なくて情なくて………。
 御飯を持って来てくれるのは乳母《ばあや》だけなの。お父さんは妾が生れない前にお亡くなりになるし、お母さんも妾をお生みになると直ぐに、どこかへ行っておしまいになったんですって……。ですから妾は、その頃まで独身者で、お金を貸していた叔父《おじ》さんの手に引き取られて、その乳母《ばあや》のお乳で育ったのよ。それあいい乳母《ばあや》だったの……。
 その乳母《ばあや》が、妾が小さい時に持っていた、可愛らしい裸体《はだか》のお人形さんを持って来てくれた時の嬉《うれ》しかったこと……。
 ……まあ。お前は今までどこに隠れていたの。お母様と一緒に遠い処へ行っていたの。よくまあ無事で帰って来てくれたのね……ってそう云って頬ずりをして泣いちゃったのよ。そうして妾は、それからというもの、毎日毎日来る日も来る日も、そのお人形さんとばっかりお話していたの。お母様のことだの、お友達のことだの、先生の事だの……それあ温柔《おとな》しい、可愛らしい、お利口な、お人形さんだったのよ。
 そうしたらね。そうしたら或る夕方のことよ……。
 お土蔵《くら》の鼠が、そのお人形さんのお腹を喰い破っちゃったの。そうして中から四角い、小さな新聞紙の切れ端を引き出したのよ。妾がチャンと抱っこしていたのに……ええ。そうなのよ。そのお人形さんのお腹の壊れた処を新聞で貼って、その上から丈夫な日本紙で貼り固めて在《あ》ったの。それが剥《は》がれて出て来たの。大方《おおかた》鼠がその糊を喰べようと思って引き出したのでしょう。可哀そうにねえ。
 妾その時ドレ位泣いたか知れやしないわ。そうしてね、余《あんま》り可哀そうですから、頂き残りの御飯粒で、モト通りに貼ってやりましょうと思った序《ついで》に、何の気も無しに、その切端《きれはし》の新聞記事を読んでみたらビックリしちゃったの。妾、今でも暗記してるわ……あんまり口惜しかったから……。
 こうなのよ……。
 ……彼女は遂に発狂して、叔父の家の倉庫の二階に監禁《かんきん》さるるに到った。ここに於て彼女を愛していた名探偵青ネクタイ氏は憤然として起《た》ち、この事実の裏面を精探すると、驚くべき真相が暴露《ばくろ》した。すなわち強慾なる彼女の叔父は、彼女の母親の財産を横領せむがため、窃《ひそ》かに彼女の母親を殺して、地下室の壁の中に塗籠《ぬりこ》めたもので、次いでその遺産の相続者たる彼女を不法檻禁して発狂せしめ、法律上の相続不能者たらしめようとしていた確証が発見され、彼女の正気なる事が判明したので、彼女は巨万の富を相続すると同時に、青ネクタイ氏と結婚する事になった。同時に悪《にく》むべき彼女の叔父は死刑の宣告を受けて……。
 ……っていうのよ。ねえそうでしょう。あのお人形さんは、妾に本当の事を教えに来てくれた天使だったのよ。ねえ。そうでしょう。妾、その晩、日が暮れると直ぐに、お土蔵《くら》を脱《ぬ》け出しちゃったの……。
 いいえ。お土蔵《くら》を脱け出すくらい何でもなかったのよ。妾あんまり口惜しかったから、アノお土蔵《くら》の二階の窓に嵌《は》まっていた鉄の格子《こうし》ね。あれを両手で捉まえて力一パイ引っぱってやったら、まるで飴《あめ》みたいに曲ってしまって、窓枠と一緒にボロボロッと抜けて来たのよ。キット鉄でなくて、鉛か何かだったのでしょう。何から何まで人を欺《だま》していたことが、その時に、初めてわかったわ。妾は口惜し泣きしいしい、その窓から飛び降りたのよ。
 それから人に見付からないように、お縁側から這《は》い上って、奥の押入の中に在る長持と、壁の間に挟《はさま》ってジイッとしていたの。随分苦しかったわ……でも叔父は用心深いんですからね。雨戸を閉めちゃったら、もうトテモ這入《はい》れないのよ。そのうちに、やっとの思いで夜が更《ふ》けて来て、お台所の時計が十二時を打つのをチャンと数えてから、ソーッと押入を出て行って、叔父の蒲団《ふとん》の下に隠して在った白鞘《しらさや》の刀を、中味だけソーッと引き抜いてしまったの……叔父はいつもそうして寝ていたんですからね。そうして素《す》ッ裸体《ぱだか》のままお酒を飲んで寝ている憎らしい叔父の顔をメチャメチャに斬ってやったの……お母さんの讐敵《かたき》……って云ってね。
 ……それあ怖かったわ。血みどろになった素《す》ッ裸体《ぱだか》の叔父が、死物狂いになって掴みかかって来るんですもの。それをあっちに逃げたり、こっちに外《そら》したりしながらヤットの思いで斬り倒してやったわ。
 それから大勢の雇人《やといにん》が出て来て、妾の事をキチガイだキチガイだって、ワイワイ騒ぎ出したの。妾口惜しかったから思い切って暴れてやったわ。大きな男が色んな物を持って向って来るのを、何人も何人も斬ったり突いたりしてやったけど、大勢にはどうしても敵《かな》わなかったの……だって撃剣の上手なお巡査《まわり》さんなんか呼んで来て加勢させるんですもの。妾、お床の間の前に追い詰められながら、一生懸命に刀を振りまわして闘ってみたけど、トウトウ刀をタタキ落されちゃったの。おまけに叔父さんの死骸《しがい》に引っかかってドタンと尻餅を突いたお蔭で逃げ損って、そのお巡査《まわり》さんに押え付けられてしまったのよ。デモ面白かったわ。ホホホホホホ……。
 それから自動車でこの病院に連れて来られると、ここの院長さんが思いがけない親切な方で、トテモトテモ頭のいい方だったのよ。お美味《いし》い冷水《おひや》を何杯も何杯も御馳走《ごちそう》して下すった上に、妾の話をスッカリ聞いて下すって、色んな事を云って聞かせて下すったのよ。……モウ暫くの間キチガイになった振りをして、この病院に這入っていた方がいいってネ……そう仰言《おっしゃ》るの……お前の叔父さんはまだ生きていて、青ネクタイ氏と裁判所で争うって云っているのだから、その叔父さんの罪状が決定して、監獄に入られるようになったら、その時に病院から出してやる。青ネクタイ氏とも結婚させてやる。それまで辛抱して待っていないと、叔父さんが又ドンナ悪企みをして、お前の生命《いのち》を取りに来るか解らない。しかしこの鉄筋コンクリートの室《へや》に隠れていれば、誰も近づく事は出来ないからってネ……そう云って下すったから、妾スッカリ安心して、ここに隠れているのよ。そのうちに青ネクタイ氏が、キット会いに来て下さると思ってネ……楽しみにして待っていたのよ……。
 そうしたら可笑《おか》しいの……まあ聞いて頂戴《ちょうだい》……この頃ヤット気が付いたの……。
 ここの院長さんこそ名探偵の青ネクタイ氏なのよ。……ホラ御覧なさい。誰だってビックリするにきまっているわ。妾だってオンナジ事よ。あんなに頭が禿《はげ》ていらっしゃるのでチットも気が付かなかったのよ。
 でもこの頃、窓の前をお通りになるたんびに青いネクタイを締めていらっしゃるでしょう。新しい……派手なダンダラ縞《じま》の……ネ。ですからもしやそうじゃないかと思って気を付けていたらヤットわかったのよ。
 妾、感謝しちゃったわ。あんなにまで苦心して、妾を保護して下さるんですもの……。
 何故ってあの禿頭《はげあたま》は変装なのよ。仮髪《かつら》なのよ。オホホホホホ。可笑しいでしょう。妾はチャンと知っているけど知らん顔をしているの。でも時々可笑しくて仕様がなくなるのよ。
 あんな禿頭の人と結婚するのかと思ってね。ホホホホホホ。ハハハハハハ……。
[#改頁]


   崑崙茶《こんろんちゃ》


 婦長さん……看護婦長さん。チョットお願いがあるんです。ちょっと来て下さい。大至急のお願いが……。
 あのね……耳を貸して下さい。済みませんが……。
 ……僕の不眠症の原因がわかったんです。ここへ入院してからというもの、どうしても眠れなかった原因が……。
 僕は飛んでもない呪詛《のろい》にかかっているのです。イイエ。虚構《うそ》じゃありません。卒業論文なんかに呪詛《のろ》われて、神経衰弱にかかったんじゃありません。別にチャンとした原因があるのです。事実の証拠が眼の前に在るのです。
 僕はね……ビックリしちゃいけませんよ。僕はね。すぐ横のベッドに寝ている支那の留学生ね。アイツに呪詛われているのですよ。あいつに呪詛われて殺されかけているのです。ですからこの室《へや》に居たら到底助かりっこないのです。
 エッ……どの支那人かって……? ……ホラ……そこに寝ているじゃありませんか。貴女《あなた》の背後《うしろ》の寝台に……エッ……そんなものは見えないって……? ……貴女は眼がドウかしているんじゃないですか。……ね。わかったでしょう。あいつですよ。ツイ今しがた先生に注射をしてもらったばかりなんです。ね、グーグー眠っているでしょう。
 何ですって……? ……あの支那人を僕の脅迫《きょうはく》観念が生んだ妄想だって云うんですか……? ……そ……そんな事があるもんですか。チャンとした事実だから云うんです。ね。御覧なさい。死人のように頬《ほっ》ペタを凹《へこ》まして、白い眼と白い唇《くちびる》を半分開いて……黄色い素焼みたいな皮膚《ひふ》の色をして眠っているでしょう。
 僕はあの顔色を見てヤット気が付いたのです。この留学生はキット支那の奥地で生れたものに違い無い。あの界隈《かいわい》で有名な、お茶の中毒患者に違い無いと……。
 イイエ。貴女は御存じ無い筈《はず》です。
 お茶に中毒した人間の皮膚の色は、みんなアンナ風に日暮れ方のような冷たい、黄色い色にかわるのです。光沢《いろつや》がスッカリ無くなってしまうのです。そうして非道《ひど》い不眠症に罹《かか》って、癈人みたようになってしまうのです。
 イヤ。それが普通のお茶とは違うのです。
 普通のお茶だったら僕なんかイクラ飲んだってビクともするんじゃありませんがね。あの留学生が持っている奴はソンナ生やさしいもんじゃありません。崑崙茶《こんろんちゃ》といって、一種特別のタンニンを含んだお茶から精製したエキスみたいなものなんです。ですからトテモ口先や筆の先では形容の出来ない、天下無敵のモノスゴイ魅力でもって、タッタ一度で飲んだ奴を中毒させてしまうんです。トッテモ恐ろしい、お茶の中のお茶といってもいい位な、お茶の中のナンバー・ワンなんです。
 その崑崙茶のエキスで作った白い粉末で「茶精」[#「茶精」は底本では「精茶」と誤記]っていう奴をあの留学生は、どこかに隠して持っているのです。どこに隠しているかわかりませんが……支那人の中には魔法使いみたような奴が多いのですからね。……そいつを僕の枕元の鎮静剤《ちんせいざい》の中に、すこし宛《ずつ》粘《ひね》り込んでいるんです。そうして誰にもわからないように、僕の生命《いのち》を取ろうとしているのです……僕は時々頭から蒲団《ふとん》を冠《かぶ》る癖《くせ》がありますからね。その隙《すき》に入れるんだろうと思うんですが……僕が頂いている鎮静剤はステキに苦いでしょう。おまけにプンと臭《にお》いがするでしょう。ですから「茶精」が仕込んで在るのが解らないんです。
 エッ……そんな悪戯《いたずら》をする理由ですか。
 それあ解り切っているじゃありませんか。貴女はまだ不眠症にかかった事が無いんですね。そうでしょう。……いつもかも、睡《ね》むくて困る……アハハ……だから不眠症患者の気持がわからないのですよ。
 ……こうなんです。アイツは僕が先生の注射のお蔭でグーグー眠っているのを見ると、妙に苛立《いらだ》たしくなって、癪《しゃく》に障《さわ》って来るのです。そうして終《しま》いには殺してしまいたいくらい憎らしくなって来るんです。
 イイヤ。そうなんです。これが不眠症患者の特徴なんです。つまり極端なエゴイストになってしまうんですね。いくら眠ろう眠ろうと思っても、思えば思うほど眠れない事がわかって来ると、だんだん気違いみたいな気持になって来るんですよ。……世界中の人間が一人残らず不眠症にかかって、ウンウン藻掻《もが》いている真中《まんなか》で、自分一人がグーグー眠れたらドンナにか愉快だろう……なんかと、そんな事ばっかりを、一心に考え詰めている矢先《やさき》に、横の方から和《な》ごやかな寝息がスヤスヤ聞えて来たりなんかしたら、最早《もう》トテモたまらなくなるんです。神経が一遍に冴え返ってしまって、煮えくり返るほど腹が立って来るんです。聞くまいとしてもその寝息が一つ一つにスヤリスヤリと耳の奥に沁《し》み込《こ》んで来る。そのたんびに腹立たしさがジリジリと倍加して行く。しまいにはその寝息の一つ一つが、極度に残忍な拷問《ごうもん》か何ぞのように思われて来て、身体《からだ》中にビッショリと生汗《なまあせ》がニジミ出て来るのです。そうして、その寝息をしている奴を殺すか、自分が自殺するか、二つに一つ……といったような絶体絶命の気持になって、あっちに寝返り、こっちに寝返りし初めるのです。アイツは僕のために、毎晩そんな気持を味わせられているんです。おまけに僕は肥厚性鼻炎なんですから、眠ると夜通しイビキを掻《か》くでしょう。その上に相手は個人主義一点張りの支那人と来ているんですから、一層たまらない訳でしょう。
 ですからアイツはその茶精を使って、僕を絶対に眠らせまいとしているのです。そうして僕を次第次第に衰弱させて、殺して終《しま》おうと巧《たく》らんでいるのです。
 イヤ。それに違い無いのです。僕は昂奮《こうふん》なんかしていません。キットそうなのです。駄目です駄目です。僕の空想なんかじゃありません。……この室《へや》に居ると僕はキット殺されます。……どうぞ助けると思って僕を他の室に……エッ……室が満員なんですって? そんなら野天《のてん》でも構いません。どうぞどうぞ後生ですから、僕を別の室に……。
 ……何ですか。崑崙茶の由来ですか。……貴女は御存じ無いのですか。
 ヘエ。崑崙茶がドンナお茶か見当が付けば、中毒を解くのは何でもない。……成る程。植物性の昂奮剤は色々あるから、話をよく聞いて見ない事には見当の付けようがない。……そんなものですかねえ。……そんなら訳はないでしょう。その留学生が持っている「茶精」を取上げて分析してみたら直ぐに判明《わか》るでしょう。
 ……成る程。隠している処がわからないと困る……それもそうですね。キット魔法使いみたいな奴に違い無いのですからね。……そればかりじゃない。注射で眠っている奴を途中で起すと、利《き》き残った薬が身体《からだ》に害をする……そんなもんですかねえ。ヘエ……。
 実は僕も崑崙茶の成分なんか知らないんですがね。イイエ。与太話なんかじゃありません。そのお茶に関するモノスゴイ話だけなら、ズット以前に何かの本で読んだ事があるんですが……僕はモトから支那の事を研究するのが好きでね。支那は昔から実に不思議な国ですからね。僕の憧憬《あこがれ》の国といってもいい位なんです。今度の卒業論文にも支那の降神術に関する文献の事を書いておいたんですが……。
 ヘエ。貴女《あなた》も支那のお話がお好きですか。御祖父《おじい》さんが漢学者だったから……ああそうですか。それじゃ聞かして上げましょうとも。しかし、他の話なら兎《と》も角《かく》、崑崙茶の話だったら、その御祖父様から、最早《もはや》、トックの昔にお聞きになっているかも知れませんがね。有名な話ですから……ヘエ。全く御存じ無いんですか。妙ですね。それじゃ貴女が思い出されるかどうか話してみましょう。
 しかしその支那人が眼を醒ましやしないでしょうか。ヘエ。明日《あす》の朝まで大丈夫。そうですか。それじゃお話しましょう。まあ腰をかけて下さい。
 貴女は四川《しせん》省附近に、お茶で身代《しんだい》を無くした人間が多い事を御存じじゃ無いですか。ヘエ。それも御存じ無い。アノ附近に限られているのですからかなり有名な事実なんですが……。
 エエ、そうです。随分珍妙な話なんです。酒や女で身代限りをするのなら当り前ですが、お茶の道楽で身体《からだ》を持ち崩して、破産するというのですから、馬鹿馬鹿しいのを通り越しているでしょう。トテモ支那でなくちゃ聞かれない話なんです。
 御存じの通り支那人という奴は……聞えやしないでしょうね……チャンチャンという奴は、国家とか、社会とかいう観念となると全然無いと云っていい位に、個人主義的な動物ですが、その代りに私的の生活に関する、享楽《きょうらく》手段の発達している事といったら、世界一と断言していいでしょう。着物でも、住居《すまい》でも、料理でも、酒でも、香料でも……ね……御存じでしょう……エロの方面でも何でも、個人的な享楽機関と来たら、四千年の歴史を背景《バック》にしているだけに、スバラシイ尖端《せんたん》的なところまで発達を遂げているんです。
 ……ですからタッタ一つのお茶といったような問題に就《つ》いても、ドエライ研究が行き届いているに違い無い事が、すぐに想像されるでしょう。
 全くその通りなんです。しかも日本人なんかがイクラ想像したって追付《おいつ》かない位、メチャクチャな発達を遂げているのですが、その中でも亦《また》、特別|誂《あつら》えの天下無敵の話っていうのが、この崑崙茶の一件なのです。
 先ず、支那の奥地の四川《しせん》省から雲南《うんなん》、貴州《きしゅう》へかけて住んでいる大富豪の中で、お茶の風味がよくわかって、茶器とか、茶室とかの趣味に凝《こ》り固まった人間が居るとしますかね。又は酒や、女や、阿片や、賭博なんかでも、あらゆる贅沢《ぜいたく》をし尽した道楽気の強い人間が、今度は一つ、お茶の趣味に深入りしてやろうと決心したとしますかね。いいですか。そこで何でも彼《か》でも良《い》いお茶良いお茶と金に飽《あ》かして、天井《てんじょう》知らずに珍奇なお茶を手に入れては、それを自慢にして会合を催したり、ピクニックを試みたりして行くうちには、キット崑崙茶を飲みたいというところまで、お茶熱が向上して来るのです。……むろん崑崙茶といったら、お茶仲間の評判の中心で、魅惑《みわく》のエースと認められている事だし、お出入りのお茶屋が又チャンチャン一流の形容詞沢山で……崑崙茶の味を知らなければ共にお茶を談ずるに足らず……とか何とか云って、口を極《きわ》めて誘惑《ゆうわく》するんですから、下地のある連中はトテモたまりません。それでは一つ……といったような訳で、思い切り莫大なお金をお茶屋に渡して、周旋を頼むことになるのです。
 ところで崑崙茶を飲みに行く連中が、雲南、貴州、四川の各地方の都会に勢揃いをして出かけるのは、大抵正月過ぎから二月頃までの間だそうです。つまり崑崙山脈までの距離の遠し近しによって、出発の早し遅しが決まるのだそうですが、その行列というのが又スバラシイ観物《みもの》だそうです。
 真先《まっさき》に黄色い旗を捧げた道案内者が、二人か三人馬に乗って行くと、その後から二三匹|宛《ずつ》、馬の背中に結び付けられた猿が合計二三十匹、乃至《ないし》、四五十匹ぐらい行くのです。その間間《あいだあいだ》に緑色の半纏《はんてん》を着た茶摘《ちゃつみ》男とか、黄袍《おうほう》を纏《まと》うた茶博士《ちゃはかせ》とかいったような者が、二三十人|入《い》り交《まじ》って行くのですが、この猿が何の役に立つかは後で解ります。それから些《すく》なくて三四台、多くて七八台から十台位の、美事に飾り立てた二頭立の馬車が行くので、その中に崑崙を飲みに行く富豪だの貴人だのが、めいめいに自慢の茶器を抱えて乗っている訳ですが、この時に限って支那富豪に附き物のお妾《めかけ》さんは、一人も行列の中に加わっておりません。全く男ばかりの行列なんだそうですが、その理由も追々《おいおい》とわかって来るでしょう。
 その後から金銀細工の鳳凰《ほうおう》や、蝶々なんぞの飾りを付けた二つの梅漬《うめづけ》の甕《かめ》を先に立てて、小行李とか、大行李とかいった式の食料品や天幕《テント》なんぞを積んだ車が行く。その後から武器を持った馬賊みたような警固人が、堂々と騎馬隊を作って行くので、知らない者が見ると戦争だかお茶飲みだかチョット見当が付かない。ちょうど阿剌比亜《アラビヤ》の沙漠を渡る隊商ですね。とにかくソンナ大騒ぎをやって、新茶を飲みに行こうというんですから、支那人の享楽気分というものが、ドレ位徹底しているものだか、殆《ほと》んど底が知れないでしょう。
 彼等はそれから嶮岨《けんそ》な山道を越えたり、追剥《おいはぎ》や猛獣の住む荒野原を横切ったり、零下何度の高原沙漠を、案内者の目見当一ツで渡ったりして、やがて崑崙山脈の奥の秘密境に在る、遊神湖《ゆうしんこ》という湖の近くに到着するのです。そこいらは時候が遅いので、ちょうどその頃が春の初めくらいの暖かさだそうですが、その景色のよさといったら、実に何ともカンとも云えないそうですね。
 詳《くわ》しい事は判然《わか》りませんが、その遊神湖という湖の周囲には、歴史以前に崑崙国といって、素敵に文化の進んだ一つの王国があったそうです。ところが、その国民は極端に平和的な趣味を愛好した結果、崑崙茶の風味に耽溺《たんでき》し過ぎたので、スッカリ気力を喪《うしな》って野蛮人《やばんじん》に亡ぼされて終《しま》ったものだそうです。今でもその廃墟が処々の山蔭や、湖の底からニョキニョキと頭を出しているそうですが、その周囲には天然の森が茂り、高山風の花畠が展開して、珍らしい鳥や見慣れぬ蝶が、長閑《のどか》に舞ったり歌ったりしている。底の底まで澄み切った青空と湖の中間には、新鮮な太陽がキラリキラリと回転している……といったような絵にも筆にもつくせない光景が到る処に展開している。その中でも一番眺望のいい処に、各地方から集まった隊商たちは、先を争って天幕《テント》を張《は》りまわすと、手に手にお香《こう》を焚《た》いたり、神符《しんぷ》を焼いたりして崑崙山神の冥護《めいご》を祈ると同時に、盛大なお茶祭を催して、滅亡《ほろ》びた崑崙王国の万霊を慰めるのだそうですが、これは要するに、迷信深い支那人の気休めでしかないと同時に、お茶の出来る間の退屈|凌《しの》ぎに過ぎないのでしょう。
 一方に馬から離れた茶摘男たちは、一休みする間もなく各自《めいめい》に、長い長い綱を附けた猿を肩の上に乗せて、お茶摘みに出かけるのです。鬱蒼《うっそう》たる森林地帯を通り抜けると、巌石《がんせき》峨々《がが》として半天に聳《そび》ゆる崑崙山脈に攀《よ》じ登って、お茶の樹を探しまわるのですが、崑崙山脈一帯に叢生《そうせい》するお茶の樹というのは、普通のお茶の樹と種類が違うらしいのです。皆スバラシイ大木ばかりで、しかも、切って落したような絶壁の中途に、岩の隙間を押分けるようにして生《は》えているのだそうですから、猿でも使わない事には、トテモ危険で近寄れない訳です。ところでその猿が又、実によく仕込んだもので、そんなお茶の大木の梢《こずえ》にホンノちょっぴり芽を出しかけている、新芽の中の新芽ばかりをチョイチョイと摘《つ》み取ると、見返りもせずに人間の手許へ帰って来るのだそうです。
 そこでソンナような冒険的な苦心をした十人か十四五人の茶摘男が、めいめいに一握りか二握りのお茶の新芽を手に入れると、大急ぎで天幕《テント》張りの露営地に帰って来ます。そうすると待ち構えていた茶博士……つまりお茶湯《ちゃのゆ》の先生たちですね。それが崑崙茶の新芽を恭《うやうや》しく受取って、支那人一流の頗付《すこぶるつ》きの念入りな方法で、緑茶に製し上げるのです。それから附近の清冽な泉を銀の壺に掬《く》んで、崑炉《こんろ》と名づくる手捏《てづく》りの七輪《しちりん》にかけて、生温《なまぬる》いお湯を湧かします。そうしてその白湯《さゆ》を凝《こ》りに凝《こ》った茶碗に注《つ》いで、上から白紙の蓋をして、その上に、黒い針みたような崑崙の緑茶を一抓《ひとつま》みほど載せます。そうしてその白紙の蓋がホンノリと黄色く染まった頃を見計《みはか》らって、紙の上の茶粕を取除《とりの》けると、天幕《テント》の中に進み入って、安楽椅子の上に身を横たえた富豪貴人たちの前に、三拝九拝して捧げ奉るのです。
 富豪貴人たちはそこで、その茶器の蓋をした白紙を取除いて、生温《なまぬる》い湯をホンノ、チョッピリ啜《すす》り込むのです。むろん一口味わった時には、普通の白湯《さゆ》と変りが無いそうですけれども、その白湯を嚥《の》み下さないで、ジッと口に含んだままにしていると、いつとはなしに崑崙茶の風味がわかって来る。つまり紙の上に載っていた緑茶の精気が、紙を透した湯気《ゆげ》に蒸《む》されて、白湯の中に浸み込んでいるのだそうですが……。
 ……ドウデス。ステキな話でしょう。それはもう何とも彼《かん》ともいえない秘めやかな高貴な芳香が、歯の根を一本一本にめぐりめぐって、ほのかにほのかに呼吸されて来る。そのうちにアラユル妄想や、雑念が水晶のように凝《こ》り沈み、神気が青空のように澄み渡って、いつ知らず聖賢の心境に瞑合《めいごう》し、恍然《こうぜん》として是非を忘れるというのです。その神々《こうごう》しい気持よさというものは、一度|味《あじわ》ったらトテモトテモ忘れられないものだそうです。
 ええ。無論そうですとも。夜になっても眠られないのは、わかり切った事ですが、しかし富豪たちはチットも疲れを感じません。影のように附添って介抱する黄色い着物の茶博士たちが、入れ代り立ち代り捧げ持って来る崑崙茶の霊効でもって、夜も昼も神仙とおんなじ気持になり切っている。神《しん》凝《こ》り、鬼《き》沈《しず》み、星斗と相語り、地形と相抱擁《あいほうよう》して倦《う》むところを知らず。一杯をつくして日天子《にってんし》を迎え、二杯を啣《ふく》んで月天子《げってんし》を顧みる。気宇|凜然《りんぜん》として山河を凌銷《りょうしょう》し、万象|瑩然《えいぜん》として清爽《せいそう》際涯《さいがい》を知らずと書物には書いてあります。
 けれどもその間は、お茶の味をよくするために食物を摂《と》りません。ただ梅の実の塩漬と、砂糖漬とを一粒|宛《ずつ》、日に三度だけ喰べるのですから、富豪たちの肉体が見る見る衰弱して行くのは云う迄もない事です。安楽椅子に伸びちゃったまま、黄色い死灰《しかい》のような色沢《いろつや》になって、眼ばかりキラキラ光らしている光景は、ちょうど木乃伊《ミイラ》の陳列会みたいで、気味の悪いとも物凄いとも形容が出来ないそうです。
 ところが、おしまいにはその眼の光りもドンヨリと消え失せてしまって、何の事はないキョトンとした空《から》っぽの人形みたいな心理状態になる。身動きなんか無論出来ないのですから、お茶は介抱人に飲ましてもらう。その時のお茶の味が又、特別においしいのだそうで、身体《からだ》中がお茶の芳香に包まれてしまったようなウットリとした気持になるのだそうですが、やはり神経が弱り切っているせいでしょうね。その代りに糞《くそ》も小便も垂れ流しで、ことに心神|消耗《しょうもう》の極、遺精を初める奴が十人が十人だそうですが、そんなものは皆、茶博士たちが始末して遣るのだそうで、実に行届いたものだそうです。
 こうして二三週間も経つうちに、最初は麓《ふもと》の近くに在った新茶の芽が、だんだんと崑崙山脈の高い高い地域に移動して行きます。それに連れて採取が困難になって来る訳で、やがて新茶が全く採れなくなったとなると、茶摘男と茶博士が一緒になって、その生きた死骸みたいに弱り切っている富豪貴人たちを、それぞれに馬車の中へ担《かつ》ぎ込んで、牛酪《ぎゅうらく》や、骨羹《こっかん》なぞいう上等の滋養分を与えながら、来がけよりも一層ユックリユックリした速度で、故郷へ連れて帰るのです。つまり日中を避《よ》けて、朝の間《ま》と夕方だけ馬を歩かせるので、あんまり速く馬を歩かせたり、モウ夏になりかけている日光に当てたり何《なん》かすると、眼をまわしてヘタバル奴が出来かねないからだそうです。
 ところで、コンナ風にしてヤットの思いで、七八箇月ぶりに故郷に帰り着いても、まだ半死の重病人みたいになっている奴が居るそうですが、しかしどっちにしてもこの崑崙茶の味を占めた奴はモウ助からないそうです。完全なお茶の中毒患者になっているんですから、来年の正月過ぎになると、今一度飲みに行きたくて堪《た》まらなくなる……尤《もっと》もこれは無理もない話でしょう。支那人一流の毒々しいエロと、バクチと、酒池肉林式の正月気分に、ウンという程|飽満《ほうまん》したアトの富豪連ですから、そうした脱俗的なピクニック気分を起すのは、生理上むしろ当然の要求かも知れませんからね。
 そこで又行く。その次の年も行く。度重なるに連れて、お茶仲間からは羨《うらや》ましがられるばかりでなく、お茶の勲爵士《ナイト》としての無上の尊敬を受けるようになる。崑崙仙士とか道人とかいったような特別の称号なんかを奉られて、仙人扱いにされるのだそうですが、しかし、何しろその一回の旅行費だけでも一身代かかる上に、頭も身体《からだ》も役に立たない廃人同様になって、あらゆる方向から財産を消耗する事になるのですから、余程の大富豪で無い限り、四五遍も崑崙茶を飲みに行くうちには、財産《しんしょう》をスッカラカンに耗《す》ってしまうものだそうです。又、それ程左様にこの崑崙茶が、古今無双の、生命《いのち》がけの魅力を持っているらしい事は、モウ大抵おわかりになったでしょう。
 ドウデス、婦長さん、スバラシイ話でしょう。ヤンキー一流の贅沢《ぜいたく》だって、ここまで徹底してはいないでしょう。ハハハ……。
 ところがここに一つ困った問題が残っているのです。それはその身代を耗《す》ってしまった、中毒患者の崑崙仙士君です。むろん又と崑崙茶を飲みに行く資力なんか無いのですが、しかしその味だけはトコトンまで腹《はらわた》に沁み込んでいてトテモトテモ諦められない。そこで仕方なしに、せめてアノ神《しん》凝《こ》り、鬼《き》沈《しず》んだスバラシイ高踏的な気分だけでも味わいたいものだというので、古馴染《ふるなじみ》の茶店から「茶精」というものを買って飲むんです。これは今お話した富豪連が、崑崙山の麓で使い棄てた緑茶の出《だ》し殻《がら》から精製した白い粉末で、相当高価なものだそうですが、それでも我慢して、普通のお茶に交《ま》ぜて服《の》んでみると、芳香や風味は格別無い代りに、純粋のエキスですから神気の冴える事は非常なものです。毎日毎夜|打《ぶ》っ通《とお》しに眠れない。そうして、しまいには昼も夜もわからない、骨と皮ばかりの夢うつつみたいになって死んで行く奴が多い。しかも支那の事ですから、阿片と同様に取締りが絶対不可能と来ている。中には崑崙茶の味なんか知らないまま、見様見真似に「茶精」の味ばかりに耽溺《たんでき》して、アッタラ青春を萎縮させてしまう青年少女も居るといった調子ですが、今そこに寝ている支那留学生は、たしかにその一人に相違ないのです。僕がこの病院に入院して以来、注射を受けなければ絶対に眠れないようになったのは彼奴《きゃつ》のせいに相違無いです。
 ……ね。婦長さん。ですから済みませんが僕の室《へや》を換えて下さい。イエイエ。口実じゃ無い[#「無い」は底本では「無ない」と誤記]のです。僕はソンナ恐ろしいお茶の中毒患者になって、青春を萎《しぼ》ましてしまいたくないのです。どうぞどうぞ後生ですから……サ……早く……そいつが眼を醒まさないうちに……。
 ナ……何ですって……。支那の魔法ですって……?……。
 ヘエ……貴女がお祖父《じい》様からお習いになった支那の魔法の中に、飛去来術《ひきょらいじゅつ》というのがある。ヘエ。それはドンナ魔法ですか。
 イイエ。初めて聞いたんです。全く知らないんです。飛去来術なんて……ヘエ。その魔法を応用したら、僕の煩悶《はんもん》なんか他愛なく解決されてしまう。ホントウですか……ヘエ。コンナ密室でしか行えないから都合がいい。ヘエ。貴女なら嘘は仰言《おっしゃ》らないでしょう。教えて下さい。ヤッテ見て下さい。その飛去来術っていうのを……どうするのですか。
 眼を閉じている……いいです。閉じています。……そうして一から十まで数える……支那の数え方で……ええ。知ってますとも。大きな声で……よろしい。承知しました。いいですか数えますよ。
 ……イイイ……。アルウ……。……サンン……。スウウ……。ウウウ……。リュウウ……。チイイ……。パアア……。チュウウ……。シイイイッ……。……と……。
 いいですか。眼を開けますよ。
 ……オヤア……これあ不思議だ……。
 留学生が居ない。寝台ごと消えて無くなりやがった。コンクリートの壁になってしまった……確《たしか》に壁だ。寝台一つしか這入らない狭い室《へや》になっている。……おかしいな……この間から僕はあの支那人のことばかり気にしていたんだが……変ですねえ。どうしたんですか婦長さん……。
 ……オヤッ……婦長さんも居ない。
 いつの間に出て行ったんだろう。寝台の下にも……居ない。イヨイヨ可笑《おか》しい。俺はサッキから独言《ひとりごと》を云っていたのか知らん。チョッとこの薬を嘗《な》めて……みよう。
 ……苦くも何ともありゃあしない。塩《しょ》っぱい味がする……重曹の味だけだ。オカシイナ……オカシイ……。
 ……アッハッハッハッハッ。やっと解った。
 これが飛去来術なんだ。今の間《ま》に室と薬がかわったんだ。
 ……エライもんだなあ婦長さんの魔法は……まるで天勝《てんかつ》みたいだ。有難い有難い。お蔭でこれから安心して眠れる。
 ……ああ驚いた……。
 面白い国だなあ支那という国は……。
 アッハッハッハッハッハッハッ……。



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2000年9月30日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ