青空文庫アーカイブ

甲賀三郎氏に答う
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)欣快《きんかい》
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 ぷろふいる誌、九月号所載、甲賀三郎氏の「探偵小説講話」末尾に於て、特に私が文芸通信誌上に書いた「探偵小説の真使命」と称する一文のために「夢野久作君に問う」の一項を設けられたについて御回答申上る事を近頃の欣快《きんかい》とし且つ光栄とするところである。
 ところが実を云うと私は「御回答申上る言葉がない」と云う以外に御回答申上る言葉がないのである。それは何故か……。
 第一に私の書いた「探偵小説の真使命」は文芸通信社からの註文で書いた、即興的な自己反省の感想文に過ぎないので、ぷろふいる誌の「探偵小説講話」もしくは甲賀三郎氏の御話に対する批難でも反駁《はんばく》でも何でもないつもりで書いたものだからである。
 第二に甲賀氏の「夢野久作君に問う」の御議論は、私の自己反省の内容を全面的に否定されているように見えながら、実は全面的に肯定し、支持して居られるものとしか私には考えられないので、そうした意味以外の局部的なお叱りは単に私の無学さと、頭のわるさを指摘して下さった御親切以外の何者でもないとしか思えないからである。
 そうして究極するところ、私は無言のまま頭を下げるよりほかに致し方のない事を自省し得たからである。
 だから私は、こうした甲賀氏の御親切に対して全面的に御礼を申上げると同時に、探偵小説なるもののために、かく迄も後進の言動を留意し指導して下さる同氏の御熱心に対して茲《ここ》に謹しんで満腔の敬意を払う次第である。
 ――さて――それはそうとして私は今一つぷろふいる誌とその読者諸賢に謝罪しなければならない事がある。それは何か……。
 それは何事かと云うと曩《さき》に甲賀氏が書かれた「夢野久作君に問う」という一文と、本号の「甲賀三郎氏に答う」と書いた一文を読まれた読者諸賢は、恐らく甲賀氏が私に何を云われ、私が甲賀氏に対して何をお答えしているかという事を理解するに苦しまれたであろう。これは私が本誌上に於て「私は探偵小説なるものをこう考えている」という事を一度も発表さしてもらわなかったせいであると考えている事である。
 だから私は、その謝罪の意味で「探偵小説なるものに対する私の素描」をここに更《あらた》めて御披露させて頂く事にした。

     再び「探偵小説の真使命」について

 ところで甚だ卑怯な前置であるが、この一文は私の狭い個性を通じて観た「探偵小説に対する信念もしくは偏見」で万人共通のものではないかも知れない。のみならずそれは現在の私の心境で、明日の私の心境ではないかも知れない。のみならず、それは必然的に私が文芸通信誌に書いた「探偵小説の真使命」と同じ内容もしくは、その註釈みたようなものになってしまうべき性質のものではないかとも思うが、しかし、それが万一にも本誌の愛読者諸君のために……特に甲賀三郎氏の「探偵小説講話」を愛読される諸賢のために――「こんな観点も別にあるのだな」とか又は「これは甲賀氏の所論に対する一種の註釈だな」とかいう意味で、一種の新しい参考となり、目下興隆の機運に向いつつある探偵小説界に投ずる一石ともなり得るならば、私にとって絶対の光栄であり欣快とするところである事を思うて、敢《あ》えてこの蕪文を続行する次第である事を何よりも先に諒恕《りょうじょ》して頂きたい。
 文芸通信誌上「探偵小説の真使命」の中で私はコンナ事を書いた。
 ――自然主義文芸、自由民権思想の行詰まりに続く、探偵小説の行詰まりによって、人類の趣味傾向が遂にドン底を突いてしまった――と――。
 これは別に、私が知ったか振りをせずとも、歴史が証明してくれるところである。
 個人でも、社会でも、その精神が唯物思想、もしくは虚無思想を根柢とする資本主義文化組織に陥って行くにつれて、その口にしたり発表したりするところが、ますます高尚に、唯心的に向上して行くのとは正反対に、その表面の趣味傾向がグングン低級化して行くのは、争う余地のない厳然たる事実である。古来行われた幾多の革新は、こうした行詰まりを打開し救うべく、そのドン底状態から爆発した一種の自然発火的自爆作用に他ならないので、しかもその結果は、そうした人類の趣味の退化? 動物化? 低級化? を一層深いドン底へと陥るべく役立ちつつ今日に及んで来ている状態は、五・一五事件の当事者ならずとも心ある読史家の斉《ひと》しく認めているところであろう。
 大化の革新、源平の争、応仁の乱の例を引く迄もなく、封建制度が生んだ徳川末期の民心の堕落、唯物思想、虚無思想が生んだ、芝居のトリック化、黄表紙文学、あぶな絵、無残絵等によって象徴された趣味傾向の堕落と、それによって暗示された民心の行き詰まりが、新しい忠君愛国思想と、社会組織を翹望《ぎょうぼう》する維新の革命を生んだ事実は、誰しも否定し得ないところであろう。
 ところがその明治維新以来、西洋文化の輸入に影響されて、日本人の趣味が一層急劇に低下して来た。以前から(徳川時代から)忌避され軽蔑されていた肉慾描写や不倫の世相が、自然主義の輸入以来、臆面もなく逆照され初めて、往昔、最低級の芸術として扱われていた作品が、堂々として一般民衆の趣味傾向の王座を占むる事となった。同時に永い間因襲され、伝統されて来た人間道が不合理視され、不自然視されて、禽獣道が合理視され、自然視されるようになった。それは在来、衣裳美を主として描かれていた絵画が、洋画の輸入以来、裸体美を主眼として描かれるようになったのと同じ程度の変化であった。
 それが吾々日本人にとって、たしかに新しい傾向であった事は、やはり誰しも否定し得ないところであろう。
 ところが又その明治末期から、大正以降に於ける探偵小説の輸入と流行は、そうした傾向を更に低級化し、深刻化した。モット尖鋭な肉慾や、変態心理や、モット露骨な犯罪心理、病的幻覚錯覚に深入りし礼讃する趣味、傾向を日本人に逆照して見せた。そうしてその逆照手段が探偵小説の本格、変格のあらゆる角度に向って急速に分析され、分離され、印象化され、感覚化され、表現化され、構成化され、超現実化され、未来化され、ダダ化され、ユーモア化され、ノンセンス化されて行った。
 だから探偵小説は、嘗《かつ》て流行していた、あらゆる種類の文芸の中から進化し生まれた、より新しい、より深い、より痛い文芸であった。一切の芸術の伝統精神と形式から離脱して、人間の心理を一層深くアケスケに抉《えぐ》り付け、分析し、劇薬化し、毒薬化し、更に進んで原子化し、電子化までして行くための芸術界の鬼っ子であった。芸術の神を冒涜する事を専門とする反逆芸術であった。
 昔の芸術は衣裳美の礼讃を以て能事終れりとした。それが更に進んで、その衣裳を剥ぎ取った肉体美の鑑賞を事とする中世芸術にまで進化した。それが現代……すなわち探偵小説時代に入っては更に進んで、その肉体を切裂き、臓腑を引出し、骸骨を寸断し、血液から糞尿まで分析し、検鏡して、その怪奇美、醜悪美を暴露し、戦慄しようとしているのである。
 探偵小説の使命はそこに生まれた。探偵小説の真使命はここに在った。本格と変格、いずれの名に於てもここ以外になかった。
 こうした趣味、傾向は科学を愛好する人間の趣味、傾向、もしくはモット大きい本能と一致している。
 科学は、すべての尊といもの、美しいもの、不可思議なものを信じなかった。就中《なかんずく》、神によって作られた宇宙万有の美しさと不可思議さを絶対に信じなかった。その神秘をドン底まで探偵して、電子の作用に過ぎない事を計数の上で嘲笑し、その信仰心理を徹底的に分析して、+《プラス》−《マイナス》0《ゼロ》式な利己人の表現に過ぎないと喝破し、一切の美を醜悪な、又は単純無趣味な、直線、もしくは曲線にまで分解し、罵倒しつくした。宗教は阿片《インチキ》である。芸術は自涜である。恋愛は性欲以外の何者でもないとまで弁証して痛快がるに到った。
 この故に古来の幾多の科学者――近代文明の創設者は皆、神と道徳に反逆するところの、恐るべき探偵趣味の所有者であった。従ってその発表するところの論文は皆、最も実際的な探偵趣味の発露であり、その作り出すところの薬品と器械は皆、神と自然とを破壊し嘲罵するところの犯罪用具そのものであった。
 この故にコペルニクスの探偵趣味は生命《いのち》がけの地動説を発表して聖書のインチキを曝露し、羅馬《ローマ》法王を狼狽、震駭《しんがい》させた。この故にニュートンの探偵趣味は一個の林檎から万有引力の緒を掴んで、大宇宙の神秘をペン先に飜弄しつくして、まだ見ぬ海王星の存在を海王星自身に立証させた。この故に名探偵ダーウィンと、ウォーレスは同時に万有進化の原則を看破し、「人間は猿の子孫である。神の後裔《こうえい》ではない」と結論して、全人類をガッカリさせた。
 この故にこの千古不滅の探偵本能を、科学が生むところの社会機構に働きかけさせ、この無良心無恥な、唯物功利道徳が生むところの社会悪に向って潜入させ、その怪奇美、醜悪美を掲出し、そのグロ味、エロ味の変態美を凄動させ、その結論として、その最深部に潜在する良心、純情をドン底まで戦慄させ、驚駭させ、失神させなければ満足しない芸術を探偵小説と名付けられる事になったのである。
 この故に探偵小説は現在の如く、ほかの芸術のアパートに間借りして、小さくなって生活すべき性質のものでない。近い将来に於て、過去の一切の芸術を圧倒し、圧殺して、芸術の全アパートを占有し、奔放自在に荒れまわるであろうところの最も新しい芸術の萌芽でなければならぬ。あらゆる虚栄と虚飾に傲《おご》る功利道徳と科学文化の荘儼……燦爛として眼を眩《くら》ます科学文化の外観を掻き破って、そのドン底に萎縮し藻掻《もが》いている小さな虫のような人間性……在るか無いかわからない超顕微鏡的な良心を絶大の恐怖、戦慄にまで曝露して行くその痛快味、深刻味、凄惨味を心ゆくまで玩味させるところの最も大衆的な読物でなければならぬ。
 この故に探偵小説は人類の思想傾向が、囚われる唯心文化から囚われざる唯物文化に進化し、更に又、囚われたる唯物文化から、囚われざる唯心文化へ反転して行く過渡時代の痛々しい内省心理の産物でなければならぬ。だからこの意味から見て、私が述べた「人類の趣味の低下」は、取りも直さずその向上の前提となって来なければならぬ事になるのである。
 ぷろふいるの支持者諸君。愛読者諸君よ。疑懼《ぎく》し、躊躇するところは絶対にない。本格、変格の名にこだわって、前後を見まわす必要は断じてない。
 すべては探偵小説である。本格、変格の名は単なる説明上の便宜のために附けられたものに過ぎない。すべてを忘れて、この最新、最大の芸術のために精進し、自省し、発表されたい。全人類の芸術を革命されたい。
 現代の探偵小説は、まだそこまで突込み得ていないようである。吾々の態度が又、そこまで自省し、徹底していないために、探偵小説の本来の使命を見失い、どうしていいかわからないまま、お互に議論し、足を踏み合い、鉢合わせ合い、間誤間誤《まごまご》しているに過ぎないようである。近頃叫ばれている「探偵小説の行詰まり」もしくは「不振」は、そうしたイデオロギーの不徹底、もしくは全人類の自己反省の不足から来ている事を私は信じて疑わないものである。
 但《ただし》、文芸通信誌上で私は「探偵小説が文芸であるかどうかは責任を負う限りでない」と明言しているが、これは謹んでこの項の中から撤回する。
 探偵小説は、小説と名乗る以上どこまでも文芸でなければならぬ。とはいえ在来の文芸上の約束に拘泥する必要は一つもない。
 その点に於て探偵小説は、その出発点から絶対の自由を確保していると思う。



底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2001年8月8日公開
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