青空文庫アーカイブ

キチガイ地獄
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)御蔭様《おかげさま》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)永々|御厄介《ごやっかい》に相成りまして、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)少々さもしい[#「さもしい」に傍点]お話ですが、
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 ……やッ……院長さんですか。どうもお邪魔します。
 ええ。早速ですが私の精神状態も、御蔭様《おかげさま》でヤット回復致しましたから、今日限り退院さして頂こうと思いまして、実は御相談に参りました次第ですが……どうも永々|御厄介《ごやっかい》に相成りまして、何とも御礼の申上げようがありません。……ええ。それから入院料の方は、自宅《うち》へ帰りましてから早速、お届けする事に致したいと思いますが……。
 ……ハハア……いかにも。なるほど。事情をお聞きにならない事には、退院させる訳には行かぬと仰有《おっしゃ》るのですね。イヤ。重々|御尤《ごもっと》もです。それでは事情を一通りお話し致しますが……しかし他人《ほか》へお洩らしになっては困りますよ。何しろ私の生命《いのち》にかかわる重大問題ですからね……。
 ナル……成る程。患者の秘密を一々ほかへ洩らしたら、医者の商売は成り立たない。特に病院というものは、世間の秘密の保管倉庫みたようなもの……イヤ。御信用申上げます。御信用申上るどころではありません。
 それでは事実を打ち割って告白致しますが、何を隠しましょう、私は殺人犯の前科者です。破獄逃亡の大罪人です。婦女を誘拐《ゆうかい》した愚劣漢であると同時に、二重結婚までした破廉恥《はれんち》極まる人非人……。
 イヤ。お笑いになっては困ります。そんな風にお考え下さるのは重々感謝に堪えない次第ですが、しかし事実を枉《ま》げる事は断然出来ませぬ。御承知の通り現在、只今の私は、北海道の炭坑王と呼ばれていた谷山家の養嗣子《ようしし》、秀麿《ひでまろ》と認められている身の上ですからね。私の実家も、定めし立派な身分家柄の者であろうと、十人が十人思っておられるのは、むしろ当然の事かも知れませんが、遺憾ながら事実は丸で正反対……と申上げたいのですが、実はもっとヒドイのです。その証拠に、私が谷山家に入込みました直前の状態を告白致しましたら、誰でも開いた口が塞がらないでしょう。
 私は大正×年の夏の初めに、原因不明の仮死状態に陥ったまま、北海道は石狩川の上流から、大雨に流されて来た、一個のルンペン屍体《したい》に過ぎなかったのです……しかも頭髪や鬚を、蓬々《ぼうぼう》と生《は》やした原始人そのままの丸裸体《まるはだか》で、岩石の擦《こす》り傷や、川魚の突つき傷を、全身一面に浮き上らせたまま、エサウシ山下の絶勝に臨む、炭坑王谷山家の、豪華を極めた別荘の裏手に流れ着いて、そこに滞在していた小樽タイムスの記者、某《ぼう》の介抱を受けているうちに、ヤット息を吹き返した無名の一青年に過ぎなかったのです。
 イヤ。お待ち下さい。お笑いになるのは重々|御尤《ごもっと》もです。話が一々脱線し過ぎておりますからね……のみならずこの話は、谷山家の内輪《うちわ》でも絶対の秘密になっておりますので、御存じの無いのは御尤も千万ですが、しかし私は天地神明に誓ってもいい事実ばかりを、申上げているのです。イヤ。まったくの話です。そればかりじゃありません。只今から告白致します私の身の上話を、冷静な第三者の立場からお聴きになりましたら、それこそモットモット非常識を極めた事実が、まだまだドレくらい飛び出して来るかわからないのです。……ですから、そんなのを一々御心配下すったら、折角の告白がテンキリ型なしになってしまうのですが、しかし同時に、それがホントウに意外千万な、奇怪極まる事実であればあるだけ、それだけ谷山家の固い秘密として、今日まで絶対に外へ洩れなかったもの……という事実だけはドウカお認めを願いたいと思うのです。殊に内地と違いまして未開野蛮な……むしろ神秘的な処の多い北海道の出来事ですからね。その辺のところを十分に御|斟酌《しんしゃく》下すって、お聴き取りを願いましたならば、このお話がヨタか、ヨタでないか……精神病患者のスバラシイ幻想《イリュウジョン》か、それとも正気の人間が告白する、明確な事実|譚《ものがたり》かということは、話の進行に連れて、追々《おいおい》とおわかりになる事と思いますからね。
 ……ところでです。その小樽タイムスの記者某と、近隣の医師の介抱によりまして、ヤット仮死状態から蘇生しました私は、どうした原因かわかりませんが、自分自身の過去に関する記憶を、完全に喪失しておりましたのです。もっともその当時は、私の頭にヒドイ打撲傷が残っておりましたので、多分、どこか高い処から落っこって、頭を打った瞬間に、ソンナ変テコな状態に陥ったものじゃなかったかと、今でも思っている次第ですが……しかしコンナ実例は、先生の方が失礼ながら、お詳しい事と存じますが……。
 ……ハハア。そんな実例を見た事は無いが、話にはよく出て来る。真面目な事実として在り得るかも知れない……成る程。とにかくそれから後《のち》というもの私は、その記者某から指導されるまにまに、自分自身の過去を、すっかりカモフラージュしておりました……。
 ……自分は九州佐賀の生れで、親も兄弟も無い孤児である。むろん学問という学問もしていないが、最近、東京で事業に失敗して、この世を悲観した結果、人跡未踏の北海道の山奥で自殺して、死骸を熊か鷲の餌食《えじき》にするつもりで、山又山を無茶苦茶に分け登って行くうちに、過《あやま》って石狩川に陥入ったもの……。
 とか何とかいったような出鱈目《でたらめ》で、別荘附近の人々を胡魔化《ごまか》してしまいました。それから伸び放題になっていた頭をハイカラに手入れして、見違えるようなシャンに生れ変りましたが、併しソンナ風にして生れ変りは変ったものの、モトモト行く先も帰る先も無い、風来坊の身の上でしたから仕方がありません。その記者が寝間着《ねまき》にしていた古浴衣を貰い受けまして、その別荘の御厄介になりながら、毎日毎日ボンヤリしていた訳でしたが……。
 ……エッその新聞記者の名前ですか。
 ……ええっと……。オヤッ。おかしいな……何とかいったっけが……ツイ今サッキまでハッキリと記憶《おぼ》えていたんですが。……オカシイナ……ツイ胴忘《どうわす》れしちゃってチョット思い出せないんですが。エッ。何ですって……。
 生命《いのち》の親様の名前を忘れるなんて、言語道断だと仰有《おっしゃ》るのですか……ト……飛んでもない。アンナ奴が生命《いのち》の親様なら、猫イラズは長生《ながいき》の妙薬でしょう。
 私が前に申しましたような、容易ならぬ大罪人の前科者という事実を、早くもその時に看破するや否や、一種の猟奇趣味の満足のためとしか思えない、極めて残忍な方法でもって、私の運命を手玉に取るべく、ソロソロと手を伸ばしかけていた悪魔というのは、誰でもない。その生命《いのち》の親様だったのです。谷山家の獅子身中の虫となって、私を半狂人《はんきちがい》になるまで苦しめ抜く計画を、冷静にめぐらしていたケダモノが、その新聞記者だったのです。……ええ……そうですね。それじゃソイツの名前を思い出すまで仮りにAとでも名付けて、お話を進めておきますかね。
 何でもそのAという男は、谷山家の内情に精通している、お出入り同様の新聞記者で、熊狩や、スケートの名人だと自称しておりましたが、それは恐らく事実だったのでしょう。体格のいい、色の黒い、眼の光りの鋭い、如何《いか》にも新聞記者らしいツンとした男でしたがね。そんな風にして私を、谷山家の別荘に引止めながら、色んな事を質問したり、話しかけたりして、私の記憶を回復させよう回復させようと努力していたようです。
 ええ。もちろんそうですとも。とりあえず私の記憶を回復させた上で、素晴らしい新聞種を絞り出してくれようと思っていたに違い無いのですが、生憎《あいにく》なことにその結果は、全然、徒労に帰してしまいました。私の脳髄から蒸発してしまった過去の記憶は、モウ疾《と》っくにシリウス星座あたりへ逃げ去っていたのでしょう。それから後《のち》、容易な事では帰って来なかったのですが……。
 もっともその時に万一、私が過去の経歴を思い出していたら、話はソレッ切りで、目出度《めでた》し目出度しになっていたかも知れません。アンナ空恐ろしい思いをさせられないまま、音も香《か》もなく土になってしまったかも知れないのですがね……。

 それから約二週間ばかり経った、或る暑い日のことでした。炭坑王、谷山家の一粒種の女主人公で、両親も兄弟も無い有名な我儘者《わがままもの》で、同時に小樽から函館へかけた、社交界の女王と呼ばれていた、龍代《たつよ》さんと称する二十三歳になる令嬢が、小母さんと称する、中年の婦人を二三人お供に連れて、愛別から出来た新道をドライヴしながら、突然に、エサウシ山下の別荘へ遣って来たのです。そうして私は間もなく、その令嬢のお眼に止まる事になったのです……ええ。そうなんです……お話のテムポが非常に早いようですが、事実ですから致し方がありません。尤も後から聞いてみますと、その我儘女王の龍代さんは、小樽の本宅に廻って来たA記者の報告によって、私の事を承知するや否《いな》や、たまらない好奇心に馳《か》られたらしく、何も彼《か》も放《ほ》ったらかして、私を見に来たものだそうですが、しかも来て見るや否やタッタ一眼で、氏《うじ》も素性も知れない風来坊の私を捉まえて、死んでも離さない決心をしたというのですから、その我儘さ加減が如何に甚《はなはだ》しいものがあったかが、アラカタお察し出来るでしょう。
 ……どうも惚《のろ》けを申上るようで恐れ入りますが……しかし又一方に、私も私です。只今申しました通りに過去の記憶を喪失《なく》していることをハッキリ自覚していたんですから、万一、ズット以前に約束した女が居はしなかったか……ぐらいの事は、その時にチョット考えてみる必要があったかも知れないのですが、ミジンもそんな事に気が付かずに……むろん私共の背後《うしろ》で、Aが赤い舌を出していようなぞとは夢にも気付かないまま、妖艶《ようえん》溌剌《はつらつ》を極めた龍代の女王ぶりに、魂を奪われてばかりおりましたのは、何といっても一生の不覚でした。或はこれが運命というものだったかも知れませんがね。……ハハハ……。
 その結果は、改めてお話する迄もなく、世間周知の事実ですから略させて頂きます。ただ私がその龍代の超特級な我儘と、A記者の不思議なほど熱心な仲介に依りまして、谷山家の養子に納まる事になりますと、何よりも先に驚かされた事実が三つありました事を、念のため申上げておきましょう。
 その第一というのは、さしもに北海道切っての放埒者《ほうらつもの》と呼ばれていた龍代が、意外にも処女であった事です。それから第二はやはりその龍代の性格が、結婚後になると急に一変して、極めて温良貞淑な、内気者に生れかわってしまったことです。
 それから今一つは少々さもしい[#「さもしい」に傍点]お話ですが、流石《さすが》の炭坑王、谷山家の財政が、その当時の炭界不況と、支配人の不正行為のために、殆んど危機に瀕《ひん》する打撃を受けていたことでした。……ですから詰るところ私は、龍代に見込まれたお蔭で、泰平無事の風来坊から一躍して、引くに引かれぬ愛慾と、黄金の地獄のマン中に、真逆様《まっさかさま》に突き落された訳で……しかもそれは私のような馬鹿を探し出すために、心にも無い放埒振りを見せていた龍代の大芝居に、マンマと首尾よく引掛けられた物……という事が結婚後、半年も経たないうちに判明して来たのです。
 しかし一方に私も今更、そうした二重の地獄から逃げ出すような、臆病者ではありませんでした。この点でもやはり龍代の見込みが百パーセントに的中していたのかも知れませんが、元来、風来坊の川流れであった私が、それから後《のち》というものは、龍代にも負けないくらい性格の一変ぶりを見せましたもので、どこで得た知識かわかりませんが、自分でも驚くほどの才能を発揮し初めたものです。
 何よりも先に、今申しました悪支配人をタタキ出して、危機に瀕した谷山家の財政をドシドシ整理して行く片手間に、その当時まで誰も着眼していなかった、鰊《にしん》の倉庫業に成功し、谷山|燻製鰊《くんせいにしん》の販路を固めて、見る見るうちに同家万代の基礎を築き初めましたので、谷山一家の私に対する信頼は弥《いや》が上にも高まるばかり……そういう私も時折りは、吾れながらの幸福感に陶酔しいしい、モットモット優越した将来の夢を、妻の龍代と語らい誓った事もありました。
 併《しか》し今から考えますと、ソウした幸福感はホンノ束《つか》の間の夢だったのです。私の一身に絡《から》まる怪奇な因縁は、中々ソレ位の事で終結《おしまい》にはなりませんでした。
 それは私共の間に、長男の龍太郎が生れてから、一年と経たない中《うち》の事でした。
 妻の龍代が突然に……それこそホントウに突然に、カルモチン自殺を遂げてしまったのです。同時にその遺書《かきおき》によって、谷山家の内輪の人々が何故《なにゆえ》に永い間、龍代の放埒と我儘を見て見ない振りをしていたか……のみならずどこの馬の骨か、牛の糞《くそ》かわからない風来坊の川流れを、よく調べもせずに炭坑王後継者として承認したか……という理由がハッキリ判明《わか》ったのですが……斯様《かよう》申しましたら先生は、もうアラカタ事情をお察しになっているでしょう。
 谷山家は、容易に他家と婚姻出来ない、忌《い》まわしい病気を遺伝した家柄なのでした。そうしてその血統と、財産とが、同時に絶滅しかけていたところを、私のお蔭で辛うじて、繋《つな》ぎ止めたという状態なのでした。
 ところがその危なっかしい血統が、龍太郎の誕生によってヤット繋ぎ止められたと思う間もなく、龍代自身の肉体に、早くもその忌《い》まわしい遺伝病の前兆が、あらわれ初めたことがわかりましたので、まことに申訳無いが貴方に……つまり私にですね……情ない姿をお見せしないうちにお別れする決心をしました。これが妾《わたし》の最後の我儘ですから、何卒《なにとぞ》おゆるし下さい。……妾は貴方を欺《だま》すまいとした妾のまごころを、欺し得ないで貴方と結婚しました。その深い罪のお詫びは、仮令《たとえ》、この儚《はか》ない玉の緒《お》が絶えましてもキットお側に付添うて致します。……お別れしたくない……子供の事を呉々《くれぐれ》もお願いします。妾のまごころをタッタ一人信じて下さる貴方のお心に、お縋《すが》りして死んで行きます。今はただ天道様の無情を怨《うら》むばかり……といったような、それはそれは哀切を極めたものでしたが、その文句には全く泣かされましたよ。ハハイ。昔の我儘はアトカタもない。……透きとおるほどの純情と、理智とに責められた……弱々しさと美しさとに満ち満ちた……ハハイ……。
 むろんその時も私は、谷山家を出る考えなんか毛頭《もうとう》ありませんでした。ハイ。世の中の事はすべて運命ですからね。
 しかし谷山家の連中はその時に、トテモ狼狽したらしいのです。何しろ、一生懸命になって秘し匿《かく》していた、谷山家の忌《いま》わしい血統が、龍代の自殺をキッカケにして、世間に暴露しそうになったのですからね。警察と新聞社に頼み込んで極力、事情を秘密にしてもらう一方に、今となって私に逃げられては一大事と思ったのでしょう。出来るだけ早く、私の気に入るような後妻を探してやらなければ……といったような話が、まだ龍代の百ケ日も済まないうちから、谷山家の内輪で真剣に進められる事になりました。つまりそんな連中の私に対する信頼が、イヨイヨ明日に裏書きされる段取りになって来た訳ですが、サテそれでは誰がいいか、彼がいいか……といった具体的なところまで話が進んで参りますと、不思議な事に、私の気がドウしても進まなくなって終《しま》ったのです。前に龍代と一所になった時分とは、何だか気持が違うように思われて来たのです。しかもそればかりでなく、そうした気持を自分自身でよくよく解剖してみますと、それは死んだ龍代に気兼ねをした気持でもなければ、子供の将来を心配した訳でもないように思われるのです。なぜ気が進まないのか、自分でも判然《はっきり》しないまんまに、何だか恐ろしく気が咎《とが》めるような……何かしら大切な事を忘れているのを、ヤット思い出しかけているような気がしてなりませんので、実際、吾れながら妙チキリンな自烈度《じれった》い気持になってしまったものです。ですから私は親類達への返事をいい加減にして突然、旅行に出かけたり何かしながら、色々と、その理由を考え廻してみたものですが、解らないものはイクラ考えたって解る筈がありません。のみならず、その結果スッカリ憂鬱《ゆううつ》になってしまった私は、トウトウ皆をビックリさせるような事を仕出来《しでか》してしまいました。……つまり何となく石狩川の上流に行ってみたい。どこだかわからないが自分の故郷は、石狩川の上流に在るような気がするから、そこに行ってみたら、何もかも解るに違い無い……といったような、タマラない悲壮な気持になりましたので、人知れず小型のカンバスボートや、食料などを買込みまして、無断で家を飛出しますと、一直線にエサウシの別荘に向ったものです。すると又、生憎《あいにく》なことに、ズット以前から、私のそうした素振りを不審に思って、気を付けていた者が、家《うち》の中に居りましたので、難なく途中で押えられて、小樽へ引戻されてしまったものですが……しかし先生はモウ疾《と》っくに、私のそうした気持を察しておいでになるでしょう。……ねえ先生。先生はソンナ病症の経過をイクラでも御存じでしょう。そうした不可思議極まる潜在意識の作用を、知り尽しておいでになるでしょう。
 ハハア。西洋の古い記録にはそうした実例が出ているが、先生御自身にはソンナ患者を御覧になった事が無い……それはいい都合です。私はソンナ実例の中でも特別|誂《あつら》えの標本ですからね。
 何を隠しましょう、今朝《けさ》の事です。しかもタッタ今の出来事です。私は病室の床の上にこぼれていた茶粕の上で、ウッカリ足を踏み辷《すべ》らして、ヒドク尻餅を突いたのですが、そのトタンに、トテモ素晴らしい大事件が持上ったのです。永い間忘れていた過去の記憶……石狩川に陥ち込んだ以前の、身の毛も竦立《よだ》つ記憶の数々が、一ペンにズラリッと頭の中で蘇《よみがえ》ってしまったのです。同時にモウこれで私は、自分の頭の故障から完全に解放された……と気が付きましたので、早速ながらこうして、退院のお許しを受けに参りました次第ですが……。
 ハイ……実を申しますと、この秘密をお話しするのは、私にとって身を切られるよりも辛いのです。むろん社会的にも、モノスゴイ反響を喚起《よびおこ》すに違いない重大事件ですから、万一、公表でもされますと、私を中心とする一切合財が、破滅に陥るかも知れないと思われるのですが、しかし私自身の一生涯が、この病院の中《うち》で埋れ木になるか、ならないかの境い目と思いますから、背に腹は換えられない気持ちで、先生にだけソッとお打明けする次第ですが……ハハイ……ハイ。
 先生はズット前に、誰からか、コンナ話をお聞きになった事がありましょう。
 北海道は石狩川の上流、山又山のその又奥の奥山に、一軒の原始的な小舎《こや》が建っているのが見える。その家は北面の背後を、旭岳に続く峨々《がが》たる山脈に囲まれている一方に、前面は切立ったような、石狩本流の絶壁に遮《さえぎ》られていて、人間|業《わざ》では容易に近付けない位置に在るので、ツイこの頃まで、誰にも発見されないままになっていたものらしい。
 ところが最近に到って、北海道特有の薬草|採《と》りが、霧に出会って山道に踏み迷った結果、偶然に、遠くからこの一軒屋を発見してからというもの、急に評判が高くなって、北海道中に拡がってしまった。……その一軒家は、まだ誰も知らないアイヌ部落の離れ小舎《ごや》だろうと云う者が居る。一方に、それは北海道名物の、監獄部屋から脱出した人間が、復讐《しかえし》を恐れて隠れているのだ……といったような穿《うが》った説が出るかと思うと、イヤそうではあるまい。ことによるとそれは、太古以来生き残っている原人の棲家《すみか》かも知れない……なぞと云い出す凝《こ》り屋《や》も居る。そうかと思うと……ナアニそれは薬草採りが見当違いをしたんだ。大方北見|境《ざかい》に居る猟師の家を遠くから見たんだろう……なぞと茶化《ちゃか》してしまう者も居る……といった塩梅《あんばい》で、サッパリ要領を得ないままに、噂ばかりがヤタラに高まって行った。
 そのうちにその評判が、トウトウ新聞社の耳に這入《はい》ると、イヨイヨ騒ぎが大きくなってしまった。結局Aが奉公していた小樽タイムスの政敵、函館時報社の飛行機で撮影された、その家の鳥瞰《ちょうかん》写真が、紙面一パイに掲載されることになったが、その写真をよく見ると、それは明らかに日本人が建てたらしい草葺《くさぶき》小舎で、外国映画に出て来る丸太小舎《ロッグケビン》式の恰好をしているばかりでなく、純日本式の野菜畑や、西洋式の放射状の花畑なぞが、ハッキリと映っているところを見ると、皆の想像とは全然違った文化人の住居《すまい》に違いない。しかも、それでいてその位置はというと、確かに、北海道の脊梁《せきりょう》山脈の中でも、人跡未踏の神秘境に相違ないのだから、その一軒家が何人《なんぴと》の住家であろうかは、容易に推測されない訳である。奇怪……不思議……といったような事実が、同乗の記者によって詳細に報道された。そうしてそのまま猟奇《りょうき》の輩《ともがら》の口端《くちは》に上って、色々な臆説の種になっているばかりである……という事実を、先生は多分、何かの雑誌か、新聞で御覧になった事でしょう。ハハア。まだ御覧にならない……。御研究がお忙しいのでね。成る程……それでは致し方がありませんが、何を隠しましょう、その一軒屋こそ、私が建てた愛の巣なのです。私が妻子と一所に、楽しい自給自足の生活を営んでいた、第二の故郷に相違ないのです。……イヤどうも……御免下さい。どうも胸が一パイになりまして……ハハイ……ハハイ……。私は石狩本流の絶壁から墜落したトタンに、そうした記憶をスッカリ喪《うしな》っていたのです。ええええ。事実ですとも事実ですとも……。
 私の戸籍が偽物であることは、私の生れ故郷の村役場に御照会下されば一目瞭然することです。その戸籍面を偽造して、私を初め谷山一家の人々を欺いていたのが、誰でもない、新聞記者のAだったのですからね。
 私が二度目の結婚問題に差し迫られたまま、旅行にカコ付けて家を飛び出したのも、かつは誰にも知れないようにAに面会してみたかったからでした。Aはその頃、小樽タイムスを罷《や》めて、九州地方をウロ付いているという噂でしたからね。何かしら私の過去に就いて、探りに行ったのじゃないか……といったような気がしたからです。それから二度目に、モウ一度家を脱け出した時も、そうした潜在意識に支配されていたのでしょう。何となく石狩の上流に行ってみたい。そうしたら何もかもわかるに違い無い……といったような気持になったからでした。
 併《しか》し、最早《もはや》そんな無駄骨折をする必要は無くなりました。私が完全に過去の記憶を回復しているのですからね……同時に、そのお蔭で、谷山家の養子事件を裏面《うら》からアヤツリ廻して来た、冷血残忍なAの手の動きを、ハッキリと見透かしながら、お話する事が出来るのですからね……。
 私は福岡県朝倉郡の造酒屋、畑中正作《はたなかしょうさく》の三男で、昌夫《まさお》と呼ばれていた者です。父の持山に葡萄《ぶどう》を栽培するのが目的で、駒場の農科大学に入学して、卒業間際になっていた者ですが、九州人の特徴として、器量も無い癖に政治問題の研究に没頭した結果、当時の大政党憲友会の暴状に憤慨し、同会総裁、兼、首相であった白原圭吾《しろはらけいご》氏を暗殺して終身懲役に処せられ、北海道|樺戸《かばと》の監獄に送られて間なく脱獄し、爾来《じらい》、杳《よう》として消息を絶っていた者……と申しましたら、その他の細かい履歴は申上げずとも宜《よろ》しいでしょう。暗殺、逮捕、脱獄の前後を通じて、全国の新聞紙に仰々しく掲載されていたものですからね……。
 しかしその中《うち》に唯一つ、私の脱獄の理由として新聞紙上に伝えられていたものが皆、飛んでもない間違いばかりであった事は、誰も気付かないでいるでしょう。再度の暗殺決行とか、社会主義的潜行運動のためとか、又は露西亜《ロシア》への逃亡のためとかいったような風説が皆、御念の入った当てズッポーばかりで、天下を聳動《しょうどう》した私の脱獄の動機なるものが、実は他愛もないモノであった事を知っている人間は、そう沢山には居ない筈です。
 私が樺戸に落付いてから間もなくの事でした。東京で恋の真似事をしておりました女給の鞆岐《ともえだ》久美子というのが、遥々、北海道まで尋ねて来て、思いがけなく面会に来てくれたのです。
 この事実は間もなく新聞紙上に伝えられまして、活動写真にまで仕組まれたそうですから、御存じの方もありましょうが、何を隠しましょう。私はその時に、彼女から受けました巧妙な暗示と、係官に怨恨《うらみ》を抱いておりました同囚の者の同情とに依りまして、何の苦もなく脱獄を決行する事が出来たのです。……しかもその脱獄の方法というのが、特に私の生命に拘《かか》わる重大問題でありまして、同時に同囚の恩人たちにも、非常に迷惑のかかる話ですから、こればかりはこの口を引裂かれてもお話出来ないのです。……が……ともかくもそのような事情で、首尾よく逮捕の手をのがれました私は、彼女と共に石狩川の下流を越えまして、例の絶対安全の神秘境に恋の巣を営むことになったのです。
 もっともコンナ風に話して参りますと、何のことはないお伽話《とぎばなし》みたような筋道になってしまいますが、併《しか》し、そこまで来る間の私共の辛苦|艱難《かんなん》と、それから後《のち》の孤軍奮闘的生活といったら、優《まさ》にロビンソン・クルーソー以上の奇談を綴るに足るものがあったのですよ。
 私は樺戸を脱出するとそのまま、持って生れた健脚を利用して、山又山を逃げ廻りながら、一心に久美子の行衛《ゆくえ》を探索し初めたものです。無論囚人服を着たままですから、夜しか人里に出られなかった訳でしたが、私は盗みというものを絶対にしない方針でしたので、どこまでも青いお仕着《しき》せ姿で、鳥獣と同じ生活をして行かなければなりませんでした。ですから、その最初の間の苦しみというものは、実に想像の外でしたが、併し又一方から申しますと、そうした辛棒のお蔭で、私の逃げ足が絶対にわからなかったのですから、詰るところ差引の損得は無かったかも知れません。のみならずその辛棒の甲斐《かい》がありまして、脱獄してから一個月目に、新旭川附近の只《と》ある村外れで、彼女が私に暗示していた、小さな奇術劇団の辻ビラがブラ下っているのを発見しました時の、私の喜びはドンナでしたろう。忽《たちま》ち勇気を百倍しました私は、アラユル危険を物ともせずに、折からの暗夜《やみよ》に紛《まぎ》れて、旭川の町にかかっているその劇団に付き纏《まと》うたものでしたが、そのうちに、トウトウ彼女と連絡を取ることに成功しますと私は、迅速に手筈をきめまして、一気に彼女を引っぱり出してしまったのです。
 その時に生命《いのち》と頼むものは、大急ぎで彼女に買集めさした一挺の鍬《くわ》と、一本の洋刀《ナイフ》と、リュックサックに詰めた二つの鍋と、六貫目ばかりの食料だけでした。その以外には何の準備も出来ない囚人服のまま、舞台裏から飛出して来たばかりの、金ピカ洋装の彼女と手に手を取って、涯《は》てしない原始林の奥を目がけて、盲滅法《めくらめっぽう》に突進したのですからね。恋は盲目と申しますが、これくらい思い切った盲目ぶりはチョットほかに類が無いでしょう。
 しかもその途中では、深山幽谷に慣れた薬草採りでも震え戦《おのの》く、寒い寒い霧に包まれて、二日二晩も絶食したまま、土の中に穴を掘って潜り込んだり、又は背丈よりも高い灌木林を、一反歩以上も掻き散らして、木の根を掘った餓え熊の爪の跡を見て、モウ運の尽きだと諦めて、二人で抱き合って泣き出したり、それはそれは喜劇とも悲劇とも付かない情ない目や、恐ろしい目に何度会ったものかわかりません。
 ところでそのような次第で、木の実|榧《かや》の実を拾いながらヤットのことで、念がけていた人跡未踏の山奥に到着しますと、私は辛苦艱難をして持って来た鍬と、ナイフで木を伐《き》り倒して、頑丈な掘立て小舎を造り、畠を耕して自給自足の生活を初めると同時に、小川の魚を釣って干物にしたり、木の実を煮て苞《つと》に入れたりして、冬籠《ふゆごもり》の準備を初めました。
 二人はそこで初めて、この上もなく自由な、原始生活の楽しさを悟ったのです。科学、法律、道徳といったような八釜《やかま》しい条件に縛られながら生きている事を、文化人の自覚とか何とか錯覚している馬鹿どもの世界には、夢にも帰りたくなくなったのです。
 二人は約束しました。……二人はこれから後《のち》イクラ子供が出来ても、年を老《と》っても、モウ人間世界へは帰るまい。アダムとイブが子孫を地上に繁殖させたようにして、吾々の子孫をこの神秘境に限りなく繁殖させよう。自然のままの文化部落を作らせよう……と……。
 彼女はそれから年児《としご》を生みました。私が二十一の年から二十五までの間に、男の児と女の児を二人|宛《ずつ》、都合四人の子供を生みましたが皆、病気一つせずに成長しましたので、山の中が次第に賑《にぎ》やかになって参りました。
 ところが忘れもしませんその二十五の夏の事でした。最前お話しました新聞社の飛行機が、突然に私の家《うち》の上を横切りましたのは……。
 その時の子供たちの脅《おび》えようといったらありませんでした。ちょうど私は家《うち》の前の草原《くさはら》に、放射状の花壇を作って、山から採って来た高山植物を植えかけておりましたが、思いがけない西北の方角から、遠雷のような物音が近付いて来ますと、踊るような恰好をして逃げ迷っている子供等と一所に、慌てて家《うち》の中へ逃げ込んだものです。そうして軒下《のきした》に積んだ寝床用の枯草の中から、青い青い石狩岳の上空に消え失せて行く機影を見送っているうちに何か知らタマラない不吉な予感に襲われましたので、ホーッと溜息を吐《つ》いておりますと、その背後から久美子もソッと不安気な顔をさし出して、
「妾《わたし》達を探しに来たのじゃないでしょうか」
 と云ったものです。それを聞くと私は、思わずドキンとしましたが、しかし顔ではサリ気なく微苦笑しまして、
「ナアニ。俺たちみたような人間を探すのに、ワザワザあんな大袈裟な事をするもんか。しかも今頃になって……ハハハ……」
 と打消すには打消したものの、それでも押え切れない不吉な胸騒ぎをドウする事も出来ないまま、立ち竦《すく》んでいたことでした。
 私はそれから後《のち》、四五日の間というもの、ドウしても遠くに出歩《であ》るく気がしなかったものです。むろん写真まで撮られていようなぞいう事は、夢にも気付きませんでしたので、ただ、私共の居る神秘境をダシヌケに掻き乱して行った巨鳥の姿を、思い出しては溜め息しいしい、家《うち》の周囲の畠ばかりをいじくっていたものですが、そのうちに又、眼の前に差迫っている冬籠《ふゆごも》りの用意の事を思出しますと、何がなしにジッとしては居られなくなりましたので、お天気のいいのを幸いに、手製のタマ網を引っ担《かつ》いで、鱒《ます》をすくいに出かけました。
 久美子はその時にも、不安そうな顔をして私を引止めましたが、矢張《やは》り虫が知らせたとでも申しましょうか。それを振り切って山を下りまして、紅山桜《べにやまざくら》や、桂の叢林を分けながら、屏風《びょうぶ》を切り立ったような石狩本流の崖の上まで来ますと、生木《なまき》の皮で作った丈夫な綱をブラ下げまして、下の石原に降り立って、岩の間の淀みに迷う鱒や小魚を、掬《すく》い上げ掬い上げしておりました。
 すると……どうでしょう。まだホンの五六匹しか掬い上げていないと思ううちに、ツイ向うの川隈の岩壁の蔭から、中折帽を眉深《まぶか》に冠《かぶ》った洋装の青年が、畳《たた》みボートを引っぱりながら、ヒョックリと顔を突き出したではありませんか……。
 ……私はその青年と暫《しばら》くの間、顔を見交したまま立ち竦んでいたようです。しかしその中《うち》に電光のように……これはいけない……と気が付きますと、大切なタマ網を腰巻の紐に挿すや否や、崖にブラ下がっていた綱に飛付いて、一生懸命に攀《よ》じ登り初めました……が……しかしモウ間に合いませんでした。まだ半分も登り切らないうちに、思いがけない烈しい銃声が二三発、峡谷の間に反響して、私の縋《すが》っていた綱が中途からプッツリと撃ち切られました……と思うと、一旦、岩の上に墜落しました私は、心神喪失の仮死状態に陥ったまま、苔《こけ》だらけの岩の斜面を、急流の中へ辷《すべ》り落ちて、そのまま見えなくなってしまったものだそうです。
 この時に私を撃ち落した洋装の青年が、最前お話しました新聞記者のAであったことは、申すまでもありません。同時に、この時に響いた二三発の銃声こそはAが私の運命を手玉に取り初めた、その皮切りの第一着手であったことも、トックにお察しが着いていることでしょう。
 但《ただし》……ここでチョットお断りしておきたいのは、この時までAが、私に対して、別段に、深刻な野心を持っていなかった事です。むしろAは私という奇妙な人間を発見して、タマラナイ好奇心を挑発されて行くうちに、いつの間にか悪魔的な、残虐趣味の世界へ誘い込まれて行ったもの……と考えてやった方が早わかりする事です。
 手早く申しますとAは、新聞記者一流の功名心に駆られた結果、夏の休暇を利用して、旭岳の麓の一軒屋の怪奇を探りに来た人間に過ぎなかったのです。……政敵、函館時報社の飛行機に先鞭《せんべん》を付けられて、地団太《じだんだ》を踏んでいた小樽タイムス社と、その後援者ともいうべき谷山家の援助を受けまして、畳《たたみ》ボートと、食糧と、それから腕におぼえのある熊狩用の五連発|旋条銃《ライフル》を担《かつ》ぎながら、深淵《しんえん》と、急潭《きゅうたん》との千変万化を極めた石狩川を遡《さかのぼ》って来た訳でしたが、幸運にもその一軒家の主人公らしい怪人物を発見すると間もなく、取り逃がしそうになりましたので、思い切って私を威嚇《いかく》すべく、頭の上を狙って二三発、実弾を発射したものに過ぎませんでした。
 ですからAが、その時にドレくらい狼狽致したかは、御想像に難くないでしょう。すぐに畳ボートを押し出して、危険を犯しながら激流の中を探しまわりました、そのうちに、どうしても私の死骸が見付からない事がわかりますと、今度はタマラナイ空恐ろしい気持になって来ました。
 Aは度々申しました通り、冒険好きの新聞記者です。つまり普通とは違った神経を持っていた訳ですから、人間を一人や二人、ソッと見殺しにする位のことは、何とも思わない性格の男に相違ないのでしたが、しかし……何しろ人跡絶えた山奥の谿谷《けいこく》で、水の音ばかり聞こえる寂寞《せきばく》境ですからね。そんな処で思いがけなく、奇妙な恰好をした丸裸体《まるはだか》の人間を一匹撃ち落したのですからね。……何ともいえない鬼気に迫られたのでしょう。四五日もかかって遡った急流|激潭《げきたん》を、タッタ一日で走り下って、エサウシ山下の谷山別荘に帰り着くと、人知れずホットしいしい、ウイスキーを飲んで眠ったものだそうです。
 ところがその翌《あく》る朝のこと。何かしら近所の人々の騒ぎまわる声が耳に這入ったので、何事かと思ってAが飛び起きてみると……どうでしょう。見覚えのある私の丸裸体の屍体が、自分の寝ている離れ座敷の直ぐ下の、石段の処に流れ着いているではありませんか。……その時の気味の悪かったこと……。あの石狩川の上流で、私を撃ち落した時以上のイヤな気持ちに、ゾーッと襲われたと云いますが、それはそうでしたろう。世にも恐ろしい因縁と云えば云えるのですからね。
 しかしその屍体を、そのまんま知らん顔をして見逃がすことは、流石《さすが》にAの好奇心が承知しませんでした。のみならず、その屍体の血色や何かが、何となく違っていることが、素人眼《しろうとめ》にもわかりましたので、附近の者に手伝わせながら、気味わる気味わる石段の上の芝生に引き上げて、馳《か》け付けて来た医者と一緒に介抱をしておりますと、そのうちに意識を回復しかけた私が、非常な高熱に浮かされながら、盛んに譫語《うわごと》を云い初めたものだそうです。
 ところが又、その譫語のうちに、普通人にはチンプン、カンプンの囚人用語が、チョイチョイ混っているのに気が付きますと、Aは忽《たちま》ち、今までの恐怖心理から一ペンに解放されまして、見る見る持ち前の記者本能に立ち帰ってしまったものだそうです。つまり是が非でも私の告白を絞り取って、有力な新聞|記事《だね》にすべく、アラユル努力を払った訳でしたが、その苦心努力の甲斐があって、首尾よく私が意識を回復してみますと……三度ビックリ……案外千万にもその私が、完全に過去の記憶から絶縁されている、一種の白痴同様の人間である事がわかった時には、ガッカリにもウンザリにも……今一度タタキ殺してやりたいくらい、腹が立ったものだそうです。
 ところがサテその私が、頭や顔の手入れをして、見違えるような青年に生れ変ったのを見ますと、Aの気持が又もやガラリと一変してしまいました。……というのは外でもありません。Aはそこで、一つのステキもない巧妙な金儲けを思い付いたのでした。つまりA独特の猟奇《りょうき》趣味と、冒険趣味とを兼ねた、一挙三得の廃物利用を考え出しましたので、そのままグングンと仕事を運んで行ったものでした。
 谷山家の内情……特に龍代の放埒《ほうらつ》の底意を、ドン底まで看破《みぬ》いておりましたAは、それから一か八かの芝居を巧みに打って、私を谷山家の養子に嵌《は》め込んでしまうと、いい加減な口実を作って、かなりの金を龍代から絞り取ったまま、パッタリと消息を絶ってしまったのです。
 しかもこれを見た龍代は、愚かにも、スッカリ安心してしまったものでした……というのは、つまりAが自分の註文通りに、どこか遠い処へ立去ったものと考えましたからで、こんな点では龍代も、普通の金持の子弟と同様に、お金の力を過信する傾向があったのですね。むろん私にもそれとなく打ち明けて、万事が清算済みになったつもりでいたらしいのですが、これが豈計《あにはか》らんやの思いきやでした。なかなかそれ位のことで諦らめ切れるAの悪魔趣味ではなかったのです。モットモット大きく、私共夫婦を中心とする谷山家の全体を、地獄のドン底に落ちる迄絞り上げながら、高見《たかみ》の見物をしてやろうという、その準備計画のために、ホンの暫くの間、姿を晦《くら》ましていたものに過ぎませんでした。

 Aは先ず、彼の記憶に残っている私の言葉の九州|訛《なまり》と、囚人用語との二つの手掛りを目標にして、探索の歩を進むべく、とりあえず小樽タイムスを飛び出して、九州北部の大都会、福岡市の片隅に在る小さな新聞社に就職しました。そうしてそこを中心にした同県下の警察や、新聞社方面に就いて、私の年齢に相当した前科者や、失踪者の名前を根気よく探してまわったものですが、そのうちに偶然にも、福岡市の某大新聞社に保存して在る、六七年|前《ぜん》の新聞の綴込みの中から「青年|刺客《しかく》」という大活字を添えた、私ソックリの大きな写真版を発見した時のAの驚ろきと喜びはドンナでしたろう。ほかの新聞に出ていた囚人姿や、学生姿の写真が皆、私に似ても肖付《につ》かぬ朦朧《もうろう》写真であったのに、タッタ一つその紙面にだけ掲載されていた、私の少年時代の浴衣《ゆかた》がけのソレが現在の私に酷似していたことは何という奇蹟でしたろう。
 しかもそこまでわかるとAの仕事は最早《もはや》、半分以上片付いたようなものでした。その社の整理係の連中に知れないように、精巧な写真機を担《かつ》ぎ込んで、その紙面ばかりでなく、私の生い立ちや、脱獄の記事を満載した紙面までも残らず複写して、一直線に北海道に帰って来ましたAは、その後の私の動静を、詳細に亙《わた》って探りまわった序《ついで》に、二人の間に愛の結晶が出来かけている事実まで、透《す》かさずキャッチしてしまいますと、なおも最後的な脅迫材料を掴むべく、もう一度、極《ごく》秘密の裡《うち》に、石狩川の上流を探検に出かけたものです。
 彼はモウその時には、旭岳の斜面の一軒家が、私の棲家であったことを確信していたものでしょう。ですからそこまで突込んで、何かしら動きの取れない材料を掴んだ上で、今の新聞紙面か何かと一緒に、私へ突付ける心算《つもり》だったのでしょう。
 ところがそこまではAの着眼が百二十パーセントに的中していたのですから、先ず先ず大成功と云ってもよかったのですが、それから先がどうもイケませんでした。
 ……というのは外でもありません。流石《さすが》に悪魔式の明敏なアタマを持っておりましたAも、ここで一つの小さな……実は極めて重大な手落《ておち》をしている事に、気が付かないでいるのでした。すなわち樺戸に訪ねて来ました、女給の久美子の行衛《ゆくえ》について、深い考慮を払っていなかったことで、つまり久美子のああした行動は、テッキリ活動屋の宣伝に使われたものとばかり考えていたのです。そうして久美子自身は、新聞記事と一所に音も香《か》もなく消え失せたものと、信じ切っていたのですね。これは要するにAの頭が、アンマリ冴え過ぎていたところから起った間違いでしたが、しかもそのお蔭で折角のAの計画が実に意想外とも、ノンセンスとも云いようの無い、悲惨な結果に陥ることになったのです。

 それから約一箇月ばかり経った、秋の初めのことでした。
 骸骨のように痩《や》せこけた身体《からだ》に、ボロボロの登山服を纏《まと》うて、メチャメチャに壊れたカメラを首に引っかけた、乞食然たる男の姿が、ヒョッコリ旭川の町に現われて、何やら訳のわからない事を口走りながら、ウロウロし初めました。その男はヒドイ紫外線か、雪ヤケにかかったらしい、泥のような青黒い顔をしておりまして、そのボックリと凹《へこ》んだ眼窩《がんか》の奥から、白眼をギラギラと輝やかし、木の皮や、草の根の汁で染まった黄金《きん》色の歯をガツガツと鳴らしながら、川を渡るような足取で、ヒョロリヒョロリと往来を歩いているという、世にもモノスゴイ風《ふう》付きでしたが、更にモットモット不思議な事には、その男の凹《へこ》んだ眼の底に、裸体か、もしくは裸体に近い女の姿がチラリとでも映ると、それが絵であろうと、実物であろうと見境《みさか》いは無い。破れ千切《ちぎ》れた登山靴を宙に飛ばして、逃げ出して行くのでした。そうして知らない家《うち》でも、自働電話でも何でも構わない。行きなり放題に飛込んで、救《たす》けを求めるかと思うと、進行中の電車や汽車に飛び乗りかけて、跳ね飛ばされたりするので、トテモ剣呑《けんのん》で仕様がないのです。……ええ……そうなんです。近頃は方々の店先に裸体画が殖《ふ》えて来ましたからね。おまけに秋口といっても、旭川の日中はまだ相当暑いのですからね。何でもソレらしいものを見さえすれば、絵葉書屋の前だろうが、川の中の洗濯女だろうが見境いは無い。又は一里先だろうが鼻の先だろうがおなじこと。悲鳴をあげて狂い出すのでトウトウ旭川の町中の大評判になってしまいました。
 ところがそのうちに、そのエロ狂の骸骨男が、ドウ戸惑いをしたものか、旭川の警察署へ飛び込んで、保護を受けるようになりますと、世間は又広いもので、意外にもその骸骨男を引取りたいという、篤志家《とくしか》が現われて来ました。
 その篤志家というのは、東京の目黒に在る精神病院の副院長で、その当時旭川に帰省していた、何とかいう富豪の医学士でしたが、その骸骨男……すなわちAの事を書いた新聞記事の切抜を持って、旭川署に出頭しますと、自分の研究材料としてAの身柄を引取りたい旨《むね》を、恭《うやうや》しく申出たものだそうです。もっとも最初のうちにAの精神状態を、新聞記事によって判断したその医者は、極めて著明な色情倒錯と思っていたそうで、ステキに珍らしい実例として、論文の材料にするつもりだったそうですが……ちょうど又、警察でも願ったり叶《かな》ったりのところだったので、厄払いのつもりで、よく調べもせずに引渡したものだそうですが……そうなるとそこは流石《さすが》に専門家だけあって、催眠術や、鎮静剤を巧みに使い分けながら、無事に東京まで連れて来て、自分の受持の病室に、首尾よくAを監禁してしまいました。そうして半年ばかり経過するうちに、栄養が十分に付いて来て、云う事がイクラカ筋立って来た頃を見計《みはから》って、なだめつ賺《す》かしつしながら色々と事情を聞き訊《ただ》してみますと……色情倒錯どころの騒ぎではない。大変な事実をAは喋舌《しゃべ》り初めたのです。
 Aはその副院長の前で、谷山家の秘密を洗い渫《ざら》いサラケ出したばかりでなく、自分の発狂の真原因までも思い出して、アッサリ白状してしまったのでした。

 Aは石狩川の上流を探検して、千辛万苦の末に、ようようの事で旭岳の麓の私の留守宅を探し当てたのです。そうして最早《もはや》、スッカリ原始生活に慣れ切っている久美子と、四人の子供達が、澄み切った真夏の太陽の下で、丸裸体《まるはだか》のまま遊び戯《たわむ》れている姿を、そこいらのトド松の蔭から、心ゆくまで垣間《かいま》見た訳ですが、その時のAの驚きはドンなでしたろう。夢にも想像し得なかった神秘的な光景に接して、開いた口が塞《ふさ》がらなかった事でしょう……のみならずそこでヤット一切の事情を呑み込んだAは、懐中していた新聞紙面の複写の中に在る久美子の写真と、実物とを引き合わせてみた時の喜びは又ドンナでしたろう。これこそ谷山家の一切合財を、地獄のドン底まで突き落すに足る大発見と思って、胸を轟《とどろ》かしたに違いありません。……その時まではまだ龍代が自殺していなかった筈ですからね……。
 けれどもAはここで又、第二段の失策に足を踏みかけていることに気付きませんでした。つまりAはそこで、久美子と子供達の写真を、何枚か撮っただけで、一先《ひとま》ず探険を切上げて来ればよかったのですが、そうしなかったのがAの運の尽きでした。……もっともそのような、エロともグロとも形容の出来ないスバラシイ情景を、遠くから眺めたまま引返すというようなことは、新聞記者根性のAにとって絶対に不可能な事だったかも知れません。或はそのエロ・グロの女主人公《ヒロイン》に対して、A一流の冷酷な野心を起したものかも知れませんが、とにかく吸い寄せられるようにフラフラとなったAは、吾《わ》れ知らず熊笹を押し分けながら、その方向に近付いて行ったものです。
 すると間もなく大変な事が起りました。
 永い間、男気無しのまま、人跡絶えたモノスゴイ山奥に、原始生活をして来た気の強い女……ことにタッタ一人でアラユル飢寒と戦いながら、四人もの子供を育てて来た母性が、如何に慓悍《ひょうかん》狂暴な性格に変化するものかという事実は、普通人のチョッと想像の及ばないところでしょう。……まして況《いわ》んやです。ずっと以前に石狩川の方向で、二三発の銃声が聞えて以来、パッタリと影を消してしまった自分の夫を、監獄からの追跡者に殺されたものとばかり思い込んでいた妻の久美子が、カーキ色の登山服に、ライフルを担《かつ》いだAの姿をチラリと見るや否や、おなじ監獄からの追跡者と早合点したのは無理もない話でしょう。……何の気もなく五連発の旋条銃《ライフル》を担いで、フキやイタドリの深草を潜りながら、一軒屋に近付いて行ったAは、背後から不意打に、猛獣みたような者に飛び付かれたので、アット思う間もなく飛び退《の》いてみると、そこにはタッタ今奪い取ったばかりの旋条銃《ライフル》を構えた、全裸体《まるはだか》の女が、物凄い見幕で立ちはだかっている。幸いにして引金の転把《テンパ》が上がっていなかったので、ダムダム弾の連発を喰らわされる事だけは助かった訳ですが、それにしても女の見幕の恐ろしさには、流石《さすが》のAも震え上ったのでしょう。女が転把《テンパ》の上げ方を知らないで、間誤間誤《まごまご》している隙《すき》を狙って、一足飛びに逃げのくと、あとから銃身を逆手に振上げた女が、阿修羅のように髪を逆立《さかだ》てて逐蒐《おいか》けて来る。その恐ろしさ……道もわからない藪畳《やぶだたみ》や、高草の中を生命《いのち》限りの思いで逃げ出して行っても、相手はソンナ処に慣れ切っている半野生化した女ですから、それこそ飛ぶような早さです。おまけにドウしてもAをタタキ倒して、息の根を止めなければならぬ。……子供の安全を計らなければならぬと思い詰めた、母性愛の半狂乱で飛びかかって来るのですからたまりません。
 息も絶え絶えのまま野を渡り山を越えて、方角も何も判然《わか》らなくなってしまっても、まだザワザワと追いかけて来る音がする……と思ううちに思いもかけぬ横あいから、銃身を振り翳《かざ》した裸体《はだか》女が、ハヤテのように飛び出して来る。驚いて崖から転がり落ちると、女も続いてムササビのように飛び降りる。小川を躍り越せば女も飛び越す。それが男よりもズット敏捷《びんしょう》で、向不見《むこうみず》と来ているのですから、Aはイヨイヨ仰天《ぎょうてん》して、悲鳴を揚げながら逃げ迷う。その中《うち》に日暮れ方になると、女はヤット転把《テンパ》の上げ方を会得したらしく、数十間うしろから立て続けに二三発撃ち出しましたが、その最後の一発が思いがけなく、Aの帽子を弾《は》ね飛ばしたのでイヨイヨ肝魂《きもたましい》も身に添わなくなったAは、それこそ死に物狂いの無我夢中になって、夜となく昼となく裸体女の幻影に脅やかされながら、人跡未踏の高原地をさまよい初めました。
 日が暮れて、夜が明けても、まだ女が追掛けて来るらしい風の音が、四方八方に聞こえる。息も絶々《たえだえ》に疲れて打ち倒れても、睡るとすぐにライフルの音が聞えたり、女の乱髪が顔を撫でたりする。そこで又も、夢うつつのまま起き上って、青天井や星空の下をよろめきまわるという、世にも哀れな状態になってしまいました。そうしてどこを、ドウ抜けて来たものか野垂死《のたれじに》もせずに、生きた木乃伊《ミイラ》と同様の浅ましい姿で、旭川の町にさまよい出ると、裸体女が眼に付くたんびに飛び上って悲鳴をあげる。そうかと思うとどこへでも駈け込んで、
「……タ……大変だ……谷山家の重大秘密だ……二重結婚だ……脱獄囚の妻だ……天女の姿をした猛獣だ……」
 なぞとアラレもない事を口走るようになった……というのがAの発狂の真相だったのです。
 ……ところでこの真相を聞き出した今の精神病院の副院長は、最初のうち半信半疑だったと申しますが、それは当然の事だったでしょう。初めから終《しま》いまで非常識を通り越した事実ばかりですからね。……しかも念のために病院に保管して在ったAのボロボロの登山服を調べてみると……ドウでしょう。Aの言葉が一言一句、真実に相違ない事を証明するに十分な、畑中昌夫と谷山秀麿の戸籍謄本や、新聞紙面の複写フィルムを、内ポケットから探し出したばかりでなく、メチャメチャに壊れたAのカメラの中に、タッタ一枚無事に残っていた、私の妻子のグロ写真を現像する事にまで成功したではありませんか。
 副院長はそこで初めて、Aの精神異常の回復が、谷山家の重大問題となるであろう事実に気が付いたものでした。そこで早速、私に宛てた至急親展で、事のアラマシを通知して、事実かどうかを問い合わせて来た訳ですが、その手紙を受取った時には私も、思わずシインとなりましたよ。
 むろんその手紙には、学術研究のために問合せるのだから、仮令《たとえ》事実であっても絶対秘密にする……云々という追而書《おってがき》が添えてありましたし、問題の龍代も、最早トックにお位牌になっていた時分のことですから、私の心配も半分以下で済んだようなものでしたが、しかし、それにしても重大問題には相違無いので、取るものも取りあえず上京して目黒の精神病院を訪問してみますと……又もシインとするほど脅《おびや》かされたのでした。頑丈な鉄の檻の中に坐り込んでいた、患者姿のAは、とりあえず見舞いに来た私の顔を、ハッキリと記憶していたばかりでなく、何やら訳のわからない紙片《かみきれ》を鉄棒の間から突出しながら、辻褄《つじつま》の合わない脅迫めいた文句を、私に向って浴びせかけるではありませんか。むろんその紙片《かみきれ》は、私の事を書いた新聞の複写か何かと思い込んでいたものに違い無いのですが……。
 私はその複写拡大紙面の実物と、ブロマイドに焼付けられた妻子のグロ写真とを並べて、副院長の自室で見せてもらいましたが、それを見ているうちに初めて、自分の過去の記憶を電光のように呼び起す事が出来ました私は、あんまり烈しいショックを受けましたために、一時失神状態に陥ってしまったものです。
 しかし間もなく、副院長の介抱によって正気に帰りますと、私は、すぐに非常な勇気を奮い起しまして、Aが自白した一切の事実を確認しました上に、尚《なお》足りないところを詳細に、副院長の前で補足してしまいました。そうしてAの一身に関する相当の保護を依頼すると同時に、私の前身を公表するかしないかという重大な判断はタッタ一つ……副院長の自由意志に一任しまして、その旨を半狂人《はんきちがい》のAに詳しく云い聞かせますと、そのまま北海道に引上げてしまいました。これは申すまでもなく、万一、私の前身が公表されました場合、落付いて刑に就くべく心用意をしておくためでした。……いくら他人の秘密を預るのが商売の精神病医でも、これ程の秘密を握《にぎ》り潰《つぶ》すのは、容易な事であるまいと思いましたからね。

 ……エッ……何ですって……。
 私の話がトンチンカンですって……。
 これは怪《け》しからん。どこがトンチンカンですか。私は立派に順序を立ててお話ししているつもりですが……。
 何ですか……その新聞記者のAという男の本名は、まだ思い出さないかって仰有《おっしゃ》るのですか……サア。それがまだ思い出せないのですが……モウジキに思い出すだろうと思っているんですが……。
 ……オヤ……何故お笑いになるのですか。
 ヘエ。ここがその目黒の病院なんですか。ヘエッ。それじゃA君もここに居る訳ですね。ヘエ――ッ。ほんとうに居るのですか。……ちっとも知らなかった。イッタイどこに……。
 エッ。……ここに居る……。
 ……ナ……何ですか……私がその新聞記者のAだと仰有るのですか。御冗談ばかり……私は只今も申しました通り、谷山家の養嗣子秀麿ですが。その久美子という、猛獣天女の亭主に相違ないのですが……龍代と二重結婚をしたアノ白痴同様の……。
 エッ。その秀麿……谷山家の養子になった私が、ここに入院した原因をお尋ねになるのですか。そ……それはその……その発狂当時の事ですからチョット思い出しかねるのですが……。
 ……お笑いになっちゃ困ります。鏡なんか見なくたっていいです。自分の顔は自分でちゃんと知っております。
 ……ナ……ナ……何と仰有るのですか。その谷山秀麿は、今でもやはり谷山家の養子になって、盛んに事業界に活躍している。後妻には山の中から久美子を迎え出して、谷山夫人を名乗らしている……そ……それあ怪《け》しからんじゃないですか……二人は今後、絶対に人間世界に帰らないと云って、あれ程固く約束していたのに……イヤイヤ。私の想像なんかじゃないのです。事実に相違ないのです。実に……ジツに怪しからんですなあ……。
 ヘエ。何ですって……ここの副院長から与えられた暗示で、美事に過去の記憶を回復した谷山秀麿は、北海道に引返してから間もなく、副院長の誠意を籠《こ》めた手紙を受取ったので、ホット一息安心することが出来た。そうしてAの一生涯を、病院で飼殺しにしてもらうように、折返して返事を出すと、すぐにタッタ一人で極秘密の裡《うち》に、旭岳の麓へ久美子を迎えに行ったのですか。ヘエ……そこで流石《さすが》の猛獣天女だった久美子も、なつかしい昌夫の泪《なみだ》ながらの告白に負けてしまった。ハハア……作り飾りの無い、昌夫の純情に動かされた結果、龍代の身代りになって、谷山家の一粒種……龍太郎を育て上げるべく、涙ぐましい決心をした。成る程……そこで四人の子供を左右に引連れた猛獣天女が、はるばると人間世界に天降《あまくだ》る事になったが、それに就ては昌夫の秀麿が、思い出深い石狩川の上流から、エサウシ山下の別荘まで、人に知れないように連れ込むべく、アラユル苦心を払ったものである。いかにもねえ……それから久美子の戸籍面の届出や、子供の行儀作法のテストに至るまで、又もや惨憺《さんたん》たる苦心研究を積ませられたものであるが、さてそのあげく、イヨイヨ一行を谷山家に乗込ませて見ると、案ずるよりも生むが易いで、久美子の奥様振りが頗《すこぶ》る板に付いたアザヤカナものだったので、龍代の再来という評判が立って、一躍、界隈の社交界をリードするようになった。同時に家庭も極めて円満で、五人の子供達にミジンの分け隔ても見せないから、将来、谷山家の秘密に気付くものは絶対に出ない見込である……だからその事に就ては、絶対に心配しなくともいいと仰有る……ナア――ンダイ。馬鹿にしやがらア……。
 イヤ……アハハハハ……これあ失敗《しくじ》った。うっかりネタを曝《ば》らしちゃった。
 アハハハ。実はね。先生をドウかして一パイ引っかけて、マンマと首尾よく退院してくれようと思いましてね。この間から寝ないで話の筋を考えていたんです。そうしたらツイ今サッキ尻餅《しりもち》を突いた拍子に、自分の経歴を思い出したような気がしたもんですからね。こいつあ占《し》めたと思って、すぐに先生の処へ来たんですが……ハアテネ……。
 俺は一体、誰の経歴を思い出したんだろう……自分で調べた他人の経歴を思い出したんじゃないか……ハテ…いけねえいけねえ。モットよく考えて来れあよかった。どこかに辻褄の合わない処があったんだ……。ヨオシ……今度こそは……。
 エッ。昨日《きのう》も僕が同じ話をしに来たんですって……一昨日《おととい》も……ズット前から何度も何度も……アノ僕が……ヘエ……。だから先生の方でも、谷山さんに頼まれた通りに、繰り返し繰り返し詳《くわ》しい事情を説明して、ヤキモキしないように云って聞かせているが、ドウしてもわからない……僕がですか……ヘエ。おまけに自分の事と、他人の事とをチャンポンにして考えたりするので、話がだんだんトンチンカンになって来る。だから君のアタマはタシカでない。谷山家の事なんか忘れてしまって、モット気楽に養生しなければ、いつ退院出来るかわからない……ヘエ――……。それあ誰のことですか……エッ……僕のこと……ヘエ。そうして貴方は……。失礼ですが、どなたですか。
 エッ。副院長の助手さん……一緒に僕の心理状態を研究している……。
 ……ウワア……しくじったア。それじゃ何でも知っている筈だ。僕は又院長さんかと思った。院長さんなら、まだ一度も僕に会ったことがないから、もしかすると一パイ喰うかも知れないと思ったんだが……いけねえいけねえ……。
 アッハッハッハッハッハッハッハッ……。
 ああア――ッ。くたびれたアッ……ト……。
 ねえ先生……話し賃に煙草を一本下さいな…………。
 ……オヤア――ッ。誰も居やがらねえ……。
 ここは監房の中だ……おかしいな。俺あサッキから一人で饒舌《しゃべ》ってたのかな……フーン……イッタイ何を饒舌《しゃべ》ってたんだろう……。
 ……桐の花が、あんなに散ってやがる…………。

 ……アッ……忘れていたッ…………。
 俺あ龍代に復讐するつもりだったんだ……彼女《あいつ》は俺に肱鉄《ひじてつ》を喰わせやがったんだ……妾《わたし》をオモチャにするつもり……って冷笑しやがったんだ。だからその通りにしてやったんだ。前科者を亭主に持たして、一泡吹かしてくれようと思ったのが、間違ってコンナ事になってしまったんだ。あべこべに俺がキチガイ扱いされる事になったんだ。
 エエッ……コンナ篦棒《べらぼう》な……不公平な……。
 俺あ谷山家に怨みがあるんだ。ココを出してくれ。不法監禁だぞ畜生……ドウスルカ見ろ……龍代の阿魔《あま》……。出してくれ出してくれ出してくれくれくれ……出してくれッ……。出して……くれエエエ――ッ……。



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:しず
2000年10月26日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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