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冗談に殺す
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)某社《ぼうしゃ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)流感|除《よ》けの黒いマスクをかけた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)電気こたつ[#「こたつ」に傍点]に暖まりながら、
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       一

 私は「完全な犯罪」なぞいうものは空想の一種としか考えていなかった。丸之内の某社《ぼうしゃ》で警察方面の外交記者を勤めて、あくまで冷酷な、現実的な事件ばかりで研《と》ぎ澄《す》まされて来た私の頭には、そんなお伽話《とぎばなし》じみた問題を浮かべ得る余地すら無かった。そんな話題に熱中している友達を見ると軽蔑《けいべつ》したくなる位の私であった。
 その私が「完全な犯罪」について真剣に考えさせられた。そうして自身にそれを実行すべく余儀なくされる運命に陥ったというのは、実に不思議な機会からであった。すべてが絶対に完全な犯行の機会を作ってグングンと私を魅惑して来たからであった。
 今年の正月の末であった。私はいつもの通り十二時前後に社を出ると、寒風の中に立ち止まって左右を見まわした。私は毎晩社を出てから、丸之内や銀座方面をブラブラして、どこかで一杯引っかけてから、霞ヶ関の一番左の暗い坂をポツポツと登って、二時キッカリに三年町《さんねんちょう》の下宿に帰る習慣がついていたので……そうしないと眠られないからであったが……今夜はサテどっちへ曲ろうかと考えたのであった。
 するとその私の前をスレスレに、一台の泥ダラケのフォードが近づいて来たと思うと、私の鼻の先へ汚れた手袋の三本指があらわれた。それは新しい鳥打帽を眉深《まぶか》く冠《かぶ》って、流感|除《よ》けの黒いマスクをかけた若い運転手の指であったが……私はすぐに手を振って見せた。
 けれども自動車は動かなかった。今度は運転手がわざわざ窓の所へ顔を近づけて、私にだけ聞こえる細い声で、
「無賃《ただ》でもいいんですが」
 といった。ドウヤラ笑っている眼付である。
 私はチョット面喰った……が……直ぐに一つうなずいて箱の中に納まった。コイツは何か記事《タネ》になりそうだ……と思ったから……すると運転手も何か心得ているらしく、行先も聞かないままスピードをだして、一気に数寄屋橋を渡って銀座裏へ曲り込んだ。
 その時に私はいくらかドキドキさせられた。いよいよ怪しいと思ったので……ところが間もなく演舞場の横から、築地河岸《つきじがし》の人通りの少いところへくると、急にスピードを落した運転手が、帽子とマスクを取り除《の》けながらクルリと私の方を振り向いた。
「新聞に書いちゃイヤヨ。ホホホホ……」
 私は思わず眼を丸くした。
 それは二週間ばかり前から捜索願が出ている、某会社の活劇女優であった。彼女はズット前に、ある雑誌の猟奇《りょうき》座談会でタッタ一度同席した事のある断髪のモガで、その時に私がこころみた「殺人芸術」に関する漫談を、蒼白《あおじろ》く緊張しながら聞いていた顔が、今でも印象に残っているが、それが「女優生活に飽きた」という理由でスタジオを飛びだして、東京に逃げ込んでくると、所もあろうに三年町の私の下宿の直ぐ近くにある、小さなアバラ家《や》を借りて弁当生活をはじめた。そうして男のような本名の運転手免状を持っているのを幸いに、そこいらのモーロー・タクシーの運転手に化けこんで、モウ大丈夫という自信がついてから悠々《ゆうゆう》と私を跟《つ》けまわしはじめた……と彼女は笑い笑い物語るのであった。モウ一度、
「新聞に書いちゃ嫌《いや》よ」
 と念を押しながら……。

 彼女の話を聞いた私は何よりも先に、彼女が特に私を相手に選んだそのアタマの作用に少からぬ関心を持たされた。彼女がコンナにまで苦心をして、絶対の秘密のうちに私を追っかけまわした心理の奥には、何かしら恋愛以上の或《あ》るものが潜んでいるに違いないことが感じられる……その心理の正体が突き止めて見たくなった。同時に彼女の男装の巧《たくみ》さにも多少の興味を引かれたので、そのまま二人で絶対安全の秘密生活を始めるべく、自動車をグルグルまわしながら打ち合わせをしたのであった。
 その結果、私は毎晩、社の仕事が済むと、例の習慣を利用して、一時間だけ彼女のところに立寄る事になった。彼女も引続いて毎日、運転手姿で市中を流しまわる事にした。そうして私の前でだけ女になる事にきめた……一日にタッタ一時間だけ……。
 ……すこぶる簡単|明瞭《めいりょう》であった。しかも、それだけに私達の秘密生活は、百パーセントの安全率を保有している訳であったが……。
 ところがこの「百パーセントの安全率」がソックリそのまま「完全なる犯罪」の誘惑となって、私に襲いかかるようになったのは、それから間もなくの事であった。……二人の秘密生活がはじまってから一週間も経たないうちに、彼女の性格の想像も及ばぬ異常さが、マザマザと私の眼の前に露出しはじめてからの事であった。
 彼女は何の飾りも無い、殺風景なアバラ家の中でホット・イスキーを作るべく湯をわかして私を待っている間に、色々なイタズラをして遊んでいるらしかった。……むろん私は彼女が、何かしら特別な趣味を持っているらしい事を、初対面から察しているにはいたが、しかし、それが始めて私の眼に触れるまでは、まさかにコンナ非道《ひど》い趣味であろうとは、夢にも想像していなかった。それは商売の警察廻りで、アラユル残忍な事件に神経を鍛えあげられて来た私でさえも、正視しかねた程の残酷な遊戯であった。
 彼女は、どこからか迷い込んで来たポインター雑種の赤犬を一匹、台所のタタキの上に繋《つな》いで、バタを塗ったジレットの古刃《ふるは》を三枚ほど喰わせて、悶死《もんし》させているのであった。もっとも私が彼女の門口《かどぐち》を推した時には、最早《もう》、犬は血の泡の中に頭を投げ出して、眼をウッスリと見開いているだけであったが、それでもタタキの上に一面に残っている血みどろの苦悶の痕跡《あと》を一眼見ただけで、ゾッとさせられたのであった。
「……ホホホホホ……何故モット早く来なかったの。アンタに見せようと思って繋いどいたのに……。あのね……ジレットを食べさせるとね。噛もうとする拍子に、奥歯の外側に引っかかってナカナカ取れないのよ。だから苦しがって、シャックリみたいな呼吸《いき》をしいしい狂いまわるの……。それをこの犬ったらイヤシンボでね。三枚も一緒にペロペロと喰べたもんだからトウトウ一枚、嚥《の》み込んじゃったらしいの。それで死んだに違い無いのよ。ちょうど四十五分かかってよ、死ぬまでに……それあ面白かってよ。息も吐《つ》けないくらい……犬なんて馬鹿ね。ホントに……」
「…………」
「……アンタ済まないけどこの犬に石を結《ゆわ》い付けて、裏の古井戸に放り込んでくれない。前のテニスコートの垣根の下に、石ころだの針金だのがいくらでも転がっているから……タタキの血は妾《わたし》がホースで洗っとくから……ね……ね……」
 そういううちに彼女は突然にキラキラと眼を輝かした。……と思う間もなく、バタと犬の臭気《しゅうき》にしみた両手をさし伸ばして、イキナリ私の首にカジリつくと、ガソリン臭《くさ》いキスを幾度となく私の頬に押しつけるのであった。
 しかし私は最前から吐きそうな気持ちになっていた。そうした色々な臭気の中で、底の知れないほど残忍な彼女の性格を考えさせられたので……それが彼女の接吻《せっぷん》を受けているうちにイヨイヨたまらなくなったので……私はシッカリと眼をつむって、思い切り力強く彼女を押し除《の》けると、その拍子に彼女はドタンと畳の上に尻もちを突いた。そうしてそのままテレ隠しらしく靴下を脱ぎながら、高らかに笑いだした。
「オホホホホ。駄目ねアンタは……。わたしの気持ちがわからないのね。……でも今にキットわかるわよ。アンタならキット……オホホホホ……」
 私はやはり眼を閉じたまま、頭を強く左右に振った。そういう彼女の心持が、わかり過ぎる位わかったので……彼女が、こうした遊戯の刺激でもって、その性的スパスムを特異の状態にまで高潮させる習慣を持った、一種特別の女であることが、この時にやっと分ったので……そうして同時に彼女はこの私を、彼女のこうした趣味の唯一の共鳴者として、初対面からメモリをつけていたに違い無い……その気持までもがアリアリとうなずかれたので……。
 それは彼女自身にも気づいていない、彼女の本能的な盲情《もうじょう》であったろうと考えられる。……その盲情が、ズット前の猟奇座談で、私がこころみた漫談に刺激されて眼ざめた結果、こんな趣味に囚《とら》われるようになった。そうしてその結果、彼女はこうして一切を棄てて、本能的に私と結びついてくるようになったのではないか……それを彼女は私に恋しているかのように錯覚しているのではないか……。
 ……と……ここまで考えてくると、私は思わず又一つ、頭を強く左右に振った。髪毛《かみのけ》がザワザワして、背中がゾクゾクし始めたので……。
 しかも彼女のこうした心理は、それから又二三日目に、彼女が肉片を引っかけた釣針で、近所のドラ猫を釣って、手繰《たぐ》ったり、ゆるめたりして遊んでいるのを発見した時に、イヨイヨドン底まで印象づけられたのであった。同時に彼女が、こうした趣味の道伴《みちづ》れとして私を選んだのが、飛んでもない間違いであった……私の中には彼女の想像した以上の恐ろしいものが潜んでいた……という事実までも、私自身にハッキリと首肯《うなず》かれたのであった。
 彼女はその時に私の機嫌を取るつもりであったらしい。釣糸の先に引っかかった一匹の虎斑《とらぶち》の猫を、ここに書くさえ気味のわるいアラユル残忍な方法でイジメつけながら、たまらないほど腹を抱えて笑い興じるのであった。声も立て得ないまま瞳《め》を大きく見開いているその猫のタマラナイ姿を一生懸命の思いで、生汗《なまあせ》をかきかき正視しているうちに、私は、私の神経がみるみる恐ろしい方向に冱《さ》えかえって行くのに気がついていた。
 ……この女は有害無益な存在である。
 ……この女は地上に在りとあらゆる法律上の罪人のドレよりも消極的な、つまらない存在である。……と同時に、そのドレよりも詛《のろ》わしい、忌《い》まわしい、しつっこい存在でなければならぬ。
 ……この女は外国の残虐伝《ざんぎゃくでん》に出てくる女性たちの性格を、モッと小さくして、モッと近代的に尖鋭化《せんえいか》した本能の持主である……しかもこの女は、こうした趣味のためにワザワザ女優生活を飛びだして、人間世界から遠ざかって、こんなところに潜み隠れているので、私の眼に触れた動物以外に、まだドレ位の動物の死体を、裏の古井戸に投込んでいるかわからない……。
 ……この女はトテも私には我慢出来ない一つの深刻な悪夢である。……と同時に社会的にも、一つの尖鋭を極めた悪夢的存在でなければならぬ……。
 ……と……そんなような考えを凝視《ぎょうし》しいしい、台所の暗いところと向き合って、眼を一パイに見開いている私の背後から、虎の門のカーブを回る終電車の軋《きし》りが、遠く遠く、長く長く響いて来た。
 私はゾーッとして思わず額の生汗《なまあせ》を撫であげた。見ると彼女はイツの間にか猫の死骸を……それは生きたままであったかも知れない……井戸の中に投込んでしまったらしく、寝床の中の電気こたつ[#「こたつ」に傍点]に暖まりながら、気持ちよさそうに眼を閉じているのであった。
 私が彼女を殺さねばならぬ運命をマザマザと感じたのは実にその瞬間であった。……と同時に、その運命がみるみる不可抗的に大きな魅力となって、ヒシヒシと私を取り囲んで、息も吐《つ》かれぬ位グングンと私を誘惑し始めたのも、実にその寝顔を見下した次の瞬間からであった。
 ……この悪夢をこの世から抹殺し得るものは、この世に一人しか居ない。ここに突っ立っている私タッタ一人しか居ない。……この女を殺すのは私の使命である。
 ……否《いな》。否《いな》。この女は私と初対面の時から、こうなるべく運命づけられていたのだ。……その証拠にこの女はこの通り、絶対に安全な犯罪を私に遂《と》げさせるべく、自ら進んでここに来ているではないか……そうしてこの通りジッと眼を閉じて、私の手にかかるべく絶好の機会を作りつつ、待っているではないか。
 ……私は彼女の死体をここに寝かして、電燈を消して、いつもの時間通りに下宿に帰ればいいのだ。何も知らずに眠ってしまえばいいのだ。そうして明日《あす》の晩から又、以前《もと》の通りの散歩を繰返せばいいのだ。
 ……運命……そうだ……運命に違い無い……これが彼女の……。
 こんな風に考えまわしてくるうちに私は耳の中がシイ――ンとなるほど冷静になって来た。そうしてその冷静な脳髄で、一切の成行きを電光のように考えつくすと、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく彼女の枕許にひざまずいて、四五日前、冗談にやってみた通りに、手袋のままの両手を、彼女のぬくぬくした咽喉《のど》首へかけながら、少しばかり押えつけてみた。むろんまだ冗談のつもりで……。
 彼女はその時に、長いまつげをウッスリと動かした。それから大きな眼を一しきりパチパチさして、自分の首をつかんでいる二つの黒い手袋と、中折帽子を冠ったままの私の顔を見比べた。それから私の手の下で、小さな咽喉仏《のどぼとけ》を二三度グルグルと回《ま》わして、唾液《つばき》をのみ込むと、頬を真赤にしてニコニコ笑いながら、いかにも楽しそうに眼をつむった。
「……殺しても……いいのよ」

       二

 私が何故《なにゆえ》に、彼女を殺したか。
 その彼女を殺した手段と、その手段を行った機会とが、如何《いか》に完全無欠な、見事なものであったか。
 そうして、そういう私はソモソモどこの何者か。
 そんな事は三週間ばかり前の東京の各新聞を見てもらえば残らずわかる。多分特号活字で、大々的に掲載してあるであろう「女優殺し」の記事の中に在る「私の告白」を読んでもらえば沢山である。そうしてその記事によって……かくいう私が、某新聞社の社会部記者で、警察方面の事情に精通している青年であった。同時に極端な唯物主義的なニヒリスト式の性格で、良心なぞというものは旧式の道徳観から生まれた、遺伝的感受性の一部分ぐらいにしか考えない種類の男であった……という事実をハッキリと認識してもらえば、それで結構である。
 ところでその私が、現在、ここで係官の許可を得て、執筆しているのは、そんな新聞記事の範囲に属する告白ではない。又は警察の報告書や、予審調書に記入さるべき性質の告白でもない。すなわち、その新聞記事や、予審調書にあらわれているような告白を、私がナゼしたかという告白である。……事件の真相のモウ一つうらに潜む、極めて不可思議な恐ろしい真相の告白である。……すべての犯罪事件を客観的に考察し、批判する事に狎《な》れた、頗《すこぶ》る鋭利な、冷静な頭の持主でも意外に思うであろう……光明の中心×暗黒の核心=X[#「光明の中心×暗黒の核心=X」は横書き]……とも形容すべき告白である。
 冗《くど》く云うようであるが、私はモウ一度念を押しておきたい。
 あの新聞記事を徹底的に精読してくれた、極めて少数の人々……もしくは直感の鋭い、或る種のアタマの持ち主は直ぐに気付いたであろう。私はこの事件に就《つ》いては、どこまでも知らぬ存ぜぬの一点張りで、押通し得る自信を持っていた。如何なる名探偵や名検事が出て来ても、一分一厘の狂い無しに「証拠不充分」のところまで押し付け得る、絶対無限の確信を持っていた……という私の主張を遺憾《いかん》なく首肯《しゅこう》してくれるであろう。……にも拘《かか》わらずその私が、何故《なにゆえ》に自分から進んで自分の罪状をブチマケてしまったか……モウ一歩突込んで云うと、良心なるものの存在価値を絶対に否認していた私……同時に自分の手にかけた彼女に対しては、一点の同情すら残していなかった筈の私が……何故にコンナにも他愛なく泥を吐いてしまったか……ホンの当てズッポーで投げかけた刑事の手縄に、何故にこっちから進んで引っかかって行ったか……。
 ……こうした疑問は、あの記事を本当の意味で精読してくれた何人かの頭に必然的に浮かんだ事と思う。「何故に私が白状したか」という大きな疑問に、一直線にぶつかった筈と考えられる。
 ところが不思議な事に、この事件を担当した警察官や裁判所の連中は、コンナ事をテンカラ問題にしていないらしい。現在私を未決監《みけつ》にブチ込んでいながら、この点に関しては一人も疑問を起したものが居ないらしい。それはこの点について、私に訊問《じんもん》した事が一度も無い……という事実が、何よりも雄弁に証拠立てている。
 しかし考えてみるとこれは無理もない話である。彼等は私の自白にスッカリ満足してしまって、ソレ以上の事に気が付かないでいるのだから……。彼等は要するに犯人を捕える無智な器械に過ぎないのだから……そうしてそんな器械となって月給を取るべく彼等は余りに忙し過ぎるのだから……。
 だから私はこの一文を彼等の参考に供しようなぞ思って書くのではない。あの記事を精読してくれて、私の自白心理に就いて疑問を起してくれた少数の頭のいい読者と、わざわざ私のために係官の許可を得て、この紙と鉛筆とを差し入れてくれた官選の弁護士君へ、ホンの置土産《おきみやげ》のつもりで書いているのだ。
 そうして私の「完全な犯罪」を清算してしまいたい意味で……。

 私は「彼女の死」以外に、何等の犯跡を残していない空屋を出ると、零度以下に冷え切った深夜のコンクリートの上を、悠々《ゆうゆう》と下宿の方へ歩いて帰った。それは、いつも新聞社からの帰りがけに、散歩をしている通りの足取であったが、あんまり寒いせいか、途中には犬コロ一匹居なかった。ただ街路樹の処々《しょしょ》に残った枯葉が、クローム色の星空の下で、あるか無いかの風にヒラリヒラリと動いているばかりであった。
 すべてが私の予想通りに完全無欠で、且《か》つ理想的であった。「完全なる犯罪」を実行し得る無上の一|刹那《せつな》を、私のために作り出してくれた天地万象が、どこまでも私のアタマのヨサを保証すべく、私の註文通りに動いているかのようであった。こころみに下宿の門口《かどぐち》に立ち止まって、軒燈《けんとう》の光りで腕時計を照してみると、いつも帰って来る時間と一分も違っていなかった。
 ……彼女はモウ、これで完全に過去の存在として私の記憶の世界から流れ去ってしまったのだ。そうして私はこれから後《のち》、当分の間、毎晩その通りの散歩を繰返せばいいのだ。あの空家で彼女と媾曳《あいびき》することだけを抜きにして……。
 そう思い思い私は下宿の表口の呼鈴《よびりん》を押して、閂《かんぬき》を外《はず》してくれた寝ぼけ顔の女中に挨拶をした。いつもの通りに「ありがとう……お休み」……と……。その時に、帳場の上にかかった柱時計が、カッタルそうに二時を打った。
 その時計の音を耳にしながら私は、神経の端の端までも整然として靴の紐を解く事が出来た。それから、いつもの足どりで、うつむき勝ちに階段を昇ったが、それは吾《わ》れながら感心するくらい平気な……ねむたそうな跫音《あしおと》となって、深夜の階上と階下に響いた。
 ……もう大丈夫だ。何一つ手ぬかりは無い。あとは階段の上の取っ付きの自分の室《へや》に這入《はい》って、いつもの通りにバットを一本吹かしてから蒲団《ふとん》を引っかぶって睡ればいいのだ。……何もかも忘れて……。
 そんな事を考え考え幅広い階段を半分ほど昇って、そこから直角に右へ折れ曲る処に在る、一間四方ばかりの板張りの上まで来ると、そこで平生《いつも》の習慣が出たのであろう、何の気もなく顔を上げたが……私は思わずハッとした。モウすこしで声を立てるところであったかも知れなかった。
 ……「私」が「私」と向い合って突立っているのであった……板張りの正面の壁に嵌《は》め込まれた等身大の鏡の中に、階段の向うから上って来たに違い無い私が、頭の上の黄色い十|燭《しょく》の電燈に照らされながら立ち止まって私をジッと凝視しているのであった。……蒼白い……いかにも平気らしい……それでいて、どことなく犯人らしい冴え返った顔色をして……底の底まで緊張した、空虚な瞳《め》を据えて……。
「この鏡の事は全く予想していなかった」……と気付くと同時に私は、私の全神経が思いがけなくクラクラとなるのを感じた。私の完全な犯行をタッタ今まで保証して、支持して来てくれた一切のものが、私の背後で突然ガランガランガランガランと崩壊《ほうかい》して行く音を聞いたように思った。……同時に、逃げるように横の階段を飛び上って、廊下の取っ付きの自分の室《へや》に転がり込んで行く、自分自身を感じたように思った……が、間もなく、その次の瞬間には、もとの通りに固くなって、板張りの真中に棒立ちになったまま鏡と向い合っている自分自身を発見した。……自分自身に、自分自身を見透《みす》かされたような、狼狽《ろうばい》した気持ちのまま……。
 するとその時に、鏡の中の私が、その黒い、鋭い眼つきでもって、私にハッキリとこう命令した。
「お前はソンナに凝然《じっ》と突立っていてはいけないのだぞ。今夜に限ってこの鏡の前で、そんな風に特別な素振をするのは、非常な危険に身を晒《さら》す事になるのだぞ。一秒|躊躇《ちゅうちょ》すれば一秒だけ余計に「自分が犯人」である事を自白し続ける事になるのだぞ。
 ……しかし、そんなに神経を動揺さしたまま俺の前を立ち去るのは尚更《なおさら》ケンノンだ。お前は今すぐに、そのお前の全神経を、いつもの通りの冷静さに立ち帰らせなければならぬ。そうして平生《いつも》の通りの平気な足取りで、お前の右手の階段を昇って、自分の室《へや》に帰らなければならぬ。……いいか……まだ動いてはいけないぞ……お前の神経がまだ震えている……まだまだ……まだまだ……」
 こんな風に隙間もなく、次から次に命令する相手の鋭い眼付きを、一生懸命に正視しているうちに私は、私の神経がスーッと消え失せて行くように感じた。それにつれて私の全身が石像のように硬直したまま、左の方へグラグラと傾き倒れて行くのを見た……ように思いながら慌てて両脚を踏み締めて、唇を血の出るほど噛み締めながら、鏡の中の自分の顔を、なおも一心に睨み付けていると、そのうちにいつの間にか又スーッと吾に返る事が出来た。やっと右手を動かして、ポケットからハンカチを取り出して、顔一面に流るる生汗《なまあせ》を拭うことが出来た。そうすると又、それにつれて私の神経がグングンと弛《ゆる》んで来て、今度は平生よりもズット平気な……寧《むし》ろガッカリしてしまって胸が悪くなるような、ダレ切った気持になって来た。
 私は変に可笑《おか》しくなって来た。タッタ今まで妙に狼狽《ろうばい》していた自分の姿が、この上もなく滑稽《こっけい》なものに思えて来た。そうして「アハアハアハ」と大声で笑い出してみたいような……「笑ったっていいじゃないか」と怒鳴ってみたいようなフザケた気持になった。
 私は鏡の中の自分を軽蔑してやりたくなった……「何だ貴様は」とツバを吐きかけてやりたい衝動で一パイになって来た。そこでモウ一度ポケットからハンカチを出して顔を拭い拭い、そこいらをソット見まわしてから、鏡の中を振り返ると、鏡の中の私も亦《また》、瀬戸物のように、血の気《け》の無い顔をして、私の方をオズオズと見返した……が……やがて突然に、思い出したように、白い歯を露《あら》わして、ひややかにアザミ笑った。
 私は思わず眼を伏せた。……ゴックリと唾液《つば》を呑んだ。

 それから一週間ばかり後《のち》の或る朝であった。私はいつもの通り朝寝をして、モウ起きようか……どうしようかと思い思い、昨夜《ゆうべ》新聞社から持って帰った、今日の朝刊を拡げていると、階下の帳場で話している男と女の声が、ゆくりなくも障子越しに聞えて来た。私はその声を聞くと新聞から眼を離した。……ハテ……どこかで聞いたような……と思い思い新聞を見るふりをして聞くともなく聞いていると、それは顔|馴染《なじ》みの警視庁のT刑事と、下宿の女将《おかみ》の話声だった。
「フ――ン……何かその男に変った事は無いかね……近頃……」
 T刑事は有名な胴間声《どうまごえ》であった。
「イイエ。別に……それあキチョウメンな方ですよ」
 女将も評判のキンキン声であったが、きょうは何となく魘《お》びえている様子……。
 私は新聞紙を夜具の上に伏せて、天井の木目を見ながら一心に耳を澄ました。大丈夫こっちの事ではない……と確信しながら……。
「フ――ン。身ぶり素振りや何かのチョットした事でもいいんだが……隠さずに云ってもらわんと、あとで困るんだが」
「……ええ……そう仰有《おっしゃ》ればありますよ。チョットした事ですけども……」
「どんな事だえ」
「…………」
 女将の声が急に聞えなくなった。T刑事の耳に口を寄せて囁《ささや》いているらしい気はいであったが、ジッと耳を澄ましている私には、そうした芝居じみた情景がアリアリと見透かされて、何となく滑稽な気持ちにさえなった。……と思ううちに又も、T刑事の太い声が筒抜けに聞え初めた。
「……ウ――ム……。いつも鏡の前を通るたんびにチョット立ち止まるんだな。ウンウン。そうしてネクタイを直して、色男らしい気取った身振りを一つして、シャッポを冠り直して降りて行く。……それがこの頃その鏡を見向きもしない。色っぽい男だから、そんな癖《くせ》は女中がみんな気を付けて知っている……この一週間ばかり……フ――ン……ちょうど事件の翌日あたりからの事だな……フ――ム……モウ外《ほか》には無いかね……気の付いた事は……」
 私はガバと跳ね起きた。社に出るにはまだ早かったが、そんな事を問題にしてはいられなかった。しかし決して慌てはしなかった。万一の用心のために、あらゆる場合を予想していたのだから……手早く着物を脱ぎ棄てて、テニスの運動服に着かえたが、その時に恥かしい話ではあるが胸が少々ドキドキした。まさか……まさかと思っていたのが案外早く手がまわったので……同時に些《すく》なからず腹も立った。どうしても一番手数のかかる、最後の手段を執《と》らなければならない事が予想されたので……。
 ……彼奴等《きゃつら》はいつもコンナ当てズッポー式の見込捜索をやるから困る。当り前に動かぬ証拠を押えて来るとなれば、百年かかってもここへ遣《や》って来る筈は無いのに……チエッ……。おまけに今、俺を引っかけようとしているトリックの浅薄《あさはか》さ加減はドウダ……そんな古手に引っかかる俺と思うか……と云いたいが今度だけは特別をもって引っかかってやる……その古手を利用してやる。その代り一分一厘間違い無しに証拠不充分になって見せるから、その時に吠面《ほえづら》かくな……。
 そんな事を思い思い運動服の上から、スエーターをぬくぬくと着込んで、ガマ口を尻のポケットへ押し込んで、鳥打帽子と西洋手拭と、ラケットと運動靴を抱えると、石鹸《せっけん》を塗って辷《すべ》りをよくしておいた障子をソーッとあけて、裏町の屋根を見晴らした二階の廊下に出た。そこで念のために前後を見まわしたが誰も居ない。
 ……シメタナ。事によったら今の芝居は、芝居じゃなかったかも知れないぞ。逃げる余裕が充分に在るのかも知れないぞ……しかしまだ往来まで出てみないとわからない……。
 と考えながら裏口の階段に続く廊下を、もしやと疑いながら曲り込むと、果してそこに立っていた……張り込んでいたに違い無いAという、やはり警視庁の老刑事にバッタリと行き合ってしまった。
 私はその時にハッと眼を丸くして立ち竦《すく》んだ……ように思う。何故《なぜ》かというとこのAという老刑事が出て来る事は、殆《ほと》んど十中八九まで確定した犯人を逮捕する時にきまっていたのだから……そうしてあの晩見た、鏡の中の自分の姿を、その瞬間にチラリと思い浮かべたように思ったから……。
 A刑事はゴマ塩の無性髭《ぶしょうひげ》を撫でながらニッコリと笑った。
「……ヤア……早くから……どこへ行くかね……」
 私は二三度眼をパチパチさせた。すぐに笑い出しながら、何か巧《うま》い弁解をしようと思ったが、その一刹那に又も、鏡の中の自分の姿が、眼の前に立ち塞《ふさ》がったような気がしたので、思わずラケットを持った手で両方の眼をこすってしまった。
「……エ……エ……そのチョット……」
 私は吾《わ》れながら芝居の拙《まず》いのに気が付いた。腋の下から冷汗がポタポタと滴《したた》り落ちるのがわかった。老刑事も無論、私のいつに無いウロタエ方に気が付いたらしい。心持ち顔の筋肉を緊張させながらニッコリと笑った。
「チョットどこへ」
「テニスをしに行くんです……約束がありますから……」
 老刑事は悠々と私を見上げ見下した。相かわらず顎《あご》を撫でまわしながら……。
「……フ――ン……どこのコートへ……」
 私はここでヤット笑う事が出来た。ドンナ笑い顔だったか知らないけど……。
「日比谷のコートです……しかし何か御用ですか」
「ウン……チョット来てもらいたい事があったからね」
「僕にですか」
「ウン……大した用じゃないと思うが……」
「そうじゃないでしょう……何か僕に嫌疑をかけているのでしょう」
 ……平生の通りズバズバ遣《や》るに限る……と予《かね》てから覚悟していた決心が、この時にヤット付いた私は、思い切ってそう云ってやった。すると果して老刑事の微笑が見る間に苦笑に変って行った。かなり面喰ったらしい。
「そ……そんな事じゃないよ。君は新聞社の人間じゃないか」
 私は腹の中で凱歌《がいか》をあげた。ここでこの刑事を憤《おこ》らして、遮二無二《しゃにむに》私を捕縛さしてしまえばいよいよ満点である。
「だってそうじゃないですか。何でも無い用事だったら電話をかけてくれた方が早いじゃないですか。まだ社に出る時間じゃないんですから直ぐに行けるじゃありませんか」
 老刑事の顔から笑いが全く消えた。疑い深い眼付きをショボショボさして、モウ一度私を見上げ見下した。
 その顔をこっちからも同時に見上げ見下しているうちに、私は完全に落ち付きを恢復《かいふく》した。頭が氷のようになって、あらゆる方向に冴え返って行った。
 私は事態が容易でないのをモウ一度直覚した。老刑事が私を容易に犯人扱いにしようとしないのは、証拠が不十分なままに私を的確な犯人と睨んでいる証拠である……だから何とかして私を狼狽《ろうばい》さして、不用意な、取り返しの付かないボロを出さしておいてから、ピッタリ押え付けようとこころみている、この刑事一流の未練な駈け引きであることが、よくわかった。
 ……しかし警視庁ではドウして俺に目星を付けたんだろう……その模様によっては慌てない方がいいとも思うんだが……ハテ……。
 そう考えながらホンノ一二秒ばかり躊躇しているうちに、老刑事は又もニコニコ笑い出しながら、私の耳に口をさし寄せた。そうして私が身を退《ひ》く間もなく、ボソボソと囁き出したが、その云う事を聞いてみると、私が想像していたのと一言一句違わないといってもいい内容であった。
「……ええかね君……温柔《おとな》しく従《つ》いて来たまえ。悪くは計《はか》らわんから。ええかね。君はあの女優が殺された空屋の近くに住んでいるだろう。そうして毎晩、社から帰りにあの家の前を通って行くじゃろう。それから手口が非常に鮮かで何の証拠も残っておらん。よほど頭と腕の冴えた人間で、手筋をよく知っている人間の仕事に違わんというので、極《ごく》秘密で研究した結果君に札が落ちたのだよ。別に証拠がある訳じゃない。だから出る処に出ればキット証拠不充分になる。これは絶対に保証出来る。ええかね。わかっとるじゃろう……。これは職務を離れた心持ちで、君を助けたいばっかりに云う言葉じゃから信用してくれんと困る。君は頭がええから解るじゃろう。わしも君には今まで何度も何度も仕事の上で助けてもらったことがあるからナ……ナ……」
 この言葉のウラに含まれている恐るべく、憎むべき罠《わな》が見え透かない私じゃなかった。同時にその裏を掻《か》いて行こうとしている私の方針を考えて、思わず微笑したくなった私であった。
 しかし私は、そんな気《け》ぶりを色に出すようなヘマはしなかった。そんな甘口に引っかかって一寸《ちょっと》でも躊躇したら、その躊躇がそのまま「有罪の証拠」になる事を逸早《いちはや》く頭に閃《ひら》めかした私は、老刑事の言葉が終るか終らないかに、憤然として云い放った。
「……駄目です。冗談は止して下さい……僕を引っぱったら君等の面目は立つかも知れないが、僕の面目はどうなるんです。面目ばかりじゃない、飯の喰い上げになるじゃないですか。厚顔無恥にも程がある。……失敬な……退《ど》き給え……」
 と大声で怒り付けながら、老刑事を突き退《の》けて裏口の階段の方へ行こうとしたが、この時の私の腹の工合は、吾《わ》れながら真に迫った傑作であったと思う。老刑事のネチネチした老獪《ずる》い手段が、ホントウに自烈度《じれった》くて腹が立っていたのだから……。
 しかし、こうした私の行動が、滅多に無事に通過しないであろう事は、私もよく知っていた。
 老刑事は私が思っていたよりも強い力で、素早く私の肩を押えて引き戻した。そうしてラケットと靴を持った両手をホンの一寸《ちょっと》たたいたと思ったら、バッチリと生あたたかい手錠をかけてしまった。……と……私の背後の縁側からT刑事と、モウ一人の新米らしい若い刑事が、待ち構えていたように曲り角から出て来て、私の背後に立ち塞《ふさ》がってしまった。
 私はその中でも見知り越しの二人の刑事の顔を、わざと不思議そうに見まわした。それから如何《いか》にも面目無い恰好《かっこう》でグッタリとうなだれる拍子《ひょうし》に、思わずヨロヨロとよろめいて横の壁にドシンと背中を寄せかけると、あとからT刑事がツカツカと近寄って来て、チョットお辞儀をするように私の顔を覗き込んだ。そうして私を憫《あわ》れむように……又は云い訳をするように、見え透いた空笑いをした。
「ハハハハハ。今の芝居に引っかかったね」
「…………」
「……相手が君だと滅多にボロを出す気づかいは無い。トテモ一筋縄では行くまいとは思ったが、チョット鎌《かま》をかけたら案外引っかかってくれたんで助かったよ。まあ諦めてくれ給え。決して悪くは計らわないからね……元来知らない仲じゃなし……ハハハハ……」
 そう云うT刑事の笑い声が終るか終らないかに、頭を下げていた私は突然、脱兎《だっと》のように若い刑事の横をスリ抜けて、二階廊下の欄干《てすり》に片足をかけて飛び降りようとした。無論、自殺の恰好で……それを若い刑事にシッカリと抱き止められると、そのまま両手の手錠を、眼の前の欄干《らんかん》へ砕けよと打ち付けながら、泣き声を振り絞って絶叫した。
「……嘘です……嘘です……間違いです……この手錠を取って下さいッ……冤罪《えんざい》です。僕は無罪です。……僕はあの女を知ってます。けども関係はありません。どこに居るかさえ知らなかった……僕は……僕は毎晩十二時に社を出て二時キッカリに下宿へ帰って来るのです。ずっと前から……そうなんです……二三年前から……手錠を取って下さい。この手錠を……僕はテニスしに行くんです。天気がいいから……エエッ放して……放してエ――ッ」
 しかしボールとテニスで鍛えた私の体力も、三人の刑事には敵《かな》わなかった。これも無論、最初から知れ切った事であったが、しかし法廷で知らぬ存ぜぬを押し通すためには、その準備行動として、是非とも一度、徹底的に暴れておかねばならぬと思ったので……それからモウ一つには同宿の連中や、近所隣りの家族たちに同情的な心証を残しておくと、後《あと》になってから非常に有利な事がある実例を知っていたので、コンナにヘトヘトになるまで、悲鳴をあげて抵抗し続けたのであった。
 それから私は予定の通り、スエーターもパンツも破れ歪んだミジメな姿で、三人の刑事に引っ立てられて立ち上った。そうしてシッカリと眼を閉じて仰向いたまま、ハアハアと息を切らしながら、板張りの廊下を真直に、表口の階段へかかったのであったが、その途中の鏡の前まで来ると、私は又もギックリとして立ち止まった。この間の晩の通りに……何故だかよくわからないまま……。
 ……大鏡の中には色の黒い、厳《いか》めしい三人の男と、いつの間にか鼻血にまみれている青ざめた、ミジメな私の顔が並んで突立っていた。
 ……その変り果てた自分の姿を、吸い付けられたような気持で凝視しているうちに、私は何故ともなく髪の毛がザワザワザワザワと逆立《さかだ》って来るのを感じた。私が構成した「完全無欠の犯罪」がこの鏡一つのためにコッパ、ミジンにブチ壊されてしまった事をハッキリと意識したように思った。
 ……と……気が付くと同時に私は、自分の姿と向い合ったまま、無限の谷底をグングン落ち込んで行くような感じがした。気が遠くなってフラフラと倒れそうになった。
 それを一生懸命の思いで踏みこたえながら私は、鏡の中の自分の姿に向って一歩踏み出した。今にも真暗くなりそうな瞳《め》をシッカリと据えながら、この世限りの憎々しい表情を作って自分の顔の鼻の先に近づけた。思い切り顎を突き出して見せた。
「……オレダヨオ――オ――」



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
※「気持」「気持ち」の不統一は底本のママとした。
入力:柴田卓治
校正:柳沢成雄
2000年4月19日公開
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