青空文庫アーカイブ

復讐
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)覆《おお》われて

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)百|燭光《しょっこう》のスイッチを

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)アヤツリ[#「アヤツリ」に傍点]人形のように
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 昭和二年の二月中旬のこと……S岳の絶頂の岩山が二三日灰色の雲に覆《おお》われているうちに、麓《ふもと》の村々へ白いものがチラチラし始めたと思うと、近年珍らしい大雪になった。
 その麓のS岳村から五六町離れた山裾《やますそ》に、この界隈《かいわい》での物持《ものもち》と云われている藤沢病院が建っていた。田舎《いなか》には珍らしい北欧型のスレート屋根を、古風な破風造りの母屋《おもや》の甍《いらか》と交錯さして、日が暮れても、ハッキリとした輪廓《りんかく》を、雪の中に描き現わしていたが、やがて、その玄関の左右から明るいのと、暗いのと、二いろの電燈が輝き出した。
 向って右側の明るい窓は、この病院の薬局で、二段重ねの薬戸棚に囲まれた中央の調合台の前には、この家の養女として育って来た品夫《しなお》が、白い看護婦服を着て、キチンと腰をかけていた。彼女の前のセピア色の平面には、きょう出された処方箋や、薬品の註文の写しや、新薬のビラの綴《と》じ込みや、カード式の診断簿等というものが、色々の文房具や、薬品などと一緒に一パイに取り散らしてあった。
 彼女の皮膚《はだ》は厚化粧をしているかのように白かった。その頬と唇は臙脂《べに》をさしたかのように紅く、その睫《まつげ》と眉は植えたもののように濃く長かった。髪毛《かみのけ》も同様に、仮髪《かつら》かと思われるくらい豊かに青々としているのを、眥《めじり》が釣り上がるほど引き詰めて、長い襟足の附け根のところに大きく無造作に渦巻かせていた。そうして、しなやかな身体《からだ》を机に凭《も》たせかけながら、切れ目の長い一重瞼《ひとえまぶた》を伏せて、黒澄んだ瞳を隙間《すきま》もなく書類の上に走らせるのであったが、その表情は、ある時は十二三の小娘のように無邪気に、又、ある瞬間は二十四五の年増女《としまおんな》のようにマセて見えた。又ある時は西洋の名画に在る聖母のように気高く……かと思うと、その次の刹那《せつな》には芝居の毒婦のように妖艶にも……。
 彼女はホントウに忙しいのであった。
 近いうちに彼女と式を挙げる筈《はず》になっている藤沢家の養子で、前院長の甥《おい》に当る健策という医学士は、昨年の暮に、養父の玄洋《げんよう》氏が急性肺炎で死亡すると間もなく、大学の研究を中止して帰って来たのであったが、なかなかの元気者で、盛んに広告をして患者を殖やす上に、何から何まで大学式のキチョウメンな遣《や》り方をするので、その忙しさといったら無かった。その中《うち》でも薬局と会計の仕事だけは、他人に任せない家風だったので、前《ぜん》の院長の時から引き続いて、品夫がタッタ一人で引き受けているのであったが、田舎の女学校出の彼女にとっては、独逸《ドイツ》語の処方箋を読み分ける事からして容易ならぬ骨折りで、寧《むし》ろ超人間的の仕事といってもいい位であった。
 しかし、そのうちに彼女はヤット仕事を終った。新薬の広告ビラを板の上に綴じ付けて、会計簿の上にキチンと置くと、ホッと溜息をしながら眼をあげて、正面の薬戸棚の間に懸かっている大きなボンボン時計を見た。その瞬間に時計は、彼女のこの上もない親切な伴侶ででもあるかのように、十一時の第一点を打ち出した。
 その音が鳴りおわるまで彼女は、机の上にあらわな両腕を投げ出して、ウットリと眼を据えていた。唇をすこし開いたまま……そうして時計の音が一つ一つに室の中を渦巻いて、又、もとの真鍮《しんちゅう》の振り子の蔭に消え込んでしまうと、彼女は頭を使い切ってしまった人のように、両手を顔に当ててグッタリとなってしまった。
 けれども、それはホンの一分か二分の間であった。……どこか隔たった室で話しているらしい男の声が、廊下に面した扉《ドア》の間からホソボソと沁《し》み込んで来るうちに……
 ……品夫……
 ……復讐……
 ……という二つの言葉が偶然のように相前後してハッキリと響いて来ると、彼女はパッと顔を上げた。アヤツリ[#「アヤツリ」に傍点]人形のように真正面を見据えて、何ともいえない怯《おび》えた表情をしながら、全身をヒッソリと硬ばらせたようであったが、やがて大急ぎで足下の反射ストーブを消して、頭の上にゆらめく百|燭光《しょっこう》のスイッチを注意深くひねると、真暗《まっくら》になった薬戸棚の間を音もなく廊下に辷《すべ》り出た。やはり真暗な玄関を隔てた向側に在る、患者控室の扉《ドア》に近づいて、ソット鍵穴に眼を当てた。
 患者控室は十畳ばかりのリノリウム張りであった。そのまん中には、薄暗い十燭の電燈がブラ下がっていたが、その下に据えられた大火鉢に近く、二人の男が長椅子を引き寄せてさし向いになりながら股火《またび》をしているのであった。
 扉《ドア》に背を向けているのは若い院長の健策で、糊《のり》の利《き》いた診察服の前をはだけて、質素な黒|羅紗《らしゃ》のチョッキと、ズボンを露わしている。背丈はあまり高くないが、その胸高に組んだ逞ましい腕や、怒った肩や、モシャモシャした頭や、健康そのもののように赤光りする顔つきは、まだ純然たる書生|型《タイプ》で、院長らしい気取った態度は微塵《みじん》もない。ウッカリすると柔道かボートの現役選手に見られそうな風采である。
 これに反して向い合った男は、蒼黒く肥った、背の高い、堂々たる風采のイガ栗頭であった。四十代に見える、鼻すじの通った貴族的な顔に、ロイド式の大きな黒眼鏡をかけて、上等の駱駝《らくだ》の襯衣《シャツ》を二枚重ねた上から、青縞の八反の褞袍《どてら》を着ているが、首のまわりにクッキリと白くカラのあとが残っているのが何となく意気に見える。……もう久しく……正月の初め頃から、この病院の特等室に寝起きしている、黒木繁という患者で、元来欧洲航路のカーゴボートの一等運転手《チーフメート》であったのが肺尖《はいせん》を患《わずら》った揚句《あげく》、この病院の新聞広告を見て静養しに来たものだそうである。東京育ちと名乗るだけに、金づかいが綺麗なばかりでなく、物ごしが上品で、見聞が広いために、いつとなく若い院長と懇意になって、無二の話相手にされているのであった。
 二人の間にプープーと湯気を吹いているアルミの大薬鑵《おおやかん》や、外の雪をチラチラと透かしながら一面に水滴《しずく》をしたたらしている硝子《ガラス》窓は、二人が長い間話し込んでいる事を証明していた。しかも、その話の興味はかなりに高潮しているらしく、健策は長椅子に背を凭《も》たせて、冷然と腕を組んだまま……又、黒木はその黒眼鏡をかけた魚のように無表情な顔を、火鉢の上にさし出したまま、双方睨み合いの姿で、緊張した沈黙に陥っているのであったが、やがて、黒木が固く結んでいた唇を開くと、相手の顔を見詰めたまま、長い溜息を一つした。そうしてポッツリと独言のように、
「……復讐……」
 と云った。すると健策は、その言葉を待ちかねていたかのように大きく、一ツうなずいた……が、間もなく何かしらパッと赤面しながら微苦笑を浮かべた。
「……そうなんです……品夫は親の讐敵《かたき》を討ちたいから、今|暫《しばら》く結婚を延期してくれと云うのです。……あんまり馬鹿馬鹿しい云い草なので、実は僕も面喰っているのですがね……ハハハハハ」
 黒木はしかし笑わなかった。なおも健策の顔を凝視しながら、躊躇《ちゅうちょ》しいしい問うた。
「……ヘエ……しかし、それには何か深い理由《わけ》がおありになるでしょう?」
「ええ……それは、あるといえば在るようなものです。貴方《あなた》のように世間を広く渡っておられる方に、その理由《わけ》というのを聞いて頂いたら、何か適当な御意見が聞かれはしまいかと思って、実はお話しするんですがね……ほかに相談相手も無いしするもんですから……」
「ヘエ……私で宜《よろ》しければですが……しかし、そんな立ち入った事を……」
「構いませんとも……誰も聞いている者はありませんから……ほかでもありません。……今もお話しする通り、品夫と僕の事は、死んだ養父《ちち》の玄洋が、もうズット前から決定《とりきめ》ていましたので、親類連中とも話し合って、去年の暮に式を挙げるばかりになっていたのが、養父《ちち》の病気でツイ延び延びになってしまったんです。……それで、養父《ちち》が亡くなりますと、正月の十一日でしたが……三七日の法事の時に、親類たちと相談をしまして、四十九日の法事が済んだら、間もなく式を挙げる事に決定したのですが、それを品夫が聞きますと、意外にも、頑強な反対論を持ち出しましてね……今までは別に異存も無いらしかったのですが……」
「ヘエ……妙ですな。それは……」
「エエ……妙なんです……。つまり養父《ちち》の百箇日が来るまで遠慮したいと云うので……そのうちには品夫の実父の二十一回忌も来るしする事だから、そんな法事をスッカリ済ましてから、ゆっくりと式を挙げたいと云うのです」
「成る程……それなら御無理もないかも知れませんね……。初《うぶ》なお嬢さんは何となく結婚を怖がられるものですから」
 健策は又も耳のつけ根まで赤くなった。
「……エエ……それは僕も知っています。しかし、そういう品夫の態度が恐しく真剣なので、僕はすこし気にかかりましてね。何となくトンチンカンな感じがしましたから……その時にこう云ってやったのです……。それは一応|尤《もっと》もな意見だが……しかし、もう親類と相談をしてきめてしまった事だから、今更変更するのは面白くないだろう……と……」
「なるほど……これも御道理《ごもっとも》ですね」
「そう云いますと、今度は品夫の奴がメソメソ泣き出して、ウンともスンとも返事をしなくなったんです」
「ヘエ……なるほど……」
「……様子が変ですから僕はいよいよ気になりましてね……何故《なぜ》泣くのかと云って無理やりに、根掘り葉掘り尋ねますと、やっとの事で白状したのです。……つまり妾《わたし》は、二十年|前《ぜん》に殺された、妾の実のお父さんの讐敵《かたき》を討たなければ結婚をしない決心だと云うので……イヤもうトンチンカンにも、時代錯誤にも、お話しにならない奇抜な返答なのですが、本人はそれでも頗《すこぶ》る付きの大真面目らしいので、僕はスッカリ面喰ってしまいました」
「ヘエ……それは……お驚きになったでしょう……」
「イヤもう、お話しするのも馬鹿馬鹿しい位ですがね……ですから僕も、始めは何かしら云い難《にく》い理由《わけ》があるのを隠すために、そんな無茶を云うのじゃないか知らんとも思ってみたんですが、品夫の真剣な態度を見ると、どうもそうじゃないらしいんです……というのは、元来品夫は僕と違って文学屋で、女の癖に探偵小説だの、宗教関係の書物だのを無闇矢鱈《むやみやたら》に読みたがるのです。露西亜《ロシア》人が書いたとかいう黒い表紙の飜訳小説を取り寄せて、夜通しがかりで読んだりする位で……ですから、そんなものの影響を受けているのでしょう。ごく平凡なつまらない事までも、恐ろしく深刻に考え過ぎる癖があるのです。……それで、こんな事を空想したんじゃないかと気が付いたのですがね」
「ハハア……成る程……それはそうかも知れませんな。……しかしそれにしても妙ですナ。品夫さんのお父さんは二十年も前にお亡くなりになったので、顔もよく御存じ無い筈なのに、どうしてそのお父さんの讐仇《かたき》の顔を見分けられるのでしょう」
「それが又奇抜なんです。品夫はその実父《ちちおや》を殺した犯人が生きてさえおれば、一生に一度はキットこの村に帰って来るに違い無いと云うのです。何故かと云うと或《あ》る犯罪者が、自分の犯した罪悪の遺跡を、それとなく見てまわったり、それに関する人の噂を聞いたりすると、トテモたまらない愉快を感ずるものだと云うのです。つまり自分の罪を人知れず自白してみたい一種の心理と、犯罪者特有の冒険慾とが一所になって来るので、トテモ正しい人間の想像も及ばないスバラシイ魅力を持っているものだそうで……つまり、その犯した罪が大きければ大きい程……そうして犯人自身が知識階級であればある程、その魅力も何層倍の深さに感ぜられるものだと云うのです。……だから妾《わたし》のお父様を殺した犯人は、ツイこの頃までも、そうした大きい魅力に引かされて、この村に帰ってみたくて堪《たま》らないでいたに違い無いが、ここにタッタ一人、その犯人の顔や特徴をよく知っておられる、うちの御養父《おとう》様が生き残っておられた。……それでウッカリこの村に足を入れる事が出来ずにいたのだが、その御養父《おとう》様がお亡くなりになった今日では、モウ怖い者は一人も居ないのだから、その犯人はスッカリ安心しているにちがい無い。そうして近いうちにこの村に遣って来るに違い無い……イヤ……事によると、もうそこいらに来ていて、妾の姿をジロジロ眺めているかも知れない……と云うので、恰《まる》で夢みたような事を主張するのです……しかも真剣に……」
 熱心に傾聴していた黒木は今一度、長いため息をした。やはり相手の顔をみつめたまま……。
「成る程……婦人の想像力ぐらい恐ろしいものはありませんからね……真実以上の真実ですから……」
「……まったくです……しかし、その時はちょうど僕も品夫も、新規に引き受けた病院の仕事だの、遺産の整理だの、法事だのというものがゴチャゴチャと重なり合っていて、トテモ結婚どころの沙汰じゃなかったもんですから、そんな事を深く穿鑿《せんさく》する暇も無いままに放《ほ》ったらかしておいたものですが……そうそう……それから品夫はコンナ事も附け加えて話しましたよ。何でもそれから二三日目の夕食の時でしたが、顔を赤くしながら……妾《わたし》はこのあいだ御養父《おとう》様の二七日の晩に、妾の身の上とソックリのコルシカ人の娘の話を読んで心から感心してしまった。その娘は、父親を殺したに違い無いと思っている男から婚約を申し込まれると、大喜びで直ぐに承諾をして、他からの申込みを全部断ってしまった。そうして結婚式の晩にその男を絞め殺す……という筋であったが、その中には、そうした自分の罪の遺跡に引きつけられつつ、犯罪を二重に楽しんで行こうとする犯人の気持ちと、その犯人のそうした執念深い慾望をキレイに断《た》ち切って終《しま》うかどうかしなければ、どうしても気が済まない、生一本《きいっぽん》の娘の心理とが、タマラナイ程深刻に描《えが》きあらわしてあった……と云うのです。何でも品夫はその小説を読んでから、そんな気になったのじゃないかと思うんですが……」
「ハハア……」
 と黒木はイヨイヨ感動したらしく、片手で鼻の下を撫でおろした。
「……仏蘭西《フランス》か伊太利《イタリー》物らしい小説ですな。……けれども万に一つその通りになったら、お嬢さんは、トテモ素晴らしい直感力を持っておられる訳ですね」
 健策も苦笑しながら、ツルリと顔を撫でまわした。
「どうも赤面の至りです。あんまり非常識な話なので……」
「……イヤ……しかし驚き入りましたナ。……実は私も品夫さんのお父さんに関する村の人の噂を二三聞いているにはいたのですが、大部分誇張だろうと思いましたし、もしかすると岡焼き連《れん》の中傷かも知れないと思いましたから、今の今までチットも信じていなかったのですが……」
「イヤ……村の者の噂は大部分事実なのです。品夫はたしかに氏素性《うじすじょう》のハッキリしない者の娘で、しかも変死者の遺児《わすれがたみ》に相違無いのです。つまり、その犯人が捕まらないために、何もかもが有耶無耶《うやむや》に葬られた形になっているので……」
「ハハア。……してみると所謂《いわゆる》迷宮事件ですな」
「そうなんです。品夫の父親が殺された事件は徹頭徹尾、迷宮でおしまいになっているのです。何しろ二十年も昔の事ですから、警察の仕事もいい加減なものだったでしょうし、おまけにこんな片田舎の高い山の上で行われた犯罪ですから、たしかな証拠なぞは一つも掴まれなかったらしいのです」
「成る程。しかし物的の証拠は無くとも、心的の証拠は何かあった訳ですね。犯人が仮想されていた位ですから……」
「それはそうです。その当時はたしかにそれに相違無いという犯人の目星がついていたのですが、今となっては、その犯人が捕まらないために、事件全体が五里霧中の未解決のままになっているのです。……ですから、そんなところから色々な噂も起って来るでしょうし、品夫も亦《また》ソンナ事を探偵小説的に考え過ぎた結果、飛《と》んでもない空想を抱くようになったのじゃないかと想像しているんですがね……貴方《あなた》の御意見はどうだか知りませんが……」
「……そうですね……それはそうかも知れませんが……。しかし何しろ私も、そんな噂話があるという事を、看護婦を通じて聞いただけですから、シッカリした考えは申上げかねるのですが……」
「……成る程……それじゃその事件のあらまし[#「あらまし」に傍点]だけを、今から掻《か》い抓《つま》んでお話してみましょうか。その時に立ち会った養父《ちち》の話ですから、村の噂などよりもズット正確な訳ですが……聞いてくれますか貴方は……」
「……ヘエ。それは是非伺いたいものですが……しかし……御承知の通り私は、すこし興奮すると、すぐに睡《ねむ》れなくなる性質《たち》なので、それに時間も遅いようですし……」
「……イヤ。まだ十時位でしょう。眠れなかったら、あとで散薬か何か上げますから、それを服《の》んだらいいでしょう。もう本当は退院されてもいい位に恢復しておられるのですから、一《ひ》と晩ぐらい夜更かしをされても大丈夫ですよ……僕が請け合います……」
「アハハハハ……イヤ。散薬なら二三日前に頂戴《ちょうだい》したのがまだ残っていますが……」
「そうして適当な判断を下してくれませんか……品夫が外国の探偵小説にカブレて、そんな事を云い出したものか、それともほかに何か理由《わけ》があっての事か……どうかというような事を……」
「ハハハハハ……ドウモそう性急に仰言《おっしゃ》っちゃ困りますがね。……婦人の心理というものは要するに、男にはわからない物だそうですから……」
「まったくです。全然不可解なんです」
「アハハ……イヤ……私も無論、御同様だろうとは思いますが……それじゃ、とにかくその事件の成行《なりゆき》というものを伺った上で、一ツ考えさして頂きますかね」
「どうか願います……こうなんです。……品夫の父親というのは今から三十年ほど前に、親父《ちち》の玄洋が、この村の獣医として東京から連れて来た、実松《さねまつ》源次郎という男で、死んだ時が四十いくつとかいう事でした。生れは東北のC県で、T塚村という大村の、実松家という富豪の跡取《あととり》息子だったそうですが、どうした理由《わけ》か、故郷に親類が一人も居なくなったので、田地田畑をスッカリ金に換えて上京したものだそうです。そうして獣医学校に籍を置いて勉強しているうちに、同じ下宿に居た関係から私の養父《ちち》の玄洋と懇意になったのだそうで……」
「ハハア。チョット……お話の途中ですが、その故郷の親類が一人も居なくなった理由《わけ》というのは、今でもやはり、おわかりになっていないのですね」
「そうです。何故だかわからないままになっているのです……しかしタッタ一人その源次郎氏の甥《おい》というのが残っていたそうです。たしかに源次郎氏の姉の子供だと聞きましたが、それが、実松当九郎といって、この事件の犯人と眼指《めざ》されている二十二三歳の青年なんです。尤《もっと》も今は四十以上の年輩になっている訳で、ちょうど貴方位の年恰好《としかっこう》だろうと思われるのですが」
「ハハア。どんな風采の男か、お聞きになりましたか」
「スラリとした色の白い……女のような美青年だったそうです。何でもズット以前から叔父の源次郎氏に学費を貢《みつ》いでもらって、東京で勉強していたけれども、不良少年の誘惑がうるさいからこっちへ逃げて来たという話で……そうしてこの病院の加勢をしながら開業免状を取るというので、村外れの叔父の家から毎日通っていたそうですが、頭のステキにいい、何につけても器用な男で、人柄もごく温柔《おとな》しい方だったので、養父《ちち》の玄洋が惚れ込んでしまって、うちの養子にしようかなどと、養母《はは》に相談した事も、ある位だったそうです」
「ハハア。玄洋先生は余程開けたお方だったのですな」
「そうですね。養父《ちち》はどっちかと云えば人を信じ易い性質《たち》だったのでしょう。品夫の実父の源次郎氏の事なども、獣医には惜しい立派な人物だと云って賞《ほ》め千切《ちぎ》っていたようですが、よく聞いてみるとそれ程の人物でもなかったようで、こんな村の獣医相当の人間だったのでしょう。一見して変り者に見える、黙り屋の無愛想者だったそうで、友達なども養父《ちち》の玄洋以外に一人も無かったそうです。……趣味といっては唯《ただ》銃猟だけだったそうですが、これは余程の名人だったらしく、十年ばかり居る間に、S岳界隈の山の案内は、所の猟師よりももっと詳しく知り尽していたという事で……気が向くと夜よなかでもサッサと支度して、鉄砲を荷《かつ》いで出て行くので、あくる朝になって家《うち》の者が気が付く事が多い……そうして帰って来ると、いつもこの上なしの上機嫌で、その獲物を肴《さかな》に一パイ飲《や》りながら、メチャメチャに妻君を熱愛するのが又、近所|合壁《がっぺき》の評判になっていたそうですがね。ハハハハハ。しかし、さもない時には、気が向かない限り、どこから迎えに来ても断って、酒ばかり飲んで寝ころんでいるといった調子で……金なども銀行や郵便局には預けずに、残らず現金にして、どこかにしまっておく……どこに隠しているかは妻君にも話さないという変り方だったそうです。……ただその妻君というのが、ソレ者《しゃ》上りらしい挨拶上手で、亭主の引きまわしがよかったために、やっと人気をつないでいたという事ですが……」
「なる程。そんな事で、とにかく琴瑟《きんしつ》相和《あいわ》していた訳ですな」
「そうです……ところが、その甥の当九郎という青年が実松家に入り込むようになると、その夫婦仲が、どうも面白くなくなったそうです。……これは品夫が生れる前から、長いこと雇われていたお磯という婆さんの話ですが、何故かわからないけれども源次郎氏の当九郎に対する愛情というものは吾《わ》が児《こ》以上だったそうで、当九郎に対するアタリが悪いと云っては、いつも品夫の母親を叱ったものだそうです」
「ハハア……一種の変態ですかな」
「そうだったかも知れません……とにかく今までに無い夫婦喧嘩が、そんな事で時々起るようになったそうですが、そのうちに丁度今から二十年|前《ぜん》の事……品夫の母親が、品夫を生み落したまま産褥熱《さんじょくねつ》で死ぬと間もなく、甥の当九郎が又、何の理由も無しに、叔父の源次郎氏と私の養父《ちち》へ宛てて、亜米利加《アメリカ》へ行くという置き手紙をしたまま、行方不明になってしまったものだそうです」
「ハハア。成る程……ところでその甥はホントウに亜米利加《アメリカ》へ行ったのでしょうか」
「サア……それが疑問の中心なので、その筋では、これが当九郎の叔父殺しの前提だと睨《にら》んでいたそうですが」
「成る程……尤《もっと》も至極な疑問ですナ」
「……とにかく事件は、その甥が家出してから、三箇月ばかり経った後《のち》に……明治四十一年の三月の中旬でしたかに起ったものだそうで……源次郎氏は妻君に死に別れた上に、可愛がっていた甥にまで見棄てられて、赤ん坊の品夫と、お磯婆さんの三人切りになったので、多少|自棄《やけ》気味もあったのでしょう。それから後《のち》暫くの間、殺生は無論の事、本職の獣医の方も放《ほ》ったらかしにして、毎日のようにK市の遊廓に入《い》り浸《びた》ったものだそうで、お磯婆さんや、養父《ちち》の玄洋が泣いて諫《いさ》めても、頑として聴き入れなかったという事です」
「……いかにも……。そんな性格の人は気の狭いものですからね。ほかに仕様がなかったのでしょう」
「ところがです……ところが、その三月の何日とかは、ちょうど今日のような大雪が降った揚句《あげく》だったそうですが、その夕方の事、真赤に酔っ払った源次郎氏が雪だらけの姿で、久し振りに自分の家に帰って来ると、茶漬を二三杯掻き込んだまま、お磯が敷いた寝床にもぐり込んでグーグーと眠ってしまったそうです」
「話も何もせずにですか」
「無論、寝るが寝るまで一言も口を利かなかったそうです。これはいつもの事だったそうで……ですからお磯婆さんも別に怪しまなかったばかりでなく、久し振りに枕を高くして品夫と添寝《そいね》をしたのだそうですが、あくる朝眼を醒ましてみると源次郎氏の姿が見えない。蒲団《ふとん》は藻抜《もぬ》けの空《から》になっているし、台所の戸口が一パイに開け放されて月あかりが映《さ》しているので、どこに行ったのか知らんと家の内外《うちそと》を見まわったが、出て行ったあとで又、雪が降ったらしく、足跡も何も見えなかった。それから押入れを開けてみると、自慢のレミントンの二連銃と一緒に、狩猟《やまゆき》の道具が消え失せている。台所を覗いてみると、冷飯《ひやめし》を弁当に詰めて行った形跡があるという訳で、初めて狩猟《かり》に行った事がわかったのだそうです」
「……ヘエ……どうしてそう突然に狩猟《かり》に出かけたのでしょう」
「それがです。それがやはり甥の当九郎が誘《おび》き出したのだ……という説もあったそうですが、しかし一方に源次郎氏はいつでも雪さえ見れば山に出かける習慣があったので、この時も珍らしい大雪を見かけて堪《たま》らなくなって出かけたんだろう……という意見の方が有力だったそうです。……一方には又、そうした習慣があるのを当九郎も知っていたので、そこを狙って仕事をしたんだろうという説もあったそうですが、何しろ本人が唖《おし》に近いくらい無口な性質《たち》だったので、何一つわからず仕舞《じま》いになった訳ですが」
「その前に手紙か何か来た形跡は無かったでしょうか……甥の当九郎から……」
「お磯の記憶によると無かったそうです。……あとで家探《やさが》しまでしてみたそうですが……」
「……成る程。それから……」
「それから先は頗《すこぶ》る簡単です。あのS岳峠の一本榎《いっぽんえのき》という平地《たいら》の一角に在る二丈ばかりの崖から、谷川に墜《お》ちて死んでいる実松氏の屍体《したい》を、夜が明けてから通りかかった兎追いの学生連中が発見して、村の駐在所に報告したので、大騒ぎになったものだそうで……死因は谷川に墜ちた際に、岩角で後頭部を砕いたためで、外には些《すこ》しも異状を認められなかったそうです。これはその屍体を診察した養父《ちち》の話ですがね……」
「成る程……しかし屍体以外には……」
「屍体以外には、ポケットの中に油紙に包んだ巻煙草《まきたばこ》の袋と、マッチと、焼いた鯣《するめ》が一枚這入っていたそうで、弁当箱の中味や、水筒の酒も減っていなかったそうです。……それからもう一つ胴巻の中から、二円何十銭入りの蟇口《がまぐち》が一個出て来たそうですが、それが天にも地にも実松家の最後の財産だったそうで、源次郎氏がどこにか隠していた筈の現金は、あとかたもなく消え失せていたそうです。……尤もこれは事件後に村外れに在った源次郎氏の自宅を土台石まで引っくり返して調べた結果、判明した事実だそうですが……」
「成る程……それで殺人の動機が成立した訳ですね」
「そうなんです。尤もお金の多寡《たか》はハッキリわかりませんがね……それから、もう一つ重要なのは、屍体の左手にシッカリと握っていたレミントンの二連銃の中に、発射したままの散弾の薬莢《やっきょう》が二発とも残っていた事だそうです」
「ハハア……詰め換えないままにですな」
「そうです。ほかの弾丸《たま》は、弾丸帯《たまおび》にキチンと並んでいて、一発も撃った形跡が無いし、弁当や水筒にも手がつけてないところを見ると、源次郎氏は、あの一本榎の平地《たいら》へ登り着くと間もなく、何かに向って二発の散弾を発射した。そうして後を詰めかえる間もなく谷川に転げ落ちて死んだものらしいと云うのです」
「ヘー……その辺がどうも可笑《おか》しいようですな」
「おかしいんです……源次郎氏は、今もお話した通りあの辺の案内ならトテモ詳しい筈ですからね。おまけに月夜の雪の中ですから、足場は明るいにきまっているし、余程の強敵に出会って狼狽《ろうばい》でもしなければ、そんな目に会う筈は無いと云うのです」
「いかにも……その考えは間違い無さそうですな」
「僕にもそう思えるのです。しかし何しろ、その屍体の上には、岩と一《ひ》と続きに、雪がまん丸く積っていた位で、附近には何の足跡も無いために、犯人の手がかりが発見出来なくて困ったそうです」
「そうですねえ。あとから雪が降らなかったら何かしら面白いことが発見出来たかも知れませんが……」
「そうです。尤も雪というものは人間《じんげん》の足跡から先に消え初めるものだと村の猟師が云ったとかいうので、雪解けを待って今一度、現場附近を調べたそうですが、源次郎氏が通る前にS岳峠を越えた者は一人や二人じゃなかったらしいので……おまけに現場附近は、屍体を発見した学生連に踏み荒されているので、沢山の足跡が出るには出たそうですが、いよいよ見当が附かなくなるばかりだったそうです」
「……すると……つまりその捜索の結果は無効だったのですね」
「ええ……全然|得《う》るところ無しで、K町の新聞が盛んに警察の無能をタタイたものだそうです。……しかしそのうちに乳飲児《ちのみご》の品夫が、お磯婆さんと一緒に此家《ここ》に引き取られて来るし、仮埋葬《かりまいそう》になっていた実松源次郎氏の遺骸も、正式に葬儀が行われるしで、事件は一先《ひとま》ず落着の形になったらしいのです。そうして色んな噂が立ったり消えたりしているうちに二十年の歳月《としつき》が流れて今日《こんにち》に到った訳で……いわば品夫は、そうした二十年|前《ぜん》の惨劇がこの村に生み残した、唯一の記念と云ってもいい身の上なんです」
 こう云って唾を嚥《の》み込んだ健策の眉の間には、流石《さすが》に一抹の悲痛の色が流れた。
「なるほど……それでは村の人が色んな噂を立てる筈ですね」
 と黒木も憂鬱にうなずいた。けれどもそのうちに健策は、又も昂奮《こうふん》して来たらしく、心持顔を赤めながら語気を強めて云った。
「しかし誰が何と云っても、僕等二人の事は養父《ちち》が決定《きめ》て行った事ですから、絶対に動かす事は出来ない訳です……今更村の者の噂だの、親類の蔭口だのを問題にしちゃ、養父《ちち》の位牌に対して相済みませんし、第一品夫自身がトテモ可哀想なものになるのです。彼女《あれ》の味方になっていた養父《ちち》もお磯婆さんも死んでしまって、今では全くの一人ぽっちになっているんですからね」
「御尤《ごもっと》もです」
 と黒木は又も深い溜息をしながらうなずいた。そうして気を換えるように云った。
「……ところで……これはお尋ねする迄も無い事ですが、品夫さんは実のお父様が亡くなられた時の事をスッカリ聞いておいでになるでしょうね」
「それは無論です。うちの養父母《おやたち》や、お磯婆さんから飽きる程繰り返して聞かされているでしょうし、又、村の者の噂や何かも直接間接に耳にしている筈ですから、恐らく誰よりも詳しく知っているでしょう。……とにもかくにも復讐をするという位ですからね……ハハハハ……」
「いかにも……しかしその復讐をされるというのは……どんな手段を取られるおつもりなのでしょう……」
「さあ……そこ迄は聞いていませんがね。アンマリ馬鹿馬鹿しい話ですから……それよりも、そんな事を云い出す品夫の気もちが、第一わからなくて困っているんです……ですから、こんな内輪話《うちわばなし》をお打ち明けした訳なんですが……」
「……成る程……」
 と黒木は火鉢の灰を凝視《みつ》めたままうなずいた。そうして暫《しばら》く何か考えているようであったが、やがて静かに顔をあげると、依然として遠慮勝ちに問うた。
「それから……これも余計な差し出口ですが、品夫さんの戸籍謄本《こせきとうほん》は取って御覧になりましたか?」
「ハア。養父《ちち》が取っておいたのが一枚ありますが、実松源次郎の長女品夫と在るだけで、全く身よりたよりの無い孤児です。……三四年|前《ぜん》にわざわざC県まで人を遣って調べた事もあるそうですが、ずっと前から故郷に親戚が一人も居なくなっていたのは事実で、当九郎の両親の名前も知っている者が居ない位だったそうです……しかし、それがこの事件と何か関係があるのですか?」
「……イヤ……関係がある……という訳でもないのですが……」
 黒木は何故か言葉尻を濁《にご》すと、前よりも一層憂鬱な態度で、腕を深く組みながら考え込んだ。その黒眼鏡の下の無表情な顔色を、健策はさり気なく眺めていたが、やがて片膝を抱え上げながら、所在なさそうにゆすぶり初めた。
「黒木さん。遠慮なさらなくともいいんですよ。……貴方《あなた》とは、もう久しい間御懇意に願っていますし、ちょうど品夫の父親の二十一回忌に当る年に、こんな大雪が降るのも、何かの因縁《いんねん》だろうと思ってコンなお話をするんですからね……御腹蔵の無いところを打ち明けて下すった方が、却《かえ》って功徳《くどく》になるんですよ……ハハハハハ」
 こう云ううちに健策は全く昂奮が静まったらしくノンビリした顔色になった。同時にいくらか話に飽きが来たらしく、あおむいて小さな欠伸《あくび》を出しかけた。しかし黒木は依然として表情を動かさなかった。なおも腕を深く組んで何事か考えまわしているらしかったが、そのうちに両手で眼鏡をかけ直しながら、軽い溜息《ためいき》と一緒につぶやいた。
「サア……それをお話していいか……わるいか……」
「ハハハハハ。お話出来なければ無理に伺わなくともいいんですがね。……元来これは僕等二人の間に、秘密にしておくべき問題なんですから……しかし、くどいようですが、たとい品夫がドンナ身の上の女であろうとも、二人を結びつけている死人の意志は、絶対に動かす事が出来ない訳ですからね。よしんば品夫のためにこの家が滅亡するような事があっても、それが故人の希望なんですから、その辺の御心配は御無用ですよ……ただ参考のために承っておくに過ぎないのですからね。ハハハハハ、こう云っちゃ失礼かも知れませんが……」
 健策は相手を皮肉るでもなくこう云って笑うと、思い切って大きな欠伸《あくび》を一つした。硝子《ガラス》窓越しにチラチラ光る綿雪を見遣りながら……。
「……成る程……それでは……私の意見《かんがえ》を……申してみますが……」
 黒木はやっと決心したらしく、窮屈そうにこう云いながら、火鉢の横に転がっている大きな湯呑を取り上げて白湯《ゆ》を注いだ。すると健策もそれに倣《なら》って、長椅子の下から硝子コップを取り上げた。
 二人の間には又も新らしい談話気分が漲《みなぎ》った。健策はフウフウと湯気を吹きながら、剽軽《ひょうきん》な調子で云った。
「……どうか願います。品夫の一生の浮沈にかかわる事ですから……」
 しかし黒木はどこまでも真面目な、無表情のうちにうなずいた。湯呑を片わきへ置きながら……。
「イヤ……重々御尤もです。それじゃ、お話できるだけ、してみましょうが、その前にもう一つお尋ねしたい事がありますので……」
 健策もコップを畳の上に置きつつ、気軽にうなずいた。
「ハア。何なりと……」
「……イヤ。ほかでもありません。つまり品夫さんのお父様に関する今のお話ですがね……そのお父様が変死された事について、品夫さんは矢張《やは》り御自分一個の観察を下してお在《い》でになるでしょうね」
「……観察というのは……」
「……そのお父さまの変死が、何故に他殺に相違ないか……というような事です」
「それは相当考えているでしょう。探偵小説好きですからね……しかしそんな事を面と向って尋ねた事は一度もありませんよ。もう過ぎ去ってしまった事ですし、そんな事を訊いて又泣き出されでもすると面倒ですから……」
「ハハア。成る程……それじゃ貴方は、貴方御自身だけで別の解釈を下しておられる訳ですナ」
「イヤ。解釈を下すという程でもありませんが、僕だけの常識で説明をつけておるので、手ッ取り早く云うと養父《ちち》と同じ意見なのです。……要するに最小限度のところ、実松源次郎氏の変死を自殺、もしくは過失と認むべき点はどこにも無い……他殺に相違無いという事に就いては、疑う余地が無いと信じているのですが……」
「……では玄洋先生も初めから、実松氏の甥の所業《しわざ》と睨んでおられた訳ですな」
「まあそうなんです。しかし、これは要するに、今お話したような事実を土台にして、色々と推量をした結果、最後に生まれた結論に過ぎないので、元来が迷宮式の事件なのですから、あなたの方からモット有力な、根拠のある御意見が出たら、その方に頭を下げようと思っているのですが」
「イヤ。根拠と云われると困るのですが……有体《ありてい》に白状しますと、私の意見というのはタッタ今、あなたのお話を聞いているうちに、私の第六感が感じた判断に過ぎないのですからね」
「ホウ……タッタ今……第六感……」
 と健策は眼を丸くして腮《あご》を撫でた。黒木は心持《こころもち》得意らしくうなずいた。
「そうです。私は永年、生命《いのち》がけの海上生活をやって来たものですから、事件と直面した一刹那に受ける第六感、もしくは直感とでも申しますか……そんなものばかりで物事を解決して行く習慣が付いておりますので……この事件なぞも、そんなに長い事未解決になっている以上、その手で判断するよりほかに方法が無いと思うのですが」
「……成る程……素敵ですナ……」
「ええ。あまり素敵でもないかも知れませんが……しかし、それでも、そうした私一流の判断でこの事件を解釈して行きますと、只今の品夫さんの復讐論なぞは、全然無意義なものになってしまうのです。あなたの御註文通りにね……」
「エッ。全然無意味……僕の註文通りに……」
 健策は一寸《ちょっと》の間《ま》唖然《あぜん》となった。そうして眼をパチパチさせて面喰っていたが、まもなく落ち付きを取り返すと、テレ隠しらしく、両膝を無造作に抱え直してゆすぶり始めた。又も思い切って赤面しながら……。
「ハハア。イヨイヨ素敵ですな。是非聴かして下さい……その第六感というのを……」
 黒木は赤ん坊をあやすように、鷹揚《おうよう》にうなずいた。
「無論お話します。……しかしその前に、先ず今のような第六感を受けなかった前の、私の平凡な常識判断から申しますと、元来かような迷宮式の事件というものは、色々な考え方があるものなので、それを或る一方からばかり見ているために、判断が中心を外《そ》れて来て、自然《ひとりで》に迷宮を作るような事になるのだと思います……殊に人の噂とか、当局の眼とかいうものは、物事に疑いをかける癖が付いているので、色々な出来事の一ツ一ツが、何となくその疑いの方向に誇張して考えられたり無理に結び付けられたりし易い。そのためにいよいよ迷宮を深くして行き勝ちなものだと思いますがね」
「賛成ですね。成る程……」
「ところで、こう申上げては失礼かも知れませんが、あなたの御養父《おとう》様のこの事件に対する判断や、御記憶なぞいうものは、どこまでも人情的……もしくは常識的になっておりますので……あなたも主としてその御養父《おとう》様からお聞きになったお話を骨子として判断をなすった結果、同じ結論に到着されたものと思いますが……」
「その通りです……それで……」
「それでそのお話を、あなたから間接に承わったところによって考えまわしてみますと、この事件の内容はあらかた三ツの出来事に分解する事が出来ると思うのです」
「成る程……そこまでは僕等の考えと一致しているようです」
「……そうですか。それでは説明する迄も無いかも知れませんが、第一は単純な実松源次郎氏の墜死そのものです」
「いかにも……」
「その次は源次郎氏の貯金の紛失事件で、今一つはその甥の行方不明事件と、この三つが固まり合ったのが一ツの事件として判断されているのでしょう」
「敬服です。いよいよ敬服です」
「……ところで、この三ツの事件を組み合わせて、一ツの事件として観察してみますと、かなり恐ろしい事件に見えますね。……つまりその悪人の何とかいう青年が、大恩ある品夫さんのお父さんを、山の上で惨殺して、財産を奪って逃げた事になるので、この事件は、そうした残忍非道な性格によって行われた、計画的な犯行という事になるでしょう」
「全くその通りです。実松源次郎氏を殺さずとも、その恩義を忘れただけでも当九郎は大罪人だ……と養父《ちち》は云っておりました」
「ところがです……ここで今一つお尋ねしますが貴方は……貴方のお養父《とう》様でもおなじ事ですが、この三ツの事件を別々に引き離してお考えになった事は、ありませんか」
「……………」
 健策は膝を抱えたまま頭を強く左右に振った。思いもかけぬ……という風に……。黒木は白い歯を露《あら》わして微笑した。
「……ハハア。おありにならない。多分そうだろうと思いました。それならば試しに、この事件の三ツの要素を、一ツ一ツに分解して考えて御覧なさい。そんな有《あ》り触《ふ》れた殺人事件なぞより数層倍恐ろしい……戦慄《せんりつ》すべき出来事となって、貴方がたの眼に映じて来はしまいかと思われるのですが」
「……数層倍恐ろしい……」
「そうです……おわかりになりませんか」
「わかりません」
「ハハア。おわかりにならない……イヤ御尤《ごもっと》もです。私の判断の根拠というのは、今も申します通り、極めて非常識なものですからね……しかし或る程度までは常識で説明出来るのです。否《いな》……却《かえ》って私の考えの方が常識的ではないかと思われるのですが……」
「ハハア……それはどういう……」
「……まず……この事件の犯人と目されている今の……エエ。何とかいいましたね。ソウソウ当九郎……その甥の行方不明と、この事件とが結びつけられているのは一応もっとも千万な事と考えられます……というのは、源次郎氏の妻君と、忠義な乳母《うば》のお磯とを除いた村の人間の中《うち》で、源次郎氏が金を隠している場所を発見する可能性が一番強いのは、誰でもない……その甥の当九郎という事になるのですからね」
「いかにも……」
「……一方に叔父御《おじご》の源次郎氏は、変人の常として、存外、用心深いところもあるので、支那人のように全財産を胴巻か何かに入れて、夜も昼も身に着けておく習慣があったかも知れない。それを又当九郎が推察したものとすると、その金を奪うためには是非とも源次郎氏を殺さなければならぬ事になるでしょう……」
「無論ですね……それは……」
「……そこで先ずその第一着手として、自分に嫌疑がかからぬように、亜米利加《アメリカ》に行くと称して家出をした。それから相当の時日が経った後《のち》に姿をかえながら、兇器を携《たずさ》えて源次郎氏を附け狙っていると、そのうちに源次郎氏が、大雪に誘われて狩りに出かけるところを発見したので、好機到れりという訳で、村から遠く離れた、あの山の上の……何とかいう処でしたね……そうそう一本榎に待ち伏せて狙撃《そげき》をした。……ところが雪の中の事ですから、思ったより早く相手に発見されて、第一弾が命中しなかった……というような事も考えられますが、とにも角にもその雪の山上で、物凄い撃ち合いが始まった事は、誰にも想像され得るでしょう。……しかし源次郎氏の武器が二連発の散弾銃で、当九郎の獲物《えもの》がピストルの五連発か何かであったとすると、到底相手にはなり切れないので、源次郎氏は思わず後《あと》へ退《さが》って行くうちに、足場を誤って谷川に墜落した。そこで当九郎はその死骸から貯金だけを奪い取って、二円なにがし入りの蟇口《がまぐち》を故意に残して立ち去ったもの……と想像する事が出来るでしょう」
「……驚いた……全くその通りです。養父《ちち》の考えと一分一厘違いありません」
「そうでしょう……これが一番常識的な考え方で、前後を一貫した事実のすべてとピッタリ符合するのですからね」
「そうです。それ以外に考えようは無いと思われるのですが」
「そうでしょう……しかしここで、今一歩退いて別の方面から観察したら、どんなものでしょうか……つまりこの事件には、そのような犯人が全然居なかったとしたら、どんな事になるでしょうか」
「……エッ……犯人が居ない……」
「そうです。つまりその当九郎という甥が、この事件に結び付けられているのは、人々の想像に過ぎないとしたらどうでしょうか……実際と一致する想像は、よく正確な推理と混同され易いものですからね……甥の当九郎はホントウに青雲の志を懐《いだ》いていたので、そのまま一直線に外国へ行ってしまって、この方面には全然寄り附かなかったとしたら……どうでしょうか……そんな事はあり得ないと云えましょうか」
「サア……それは……」
「……又……実松氏の貯金を無くしたのは誰でもない実松氏自身で、その金は遊興費か何かに費消されてしまったものとしたら、どうでしょうか。そんな風には考えられぬでしょうか」
「……………」
「……そういう風に三ツの出来事をバラバラにして、一ツ一ツに平凡な出来事として考えて行く方が、この事件を計画的な殺人と考えるよりも却《かえ》って常識的で、非小説的ではないでしょうか……すなわち事実に近いと思われはしないでしょうか」
「……そ……そうすると……」
 と健策は眼を光らせながら、すこし狼狽したように身を乗り出した。
「そうすると何ですか……実松氏が発射した二発の散弾は、やはり本当の獣《けもの》か何かを狙ったものなんですね」
「イヤ……そこなのです」
 と黒木は反対に反《そ》り身になった。さも得意そうに白湯《さゆ》を一口飲むと、悠々と舌なめずりをした。
「……私もそう考えたいのです。……が……そうばかりは考えられない別の理由《わけ》があるのです。実を云うとこれから先が私の本当の直感ですがね」
「……その直感というのは……」
 と健策は益々身を乗り出した。同時に黒木はいよいよ反《そ》りかえって行った。
「……手早く申しますと実松源次郎氏は、その払暁《よあけ》前の雪の中で、或る恐怖に襲われたのではないかと思われるのです」
「……或る恐怖……」
「さよう……つまり実際には居ない、或る怖《おそ》るべき敵を、雪の中に認めて、その敵と闘うべく、二発の散弾を発射されたものではないかと考えられるのです。そうすれば一切の事実が何等の不自然も無しに……」
「……チョット待って下さい」
 と健策は片手をあげた。次第に不安げな表情にかわりながら……。
「その怖るべき敵と云われるものの正体は何ですか……たとえば一種の精神病的な幻覚みたようなものですか」
 黒木はキッパリとうなずいた。
「さよう……その幻影は要するに、実松氏固有の脅迫《きょうはく》観念が生んだ、ある恐ろしいものの姿だったに違いありません。鳥だか、獣《けもの》だか、何だかわかりませんが……」
 健策は愕然《がくぜん》となった。何事か思い当ったらしく唾液《つば》を嚥《の》み込み嚥み込みした。しかし黒木は構わずに話を続けた。
「実松氏はその幻影と闘うべくレミントンの火蓋を切られたのです。しかし、もとより実際に居ない敵なのですから、いくら散弾でも命中する気づかいはありません。敵は益々眼の前に肉迫して来ましたので、実松氏は恐怖の余り夢中になって逃げ出した……そうしてお話しのような奇禍に遭《あ》われたのではなかったかと考えられるのです」
「ハハア……」
 と健策はいよいよ不安らしくグッと唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
「……しかしその証拠は……」
「……イヤ。証拠と云われると実に当惑するのですが……要するにこれは私の直感なのですから……しかし実松氏が、この甥の当九郎を愛しておられた程度が、普通の人情を超越していたらしい事実や、全財産を現金にして絶対秘密の場所に隠していたところなどを見ると、実松氏はどうしても、或る一種の超自然的な頭脳の持主としか思われないのです。従ってそうした脅迫観念に囚《とら》われ易い……」
「……イヤ……解りました……」
 こう云いながら相手の話を遮《さえぎ》り止めた健策は、急に長椅子の上に居住居《いずまい》を正した。踏みはだけた膝の上に両肱《りょうひじ》を突張って、二三度大きく唾を嚥《の》み込むうちに、みるみる蒼白《まっさお》な顔になりながら、物凄い眼《まなこ》で相手を睨み付けた。唇をわななかせつつ肺腑《はいふ》を絞るような声を出した。
「……イヤ。よくわかりました。今まで全く気が付かずにいましたが、貴方の御意見を聞いているうちに何もかも解ってしまいました。……貴方は実松氏の超常識的な性格から割り出して、当九郎の無罪を主張していられるようです。つまり実松氏は……品夫の父は元来、深刻な精神病的の素質を遺伝している、変態的な性格の所有者であった。だから月の光りの強い、雪の真白い山の上で、一種の幻覚錯覚に陥って、自分でも予期しない自殺同様の、非業《ひごう》の最期を遂《と》げたもの……と主張しておられるのでしょう」
「イヤ。ちょっとお待ち下さい」
 と黒木が片手を揚げて制しかけた。健策の語気が、だんだん高まって来るのを怖れるかのように……。しかし健策はひるまなかった。黒木と同時に片手を揚げながら、なおも身体《からだ》を乗り出した。
「イヤ。お待ち下さい。待って下さい。貴方は御存じないのです。そうした主張で、当九郎の無罪が証明出来るものと思っていられるようですが、そうした説明ならば、僕の方が専門なのです。いいですか。……今お話のような事実を、有名なデビーヌ式の素質遺伝の原則と照し合わせると、却《かえ》って正反対の結論が生まれて来るのですよ。……美青年当九郎は表面上柔和な人間に見えながら、その底には、やはり実松氏と同様の超自然的な性格を隠し持っていた……しかも大恩ある叔父を執念深く附け狙って殺すというような残忍冷酷を極めた、非良心的な先天性の所有者であり得た事が、科学的に証明されて来るのですよ。……いいですか……又、実松氏が極端な変人であると同時に、血腥《ちなまぐさ》い殺生《せっしょう》を唯一の趣味としていた因縁も、その血腥い殺生行為のアトで、異常な性的の昂奮を見せるという、変態的な性格も、その故郷の血族の絶滅している理由も……そうして現在の品夫が、二十年|前《ぜん》の殺人犯人に凝視されているという脅迫観念や、復讐をしなければ止まぬというような偏執狂《モノマニア》式の空想に囚《とら》われている原因も……何もかもがこの事件の核心となっているタッタ一ツの事実によって説明され得る……つまりT塚村の実松家は、ヒドイ精神病の系統であったと……」
 相手の悽愴《せいそう》たる語気に呑まれて、急に赤くなり、又、青くなりつつ眼を瞠《みは》っていた黒木は、この時ヤッとの事でヘドモド坐り直した。両手をあげて迸《ほとばし》り出る健策の言葉を押し止めた。
「……イヤ……お待ち……お待ち下さい。ソ……それは貴方の誤解です。私はただ品夫さんのお父さんの事だけを申しましたので……」
「……否《いや》……チットも構いません。公然と僕達の結婚に反対されても構いません」
 健策は断乎《だんこ》とした態度でこう云い切った。云い知れぬ昂奮に全身を震わせながら……。
「……たといドンナ事があろうとも、僕は品夫を殺さない決心ですから……品夫を見棄てる気は毛頭《もうとう》無いのですから、何でもハッキリ云って下さい。……実松一家は、そんな恐ろしい精神病の遺伝系統のために、その故郷で絶滅してしまっている。そうして僅《わず》かに残った一滴の血が、めぐりめぐって現在藤沢家を亡ぼすべく流れ込もうとしている。その一滴の血が……品夫だと云われるのですね」
「……………」
「藤沢家のためには、品夫を見殺しにした方が利益だと云われるのですね……貴方は……」
「……………」
「……………」
 二人は青い顔を見合わせたまま、石のように凝固してしまった。……ちょうどその時に、扉《ドア》の外で何か倒れたような音がしたので……。
 二人はハッとしながら同時に立ち上った。扉《ドア》に近い健策が大急ぎで把手《ハンドル》を引くと扉《ドア》の外の暗いリノリウムの床に、白い服を着た品夫が横たわっていた。
 健策は無言のまま跪《ひざまず》いて脈を取った。そうして強いて落ちついた態度で、傍に突立っている黒木の顔を見上げると、如何《いか》にも苦々しげに頭を一つ下げた。
「……すみませんが……診察室の扉《と》を開けてくれませんか……」

 その夜の三時をすこし廻った頃であった。
 品夫は作りつけの人形のように伏せていた長い睫《まつげ》を、静かに二三度|上下《うえした》に動かすと、パッチリと眼を見開いた。そうして黒い瞳を空虚《うつろ》のように瞠《みは》りながら、仄暗《ほのくら》い座敷の天井板を永い事見つめていた。
 それから瞬《まばたき》一つせずに、頭をソロソロと左右に傾けて、白いずくめの寝具と、解《と》かし流されたまま、枕の左右に乱れかかっている自分の髪毛《かみのけ》を見た。それから、黒い風呂敷を冠せられている枕元の電気スタンド……床の間に自分が生《い》けた水仙の花……その横の床柱に、白い診察着のまま倚《よ》りかかって腕を組んで睡っている健策の顔……その前の桐の丸火鉢の上で、仄《ほの》かに湯気を吐いている鉄瓶……その蔭に掻巻《かいまき》を冠ったまま突伏している看護婦……そんなものの薄暗い姿を一ツ一ツに見まわした彼女は、その表情をすこしも動かさないまま、又、もとの通りにあおのけになって、しずかに眼を閉じて行った。
 室の中は又も、雪の夜の静寂に帰った。シンシンと鳴る鉄瓶の音と、スヤスヤという看護婦の寝息と、雨戸の外でチョロチョロと樋《とい》を伝い落ちる雪水の音ばかりになった。
 しかし品夫は、ほんとうに眠ったのではなかった。やがて眼を閉じたまま、唇の左右に何ともいえない冷たい微笑を浮かべたと思うと、瞼をウッスリと開きながら、ソロソロと起き上った。両手を前にさし伸べて……手探りをするように身体《からだ》をうねうねと蜒《うね》らして……中心を取りかねているようであったが、そのうちに両手で夜具を押えつけると、スックリと寝床の上に立ち上った。
 彼女はいつもねまき[#「ねまき」に傍点]にしている、十六七歳時代の紅友禅《べにゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》を着せられていた。その上から紫|扱帯《しごき》の古ぼけたのが一すじ、グルグルと巻き付けてあるきりであったが、そのふくらんだ自分の胸に取り縋《すが》るように、両方の掌《てのひら》をシッカリと押し当てて、素足のまま寝床を降りると、スラスラと畳の上を渡って、芭蕉布《ばしょうふ》張りの襖《ふすま》に手をかけた。その時に、畳に引きはえた襦袢の裾《すそ》が、枕元に近いお盆の上の注射器に触れてカラカラと音を立てた。それにつれて、睡っていた健策が、すこしばかり大きな寝息をしたが、品夫は別に見向きもせず、足を止めようともしなかった。
 芭蕉布の襖が音もなく開くと、寒い風が一しきりスースーと流れ込んで来た。しかし品夫は、そのあとを閉める気も無いらしく、次の間の障子を今一つスーと開くと、そのまま明るい廊下へ出た。その廊下の一方は硝子《ガラス》雨戸になっていて、黒々と拭き込んだ板張りにも、外のお庭の雪の植込みの上にも、タッタ今晴れ渡ったばかりのニッケル色の空から、スバラシイ満月の光りがギラギラとふるえ落ちていたが、品夫は、やはり、そんな光景には眼もくれなかった。恰《あたか》も何者かに導かれるように、半開きの瞳の前の冷たい空間を凝視しつつ、一直線に長い廊下を渡りつくしたが、その行き止まりに在る青ペンキ塗りの扉《ドア》を開いて、薬局の廊下に這入ると、真暗なリノリウムの上を、やはり一直線に進んだらしく、間もなく突き当りの扉《ドア》を押す音がした……と……やがて診察室の中央に吊るされた電球が、眼も眩《くら》むほど輝き出した。
 暖かい奥座敷から、急に氷点以下の寒い処に出て来たせいか、品夫の血色は全く無くなっていた。顔も手足も、それこそ雪のように真白く透きとおっていたが、それが黒い髪を長々とうしろへ垂らして、燃え立つような長襦袢を裾も露《あら》わに引きはえつつ、青白い光線をふり仰いで眼を細くした姿は淫《みだ》りがましいと云おうか、神々《こうごう》しいと形容しようか。人間の眼に触れてはならぬ妖艶《なまめか》しさの極み……そのものの姿であった。
 しかし、雪に鎖《とざ》された藤沢病院の、深夜の診察室に、こんな姿が立ち現われていようことは、誰一人思い及び得よう筈が無かった。すべては零下何度の空気に包まれて、シンカンと寝静まっていた。そのような静けさの中にスックリと立ち止まった品夫は、いかにも眩《まぶ》しそうなウッスリした眼つきで、そこいらを一渡り見まわしていたが、間もなく室《へや》の隅に置いてある四方硝子張りの戸棚に眼をつけると、ヒタヒタと歩み寄って、重たい硝子戸を半分ほど開いた。そこから白い片手を突込んで、方形の瀬戸引きバットに並んでいる数十のメスをあれかこれかと選んでいたが、やがてそのバットの外に、タッタ一つ投げ出してある大型の一本を取り上げた。
 それは小さい薙刀《なぎなた》の形をした薄ッペラなもので、普通の外科には必要の無い、屍体解剖用の円刃刀《えんじんとう》と称する、一番大きいメスであった。この病院では何か外の目的に使われているらしく、柄《え》の近くには黒い銹《さび》の痕跡《あと》さえ見えていたが、彼女はそれを右手の指の中に、逆手《さかて》にシッカリと握り込むと、背後《うしろ》の青白い光線に翳《かざ》しながら二三度空中に振りまわして、キラキラと小さな稲妻を閃《ひら》めかした。それを見上げながら品夫はニッコリと、小児《こども》のような無邪気な微笑を浮かべたが、そのままメスを右手に捧げて、左手で両袖を抱えつつ、開いたままの扉《ドア》の間から、又もリノリウムの廊下に辷《すべ》り出た……と……今度は左に折れて、泉水の上から、病室の方へ抜ける渡殿《わたどの》の薄暗がりを、ホノボノと足探《あしさぐ》りにして、第一の横廊下を左に折れ曲ったが、やがて、その行き詰まりに在る特等病室の前に来た。そうして、やはり何の躊躇《ちゅうちょ》もなく真鍮《しんちゅう》のノッブを引いた。
 十|燭《しょく》の電燈《でんき》に照らされた鉄の寝台《ベッド》の上には、白い蒲団を頭から冠っている人間の姿がムックリと浮き上っていた。その上にメスを捧げたまま、品夫は何かしらジッと考え込んでいるようであったが、やがて上の蒲団を容赦なく引き除《の》けると、髪毛《かみのけ》を濛《もう》と空中に渦巻かせて、寝床《ベッド》の中に倒れ込むようにメスを振りおろした。その枕元から、白い散薬の包紙が一枚、ヒラヒラと床の上に舞い落ちた。
「ムム……オオッ……」と夢のような叫び声がして、白いタオル寝巻に包まれた、青黒い巨大な肉体が起き上りかけた。それはイガ栗頭の黒木繁であったが、毛ムクジャラの両腕を引き曲げて、寝巻の胸に沈み込んだメスの柄を、品夫の右腕と一緒に無手《むず》と掴んだ。
 ……しかし、それをドウしようというような力はもう無かった。血走った白眼を剥《む》き出して、相手の顔をクワッと覗き込んだが、乱れた髪毛の中を一眼見ると、そのまま両眼をシッカリと閉じて、シーツの上にのけぞった。
「……むむッ……チ……畜生ッ。もう……来……た……か……」
 と切れ切れに叫びかけたが、その言葉尻にはヘンテコな節が付いて、流行《はやり》唄の末尾のように意味を成さないまま、わななきふるえつつ消え失せた……と思う間もなく、喰い縛った歯の間から凩《こがらし》のような音を立てて、泡まじりの血を噴き出した。
 しかし品夫は依然として手を弛《ゆる》めなかった。相手の腕の力が抜けて来れば来るほど、スブスブスブと深くメスを刺し込んで行った。そうして大浪《おおなみ》を打つ患者の白いタオル寝巻の胸に、ムクムクムクと散り拡がって行く血の色を楽しむかのように、紅友禅の長襦袢の袖を、左手でだんだん高くまくり上げて、白い、透きとおるような二の腕を、力一パイにしなわせながら、ジロリジロリと前後左右を見まわしていたが、やがて眼の前の逞ましい胸が、一しきりモリモリモリと音を立てて反《そ》りかえって来たと思う間もなく、底深い、血腥《ちなまぐさ》い溜息と一所に、自然自然とピシャンコになって行くのを見ると品夫は、白い唇をシッカリと噛み締めたまま眼を細くして、メスを握り締めている自分の手首を凝視した。大きく、静かに、最後の呼吸を波打たせる相手の胸に、調子を合わせるかのように、彼女自身の呼吸を深く、深く、ゆるやかに張り拡げて行った。そうして相手の呼吸が全く絶えると同時に、彼女自身もピッタリと呼吸を止めて、彫像のように動かなくなった。
「……品夫ッ……」
 という雷のような声が、廊下の方から飛び込んで来たのはその時であった。
 ハッとした品夫は、一瞬間に身を退《ひ》いた。夥《おびただ》しい髪毛《かみのけ》を颯《さっ》と背後《うしろ》にはね除《の》けて、メスを握った右手を高く振り上げかけたが、白い服のまま仁王立ちになっている健策の真青な、引き歪《ゆが》められた顔を眼の前に見ると、急に身を反《そ》らして高らかに笑い出した。
「……ホホホホホホ。ホホホホあなた見ていらっしたの……ホホホホホホ。ステキだったでしょう……妾《わたし》……とうとう讐敵《かたき》を討ったのよ……」
 品夫の手から辷《すべ》り落ちたメスが、床の上に垂直に突立った。同時に気が弛《ゆる》んだらしくグッタリとなった品夫は、両頬を真赤に染めて羞恥《はにかみ》ながら、健策の胸にしなだれかかった。血だらけの両手を白い診察服の襟にまわしながら、火のような眼をしてふり仰いだ。
「……ネ……わかったでしょう……。もう貴方と…………ても……いいのよ…………」



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2000年10月11日公開
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