青空文庫アーカイブ

焦点を合せる
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)李発《リーファ》君

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二千五百|噸《トン》の機関長が、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おまじない[#「おまじない」に傍点]ですか
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 イヤア。失敬失敬。李発《リーファ》君というのは君かい。九大法文科の二年生……ウンウン。麻雀《マージャン》を密輸入して学資にしているんだってね。ウム。感心感心。当世の若い人間は、ソレ位の意気が無くちゃ駄目だよ。ウンウン。僕は名刺を持たないが……。ハハア。王《ワン》君から聞いて知っているか。成る程成る程。どうぞよろしく……ナニ。日本語が拙《まず》いから許してくれ。ナアニ。よく解るよ。それ位出来れあ沢山だよ。……ヤ……ドッコイショ……と……ああ忙しかった。どうだい葉巻を一本……何だ喫《や》らないのか。それじゃ僕だけ失敬する。
 ちょうど上海《シャンハイ》を出る間際に王君の店から電話がかかって、君の事を頼んで来たからね。とりあえず僕の船室《ケビン》に案内するように命じておいたんだが……ドウかね。気に入ったかね僕の部屋は……尤《もっと》も気に入らないたって、これより立派な部屋が無いんだから仕方がないがね。ハハハハ……この船は荷物船《カーゴボート》だから、サルーンなんて気の利いたものは無いんだ。つまり荷物がお客様なんだから、人間の方が虐待されるんだ。堂々たる海牛丸、二千五百|噸《トン》の機関長が、コンナ部屋に跼《かが》まっているんだから推して知るべしだろう。ハハハ……迷惑だろうが長崎に着くまで、僕の寝台《ベッド》に寝てくれ給え。ナアニ僕は滅多《めった》にこの部屋で寝ないんだ。機関室の隅ッコにモウ一つ仕事部屋があるからね。毛布も枕もそこに置いて在るんだ。君のは今持って来さすからね。書物は無いが雑誌の古いのなら在る。持って来させようか。
 ウンウン。
 実は早く君の様子を見に来ようと思ったけれども、水先案内《パイロ》の野郎が乗っているうちは、機関室《しごと》の方が、忙しいのでね。おまけに今日の奴は知らない奴だったが、新米《しんまい》と見えて、矢鱈《やたら》に小面倒な文句ばかり並べやがったもんだからね。ナアニ、ここいらの水先案内《パイロテージ》なら、こっちが教えてやりたい位なんだが、新米でも何でも、水先を乗せるのが規則なんだから仕方がない。やっと今さっき水蒸汽《ランチ》で引上げて行きやがった。君見たろう……ウン……。もうこっちのもんだ。エコノミカル・スピードでブラリブラリと長崎へ着いて、ダンブロの荷物をタタキ上げれあ、後は南洋まわりと相場がきまっている。こう排日が非道《ひど》くちゃ、荷物一つ動かないからね。ナアニ。済まない事があるものか。コンナ船に乗ったら、ソンナ小面倒《こめんどう》な気兼ねは一切御無用だよ。国際的なルンペン船《ぶね》だからね。金儲けなら支那軍に売渡す鉄砲でも積込むんだ。怖いのは南支那海の三角波だけだよ。ハハハハ……。ナニ? 船賃? そんなもなあ要らないよ。王君がそう云やあしなかったかい。ウン。云ったけど気の毒だ。馬鹿な。納めるんなら十や二十の端《はし》た金《がね》じゃ駄目だよ。勿体《もったい》なくも麻雀の密輸入じゃないか。百や二百じゃ承知しないぜ……ナニ……それじゃ算盤《そろばん》に合わない。それ見ろ、ハッハッハ。僕の好意で乗せてってやるんだ。他ならぬ王君の頼みだからね。上陸してから鰒《ふぐ》でも奢《おご》り給え。それで沢山だ。ハハハ。お礼には及ばないよ。
 それよりもドウだね。一つ機関室を見に来ないか。君と話しながら仕事をしよう。何も話の種だ。ホントウのドン底の地獄生活というのは、コンナ襤褸船《ぼろふね》の機関室だってことを、世間ではあまり知らないだろう。船底一枚下は地獄とか何とか云うけど、地獄の上に浮いた地獄があるなんて事は、船乗り以外には誰も知らない筈だからね。尤《もっと》も知られた日にはコチトラの首が百あっても足りないがね。ハハハ。何も怖いことはないよ。閻魔《えんま》大王の僕が御案内するんだから……。
 ナニ……この部屋かい。大丈夫だよ。この鍵を預けとくからキチンと掛けておき給え。鍵は君が持っていた方が便利だろう。部屋を出るたんびに締りをしとく事だ。船員なんてな泥棒みたいな奴ばかりだからね……その鞄《かばん》は寝台の下にブチ込んでおき給え。ウン。鍵を掛けて封印して在るね。それなら大丈夫だ。中味の麻雀が船員に見付かると五月蠅《うるさい》からね。何とかカンとか云やがって、一杯飲ませなけあ納まらないんだ。
 ……こっちへ来たまえ。外はモウ涼しいね。二百廿日も無事平穏か……サッキの小蒸汽の煙がまだ見えてるぜ。引潮時だもんだから港口で流されているんだ。君には見えない。成る程。その眼鏡は紫外線|除《よ》けかね。イヤに黒いじゃないか。そいつを除《と》れば見えるだろう。……見えないかい。慣れないせいだよ。船乗りになると遠い処の方がハッキリ見えるんだからね。アハハ。ヨタじゃないよ。
 一体君はどうして王《ワン》君と識合《しりあ》いになったんだい。ドウセお楽しみ筋だったのだろう。ハハハ。ナニそうじゃない。両替をするつもりで王君のレストランへ這入《はい》った。ウム。あすこのビフテキは安くて美味《うま》いからね。国際的に評判がいいんだ。ああそうか。君は初めてだったのか。這入ってみて立派なのに驚いた。当り前だ。あれ位の店はマルセールあたりにもチョット無いよ。表口はお粗末だがね。それよりも綺麗な女が大勢居たろう。ウン。引っかけてみたかい。ハハハハ。引っかけてみれあよかったのに。昼間だって構うものか。高級船員が行く処だからね。地階に立派な設備が出来ているんだ。技巧《アーチー》なら上海一だって云うぜ。僕はあすこの常連なんだ。五六百両借りがあるがね。王君は大きいから千両位まで貸すよ。尤も女に馴染《なじみ》が出来なくちゃ駄目だがね。ハッハッ。チョット失敬して便所へ行って来る。君もつき合うか……。
 ウン……そんな事は全く知らなかったのか。無理もないね。ウンウン、麻雀買いの手筋なら何でも知っている。……この頃は蘇州《そしゅう》へ行って自分で指図をして日本人向きに彫らせる。……上海のはいけないのかい。フウン。彫りは派手だけれども牌《パイ》の出来は蘇州の方がいい……フウン。支那人と日本人の好みが違うかね。僕はカラッキシ素人《しろうと》なんだが。フウン。あの団子みたいな模様と、鳥の恰好が、特に日本人は八釜《やかま》しい。そんなものかねえ。成る程。……日本内地では麻雀賭博が流行《はや》り出したかね。そんで密輸入の上物《じょうもの》が売れ出した。つまり日本の麻雀が本格になりかけているんだね。今に支那式のルールが復活する……そうかねえ。とにかく面白いもんらしいね。ウンウン。それで蘇州へ行って麻雀を買い込んだ。ウンウン。帰りに小銭《こぜに》が無くなったから切るつもりで、王君のレストランへ偶然に這入った。料理を一皿註文して珈琲《コーヒー》を飲んでいたら……酒は駄目なのかい君あ……そいつは話せんねえ。ダイナジンて奴を一杯御馳走しようと思っていたんだが。ジンの中へダイナマイト……つまりニトログリセリンが割ってあるんだ。トテモいい心持ちに酔うからね。ケープタウンで作り方を教《おそ》わったんだが。……ウンウン。そこで珈琲を飲んでいたら女が大勢タカって来た。フフン。君はナカナカシャンだからなあ。おまけに貴公子然としているからなあ。ハッハッ。御愛想じゃないよ。ウン。それでどうした。無理矢理に奥へ引っぱり込まれた。アハハハ。上玉《じょうだま》と見られたな。そこへ王君が出て来て最高級の御挨拶をした。アッハッハッハ。コイツは大笑いだ。王公《ワンこう》一代の傑作だろう。滅多《めった》にお客を見損なう男じゃないがなあ。それからどうした……。
 それから女どもを遠慮してもらって、王君と差向いになって事情を打ち明けたというのか。ポケットを裏返して見せた。ハッハッ。そんな事だろうと思った。正直だなあ君あ。ウンと飲んだり喰ったりしてから打明ければよかったに……ブチ殺されるもんか。王君は却《かえ》って御馳走をして帰すよ。脅喝に来た奴でも温柔《おとな》しく抓《つま》み出すばかりだからね。だから評判がいいんだがね。ウンウン。それから王君が同情してこの船を教えてくれた。フ――ン。君の親孝行に同情して教えてくれた。重慶にお母さんを一人養っている……タッタそれだけの理由かい。本当の事を云ってみたまえ。隠したって駄目だよ。この次に王君に会えばわかるんだ。ナアニ、どこへも聞こえやしないよ。機械の音が八釜《やかま》しいから……ナニイ……何だって……。
 ハハハ。ナアル程。そこで王君は大学をやめて、レストランのボーイになれって君に勧めたア?……アッハッハこいつあイヨイヨ傑作だ。二階の婦人専門のサルーンに出れば、最低千円のチップは請合うと云うのか。いかにも読めたわい。王公一目で君のスタイルに参ったんだね。学生にしちゃスマート過ぎるからな。そこで都合よく奥に引っぱり込んだんだ。やっぱり王公は眼が高《たけ》えや。ハハハハ。今度|上海《シャンハイ》へ来たら是非モウ一度寄ってくれって?……ナカナカ執念深いな。……ナニ……今のチップの千円問題は僕に云っちゃいけないって? ハハハ馬鹿にしてやがら。僕の俸給と桁違《けたちが》いだもんだからソンナ事を云うんだ。行き届いた男だが、しかし中華人一流の要らざる心配だよ。まさか僕が雇われに行けあしめえし。ハッハッハッハッ……。
 サア来た。……ここが機関室だ。この垂直の鉄梯子《てつばしご》を降りるんだ。油でヌラヌラしているから気を付け給え。落ちたらコッパ微塵《みじん》だよ。ウンなかなか君は身が軽いね。運動をやっているんだね。スキーにダンスか。そいつあモダンだ。女が惚れる筈だ。オット危ない……。
 こっちへ来たまえ。……聞えないかい。オイオイ。こっちへ来たまえったら。このベルトに触《さわ》らないように気を付けたまえ。
 これが僕の仕事部屋だ。この椅子に掛け給え。アットット……。濡れてたかい。イヤ失敬失敬。暗いからわからなかった。茶瓶《ちゃびん》か何かそこへ置きやがったな。オヤオヤ。お尻がビショビショになっちゃったね。アッハハ。茶粕《ちゃかす》が付いてらあ。仕方がない。この鉄椅子に掛け給え。そのうちに乾くだろう。……見たまえ。ちょうどマン中の汽鑵《ボイラー》が真正面に見えるだろう。忙しくなるとこの部屋に来て仕事を睨《にら》むんだ。時化《しけ》の時なんぞは一週間位寝ない事があるんだぜ。
 オーイ。誰か来い。……聞こえないか……君はチョットその呼鈴《ベル》を押してくれたまえ。……何だボン州か。ウン。コック部屋に行って珈琲と菓子を貰って来い。普通のじゃ駄目だぞ。船長《おやじ》が上海で買込んだ奴があるんだ。コック部屋に無けあ船長室に在る筈だ。そいつを掻《か》っ払《ぱら》って来い。なぐられるもんか。愚図愚図《ぐずぐず》吐《ぬ》かしたら俺が命令《いいつけ》たと云え。船長《おやじ》には貸しがあるんだ。……行って来い……。
 ……どうだい。機関室ってものは這入ってみると存外荒っぽいだろう。聞えるかい。僕の云う事が。きこえる……ウン……ボン州ってな綽名《あだな》だよ。……仏蘭西《フランス》語の挨拶かと思った?……アハハハ大笑いだ。あの垂直の鉄梯子を降りたら、ドンナ人間でも本名が無くなるんだ。地獄の一丁目だからね。みんな戒名《かいみょう》で呼び合うのが習慣になっているんだ。銀行泥棒上りが銀州、強盗前科が腕公《わんこう》、女殺しがエテ公、凡クラがボン州……モウ暫くすると君だって戒名を附けられるかも知れない。黒眼鏡とか何とかね。ハッハッハ……ナアニ。みんなここへ来れあ年季を入れるんだよ。何でも白状しちまうんだ。娑婆《しゃば》へ出れあ寿命の無い奴ばかりだからね。首と釣り換えで働きますという意味で、綺麗《きれい》サッパリと白状しちまうんだ。だから僕の事を閻魔《えんま》様と云うんだ。がそんな奴でないと、イザとなった時にタタキまわしが利かないから妙だよ。……見たまえ。あれが最旧式の宮原式ボイラーなんだ。二三十年前に出来た骨董品だが、博物館あたりへ寄附しても相当喜ぶシロモノだよ。ハッハッ。ナアニ大丈夫だよ。爆発なんかしないよ。出来は古いがガッチリしているからね。安全弁があんなに白いスチームを吐いているだろう……ブーブーいってるのが聞えるかい。ウン……見えるけど聞えない……慣れないからだよ。
 アッ……蓋《ふた》を明《あ》けた。眩《まぶ》しいだろう。
 汽鑵《ボイラー》の蓋を明けたんだよ。まるで太陽だろう。アハハ。もうあんなに白熱しているんだからね。あれで千二三百度ぐらいのもんだろうよ。それでもあの中へ人間一人ブチ込んだら、五分間で灰も残らないよ。美味《おいし》そうな臭いだけは残るがねハッハッハッ。
 人間をブチ込んだ事があるかって……あるともさ。人間ばかりじゃない。品物だって何だって面倒臭いものはミンナ打《ぶ》ち込むんだ。この間なんぞは鉄砲を積んで呉淞《ウースン》に這入りかけたら、その間際で船員の中《うち》に、スパイが二人|混《まじ》っている事を発見したから、文句なしにブチ込んでくれたよ。ナアニ途中で波に渫《さら》われたと云いやあソレッキリだからね。
 ……ヤ……ちょうど茶が来た。一杯飲んで行き給え。序《ついで》にモウすこしすると面白い事が初まるから見て行き給え、今にわかるよ。トテモ面白い。簡単なバクチなんだ。見れば解るよ。
 ハハハ……心配しなくともいい。地獄の珈琲だって麻酔薬《まやく》も何も入ってやしないよ。君を眠らして、麻雀の十箱やそこら頂戴したって仕様がなかろう。第一君を殺《や》るつもりならワザワザこんな処まで引張り込みやしないよ。学生の癖に意気地《いくじ》が無いんだなあ君ゃ。ハハハハハ。まあ珈琲を一杯飲み給え。スマタラ製だが非常に芳香《かおり》が高いんだ。度胸が据って僕の話が面白くなるだろう。コンナ世界も在るって事が解れば、将来キット参考になるよ。トニカク徹底しているんだからねえ機関室の地獄生活は……。
 成る程なあ。君等にとっちゃ学校を卒業するのが目下の急務だろうよ。最早《もはや》ジキ試験が始まる……故郷にはお母さんが待っているか。フウン。そうかそうか。まあシッカリ遣り給え。しかし試験の候《そうろう》のっていうけど、今の学校の試験なんか甘いもんだよ。僕が機関長になった時の体験を話したら身の毛が竦《よだ》つだろうよ君等は……まあ聞き給え……モウ船室《ケビン》には用は無いだろう。ナニ、書物を読みたい。書物なんかは大概にしとくがいいね。学校で習った事なんか実際の役に立ちやしないよ。理窟通りに機械が動くもんなら機関長は要らない。学者の思う通りに世の中がなるものなら、ボルセビキの理論は一と通りで済むんだ。ナカナカ学者だろう。ハッハッ。
 オイ。ボン州。チョット来い。モウ一パイ茶を入れて来い。今度は紅茶だ。俺のはウイスキーを割って来るんだぞ。それからその扉《ドア》を閉めておけ。八釜《やかま》しいから……。
 どうだい。こうして扉《ドア》を閉めとくと機械の音がウッスリしか聞えないだろう。扉《ドア》が厚いからね。しかしコンナに軽い騒音でも、機械のどこかに故障があると、直ぐにこっちの頭にピインと来るんだよ。故障の個所までチャント解るから不思議だろう。ナアニ。永年の経験さ。この部屋で寝ていると夜中に何か知らんハッとして眼を醒ます。ハテ。何で眼を醒ましたのかと思って、ボンヤリしていると果せる哉《かな》だ。コンナ風に雑然《ごちゃごちゃ》聞えて来る騒音の中のドレか一つが起している。ズット奥の小さなピストンのバルブがおかしいな……とか何とか直ぐに気が付く。そんな小さな音に眼を醒ます筈はないと思うかも知れないが、不思議なもので、機械のジャズが順調に行っているうちはグッスリ眠っているが、すこし調子が変るとフッと眼が醒める。同じ船に長く乗っていると船の機械全体が、自分の神経みたいになってしまうんだね。船が黒潮に乗ると同時に、運転手がポッカリと眼を醒ますようなもんだ。
 まだ驚く話があるんだ。
 今君が見たあの大きな汽鑵《ボイラー》ね。あの正面の電球の下に時計みたいなものが在って、指針《はり》が一本ブルブル震えていたろう。あれが汽鑵《ボイラー》の圧力計《プレシュアゲージ》なんだが、あの圧力計《ゲージ》の前に立って、あの指針《はり》が、二百|封度《ポンド》なら二百|封度《ポンド》の目盛りの上に、ピッタリと静止しているのを見た一瞬間に、この指針《はり》はこれから上るか……下るかっていうことがピンと頭に来るんだ。静止している指針《はり》がだよ。そいつがピンと来る位の頭にならなくちゃ、一人前の機関長たあ云えないんだ。同時に圧力がコレ位しか上らないところを見ると石炭が悪いんだな……とか……どこかに故障があるんだなとかいう直覚が来る。向うの港に着くまでに石炭が足りるか足りないかといったような問題まで、同時にピーンと来るんだから、あの指針《はり》一本がナカナカ馬鹿に出来ないんだ。ソウ……第六感とでもいうかね。
 無論そこまで来るには僕も苦労したもんだよ。まあ聞き給え……。
 ……オーイ……這入れえ……。
 ……ヤッ来た来た。魔法瓶《テルモス》に入れて来たな。ボン州の癖に気が利いているじゃねえか。このウイスキーは誰のだ。何だ船長のか。イヨイヨ気が利いているぞ貴様は……勿体《もったい》なくもK、O、K、じゃねえか。ステキステキ。どうだいチョッピリ、ウイスキーを入れようか。ナニ。奈良漬に酔う? ナカナカ日本通だね君ゃ。それじゃカステラを遣り給え。上海から逆輸入の長崎名物だ。吾輩の話の聞き賃だ。ハハハハ……オイオイ……野郎。あとを閉めねえか。馬鹿野郎……。
 イヤ。全く久し振りにコンナ話をするがね。吾輩が機関長の試験を受けたのが二十一の年だった。イヤア君も二十一かい。そいつあ奇遇だね。ハハハハ。ところでソイツが満点試験と来ているから凄いだろう。ドレ位凄いか話してみなくちゃ解るまいがね。
 何しろこっちは、無けなしの貯金に借金の上塗《うわぬ》りした何十円也を試験料としてブチ込んでいる一方に、船乗片手間の独学と来ているんだから絶体絶命だ。高等数学の本なんかテンデわからない奴を、片《かた》ッ端《ぱし》から一冊分丸諳記さ。そんな無茶をやった事があるかい。無いだろう。トテモお話にならないんだ。兵庫の下宿の天井から、壁から、襖《ふすま》から、障子《しょうじ》から、電燈の笠まで、公式を書いた紙をベタベタ貼り散らして寝床の中から眼を開ければ、直ぐに眼に付くようにしている。諳記した奴は引っペガして、新しいのを貼るという寸法だ。下宿の婆さんが驚いて、コンナに沢山にまあ。これは及第のおまじない[#「おまじない」に傍点]ですかって聞くんだ。成る程おまじない[#「おまじない」に傍点]に違いないね。丸めて嚥《の》んでしまいたいくらい大切なおまじない[#「おまじない」に傍点]だからね。ハハハ。
 それから当日試験場へ行くと、初日は筆記試験ばかりだったが、コイツは兎《と》も角《かく》も満点を取って帰ったと見えて、明日《あす》の試験に出ろという通知が夕方下宿に届いた。
 ところで翌《あく》る朝、勢い込んで試験場に来てみると驚いたね。七十何人居た受験者が、タッタ二人しきゃ居ないんだ。何かの間違いじゃないか知らんと思って一寸《ちょっと》キョロキョロしたもんだよ。ナアニ。みんな振り落されたのさ。ホントウの満点試験だからね。綴字《スペル》が一字違っていてもペケなんだから凄いよ。七十何人、試験料丸取られさ。これがお上《かみ》の仕事でなけあ、金箔付きのパクリだろう。
 僕と一緒に居残った奴は、島根県の何とかいう三十ばかりの鬚男《ひげおとこ》だったが、広い教室のズット向うとこっちに離れて製図を遣るんだ。……お互に顔を見交《みかわ》して泣き笑いみたいな顔をし合ったっけ。…ところが翌る日行ってみると、今度はそいつがノックアウトされている。つまり一番年の若い僕だけがタッタ一人残った訳だが、心細いの何のってお話にならない。冥途《あのよ》の入口に一人ポッチで来たような気もちだ。しかし試験官は、それでも遠慮なんかミジンもしない。一匹もパスさせなくたって構わないんだから平気なもんさ。口頭試験で百三十ばかりの問題を立て続けにオッ冠せて来る。むろん片ッ端から即答さ。時計を睨みながら二三十秒ぐらい待ってくれるだけで、一分と過ぎたらその場で落第の宣告だ。恐らく僕の顔には血の気《け》が無かったろうと思う。それでもヤットの思いで汗を拭き拭き受け流して行くうちに試験官がパッタリと帳面を閉じたから、落第じゃないかと思ってハッとしていると、その顔を見ながら試験官の奴ニッコリしやがってね。イヤ、御苦労でした。成績は満点です。あちらの室《へや》で茶を飲みましょう。……と早口で云った時には、思わずポオーッと気が遠くなったね。しかし、それでも嬉しかったから尻尾《しっぽ》を振り振り、浮き足でクッ付いて行くと、廊下を一曲りした処の空《あき》部屋に僕を連れ込んで、熱い渋茶を一パイ御馳走した。その序《ついで》に室《へや》の中をグルリと見まわすと、試験官の奴モウ一度ニヤリと笑ったもんだ。
「この室《へや》に石炭が何|噸《トン》、詰まるでしょうかね」
 と冗談みたいに吐《ぬ》かしおってね……しかも、その顔付きたるや、断じて冗談じゃないんだ。たしかにまだ試験の中《うち》らしい面構《つらがま》えをしてケツカルんだ。考えてみるとサッキ満点を宣告した時には、ただ御苦労と云っただけで、お芽出度《めでと》うとは吐《ぬ》かさなかった。チョックラ油断させておいて、不意打ちにタタキ落そうという寸法なんだ。こんなタチの悪い試験に引っかかった事があるかね……恐らく無いだろう。
 そう気が付いた刹那《せつな》に僕はモウ一度気が遠くなりかけたね。そいつを我慢すべく熱い茶を一杯グッと嚥《の》み込むと、破れカブレの糞度胸《くそどきょう》を据えたもんだ。
「そうですねえ。六十|噸《トン》も這入りますかね」
 と冗談みたいに返事してやったら、試験官|奴《め》、眼を丸くしやがって、
「ヘエ。そんなに這入りますかね」
 と吐《ぬ》かしやがった。おまけに附け加えて、
「室《へや》の容積というものは見損ない易いものでね。誰でも初めて船に乗って、石炭を積むとなると、この見込みが巧く行かないので、下級船員から馬鹿にされる事になるのですが……ハハン……」
 と腮《あご》を撫でおった。……ナアニ。親切でソンナ事を云うもんか。ドギマギさせようという策略に違いないんだ。……ヘエ。それじゃ五十|噸《トン》ぐらいですか……とか何とか、お付き合いにでも云おうもんなら……ハイ。待ってました。九十九点九分九厘で落第……と来るんだろう。土に噛《か》じり付いても試験料をパクリ上げようという腹なんだからヒドイよ。そん時には流石《さすが》の僕も、思わずグッと来てしまったね。何しろ若かったもんだから……篦棒《べらぼう》めえ。どうでもなれという気になったもんだ。
「……ええ……しかし六十噸というのは試験の解答ですよ。天井までギッチリの勘定ですが、しかし実際をいうと、この問題は非常識ですね。本当にこの部屋に、それだけの石炭を詰め込んだら、壁と床が持たないでしょう。エヘヘヘヘヘ……」
 と冷やかし笑いをして見せたら、試験官の奴、塩《しょ》っぱい面《つら》をして睨み付けたと思うと、プリプリして出て行きおった。そこで僕も土俵際で落第したもんだと諦めて、その晩は久し振りに酒を呷《かぶ》ってグッスリ寝込んでいるうちに、いつの間にか夜が明けたらしい。下宿の婆さんがユスブリ起して「モウ九時だっせ。お手紙が来とりまっせ」と云うんだ。むろん落第の通知だろう。見たってドウなるもんか。勝手にしやがれと思い思い、何だか気になるから開けてみたら、豈計《あにはか》らんやだ。試験官の直筆だったが及第《きゅうだい》も及第。とりあえずお芽出度う存ずる。就《つい》ては目下、当港(神戸)に停泊中の病院船、十字丸、三千二百噸の機関長の補充として御乗船願いたいが、御|意嚮《いこう》は如何《いかが》でしょうか。月給、百何十円。云々《うんぬん》……という孫悟空みたいな話だ。そんな時に又、頭が又シイーンとしちゃったね。明治四十年頃の百両といったら大したもんだ。幅が利くにも何にもドエライ出世だ。おまけに若い機関長のレコード破りというのが評判で、アタリ八方、持てたの候のってお話にならなかったが、実をいうとコイツが悪かったんだね。若い時の苦労は買ってもしろと云う位だ。あんまり早くから立身したり、世間に持てたりするのは碌《ろく》な事じゃあないんだ。お蔭でスッカリ身体《からだ》をヤクザにした上に、今の十字丸に乗ってから一年目に、瀬戸内海で推進機《スクリュウ》を振り落した。船に乗る時には十分に機械を調べて受取ったつもりだったが、推進機《スクリュウ》までブン擲《なぐ》っていなかったのが運の尽きだった。尤も瀬戸内《せとうち》だから助かったもんだ。ケープ沖か何かだったら、南極へ持って行かれたかも知れない。
 ……コイツがケチの付き初めで、それ以来僕の乗る船に碌《ろく》な事はない。新式タービンのパリパリが、ビスケー湾の檜舞台《ひのきぶたい》でヘタバッたり、アラスカ沖の難航で、陸地《おか》が鼻の先に見えながら、石炭が足りなくなったりする。そんな時には石炭の代りに、メリケン粉を汽鑵《かま》にブチ込んで、人間も船体《ふね》も真白にしてしまったものだがね。もちろんこっちの手落ちだった事は一度もないんだが、不思議に運が悪いんだ。とうとうコンナ瓦落船《がらくたぶね》に乗って、骨董みたいなお汽鑵《かま》の番をするところまで落ちぶれて来た訳だがね。ハッハッ……しかし、お蔭で君達の喜びそうな冒険を、イクラ体験して来たか知れやしない。今サッキ話しかけた推進機《スクリュウ》の一件を、モウ一度|印度《インド》洋で蒸《む》し返した時なんぞは、今思い出してもゾッとする目に会ったね。ちょうど欧洲大戦のショッ端《ぱな》で、青島《チンタオ》から脱け出した三千六百噸の独逸《ドイツ》巡洋艦エムデンが、印度近海を狼みたいに暴れまわっている時分のことだ。
 大阪商船の濠洲《メルボルン》通いで、三洋丸という快速船《はやいの》があった。七千噸ばかりの客船《メイル》だったが、コイツが航路《コース》を切り変えて、一かバチかの欧羅巴《ヨーロッパ》行きを思い立ったもんだが、今のエムデンを怖がって行くものがないというので、とりあえず僕が器械の方を引受けて、新嘉坡《シンガポール》まで来たのが忘れもしない、大正三年の九月の十五日……暑い盛りだ。あすこでポートサイドからマルセール直航の男船客ばかりを三百五十何人と上等の紅茶を積めるだけ積んだ訳だが、コイツが無事に地中海へ這入れば、むろん大儲けさ。欧羅巴全体が敵も味方も咽喉《のど》を鳴らして待っている極上《ごくじょう》飛切《とびき》りの紅茶バッカリと、金《かね》ずく[#「ずく」に傍点]を通り越したお客バッカリ満載しているんだからね。紀州の蜜柑船《みかんぶね》どころの騒ぎじゃない。三井の遣る事は凄いよ……そこで聯合《れんごう》艦隊の無電を受けながら、勇敢に印度洋のマン中目がけて乗り出してみるとドウダイ。陸影《おか》を離れてから間もない三日目の、二十三日の朝早く、無電技手が腰を抜かしたまま船橋《ブリッジ》から転がり落ちて来た。……昨夜《ゆうべ》の真夜中にエムデンが突然、向う岸のマドラス沖に現われて、石油タンクの行列を砲撃した。エドワード砲台が泡《あわ》を喰って、闇夜の大砲をブッ放《ぱな》したが、その時には最早《もはや》エムデンは居なかった。三洋丸はそのまんまで行けば、そろそろエムデンの逃路《コース》にぶつかるかも知れない。気を付けろ……といったような無電が、ビーッ……ビ――ッと這入って来たと云うんだ。
 イヤモウ……みんな青くなったの候のって……覚悟の前とか何とか、大きな事を云っていた船長が、日本人の癖にイの一番に慌て出して、全速力《フルスピード》で新嘉坡《シンガポール》へ引返《ひっかえ》すと云い出したもんだ。つまりエムデンの死に物狂いのスピードが、先ず二十七八|節《ノット》で、三洋丸のギリギリ決着が二十三四|節《ノット》だから、見付かったら最後、物が云えないという算盤《そろばん》を取ったんだろう。しかも、それ位の算盤なら何もわざわざ、印度洋のマン中まで出て来て弾《はじ》くが必要《もの》はないのだ。忠兵衛さんじゃあるまいし。大阪を出た時からチャンと見当が付いている筈なんだが、要するに今の無電と一所《いっしょ》に、新規|蒔《ま》き直しの臆病風が、船長の襟元からビービービーッと吹っ込んだんだね。
 そいつを一等運転手《チーフメート》が腕ずくで押し止めようとする。そいつを又、乗客の中に居た、愛蘭《アイルランド》の海軍将校上りが感付いて、船中に宣伝して廻ったから堪《た》まらない。碧眼玉《あおめだま》をギョロ付かした乗客が、吾《わ》れも吾《わ》れもと船長室へ押しかけて、土気《トンパ》色になった船長を取巻いて、ドウスルドウスルと小突きまわす。一等運転手と事務長が、仲に這入って間誤間誤《まごまご》する。船長の名前は勘弁してくれだが、国辱にも何にもお話にならない。エムデン艦長といいコントラストが出来上った。……結局、そんな連中で、寄ってタカって、一か八かのコンニャク押問答をフン詰まらせたあげく、僕がその評議のマン中に呼び出される事になったもんだ。
 ……今以上にスピードが出せるか出せないか。それによってスエズへ直航するかしないか……又は新嘉坡へ引返すにしても、荷物を棄てるか、棄てないかを決定する……。
 という問題を持ちかけて来たから、僕は占《し》めたと思ったね。ここいらで一番、身代《しんだい》を作ってくれようかな……序《ついで》に毛唐《けとう》の胆《きも》っ玉《たま》をデングリ返してやるか……という気になって、ニッコリと一つ笑って見せたもんだ。
「お前さん方は運のいい船に乗り合わせたもんだ。一万|磅《ポンド》呉《く》れるなら、速力を今よりも五|節《ノット》だけ殖やしてやろう。むろん荷物は今のマンマで結構だ。モウ五|節《ノット》速くなったら、いくらエムデンでも追付かないだろう……しかし物には用心という事がある。万一お前さん方が、五|節《ノット》でもまだ足りないと思う場合にブツカルような事があったら、ソレ以上一|節毎《ノットごと》に、一万|磅《ポンド》ずつ、奮発してもらいたい。それでも足りなけあ紅茶を棄てる事だ。全速力三十一|節《ノット》まで請合う。それでも追付かなけあ諸君が海へ飛び込むだけの事《こっ》た」
 とチョッピリ威嚇《おどか》してやったもんだが、毛唐の物分りの早いのには驚いたね。チョット別室で相談したと思う間もなく、シャンとした奴が五六人引返して来て、二千|磅《ポンド》の札束を僕の前に突き出した。むろんアトの八千|磅《ポンド》はポートサイドへ着いてから渡すという、立派な証文附きだったが、流石《さすが》の僕もソン時には、チョット頭が下がったよ。何しろ大きな銀行が、ポケットの中でゴロゴロしていようという連中だからね。助かりたいのが一パイだったのだろう。船長や運転手までホッとしたような顔をしていたっけが、可笑《おか》しかったよソレア。何はともあれエムデン様々々々と拝みたくなったね。
 ……というのはコンナ訳だ。
 実をいうと三洋丸ぐらいの機械を持っていれあ、速力を五|節《ノット》増すくらいの事は屁《へ》の河童《かっぱ》なんだ。新しい機械の力はかなり内輪に見積ってあるもんだからね。……と云ったって、むろん船長や運転手なんかに出来る芸当じゃない。いわば僕一人の専売特許かも知れないがね。ずっと前、南支那海で海賊船がノサバッた時に、万一の場合を慮《おもんぱか》って、何度も何度も秘密《ないしょ》で研究して、手加減をチャント呑込んでいたんだから訳はない。僕は機関室へ帰ると直ぐに、汽鑵《ボイラー》の安全弁《バルブ》の弾条《バネ》の間へ、鉄の切《きれ》っ端《ぱし》を二三本コッソリと突込んで、赤い舌をペロリと出したものだ。
 タッタそれだけで一万|磅《ポンド》の仕事になった訳だが、何を隠そうコイツは立派な条令違反なんだ。発見《みつ》かったら最後、機関長の免状を取上げられるどころじゃない。ドエライ罰金を喰わせられた上に、懲役にブチ込まれる事になるんだから、ソレ位のねうち[#「ねうち」に傍点]はあるだろう。況《いわ》んや何百人の生命《いのち》と釣りかえの問題だからね。
 しかもタッタそれだけの手加減で、汽鑵《ボイラー》の圧力《プレス》がグングンせり上って、圧力計《ゲージ》の針がギリギリ一パイのところまで逆立ちしてしまった。同時に推進機《スクリュウ》の廻転がブルンブルン高まる。速力《スピード》が出たどころの騒ぎじゃない。素人が見たら倍ぐらい早くなったように思える。両舷を洗う浪の音がゴオオ……ッ……ゴオオオ――オオッと物凄く高まったもんだから、デッキに立っていた連中はスッカリ安心してしまったらしいね。今までの心配疲れも出て来たんだろう。一人一人に船室《ケビン》へ帰ってグーグー寝てしまった様子だ。そこで機械と睨めっくらをしていた僕も、この調子なら大丈夫と思って、椅子に腰をかけたままウトウトしていた……までは良かったが……アトが少々面白くなかった。
 その翌る朝のまだ薄暗い中《うち》の事だ。ポートサイドで札ビラを切っている夢か何か見ている最中《さなか》に、今の推進機《スクリュウ》の中軸になっている、一番デッカイ長い円棒《シャフト》が、中途からポッキリと折れたもんだ。急にスピードを掛けた馬力《やつ》が、イの一番に円棒《シャフト》へコタえたんだね。
 アッハッハッハッハッ……そん時には流石《さすが》の吾輩も仰天したよ。折れると同時にキチガイみたいに廻転し出した機械の震動が、白河夜船のドン底まで響き渡ったもんだから、ウンもスンもあったもんじゃない。てっきりエムデンに遣られてゴースタンか何か掛けたものと、船長初め思い込んだらしいんだね。アッという間に船の中が、ワンワンワンワンと蜂の巣を突ッついたような騒ぎになった。船員も乗客も一斉にデッキを目がけて飛び出して来た。御丁寧な奴は卒倒《ひっくりかえ》ったという話だが……しかしこっちは眼を眩《ま》わすどころの騒ぎじゃない。ともかくも機械の運転を休止《アップ》して、予備のシャフトを入れ換える事だ。
 そうすると又、大変だ。この沖の只中で船を止めておくのは、エムデンの目標を晒《さら》しておくようなものだというので、乗客が血眼《ちまなこ》になって騒ぎ出した。船長はもとより運転手までが、七面鳥みたいに気を揉み初めたものだから、イヨイヨもって手が着けられなくなった。一方に船の方は呑気《のんき》なもんだ。そんな騒ぎを載せたまんま、エムデンの居そうな方向へブラリブラリと漂流し始めた。二三百|尋《ぴろ》もある海《ところ》で碇《アンカ》なんか利きやしないからね。通りかかりの船なんか一艘だって見付かりっこない。SOSを打ってみても聯合艦隊が相手にしてくれない……というのだから、その騒動たるや推《お》して知るべしだろう。
 ……ところが又、生憎《あいにく》なことに、その円棒《シャフト》の入れ換えが、キッカリ一週間かかったもんだ。つまりその間じゅう、全然、機械の運転を休止《アップ》して、行きなり放題に流れ廻わっていた訳だ。
 ……何故……何故ったってマア考えてみたまえ。あの直径二|呎《フェート》何|吋《インチ》、全長二百何十|呎《フェート》という、大一番の鋼鉄《はがね》の円棒《シャフト》だ。重さなんかドレ位あるか、考えたってわかるもんじゃない。実際、傍へ寄ってみたまえ。これが人間の作ったものかと思うと、物が云えなくなる位ステキなもんだぜ。そいつを索条《ワイヤ》や鎖《チエン》でジワジワと釣り上げるだけでも、チョットやソットの仕事じゃない。おまけにあの大揺れの中を、二日がかりで荷物を積み換えて、ヤット少しばかりお尻を持ち上げさした船のスクリュウの穴の中へ、ソーッと押し込もうというのだから、無理な註文だという事は最初からわかり切っているだろう。船渠《ドック》の中で遣っても相当、骨の折れる仕事を、沖の只中で流されながら遣ろうというのだからね。……のみならず今も云う通り、七八千|噸《トン》の屋台を世界の涯まで押しまわろうという鋼鉄《はがね》の丸太ン棒だ。ピカピカ磨き上げた上に油でヌラヌラしている奴だから、手がかりなんか全然《まるで》無いんだ。ワイヤとチエンで、どんなに緊《しっか》り縛り付けといたって、一旦辷り出したとなれあ、人間の力で止める事が出来ない。一|分《ぶ》辷ったら一|寸《すん》……一寸辷ったら一尺といった調子で、アトは辷り放題の、惰力の附き放題だ。遠慮も会釈《えしゃく》もあったもんじゃない。ズラズラズラズラッと辷り出したが最後の助。鉄の板でも何でもボール紙みたいに突き破って、船の外へ頭を出すにきまっている。そのまま、ズルズルズッポリと外へ抜け出してしまったら、ソレッキリの千秋楽だ。取り返しが付かぬどころの騒ぎじゃない。飛び出しがけの置土産《おきみやげ》に巨大《おおき》な穴でもコジ明けられた日には、本家本元の船体が助からない。シャフトのアトからブクブクブクと来るんだ。……ハッハッどうだい。わかるかね。シャフトの素晴らしさが。ウン。わかるだろう。コンナ篦棒《べらぼう》な苦心した機関長はタントいないだろうと思うがね。
 ところが世の中は御方便なものでね。険呑《けんのん》な仕事なら、自慢じゃないが、慣れっこになっている吾輩だ。尤も吾輩が乗ったからシャフトが折れたのかも知れないがね、ハッハッ。前以て、そんな間違いがないように、二重三重に念を入れて、不眠不休で仕事をしたから、ヤット一週間目に蒸汽《スチーム》を入れるところまで漕《こ》ぎ付けたんだが、その間の騒動ったらなかったね。一万|磅《ポンド》なんか無論立消えさ。糞《くそ》でも喰らえという気で、押し切るには押し切ったが、実のところ寿命が縮まる思いをしたね。……乗客の方は無論の事さ。その時分に印度洋のマン中で、一週間も漂流するなんて事を、ウッカリ最初から云い出そうもんなら、気の早い奴は身投げぐらい、しかねないんだ。毛唐なんて存外、気の小さいもんだからね。すぐに思い詰める奴が出て来るんだ。その証拠に、明日《あした》明日で云い抜けながら仕事をして行くうちに、三日ばかり経ったら乗客が、一人も寝なくなってしまった。みんな神経衰弱にかかっちゃったらしいんだ。来る日も来る日もエムデンの目標になって浮いているんだから、考えて見れあ無理もないさ。こっちも無論エムデンが怖くないことはなかったが、怖いったって今更ドウにも仕様がない。タッタ一本しか無い予備シャフトを無駄にしたらそれこそホントウに運の尽きだからな。
 そんな訳で、最初から腹を定《き》めて仕事をしたお蔭で、ヤット船が動き出すには動き出したが、今度はモウ速力《スピード》を出さない。八千|磅《ポンド》の証文をタタキ返して、安全弁《セーフチイバルブ》の鉄片《てつきれ》を引っこ抜いてしまった。すると又、そのうちに、乗客の中でも一番航海通の海軍将校上りが……サッキ話した慌て者さ……そいつが手ヒドイ神経衰弱に引っかかってしまった。機関長を殺せとか何とか喚《わ》めきやがって、ピストルを振りまわすので、トテモ物騒で寄り付けない。……とか何とか事務長が文句を云いに来たから、僕は眼の球《たま》の飛び出るほど怒鳴り付けてやった。
「……訳はない。そいつを機関室《ここ》へ連れて来い。汽鑵《かま》へブチ込んでくれるから……いくらか正気付くだろう」
 と云ってやったら事務長の奴、驚いて逃げて行ったっけ。ハッハッハッハッ……。
 オーイ。這入れえ。オイオイ。這入れえ……。
 何だ。ボン州か。何の用だ。ナニイ。チットモ聞えない。こっちへ這入れ。そうしてその扉《ドア》を閉めろ……ちっとも聞えない。
 どうしたんだ。……ウンウン……検査が済んだのか。恐ろしく恐ろしく手間取ったじゃないか。ウンウン真鍮張《しんちゅうば》りのトランクの中に麻雀八|筥《はこ》か……牌《パイ》の中味は全部|刳抜《くりぬ》いて綿ぐるみの宝石か……古い手だな……。
 オットオット。待ち給え李《リー》君……今頃ピストル何か出したって間に合わないよ。君の背後《うしろ》の寝台の下に居る奴がスイッチを切ると、今君が腰をかけている鉄の床几《しょうぎ》に、千五百ボルトの電流が掛かるんだ。そのために君のお尻を濡らしておいたんだが、気が付かなかったかい。ハハハ……。
 先刻《さっき》から冗《くど》く説明しているじゃないか。あの垂直の鉄梯子を降りたら運の尽きだと……ハハハ。解ったかい。わかったらモウ一度腰を卸《おろ》し給え。大丈夫だよ。まだ電流《でんき》は来ていない。君を黒焦《くろこ》げにしちゃっちゃ、元も子もなくなるからね。ね。解ったろう。
 君はこの船を普通《ただ》の船と見て乗った訳じゃなかろう。最初から秘密があると睨んで虎穴に入ったんだろう。序《ついで》にこの船の秘密を看破《みやぶ》ってやれという気になってここまで降りて来たのは、いい度胸だったかも知れないが、そいつがドウモ感心しなかったね。
 ナニ。あの宝石は模造品だって? ハハハ。そうかも知れないが模造品で結構だよ。頂戴する分には差支えなかろう。ナニ、皆|呉《く》れるから生命《いのち》だけは助けてくれか。ハハハハ……それは時と場合に依っては助けてやらない事もないが、それじゃ王《ワン》君に済まない事になるんだ。王君からの電話に依ると君は目下|北平《ペーピン》でヨボヨボしている白系露人の頭領、ホルワット将軍の秘書役だったが、日本の田中内閣が潰れてから、同将軍を支持する国が無くなったので見切りを付けて、共産軍の方へ寝返りを打ったサイ・メイ・ロン君に相違ないというんだ。それから君はツイこの頃になってG《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の遊離細胞となって、上海《シャンハイ》に流れ込んで来ると間もなく、最近上海で国際スパイ兼、排日団体の首領として売り出している、青紅《チンオン》嬢の一|乾児《こぶん》となったもので、Rの四号というのはヤッパリ君の事らしいという王君の報告だがね。
 ……ところでそのRの四号君が、ドレ位の腕前を持っているかということは、今云う通り経歴《すじみち》がヤヤコシイからサッパリ判然《わか》っていないんだが、とにかく一当り当って焦点《フオカス》を合わせてくれ、トランクの中味もまだ突止めていないが、近いうちに日支関係が緊張するのを見越して、上海の巨商|黄鶴号《おうかくごう》から、長崎の支店へ送るべく青紅嬢に委託された貴重品らしいという話だったがね。ハハハ。王君はナカナカ眼が高いよ。
 ……ナニ……王君の正体は何だって聞くのか。……フフフ……それを聞いてドウするんだい。王君の親友が吾輩なんだから、大抵想像が付くだろう。序《ついで》に吾輩はこの船の機関長でも何でもない。だから最前から饒舌《しゃべ》り続けた経験談なんかは、ミンナ受け売りのゴッタ雑炊《ぞうすい》だ。トランクの中味がわかるまで君を釣っとくためのヨタだった……と云ったら、尚の事、焦点《フオカス》がハッキリしやしないか。ハッハッハッ……ナニ……日本のスパイ船……僕が参謀将校……ウフウフ。当らずと雖《いえど》も遠からずと云っておくかね。
 ……フーン。何だって、僕に秘密の相談がある? 何だ。云って見たまえ。ナニイ。聞いてる者が居ちゃ話せない。ウン。よしよし……。オイ。ボン州。こいつのオモチャを取り上げてくれ。モウ外《ほか》に何も持っていないな。万年筆と名刺だけか。よしよし。それだけ残しとけ。後で書かせる事があるかも知れないから……それから手前《てめえ》等はこの室《へや》を出て、扉《ドア》をピッタリと閉めておけ。用があったらベルを押すから……ナアニ。俺の事は心配するな。この坊ちゃんは話がよくわかっていらっしゃるんだからな……。
 サア。誰も居ない。鍵穴まで閉《ふさ》がっているんだ。その秘密の相談というのを聞こうじゃないか。何だ何だ。何だって服を脱ぐんだ。ハハア。裏に縫い込んだな。G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の指令か。フウン。暗号だな。ウム。とうとう白状したね。日本の参謀本部が喜ぶだろう。青紅嬢が日本の諜報勤務を馬鹿にし過ぎたから君がコンナ眼に合うんだよ。
 ……何だ。まだ着物を脱ぐのかい。まだ何か縫い込んであるのかい……アッ……。君は婦人ですな……。
 イヤッ……これあどうも……最前《さっき》から平気で色眼鏡を外したり、僕と一緒に男便所へ入ったりされるから真逆《まさか》と思っておりましたが……ハハア……貴女《あなた》がサイ・メイ・ロン君の青紅嬢で、同時にRの四号君。ウムムム。チットも知らなかった。イヤもう解りました解りました。ズボンは脱がなくともいいです。わかっております……アッ……。
 ……ま……待った待った。待って下さい。ここじゃ困ります。危険です危険です。実際危険なんです。ま……ま……まあ着物を着て下さい。発見《みつか》ると都合がわるい……早く服装を直して下さい。そうそう。それからの御相談です。そうそう……イヤ。Rの四号君が貴女《あなた》だと解れば、一番喜ぶのは日本の参謀本部でしょう。G《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の指令系統がわからなくて困っているらしいんですからね。貴女に敬意を表さして下さい。そうして一つ僕と握手して下さい。これでも理解《わかり》は早いつもりです。ヘヘヘ。そうですそうです。これでも金儲けのために働いているコスモポリタンですからね。世界中が独裁政治《ファシスト》と共産政治《ボルセビイキ》の二つに別れる……ドチラも金が儲からないとあれあコスモポリタンになった方が便利ですからね。世界中のインテリはみんな一種のコスモポリタン式エゴイストですからね。そうですそうです……貴女と握手すれば随分大きな金儲《しごと》が出来ます。
 済みませんがモウ一度腰をかけて下さい。ナアニ。外に聞えるもんですか。外の雑音の方が高いのですから……電流《でんき》が来ているなんて云ったのは嘘の皮です。寝台の下には誰も居りません。御心配なら僕の椅子を取り換えて上げましょう。御覧なさい。コードも何も付いていないでしょう。ハハハ……。……いいですか……耳を貸して下さい。とりあえずここで必要な事だけ話しておきますから。いいですか……この船の正体は最早《もはや》お察しでしょう。日本の参謀本部の無電一本でどこへでも行く船なんです。第一長崎へなんか行きやしません。嘘だと思われるならば甲板《デッキ》へ上って、羅針盤《コンパス》を覗いて御覧なさい。チャンと大連《たいれん》行きのコースを取っておりますから。実は大連からツイ今さっき無線電信が這入りましたのでね……この珈琲《コーヒー》茶碗の内側に電文が暗号で書いてあります。この通り飲み残りを傾けると同時に出て来るでしょう。……あっちで又、似寄りの仕事があるのです。やっぱり王君のような人間が網を張っておりますからね。……そればかりじゃない。貴女が専門家ならすぐに気が付くでしょう。この船がタッタ今出しかけている速力に……二十一|節《ノット》一パイに出しかけているところですからね。
 ……ね。貴女と僕の立場が容易でない事がわかったでしょう。国事探偵としての貴女と僕の地位は、大将と兵卒ぐらい違うのですが、ここ暫くの間は僕に任せて下さらないと困りますよ。いいですか。貴女は依然として遊離細胞のR四号君ですよ。そのつもりで何でも僕の云うなりになって下さらないと……そうそう……それじゃいいですね。
 とりあえず甲板《デッキ》の部屋へ帰りましょうね。あそこでユックリ御相談しましょう。ナアニ。この船の中では船長以下が僕の命令通りに動きますから、心配は要りません。問題は大連《たいれん》に着いてからです。大連から清津《せいしん》へ抜けて、あすこから浦塩《うらじお》へ抜ける途《みち》がありますから……露西亜《ロシア》語ならお手のものでしょう……ハラショ……済みませんがそのベルをモウ一度押して下さい。いくつでもよろしい。デッキの部屋へ二人分の寝床を支度させましょう。ヘヘヘ……オイ。ボン州、銀州、エテ公。チョット来い。用がある……ウン。扉《ドア》を閉めてこっちへ這入れ……。こいつを押さえろッ……その万年筆を取上げろッ……毒|瓦斯《ガス》らしいから……。
 アハハ。どうです。身動きが出来ないでしょう。僕の部下は素早いでしょう。ハハハ。お断りしておきますが、今まで云った事はみんな嘘です。この船は国際的ルンペン船でもなけあ、日本の諜報《スパイ》船でも何でもない。貴女はまだ御存じないでしょうが、日本と支那の間を、荷物船《カーゴボート》に化《ばけ》て往復しているG《ゲー》・P《ペー》・U《ウー》の海上本部K・G・M号です。そうして僕はこの船の船長ですよ。わかりましたか。ハハハ。……貴女がG・P・Uを裏切って、日本に隠れようとしていることを看破した王君が、取りあえず僕に引渡したんですが、お気の毒ながら……ナニ……僕の国籍? 名前……ヘヘヘ。今は日本語を使っているから日本人ですが、浦塩へ這入れば露西亜《ロシア》人で通りましょう。こいつ等は皆日本語のわかる朝鮮人ですが、国籍を持っている奴なんか一匹もこの船に居ないんですよ。……まあ……そんな事はどうでもよろしい。……ナニ……僕の日本語が巧妙《うま》過ぎる?……大きなお世話だ。お前さんの露西亜語ぐらいのもんさ。東京の寄席には漫談をやっている露西亜人が居るんだぜ。……ニチエウオ……オットその万年筆はソーッとその棚の上に置いとけ。落ちたら大変だぞ……そいつが恐ろしかったから呼んだんだ。序《ついで》に着物を引っ剥《ぱ》いでくれい。ナイフで切り裂いても構わない。そうだそうだ……。
 ハハハ……どうだ、驚いたか。女だろう。いい肉付きだ。
 ナアニ……可哀相も糞もあるもんか。スッカリ引っ剥《ぺ》がしてしまえ。着物はこの寝台の上に並べろ。靴も……ズロースも……俺が後で検査してやるから。まだ別に日本内地のG・P・Uの名簿と暗号の鍵を隠して在る筈だからな。コイツ奴《め》、日本の参謀本部に売り付ける了簡《りょうけん》で持って来やがったんだ。危ねえの何のって……。
 オット。痛い目を見せなくともいいんだ。女スパイには経験《おぼえ》があるんだ。これ位の女になるとモウこの上に泥を吐く気づかいはないんだ。それよりも身体《からだ》中をスッカリ調べろ。喰い付かれるなよ。誰か片手で頭の毛を掴んでろ。それからスパナか何か持って来て口をコジ開けるんだ。開けなけあそのナイフを噛ませて見ろ。強情な女《あま》だな……そうそう。金歯かアマルガムがあったらペンチで引っこ抜くんだ……血だらけで見えないか。懐中電燈を出せ。俺が見てやる……ウム。みんな綺麗な歯だ……よしよし……今度は鼻の穴だ……イイカ。唇をシッカリ抓《つま》んでろ。唾液《つば》でも吐きやがると穢《きたな》いからな……ちょっとこの電燈を持っててくれ。動かすんじゃねえぞ。反射鏡を使うんだから……ウム。何も無いと……耳の穴はドウダ。ウム。よしよし。チャント掃除してやがる。学生らしくもなかったな。ハッハッ。髪の毛の中はドウダ。何も無いか。よしよし。それでよしと……。
 そんならモウこの剥身《むきみ》に用は無いな。ハラショ。貴様達に呉れてやるから、そっちへ持って行って片付けろ……ナニ……。
 何だ何だ……モウ一つ云う事がある。云ってみろ。ハハア……貴方がたを疑って済まなかった。G・P・Uを裏切ったのじゃない。裏切った形にして東京の×××大使館へ重大な密書を運ぶんだ……成る程……密書の内容は?……ウム。上海《シャンハイ》の排日で……上海の排日で……それがどうした……オイ……シッカリしろ……サ……ブランデーを飲ましてやる……シッカリしろ。上海の排日がどうした……ウム。上海の排日で、世界大戦の導火線を作る見込みが充分に付いた……×××は他の国と同盟せずにキャスチングボートを握ってくれ。……御要求の利権を承認する旨、本国へ取次いでくれ……何だ。それあ南京政府の密書か……そうじゃない。蒋介石《しょうかいせき》の仕事か、フフウ、そいつあ問題が大きいぞ。……本文は万年筆の鞘《さや》に塗り込んである。これか……ナアル程。エボナイトじゃないわい。パラフィン塗りの紙細工か。ウマク細工したもんだ。……ウン。これが密書か。有難い有難い。コイツはドエライ金になるぞ。尤も若槻内閣へ売っちゃドッチミチ損だが……。ウム。ヤット本音を吐きやがった。……オイ姐《ねえ》さん。この船を密輸入目当ての海賊船たあ思わなかったかい。それよりもこの王さんの顔をモウ見忘れたのかい。チットばかり細工はしているが、あんまり見識《みし》り甲斐《がい》がなさ過ぎるじゃないか。眼付きを見ただけでも日本人とわかりそうなもんだが……アハハハ。姐《ねえ》さんにも似合わない。K・G・Mが海牛丸の洒落《しゃれ》と気付かなかったばっかりにスッカリ底をハタイちゃったね。フフフ……。
 ああくたぶれた。焦点《フオカス》が合わないので恐ろしく手間を喰わせやがった。女はドウモ苦手だ……ハハン……。モウいいから片付けちまえ。ホラッ……喰い付かれるなとタッタ今云ったじゃないか。見ろ……。
 ……オイオイ。扉《ドア》を開け放して行く奴があるか。馬鹿野郎。ハッハッ。アトは汽鑵《かま》へブチ込むんだぞ……ハッハッハッハッハッハッ……。



底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年3月24日第1刷発行
底本の親本:「冗談に殺す」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
※底本の「上海《シャンハイ》をを」「上海《シャンハイ》にに」をそれぞれ、「上海《シャンハイ》を」「上海《シャンハイ》に」に改めました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2004年1月5日作成
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