青空文庫アーカイブ
ココナットの実
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妾《わたし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古代|更紗《さらさ》のカアテンを引いて、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ういうい[#「ういうい」に傍点]しく
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妾《わたし》は今、神戸海岸通りのレストラン・エイシャの隅ッこに、ちょこりんと腰をかけている。油気のない前髪をういうい[#「ういうい」に傍点]しく垂らして、紫ミラネーゼの派手な振袖を着て、金ピカの塩瀬《しおぜ》を色気よく高々と背負《しょ》っているのだから、ウッカリした男の眼には十四五ぐらいにしか、うつらないでしょうよ。どうぞ、そのおつもりでネ……ホホホホホ……。
妾の手にはタッタ今ボーイさんが買って来てくれた号外が一枚載っている。これは今から三時間ばかし前に、ここから二三町先の海岸通りの横町で起った事件で、あちこちのテーブルに固まっている男のお客たちも首をつき合わせながら引っぱり合っている。西洋人までが鹿爪《しかつめ》らしく耳を傾《かし》げているせいか室《へや》の中が急にシンカンとなっている。妾もその中の大きな活字だけを拾い読みしてみると……この号外をここに挟んでおくわ……ごらんの通りトテモ大変な活字だらけなの……。
――財界のムッソリニ、高利貸王、赤岩権六《あかいわごんろく》氏粉砕さる――
――本日午後五時頃、同氏経営の通称ゴンロク・アパート前、海岸通横町街路上で――××党の爆弾か? 路面のアスファルトに二個の大穴――
――スバラシイ爆発の威力――同氏の遺骸と名刺、同氏乗用の自動車の破片八方に散乱し、該《がい》自動車の運転手とアパート勝手口附近事務室に残留せる女事務員二名惨死し、路上の男女数名即死重軽傷――十数間を隔てた十字路を整理中の交通巡査も打倒されて人事不省――電柱|其他《そのた》附近の店頭メチャメチャ――
――〔続報〕――事件後約一時間を経て出勤した同アパートの宿直|小使《こづかい》白木某は、五階に居住していた美少女エラ子(本名年齢等一切不明)のコック兼従僕にして身長七尺に近い印度《インド》人ハラムと称する巨漢が、同少女の寝室床上に一糸も纏わざる裸形《らぎょう》のまま、射殺されて居るのを発見――次いで同少女エラ子が情夫の××党員らしき青年と共に行方を晦《くら》まして居るらしい事が判明した――
――美少女エラ子は赤岩氏が一箇月ばかり前に何処《どこ》からか連れて来て匿《かく》まっている同氏の私生児で、今日まで固く口止されていた事実を小使の白木某が陳述した――
――同アパートは新築|匆々《そうそう》の為め、一階の事務室と、エラ子の居室のほか全部がガラ空《あ》きであった。――且《かつ》、爆発現状の目撃者が重傷、惨死、又は人事不省に陥っている為め目下の処、事件の真相について、何等の手がかりを得ず――
――警察当局は曰《いわ》く――××党とは絶対に無関係だ。赤岩氏が同アパートの空室《あきべや》に秘密運搬中の、鉱山用の火薬類が、取扱いの不注意の為めに発火したものと、少女エラ子に絡まる情痴関係の殺人が、偶然に一致したものでは無いか――爆弾ならば一発で効果は充分の筈である。路面に残っている二個の大穴が、何と云っても疑問の中心でなければならぬ――なお目下詳細に亘《わた》って取調中云々――
――疑問の美少女エラ子の行方は――正体は?――
妾《わたし》はフキ出してしまった。あんまりトンチンカンな記事なので、一人でゲラゲラ笑い出したらカフェーじゅうの西洋人や日本人が一時にこっちをふり向いた。帳場の男も註文を通しながら妾の横顔に、色眼みたいなものを使っている。だけど妾がこの事件のホントーの犯人で、疑問の少女エラ子だなんて事は一人も気付いていないらしい。何といったって妾のメーキァップは、やっと女学校に這入《はい》ったぐらいのオチャッピイにしか見えないのだから……。
そんな連中のポカーンとした顔を見まわしているうちに、妾はたまらなくユカイになってしまった。スコシ酔っているせいかも知れないけど……妾はわざっと黄色い声を出して、帳場の男に頼んでやった。
「……あのね。すみませんけど、レターペーパと鉛筆を貸してちょうだいナ……」
帳場の男が眼をパチクリさせた。兵隊みたいに固くなって、
「かしこまり……ました」
と云い云いすぐにペーパと万年筆を持って来てくれた。
妾は一気にペンを走らせはじめた。ジン台のカクテルをチビリチビリ飲みながら……。
……みんな面喰っているらしい。そんなことなんか、どうでもいいんだけど……。
あたしは事件の真相を発表する前にタッタ一こと書いておく光栄を有します。
妾がこの手紙を書き上げるまでには、まだどれくらい時間がかかるかわからないけど、その間にこのあたし……疑問の少女エラ子を見つける事が出来なければ、日本の警察も新聞記者も、みんなお馬鹿さんよ……って……ネ……。
大丈夫よ。誰も妾を捕まえに来やしないわよ。妾がここを出たあとでこの置手紙を見て騒ぎ出すぐらいがセキのヤマよ。
妾は本当の事を書いておきます。妾はつくづく神戸がイヤになってしまいました。シンカラお友達になってみたいと思う人が一人も居ない事がわかりました。ですからモウこれっきり[#「これっきり」に傍点]神戸に来まいと思って、タッタ一人でこのカフェーに乾盃をしに来たら、ちょうどコンナ号外が出たので、ツイ持ち前のイタズラ気《け》を出してしまったのです。
妾は今朝《けさ》早く窓際のベッドの中で眼を醒ました。前の晩に遅くまで遊んだ朝は、いつでも、おひる頃まで睡たいのに、今朝《けさ》はよっぽどどうかしていた。
妾は窓のカアテンを引いた。硝子《がらす》が一面にスチームで露っぽくなっていたから、手の平で拭いた。冷たかったので頭がハッキリとなった。
妾の室《へや》はゴンロク・アパートの五階だった。窓の外は神戸の海岸通りの横町になっていた。左手に胡粉絵《ごふんえ》みたいな諏訪山の公園が浮き出している。右手の港につながっている船の姿がまるで影絵のよう。その向うから冷たい太陽がのぼって、霜の真白な町々を桃色に照している。窓硝子が厚いから何の音もきこえない。
そんなシンカンとした景色を見ているうちに、妾はヘンに淋しくなって来た。何故っていう事はないけれど……こんな事は今までに一度もなかった。
妾は古代|更紗《さらさ》のカアテンを引いて、つめたい外の景色を隠した。思い切って寝返りをしてみた。
妾の寝台は隅から隅まで印度《インド》風で凝《こ》り固まっていた。白いのは天井裏のパンカアと、海月《くらげ》色に光る切子《きりこ》硝子のシャンデリヤだけだった。そのほかは椅子でも、机でも、床でも、壁でも、みんなアクドイ印度風の刺繍《ししゅう》や、更紗《さらさ》模様で蔽いかくしてあった。その中でも隣りの室《へや》との仕切りの垂れ幕には、特別に大きい、黄金色《きんいろ》のさそり[#「さそり」に傍点]だの、燃え立つような甘草《かんぞう》の花だの、真青な人喰い鳥だのがノサバリまわっていた。
その垂幕の間から、隣りの化粧部屋と、その向うの白い浴槽《バス》がホノ暗くのぞいている。浴槽《バス》の向うには鏡の屏風《びょうぶ》が立っている。そんなものの隅々にピカピカチカチカ光っている金銀だの、瀬戸物だのの装飾が、一ツ一ツにブルドッグ・オヤジ……妾の旦那になっている赤岩権六の金ピカ趣味をサラケ出していた。見れば見るほど淋しい、つまんないものばかりだった。
そのブルドッグ・オヤジの赤岩権六は、ゆんべ夜中に急用が出来て、諏訪山裏の本宅の白髪婆《しらがばばあ》のところへ帰った。だから妾は今朝《けさ》、一人ぼっちで眼を醒したのだった。
だけど妾がコンナに淋しいのはブル・オヤジが居ないせいじゃなかった。ブル・オヤジが百人出て来たって、妾の気持ちを、とり直すことなんか出来やしなかった。今までだってそうだった。今もそうに違いなかった。
妾はタッタ一人でベッドの上に長くなったまんま、暗いところへグングン落ち込んで行くような気もちになっていた。
妾はいつの間にか枕元のベルを押したらしい。入口の横の垂れ幕を押し分けて、コックのハラムがノッソリと這入って来た。
ハラムは印度人の中《うち》でも図抜けの大男だった。背の高さが二|米突《メートル》ぐらいあって左右の腕が日本人の股《もも》とおんなじ大きさをしていた。それがいつもの通り、妾の大好きな黄色い上等の印度服を引っかけて、おなじ色のターバンを高々と頭に捲き上げているばかりでなく、眼のまわりが青ずんで、瞳《ひとみ》がギョロギョロして、鼻が尖《と》んがって、腮鬚《あごひげ》や胸毛を真黒くモジャモジャと生《は》やしているのだから、ちょうどアラビアン・ナイトに出て来る強盗の親分みたいなスバラシサで、見上げただけでも気持ちがスーッとした。この印度人は故郷に居る時分からうらない[#「うらない」に傍点]が本職で、四十二歳の今日がきょうまで、何とかいうバラモンの神様に誓って、童貞を守っているのだ……と自分で云っていた。だけど色が黒いからホントだか嘘だかよくわからなかった。
妾は毎朝ブル・オヤジが帰ったあとで、誰も居なくなると、この男に抱かれてユックリお湯に入れてもらうのを何よりの楽しみにしていた。それは思いようによってはこの上もない、ステキな冒険に違いなかったから……。
けれどもハラムは妾の処に来た最初から、どこまでも柔順な妾の家来になり切っていた。今朝《けさ》もやっぱりいつも[#「いつも」に傍点]の通り憂鬱なまじめな顔をしながら、黒い逞ましい両腕を悠々とまくり上げて、妾をヤンワリと抱き上げてくれた。そうして赤チャンを扱うように親切に身体《からだ》を流して、新しいタオルで包んでくれた。
「今朝《けさ》はたいそう、お早う御座います……お姫《ひい》様……」
ハラムの日本語は、本物の日本人よりもズットお上品で、立派に聞えた。シンガポールの一流のホテルで日本人専門のボーイを志願して稽古したのだと云っていたが、発音がハッキリしている上に、セロみたいな深い響きをもっていた。
「……あたし……淋しいのよ……」
妾は濡れたまんまの両腕をハラムの太い首に捲きつけた。その拍子にハラムの身体《からだ》に塗りつけた香油の匂いがムウウとした。
ハラムはすこしビックリしたらしく、眼をまん丸にして、白眼をグルグルと動かしながら、高らかに笑いだした。
「ハッハッハッハッハッ。……おおかたお姫《ひい》様は……お腹がお空《す》きになったので御座いましょう」
妾はイキナリ、その毛ムクジャラの胸に飛び付いて、甘たれるように首を振って見せた。
「イイエイイエ。あたしチットモひもじかない。ゆんべ遅くまで色んなものを喰べたんだもの……それよりも妾ホントウに淋しいのだよ。お前にこうして抱っこされていてもよ……綱渡りの途中で綱が切れちゃって、そのまんま宙に浮いているような気もちよ。ドッチへ行ったらいいのか解んなくなったような気もちよ。教えておくれよ。ハラム、どうしたらいいんだか……」
妾はそう云いながらハラムの頸《くび》をヤケにゆすぶった。逞ましい脂切《あぶらぎ》った筋肉に、爪を掘り立てるくらいキツクゆすぶった。けれどもハラムはビクともしなかった。軽々と妾を抱えたまま長椅子の前に突立って、妾の顔をマジリマジリと見詰めているきりだった。
「……ヨウ……ハラムったら、教えてよう。どうして妾こんなに淋しいんだか……。お前は妾の家来じゃないか。何でも妾の云い付け通りの事をしてくれなくちゃダメじゃないの……お前はいつも妾の云いつけ通りに……」
ハラムがやっと表情を動かした。妾の瞳の底の底をのぞき込むように、青黒い瞳を据えたまま……赤い大きな舌を出して、口のまわりの鬚《ひげ》をペロリと甞《な》めまわした。そうしてシンミリとした、落ち付いた声を出した。
「……わかりまして御座います……お姫《ひい》様……何もかも運命で御座います」
ハラムは、そうした気持ちの妾を又も軽々と抱き上げて、ノッシノッシと歩きながら、室《へや》の真中に在る紫檀《したん》の麻雀《マージャン》台の前に来た。それは牌《パイ》なんか一度も並べた事のない、妾達の食卓になっていた。その前に据《すわ》っている色真綿《いろまわた》の肘掛椅子の中に妾の身体《からだ》を深々と落し込むと、その上から緞子《どんす》の羽根布団を蔽いかぶせて、妾の首から上だけ出してくれた。
ハラムのこんなシグサは、まったく、いつもにない事だった。けれども妾は別段に怪しみもしないで、される通りになっていた。今から考えると、その時の妾の恰好《かっこう》は、ずいぶん変デコだったろうと思うけど……。
そればかりじゃなかった。ハラムは平生《いつも》のようにパンカアを引き動かして、妾の身体《からだ》を乾かしてくれる事もしなかった。そんな事は忘れてしまったように、室《へや》の隅から籐椅子《とういす》を一つ、妾の前に引き寄せて来て、その上に威儀堂々とかしこまった。そうして塔のように捲き上げたターバンを傾けて、妾の瞳にピッタリと、自分の瞳を合せると、そのまま瞬《またた》き一つしなくなった。妾も仕方なしに、真綿の椅子の中で羽根布団に埋《うずま》ったまま、おなじようにしてハラムの顔を見上げていた。
籐椅子がハラムの大きな身体《からだ》の下でギイギイと鳴った。
その時にハラムは底深い、静かな声で、ユルユルと口を利きはじめた。妾の瞳をみつめたまま……。
「……何事も運命で御座います。妾は、お姫《ひい》様の運命をはじめからおしまいまで存じているので御座います。あなた様の過去も、現在も、未来の事までも、残らず存じ上げているので御座います。この世の中の出来事という出来事は、何一つ残らず、運命の神様のお力によって出来た事ばかりなのでございます」
ハラムの顔付きがみるみるうちに、それこそ運命の神様のように気高く見えて来た。ターバンのうしろに光っている海月色《くらげいろ》のシャンデリヤまでが、後光のように神秘的な光りをあらわして来た。それにつれてハラムの低い声が、銀線みたいに美しい、不思議な調子を震わしはじめた。
「……その運命の神様と申しまするのは、竈《かまど》の神、不浄場《ふじょうば》の神、湯殿の神、三ツ角《かど》の神、四つ辻の神、火の山の神、タコの木の神、泥海の神、または太陽の神、月の神、星の神、リンガムの神、ヨニの神々のいずれにも増して大きな、神々の中の大神様で御座いまする。その運命の大神様の思召《おぼしめ》しによって、この世の中は土の限り、天の涯《はし》までも支配されているので御座います」
妾はハラムの底深い声の魅力に囚われて、動くことが出来なくなってしまった。電気死刑の椅子に坐らせられて、身体《からだ》がしびれてしまったようになってしまった。大きな呼吸《いき》をしても……チョイト動いても、すぐに運命の神様の御心に反《そむ》いて、大変な事が起りそうな気がして来た。
そんなに固くなっている妾を真正面にして、ハラムは裁判官のように眼を据えた。なおも、おごそかな言葉をつづけた。
「……けれども……けれども……御発明なお姫《ひい》様は、今朝《けさ》から、それがお解りになりかけておいでになるので御座います。……お姫《ひい》様は今朝《けさ》から、眼にも見えず、心にも聞えない何ものかを探し求めておいでになるので御座います。……で御座いますから、そのようにお淋しいのでございます」
妾は返事の代りに深いため息を一つした。そうして今一度シッカリと眼を閉じて見せた。ハラムのお説教の意味がすきとおるくらいハッキリと妾にわかったから……。
ハラムは毛ムクジャラの両手を胸に押し当てて、黄色いターバンを心持ち前に傾《かし》げていた。その青黒い瞳をジイと伏せたまま、洞穴《ほらあな》の奥から出るような謙遜した声を響かした。
「……おそれながら私は、今日という今日までの間、運命の神様のお仕事が、お姫《ひい》様の御身《おみ》の上に成就致しまするのを、来る日も来る日もお待ち申しておったので御座います。それを楽しみに明け暮れお側にお付き添い申上げておったので御座います。眼に見えぬ運命の神様のお力を借りまして、あの赤岩権六様を、あなた様にお近づけ申し上げましたのも、かく申す私なので御座います。それから、あの共産党の中川さまを、お伽《とぎ》におすすめ致しましたのも、ほかならぬ私めが仕事で御座いまする。そうして、かように申しまする私が、赤岩様のお眼鏡に叶いまして、あなた様の御守役として、御奉公が叶いまするように取り計らいましたのも、皆、この私めが、私の霊魂を支配しておられまする神様の御命令によって致しました事なので御座いまする」
ハラムはここまで云いさすと、何故だかわからないけれどもフッツリと言葉を切ってしまった。つっ伏したまま黙りこくって、身動き一つしなくなった。それにつれて、その下の籐椅子の鳴る音が、微かにギイギイときこえて来た。運命の神様の声のように、おごそかに……ひめやかに……。
妾《わたし》は今までに泣いた事などは一度もなかった。人間が何人殺されたって、どんなに大勢からイジメられたって、悲しいなんか思ったことはコレッばかしもなかった。それだのにこの時ばっかりは、何故ともわからないまんまに、泪《なみだ》が出て来て仕様がなかった。ハラムのお説教とは何の関係もなしに胸が一パイになって来て仕様がなかった。何が悲しいのかチットモ解からないのに泣けて泣けてたまらなかった。
……すると、そのうちに何だか胸がスウ――として来たようなので、妾は羽根布団からヒョイと顔を出してみた。
両方の眼をこすって見るとハラムはまだ妾の前に頭を下げている。妾を拝むように両手を握り合わせて、両股を広々と踏みはだけている。そうして心の中《うち》で御祈祷か何かしているらしく、唇をムチムチと動かしている。
そうしたハラムの姿を見ているうちに、妾はフッと可笑《おか》しくなって来た。何だか生れかわったように気が軽くなって、思わずゲラゲラと笑い出してしまった。
ハラムはビックリしたらしかった。白眼をグルグルとまわしながら顔を上げて、妾の顔をのぞき込んだから、妾はもう一度キャラキャラと笑ってやった。
「……ハラムや御飯をちょうだい……」
「……ハ……ハイ……」
ハラムは面喰らったらしかった。妾のために一生懸命で、ラドウーラ様をお祈りしていた最中だったらしく、毒気を抜かれたように眼ばかりパチクリさせていた。
「それからね。御飯が済んだら、妾に運命を支配する術を教えて頂戴ね。自分の運命でも他人の運命でも、自分の思い通りに支配する術を教えて頂戴……あたし……悪魔の弟子になってもいいから……ネ……」
「……ハ……ハ……ハイ……ハイ……」
ハラムはイヨイヨ泡を喰ったらしかった。ムニャムニャと唇を動かしていたが、やがて、こんな謎のような言葉を、切れ切れに吐き出した。
「……運命の神様……ラドウーラ様の前には……善も……悪も……御座いませぬ」
「ダカラサ。何でも構わないから教えて頂戴って云ってるじゃないの……あたしの運命を、お前の力で、死ぬほど恐ろしいところに導いてくれてもいいわ」
ここまで云って来ると妾は思わず羽根布団を蹴飛ばしてしまった。妾のステキな思い付きに感心してしまって、吾《わ》れ知らず身体《からだ》を前に乗り出した。両手を打ち合わせて喜んだ。
「いいかい。ハラム。妾はまだハラハラするような怖い目に会った事が一度もないんだから、お前の力でゼヒトモそんな運命にブツカルようにラドウーラ様に願って頂戴……妾は自分で気が違うほど怖い眼だの、アブナッカシイ眼にだの会ってみたくて会ってみたくて仕様がないんだから」
「……ハイ……ハハッ……」
ハラムはやっと息詰まるような返事をした。
「その代りに御褒美には何でも上げるわ。妾はナンニモ持たないけど……妾のこの身体《からだ》でよかったらソックリお前に上げるから、八ツ裂きにでも何でもしてチョウダイ」
ハラムはイヨイヨ肝《きも》を潰したらしかった。眼の玉を血のニジムほど剥き出した。唇をわななかして何か云おうとした。……と思うと、その次の瞬間には、みるみる血の色を復活さして、身体《からだ》じゅうを真赤な海老茶色《えびちゃいろ》にしてしまった。口をアングリと開いて、白い歯をギラギラ光らせながら、思い切って卑《いや》しい……獣《けだもの》のような……声の無い笑い顔をした。
その顔を見ているうちに妾はヤットわかった。ハラムの本心がドン底までわかってしまった。ハラムは運命の神様のマドウーラ様から、この妾を生涯の妻とするように命令《いいつけ》られているに違いなかった。
ハラムはズット前から、妾に死ぬほど惚れ込んでいたに違いない。そうしてその悪魔みたいな頭のよさと、牡牛のような辛棒強さとで、妾の気象《きしょう》を隅から隅まで研究しながら、妾の心を捉える機会を、毎日毎日、一心にねらい澄ましていたにちがいない。
「オホホホホホ。おかしなハラム……そんなに真赤にならなくたっていいよ。妾は嘘を吐《つ》かないから……その代りお前も嘘を吐《つ》いちゃいけないよ」
ハラムは幾度も幾度も唾液を呑みこみ呑みこみした。御馳走を見せつけられた犬みたいに眼を光らせながら……。
「キット……キットお眼にかけます。ハイ。ハイ。私はお姫《ひい》様の奴隷で御座います。ハイ……私は……私はまだ誰にも申しませぬが、世にも恐しい……世にも奇妙なオモチャを二つ持っております。印度のインターナショナルの言葉で『ココナットの実』と申しますオモチャを二つ持っております。それは輸入禁止になっておりまする品物でナカナカ手に這入らない珍らしいもので御座いますが、私は、その取次ぎを致しておりまするので……」
「そのオモチャは何に使うの……云って御覧……」
ハラムは急に両手をさし上げた。いかにも勿体《もったい》をつけるように頭を烈《はげ》しく振り立てた。
「イヤ……イヤイヤイヤ。それは、わざと申し上げますまい。お許し下さいませ。只今はそれを申上げない方が、運命の神様の御心に叶うからで御座います。……しかし……それはもう間もなく、おわかりになる事で御座います。私はその『ココナットの実』を、きょう中に二つとも、ある人の手に渡すので御座います。その方は、お姫《ひい》様がよく御存じの方で御座いますが……そうしますると、その『ココナットの実』が、その方と、それから矢張り、お姫《ひい》様がよく御存じのモウ一人の方の運命を支配致しまして、お二方《ふたかた》ともお姫《ひい》様のところへは二度とお出《い》でになる事が出来ないような、恐ろしい運命に陥られる事になるので御座います。お姫《ひい》様の眼の前で……お身体《からだ》の近くで、そのような恐ろしい事が起るので御座います。そうして……そうして……お姫《ひい》様は……お姫《ひい》様は……」
「ホホホホホホ。キットお前一人のものになると云うのでしょう」
ハラムは真赤な上にも真赤になった。眼に泪《なみだ》を一パイに溜めた。口をポカンと開いて、今にも涎《よだれ》の垂れそうな顔をしたが、両手をさし上げたまま床の上にベッタリと、平蜘蛛《ひらぐも》のようにヒレ伏してしまった。
「もういいもういい。わかったよわかったよ。それよりも早く御飯の支度をして頂戴……お腹がペコペコになって死にそうだから……」
妾のお腹の虫が、フォックス・トロットとワルツをチャンポンに踊っていた。そこへ美しい印度式のライスカレーが一皿分|天降《あまくだ》ったら、すぐに踊りをやめてしまった。妾はお腹の虫の現金なのに呆れてしまった。それからハラムの御自慢の、冷めたいニンニク水をグラスで二三杯流し込んでやると、虫たちはイヨイヨ安心したらしく、グーグーとイビキをかいて眠り込んでしまった。だから妾もすぐに、寝台の上に這い上って、羽根布団にもぐり込んで寝た。死んだようにグッスリと眠ってしまった。
それから三時頃眼をさまして、羽根布団の中で焼き林檎《りんご》を喰べていると、いつの間に這入って来たのか、狼《ウルフ》が枕元に突立っていた。
狼《ウルフ》というのは最前ハラムが云った中川青年のことだった。左翼の左翼の共産党の中でも一等スバシコイあばれ者だと自分で白状していたが、それはハラムの童貞とおんなじにホントウらしかった。青黄色い、骸骨みたいに瘠せこけた青年で、バラバラと乱れかかった髪毛《かみのけ》の下から、眼ばかりが薄暗く光っていた。唇だけが紅《べに》をつけたように真赤なのもこの青年の特徴だった。
このウルフ青年は妾に、いろんな事を教えてくれた。インキの消し方だの、音を洩らさないピストルの撃ち方だの、台所にある砂糖とか、曹達《ソーダ》とかいうものばかりで出来る自然発火装置だの、ドブの中に出来る白い毒石の探し方だの……そんなものは、みんな印度のインターナショナルの連中から伝わったので、共産党の仕事に入り用なものばかりだと云って、得意になって話してくれた。けれどもカンジンの共産党の主義の話になると、ウルフの頭がわるいせいか、まるっきりチンプンカンプンなので困ってしまった。ウルフはただ小器用なのと、感激性が強くて無鉄砲なだけが取《と》り柄《え》の人間らしかった。
「……だから僕は一文も無いのだ。おまけに親ゆずりの肺病だから、生命《いのち》だってもうイクラもないようなもんだ。その上にあんたから毎日こうして虐待されるんだからね」
ウルフはいつも詩人らしい口調でそう云っては、黒ずんだ歯を見せて薄笑いをした。きょうも散々《さんざん》パラ遊んだあげくに、もとの寝台にかえってさし向いになると、又おんなじ事を云ったから、妾は思い切って冷かしてやった。
「又はじまったのね。あんたのおきまりよ。ナマイダナマイダナマイダって」
ウルフは慌てて手を振った。妾の言葉を打ち消しながら、やはり薄笑いをつづけた。
「……そ……そうじゃないよ。エラチャン。そうじゃないったら。だから……僕はだから、生命《いのち》のあるうちに、何か一つスバラシイ、思い切った事をやっつけなくっちゃ……」
「……また……生命《いのち》生命《いのち》って……そんなに生命《いのち》の事が気になるのだったら、サッサとお帰んなさいよ」
妾から、こう云われると、ウルフは急にだまり込んで、うなだれてしまった。寝台の向う側に妾の爪先とスレスレにかしこまったまま、それこそ狼《ウルフ》ソックリのアバラ骨を薄い皮膚の下で上げたり下げたりして、一生懸命に咳《せき》を押え押えしていた。
「エラチャンは肺病は怖くないかい」
「チットモ怖かないわ。肺病のバイキンならどこでもウヨウヨしている。けれども達者な者には伝染しないって本に書いてあるじゃないの。妾その本を読んだから、あんたが無性に好きになったのよ。あんたが肺病でなけあ、妾こんなに可愛がりやしないわ。妾はあんたが呉れた赤い表紙の本を読んでいるうちに、あんた以上の共産主義になっちゃったのよ。……あんたが妾にサクシュされて、どんな風にガラン胴になって、ドンナ風に血を吐いて死んで行くか、見たくって見たくってたまんなくなったのよ。だからこんなに一生懸命になって可愛がって上げるのよ」
妾がこう云って笑った時の狼《ウルフ》の顔ったらなかった。蒼白く並んだ肋骨《ろっこつ》を、鬼火のように波打たして、おびえ切ったウツロ眼《め》から泪《なみだ》をポトリポトリと落しはじめた。泣くような……笑うような皺《しわ》を顔中に引き釣らして泪の流れを歪《ゆが》みうねらせた。……と思うと不意に妾の両脚の間の、真白なリンネルの上に、骨だらけの身体《からだ》を投げ伏せて、両手をピッタリと顔に押し当てた。
妾はハッとして起き直った。血を吐くのじゃないかしらんと思った。そのモジャモジャと乱れ重なった髪毛《かみのけ》の下を、ドキドキしながら見守っていた。しかし、そうじゃないらしい事が間もなくわかったので、妾はガッカリしてしまった。
ウルフは、差し出した妾の手をソッと押し退《の》けた。そうして泪でよごれた顔を手の甲で拭《ぬぐ》い拭い寝台から降りて、長椅子の上に投げ出した洋服を着はじめた。
けれども継《つ》ぎ継ぎだらけのワイシャツとズボン下を穿《は》いて、黒いボロボロのネクタイを上手に結んでしまうと、ウルフは、穴だらけの黒靴下を両手にブラ下げたまま、又、ジッとうなだれて考えはじめた。
すると、そのうちにジッと考え込んでいたウルフは、何と思ったか両手に提《さ》げていた古靴下を麻雀台の上に投げ出した。髪毛《かみのけ》をうしろにハネ上げて、入口の扉《ドア》の方へヒョロヒョロと近づいた。そこの棚の上に置いてある黒い風呂敷包みを丁寧にほどいて、新しい食パンの固まりを二つ、大切そうに取り出した。そうして、その一つを両手で重たそうに抱えながら引返して来て、寝ころんでいる妾の眼の前に突きつけた。
「これは……約束の品です」
「ナアニ。コレ……食パンじゃないの」
ウルフはニヤニヤと笑い出した。笑いながらパンの横腹を妾の方に向けて、そこについている切口を、すこしばかり引き開けるとその奥にテニスのゴム毬《まり》ぐらいの銀色に光る球《たま》が見えた。ところどころに黒いイボイボの附いた……。
「アッ……コレ爆弾、アブナイジャないの、こんなもの」
「エラチャンは……この間……云ったでしょう。日暮れ方にこの窓から覗いていると、あのブルドッグの狒々《ひひ》おやじが、往来を向うから横切って、妾の処へ通って来るのが見える。その威張った、人を人とも思わぬ図々しい姿を見ると、頭の上から爆弾か何か落してみたくなるって……」
「ええ……そう云ったでしょうよ。今でもそう思っているから……」
「その時に僕が、それじゃ近いうちにステキなスゴイのが仲間の手に這入るから、一つ持って来て上げましょう。その代りにキット彼奴《あいつ》の頭の上に落してくれますかって念を押したら、貴女《あなた》はキット落してやるから、キット持って来るように……」
「ええ。そう云ったわ。タッタ今ハッキリと思い出したわ」
「その約束をキット守って下さるなら、このオモチャを……おいしい『ココナットの実』を貴女に一つ分けて上げます。どうぞ彼奴《あいつ》に喰べさしてやって下さい。あいつは財界のムッソリニです。彼奴《あいつ》はお金の力で今の政府を押え付けて、亜米利加《アメリカ》と戦争をさせようとしているんです。現在の財界の行き詰りを戦争で打ち破ろうと企んでいるのです。日本は紙と黄金の戦争では世界中のどこの国にも勝てない。下層民の血を流す鉄と血の戦争以外に日本民族の生きて行く途《みち》はない。不景気を救う道はないと高唱しているのです。彼奴《きゃつ》はこの世の悪魔です。吾々の共同の敵なのです……彼奴《あいつ》は……イヤあなたの旦那の事を悪るく云って済みませんが……」
「……いいわよ……わかってるわよ。そんな事どうでもいいじゃないの。もうジキ片付くんだから……」
「……大丈夫ですか……」
「大丈夫よ。訳はないわ。あのオヤジはここへ来るたんびにキット、この窓の真下の勝手口の処で立ち止まって汗を拭くんだから……そうして色男気取りでシャッポをチャンと冠《かぶ》り直して、ネクタイをチョット触ってから勝手口の扉《ドア》を押すのが紋切型になっているんだから、その前に落せば一ペンにフッ飛んでしまうかも知れないわね。そうしたら、なおの事おもしろいけど……ホホホ……」
妾がこう云うとウルフはチョット心配そうな顔をした。室《へや》の中をジロジロと見まわしたが、鉄筋コンクリートの頑丈ずくめな構造に気が付くと、やっと安心したらしく妾の顔を見直した。真赤な唇を女のようにニッコリさせつつ、無言のまま、ウドン粉臭いパンの固まりを私のお臍《へそ》の上に乗っけた。その無産党らしい熱情の籠《こ》もった顔付き……モノスゴイ眼尻の光り……青白い指のわななき……。
本当を云うと妾《わたし》はこの時に身体《からだ》中がズキンズキンするほど嬉しかった。約束なんかどうでもいい……こんなステキなオモチャが手に這入るなんて妾は夢にも思いがけなかった。妾はウルフに獅噛《しが》み付いて喰ってしまいたいほど嬉しかった。丸い銀の球《たま》を手玉に取って、椅子やテーブルの上をトーダンスしてまわりたくてウズウズして来た。
けれども妾は一生懸命に我慢した。その新しいパンの固まりを、お臍の上に乗っけたまま、ソーッとあおのけに引っくり返った。その中の銀色の球《たま》の重たさを考えながら、静かに息をしていると、そのパンの固まりが妾の鼻の先で、浮き上ったり沈み込んだりする。その中で爆弾が温柔《おとな》しくしている。そのたまらない気持ちよさ。面白さ。とうとうたまらなくなって妾は笑い出してしまった。
あんまりダシヌケに笑い出したので、ウルフは驚いたらしかった。靴を穿きかけたまま妾の処へ駈け寄って来て、妾のお臍の上から辷《すべ》り落ちそうになっているパンの固まりをシッカリと両手で押え付けた。サッキのように、おびえて、ウツロな眼付きをしいしいパンの固まりを抱え上げて、妾の寝台の下に並んでいる西洋酒の瓶《びん》の間に押し込んだ。ホッと安心のため息をしいしい立ち上り、又服を着直した。靴穿きのまま、ダブダブのコール天のズボンと上衣《うわぎ》を着て、その上から妾の古いショールをグルグルと捲き付けた。その上から厚ぼったい羊羹《ようかん》色の外套《がいとう》を着て、ビバのお釜帽《かまぼう》を耳の上まで引っ冠せた。それから膝をガマ足にして、背中をまん丸く曲げて、首をグッとちぢめると五寸ぐらい背が低くなった。どっちから見てもズングリした、脂肪肥りのヘボ絵かきぐらいにしか見えなくなった。
妾はいつもながらウルフの変装の上手なのに感心してしまった。口をへの字なりにして頬の肉をタルましたりしている顔付きのモットモらしいこと……妾だって往来のまん中でウルフを見つける事は出来ないだろうと思った。
そのうちに厚ぼったい手袋のパチンをかけたウルフはヨロヨロと入口の方へ歩いて行った。もう一つのパンを黒い風呂敷包みにつつみ直して、大切そうに小腋に抱えると、扉《ドア》を静かに開いて廊下に出たが、扉《ドア》を閉めがけに今一度、共産党らしい、執着に冴えた眼の光りを妾の顔に注いだ。そうして念を押すように淋しくニッコリと笑いながら扉《ドア》を閉じた。
その足音を聞き送ると、妾は、枕元のスイッチをひねってシャンデリヤを消した。パジャマと羽根布団で身体《からだ》を深々と包みながら、横のカアテンを引いた。硝子窓を開いて首を出した。
窓の外はもう夕方で、山の手の方から海へかけて一面に灯《ひ》がともっている。そのキラキラした光りの海を青い、冷たい風が途切《とぎ》れ途切れに吹きまくって、横町から五階の窓まで吹き上げて、妾の頬を撫でて行くのがトテモ気持ちがいい。スチームのムンムンする室《へや》に居るよりも、窓からスーッと飛び出して、冷たい風の中を舞いまわった方がいいと思った。
そう思いながらも、妾はジッと瞳を凝《こ》らして、真下に在るアパートの勝手口の処を見ていた。今のウルフの中川が、どんなに巧みな歩き方をして、街を横切って行くか見たかったから……そうして街を横切ってしまわないうちに、そこいらにウロ付いている私服に掴まったら……その時にあの爆弾を投げ付けたら……モウモウと起る土けむり……バラバラ散り落ちる家々の硝子窓……転がる首……投げ出す手……跳ね飛ぶ足……乱れ散る血しお……ホンモノの素晴らしいトオキー……。
ところが眼の下のスクリーンはなかなか妾の思う通りに進展しなかった。狼《ウルフ》の中川は待っても待っても往来に姿をあらわさなかった。気が付いてみるとサッキからエレベーターの音がチットモ響いて来ないのは、もしかすると、どこかに故障が出来ているのかも知れない。だから中川はコツコツと階段を降りて行っているのかも知れないと思った。あとから考えるとこの時にハラムが何かしら運命の神様にお祈りをしているのを、薄々気付いていたようにも思うけど……。
妾は寒い往来を辷りまわる自動車を、あとからあとから見送っているうちに、鼻の穴がムズ痒《がゆ》くなって来た。今にもクシャミが出そうになったから、慌てて窓から首を引っこめようとした。
するとその時だった。そんな自動車の群れの中から、見おぼえのある新型のフォードが眼の下のアパートの勝手口にスルスルと近付いた……と思うと、その中からブルドッグ・オヤジの黒い外套が茶色の中折れを冠り直しながらヒョロヒョロと降りて来た。その足どりを見るとかなり酔っているらしく、石段の前に立ちはだかって、もう一度帽子を冠り直しながら、あぶなっかしい手付きでネクタイを直し初めた。すると又それと殆んど同時に勝手口の扉《ドア》が開いたらしく、ウルフの猫背の姿がヨタヨタと石段を降りて来たが、その拍子に、這入りかけて来るブル・オヤジと真正面から衝突してしまった。
妾はハッとした。今にも爆弾が破裂するかと思って、首を引っこめる心構えをした。けれども爆弾は破裂しなかった。
妾は生唾《なまつば》をグット呑み込んだ。あんまり出来事が不意打ちで案外だったので、正直のところ胸がドキドキした。けれども、それが静まって来ると、一緒に、こうした不意打ちの出来事の原因がハッキリと妾にわかって来た。これは運命の神様のイタズラに違いないということが……。
運命の神様ラドウーラの御つかわしめ[#「御つかわしめ」に傍点]になっているハラムは、ツイ今しがた妾の処からウルフが帰りかけたのを見るや否や、どこかでお酒を飲んでいるブル・オヤジに何かしら大変な急用を知らせたに違いない。ことによると昇降器に故障が出来たのもラドウーラ様がハラムに御命令遊ばしたトリックの一つかも知れない。そうしてウルフの帰りを手間取らして、妾の旦那と色男が、わざっと妾の眼の下の往来でブツカリ合うように時間を手加減なすったのかも知れない。
そう思いながら腋の下の寒いのも忘れて一心に見とれていると、ブルとウルの二人は、だしぬけにブツカリ合ってビックリしたらしく一寸《ちょっと》の間《ま》、睨《にら》めくらをしているようであったが、そのうちにブル・オヤジはツカツカと二三歩踏み出した。……と……いかにも傲慢らしくウルフの肩に手をかけて二三度グイグイと小突きまわした。けれどもウルフは、それに対して手向いも何もせずにヨロヨロとよろめきまわっている。左手の黒い包みをシッカリと握り締めたまま……。
妾はこんな面白い光景を見た事がなかった。あの包みが直ぐ横の電柱か、自動車の横腹にぶつかったら……と思うと、何度もハラハラさせられた。
ところが不思議な事に、二人はそのまま別れて行かなかった。
ブル・オヤジはウルフを睨み付けたまま、右手をあげて合図をすると、自動車の中から、菜葉《なっぱ》服に鳥打帽の、肩幅の広い運転手が降りて来た。この運転手はブル・オヤジが用心棒に雇っている相馬という男で、刑事の経験がある上に、柔道を四段とか五段とか取る恐ろしい人だとハラムがいつぞや話して聞かせた。本当だか嘘だかわからないけども、何しろブル・オヤジがまん丸く膨れて、赤い浮標《ブイ》のようにフラフラしているのに、片っ方の運転手は弗箱《ドルばこ》みたいに重々しくて真四角い恰好をしているから、見かけだけでも頑固らしい。おまけに、そればかりでなく、その男が自動車の手入れをする姿のままで来たのだから、何でもヨッポド素敵な大事件を耳にしてフル・スピードで飛び出したとしか思えない。そうして何かしら思い切った冒険を覚悟してここへ乗り付けたものに違いない。……と思う間もなく相馬運転手は、今まで自動車の中からウルフに差し向けていたらしいピストルをキラリと菜葉服のポケットに落し込みながら、直ぐにウルフのうしろに廻って、両方の手首を黒い包みごとシッカリと押え付けてしまった。
それを見るとそこいらを通りかかっている三四人の洋服男が立ち止まって見物し出した。ズット向うの四ツ辻に突立っている交通巡査も、こっちの方を注意しはじめた。
妾はブル・オヤジの大胆なのに呆れてしまった。おおかたブル・オヤジは相手の正体を知らないでいるのだろう。よしんば正体を知っているにしても、その相手が持っている黒い包みの中味ばっかりは知っていよう筈がない……だから自分の経営しているビルデングから出て来た怪しげな浮浪人を咎《とが》めるくらいのつもりでいるのじゃないかしら……と考えているうちに、吹き荒《すさ》んでいた風が突然ピッタリと止んで、ブル・オヤジの大きな怒鳴り声が、五階の上から見下している妾のところまで聞えて来た。
「……俺は貴様の正体ぐらい、トックの昔に知っているぞ。貴様はお尋ね者の……だろう」
妾は夢中になって身体《からだ》を引っこめかけた。ブル・オヤジが、わざと云わなかった名前が相手にハッキリ通じたに違いないと思った。それと同時にウルフが正体をあらわすにちがいないと思った。今にも運転手の強力《ごうりき》に押えられている両手を振り切って、黒い包みを相手にタタキ付けるかと、息を詰めて身構えていたが、ウルフは矢張り、そんな気振りをチットモ見せなかった。ブル・オヤジからそう云われると同時に、意気地《いくじ》なくグッタリと首をうなだれてしまった。
ウルフのそうした姿を見ると、ブル・オヤジは、なおのこと大きな声でタンカを切り出した。
「貴様等の秘密行動は一から十まで俺の耳に筒抜けなんだぞ。日本の警察全体の耳よりも俺の耳の方がズット上等なんだぞ。貴様がこのごろここへ出這入りし初めた事も、タッタ今、貴様の変装と一緒に、或る方面から電話で知らせて来たんだ。だから俺は大急ぎで飛ばして来た。貴様の面《つら》を見おぼえに来たんだ。いいか……」
「……………」
「……敵にするなら敵でもいい。貴様等の首を絞めるくらい何でもない。論より証拠この通りだ。貴様等みたいな青二才におじけ[#「おじけ」に傍点]て俺の荒仕事が出来ると思うか。しかし、きょうは許してやる。俺の可愛い奴のために見のがしてやる。ここで出会ったんだから仕方があるまい」
「………………」
「行け…………」
ブル・オヤジが、こう云うのと一緒に、ウルフの両手を掴んでいた運転手が手を離して、グルリと相手の横ワキへまわった。その菜っ葉服のポケットの中でピストルを構えているのが真上から見ているせいか、よくわかった。
けれどもウルフは行かなかった。その代りに今まで猫背に屈《かが》まっていた身体《からだ》をシャンと伸ばすと、共産党員らしい勇敢な態度にかわって、ブル・オヤジの真正面にスックリと突立った。二人はそのまま睨み合いをはじめた……。
妾は何だかつまんなくなって来た。
睨み合っている二人はお互いに、お互い同志の事を知り過ぎるくらい知り合っているのだった。それでいてこの妾に気兼ねをしているために、何んにも手出しが出来ずにいるのだった。
妾は窓から首を引っこめて、大きなクシャミを一つした。寝台の下に手を入れて、コロコロ倒れる瓶の間から、重たいパンの固まりを取り上げると、その横腹をやぶきながら、もう一度窓の下をのぞいてみた。
五階の下の往来では二人がまだ睨み合っている。見物人も元の通りに四五人突立っている。その真上に重たい銀色の球《たま》をさし出して手を離しながら、すばやく窓を閉めて、耳の穴に指を突込んだ。建物の全体がビリビリとふるえた。
……それだけだった……けれども、タッタそれだけで、妾は身体《からだ》中が汗ビッショリになるほど昂奮してしまった。
それから何十分ぐらい経っていたか、わからなかった。
隣りの室《へや》の仕切りの大きな垂れ幕の裾にハラムの全裸体《まるはだか》の屍骸が長々と横っていた。その横の化粧部屋で、妾は久し振りにお垂髪《さげ》に結《ゆ》って、新しいフェルト草履《ぞうり》を突っかけながら、振り袖のヨソユキと着かえていた。
それはウルフが四五日前に教えてくれたピストルの無音発射の試験を実地にやってみて、成功したばかしのところだった。妾の寝台の上にだらし[#「だらし」に傍点]なく眠りこけていたハラムの真黒い、おおきな腹の弾力が、妾の小さなブローニングの爆音を、あらかた丸呑みにしてくれたのだった。反動がずいぶん非道《ひど》くてビックリしたけども、逆手《さかて》に持った引金の引き方をウルフから教わっていたので、指を折るようなヘマな事はしなかった。その代りに手の中から飛び出したピストルが天井にぶつかって、風車のように廻転しながら床の上に落ちて、又も二三べんトンボ返りを打った。
ハラムはそのあとからワレガネみたいな悲鳴をあげて床の上に転がり落ちた。そのまま絨毯の上をドタリドタリとノタ打ちまわると、それにつれて真赤な帯がグルグルとハラムの胴体に巻き付いて行った。
ハラムは、その間じゅう息詰まるような唸り声をあげつづけた。
「……オヒイ……サマ……オオオヒイ……サマア……アア……アア……」
妾はそれを見下しながら麻雀台の傍に突立っていた。「恋」というものの詰らなさ……アホラシサをゾクゾクするほど感じさせられながら、シンミリした火薬の煙と、腥《なまぐさ》い血の匂いの中に立ちすくんでいた。百五十キロもある大きな肉体が、椅子やテーブルを引っくり返して転がりまわるのを見守っていた……まだ死なないのか……まだ死なないのか……と思いながら……。
底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年3月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:浅原庸子
2004年2月19日作成
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