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無系統|虎列剌《コレラ》
夢野久作

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《》:ルビ
(例)這入《はい》った

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(例)無系統|虎列剌《コレラ》

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(例)……毒殺!!![#「!!!」は横1文字]
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 法医学者の不平を話せ。新聞に書くからって云うのかね。
 アハハハハ。御免|蒙《こうむ》ろうよ。不平が云いたい位なら最初からコンナ仕事に頭を突込みやしないよ。モトモト物好きで這入《はい》った研究なんだから今更、不平を云ったって初まらないだろう。新聞になんか書かれたら、いい恥晒《はじさら》しだぜ。書いちゃいけないよ。いいかい。
 ウン。といってそれあ在るには在るよ。
 第一法医学なんていう名前からして不平だ。コンナ馬鹿馬鹿しい名前はないよ。
 たしか明治二十四五年頃に、大先輩の片山先生が附けられた名前だと思うが、悪く云っちゃ相済まないんだがね。その前には鑑定医学、断訴《だんそ》医学、裁判医学なんて呼ばれていたもんだ。むろんソンナ名前の一つだって吾々の仕事を引っくるめた意味を含んだものはない。名前なんてドウでもよさそうなもんだが、妙なもんだね。自分の仕事を意味しない名前の学問を研究していると、石炭掘りに来て芋を掘らせられるような気がするよ。
 現在当大学では吾輩の監督の下に、解剖、血清、細菌、検診、毒物、精神病、心理、詐病《さびょう》鑑定、災害検診なんて仕事を研究しているにはいるんだが……この範囲なら「法医学」と名附けられても文句はないんだが、それ位の研究じゃナカナカ責任は果されないんだ。
 要するに、あらゆる科学智識を、百科全書式に応用して、法律上の諸問題を解決するっていうんだから、手ッ取早く云えば所謂《いわゆる》、名探偵の助手みたいなもんだよ。
 小説なんかに出て来る西洋の名探偵は、吾々が大勢がかりで、手を分けて研究している仕事をタッタ一人で研究し、知りつくしているんだから驚くよ。ソンナ頭脳《あたま》がこの世に在り得るか、どうかという事からして問題だと思うがね。しかも、そいつを非常な機智と胆才でもって犯罪事件に応用して、的確に事件の真相を看破して行くんだから、名探偵の仕事ってものは頗《すこぶ》る痛快な仕事に相違ないがね。吾々の仕事となるとナカナカそうは行かないんだ。医学関係の問題だけでも研究の余地が無限に拡がっているのに、医学以外のありとあらゆる不可思議現象に対して、責任ある断定を下さなければならないから往生するよ。
 チョット呼ばれて裁判所に行っていると、この証文の墨色の真偽を鑑定しろと来るんだ。マルッキリ医者の仕事じゃないやね。
 この帽子を冠った奴の職業と年齢を問う。この蠅は生後何箇月ぐらいで如何なる処に発生したるものなりや……なんかと来る。今に火星人類の指紋の有無を尋ねられるんじゃないかと思ってビクビクするね。しかもそのたんびに宣誓させられるんだから遣《や》り切れないよ。法医学部専門の大英百科全書を買ってくれと、毎年毎年予算に出してはいるがね。ナカナカ買ってくれないので困っているんだ。イヤ、笑いごとじゃないんだよ。大英百科全書を引っくり返せば直ぐにわかる事を、ワザワザ吾輩の処へ尋ねに来る裁判所や、警察があるんだからね。チョイチョイ……。
 その癖、鑑定は鑑定だけで、事件の真相になんか触れさせないまま追払《おっぱら》われる事が、極めて多いんだ。吾々に支払う蚊の涙ほどの鑑定料が惜しいのかも知れないが、余計なところには一切|喙《くちばし》を容《い》れさせないのだから詰まらない事|夥《おびただ》しい。
 吾々だって人間だあね。紛糾した事件の一端を聞くと、直ぐに事件の真相に突込みたくならあね。憎い犯人をタタキ上げてみたくもなろうじゃないか。それを犯人の足跡の鑑定だけさせられて追払《おっぱら》われたんじゃ、鰻丼《うなぎどんぶり》の臭いだけを嗅がされたようなもんだ。

 悪く云う訳じゃないが、裁判官だの、警察官なんてものは、めいめいに自分の専門の法律とか、犯罪に対する第六感とか、多年の経験とかいう、所謂、犯罪関係の高等常識ばかりに凝《こ》り固まっているんだから、普通一般の社会に関する高等常識にはドッチかというと欠けている傾きがあるね。
 たとえば若い女が自殺したと聞くと、直ぐに恋愛関係じゃないかと疑いをかける。ストライキを起すとスワコソ社会主義という風に、手近い経験から来た概念的な犯罪常識をもって、一直線に片付けて行こうとする癖があるようだね。だから、その概念が間違っていたら運の尽きだよ。事件は片《かた》ッ端《ぱし》から迷宮に這入って行くんだからね。
 コンナ事件があるんだ。
 君も知っているだろう。ツイ近くのB町に起った虎列剌《コレラ》事件を……知っているが立消えになったから真相は知らないと云うのか。警察に尋ねたけれどもわからない……ウンウン。わからない筈だ。あれは大きな声では云えないが警察と裁判所の大失態だからね。ちょうど去年の秋の大演習を控えて、行幸《ぎょうこう》を仰ごうという矢先だったもんだから県下一般、大狼狽を極めたらしいんだが、ソイツが立消えになった。そのまま行幸を仰いだというのだから、ドチラにしても責任は重大だろう。たしか県会で、警察当局が真相を質問されて、ギュウギュウ云わされたって話だ。
 その真相というのは実に他愛のない、一場のナンセンス劇みたいなもんだがね。
 君も知っている通り、B町っていうのは田舎のちょっとした町だ。あれで人家が二百戸ぐらい在るかなあ。
 あの町の中央の警察署の隣家《となり》に斎藤という、長い天神髯を生やした開業医がある。年はもう六十近かったがナカナカ人格者という評判でね。五十ぐらいの奥さんと二十五六の一人息子の三人暮しだ。この一人息子は当大学出身の医学士で、M内科の副手になって論文を書いている秀才……という訳だ。
 その天神髯の斎藤さんの飲み友達で、町外れの一軒屋に開業している西木という独身の獣医が在る。その娘で去年女学校を出たばかりの才媛……だったか、どうだか知らないが、とにかくステキな別嬪《べっぴん》さんと、斎藤さんの息子の医学士と、早くから婚約が出来ていたんだね。博士になったら帰って来て父の業を継ぐ。同時に正式に結婚するという訳でね。よくある話だ。

 ところが去年の夏だ。六月だっけか暑い晩に、天神髯の斎藤さんが、親友の西木獣医の処へ押しかけて行って、娘さんのお酌で酒を飲んだ。鰯《いわし》のヌタに蒲鉾《かまぼこ》が肴《さかな》だったというが、二人とも長酒で、そんな場合はいつも徹宵《てっしょう》飲み明かすのが習慣だったので、娘さんは肴に心配をして近所の乾物屋から干鰯を買って準備していたというね。
 ところがその晩に限ってどうしたものか二人とも、宵の口から口論を初めて、十一時頃にはモウ寝てしまった。斎藤さんがこの西木獣医家の蒲団に寝たのはこの時が初めてだったそうだがね。
 議論は何でも国体に関する問題で、政党は必要だ。イヤ。不必要だ……といったような二人でよく遣る議論だったそうだが何しろ二人とも酔っ払っている上に、聞いていたのが若い娘さんだったもんだからドッチがドウ主張し合っているんだか、だんだんわからなくなってしまった。しまいには、お互の家庭教育の攻撃し合いになってソンナ奴の娘は貰わん。遣らん……というところから取っ組み合いになったので、仰天した娘さんが仲裁に這入って二人とも寝かし付けた。斎藤さんは近い処だから帰ると云ったが、ベロベロに酔っ払って危いので、ともかくもお迎えに奥さんが見えるまでという訳で欺《だま》して寝かし付けた。二人は寝てまでも「貴様は国賊だ」「何が国賊だ」と罵り合いながら睡ったというんだが、今も云う通り、若い娘さんが聞いたんだからね。その議論がドレ位の深刻さで闘わされたものか、わかりゃしないやね。

 ところがその夜中になって大変な事が持上った。天神髯の斎藤さんが、恐ろしく苦悶し初めてスバラシク吐瀉し続けて人事不省に陥った。熱は出ていないが見る見るうちに脈が悪くなって、ビクビクと痙攣《けいれん》を起して固くなってしまった。まだ息の在るうちに、その皮膚を獣医の西木さんが抓《つま》んでみたら全く弾力を失ってしまっていたというんだ。
 サア大変だ。コレラだというので、西木先生ステキに狼狽したんだね。時を移さず警察へ報告したので、B町中が忽ち引っくり返るような騒ぎだ。何しろB町は今秋の大演習の御野立所《おのたちじょ》になる筈だったんだからね。西木、斎藤の両家は勿論のこと、前の日に斎藤さんの診察を受けた患者の家も勿論のこと、ヌタの材料を売った魚屋から、斎藤さんが喰いもしない干鰯を売った乾物屋まで、疾風迅雷式に猛烈な消毒、出入禁止だ。全く飛んだ災難だね。
 ところが又、ここに一つ不思議というのは、その虎列剌《コレラ》の伝染系統が全くわからん。その当時はまだ夏の初めで、県下に虎列剌《コレラ》の虎《コ》の字も発生していなかった時分だ。斎藤さんも勿論、宅診、往診以外に遠くへ行った形跡はない、つまり所謂、無系統コレラ……天降り伝染という奴だね。
 不思議だ不思議だといううちに県の衛生試験所へまわった斎藤さんの吐瀉物について大変な報告がB町の警察署に来た。
「検鏡の結果コレラ菌を認めず。但し著明の酸性反応を認む」
 西洋の名探偵だったらここで哄笑一番するところだがね……イヤ。モット前に危険を予知して斎藤さんに忠告していたかも知れないがね。
「内科医が、獣医の家《うち》へ行ってお酒を飲んではいけませぬ。生命にかかわります」
 とか何とか……。
 ところが日本の田舎ではナカナカそうは行かない。

 ……毒殺!!![#「!!!」は横1文字]……という感じが、この報告を聞いた刹那にB署員の頭にピインと来たんだね。そこで早速、内偵を進めてみると、生憎《あいにく》なことに獣医の西木さんは五六年前の開業当時に、斎藤先生から大枚二千何百円の借金をしている。それが一文も這入っていない……という事実が、斎藤さんの後家さんの口から判明した。斎藤の後家さんは、その刑事から聞いた話に非常に憤慨して、大急行で帰って来た息子の医学士を、斎藤さんの霊前に引据えると、刑事の面前で、
「ソンナ悪人の娘は、お前の嫁に貰う訳に行かぬ」
 と涙ながらに申渡すという劇的シインが展開してしまった。
 ソレッ……というので文句なしに西木獣医が引っぱられる。裁判所から予審判事が急行する。
 斎藤さんの死骸は今一度大消毒の上、大学に廻されて解剖の手続きをする。そのゴタゴタの真最中に、馬鹿な話で、斎藤の息子の医学士と西木の娘が、厳重な青年団員の警戒をドウ誤魔化《ごまか》したものか手に手を取ってB町駅から入場券を買ってドロンを極《き》めてしまった。上り列車に乗ったか下り列車に乗ったか、列車が行き違ったのでわからない……という言語道断な騒動になった。万一これが毒殺事件でなくて、真正の虎列剌《コレラ》だったらトテモ重大な黴菌だらけの道行だからね。B町の署長と町長は神様に手を合わせて、
「ドウゾ毒殺事件でありますように……」
 と一心籠めて祈ったという話だが、同情に堪えないね。どうも若い者はコンナ風に思慮がなくて困るんだ。

 そこでその息子の斎藤医学士が居た当大学のM内科でも棄てておけなくなった。M内科部長が事件後四日目か、五日目に、ヒョッコリ吾輩の処へ遣って来て、実はこれこれの事件だが、何とか一つ解決の方法はなかろうかという折入っての話だ。斎藤医学士はトテモ頭がよくて将来惜しい男だ。論文が通過したら何とかして洋行させたいと思っていたところなんだが……と暗涙を浮かべている。師弟の温情|掬《きく》すべし……という訳だね。
 吾輩はその時に初めて詳しい話を聞いたんだが、どうも可笑《おか》しいと思ったよ。毒殺の動機が二千円にしてもアトには後家さんと証文が残っているんだから斎藤さんだけ殺したって何にもならん。国賊という意味で昂奮のあまり殺したにしても酒の中へ毒を入れる役は差詰め西木の娘さんだけだろうが、それもどうやら話がおかしい……といったような気がしたもんだから、取りあえず県の衛生課へ電話で問合わせてみると、
「斎藤医師の嚥下した毒物は目下分析中」
 という愛想《あいそう》もコソもない返事だ。ナアニ、分析中でも何でもない。放ったらかしていたらしいんだ。「馬鹿にしてやがる。虎列剌《コレラ》でも何でもないものを……」といった調子だったのだろう。「虎列剌《コレラ》菌なし。酸性反応云々」までは顕微鏡とリトマスだけで直ぐにわかる。仕事が極めて簡単だが、アトの分析はナカナカ面倒臭いからね。県の役人なんてものは、こうした臨時の仕事となると、いつもいい加減にあしらうものらしいんだ。
 そこで吾輩は止むを得ず、その翌日《あくるひ》の土曜日の休講を利用して、ブラリとB町の西木家へ出張してみた。M内科部長の温情に敬意を払ってね。実は斎藤さんの死骸を解剖した方が早わかりなんだが、どこに引っかかっているのか、まだ看《み》なかったし、酒を飲んだ現場《げんじょう》を見たり、後家さんの話を聞いたりしておけば解決が早いと思った訳だ。……というと大層立派な御出張のようだが、しかし公式の責任はチットもないんだから、何の事はない一種の弥次馬だろう。フロックコートを着た……。

 西木家を監視していた警官も、青年団員も、名刺を出すと訳なく通してくれたが、狭い穢《きた》ない家だった。四|間《ま》ぐらいの土低い普通の百姓家で、あまり流行《はや》っていない獣医さんの家《うち》らしかったが、ホルマリンと生石灰の臭気の非道《ひど》いのには弱らされたよ。
 青年団員に間取りを聞いた吾輩は、ハンカチで鼻を蔽いながらイキナリ薬局に這入って行った。実は吾輩、獣医の薬局なるものを見た事がなかったのでね。ドンナ薬と道具が、ドンナ工合に並んでいるものか後学のために見ておきたかったのだ。序《ついで》にドンナ毒物が使用されたかもアラカタ見当が付くだろうと考えていた。
 実は娘さんが居ると色々聞いてみたい事が在ったんだが、際どいところでドロンを極め込んでいるもんだから何もかも盲目《めくら》探り同然だ。弥次馬探偵、弱ったよ……まったく……。
 ところが案ずるよりも生むが易いとはこの事だね。みんな虎列剌《コレラ》を怖ろしがって、外から雨戸を目張りしただけで消毒したらしく、家の中の品物が一つも動かしてなかったのが非常な天祐であった。薬局といっても裏口の横の納戸《なんど》みたいな四畳半の押入を利用したものに過ぎなかったが、そこの襖《ふすま》が半開きになっている。その鼻の先の中棚に直径一|寸《すん》五|分《ぶ》、高さ三寸位の茶色の薬瓶がタッタ一つ、向うの薬棚から取出したまま置いてある。白いレッテルには右から左へ横へ「吐酒石酸《としゅせきさん》」という活字が四個行列している。白い吐酒石の結晶が瓶の周囲にバラバラと零《こぼ》れ散らかっているのが何よりも先に眼に付いた。
 それを見た途端《とたん》に、ハハア、これは吐酒石酸を飲み過ぎたんだナ……と思った。
 吐酒石酸というのは毒薬自殺や何かの時に重宝《ちょうほう》な薬で、この薬をホンノちょっぴり人間に服《の》ませると、忽ち胃袋のドン底まで吐瀉して終《しま》うから毒がまわらないうちに助かるんだ。牛馬が毒草を喰った時なんかにも同じ理屈で使用される薬なんだが、その代りに分量を誤ると、実に急劇、猛烈な吐瀉を起すために体内の水分がグングン欠乏する。下痢をしない虎列剌《コレラ》と似たり寄ったりの症状で、心臓麻痺を起して死ぬんだ。獣医さんが虎列剌《コレラ》と診断したのは無理もない。実は上出来の方かも知れないがね。
 しかし本職の内科医の斎藤さんが、どうしてソンナに過量の吐酒石酸を服用したのか。よしんば酔っていたために分量を過《あやま》ったにしても……どうして吐酒石酸を使用する必要があったのか……又は、どうして飲まされる機会にぶつかったのか……といったような事実が吾輩には、どうしても想像出来ない。コイツには弱ったね。大酒を飲む人や、胃の悪い人の中にはここで……ハハア……そうかと首肯《うなず》く人が居るかも知れないが、天性の下戸《げこ》で、頗る上等の胃袋を持っている吾輩には、全く見当の付けようがないのだ。つまり大酒飲の習慣に対する高等常識が、その時の吾輩にはなかったんだね。

 大約三十分間も、その瓶と睨《にら》めっくらをしてボンヤリ考えていたっけが……。
 それから途方に暮れたまま、来るともなく台所に来て水甕《みずがめ》のまわりを見廻しているうちにヤットわかったね。水甕の上の杓子《しゃくし》や笊《ざる》を並べた棚の端に、重曹の瓶と匙《さじ》が一本置いてあるんだ。
 そいつを見ると疑問が一ペンに氷釈したよ。何でもない事なんだ。
 吾輩は直ぐに西木家を出て程近い警察の横の斎藤家を訪うた。刺《し》を通じて斎藤の後家さんに面会すると劈頭《へきとう》第一に質問をした。
「……大変に立ち入ったお尋ねごとですが、お亡くなりになった御主人は、お酒を呑み過ぎられますと、酒石酸と、重曹を一所《いっしょ》にお口に入れて、水を飲んで大きなゲップを出される習慣が、お在りになりはしませんでしたか」
 後家さんは痩せぎすの色の青い、多少ヒス的な感じのする品のいい婦人だった。可愛そうに最早《もはや》チャントした切髪姿で納まって御座ったが、吾輩の奇問には流石《さすが》にビックリしたらしく眼をパチパチさせたよ。
「まあ……どうして御存じで……主人はいつも御酒《ごしゅ》を頂きますたんびに重曹と、酒石酸を用いましたので……そうしないと二日酔をすると申しまして、御酒《ごしゅ》を頂きますたんびに……」
「それは夜中にお眼醒めになった時に、お一人でコッソリなさるのでしょう」
 後家さんはイヨイヨ驚いたらしく眼を丸くしたよ。
「……まあ……よく御存じで……」
「その酒石酸の瓶をチョット拝見さして頂けますまいか」
「ハイ。この瓶で御座います」
 といううちに後家さんは立上って、玄関横の薬局から白の結晶の詰まった茶色の瓶を持って来た。経《たて》一寸五分ぐらい、高さ三寸程……ちょうど西木家の吐酒石酸の瓶ぐらいの横腹に白いレッテルが貼ってあって、酒石酸と活字が三個右から左に並んでいる。後家さんは、それを吾輩の前に据えて、感慨無量という体《てい》で眼をしばたたいた。「これが何か、お調べのお役にでも立ちますので……」と云われた時には吾輩、気の毒とも何とも云いようがなかったね。
「イヤナニ……別に……ちょっと参考まで……」
 と云って逃げるように斎藤家を辞して往来に出るとホッとしたもんだが、返す返すも馬鹿馬鹿しい話さね。
 普通の内科医の処に在る吐酒石酸の瓶を見て見たまえ、高さ一寸かソコラの小さなものだ。これは人間に飲ませるのだから極く小量しか用意してないのだ。ところが図体《ずうたい》の大きい牛馬に飲ませるとなるとトテモ少々では利かないから獣医の処に在る吐酒石酸の瓶は相当に大きいのが用意して在る。ちょうど内科医の処に在る酒石酸の瓶ぐらいあるんだ。
 そいつを夜中に眼を醒ました、酔眼|朦朧《もうろう》たる斎藤さんが探し出したんだね。瓶の向う側に「吐」の字が隠れているのを見落して、アトの「酒石酸」の三字だけを見ると、これだこれだというので早速|匙《さじ》で杓《しゃく》ってドッサリ口に入れた。台所に来て水を飲んで、それから悠々と重曹を流し込んだ結果、起ったナンセンス悲劇という事が、ここに到ってハッキリとわかったんだ。
 むろんB町の警察署は、吾輩の説明で納得してくれたよ。西木獣医は即刻釈放されるし、そうなると斎藤の後家さんも頑張る理由がなくなったので伜の結婚を承諾した。医学士の内縁夫婦は、大阪の友人の処に隠れていたのを引っ張り戻されて、M内科部長の媒酌で正式に結婚したがね。将来絶対禁酒というので水盃で三三九度を遣ったそうだ。この間、子供が生まれたといって吾輩の処へ礼云いに来たっけが……どうも頭のいい人間に限ってシッカリしたところがないから駄目だよ。この頃の青年の特徴かも知れないがね。むろん書いちゃいけないぜ。この話は……みんな馬鹿だったという話だからね。ハハハ……。



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:しず
2001年1月16日公開
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