青空文庫アーカイブ
父杉山茂丸を語る
夢野久作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)駒下駄《こまげた》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)福岡市|住吉《すみよし》に住んでいた
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白ッポイ着物に青い博多織の帯を前下りに締めて紋付の羽織を着て、素足に駒下駄《こまげた》を穿《は》いた父の姿が何よりも先に眼に浮かぶ。その父は頭の毛をクシャクシャにして、黒い関羽鬚《かんうひげ》を渦巻かせていた。
筆者は幼少から病弱で、記憶力が強かったらしい。満二歳の時に見た博多駅の開通式の光景を故老に話し、その夜が満月であったと断言して、人を驚かした事がある位だから……。
だからそうした父の印象も筆者の二歳か三歳頃の印象と考えていいらしい。父が二十七八歳で筆者の生地福岡市|住吉《すみよし》に住んでいた頃である。この事を母に話したら、その通りに間違いないが、帯の色が青かったかどうかは、お前ほどハッキリ記憶していない、お祖父《じい》様の帯が青かったからその思い違いではないかと云った。
その父が三匹の馬の絵を描《か》いた小さな傘を買って来てくれた。すると間もなく雨が降り出したので、その傘をさしてお庭に出ると云ったら、母が風邪を引くと云って無理に止めた。筆者は、その「風邪」なるものの意味がわからないので大いに泣いて駄々を捏《こ》ねたらしく、間もなく許可《ゆる》されて跣足《はだし》で庭に降りると、雨垂れ落《おち》の水を足で泄《たた》えたり蟇《ひき》を蹴飛ばしたりして大いに喜んだ。時々|翳《かざ》している傘の絵を見て、馬の走って行く方向にクルクル廻わしているところへ、浴衣がけの父がノッソリ縁側に出て来て、傘の上から問うた。
「それは何の絵けエ」
弾力のある柔和な声であった。
奥の八畳の座敷中央に火鉢と座布団があって、その上にお祖父様が座っておられた。大変に憤《おこ》った怖い顔をして右手に、総鉄張り、梅の花の銀|象眼《ぞうがん》の煙管《きせる》を持っておられた。その前に父が両手を突いて、お祖父様のお説教を聞いているのを、私はお庭の植込みの中からソーッと覗いていた。
その中《うち》、突然にお祖父様の右手が揚《あ》がったと思うと、煙管が父のモジャモジャした頭の中央に打突《ぶつ》かってケシ飛んだ。それが眼にも止まらない早さだったのでビックリして見ている中《うち》に、父のモジャモジャ頭の中から真赤な滴りがポタリポタリと糸を引いて畳の上に落ちて流れ拡がり初めた。しかし父は両手を突いたままジッとして動かなかった。
お祖父様は、座布団の上から手を伸ばして、くの字型に曲った鉄張り銀象眼の煙管を取上げ、父の眼の前に投げ出された。
「真直《まっす》ぐめて来い(モット折檻してやるから真直にして来いという意味)」
と激しい声で大喝された。
父は恭《うやうや》しく一礼して煙管を拾って立上った。その血だらけの青い顔が、悠々と座敷を出て行くところで、私の記憶は断絶している。多分泣き出したのであろう。
それが何事であったかは、むろんわからなかったし、後《のち》になって父に聞いてみる気も起らなかった。
父は十六の年に、お祖父様を説伏《ときふ》せて家督を相続した。その時は父は次のような事をお祖父様に説いたという。
「日本の開国は明らかに立遅れであります。東洋の君子国とか、日本武士道とかいう鎖国時代のネンネコ歌を歌っていい心持になっていたら日本は勿論、支那、朝鮮は今後百年を出《い》でずして白人の奴隷と化し去るでしょう。白人の武器とする科学文明、白人の外交信条とする無良心の功利道徳が作る惨烈《さんれつ》なる生存競争、血も涙も無い優勝劣敗掴み取りのタダ中に現在の日本が飛込むのは孩子《あかご》が猛獣の檻《おり》の中にヨチヨチと歩み入るようなものであります。この日本を救い、この東洋を白禍《はっか》の惨毒から救い出すためには、渺《びょう》たる杉山家の一軒ぐらい潰すのは当然の代償と覚悟しなければなりませぬ。私は天下のためにこの家を潰すつもりですから、御両親もそのおつもりで、この家が潰れるのを楽しみに、花鳥風月を友として、生きられる限り御機嫌よく生きてお出でなさい」
その時はまだ私が生まれていない前だったから、果してこの通りの事を云ったかどうか保証の限りでないが、その後《のち》の父は正しく前述の通りの覚悟で東奔西走していたし、お祖父様やお祖母《ばあ》様も、母までも、その覚悟で、あらん限りの貧乏と闘いつつ留守居していた事を、私は明らかに回想する事が出来る。なつかしい、恨めしい、恐ろしい、ありがたい父であった。
父は或る時、お祖父様に舶来の洋傘《こうもり》のお土産を持って来て差上げた。それは銀の柄の処のボタンを押すとバネ仕掛でパッと拡がるようになっていたので欲しくてたまらず、コッソリ持出して廊下でボタンを押してみたが、どうしても開かないので、失望して、又ソット、モトの押入れに入れた。何だか恐ろしかったので、逃げるように表へ出た。
又或る時、やはりお祖父様に、鼈甲縁《べっこうぶち》の折畳《おりたたみ》眼鏡を持って来て差上げた。これも、その折畳まり工合《ぐあい》が面白くて不思議なので欲しくてたまらず、そっと持出して引っぱってみる中《うち》に壊れてしまったらしい。お祖母様に大変に叱られた。
又或る時、父は自分が東京から冠《かぶ》って来た臘虎《らっこ》の頭巾《ずきん》帽子をお祖父様に差上げた。お祖父様は大層お喜びになって、御自分でお冠りになり、それから私に冠せてアハハハと大きな声でお笑いになった。
私は眼の前が真暗になった上に、臘虎の皮特有の妙な臭気がしたので直ぐに脱いで投棄てたように思う。
その時に父はコンナ話を、お祖父様にした……と後《のち》になって私に話した。
「あの帽子は東京で一番|高価《たか》いゼイタクなものだったので、大得意で故郷に錦《にしき》を飾るつもりで冠って来たものです。染得《そめえ》たり西湖柳色の衣《い》というところですよ。然るにだんだんと故郷に近づくに連れてあの帽子が気になりました。在郷の同志が、身動きもならぬ程貧乏し、落魄《らくはく》している顔付きを思い出すに連れて、十円もする帽子を大得意で帰って来る自分の心理状態が恥かしくて、たまらなくなりましたから、汽車が博多駅に着く前に折畳んで懐《ふところ》に入れて、知人に会わぬようにコソコソと只今帰って参りました。途中でこの帽子をドウ仕末しようかと考えましたが、結局アナタ(お祖父様)に差上るよりほかに道がないと気が付きました。アナタに差上るのならばドンナに身分不相応なものでも恥かしくないことが、わかると同時に、日本の国体のありがたさがイヨイヨハッキリと心に映じました。人間はエラクなると増長したくなるものです。栄耀栄華《えいようえいが》をしたくなるものです。しかも、それが威張れば威張るほどツマラヌ奴に見えて来るし、栄耀をすればする程、自分の恥を晒《さら》すことになるものですが、不思議なことに、ドンナに身分不相応な事でも、天子様と、神様と、親様の御為《おんため》にする事なら、決して恥かしくないことがわかりました。日本人たる者は、天子様と、神様と、親様のためと、この三つに限って、無限のゼイタクを許されている訳です。私はこの十円の帽子のお蔭で、大きな悟りを開く事が出来ました。その記念と思ってドウゾこの帽子を冠って下さい」
お祖父様は、その後《のち》、前記の洋傘《こうもり》と、鼈甲縁の折畳眼鏡と、ラッコの帽子を大自慢にして外出されるようになった。そうして到る処で父の自慢話を初められるのを、いつもお供していた私は、子供心に又初まったと思い思い聞いていた。
但「染め得たり西湖、柳色の衣」という一句は、たしか唐詩選の中に在ると思っているが、まだ調べていない。意味も何もわからないまま、口調がいいのと、父が力を籠《こ》めてくり返しくり返し云っていたので、その当時から暗記しているだけの事である。
それから私が五六歳の頃になると、父が久しく帰らず、家が貧窮の極に達していたらしい。住吉の堂々たる住宅から、博多|鰯町《いわしまち》、旧株式取引所裏のアバラ屋に移って、母は軍隊の襯衣《シャツ》縫いや、足袋《たび》の底刺しで夜の眼も合わさず、お祖母さまと当時十七八であった父の妹のかおる伯母の二人は押絵《おしえ》作りにいそしみ、彩紙《いろがみ》や、チリメンの切屑を机一パイに散らかしていた。押絵の三人一組が二円。軍隊の襯衣《シャツ》縫いと足袋の底刺しが一日十何銭、米が一|升《しょう》十銭といったような言葉がまだ六歳の私の耳に一種の凄愴味を帯びて泌み込むようになった。一間四方位の大きな穴の明いた屋根の上の満月を、夜着の袖から顔を出してマジマジと見ていた記憶なぞがハッキリと残っている。
父が東京から電報為替で金一円也を送って来たのもその頃であったという。
広崎栄太郎という父の旧友が、賭将棋で勝った金十七銭也を持って来て、私の一家の餓《うえ》を凌《しの》がしてくれたのもその頃の事であったと、その後に父から聞いた。
その家にどこからともなく帰って来た父が、私の頭を撫でる間もなく、剃刀《かみそり》を取出してしきりに磨ぎ立て、尻をまくってアグラを掻き睾丸《きんたま》の毛を剃り初めたのには驚いた。何でも睾丸《きんたま》にシラミが湧いたから剃るのだ……といったような事を話していたから、余程、落魄《らくはく》して帰って来たものであったらしい。
「門司の石田屋という宿屋で頭山《とうやま》と俺とが宿賃が払えずに、故郷を眼の前に見ながらフン詰まっていた。ところで頭山も俺も睾丸《きんたま》の毛にシラミがウジャウジャしていたから、一つこいつを喧嘩させて見ようではないか。そうして負けた方がここに滞在して小さくなっている。勝った方が金策に出る事にしようではないかと云うと、頭山が面白い、やってみようと云うた。ところが頭山のヤツは真黒くて精悍《せいかん》な恰好をしている。俺のに湧いたヤツは真白くてムクムク肥って活動力がないのでドウ見ても勝てそうにない。しかし俺には確信があったから、新聞紙を四ツに折って、その溝の十文字の処で選手を闘わせてみると案の定俺の白いヤツが黒い奴を押し倒おして動かせない。そこで俺が解放される事になって帰って来た訳だが、ナアニ頭山は正直だから、シラミを逃がさないようにシッカリと抓《つま》んで出すのだから、土俵へ上らない中《うち》に代表選手が半死半生になっている。これに反して俺の方は、選手を抓み出す時から出来るだけソーッと抓んで掌《てのひら》に入れてソーッと下に置くのだから双方の元気に雲泥の相違がある。勝敗の数は勿論、問題じゃないことになるのだ」
これも事実だかどうだか頭山さんに聞いてみない事にはわからないが、その時に家中《うちじゅう》が引っくり返るほど笑い転げていた事を思い出すと、やはりソンナ話を睾丸《きんたま》の毛を剃り剃り父が話していたのかも知れぬ。とにかく父が帰ると同時に家中が急に明るく、朗らかになった気持だけは、今でも忘れない。
なお父が濛々たる関羽髯を剃落したのも、その序《ついで》ではなかったかと思う。
それから父は、家族連中の環視の中で、先祖重代の刀を取出して、その切羽《せっぱ》とハバキの金を剥ぎ、鍔《つば》の中の金象眼《きんぞうがん》を掘出して白紙に包んだままどこかへ出て行った。そうして直ぐに帰って来たようにも思う。ナカナカ帰って来なかったようにも思う。
その後《のち》の事であったか、その時の事であったか、父の弟《おとと》の五百枝《いおえ》と、末弟の林|駒生《こまお》と三人が、家の外に集まって下水の掃除をしていた姿を思い出す。その中で、どうしても一個所竹竿の通らない処を、父が鍬《くわ》で掘出して土管を埋め直し、若い叔父さま二人に水を汲んで来て流して見ろと命じていた。その泥だらけの颯爽《さっそう》たる姿を、そこいら一面に生えていた、犬蓼《いぬたで》の花と一所《いっしょ》に思い出す。
やはりその頃の事であったと思う。
父は六歳になった筆者を背中に乗せて水泳を試み、那珂《なか》川の洲口《すぐち》を泳ぎ渡って向うの石の突堤に取着き、直ぐに引返して又モトの砂浜に上った。滅多に父の背中に負ぶさった事なぞない私はタマラなく嬉しかった。
その父の背中は真白くてヌルヌルと脂切《あぶらぎ》っていた。その左の肩に一ツと、右の背筋の横へ二ツ並んで、小さな無果花《いちじく》色の疣《いぼ》が在った。左の肩へ離れて一ツ在るのが一番大きかったが、その一つ一つに一本|宛《ずつ》、長い毛がチリチリと曲って生えているのが大変に珍らしかったので、陸《おか》に上ってから繰返し繰返し引っぱった。
「痛いぞ痛いぞ。ウフフフ……」
と父が笑った。
父は九歳の時に遠賀《おんが》郡の芦屋《あしや》で、お祖父様の夜網打ちの艫櫓《ともろ》を押したというから、相当水泳が上手であったらしい。那珂川の洲口といえば、今でも海水、河水の交会する、三角波の重畳した難コースで、岸の上から見てもゾッとするのに、負ぶさってる私は怖くも何とも感じなかった。些《すくな》くとも父の肩から上と私の背中だけは水面上に出ていたと思う。
その中《うち》に私等一家はイヨイヨ貧窮して来て、お祖父様も花鳥風月を友とする事が出来なくなられたらしい。お祖母様と、モウ七歳になっていた私を連れて二日市に移住し、漢学の塾を開かれた一方に、母は亡弟|峻《たかし》を抱いて市内柳原に住み、相変らず足袋の底と、軍隊の襯衣《シャツ》に親しんだ。
父は帰って来る都度に、先ず両親を訪い、次いで母と弟を省みた。
二日市の橋元屋という旅館の裏に住んでいる時、突然に父が帰って来て、小さな錻力《ぶりき》のポンプを呉れた時の嬉しかった事は今でも忘れていない。そのポンプはかなり上等のものだったらしく、長いゴムのホースの尖端の筒先から迸《ほとばし》る水が、数間先の土塀を越えて、通行人を驚かした。父は手ずから金盥《かなだらい》に水を入れて二階の板縁に持出し、私と二人でポンプを突いて遊んでくれたが、その中《うち》に退屈したと見えて、私の顔に筒先を向けては大声で笑い興じた。父と二人でアンナに楽しく遊んだ事は前後に一度もない。
その後《のち》、同じ二日市で榊屋《さかきや》の隠宅というのに引越した時に、父が私に羊羹《ようかん》を三キレ新聞紙に包んだのをドンゴロス(ズックの事)の革鞄《かばん》から出してくれた。それが新聞を見た初まりで、私が七歳の時であった。
お祖父様のお仕込みで、小学校入学前に四書の素読《そどく》が一通り済んでいた私は、その振仮名無しの新聞を平気でスラスラと読んだ。それをお祖父様の塾生が見て驚いているのを、父が背後から近づいてソーッとのぞいていることがわかったので、私は一層声を張上げて読み初めた。すると父は何と思ったかチェッと一つ舌打ちして遠ざかって行った。後《あと》でお祖母様から聞いたところによると、その時に父はお祖父様にコンナ事を云ったという。
「十歳で神童。二十歳で才子。三十でタダの人とよく申します。直樹(私の旧名)は病身のおかげでアレだけ出来るのですから、なるべく学問から遠ざけて、身体《からだ》を荒っぽく仕上げて下さい」
これにはお祖父様が不同意であったらしい。益々力を入れて八歳の時には弘道館述義と、詩経《しきょう》の一部と、易経《えききょう》の一部を教えて下すったものであるが、孝経《こうきょう》は、どうしたものか教えて下さらなかった。
とはいえ私は十六七歳になってから、こうした父の言葉を痛切に感佩《かんぱい》し、一も体力、二も体力と考えるようになった。さもなければ私は二十四五位で所謂、夭折《ようせつ》というのをやっていたかも知れない。
因《ちなみ》に弟の峻《たかし》は、私が八歳の時に疫痢《えきり》で死んだ。そのためであったろう。母は又、私の処に帰って来て、大きな乳を私に見せびらかすようになった。同時に私等は、宗像《むなかた》郡|神与《じんよ》村の八並《やつなみ》から筥崎《はこざき》へ移転して来た。
私が九歳の時、お祖父様、お祖母様、母、妹等は筥崎から父に従って上京し、麻布の笄町《こうがいちょう》に住んだ。相当立派な家だったところを見ると、この頃からポツポツ父の社会的地位が出来かけていたものと見える。
父は京橋の本八丁堀に事務所を構え、ヨシ、ミノという二人の俥夫《しゃふ》が引く二人引の俥《くるま》で東京市中を馳けまわっていた。顎鬚《あごひげ》を綺麗《きれい》に削り、鼻の下の髭《ひげ》を短かく摘み、白麻の詰襟服《つめえりふく》で、丸火屋《まるぼや》の台ラムプの蔭に座って、白扇《はくせん》を使っている姿が眼に浮かぶ。
或る時、お祖父様の前で、地球に手足の生えた漫画を表紙にした雑誌を拡げて頻《しき》りに説明していた。
「この雑誌は丸々珍聞という悪い雑誌ですが、私の悪口が盛んに掲載されるのでこの頃は皆、茂丸珍聞と呼んでおります。私も大分有名になりましたよ」
そうした説明に続いて、伊藤、山県、三井、三菱などいう名が出ていたのを、私は何故という事なしにシッカリと記憶していた。
その中《うち》に私の末弟の五郎が生まれると間もなく、お祖父様とお祖母様が東京をお嫌いになって頻《しき》りに生れ故郷を恋しがられるので父は閉口したらしく私と三人で九州に別居するように取計《とりはか》らった。一時博多の北船《きたふね》という処に仮寓して後《のち》、福岡市の西職人町に借家|住居《ずまい》をした。その時にお祖父様は中風に罹《かか》られたが、父は度々帰省してお祖父様を見舞い、その都度に、大工を呼んで板塀や窓の模様を変え、右半身の麻痺硬直したお祖父様に適合する便器を作らせ、又はお祖父様の股間にタムシが出来た時に、色々な薬を配合して手ずから洗って上げたりした。
父が何でも独創でなければ承知しない性格と、後年の建築道楽の癖を、私はこの時から印象して、心から「お父さんはエライ」と思い込んでいた。
三度目に帰省した時に父は鼻の下の髭を剃った。そうしてお祖父様にコンナ事を話した。
「私は社会と共に堕落して行きます。まず第一段の堕落でアゴ髭を剃り、今度の第二段の堕落で鼻の下の髭を剃りました。この次には眉毛を剃って俳優に堕落し、第四の堕落ではクルクル坊主になるつもりですが、まあ、そこまで行かずとも世の中は救えましょう。アハハ」
泣き中気のお祖父様は、そんな父の言葉を聞く毎《ごと》に泣いておられた。
職人町から歴林町《れきりんまち》に引越した時に、お祖父様は亡くなられた。発病以来七年目、私が十二の年であった。中風に肺炎を併発したのが悪かったのであったが、お祖父様が無くなられると直ぐに父は茶を命じて一同を落ち付かせ、お祖父様の清廉潔白の生涯について批評めいた感想を述べ初めたので、皆、シンとなって傾聴していた。私は永年可愛がって下さったお祖父様がイヨイヨホントウに死なれたのかと思うと泣いても泣いても泣き切れない位、悲しかったので、父が何を話していたか殆んど聞いていなかった。
お祖父様のお葬式が済むと間もなく母は妹と、弟を連れて九州に下り、福岡|通町《とおりまち》に住み、祖母と私もそこへ同居し、中学へ通うようになった。
中学に通い初めると間もなく私は宗教、文学、音楽、美術の研究に凝《こ》り、テニスに夢中になった。明らかに当時のモボ兼、文学青年となってしまった。
その十六歳の時、久し振りに帰省した父から将来の目的を問われて、
「私は文学で立ちたいと思います」
と答えた時の父の不愉快そうな顔を今でも忘れない。あんまりイヤな顔をして黙っていたので私はタマラなくなって、
「そんなら美術家になります」
と云ったら父がイヨイヨ不愉快な顔になって私の顔をジイッと見たのでこっちもイヨイヨたまらなくなってしまった。
「そんなら身体《からだ》を丈夫にするために農業をやります」
と云ったら父の顔が忽ち解けて、見る見るニコニコと笑い出したので、私はホッとしたものであった。
「フン。農業なら賛成する。何故かというと貴様は現在、神経過敏の固まりみたようになっている。先刻《さっき》から俺の顔色を見て、ヤタラに目的を変更しているようであるが、そんなダラシのない神経過敏では、今の生存競争の世の中に当って勝てるものでない。芸術とか、宗教とかいうものは神経過敏のオモチャみたようなもので、そんなものに熱中するとイヨイヨ神経過敏になって、人間万事が腹が立ったり、悲しくなったりするものだ。その神経過敏は農業でもやって身体を壮健にすれば自から解消するものだ。だから万事はその上で考えて見る事にせよ。現在の日本は露西亜《ロシヤ》に取られようとしている。日本が亡びたら文学も絵もあったものでない。そのサ中に早く帰って頂戴なナンテ呑気な事が云っておられるか。雪舟の虎の絵を見せても、露西亜兵は退却しやしないぞ」
といったような事を長々と訓戒してくれた。
私は父の熱誠に圧伏されながらも、生涯の楽しみを奪われた悲しさに涙をポトポトと落しながら聞いていた。
その訓戒が済んでから茶を一パイ飲むと父は私を連れて裏庭に出て自分で指《ゆびさ》しながら、木立の枝を私に卸《おろ》させた。私が筋肉薄弱で鎌《かま》が切れず、持て余しているのを見た父は、自分で鎌と鉈《なた》を揮《ふる》って、薪《まき》の束を作り初めたが、その上手なのに驚いてしまった。カチカチ山の狸と兎が背負っているような、恰好のいい蒔の束が、見る間に幾個《いくつ》も幾個も出来たのを、土蔵の背後《うしろ》に高々と積上げた。出入りの百姓で父の幼少時代を知っている老人が、父の野良仕事の上手なのを賞めていたのは決して作り事でもオベッカでもない事を知った。
多分、父は早速私に農業の実地教育をしたつもりであったろう。
十九の時に私は母親に無断で上京して、お祖母様と母親を何故九州に放置しておくか……という事に付いて、猛烈に父に喰ってかかった。すると最後まで黙って聞いていた父はニンガリと笑って云った。
「ウム。貴様の神経過敏はまだ治癒《なお》らぬと見えるな。よし、それでは今から俺が直接に教育してやろう。母さんも東京へ呼んでやろう……」
私は三拝九拝して又涙を流した。
「それには先ず中学を卒業して来い。現在の社会で成功するのに中学以上の学力は要らぬ。それから軍隊へ這入《はい》れ。どこでもええから貴様の好きな聯隊に入れてやる」
中学を出て福岡の市役所に出頭し、徴兵検査を早く受けたいと願ったら、吏員から五月蠅《うるさ》がられたので、母等と共に上京して鎌倉に居住し、麻布聯隊区に籍を移し、たしか乙種で不合格となったのを志願して無理にパスした。身長五尺五寸六分、体量十三|貫《がん》に足りなかった。こうした私の入営に対する熱意を父母は非常に喜んでくれた。
明治四十一年兵として近衛歩兵第一聯隊に配属された私は、極度の過労と、慣れない空気のために見る見る弱り果てて、とうとう第一期の検閲直前に肺炎で入院した。その四十度の高熱の中に、その頃の最新流行の鼠色の舶来|中折《なかおれ》を冠って見舞に来た父の厳粛そのもののような顔を見て、私はモウ死ぬのかなと思った。
「貴様が死なずに少尉になって帰って来たら、この帽子を遣る」
と父は云った。私は病床でその帽子を冠って、ちょうどいいかどうかを試みながら、是非なおって見せる……この帽子を冠らずには措《お》かぬと心に誓った。
「直樹(私の旧名)の奴は俺の子供だけにダイブ変っている。死にかかっていても、油断のならぬところがある」
とその直後に母に語った……と母から聞いた時、私は息苦しい程赤面させられた。
軍隊を出ると体力に自信が出来たので九州に下って地所を買い(現在の香椎村)果樹園を営んだ。その時にも私が思わず赤面するような事を他人に語ったそうである。
「彼奴《あいつ》は全く油断のならぬ奴だ。抵当に這入っている地面を無代価みたようにタタキ落して買うような腕前をいつの間に養っておったか知らん。おまけにアイツは地面の代金が余ったと云って五百円の札束を知らん顔をして俺に返したが、ナアニまだ五百円か千円ぐらい暖めている奴だ。アイツはタダの正直者じゃない」
全く以てその通りであった。
その後《のち》度々上京したが、時々思い出したようにコンナ事を云った。
「俺が今死んだら貴様はドウするか、他人の厄介にならずに葬式が出来るか」
この言葉は平生、父が口癖のように云っている「子孫のために美田を買わず」という言葉と明らかに矛盾していたが、私はドチラも父の真情である事を知っていたので、わざと冷笑していた。「俺のような人間になるな」という事もよく云ったものであるが、これも父の或る悲しい、淋しい心理の一角を露出した言葉と察して、謹《つつし》んで、うなだれていた。
その都度《つど》に私は母に説いて「お父さんが亡くなられたら私は簡単に火葬にして、お母さんや妹と一緒に三等車で九州へ引上げて、極く手軽い葬式をするつもりです。いいですか」と念を押していた。母はいつも涙ながらニコニコしてうなずいていた。
今年の七月十七日、香椎の球場で西部高専野球の予選を見ている中《うち》に、雇人《やといにん》の小母《おば》さんが泣きながら電報を持って走って来た。
「チチノウイツケツスクコイ」
私は一所《いっしょ》に見物していた中学生の子供二人と一所にタクシーで家に帰り、妻に金の準備を命じ、そのままの服装で、ポケット四書と丘浅次郎氏の進化論講話を携えて又もタクシーに飛乗り全速力で博多駅に駈けつけ、富士に乗後《のりおく》れてサクラに間に合った。
途中小郡で東京に病状を問合わせ、糸崎で返電を受取った。
「ジウタイノママジゾクセリ」
私は直ぐに持久戦を覚悟した。中風で重態のまま三箇月も持続した例を知っていたから……。
それからグッスリと眠った。不思議なほど安眠した。そうして姫路で眼がさめた。それから先の一日の永かったこと。
東京駅に着いて父が意識不明の病状をハッキリ聞いた時に初めてガッカリした。そうして、そのままの心理状態を今日まで持続している。
翌朝、七月十九日の午前十時二十二分に三年町の自宅自室で父が七十二歳の息を引取った時、私は脱脂綿を巻いた箸《はし》と、水を容れたコップの盆を両手に支えて、枕頭に集まっていた数十名の人々に捧げ、父の唇を濡らしてもらったが、私は金城鉄壁泣かないつもりで、故意に冷然と構えていた。この際、つまらない顔をして見せるのは、他人様の迷惑であるとさえ考えていた。
ところが、その綿を巻いた箸に手を出す人々の指が皆わなないて箸を取り得なかった。もちろん一人残らず顔を引歪《ひきゆが》めていた。その顔があとからあとから引続いて来て、ギクギクと声を立てながら父の顔に手を合わせて行く姿を見送っているうちに、次第次第に私の手がわなないて来た。
私の背後《うしろ》には昨夜から父の最後の喘《あえ》ぎを一心に凝視して御座った羽織袴の頭山さんが、キチント椅子に腰かけて、両手を膝に置いて御座るので、醜体を演じてはならぬと一生懸命に唇を噛んでいたがトテモ我慢し切れなかった。
もちろん母や妹、看護婦なぞいう女共が泣くのは何ともなかったが、男の人達が一々唇をわななかし、咽喉《のど》をヒクヒクさせて行かれるのが一々胸にコタエた。最後に、色の黒い若い、田舎の百姓さんが、泣き濡れた顔を私の真正面に持って来て思い切り引き歪めて見せた時には、全く何もかもわからなくなってしまった。今にもコップとお盆を投出そうかと思い思い我慢し通した。
それから間もなく、父の友人で、永い間、私等の家族の世話をして下さった人々が協議された結果、私を別室に招いて次のような事を云われた。
「貴方《あなた》のお父さんは貴方個人のお父さんと思ってはいけないと思います。吾々のお父さんであると同時に社会のお父さん……すなわち公人であると思います。だからこの際、相済みませぬが、貴方の個人としての弔意を捨てて、吾々に葬式をさせて頂けますまいか」
そうした誠意に満ち満ちた言葉は、何もわからぬ程、色々の思い出に混乱していた私の頭を北極の氷のような冷静さに返らせた。そうして一切の覚悟をきめた私は即座にありがたくお受けをした。直ぐに母の前に走って行って頭を下げながら、私の専断の許しを請うと、母は涙に暮れながら、私の手をシッカリと握って云った。
「モウ、これからは何もかもアンタの思い通りにしなさい」
それから混雑の中を押し分け押し分け妹婿《いもうとむこ》や、養子達に一々、この事を報告してまわった。皆、泣いて頭を下げた。その泣顔と、お辞儀の交換の中に私はダンダンと、そこいら中が明るくなって来るように思った。万事が、一直線に片付いて行きそうな確信が出来た。
間もなく郷里の福岡で玄洋社葬にしたいという電報が来たから、これも独断で拝承して後《のち》に一同に報告した。
父は生前、死体の全部を大学に寄附する旨を大勢の人に云っていたので、母が情なさそうな顔をするのを押し切って、その通りに決行した。その前に父のデスマスクを斎藤という人が取って下すったが、そのデスマスクを取る直前の父の顔は実に満足そうな……生前に見たドノ顔よりも気高い、懐しい微笑を含んでいた。さてはこれが父のホントウの顔であったかナと思うと、又タマラなくなりそうになったので慌てて湯殿に行って顔を洗った。
葬式は増上寺で盛大に行われた。色々、大勢の人々がやって来て告別の焼香をして下すったが、その中に古びたカンカン帽、素足に駒下駄、浴衣がけにステッキ一本の書生さんが、アッサリと焼香し、叮嚀に叩頭《こうとう》して行ったのを、参列の人々の中で喜んでいる人が相当あった。
「アイツは愉快な奴だ。故人はアンナ調子の人間が一番好きだったからね。あの気軽く焼香に来てくれた心意気が嬉しいじゃないか」
「一層の事、告別式をどこかの野ッ原に持出して、野人葬とすればよかったかも知れないね。野辺送りという位だから……ハハハ」
悔状《くやみじょう》は一々私が開封して眼を通したが、やはり愉快なのが混っていた。
「私は近所の爺さんから頼まれて杉山さんの霊前にこの和歌を捧げてくれという事ですから、この手紙を上げます。私は杉山という人がドンな人だか、よく知りませんが謹んでお悔みを申上げます」
といったような朗らかなのや、お悔みのつもりであろう、
「杉山先生が亡くなられても、君に忠義という事は決して忘れません」
と簡単に楷書して泣かせるのや、
「先生は私にとって実の親よりも有難い人でした。どうぞ今後も、お父さんに代って私を可愛がって下さい」
といった、いじらしい意味の長文や、
「新聞で見てビックリしました。香奠《こうでん》十円送ります」
という奇特な方や、色々であったが、一番痛快でタタキ付けられたのは敬弔の文字を印刷したカードを二銭の開封にして来た一通であった。この人は日本国中を皆殺しにするつもりで、こんなカードをフンダンに印刷して用意しているのじゃないか知らんと思って茫然となった。
九州で玄洋社葬をして頂くために、東京駅を出発したのは八月二十八日であった。
駅頭まで見送りに来た頭山満先生が、父の遺骨を安置した車の前に立ちながら、見栄も何も構わずに涙をダクダクと流していられるのを見た時に、私は顔を上げ得なかった。
広田弘毅閣下も泣いておられたそうであるが、これは気付かなかった。
「頭山さんが頭山さんが」
と云って、今年六十七になる母親が、国府津《こうづ》附近まで泣き止まなかったのには全く閉口した。慰める言葉が無かった。
父が生前に社会の父であったかドウか私は知らない。けれども生前の父をこれ程までに思って、葬式までして下すった世間の方々が、今からは疑いもなく私の父の死後の父になって下すった訳である。
あらゆる意味に於て不肖《ふしょう》の子である私は、父の生前に思わしい孝行を尽し得なかった。これからは父の死後の父に、心の限り孝行をして行きたい。
底本:「夢野久作全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年12月3日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:小林徹
2001年12月5日公開
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