青空文庫アーカイブ

スポールティフな娼婦
吉行エイスケ

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)投錨《とうびょう》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なよ/\とした
-------------------------------------------------------

 夜の小湊は波打ぎわの万華鏡のなかに、女博物館が開花していた。その夜は湾内に快速巡洋艦アメリカ号が投錨《とうびょう》した夜なので、女達の首にはたくましいヤンキーの水兵の腕がからんでいた。山下界隈の怪しい酒場で酔泥《よいど》れた一列の黒奴の火夫達が、最新流行歌をうたって和服の蠱惑《こわく》の街に傾いた。
 その前日から、小湊のチョップ・ハウスの断髪女を中心にした三つの殺人事件が本牧横町の街を騒がしていた。数日前「Matsu・ホテル」のダンス・ホールでもと吉原の遊女であった中年の女将《おかみ》が殺害された事件。その翌日、朝鮮の青年が「天界ホテル」の寝室にいた白痴のマリを殺害しようとした未遂事件。「アオイ・ホテル」のお六の亭主が東京郊外で令嬢殺しの疑いで拘引《こういん》され、娼家街《しょうかがい》のマリアとしてお六のコケットな写真が新聞の三面を賑した事件。
 それにもかかわらず、Matsu・ホテルの青い建物では満艦飾《まんかんしょく》のグロテスクな女が意気で猥雑《わいざつ》なブラック・ボトンを踊り、天界ホテルでは白痴のマリが、薔薇の花の模様のついた着物の裾を危機一髪のところまでまくって、米国水兵のまえでチャルストンをジャズに合せて踊っていた。部屋の片隅にはアオイ・ホテルから小湊へ事件後返り咲いたお六が、南京《ナンキン》刈の男のウィンクに応じて立上るとショートオオダァのために別室に消えた。

 そのころ横浜市は、あの上層の位階《いかい》にある人の来市を待つために多額の復興資金が庁より付与され、ルネッサンス式の建築の黄金塔のそびえる庁舎を中心にして、外観の美を競うようにグランド・ホテルは白い影を水に映し、鉄筋にかこまれた廻送問屋が古代の面影を失い、万国橋より放射される街路にはエトランゼに投げられる魅惑的な和風の舌が色彩をあたえ、建設を急ぐ生糸市場の肋骨《ろっこつ》の下には市を代表する実業家が黒眼鏡に面を俯せていた。しかし麗屋《れいおく》の市街にもかかわらず内容の空虚は殆んど収拾することのできない傷手《いたで》を市民にあたえていた。
 数日前、私は弁天町の金銀細工の街をマリとあるいていた。マリは賛沢品の商品窓を感ずると突然競馬馬のように駈けだすのであった。ソウペイ・シルク店ではアル・ヘンティナの踊着《おどりぎ》のようなイヴニングを買約すると、マリが私に言った。
「おい此《この》ドレスなあ。黄に買わして喜ばしてやるんだ。」
「マリ、黄はお前と夫婦になりたいと云ったぞ。」
「毎夜おれが酔って、いびきかいてるうちになあ、彼奴《あいつ》そんな真似をしているんだよ。」
「よせ、冗談は。黄は子供の頃京城で結婚した女と別れて晴れてお前と夫婦になりたいと真剣だったぞ。」
「よし。こん夜は彼奴の向うずねを蹴ってやる。」とマリは馬のような口をひらいた。
 ミミ母娘《おやこ》美容院では、パーマネント・ウェーブの電流が蜘蛛《くも》の手のように空中にひらいて小柄なスイス公使夫人の黒い髪に巻きついていた。私達は再び丸善薬品本店まで引返して怪しげな英語の名前を云って買物をすると、本町のニューグランド・ホテルの方へあるいて行った。埠頭に碇泊《ていはく》している船舶のマストにセイラーが双眼鏡をもってよじ登っていた。
「おい、マリ、山下へのみにゆかないか。ただし俺はカイン・ゲルトだ。」
「よせ、やあ。剃刀《かみそり》を買おうよ。」
「大丸谷のチャブ屋女と間違えられるぞ。」
「ちぇ! 酔ってかいほうさしてやるぞ。こうみえてもなあ、おれは天界ホテルの令嬢マリよ。」
「ヘん、シンガポールから迎えのこぬうちにくたばっちまえ。」
 云いおわらぬうちに毛皮の外套から白い手がでると、私の横顔をたたいて一目散に公園横町から支那街さして駈けだした。山下町の支那語韻の街まで彼女を追跡すると支那劇場の喧噪《けんそう》な音楽の前でマリは東洋《オンアン》族を驚かすような音を立てて倒れると、地上を寝床にして唇から泡を吹きながらタヌキ寝人を始めた。支那のフオックス・トロットが劇場の地下室の踊場から聞えてきた。此界隈《このかいわい》はもと孫逸仙《そんいっせん》が亡命中の隠れ場所であった。
 私が息をきらしてマリに××りになると、彼女の額に接吻して言った。
「マリ。お前乱暴してはよくないぞ。」
 すると、彼女はずるそうに白い眼をひらくと、
「ううん、おれがよくなかった。」
「マリ、お前こん夜俺につきあうか。」
「なんでもよくきく。」
 私達は腕をくむと、附近の青天白日旗《せいてんはくじょうき》の飜《ひるがえ》っている、支那公使館のまえのインタナショナル・バーの酒卓へ座ると、盃をかちあわした。卓子《テーブル》におかれたザシカのクンセイのような扮装をして女達がワルツを踊っていた。女将のアレキサンドラは片隅で亭主の白系露《はっけいろ》人とポーカーを七枚のカードを並列してやっていた。青い日本服をきた混血児が、なよ/\とした腰に支那人の中学生の腕をからませて踊っていた。もと神戸の元町のボントン・バーにいた、肥太《ふと》った女がひどく酔って悪臭を放っていた。ロシア人の老人夫婦が、ロシア・クラシック・オペラの一節を弾じはじめた。
 ウォッカの酔いがまわると、マリがアレキサンドラの娘をとらえて饒舌《しゃべ》りだした。
「おい、ナタリー、おまえおれの女房になってくれ。」
「マリ、するとあんたが妾《わたし》のダンナさんね。」
「うん、そうだ。」
 すると、ナタリーが眼脂《めやに》をふいてこたえた。
「わたし、いやです。」
 赤い焔《ほのお》のように、一条の直線がナタリーの頬にふれた。同時にナタリーの悲鳴が爆発して彼女の頬に紅色の液体がながれていた。私は、酒盃《さかづき》を投げつけて茫然と立っているマリを街路に連れだして車にのせると車体は海岸線を疾風のように走りだした。
「マリ、どうかしたかね。」
「うん、おれはナタリーが好きだ。」
 と、彼女は云うと猛然と私におどりかかって、銀色の唾液のなかで二枚の褪紅色《たいこうしょく》の破片が格闘をはじめた。暫《しば》らく波の音が水上の音楽を私達にもたらした。
 天界ホテルのサルーンへ這入ると、有名な五十に近い小柄な舞踏の師匠を取巻いて、コムミニストだというマルクス派の作家らしい男達がひどく酔って女達に愛想をつかされていた。深刻な表情をして酒盃を傾けている黄をマリは見つけると、つか/\と彼のかたわら迄彼女は行くと、少しばかりスカートを捲いてマリは薬品の為にオリーブ色になった唾液を床に吐いた。
「おい、黄。おれはなあ、今夜っきりおまえがやあになったんだ。こん夜っきりおれにかかわらずにおくれ。」
 乱暴に床を蹴って部屋から出て行った。
 ――マリさん、マリさん。と、叫びながら狂気のように黄は彼女の後を追いかけたが、手擲弾《てなげだん》のようなマリの靴を向脛《むこうずね》に見まわれて跛《びっこ》をひきながら彼は街路に飛出した。野蛮………………マリを跳ねかえした。波打際の階上のマリの寝室であった。
 暁《あけ》がたちかくふと私は眼覚めた。食べちらされたトーストと玉子の殻と、鼾《いびき》をかいて寝ている彼女の黄色い鼻がオレンヂ色に染められていた。カーテンの引かれなかった窓ガラスには、影絵のように狂暴な黄の顔がうつし出され、私の驚愕《きょうがく》に無関心なように黄の手にした挙銃の引金がマリの寝姿に向って引かれた。
 私が窓をひらいたときには、階上から転落した黄の姿が小さな尾を海辺にひいていた。再び陽光が火薬のように部屋に這入ってきた。私は相かわらず鼾をかいて寝ているマリが、時々うるさそうに鼾をかくのをみた。するとそこに微《かす》かに弾丸の傷痕が見られた。
 私は三面鏡の抽斗《ひきだし》から、煉白粉《ねりおしろい》をとりだすとマリの鼻を厚化粧してしまった。
 お六が南京刈の男と再びサルーンにでてきた。私は彼女の濃厚な紫色の白粉の下に疲労した美しさを感じた。紫色の影をつくる腋《わき》の下に魅力を感じて立あがると、藍色のアブサン酒を彼女のグラスに注《つ》いだ。
 黒奴《ニグロ》の火夫達の一団がぞろ/\這入ってきた。ジャズ・バンドが開演された。マリと一人の怪偉なニグロがシミー・ダンスを×××をかちあわして踊りだした。マリが時々奇妙なかけ声を発すると、それに合してニグロの男は白色婦人が××で好む一種の奇妙な声をだした。床をがた/\踏み鳴らしながら、マリが私にちかづいてくると、
「おい、おれはおまえがやあになった。」
「マリ、あばよ。」私がさけんだ。
 するとマリはくす/\わらいながら黒い男と部屋をでて行った。私は多彩な女の断面図にべールをかけるように煙草《たばこ》のけむりをふかした。しかしいつのまにか私は女の×のなかにいた。紫色の衣服をつけたお六が、私の肩に手を巻くとそっぽを向いて煙草の黄色いけむりを吐きだした。
 私は強烈なアブサン酒をあおると、彼女に言った。
「おい、お六ちゃん。亭主が引ぱられてからの感想が聞きたいよ。」
「そんなこと云わんとおいておくれよ。」
「淋しいかい。」
「淋しくなくてかい。」
「信じているかい。」
「犯罪については妾には分りませんわ。しかしいまになって妾はあの男を愛していたような悲壮な気もちがいたしますわ。」
「ふふん、もっともそんな気もちになって喜んでいるのもおたのしみだね。」
 彼女の紫色の影が私を× すると言った。
「ねえ、今夜、妾につきあわない。」
 私は明暗の多い女を肩ぐるまにのせて、お六の穴倉のような部屋に彼女を運搬した。

 夜が明けると、天界ホテルの海辺に面したダンス・ホールで、マリを先頭にして十三人の娼婦が一列に並んで健康のための体操をはじめたが、何故かお六ひとりその列に見えなかった。



底本:「吉行エイスケ作品集」文園社
   1997(平成9)年7月10日初版発行
底本の親本:「吉行エイスケ作品集II 飛行機から堕ちるまで」冬樹社
   1977(昭和52)年11月30日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。
入力:田辺浩昭
校正:地田尚
2001年2月19日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

前のページに戻る 青空文庫アーカイブ