青空文庫アーカイブ
妄動
與謝野寛
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)竈場《フオオイエ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]よさの・ひろし
-------------------------------------------------------
×
われは曙にさまよふ影なり、
亡びんとする或物なり、
亡ぶるを否み難きものなり。
われは珊瑚の色したる灰なり、
暮れゆく春の竈場《フオオイエ》なり。
われは自《みづか》ら憐んで描きぬ、
わななきて氷の上に傾く焚火《たきび》を。
おお、この崩れ落つる火の傷ましさ、
熱もなく、音もなく、寄る人もなく…………
唯はかなげに、青みつつ薄赤し。
×
わが行手こそ闇なれ、真冬なれ、
あまたの児を伴れし乞丐《かたゐ》の孤独なれ。
苦痛へ、苦痛へ、氷の路へ…………
「生」の嵐は無残の爪を垂れて我に掴みかかる。
我は常に臨終《いまは》の如く呼吸《いき》ぐるし、
高く悲鳴し得ざる所以なり。
はた、我は報復《しかへし》を想はず、
怨むべき標的《あて》をさへ失ひしかば。
ただ恃むは、わが瞳《ひとみ》猶光れり、
水の底の黄金《きん》の如く。
また恃むは、我に抗《あらが》ふ力残れり、
負傷《てお》ひし獣《けもの》も猶その角《つの》を敵に向くる如く。
やはか、我を棄てじ、
生き得る限り生きん、生返らん。
恥辱も寧ろ我命《わがいのち》を刺激する酒となり、
老《おい》も却てわが明日《あす》の糧《かて》とならん。
我は、かよわく、蒼白き全身を露出《むきだ》し、
前《さき》に倒れし人人の血にのめりつつ進む。
苦痛へ、苦痛へ、闇の路へ…………
我は、かの「虚無」に融《と》け得ざれば。
×
ゐざりよ、ゐざり、ことことと、
ゐざり車を漕ぐゐざり。
往来《ゆきき》の多い街中《まちなか》の
しき石路や、ぬかる路、
雨のふる日も晴れた日も、
樫を削《けづ》つた木の片《へら》を、
堅い二つの櫂《かい》にして、
強い駱駝が根気よく
長い沙漠を行くやうに、
醜い風姿《なり》を日に曝《さら》し、
そことめあては無いながら、
亀の歩みを続けてく。
ゐざりよ、ゐざり、ことことと、
ゐざり車を漕ぐゐざり。
彼れは素性《すじやう》も生国《しやうこく》も
とくの昔に忘れてる。
青い額《ひたひ》に、どして、また
生れた日なんか思ひ出そ。
黒い苛酷な宿命の
悪病ゆゑに身は腐り、
親きやうだいに捨てられて
唯もう常に飢ゑてゐる。
以前は人を怨んだが、
そんな余裕も今は無い。
ゐざりよ、ゐざり、ことことと、
ゐざり車を漕ぐゐざり。
その淋しそな、単調な
車の音に合せつつ、
痺《しび》れた口を張りだして
断えず歌ふは歌でない、
慰めがたいたましひが
爛れた肉を噛み裂いて
おのが黒血《くろち》を啜り上げ、
唯くるしさと、ひもじさを
刹那々々に投げ出だす
荒い、短い、呻《うめ》きごゑ。
ゐざりよ、ゐざり、ことことと、
ゐざり車を漕ぐゐざり。
すべて忙しい世の中に
乞食の歌を誰が聞かう。
路ゆく人は目を反《そら》せ、
おまはりさんは叱り飛ばし、
わんぱくどもは石を投げ、
馬車、自動車は脅《おびや》かす。
華奢《くしや》な街家《まちや》を外《よそ》に見て、
地にへばりつく憂き身には、
風も邪慳に吹きつける、
雨もはげしく降りかかる。
ゐざりよ、ゐざり、ことことと、
ゐざり車を漕ぐゐざり。
大川端をあるく時、
彼れは折々おもひつめ、
いつそ死のかと、楽しそに
水をば覗くこともある。
しかし、木賃の片隅に、
彼れの子供が待つことを、
思ひだしては、曇つてた
瞳《ひとみ》の奥に火が光り、
「ああ、生きてたい」かう云つて、
また漕いでゆく、ことことと…………
×
われにも家あり、
花もなく、光もなく、愛もなく、飾りもなく…………
くろがねを経緯《たてぬき》にして作り、
獣《けもの》に於て檻《をり》と呼ぶもの、
これ、わが家なり。
無限の苦痛に対して
早く、わが感覚は慣されたり。
わが家は地の底に建ちて、唯だ冷《つめた》し、
石および氷よりも冷えし中《なか》に、
われは黙々として妄動す。
そは効果あるか、無駄なるか、
われ知らず。
唯だ、妄動は我が今日のすべてなり、
明日《あす》も然らん、明後日《あさつて》も…………
我は久しく太陽を見ざれど、
恐らく、彼は音の如く天の半を横ぎるならん、
太陽のために賀す、既に汝の脚《あし》の用なきを、
わが閾《しきゐ》は汝の訪はぬままに、静かに暗し。
いみじき光を有つ多くの星も、はた、
かの最も高き空の奥に遊びつつ、
我に一瞥だも投ぐる暇《いとま》なからん、
我は其等の星をも賀す。
我は知る、この檻《をり》の家を出づる期《ご》なきを、
また知る、孤独《こどく》は我が純清《じゆんせい》の「真」を汚さざるを。
なつかしきかな、狭く、つめたき鉄《てつ》の家よ、
借物《かりもの》ならぬ我力もて、我はここに妄動す。
[#地付き]よさの・ひろし
底本:「三田文学」三田文学会
1913(大正2)年5月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※底本の署名には、「よさの・ひろし」とあります。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ