青空文庫アーカイブ

舞姫
與謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蓮歩《れんぽ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)家|七室《ななま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)[#上記の詞書は、ポイントを下げて中央やや下がり目に]
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西の京三本樹のお愛様に
このひと巻をまゐらせ候
        あ  き
[#上記の詞書は、ポイントを下げて中央やや下がり目に]

うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩《れんぽ》のあとを思ふ雨かな

美くしき女《をなご》ぬすまむ変化《へんげ》もの来《こ》よとばかりにさうぞきにけり

家|七室《ななま》霧にみなかす初秋《はつあき》を山の素湯《さゆ》めで来《こ》しやまろうど

恋《こ》はるとやすまじきものの物懲《ものごり》にみだれはててし髪にやはあらぬ

船酔《ふなゑひ》はいとわかやかにまろねしぬ旅あきうどと我とのなかに

白百合《しろゆり》のしろき畑のうへわたる青鷺《あをさぎ》づれのをかしき夕《ゆふべ》

わかき日のやむごとなさは王城《わうじやう》のごとしと知りぬ流離《りうり》の国に

歌を見てうつぼ柱に秋雨のつたふやうなる涙の落ちぬ

日輪に礼拝《らいはい》したる獅子王の威とぞたたへむうらわかき君

みさぶらひ御髪《みぐし》に似るは乱菊《らんぎく》と申すと云ひぬ寝《ね》てのみあれば

かざしたる牡丹《ぼたん》火となり海燃えぬ思ひみだるる人の子の夢

われと燃え情火|環《たまき》に身を捲《ま》きぬ心はいづら行方《ゆくへ》知らずも

山々に赤丹《あかに》ぬるなる曙《あけぼの》の童《わらは》が撫でし頬《ほ》と染まりける

花草《はなぐさ》の満地《まんち》に白とむらさきの陣《ぢん》立ててこし秋の風かな

灯《ひ》に遠きうすいろぞめのあえかさの落花に似るを怨女《ゑんにょ》と云ふや

初夏《はつなつ》の玉の洞《ほら》出しほととぎす啼《な》きぬ湖上のあかつきびとに

朝に夜に白檀かをるわが息を吸ひたまふゆゑうつくしき君

木蓮《もくれん》の落花ひろひてみほとけの指とおもひぬ十二の智円《ちゑん》

罪したまへめしひと知ると今日を書き明日《あす》は知らずと日記《にき》する人を

春雨やわがおち髪を巣にあみてそだちし雛《ひな》の鶯の啼《な》く

二もとの橄欖《かんらん》しげる琅※《らうかん》[#「※」は「王へん」に「干」、第3水準1-87-83、P61-下段5首目]の亭の四方を船かよひけり

春の山|懸樋《かけひ》の水のとまりしを昨夜《よべ》の狐とにくみたまひぬ

遠つあふみ大河《たいが》ながるる国なかば菜の花さきぬ富士をあなたに

軒ちかき御座《みざ》よ火《ほ》の気《け》と月光のなかにいざよふ夜の黒髪

松かげの藤ちる雨に山越えて夏花使《なつばなづかひ》野を馳《は》すらむか

廻廊を西へならびぬ騎者たちの三十人は赤丹《あかに》の頬《ほ》して

きぬぎぬや雪の傘する舞ごろもうしろで見よと橋こえてきぬ

高き家《や》に君とのぼれば春の国河|遠白《とほじろ》し朝の鐘なる

長雨や出水《でみづ》の国の人なかば集《つど》へる山に法華経《ほけきやう》よみぬ

夕《ゆふべ》にはちるべき花と見て過ぎぬ親もたぬ子の薄道心《うすだうしん》に

淡色《うすいろ》の牡丹今日ちる時とせず厄日《やくび》と泣きぬ病《や》み僻《ひが》む人

保津川《ほづがは》の水に沿ふなる女松山《めまつやま》幹むらさきに東明《しののめ》するも

萌野《もえの》ゆき紫野ゆく行人《かうじん》に霰《あられ》ふるなりきさらぎの春

二十六きのふを明日とよびかへむ願ひはあれど今日も琴ひく

髪|香《かう》たき錦に爪をつつませておふしたてられ君にとつぎぬ

わが宿の春はあけぼの紫の糸のやうなるをちかたの川

ゆるしたまへ二人を恋ふと君泣くや聖母にあらぬおのれの前に

春いにて夏きにけりと手ふるれば玉はしるなり二十五の絃《いと》

すぐれて恋ひすぐれて君をうとまむともとよう人の云ひしならねど

ふるさとの潮の遠音《とほね》のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲

天《あめ》とぶにやぶれて何の羽かある夢みであれな病める隼《はやぶさ》

大夏《おほなつ》の近江《あふみ》の国や三井寺《みゐでら》を湖《うみ》へはこぶと八月雲す

われを見れば焔《ほのほ》の少女《をとめ》君みれば君も火なりと涙ながしぬ

梅雨晴《つゆばれ》の日はわか枝《え》こえきらきらとおん髪をこそ青う照りたれ

鶯の餌《ゑ》がひすがたやおもはれし妻は春さく花はやしける

ものいはぬつれなきかたのおん耳を啄木鳥《きつつき》食《は》めとのろふ秋の日

大木曾《おほぎそ》は霧や降るらむはゆま路を駄馬《だうま》ひく子とつれだち給へ

岡の家|瑠璃《るり》すむ秋の空の声たてゝ幾ひら桐おちにけり

ほととぎす山の法師が大音《たいおん》の初夜の陀羅尼《だらに》のこだまする寺

紫と黄いろと白と土橋《つちばし》を小蝶ならびてわたりこしかな

二とせや緞子《どんす》張りたる高椅子のうへに坐《ゐ》るまで児《こ》は丈のびぬ

円山《まるやま》の南の裾の竹原にうぐひす住めり御寺《みてら》に聞けば

たたかひは見じと目とづる白塔《はくたふ》に西日しぐれぬ人死ぬ夕《ゆふべ》

遠《をち》かたに星のながれし道と見し川のみぎはに出でにけるかな

物思へばものみな慵《もの》う転寝《うたたね》に玉の螺鈿《らでん》の枕をするも

壁張や花紋のなかにそちむきの黒髪うつる春の夜の家

春の宵|壬生《みぶ》狂言の役者かとはやせど人はものいはぬかな

比叡《ひえ》の嶺《ね》にうす雪すると粥《かゆ》くれぬ錦織るなるうつくしき人

おとうとはをかしおどけしあかき頬《ほ》に涙ながして笛ならふさま

沙羅双樹《さらさうじゆ》しろき花ちる夕風に人の子おもふ凡下《ぼんげ》のこゝろ

北海の鱒《ます》積みきたる白き帆を鐘楼《しゆろう》に上《のぼ》り見てある少女《をとめ》

五月雨《さつきあめ》春が堕《お》ちたる幽暗の世界のさまに降りつづきけり

春の夜や聖母聖なり人の子の凡慮知らじと盗みに来しや

野社《のやしろ》や榛《はん》の木折れて晩秋の来しと銀杏《いてふ》の葉に吹かれ居る

君にをしふなわすれ草の種まきに来よと云ひなばおどろきて来む

京の衆《しゆ》に初音まゐろと家ごとにうぐひす飼ひぬ愛宕《をたぎ》の郡《こほり》

知恩院《ちおゐん》の鐘が覚《さ》まさぬ人さめぬ扇もとむるわが衣《きぬ》ずれに

あやまちは君を牡丹とのみいはで花に似し子をかぞへけるかな

君は死にき旅にやりきとまろ寝しぬうしろの人よものないひそね

初夏のわか葉のかげによき香する煙草《たばこ》をのむをよろこぶ人と

春そよと風ふく朝はおん墓に桜ちらむとなつかしき父

おもはぬを罪と知る日の君おもひ涙ながれてはてなき日なり

わが知らぬわれ恋ふる子のおもひ寝の来しとゆかしむ琴ききし夢

鳴滝《なるたき》や庭なめらかに椿ちる伯母の御寺のうぐひすのこゑ

六月《みなつき》のおなじ夕に簾《すだれ》しぬ娘かしづく絹屋と木屋と

大堰川《おほゐがは》山は雄松《をまつ》の紺青《こんじやう》とうすき楓《かへで》のありあけ月夜

思ひたまへ御胸《みむね》の島に糧《かて》足らずされど往《い》なれぬながされびとを

君が家《や》につづく河原のなでしこにうす月さして夕《ゆふべ》となりぬ

夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり

香盤《かうばん》に白檀そへて五月雨《さみだれ》の晴間を告げぬさもらひびとは

君まさぬ端居《はしゐ》やあまり数おほき星に夜寒をおぼえけるかな

朝ぼらけ羽《は》ごろも白《じろ》の天《あめ》の子が乱舞するなり八重桜ちる

春の海いま遠《をち》かたの波かげにむつがたりする鰐鮫《わにざめ》おもふ

もゝ色の靄《もや》あたたかく捲く中にちさき花なる我かのこゝち

誰《た》れが子を殯《もがり》におくる銅拍子《どびやうし》ぞ秋の日あびて一列白き

梅の花たき火によばれしら髪をかきたれ来なる隣の君よ

白き羽《は》の幾鳥とべば山頂の雲いざよひぬ秋の湖

仁和寺《にんなぢ》の門跡《もんぜき》観《み》ます花の日と法師幕うつ山ざくらかな

元日や長安《ちやうあん》に似る大道に遣羽子《やりはご》したる袖《そで》とらへけり

羽子板に似たりといはばおこられむやりはごすとて褄《つま》とる人を

ほととぎす水ゆく欄にわれすゑてものの涼しき色めづる君

うらさびしわが家《や》のあとに家《や》つくると青埴《あをはに》盛るを見たるここちに

磯草にこほろぎ啼くや夕月の干潟《ひがた》あゆみぬ人五六人

紫野なでしこ折ると傘たたみ三騎《さんき》の人に顔見られけり

夏まつりよき帯むすび舞姫に似しやを思ふ日のうれしさよ

君を見て昨日《きのふ》に似たる恋しさをおぼえさせずば神よ詛《のろ》はむ

このつかのま悲みの日に伝ふべき甘さと慄《ふる》へ美くしと笑《ゑ》み

髪ながきおんかげ渓《たに》を深う落ち流に浮きぬしろがね色に

高野川河原のかなた松が枝《え》にかはせみ下《お》りぬ知る人の家

ふるき城は立てりしづかに山上のわか葉そよぎの薫《くん》ずる雨に

うすいろを着よと申すや物焚《ものた》きしかをるころものうれしき夕

長月の御苑《ぎよゑん》の朝や露わぶと羅蓋《らがい》してまし白菊の花

うたたねの御枕あまた候《さふら》ふなりかひなも伽羅《きやら》の箱も鼓も

相人《さうにん》よ愛欲せちに面痩《おもや》せて美くしき子に善きことを言へ

牛つれて松明《たいまつ》したる山少女《やまをとめ》湖《うみ》ぞひゆけば家をしへける

春の月縁《ゑん》の揚戸《あげど》の重からば逢はで帰らむ歌うたへ君

あくどしや少し恋しとなす人を撓《たゆ》まず寝《い》ねず思ふと云ひぬ

日は暮れぬ海の上にはむらさきの菖蒲《あやめ》に似たる夕雲のして

たなばたや簾《すだれ》の外《と》なる香炉《かうろう》のけぶりのうへの天の河かな

妹《いも》が間は床の瑪瑙《めなう》の水盤にべにばす咲きぬ七月|七日《しちにち》

ただふたり海の岩草花しろき夜あけに乗りぬ上総《かづさ》の船に

摘みすてし野薔薇ながれぬ夕川の橋の柱にただよひつつも

公孫樹《こうそんじゆ》黄にして立つにふためきて野の霧くだる秋の夕暮

ほととぎす安房下総《あはしもふさ》の海上に七人《ななたり》ききぬ少女子《をとめご》まじり

ゆゑしらずわが病むらしの時わかぬ脈うつ手とり死なむと云ふや

ちぬの浦いさな寄るなるをちかたはひねもす霞《かす》む海恋しけれ

春の里舞ぎぬほさぬ雨の日の柳は白き馬をつながむ

君かへらぬこの家《や》ひと夜に寺とせよ紅梅どもは根こじて放《はふ》れ

かきつばた白と紫くまなして流るる水に鯉の餌かはむ

粧室《けはひや》の鏡に浪《なみ》のうつるなり海の風めで窓あけし家

かもめゐるわたつみ見ればいだかれて飛ぶ日をおもふさいはひ人よ

ゆく春や葛西《かさい》の男|鋏刀《はさみ》して躑躅《つつじ》を切りぬ居丈《ゐだけ》ばかりに

おん舟に居こぞる人の袴《はかま》より赤き紅葉《もみぢ》の島さして来ぬ

燭《しよく》さして赤良小船《あからをぶね》の九つに散り葉のもみぢ積みこそ参れ

大赤城《おほあかぎ》北|上《かみ》つ毛《け》の中空《なかぞら》に聳《そび》やぐ肩を秋のかぜ吹く

春雨の山しづけさよ重なりて小牛まろぶも寝てあれと思ふ

秋の人|銀杏《いてふ》ちるやと岡に来て逢ひにける子と別れて帰る

うつら病む春くれがたやわが母は薬に琴を弾《ひ》けよと云へど

やはらかにぬる夜ねぬ夜を雨しらず鶯まぜてそぼふる三日

夕顔やこよと祈りしみくるまをたそがれに見る夢ごこちかな

薬草の芽をふく伯父の草庵《さうあん》に琴ひく人を訪《と》へと思ふ日

ふたたびは寝釈迦《ねじやか》に似たるみかたちを釘する箱に見む日さへ無き(父君の日に)[#「(父君の日に)」はポイントを下げる]

牡丹うゑ君まつ家と金字《きんじ》して門《かど》に書きたる昼の夢かな

冬の日の疾風《はやて》するにも似て赤きさみだれ晴の海の夕雲

春の水船に十《と》たりのさくらびと鼓うつなり月のぼる時

夜《よ》によきは炉《ろ》にうつぶせるかたちぞとうきおん人のものさだめかな

君が妻いとまたまはば京に往《い》なむ袂《たもと》かへして舞はむと思へば

ほととぎす海に月てりしろがねのちひさき波に手洗ひをれば

夕ぐれの玉の小櫛《をぐし》のほそき歯に秋のこゑ立ておちにける髪

水引《みづひき》の赤《あけ》三尺の花ひきてやらじと云ひし朝露の路

冬川は千鳥ぞ来啼《きな》く三本木《さんぼんぎ》べにいうぜんの夜着《よぎ》ほす縁に

春の雨高野の山におん児《ちご》の得度《とくど》の日かや鐘おほく鳴る

うすものや六根《ろくこん》きよめまつらむとしら蓮風《はすかぜ》す朝舟人に

しら樺の折木《をれき》を秋の雨うてば山どよみして鵲《かささぎ》鳴くも

春の潮遠音ひびきて奈古《なこ》の海の富士赤らかに夜明けぬるかな

御胸にと心はおきぬ運命の何すと更に怖れぬきはに

梅幸《ばいかう》の姿に誰れがいきうつし人数《にんず》まばゆき春の灯の街

桟橋《さんばし》や暮れては母のふところに入るとごとくに船かへりきぬ

玉ひかるべにさし指の美々《びび》しさにやらで別れし牧の花草

夕月夜さくらがなかのそよ風に天女さびたる御手《みて》とり走《わし》る

いづら行かむ君の案内《あない》に菜の花の二すぢ路の長しみじかし

舞ごろも五たり紅《あけ》の草履《ざうり》して河原に出でぬ千鳥のなかに

百とせをかはらぬことは必らずと誓はぬ人を今日も見るかな

秋の路|立楽《たちがく》すなる伶人《れいじん》の百歩にあると朝かぜを聴く

牡丹いひぬ近うはべらじ身じろぎにうごかばかしこ王冠の珠

わがこころ君を恋ふると高ゆくや親もちひさし道もちひさし

春の雨|衆生《しゆじやう》すくひの大力者《だいりきしや》ぬれていましぬさくらの中に

秋霧や林のおくのひとつ家《や》に啄木鳥《きつつき》飼ふと人をしへけり

よう聞きぬ夢なる人の夢がたりするにも似たる御言葉なれど

君とわれ葵《あふひ》に似たる水草の花のうへなる橋に涼みぬ

召されては宿直《とのゐ》やつれの手もたゆく草書《さうがき》したり暮れゆく春を

悪名《あくみやう》の果《くわ》あり今日ある因縁の君を見し日は遠世《とほよ》となりぬ

来世とやすててこし日の母の泣く夢を見る子の何をののかむ

みづからは隙なく君を恋ふる間に老いてし髪と誇りも為《す》べき

すそ梳《す》けば髪あざやかに琴緒《ことを》しぬ絃《いと》の手知らば弾《ひ》きに来よ風

人|怨《ゑ》じて我ぞよりたる小柱に鬢香《びんが》のこらむ其下《そのもと》に寝よ

冬はきぬ室《むろ》に夢見む春夏秋ひつじとまじる草の寝ごころ

いとかすけく曳くは誰《た》が子の羅《ら》の裾ぞ杜鵑《とけん》まつなるうすくらがりに

七つより袈裟《けさ》かけならひ弓矢もて遊ばぬ人も軍《いくさ》に死にぬ(その僧の親達に)[#「(その僧の親達に)」はポイントを下げる]

籠《こ》はなてば螢とまりぬ香木《かうぼく》のはしらにひとつ御髪《みぐし》にひとつ

六月の氷まゐりぬ深宮《しんきう》の白の珊瑚《さんご》のみまくらもとに

世に君の御手《みて》えて今は死なむとぞ昼夜感じ三とせの余《よ》へぬ

春のかぜ加茂川こえてうたたねの簾《すだれ》のなかに山|吹《ふ》き入れよ

五六人をなごばかりのはらからの馬車してかへる山ざくら花

森ゆけば靄《もや》のしづくに花さきしすみれ摘むとぞ名をのる子かな

紅蟹《べにがに》をさはな怖《お》ぢそねかくれたる前髪みゆれ砂山船に

磯松の幹のあひだに大海のいさり船見ゆ下総《しもふさ》の浦

絽の蚊帳の波の色する透《す》きかげに松|千《ち》もとみる有明の月

月の夜の廊《らう》に船くる海の家すだれにかけぬ花藻のふさを

春くれては花にとぼしき家ながら恋しき人を見ぬ日しもなき

十余人縁にならびぬ春の月八阪の塔の廂《ひさし》離ると

水を出でて白蓮さきぬ曙のうすら赤地の世界の中に

わが家や芥《あくた》ながるる川下も美くしと見て在《あ》りける君よ

森かげにならぶ赤斑《あかふ》の石獅子の一つ一つに熱《あつ》き頬《ほ》よる日

われひとり見まく欲《ほ》りする貪欲を憎まず今日も君おはしけり

さくら貝遠つ島辺の花ひとつ得つと夕《ゆふべ》の磯ゆく思《おもひ》

みだれ髪君を失《な》くすと美くしき火焔《ほむら》燃えたる夢の朝かな

かきつばた扇つかへる手のしろき人に夕の歌かかせまし

朝戸出《あさとで》や離宮まねびし家主《いへぬし》と隣り住むなる春がすみかな

富士の山浜名の海の葦原《あしはら》の夜明の水はむらさきにして

水こえて薄月させる花畑にあやめ剪《き》るなり戸出でし人は

責めますな心にやすきひと時のあらば思はむ法《のり》の母上

載せてくる玉うつくしき声あると夏の日すみぬわれ水下《みづしも》に

山かげを出しや五人がむらさきの日傘あけたる船のうへかな

春の夜の夢のみたまとわが魂《たま》と逢ふ家らしき野のひとつ家

傘ふかうさして君ゆくをちかたはうすむらさきにつつじ花さく

わが知らぬ花も咲かむと雑草に春雨まてる隠者《ゐんじや》ぶりかな

大机|重陽《ちようやう》すぎの父の日をしら菊さして歌かきて居ぬ

円山や毛氈《まうせん》しきてほととぎす待つと侍《はべ》りぬ十四と十五

釣鐘にむら雨ふりぬ黒谷《くろだに》やぬるでばやしの紅葉のなかに

あづまやの水は闇ゆくおとながらひけば柱にほのしろき藤

御社《みやしろ》の尾白の馬の今日も猶《なほ》痩せず豆|食《は》む故郷《ふるさと》を見ぬ

戸に隠れわと啼く声の能《よ》う化けし狐と誉めぬ春の夜の家

舞ごろも祇園の君と春の夜や自主権現に絵馬うたす人

くれなゐの綾《りよう》の袴《はかま》の腰結《こしゆひ》のあたりに歌は書かむと思へ

美くしき御足のあとに貝よせてやさしき風よ海より来るか

いつの世かまたは相見む知らねどもただごと言ひて別るる君よ

二日ありて百二十里は遠からぬ障子のうちに君を見るかな

蝶のやうにものに口あて御薬《みくすり》を吸うて来《こ》うとも思《おぼ》しはよらじ

春の月ときは木かこむ山門とさくらのつつむ御塔のなかに

遠浅に鰈《かれひ》つる子のむしろ帆《ぼ》を春かぜ吹きぬ上総《かづさ》より来て

塔見えて橋の半《なかば》はかすむ嵯峨|少人《せうじん》具して鮎くむ日かな

上《かみ》つ毛《け》や赤城はふるき牧にして牛馬はなつ春かぜの山

宿乞ひぬ川のあなたは傘さしし雨の後《のち》なるおぼろ月夜に

三本木千鳥きくとてひそめきてわれ寝《い》ねさせぬ三四人かな

橋の下尺をあまさぬひたひたの出水《でみづ》をわたり上つ毛に入る(以下六首赤城山に遊びける夏)[#「(以下六首赤城山に遊びける夏)」はポイントを下げる]

石まろぶ音にまじりて深山鳥《みやまどり》大雨《たいう》のなかを啼くがわびしさ

裾野雨負へる石かと児をまどひ極悪道《ごくあくだう》の旅かと思ひ

みづうみに濁流おつる夜の音をおそれて寝ねぬ山の雨かな

大剛《だいがう》の力者あらびぬ上つ毛の赤城|平《だひら》に雨す暴風《あらし》す

わが通ひ路|棹《さを》に花ある沙羅《しやら》も折れ沼《ぬ》じりの家は夕日するかな

くれなゐの牡丹おちたる玉盤《ぎよくばん》のひびきに覚めぬ胡蝶と皇后《きさい》

丸木橋おりてゆけなと野がへりの馬に乗る子にものいひにけり

さざなみにゆふだち雲の山のぼる影して暮れぬみづうみの上

草に寝てひるがほ摘みて牧の子がほとゝぎす聴くみちのくの夏

みじろがず一縷《いちる》の香ぞ黒髪のすそに這《は》ふなれ秋の夜の人

春の山|比叡《ひえ》先達《せんだつ》は桐紋《きりもん》の講社《かうじや》肩衣《かたぎぬ》したる伯父かな

君を思ひ昼も夢見ぬ天日《てんじつ》の焔のごとき五月《さつき》の森に

船の灯や水蘆むらにわかれては海となりたる川口の島

大駿河《おほするが》裾野の家に垂氷《たるひ》する冬きにけらし山は真白き

夕舟やわがまろうどの黒髪にうす月さしぬしら蓮の水

とつぎ来ぬかの天上の星斗《せいと》よりたかだか君を讃《さん》ぜむために

花に寝て夢おほく見るわかうどの君は軍《いくさ》に死ににけるかな(禰津少尉の旅順二〇三高地の役《えき》に歿しけるに)[#「(禰津少尉の旅順二〇三高地の役に歿しけるに)」はポイントを下げる]

みづからの若さに酔へる痴人《しれびと》は羽ある馬に載せて逐《お》へかし

おん方の妻と名よびてわれまゐろさくら花ちる春の夜の廊

紫に春日《かすが》の森は藤かかる杉大木のありあけ月夜

秋の水なかの島なるおん寺の時鐘うちぬ月のぼる時

病む君のまゐれと召しぬおん香や絵本ひろごる中の枕に

うらわかきおんそぎ髪の世をまどひ朝暮《てうぼ》の経に鶯なくも

初秋や朝顔さける廐《うまや》にはちさき馬あり驢《ろ》あり牛あり

清滝の水ゆく里は水晶の舟に棹して秋姫の来る

ゆく春の藤の花より雨ふりぬ石に死にたる紅羽《べには》の蝶に

秋雨は別れに倚《よ》りしそのかみの柱のごとくなつかしきかな

秋のかぜ今わかかりし画《ゑ》だくみの百日《ももか》かへらぬ京を吹くらむ(西の京なる岡直道の君の追悼に)[#「(西の京なる岡直道の君の追悼に)」はポイントを下げる]

手のわかう仮名しりひける字を笑みぬ死なむと見しは誰《たれ》ならなくに

行水や柿の花ちる井のはたの盥《たらひ》にしろき児をほめられぬ

波の上を遠山はしる風のたび解けて長くもなびきける髪

ふるさとに金葉集をあづけ来ぬ神社《みや》に土座《どざ》する乞食《かたゐ》の媼《うば》に

大馬の黒の背鞍に乗りがほの甥《をひ》に訪《と》はれぬ野分《のわき》する家

君見ゆるその時わかぬ幻境の思出ひとつ今日も哀しき

画師の君わが歌よみし京洛の山は黄金の泥《でい》して描《か》けな

白《はく》牡丹さける車のかよひ路に砂金《しやごん》しかせて暮を待つべき

おん胸の石をすべりし逸矢《それや》ともつくつく日記《にき》を見る日もありぬ

扇ふたつ胡蝶のさまに夕闇の中をよりきぬ灯のあづま屋に

菜の花の御寺も桃のおん堂も仏うまるる人まうでかな

ひがし山やどのあるじにおどされぬひひなぬすみて来しやとばかり

やはらかき少女《をとめ》が胸の春草に飼はるるわかき駒とこそ思へ

君うれし恋ふと告げたる一瞬に老いてし人をよくみとりける

あらし山雨の戸出でて大きなる舟に人まつただひとりかな

この雨に暮れむとするやひもすがら牡丹のうへを横し斜《ななめ》し

秋かぜは鈴《れい》の音かな山裾の花野見る家の軒おとづれぬ

春の雨橋をわたらむ朝ならば君は金糸《きんし》の簑《みの》して行けな

秋の風きたる十方玲瓏《じふばうれいろう》に空と山野と人と水とに

わが哀慕雨とふる日に※《いとど》[#「※」は「虫へん」に「車」、第3水準1-91-55、69-下段9首目]死ぬ蝉死ぬとしも暦を作れ

川ぞひの芒《すすき》と葦のうす月夜小桶はこびぬ鮎ひたすとて

よき朝に君を見たりきよき宵におん手とりしと童泣《わらはなき》すも

まくら二尺さりて水ゆくあづま屋に螢こよなうもてはやす人

舞の手を師のほめたりと紺暖簾《こんのれん》入りて母見し日もわすれめや

あけがたの鶯ききし空耳の君がまた寝を難じて居たり

わが肩にいとやごとなき髪おちてやがて捲《ま》かれて消し春の夢

君に似しさなりかしこき二心《にしん》こそ月を生みけめ日をつくりけめ

この恋君《こひぎみ》うらみたまへどそひぶしの寝物語もさまよきほどに

野ゆく君花に聴かずや語部《かたりべ》も伝へずありし幾ものがたり

おもはれぬ人のすさびは夜の二時に黒髪すきぬ山ほととぎす

月の夜をさそへど出でずこほろぎを待つと云ふなるとなり人かな

春の月おとうとふたり笛ふいて上ゆく岡を母とながめぬ

きぬぎぬや春の村びとまださめぬ水をわたりし河下の橋

春の朝われ黒髪にたきものす鶯まゐれ目ざめし人に

炉にむかひ鼓あぶりてものいふを少女と誉めぬわれいつく母

君が妻はなでしこ挿して月の夜に鮎の籠あむ玉川の里

夕ぐれのさびしき池をわかやかに青葦《あをあし》ふきぬ初夏の風

あつき日の流《ながれ》に姉と髪あらひなでしこさして夕を待ちぬ

岸に立つ袖ふきかへしもみうらの紅《あけ》を点じてゆくや河かぜ

目に青き穂麦の中にももいろのひくき靄《もや》する花畑かな

おほかたを人とおもはず我|猛《だけ》くなりにけらしな忘られし君

くちびると両手に十の細指はわれの領なる花なれば吸ふ

ふるさとを多く夢みぬ兄嫁の美くしきをば思ふと無きに

彼《か》の天《あめ》をあくがれ人は雲を見てつれな顔しぬ我に足らじか

帆織る戸へ信天翁《おきのたいふ》を荷《にな》ひ入る人めづらしや初冬の磯

紅梅に幔幕《まんまく》ひかせ見たまひぬ白尾の鶏《かけ》の九つの雛

しら梅や二百六十|二人《ふたたり》は女王《によわう》にいます王禄の庭

花に似し人を載せたる唐船《たうせん》に大君ふきぬ春の山かぜ

男こそうれしと見ぬれいかがせむあらぬ名着たる大難の日に

舞姫のかたちと誉めよむかしの絵そへ髪たかく結ひたる人を

春の雨障子のをちに河暮れて灯に見る君となりにけるかな

ほととぎす戸をくる袖の友染に松の月夜のつづく住の江

人妻は高き名えたる黒髪のうしろを見せて戸にかくれけり

京の宿に五人の人の妻さだめ妻も聞く夜の春の雨かな

磯草にまどろむ君の夢が生むさくら貝こそひろひきにけれ

天人の飛行《ひぎやう》自在にしたまふとひとしきほどのものたのむなり

頬《ほ》に寒き涙つたふに言葉のみ華やぐ人を忘れたまふな

半身にうすくれなゐの羅《うすもの》のころもまとひて月見ると言へ

(明治三十九年一月)[#地より1字上げ]



底本:「現代日本文学大系25 與謝野寛・與謝野晶子・上田敏・木下杢太郎・吉井勇・小山内薫・長田秀雄・平出修集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月5日初版第1刷発行
入力:福岡茂雄
校正:ちはる
2000年11月30日公開
2003年5月18日修正
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