青空文庫アーカイブ

遺書
與謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)見て下さる方《かた》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)した程|憎《にく》み

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(例)[#「た」は底本では脱落]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)足がふら/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 私にあなたがしてお置きになる遺言と云ふものも、私のします其《そ》れも、権威のあるものでないことは一緒だらうと思ひます。ですからこれは覚書です。子供の面倒を見て下さる方《かた》にと思ふのですが、今の処《ところ》私の生きて居る限りではあなたを対象として書くより仕方がありません。私は前にも一度こんなものを書きました。もうあれから八年になります。花樹《はなき》と瑞樹《みづき》の二人が一緒に生れて来る前の私が、身体《からだ》の苦しさ、心細さの日々《にち/\》に募るばかりの時で、あれを書かなければならなくなつたのだと覚えて居ます。十二月の二十五日の午後から書き初めたのでした。今朝《けさ》は耶蘇降誕祭《クリスマス》の贈物《おくりもの》で光《ひかる》と茂《しげる》の二人を喜ばせて、私等二人も楽しい顔をして居たと確か初めには書いたと思つて居ます。その時のも覚書以上の物ではありませんし、唯《たヾ》今と同じやうにあなたの見て下さるのに骨の折れないやうにと雑記帳へ書くこともしたのでしたが、今よりは余程瞑想的な頭が土台になつて居ました。あなたの次《つい》で結婚をおしになる女性に就いていろ/\なことを書いてありました。数人の名を挙《あげ》て批判を下したり、私の希望を述べたりしたのでした。思へば思ふ程滑稽な瞑想者でした、私は。瞑想は下らないものとして、あなたに僭上《せんじやう》を云つたものとして、併《しか》しながらあの時にA子さんやH子さんのことをあなたの相手として考へたやうに、今も四人や五人はそんな人のあつた方《はう》が、この覚書を読んで下さる時のあなたを目に描《か》いて見る私にも幸福であるやうに思はれます。あの方《かた》よりさう云ふ人を今のあなたは持つておいでにならない、あの方《かた》は私が見たこともなし、委細《くは》しい御様子も聞いたことはありませんけれど、近年になりまして私が死んだ跡《あと》のあなたはどうしてもあの方《かた》の物にならなければならない、私の子を世話して下さる人はあの方《かた》よりないと云ふことがはつきりと、余りにはつきりと私に思はれて来ました。自分の死後の日を見廻す中にも、私は傷《いた》ましくてその絵の掛つた方《はう》は凝視することが出来ません。私は冷く静かな心になつて居ると思つて居ながら、あなたの苦痛のためにはこれ程の悲しみを感じるのかと自《みづか》ら呆れます。あの方《かた》はあなたの初恋の方《かた》で、然《しか》も何年か御一緒にお暮しになつた方《かた》で、あなたのためにその後《のち》の十七八年を今日《けふ》まで独居しておいでになる方《かた》であつても、悲しいことにはあなたよりもつとお年上なのでせう。去年あの方《かた》のお国から出ておいでになつた岩城《いはき》さんが、私等夫婦をもすこし開《あ》け広げな間柄であらうとお思ひになつて、あの方《かた》のことをいろ/\とお話しになつた時に、年は自分よりも確か二つ三つ上だと云つておいでになりました。岩城《いはき》さんはあなたよりまた二つ三つ上なのでせう、であつて見ればあの方《かた》の髪にはもう白い毛が出来て居るでせう、お目の下の皮膚から紫色になつた血が透《す》いて見えるでせう。真実《ほんたう》にあなたはお可哀相《かあいさう》です。お可哀相《かあいさう》です。あの方《かた》のことをあなたが私へお話しになつたことは唯《たヾ》一度しかありません。結婚して一月《ひとつき》も経たない時分でした。つまりお互《たがひ》に自己の利益などは考へ合はなかつた時だつたのです。ですからあなたは虚心平気でいらつしつた。昔の恋人のためにしみじみとお話しなさいました。けれどその晩を私は一睡もようしないで明《あか》したことを覚えて居ます。

     二

 あの××県のあなたの兄様《にいさん》の拵《こしら》へておいでになる女学校を、神童時代の次の十八九のあなたが教えておいでになる時、其処《そこ》の舎監で、軍人の未亡人の切下げ髪の人とかが、毎夜毎夜提灯を点《とも》して遠いあなたの住居《すまゐ》を訪ねて来て、あなたを挑《いど》まうとしながら表面《うはべ》では学校のあの二人の才媛の何方《どちら》をあなたは未来の妻にしたいと思ふかなどと云ふ話ばかりをして居たと云ふこと、あなたは第一の才媛は容貌《きりやう》が悪いから厭だ、あの人ならとあの方《かた》のことをお云ひになつたのだと云ふこと、京の北山《きたやま》の林の中へ鉄砲を持つて入《はひ》つて、あの方《かた》と添はれない悲しみに死なうとなすつたこと、それから五六年もしてあなたとあの方《かた》が一緒になつて、女の赤さんを生んで、そしてその子が死んでからお別れになつた時、あの方《かた》は大きい柳行李《やなぎがうり》に充満《いつぱい》あつたあなたの文《ふみ》がらをあなたの先生の処《ところ》へ持つて行つて焼いたと云ふこと、こんなことでした。私が何故《なぜ》別れるやうになつたのでせうと云ひましたら、赤坊《あかんぼう》の死んだのが悪かつたのだとあなたは云つておいでになりました。年上の女と恋をするのはどんな気持なものかとも私がお尋ねしましたら、綺麗な人だつたせいか自分は年上とも思はなかつたとあなたは訳《わけ》なしに云つておいででした。よくあなたや私の知つた人が、年上の女を娶《めと》つたり、年下の男の処《ところ》へ行つたりするのを見て何故《なぜ》ああした気になれるだらうとあなたはよく不思議がつておいでになりました。私は何時《いつ》も昔のあなたがお思ひになつたやうに年《とし》と云ふものの目に映つて来ない幸福な気《き》に包まれた人達なのであらうと、さう云ふ人達に対しては思つて居るだけなのです。あの方《かた》が何年間かのあなたの心を蓄《たくは》へた行李《かうり》を開《あ》けて人に見せ、焼き尽しもした程|憎《にく》みを見せながらそのあなたの弟や妹に、実姉妹のやうな交際を猶《なほ》続けて来て居ることは三四年前まで私は知りませんでした。あなたは私よりもつと後《あと》までお知りにならなかつたかも知れません。知つておいでになつたかも知れない。或《あるひ》はまた西洋においでになる時にも門司《もじ》でお逢ひになつた妹さんの口から何事もあなたへ伝へられなかつたかも知れません。私はお艶《つや》さんとあなたのお留守に一月《ひとつき》程一緒に居ました時、お艶《つや》さんは私を苦《くるし》めたいのでもなく、何《なに》の気なしによくあの方《かた》のことを賞《ほ》めてお聞かせになりました。烈《はげ》しいヒステリイの起つてゐる時などは、悲しい程にさうでした。あなたの兄上や嫂《あによめ》の君の信用の最も厚い婦人と云ふのはあの方《かた》であるとも聞きました。私が幾人も残して行《ゆ》く子供を育てヽ下さるであらうと依頼心をあの方《かた》に起《おこ》すやうになつたのもお艶《つや》さんの言葉が因《いん》になつて居るのです。岩城《いはき》さんが某氏の後添《のちぞひ》にあの方《かた》を世話しやうかと思ふと云つておいでになつた時に、私は滑稽なことを云ふ人であると思つて笑つたのでしたが、あの時はあなたも傍《そば》においでになつて、私がさも心から嬉しげに笑つたとはお思ひにならなかつたでせうか、私はあなたのその時の顔をよう見ませんでしたけれど。
 私は子供のことばかりを書いて置かうと思つたのでしたが、前に書いた遺書のことから云はないでもいいことを書きました。

     三

 私が今日《けふ》またこんな物を書いて置かうと思ひましたのは、花樹《はなき》と瑞樹《みづき》が学校へ草紙代や筆代で四十六銭づヽ持つて行《ゆ》かねばならないと云ひまして、前日先生のお云ひになつたことを書いて来た物を持つて来て見せました時、私が居なくてこの子等がこんな物を見せる人がなかつたならと、ふとそんな気がしまして、そんな事などをお頼みする物を書かうと思つたのでした。私は今また遺書ではありませんが、四五年前に死を予想して書いた物のあつたことをふと思ひ出しました。それは私が亡霊になつて家《うち》へ来ることにして書いたものでした。
 東紅梅町《ひがしこうばいちやう》のあの家は書斎も客室《きやくま》も二階にあつたのでした。階下《した》に二室《ふたま》続いてあつた六畳に分《わか》れて親子は寝て居ました。亡霊の私が出掛けて行《ゆ》くのは無論|夜《よる》の夜中《よなか》なのです。ニコライのドオムに面した方《はう》の窓から私は家の中へ入《はひ》ると云ふのでした。私は何時《いつ》も源氏の講義をした座敷の壁の前に立つて居ました。青玉《せいぎよく》のやうな光が私の身体《からだ》から出て、水の中の物がだんだんと目に見えて来ると云ふ風に其処等《そこら》がはつきりとして来ると云ふやうなことは、私が書かうと思つたことではありません。私はやつぱり電気灯のスイツチを廻して座敷の真中《まんなか》へ灯《ひ》を点《つ》けました。室《へや》の中は隅々まで綺麗になつて居ました。私は昼間|階下《した》の暗いのに飽《あ》いて二階へ上《あが》つて来て居る子供等が、紙片《かみきれ》や玩具《おもちや》の欠片《かけら》一つを落してあつても、
「この穢《きたな》いのが目に着かんか。」
 とお睨《にら》み廻しになるあなたの顔が目に見えて身慄《みぶる》ひをすると云ふのです。または自身達の散《ちら》して置いた塵《ちり》でなくても、
「この埃《ほこり》が目に見えないのか。」
 と子供等は云はれたであらう、梯子|上《のぼ》りにだんだん怒《いか》りが大きくなつて来るあなたは、終《しま》ひには縮緬《ちりめん》の着物を着た人形でも、銀の喇叭《らつぱ》でも、筆の莢《さや》を折るやうにへし折つて縁側から路次へ捨てヽおしまひになるやうなこともあつたに違ひないと思ふと云ふのでした。床の間は何時《いつ》来て見ても私の生きて居た日に少しの違ひもない品々の並べやうがしてあると云ふのです。唯《た》だ私の詩集が八冊程|花瓶《はながめ》の前へ二つに分けて積まれてあるのだけは近頃からのことであると思ふと云ふのです。本の彼方此方《あちこち》には白い紙が栞《しおり》のやうにして挟《はさ》んであると云ふのです。本の上には京の茅野《ちの》さんの手紙が置いてあるのです。私は全集に就いてして呉れた茅野《ちの》さんの親切な注意をよく読んで見たいと思ひながら遅くなるからと思つてそれは廃《や》めると云ふのです。また私は詩集の中がどんな風に整理されてあるのか見たいとも思ふのですが、自分がどうすることも出来ないのであるから仕方がないと諦めます。併《しか》しさう思つてしまへば、子供を見るためにかうして時々この家へ来ると云ふことも同じ無駄なことであらうと苦笑するのです。私の作物《さくぶつ》には生んだ親である自分にも勝《まさ》つた愛を掛けて呉れる人達が少《すくな》くも幾人かはある。私の分身の子には厳しい父親だけよりない、さうであるからなどヽ恥《はづか》しい気もありながら思ふのです。最初には気が附かなかつたのですが、柳箱《やなぎばこ》の上に私の写真が一枚置いてあるのです。何処《どこ》かの雑誌社から返しに来たのであらうと思ふと云ふのです。

     四

 今日《けふ》はもう書斎へは入《はひ》つて見ないで置かうと私は思ふのです。死ぬ少し前まで一日のうちの八時間は其処《そこ》で過《すご》して、悲しいことも嬉しいことも其処《そこ》に居る時の私が最も多く感じた処《ところ》なんですから、自身の使つて居た机が新刊雑誌の台になつたりして居る変り果てた光景は見たくないからなのです。併《しか》し階下《した》へ降りるには其処《そこ》を通つて梯子口へ出なければならないと思つて、また自分は亡霊であるから梯子段などは要らないと非常に得意な気分になつて、階下《した》へすつと抜けて入《はひ》るのです。
 子供の寝部屋には以前の二燭光よりは余程明るい電気灯が点《つ》けられてあるのです。子供は淋しがらせたくないあなたの心持を私は嬉しく思ふのです。処《ところ》でね、蚊帳《かや》の中には寝床が三つよりない、光《ひかる》と茂《しげる》と、それから女の子が一人より居ません。亡霊の胸は轟《とヾろ》きます。どうしても三つよりない。然《しか》も一つの寝床には確かに一人づヽより寝て居ません。寝て居る方《はう》は瑞樹《みづき》なのであらう、居なくなつたのは花樹《はなき》であらう、花樹《はなき》は美濃《みの》の妹が来て伴《つ》れて行つたのであらうと私は直《す》ぐそれだけのことを直覚で知ると云ふのです。三郎が京の茅野《ちの》さんの処《ところ》へ行つてからもう十五日になる、花樹《はなき》は何時《いつ》行つたのであらうなどヽ考へながら私は引き離された双生児《ふたご》の瑞樹《みづき》の枕許《まくらもと》へ坐ります。大人ならば到底眠れないだけの悲痛な音《おと》がこの子の心臓に鳴つて居る筈《はず》である、どんなに瑞樹《みづき》さんは悲しいだらう、双生児《ふたご》と云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達ですね、けれどあなたの方《はう》が幾分か両親に大事がられたので、妹になつては居るのだけれど姉のやうな心持で双生児《ふたご》の一人を庇《かば》ふことを何時《いつ》も何時《いつ》も忘れませんでしたね、大抵の病気は二人が一緒にしましたね、さうさう下向《したむき》に寝返《ねがへ》りを仕初めたのも這ひ出したのも一緒の日からでしたね、牛乳を飲む時には教へられないのに瓶を持ち合つて上げましたね、あなた方《がた》はね、世間の双生児《ふたご》には珍《めづ》らしい一つの胞衣《えな》に包まれて居たのでしたよ、などとこんな話を口の中でした瑞樹《みづき》の顔を覗《のぞ》かうとするのでしたが、赤いメリンスの蒲団に引き入れた顔は上を向き相《さう》にもないのです。泣きながら寝入つたことがよく解《わか》るのです。枕の前には硝子《ガラス》の箱に入《はひ》つた新しい玩具《おもちや》が置いてあるのです。花樹《はなき》もこれと同じのをお父様《とうさん》に買つて頂いて行つたのであらうと私は思ふのです。蒲団から出して居る瑞樹《みづき》の手の掌《てのひら》には緋縮緬《ひぢりめん》のお手玉が二つ載つて居るのです。私が五つ拵《こしら》へて遣つて置いたのを、花樹《はなき》に三つ持たせて遣《や》つたのであらうと私は点頭《うなづ》くと云ふのです。大胆な茂《しげる》の顔にも少し痩《やせ》が見えて来たと哀れに思ひながら見て、私は一番端に寝た光《ひかる》の寝床へ行《ゆ》くのです。苦しい夢でも見て居るやうに、光《ひかる》の眉の間には大人のやうな皺が現はれたり消えたりするのです。私は物が言ひたいと長男の胸を抱いて悲しがるのです。
「光《ひかる》さん。」
 とだけでいヽ、唯《た》だそれだけでいヽ、もう永劫にこの子等を見に来られないことになつてもいヽ、今夜の今、
「光《ひかる》さん。」
 と云つて、この子を眠《ねむり》から醒《さま》させたいと遣瀬なく思ふのです。

     五

 そのうち光《ひかる》がのんびりした寝顔になるのを見て、私の心はだんだんその美に引き入れられながら、何と云ふ綺麗な子であらう、私はこんな美しい物を見たことがない、生きて居た日にはもとより、天上の果てから地の底までも見ようと思つて歩いている今でさへも見ることのない美しさであると思ふのです。私は渋谷の丘の上の家で、初めて自分の分身として光《ひかる》を見た時の満足にも劣らない満足さを感じるのですが、やはりあの時のやうに目を開《あ》いて居ない、真紅《まつか》な唇は柔かく閉《とざ》されて鼻の側面が少女《をとめ》のやうである、この子を被《おほ》ふのには黄八丈《きはちぢやう》の蒲団でも縮緬《ちりめん》でもまだ足るものとは思はないのに、余りに哀れな更紗《さらさ》蒲団であるなどヽ思ふのです。白い掛襟の綻《ほころ》びの繕はれてないのも口惜《くや》しいことに思はれるのです。光《ひかる》の枕許《まくらもと》には大きいリボンを掛けた女の子を色鉛筆で描《か》いた絵葉書が作られてあるのです。
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瑞樹《みづき》ちやんは昨日《きのふ》も今日《けふ》も花樹《はなき》ちやんに逢ひたいとばかり云つて泣いて居ます。花樹《はなき》さんがこの絵のやうな大きいお嬢さんになる時分には、兄《にい》さんも大きくなつて居て一人で汽車に乗つて迎へに行つて上げますよ。兄《にい》さんの上げた林檎は汽車の中で食べましたか。
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 などヽ仮名で書いてあるのです。表の宛名はまだ書いてありません。
 私はあなたの蚊帳《かや》の中へもすつと入《はひ》りました。三郎の寝床がなくなつてからのあなたの蚊帳《かや》の中の様子は海の中に唯《たヾ》一つある島のやうであると思つて、この前と同じやうな淋しさを私が感じると云ふのです。此処《ここ》の電気灯も十燭光位が点《つ》いて居るのです。私は三度程ぐるぐるとお床《とこ》を廻つてから恥《はづか》しいものですから背中向きにあなたの枕許《まくらもと》へ坐るのです。亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。そしてまたこれが出してあると私は思ふのです。それは(実際はそんな物をお持ちになりませんけれど、)私から昔あなたへお上げした手紙の一部である五六通が一束《ひとたば》になつた物なのです。亡霊は出て来る度に、これを読んで寝ようとお思ひになつてあなたが二階から態々《わざ/\[#底本では「/\」は「/″\」と誤植]》床《とこ》の中へ持つて来ておありになるのを見附けますが、私の生前に束《たば》ねられた儘の紙捻《こより》の結び目は一度もまだ解いた跡がないのです。私の生前と云ふよりも、私があなたの許《もと》へ来る前に束《つか》ねられた儘なのです。私には全《まる》で見当の附かない名の書かれた女の手紙が二通と、私の知つた中のつまらない女の手紙が一通あるのです。私の古手紙のやうな煙《けぶり》のやうな色をしないで、それらは皆鮮かな心持のいヽ色をした封筒に入つてゐるのです。男のも一通はあるんです。その知らない女の一通の方《はう》の手紙は今日《けふ》来たのではなく、二三日前のであつて、今までにもう五六度も読まれた物であると云ふことが私の心には直《す》ぐ解るのです。葉書も二枚あるのです。一枚は私の妹から瑞樹《みづき》の機嫌の好《い》いことを知らせて来た物です。それには涙に匂ひが附いて居るので私はまた悲しくて溜らない気になると云ふのです。一枚は悪筆で、
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ワイフを貰ふことなんかを考へ出してはおまへのためによくねえぞ。その外のことならどんなことでも相談に乗つてやらう。心得がある。
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 こんなことが書いてあるのです。

     六

 私は阪本さんのために珍しく笑はせられながら、床の間の玩具棚《おもちやだな》を灯《ひ》の光で見ようとして行《ゆ》くのです。下の棚はがら空《あき》になつて居るのです。二段目にも隅の方《はう》に三郎のだつたがらがらが一つあるだけなのです。花樹《はなき》があの欠けた珈琲《こうひー》道具も、壊れかかつた物干の玩具《おもちや》も持つて行つたのかなどと私は思ふと云ふのです。三段目には蒲団が敷かれて人形の二つが並んで寝て居るのです。その前には木《こ》の葉や花の御馳走が供へられてあるのです。一人《ひとり》前だけです。花樹《はなき》さんお飲みなさいよと云つてあの茶碗の水は注《つ》がれたのであらうと私は想像をするのです。一番上の人形ばかりの段を見ますと、二つづヽあつたのが皆|対《つゐ》をなくして居るのです。瑞樹《みづき》だけでなくて沢山|双生児《ふたご》の欠片《かけら》が出来たと私は驚きます。
 私はもう帰らうとしてまた台所の方《はう》を一寸《ちよつと》覗《のぞ》きに行《ゆ》く気になると云ふのです。
 また電気灯を点《とも》すと、白つぽくなつた壁際《かべぎは》の二段の吊棚が目の前へ現はれて来るのです。私は洋杯《こつぷ》の中に入《はひ》つた三郎の使ひ残した護謨《ごむ》の乳首《ちヽくび》に先《ま》づ目が附きます。丁度二時頃の今時分に毎夜|此処《ここ》へ牛乳《ちヽ》を取りに来た、自身でそれをしに来られなくなつた頃から私はもう死を覚期《かくご》したなどヽ思ひ出すのです。埃《ほこり》の溜つた棚の向うの隅には懐中鏡が立てヽあるのです。洗粉《あらひこ》のはみ出した袋なども私は苦々《にが/\》しく思つて眺めるのです。併《しか》し私が居たからと云つても、心でくさくさと思ふだけで、表に現れる処《ところ》では有つても無くても同じ程な寛容な主婦なのであると思ふのです。女中に対する寛容は私の美徳でも何でもなかつた[#「た」は底本では脱落]のである、私は我身を惜んで、一日《いちにち》でも二日《ふつか》でも女中の居なくなつて下等な労働をさせられてはならないと思ふ心を離さなかつたからであるなどとも思ふのです。私はふと水口《みづくち》の土間に泥の附いた長靴があるのを見るのです。誰《たれ》のであらう、もとよりあなたのではない、書斎も玄関も通らなかつたけれど、これを穿いて来たやうな客の寝て居る風はなかつた、盗賊《どろばう》のではないかと思つて戸の方《はう》を見ても、硝子《ガラス》戸もその向うの戸もきちんと閉《しま》つて居るのです。私はそのうち板の間に並んだ女中部屋から烈《はげ》しい男の寝息の聞《きこ》えて来るのに気が附くと云ふのです。二人の女中と一足の長靴と云ふことで私は暫《しばら》く怖《おび》えさせられて居ると云ふのです。阪本さんはあんなことを云ふが、この上主人が夜泊《よどま》りでもするやうになつては困つてしまふではないかなどと思つたと云ふのです。確かそれでおしまひなのでした。これは書いたのを直《す》ぐ破つてしまつたのでした。前に書いた覚書は何処《どこ》かヽら出て来ることもあるでせう。
 私にはまだ書かうと思つて書かないでしまつた遺書もあるのです。あの腎臓炎を煩《わづら》つた前のことだつたやうに思ひます。あの時分の私は、あなたの妹さんのお艶《つや》さんは私の代りになつて、私以上にも子供を可愛がつて教育して下さる方《かた》に違ひないと信じ切つて居ました。何時《いつ》死んでも好《い》いと云ふ位に思つてゐましたから、どうぞ継母《まヽはヽ》に任せないで、生理的の事情から一生独身で居ると云ふことになつて居るお艶《つや》さんに私の子をすつかり育てヽ貰つて下さいとかう書かうと思つて居たのでした。

     七

 世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさにこの事を帰して思ふのではありません。私一人が悪いのだと思つて居ます。ああした身体《からだ》になつた人には女のやうなヒステリイはないのであらうと云ふ誤解をしたり、既に男性的な辛辣な性質も加つて居ると云ふ観察をようしなかつたりして、一生に比べて見れば六箇月は僅かなやうなものヽ、その間を私の子の肉体から霊魂までも疑ひを挿《はさ》まずにお艶《つや》さんに預けて行《ゆ》きました。私は自分の子に済まないことをしたと思つて泣いても泣き足りなく思ひます。私は欧州に居た間の叔母さんと子供等とに就いて然《しか》もそれ程くはしいことは知らないのです。四人程そのことに就いて話してやらうと云つて来た人がありましたが、私は自分の後暗《うしろくら》さから(間接に子供を苛《いぢ》めたのは私とあなたなのですから)その人等には曖昧なことを云つて口を閉《とざ》させました。けれども四つ五つの話から見たくない全体も目に描かれて、悲しいことは同じだけの悲しみを私にさせます。私は留守中のお艶《つや》さんのなすつた総《すべ》てを決して否定しては居ません。唯《た》だあの人には父に似た愛はあつても母らしい愛に似たものもなかつたのが子供等の不幸だつたのです。巴里《パリー》の下宿で毎日帰りたいと泣くやうになりましたのは、子供等の心が私に通じたのであると、私はこれまでの経験の中でこのことだけを神秘的なことと思つて居ます。お艶《つや》さんがお去りになつた翌日、光《ひかる》が朝のお膳に向ひながらぼんやりとして居ますのを、どうしたかと聞きますと、××の育児園の生徒は可哀相《かあいさう》だ、今日《けふ》からは僕達のやうに叔母さんから苛《いぢ》められるだらうからと云ふのです。私は顔を覆ふて泣きました。でも母様《かあさん》が生き返つて来たから好かつたではないかと私は云つて慰めました。生き返ることの出来ない処《ところ》にそれが行つて居たのでしたらどうでせう。里から取り返されて、母《かあ》さんなんか厭だよと口癖に云つて居ました佐保子《さほこ》だけを王様のお姫様のやうに大事になすつて、今に佐保子《さほこ》に兄様《にいさん》達を踏み躙《にじ》らせますとばかり叔母さんは云つておいでになつたさうです。末の妹に踏み躙《にじ》られるやうな兄達を生みの親であれば作り上げやうとは思ひませんけれど。私が花樹《はなき》と瑞樹《みづき》に三枚づヽの洋服を買ひ、佐保子《さほこ》に一枚を宛てて買つて来た程のことにもお艶《つや》さんは佐保子《さほこ》を粗末にするとお取りになつて清《きよし》さんの家《うち》へ泣いておいでになつたのです。洋服などは直《す》ぐ小《ちひさ》くなるのですから下へ譲つて行《ゆ》かなければならないではありませんか、さうした物質的のことで親の愛の尺度は解るものではありません。丁度私の帰つた日に二羽の矮鶏《ちやぼ》の一羽が犬に奪《と》られて一羽ぼつちになりましたのを、佐保子《さほこ》が昨日《きのふ》までに変つて他《た》の兄弟から忌《い》まれて孤独になつた象徴《しるし》であるらしいと台所で女中に云つて聞かせたりもお艶《つや》さんはなさいました。何処《どこ》の国に親が帰つて来て孤独になる子がありませうか。母様《かあさん》の処《ところ》へ行《ゆ》け行《ゆ》けと云つてはその一番可愛い佐保子《さほこ》の頭をお打《うち》になる音を私にお聞かせになりました。そして私の居ない処《ところ》ではあの大きな佐保子《さほこ》に出ないあの方《かた》の乳を吸はせたりもなさるのでした。佐保子《さほこ》が私を敵視するやうになり、この間まで僕婢《ぼくひ》のやうであつた兄弟達が物とも思はなくなつたのに、憤《いきどほ》つてます/\横道へ捩《ねじ》れて行つたのも、その時には是非もないことだつたのです。

     八

 光《ひかる》を見てお艶《つや》さんが母と叔母の前で陰陽《かげひなた》をすると云つて罵しつておいでになつた日には、私は思はずヒステリーに感染した恥《はづ》かしい真似をしました。雨の中へ重い光《ひかる》を抱いて出まして、叔母さんが恐《こは》いから逃げて行《ゆ》きませうなどと云ひました。私を介抱して下すつたのは春夫さんと菽泉《しゆくせん》さんでした。そのお二人がお濡《ぬら》しになつた靴足袋《くつたび》を乾かしてお返しする時にお艶《つや》さんのなすつた丁寧な挨拶を書斎に居て聞きながら、私は病《やまひ》の本家が自分になつたと思つて苦笑しました。光《ひかる》が叔母さんの前ですることが陰《かげ》なら、母《かあ》さんの前ですることもやはり陰《かげ》で、そんなにいヽと思ふこともして居ないと私はお艶《つや》さんに云ひたかつたのですが、大阪育ちの私はそんな時には駄目なのです。光《ひかる》が善良な子であると云ふことにはあなたも異論がおありにならないでせう。一年に三四度づヽは学校の先生もさう云つて下さいます。藤島先生もさう思つていらつしやるのです。私の日本を立つ時に敦賀まで来て下すつた茅野《ちの》さんも、光《ひかる》さんは憎まうとしても憎めない性質を持つて居るから叔母さんも可愛がりなさるでせうと云つて私を安心させて下すつたのでしたが、つまりああした中性のやうになつた方《かた》は男から見ても女から見ても想像の出来ない心理の変態があるのだらうと思ひます。
 最初の覚書にはまだ光《ひかる》のエプロンにはこんな形がいいとか、股引《もヽひき》はかうして女中に裁《たヽ》せて下さいとか書いて図を引いて置いたりしましたが、其頃《そのころ》のことを思ひますと光《ひかる》は大きくなりました。私等二人のして来た苦労が今更に哀れなものとも美しいものとも思はれます。この書物《かきもの》が不用になつて、また何年かの後《のち》に更に覚書を作るのであつたなら、この感は一層深いであらうと思ひます。私はもうその時分になつてはこんな物を長々と書くまいとも思ひ、一層書くことが多いであらうとも思はれます。私は併《しか》しながら話を聞くだけでも眩暈《めまひ》のしさうな光《ひかる》達の祖父の方《かた》がなすつたと云ふ子女の厳しい教育に比べて、煙管《きせる》の雁首《がんくび》でお撲《う》ちになつた傷痕《きずあと》が幾十と数へられぬ程あなた方《がた》御兄弟の頭に残つて居ると云ふやうなことに比べて、寛容をお誇りになるあなたであつても、生きた光《ひかる》達をお託しすることの不安さは何にも譬《たと》へられない程に思つて居るのです。あなたのお飼ひになる小鳥の籠を覆《くつがへ》すやうなことがあつても私の子は親の家を逐《お》はれるでせう。あなたが仏蘭西《フランス》からお持ち帰りになつた陶器の一つに傷を附けた時、私の子は旧《もと》に戻せと云ふことを幾百|度《たび》あなたから求められたでせう。私は此処《ここ》まで書いて来まして非常に気が昂《あが》つて来ました。母を持たない我子は孤児になる方《はう》がましなのではなからうかと思ひます。先刻《さつき》御一緒に飲んだココアのせいなのでせうか。私には隣国の某|太后《たいこう》が養子の帝王に下した最後の手段を幻影に見て居ます。けれど私はそれを決して実行致しません。もとよりこの覚書を見て頂かうと思つて居ます。殊《こと》に私は白髪《しらが》を掻き垂れて登場して来ようとするあなたの初恋の女のために、あなたと一緒に葬られやうとしたと思はれては厭ですから。
 妙な調子になつて来ました。

     九

 私は光《ひかる》のためにあのことも書いて置きませう。これは一昨年《をとヽし》の歳暮《せいぼ》のことでした。ある日の午後学校から帰りました茂《しげる》が護謨《ごむ》鞠《まり》を欲《ほ》しいと頼むものですから、私は光《ひかる》に買つて来て遣ることを命じたのでした。簡単な買物として私は光《ひかる》の経験にとも思つて出したのでした。清《きよし》さんの家《うち》の譲《ゆづる》さんにも頼んで一緒に行つて貰つたのです。麹町の通りで購《あがな》はれた鞠《まり》は直《す》ぐ茂《しげる》の手へ渡されたのです。茂《しげる》は嬉しさに元園町《もとぞのちやう》の辺りでは鞠《まり》を上へ放り上げながら歩いて居たのです。どうした拍子にか鞠《まり》はあの阪《さか》の中途にある米何《こめなに》とか云ふ邸《やしき》の門の中へ落ちたのださうです。光《ひかる》自身の物であればあの恥《はづか》しがる子がどうして知らない家へ拾ひに入《はひ》りませう、また貧しいと云つても自分の親には十や二十の鞠《まり》を買ふだけの力はあると信じて居ますから、もう一度帰つてから麹町の通《とほり》まで行《ゆ》けばいいと諦めた丈《だけ》で帰るのだつたのです。今の今迄|悦《よろこ》んで居た弟の淋しい泣顔を見てはじつとして居られないやうな気がしたのでせう、然《しか》もまだ二人だけであつたなら手を取り合つて帰つて来たかも知れませんが、従弟《いとこ》の心も自分と同じやうに茂《しげる》のために傷《いた》められて居るのであらうと見ては、一番年上の自分が勇気を出して見なければならないと思つたのでせう、光《ひかる》はその米何《こめなに》の門を五六歩|入《はひ》つて行つたのださうです。それだけで十一年の間|玉《たま》のやうに私の思つて来た子は無名の富豪の僕《ぼく》に罵られたのです。辱《はづかし》められたのです。光《ひかる》は多くを云ひませんし、私も尋ねないでそれで済んだのですが、私の心は長い間その事から離れませんでした。僕《ぼく》を老人として赤ら顔の酒臭い男を思つて見たり、若くて背中の曲がつた男かと思つて見たり、車夫《しやふ》姿をした男かと思つて見たり、我子を罵つた言葉は越後訛か、奥州訛かと考へて見たり、門内の物は塵一本でも自家の所有物であると、ねちねちと物を言ふ半商人、半書生が憎まれたりもしました。人の子を瓦の片《はし》のやうに思つて居るそんな人間を養つて置く広い邸《やしき》や無用な塀の多い街を私は我子を置いて死に得《う》る処《ところ》とはよう思ひません。ウイインの王宮の庭は平民達の通路になつて居るではありませんか。であるからヨセフ老帝は薄命だと云はれるのである、自身の居る窓の下に旅人の煙草《たばこ》の吸殻を捨てさせるなどとは憐むべきである、絶東《ぜつとう》の米何《こめなに》だけの威《ゐ》をもよう張らないのであると米何《こめなに》は思つて居るかも知れません。私は米何《こめなに》を無名の人と書きましたが、あの海軍の収賄問題のやかましい頃に贈賄者として検挙される筈《はず》であるとか、家宅捜索を受けたとか、度々《たび/\》米何《こめなに》の名は新聞に伝へられましたから、そんな意味に於《おい》ての名はある人なのでせう。

     十

 光《ひかる》はどう大人にして好《い》いのでせう。親は二人あると思つてもこのことは考へなければならないのです。翅《はね》を持たないだけの天使は人間界の罪悪を知りもしなければ、それに抵抗する準備もありません。私は心細くて心細くてなりません。光《ひかる》はまだ子は母より生れるものとより他《た》を知りません。同じ家に居るからと云つて子に父の遺伝があるなどヽ云ふことは不思議なことではないかと、この間も茂《しげる》に語つて居るのを聞きました。それは結婚と云ふことがあるからであらうと思ふがと、斟酌《しんしやく》をして居るやうな返事のしかたを弟はして居ました。茂《しげる》の懐疑は光《ひかる》のそれに比べられない程に根底が出来て居るらしいのです。弟は両親が兄に対する細心な心遣ひを知つて居ますから、自分は自分、兄は兄として別々にして置かうと思つて居るらしいのです。光《ひかる》はそんなのですから、荒々しくて優しい趣味の乏しく思はれるやうな男の友より女の友と遊ぶのを悦《よろこ》んで居ます。綺麗だから欲《ほ》しいと云ふものですから、私は叱ることもようせずに、花樹《はなき》や瑞樹《みづき》に遣るやうな小切れを光《ひかる》にも分けて与へてあるのです。色糸《いろいと》なども持つて居ます。平生《ふだん》はそれを出して遊ばうとはしませんが、玩具《おもちや》棚の一番下にある黒い箱がそれです。女の友達の来て居る時に刺繍《ぬひ》を拵《こしら》へて遣つたり、人形を作つたりしてやることがあるのです。女も交《まじ》つて遊ぶ学校へ入つて居たなら、光《ひかる》も運動場の傍観者ではなかつたかも知れません。このことは性の別がはつきりと意識される日に直ることであらうと思ひます。光《ひかる》はまた男性的でないのではありません。あの大様《おほやう》な生々《いき/\》とした線で描《か》く絵を見て下さい、光《ひかる》の書いて居る日記を見て下さい、光《ひかる》は母親の羨《うらや》んで好《い》い男性です。私が光《ひかる》に危《あやぶ》みますのは異性に最も近い所で開く性の目覚《めざめ》です。この間私は電車が来ないために或停留場に二十分余りも立つて待つて居ましたが、丁度|祭日《まつりび》であつたその夕方に、綺麗に装《よそほ》はれた街の幼い男女《なんによ》は並木の間々《あひだ/\》で鬼ごつこや何やと幾団《いくだん》にもなつて遊んで居ました。その子等の絶えず口占《くちずさみ》のやうにして云つて居ますことは、二字三字活字になつて本の中に交つても発売禁止を免れることの出来ないやうな言語なのです。そればかりなのです。恐《おそろ》しい都、悲しい都、早熟な人間の居る南洋の何やら島《じま》の子も五つ六つで斯《か》うなのであらうかと、私は青ざめて立つて居ました。性欲教育と云ふことはその子等の親達には考へるべき問題でないでせうが、私等のためには重大なことなのです。よく考へて遣つて下さいな。
 光《ひかる》のことを思つて居ますうちに、私の心は四郎のことを少し云はないでは居られないやうになりました。私は四郎の生立《おひたち》をよう見ないのでせうか。五つ六つ、七八《なヽや》つで母親を亡くした人を見ては、光《ひかる》もああなるのではあるまいかと運命を恐れながら漸《やうや》く十三歳《じうさん》に迄なるのを見ました。四郎は二歳《ふたつ》ではありませんか、光《ひかる》と同じ顔をした同じやうな性質を持つて生れた四郎を、私はどうかするともう十三歳《じうさん》に迄してあると云ふやうな誤つた安心を持つて見て居なかつたでせうか。四郎が二歳《ふたつ》であることを思ふと私は死なれない、死にともない。
 雑記帳は唯《た》だこればかしでもう白い処《ところ》がなくなりました。後《あと》を書いて置くかどうか、よく解りません。[#地付きで](完)



底本:「読売新聞」読売新聞社
   1914(大正3)年10月11日〜23日(全10回連載)
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。(旧字を新字にあらためましたが、旧仮名づかいには変更を加えませんでした。総ルビをパラルビにあらためました。)
※「井」は「ウイ」、「こと」の変体仮名は「こと」、二の字点は「ヽ」にそれぞれ書き換えました。(一般には、片仮名用の繰り返し記号として用いられる「ヽ」が、底本では平仮名のルビにも使用されていることを踏まえ、二の字点の代替には「ヽ」を用いました。)
※底本は「入る」に「《はい》る」とルビを振っていましたが、「《はひ》る」としました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:武田秀男
校正:mayu
2001年12月6日公開
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