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天狗塚
横瀬夜雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)下妻《しもづま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三十人|石下《いしげ》村へ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「土へん+(鹵/皿)」、鹽の俗字、192-8]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひし/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 血盟團、五・一五事件の公判の初められようとする頃、筑波天狗黨の遺族は山上に集まつて七十年祭を擧行した。警察がやかましかつたので、來會者は四十人に過ぎず、天狗塚はいくつあるだらうといふ話が出た。
 當時囚へられた天狗は、例外なしに各部落の馬捨場で首を刎ねられてゐる。正五位飯田軍造、天狗軍中強豪を以て聞えた木戸の軍造も、下妻《しもづま》の町外れで死骸を張付にかけられ、馬骨とおなじ穴に埋められてゐる。
 押借と放火と殺傷とで遠近を脅かしてから、尊王攘夷は名ばかりに取られ、逃ぐる者は出ても、加はる者は無く、若年寄田沼玄蕃頭を目代として、十二諸侯(松平下總守鳥居丹波守、水野日向守、松平右京亮、土屋采女正、細川玄蕃頭、松平播磨守、堀内藏頭、井上伊豫守、松平周防守、丹羽左京太夫、板倉内膳正)の兵およそ一萬三千人がひし/\と筑波をとり卷いた。七月藤田小四郎等先づ山を下り、西岡邦之介等水戸に縁なき浪士は八月山を去つた。藤田等は十月那珂湊を脱して下野に入り、上野信濃を經、飛騨より越前に越え、木の芽峠の雪に阻まれて、一行八百人加賀藩の手に落ちた。東山道百里を無人の境を行くが如く押し通つたが、所在に殘した天狗塚は、さがしやうが無い。奮戰もつとも努めて今なほ勇名を信濃路にうたはるゝ赤入道は誰だつたか、赤入道の首は何處に埋められたか亦知るよしもない。

 私の語らうとするのは、元治元年八月二十三日筑波に見切をつけて山を下り、潮來鹿島に押し渡つた天狗黨の始末である。勝に乘じた幕府が常陸下總の農兵を擧げて、これを狩り、これを鏖にして、所在に築いた天狗塚の由來である。

          一

 水戸領でも天狗は同じ手段を用ゐたらうと思ふ。筑波の根まはりでは一ヶ村に一人位づつの物持に差紙をつけて、山へ呼びつけ、「[#底本は「「」が欠け]横濱征伐に先掛致しくれと申す譯にはこれ無く此《この》方共身命を抛ちて征伐致候間、かはりに其方共二枚着る着物も一枚着て、金子用立てよ」といひつける。いやとはいへない。出張して來るのは少し荒つぽい。
「二十七日高橋上總大將にて二三十人|石下《いしげ》村へ參り、ひの屋竹村茂右衛門方へ入込、土藏を改め、三百俵有之、百俵は飯米に殘し二百俵献納すべき旨申聞、それより鈴木平右衛門方へ參り候處、主人留守にて分り兼候趣申立、手代並妻女を縛りあげ大道にひき据ゑ放火すべく、鐵砲の火繩にて古傘十本ばかりとり寄せ火をふきつけ、今にも燒棄になるべき樣子に驚き、三百兩献納」中山氏見聞記[#「中山氏見聞記」は割り注]燒かれようとした鈴木氏は今町長、現主は私の從弟に當る。
 高橋上總は前に私の家に居たことあり、筑波の近間《ちかま》では何村の誰が金持か位は知つてゐたので、出かけて來たのであらう。下總國沼森八幡の別當だつたが、素行はよくなかつた。鬼怒川西の川尻では中山忠藏方におし入り拔身を下げてこは談判中、壬生の勢が來ると聞いて[#「來ると聞いて」は、底本では「來る聞といて」]、曳いて來た馬にも乘らずにころび/\長塚の渡しまで來ると船が無い。うしろには聲《とき》、前は川。夕暗迫る河原の上を犬のやうに這つて脱れた。壬生鳥居氏の手兵は閧の天狗のにがてだつた。鯉淵《こひぶち》勢には一度も勝てなかつた天狗だが、壬生にも始終痛めつけられた。
 徴發され強奪された金額は、酒井清兵衛の千四百兩を最とし、酒井長右衛門の七百兩、五木田利兵衛の二百七十兩、横瀬忠右衛門の二百兩等等、山南山北、凡そ名ある豪農富商にしていたぶられざるはなく、殊に酒井氏は邸宅まで灰にされて、また起つ能はず、今は家人のありかを知る者すら無い。
 筑波軍の金策は六月末から、野火の燃えるやうに廣がつて行つた。筑波近くは勿論、下總は豊田、岡田、相馬、埴生の各郡から、常陸は土浦、石岡、鹿島、行方から、飛んで佐原銚子の邊まで、村村《むらむら》、町町《まちまち》、土地によりては同じ村の同じ人に、二所から呼出しのかゝることあり。信《し》太郎木原へ、吉田と名のつて乘込んだ天狗は二千兩ほど掻き集めた處へ、水戸領田伏の浪人宿から呼出しあり、吉田は似せ者と分つた。似せ天か本天かわからぬやつにまで引つたくられるのだからいゝ面の皮だ。天狗の中で一番|暴《あば》れたのは田中愿藏だ。
 田中は太平山からの歸りに、六月六日栃木を通りかゝつて、戸田家の陣屋へ壹萬五千兩の借用を申込、金が無ければ武器を出せと談じたが、流石にきかれず。田中は油樽を割りて火を三十數ヶ所に放ち、野州第一の町を灰にした。結城を脅かしては町かどに小麥藁、朝鮮からを積みあげ、家老水野主馬を人質にとつて筑波へ戻つた。六月廿一日には眞鍋を燒いて、「眞なべ丸やけまつかんだの唄」を殘した。一行二百人、同じ紫のつつぽをはおつてゐた。

          二

 田中愿藏は六月二十五日には那珂郡野口村にゐたが、土兵に追はれて寶憧院に入り、また追はれて宍戸に逃げ、八月一日土師村に闖入して放火し、十五日小吹平須を掠め、鯉淵勢に遭《あ》ひて秋葉に逃れた。鯉淵勢は田中の狼藉を防ぐ爲に組織した鯉淵村の自衛團で、無頼漢の多い村だけに極めて強く、流石の田中も何べんとなく敗けた。初めは誰大將といふでもなかつたが、九月の末には湊で勇三軍に冠たりといふ働をしたので、別手組多賀谷外記が頭取を命ぜられた。

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 以書附申進候爰許其後指たる義は無之候得共去朔日府中勢田中愿藏[#「田中愿藏」は割り注]多人數繰出候由鯉淵村より注進有之土師村地内に於て田中勢と右村近郷御領地村々の百姓共と多人數打合双方即死手負人出來田中勢土師村放火家數二十軒及燒失
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 結束すれば百姓も役に立つ。重たい鎧を着かざつたさむらひ共よりは強いことが分つて眞劍にあらがふ氣になつたらしい。

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 太田市中警衛の爲當村百姓共千人許手分入口入口を固め候處人足の者共申合問屋雄介宅を初め十軒餘押込道具疊建物に至る迄悉く打破右十軒の者は野口館小菅館に籠り居候者共天狗を指す[#「天狗を指す」は割り注] 先日中金子押掠の節手引致し候者の由
 去月晦日額田三郷の者共大勢申合竹槍を携へ同村百姓彌兵次宅へ踏込及亂暴居宅及所持の板倉打破役人下知をも不相用 加合村の者共荷擔いたし落合村庄屋周吾宅へも仕掛同樣の仕業に及
 去朔日朝六頃大宮に而早鐘を搗百姓大勢集り大宮彌三郎を打破夫より鷹巣村神宮を打破二手に分れ一手は八田村庄屋を打破東野村庄屋綿引勘兵衛同所神官 ※[#「土へん+(鹵/皿)」、鹽の俗字、192-8]子村大貫新介門井村神職大越伊豫小瀬村庄屋井樋政之亟那珂村長山伊介野口平諸澤健之介野口村長役關澤源兵衛夫より長倉へ赴候との風聞
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 文献歴々。天狗がやうやく足もとを見透かされ初めたあかしである。庄屋の打こはしは天狗の宿をしたせゐであらう。神官がやつつけられてゐるのは天狗黨に加はつた神職の多いことを暗示する。
 河内郡今稻敷[#「今稻敷」は割り注]の各村では、天狗が押借に來れば、駒塚昆沙門堂の鐘をついて、竹槍鐵砲で征伐することを申合せたが、福田村名主金藏方へ金策に來た天狗は、かくと聞いて安中へ逃げ出した。皆は其後へ押込んで金藏方居宅文庫藏酒倉等を灰にし、金藏の逃げ込んだ徳龍寺まで燒いた。

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 筑波山集屯の賊徒共悉御誅伐可有之旨其筋より御達に付村々に於ても其旨相心得賊徒共金銀押借に罷越候はゞ勿論潜伏又は徘徊致候はゞ竹槍其他得物を以無二念打殺可申候依て一村限り小前末々迄相互に申合置賊徒共へ同意内通致候者候はゞ假令親類懇意たり共聊無容赦取押最寄同村先へ早々可申出若見遁置追て相知候に於ては嚴重取糺候條難有差心得組合限申合萬行屆候樣大小惣代並寄場役人共精々世話可致
  八月十八日[#地から3字上げ]關東御取締
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 筑波の天狗が散り初めたので、百姓の手を借りて押へよう。天狗と見たら二念無く打殺せといふのだ。あぶなくて仕方がない。のみならず壬生藩の軍令には、天狗打取候はゞ身に附候品々被下之とあり、尤こんな軍令がなかつたとしても、分捕らずにおく正直者もあるまい。

          三

 天狗狩の中で哀れを止めたのは西岡邦之助等の客分だつた。元來諸國から馳せ參じた有志で、水戸の内紛に腕貸する程馬鹿ではないから、藤田等が筑波を去つた後一月近く山にゐた。八月二十二日壬生勢に追はれて、鹿島に入つたが、佐倉棚倉の兵と神保山城守に追ひ廻され、十人二十人づゝ毎日のやうに殺され、霞浦のまはりを逃げ歩き、元ゐた筑波の西まで落ちのびながら、落ち切れず、所在の部落に天狗塚を殘して全滅した。神保山城守は下妻では天狗に燒打されて逃れ去つた大將だが、湊の包圍戰では手兵を失ひながら一歩も引かず、近習二三人と床几に凭りて陣地を守つたお旗下だ。
 八月十八日、上野の人千種太郎、鬼澤幸介、眞家《まい》の眞家源左衛門に先づ殺された。白縮緬筒袖胴着、小柳萬※[#「竹/助」、第3水準1-89-65]襠高袴、琉球立縞帶、黄八丈脚半、紺足袋、白羽二重下帶、白縮緬鉢卷、太刀拵熊毛尻鞘かけ、短刀。金子は一朱銀一分二朱を持つてゐた。大將分のふところにしては。

          四

 次《つい》で力丸《りきまる》君次|瓦谷《かはらや》にて捕へらる。千種は五百人がゝりで殺したが、力丸は何人がかりで捕へたか。「國の爲捨る命はをしまねど路の葎となるぞ悲しき」「寥々月色斷頭場」の絶命の辭を殘したのを見ると、月下に斬つたものらしい。「筑波山下柿岡五十三ヶ村の百姓共鐵砲槍を持ち染谷村鬼越山へ屯集山上にて毎夜篝をたき罷在山上へ陣取候樣子中々一揆原の振舞とは相見不申專風聞」千種太郎を仕留めたので、意氣衝天の勢で、山上に旗さし物をひるがへしたのだ。が天狗は一人も山にゐなかつた。
 八月二十九日よりは捕へらるゝ者、殺さるゝ者、獄死する者、數ふるに暇なく、九月一日には西岡邦之助、昌木晴雄、水野主馬、高橋上總、伊藤益良等小川を逃げて鹿島に行き、黒澤八郎、川又茂七郎、櫻山三郎、熊谷精一郎、林庄七郎、渡邊剛藏等と合した。みな筑波の客將である。
 九月三日、棚倉の兵迫り來り、佐倉、宇都宮、麻生、小見川其他幕府直屬の兵續々來り會し、船亦奪はる。六日西岡等四百人は大船戸から田船はんきりに乘りて延方にのがれ出た。この間水路七八町に足らず、泳いでも渡り得る程だつたが、追討軍に聯絡が無かつたので、うま/\と脱出した。

 四百人は霞浦を横斷する船が無いので、岸傳へに敵地を踏まねばならず、鼎の輕重はすでに問はれてゐる。六日から七日八日九日と、鹿島行方二郡の農民は殘黨を狩り立つる犬となつて、詰り/\へ槍を入れ鐵砲を打込み、いやしくも生けるは捕へて、下生村石橋の杭打場にて斬殺し、首は悉く野捨にした。
 四百人の内、川俣茂七郎等八十人はおくれて鹿島を出たが、海陸すでに道なく、或は水に入りて死し、或は自刄し、運のいゝ者だけが潮來にのがれた。
 七日朝五、行方の船子《ふなこ》村へ逃げこんだ十一人は、忠兵衞といふ百姓を脅迫して五丁田から田舟《たぶね》を出させ、霞浦も三又近くのがれた處へ、小笠原某小舟數艘にて追駈け、鐵砲をぶちかけた。十一人はまづ忠兵衛を切殺して後水に入る者九人、甲冑の士二人は舟に殘りてさしちがひて果てた。ほの/″\と明け渡る湖上の悲劇である。映畫にもつて來いの場面ではないか。
 八日、あと一足で下野に入らうとする處で、片倉を燒いた伊藤益良は※[#「土へん+(鹵/皿)」、鹽の俗字、197-1]子に至りて自殺し、川俣茂七郎は朝房山から大橋に逃げ、土兵に迫られて戰ひ死し、殘黨四十人羽衣に入りて悉く土民の手に落ちた。
 水野主馬はもと結城藩老、天狗の携ふる所となれる者、土浦より結城を志し、行々土兵に苦しめられつゝ、十日夜九つ時、猿島郡新和田にて捕へらる。七日府中にて左の腕を傷つけ、九日には左の顎を槍で刺されたといふ。今一あしで結城へ入《はい》れたのだ。水海道で斬られた。年二十五。白面の貴公子、秋冷の林中に夜をあかしかねて、如何ばかり長嘆したらうと思ふとあはれである。
 腰ぬけ林と呼ばれた薩摩の林庄七郎は谷田部で捕へられた。梅村眞一郎は島原藩士、其友伊藤益良の死を聞き、潮來にひきかへして自殺した。古の風になしてよ大みいつふるひて今の亂れたる世を。
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 八日大山崎と申所へ浪人二人上陸一人無刀にて船頭の裝をなし人家有之處へ出かく金鼓のあひづにて村々百姓共駈集り捕へ申候一人山上に居候由山を卷候處此浪人年十九計支度も相應襷をかけ數人を相手に防ぎ戰ひ中々手利云々終槍にて刺殺申候大將らしき身なりの由に候
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 水海道から鬼怒川すりあひの渡しを西へ越えた二十一人は、飯沼の弘經寺へ押入|古間木《ふるまぎ》へ通り、倉持の杉山を經て鴻山で二手に別れ、十一人は芦ヶ谷を燒いて平塚に移り、又々放火、沼を渡つてから行方不明となつた。一組は國生に出たが、亦林中に沒し去つた。
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 昨九日晝頃火急の義にて手配不行屆旁漸く一人突殺申候門前を通行致候浪賊十人位山林へ逃込候を村々人足繰出し山搜し致候得共見當り不申昨十日沓掛邊より沼縁不殘村人足罷出山林を押し清水頭と申山にて一人突留昨日小堤にて七人生捕稻尾にて一人突殺し當村にて二人突殺し蛇池にて一人生捕逆井村にて一人突留仁連村にて一人生捕都合十四人御地の振合に引比候而はまだ/\愚かの事に候
右書面認候内又々一人召捕候
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 突留突殺し[#「突留突殺し」に傍点]が大概竹槍である。嘗つて民間の財物を強奪し、又筑波山集屯の黨に加はりし者は、允許を待たずして死罪に處すべしとの命令だから、見ず知らずの旅人や、道具の新らしい棒天振などは、容赦なく斬られ殺されてゐる。

          五

 西岡邦之介は鉾田から小川に脱したが、九月七日雨に遭ひて夜鶴田の原に宿つた者は六十人に足らなかつた。八日府中の城下を燒いて、栗原越にかゝつた時、土浦藩士に要撃せられ死する者十二人。酒丸に到りて五人、刈間にて二人。

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 酒丸安樂寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷二人自害一人は宇都宮左衛門 傍に肩先鐵砲受候者一人居候を生捕斬首
 宇都宮は紫緘の革の鎧陣羽織を着其上ござ着て打たれ申候大小一腰金子二十兩有之
 西岡自殺鎧傍に捨あり金銀糸にて縫候もの着用外三人亦綸子金銀の縫也
 栗原にてきり取候十二の首は俵に詰め馬につけ土浦へ送申候
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 慘話續々、ひろふに堪へぬ。
 西岡宇都宮等の遺骸は安樂寺に葬つたらしい。栗原越で死んだ十二人は今でも「天狗塚」として殘つてゐる。槍原の金もちの爺さんが天狗來ると聞いて槍を擔いで往來へ飛出したところを、いきなり斬り倒された。村の人達は笑止がつて天狗塚へ花を捧ぐる人もなかつたが、去る大演習の年、陛下栗原をお通りになるといふので、塚を改め築いて、はじめて「天狗塚」の高札をかゝげた。改葬した時、拾ひ出した骨は十九人分あつたといふ。素人ばかりでしらべたのであらうから信否は保留したい。若しかしたら古い塚か墓の中へ十二人を投げこんだのではあるまいか。
 宇都宮左衛門は戸田彈正ともいつた。宇都宮藩主戸田侯の一族で、水野主馬同樣人質としてとりこめられてゐたのだとも傳へる。とにかく筑波客將の末路は俵に首を詰めた悲劇が大團圓である。

 珂北を荒し廻つて、鯉淵農兵に狩り立てられ、逃げて八溝山中に入つた田中愿藏の一隊は、食物のありよう筈はないから、一人二人と山を下りて捕へられ、愿藏亦捕へられた。女の着物を着てゐた。部下六十人、中には十三十四の少年もゐた。後手に縛られたまゝ倉へ押籠められ、水もめしもくれず。ひよろ/\になるのを待つて斬つた。磐城國塙での事だ。
 愿藏は辭世を書く間手を緩めてくれと願つたが、きかれない。よんどころなく筆を口にくはへて絶命の辭を殘した。愿藏等六十人を斬つた男は死體を懇ろに葬つてさゝやかな石を建てた。二三年前、史蹟保存の意味で其事を書いて大きな石を建てた特志の人がある。名は金澤春友。

 私の知る限りでは天狗は例外なしに馬捨場へ捨てられてゐる。棺も無く槨も無い。大勢だと大きな穴を掘つて、蓆に卷いたまゝの尸を轉がしこんだ。
 死囚の罪人はひとり天狗といはず、すべて馬捨場へ埋めたものらしい。私は幼時母と車で下妻の石堂を通つたことあり、塔婆二三本倒れたのもあり、かしいだのもあつた。あすこには木戸の軍藏が埋められてゐるんだよと教へられた。石堂は馬捨場である。下妻で斬つた天狗の遺骸は皆此處に殘つてゐる筈だ。荒草離々、虫、秋に啼いてさびしき靈をなぐさめるであらう。



底本:「雪あかり」書物展望社
   1934(昭和9)年6月27日上梓
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「衛」と「衞」の混在は底本通りにしました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年7月21日作成
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