青空文庫アーカイブ

女子文壇の人々
横瀬夜雨

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【テキスト中に現れる記号について】

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
(例))さき/″\を
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 河井醉茗の五十年の祝をした時、私は上野から精養軒へ眞直に行つたので、誰もまだ來てゐなかつた。上つたんだか、下りたんだか忘れたが、左に庭を見て長い廊下を行くあたりで、向うから山田邦子さんが歩いて來るのに會つた。いきなり手を出して私をいたはるやうにして、よく出て入らしたと喜んでくれた。十六年ぶりの邂逅である。足が惡いと聞いてゐたが、歩くところを見ると疾い。瞳はむかしながらに澄んでたけれど、掌は私の方が小さいかして兩のこぶしの中へ包まれたのが剛い感じだつた。
 板倉鳥子さんが來た。風の強い日にはお堀端を通らぬやうにと祈つてゐる。それ程華奢である。
 三宅やす子さんも入らした。加藤弘之先生の許に居らるる時分から素ばらしい手を書いたが、今はペンの外お用ゐにはなるまい。
 手跡の美事な方になほ三宅恒子さん。薄倖の運命を辿つた工學士未亡人が居る。お出になるかも知れぬと思つたが入らつしやらなかつた。
 生田花世さんも居られた。遠藤たけの子さんも來た。
 會が終つてから鹽崎とみ子さんにお目にかゝつた。はじめて上京した年、淺草に遊びに行つたら、鴨とでも思つてか、とみ子さんの行くさき/″\を地廻りの惡が附いて廻つたが「私は柔術が得手よ」と聞かされて尻尾を卷いて逃げた咄がある。五尺三寸は越えてゐるから、その上に柔術がえ手だと聞いては女でも相手にしにくい筈だ。
 河井さんの周圍に集つた當年の少女達で、地方に居る方は兎もかくも、東京ずまひの人は皆來るだらうと思つたが、前田河廣一郎氏夫人や吉屋信子さんや河野槇子さんなどの缺席したのは意外だつた。吉屋さんは正直の處、書きぶりも考へ方も女らしく無かつたので女子文壇へは滅多に採らなかつた。今思へばふくろの中の錐だつた。其末を見ることの出來なかつたのは私の過失であつた。河野まき子さんは三輪田女學校に在る中から羨望仰視の中に立つてゐたが、小學校に教鞭をとるに至つてあたら天才は縮んでしまつた。
 平塚白百合さんは藤澤に入らしたので、會へは出なかつたが、春になつて令弟と一しよに筑波の西へ來られた。夫君は今を時めく勅任官であるから、お茶を召上るにもお箸を執るにも小笠原が離れず。夜、奧の間へ寢に入らしたあとを、妻が茶道具をかたつけて引き取らうとしたら、平塚さんはまだ帶さへ解かずに襖のかげに手を附いて待つてゐた。妻はすつかり參つて、肩のこりが三日も取れなかつた。
 それから十日ほどたつてからだつた。板倉鳥子さんが古河から自動車を飛ばしてはじめて常陸へ來た。華族は違つたものだと冷かすと、あひ變らずお口が惡いのねとは答へたが、歸りは百合子を負ぶつた妻と停車場まで歩いて往つた。私が鳥子さんを知つたのは滿十四歳の時からで、新聞に散見する熟字や成語の意味を聞かれて教へてあげた頃から數へると、隨分久しいものである。長塚節が「まくらがの古河のひめ桃ふふめるをいまだ見ねども我れ戀ひにけり」をよんでからも十何年か經てゐる。
 前代議士岩崎惣十郎氏令孃うた子君も醫學士夫人として神田に居るから、ひよつとすると來てゐるかも知れぬと、弟に探させたけれど見えなかつた。板倉鳥子さんが邦子さんと連れ立つてそばへ來て、小さな聲で『Rさんはおなくなりですよ』と、厚ぼつたい封書を私の手へ置いて行つた。
 會は終つてゐた。三々五々散り行く人々のうしろで、若い長髮のいくたりかが怒濤のやうなコーラスの下で踊つてゐた。私は幕のかげに坐つてゐた。
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しかし私の申上るのは其事ではありませぬ、K・Rそれは私の亡き妹の名です。
河井さんを中心として幾多の少女が熱情を詩や文にもらした時代を思ふと夢のやうです。私もあの頃は「文章世界」や「ハガキ文學」で妹と競爭的に書いたものでした。夢の國からわづかに世界を見て失望の極家を出ようとした時、仙臺で妹が離れ行く魂を書いたのもあの頃でした。いろんな事があります。併し今は何もいひたくありません。只七月上旬T少佐の妻として三年忌を務めたことを申上ればそれでいいのです。靜岡で息を引きとる枕べに坐つて、泣叫ぶ長女何にも知らぬ次女と長男、兄としての愚痴を許して下さい。妹は美くしい眉と瞳を持つてゐました。
[#地から3字上げ]廿四日夕   K・K
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まだお目にかゝりませぬのにK・Rは今も猶平和な主婦としてこの世に在るやうにお思ひ遊ばして居られるやうでございますが、K・Rは今地下に靜に眠つてをります。Rさんは酒田のH家のやゝ遠い親戚として其H家を檀家に持つ大きいお寺の末の娘に生れました。ほんとに箸より重い物を持たない位にしてはぐくまれたのでした。けれど、Rさんは小さい時から寂しい人でした。私とは一つちがひのいとこで、家もすぐ近くで學校さへ一年ちがひの身でゐながら、十四で早くも詩集を手にして校庭の松蔭で寂しさうに考へ深さうに讀み耽つてゐるRちやんと、ラケツト手に飛びまはるおてんばの私とは、しつくりしませんでしたが、女子文壇へ盛んに投書したのは女學校を卒業する十七の春ごろからで、十八の秋『見知らぬ人に添ふ』と淋しみながら若い人妻となつて轉々しました。三人の子の母となつて幸福に暮しましたけれど、四人目の姙娠中再び起ちがたき病に罹り、人工流産をすゝめられながら、母の偉大な愛からそれを厭つて遂に三年前小さき者を生むと其まゝ、小さき者と共に逝きました。
ほんとに美しい神經質の人で、背は低うございましたけれど、美しい眉、そして考へふかさうな瞳など、思ひ出しては涙なしではゐられません。
殘る子供達は、酒田に平和に暮して居ります。
文學好の美しい從妹に感化されて、あの北の暗いしめやかな町に横瀬夜雨樣の詩に泣きつゝいつまでもいつまでも廣い本堂により添つてゐた二人の少女、今沁み沁みと偲んで居ります。春風秋雨、いく年か經て人皆變はりました。
[#地から3字上げ]大阪 M・K
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「春風秋雨、いく年か經て人皆かはりました」變つたのは私ばかりでは無かつた。
 河井さんはRの死を知らなかつた。『何時だつたか、火のやうな字で、どうしていゝんだか分らぬ苦悶を訴へて來たが、僕だつて仕やうが無いから、それなり捨てゝ置いた。今なら何とか考へてもやれたし、慰めてもやれたんだがね』
 Rは常陸に來た時、宿命を説いて、『わたしのやうな人間が軍人に嫁いだのも仕かたが無かつたのですから、あなたが忍從の世を送らねばならぬ事もあきらめてください。お母さんのお亡くなりになつたあとはお姉さんにお世話になる積りで』と泣いた。生死ふたつながら夢である。
 渡瀬淳子(澤田正二郎の先妻)と星ヶ岡で踊つた江森美子さんが、もとの家に居られたのは意外だつた。他の人々の轉々定めなさに比べては珍らしく思はれる。苗字は芳村といつたかと思ふ、松竹に入つた女優に、ふく子さんといふのがあつた。大谷袵子姫とクラスメートたることを誇つてゐたが、一年足らずで淪落のふちに落ちて行つた。
 周防から支那在留の商人に嫁して、結婚前後の低級愚劣なおのろけを、書くも書く、三度も四度も書いて來たので、あなたは黄海の浪を見たであらう、南京城の石垣も見たであらう、なぜそれを寫さぬか。周防の片田舍も支那の内地も見わけられぬ目なら楊子江へ身を投げておしまひなさいと言つたら、間もなく客死の報が傳はつた。私の言つたことに腹を立てゝ入水したわけでもあるまいが、あれ程艱まされたことも無い。
 知りたいと思ふ人達の消息は備後の海に沈んだ或る一人を除いて皆分つた。
 幸福だと思はれた人が大して幸福でも無く、花やかだつた人であべこべに零落したのもある。天分のゆたかな女でも、大かた結婚と同時に駄目になるらしい。
 Rの死を傳へ聞いた日の妻の日記には、
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今井邦子氏より書留封書來る、内容はK・Rの死を傳へたるなり。
良人は今にして何も思ふことなからん、また有るべき筈もなし、我れひそかに佳人Rの死をいたむこと切なり。
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 の數行を殘した。

 女子文壇は百號以上續いたが、私は中途から詩と日記と或時は散文まで受持つて、怒らしたり冷かしたり隨分罪を作つてゐる。吉屋信子さんの『初陣の記』を評して「七月號でこの君の文を借物ではないかといつた記者への公開状です。遠廻しにイヤミを並べたもので、年はまだ二八に滿たぬとある。河野槇子は十四歳。山田邦子は十八歳で女子文壇に出て來たが、初めより今のやうに書きはしなかつた。筆蹟も稚かつた。あなたが今事實十五歳だとすれば特別席につけ參らすることは何でもない。學籍におはすなら先づ學校の名を承はりませう。自分はあなたの證しを得て、ねんごろにあしらひたいと思ひます。お分りになりましたか」と書いた。が信子さんはまつたく十五歳だつた。筆蹟といひ、構想といひかいなでの少女と見なかつたのが、私の錯誤を來すもとだつた。



底本:「雪あかり」書物展望社
   1934(昭和9)年6月27日上梓
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年7月21日作成
2003年8月11日修正
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