青空文庫アーカイブ

幽霊船の秘密
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)妖《あや》しい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)船長|佐伯公平《さえきこうへい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あたってまたちかっ[#「ちかっ」に傍点]と
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   南方航路


 そのころ太平洋には、眼に見えない妖《あや》しい力がうごいているのが感じられた。
 妖しい力?
 それは一体なんであろうか。
 ひろびろとしたまっ青な海が、大きなうねりを見せてなんとなく怒ったような表情をしているのだ。
 ときどき、水平線には、一条の煙がかすかにあらわれ、やがてその煙が大きく空にひろがっていくと、その煙の下から一つの船体があらわれる。
 それは見る見るどんどんと形が大きくなり、やがてりっぱな一艘《いっそう》の汽船となつて眼の前をとおりすぎる。
 黄色の煙突、白い船室、まっ黒な船腹《せんぷく》、波の間からちらりとみえる赤い吃水線《きっすいせん》、すんなりと天にのびた檣《ほばしら》――どれもこれも絵のようにうつくしい。見たところ、平和そのものである。
 だが、波浪《はろう》は、なんとなしに、怒った表情に見える。船の舳《へさき》を噛《か》む白いしぶきが、いまにも檣のうえまでとびあがりそうに見える。どんと船腹にぶつかった大きなうねりが、その勢いで汽船をどしんと空中へ放《ほう》りあげそうに見える。なにか、海は感情を害しているらしいのだ。
 こんな噂もある。
 太平洋に、やがて空前の大海戦がはじまるだろう。それは遅くとも、あと半年を待たないだろう。太平洋をはさんだたくさんの国々が、二つに分れ、そしてこの猛烈な戦闘が始まるのだ。そのとき悪くすると、遠く大西洋方面からも大艦隊が馳《は》せさんじて、太平洋上で全世界の艦隊が砲門をひらき、相手を沈めるかこっちが沈められるかの決戦をやることになるかもしれない。そうなると、太平洋というそのおだやかな名は、およそ縁どおいものとなり、硝煙《しょうえん》と、破壊した艦隊の漂流物《ひょうりゅうぶつ》と、そしておびただしい血と油とが、太平洋一杯を埋めつくすだろう。そういう噂が、かなりひろく伝わっているのだ。
 太平洋が、ついにそのおだやかな名を失う日が来るのを嫌って、それで怒っているのかもしれない。
 実をいえば、世界各国の汽船は、いまやいつ戦争が勃発《ぼっぱつ》するかわからないので、びくびくもので太平洋を渡っている有様だった。
 ここに和島丸《わじままる》という千五百トンばかりの貨物船が、いま太平洋を涼しい顔をして、航海してゆく。目的地は南米であり、たくさんの雑貨類をいっぱいに積みこんでいる。そのかえりには鉱物と綿花《めんか》とをもってかえることになっているのだった。この物語は、その和島丸の無電室からはじまる。――
 ちょうど時刻は、午前零時三十分。
 無電機械が、ところもせまくぎっちりと並んだこの部屋には、明るい電灯の光のもとに、二人の技士が起きていた。
 一人は四十を越した赤銅色《しゃくどういろ》に顔のやけたりっぱな老練《ろうれん》な船のりだった。もう一人は、色の白い青年で、学校を出てからまだ幾月にもならないといった感じの若い技士だった。
「おい丸尾《まるお》、なにか入るか」
 年をとった方は、藤椅子《とういす》に腰をおろして、小説を読んでいたが、ふと眼をあげて、若い技士によびかけた。和島丸の無電局長の古谷《ふるや》だ。
「空電ばかりになりました。ほかにもうなにも入りません」
 と、丸尾とよばれた若い技士は、頭にかけた受話器をちょっと手でおさえて返事をした。
 古谷局長は大きく肯《うなず》くと、チョッキのポケットから時計をひっぱりだして見て、
「ふむ、もう零時半だ。新聞電報も報時信号もうけとったし、今夜はもう電信をうつ用も起らないだろうから、器械の方にスイッチを切りかえて、君も寝ることにしたまえ」
 器械というのは、警急自動受信機《けいきゅうじどうじゅしんき》のことである。これをかけておくと、無電技士が受話器を耳に番をしていなくても、遭難の船から救いをもとめるとすぐ器械がはたらいて、電鈴《でんりん》が鳴りだす仕掛《しかけ》になっているものだ。この器械の発明されない昔は、必ず無電技士が一人は夜ぴて起きていて、救難信号がきこえはしないかと番をしていなければならなかったのである。今は器械ができたおかげで、ずいぶん楽になったわけである。
「じゃあ局長、警急受信機の方へ切りかえることにいたします」
「ああ、そうしたまえ。僕も、すこし睡《ねむ》くなったよ」
 丸尾は、配電盤にむかって、一つ一つスイッチを切ったり入れたりしていった。間違《まちが》えてはたいへんなことになる。
 彼は、念には念を入れたつもりであった。さらに念を入れるため、古谷局長の検閲《けんえつ》を乞《こ》おうとして、局長の方をふりかえった。そのとき局長は、本の頁《ページ》をひらいたまま藤椅子のうえで気持よさそうに早や睡《ねむ》っていた。睡っているのを起すまでもないと思い、丸尾はそのままスイッチの切りかえを完了したものだった。
 ところが丸尾が机のうえを片づけにかかっていると、急にけたたましく電鈴が鳴りだした。
 スイッチを切りかえてから、ものの五分とたたない。
 遭難船からのSOSだ!
 局長は、電気にかかったように藤椅子からはね起きた。


   救難信号《きゅうなんしんごう》


「あっ、SOS《エスオーエス》だ」
 局長は、そう叫んだかとおもうと、すぐにもう器械のところへ来ていた。
「おい、丸尾。録音はうまく出ているか、ちょっと調べてみたまえ」
 局長の命令は、きびきびと急所をおさえる。丸尾は、はっと気がついて、さっそく録音盤の廻っているところをのぞいた。
「局長、だめです。盤はまわっていますが、録音の溝《みぞ》は、ほんの微《かす》かについているだけで、これじゃ音が出そうもありません」
「そうか」局長は眼をちらりとうごかすと、すぐ手をのばして受話機をとった。そしてそれを耳にあてた。
「うむ、聞えることは聞えているが、これはまたばかに弱いね」
 そういって局長は、受話機をとると、慣《な》れた手つきで、そのうえに鉛筆を走らせた。これが居睡《いねむり》から覚めたばかりの人であろうかと疑問がおこるほど、局長は、極めて敏捷《びんしょう》に、事をはこんだ。
「おい、丸尾、すぐ方向を測りたまえ」
「はあ、方向を測ります」
 ぼんやり立っていた丸尾は、ここでやっと正気《しょうき》にかえって、命ぜられた方向探知器にとりついた。
 甲板《かんぱん》のうえに出ている枠型空中線《わくがたくうちゅうせん》の支柱を、把手《ハンドル》によってすこしずつ廻していると、電波がどっちの方向から来ているか分る仕掛《しかけ》になっていた。これは学校時代から丸尾の得意な測定だったので、自信をもってやった。生憎《あいにく》入っている信号は、息もたえだえといいたいほど微弱であったが、彼は懸命にそれを捉《とら》えた。その微弱な信号に、死に直面した夥《おびただ》しい生命が托《たく》されているのだ。
「どうだい、方向はとれたか」
「はい、とれました。ほぼ南南東微東《なんなんとうびとう》です」
「なに、南南東微東か」
 局長は受話機を下において、急な口調《くちょう》でいった。
「さあ、すぐ船長に報告だ。電話をしたまえ」
 丸尾は、交換台の接続を終ると、呼出信号を鳴らしつづけた。しかし船長室の受話機が取りあげられるまでには、かなりの時間がかかった。
「船長が出ました」
「おうそうか」
 局長は紙片を手にとって、マイクに近づき、
「船長、ただ今SOSを受信いたしました。遺憾《いかん》ながら電文の前の方は聞きもらしましたので途中からでありますが、こんなことを打ってきました。“――船底《ふなぞこ》ガ大破シ、浸水《しんすい》ハナハダシ。沈没マデ後数十分ノ余裕シカナシ。至急救助ヲ乞ウ”というのです」
「どこの汽船かね。そして船名はなんというのかね」
 船長が、聞きかえした。
「それがどうもよくわかりません。“船名ハ――”とまでは、打ってきましたが、そのあとは空文《くうぶん》なんです。符号がないのです。どうも変ですね。なぜ船名をいわないのでしょうか」
「ふーむ」と船長は呻《うな》っていたが、
「ひょっとすると、どこかの軍艦かもしれない。さもなければ海賊船か。――で、その遭難の位置は、一体どこなのか」
「その位置は不明です。もっともSOSの電文のはじめに打ったのかもしれませんが、聞きのがしました。なにしろ電源がよわっているらしく、電信はたいへん微弱で、とうとう途中で聞えなくなってしまったのです」
「位置が分らんでは、救いにいけないじゃないか」
「はあ、そうです。そこでさっき、丸尾にSOSを発信している船の方向を測《はか》らせました」
「ほう、それはいい。で方向は出たかね」
「南南東微東と出ました」と答えると、
 船長は、ちょっと言葉をとめて考えこんでいたが、
「よろしい。では、これから針路をその南南東微東に向け、全速力で走ってみることにしよう。なお今後の信号に注意したまえ」
 そこで船長の電話は切れた。
 間もなく船が、ぐっと舳《へさき》をまげたのが感じられた。エンジンは、急に呻りをまして、今や全速力で、謎の遭難地点さして進んでゆくのであった。


   現場《げんじょう》附近


 いい気持で、睡っていた船員や火夫《かふ》達は、一人のこらず叩《たた》き起され、救助隊が編成せられ、衛生材料があるだけ全部船長室に並べられた。
 和島丸は位置を知らせるためどの窓も明るく点灯せられ、檣《ほばしら》には小型ではあるが、探照灯《たんしょうとう》が点じられ、船前方の海面を明るく照《て》らしつけた。
 遭難船の姿は、なかなか入らなかった。もうかれこれ一時間になるが、どこまで進んでも暗い海ばかりだ。
 船長|佐伯公平《さえきこうへい》は、それでもなお、全速力で船を走らせるように命じた。
 それから暫《しばら》くたって、無電室から船長に電話がかかってきた。
「どうした。なにか入ったかね」
「はい、今また、きれぎれの信号がはいりました。しかし今度は遭難地点をついに聞きとることができました。“本船ノ位置ハ、略《ほぼ》北緯《ほくい》百六十五度、東経《とうけい》三十二度ノ附近卜思ワレル”とありました」
「なに、北緯百六十五度、東経三十二度の附近だというのか? それじゃこの辺じゃないか」
 と船長は、おもわず愕《おどろ》きのこえをあげた。
 和島丸は、その電文が真実なら、もう既に遭難地点に達しているのである。すると遭難船の姿を発見しなければならぬことになるが、さて探照灯を動かしてから見渡したところ、ボート一隻《いっせき》浮んでいないではないか。
(どうも変だ!)佐伯船長は、小首をかしげた。
「おい局長、こんどは、信号の方向を測ってみなかったかね」
「はあ、測りました。方向は大体同じに出ましたが、前に測ったときほど明瞭《めいりょう》ではありません。その点からいっても、たしかに本船は遭難地点に近づいているにちがいないのですが――」
「そうか。じゃきっとそのへんに何かあるにちがいない。もっと念入りに探してみよう」
 そういって船長は、甲板で働いている船員たちに、命令を出した。
「おい、見張員をあと五名ふやして、海面をよくしらべてみろ」
 和島丸は、速力をおとした。そのかわり舳《へさき》をぐるぐるまわしながら、その辺一帶の海面を念入りに探照灯で掃射《そうしゃ》した。
 だが、肝腎の遭難船の姿は、どこにも見えない。
 遭難船の破片か、あるいは油とか、積んでいた荷物などが漂流《ひょうりゅう》していないかと気をつけたが、ふしぎにも、それすら眼に入らないのであった。
 佐伯船長をはじめ、船員たちが、すっかりいらだちの絶頂《ぜっちょう》に達したときのことであった。舳から、暗い海面をじっと睨《にら》んでいた船員の一人が、とつぜん大ごえをあげた。
「おーい、あれを見ろ。へんなものが浮いているぞ」
 探照灯は、さっそくその方へむけられた。
 なるほどへんなものが、波にゆられながら、ぷかぷか浮いている。
 木片《もくへん》を井桁《いげた》にくみあわせた筏《いかだ》のよなものであった。そのうえになにが入っているのか函《はこ》がのっている。
 そのとき船員は、舳にかけつけていた。
「おい、ボートをおろして、あれを拾ってこい」
 待ちかまえていた連中は、早速《さっそく》ボートを、どんと海上に下ろした。
 ボートは矢のように、怪しい漂流物の方へ近づいた。そして苦もなくその浮かぶ筏を、ロップの先に結びつけた。
 そしてボートは、再び本船へかえってきた。
 船員は、また力をあわせ、ボートをひきあげるやら、その怪しい筏をひっぱりあげるやら、ひとしきり勇《いさま》しい懸《か》けごえにつれ、船上は戦争のような有様だった。函を背負った筏は、船長の前に置かれた。
「これは一体なんだろう。いいからこの函を開けてみろ!」
 船長は、決然と命令をだした。函は蜜柑函《みかんばこ》ぐらいの大きさで、その上に小さい柱が出ていた。蓋《ふた》をとってみると、意外にも中から小型の無電器械がでてきた。
「おや、無電器械じゃないか」
 と船員は呟《つぶや》いたが、函の中には、さらにおどろくべきものが入っていた。船長はじめ船員たちが呀《あ》っと叫んで真蒼《まっさお》になるようなものが入っていたのだ。一体それはなんであろうか!


   黒リボンの花輪


 そのおどろくべき品物は、油紙《あぶらがみ》につつまれて函の隅《すみ》にあったので、はじめは気がつかなかったのだ。
 佐伯船長が、つと手をのばして、油紙につつまれたものをもちあげたとき、待っていたように油紙はばらりととけ、その中からぽとんと下におちたものは一個の小さな花輪であった。
 その花輪は、ちかごろ流行の、乾燥した花をあつめてつくってあるもので、色は多少あせていたが、それでも結構うつくしいので眼を楽しませたし、そのうえいつまでおいても、けっして萎《しぼ》まないから、便利なこともあった。
「ああ、花輪だ!」
 と、船員たちは、その方に一せいに眼をむけたが、とたんに誰の顔も、さっと青くなった。
「なんだ、その花輪には、黒いリボンがむすんであるじゃないか。縁起《えんぎ》でもない!」
 黒いリボンは、お葬式のときにだけつかう不吉《ふきつ》なものだった。その不吉な黒リボンが花輪にむすびつけてあるのだから、佐伯船長以下一同がいやな顔をしたのも無理ではない。
「ほう、まだなにか書いたものがつけてある」
 佐伯船長は、函の底に、一枚のカードがおちているのをつまみあげた。
 見ると、そとには妙な字体の英語でもって、
「コノ花輪ヲ、ヤガテ海底《かいてい》ニ永遠《えいえん》ノ眠リニツカントスル貴船乗組《きせんのりくみ》ノ一同ニ呈ス」
 と書いてある。なんというひどい文句だろう。これを読むと、お前の船にのっている者は、みんな海底に沈んでしまうぞという意味にとれる。
「け、けしからん」
 見ていた船員たちは、拳《こぶし》をかためて、怒りだした。
 だが、さすがに佐伯船長は、怒るよりも前に、和島丸の危険を感づいた。
「おい、みんな。これは遭難の前触《まえぶ》れに決った。お前たちは、すぐ部署《ぶしょ》につけ。おい事務長|銅羅《どら》をならして、総員配置につけと伝達しろ」
 船長のこえは、疳《かん》ばしっていた。
 さあたいへんである。船長の言葉が本当だとすると、もうすぐなにごとか災難がこの和島丸のうえにくるらしい。折《おり》も折、このまっくらな夜中《よなか》だというのに、なんということだろう。
「さあ、甲板《かんぱん》へかけあがれ」
「おい、こっちは機関室へいそぐんだ」
 船員たちは、樹《き》と樹の間をとびまわる猿の群のように、すばしこく船内をかけまわる。
「探照灯や室の外にもれる明かりを消せ。目標となるといけない」
 船長は、つづいて第二の号令をかけた。
 探照灯は消された。窓は、黒い布《きれ》でふさがれた。たちどころに灯火管制ができあがった。やれやれと思った折しも、船の底にあたって、ごとんと、ぶきみな物音がして、船体ははげしく揺れた。
「あっ、今のは何だ」
 船員が顔を見合わせたその瞬間、船底から轟然《ごうぜん》たる音響がきこえた。そして和島丸は、大地震にあったようにぐらぐらと揺れた。
「ああっ、やられた。爆薬らしい」
 船長はその震動でよろよろとよろめいたが、机にとびついて、やっと立ちなおった。そこへ一人の船員が、胸のあたりをまっ赤にそめて、とびこんできた。
「あっ船長。たいへんです。船底に魚雷らしいものが命中しました。大穴があきました。防水中ですが、うまくゆくかどうか。あと二三分で、本船は沈没いたします」
 たいへんな報告であった。
 灯火管制が、もう五分も早かったら、こんなことにならなかったかもしれないのだ。
 佐伯船長は、首をあげて、ぐっとうなずいた。
「ボート、おろせ!」
 悲壮な命令が下った。


   青白い怪船


 そういううちにも、和島丸の破られた船底からは、おびただしい海水が滝のようにながれこんで、船体は見る見る海面下にひきこまれてゆく。
「やあ、ひどく傾《かたむ》いたぞ。そっちのボートを早くおろせ」
 暗《やみ》の中から、どなるこえがきこえる。
 船上には、ふたたび探照灯がついた。誰か分らないが、もう船が沈もうというのに、その探照灯をくるくるまわして、海面をさがしている者があった。
 このような騒《さわ》ぎを経《へ》て、あわれ和島丸は、わずか四分のちには波にのまれて沈んでしまった。
 海上は、まっ暗で、なにがなんだかわからない。救命ボートが四隻《よんせき》、しずかにうかんでいる。
 ごぼごぼどーんと、うしろではげしい音がしたが、これが和島丸の最後のこえのようなものだった。機関の中に海水がながれこんでその爆発となったものであろう。水柱が夜目にも、ぼーっとうすあかるく立って、ボート上の船員たちの胸をかきみだした。
 なにゆえの無警告の撃沈であろう。
 暗さは暗し、なに者の仕業だか、一向《いっこう》にわからない。佐伯船長は、第一号のボートにのってじっと唇をかんでいた。
「船長、ボートは全部無事です。第一、第二、第三、第四の順序にずっとならびました」
 事務長が、暗がりのなかから報告した。さっきから、ボートのうえで手提信号灯《てさげしんごうとう》がうちふられていたが、全部のボートが無事勢ぞろいをしたことを伝えたものであろう。
「そうか。では前進。針路は真東《まひがし》だ」
 えいえいのかけごえもいさましく、四艘《よんそう》のボートは、暗い海上をこぎだした。
「おい古谷局長」
 船長が、無線局長をよんだ。
「はあ、ここに居ります」
 古谷局長も、いまは一本のオールを握って、一生けんめいに漕《こ》いでいる。
「本船の救難信号は、無電で出したろうね」
「はあ、最後まで正味《しょうみ》三分間はありましたろう。その間、頑張って打電しました」
「どこからか応答はなかったかね」
「それが残念にも、一つもないので――」
「こっちの無電は、たしかに電波を出しているのだろうね」
「それは心配ありません。なにしろ打電している時間が短いものですからそれで返事が得られなかったものと思われます」
「ふーむ」
 このうえは、救難信号をききつけたどこかの汽船が、一刻もはやくこの地点に助けに来てくれるのをまつより外はない。さっきまでは、こっちが遭難船を助けに急いだのに、今はその逆になって、こっちが助けを呼ぶ身となった。なんという逆転だろう。
「おい古谷局長」しばらくして、船長はふたたび局長をよんだ。
「はあ、ここに居ります」
「さっき本船から無電したとき、本船が魚雷《ぎょらい》に見舞われたことを打電したかね」
「はあ、それは本社宛の電報に、とりあえず報告しておきました。銚子局《ちょうしきょく》を経て、本社へ届くことでしょう」
「そうか。それはよかった」
 船長の声が、暗闇の中に消えた。洋上は、すこし風が出てきた。舷《ふなばた》から、波がしきりにぱしゃんぱしゃんと、しぶきをあげてとびこむ。
「さあ、元気を出して漕ぐんだ。あと二時間もすれば、夜が白むだろう」
 事務長は、大きなこえで、一同に元気をつけた。そのときであった。
「あっ、船が! 大きな船が通る」
「えっ、大きな船が通るって、それはどこだ?」
「あそこだ。あそこといっても見えないかもしれないが、左舷前方《さげんぜんぽう》だ」
「えっ、左舷前方か」
 一同は、その方をふりかえった。なるほど暗い海上を、船体を青白く光らせた船の形のようなものが、すーうと通りすぎようとしている。
「あっ、あれか。かなり大きな船じゃないか。呼ぼうや」
「待て。うっかりしたことはするな。第一あの船を見ろ。無灯で通っているじゃないか。あれじゃないかなあ。和島丸へ魚雷をぶっぱなしたのは」
「ふん、そうかもしれない。すると、うっかり呼べないや」


   火花《ひばな》する船腹《せんぷく》


 佐伯船長も、おどろく眼で、その青白く光る怪船をじっと見つめていた。
 ふしぎな船もあるものだ。まるで幽霊船が通っているとしか見えない。
「船長、試《こころ》みにあの船を撃《う》ってみてはどうでしょうか。ここに一挺《いっちょう》小銃を持ってきています」
 小銃で幽霊船を撃ってみるか。それもいいだろう。しかし万一あれが本当の幽霊船でなく、どこかの軍艦ででもあったとしたら、そのときはこっちはとんだ目にあわなければならない。
「まあ待て。決して撃つな」
 船長は、はやる船員をおさえた。そのとき第二号のボートが船長ののっている第一号艇にちかづいて、しきりに信号灯をふっている。
「船長、第二号艇から信号です」
「おお、なんだ」
「無電技士の丸尾からの報告です。さっき彼は檣《マスト》のうえから探照灯で洋上をさがしたところ、附近海上に一艘の貨物船らし無灯の船を発見した。その船が今左舷向こうを通るというのです」
「そうか。分かったと返事をしろ」
 船長は大きく肯《うなず》いた。怪しい船だ。船長は、なおもじっと、通りすぎようとする青白い怪船のぼんやりした形を見守っていたが、なに思ったか、
「おい、小銃を持っているのは貝谷《かいたに》だったな」
「はい、貝谷です」
「よし貝谷。かまうことはないからあの船へ一発だけ小銃をうってみろ。吃水《きっすい》よりすこし上の船腹を狙《ねら》うんだ」
「はい、心得ました」
 しばらくすると、どーんと銃声一発|汐風《しおかぜ》ふく暗い洋上の空気をゆりうごかした。射程《しゃてい》はわずかに百メートルぐらいだから、見事に命中である。
 船長はじっと怪船の方をみつめていたが、弾丸《たま》が怪船の船腹に命中してぱっと火花が散ったのを認めた。
「ははあ、そうか。幽霊船だと思ったが、弾丸があたって火花が出るようでは、やはり本物の鉄板を張った船なんだ。じゃあ、今にあの船は、騒ぎだすだろう。おいみんな、油断するな」
 船長は声をはげましていった。だが、ボートから撃たれた怪船は、しーんとしずまりかえって、今や前方をすーっと通りすぎてゆく。
「これはへんだな」と、船長は小首をかしげた。船長の考えでは、小銃でうたれたのだからいくら寝坊でも甲板へとびあがってきて、こっちへむいて騒ぐだろうと思ったのに、それがすっかりあてはずれになった。彼は思いきって、次の決心をしなければならなかった。
「おい、貝谷居るか」
「はい、居りますよ。もっと撃ちますか」
「うん、撃て。私が号令をかけるごとに一発ずつ撃って見ろ。狙いどころは、さっきとおなじところだ」
「よし。ではいいか。一発撃て!」
 どーんと、はげしい銃声だ。弾丸はかーんと船腹にあたってまたちかっ[#「ちかっ」に傍点]と火花がでた。だが青白い怪船は、やはり林のようにしずかであった。
「もう一発だ。撃て!」
 そうして三発の弾丸を空《むな》しくつかいはたして、なんの手応《てごた》えもなかった。
 幽霊船か、そうでないか。――たしかに鉄板の張ってある船らしいが、誰も出てこないとはどうしたわけだ。
 そのうちに、怪船は船足をはやめて、ボート隊から全く見えなくなってしまった。なんだか狐に鼻をつままれたようだ。
 船長は無言で考えにふける。洋上に風はだんだん吹きつける。
 四艘のボートの運命はどうなるのであろうか。


   風浪《ふうろう》あらし


 船腹が青白く光る無灯の怪汽船は、闇にまぎれてどこかへいってしまった。あとには、四隻の遭難ボートが、たがいに離れまいとして、闇の中に信号灯をふりながら洋上を漂《ただよ》ってゆく。風が次第に吹きつのってくる。ボートの揺れはだんだんと大きくなる。
 第一号艇には、佐伯船長がじっと考えこんでいた。
(一体どうしたというのであろう。難破船があるという無電によって、人命《じんめい》をすくうため現場までいってみれば、それらしい船影《せんえい》はなくて、[#「、」は底本では「。」]あの不吉な黒リボンの花輪が漂っていた。とたんに魚雷の攻撃をうけて、口惜しくも本船はたくさんの貨物とともに海底ふかく沈んでしまった。それからボートにのって洋上を漂っていると、そこへあの恐しい無灯の汽船だ。なぜ本船を沈めなければならなかったか。そして本船の敵は、一体なに者だろうか)
 どう考えてみても、そのわけが分らない。それは洋上で会った災難で、和島丸であろうと他の船であろうとどれでもよかったのだとすれば、なんという不運な出来ごとだろう。
 船長が、とつおいつ、覆面《ふくめん》の敵に対してこののちどうしようかと、思案《しあん》にくれていたとき、そばにいた古谷局長が、暗闇《くらやみ》の中から声をかけた。
「船長、風浪がはげしくなってきて、他のボートがだんだん離れてゆくようです。このままでは、ばらばらになるかもしれません」
「おおそうか」
 船長は、はっと顔をあげて、洋上を見まわした。なるほど、他のボートについている信号灯が、たいへん小さくなったようだ。そしてその灯火が上下へはげしく揺れている。
「うむ、これはますます荒れてくるぞ。針路を真東《まひがし》にとることは無理だ。無理にそれをやるとボートが沈没してしまうし、船員が疲れ切って大事をひきおこす危険がある。よし、古谷局長、風浪にさからわぬようにして夜明けをまつことにしよう。他のボートへ、それを知らせてくれ」
 船長の言葉に従って、古谷局長はすぐに信号灯をふって他のボートへ信号をおくった。
 その信号は、どうやらこうやら、他のボートへも通じたらしかった。
 それを合図のように、洋上をふきまくる風は一層はげしさを加えた。どーんと、すごい物音とともに、潮がざざーっと頭のうえから滝のように落ちてくる。
「おい、手の空《あ》いている者は、水をかい出せ。ぐずぐずしているとボートはひっくりかえるぞ」
 船長はぬかりなく命令をくだした。
 生か死か。ボートの乗組員は、いまや全身の力を傾けて風浪と闘うのであった。


   死んだような洋上


 乗組員の死闘は、夜明までつづいた。
 さすがの風浪も、乗組員のねばりづよさに敬意を表したものか、東の空が白むとともに、だんだんと勢いをよわめていった。そして夜が明けはなたれた頃には、風も浪《なみ》も、まるで嘘のように穏やかにおさまっていた。
「おう、助かったぞ」
 乗組員は、安心の色をうかべると、そのままごろりと横になった。俄《にわ》かに睡魔《すいま》がやってきた。みんな死んだようになって、睡眠をむさぼる。
 船長も、いつの間にか深い睡りにおちていた。が、彼は一時間もするとぱっと眼をさました。
「やっ、不覚にも睡ってしまった。こいつはいけない」
 船長は眼をこすりながら、艇内を見まわした。誰も彼も死人のような顔をしている。
 空は、うすぐもりだ。まだ天候回復とまではゆかない。だから油断は禁物である。
「そうだ。他のボートはどうしたろう」
 船長は、眼をぱちぱちさせながら、洋上をぐるっと見わたした。だが求めるボートの影は、どこにも見えなかった。
「おい、古谷君起きろ!」
 船長は、傍《そば》に仆《たお》れている無電局長の身体をゆすぶった。
 局長は、びっくりして跳《は》ね起《お》きた。
「おい、とうとう他のボートとはぐれてしまったらしい、それとも君には見えるかね」
「えっ、他のボートが見えないのですか。三隻《さんせき》とも見えませんか」
 局長はおどろいたらしい。船長が望遠鏡をわたすと、彼はそれを眼にあてて、水平線をいくども見まわした。
「どうだ、見えるか」
 局長は、それに対して返事もせず、その代りに望遠鏡を眼から放して、首を左右にふった。
「どこへいってしまったんだろうな」
 船長は、ため息をついた。
「さあ、助かるには助かって、どこかに漂流しているんだとはおもいますが……」
 局長はそういったが、しかしそれはなにも自信があっていったことではなかった。
 ボートは西へ西へと流れていた。どうやら潮流《ちょうりゅう》のうえにのっているらしい。
「おい古谷君、無電装置を持ってこなかったかね」
 と船長がきいた。
「はあ、持って来たことには来たんですけれど、駄目なんです。ゆうべ、ボートの中が水浸《みずびた》しになって、絶縁《ぜつえん》がすっかり駄目になりました。はなはだ残念です」
「ふうむ、そいつは惜しいことをした」
 船長は眼を洋上にむけた。
 そのうちどこからか、汽船が通りあわすかもしれない。だがそれは運次第であって、そんなものを期待していてはいけないのであった。確《かく》たる今後の方針をどうするか、それをきめて置かなければならない。
 そのころ、乗組員たちが、ぼつぼつ起きてきた。
「ああ夢だったか。俺はまだ風浪と闘っている気がしていたが……」
 風浪は凪《な》いだ。だが風浪よりもわるいものが、彼等を待っているのだ。
 それは飢《うえ》と渇《かつ》とであった。いや、飢より渇の方がはるかに恐ろしい。雲はだんだん薄くなって、熱い陽ざしがじりじりとボートのうえへさしてきた。この分では、飲料水の樽《たる》は、すぐからになるだろう。
「船長、漕《こ》がなくてもいいのですか」
「うむ、二三日はこのまま漂流をつづける覚悟でいこう。そのうちに、なにかいいことが向こうからやってくるだろう」
 船長は、たいへん呑気《のんき》そうな口をきいた。だが彼は、本当はひとり、心のうちでこまかいところまで考えていたのだ。こうなれば、部下の体力を無駄につかわないことが大切だった。できるだけ永く、部下を元気に保《たも》っておかなければならない。
「おーい、水を呑ませてくれ。咽喉《のど》が焼けつきそうだ」
 船員の一人が、くるしそうなこえをあげた。
「船長、水を呑ませていいですか」
「うん、水は一番大切なものだ。とにかく今朝は、小さいニュームのコップに一杯ずつ呑むことにしよう。あとは夕方まではいけない」
「えっ、あとは夕方までいけないのですか」


   漂流《ひょうりゅう》するボート


 たった一杯の水が、どのくらい遭難の船員たちを元気づけたかしれなかった。
 次に海水にびしょびしょに濡《ぬ》れた握り飯が一箇ずつ分配された。おはちを持ちこんであったので、握り飯にもありつけたのである。
「おい、そこにあるのは缶詰じゃないか」
「おおそうだ。俺は手近にあった缶詰を卓子掛《テーブルかけ》にくるんで持ちこんだのだった。こんな大事なものを、すっかり忘れていた」
 わずか十個に足りない缶詰だったけれど、遭難ボートにとっては、意外な御馳走であった。
「おい、三つばかり、すぐあけようじゃないか」
「待て、船長に伺《うかが》ってみよう」
 船長は、さっきから黙って、その方を見ていたので、部下にいわれるまえに口をひらいた。
「あけるのは、一個だけでたくさんだ。このうえ幾日かかって救助されるかわからないのだから、できるだけ食料を貯《たくわ》えておくのが勝ちだ。一個だけあけて、皆に廻すがいい」
「たった一個ですか。それじゃ、皆の口に一口ずつも入らない」
 船員は不平らしくいって、唾《つば》をのみこんだ。
 船長は、どうしても一個しか、缶詰をあけることをゆるさなかった。太平洋の遭難船で、半年以上も漂流していた例さえあるんだ。うまくいっても、一ヶ月や二ヶ月は漂流する覚悟でやらないと、計算がちがってくる。なにしろボートのうえには、二十四名の者が、ぎっしりのりこんでいるのだった。
「水だ、飯よりも水が呑みたい。船長、もう一杯水を呑ませてください」
「うん、いずれ呑ませてやる。もうすこし辛抱せい」
 船長は、子供にいいきかせるようにいった。だが、実のところ、太陽の直射熱はいよいよはげしくなって、誰の咽喉《のど》もからからにかわいてくるのだった。これでは、いくら水を呑んでも足りるはずがない。
「おーい、みんな。ボートのうえに日蔽《ひおお》いをつくるんだ。シャツでもズボンでもいいから、ぬいでもいいものを集めろ。そしてつぎあわせるんだ。そうすれば、咽喉の乾くのがとまる」
 船長は命令をくだした。
 部下は、それをきくと、元気になったように見えた。手持ぶさたのうえに、がっかりしていたところへ、ともかくも船長からやるべき仕事をあたえられたからであった。
 よせ布細工《きれざいく》の日蔽いは、だんだんと綴《つづ》られ、そして、大きくなっていった。
 やがてボートのうえに、この日蔽いは張られて、窮屈《きゅうくつ》ながら辛うじて全員の身体を灼《や》けつくような太陽から遮《さえぎ》ることができるようになった。
「もうすこし布《きれ》があれば帆が作れるんだがなあ」
「だめだよ、どっちへいっていいかわからないのに、帆を作ったって仕様《しよう》がないじゃないか」
 そんなことをいいあうのも、日蔽いのおかげで、船員たちが元気になった証拠であった。
 それは正午に近いころだった。
 貝谷という船内で一番元気な男が、とつぜん大声でわめいた。
「おい、ボートだ! あそこにボートが浮いている」
「えっ、ボートか」
「和島丸のボートだろうか。どこだ、どこに見える」
 貝谷は、小手をかざして、東の方を指さした。
 今までなぜ気がつかなかったと思うくらい、手近かなところに一隻《いっせき》のボートが、うかんでいた。
「おーい、和島丸のボート」
「おーい、一号艇はここにいるぞ」
 一号艇の乗組員たちは、こえをかぎりに喚《わめ》き、そしてせっかく張った日蔽いをはねのけながら手をふった。
「へんだな、応答をしないじゃないか。こっちの呼んでいるのに気がつかないのかしらん」
 そのとき、佐伯船長がいった。彼は望遠鏡を眼にあてていた。
「なるほど、これはおかしい。ボートのうえには櫂《かい》が見えない。櫂ばかりではない、人らしいものも見えないぞ。だが、あれはたしかに二号艇だ」
「えっ、二号艇ですか。本当に人影がないのですか。どうしたんでしょう」
「おかしいね」と船長はいって首をふった。
 そして望遠鏡を眼から外すと、一同をぐるっと見わたした。
「おい櫂をとれ。あの二号艇のところへ漕《こ》いでいってみよう」
 果して二号艇には誰もいなかったであろうか。
 そこには佐伯船長以下が予期しなかったような怪事が待ちうけているともしらず、一号艇はひさしぶりに擢をそろえて洋上を勇しく漕ぎだしたのであった。


   いたましき遺書


 二号艇は、波間にゆらゆら漂《ただよ》っている。
 そのうえに、人影はさらにない。櫂さえ見えないのだ。
 せっかく身ぢかに発見した僚艇《りょうてい》が、このような有様なので、一号艇上に指揮をとる佐伯船長以下二十三名の船員たちは、いいあわせたように不安な気持に顔をくもらせている。
「さあ漕げ、もうすこしだ。お一、二」
 船長は船員たちに力をつける。
 ボートは、海面を矢のように滑ってゆく。
 船長は、ボートのうえに望遠鏡をはなさない。その傍にいる無電局長の古谷が気がついたときは、望遠鏡を握る佐伯船長の腕が、なぜかぶるぶると慄《ふる》えていたのであった。
「船長、ボートの中になにが見えます?」
「うむ」
 佐伯船長は、望遠鏡を眼からひき離すように下ろして、ほっと溜息《ためいき》をついた。それはまるで悪夢からさめた人のようであった。船長は、なにかしらないが、ボートの中に思《おも》いがけないものを発見したらしいのである。
「船長、なにが見えましたか」
 局長にさいそくされて、船長は、いまはもう仕方がないとあきらめたように、
「おう、皆よく聞け。わしは望遠鏡をとって、あそこに漂流する二号艇ボートを仔細《しさい》に見たのだ。ところが、前にわしはボートのうえに櫂もなければ、人影もないといったが、いまよく見てみると、ボートの中は、全然空っぽではなかった」
 船長は、わざとまわりくどいいい方をしているようであった。
「で、なにが二号艇内に見えるのですか。船長、はやくいってください」
「血だ、血だ! 二号艇のなかは、血だらけなんだ」
「えっ!」
 船員たちはおどろきのあまり、思わず櫂の手をゆるめた。ボートは、ぐぐっと傾き、いまにもひっくりかえりそうになった。
「おう、しっかり漕げ、日本の船乗が、こんなことぐらいで腰をぬかしてどうするのか。さあ、はやく二号艇へ漕ぎよせろ」
 船長は、舷《ふなべり》をぴしゃぴしゃ叩いて、船員たちを叱りつけた。
 一号艇は、また矢のように海面を走りだした。漕ぎ手たちは、おどろきをおさえて、ひたむきに漕いだ。
「櫂やすめ」――船長の号令がかかった。
 漕ぎ手たちは、はじめて左右をふりかえった。二号艇は、もう手をのばせば触《ふ》れんばかりの近くにあった。彼等の眼は、電光のように早く、二号艇のうえにおちた。
「あっ。ひでえことになっていらあ」
「おお、これは一体どうしたというわけだろう?」
「あ、あんなところに千切《ちぎ》れた腕が」
 二号艇のなかのことを、どのように書きつづればいいであろうか。あまりの惨状《さんじょう》に、書きあらわす文字を知らない。
 とにかく艇内は、血しぶきで顔をそむけたいほどの惨状を呈《てい》していた。満足な身体をもった人間は、ただの一人も艇内に発見されなかったけれど、千切れた腕や脚や、そのほかたしかに人骨《じんこつ》と思われるものが血にまみれて、艇内におびただしくちらばっていた。
「なんということだろう、この光景は?」
 おちつき船長として有名な佐伯も、この思いがけない僚艇の惨状に、顔の色をうしなった。


   謎の裂《さ》き傷《きず》


「これは、遭難して漂流中、仲間同志で喧嘩したのじゃありませんか。そこで、ジャック・ナイフでたがいに渡りあって、こんなことになった!」
 船員の一人が、このひどい光景に説明をこころみた。もっともな考え方であった。
 だが船長は、すぐそれに反対した。
「いや、ちがう。それはちがうだろう」
「でも、そうとしか考えられませんね」
「たしかにそれはちがう。第一、われわれの仲間がこんなひどい殺人合戦をやるとは考えられない。第二に、もしそんなことがあったとしても、人骨《じんこつ》ばかりにするというようなひどい殺し方をやる者が、われわれ仲間にあろうとは信じられない。しかも昨日の今日のことだからね」
 船長は、さすがに眼のつけどころがちがっていた。
 どんな喧嘩のたねがあったにしろ、わずか一夜のうちに、二十名以上もあった二号艇の乗組員が一人も見えなくなり、人骨と千切れた手足だけをのこすばかりとなったとは考えられない。
 船長は、自分の胸のうちを冷たい刃物がさしつらぬいてゆくように感じたのだった。
 船員たちは、急にだまりこんでしまった。見れば見るほど、眼をそむけたいような惨状である。あの親しかった仲間の誰かれは、一体どうなったのであろうか。なにごとかはわからないが、この二号艇の乗組員たちをみな殺しにした不吉な死の影は、いつまた一号艇のうえにおちてくるか分らないのだ。
 古谷局長は、さっきからだまりこくって、二号艇の無慚《むざん》な光景にむかっていた。彼は、あの二号艇にのりこんでいた部下の丸尾技士の安否《あんぴ》について、いろいろと考えていたのだ。あの好青年も、ついにおなじ脱《のが》れられない運命のもとに死んでいったのであろう。ひょっとすると、あそこに散らばっている千切れた手首が、電鍵を握ってはかなうもののない、あの丸尾技士の手首であるかもしれないのだ。そんな風な、なさけない想《おも》いに胸をいためていた古谷局長の眼にさっきから灼《や》きついて離れない二号艇の底にころがっている一つの手首があった。その手首は、なにか口でもあるかのように、局長によびかけているようであった。
「はて――」
 局長は、櫂《かい》を借りて、二号艇の血の海のなかから、気になるその手首をそっとすくいあげた。そしてそのまま手もとへひきよせたのである。
「うむ、やっぱりそうだった」
 局長の眼が光った。彼は佐伯船長の方をむいて叫んだ。
「船長、これを見てください。この手首は、なにか手紙らしいものをしっかと握っています」
「おおそうか。こっちへよこせ」
 船長は、局長と二人がかりで、その手首がつかんでいる手紙のようなものをひき離した。それはたしかに手紙だった。手帳を破ってそのうえに走《はし》り書《がき》にしたためたものであった。手首がとんでも、なおしっかり握りしめていたその手紙というのには、一体何が書いてあったろうか。
「おお、これは丸尾が書いたものだ」
 船長が、びっくりしたようにいった。
「うむ、これはたいへんなことが書いてある。――“「幽霊船』ニチカヨルナ。ワレラハ”ちえっ残念! そのあとが破れていて分らない。次の行になって“ハ、人間ヨリモ恐ロシイ”で、またあとが切れている」
 幽霊船に近よるな、吾等《われら》は……? 人間よりもおそろしい……? ――これが、丸尾技士の遺書だった。
「さあ、どういう意味だかよくわからないが、――」と船長はいって、「とにかく、幽霊船に近よるな、人間よりも恐ろしい奴がいるぞ、注意しろ――と、こういうわけなんだろう。丸尾は、われわれを助けようがために、こんな身体になるまで頑張ったんだ。なんて勇しい男だろう」
 船長は、おもわず感嘆のこえを放ったが、それは他の二十三名の乗組員だれもの想いでもあった。
 それはそれでいいとして、その次に、この二十四人の生残りの船員たちをひどく脅《おびや》かすものが残っていた。“人間よりも恐ろしい!”という文句が、一体なにをさしていっているかということであった。
 幽霊船だから、人間より恐ろしい奴というのは、幽霊のことなのであろうか。いやいや、幽霊などというものはこの世にないと聞いている。第一幽霊が無電などをうつであろうか。だがこの奇怪きわまる光景をながめていると、おしまいにはこれを超人的な幽霊の仕業とでもしなければ、説明がつかなかった。


   幽霊船現わる


 無電技士丸尾の遺書は、あまりに簡単であったため、二号艇に乗組んでいた二十何名かの船員の最期《さいご》を語りつくしていたとはいえなかった。
 だが、まったく遺書がない場合よりも、はるかによかった。すなわち「幽霊船」にしてやられたらしいこと、そこには「人間よりおそろしい」何者かがいるらしいことが、おぼろげながら分ったからである。
 丸尾の遺書が知れわたると、一号艇の人たちは、破れかかった二号艇の中を、あらためて見なおした。それは惨状のうちにもなにかもっと彼等に役立つことが、ありはしないかとおもったからであった。
「おれは、だんぜんこの仇うちをしなければ腸《はら》が癒《い》えないんだ。幽霊船をみつけ次第、おれはそのうえに飛びのってやる。そして幽霊どもを、これでぶった斬《ぎ》ってやるんだ」
 そういって、腰のジャック・ナイフを握りしめる船員もあった。
「おいおい、あれを見ろ。あのとおり、腕をひき裂《さ》きやがった。一度|斬《き》りつけただけでは足りないで、三筋《みすじ》も四筋も斬りつけてある」
「うん、まるでフォークをつきこんで、ひき裂いたようだなあ」
「ああ、猛獣の爪にひき裂かれたようではないか」
 船長は、彼等の会話をきいて、ともに涙をのんだ。
 二号艇には櫂《かい》がなかったが、一号艇にはぎっしり人がのっていたので、その一部が二号艇にのりうつることにした。
 古谷局長と、貝谷という射撃のうまい船員と、そのほか六名の船員がのりこんだ。こうして二手にわかれて、また海を漂《ただよ》うことにした。
 二号艇へのりこんだ古谷局長は、一同をさしずして、艇内の血を洗ったり、僚友の遺骸《いがい》の一部分を片づけたりした。そのうちに太陽はだんだん西の水平線に傾き、大空一杯に、豪快なる夕焼がひろがった。
「どうも、あの雲が気になるね」
 などと、いっているうちに、入道雲がくずれだした。それは特別に灰色がかった大きい奴で、下の方が煙のようなものの中に隠れていた。
「おい、一雨《ひとあめ》やってくるぜ。いまぴかりと光ったよ」
「おう、入道雲の中で光ったね。うむ、風が出てきたぞ。これはまたやられるか」
 なにしろ助けを呼ぶにも、どこにも一隻の船影さえ見えないのである。櫂を握るにもあてはなし、風浪のまにまに漂ってゆくより外に仕方がない身の上であった。そこへ一時的の雷雨にしろ、飢渇《きかつ》と疲労とに弱っているところを叩かれる身はつらいことであった。
 そうこうしているうちに、海は白い波頭を見せて荒れてきた。ぽつり、ぽつりとおちてくる大粒の雨!
 やがてあたりは真暗《まっくら》になり、盆《ぼん》をひっくりかえしたような豪雨となった。それに交《まじ》って、どろんどろんと地軸もさけんばかりに雷鳴はとどろく。
「おい離れるな」
「おう、舵《かじ》をとられるな」
 二艘のボートは、たがいに必死のこえで叫びあう。どこが海だか空だか分らない。そのときだった。
「あっ、幽霊船が通る!」
「えっ、幽霊船!」
 灰色の壁のような雨脚の中に、一隻の巨船が音もなく滑ってゆく。二三百メートルの近くであった。まさしく幽霊船だ!


   逃がすな幽霊船


 幽霊船にゆきあうのは、これで幾度目であろうか。たしか和島丸が撃沈せられて、一同が四艘のボートに乗じて海上へのがれたとき、この幽霊船がとおった。それからこれで二度目である。
 はじめのときは、幽霊船に一発弾丸をおくってみただけで、そのままなにもしなかった。だが、きょうは幽霊船を別な目でみる!
 なぜといって、行方不明《ゆくえふめい》になった丸尾無電技士の手首が発見され、その掌《て》の中に、ただごとではない手紙が握られていたのである。ことに“幽霊船に近よるな”とあるからには、この幽霊船は丸尾たち元の二号艇の乗組員に対して、なにかおそろしい危害を加えたものと思われる。一体彼等はどんなおそろしい目にあったのか。そして彼等は一体どこへいってしまったのか。――いや、いってしまったなどというよりも、彼等は一人のこらず殺されてしまったのだと書く方が正しいかもしれないのだ。いま雷雨のなかに突然現われた幽霊船!
「うぬ、幽霊船め、こんどは只じゃ通さないぞ。そうだ、そうだ。乗組員の敵だ。仇《かたき》うちをしなくちゃ、腹の虫がおさまらないや」
 二艘のボートからは、乗組員たちが異口同音《いくどうおん》に、いましも傍にきた幽霊船に対して怒りの声をなげかけた。盆をくつがえすような雷雨も、山のような波浪も、それから幽霊船の恐ろしさも、彼等はすっかり忘れていた。それほど彼等にとって、幽霊船は憎《にく》い存在だったのである。
「船長、私をあの幽霊船へやってください。私は仲間が、どうして殺されたかをよく調べてくるつもりです。きっと秘密は、あの船の中にあるのです」
「わしもやってくだせえよ。船長さん。丸尾はいい青年で、わしに親切にしてくれた。ここでわしは丸尾のために仇をうたなくちゃ、生きながらえているのがつらい」
 あっちからもこっちからも、船長のところへ幽霊船探険を志願するものがたくさん出てきて、佐伯船長もどうしてよいやらすくなからず困った。彼等は、幽霊船の出てくる前には、飢《う》えと渇《かわ》きとで、病人のようにへたばっていたのに、いまは戦士のように元気にふるい立っている。大雷雨も波浪も、必ず近よるなという注意書のあったおそろしい幽霊船も、彼等には大しておそろしいものではなくなったらしい。佐伯船長は、この様子を見ていたが、このとき大きく肯《うなず》き、
「よし、みんなのいうことは、よくわかった。では、あの幽霊船へ探険隊をやることにする」
 二|艘《そう》のボートの中からは、どっと悦《よろこ》びの声があがった。
「いまから命令を出す。古谷局長を隊長とし、二号艇の全員は探険隊として、直ちに出発! 一号艇は、予備隊としてしばらく海上から幽霊船の様子を見ていることにする」
 それをきいて、悦ぶ者と、不満の舌うちをする者。
「これ、さわいでいる場合ではない。ぐずぐずしているうちに幽霊船が遠くへいってしまうぞ。おい、二号艇、すぐ出発だ!」


   決死の探険隊


「おい、なんでもいいから、護身用になる木片《きぎれ》でもナイフでも用意しろ。貝谷は銃を大切にしろ。銃は一挺しかないんだからな」
 古谷無電局長は、探険隊長を命ぜられて、たいへんなはりきり方だ。彼は可愛がっていた丸尾技士のためにも、すすんでこの探険隊に加わりたいところだったのだ。
「さあ、用意はできたね。では探険隊出発! 漕《こ》げ! お一チ、二イ、お一チ、二イ」
 古谷局長の指揮のもとに、ボートは大雨の中を矢のように波頭をつらぬいてすすむ。そのとき幽霊船はと見れば、嵐の中にまるで降りとめられたようにじっとうごかない。巨象が行水《ぎょうずい》しているようでもある。船体からは、例の青白い燐光《りんこう》がちらちらと燃《も》えている。さすがにものすさまじい光景で、櫂をにぎるわが勇士たちの腕も、ちょっとにぶったように見えたが、それも無理のないことであった。
「おい、しっかり漕げ! 生命《いのち》の惜しい奴は、今のうちに手をあげろ。すぐ一号艇へ戻してやる」
 もちろん誰も手をあげる者はいない。えいやえいやと、また懸《か》け声《ごえ》がいさましくなった。
「そこだ。しっかり漕げ。貝谷、銃を構えていろ。――そこでこのボートを幽霊船の船尾にぶらさがっている縄梯子《なわばしご》の下へつける。おれがのぼったら、お前たちもあとからついてのぼれ」
 やがてボートはぐんぐんと幽霊船の下に近づいていった。見上げるような巨船だ。すっかり錆《さび》が出ているうえに、浪《なみ》に叩かれてか、船名さえはっきり読めない。しかしとにかく外国船であることはたしかである。
 なにしろ驟雨《しゅうう》はまだおさまらず、波浪が高いので、ボートはいくたびか幽霊船に近づきながら、いくたびとなく離れた。
「えい!」いくど目であったかしらぬが、とうとう古谷局長は、身をおどらせて船と船との間を飛んだ。綱梯子は大きく揺れているが、局長の身体はそのうえに乗っている。
「おい、はやく漕ぎよせろ。局長を見殺しにしちゃ、おれたちの顔にかかわる」
「ほら、いまだ。とびうつれ」
 なぜか船尾から、綱梯子が三条も垂れていた。二号艇の勇士たちは、つぎつぎに蛙のように、この綱梯子にとびついた。貝谷も銃を背に斜めに負うたまま、ひらりと局長のとなりの梯子にとびつき、そのままたったっと舷側《げんそく》へのぼっていった。彼は一番乗りをするつもりらしい。
「おい貝谷、油断をするな」
 早くもそれをみとめて、古谷局長が声をかけた。局長は白鞘《しろざや》の短刀を腰にさしている。あと舷側まで、ほんの一伸《ひとの》びだ。おそれているわけではないが、胸が躍る。局長は、ひょいと身体をかるく浮かして、舷側に手をかけた。そしてしずかに頭をあげていった。
「見えた、甲板《かんぱん》だ」古谷局長は、舷側ごしに甲板をながめ、「ふーん、やっぱり誰もいない」
「局長、甲板に人骨が散らばっています。あそこです。おや、こっちにも。……ち、畜生、どうするか覚えていろ!」と貝谷が叫んだ。
「なるほど、こいつは凄い。幽霊というやつが、こんなに荒っぽいものだと知ったのは、こんどが始めてだ」


   船内の怪光


 嵐の勢いがおとろえ、雨はだいぶん小やみになった。怪船の舷側に、鈴なりになっている二号艇の面々は、もう突撃命令がくだるかと、めいめいにナイフや棒切を握って、身体をかたくしている。
「さあ、突撃用意!」古谷局長が、いよいよ号令をかけた。
「船内捜索のときは、必ず二人以上組んでゆけ。一人きりで入っていっちゃ駄目だぞ。まずおれたちは船橋《ブリッジ》を占領する。そこで十分間たっても異状がなかったら、手をあげるから、こんどはみんなで船内捜索だ」
 そういい捨てるようにして、局長は舷側を身軽くとび越え、甲板のうえに躍りあがった。つづいて、銃を持った貝谷が、甲板上の人となる。残りの艇員たちは、場所をさらに上にうつして、舷側越しに、両人の行動をじっと注視する。そのとき、また空が暗くなって、白い雨がどっと降ってきた。甲板を這《は》う局長と貝谷の姿が痛ましく雨にたたかれ、ぼーっと霞む。
「突進だ」古谷局長は、貝谷をうながすと、脱兎《だっと》のように駈《か》けだした。そして船橋につづく狭い昇降階段をするするとのぼった。
「やっぱり誰もいないですね」貝谷は雨に叩かれている船橋をじっとみまわした。
「局長、どうもさっきから気になっているんだが、妙なものがありますぜ。あれをごらんなさい」貝谷は、船橋のうえを気味わるそうに指した。
「雨に洗われて、うすくしか見えませんが、血の固まりを叩きつけたようなものが、点々としているのではないですか」
「そうです。もしここが陸上なら、いやジャングルなら、猛獣の足跡とでもいうところでしょうな」
「ふん、冗談じゃないよ。ここは海の上じゃないか」
 といったが、古谷局長も貝谷の指した妙な血の斑点《はんてん》がなんであるか、解くことができなかった。そのうちに、予定の十分間はいつの間にか経ってしまった。
「局長、舷側のところで、みんなが局長の信号を待っていますぜ」
「ああ、そうか。じゃあ、いよいよ船内を探してみることにしよう」
 そういって局長は、待っている一同の方へ手をあげて、懸《かか》れの合図をおくった。待っていましたとばかり、一同はどやどやと甲板上に躍りあがった。
「おい貝谷。船室の方へいってみよう」二人は船室の方へ下りていったが、どの室の扉も壊れたり、または開いていて、室内はたとえようもなく乱れている。
「一体ここの船客たちは、どうしたんだろうね」
「幽霊に喰い殺されちまったんですよ」
「そうかなあ、それにしてはあまりに惨状がひどすぎるよ。ふん、ひょっとすると、この汽船の中に、恐ろしい流行病がはやりだして、全員みんなそれに斃《たお》れてしまったのではないかな」
「えっ、流行病ですって」貝谷の顔色はさっと変った。
「そうだ、そうかもしれない。たとえば、ペストとか、或いはまた、まだ人間が知らないような細菌がこの船内にとびこんでさ、薬もなにも役に立たないから、皆死んでしまったというのはどうだ」
「しかし局長、人骨だけ残っていて、満足な人体が残っていないのはどういうわけですかな」
 そういっているうちに、二人は船橋へ通ずる階段のところへ出た。そのとき下の船艙《せんそう》から、なにかことんと物音がしたのを、二人は同時に聞きとがめた。その妙な物音は、ずっと下の船艙からきこえる。二人はその物音を追ってついに二番船艙の底まではいりこんだ。あたりは電灯も消えて真暗であった。が、どこからともなく吹いてくる血なまぐさい風!
「あっ、あんなところに、なにかキラキラ光っているものがある!」
 と、貝谷が局長の腕をぐっと引寄せた。


   解けた怪異《かいい》


 幽霊船の中に潜んでいた謎は、一体なんであったろうか。船艙のくらがりの中から聞えるごとごとという怪音、それにつづいてキラキラと光った物!
 銃をもった貝谷は、隊長古谷局長の腕をとらえ、
「局長、あれをごらんなさい。光る物は二つならんでいます。あれは動物の眼ですよ」
「どこだい。よく見えないが……」
 といっているとき、うおーっという呻《うな》りごえ。
「局長、一発撃たせてください。そうしないと、こっちがやられてしまいます」
「じゃあ、……」
 局長の言葉半ばにして、だーんと銃声がひびいた。貝谷がとうとう狙いをさだめて撃ったのである。闇の中に、たしかに手応《てごた》えがあった。それっきり呻《うな》り声はしなくなった。
「どうしたんだろうなあ、貝谷」
「局長。うまく仕とめたんです。そばへいってみましょう」
 局長と貝谷とは残りすくない貴重なマッチをすって、そばに近づいた。そこには大きな愕きが、二人を待っていた。
「あっ、豹《ひょう》だ! 黒豹が死んでいる!」
 船艙の隅に、小牛ほどもあろうという大きな黒豹が、見事に額を撃ちぬかれて、ぐたりと長くのびていた。
「ああ、もうすこしで、こいつに喰われてしまうところだった」
「貝谷。お前の腕前には、感心したよ。いや、感心したばかりではない。危いところで生命を助けてもらったことを感謝するぞ。だが――」
 と、いって、局長は大きな呼吸をして、
「おい貝谷。これで幽霊船の秘密が解けたではないか」
「えっ、幽霊船の秘密だといいますと……」
「ほら、甲板だの船橋《ブリッジ》だのに、人骨がちらばっていたことさ。つまりこの幽霊船には、檻《おり》を破った猛獣が暴れていたんだ。そして船員を片っ端から喰いあらしていたのにちがいない」
「ああ、なるほど。猛獣だから、人間の肉をすっかり綺麗に喰べつくし、骨だけ残していたというわけですか。そうかもしれませんねえ」
 といったが、雨の甲板や船橋のうえについていた大きな丸味のある血痕《けっこん》は、この黒豹の足跡だったと、今にして二人は思いあたったことである。全く恐ろしいことだ。航海中の汽船の中に、猛獣が暴れだして、船員を喰べた。大海に漂う船の中だから、逃げだすこともどうすることもできなかったのであろう。
「ねえ局長。船内をあらしまわって人間を喰った黒豹というのは、いま撃ちとめたこの一頭だけでしょうか」
「さあ、どうだか」と局長はいったが、「どうも一頭だけとは考えられないね。なにしろ、あのとおり人骨が散らばっているところをみても、この一頭だけの仕業だとは考えられないよ」
「じゃあ、外の奴を警戒しなければなりませんね」
「そうだ、どっかその辺に潜んでいる奴があるかもしれない」
 そういっているとき、甲板の方とおもわれる見当で、とつぜん、うわーっと誰かの悲鳴!
「あっ、誰かが……」
「うむ、猛獣が出たのかもしれない。すぐいってやろう。貝谷、続け!」
 古谷局長は、短剣を手に、船艙から甲板へ通じる階段をまっしぐらに駈けあがる。


   心細い弾丸《たま》


 甲板へ出てみると、そこには想像した以上の、たいへんな光景が展開していた。古谷局長のつれてきた二号艇の連中が、檣《マスト》の上に鈴なりになって、しきりに下を向いて喚《わめ》いている。
「あっ、局長。いますいます、猛獣が五六頭います」
「えっ、どこにいる?」
 と、いっているところへ、うおーっと一声呻り声をあげて近づいてきた一頭のライオン。
「あっ、危い!」という間もなく、ライオンは局長と貝谷の上をとびこえて、檣の下へ――。
 そこには、さっきから五六頭のライオンが入りみだれて、檣にのぼっている和島丸の船員をしきりに狙っている。
「うーむ、これは困った。銃一挺では、どうすることもできない」
 と、古谷局長は嘆声《たんせい》を発した。
「でも局長。あと弾丸は五発ありますから、弾丸のあるだけ撃ってみましょう」
 貝谷は、もう覚悟をきめていた。
「待て! 五発の弾丸を撃ったあとを考えると、そう簡単に撃つわけにいかないぞ。弾丸がなくなれば、われわれもまた、この汽船の乗組員と同じ運命に陥《おちい》って、猛獣に喰われて白骨になるではないか。撃つのはしばらく待て!」
 猛獣は、ものすごい声をあげて咆哮《ほうこう》する。どれもこれも、腹がへっているらしい。この咆哮につれて、檣の下には刻々と猛獣の数が殖《ふ》えてゆく。(ふーん、一体この船には何十頭の猛獣がいるのかしら)と貝谷が、溜息とともに呟いた。檣の下には、今や少くとも九頭か十頭のライオンと豹《ひょう》が集っている。和島丸の船員たちは、檣の上にしがみついたまま生きた色もない。
 貝谷は、積みあげたロップの蔭から、猛獣の動静をじっと見守っている。
 その後で、古谷局長は、しきりに智慧をしぼっていたようであったが、「そうだ、いいことがある!」と叫んで、貝谷の肩を叩いた。
「とにかく、このままでは、猛獣の餌食《えじき》になるばかりだ。おい、貝谷。おれはこれから、船内へ入って、銃かピストルかを探《さが》してくるから、お前はここで頑張っていてくれ」
「なんですって、局長。あなたひとりで船内へ入っては危い!」
「だが、こうなっては、自分の身の危険など考えてはいられない。隊員全体の生命が危いのだから……。後を頼むぞ」というや、局長は走り去った。
 それからのち、僅か二十分ぐらいの間のことだったが、貝谷は、二日三日もたったように思った。ところが、正味二十分たって、局長は息せききって、貝谷の待っているところへかえってきた。
「あっ、局長。どうでした」貝谷は、あいかわらず、猛獣への監視をおこたらず、その方へ顔をむけたままの姿勢でたずねた。
「うむ、あったぞ。このとおりだ」局長は、うれしそうに、貝谷の鼻のさきへ、三挺のピストルと二挺の銃とをさしだした。
「まだ銃はある。弾丸もうんとある。さあこれで、あの猛獣どもを追っ払うのだ」
 局長は、さっきとは別人のように元気になっていた。
 そこで局長と貝谷とは、一、二、三の号令とともに、積みあげたロップに銃をのせて、勢いよく撃ちだした。だだーん、どどーん。ものすごい銃声だ。そしてたいへんいい当りだ。そうでもあろう。相手は大勢、当らないのがおかしいくらいだ。


   船内|捜査《そうさ》


 こうして、四五頭のライオンと豹とが、またたく間に、斃《たお》されてしまった。残りの猛獣は、びっくりして、その場をにげだして、向うへいってしまった。それを見すまして、檣《マスト》のうえに避難していた連中は、どどっと下りた。一同は、わっと喊声《かんせい》をあげて、古谷局長と貝谷の隠れているところへ、駈けこんできた。
「ありがとう、ありがとう」
「そんな挨拶はあとだ。さあ早くこの銃を持て。そしてもう一度船内へひっかえして、持てるだけ、銃だの弾丸《たま》だのを持て」
 一行は忽《たちま》ち武装してしまった上に、更に多数の銃や弾丸を手に入れた。
「さあ、いよいよ猛獣狩といくか」
「待て待て。皆がいくまでのこともなかろう。ここからこっち半分は猛獣狩にいくとして、あとの半分は船内捜索をやるから、俺についてこい」
 局長は貝谷を副長と決め、あと三人ばかりの船員を指名し、さっきに引続いて、船内を探すことになった。古谷局長の胸中には、前からたえず気になっていることがあったのである。それは、和島丸が航行中、受取ったあの怪しい無電のことである。
 この幽霊船が、果してあの無電をうったのであるか。また魚雷も、この幽霊船の仕業であるか。もしそうだとしたら、なぜ和島丸は撃沈されなければならなかったか。更に幽霊船との関係も明らかにされなければならなかった。それとともに、死んだものと思われる無電技士丸尾の先途も見届けたいものであると思っていた。これ等のことがはっきりしないうちは、幽霊船の謎を十分解いたとはいえないのだ。和島丸の遭難事件の原因をたしかに突きとめたとはいえないのである。古谷局長と貝谷とは、まず無電室へはいってみた。ここにも人影はなし、室内には器械がひっくりかえり、書類がとびちっている。
「この部屋も、ずいぶん、ひどいですねえ」と、貝谷は眉《まゆ》をひそめた。
「うんひどすぎる」局長は、ちらばっている書類をしきりに拾いだした。
「なにを探しているんですか」
「無電を打ったその記録書を探しているのさ。はたして例のSOS信号をうったのが、この幽霊船か、どうかをしらべておく必要があるのだ」
 古谷局長は、まもなく数十枚の貴重な記録書を拾いあげた。
「これだけ集ったが、SOS信号のものは一枚もない。そればかりか、この汽船は、今日でもう二十日間も一本の無電も打っていないのだ」
「二十日間も、一本の無電も打っていないというと……」
「つまり、無電技士がこの部屋からいなくなってからこっち、もう二十日になるのだ。すると、この汽船内に大事件が突発してから二十日間は経ったという勘定になる」
「無電技士も、やっぱり猛獣に喰われてしまったというわけですかね」
 古谷局長は、顔こそ知らないが、自分と同じ職にあったこの汽船の無電技士の哀れにも恐ろしい運命に対して、深く同情した。
「局長、あれをごらんなさい。赤い豆電灯が点《つ》いたり消えたりしています」
「どれ、どこだ」
 と、局長はびっくりして貝谷の指す方をみた。壊れて床に倒れている器械の配電盤の上に、赤い監視灯が点《つ》いたり消えたりしているではないか。
「おやッ、この汽船には、まだ誰か生きている者があるんだな」


   意外な生存者


 古谷局長は、貝谷をうながし、扉をうちやぶって船内へはいった。船内は、暗かった。
「おい、中にはいっている奴、こっちへ出てこい!」
 古谷局長は、英語でどなった。洞《ほこら》のような船内に、こえは、がーんと、ひびきわたる。
 中からは、返事がなかった。
「出てこなければ、撃つぞ。――もうあきらめて、降参しろ!」
 局長は、もう一度、どなった。しかし、中からは、だれもでてくるものがなかった。
「おかしいじゃないか、貝谷」と、局長は、貝谷をかえりみていった。
「そうですなあ」と、貝谷は思案をしていたが、
「じゃあ、私がどなってみましょう」そういって貝谷は、大音声《だいおんじょう》をあげ、
「こら、いのちが惜しければ、出てこいというんだ。出てこなければ、鉄砲をぶっぱなすぞ!」
「おいおい貝谷。日本語が、外国人にわかるものか」
「いや、私は大きな声を出すときには、日本語でなくちゃあ、だめなんです」
 そういっているとき、暗《くら》がりの向うから、わーッと、とびだしてきたものがあった。
「ほら、出てきやがった!」
 と局長以下の隊員は、銃をかまえた。怪しい奴なら、ただ一発のもとに撃ちとめるつもりだ。
「おお古谷局長!」暗がりからとびだしてきた相手は、意外にも、日本語で叫んだ。
「だ、だれだッ」
「丸尾です!」
「えっ、丸尾?」
 ぼろぼろのズボンをはいて現れた人間。それはやつれ果《はて》てはいるが、丸尾技士だった。
「おお、丸尾だ。丸尾の幽霊だ。お前は、浮かばれないと見えるな」と、貝谷は叫んだ。
「幽霊? ばかをいうな。おれは、ちゃんと生きているぞ。生きている丸尾だ」
「ははあ、幽霊ではなかったかな、なるほど」
 貝谷は、丸尾の身体を、気味わるげにさわってみて、感心したり、よろこんだり。
「丸尾、よく生きていた。わしは、漂流していると無人のボートの中でお前の片手を拾ったんだ。その手は、お前の書いた手紙を握っていた。だから、お前は、てっきり死んでしまったものと思って、あきらめていた。本当に、よく生きていたね。一体、これはどうしたのか」
「いや、これには、たいへんな話があるのです。しかし、猛獣は、どうしました。ライオンだの豹だのが、この船には、たくさんいるのです」
「それはもう皆、やっつけてしまった」
「えっ、やっつけてしまった。本当ですか。じゃ安心していいですね。ああ、よかった」
 と丸尾は胸をとんとんと叩いた。
「猛獣狩は、もうすんだから、心配なしだ。それよりも、お前の方の話というのは……」
「ああ、そのことです。和島丸の同僚が、三名、いるのです。それから、この汽船ボルク号の生き残り船員が七八名いますが、こいつらは、かなり重態です」
「ほう、ボルク号。この汽船は、ボルク号というのか。どこの船か」
「ノールウェイ船です」
「うん、話をききたいけれど、それより前に、和島丸の仲間をよんできてやれ。心配しているだろう。私もよく顔をみたい。一体だれが生きのこっているのか」
「はい、矢島《やじま》に、川崎《かわさき》に、そして藤原《ふじわら》です」
「ほう、そうか。よくいってやれ。そして、あとでゆっくり、話をきこう」
 と、古谷局長がいえば、丸尾は、大ごえをあげながら、元の暗がりへ、とびこんでいった。
 かたく閉された船内からは、幽霊が出てくるか、それとも猛獣がとびだしてくるかと思われたのに、その予想をうらぎって、思いがけなくも、丸尾たち生存者を発見して、古谷局長以下は、たいへんなよろこびかただった。
 早速、貝谷を上甲板へやって、海上に監視をつづけている佐伯船長にしらせることにした。貝谷は、銃をひっかついで、上甲板へ、かけのぼった。
「おい、おーい」貝谷は、ボートをよんだ。
「おーい、どうした?」ボートからは、待っていましたとばかり、直ちに応《こた》えがあった。
「すばらしい発見だ。和島丸の船員が、このボルク号の中にいた。人喰《ひとく》い獣《じゅう》は、もう全部やっつけた!」と、貝谷は、旗のない手旗信号で、おどろくべきニュースを知らせた。
 ボートの中でも、よほどおどろいたものと見え、両手をあげてよろこびの万歳であった。これから、しばらくは、貝谷とボートとの間に、しきりに信号が交換された。そして佐伯船長の乗ったボートは、ボルク号の方に、漕ぎよせてきた。
「奇蹟だ。信ずべからざる奇蹟だ」佐伯船長は、つぶやきながら、タラップをのぼって来た。
「おお、丸尾か。よく生きていたのう。おう、矢島も川崎も藤原も、よくまあ無事でいたなあ」
 そこで、船長と生残りの船員とは、ひしと抱きあって、よろこびの涙を流したのであった。
「船長、丸尾の話によって、なにもかも、すっかり分りましたぜ」
「なにもかもというと、この幽霊船のことかね」
「船のことはもちろん、例の怪しいSOSの無電信号のことまで、大体分りました」
「ほほう、あのことまで、分ったか」
「丸尾、船長に、今の話をもう一度報告しなさい」
「はい」と、丸尾は船長の前に、姿勢を正して、語りはじめたのであった。
「まず、私たちの冒険から、申し上げなければなりません。私たちのボートは、暗夜を漂流中、この幽霊船の横に、吸いつけられてしまったのです。ちょっとおどろきましたが、なにしろこのとおりのりっぱな船体をもっているので、恐ろしさもわすれて、私たち六七人で、タラップ伝いに甲板へ上りました。ところが、どこからともなく、異様な唸《うな》りごえをきいたかと思うと、いきなり暗《やみ》の中から、大きな獣がとびだしてきたのには、胆《きも》をつぶしました。私たちは、死にもの狂いで、獣とたたかいました。しかしこっちは、もうさんざんつかれ切っているところだし、獣の方は腹が減っているものとみえ、ますますあれ狂って、とびついてくるのでした。そのうちに、獣の数は、ますます殖《ふ》えてきました。そしてとうとう仲間の一人――木谷《きたに》が、やられてしまったのです。すると獣は、たおれた木谷にとびついていきました。木谷を助けようと思ったのですが、とても駄目でした。そのときの恐ろしい光景は、今も眼の前に、はっきり見えるようです」
 と、丸尾はちょっと言葉を切って、身を慄《ふる》わせた。
「……木谷が野獣にやっつけられたとき、私たちは、わずかの隙《すき》を見出《みいだ》したのです。“今だ、今のうちに安全なところへ避難しなければ……”というので、私たちは、夢中で、船橋へ駈けのぼりました。ところが、ここも駄目だということがわかりました。人間の臭《にお》いをしたって、獣は、後をおいかけて来たのです。私たちは、扉をおさえ、必死になって防戦しました。しかし、硝子戸《ガラスど》がこわされ、そこから黒豹らしいものがとびこんできたときには、もう駄目だと思いました。誰かが、悲鳴をあげました。残念だったのです。私たちは、卑怯なようだが、もうどうすることも出来なくて、船橋を逃げだしました。それから、一同、ばらばらになってしまいましたが、そのとき私の書いた報告文をもって、ボートへ戻ったはずの三鷹《みたか》とも、それっきり会いません。そのうちに、私は通風筒《つうふうとう》の前に出ました。私は不図《ふと》思いついて、その中に、もぐりこみました。それが私の幸運だったのです。生命びろいをしたのは、通風筒へもぐりこんだおかげです」
 丸尾の額から、汗が、ぽたぽたと頬をつたわって、流れた。
「私は、通風筒の格子《こうし》をやぶりました。そして、その中をどこまでも奥へはいこんでいったのです。どのくらいそこにいたか、よく覚えていませんが、とにかくかなり永い間を経《へ》て、私は、いきなり船室へひょっこり、顔を出したのです。つまり、船内に開いている別の通風筒の端へ出たのです。私は、やれやれと思いました。ところが、船内も、安心というわけにいかないことが、だんだんと分ってきました。猛獣は、船内にも、うろうろしているのです。私は、廊下へとびだしては、獣に追いかけられました。そのたびに、私は、もっと防衛に都合のよい部屋へいかねば安心できないと思ったのです。そして、とうとう辿《たど》りついたところは、機関室の中でありました」
「ああ、なるほど。君がとびだしてきたのは、機関室の入口だったね」と、古谷局長がいった。
「そうです。あそこは、機関室へ通ずる廊下の出口だったのです。機関室へとびこんでみると、私は、そこに思いがけない、このボルク号の生残りの船員を七名、発見しました。彼等は、負傷と空腹とで、いずれもひどく弱っていました。そうでしょう。彼等は、この機関室へもぐりこんだばかりに、野獣に喰われる生命を助かったのです。しかし、その代り、食料品を取りにいくことも出来ず、もし出れば、すぐさま眼を光らせ鼻をうごめかせている獣に飛びつかれるものですから、やむを得ず、ここに空《す》き腹《ばら》を抱えて、我慢をしていたのです。そのうちに、すっかり疲労と衰弱とが来てしまって、もう一歩もたてなくなったといいます。何しろもうあれから、三週間近くになるそうですからね」
「三週間。そうだろう。その位になるはずだ。無電日記を見て、私は知っている」
 と、古谷局長は、いった。
「一体、どうしてこのボルク号の中に、猛獣があばれだしたのかね」
 船長は、不審でたまらないという顔で、丸尾にたずねた。


   新船長


 丸尾は話をつづける。
「そのことです。私は、ボルク号の船員にたずねて、はじめて事情を知ったのです。この汽船は、ノールウェイに国籍があるのですが、アフリカで、たくさんの猛獣を仕入れ、これから南米に寄港して、本国にかえるところだったんだそうです。アフリカと南米では、かなりたくさんの金属材料や食料品をつむことになっていたそうですが、これらは、どうやら、ドイツへ入るものだと知れていました。ところで、この船に、イギリスのスパイと思われる一組の客が乗っていたのです。船が、南米へ向う途中、そのスパイどもは、下級船員に金をやって、猛獣の檻をやぶらせたのです。はじめは、一さわがせやるだけのつもりのところ、その結果、とんでもないことが起りました。猛獣は、人間の血を味わうと、たいへんに、いきり立ったのです。そして、檻の中におとなしくしていた猛獣たちも、ついには檻を破って一しょにあばれだしたのです。全く手がつけられなくなりました。殊に、猛獣対人間の最初の戦闘において、かなり腕ぷしのつよい連中がやられ、高級船員も相当たおれ、それからボートを出して船を捨てて逃げだすなど、たいへんなさわぎになったそうです。しかも運わるく、そこへ台風がやってくるし、さんざんの目にあって、ついにこの汽船の中には、機関室に閉《と》じこもった少数の乗組員の外には、誰もいなくなったのです」
「なるほど、そうかね。聞けば聞くほど、たいへんな事情だなあ」
「ボルク号の船員をいたわっているところへ、どこからはいこんできたのか、矢島がはじめに、機関室へ辿《たど》りつき、ついで、川崎と藤原とが一緒に、とびこんできました。そして機関室には、にわかに人が殖えたのです。それだけに、食うものに困ってしまいました」
「そうであろう」と船長は、同情の眼で、丸尾たちを見まもって、
「ところで、あのSOSの筏《いかだ》は、何者が仕掛けたのかね。あの黒いリボンのついた花環をつけて筏にのって流れていた無電機のことさ」
「ああ、あれですか。あれは、どうもよくわからないのです」
 と、丸尾は、首をふった。するとそのとき、古谷局長が、
「船長、あれについて、私は一つの考えをもっているのですが……」
「そうかね、どういう考えか」
「あれは、わが和島丸を雷撃した怪潜水艦がつかった囮《おとり》だと思います」
「それは至極同感《しごくどうかん》だね」と、船長は、賛意を表しました。
「その怪潜水艦は、ボルク号を狙っていたのだと、私は想像しています」
「え、ボルク号を……」
「そうです。ボルク号が、その附近を通りかかるのを狙っていたところ、その前にボルク号は、あの猛獣さわぎをひきおこしたわけです。そしてボルク号の機関は停るわ、折からの台風に翻弄《ほんろう》されたわけで、幽霊船とばけてしまい、怪潜水艦が仕掛けたあの怪電もボルク号には伝わらず、かえって、わが和島丸がその怪無電を傍受して、現場《げんじょう》にかけつけたためボルク号に代って、こっちが魚雷を喰ったというわけではないかと考えますが、いかがでしょう」
 古谷局長は、なかなか面白い説をはいた。
「なるほどねえ、それはなかなか名説だ。いや、全く、古谷君のいうとおりかもしれない。すると、われわれは、とんだ貧乏くじを背負いこんだわけだね」
 船長は、一同の顔を、ぐるっと見まわした。そのとき貝谷が、口を出した。
「船長。その怪潜水艦というのは、どこの国の潜水艦なんでしょうか」
「さあ、わからないね」
「イギリスの潜水艦じゃないですかな。アメリカを参戦させようというので、わざと南太平洋などで、あばれてみせたのではないでしょうか」
「それは、なんとも、いえない」と船長は自重して唇をとじた。
「私は、どこかで、その潜水艦をみつけてやりたい。そして、大いに恨《うら》みをいってやらなきゃ、気がすまない。いや、こうしているうちに、今にも、怪潜水艦は、附近の海面に浮び上がってくるかもしれないぞ」
「貝谷。お前は、その潜水艦に、ついにめぐりあえないかもしれない」
「え、なぜですか、古谷局長」
「私は、この船をしらべているうちに、こういう考えが出た。それは、かの怪潜水艦はわれわれの和島丸を沈没させた前後に、かの潜水艦も沈没したのだと想像している」
「局長。君はなかなか想像力がつよい。しかしまさかね」
「いや、船長、このボルク号の艦首は、ひどく壊《こわ》れているのです。舳《へさき》のところに何物かをぶっつけた痕《きず》があります。私は、怪潜水艦が和島丸を沈没させたのち、海面にうきあがって、面白そうにこっちの遭難ぶりを見物しているとき、いきなり横合《よこあい》から、機関の停っているこのボルク号が、音もなく潜水艦のうえにのりあげた――と、考えているのです。そんなことがあれば、潜水艦は直ちに沈没してしまいます。ボルク号の舳は、そのときに、大破したのではないでしょうか。なにしろ、その後、一度も怪潜水艦の姿は、現われないのですからねえ」
「なるほど。たしかに一つの答案になっているねえ」と、佐伯船長は、微笑した。
「さあ、そこで、われわれは、このボルク号の無電《むでん》を借りて、救援信号を打つことにしよう。それから、燐《りん》で青く光る甲板《かんぱん》も、しばらくこのままにして置こう。そうでもしなければ、誰もこの大事件のあったことを信用しないだろうからね」
 佐伯船長は、いつの間にか、ボルク号の船長として、生残りの船員にきびきびした命令を下しはじめたのであった。



底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房
   1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行
初出:不詳
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年3月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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