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赤外線男
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)奇怪《きかい》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|迷宮《めいきゅう》事件

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)猿臂《えんぴ》[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」]が
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     1


 この奇怪《きかい》極《きわ》まる探偵事件に、主人公を勤める「赤外線男《せきがいせんおとこ》」なるものは、一体全体何者であるか? それはまたどうした風変りの人間なのであるか? 恐らくこの世に於《おい》て、いまだ曾《かつ》て認識されたことのなかった「赤外線男」という不思議な存在――それを説明する前に筆者は是非《ぜひ》とも、ついこのあいだ東都《とうと》に起って、もう既に市民の記憶から消えようとしている一|迷宮《めいきゅう》事件について述べなければならない。
 これは事件というには、実にあまりに単純すぎるために、もう忘れてしまった人が多いようであるが、しかし知る人ぞ知るで、識《し》っている人にとっては、これ又奇怪な事件であることに、この迷宮事件が後になって、例の摩訶不思議《まかふしぎ》な「赤外線男」事件を解《と》く一つの重大なる鍵の役目を演じたことを思えば、尚更《なおさら》逸《いっ》することのできない話である。
 なんかと云って筆者《わたくし》は、話の最初に於て、安薬《やすぐすり》の効能《こうのう》のような台辞《せりふ》をあまりクドクドと述べたてている厚顔《こうがん》さに、自分自身でも夙《と》くに気付いているのではあるが、しかしそれも「赤外線男」事件が本当に解決され、その主人公がマスクをかなぐり捨てたときの彼《か》の大きな駭《おどろ》きと奇妙な感激とを思えば、一見思わせたっぷりなこの言草《いいぐさ》も、結局大した罪にならないと考えられる。――
 さてその日は四月六日で、月曜日だった。
 ところは大東京《だいとうきょう》で一番乗り降りの客の多いといわれる新宿駅の、品川方面ゆきの六番線プラットホームで、一つの事件が発生した。
 それは丁度《ちょうど》午前十時半ごろだった。この時刻には、流石《さすが》の新宿駅もヒッソリ閑《かん》として、プラットホームに立ち並ぶ人影も疎《まば》らであった。
 あの六番線のホームには、中央あたりに荷物|上《あ》げ下《さ》げ用のエレヴェーターがあって、その周囲は厳重な囲《かこ》いが仕切られて居り、その背面には、青いペンキを塗った大きな木の箱があって、これにはバケツだとかボロ布《きれ》などの雑品が入っているのだが、その箱の上を利用して新聞雑誌が一杯拡げられ、傍《そば》に青い帽子を被《かぶ》った駅の売子が、この間に合わせながら毎日規則正しく開かれる店の番をしている。
 このエレヴェーターとレールとの間のホームの幅《はば》は、やっと人がすれちがえるほどの狭さであるが、その通路にはエレヴェーターを背にして駅の明《あ》いているうちは不思議にもきまって、必ず一人の若い婦人が凭《もた》れているのだ。その婦人は電車の発着に従って人は変るけれど、其《そ》の美しさと、何となく物淋しそうな横顔については、どの女性についても共通なのであった。この神秘を知っている若いサラリーマン達の間には、このエレヴェーター附近を「佐用媛《さよひめ》の巌《いわ》」と呼び慣わしていた。かの松浦佐用媛《まつうらさよひめ》が、帰りくる人の姿を海原《うなばら》遠くに求めて得ず、遂に巌《いわ》に化したという故事《こじ》から名付けたもので、その佐用媛に似た美しさと淋しさを持った若い婦人がいつも必ず一人は居るというのであった。
 その午前十時半にも確かに一人の佐用媛が巌ならぬエレヴェーターの蔭に立っていた。鶯色《うぐいすいろ》のコートに、お定りの狐《きつね》の襟巻《えりまき》をして、真赤《まっか》なハンドバッグをクリーム色の手袋の嵌《はま》った優雅な両手でジッと押さえていた。コートの下には小紋《こもん》らしい紫《むらさき》がかった訪問着がしなやかに婦人の脚を包み、白足袋《しろたび》にはフェルト草履《ぞうり》のこれも鶯色の合《あ》わせ鼻緒《はなお》がギュッと噛《か》みついていた――それほど鮮かな佐用媛なのに、そのひとの顔の特徴を記憶している者が殆んど無いという全くおかしな話だった。尤《もっと》もホームは至って閑散《かんさん》で、そんなことには超人的な記憶力をもっている若い男たちが、幸か不幸かその近所に居合わさなかったせいにもよるだろう。そこへ上りの品川《しながわ》廻《まわ》り東京行きの電車がサッと六番線ホームへ入って来た。運転台の硝子《ガラス》窓の中には、まだ昨夜の夢の醒《さ》めきらぬらしい、運転手の寝不足の顔があった。
「呀《あ》ッ!!」
 運転手は弾《はじ》かれたように、座席から立ちあがった。彼の面《おもて》はサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。
 ゴトリ。……ゴトリ。……
 車輪とレールとの間に、確かな手応《てごたえ》があった。あのたまらなくハッキリした轢音《れきおん》が……。佐用媛がいきなりホームからレール目懸《めが》けて飛びこんだのだ!
 それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。
 現場の落花狼藉《らっかろうぜき》は、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。
「……というような着衣《ちゃくい》の上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円|札《さつ》で九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。……ああ、年齢《とし》ですか。それがどうも明瞭《めいりょう》でありませぬ。何《なん》しろ、顔面《かお》を滅茶滅茶《めちゃめちゃ》にやられてしまったものですからネ。しかし着物の柄《がら》や、四肢《しし》の発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」
 係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を嚥《の》みこんだ。
 やがて鶯色のコートを着た轢死婦人《れきしふじん》の屍体《したい》は、その最期《さいご》を遂げた砂利場《じゃりば》から動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが筋書《すじがき》だったが、どうしたものか何時《いつ》まで経《た》っても引取人《ひきとりにん》が現れない。告知板《こくちばん》に掲示《けいじ》をしてある外《ほか》、午後一時のラジオで「行路病者《こうろびょうしゃ》」の仲間に入れて放送もしたのであるが、更《さら》に引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議|千万《せんばん》だと署員が噂《うわ》さし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは轢死後《れきしご》、丁度《ちょうど》十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。
 それは隅田乙吉《すみだおときち》と名乗る東京市中野区の某《ぼう》料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の卓子《テーブル》の上に拡《ひろ》げられた数々の遺留品《いりゅうひん》を一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の末《すえ》の妹だったのだ。
「このコンパクトですがネ、梅子《うめこ》――これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。蓋《ふた》をあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと不良《ふりょう》の方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達|同胞《きょうだい》もいけなかったんです。何《なに》しろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は末《すえ》ッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お小遣《こづか》いヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる嵩《かさ》でした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは流石《さすが》の同胞たちも、梅子から持ちこまれる尻拭《しりぬぐ》いに耐《た》えきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、又《また》金の無心《むしん》です。これが最後だというので百円|呉《く》れてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな惨《むごた》らしいことになろうとは思いませんでした。……なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから……」
 顔面《かお》は判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々|肯定《こうてい》したので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを謝《しゃ》し、屍体は持参《じさん》の棺桶《かんおけ》に収《おさ》め所持品は風呂敷《ふろしき》に包んで帰りかけた。
「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」司法係《しほうがかり》の熊岡《くまおか》という警官が席から立ち上って来た。
「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又|卓子《テーブル》の上に置いて振りかえった。
「君はこんなものを知らんか」
 警官は掌《て》の上に、ヨーヨーを横に寝かしたような紙函《かみばこ》を載せて、乙吉の方にさしだした。
「これは……?」乙吉の受取ったのは、よく鉱物《こうぶつ》の標本《ひょうほん》を入れるのに使う平べったい円形《えんけい》のボール函《ばこ》で、上が硝子《ガラス》になっていた。硝子の窓から内部《なか》を覗《のぞ》いてみると、底にはふくよかな脱脂綿《だっしめん》の褥《しとね》があって、その上に茶っぽい硝子|屑《くず》のようなものが散らばっている。
「判らんかネ」と警官は再び尋《たず》ねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」
「どこに御座いましたのですか」
「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの隅《すみ》からゴミと一緒に拾い出したのだ」
「さあ、どうも見当《けんとう》がつきませんが……」
 どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上|追究《ついきゅう》したり、また今とりつつある上官《じょうかん》の処置に異議《いぎ》を挿《はさ》もうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。
 隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が殺到《さっとう》して来た。
「とうとう、新宿の轢死美人《れきしびじん》の身許《みもと》が判ったてじゃありませんか。誰だったんです」
「自殺の原因は何です」
「全然|素人《しろうと》じゃないという噂《うわ》さもありましたが……」
 当直《とうちょく》は、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと禿《は》げ頭を掻《か》いた。
「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」
 本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと大欠伸《おおあくび》した。記者連《きしゃれん》もこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの誤《あやま》りだったような気がして、一緒に欠伸を催《もよお》したほどだった。
 しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、互《たがい》に血相《けっそう》をかえて「怪事件発生」を喚《わめ》きあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。


     2


 それから二十四時間ほど経った。
 同じ警察署の夜更《よふ》けである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ閑《かん》としていた。
 そのとき署の玄関の重い扉を、外から静かに押すものがあった。
 ギーッ、ギーッという音に、不図《ふと》気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は部厚《ぶあつ》な犯罪文献《はんざいぶんけん》らしいものから、顔をあげて入口を見た。
「だッ誰かッ」
 夜勤《やきん》の署員たちは、熊岡の声に、一斉《いっせい》に入口の方を見た。しかし今しがたまでギーッ、ギーッと動いていた重い扉はピタリと停って巌《いわ》のように動かない。
「うぬッ」
 熊岡警官は席を離れると、ズカズカと入口の方へ飛んでいった。そして扉《ドア》に手をかけると、グッと手前へ開いた。そこには外面《とのも》の黒手《くろて》のような暗闇《やみ》ばかりが眼に映《うつ》った。
「オヤー」
 熊岡警官は、何を見たのか扉の間からヒラリと戸外に躍《おど》り出た。バタンと扉はひとり手に閉まる。一秒、二秒、三秒……。空間も時間も化石《かせき》した。
 風船がパンクするように戸口がサッと開いた。
「さア、こっちへ這入《はい》れ!」
 熊岡警官の怒号《どごう》と諸共《もろとも》、黒インバネスを着た一人の男が転げこんできた。署員は総立ちになった。「何だ、何だッ」
 昨夜《ゆうべ》とは違った当直の前にその男はひき据えられた。帽子を脱いだその男の顔を見て、駭《おどろ》いたのは熊岡警官だった。
「なあーンだ。君は妹の轢死体《れきしたい》を引取って行った男じゃないか」
「うん、隅田乙吉だな」見識《みし》り越しの刑事も呻った。「どうしたのか」
 たしかにそれは、隅田乙吉だった。昨夜の悠然《ゆうぜん》たる態度に似ず、非常に落着かない。何事か云いだしかねている様子《ようす》だった。
「何故、僕を見て逃げようとしたのだ。署の戸口《とぐち》を覗うなんて、何事かッ」
「いや申します、申上げます」熊岡警官の追窮《ついきゅう》に隅田はとうとう声をあげた。「実は大変な間違いをやっちまったんです」
「うむ」
「昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を頂戴《ちょうだい》いたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない死《し》に様《よう》でございますから、お通夜《つうや》も身内だけとし、今日の夕刻《ゆうこく》、先祖《せんぞ》代々|伝《つた》わって居ります永正寺《えいしょうじ》の墓地《ぼち》へ持って参り葬《ほうむ》ったのでございます」
「それから……」
「葬《とむら》いもすみまして、自宅の仏壇《ぶつだん》の前に、同胞《きょうだい》をはじめ一家のものが、仏《ほとけ》の噂さをしあっていますと、丁度《ちょうど》今から三十分ほど前に、表がガラリと明いて……仏が帰って来たのでございます」
「なにーッ、仏が帰って来た?」警官の顔がサッと緊張した。いやな顔をして背中の方に首を廻した刑事もあった。
「死んだ筈《はず》の梅子が帰ってきたんです。こりゃ、てっきり化けて出たのだと思い、一同しばらくは寄《よ》りつきませんでしたが、いろいろ観察したり押問答《おしもんどう》をしているうちに、どうやら生きている梅子らしい気がして来ました。そこで寄ってたかって聞いてみますと、梅子のやつ情夫《じょうふ》と熱海《あたみ》へ行っていたというのです。それを聞いて同胞は、夢のように喜び合ったわけでございますが、一方に於《お》きまして、真《まこと》にどうも……」と隅田乙吉は下を向いて恐《おそ》れ入《い》った。
「莫迦《ばか》な奴ッ」と宿直が呶鳴《どな》った。「では昨夜本署から引取っていった若い女の轢死体というのは、お前の妹ではなかったというのだな」
「どうも何ともはや……」
「何ともはやで、済《す》むと思うかッ」宿直はあとでジロリと一座の署員を睨《にら》みまわした。昨夜の当直の名を大声で云って、(馬鹿野郎)と叩きつけたい位だった。他人の死骸を引取って行った奴も奴なら、引取らした奴も奴である。
「昨夜この男がデスナ」と側《かたわ》らの刑事が弁解らしく口を挿《はさ》んだ。「轢死婦人の衣類や所持品を一々|点検《てんけん》しまして、これは全部妹の持ち物に違いない。このコンパクトがどうの、この帯どめがどうのと本当らしいことを云っていったのです。ですから昨夜の当直も信じられたのだと思います」
「イヤ全《まった》く、あれは本当なのです」と隅田乙吉がたまりかねて声をあげた。「あれは出鱈目《でたらめ》でなくて間違いないのです。妹のものに違いないのですが、さっき漂然《ひょうぜん》と帰宅した本物の妹も、あれと同じ衣類を着、同じハンドバッグや、コンパクトなどを持っているのです。つまり同じ服装をし、同じ持ち物をした婦人が二人あったという事になるので、これは私どもには不思議というより外《ほか》、説明のつかないことなのです」
 これを聞いていた一座は、ギクリと胸に釘《くぎ》をうたれたように感じた。どうやらこれは単純な轢死事件ばかりとは云えぬらしい。
「しかし隅田」と当直は口を開いた。「兎《と》に角《かく》、お前は他人の屍体を処分してしまったことになるネ。あの轢死婦人の骨は持ってきたか」
「いや、それがです。実は火葬にしなかったのです」
「火葬にしなかった?」
「はい。私どもの墓地は相当広大でございまして、先祖代々|土葬《どそう》ということにして居ります。で、あの間違えたご婦人の遺骸《いがい》も、白木《しらき》の棺《かん》に納《おさ》めまして、そのまま土葬してございますような次第《しだい》です」
「ううん、土葬か」当直は、なあンだというような顔をした。「では直ぐに掘り出して、本署へ搬《はこ》んで来い。警官を立ち合わせるから、その指揮《しき》を仰《あお》ぐのだ。よいか」
 熊岡警官は、隅田乙吉について現場《げんじょう》へ出張することを命ぜられた。
 どうも、粗忽《そこつ》にも程《ほど》があるというものだ。いくら独《ひと》り歩《ある》きをさせてある妹だからといって、顔面《かお》が粉砕《ふんさい》してはいるが、身体の其の他の部分に何か見覚えの特徴があったろうし、また衣類や所持品が同じだといっても、そんなに厳密に同じものがあろう筈がない。これは警察の方でも屍体を持てあまし、早く処分したいと考えていたので、よくも検《しら》べず下《さ》げ渡《わた》したもので、引取人の乙吉が生れつきの粗忽者であることを知らなかったせいであると、当直《とうちょく》は断定した。そして熊岡警官が、婦人の屍体を掘りだしてくれば、再検査をすることによって、どこの誰だか判明するだろうと考えた。
 皆が出ていってから時間が相当経った。もう今頃は、隅田家《すみだけ》の墓地へ着いて暗闇の中に警察の提灯《ちょうちん》をふっているころだろう。掘りだした屍体がここへ帰ってくるまでには、まだ暇《ひま》があった。今のうちに喰べるものは喰べて置かないと、たとい若い婦人にしても、顔面のない屍体を見ると食慾がなくなるだろうと考えて、当直は夜食《やしょく》の親子丼《おやこどんぶり》の蓋《ふた》をとった。
 二箸《ふたはし》、三箸《みはし》つけたところへ、署外からジリジリと電話がかかって来た。
「当直へ電話です」と電話口へ出た見習《みならい》警官が云った。
「おお」当直は急いでもう一と箸、口の中に押しこむと、立って卓子《テーブル》電話機をとりあげた。
「はアはア。……うん、熊岡君か。どうした……ええッ、なッなんだって? 墓地を掘ったところ白木の棺が出た。そして棺の蓋を開いてみると、中は藻抜《もぬ》けの殻《から》で、あの轢死婦人の屍体が無くなっているッて! ウン、そりゃ本当か。……君、気は確かだろうネ。……イヤ怒らすつもりは無かったけれど、あまり意外なのでねェ……じゃ署員を増派《ぞうは》する。しっかり頼むぞッ」
 ガチャリと電話機を掛けると、当直は慌《あわ》ただしくホールを見廻した。そこには一大事《いちだいじ》勃発《ぼっぱつ》とばかりに、一斉《いっせい》にこっちを向いている夜勤署員の顔とぶっつかった。
「署員の非常召集《ひじょうしょうしゅう》だッ」
 ピーッと警笛《けいてき》を吹いた。
 ドヤドヤと階段を踏みならして、署員の下《お》りて来る跫音《あしおと》が聞えてきた。
 当直は気がついて、喰べかけの親子丼に蓋をした。
 ――とうとう、本当の事件になってしまった。隅田乙吉の妹梅子に間違えられた轢死婦人は一体、どこの誰であるか。どうして、地下に葬った筈の屍体が棺の中から消え失せてしまったか。
 熊岡警官が保管している「茶っぽい硝子《ガラス》の破片《かけら》のようなもの」は何であるか。何故それが、轢死婦人のハンドバッグの底から発見されたか。
 さて筆者は、この辺でプロローグの筆を擱《お》いて、いよいよ「赤外線男《せきがいせんおとこ》」を紹介しなければならない。


     3


 Z大学に附属している研究所《ラボラトリー》に深山楢彦《みやまならひこ》という理学士が居る。この理学士は大学の方の講座を持ってはいないが、研究所内では有名の人物である。専攻しているのは光学《オプティックス》であるが、事務的手腕もあるというので、この方の人材《じんざい》乏《とぼ》しい研究所の会計方面も見ているという働き手であった。色は白い方で、背丈も高からず、肉附もふくらかであったので、何となく女性めき、この頃もてはやされるスポーツマンとは凡《およ》そ正反対の男であった。
 深山理学士が目下研究しているものは、赤外線であった。
 赤外線というのは、一種の光線である。人間は紫、藍《あい》、青、緑、黄、橙《だいだい》、赤の色や、これ等の交《まじ》った透明な光を見ることが出来る。この赤だの青だのは、ラジオと同じような電波であるが、ラジオの電波よりも大変波長が小さい。そのうちでも紫は一番短く、赤は比較的波長が長い。長いといっても一センチメートルの千分の一よりもまだ短い。ラジオの波は三百メートルも四百メートルもあって較《くら》べものにならない。
 ところで光線と名付《なづ》けられるものは、この紫から赤までだけではない。紫よりももっと波長の短い波があって、これを紫外線《しがいせん》とよんでいる。紫外線|療法《りょうほう》といって、紫外線を皮膚にあてると、人体の活力はメキメキと増進《ぞうしん》することは誰も知っている。一方、赤よりも波長の長い光線があって、これを赤外線《せきがいせん》と呼んでいる。赤外線写真というのが発達して軍事を助けているが、山の頂上から向うの峠を目懸《めが》けて写真をうつすにしても、普通の写真だとあまり明瞭《めいりょう》にうつらないが、普通の光線は遮《さえぎ》り、その風景から出ている赤外線だけで写真をとると、人間の眼では到底《とうてい》見透《みとお》しができない遠方までアリアリと写真にうつる。人間が飛行機に乗って、千葉県《ちばけん》の霞《かすみ》ヶ浦《うら》の上空から西南《せいなん》を望んだとすると、東京湾が見え、その先に伊豆半島《いずはんとう》が見える位が関の山だが、赤外線写真で撮すと、雲のあなたに隠れて見えなかった静岡湾《しずおかわん》を始め伊勢湾《いせわん》あたりまでが手にとるように明瞭《めいりょう》に出る。
 この紫外線も赤外線も、同じ光線でありながら、普通《ふつう》、人間の眼には感じない。つまり人間の網膜《もうまく》にある視神経《ししんけい》は、紫から赤までの色を認識することが出来るが、紫外線や赤外線は見えないといえる。
 見えないといえば、色盲という眼の病気がある。これは赤が見えなくて、赤い日の丸も青い日の丸としか感じない人達がいる。それは視神経の疾患《しっかん》で、生れつきのものが多い。ひどいのになると、七つの色のどれもが色として見えず、世の中がスクリーンにうつる映画のように黒と灰色と白の濃淡にしか見えない気の毒な人がいて、これを全色盲《ぜんしきもう》と呼んでいる。軽い色盲でも、赤と青とが判別出来ないのであるから、うっかり円タクの運転をしていても、「進め」の青印と、「止れ」の赤印とをとりちがえ、大事故を発生する虞《おそれ》がある。現に十年ほど前|英国《えいこく》で、列車大衝突《れっしゃだいしょうとつ》の大椿事《だいちんじ》をひきおこしたことがあったが、そのときのぶっつけた方の運転士は、色盲《しきもう》だったことが後に判明して、無期懲役の判決をうけたのが無罪になった。人間の視力なんて、まことに不思議なものであり、又デリケートなものである。そして紫から赤までしか見えないなんて、貧弱きわまる視力ではある。
 話が色盲の方へ道草をしてしまったが、この赤外線という光線は、人間の眼に感じないとされているだけに、秘密の用をつとめるとて、重宝《ちょうほう》されている。甲賀三郎《こうがさぶろう》氏の探偵小説に「妖光《ようこう》殺人事件」というのがあるが、それに赤外線を用いた殺人法が述《の》べられている。それは赤外線警報器を変形したもので、殺そうという人の通路に赤外線を左の壁から右の壁へ、噴水《ふんすい》を横にとばしたように通して置くのだ。右の壁の中には光電管といって赤外線を感ずる真空管のようなものが秘密に仕掛けてある。人の通らぬときは、赤外線がこの光電管に入って電気を起こし、ピストルの引金をひっぱろうとするバネを動かないように止めている。ところがもしこの廊下に人が通って赤外線を遮《さえぎ》ると、どうなるかというのに、赤外線は人体で遮られ、光電管には今まで流れていた電気がハタと止るから、従ってピストルの引金を動かないように圧《おさ》えていた力がぬけ、即座《そくざ》にズドンとピストルが発射され、その人間を斃《たお》す……という中々面白い方法だ。赤外線だから、その被害者の眼に見えなかったので、仕方がない。
 満洲の重要な橋梁《きょうりょう》の東|橋脚《きょうきゃく》から西橋脚の方へ向け、この赤外線を通し、西の方に光電管をとりつけ、光電管から出る電気で電鈴《でんれい》の鳴る仕掛《しか》けを圧《おさ》えておく。若《も》し匪賊《ひぞく》が出て、この橋脚に近づき、赤外線を遮《さえぎ》ると、直ちに光電管の電気が停るから、電鈴を圧えていた力は抜け、電鈴はけたたましく匪賊|襲来《しゅうらい》を鳴り告げる。これも赤外線が見えないところを利用したものである。
 深山《みやま》理学士の研究問題は、この不可視光線《ふかしこうせん》と呼ばれる赤外線が人間にも見える装置を作ることにあった。彼は、これを近頃流行のテレヴィジョンに組合わすことに眼をつけた。
 テレヴィジョンは、実験室に居て、その映写幕の上へ、例えば銀座街頭《きんざがいとう》に唯今現に通行している人の顔を見ることが出来るという器械だ。これが室内の様子を見るとなると、写真撮影場で使うような眩《まぶ》しい電灯を点じ、マネキン嬢の顔を強照明《きょうしょうめい》することによって、実験室でその顔を見ることが出来る。これが普通のテレヴィジョンであるが、それを赤外線で照らすことにし、この実験室にうつし出そうというのである。
 深山理学士は、あの奇怪な轢死《れきし》婦人事件のあった日と前後して、この装置の製作にとりかかった。
 それは丁度《ちょうど》新学期であった。この研究所内も上級の大学生や、大学院学生、さては助手などの配属の変更があって、ゴッタがえしをしていた。
 赤外線研究の彼の仕事も、従来は助手も置かず唯一人でやっていたが、今度は赤外線テレヴィジョン装置を作ったり、ロケーションにゆかねばならなくなることも判り切っていたので、助手が一人欲しいと予算を出したところ、元来《がんらい》経済難のZ大学なので、助手案は一も二もなく蹴飛《けと》ばされたが、その代り大学部三年の学生で、是非《ぜひ》赤外線研究をやりたいというひとがいるから、助手がわりにそれを廻そう、当分我慢して、それを使えという所長からの話であった。
 それは四月のたしか十日か十一日の午前九時ごろだった。深山理学士の研究室を外からコツコツとノックするものがあった。
「ちょっと待って下さい」
 学士は室内から声をかけた。
 五分ほど経って、学士はやっと戸口に近づいた。
「まだ居ますか?」
 と妙《みょう》な、そしてどっちかというと失礼きわまる質問の言葉を、扉《ドア》を距《へだ》てて向うへ投げかけた。――学士の出てくるのに痺《しび》れをきらして帰ってゆく人も多かったので、こういうのが学士の習慣だった。人を待たすことに一向|頓着《とんじゃく》しないのも有名なる学士の習慣だった。
「はア――」
 というような返辞《へんじ》と、カタリと靴の鳴る音が、扉《ドア》の彼方《あっち》でした。
 学士はそこで渋々《しぶしぶ》とポケットから鍵を出すと戸口の鍵孔《かぎあな》に入れ、ガチャリと廻して扉を開いた。そこには思いがけなくもピンク色のワン・ピースを着た背の高い若い婦人が立っていた。
「あ――」
「深山先生でいらっしゃいましょうか」若き女性は云った。
「そうです、深山ですが……」
「あたくし、理科三年の白丘《しらおか》ダリアです。先生のところで実習するようにと、科長《かちょう》の御命令で、上りましたのですけれど」
「ああ、実習生。――実習生は、君だったんですか。じゃ入りなさい」
 男の学生だと思っていたのに、やって来たのは、意外にも女学生だった。しかし何という逞《たく》ましい女性なんだろう。近代の女性は、スポーツと洋装とのお蔭で、背も高くなり、四肢《しし》も豊かに発達し、まるで外国婦人に劣らぬ優秀な体格の持ち主になったという話だったが、それにしてもこの健康さはどうだ。これが女性というものなんだろうか。深山理学士は早くもこのピンク色の物体が発散《はっさん》するものに当惑《とうわく》を感じた。
「ダリアという名前だが」と学士は訊《たず》ねた。
「失礼ながら君は混血児なのかい」
「まあ、いやな先生!」彼女は仰山《ぎょうさん》に臂《ひじ》を曲げ腰をゆがめてカラカラと笑った。「これでも日本人としては、純種《サラブレッド》ですわヨ」
「純種《サラブレッド》か! イヤ僕は、君があまりにデカイもので、もしやと思ったんだよ」
「先生は、小さくて可愛いいんですのネ」彼女は肥った露《あらわ》な二の腕を並行にあげて、取って喰うような恰好《かっこう》をしてみせた。
 そんなことから、先生の深山理学士と生徒の白丘ダリアとは、何でもずかずかと云い合う間柄《あいだがら》になった。しかしこの少女が、まだ十八歳であるとは、学士の容易に信じかねるところであった。
 赤外線研究室は、この先生と生徒とによって、昼といわず夜といわず、乱雑にひっかきまわされた。精密な部分品が、さまざまの実験を経《へ》て一つ又一つと組立てられていった。二人の熱心さは大変なものだった。入口の扉《ドア》にはいつものように鍵がかかっていた。食事を搬《はこ》んでくるときと、白丘ダリアが夜更《よふ》けて自分の住居へ帰るときの外は、滅多《めった》に開《ひら》かれはしなかった。深山理学士は独り者の気楽さで、いつもこの研究室に寝泊りしていた。
「アラ先生、まあ面白いことを発見しましたわ」ネジ廻しを握って、器械のパネルに木ネジをねじこんでいたダリアが、頓狂《とんきょう》な声を張りあげた。
「どうしたんだい」深山学士は増幅器《ぞうふくき》の向うから顔を出した。
「とても面白いですわ。先生のお顔を右の眼で見たときと左の眼で見たときと、先生のお顔の色が違うんですわ」
「変なことを云い出したネ」学士は自分の顔色のことを云われたので鳥渡《ちょっと》いやな顔をした。
「右の眼で見たときよりも、左の眼で見たときの方が、先生のお顔が青っぽく見えますのよ」
「なアーんだ、君。色盲じゃないのか。ちょっとこっちへ来て、これを見給え」
 学士はダリアを引っぱって、色盲検査図の前につれて来た。それは七色の水珠《すいじゅ》が、円形《えんけい》に寄りあっているのだが、色の配列具合によって、普通の視力をもっているものには「1」という数字が見える場合にも、色盲には「4」と見えたりするという簡単な検査図だった。ダリアの眼を、片っぽずつ閉《と》じさせて、沢山ある検査図を色々とめくって調べてみた。しかし結果はどういうことになったかというのに、ダリアは色盲ではないということが判明したのだった。
「色盲でも無いようだが……気のせいじゃないか」
「いいえ、気のせいじゃないわ。先生がどうかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「莫迦《ばか》云っちゃいかん。君の眼が悪いのだよ。説明をつけるとこうだ。いいかい。君の右の眼と左の眼との色の感度がちがうのだ。今の話だと、君の左の眼は、青の色によく感じ、右の眼は赤の色によく感ずる。両方の眼の色に対する感覚がかたよっているんだ。それも一つの眼病《がんびょう》だよ」
「そうでしょうか、あたし困ったわ」と白丘ダリアは一向困ったらしい様子も見せずに云った。「ンじゃ先生、あたしが今|視《み》ている右の眼の風景と、左の眼の風景と、どっちの色の風景が本当の風景なんでしょうか。どっちかの眼が本当のものを見て、どっちかの眼が嘘を視ているのですね」
「そりゃ困った質問だ」と今度は深山理学士の方が本当に弱ってしまった。「どうも君の網膜《もうまく》のうしろに僕の眼をやってみることも出来ないからネ」
 そういって理学士は考え込んだ。
 こんな調子で、二人はいつの間にか十年の知己《ちき》のようになってしまった。
 白丘《しらおか》ダリアの入所後《にゅうしょご》はやくも五日のちには、赤外線テレヴィジョン装置がもう一と息で出来上るというところまで漕《こ》ぎつけた。
 ところが其《そ》の朝に限って、いつもなら午前七時には必ず出てくる筈《はず》の白丘ダリアが、十時になっても姿を現わさなかった。学士は一人でコツコツと組立を急いでいたけれど、十一時になると、もう気力《きりょく》が無くなったと見え、ペンチを機械台の上に抛《ほう》り出してしまった。
(どうして、白丘は出てこないんだろう?)
 いろいろなことが、追懐《ついかい》された。何か本気で怒り出したのであろうか。それとも病気にでもなったのであろうか。考えているうちに、自分があの女学生に、あまりに頼《たよ》りすぎていたことに気がついた。ひょっとすると、自分はもうあの少女の魔術にひっかかって、恋をしているのかも知れない。
(莫迦《ばか》なッ。あんな小娘に……)
 彼は身体を一とゆすりゆすると、実験衣のポケットへ、両手をつっこんだ。ポケットの底に、堅いものが触れた。
「ああ、桃枝《ももえ》から手紙が来ていたっけ」
 今朝、用務員が門のところで手渡してくれた四角い洋封筒をとりだした。発信人は「岡見桃助《おかみとうすけ》」と男名前であるが、それは桃枝の変名であることは、学校内で学士だけが知っていた。開いてみると、どうやらそれは彼女の勤めているカフェ・ドランの丸|卓子《テーブル》の上で書いたものらしく、洋酒の匂いがしていた。文面は想像のとおり、彼の訪ねて来ないことを大変|寂《さび》しがっていること、今夜にでも店の方にでも、それともどっかで電話をかけて呼んで呉れれば直ぐ飛んでゆくからというような、当人達でなければ読んでいるに耐《た》えないような文句が縷々《るる》として続いていた。桃枝は学士の内妻《ないさい》に等しい情人《じょうじん》だった。彼は手紙を畳《たた》むと、ポケットへねじこんだ。
(今日はいっそのこと、仕事をよして、これから桃枝を引張り出しにゆこう)
 深山《みやま》理学士が実験衣を脱いで、卓子《テーブル》の上へポーンと抛《ほう》り出したときに、廊下にコツコツと聞き覚えた跫音《あしおと》がして、白丘ダリアがやって来た。
「先生、先生」
 扉《ドア》をあけてやると、ダリアは兎《うさぎ》のように飛びこんできた。
「先生|済《す》みませんでした。急用が出来たものですから……」
「一体どうしたというのです」深山理学士は桃枝のことなんか一時に吹きとばすように忘れてしまって、真剣な面持《おももち》で聞いた。
「警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど……」
「なに、警視庁へ」
「あたしのことじゃないんですけど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。伯母《おば》さんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。随分《ずいぶん》この事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど……」
 ひとには云えないといいながら、白丘ダリアは、それこそ油紙に火がついたようにベラベラ事件を喋《しゃべ》り出した。
 簡単に云うと、失踪《しっそう》した伯母さんというのは二十六歳になるひとだった。伯父との仲も大層よかったのに、一週間ほど前に急に行方不明になってしまった。遺書でもないかと調べたが、何一つ書きのこされていなかった。全く原因が不明だった。
 例の身許《みもと》の知れぬ轢死《れきし》婦人のことも、一度は問題になったが、着衣も所持品も違っていた。といって外《ほか》に年齢の点で似合わしき自殺者もなかった。生か死かも判然しなかった。伯父は捜索につかれ切って半病人になってしまった。そこへ警視庁から重《かさ》ねての呼び出しが来たので今朝、姪《めい》のダリアを介添《かいぞ》えに桜田門《さくらだもん》へ行ったというのだ。
 本庁では、伯父に対して、どんな些細《ささい》なことでもよいから、夫人について腑《ふ》に落ちかねることが今までにあったならそれを話してみろということだった。
 伯父は暫く考えていたが、ポンと膝を打った。
「そういえば思い出しましたが、妻《あれ》の居るときに、妙な質問を私にしたことがありましたよ。江戸川乱歩《えどがわらんぽ》さんの有名な小説に『陰獣《いんじゅう》』というのがありますが、あの内容《なか》に紳商《しんしょう》小山田夫人《おやまだふじん》静子《しずこ》が、平田《ひらた》一郎という男から脅迫状《きょうはくじょう》を毎日のように受けとる件があります。その脅迫状の内容というのは、小山田氏と静子夫人の夫婦としての夜の生活を、非常に詳細《しょうさい》に書き綴《つづ》ってあるのです。それは夫妻ならでは絶対に知ることのない内緒《ないしょ》ごとでした。それにも係《かかわ》らず、平田一郎という陰険《いんけん》な男は、一体どこから見ているのか、実に詳《くわ》しく、実に正確に、夫婦間の秘事《ひじ》を手紙の上に暴露《ばくろ》してある。――この脅迫状のことを、私の妻が突然話題にしたのです。江戸川さんの小説では、この気味の悪い手紙の主は、実は平田とかいう男ではなくて、小山田夫人静子その人だった。夫人の変態性《へんたいせい》がこの手紙を書かせ、夫との夜の秘事に異常な刺戟《しげき》を与えたというのでした。――私の妻《あれ》は、最後にこんなことを訊《き》いたことを覚えています。『このような脅迫状が、静子さん自身の手によって書かれたわけなら、静子さんは別に何とも恐ろしくはなかった筈《はず》です。しかしもしあの手紙が、本当に見も知らない人の手によって書かれたものだったとしたら、静子夫人の駭《おどろ》きは、どんなだったでしょうね』と、まアこんな意味のことを云ったことがあります。私は莫迦《ばか》なことを云いだす奴じゃのうと、笑ってやったんです。しかし今となって思えば、あれも失踪の謎をとく一つの鍵のような気がしてなりません」
 係官は、伯父の話に大変興味を持ったようだった。二人がもう席を立とうというときに一人の警官が円《まる》い小箱《こばこ》をもって来て、これに何か見覚えがないかと差し出した。それは茶色の硝子屑《ガラスくず》のようなものであった。勿論《もちろん》二人には思いもよらぬ品物だった。
「こんなになっているから判らないかもしれないが」と其の警官が云った。「これは映画のフィルムなんですよ。しかもそのフィルムが燃焼《ねんしょう》を始めたのを急にもみ消したとでも云いましょうか、フィルムの燃え屑なのです。それでも心当りがありませんか」
 それは二人にとって更《さら》に見当《けんとう》のつかないことだった。話はそれまでとなって、白丘ダリアと伯父とは、警視庁を辞去《じきょ》した、というのであった。
「一体その伯父さんというのは、何という方なのかネ」学士が尋《たず》ねた。
「黒河内尚網《くろこうちひさあみ》という是《こ》れでも子爵《ししゃく》なのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました」
「黒河内京子――君の伯母さんか」
「先生、伯母をご存知ですの」
「なアに、知るものかネ」学士は強く首を左右に振った。「さあ、今日は遅れたから、急いで組立てにとりかかろう」
 そういって深山理学士は実験衣を拾いあげると、洋服の袖《そで》をとおした。そのときポケットから、四角い封筒がパラリと床の上に落ちたのを、学士は気付かなかった。
 ダリアの眼は悪戯者《いたずらもの》らしく爛々《らんらん》と輝いた。太い腕が、その封筒の方へニューッと延びていった。


     4


「赤外線男《せきがいせんおとこ》というものが棲《す》んでいる!」
 途方《とほう》もない「赤外線男」の存在を云い出したのは、外《ほか》ならぬ深山《みやま》理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。
 大胆《だいたん》といおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に駭《おどろ》いたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。逸早《いちはや》く帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると識《し》らざるとを問わず、どこからどこの隅々《すみずみ》まで、一大センセイションが颶風《ぐふう》の如く捲《ま》きあがった。
「赤外線男というものが棲《す》んでいるそうだ」
「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」
「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」
 などと、人の噂は千里を走った。
 なにが「赤外線男」だ?
 深山理学士の言うところによれば斯《こ》うだ。
「予《よ》はかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、此《こ》の程《ほど》完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い吸収硝子《きゅうしゅうガラス》で除いて、装置の中には入れない。だから徹頭徹尾《てっとうてつび》、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。
「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を覗《のぞ》くことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も仄暗《ほのくら》くハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど白昼《はくちゅう》と変らない明るさであった。それは太陽の残光《ざんこう》が多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、吾人《ごじん》が既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように真白《まっしろ》にうつって見えた。なんという驚くべき器械の魅力《みりょく》であるか。
「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに驚倒《きょうとう》せしめるものがあろうとは、今日の今日まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと匍《は》いまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を覗《のぞ》いてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、彼《か》の生き物は直立《ちょくりつ》した。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり肥《こ》えている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。鳥渡《ちょっと》悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと眺《なが》められる人の姿でありながら、一度元の肉眼《にくがん》にかえると、薩張《さっぱ》り見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男――というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。
 しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと逸走《いっそう》を始めた。そしてアレヨアレヨと云う裡《うち》に、視界の外に出てしまった。駭《おどろ》いてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、最早《もはや》駄目だった。しかし兎《と》も角《かく》も、予は初めて『赤外線男』の棲《す》んでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が棲《す》んでいるとは、何という駭《おどろ》くべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」
 深山《みやま》理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。
「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の身近《みぢ》かに現われるかと思って戦々恟々《せんせんきょうきょう》としていた。
 そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の仕業《しわざ》と思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。
 郊外の文化住宅の卓子《テーブル》の上に、温く湯気《ゆげ》の立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。
 ギンザ、ダンスホールの夜更《よふ》け。ジャズに囃《はや》されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、壁際《かべぎわ》の椅子にしょんぼり腰をかけていた稍々《やや》年増《としま》のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、駭《おどろ》いてダンスを止《や》めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に仆《たお》れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと尋《たず》ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を瞠《みは》っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは無我夢中《むがむちゅう》だったという。――何が幸《さいわい》になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ勝《が》ちだったのが急に流行《はやり》っ児《こ》になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。
 こうなると何事も、暗闇《くらやみ》だからといって安心してするわけにはゆかなかった。何時《いつ》赤外線男にアリアリと覗《のぞ》かれてしまうか知れなかったのである。
 これに類する報告は、日一日と殖《ふ》えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは悪戯小僧《いたずらこぞう》又は軽い痴漢《ちかん》みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する疑心暗鬼《ぎしんあんき》から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の錯覚《さっかく》であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待|外《はず》れを口にする人も少くはなかった。
 だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに突如《とつじょ》として赤外線男の魔手《ましゅ》は伸び、帝都全市民の面《おもて》は紙のように色を喪《うしな》って、「赤外線男」恐怖症《きょうふしょう》に罹《かか》らなければならなくなった。――それは赤外線男発見者の深山理学士の研究室が不可解な襲撃《しゅうげき》をうけたことだった。
 これは午前二時前後の出来ごとだったけれど、警視庁へ報告されたのはもう夜明けの五時頃だった。場所が場所であるし、赤外線男の噂《うわ》さの高い折柄《おりから》でもあったので、直《ただ》ちに幾野《いくの》捜査課長、雁金《かりがね》検事、中河予審判事《なかがわよしんはんじ》等、係官一行が急行した。
 取調べの結果、判明した被害は、深山研究室の扉《ドア》が破壊せられ、あの有名なる赤外線テレヴィジョン装置が滅茶滅茶に壊《こわ》されているばかりか、室内のあらゆる戸棚《とだな》や引出しが乱雑に掻《か》き廻《まわ》され、あの装置に関する研究記録などが一枚のこらず引裂かれているというひどい有様《ありさま》だった。
 襲撃されたところは、もう一ヶ所あった。それは深山研究室に程近い研究所の事務室だった。ここでも同じ様な狼藉《ろうぜき》が行われているのみか、壁の中に仕掛けられた額《がく》のうしろの隠《かく》し金庫が開かれ、現金千二百円というものが盗まれてしまった。
 さて当の深山理学士は、当夜《とうや》例のとおり、研究室内に泊っていた筈だが、どうしていたかと云うと、赤外線男のために、もろくも猿轡《さるぐつわ》をはめられ両手を後《うしろ》に縛《しば》られて、室内にあった背の高い変圧器のてっぺんに抛《ほう》りあげられて、パジャマ一枚で震《ふる》えていた。これを発見したのは係官の一行だった。
「この事件を真先《まっさき》に発見したのは、誰かネ」
 と幾野捜査課長は、走《は》せ集った研究所の一同を見廻《みま》わしていった。
「儂《わし》でございます」年寄の用務員が云った。「儂は毎晩研究所を見廻わっている役でございます」
「発見当時のことを残らず述《の》べてみなさい」
「あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、夜番《よばん》の室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて闇《やみ》の戸外《そと》へ一歩踏み出した途端《とたん》に、脾腹《ひばら》をドスンと一つきやられて、その儘《まま》何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、儂《わし》は元の室の土間《どま》の上に転《ころ》がっているという始末《しまつ》。それから駭《おどろ》いて窓から外へ飛び出すと、門衛《もんえい》のいますところまで駈けつけて、大変だと喚《わめ》きましたようなわけです」
「すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか」
「それが何にも見えませんでございました」
「序《ついで》に聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか」
「存じて居ります。昨夜のあれは、赤外線男でございましたでしょうか」老人は急に臆気《おくき》がついてブルブル慄《ふる》え出した。
 課長は、用務員を下げると、今度は深山理学士を呼び出した。
「昨夜、貴方の襲撃された模様をお話し下さい」
「どうも面目次第《めんぼくしだい》もないことですが」と学士はまず頭を掻《か》いて「何時頃だったか存じませぬが、研究室のベッドに寝ていた私は、ガタリというかなり高い物音に不図《ふと》眼を醒《さま》してみますと、どうでしょうか。室の入口の扉《ドア》の上半分がポッカリ大孔《おおあな》が明いています。これは枕許《まくらもと》のスタンドを点《つ》けて寝るものですから、それで判ったのです。私は吃驚《びっくり》して跳ね起きました。すると、あの赤外線テレヴィジョン装置がグラグラと独《ひと》り手《で》に揺《ゆ》れ始めました。オヤと思う間もなく、装置の蓋《ふた》が呀《あ》ッという間もなく宙に舞い上り、ガタンと床の上に落ちました。私が呆然《ぼうぜん》としていますと、今度はガチャーンと物凄《ものすご》い音がして、あの装置が破裂したんです。真空管《しんくうかん》の破片《はへん》が飛んできました。大きな廻転盤が半分ばかりもげて飛んでしまう。つづいてガチャンガチャンと大きなレンズが壊《こわ》れて、頑丈《がんじょう》なケースが、薪《まき》でも割るようにメリメリと引裂かれる。私は胆《きも》を潰《つぶ》しましたが、ひょっとすると、これはこの装置で見たことのある赤外線男ではないかしらと考えると、ゾーッとしました。見る可《べ》からざるものを視た私への復讐《ふくしゅう》なのではないかしらと思いました。私はソッと逃げ出し、室の隅ッこにでも隠れるつもりで、寝床《ねどこ》から滑《すべ》り下《お》りようとするところを、ギュッと抱きすくめられてしまいました。それでいて身の周《まわ》りには何の異変もないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて呉《く》れ』と怒鳴《どな》りました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ昏倒《こんとう》してしまったのです。それから途中、全然記憶が欠《か》けているのですが、イヤというほど横《よこ》ッ腹《ぱら》に疼痛《とうつう》を覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに載《の》っているのです。それが先刻《せんこく》、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が悪夢《あくむ》のように眼に映ります。実験戸棚の扉《ドア》が、風にあおられたように、パターンと開く、すると棚《たな》に並べてあった沢山の原書《げんしょ》が生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた洋紙《ようし》や薬品の小壜《こびん》などが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、正視《せいし》するのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃|唱《とな》えたこともなかったお念仏《ねんぶつ》を口誦《くちずさ》んだほどでした」
 理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、憐愍《れんびん》を求めるように見えた。
「それから、どうしたです」課長は尚《なお》も先を促《うなが》した。
「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、壊《こわ》れた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に跫音《あしおと》がして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな響《ひびき》がしはじめました。掛矢《かけや》でもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と経《た》つうちに段々静かになり、軈《やが》て何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も魂《たましい》も消し飛ばしてガタガタ慄《ふる》えていましたが、幸《さいわい》にもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」
 そういって深山理学士は、大きい溜息《ためいき》をついたのであった。
「君は、そのとき、何か扉《ドア》の閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が尋《たず》ねた。
「そうです。そういえば、跫音《あしおと》らしいものが空虚な反響《はんきょう》をあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」
「ふふん、それはどうも……」課長は低く呻《うな》った。
「どうでしょうか、ちょっとお尋《たず》ねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の深山《みやま》先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」
「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」
 そのとき一人の刑事と何か囁《ささや》き合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。
「君、一つ発見したよ。この室《へや》の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」
「靴の跡ですか」
「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室《へや》のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵《かかと》の摩滅具合《まめつぐあい》から云ってこれは血気盛《けっきさか》んな青年のものだと思うよ」
「検事さん、待って下さい」と捜査課長は慌《あわ》て気味《ぎみ》に云った。
「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」
「それは勿論《もちろん》、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」
「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽《こっけい》じゃないでしょうか」
「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男はこの運動場を人間のような恰好して歩いていたというぞ。してみれば、赤外線男とて、地球の重力《じゅうりょく》をうけて歩いているので、空中を飛行しているわけではない。だから身体は見えなくても、大地《だいち》に接するところには、赤外線男の足跡が残らにゃならんと思うよ」
「足跡が見えるなら、靴も見えたっていいでしょう。すくなくとも、靴の裏は見えたっていいわけです。そこには我々の眼に見える泥がついているのですからネ」
 課長と検事とは喋っていながらも、この難問題が自分たちの畠《はたけ》ではないことに気がついた。
「ねえ、君」と検事が鼻に小皺《こじわ》をよせて囁《ささや》くように云った。「これはどうも俺たちの手にはおえないようだよ。第一、知識が足りない」
「そうですヨ」と課長も苦笑した。
「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。帆村荘六《ほむらそうろく》をサ」
「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」
 二人の意見は直ぐに纏《まとま》った。そして新《あらた》に呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。
 こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう洩《も》れてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に秘蔵《ひぞう》していた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、故意《こい》に学士の心に秘《ひ》めたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。
 とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の生態《せいたい》というものが、大分はっきりしてきた。


     5


 帆村探偵を交《ま》ぜた係官の一行が、深山理学士の研究室を訪ねたのは、新しい赤外線テレヴィジョン装置が出来上ったという其《そ》の日の夕刻のことだった。折角《せっかく》作った一台は、無惨《むざん》にも赤外線男の破壊するところとなり、学士も助手の白丘《しらおか》ダリアも大いに失望したが、その筋《すじ》の希望もあって、二人は更《さら》に設計をやり直し、新しい装置を昼夜兼行《ちゅうやけんこう》で組立てたのだった。白丘ダリアは、この事件以来というものは、住居《じゅうきょ》にしている伯父《おじ》黒河内子爵《くろこうちししゃく》のところへ帰ってゆくことをやめ、深山研究室の中にベッドを一つ置き、学士と共に寝起きすることとなった。碌《ろく》に睡眠時間もとらないで、この組立に急いだ結果、四日という短い日数《にっすう》のうちに、新しい第二装置ができあがった。しかし学士はあの事件以来、何とはなく大変疲れているようであった。その一方、白丘ダリアは益々《ますます》健康に輝き頸《くび》から胸へかけての曲線といい、腰から下の飛び出したような肉塊《にくかい》といい、まるで張りきった太い腸詰《ちょうづめ》を連想《れんそう》させる程だった。従って第二装置の素晴らしい進行速度も、ダリアの精力《せいりょく》に負うところが多かった。
 研究室の扉《ドア》をコツコツと叩くと、直ぐに応《こた》えがあった。入口が奥へ開かれると、そこへ顔を出したのは、頭に一杯|繃帯《ほうたい》をして、大きな黒眼鏡をかけた若い女だった。先登《せんとう》に立っていた課長は、
(これは部屋が違ったかナ)
 と思った位だった。
「さあ、皆さんどうぞ」
 そういう声は、紛《まぎ》れもなく白丘ダリアに違いなかった。どうしてこんな繃帯をしているのだろう。それに黒眼鏡《くろめがね》なんか掛けて……と不思議に思った。
 一行中の新顔《しんがお》である帆村探偵が、深山《みやま》理学士と白丘ダリアとに、先《ま》ず紹介された。
「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は慇懃《いんぎん》に挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」と尋《たず》ねた。
 課長はこの場の様子を見て、いつもながら帆村の手廻しのよいのに呆《あき》れ顔だった。
「これですか」少女はちょっと暗い顔をしたが「すこしばかり怪我《けが》をしたんですの。繃帯をしていますので大変にみえますけれど、それほどでもないのです」
「どうして怪我をしたんですか」
「いいえ、アノ一昨晩《いっさくばん》、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の硫酸《りゅうさん》の壜が破裂をしたのです。その拍子《ひょうし》に、棚《たな》が落ちて、上に載《の》っていたものが墜落《ついらく》して来て、頭を切ったのです」
「そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか」
「何しろ疲れていたもので、直《す》ぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、愚図愚図《ぐずぐず》しているうちに、頭髪《かみ》についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」
 ダリアは黒眼鏡を外《はず》して見たが、左眼《さがん》はまるで茹《ゆ》でたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや充血《じゅうけつ》している位でまず無事な方であった。
「全く危いところでしたよ。連日《れんじつ》の努力で、もう身体も頭脳《あたま》も疲れ切っているのです。神経ばかり、高《たか》ぶりましてネ」と理学士も側《そば》へよって来て述懐《じゅっかい》した。彼の眼の色も、そういえば尋常《じんじょう》でないように見えた。
「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」
 ダリアは独《ひと》り言《ごと》のように云った。
 一同は此の室に何だか唯《ただ》ならぬ妖気《ようき》が漂《ただよ》っているような気がした。
「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり暗室《あんしつ》にして呉《く》れ給《たま》え」
「はい、畏《かしこま》りました」
 ダリアは割合《わりあい》に元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと蝶番式《ちょうつがいしき》にとりつけてある雨戸《あまど》を合わせてピチンと止《と》め金《がね》を下《お》ろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン灯《とう》が一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。隅《すみ》によっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が灯《ひ》の下へゾロゾロと集ってきた。
「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。
「何だか、頭の上から圧《おさ》えられるようだ」そういったのは白髪《はくはつ》の多い中河予審判事だった。
「このネオン灯《とう》も消します。そうしないと巧《うま》く見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、仰有《おっしゃ》って下されば、いつでも点《つ》けます」
「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が悲鳴《ひめい》に近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」
 幹部だけが、スクリーンを包囲《ほうい》して、椅子に席をとった。
「いいですか」
「いいよ」
 パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、朧気《おぼろげ》な映像があらわれた。
「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。
「ピントが外《はず》れているのです。増幅器《ぞうふくき》もまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」
 なるほど映像はすこし明瞭度《めいりょうど》を加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。
「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」
「これは、こっちのレンズからお覗《のぞ》き遊ばして……」捜査課長の耳許《みみもと》でダリアの声がした。
「呀《あ》ッ」と課長は慌《あわ》てたが「いやなるほど、よく見えます。――なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」
 まず赤外線男ではなかったので安心した。
「この辺《あたり》のところですから、さあ誰方《どなた》も変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。
「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。
 ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。
「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが呟《つぶや》きながら視《み》ている。
 そのとき真暗《まっくら》だった室内へ、急に煌々《こうこう》たる白光《はっこう》がさし込んだ。
「呀《あ》ッ!」
「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。
 一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この眩《まぶ》しい光に会ってクラクラとした。
「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。
「困るじゃないか」深山は云った。
「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触《さわ》りましたのよ。吃驚《びっくり》して、窓をあけたんですの」
「ああ、もう出たかッ――」
「赤外線男!」
「窓を皆、明けろッ!」
 そのとき白丘ダリアは朗《ほが》らかな声で云った。
「いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお臀《しり》でしたわ。ホホホ」
「なあーンだ」
 一座はホッと溜息《ためいき》をついた。
「じゃ早くカーテンを下ろしなさい」
「済《す》みません」
 カーテンはパタリと下りた。元の暗闇が帰って来たけれど、皆の網膜《もうまく》には白光が深く浸《し》みこんでいて、闇黒《あんこく》がぼんやり薄明るく感じた。スクリーンの前では雁金検事が、しきりに眼をしばたたいていた。
 ウームというような低い呻《うな》り声が聞えたと思った。ドタリ……と、大きな林檎《りんご》の箱を仆《たお》したような音が、それに続いて起った。
 素破《すわ》、異変だ!
「どッどうした」
「まッ窓だ窓だ窓だッ」
「ランプ、ランプ、ランプ!」
 さーッと、窓から白光《はっこう》が流れこんだ。ネオン灯もいつの間にか点いた。
「キャーッ」と喚《わめ》いてカーテンに縋《すが》りついたのは、窓のところへ駈けよったばかりの白丘ダリアだった。床の上には、幾野捜査課長が土のような顔色をし、両眼《りょうがん》を剥《む》きだし、口を大きく開けて仆れていた。
 もう赤外線テレヴィジョンも何もなかった。窓という窓は明け放された。室内の一同の顔には生色《せいしょく》がなかった。
「赤外線男!」
「ああ、あいつの仕業《しわざ》だ」
 いまにも自分の身体に、赤外線男の猿臂《えんぴ》[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」]がムズと触《ふ》れはしないかと思うと、恐ろしい戦慄《せんりつ》が電気のように全身を走った。眼に見えない敵! そいつをどう防げばいいのだ。どうして其《そ》の魔手《ましゅ》から遁《のが》れればいいのだ。
 そのとき帆村探偵は、一人進み出て、捜査課長を抱《かか》え起した。課長の頭は、ガックリ前へ垂れた。
「呀《あ》ッ、こりゃ非道《ひど》い!」
 帆村は呟《つぶや》いた。幾野課長の頸《くび》の真《ま》うしろに一本の銀鍼《ぎんばり》がプスリと刺さっていた。
 一同は吾《わ》れにかえると、赤外線男のことを鳥渡《ちょっと》忘れて、課長の死骸《しがい》の周囲に駈けあつまった。
「延髄《えんずい》を一と突《つ》きにやられている……」
「太い鍼《はり》だッ」
「指紋を消さないように、手帛《ハンケチ》でも被《かぶ》せて抜けッ」
「これは抜けますまい」と帆村が云った。
 なるほど、力の強い刑事が引張っても抜けなかった。鍼に筋肉が搦《から》みついてしまったものらしい。
「一体これは、どうして検《しら》べようか」判事が当惑《とうわく》の色をアリアリと現わして云った。
「どうも、相手が悪い」と検事が呟いた。
「赤外線男はそれとして置いて、普通の事件どおり、この部屋の中にいる者は、すっかり取調べることにして下さい」と帆村が云った。
 そこで係官が代りあって係官自身と、帆村、深山理学士、白丘ダリアとを調べてみたが、別に怪《あや》しい点は何一つ発見されなかった。
 結局、赤外線男の仕業ということが裏書《うらが》きされたようなものだった。流石《さすが》の帆村探偵も手も足も出せなかった。


     6


 捜査課長の殺害《さつがい》事件は、俄然《がぜん》日本全国の新聞紙を賑《にぎ》わした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の面目《めんもく》はまるつぶれだった。
 四谷《よつや》に赤外線男が出た。三河島《みかわしま》にも赤外線男が現われたと、時間と場所とを弁《わきま》えぬ出現ぶりだった。尤《もっと》もそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、一寸《ちょっと》話を聞いただけで偽《にせ》赤外線男だと看破《かんぱ》出来るようなものもあった。
 帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を埋《うず》めると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の故《こ》幾野氏の惨死《ざんし》事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら勿論《もちろん》出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。
 雁金検事、中河判事――この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。
 警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。
 熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。但《ただ》しいろいろと探偵眼のあるところが、平《ひら》警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。
 残るは深山《みやま》理学士だ。これは確かに怪《あや》しくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の嫌疑《けんぎ》は薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ抛《ほう》り上げられていた被害者ででもある。感心しない。
 然《しか》らば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの溌溂《はつらつ》たる肉体美から云って信じられない。殊《こと》に課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。
 いや凡《およ》そ、あの部屋にいた連中は皆、闇黒《あんこく》の中に沈澱《ちんでん》していたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で延髄《えんずい》を刺すということは、誰にも出来ない筈だ。
 残る嫌疑者《けんぎしゃ》は自分であるが、これとても同じことが云える。
 然らば、誰が課長を殺したか?
 ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。
 帆村は呻《うな》りながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む頭脳《あたま》をふり絞った。
 有るには有る。あの延髄《えんずい》を刺した鍼《はり》だ。調べてみると指紋はあった。しかし細い鍼《はり》の上にのった幅《はば》のない指紋なんて何になるのだ。
 それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。
 次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が要《い》るとは可笑《おか》しい。しかし靴を履《は》いていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、矢張《やっぱ》り金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、背丈《せたけ》肉付《にくづき》もわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと拡《ひろ》がらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、若《も》しや赤外線男に手下《てした》があるのではあるまいか。
 世間では、新宿のホームから飛びこんで轢死《れきし》した婦人の身許《みもと》もわからないし、地下に葬《ほうむ》った筈《はず》の死骸が紛失《ふんしつ》した不思議さを、今も尚《なお》覚《おぼ》えていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を捕虜《ほりょ》にし、その皮を剥《は》いで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に紛《まぎ》れこんでくるのがある。しかしあの婦人の顔面《かお》は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》だった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて印度《インド》や土耳古《トルコ》なら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。
 それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの焼《や》け屑《くず》だ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。
 赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、隅田梅子《すみだうめこ》という婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから黒河内子爵《くろこうちししゃく》夫人が、行方不明で、今も尚《なお》生死が知れぬが、あの少し前に、乱歩《らんぽ》氏の「陰獣《いんじゅう》」のことを言い出したという事――よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。
 帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って卓子《テーブル》の灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。
 そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。
「帆村君を願います」性急《せいきゅう》な声が聞えた。
「帆村は私ですが、貴方は?」
「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った新進《しんしん》の警部だった。
「大江山さんですか。また何かありましたか」
「ええ、あったどころじゃないです。唯今《ただいま》総監閣下が殺害《さつがい》されました」
「ナニ総監閣下が……? 本当ですか」
「困ったことですが、本当です」
「一体どうしたのです。どこでやられたのです」
「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で丹念《たんねん》に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、貴方《あなた》にもお出で願うよう申上げて置きましたが、先刻《さっき》総監閣下が急に見たいと仰有《おっしゃ》るので到頭《とうとう》ご覧に入れちまったのです」
「そりゃ拙《まず》かったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。
「私ども始めはお止《と》めしたのです。しかし閣下は他出《そとで》される約束があって、その日の三時にはご覧《らん》になれないのです。それで強《し》いてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」
 例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線|発生灯《はっせいとう》を点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に撮《と》る。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の動静《どうせい》を赤外線映画に収めてしまう。斯《こ》うすれば、その中で怪《あや》し気《げ》な行動をする者がフィルムの上に映《うつ》った筈だから、後で現像すればそれと判る――こんな仕掛けを予《あらかじ》め作って置いたのである。しかし総監閣下が犠牲《ぎせい》になられたのでは、何にもならない。本庁の連中の愚鈍《ぐどん》さに、帆村は呆《あき》れる外《ほか》なかった。
「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」
「そうです。うまく撮ったつもりです。――だが閣下は殺害されました。兇器《きょうき》は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」
「現像は……」
「今やっています。直《す》ぐこれからおいで願いたいのです」
「ええ、参ります」
 帆村は憂鬱《ゆううつ》な返辞《へんじ》をした。
 駆《か》けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。殺《や》られる人に事欠《ことか》いて、総監閣下が苟《かりそ》めの機会から非業《ひごう》の死を遂《と》げたというのだから、これは大変なことである。
「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、真先《まっさき》に訊《き》いた。
「出来たのですが……」
「どうしたんです?」
「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、肝心《かんじん》のところは真暗で、何にも写ってやしません」
 課長は、面目《めんぼく》なげに下俯《うつむ》いた。
「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」
「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る隈《くま》なく調べ、繃帯《ほうたい》もすっかり取外《とりはず》させるし、眼鏡もとられて眼瞼《まぶた》もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の得《う》るところもありません」
「ダリア嬢の眼はどうです」
「ますますひどいようですよ。左眼《さがん》は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」
「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」
「ところが深山氏は閣下にいろいろと詳《くわ》しく説明していた最中《さいちゅう》なのです。深山氏が喋《しゃべ》っているのに、閣下はウーンといって仆《たお》れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして鍼《はり》を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」
「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」
「まあ、そうなりますネ。二人もこれに懲《こ》りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす暗室《あんしつ》内へは行かないと云っていますよ」
「では犯人は一体誰なんです」
「赤外線男――でしょうナ」
「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」
「今となっては満足しています。昨日までは稍《やや》信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の仕業《しわざ》と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」
「しかし、レンズは室内を睨《にら》ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」
 帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと皮肉《ひにく》を飛ばした。


     7


 その次の朝のことだった。
 帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛《きまぐ》れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装《ふんそう》になった。
 しかし別にクラブ・バッグを引張《ひっぱ》り出すわけでもなく、細い節竹《ふしだけ》のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌《いま》わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗《うらら》かな陽春の空だった。
 彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹《は》れぼったくなった顔を見ると、斯《こ》う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に喚《わめ》いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報《しら》せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで軽蔑《けいべつ》したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾《はず》ませながら問いかえした。
「浅草の石浜《いしはま》というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝《おかみももえ》という女で、男というのが……」
「男というのが?」
「深山《みやま》理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
 課長は余程《よほど》口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪《なみだ》をポロポロ滾《こぼ》した。
「そうですか」帆村も泪を誘《さそ》われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「視《み》えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其《そ》の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は兎《と》に角《かく》、見に行って来ます。あれは日本堤署《にほんつつみしょ》の管内《かんない》ですね」
 課長は黙って肯《うなず》いた。
 警察へ行ってみると、現場《げんじょう》はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰《もら》うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
 そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程《みちのり》ではなかった。彼は捷径《ちかみち》をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町《たなかまち》の方へ足を向けた。震災前《しんさいぜん》には、この辺は帆村の縄張《なわば》りだったが、今ではすっかり町並《まちなみ》が一新《いっしん》してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行《ゆ》く手《て》を見えなくした。彼は忌々《いまいま》しそうに舌打ちをして、大田中《おおたなか》アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
 見ると、アパートの高い非常梯子《ひじょうばしご》に、近所の人らしいのが十四五人も載《の》って、何ごとか上と下とで喚《わめ》きあっているのだ。
「どうしたんです」
 帆村は道傍《みちばた》に立っている人のよさそうな内儀《おかみ》さんに訊《たず》ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉《まゆ》を顰《しか》めると、赤い裏のついた前垂《まえだれ》を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦《ばか》に臭《くさ》い臭《くさ》いと云ってましたが、その死骸《しがい》のせいなんですよ。まあ、いやだ」
 内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾《つば》をはいた。
「じゃ、よっぽど永く経《た》った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁《みのが》せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮《うしお》さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」
「その潮さんというのは、若《も》しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻《か》き合《あ》わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
 帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は駭《おどろ》いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」
 その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々《ひょうひょう》とやってくる潮らしき人物の袂《たもと》を抑《おさ》えていた。
「潮君」
「呀《あ》ッ」
 青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天《いだてん》を追駈《おいか》けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂《つい》に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中《ふところ》から、コロコロと平べったい丸缶《まるかん》のようなものが転げ出て、溝《みぞ》の方へ動いていった。
「ああ――それは……」
 と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損《ぞん》をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
 ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死《れきし》婦人のハンドバッグに、フィルムの焼《や》け屑《くず》があったではないか。
 帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁《に》げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘《つぐ》んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力《きょくりょく》否定した。
 あとは本庁で調べることとし、意気昂然《いきこうぜん》たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴《ともな》って、警視庁へ引上げた。
 今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画|検閲室《けんえつしつ》で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ万事《ばんじ》よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。


     8


 帆村は一名の警官と連れ立って、黒河内子爵《くろこうちししゃく》を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は重態《じゅうたい》で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない頤《あご》を指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の御了解《ごりょうかい》を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
 ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、直《す》ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
 三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内|射的場《しゃてきば》がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
 呑気千万《のんきせんばん》にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、拳銃《ピストル》を並べてある高い台があって、遥《はる》か向うの壁には、大きな掛図《かけず》のような的《まと》がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、水珠《みずたま》を寄せたように、茶椀《ちゃわん》ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの円《まる》が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に拳銃《ピストル》をとって、覘《ねら》いを定《さだ》めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな赤円《あかまる》に、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
 そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に薦《すす》めた。
「エエ――」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし……あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
 そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
 まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、麦藁《むぎわら》の管《くだ》でチュウチュウ吸った。
「警視庁なんてところ、随分《ずいぶん》開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。
「それはそうですよ。貴女《あなた》みたいな方をお招きすることもありますのでネ」
「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」
 半分ばかり吸ったところで、ダリアは吸管《すいくだ》を置いた。
 そんなことをしている裡《うち》に時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。
 階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな気配《けはい》だったが、しかし仄暗《ほのぐら》いながら電灯がついているから停電でもしない限り先《ま》ず大丈夫だろう。
 映画検閲用の試写室は、思いの外《ほか》、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。
 もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。
 そこへ別の入口から、警官に護られて、潮十吉《うしおじゅうきち》が手錠《てじょう》をガチャガチャ云わせながら入って来て、最前列《さいぜんれつ》に席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである丁度《ちょうど》その横だった。
「もうこれで皆さん全部お揃いですか」
 警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。
「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」
 帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。
「じゃ始めます。あれを演《や》る前に、一つ調子をつけるために、実写《じっしゃ》ものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」
 スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、小暗《こぐら》い蔭があった。それにこうして平然と、画面に見入《みい》っていていいものかしら、赤外線男の出てくるには屈強《くっきょう》な地下室ではないか。
 しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。
「さあ、いよいよこの次だ」
「一体どんな映画なのだろう」
 人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。
「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。
「いや、ならん」
 警官の声はあっけなかった。
 さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして身許《みもと》不明の轢死《れきし》婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、矢張《やは》り同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって嫌疑《けんぎ》の深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が暴露《ばくろ》するのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の合棒《あいぼう》でもあるか。
 カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い光芒《こうぼう》が走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの真中《まんなか》に小さくうつった。
「ああ、これは……」
「ウム……」
 画面の展開につれ、人々は苦しそうに呻《うな》った。誰かが、いやらしい咳払《せきばら》いをした。
 いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。
「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。
「ああ、あれは伯母《おば》様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ……まッ……」
 といったきり、白丘ダリアは口を噤《つぐ》んだ。
 さて画面に、それから如何なる情景《じょうけい》が展開していったか、その内容についてはここに記《しる》すことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる戯《たわむ》れだった。斯《か》かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、尚《なお》も仔細に画面を点検すれば、次第に明瞭《めいりょう》だった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。
 恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも係《かかわ》らず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は子爵《ししゃく》夫人黒河内京子と青年潮十吉!
 さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。
 潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔を掩《おお》うたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い溜息《ためいき》と共に、パッと電灯がついた。
「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」
「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。深山楢彦《みやまならひこ》――彼奴《あいつ》がやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は而《しか》も夫人に恋をしていたのです。彼奴《あいつ》は私達の深夜の室をひそかに窺《うかが》って暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって可憐《かれん》なる子爵夫人を幾度となく脅迫《きょうはく》しました。一度は夫人があのフィルムの一端《いったん》を奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を密《ひそ》かに写真にとっては、打ち興じていたという痴漢《ちかん》です。しかし飽《あ》くまで夫人に未練《みれん》をもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって脅《おびや》かしたのです。夫人は凡《すべ》てを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は身許《みもと》のわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば月並《つきなみ》の衣類なり所持品です。それがうまく効《こう》を奏して隅田《すみだ》氏の妹と間違えられたのです。顔面の諸《もろ》に砕《くだ》けたのは、神も夫人の心根《こころね》を哀《あわれ》み給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に闖入《ちんにゅう》して、あのフィルムを奪回《だっかい》したのです。彼奴《かやつ》を探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は……」
 このとき白丘ダリアは、先刻《さっき》から耐えていた尿意《にょうい》が、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は慌《あわ》てて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ間近《まぢ》かに、赤い灯火《ともしび》が点《とも》っていて、それに「便所」という文字が読めた。
 彼女は、飛び立つ想いで、そこの扉《ドア》を押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる洋風厠《ようふうかわや》だった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。
 大きい鏡があったので、ダリアはそこで繃帯《ほうたい》を気にしながら、硫酸《りゅうさん》の焼け跡のある顔へ粉白粉《こなおしろい》を叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その途端《とたん》にダリアはハッと駭《おどろ》いて、
「呀《あ》ッ」
 と声をあげた。
 そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に身構《みがま》えをしていた。
「まア、どうしたんです。帆村さん」
 ダリアの救いを求めた帆村は、最早《もはや》、先刻、射的《しゃてき》で遊んだ帆村とは別人《べつじん》のようであった。
「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」
 言下《げんか》に大江山課長はヌッと前へ出た。
「白丘ダリア。いま汝《なんじ》を逮捕する」
「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」
「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう胡魔化《ごまか》されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を捕縛《ほばく》する。それッ」
 ワッと喚《わめ》いて、選《え》りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう遁《に》げる道もなければ、方法もなかった。
「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。
     *   *   *
 事件が一|段落《だんらく》ついた後の或る日、筆者《わたくし》は南伊豆《みなみいず》の温泉場で、はからずも帆村探偵に巡《めぐ》りあった。彼は丁度《ちょうど》事件で疲れた頭脳を鳥渡《ちょっと》やすめに来ていたところだった。仄《ほの》かに硫黄《いおう》の香《かおり》の残っている浴後《よくご》の膚《はだ》を懐《なつか》しみながら、二人きりで冷いビールを酌《く》み交《か》わした。そのとき彼の口から、この事件の一切の顛末《てんまつ》を聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない口調《くちょう》で、こんな風に最後の解決を語った。

「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上《べんぎじょう》拵《こしら》えた創作的観念であって、実在ではなかった。
 何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀《あ》ッと云わせて虚名《きょめい》を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費《つかい》こんだ大金《おおがね》の穴埋《あなう》めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早《いちはや》く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
 しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦《じょうふ》という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分|貢《みつ》いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
 もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交《ひこう》を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑《いど》むことよりも莫大《ばくだい》な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済《す》んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
 そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々《ひひ》のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆《そその》かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
 しかしダリアの使嗾《しそう》に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦《じょうふ》桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好《かっこう》になった。其《そ》の後《ご》に来るもの――それを考えると彼は安閑《あんかん》としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸《さいわ》い、水素|瓦斯《ガス》を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒《さ》まされ、不成功に終ってしまったのだ。
 ダリアはこの事を勿論《もちろん》感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立《あらだ》てる代りに、一層《いっそう》深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳《ぎゅうじ》ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼《うがん》は大した損傷《そんしょう》もなかったが、左眼《さがん》はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰《つぶ》れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵《おか》されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償《だいしょう》として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明《めい》を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼《いちがん》になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底《とうてい》見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜《もうまく》には映《えい》ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視《み》える。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜《きょうき》ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者《さつじんいんらくしゃ》という恐ろしい犯罪者に堕《お》ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露《ひみつばくろ》の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
 そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色《こはくいろ》の液体をグーッと呑《の》み乾《ほ》した。筆者《わたくし》は壜《びん》をとりあげると、静かに酌《つ》いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害《そがい》された。誰があの暗黒《あんこく》のなかで、選《よ》りに選《よ》って非常に正確を要する延髄《えんずい》の真中に鍼《はり》を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人《ちょうじん》でなければ、到底《とうてい》想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然《しか》りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼《ぎんばり》をシャープペンシルの軸《じく》の中に隠して持っていたのだった。
 これに対して僕の探偵力は、全く貧弱《ひんじゃく》なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外《ほか》に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気《ばかげ》たことがと排斥《はいせき》していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極《ご》く最近のことだ。以前に於《おい》ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索《たんさく》の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化《ば》けの皮を剥《は》いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交《ひこう》の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴《つか》む計画を樹《た》てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
 最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠《みずたま》のように円《まる》い標的《ひょうてき》を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟《さと》って拳銃《ピストル》をとりあげようとはしなかった。若《も》しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山《みやま》の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映《うつ》るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱《の》がれた。しかし射撃を拒《こば》んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能《ききめ》はあった。
 さて、最後のトリック――それには鬼才《きさい》ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑《げび》た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意《にょうい》を催《もよお》したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否《いな》やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相《そそう》を演ずることになる。彼女は極度に狼狽《ろうばい》していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯《あかり》がついている。彼女は扉《ドア》を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲《ここ》に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
 それは、この『便所』と書いた赤い灯《あかり》は、普通の視力をもった人間には、到底《とうてい》発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作《むぞうさ》に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予《かね》て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石《さすが》のダリア嬢もこうなっては策の施《ほどこ》しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1933(昭和8)年5月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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