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人造人間《ロボット》殺害《さつがい》事件
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)人造人間《ロボット》殺害《さつがい》事件

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(例)又|平生《へいぜい》は

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)[#次の段落には、天地左右にオモテケイ囲み]
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 その早暁《そうぎょう》、まだ明けやらぬ上海《シャンハイ》の市街は、豆スープのように黄色く濁った濃霧の中に沈澱《ちんでん》していた。窓という窓の厚ぼったい板戸をしっかり下《おろ》した上に、隙間《すきま》隙間にはガーゼを詰めては置いたのだが、霧はどこからともなく流れこんできて廊下の曲り角の灯《あかり》が、夢のようにボンヤリ潤《うる》み、部屋のうちまで、上海の濃霧に特有な生臭《なまぐさ》い匂いが侵入していたのであった。
 その日の午前五時には本部から特別の指令があるということを同志の林田《はやしだ》橋二《はしじ》からうけたので僕は早速《さっそく》、天井裏《てんじょううら》にもぐりこみ、秘密無線電信機の目盛盤《ダイヤル》を本部の印のところにまわしたところ、果して、一つの指令に接した。こんどの指令は近頃にない大物だ。

[#次の段落には、天地左右にオモテケイ囲み]
 JI13ハ直チニ海龍《かいりゅう》倶楽部《クラブ》副首領「緑十八」ヲ殺害スベシ。但シ犯跡ヲ完全ニ抹殺スベキモノトス。本部JM4指令。

 この意味を、暗号電文の中《うち》から読みとったときには、常にも似ず、脳髄がひきしめられるような気がした。緑十八といえば、秘密結社海龍倶楽部の花形闘士の中でも、昨今中国第一の評ある策士。辣腕《らつわん》と剽悍《ひょうかん》との点においては近代これに比肩《ひけん》する者無しと嘆《たん》ぜられているひと。しかしいつも覆面しているので顔も判らず、又|平生《へいぜい》は、どんな生活をしているひとなのだか、それも殆んど判っていない。一体、この海龍倶楽部は、表面は一秘密結社ではあるけれども、その背後には某大国の官憲の庇護《ひご》があり、上海の警視庁と直通しているといわれ、何のことはない、某大国と中国警察との共同変装のようなものである。だから、その海龍倶楽部の副首領を暗殺するということは、非常に困難なことであり、危険さから云っても自ら爆弾をいだいてこれに火を点《つ》けるようなものである。暗殺行為の片鱗《へんりん》が知られても、僕はこの上海から一歩も外に出ないうちに、銃丸《じゅうがん》を喰《く》らって鬼籍《きせき》に入らねばならない。
「おい井東《いとう》」と同志林田が、天井裏から青い顔をして降りてきた僕に、心配そうに呼びかけた。「こんどの指令は、大分《だいぶ》大物らしいね。僕は君のためにあらゆる援助をするようにと本部から指令されてきた。なんでもするよ」
 僕は忠実なる同志の方に振り向こうともせず、無言の儘《まま》、寝椅子の上に腰を下した。五分か、十分か、それとも一時間か、時間は意識の歯車の上を外《はず》れて、空廻《からまわ》りをした。僕の脳髄は発振機のように、細かい数学的計算による陰謀の波動をシュッシュッと打ちだした。
 計画は出来上った。林田を自分の寝椅子の方に手招《てまね》きすると、その耳に口をあてて、重要な援助事項を、簡潔に依頼した。林田の赤かった顔色が、見る見るうちに蒼醒《あおざ》めて、話が終ると、額《ひたい》のあたりに滲《にじ》み出《で》た油汗が、大きな滴《しずく》となってトロリと頬を斜《ななめ》に頤《あご》のあたりへ落ち下《さが》った。
「井東!」と林田が、また懐《なつか》しそうに僕の名を叫んだ。
「今度は所詮《しょせん》、お互に助かるまいな」
「……」僕は顔を静かにあげて微笑してみせた。
「うふふ」林田も笑った。「君はいつも自信のあるような顔をしているじゃないか。だが、この前のF鉱山事件といい、この間の松洞《しょうどう》事件といい、某大国や警視庁は、あの兇行《きょうこう》を君がやったことはよく知っているのだぜ。唯《ただ》、犯跡《はんせき》が明白にわからないのと、君が前から海龍倶楽部の一員として活躍し相当彼等のためにもなっているところから、たとえ間諜《スパイ》でも今殺すのは惜しいものだと躊躇《ちゅうちょ》しているのだよ。だが今度の暗殺事件が、ちょっとでも下手に行こうものなら、直《す》ぐ様《さま》、彼奴等《きゃつら》は、君の自由を奪ってしまうだろう。ところで、今度の大将は、中々したたかものだ。まず君は引導《いんどう》をわたされていると考えてよい。つまらない自信だが、僕も骨を曝《さら》すつもりでいるよ」
 同志は大変悲観をしていた。が、悒欝《ゆううつ》ではない。僕達の特務《とくむ》も、このたびが仕納《しおさ》めだと思うと、湧きあがってくる感傷《かんしょう》をどうすることも出来ないのであろう。
 だが僕は、呼吸《いき》の通《かよ》っている間は、常に大きな希望を持っているのだ。敵が青龍刀《せいりゅうとう》を僕の頭上にふりあげたとしても、僕はその刃《やいば》が落ちて来るまでの僅かな時間にまでも希望を継《つ》ぐことであろう。運さえ悪くなければ、そのとき誰かが窺《うかが》いよって、その敵の胴腹《どうばら》に銃弾《たま》をうちこんでくれるかも知れないのであるから……。
 況《いわ》んや僕等には敵に対して、武器以上の武器がある。そいつは、科学《サイエンス》である。海龍倶楽部の団員やその背後にある政府|筋《すじ》や某大国の黒幕連《くろまくれん》などは、政治手腕はあり、金や権力もあるであろうが、要するに彼等は科学的には失業者に過ぎない。僕等は生活様式や境遇は失業者に違いないが、一度《ひとたび》、ハンマーを握らせ、配電盤《スイッチ・ボード》の前に立たせ、試験管と薬品とを持たせるならば、彼等の度胆《どぎも》を奪うことなどは何でもない。彼等を征服するには、科学が武器である。科学《サイエンス》! 科学《サイエンス》! 彼等の恐怖の標的である科学を以てその心臓を突いてやれ!
 僕はそこに見当をつけて、同志に指令を与えたのだ。扉《ドア》を押して帰って行く林田橋二の後姿が、人造人間《ロボット》のようにガッシリして見えた。

 僕は午前九時になると、いつものように職工服に身を固め、亜細亜《アジア》製鉄所の門をくぐり、常の如く真紅《まっか》にたぎった熔鉄《ようてつ》を、インゴットの中に流しこむ仕事に従事した。焦熱《しょうねつ》地獄《じごく》のような工場の八時間は、僕のような変質者にとって、むしろ快い楽園《らくえん》であった。焼け鉄の酸《す》っぱい匂いにも、機械油の腐りかかった悪臭にも、僕は甘美《かんび》な興奮を唆《そそ》られるのであった。特務機関をつとめる僕にとっては、このカムフラージュの八時間の生活は、休憩時間として作用してくれる。
 夕方の五時になると、製鉄所の門から押し出されて、隠れ家の方へ歩いて行った。一丁ほども行って、十八番館の煉瓦塀《れんがべい》について曲ろうとしたとき、いきなり僕の左腕《さわん》に、グッと重味がかかった。そしてこの頃ではもう嗅《か》ぎなれた妖気《ようき》麝香《じゃこう》のかおりが胸を縛るかのように流れてきた。次に耳元に生温《なまあたたか》い呼吸《いき》づかいがあった。
「井東さん。こんばんワ」
「こんばんは、劉《りゅう》夫人《ふじん》」
「劉夫人と仰有《おっしゃ》らないで……。いじわるサン。絹子《きぬこ》と、なぜ呼んでくださらないの!」
「劉夫人」僕は、顔をはじめて曲げて彼女の桜桃《さくらんぼ》のように上気した、まんまるな顔を一瞥《いちべつ》した。「僕は、あなたの餌食《えじき》になるには、あまりに骨ばっています。もっと若くて美しい騎士《ナイト》たちが沢山居ますから、その方を探してごらんになってはどうですか」
「貴方は、すこしも妾《わたし》の気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方に汲《く》んでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日|泪《なみだ》で暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに」
「そいつは言わないのがいいでしょう。情痴《じょうち》の世界に、祖国も、名誉もありますまい」
「貴方は、今晩はどうしてそう不機嫌なのです。さあ機嫌を直して、今夜こそは、妾のうちへ来て下さい。主人は今朝、北の方へ立ちました。一週間はかえってきますまい。さあこれから行きましょう。ネ、いいでしょう井東《いとう》さん。絹子の命をかけてお願いしてよ」
 このしつっこい色情《しきじょう》夫人《ふじん》には、もう三十日あまりも纏《まと》いつかれていた。僕のような肺病やみのどこがよくて誘われるのであろうかと不審にたえない。しかし神経的に考えてみれば思い当らぬところがないでもないので、それは多分|色道《しきどう》の飽食者《ほうしょくしゃ》である夫人が僕の変質に興味を持っているのであるか、それとも、ひょっとすると、同志林田の指摘したように僕の身辺《しんぺん》を覘《ねら》う一派の傀儡《かいらい》で、古い手だが、色仕掛けというやつかも知れない。もしそうだとすると、この劉夫人は容易に僕から離れては呉《く》れないだろう。だが夫人にあまり附きまとわれては、こっちの仕事が一向にすすまなくなるわけだ。こいつは高飛車《たかびしゃ》に出て、一遍で夫人を追い払うのがいいと思った。幸《さいわ》い、今夜の海龍倶楽部の会議迄には一時間ほどの余裕があった。
「夫人、では一時間だけお伴をしましょう」
「えッ、行って下さる。まア嬉しいわ」夫人は少女のように雀躍《こおど》りしてよろこんだ。「そこに自動車が待たせてありますの、さあ、早く行きましょう」
 夫人が左手をあげて相図《あいず》をすると、路傍に眠っていた真黒なパッカードが、ゆらゆらとこちらへ近付いて来た。僕たちの乗った自動車は、真暗な商館街にヘッド・ライトを撒きちらしつつ走って行った。二十五番街へさしかかったとき、警告もなく、もう一台の自動車が、後から追いついて来て、いきなり窓と窓とを向いあわせて並列《へいれつ》疾走《しっそう》をはじめた。僕は腰のあたりに爆弾をうちつけられたような無気味《ぶきみ》な寒気に襲われた。もう三十秒これがつづいたならば僕は運転手を射殺しても、この車から外へ飛び出そうと決心した。
「劉夫人!」
 僕は夫人の両手を執《と》って、ひきよせた。恋の抱擁《ほうよう》と見せかけて、夫人をこの危急の際の仮の防禦物《ぼうぎょぶつ》にしなければならなかった。十秒十五秒――。向い合った自動車の窓がスルリと開く。
「呀《あ》ッ」
 叫んだのは劉夫人である。夫人は僕からとびのいて背後《うしろ》に隠れようとした。――その窓から現われ出た奇怪な顔。眼も唇も、額も頬もすべて真黒な顔。黒人か、さにあらず、構成派の彫像《ちょうぞう》のような顔の持主は、人間ではなくて、霊魂《れいこん》のない怪物のような感じがした。そのとき夫人の右手が、のびると見る間に、硝子《ガラス》窓越しに、短銃《ピストル》が怪物に向ってうち放された。怪物は真正面から射撃されて、その顔面《がんめん》を粉砕《ふんさい》されたと思いきや、平気な顔をつき出して、
「三十番街を左に曲れ」
 と流暢《りゅうちょう》な中国語を発し、驚く僕たちを尻眼にかけて、背後《うしろ》の方へ下って行った。
 夫人は、短銃を壊《こわ》れた窓に、なおも覘《ねら》いをつけつづけていた。
「なんでしょう、あの怪物は?」夫人が蒼白《まっさお》な顔をあげて、キッと僕の方を睨《にら》んだ。
「多分、人造人間《ロボット》かも知れませんね」
「人造人間《ロボット》! 人造人間って、ほんとにあるのですか」
「ありますとも。このごろ噂が出ないのは各国で秘密に建造を研究しているからです」
「いまのは、どこの人造人間でしょう」
「さあ、どこでしょうか、もしかすると……」
「もしかすると……」
「運転手、三十番街を左に曲れ。真直《まっすぐ》走ると殺されちまうぞ」僕は圧《お》しつけるように命令した。車はもう三十番街に来ていたので、四《よ》つ角《かど》を急角度に旋回した。その途端《とたん》に、僕たちの車の後に迫っていた高速度のイスパノ・シーサなどの車が数台、三十一番街に滑《すべ》りこんだ。俄然《がぜん》一大爆音が彼等の飛びこんだ方面に起った。僕たちの車の硝子《ガラス》が、護謨《ゴム》毬《まり》をたたきつけたかのようにジジーンと音を立てた。
 何事か起ったらしい。この儘《まま》、通りすぎたものか、引きかえしたものか。先刻《さっき》、窓からのぞきこんだ人造人間《ロボット》らしきものは、同志林田が活動を開始したのを語っている。三十一番街の爆発事件も、彼の手で決行されたものに違いない。だがその地点に、そんなに必要な事件を指令した覚えはないので、鳥渡《ちょっと》、事件を解釈するのに見当がつかなかった。これは引返して、様子を見たいものだ、と思ったが、劉夫人は、僕の胸にピッタリ顔をおしつけて離れない。彼女は、なんでも自分の家に連れて行くことばかりを考えているのに違いない。僕は、象牙《ぞうげ》のように真白な夫人の頸筋《くびすじ》に、可憐《かれん》な生毛《うぶげ》の震《ふる》えているのを、何とはなしに見守りながら、この厄介者《やっかいもの》から、どうして巧くのがれたものかと思案《しあん》した。
「止れ《ストップ》! 止れ《ストップ》!」
 自動車の前に立ちふさがった数名の兇漢《きょうかん》がある。
「また、出たかな」僕はつぶやいた。夫人はすばやく身を起した。夫人は短銃《ピストル》を握り直したが、僕はなにも持っていなかった。武器を持つのは、いよいよ最後のときに限る。軽率《けいそつ》に武器をとり出すことは、できるだけ避けたい。ことに先程から、劉夫人の敏捷《びんしょう》なる行動に、ひそかに不審をいだいていた僕は、ことさら自分の武器を秘密の隠し場所からとり出すところを夫人に見られたくなかった。自動車の速力がすこし落ちると、兇漢の一人がとびのって、運転台の窓をひらいて、こっちへ顔を向けた。それは、案に相違して、林田でも、又他の同志でもなく、全く知らない中国人の顔だった。
「夫人にお願いがあります。重傷者ができましたから、この車を鳥渡《ちょっと》拝借《はいしゃく》したい」と中国人は丁寧に、だが圧《お》しつけるような口の利き方をした。
「失礼な! お断りします」夫人は負けてはいなかった。
「どうかお許し下さい、劉夫人、病人は唯今手当をしませんと、手遅れになりますから」
 劉夫人と名をさされて、夫人の態度がちょっとかわった。
「お前はだれだい。病人は何処《どこ》の人だい」夫人が、俄《にわ》かに伝法《でんぽう》な言葉を吐いた。
「やんごとないお方でございます。私は現場から、電話をうけとったものです。おお、御病人の担架《たんか》が見えました」
 なるほど、いつの間にか、十名ばかりの中国人や西洋人が一つの担架を守って、車外にかたまっていた。だが彼等の誰もが、自動車の存在などに気がつかないかのように、顔をそむけていた。僕は、夫人が、その負傷者に充分心を引かれているのを見抜いたので、別れるのは今だと思った。しずかに挨拶《あいさつ》すると、夫人は気の毒そうな顔をして、
「明日は是非おいで下さい」
「もし命がございましたら」そう言って僕は大胆に夫人の頸《くび》を抱えてその唇を求めた。そのとき僕の右手は、夫人の左の手首から三センチメートルばかり上を握りしめた。氷のようにつめたい痩せた手首だった。しかし象牙のようになめらかな手ざわりだった。その手ざわりをなつかしんでいると見せて、その部分に施《ほどこ》されている隠し文身《いれずみ》を、指先の触覚だけで読みとることを忘れなかった。いや、そればかりではない。あと十二分すれば、極めて正確に夫人の身体に、ちょいとした変化が起るような薬品をその皮膚にすりこむことにも美事《みごと》成功したのであった。
 僕が下りると、顔中に繃帯《ほうたい》をした男が、自動車の中に担《かつ》ぎこまれた。四十をいくつか過ぎたと思われる長身の西洋人だった。
「今は何時になるか?」
 その声音《こわね》は、重症の病人とは思われないほど元気に響いた。
「五時三十五分です、閣下《かっか》」
 さっきの中国人が粛然《しゅくぜん》として答えた。
「時間を間違えるな。すべていつもの通りにやってくれるんだぞ」
「畏《かしこま》りました」
 閣下と呼ばれたその重症者の声音《こわね》は、たしかに聞き覚えのあるものであった。が、それが誰だか、直ぐには考え出せそうもない。自動車は夫人と、その閣下と呼ばれる男と、家令のような中国人とをのせて、静かに動き出した。僕は三十一番街の方に駈け出した。同志に会って俄《にわ》かに計画の大変更を決行しようというのである。それで元来た道の方へと引きかえした。一丁ほど走ると、カーンと靴先に音があって何か金属製の扁《ひら》ったいものを蹴とばした。探してみると、それは銀製のシガレット・ケースにすぎなかった。そのようなものを検《しら》べて居る余裕《よゆう》はないから、捨ててしまおうとは思ったが、事件のあった附近で発見したものだから、何か手懸りになるようなものが見当るかもしれないと思ったので、ポケットからシガレット・ライターを出して、その光の下に改めてみた。
「L・M!」
 果然《かぜん》、頭文字《かしらもじ》らしいL・Mの二字が、ケースの一隅《いちぐう》に刻《きざ》まれているのを発見した。L・Mとは誰であろう。尚《なお》もケースをひっくりかえしてみるうちに、遂に某大国の製品を示す浮《う》き彫《ぼり》が眼についた。
「×国大使ルディ・シューラー氏」
 シューラー大使ならば二三度会ったことがある。あの温厚な元気な大使に会って好きにならぬものはあるまい。殊《こと》に、あの朗々《ろうろう》たる美音《びおん》で、柄《がら》にもなくシューベルトの子守歌を一とくさり歌ってきかせたときなどは、満場《まんじょう》大喝采《だいかっさい》であった。だが、その温厚な大使も、僕にとっては、敵国人に違いはなかった。その大使と、劉夫人とは、今日の有様では大変親密な間柄らしいが、一体どうしたというのであろう。大使はあのまま劉夫人の邸宅《ていたく》へ向ったのであろうか。それとも、大使館へ逃げかえったのであろうか。僕は、まっしぐらに三十一番街へ駈け出した。
「おお、井東君。いよいよ×国と中国とが露骨な同盟を結ぶことになるらしいぞ。その盟約の調印を長びかせろとの指令が来た。いま鳥渡《ちょっと》×国大使の車を三十一番街に追いこんだのさ。同志の仕掛けた爆弾を喰ってあのさわぎだ」
「人造人間《ロボット》は、よく働くかい」
「思ったより工合がいいなア、あの爆発さわぎの中で誰も怪我《けが》をせんかったからなア。充分人造人間を活躍させてみせて奴等の恐怖心を養って置いた。劉夫人も驚いてたろう」
「劉夫人と言えば、オイ林田、計画は全部、建て直しだよ。チャンスは、今だ。正確に言うと、このところ十五分間だ。この間に、うまく頑張《がんば》って呉れるなら、あとは僕たちの勝利だ。下手に行けば、明朝《みょうちょう》といわず、今夜のうちに僕たちの呼吸《いき》の根は止ってしまうことだろう。おい林田、もっと近くによれ!」
 僕は劉夫人や×国大使に関する指令を発して、林田の援助を乞《こ》うた。
「よおし、そうこなくちゃならないんだった。恐ろしいことだが、僕たちが肉弾を以ってぶつかる目標が定《きま》っただけ、心残りがしなくていい。では同志、お互の好運を祈ろうよ」
 僕たちは握手をしてわかれた。氷のように冷い同志林田の手だった。

 海龍《かいりゅう》倶楽部《クラブ》へ入りこむには、会員各自に特有な抜け道がこしらえてあった。会員は真黒な衣裳で、頭巾《ずきん》も真黒、手にも真黒な手袋をつけねばならなかった。会場へ入るには手頸《てくび》のところに入墨《いれずみ》してある会員番号を、黙って入口の小窓の内に示せばよかった。だから僕にも「紅《べに》四」と朱色《しゅいろ》の記号が彫《ほ》ってあり、それは死ぬまで決して消えはしないのである。
 僕は時間をはかり、すこし早や目の時刻に倶楽部へ着いた。会議室のホールには、ただ一人の先客があるばかりであった。その先客は、だらしなく卓子《テーブル》に凭《もた》れたまま眠りこけていた。僕は、そのうしろに廻って、静かに抱き起こすと、別室に退《しりぞ》いた。
 会議がはじまるときには、十三人の会員が全部揃って、粛々《しゅくしゅく》と円卓子《まるテーブル》の囲《まわ》りをとりかこんだ。首領が立って説明した会議事項は、亜細亜《アジア》製鉄所に、空前の盟休《めいきゅう》が起ろうとしていること、なおその盟休は政治的意味が多分に加わっていて、所長の保管する某大国との秘密契約書などを、今夜の深更《しんこう》十二時を期して他へ移す必要のあること、それについて全会員が任務について貰うこと、などであった。団員は、それに対して、唯《ただ》、諾《イエス》か否《ノー》かを表示すればよい。首領以外の者は、絶対に口を利くことを許されない規定であったが、これは恐らく各団員の正体が決して知られないこと、従って団員は外に在《あ》って生活していても、けっして他から海龍倶楽部のメンバーであることを知られずにすむようにと、実に徹底した規定があるのであった。団員は会議事項の全部を承認した。首領は大変よろこんだが、引続いてその配置や実行方法について詳細なる説明を語りつづけるのであった。
 そのとき、突然、首領の前に置かれた電話機が、けたたましく鳴りはじめた。首領は手をのばして受話機をとりあげた。電話の内容は、首領を驚かせるに充分だったと見えて、彼は右手で机をおさえ、辛うじて崩《くず》れ落《お》ちようとする全身をささえている様子だった。電話が終ると、首領は俄《にわ》かに厳粛《げんしゅく》な態度にかえって、団員一同を見渡すと、やがて静かに口を開いた。
「皆さん、今夜の決議事項は駄目になりました」首領の英語は常に似ず朗《ほがら》かさを失っていた。「亜細亜《アジア》製鉄所には既に暴動が起りました。製鉄所の建物は今猛火につつまれています。キューポラは爆発して熔鉄《ようてつ》が五百|米《メートル》四方にとび散ったということです。この暴動の群衆の中に、奇怪なる人造人間《ロボット》が多数|交《まじ》っていて、いずれも挺身《ていしん》、破壊《はかい》に従事したということです。次に命令です。失礼ながら皆さん、両手をあげていただきたい。おあげにならぬと、この私が銃丸《じゅうがん》をさしあげますぞ」一同は不意を喰って驚きはしたが、双手《そうしゅ》を直《す》ぐに挙げることには躊躇《ちゅうちょ》しなかった。それは首領の射撃の腕前を、この部屋でしばしば目撃したことがあるからである。
「さて諸君、もう一つのニュースをおしらせする。それは副首領の緑十八が、行方不明になったことである。緑十八は、先程から見まわすところ、この席上に出ていないようである。しかるに、ここに不思議なことがある。この会議にこうして出ている人数は、いつもの通りの十三人である。従って、ここには一人の珍客《ちんきゃく》がお出席になっていることと拝察する。皆さん、覆面《ふくめん》をとっていただきたい。その代り現倶楽部員は即刻、解任されたものと御承知願いたい」
 僕は躊躇《ちゅうちょ》なく覆面をかなぐり捨てた。それと同時にあちらこちらでも、覆面が脱ぎ取られ、その度に、意外な顔があらわれるのであった。だが唯一人、覆面をとらぬ団員があった。
「貴方《あなた》はどうしておとりにならない」
 最後の一人は、両手を頭上にうちふって哀願しているようだったが、隣の男が素早くすすみよると、するりと覆面の布《ぬの》をひきはいだ。
「呀《あ》ッ、人造人間《ロボット》!」
 一同は同時に声を立てた。
 ピューンと消音《しょうおん》拳銃《ピストル》が鳴りひびくと、覘《ねら》いあやまたず、銃丸は眼窩《がんか》にとびこんだ。全身真黒な人造人間《ロボット》がドタリと横に仆《たお》れた。「人造人間が死んだ」
 誰かがそう叫んだ。ほんとに危いところだった。もうすこし気付きようが遅かったら、人造人間はこの部屋に爆弾の華《はな》を飾って、自分一人がのがれて行くかも知れなかった、と誰もが思ったことである。
「おお、血が垂れる。人造人間の血だ」と一人が頓狂《とんきょう》な叫び声をあげた。
「人造人間の血はおかしい」
「早く内部《なか》をしらべてみろ」
 一同は人造人間をどう解剖したらばよいかとまどったが、それは意外にも手軽るに分解し、果然《かぜん》、鉄の外皮《がいひ》がパクンと二つに開いた。その中には、歯車や電池がぎっしり詰《つ》まっているかと思いの外《ほか》、身に軽羅《けいら》をつけた若い女の死体があった。とり出してみると、それは劉《りゅう》夫人に違いなかった。
「おお緑十八、われ等が副首領」
 首領が自《みずか》らの覆面をとって、夫人の死体に縋《すが》りついた。それは兼ねて想像していたとおり×国大使ルディ・シューラー氏であった。劉夫人の身体は、まだ温かかった。首領が改めて僕の姿を探し求めたときには、僕は同志林田と共に、上海《シャンハイ》の上空を飛ぶ飛行艇の内にあった。



底本:「海野十三全集第1巻・遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月1日公開
青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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