青空文庫アーカイブ

脳の中の麗人
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ねえ、博士《せんせい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)患者|宮川宇多郎《みやがわうたろう》
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   奇異《きい》の患者


「ねえ、博士《せんせい》。宮川さんは、いよいよ明日、退院させるのでございますか」
「そうだ、明日退院だ。それがどうかしたというのかね、婦長《ふちょう》」
「あんな状態で、退院させてもいいものでございましょうかしら」
「どうも仕方がないさ。いつまで病院にいても、おなじことだよ。とにかく傷も癒《なお》ったし、元気もついたし、それにあのとおり退院したがって暴《あば》れたりするくらいだから、退院させてやった方がいいと思う」
「そうでしょうか。わたくしは気がかりでなりませんのよ」
「婦長。君は儂《わし》のやった大脳移植手術を信用しないというのかね」
「いえ、そんなことはございませんけれど……」
「ございませんけれど? ございませんが、どうしたというのかね」
「いいえ、どうもいたしませんが、ただなんとなく、宮川さんを病院の外に出すことが心配なんですの。なにかこう、予想もしなかったような恐《おそ》ろしい事が起りそうで」
「じゃやっぱり君は、儂の手術を信用しとらんのじゃないか。まあそれはそれとしておいて、とにかく儂は宮川氏を退院させたからといって、後は知らないというのじゃない。一週間に一度は、宮川氏を診察することになっているのだ」
「まあ、そうでございましたか。博士が今後も診察をおつづけになるのなら、わたくしの心配もたいへん減《へ》ります。ですけれど、いまお話の今後の診察の件については、わたくし、まだちっとも伺《うかが》っておりませんでした」
「それはそのはずだ。診察をするといっても、患者を診察室によびいれて診察するのではない。宮川氏は、診察されるのは大きらいなんだ。逆《さか》らえば、せっかく手術した大脳に、よくない影響を与《あた》えるだろう。逆らうことが、あの手術の予後《よご》を一等わるくするのだ。だから儂は、すくなくとも毎週一度は、宮川氏の様子を遠方《えんぽう》から、それとなく観察するつもりだ。それが儂のいまいった診察なんだ。このことは当人宮川氏にも、また病院内の誰彼《たれかれ》にも話してない秘密なんだから、そのつもりでいるように」
 黒木博士と看護婦長との会話にあらわれた問題の患者|宮川宇多郎《みやがわうたろう》氏は、わが身の上にこんな気がかりな話があるとはしるよしもなく、病室内を動物園の狼《おおかみ》のように歩きまわっている。
 彼は今朝、病院内の理髪屋《りはつや》で、のびきった髪を短く刈り、蓬々《ぼうぼう》の髭《ひげ》をきれいに剃りおとし、すっかり若がえった。だが、鏡に顔をうつしていると、久しく陽に当らなかったせいか、妙に蒼《あお》ぶくれているのが気になった。それにひきかえ、後頭部の手術の痕《あと》は、ほとんど見えない。これは手術に電気メスを使うようになって、厚い皮膚でも、逞《たくま》しい肉塊《にくかい》でも、それからまた硬《かた》い骨でも、まるでナイフで紙を裂《さ》くように簡単に切開できるせいだった。よく気をつけてみると、毛髪《もうはつ》の下の皮膚が、うすく襞状《ひだじょう》になっているのが見えないこともないが、それが見えたとて、誰もそれを傷痕《きずあと》と思う者がないであろう。じつにおどろくべき手術の進歩だ。
 そのように手術の痕は至極単純であるのにもかかわらず、彼はこの病院に一年ちかく入っていたのだ。
「おお、明日からは、自由の身になれる。うれしいなあ」
 と、彼は子供のようにぴょんぴょん室内をとびあるいていた。そうかと思うと、急にむずかしい顔をして、ぶつぶつつぶやきながら動物園の狼になりきってしまう。
「想い出しても、おそろしい一年だった。いや、一年の月日がたったことは本当だが、自分は一年というものをすっかり覚えていないのだ。正気《しょうき》づいたときは、すでに半年あまりの月日がたっていたのだからなあ。その間《あいだ》自分は、全く無我夢中で、生死の間を彷徨《ほうこう》していたのだと後になって聞かされた。それからこっちも、ときどき変な気持に襲われた。なんだか、五体がばらばらに裂けてしまうような実に不快な気持に陥《おちい》ったのだ。なにしろ、物を考える機関である大脳の手術をやったのだというのだから、恢復までに、どうしてもそうした不安定な過渡期《かとき》をとるのだと黒木博士が説明してくれたが、そんなものかもしれない」
 今も昂奮《こうふん》と憂鬱《ゆううつ》とが、かわるがわる彼を襲ってくるのだった。彼は、手術のことについて、博士に聞きただしたいたくさんの事柄《ことがら》をもっていた。だが博士は、元来無口な人で、患者が自分の病気について深入りした質問を発するのが大嫌いのように見えた。
「なんでもいい。とにかくこのとおり元気になって、退院できるのだから」と、彼は諦《あきら》め顔《がお》にいって、「さあ、いよいよ明日から、自分の好きなところへ行って、好きなことができるんだぞ。うれしいなあ。さて、明日病院の門を出たら、第一番になにをしようかなあ」


   謎の手帖


 彼は、黒木博士の世話で、目黒区にある黄風荘《こうふうそう》というアパートに入った。
 彼は、親には早く死にわかれ、兄弟もなければ妻子《さいし》もなく、天涯孤独《てんがいこどく》の身の上だった。財産だけは、親譲《おやゆず》りで相当のものが残されていた。毎月の末になると、某信託会社《ぼうしんたくかいしゃ》から使者が来て、規定どおり五百円の金をおいてゆくのだった。
 入院費や手術費とは別に、多額の金が、その信託会社から支払われたそうである。だから黒木博士も病院も、彼の面倒を十二分にみることができたのである。
 黄風荘の彼の借りている部屋は、三間もある広々とした上等のところだった。
 見覚えのある彼の持ち物や調度が、室内にきちんと並んでいた。
「ふーん、悪くない気持だて」
 彼は悦《えつ》に入《い》って、頤《あご》のさきを指でひねりまわしながら、室内を見まわした。セザンヌが描いた南フランス風景の額がかかっている。南洋でとれためずらしい貝殻の置き物がある。本箱には、ぎっしりと小説本が並んでおり、机のうえには杉材でこしらえた大きな硯箱《すずりばこ》がある。すべて見覚えのある品物だった。
 彼は、懐《なつか》しげに、一つ一つの品物をとりあげては撫でてまわった。
 そのうちに、彼の手は、机のひきだしにのびた。ひきだしを明けて、中の品物をかきまわしているうちに、彼は青い革で表を貼ったりっぱな手帖に注意をひかれた。
「おや、こんな手帖が入っている。見覚えのない品物だが……」
 なぜ自分の所有ではない青い手帖が、ひきだしの中に入っているのか? 誰かが引越のとき間違えて、このひきだしの中へ入れたのであろうと思いながら、彼はその手帖をひらいてみた。とたんに、彼は思わず大きなおどろきの声をあげた。
 なぜといって、その手帖にこまかく書きこんである文字は、たしかに彼の筆蹟《ひっせき》だったのであるから。
「ふーむ、これはたしかに自分の筆蹟にちがいない。だが、この手帖は、さらに見覚えのない品物だ。一体どうしたというんだろう」
 彼は、すっかり気持がわるくなった。
 たしかに自分の筆蹟にちがいないのに、その手帖には見覚えがない。こんなふしぎなことがあろうか。
 その疑問を解くために、彼はつとめて気を鎮《しず》めながら、手帖に書かれた文句をよみはじめた。
 こんなことが書いてあった。
「五月××日。天気がいいので、堀切の菖蒲園《しょうぶえん》へいってみる。かえりに、浅草《あさくさ》へ出て、映画見物。家へかえったのは午後十一時半だった。部屋の鍵をあけたとたんに、背後《うしろ》から声をかけられた。ぷーんと髪の香《におい》がした。Yだ。Yが立っている。しかたがないので、部屋へ入れる。かえれといったがかえらない。無理やりに泊《とま》ってゆく。困ったやつだ」
 彼は、これを読んで、溜息《ためいき》をついた。そして首をふった。
「へえ、どうしたというんだろう。一向に覚えがないが……」
 この日記によると、Yという女が、夜おそくまで、部屋の外に立って、主人公のかえりを待っていたというのだ。女は主人公が部屋の錠《じょう》をあけたときに、声をかけた。そして無理やりに泊っていったという。これでみると、Yという女は、気の毒にも主人公から冷淡《れいたん》にあつかわれている。Yという女の姿が見えるようで、たいへんいじらしくなった。
 それでいて、この日記の主人公なる者が、一体誰なんだか分らないのだった。
 その主人公こそは、彼――宮川宇多郎なのであろうか。
「いや、断じて、自分ではない。自分には、そんな記憶がない」
 記憶がないから、自分ではないと思ったものの、この手帖は自分の机のひきだしの中に入っていたことといい、その日記の筆蹟が、たしかに自分のものであることといい、じつに気持のわるいことに覚えた。一体、どうしたというのだろう。
 彼は、さらにその手帖の頁をくって、先を読んだ。
「五月××日。Y、夕方暗くなって、かえってゆく。もうこれでお別れだという。もう諦《あきら》めたともいう。どうかあやしいものだ。いつもその手をつかう。かえったあとで、座蒲団《ざぶとん》を片づけると、下から私の写真がでてきた。その写真は、ずたずたにひき裂いてあった。さっき私の写真を一枚くれと熱心に頼んだものだから、つい与えたのだが、Yのやつ、持ってゆかないで、こんなひどいことをしやがった」
 Yという女が、奮然《ふんぜん》と主人公の写真をやぶくところが、目の前に見えるようだ。だがこのくだりも、彼には全然記憶のないことであった。彼は、なんだか気持がへんになってきた。じっと部屋にいるのが、いやになった。持ち物をとりあげて懐《なつか》しがる気も、もうどこかへいってしまった。彼は気をかえるために、着ながしのまま、ぶらりと外へ出た。


   怪《あや》しい尾行者《びこうしゃ》


 雨はあがっていたが、梅雨空《つゆぞら》の雲は重い。彼は、ふところ手をしたまま、ぶらぶらと鋪道《ほどう》のうえを歩いてゆく。
 着ているのはセルの単衣《ひとえ》で、足につっかけているのは靴だった。下駄を買っておくのを黒木博士は忘れたものらしい。宮川には、和服に靴というとりあわせが、それほど不愉快ではなかった。
 上《あが》り坂《ざか》の街を、ぶらぶらのぼってゆくと、やがて大きな社《やしろ》の前に出た。鳥居の間から、ひろい境内《けいだい》が見える。太い銀杏樹《いちょうのき》が、百日鬘《ひゃくにちかずら》のように繁っている。彼は石段に足をかけようとした。そのときふと背後に人の気配《けはい》を感じて、あとをふりむいた。
 そこには、背広服をきた一人の青年が立っていた。ひどくくたびれたような顔をしている。色艶《いろつや》のわるい、むくんだような顔、下瞼《したまぶた》はだらりとたるみ、不快な凹《へこ》みができている。そして帽子の下からのぞいている大きな眼だ。その大きな眼が、宮川をじっと見つめていたのである。
「うむ」
 宮川は、なんとなく襲《おそ》われるような気持で、おもわず呻《うな》った。
 気のせいか、その怪《あや》しげなる男も、なんだかぶるぶる身体をふるわせているようであった。
 宮川は、石段をふんで、駈けあがった。そして境内へどんどん入っていった。社殿《しゃでん》の後に駈けこんで、そこでおずおず、うしろをふりかえった。怪しい男は、見えなかった。まず助かったと、彼はどきどきする心臓をおさえながら、社殿のうしろにベンチをみつけ、それに腰を下ろした。
「彼奴は何者だろうか?」
 彼はまだはあはあ息をきりながら、頭の中に今見た怪しい男の顔付を気味わるく思いうかべた。
 彼の腰をおろしているすぐ前に、誰が捨てたか、地上に捨てられた煙草の吸殻《すいがら》があった。まだ火がついたままで、紫色の煙が地面をなめるように匐《は》っていた。彼はそれを見ると、急に煙草が吸いたくなった。彼は、汚いという気持もなく、吸殻《すいがら》の方へ手をのばして、泥《どろ》をはらうと口にくわえた。
 すばらしい煙草の味だった。だが、間もなく火は彼の指さきに迫って、もうすこしで火傷《やけど》するところだった。彼はびっくりして、吸殻を地上に放りだした。
「あははは、宮川さん。あなたは煙草を吸うようになりましたね、おそろしいもんだ」とつぜん背後《うしろ》から声をかけられ、彼は腰をぬかさんばかりにおどろいた。ぱっとベンチからとびあがってうしろをふりむくと、
「あっ、君は――」といった。
 さっきの男だ。怪しいぎろぎろ眼玉の顔色のわるい、青年であった。
「君、君は一体だれですか」
 宮川は、いつの間にか、またベンチに腰をおろしていた。蛇《へび》にみこまれた蛙《かえる》といった態《てい》であった。
「僕ですか。僕をご存知ないのですか」
 青年は、すこしずつ彼の方によってきた。
「知らないよ。人まちがいだ。早く向うへいってくれたまえ」
「そんなことをいうものじゃありませんよ。僕は矢部というものです。あなたはご存知ないかもしれないが、僕の方はよく知っています」
 怪青年矢部は、つらにくいほど、ゆっくりした語調でいって、無遠慮《ぶえんりょ》に宮川の横にかけた。
「とにかく、僕は君に見覚えがない。たのむから、早く向うへいってくれたまえ」
「よろしい、向うへいきましょうが、ここまでついて来たには、こっちにすこし用事があるんです。金を五十円ばかり貸してください」
「なんだ、金のことか。五十円ぐらい、ないでもないが、見ず知らずの君に、なぜ貸さねばならないか、その訳がわからない」
 宮川も、すこし落付《おちつき》をとりもどして、逆襲したのだった。
「ははあ、その訳ですか。あなたは本当にご存知《ぞんじ》ないのですか。これはおどろきましたね」といって、矢部は帽子を脱いだ。
「なんだい、そ、それは……」
 宮川はさっと顔色をかえた。矢部が帽子をぬぐと、なんとその下からは、ぐるぐる巻に繃帯《ほうたい》した頭が現れたのだった。
「これでお分りになったでしょう。あなたが、頭に大きな傷をうけて、もう死ぬしかないという切迫《せっぱ》つまったときに、ここから僕の脳髄の一部を裂いて、あなたの脳につぎあわせたんです。見事にその大手術をやってのけた黒木博士も、あなたの再生の恩人なら、脳髄を提供した僕もまた、あなたのためには大恩人なんですよ。それを忘れて、僕を袖にするなんて、そんな恩しらずなことがありますか」
 怪青年矢部は、とんでもないことをいいだした。


   脳を売った男


「うそだ、うそだ。そんなことはうそだ」と、宮川はつよく否定した。
「なに、僕がうそをいっているんですって」と怪青年矢部は唇を曲げて笑い、「あははは、そう思いますかね。では、ちょっと聞きますが、あなたはさっき煙草を吸っていましたね。うまかったですか」
 そういいながら、矢部はポケットから巻煙草をとりだして、火をつけた。
 宮川は、煙草の匂《にお》いをかぐと、咽喉から手が出そうになった。
「一本、あなたにあげましょうかね」
「じゃ、もらおう」
 宮川は、煙草をすいたい慾望を制しきれなくて、手を出した。そして火をつけるのも待ちどおしい様子で、すぱすぱと煙を肺の奥に吸いこんだ。
「どうです。煙草はうまいでしょうが。ところで僕は質問しますけれど、あなたは手術前には煙草が大きらいだったじゃありませんか。それを思い出してごらんなさい」
「あっ――」
 宮川は、びっくりして、指さきから煙草をぽろりと地上にとりおとした。
 そうだ、煙草ぎらいで通った自分だった。しかるに今は、煙草の匂いをかぐと、吸わずには我慢しきれないのだ。一体これはどうしたのだろうか。
「どうです、わかったでしょう。煙草好きの僕の脳を、あなたの脳につないだから、そうなったんです。いや、きょうあなたに会いたかったのは、金も使いはたして欲しくはあったが、僕の脳を植えつけた後のあなたが、どんな風になっているかを見たい気持もあったんです。全《まった》くおそろしいもんだ。あなたは煙草ずきになった。おかげで僕は煙草がたいへんまずくなってさびしい。この繃帯の下には、あなたと同じような手術の痕《あと》があるんですぜ。その下をあけてみると、僕の脳は、或る部分欠けているのです。僕は金のために、それをあなたに売ったけれど、その金を使いはたしてしまった今日《こんにち》、惜しいことをしたと後悔しています。近来、どうも身体の具合がよくなくていけないのです。美枝子にも会いたいと思うが、こんな身体だから、遠慮しているんだ」
 矢部青年は、ひとりでべらべらととりとめもないことを喋《しゃべ》った。
 宮川には、矢部のいうことが腑《ふ》におちないながらも気の毒になって、彼に金をやることにした。
 矢部は、紙幣《さつ》をありがたそうに頂《いただ》いて、ポケットにおさめたが、そのあとで訴えるような目つきでいったことである。
「全くの話が、金に困って居らなければ――いや、美枝子という女を知らなかったら、僕の脳の一部を売ったりはしなかったんですよ。あんまりいい値段だったもんで、つい黒木博士のさそいにのっちまったんです」
 宮川は、今やしみじみと、一年間の入院のあとをふりかえらずにはいられなかった。自分がこうして再生して、全快するまでには、こうした大きな犠牲もあったのであるか。前代未聞《ぜんだいみもん》の脳の売買だ。黒木博士は、やりもやった。またこの矢部青年も、よく売ったものである。
「一体、君はどの位の値段で、脳の一部とかを博士に売ったのですか」
「それは――」といいかけて、矢部は俄《にわか》に口をつぐんだ。そして悲しげな顔になって、「それは云うのをよしましょう。とにかく莫大《ばくだい》な金でした。大きな土地を買って、りっぱな邸宅をたてることができるくらいの金でした」
 宮川は、脳の一部の値段が、そんなに高いものかと、聞いておどろいた。矢部の口ぶりからすれば、すくなくとも五六万円らしい。それだのに、彼は一年たつかたたないうちにその莫大な金を使いはたし、いまたった五十円の金に困って無心をしているのだ。なんとかいう女のためとはいえ、あまりにもはげしい金の使い方だった。宮川は、その点に不審をおこした。矢部のいうことは嘘言《うそ》ではないか。
「いいえ、うそではありません。たしかにそれくらいの金は握ったんです。それをどうして使ってしまったというのですか。それはですね」と矢部は宮川の方へ顔を近づけていった。「相場《そうば》をやったのですよ。相場ですっかりすってしまったのです」
「それは乱暴だな。自分の脳を売った金で、相場をやるなんて。そのなんとかいう君の愛人にだって、気の毒な話じゃありませんか」
 宮川も、つい抗議めいたことをいいたくなっていった。
 すると矢部青年は、首を左右にふって、灼《や》けつくような視線を宮川の面《おもて》に送って云うには、
「乱暴かもしれません。たしかに僕は相場で失敗したのですからね。ですけれど宮川さん。もしも相場で僕が何倍かの大金を儲《もう》けたら、僕はなにをするつもりだったか、あなたにお分りですか」
 宮川は、矢部の激しい語気《ごき》におされて、うしろへ身をひきながら、
「さあ、僕には、君がそのような大金をなんに使うつもりだったか分らないねえ」
 とこたえた。すると矢部は、ぎりぎりと歯ぎしりをして叫んだのであった。
「ぼ、僕は、あなたに売った脳を買い戻したかったんだ。売った値段の二倍でも三倍でもなげ出すつもりだったんだ。だが、とうとう僕は失敗した。でも、いつか僕は、あなたの頭蓋骨《ずがいこつ》の中から、きっと僕の脳を買い戻してみせる!」
 ベンチのうえに真青《まっさお》になった宮川を尻眼にかけて、怪青年矢部はすたすたと足早に、向うに立ち去った。


   禁断《きんだん》の女


 ひとりになった宮川は、あらためて戦慄《せんりつ》の復習をやった。
 なんというおそろしい男だろう。
 一旦自分の脳を売っておきながら、その金で相場をやって、儲かればその金で、自分の脳を買い戻そうというのだった。
 買い戻すといっても、彼の脳は、いまはちゃんと他人の脳室に入っているのである。いくら金を積んでも、いやだといったら、彼矢部は一体どうするつもりだろうか。
 暴力か? あの権幕《けんまく》では、腕ずくで、持ってゆくかもしれない。暴力ならば、たとえ金がなくても実行ができるのだ。
(これはたいへんなことになった!)
 と、宮川はぶるぶるとふるえた。
 彼は、もう立ってもいてもいられなかった。そこで街をとおりかかるタクシーを呼びとめると、助けを乞うために、黒木博士の病院にとかけつけた。
「なあんだ、そのことですか。別に心配することはないですよ」
 博士は、すこぶる落付いたものであった。
「ねえ、宮川さん。こういうことを考えたらいいではありませんか。たとえ矢部という男が百万の金を儂《わし》の前に積んだとしても、儂が手術を断《ことわ》れば、それでどうにも仕方がないではないですか」
「それは本当ですか、博士」と宮川はおもわず博士の手を握りしめたが、「だが、あの男は暴力でもって、私の頭蓋骨をひらいて脳をとりかえすかもしれません」
「いくら暴力をふるおうと、脳の手術の出来るのは、自慢でいうじゃないが、この儂一人なんだから、儂がいやだといえば、矢部がいくら騒いでも何にもならんではないですか」
「そうですね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね」
 宮川は、はじめて気が落付くのを感じた。
 その後、矢部はちょくちょく宮川のところへやって来た。そしてそのたびに、五十円だとか六十円だとかを、せびっていった。金さえもらえば、矢部は案外おだやかな人物であった。宮川は、ようやく本当に矢部に出会《しゅっかい》以来の落付をとりもどすことが出来たのだった。
 宮川が、矢部事件による緊張から解放されると、こんどは生活が急に退屈になってきた。彼は女の友達が欲しくなった。
 彼は思い出して、机のひきだしの奥から、例の青い革表紙《かわびょうし》の手帖をとりだして、にやりにやりと笑いながら、いくども読みかえした。大したことも書いてないながら、その簡単な日記文に現れるYという女のことが、妙に懐《なつか》しがられてくるのだった。
 このYという女は、その後どうしたろう。この手帖の主人公と別れてしまったようだが、その後どうしているのであろうか。とにかく、このYという女は、手帖の主人公をたいへん恋《こ》い慕《した》っているのだ。その主人公の筆蹟が、彼の筆蹟とおなじであるのは、一体どうしたわけであるか。
 この疑問をとくため、彼は或る日博士をたずねて、この問題を出した。
「えっ、そんなものがあったかね」
「ありますとも。ここに持ってきました」
 彼は青い手帖をとりだした。
 博士は、深刻な顔をして、手帖の頁をくっていたが、俄《にわか》に笑いだした。
「ああ、これは儂《わし》のところの助手で谷口という男の手帖ですよ」
「でも、その手帖は、私の机の中にあったんです」
「そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません」
「それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです」
「こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎《あいにく》郷里《きょうり》へかえっているのでね」
「私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです」
「えっ、それは駄目だ」と博士は目をむいていった。
「駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない」
「本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね」
「そうです。それにちがいありません」
 博士はひどくせきこんで、なるべく早く宮川を納得《なっとく》させようとしている。
 このとき宮川はいった。
「博士。私はちかごろになって気がついたんですが、いろいろな記憶を失っているんです。どうも気持がわるくてなりません。博士、どうぞ教えてください。あの黄風荘《こうふうそう》というアパートにいた前、私はどこに住んでいたのでしょうか。どうか、その前住居《ぜんじゅうきょ》を教えてください」
 博士は、首を大きく左右にふって、
「ねえ宮川さん。あんたはつまらんことを気にしていけないですよ。脳の手術はもうすんだが、まだ養生期《ようじょうき》だということを忘れてはいけないです。もうすこし落付くと、きっと記憶は元のように戻ってきます。それまでは、辛かろうが、一つしんぼうするのですな」


   矢部の愛人


 宮川の生活は、それ以来さらに退屈を加えたようであった。
 或る日、例の青年矢部が金をもらいにやってきたとき、彼はいつになく、手をとらんばかりにして矢部を室内に招《しょう》じ入《い》れた。
「よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達《ようたし》をしてもいいと思っていたところだ」
「ほんとですか」
 矢部は、すぐれない顔色に、微笑をうかべていった。
「ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね」
「ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは」
 それを聞くと、宮川はにやりと笑い、
「大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子《みえこ》さんというひとに会うかね」
「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましい窶《やつ》れ方《かた》で会えば、愛想《あいそう》をつかされるだけのことですからねえ」
「それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか」
「そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか」
「いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬に笑《え》くぼのふかいひとじゃないかね」
「ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか」
「いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか」
 と、宮川は嘘言《うそ》をついた。美枝子のことをなぜ宮川が知っているか。それをいえば、矢部はきっとびっくりするに相違ない。
「どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか」
「そ、そんなことを……」
 と、矢部は尻ごみしたが、宮川はおっかけいろいろといい含めて、ついに矢部をひっぱり出すことに成功したのだった。
 矢部の案内で、宮川は丸の内の或るビルの前へいった。
 宮川は、新調の背広に赤いネクタイをむすんで、とびきり豪奢《ごうしゃ》な恰好をしているのに対し、矢部は例によって、くたびれきった服に身体をつつんでいた。
 やがて時刻とみえて、ビルの横合《よこあい》の出口から、若い男や女が、ぞろぞろと出てきた。
 それを見ると、矢部はすっかり怯気《おじけ》づいて、逃げてゆこうとした。宮川は、その手をしっかと握って、自分の傍にひきつけて放さなかった。
 宮川は、ビルの中から出てくるおびただしい女たちの顔を、いちいち首実験していたが、そのうちに、矢部の手をぐっと強く握って、
「おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ」
「そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ」
「そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る」
 そういっているとき、美枝子の視線が二人の男の方に向いた。そしてはっとした様子で、足早《あしばや》にちかよってくる。矢部は、宮川の手を力一杯ふりきって、逃げてしまった。
 後に宮川はひとりで立っていた。彼の眼は、いきいきと輝いていた。まるでゲーテが、久方《ひさかた》ぶりで街で愛人ベアトリッチェに行きあったような恰好であった。
「ああ美枝子さん」
「まあ、どなたですの」といって女は宮川につかまれた手をふりほどきながら、「ああ、あの人をつかまえてください、矢部さんを」と身体をもだえた。
「ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのが恥《はずか》しいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない」
「まあ、あなたは一体どなたですの。矢部さんのお友だち? ――ちょっと、皆がみていますわ。手をはなしてくださらない」
 宮川は、いつの間にか、女を両腕の中に抱いていたのだ。彼女に注意されて、びっくりして腕を解《と》いた。なぜ彼は、そんなに昂奮《こうふん》したのか、彼自身にもふしぎなくらいだった。
「ねえ、美枝子さん。私はぜひあなたに会いたいと思って、矢部君に案内してもらったんですよ。どうです、これからどこかで御飯でもたべながら、ゆっくりお話をしようじゃありませんか」
 宮川の唇から、すらすらとこんな言葉がでてきた。これもふしぎであった。
「まあ、はじめてお目にかかったのに、ずいぶん積極的ね。――でもいいわ、御馳走になりますわ。あなた、ほんとにすばらしい方ね」
 そういって美枝子は、宮川のすんなりとした身体を背広のうえから撫でた。


   待っていた怪女


 その翌日のことだった。
 宮川は、久しぶりで黒木博士を病院に訪ねたのだった。
「おお宮川さん。だんだん元気がつかれて、結構ですな」
 宮川はそれには、挨拶《あいさつ》もせずに、
「博士、今日は折いっておねがいに来ました。あの矢部君の残りの脳を買いとって、私のここに入れてください」
 そういって彼は、自分の頭を指さした。
「それはまたどうしたのですか」
「いや、女の問題です。じつはこういうわけです」
 と、語りだしたところによると、宮川は、手術|恢復後《かいふくご》、頭の中に一人の女性の幻《まぼろし》がありありと見えるようになった。彼はその女性がたいへん慕《した》わしくて、なんとかしてその本人があるなら会いたいと思っていた。ところが、その幻の女こそ、矢部の愛人|山崎美枝子《やまざきみえこ》だということがわかった。
 その美枝子に、宮川はきのうはじめて会った。そして幻の女は、まちがいなくこの女であると確《たし》かめた。美枝子もはじめて会った彼に、たいへん熱情をよせた。
 彼が矢部のことをたずねたところ、彼女はきっぱりと説明した。
(矢部さんはあたしが大好きだというんです。そしていろいろと自分でも無理算段《むりさんだん》をしたようですわ。でもあたし、矢部さんがどうしてもすきになれませんのよ)
(でも、さっき、あなたは矢部君をよびとめたではありませんか)
(そうよ。だって、あの人がいろいろ無理をして買ってくれたものがあるんですもの。あたし、それをかえしたいとおもったのよ)
 そこで宮川の胸もはれて、美枝子の手をとったというのだ。
 そこまではよかったけれど、やがてのこと彼は、美枝子をすっかり憂鬱《ゆううつ》にさせてしまったというのだ。
「それはどうしたわけですか」
 博士は宮川の面《おもて》を熱心にみつめながら尋《たず》ねた。
「それはつまり、私の心が冷たいといって、彼女が口惜《くや》しがりだしたんです」
「あんたはなにか冷淡《れいたん》な仕打《しうち》をしたのですか」
「そこなんですよ博士、はじめは私も熱情を迸《ほとばし》らせたようですが、あるところまでゆくと、急にその熱情が中断してしまったのです。そして俄《にわか》に不安と不快とに襲われたのです。そのとき頭の中に、別の一人の女の顔が現れました。それは日本髪を結った白粉《おしろい》やけのした年増の女なんです。その女が、髷《まげ》の根をがっくりと傾《かたむ》け、いやな目付をして私に迫ってくるのです。払えども払えども、その怪しい年増女が迫ってきます。そういう不快な心のうちを、どうして美枝子に話せましょう。彼女にとって私が冷淡らしく見えたというのは、まだよほど遠慮した言葉づかいでしょう。きっとそのとき私は、塩を嘗《な》めた木乃伊《ミイラ》のように、まずい顔をしていて、しゃちこばっていたに相違ありません」
「それで、なぜあなたは矢部氏の脳をほしがるのですか」
「わかっているじゃありませんか。矢部君の脳室の中には、美枝子を慕《した》う情熱を出す部分がまだ残っているのにちがいありません。それを切り取って、私にうつし植えてください。私の持っている金は、いくらでも矢部君にあげてください」
 博士は、黙って考えこんだ。
「それからもう一つおねがいです。あのいやな日本髪の年増女《としまおんな》の幻が出るところの脳の部分を切り取って捨ててください。そうだ。もし矢部君が欲しいというのなら、その部分を、彼に植えてやってください」
「それはたいへんなことだ」
「博士、ぜひ早いところ、また手術をしてください。一体あの白粉《おしろい》やけのした年増女は、どこのだれなんですか」
 博士は、その質問にはこたえないで、
「うむ、とにかく矢部氏に相談してみよう」
 と、言葉すくなに云った。
 それから一週間ほどして、黒木博士は再び脳手術にとりかかった。手術室には、右に宮川、左に矢部が寝かされていた。
 こんどの手術は、わりあい簡単にいった。半年もすると、矢部の方は、まだいくぶん元気がなかったが、宮川の方はもう退院できるようになった。
「おい婦長。いよいよ宮川氏は明日退院させるが、君になにか意見はないかね」
「まあ、黒木|博士《せんせい》。わたくしになんの意見がございましょう。この前は、宮川さんがたいへんな外傷《がいしょう》を負っていらしったせいで、あのように手術後の恢復も長引き、精神状態も危かしかったのでございましょうね」
「まあ、そんなところだろうよ」
 看護婦長すら満足したほどの治癒《ちゆ》程度で、宮川は退院した。
 病院の門を出て、彼が一つの町角《まちかど》を曲ると、そこには洋装の佳人《かじん》が待っていて、いきなり彼にとびついた。それは外ならぬ山崎美枝子だったのである。
「まあ、宮川さん。ずいぶん待ってたわよ」
「おお美枝子さん。こんどこそ僕は、君を失望させないよ」
 二人は小鳥のようにたのしそうによりそいながら、向うの通りに消えた。
 ところが、それから二三日たって、宮川は真白な救急車にはこばれて、黒木博士の病院へかえって来た。彼の顔には、白い布《ぬの》がかぶせてあった。博士は、その布をのけて宮川の後頭部をしらべたが、そこには描写《びょうしゃ》のできないほどのひどい傷があった。
「警部さん、連れの女はどうしました」
「ああ、黒木博士、連れの女は、逃げてしまいました。行方を厳探中《げんたんちゅう》です」
「犯人の方はどうしましたか」
「ああ、八形八重《やがたやえ》という年増女ですか。これはその場で取押《とりおさ》えて、一時本庁へつれてゆきました」
「精神病院から逃げだしたんだそうですね」
「そうです。ですが、この八形八重という女は、どうも正気《しょうき》らしいですぜ。この前の事件で、刑務所に入るのがいやで、装っていたんじゃないですかなあ。被害者宮川のうしろから忍びよって兇器《きょうき》をふるったことを、こんどははっきりした語調でのべました」
「ふーん、そうですか」
「こんどまた被害者宮川が博士の手で生きかえれば、きっとまた殺さないでおくべきかといっていましたよ。まるで芝居のせりふもどきですよ、ははは」
「いや、この傷では宮川氏はもう二度と生きかえらないでしょう」
 宮川は、彼が捨てた八形八重のため、二度も兇刃《きょうじん》をうけたのだった。博士は宮川のためにそれをいわなかったが、あの青い手帖に書かれてあったYという女はこの八重にちがいなく、もちろんあの手帖は宮川のものにちがいなかった。ただ手帖を記憶していた脳の部分が欠損《けっそん》したので、その記憶を失っただけのことだ。
 この事件以来、博士は脳の移植手術をやることを好まなくなった。



底本:「海野十三全集 第7巻 地球要塞」三一書房
   1990(平2)年4月30日初版発行
初出:「日の出」
   1939(昭和14)年8月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2003年2月26日作成
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