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空中漂流一週間
海野十三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)田毎《たごと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六条|壮介《そうすけ》
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「火の玉」少尉
「うーん、またやって来たか」
と、田毎《たごと》大尉は、啣《くわ》えていた紙巻煙草をぽんと灰皿の中になげこむと、当惑《とうわく》顔で名刺の表をみつめた。前には当番兵が、渋面《じゅうめん》をつくって、起立している。
ここは帝都に近い××防衛飛行隊本部の将校集会所だった。
「ほう、大尉どの。誰がやって来たのでありますか」
一週間ほど前に、この飛行隊へ着任したばかりの戸川中尉が、電話帳を繰る手を休め、上官の方に声をかけた。
「うむ、例の『火の玉』少尉が、またやって来たのだ」
「えっ、『火の玉』少尉?」
といって、戸川中尉は眉を高くあげ、
「ああ六条のことですな。あの六条のやつは、こっちにいましたか」
戸川中尉は、少年のように眼をかがやかせ、入口の方をふりかえった。しかしそこには、誰の影も見えなかった。
そもそもこの「火の玉」少尉とよばれる六条|壮介《そうすけ》と戸川中尉とは、同期生だったのだ。そして嘗《かつ》ては、ソ満国境を前方に睨《にら》みながら、前進飛行基地のバラックに、頭と頭とを並べて起伏《おきふ》した仲だった。
この二人は、無二の仲よし戦友だったけれど、二人の性格は全くあべこべだった。戸川中尉が飛行将校にもってこいの細心で沈着な武人であるのに対し、六条の方はその綽名《あだな》からでも容易に察せられるごとく、満身これ戦闘力といったような感じのする頗《すこぶ》る豪快な将校だった。それで二人は、よく仲のよい悪口《あっこう》を叩きあったものだ。
「なんだ、貴様は。貴様みたいに、数値ばかり気にやんでいると、数値以上の勝利をあげることなんかできやせんぞ」
と六条壮介がからかえば、戸川は戸川で、
「莫迦《ばか》をいうな。貴様みたいに、戦闘をはじめる途端に数値のことを忘れてしまうようじゃ、どうせ碌《ろく》でもない敵兵に横腹《よこっぱら》を竹槍《たけやり》でぶすりとやられるあたりが落ちさ」
と、やりかえすのであった。しかしその実、この二人の将校は、互いに相手の長所を尊敬しあっていたのだ。
真逆《まさか》この戸川の言葉が讖《しん》をなしたわけでもなかろうが、六条|壮介《しょうすけ》のうえにとつぜん不幸な事件が降って来て、彼は第一線を退かなければならないこととなった。
その不幸な事件というのは、或る日彼が、ソ連空軍の爆撃の跡を視察するため、崩れかかった家屋の前に立っていたとき、そこへ急カーヴを切り輜重《しちょう》隊のトラックが驀進してきた。呀《あ》っといって彼が身をさけた途端に、トラックの運転をしていた兵隊が未熟のためか周章《あわ》ててハンドルを切り間違え、あべこべにトラックは半壊家屋の支柱に衝突し、轟然《ごうぜん》たる音響とともに、とうとうその半壊家屋を潰してしまった。そこで屋内へ避けた六条少尉は、不運というか細心の注意を缺いていたというか、その下敷となった。さっそく全員総がかりで、少尉の身体を掘りだしたが、なかなかの重傷で生命のあったのがふしぎなくらいだった。結局そのとき以来、「火の玉」少尉は右腕の自由を失ってしまい、野戦病院に退いて、ついに右腕を上膊《じょうはく》から切断してしまったのである。
片腕なくなったのでは、「火の玉」少尉は再び飛行機を操縦することができない。そこで第一線から後送ということになったが、「火の玉」少尉は誰がなんといってもきかない。そして頑張《がんば》りに頑張ったが、いくら頑張っても切断された片腕はいつまでたっても元のように生えないことが分っていたから、無理やりに内地へ連れかえったのである。
「あいつの云うことは、分っているのだ。ソ連軍の重《じゅう》トーチカ集団を破るのは、俺より外にやり手がないんだから、すぐ第一線に出すよう骨を折ってくれというんだ。もうここへは三四十回も面会にきたもんだが、いくらあいつに泣きつかれても、このことばかりはどうにもならないのでねえ」
と、田毎大尉は困りきった顔で、首を左右にふった。
「右腕がなくてもやれるというのですか」
戸川中尉は、この事件の前から六条少尉に分れて司令部へ出張していたので、以来彼は会わずじまいだった。
「そうだ。俺にはまだ左腕もあれば両脚もあるし、硬い歯の生えている口もあれば、太い頸《くび》もあるというんだ。その意気は壮《そう》とするが、こればかりはねえ」
そういっているとき、受付の方角から、大きな蛮声《ばんせい》がこっちへ響いてきた。田毎大尉と戸川中尉とは、思わず顔を見合せた。
「しかたがない。おい当番兵。六条少尉をここへ案内してこい」
田毎大尉は、ついにそういった。
「大尉どの。自分もここに居てよろしくありますか」
「ああ、よろしい。ぜひそこにいて、『火の玉』少尉を慰《なぐさ》めてやってくれ」
間もなく、当番兵につれられて、部屋へ入ってきた壮漢、見れば警防団服に身を固めていて、ちゃんと右手もついている。
新しい警防団員
「おう、そのいでたちは……」
と、田毎《たごと》大尉がいぶかるのを、壮漢はうやうやしく右手で挙手の敬礼をして、
「はあ、きょうは大尉どのに、この姿を見ていささか意を安んじて頂こうと思って参りました」
「おお、これは戸川――戸川中尉どの。ずいぶん久しぶりでありましたな」
そういう壮漢は、やっぱり「火の玉」六条少尉以外の何人でもなかった。どうしたわけか、きょうは「火の玉」少尉、いつになく朗《ほがら》かであった。
「おお、貴様に会って、俺は嬉しいぞ」
と、戸川中尉は立ちあがって、六条少尉の方に手をさしのばした。そのとき中尉は、硬いひやりとしたものを掌《てのひら》の中に感じた。見るとそれは鋼鉄《こうてつ》と硬質ゴムとでできた「火の玉」少尉の義手《ぎしゅ》だったのである。
「戸川中尉どの。結果において自分の敗北でありましたよ。中尉どのにお目にかかれば、早速それを申すはずでしたが、きょうまでそれをいう機会がなかったのです」
「あはは、なにをいうか貴様」
「しかし戸川中尉どの。自分は右手を失って、見かけにおいては体力を削減《さくげん》しましたが、その戦闘精神は却《かえ》って以前よりも旺盛《おうせい》になったことを言明《げんめい》いたします」
「ふふん、それは結構だ」
「火の玉」少尉は、そこで急に気がついて田毎大尉に敬礼をし、
「いや失敬いたしました。旧友に会ったものでありますからして、思わず大尉どのへの報告のほうが後になりまして……」
「いや、かまわない。が、報告とはどういうことか。まさか原隊復帰の許可が下りたというのでもなさそうだが」
「その原隊復帰のことで、大尉どのをかなりお苦しめしましたが、きょうはそのことではないのであります。これをごらん下さい。自分は警防団に入りました。原隊復帰が許されるまで、警防団で働くつもりであります」
「そうか、それはよかった」
と、田毎大尉ははじめて合点のいった顔である。
「それで部署は、どういうところか」
大尉としては、やはり元の部下の「火の玉」少尉の部署のことまで気にかかるのであった。
「はい、監視班です」
「ほう、監視班とは、なるほどこれはいいところへ配属されたものだ。『火の玉』少尉の監視|哨《しょう》では勿体ないくらいのものだ」
田毎大尉は本当のことをいった。
「そんなことはありません」
と六条は、言下に「火の玉」少尉らしい活溌な口調でうち消して、
「今日ほど、監視哨の仕事が重大であり、そして困難を伴っていたことは、未だかつてなかったのです。ソ連極東軍の重爆隊は、今夜にも翼をはって帝都の空を襲うかもしれない情勢であります。自分は今夜から、任務につく決心であります」
「ふーむ、任務につくといって、どうするのか」
「はい、気球に乗ることになっています」
「なに、気球に乗る。どんな気球に乗って、なにをするのか」
田毎大尉は、「火の玉」少尉が気球に乗るなどといいだしたので、少々おどろいた。
「はい、帝都は今夜から、繋留《けいりゅう》気球を揚《あ》げることになっています。今夜は一つだけでありますが、明日から若干数が殖えることになっています。自分は、その最初の一つに乗りこみまして、深夜の帝都の上空をば監視するのであります」
「夜、見えるか」
「はい、午前三時に月が出るのであります。それまではE式|聴音器《ちょうおんき》で、敵機のプロペラの音を探知します」
「ふむ、それは御苦労なことだ。では、しっかり頼むぞ」
田毎大尉は、障害者となっても燃えるような戦闘精神が「火の玉」少尉の胸に宿っているのを知って、大いにうたれた。
その「火の玉」少尉は、田毎大尉と旧友戸川中尉との前を辞するときに、一段とかたちを改《あらた》め顔面を朱盆《しゅぼん》のごとに赫《あか》くして、
「でありますが、この六条は、一日も早く原隊復帰を許され、例の××軍トーチカ集団攻撃に、ぜひとも一番駈けをいたし、そこに屍《しかばね》をさらしたいと考えておるのでありますから、この点お忘れなく、御両所の不断の御骨折《おほねおり》を切望いたします」
儼然《げんぜん》といい放って、「火の玉」少尉は廻れ右をして帰っていった。
後を見送って、田毎大尉は戸川中尉と顔を見合し、
「やっぱり『火の玉』少尉だ。はじめは原隊復帰を諦《あきら》めたのかと思ったが、いまの言葉では、どうしてどうして、先生なにがなんでも××軍トーチカ集団の真中で戦死をしたいらしいね。はっはっはっ」
といって、愉快そうに笑った。
上昇|延刻《えんこく》
その「火の玉」少尉は、その夜の九時、帝都北東地区の○○陣地において、繋留《けいりゅう》気球に乗りこんだ。そのころ意地わるく南よりの風がかなりはげしく吹きだして、地上に腹匍《はらば》っているような恰好の気球はもくもくと揺れていた。
はじめは、この気球の下のゴンドラに、六名の者が乗りこむことになっていたが、いよいよという時になって、ただひとり「火の玉」少尉だけが乗ることとなった。
「一体どうしたのか。まさか怖《お》じ気《け》がついたのでもあるまいに」
と、彼は笑った。
「いや六条さん。班長さんはじめ幹部の連中が、いま手が放せなくなったのですよ。貴方《あなた》もついでに、見合せなすったらどうですかね」
警防団の庶務係の老人がいった。
「私は予定どおり乗りますよ。風が吹いていようが、敵機は来ようと思えば来るんだからね」
「いえ、風――風がはげしいからどうのこうのというのではなくて、なんでもこの○○陣地の裏手の垣《かき》のところを、怪しい人物が二三人うろついていたという話ですよ。それで班長さんはじめ総がかりでいま見廻り中なんです。気味がわるいじゃありませんか」
老人は首をぶるぶる慄《ふる》わせていった。
「怪しい人物、ははあ本当かな。臆病者には、蚯蚓《みみず》が蛇《へび》に見える」
「六条さん、そんなことをいっているのを幹部に聞かれると、うるそうがすぜ」
「なにがうるさいものか。この事変下に怪しい奴の一人や二人うろついているのは当り前だよ。なにも班長までが騒ぎまわらなくともいいじゃないか。そんなことは気球に乗らない連中に頼んでおいて、自分たちは予定どおりのるのがいい。敵軍は、こっちにそんな騒ぎがあろうとなかろうと、お構いなしに空襲を仕かけてくるだろうからね」
「そりゃそうですが、さっきもこの気球のあたりを探していましたが、その憲兵さんの話を聞くと、先月横浜沖に碇舶《ていはく》していた貨物船から無断上陸をして逃げたソ連共産党の幹部スパイで、キンチャコフとかいう大物も交っているらしく、なかなかたいへんな捕物なんですよ」
「キンチャコフだって、どっかで聞いたような名前だ。だが、キンチャコフはどこまでもキンチャコフで、監視哨はどこまでも監視哨なんだ。さあ、係員にそういって予定の時刻が来たから、早く気球の綱《つな》をとくようにいってくれたまえ」
「へえ、やっぱり六条さんは、一人で上へあがるのですか」
「さっきから幾度もそういっているじゃないか。係員にそういってくれ。ぐずぐずしているようなら勝手にこっちが綱を切ってとびあがるぞと、きびしく一本|突込《つっこ》んでおいてくれ」
「えっ、気球の綱を切る? あなた、いくら冗談でもそんな乱暴なことをいうものじゃありませんよ。気球の綱を切れば、地球の外へ吹き流されてしまうじゃありませんか」
「はっはっはっ。もういいから、早く係員に催促《さいそく》をしてきてくれ」
「へえ、かしこまりました」
老人が向うへかけだしてゆくと、気球のところには六条壮介ひとりとなってしまった。風は相変らずひゅうひゅうと耳許《みみもと》に唸《うな》って、地上わずかに一メートル上のゴンドラが、がたがた揺れる。闇の空をすかしてみると、気球は天に吠えているように巨躰をぐらぐらゆすぶっていて、気になるほど、綱がぎしぎしいっている。
六条の待っている係員は、一向姿をあらわさなかった。
「なにをしているんだろう」
と舌打して、彼は真暗な××陣地一帯をずーっと見まわした。すると、ときどき蛍《ほたる》の火のように、懐中電灯がいくつもちらちら点滅するのが見られた。捜索隊にちがいない。
「ふん、やっぱり本当なんだな。怪しい奴がしのびこんだというのは……」
だが、きびしい軍律の中で生活してきた「火の玉」少尉にとっては、たとえ傍に何事があろうと、気球が予定の時刻に上昇しないことについて甚《はなは》だ不満であった。
「しようがないなあ。降りていって、一つうんと文句をいってやろうか」
と思っていると、ゴンドラが急にごとんと大きく揺《ゆ》れて、地上から二三メートル上に飛びあがった。それは地上に置いてある信号灯が俄《にわ》かに遠くなったことからも知られた。
「おや、どうしたのかな」
そういっているうちに、ゴンドラはまた一つごとんと揺れて、また二三メートル上に飛びあがった。
「はてな、――」
そのとき少尉は、地上の信号灯の前に一つの人影が大童《おおわらわ》になって綱を解こうとしているのを認めた。
「おお、やっと気球係の地上員がやって来たんだな。いくらなんでも、たった一人では、ちと無理だ」
そういっているとき、ゴンドラはまた大きくごとんと揺れ、とたんに彼の手はゴンドラの縁《ふち》からはずれ、彼は芋《いも》のようにゴンドラの底をごろごろと転った。
彼が起き直ったとき、気球は風の中を、もうぐんぐん上昇していた。
地上からは、懐中電灯がいくつも、こっちに向って動いている。ところがその灯《あかり》は、どれもこれもしきりに十字を描いているのだった。
十字火信号! ああそれは「要注意《ようちゅうい》」の信号であったではないか。
「なにが『要注意』なんだ!」
と、「火の玉」少尉は、小さくなりゆく地上の灯をみつめていた。
「要注意」の信号
「火の玉」少尉が、空中の異変に気がついたのは、それからしばらくして、風の中に××陣地のサイレンの響を聞き、それに続いて××陣地にありったけの照空灯が、彼の乗った気球の方に向けられたときだった。
それまでのところは、彼は地上員が多忙《たぼう》の中を駈けつけて、彼のために繋留《けいりゅう》気球第一号の綱をゆるめてくれたものとばかり考えていた。
ところが、それから後《のち》のサイレンやら照空灯のものものしい騒ぎがはじまるに及んで、彼はやっと或る疑惑を持ったのである。
「おかしいなあ。一体地上ではなにを騒いでいるのだろう」
彼の外に、誰も乗らないといっていたが、やはりまだ乗る者があったのではなかろうか。それで「要注意」などと騒いでいるのではなかろうか。
だが、それにしては、なぜ「出発待て」の信号を発しなかったのであろうか。「要注意」の信号は、どうも腑《ふ》におちない。
いや、腑におちないのは、こうして××陣地ありったけの照空灯が、こっちの気球のあとを追駈けてくることだ。こっちの出発が、陣地の方に都合がわるければ、綱を引張ってこの気球を引きおろせばいいではないか。なぜそうやらないのであろうか。
さすがの「火の玉」少尉も、すこし不安な気持になって、照空灯の眩《まぶ》しい光芒《こうぼう》を手でさえぎりながら、地上の騒ぎをじっと見下していた。
そのうちに、彼ははじめてたいへんなことに気がついた。それは彼の乗っている気球の綱のことであった。綱が一本、ぷつんと短く切れて、照空灯の光の中にぶらぶらしていたのである。
「おや、あの綱は切れているぞ」
思わず彼は、声をあげて愕《おどろ》いたが、それから更に他の綱に眼をうつしたとき、もっと大きな愕きが彼を待っていたのである。
「呀《あ》っ、あの綱も切れている!」
彼はゴンドラの縁《ふち》にしがみついたまま、一本の綱から他の綱へと、後を追っていった。その結果、気球を繋留《けいりゅう》していた六本の綱が悉《ことごと》く切断されていることを発見したのである。言葉をかえていえば、もはやこの気球を地上に繋《つな》いでいる一本の綱も無いのであった。ああ繋留索《けいりゅうさく》のない気球は、一体どこへ行くのであろうか。
「うん、こいつは失敗《しま》った!」
「火の玉」少尉の全身を、熱湯《ねっとう》のような血が逆流した。
「失敗った、失敗った、失敗った!」
彼はゴンドラの縁をつかんで、動物園の猿のようにゆすぶった。時刻がたつに従って、大きくなる災禍《さいか》であった。
地上では、こんどは照空灯が、十文字にうごいて、「要注意」を知らす。
「要注意」も、今さら遅いという外ない。
そのとき彼は、ゴンドラの中に、無電器械がありはしないかと気がついたので、腰をかがめて、あたりをふりかえった。
「うむ、あるぞ。あれがそうらしい」
ゴンドラの中の、微《かす》かな灯火のうちに、無電器械の黒ぬりのパネルが眼についたのだ。彼は飛行将校として、一応無電器械の知識もあったから、どっちが受信器のパネルで、またどっちが送信器のパネルか、見分けがついた。彼はいそいで受話器を頭にかけるとスイッチを入れた。真空管が、ぱっと明るくついた。
しばらくすると、受話器の奥から、声がとびだした。
「ハア、××繋留気球第一号。こっちは××陣地です。ハア、××繋留第一号。こっちの声が聞えますか。只今○○飛行隊と連絡をとり、飛行機隊が追跡してくれることになりましたから、安心して下さい。ハア、××繋留気球第一号! こっちの声が聞えましたら、そっちから電波を出して下さい」
××陣地の通信員の声だ。
それを聞くと、六条は勇気百倍の思いがした。地上でも、この気球が繋留をはずれて空中に漂流しだしたことをちゃんと気づいているのだ。そして飛行隊が急遽出動して、この気球の救援に赴《おもむ》くことになったそうだ。このうえは、こっちの所在を地上なり救援の飛行機に知らせることさえ忘れなければいいのだ。それは無電器械の送信器を働かせてマイクへこっちの声をふきこめばいいのである。
六条は、左手をのばして、無電器械の送信器にスイッチを入れた。パイロット・ランプが明るくついた。真空管はキャビネットの中で光っている。彼は揚《あ》げ蓋《ぶた》をひいて、その中から長い紐線《コード》のついたマイクをとりだし、口のところへ持っていった。
「ハア、こっちは繋留気球第一号です。六条|壮介《そうすけ》が送信をしています。いま気球は、風に流されつつ、ぐんぐん上昇しています。気圧は只今、七百……」
といって、六条が傍の夜光針《やこうしん》のついた気圧計に眺め入ったとき、突然何者とも知れず、マイクを握った彼の左手をぎゅっと掴《つか》んだ者があった。
思わざる怪影
「ああっ、――」
豪胆《ごうたん》をもって鳴る「火の玉」少尉も、全く思いがけないこの不意打には、腹の底から大きな愕《おどろ》きの声をあげた。
闇夜《あんや》の空を漂流《ひょうりゅう》中のゴンドラの中には、彼ただひとりがいるばかりだと思っていたのに、意外にも意外、突然マイクを持つ手首をぎゅっと掴まれたのだから、この愕きも尤《もっと》もであった。
「だ、誰だ!」
味方か、敵か?
「火の玉」少尉がうしろへふりむくのと、彼の左手首のうえに、焼きつくような激しい痛味を覚えるのと、それが同時であった。
「あっ、な、なにをするッ」
といったが、手首は骨まで折れたかと思うようなひどい疼痛《とうつう》で、眼があけていられないくらいだ。でも「火の玉」少尉の眼は、その奇々怪々なる相手の姿をとらえた。
「き、貴様、何者だ!」
怪漢は、白い歯をむきだすと、彼の背後から組みついた。ひどい剛力《ごうりき》だった。
「日本人《ヤポンスキー》、黙れ。生命が惜しければ、反抗するな」
そういう相手の言葉は、ロシア語であった。
(ははあ、ソ連人だな!)
この闖入者《ちんにゅうしゃ》は、さっきもいったとおり、なかなかの剛力だった。そのうえ、「火の玉」少尉は、左手首に不意打をくっていて、いまだにそれが痺《しび》れているのだった。だから力もなんにも入らない。それを承知でか、相手は六条の頸《くび》にまきつけた腕をぐんぐん締めつけてくる。
「うーむ、こいつ……」
「火の玉」少尉にとっては、二重の危難《きなん》であった。いずれも予期しなかった不意打の危難であった。たいていのものなら、もうこの辺で他愛なく気絶をしているところであるが、危難が大きければ大きいほど、強くはねかえすのが「火の玉」少尉の身上だった。彼はいま、もうすこしで息が停ろうというのに、横眼をつかって、ゴンドラの中の大切な器械器具の配列位置を頭脳の中につめていた。
「日本人、はやくくたばれ!」
闖入《ちんにゅう》の怪ソ連人は、さらに六条の頸にまいた腕に力を入れた。
「うーむ」
と唸《うな》って、「火の玉」少尉の上半身が後にのけぞる。
「日本人、まだ死なぬか!」
「うーむ」
「火の玉」少尉の上半身は、蝦《えび》のようにうしろにのけ反《ぞ》った。彼の背後から組みついている怪ソ連人までが、硬い少尉の頭を胸にうけかねて、ゴンドラの縁《ふち》にひどく押しつけられた。
「こら、そう反《そ》っくりかえるな。始末にわるい奴だ、うん」
と、怪ソ連人が、六条の身体を前に押しかえしたそのときのことだった。
「えい、やっ!」
ふりしぼるような叫びごえが、今の今まで死んだようになっていた、「火の玉」少尉の咽喉《のど》の奥からとびだした。と、彼の身体が水の中にもぐるような恰好で、すとんと沈んだ。
「わわっ、――」
奇妙な悲鳴とともに、少尉の背後に組みついて勝ち誇っていた怪ソ連人の身体が、南京《ナンキン》花火のように一転して、どさりと前方へ飛んでいった。
このとき「火の玉」少尉がもし手を放したとすると、怪ソ連人の身体は、ゴンドラの縁《ふち》の上をとび越えて、あっという間に、なんの掴《つか》まりどころもない空間に放りだされていたことであろう。少尉はそれを心得ていたと見え、相手の袖を手許へぐっと引張りつけたので、相手はゴンドラの角《かど》で、いやというほど尻の骨をうったまま、身体を逆《さか》さにしてずるずると籠の中にくずれ落ち、そのまま動かなくなった。なにゆえに敵を助けるのか、「火の玉」少尉の心中は測《はか》りかねた。
「どうだ、もう一度来るか」
少尉は、足を伸ばして怪人の頭を蹴とばした。だがかの怪人は、気絶でもしているのかなんの反抗も示さなかった。
その間にと思って、「火の玉」少尉は再びマイクをとりあげ、急ぎの報告を電波に托《たく》すつもりで、
「ハア、こっちは××繋留気球第一号の六条です。電波はつづいて出ているでしょうな。このゴンドラの中に、ソ連人が一名忍びこんでいました。どうやらゴンドラの外からのぼってきたもののようです。今気絶していますが、あとでよく調べあげて、知らせます」
そういう少尉の声は、普段話をしているときとすこしも変っていなかった。これがどこへ飛ばされるとも分らない漂流気球の中に、心細くも生き残っている人の声とは、どうしてもうけとれなかった。
キンチャコフ
だが、この「火の玉」少尉の電信は、予期した応答が得られなかった。
変だなと思ってしらべてみると、マイクの紐線《コード》がいつの間にかぷつんと切られているのであった。これでは、地上から応答のないのも無理ではない。紐線は、さっきの格闘のときに切断したものにちがいない。彼は、すぐその修理にとりかかった。早いところ地上との通信連絡を回復しておかないと、気球がどこへ流れていったか、皆目《かいもく》手懸《てがか》りがなくなる虞《おそ》れがあるのである。
ちらりと地上へ目をやると、××陣地はもうマッチ箱の中に豆電球をつけたように小さくなっていた。高度はすでに三千メートル、方角がはっきりしないが、どうやら北の方へ押し流されている様子だ。
風はいよいよつよく、ゴンドラがひどく傾いているのが分った。
「火の玉」少尉は、マイクに紐線《コード》をつけなおすことに、つい注意を注《そそ》ぎすぎたようであった。外に現れたその態度は、周章《あわ》てているように見えなかったけれど、その心の中には狼狽《ろうばい》の色がなかったとはいえない。なにしろ早いところ地上との無電通信を回復しなければ、一大事が起ると思いこんで、マイクの修理に一生けんめいになりすぎ、怪しいソ連人に注意を向けるのを怠《おこた》ったのだ。
その怪しいソ連人は、依然として身体を逆さにしたまま叩きつけられたようになっていたが、彼の両眼は、うすく開いて、「火の玉」少尉の手許《てもと》をみていた。
そのうちに、怪人の一方の手がそろそろとうごきだして、上衣《うわぎ》のポケットの中をさぐりはじめた。
しずかに、再び彼の手首が現れたときには、逞《たくま》しい形をした一挺《いっちょう》のピストルが握られていた。怪人は、身体を逆さにしたまま、ピストルを持ち直して、「火の玉」少尉に狙いをつけた。
「火の玉」少尉は、そのときやっと気がついた。彼は、なにかゴンドラの中のものが動いたように思って、顔をあげてみると、この戦慄《せんりつ》すべき武器が、こっちを向いていたのである。
「おいキンチャコフ。俺を撃つのはいいが、そんな無理な姿勢じゃ、命中しやしないよ」
「火の玉」少尉が、流暢《りゅうちょう》なロシア語で一|喝《かつ》した。
「なに、どうしてこっちの名を……」
怪ソ連人は、相手の日本人がいきなりロシア語を喋《しゃべ》りだしたうえに、自分の名前まで呼んだのであるから、びっくりしたのも無理ではない。尤《もっと》も「火の玉」少尉としては、ロシア語なら得意中の得意だし、キンチャコフの名は、××陣地を出る前に庶務の老人から聞いたのを、このとき思い出しただけのことだ。
「おいキンチャコフ。貴様が××陣地で皆に追駈けられて、仕方なくここへとびこんだことは知っていたぞ」
「それがどうした。なにが仕方なくだ。わしはこの気球で脱《のが》れるつもりだから、繋留索《けいりゅうさく》をナイフで切ってしまったんだ」
「そんなことは云わなくとも分っているぞ。貴様は、この気球でうまく脱れられるつもりなのか」
「脱れなきゃならないんだ」
「脱れるといっても、この気球は風のまにまに流れるだけなんだ。どこへ下りるか、それとも天へ上ったきりで下りられないか、分ったものじゃない」
「出鱈目《でたらめ》をいうな、日本人《ヤポンスキー》。気球はいつかは地上に下りるもんだ。天空《てんくう》に上ったきりなんてぇことはない」
と、キンチャコフが生意気な抗議を試みた。
「そこまで分っていれば、いいではないか。この気球が下におりるまで、貴様一人で風や雨と闘うつもりか、それとも貴様と俺と二人で闘った方がいいと思うか」
「火の玉」少尉は、話をうまいところへ追込《おいこ》んでいった。
「ふん」
「それが分ったら、ピストルなんざポケットへ収《しま》っとくことだ。下手な射撃をして、気球にでも当れば、どういうことになると思うんだ。たちまち気球は火に包まれ、俺たち二人は、火を背負いながら地上に飴《あめ》のように叩きつけられて、この世におさらばを告げることになるだろうよ」
「……」
「おい、お前は思いきりのわるい奴だな、キンチャコフ。そのピストルなんか収《しま》って、これからどうすればわれわれは無事地上に下りられるかを研究して、すぐさま実行にかかるのだ。無駄なことはしないがいい」
そういわれて、キンチャコフはつい兜《かぶと》を脱《ぬ》いだ。彼は不承不承《ふしょうぶしょう》に、逞しい形のピストルをポケットの中に収いこんだ。そして達磨《だるま》が起きあがるように、身体をごろんと一転させて、「火の玉」少尉と向いあった。
「ははあ、お前がキンチャコフか。だいぶん俺よりも年上らしいが……」
「火の玉」少尉は、どこまでも相手を呑んでかかった。
呉越同舟《ごえつどうしゅう》
それから、この奇妙な日ソ組合せによる空中漂流がつづいた。
マイクロフォンの修理はできたけれど、これをつけても送信器は働かなかった。マイク以外に、故障ができたものらしく、専門家でない六条には、すぐさまその故障箇所を見つけることができなかった。
だから無電器械は、受信器だけが役に立った。
「ハア、××繋留気球第一号!」
といつまでもこっちを呼んでいるのが聞えたが、その声は、だんだんと強さを減少していく。それはいよいよ××陣地から遠く距《へだた》ったことを意味するのであった。
無電は、しきりに救援の飛行隊が出動したことを報じていた。
たしかに、それに違いなかった。午前二時ちかくだったであろうか、赤青の標識《ひょうしき》をつけたすこぶる快速の偵察機らしいのが一機、漂流《ひょうりゅう》気球に近づいた。
「おいキンチャコフ。俺も振るから、貴様もこの懐中電灯をもって、こういう具合に振れ。いいか」
六条は、キンチャコフにも信号をさせて、二人のうちのどっちかが偵察機に認められればいいと思ったのである。
キンチャコフは、あまり気がすすんでいなかったようであるが、それでも協力して懐中電灯を輪のように振った。
「おお、あそこを飛んでいるんだから、もう見えてもよさそうなものだが……」
と、「火の玉」少尉は、上を指した。黒暗澹《こくあんたん》たる闇をぬって、三つの飛行機|標識灯《ひょうしきとう》がうごいていく。それはだんだんこっちへ近づくように見えた。
「うまいぞ。たしかにこっちへやってくる」
「すこし変だよ。あれじゃ高度が高すぎて、気球の上を通りすぎてしまいそうだ」
キンチャコフが、なかなか理窟《りくつ》のあることをいった。
「通りすぎられて、たまるものかい。おい、今だ。信号灯をもっと振れ」
二人は、懸命に懐中電灯をうち振ったつもりであった。
だが、この飛行機は、ついにキンチャコフのいったとおり気球の上方、約五百メートル近いところを飛び過ぎ、やがてだんだん遠くなってしまった。
「畜生、とうとう行かれてしまった」
「どうも無理だよ。こんな小さな灯《あかり》じゃ仕様がない。そのうえ、千切《ちぎ》ったような雲が一ぱいひろがっていて、上からは案外|見透《みとお》しがきかないんだぜ」
キンチャコフは、得意らしく喋りたてた。「火の玉」少尉は、キンチャコフが、ソ連仕立のかなり優秀なスパイであることを見破った。そうなると、これからさらに一層、油断はならないわけだ。
やがて午前三時をすこし廻って、月が出た。それから一時間半ほどたつと、東の天が白くなった。
前夜以来、しきりに呼びつづけていた××陣地からの無電が、急に小さな音響になってしまった。そして間もなく、なんにも聞えなくなった。
それっきり救援の飛行機も、こっちへ追駈けてこなくなった。
ただ涯しなく拡がった雲海《うんかい》のうえを、気球は風のまにまに漂流しつづけるのであった。その外《ほか》に、生物の影は、なに一つとしてうつらぬ。このひろびろとした雲海は、天国へ到る道であるのかもしれない。二つの屍《しかばね》を埋《うず》めるのは、どの雲のあたりであろうかなどと、「火の玉」少尉もあまりの荒涼《こうりょう》たる天上の風景に、しばし感傷の中におちこんだのであった。
鋭い牙
「ねえ、六条。気球が上昇をストップしたようだぞ」
寒そうに身体を叩《たた》いていたキンチャコフが、送信器の解体に夢中になっている六条にいった。
「ふん、なんだか動きもしなくなったようではないか」
六条が相槌《あいづち》をうった。高度計を見ると、実に八千メートルの高空だ。いくら夏でも、これは寒いはずだ。
気球は、ぴーんと膨《ふく》れきっている。
「これじゃ天井にくっついた風船みたいで、一向面白くない」
キンチャコフが呑気《のんき》そうな口を叩いた。
「おい、貴様は無電の知識をもっとらんのかね」
六条がたずねた。
「さあ、さっぱり駄目だねえ」
と、キンチャコフは気のなさそうな返事をした。キンチャコフの方が、六条よりも死生を超越《ちょうえつ》しているらしく見える点があって、「火の玉」少尉も少々|癪《しゃく》にこたえている。しかし、単にぐうたらに生きるものと、帝国軍人としてその本分に生きるものとは、どうしてもちがうのがあたり前で、六条の方が臆病だというわけではない。
「おおっ、気球が下りだしたぞ。ああ、ありがたい。温くなるだろう。ふん、あの辺の雲の中へとびこむな」
キンチャコフがはしゃぎだした。
六条は、とうとう無電器械のことをあきらめてしまった。空中漂流以来、戦友戸川のことを思い出し、こっちもこんどは一つ細心《さいしん》且《かつ》沈着にいこうと努力をつづけてきたわけだが、たかが無電器械一つと思うのが、どうしたってこうしたって、うんともすんとも直りはしないのだ。
(やっぱり、自分の柄《がら》にないことは、駄目なんだ)
彼ははじめて悟りに達したような気がした。と同時に、今までの妙な気鬱《きうつ》が、すうっと散じてしまったようであった。
「ほう、なるほど下るわ下るわ。いよいよ墜落の第一歩か」
「あまり嚇《おどか》すなよ」
と、キンチャコフがいって、
「へんなことをいうと、きっとそのとおりになるという法則がある。ちと慎《つつし》めよ」
「なあに、今のうちにこれでも喰っておけ。そうすれば元気になるだろう」
六条は、携帯口糧《けいたいこうりょう》をゴンドラの戸棚の中からひっぱりだして、キンチャコフにも分けてやった。戸棚の中には熱糧食《ねつりょうしょく》だとか、固形《こけい》ウィスキーなども入っていた。なにしろ予《あらかじ》め六人分の食糧が収《おさ》めてあったので、食糧ばかりは当分困らない。
ただ困ったのが水だ。水は、ゆうべ庶務の老人が持ちこんでくれたが、一人一日分しか入れてない。
携帯口糧は口の中で一杯になった。水を上から注ぎこまなければ、とても咽喉《のど》をとおらない。といって水は大事にしなければ、この先どんなことになるか分らない。六条は、目を白黒させながら、これも同様に目を白黒させて携帯の口糧《こうりょう》をぱくついているキンチャコフの顔を見やった。
「おう、雲だ。いよいよ下るぞ」
ほんの僅かの間に、気球は密雲の中に包まれてしまった。見る見るうちに、服はびっしょり水玉をつけ、やがてそのうえを川のように流れおちる。二人の頭のうえからも、小さい滝がじゃあじゃあと落ちてくる。仰《あお》げども見えないけれど、気球に溜った水滴が集って、上からおちてくるのであろう。が、なにしろなにも見えない。ゴンドラの中まで、磨硝子《すりガラス》を隔《へだ》てて見ているような調子だ。キンチャコフは、このときとばかりに、顔のうえを流れおちる雨水《あまみず》を、長い舌でべろべろ嘗《な》めまわしている。
密雲が下にある間や、その密雲の中をくぐりぬけている間は、そうでもなかったけれど、気球が密雲をすりぬけて、それを上に仰ぐようになったとたんに、俄《にわ》かに墜落感がつよく感ぜられた。眼下はひろびろとした一面の海原《うなばら》であった。そして海面までは案外近くて、ものの四五百メートルしかない。
「ああ、海だ」
「おお海だ。どこの海だろうか」
「この色は、日本海だ」
六条のいったことは、間違いでなかった。
「日本海なら、船がたくさん通るだろう。墜落しても大丈夫助かる」
とキンチャコフは、俄かに喜色をうかべていったが、なに思ったか、ポケットから例のピストルを出して六条につきつけた。
「なにをするんだ、キンチャコフ」
「いや、嚇《おどか》しではない、本気なんだ。船が見えたら、貴様は綱をひいて、気球の瓦斯《ガス》を放出して下におりて、助けられるつもりだろうが、それについて、ちと注文があるんだ」
「それはどういうことか。早くぬかせ」
「日本の船舶《せんぱく》が通っても下《お》りないことさ。つまり日本以外の船舶に救助されることをもって条件とするのさ。もちろん、貴様に異議はいわせないがね」
と、キンチャコフはピストルの引金にしっかと指をかける。
「火の玉」少尉は、別に愕《おどろ》いた顔もしなかった。
「そんなものを握っているよりは、下を船が通りやしないかどうかが、生命びろいのためにはその方が肝腎《かんじん》のことだぜ」
「ふん、うかうかそんな手にのるもんかい。飛び道具の方が勝にきまってらあ」
キンチャコフは、本性を露骨《ろこつ》にあらわして、「火の玉」少尉に擬《ぎ》したピストルをひっこめようとはしない。
(うるさい奴だ)
と思ったが、六条は別にピストルがこっちを向いているのを気にするようでもなく、ゴンドラの中から朝霧のかかった海面をじっと見下《みおろ》していた。
キンチャコフの方が、かえってふうっと溜息《ためいき》をついた。
涯《はて》なき漂流
不連続線という悪戯者《いたずらもの》がなかったら、二人のうちのどっちかは、間もなく日本海を航行中の汽船のうえに助けられたかもしれないのだ。そしてその滞空記録も、僅か十何時間で終ったかもしれないのだ。
ところが、どこにひそんでいたのか、不連続線という悪戯者が漂流気球の正面にぶつかったからたまらない。
「おう、気球がまた上りだしたぞ」
「あっ、ちがいない。おお六条。あの黒い雲を見ろ」
「思いきって、ここで瓦斯《ガス》をぬいて海面へ下《お》りようではないか」
「なにを。下りるのはいやだ。わしは泳げないんだからな」
「俺が助けてやろう」
「いやだといったらいやだ。このピストルが眼にはいらないのか」
キンチャコフはピストルをふりまわした。
「うーぬ、貴様。さっきからピストルをかまえて、それで俺を嚇《おど》かしつけているつもりなのか」
「なにを、来るか日本人。来てみろ、一発のもとに赤い花が胸から咲きでるだろう」
「莫迦野郎《ばかやろう》!」
といったのと、轟然《ごうぜん》たる銃声が耳許にひびいたのと、ほとんど同時だった。
「うーむ、やったな」
六条は、突然右|胸部《きょうぶ》に焼火箸《やけひばし》をつきこまれたような疼痛《とうつう》を感じた。胸に手をやってみると、掌《てのひら》にベットリ血だ。とたんに彼ははげしく噎《む》せんだ。がっがっがっと、咽喉《のど》の奥から音をたてて飛びだしたのは、真赤な鮮血だった。
「畜生、やりやがったな」
「火の玉」少尉は重傷に屈せず、奮然《ふんぜん》と立ち上った。そしてキンチャコフがピストルを握り直そうとしたところを、すかさずとびこんで足蹴《あしげ》にした。ピストルが、ぽーんと上に跳《は》ね上ったと思ったら、ゴンドラの外にとびだした。
「あっ、失敗《しま》った!」
と、キンチャコフがゴンドラの外に手を伸そうとしたとき、踏みこんだ「火の玉」少尉は、腹立ちまぎれに右手でぴしりとキンチャコフの脳天をなぐりつけた。その右手は、ただの手ではなかった。鋼鉄製の義手《ぎしゅ》だった。キンチャコフは獣のような悲鳴をあげると、へたへたとゴンドラの底にその身体を折り崩《くず》した。
「火の玉」少尉は、相手がうごかなくなったのを見ると、そのまま自分も瞠《どう》とその場に倒れた。しかしそれから十数分とたたないうちに、彼はまたむくむくと頭をもちあげた。そしてとうとうその場に起きあがって、また口から血を吐いた。
「うーむ」
彼はぐっと歯を喰いしばった。そして胸のあたりをさすっていたが、やがて上衣《うわぎ》をまくって白い襯衣《シャツ》をひきだし、べりべりと破った。彼はその破った襯衣《シャツ》で、傷口をおさえて血止めにした。なお彼の眼と手とは動いて、そこにあったズックの布を引裂きにかかったが、ついに及ばず、そのズックの布を砲《かか》えたままその場にどっと転がった。
それが「火の玉」少尉の、これまで連続していた記憶の切れ目であったのである。
そのころ、人事|不省《ふせい》の両人をのせた気球は、不連続線の中につき入って、はげしく翻弄《ほうろう》されていた。ものすごい上昇気流が、気球をひっぱりこんだから、たまらない。今の今まで下降一方だった気球は、あべこべにぐんぐん上昇をはじめた。一千メートル、二千メートルは、瞬間にとび越して、まるで地球の外にとんでいってしまうかのように、なおもぐんぐんと雲と雲の間を昇っていった。あたりは、岩窟《がんくつ》に入ったように真暗で、そして雹《ひょう》がとんでいた。折々ぴかりとはげしい電光が、密雲の間で光った。
それからどの位経ったか、よく分らない。キンチャコフの方が先に気がついたらしく、そのころ六条は、気息奄々《きそくえんえん》としてゴンドラの底に横たわっていた。キンチャコフが六条を絞め殺そうとすれば、わけないことであったけれど、彼は別になんにもしなかった。それはどういうわけだかよく分らないが、キンチャコフは、もう再び六条を襲うのがいやになったのかもしれないし、或いはまだ鮮血を胸から顔から一杯に彩《いろど》ったすさまじい六条の姿に怖《お》じ気《け》をふるった結果かもしれなかった。もちろんキンチャコフも、意識だけがよみがえったというだけで、ゴンドラの底に身うごきもしないで転っていることは、六条の場合と大差《たいさ》なかったのである。
「うーむ、よく眠った」
これが意識を回復した六条がいった最初の言葉だった。
それからまたあと三時間ばかり、彼は昏々《こんこん》として眠った。
その次に目覚めたとき、彼は本当に気がついたのであった。ゴンドラの中には飛びちった血の痕《あと》がもうくろずんでいた。ふしぎに生きているなという気持であった。彼は左手をのばして、あたりを幾度も幾度もさぐっていた。やがて硬い丸いものが二つ三つ、彼の指先にふれた。
握りしめて、眼の前へもってきて開くと、それは固形ウィスキーであった。ああ天の助けだなと、そのとき彼は思ったことであった。
彼は、貪《むさぼ》るように、その二つを喰べた。それはまるで霊薬《れいやく》のごとくに、彼を元気づけた。彼は思わず、最後の一つを口のところへ持っていきかけたが、急にそれをやめて、
「キンチャコフ!」
とよんだ。
「……」
キンチャコフの腕が、六条の腕の方につつーっと搦《から》むように近よってきたが、固形ウィスキーは、ぽとんと二人の間に落ちたままになって、それから数時間を、二人は昏々として眠った。
それから一日二日たったと思うころ、六条もキンチャコフも、相変らずゴンドラの底に寝たままではあるけれど、どうやら口だけ利《き》けるようなところまで体力を回復した。それは六条が食糧の入っている戸棚を知っていて、それを引出しては分けあって喰べたからである。しかし困ったのは、水が一滴もなくなったことである。二人は、寝たままで、ときどき口を利いた。
「おい、キンチャ。もうどの辺を漂流しているかなあ」
「この気球は、最初北へいって、その翌日は西へ流れた。そしてもう四、五日にはなるだろう。すると、これはどうも外蒙《がいもう》かザバイカル区の辺まで流れて来ているよ」
「そんなになるかなあ。よし今日はなんとかして腕の力で起きあがる練習をして、一度ゴンドラの外をのぞいてみたいものだ。俺は、太平洋の真中あたりへ出ているような気がするが」
そしてまた、二人は昏々《こんこん》と眠った。
どれだけ眠ったか、飛行機の爆音がするので、二人は目が覚《さ》めた。気をつけていると、飛行機は、ゴンドラの周囲をぐるぐる廻っているらしい。ときどき、ゴンドラの縁《ふち》と気球との間に、飛行機のような形が見えるのだけれど、二人とも視力がよわっていて、はっきり見えない。
そのうちに、サイレンらしいものが鳴るのが聞えた。
「気のせいか、××陣地のサイレンと同じ音色だが……」
「なにをいうんだ。あれはザバイカル管区の号笛《ごうてき》だ。わしはよく知っている」
それから暫くして、二人はいきなり激しい衝撃をうけ、あっと思う間もなくゴンドラから放り出された。とたんに二人とも気を失ってしまったのは無理ではなかった。気球が下《くだ》りに下ってついにゴンドラが大地にぶつかったのだ。
その翌日、「火の玉」少尉は病院のベッドで目を覚ました。おやと思って目をあげると、そこに田毎大尉や戸川中尉の顔があったので、びっくりした。それからの歓喜は、ここに綴《つづ》るまでもないが、彼ののっていた気球の下りたところは、不思議にも実に七日前に離陸したもとの××陣地であったのである。まるで嘘のような出来事であった。言う者も聞く者も、ともに不思議な出来事に、驚嘆《きょうたん》の連発であったが、これこそ不連続線のなせる悪戯《いたずら》であったとは、後に「火の玉」少尉が元気を回復してからの種明《たねあか》しであった。
キンチャコフは、不運にも、ゴンドラが地上に激突したとき、当りどころが悪くて脳震蘯《のうしんとう》を起こし、そのままあの世へ逝《い》ってしまったそうである。
底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「名作」
1939(昭和14)年9月
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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