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烏啼天駆シリーズ・3 奇賊悲願
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)烏啼天駆《うていてんく》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)義弟|的矢貫一《まとやかんいち》
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   義弟の出獄


 烏啼天駆《うていてんく》といえば、近頃有名になった奇賊であるが、いつも彼を刑務所へ送り込もうと全身汗をかいて奔走《ほんそう》している名探偵の袋猫々《ふくろびょうびょう》との何時果てるともなき一騎討ちは、今もなお酣《たけなわ》であった。
 その満々たる自信家の烏啼天駆が、こんどばかりは困り果ててしまった。散歩者の胸の中から心臓を掏《す》り盗《と》る技術も持っているし、一夜のうちに時計台を攫《さら》っていってしまう特技もある怪賊烏啼にとって、天下に困ることは一つもない筈だったが、こんどというこんどばかりは、彼は大困りに困り果ててしまったのである。そのわけは、彼の只一人の愛すべき、義弟が、満期になって刑務所から出て来たことだった。
 刑務所から晴れて出て来たんだから、まことに結構なわけで、困る事なんかすこしもない筈だが、かれ烏啼は大いに困り果てるのだった、というのはこの義弟|的矢貫一《まとやかんいち》なる青年は一に二を足して三になったほどの非常に単純な男であった。その上に彼はピストルを発射することがたいへん好きであって、もし何人か何十人かがピストルを持っていて彼もその中に交っていたとしたら、誰れよりも真先にピストルの引金をひくのは彼的矢貫一に違いなかった。なおその上に、彼の射撃たるや千発千中どころか万発万中という完璧な命中率を保持していることであった。
 さような次第だから、的矢貫一が出獄し、当節の一から百まで腹立たしい世間へ顔を出したとなると、単純な彼を怒らせる機会はいくらでも転がっていて、ぱぱンぱぱンと直ぐさまピストルから煙を出すようになることは必至である――と、義兄烏啼天駆は推測しているのである。
 ピストルから弾丸をくりだせば、当今どういうことになるか、恐ろしい結末になることは知れていた。それに奇賊烏啼としては、ピストルを放って相手の命を取りっ放しにしたり、重傷を負わせて溝の中に叩きこんで知らぬ顔をしたりするのは、極めて彼の趣味と信条に反する唾棄《だき》すべき事柄であった。そんなことがあれば、烏啼はふだん何とかかんとかいって紳士ぶっているが、彼奴の弟は人間にあるまじききたないことをやっているじゃないかと、世間から後指《うしろゆび》を指されるのが、今から予想するだに烏啼にはたまらない厭《いや》なことだった。
 さりとて、この義弟を掴《つかま》えて、ピストルを発射するな、弾丸を人様に命中させるなと強意見《こわいけん》を加えても、それは蛙の面《つら》に小便、鰐の面に水のたぐいであって、とても義弟の行状を改めさせる効力のないことは、それを試みるまでもなく分っている。
 こういう次第だから、烏啼天駆の懊悩《おうのう》するのも尤《もっと》もであった。そして彼は次第に食慾を減じ、女人をして惚々《ほれぼれ》させないではいない有名なる巨躯紅肉《きょくこうにく》が棒鱈《ぼうだら》のように乾枯《ひか》らびて行くように感ぜられるに至ったので、遂に彼は一大決心をして、従来の面子《めんつ》を捨て、忍ぶべからざるを忍び、面《つら》の皮を千枚張りにして、彼が永い間ひそかに尊敬している心友の許へ出掛けて行き、すべてをぶちまけて、よい智慧の貸与とその協力とを乞うたのであった。
「それは同情する。君としちゃあ、このまま放置するには忍びないだろう。パチンコの的矢と来ては、返事をする代りにピストルの弾丸を送る奴だからねえ。わしも彼奴に前後三回、身体に穴をあけられたよ」
「どうも済まん。それをいわれると、おれは胸を締められる想いだ。ねえ、何とかして貰えんだろうか。一生のお願いだ。哀れなる烏啼天駆を助けてくれ」
「うん。外ならぬ貴公から是非にと頼まれたのは前代未聞じゃから、何とかしてあげたいものだ。どうするかね、これは……」
 烏啼の心友は、ひどい猫背を一層丸くしてしばらくじっと考えこんでいたが、やがて彼は黒眼鏡の奥に、かっと両眼を開き、両手をぽんと打った。
「よし、いいことを思いついた。それを思いついたは、貴公の幸運というものじゃ。こういうことで行こう。近う寄れ」
 そこでかの心友は猫背を一層丸くして、烏啼の耳に何事かを囁《ささや》いたのであった。
「えっ、彼奴にピストルを持たせて……ふんふん、ええっ、やっちまうのか。それでは虎を野へ放つようなもの……え、大丈夫か。ふんふん、ふうん。……そうかなあ。いや君を信ずるよ、僕は。よろしい、どうか頼む」
 烏啼は、手を合わせて心友を拝んだ。


   お志万《しま》は二十二


 烏啼の本塞《ほんさい》の奥の間で、夕飯の膳が出ていた。烏啼天駆と、問題の義弟の的矢貫一と、そしてかねて烏啼が的矢に娶《めあ》わせたいと思っている養女のお志万と、この三人だけの水入らずの夕餉《ゆうげ》だった。
 お志万は丸ぽちゃの色白の娘で和服好み、襟元《えりもと》はかたくしめているが、奥から覗《のぞ》く赤い半襟がよく似合う。お志万は天駆と貫一へのお酌に忙しい。
「おい貫一。こんどはお前も自ら責任をとって万事をやれよ」
「はい、はい」
「責任ある生活を始めるには、何といってもまず身を固めにゃならねえ。結論をいえば、お志万と結婚し新家庭を作れやい」
「いや、それは御免《ごめん》を蒙《こうむ》りましょう」
「御免を蒙る。なぜだ。可哀想にお志万は、お前の出獄するのを指折りかぞえて待っていたんだぜ」
「それはどうも済みません、だが、兄貴の言葉にゃ従いかねる」
「お前はお志万が嫌いかい。はっきり返事をしなさい」
「お志万さんだけじゃねえ、僕は、およそ女と名のつくものが好きになれないんだ」
「ぷッ」烏啼はふきだした。「冗談も休み休みにいえ。若い男の癖に、女が嫌いなどと……」
「性に合わないから合わないというんですよ。お志万さん、御免よ、ね」
 お志万は下俯向《したうつむ》き、前垂《まえだれ》をぎりぎりと噛んで、二三度|肯《うなず》いてみせる。その白い襟元の美しさに烏啼は目をやって、貫一の奴はどこかに欠陥があるのかなと思った。
「さあ、ここらで飯にしよう」
 と、貫一は茶碗をお志万の方へ差出した。
 貫一は、軽く二杯をかきこむと、急いで席を立とうとした。
「待て、貫一」
 と烏啼は手をあげて停めた。
「僕は約束があるんだ。だから……」
「約束なんかないよ。ごま化《か》すない。それよりも、おれはお前にいいつけることがある、さ、もう一度座りなよ」
「お志万さんのことなら、何度いっても駄目だ」
「そのことじゃねえ。商売のことさ。出獄したところでお前に一つ腕前を奮って貰わなくちゃ、烏啼天駆の弟で候《そうろう》のといっても、若い奴らが承知しねえ。かねておれが用意しておいた大仕事があるんだ。お前は仕事始めに、それをやるんで。その代り骨が折れるぜ」
 烏啼の声がだんだん、毒味を加えた。
「へえ……」
 貫一は目をぱちくり。
「お前、胆《きも》っ玉は大丈夫だろうね」
「兄貴は本気でものをいっているのかね」
「なにを寝ぼけてやがる。――どじを踏んでみろ。皆から洟《はな》もひっかけられねえぜ。お前の腕は確かだろうね。焼きが廻っているんじゃないか」
「憚《はばか》りながら……」と貫一は、とうとう座り直して真剣な目付になった。
「憚りながら的矢の貫一、胆玉がよわくなったの、腕があまくなったのといわれちゃあ――」
「そんならいい。今夜から仕事に行ってくれ。お前ひとりでやるんだぜ、五体揃えば、五百万両の仕事だ」
「五百万両。それなら仕事の返り初日にはちょうど手頃のものだ。一体それはどこへ行って貰ってくるんで……」
「本当にやる気があるのかい。臆気《おじけ》をふるっているんなら、『まあ見合わせましょう』というがいいぜ。今が最後のチャンスだ」
 烏啼は念入りに義弟に油をかける、そういわれては貫一たるもの、何がどうあっても兄貴からいいつけられた仕事をやってみせないでは済まなくなった。
「兄貴、今からでも出かけますぜ」
 と、貫一は胸へ手を突込むと、愛用のピストルをつかみ出して、畳の上へ置いた。
 烏啼は、その方をちょっと睨《にら》んだだけで素知らぬ顔で話をすすめる。
「貫一。この仕事はお寺さまから仏像を盗みだすんだ」
「えっ、仏像を……」
「仏像といっても、けちなものじゃない。いずれ準国宝級のものだ。こういう風変りな仕事をおっ始めたわけは、近頃の坊主どもの中には悪ごすい奴がだんだん殖えて来やがって、生活難だの復興難だのに藉口《しゃこう》して、仏像を売払う輩《やから》が多くなった。まさか本尊さまを売飛ばすわけには行かないが、それと並べてある割合立派な仏像を、いい値で売払いやがるんだ。途方もねえ坊主どもだ。そこでおれの調べたところによると、これからいう五体の仏像はとりわけ尊いものばかり、それを売り飛ばしにかかっている坊主の先廻りをして、お前にこっちへ搬《はこ》んで貰うんだ。どじを踏むなよ、いいか」
「へえ。それは又変った仕事だねえ」
「五つの寺の所在と、さらって来る仏像の名前とスケッチは、この紙に書いてある。さあ、これをそっちへ渡しとくぜ」
 烏啼は懐中から書付を出して、貫一の方へ差出した。お志万が橋渡しをして、貫一へ渡してやった。
「ほほう。第一は目黒《めぐろ》の応法寺《おうほうじ》。酒買い観世音菩薩木像一体《かんぜおんぼさつもくぞういったい》。第二は品川《しながわ》の琥珀寺《こはくじ》。これは吉祥天女像《きっしょうてんにょぞう》、第三は葛飾《かつしか》の輪廻寺《りんねじ》の――」
「まあ、後でゆっくり読んで、案を練るがいい。それについてもう一ついって置くが、そのピストルはこっちへ預けて行け」
 烏啼は、貫一のピストルを鷲《わし》づかみにして、さっさと懐中へ収《しま》いこんだ。貫一はあわてた。
「じょ、冗談を。それを召上げられては、こちとらは――」
「貫一。こんどの出獄を機会に、ピストルの使用を禁ずる。それがお前の身のためだ。しかといいつけたぞ」
「そんな無茶な……あっ、兄貴」
 烏啼は、つと立って奥へ入った、大狼狽《だいろうばい》の貫一と艶麗《えんれい》なるお志万をうしろに残して……


   たしかな腕前


 黒い森の上には戸鎌《とがま》のような月が懸っていた。春はどこかへ行っちまって、いやに冷え込む今宵だった。森をめがけて、すたすた近づいて来る一つの人影。
 それがいきなり跼《かが》んだかと思うと、かちッとライターの火が光った。やがて暗闇に、煙草の赤い一つ目が現われる。
「さて、仕事前の一服と……。寺はあれだな」
 と、ひとりごとをいうこの怪漢こそ、烏啼の館《やかた》から抜けて来た的矢貫一に違いなかった。うまそうに紫煙をすいこんでから、あたりに気を配り、それから手を上衣の内ポケットへ入れたと思うと、すぐ引出した手に、月があたってきらりと光るものが握られていた。
「このピストルの方が、筋はいいんだ。何が幸いになるか分らないもんだ」
 ちょっと片手で弄《もてあそ》んで、するりと元のポケットへ返した。烏啼のために愛用のピストルを取上げられた貫一は今夜の仕事に、すぐどこかで新しい上等のピストルを手に入れて来たのである。
「すみません、ちょっと火をお貸しなすって」
 不意に真暗から声がして、貫一の前に一人の男がのっそりと現われた。若い男だが、毛糸で編んだ派手な太い横縞《よこじま》のセーターに、ズボンはチョコレート色の皮ものらしいのをはき、大きな顔の頭の上に、小さい黄いろい鳥打帽をちょこんと乗せている。
「へえ、すみません。点《つ》きました」その男は二三遍頭を下げてから立上った。ズボンの皮が引張られるためか、変な音がした。「旦那、どこへいらっしゃるんで……」
「この先まで帰るんだが、ちょっと腰が痛くなって一休みしているんだ」
 と、貫一は出鱈目《でたらめ》をいった。
「そうですかい。この辺は物騒《ぶっそう》ですから、気をおつけなさい」
「お前さんは物騒でないのかい」
 と貫一は、ちょっとからかった。
「とんでもない。私は刑事ですよ」
「刑事? ははン、それはどうも……」
「じゃあ、気をつけてお出でなせえ、さようなら」
 縞馬《しまうま》の刑事は、向こうへすたすたといってしまった。後に貫一は、忌々《いまいま》しげに舌打をした。
 さあ仕事だ。今のうちに早いところ仕留めて置こうと、貫一はそれから森の中へ入っていった。
 二十分ばかり経つと、森の奥から、背中にむしろ包みの秘仏《ひぶつ》酒買の観世音菩薩の木像をしばりつけた貫一の姿が現われた。これは至極やさしい窃盗で得たもの、坊主たちは本堂をからにして奥へ引込んでどぶろくを沸かし、ダンス・レコードをかけてわいわいやっていた。その隙間に、至極かんたんに頂いて来たもの。
「待てッあやしい奴……」
 いきなり暗闇から、月光流れる街道の真中へとび出した人影。ばらばらとこっちへ駆けてくるところを、貫一が透《す》かしてみると、何のこと、さっき名乗った縞馬の刑事野郎であった。
 無体《むたい》に癪《しゃく》にさわった。背中に大きなものを背負っているから駆け出すわけにもいかない。ぐずぐずしていりゃあの若い奴に締められちまう。貫一の決心はついた。いきなりピストルを取出すと、がっちり覘《ねら》ってぷすンと一発――消音装置がしてあるから、音は低い。
 きゃッと、のけぞってぶっ倒れる刑事。そのとき貫一は、はっきり見た――彼の放った一弾は、刑事の右腕に命中し、そして二の腕あたりからもぎとって、すっとばしてしまったことを。
「ざまあ見やがれ。雉《きじ》も鳴かずば撃たれめえ。腕を一本放しちまえば、あとは出血多量で極楽へ急行だよ。じゃあ刑事さん、あばよ」
 貫一は、窮屈《きゅうくつ》な恰好で捨台辞《すてぜりふ》を重傷の刑事に残し、すたすたといってしまった。
 貫一は射撃に自信と誇りとを持っていたから、彼は未だ曾《かつ》て、狙った相手に対し、二発目をぶっ放したことがなかった。一発で沢山なのである。一発でもって、間違いなく、覘ったところへ弾丸を送りこんでしまうのが自慢だったし、確かにその通りで覘いが外《はず》れたためしがない。
 彼は揚々《ようよう》と烏啼の館へ立ち戻った。秘仏は彼の肩から下ろされ、地下の特別倉庫へ安置せられた。
「うまくやったのう」烏啼がちょっぴり賞めた。「何か変ったことはなかったか」
「いいえ、なんにも……」
 と貫一は刑事の件については語らなかった。


   油断《ゆだん》なき警戒


 第一夜の成功に味をしめて、貫一は第二夜を迎えると、予定のとおり品川の琥珀寺へ出掛けた。
 やっぱり空には戸鎌のような月が出ていて、貫一がやった昨夜の仕事を知っているぞという風に見えた。
 お寺は海端《うみばた》にあった。松の木の根元で煙草を吸いつけていると、引揚げられた舟の蔭から一人の男が立現われて、貫一に火を貸してくれといった。その男を見て貫一は愕《おどろ》いた。派手な毛糸を縞に編んだセーターを着、チョコレート色のズボンをはいた男だった。顔は大きく、頭の上に乗っている鳥打帽はいやに小さく、昨夜の刑事にたいへん似ているが、真逆《まさか》あの刑事ではあるまい。あの刑事なら右腕をつけ根のところから千切《ちぎ》られて、今頃は蒼い顔をして三途《さんず》の川を歩いている筈だった。――が、それにしても、声音《こわね》が似ているので、貫一はぞっとした。
 刑事は、自らそれを名乗ると共に、近所が物騒なことを告げて、向こうへ行ってしまった。昨夜と同じようだ。近頃の刑事というのは皆あんな服装をし、あんなことをいうように命令されているのだろうか。
 それから二十分後に、貫一は琥珀寺の秘仏である吉祥天女像を、荒ごもに巻いて背中に背負い、寺を出た、その寺では、坊主たちが気がついて騒ぎだしたが、貫一がピストルをポケットから出すと一同は温和《おとな》しくなり、貫一のいうことを聞いて一同は便所の中に本当の雪隠詰《せっちんづ》めとなった。
 貫一はその後で、便所の戸を釘づけにし、そして悠々と吉祥天女像を荷造して背負って寺を立ち出たのであった。
 と、だしぬけに「待て、賊!」と声をかけて、こちらへ駆けて来る者があった。月明かりに見れば、又しても例の変ったユニフォームを着た刑事だった。
 銃声一発! 刑事は蝙蝠《こうもり》のような恰好をして道路上に倒れたが、そのとき刑事の左腕が切断して宙にとぶのが見られた。
 貫一は、そのまま走り去った。前夜と同じことが続くとは、なかなか油断出来ない世の中になったものだわいと、彼は烏啼の館へ帰着するまで全身の緊張を解かなかった。
 地下の倉庫には、二体の秘仏が並んだ。烏啼は、やはりちょっぴりと貫一を賞め、そして「何か変ったことはなかったか」と訊《き》いた。貫一は異状なしと嘘をついた。
 その次の第三夜は、葛飾へ出掛けた。
 二度あることは三度あるというが、ふしぎにも同じことがあった。縞馬みたいな刑事が煙草の火を借りに来て、この辺は物騒だから要慎《ようじん》するように注意して去った。
「どうも変なことがあればあるものだ。毎晩同じような服装をした同じような刑事が現われて来やがる。……しかしまさか同じ人間じゃあるまいな。前の夜の刑事なら、あんなにぴんぴんしていられる訳がない。それに同じ刑事なら、煙草の火を借りるにしても、もっと何か前夜と連絡のあるような文句をいう筈だが、実際はそんなことはなかったんだからなあ。だから、やっぱり別の人間に違いない」
 その夜仕事が終って寺を抜け出て通りへ出た途端《とたん》に、またもや約束事のように、刑事がとび出して仏像を背負った貫一を後から呼び留めた。
「これでも喰《くら》え」
 貫一の放った一弾は、刑事の右の脚を、膝の上のあたりで切断をしてしまった。刑事は、すってんころりと転んだが、気丈夫な奴と見えて匐《は》いながら、千切れた脚をつかんで頭の上にさしあげたと思うと、ぱったり倒れて動かなくなった。――貫一は、ざまを見やがれと捨台辞を残して、その場を退散した。
 烏啼の館に、尊い仏像は三体も集った。
「異ったことはなしか、今夜はいやに顔色が良くないが……」
 と烏啼が訊いたが、貫一は例によって異状なしと頑張った。
 第四夜は世田谷《せたがや》方面だった。
 さすがの貫一も、その夜は少々気味が悪くて、足がいつものように楽に進みはしなかった。
「旦那。すみません、煙草の火を貸して下さい。すみません」
 又もや同じような服装の刑事に違いない男が寄って来た。
「君は毎晩おれのところへ火を借りに来るじゃないか」
 と、貫一はもうたまらなくなって、前後の見境もなく、そんな言葉を吐いてしまった。
「えっ、何ですって、毎晩旦那の前に私が現われますって。へッ、冗談じゃありませんよ、お目に懸《かか》るのは今夜が始めてで……」
 刑事は、そういって否定した。貫一の予期したとおりであったので、彼はほっとした。かの刑事が立去る後姿を、貫一は注意力を傾けて見ていたが、それは満足すべきものであった。なぜなれば、もし彼の刑事が昨夜貫一が撃って右脚を砕いた刑事と同一人だったとしたら、どんなに幸運に考えても足をひきそうなものであったが、彼はすこしもそんな風に見えなかったのである。もっとも、よく考えてみれば、右脚を失った人間が、その翌晩平気な顔をして煙草の火を借りに出て来られるものか来られないものか、すぐ分ることであった。
 夢徳寺《むとくじ》から弥勒菩薩《みろくぼさつ》の金像を背負って出で来た貫一の行手に、またもや縞馬姿の刑事が立ち塞《ふさが》ったのには、さすがの貫一もぞっとした。毎晩の如く現われて尽きる模様もない刑事の執念《しゅうねん》――というか、徹底した警戒ぶりに、貫一は日頃の自信が崩れ出したのを認めないわけに行かなかった。
「よくも毎晩のように邪魔をしやがる。くそッ、これを喰え」
 ピストルは一発、発射された。
 それは見事に刑事の左脚に命中し、太腿《ふともも》のところから千切ってしまった。貫一の使っているのは特殊な破壊弾であったから、こんな工合に恐ろしい破壊力を発揮するのであった。
 貫一は仏像を背負ったまま、今夜は倒れた刑事の方へ近づいた。月光の下に展開する凄惨《せいさん》な光景。
「間違いなく、左脚がちょん切れている。当人は虫の息だ。なまぐさい血の海。――あと二三十分の寿命《じゅみょう》だろう。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
 貫一は安心をして、その場を立った。
 烏啼の館に、四体の仏像が集った。烏啼はいつもの口癖で、なにかなかったかと訊いたが貫一はいつもの口癖で、異状なしと答えた。


   弥陀本願《みだほんがん》


 いよいよ大願成就《たいがんじょうじゅ》の第五夜となった。
 今宵のお寺は、練馬《ねりま》の宇定寺《うていじ》で、覘う一件は、唐の国から伝来の阿弥陀如来像《あみだにょらいぞう》であった。月はかなりふくらんで中天に光を放ち、どこからともなく花の香のする春の宵であった。
 またもや縞馬姿の刑事が、森蔭を出て、煙草の火を借りに来たのには愕くよりも呆《あき》れてしまった。
「君は、たしかに毎晩出て来る男に相違ないよ。君は幽霊かい」
「冗談じゃないですよ。私はこのとおりぴんぴん生きています」
 刑事は、貫一の前で地響をたてて四股《しこ》を踏み、腕を曲げてみせた。なるほど幽霊ではなさそうだ。
「でも変だね。たしかに命中して腕をとばし脚を千切り……いや、これはこっちのことだが、おれはさびしいや」
「全くこの辺は物騒ですから、気をおつけなさい」
 刑事が行ってしまうと、貫一は、
「おれがピストルを持てば天下無敵だと思っていたが、その腕前ももう怪《あや》し気《げ》なもんだ」と歎息した。
 仏像を背負って出て来た貫一を、やはり前四夜と同じように遠方から見咎《みとが》めて駆付けて来る縞馬姿の刑事! 貫一はピストルを握って、刑事の首に覘いをつけた。今夜は思い切って刑事の首を飛ばしてやろうと考えたのだ。
 だが彼はその寸前に思い停って、もう一度右腕を覘って、一発ぶっ放した。すると刑事は蝙蝠のような恰好をしてとび上ったと思うとその場にぱったり倒れた。彼の右腕は、彼の身体から二メートルも離れたところに転がっていた。
 貫一は、傷つける刑事の傍に寄った。刑事は虫の息だった。貫一は、むらむらとして、ピストルを取直すと、刑事の心臓に覘いをつけた。……が、間もなく彼は周章《あわ》ててピストルを持った手をだらりと下げた。
「……おれが二発目を発射するような気になるなんて、もう焼きが廻ったんだ。ピストルも、今夜かぎり、お別れだ」
 そういうと貫一は、ピストルを空高く投げた。やがて森かげの池の水が、ぽちゃんと鳴って、貫一無念のピストルを呑《の》んだ。

 五体の秘仏の前で、一心発願した的矢貫一が、お志万と結婚の式をあげた。
 烏啼も大よろこび、お志万はいうに及ばず貫一も今は万更《まんざら》ではない面持で、お志万の手を握って放さなかった。
 眷族《けんぞく》や仲間が百名ちかく集っての盛大な酒宴が開かれ、盃は新郎新婦へ矢のようにとんだ。
 宴の半ばに二人連れの客が、新郎の前にぴたりと座った。貫一はその客を見て愕いた。一人は猫背に黒眼鏡の、有名な探偵袋猫々であったし、もう一人は縞馬服の例の刑事であったから。
「わっはっはっ」と、貫一の横に座っていた烏啼が大きく笑った。
「貫一。このお二人さんによくお礼を申上げな。これはお前たちの大恩人だからね」
「この幽霊め、また今夜も出て来たか」
「おい、そんなことをいってはいけない。この方は、袋猫々先生が特に探して来て下すった福の神で、実はこの方は、戦争で両腕両脚をなくされて、手足四本とも義手義足をはめられていられる方なんだ。いいかね、そこでお前は思い当ることがあるだろう」
「おお……」
「義手や義足をピストルで撃ってみても、すぐお替《かわ》りをはめて元のようになるわけだ。もっともこの春山さんは、赤インキなども用意して実感を出して下さったようだが、とにかくお前がピストルと別れてくれたことはおれも嬉しい。今の時勢に、ピストルを振廻して人命を傷つけるなんてことは、野蛮にして下劣、最も罪が重いんだからね」
「兄貴の智慧にしちゃ上出来だ」
「いや、この芝居はおれが書いたんじゃなくて、ここにお出でなさる名探偵袋猫々先生にお智慧拝借の結果だよ。猫々先生によくお礼を申上げなよ。……しかしおれはお前のお蔭で、これまで下げたことのない頭を、宿敵《しゅくてき》猫々野郎の前に下げたんだぜ。ざまはねえや」
 烏啼はそういって、探偵袋猫々に向って合掌《がっしょう》した。彼の両眼は義弟の更生《こうせい》を謝《しゃ》する涙にうるんでいた。



底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
   1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「実話と読物」
   1947(昭和22)年5月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
青空文庫作成ファイル:
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