青空文庫アーカイブ

金属人間
海野十三

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)確率《かくりつ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)針目|逸斎《いっさい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ここでごひろう[#「ごひろう」に傍点]しておきたい
-------------------------------------------------------

   こんな文章


 およそ世の中には、人にまだ知られていない、ふしぎなことがずいぶんたくさんあるのだ。
 いや、ほんとうは、今の人々に話をして、ふしぎがられる話の方が、ふしぎがられない話よりもずっとずっと多いのだ。それは九十九対一よりも、もっととびはなれた比であろうと思う。
 つまり、世の中は、ふしぎなことだらけなのだ。しかし、そう感じないのは、みなさんがたがどこにそんなふしぎなことがあるか知らないからだ。また、じっさいそのふしぎなものに行きあっていても、それがふしぎなものであることに、気がつかない場合が多い。
 それからもうひとつ――。
 人間の力では、どうにもならないことがある。それは運命ということばで、いいあらわされる。この運命というやつが、じつにふざけた先生である。運命に見こまれてしまうと、お金のない人が大金持になったり、またはその反対のことが起こったり、いや、そんなことよりも、もっともっと意外なことが起こるのだ。
 宝くじの一等があたる確からしさを、いわゆる確率《かくりつ》の法則《ほうそく》によって計算することができる。その法則によって出てきたところの「宝くじの一等があたる確からしさ」の率は、万人に平等である。その当せん率のあまりにも低いことを知って、万人は宝くじを買うことをやめるはずになっている。その確率の法則を作った学者や、それを信奉《しんぽう》する後続《こうぞく》の学究学徒《がっきゅうがくと》の推論《すいろん》によれば……。
 だが、事実はそうでなくて、宝くじがさかんに売れている。それはなぜであろうか。それは、とにかく事実一等にあたって二十万円とか百万円とかの賞金をつかむ人が、毎回十人とか二十人とか、ちゃんと実在《じつざい》するので、自分もそのひとりになれないこともないのだと、さてこそ宝くじを買いこむのである。
 その人たちの感じでは、当せん率は、確率の法則が算定してくれる率よりも、何百倍か何千倍か、ずっと多いように感ずる。これはいったいなぜであろうか。
 一言でいうと、世の中の人々は、確率論をまもる学者よりは、ずっと正しく、運命を理解しているからだ。すなわち運命がおどけ者であるということを、わきまえているのである。とうぜんとっぴょうしもない出来事をおこさせるおどけ者の運命は、案外わたくしたちの身近に、うろうろしているのだ。奇蹟《きせき》といわれるものは、案外たびたび起こるもので、わたくの感じでは、一カ月にいっぺんずつぐらいの割合で、奇蹟がおこっているのでないかと思う。
 ふしぎと運命と、そしてひんぱんに起こる奇蹟とに「世の人々よ、どうぞ気をおつけなさい」と呼びかけたい。
   一月十日
[#下げて、地付きで]金属Qを創造する見込みのつきたる日しるす
[#下げて、地より3字あきで]理学博士 針目左馬太《はりめさまた》


   次の語り手


 右にかかげた日記ふうの感想文は、その署名によって明らかなとおり、針目博士《はりめはくし》がしたためたものである。
 これは博士の書斎にある書類棚《しょるいだな》の、原稿袋の中に保存せられていたもので、後日《ごじつ》これを発見した人々の間に問題となった一文である。
 みなさんは、針目左馬太博士のことについて、今はもうよくご存じであろうから、べつに説明をくわえる必要はない。だが、この事件の起こった当時においては、この若き天才博士のことを、世の人々はほとんど知らなかったのである。
 博士は、わずか二十三歳のときに博士号をとっている。その論文は「重力《じゅりょく》の電気的性質、特に細胞分子間《さいぼうぶんしかん》におけるその研究」というのであった。これは劃期的《かっきてき》な論文であったが、またあまりにとっぴすぎるというので、にがい顔をした論文審査委員もあった。しかしけっきょく、これまでにこれだけのすぐれた綿密《めんみつ》な境地《きょうち》を開いた学者はいなかったので、この博士論文は通過した。そのかわり、審査に一年以上を要したのであった。
 その間に針目博士――いや、まだ博士にはなっていない針目左馬太学士《はりめさまたがくし》は、大学の研究室を去って、みずから針目研究室を自分の家につくり、ひたむきな研究に没頭《ぼっとう》した。
 さいわいにも、針目博士の家は、曾祖父《そうそふ》の代からずっと医学者がつづいており、曾祖父の針目|逸斎《いっさい》、祖父の針目|寛斎《かんさい》、父の針目|豹馬《ひょうま》と、みんな医学者であり、そして邸内に、古めかしい煉瓦建《れんがだて》ではあるが、ひじょうにりっぱな研究室や標本室、図書室、実験室、手術室などがひとかたまりになった別棟《べつむね》の建物があったのである。当主《とうしゅ》である彼、左馬太青年がそこを仕事場にえらんだことは、しごく自然であった。
 不幸なことに――他人が見たら――かれは、もっか身よりもなく、ただひとりであった。両親と弟妹《ていまい》の四人は、戦争中に疎開先《そかいさき》で戦災《せんさい》にあって死に、東京で大学院学生兼助手をして残っていた、かれ左馬太だけが生き残っているのである。そういう気の毒なさびしい身の上であったが、かれ自身はいっこう気にかけていないように見え、その広い邸宅に、四人の雇人《やといにん》とともに生活していた。
 博士論文が通過するまでの約一年間に、かれがまとめあげた研究論文は五つ六つあった。その中に、特にここでごひろう[#「ごひろう」に傍点]しておきたいのは「細胞内における分子配列と、生命誕生の可能性、ならびにその新確率論《しんかくりつろん》による算定《さんてい》について」というのであった。
 この論文といい、また博士論文に提出したあの論文といい、かれが研究の方向を、細胞の分子に置いていることが、これによってうかがわれる。こういう研究の領域《りょういき》は、わが国はもちろん、世界においても今までに手がつけられたことがなく、じつに研学《けんがく》の青年針目左馬太によってはじめて、メスを入れられたところのものであった。
 しかもかれは、すこぶる大胆にも「生命の誕生」という問題を取り上げているのだった。はたしてかれの論文が正しいかどうかは別の問題として、かれはつぎのようなことを結論している。
[#ここから2字下げ]
(――細胞内における分子が相互にケンシテイションをひき起こし、そのけっか仮歪《かわい》のポテンシャルを得たとすると、これは生命誕生の可能性を持ったことになる)云々。
[#ここで字下げ終わり]
 これが重大なる結論なのである。生命が誕生する可能性をもつ条件が、要約せられているのである。
 しかし、ケンシテイションとはどんな現象なのか、仮歪《かわい》のポテンシャルとはどんな性質のものか、それについてはこの論文を読んだ者はひじょうな難解《なんかい》におちいる。だが針目青年には、これがよくわかっていて、論文中いたるところにこれを駆使《くし》している。思うに、この二つの専門語を知るためには、これよりもまえに書いた、彼の他の論文を読破《どくは》しなければならないのであろう。
 それはともかく、かれの研究は生命誕生の可能性にまで達していると思われる。これはこれまでの生物学者も医学者も、まったくふれることのできなかった難問題である。それを二十歳を越えたばかりの白面《はくめん》の青年学徒が、みごとに手玉にとっているのであるから、なんといってよいか、じつに原子力行使《げんしりょくこうし》につぐ劃期的な文明開拓だといわなければならない。もっとも、世の多くの頑迷《がんめい》な学者たちは、にわかにこの青年学徒のしめすところの結論を信用しないであろうけれど……。そして読者諸君はこれからくりひろげられる物語の事実により、はたしてかれの研究が本ものか、それとも欠陥《けっかん》があるかを判定されればよいのである。
 さてここで、さきにかかげた博士の日記ふうの随筆にもどるが、その内容は、さほど奇抜《きばつ》すぎるというものではない。あそこに述べられたような感じは、われわれとても、ふだんふと心の中にいだくことがある。
 じつは、右の内容について、大いに気にしなければならぬことがあるのであるが、ここにはふれないでおく、それはいずれ先へ行ってから、いやでもむきになって掘りかえさなければならない時がくるのであるから。
 ただ、ここにはその文章の最後のところに書いてある一文について、読者の注意をうながしておきたいのだ。
 すなわち、こうである。
[#ここから2字下げ]
(一月十日、金属Qを創造《そうぞう》する見込《みこ》みのつきたる日しるす)
[#ここで字下げ終わり]
 とある。
 おかしいとは思われないか。これまでずっと細胞分子の問題や、それに関連しての生命誕生のことなどばかりを取りあげていた針目博士が、こんどは急にがらりと目先をかえて、金属の製造研究に没頭していることである。
 金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。
 いや、金属というものは、精錬《せいれん》され、あるいは別のものに化成され、または合金《ごうきん》にされることはあるが、金属そのものを製造することはない――というひともあろう。つまり金属である銅とか鉄とかは、はじめからそういう形でこの地球に存在しているのであって、銅とか鉄などが製造または創造されるというのはおかしい。そういう抗議が出そうな気配《けはい》がする。
 しかし、たしかに針目博士は“金属を創造する”と書いてあるのだ。ウラニュウムをぶちこわしてカルシュウムを製造または創造するとはいわないであろうか。
 いや、それは潔癖《けっぺき》にいうと、製造ではないし、もちろん創造ではない。アダムのからだから肋骨《ろっこつ》を一本取り去ったとき、その直後のアダムのことを、前のアダムから製造したといわないのと同様である。
 そうなると、針目博士が使用した“金属の創造”というのは、いったいどんな意味なのか、深い謎のベールに包まれているように感ずる。――まあ、そのことは、今は大目に見のがすこととして、“金属Q”というものはいったい何だと、ちょっと考えてみなければなるまい。
 Qなどという記号の元素は、九十二または九十三の元素表《げんそひょう》の中にまったく見出されない。そうすると、金属Qなるものは、それ以外の新元素かもしれないと考えられる。これは誰でもそう考えるだろう。
 つまり針目博士は、新金属Qをはじめて作りだす研究をやっていたものであるとするのである。元素表はもういっぱいであるのに、新元素があってたまるものかとも考えたくなる。どんな奇抜な方法によって、新元素を作り出したつもりでも、けっきょくは元素表にある元素の一つであるか、あるいはその同位元素であるというところに、収斂《しゅうれん》してしまうのがおちであろう。
 だが、ここにもう一度よく考えてみなければならないことがある。
 それは、われわれのような俗人《ぞくじん》が論ずるから右のようになるが、しかし非凡《ひぼん》なる頭脳《ずのう》と深遠《しんえん》なる学識《がくしき》をそなえた針目博士自身としては、新しい金属の創造などということは、けっして不可能なことではないと思われるのではあるまいか。そのへんのことは、われわれのうかがい知ることのできない領域《りょういき》だと、一時しておこう。
 そこでもう一度、本筋へもどって考える。なぜ針目博士は、あのすばらしい生命誕生の研究をやりっぱなしにして、新金属などの創造にくらがえをしたのであろうか。惜《お》しいではないか。
 さあ、この答は、まったくむずかしい。博士は金属製造ということに、よほど強い魅力《みりょく》を感じたのであるかもしれない。だが、金属製造などということが、生命誕生の研究いじょうにそんなに魅力があるとは思われないではないか。けっきょく察しられることは、二つである。かの生命誕生の研究がまったく行きづまってしまい、研究の方向をかえなくてはならなかったものか。それともひじょうに特別な場合として、金属製造という研究の命題が、特に博士をすっかりひきつけてしまうほどの、ある出来事があったのではなかろうか。
 たぶん、あとの方があたっていると思う。なぜといって、前の方のように、あれだけ研究をつんだ生命誕生の研究が、一夜でばったり行きづまるようなことは、まずもって考えられないからである。
 そうなると、博士をきゅうに金属Q製造の方へひきつける動機となった、そのある出来事なるものはいったい何であったか、はなはだ興味をひかれる。――とにかくこの問題は、じつはまだ解《と》けていない。それで、それはそれとして、針目博士がとつぜんわれわれの前へ脚光《きゃっこう》をあびてあらわれた、そのお目見得《めみえ》の事件について、これから述べようと思う。
 それは恐ろしいなぞ[#「なぞ」に傍点]にみちた殺人事件であった。針目博士邸において、お手伝いさん谷間三根子《たにまみねこ》が密室においてのど[#「のど」に傍点]を切られて死んでいた事件である。
 申しおくれたが、わたしは探偵|蜂矢十六《はちやじゅうろく》という者である。


   密室の事件


 この血みどろな事件を、あまりどぎつく記すことは、さしひかえたい。これはそういう血みどろなところをもって読者をねらうスリラー小説、もしくはグロ探偵小説とは立場を異《こと》にしているのであるから……
 どのようにして谷間三根子《たにまみねこ》が死んでいたか。そして、そこはどんなぐあいに外からの侵入《しんにゅう》をゆるさない密室であったか――を、まずのべたいと思う。
 谷間三根子はお手伝いさんであった。としは二十三歳であった。お三根《みね》さんと呼ばれていたから、これからはお三根と書こう。
 お三根は、ほかのお手伝いさんとはちがい、ひとりだけ針目博士の研究所である煉瓦建《れんがだて》の建物の中に部屋をあたえられて住んでいた。もっともそれは主家《おもや》から廊下《ろうか》がのびてきているとっつきの部屋であった。
 お三根がそこにいるわけは、博士が仕事をしているとき、きゅうに雑用ができた場合に、すぐさまとんで行けるためだった。
 博士は主家に寝室があったが、研究は徹夜でつづけられることもすくなくなかったし、またそのまま研究室の長いすで寝てしまうこともあったから、どっちかというと、博士はいつも研究室の屋根の下で暮らしていたといったほうがよいであろう。
 さてそのお三根は、三月一日の朝、いつまでたっても起きてくるようすがないので、朋輩《ほうばい》の者どもがふしんに思い、お三根の部屋のまえに集まって、入口のドアをわれるようにたたきつづけた。
 だが、お三根はやっぱり起きてこなかったし、部屋の中で返事もしない。そこで一同は、いちおう主人の博士のゆるしを乞《こ》うたうえで、力をあわせてそのドアをぶちこわしにかかった。
 ドアには、内側からかぎ[#「かぎ」に傍点]がかかっていたので、このドアにみんなが力をあわせてからだをぶっつけてこわすしか、いい方法がなかったのだ。貞造《ていぞう》という男と、お松とおしげというふたりのお手伝いさんの三人が、このドアにぶつかったのだ。しかしなれない仕事のこととて、はじめはうまくいかず、からだが痛くなるばかりなので一息ついて休んだ。
「だめだねえ」
「だって、錠《じょう》をこわすのはなんだかもったいないようでね、力がはいらないよ」
「それどころじゃない。早くあけてみないととんだことになるぞ。お三根どんは死んでいるんじゃないかね」
「まさかね。あんな元気のいい人が、心臓まひでもあるまいよ」
「さあ、もう一度力を出して、やってしまおう。こんどは何としてでも錠をこわしてしまうんだよ」
 三人は、ふたたびドアの方へよってきて身がまえた。
 と、そのとき部屋の中で、がちゃんとガラスがこわれるような音がした。
「あれッ、中で音がしたよ」
「お三根さん、起きているんだよ。ひとが悪いわね」
 そこで彼らは、かわるがわるお三根の名を呼んだ。だが、そのこたえはなかった。
「誰か中にいるんだよ。おお、こわい」
「ネズミじゃないかしら」
「ネズミがあんな大きな音をたてて、ガラスをこわすもんですか」
「とにかく、これはただごとじゃないよ。わしらだけであけるのはやめて、お巡《まわ》りさんにきてもらったうえでのことにしようや」
 男の貞造が、そういって尻《しり》ごみをしたので、お松とおしげもきゅうに、こわさが増《ま》して、もう力を出す気がなくなった。
 そこでもう一度、奥の主人にことわったうえ、おしげが交番へ警官を呼びにいった。
 やがて若い警官の田口さんというのがきてくれた。そこでこんどは四人が力をあわせて、ドアにぶつかった。
 四、五回ぶつかると、錠《じょう》がこわれて、重いドアは風を起こして、さっと内側に開いた。
「ああッ……」
「こわい!」
 ねまきを着たお三根が、入口からすぐ見える部屋のまん中に、あけにそまって倒れていた。
 その部屋は、あとでたたみの間になおした部屋であったが、広さは十二畳もあった。お三根の寝床は左の壁ぎわにしいてあったが、お三根の死体はその中にはなく、たたみの上にあったのだ。
 寝床は、この中で寝ていたお三根が何かの理由があって、ふとんをはねのけてはいだしたものと察せられた。
 お三根は、左の頸動脈《けいどうみゃく》を切られたのが致命傷《ちめいしょう》であることがわかった。なお、お三根の両手両腕と顔から腕へかけたところに、たくさんの切りきずがあったが、それはたいして深くない傷ばかりであった。
 お三根を殺傷《さっしょう》した凶器《きょうき》は、なんであるかわからないが、なかなか切《き》れ味《あじ》のいい刃物《はもの》であるらしく、頸動脈はずばりと一気に切断されていた。
 死斑《しはん》と硬直から推測して、お三根の死は今暁《こんぎょう》の午前一時から二時の間だと思われた。
 警官の通報が本署へとんだので、検察局からは長戸検事の一行がかけつけた。
「……で、この部屋に死者のほかに誰かいたのかね。つまり午前九時に、この電灯のかさがこわれる音を、この雇人たちがたしかに耳にしたというが、このかさをこわした者は発見されたのかね」
 検事が、たずねた。
「いえ。わたしたちが入りましたとき、部屋の中をよく探しましたが、誰もいなかったのです。この婦人の死体だけでありました。凶器も見あたりません。部屋としてはそこは完全に密室なのです。そとから犯人の侵入《しんにゅう》した形跡《けいせき》がないのです。ふしぎですなあ。まさかこれは自殺じゃないでしょう」
 と田口警官はいった。
「自殺ではない。たしかに他殺事件だ。とにかくこれは容易《ようい》ならぬ事件だ」
 長戸検事は顔をしかめた。
 いったいお三根は誰に、どうして殺されたのか。凶器《きょうき》はどこにあるのか。おなじ屋根の下に一生けんめい研究をつづけている針目博士に、この事件は関係が有るのかないのか。謎はいつとかれるのであろうか。


   白昼《はくちゅう》の怪《かい》


 長戸検事の面上に、ゆううつな影がひろがっていく。まったく奇怪《きかい》な事件だ。
 室内には、犯人のすがたが見つからない!
 そしてこの部屋は密室で、出入りをすることができないようにしまりがしてあった。
 凶器もまだ発見されない!
 しかもあのとおり、若い婦人が頸動脈をみごとに斬られて絶命《ぜつめい》している!
 けっして自殺事件ではない!
 理屈《りくつ》にあわない事件だ。奇怪な事件だ。
 いや、理屈にあわないとはいいきれない。いま一時、この場のようすが理屈にあわないように見えるだけで、ほんとうは、これで完全に理屈にあっているのにちがいない。ただ、その正しい理屈が、まだ発見されていないのだ。とけていないのだ。
 この一見、理屈にあわない事件の謎を、どうといたらいいのか。
 長戸検事が、次第にゆううつな顔つきになっていくのもむりはない。
「もう一度、この部屋をねん入りに捜査《そうさ》してくれたまえ。兇器《きょうき》、指紋《しもん》、証拠物件《しょうこぶっけん》、死者の特別の事情に関する物件など、よくさがしてくれたまえ」
 検事は、連れてきた川内警部《かわうちけいぶ》をはじめ、部下たちにそういって捜査を再開させた。
「田口君、この家の主人には会見したのかね」
 検事はそういって、一番はじめにこの邸《やしき》へかけつけた警官にたずねた。
「いいえ、まだです」
「それは、どうして……」
 検事は、合点《がてん》がいかないという。
「私は、ここへくる早々《そうそう》、この邸の雇人をつうじて会いたいと申しこんだのです。しかしその返事があって“今いそがしいから会えない。邸内は捜査ご自由”ということなんで、そのまま仕事を進めていました」
「なるほど。しかしそれは変っている人だなあ」
「それは検事さん。針目博士といえば、変り者として、この近所ではひびいているのです」
 長戸検事はあとのことばを、田口警官の顔の近くへ口をよせていった。
「きみは、これからその主人に会って、検事がお会いしたいといっていると、会見を申しこんでくれたまえ」
「はい」
 田口警官は、この部屋を出ていった。
 長戸検事は、そのあとで室内をぐるぐる見まわしていたが、やがてかれの目は一点にとまった。それはこの部屋のまん中に、天じょうからさがっている電灯《でんとう》のガラスのかさ[#「かさ」に傍点]であった。
 検事は歩きだして、そのまま下までいった。かさは検事の頭よりわずかに高かった。
「かけている。かさがかけている。新しいきずだ」
「ああ、そのガラスの破片《はへん》なら、ここにこれだけ落ちていました」
 と、検事の部下の巡査部長の木村が、紙片に包んであったものをひろげて見せた。
「その破片は、このかさにあうかしらん」
「はい。ぴったりあいます。さっきためしてみました」
 検事は、まんぞくそうにうなずいた。
「この入口のドアをこわす前に、この室内でガラスのこわれる音がしたと、この家の人たちは証言しているが、そのときこわれたのは、この電灯のかさなんだ。すると、被害者ではない他の生きている人間が、そのときこの室内にいたことになる。おそらくそれが犯人であろう」
 検事は、ここまでは明快な判断をくだした。しかしそのところでかれは、はたとつまった。
「……しかるに、この部屋をひらいて中をしらべてみたが、被害者いがいに人間のすがたはなかったのだ。おかしい。……犯人はどうしてもあのとき、この部屋の中にいたにちがいないのに、なぜすがたを見せないんだろう」
 検事は、しきりに小首《こくび》をかしげている。
「検事さん。この部屋は密室と見せかけて、じつはどこかに秘密の出入口があるのではないでしょうか」
 と、木村巡査部長はいった。
「そこから犯人は、いち早く逃げだしたという考えだね。そうなれば、早くその秘密の出入口を見つけてもらいたいものだ」
「いま一生けんめいに心あたりをさがしているんですが、まだ見つかりません。この家の主人が出てきたら、といただしていただくんですね。主人ならかならず知っているはずですから」
「なるほど」
「検事さん。ここの主人は、どうもくさいですよ。わたしは第六感でそう感じているんですが……」
 といっているとき、とつぜん室内で大きな声がした。
「あっ、やられたッ。誰か手をかしてくれ。足を斬られた」
 その叫び声は、ふとった川内警部の声だった。警部は部屋の一隅《いちぐう》にしりもち[#「しりもち」に傍点]をつき、右足をおさえている。かれの顔には血の色がなかった。どうしたのだろう。誰に斬られたというのであろうか。


   二重負傷事件


 川内警部の両手は、鮮血《せんけつ》でまっ赤だった。
 後からわかったことであるが、警部の傷はかれの右足のすこし上にある動脈《どうみゃく》が、するどい刃物《はもの》で、すぱりと斬《き》られているのだった。だから鮮血がふんすい[#「ふんすい」に傍点]のようにとびだしたわけである。
 検事たちがかけつけて、みんなで応急手当をくわえた。
「どうしたんだ。どうしてそんなけが[#「けが」に傍点]をしたのかね」
 検事はきいた。
「さあ、それがどうもわからんのですよ」
 警部は顔をしかめて言った。
「こんなひどいけがを自分でする者はありませんよ。たしかに斬られたと思ったんですが……ところが、自分のまわりを見まわしても、誰も下手人《げしゅにん》らしい者がいない」
「じゃあ、やっぱり、けがだろう」
「けがじゃないですよ、検事さん」
 と警部は承知しない。
「斬られたときはちゃんとわかりました。足へ何だかかたいものがあたり、それから火をおしつけたような熱さというか痛みというか、それを感じました。わたしはちょうど押入《おしい》れをあけて、中にあった木の箱を持ちあげていたので、すぐには足の方が見られなかったんです。箱をそこへおいて、そこから足の方を見て、ズボンをまくってみるとこれなんです。ズボンも、こんなにさけています。しかしこれは刃物がズボンの中から外へ向けていますね。外から刃物があたったんじゃないです」
 さすがに警部だけあって、目のつけどころが正しい。しかしかれの足を斬ったという凶器はいったいどこにあるのか。
「その傷をこしらえた刃物《はもの》は見つかったかね」
 検事がきいた。
「それがそれが……見つからないんです。おかしいですなあ」
「よく探してみたまえ。みんなも、手わけをしてさがしてみるんだ」
 検事の命令で、捜査係官は警部のまわりを一生けんめいにしらべた。押入れ、ふとんの中、ふとんの下、かもい、床の間、つんである品物のかげ――みんなしらべてみたが、ナイフ一ちょう出てこなかった。
「へんだなあ。なんにもないがねえ」
「そんなに深い傷をこしらえるほどの品物もないしねえ……」
 まったくふしぎなことである。
 そのとき田口巡査が入ってきて、このありさまを見るとびっくりして、警部のそばへよってきた。
「どうなすったんですか」
「足を斬られたらしいんだが、その斬った兇器《きょうき》が見あたらないんだ」
「おお、田口君。きみはいったいどうしたんだ」
 検事が、とんきょうな声を出した。
「どうしたとは、何が……」
 田口はけげんな面持《おもも》ちである。
「きみの顔から血が垂《た》れている。痛くないのか。ほら、右のほおだ」
「えっ」
 田口はおどろいて、手をほおにあてた。その手にはべっとり血がついていた。同僚《どうりょう》たちは、みんな見た。田口の顔の半分がまっ赤にそまったのを。
 川内警部の負傷といい、今また田口の負傷といい、まるでいいあわせたように、同じ時に同じような傷ができるとは、どうしたわけであろうか。
「やっぱり、そうだ。するどい刃物でやられている。きみは、自分のほおを斬られたのに、そのとき気がつかなかったのかい」
「さっぱり気がつきませんでした」
「のんきだねえ、きみは……」
 検事があきれ顔でそういったので、同僚たちも思わず笑った。
「今になって、ぴりぴりしますがねえ」
「いったい、どこで斬られたのかね」
「さあ、それが気がつきませんで……いやそうそう、思いだしました。さっき針目博士の室の戸口をはなれて廊下をこっちへ歩いてくるとちゅう、なんだか向うから飛んできたものがあるように思って、わたしはひょいと首を動かしてそれをよけたんですがね。しかし、なにも飛んでくる物を見なかったんです。ぱっと光ったような気がしたんですが、それだけのことです」
「きみは、どっちへ首をまげたのかい」
「左へ首をまげました」
「なるほど。首をまげなかったら、きみももっと深く顔に傷をこしらえていたかも知れないね。生命《いのち》びろいをしたのかもしれないぞ」
 検事にそういわれて、田口巡査は首をちぢめた。
「しかしわたしは何者によって、こんなに斬られたんでしょうか」
「田口君。それは今一足おさきに斬られた川内警部も、おなじように首をひねっているんだ。これは大きな謎だ。だが、その謎は、この邸内《ていない》にあることだけはたしかだ」
 と、長戸検事は重大なる決意を見せて、あたりを見まわした。


   飛ぶ兇器《きょうき》か


 ふたりの係官の負傷の手当はすんだ
 川内警部はかなり出血したが、この家のお松とおしげが持ってきたブドー酒をのんだあと、すっかり元気をとりもどした。
「ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです」
「なるほど」
「わたしはいろいろ、ドアをへだててくりかえしいってみたんですが、博士はがんとして応じません。ろくに返事もしないのですからねえ、係官を侮辱《ぶじょく》していますよ」
 田口警官は、ふんがいのようすであった。
「向うでいま会いたがらないのなら、会わないでもいいさ」
 と検事はさすがにおちついていた。
「しかしこの怪事件について、博士はじぶんの上に疑惑《ぎわく》の黒雲《こくうん》を、呼びよせるようなことをしている」
「ねえ、長戸《ながと》さん」
 と川内警部《かわうちけいぶ》がいった。
「わしはこの邸《やしき》にはふつうでない空気がただよっているし、そしてふつうでないからくり[#「からくり」に傍点]があるように思うんですがな……。で、例のするどい刃物を、何か音のしない弓かなんかで飛ばすような仕掛けがあるのではないでしょうか。博士というやつは、いろいろなからくり[#「からくり」に傍点]を作るのがじょうずですからね」
「きみの足首を斬った犯人が姿を見せないので、きみはからくり説へ転向したというわけか」
 検事はやや苦笑した。
「どこか天じょう穴があるとか、壁の下の方に穴があるとかして、そこからぴゅーッと刃物のついた矢をうちだすのじゃないですかな。この家の博士なら、それくらいの仕掛けはできないこともありますまい」
「刃物を矢につけて飛ばすとは、きみも考えたものだ。しかしその刃物も、見あたらないじゃないか」
「いや、まだわれわれの探しかたがたりないのですよ。兇器がなくて、ぼくや田口がこんな傷をおうわけはないですからね」
 そういっているところへ、戸口からのっそりとこの室内へはいってきた者があった。
 近眼鏡《きんがんきょう》をかけた三十あまりの人物だった。あおい顔、ヨモギのような長髪《ちょうはつ》がばさばさとゆれている。下にはグリーンの背広服を着ているが、その上に薬品で焼け焦げのあるきたならしい白い実験衣《じっけんい》をひっかけている。
 紫色の大きなくちびるをぐっとへの字にむすんで、お三根《みね》の死体をじろりと見たが、べつにおどろいたようでもなく、かれは視線を係官の方へうつす。
「ぼくが針目です。ぼくに会いたいといっていられたのはどなたですか」
 検事はさっきからこの家の主人公である針目博士か入ってきたことを知っていたが、博士がどんな挙動《きょどう》をするかをしばらく見定めたいと思ったので、今まで知らぬ顔をしていたのである。
「ああ、それはわたしです。わたしが会見を申しこんだのです。検事局の長戸検事です」
 検事ははじめて声をかけた。
「検事! ふーン。お三根《みね》の死因はわかりましたか」
 博士はひややかに聞く。
「わかりました。頸動脈《けいどうみゃく》をするどい刃物《はもの》で斬られて、出血多量で死んだと思います」
「自殺ですか。それとも……」
「自殺する原因があったでしょうか」
 検事は、ちょっとしたことばのはしにも、職業意識をはたらかして、突っこむものだ。
「知らんですなあ」
 博士は、両手をうしろに組んで、ぶっきらぼうにものをいう。
「わたしどもは、他殺事件だと考えています」
「他殺? ふーン。下手人は誰でしたか」
 博士はおなじ調子できく。
「さあ、それがもうわかっていれば、われわれもこんな顔をしていないのですが……」
 と検事はちょっと皮肉めいたことばをもらし、
「真犯人をつきとめるためには、ぜひとも、あなたのお力ぞえを得なくてはならないと思いまして、会見をお願いしたわけです」
「ぼくは、何もあなたがたの参考になるようなことを持っていないのです。生き残った者に聞いてごらんになるほうがいいでしょう」
「それはもうしらべずみです。あとはあなたにおたずねすることが残っているだけです」
「ああ、そうですか。それなら何でもお聞きなさい」


   あざ笑う博士


 そこで検事は、型のとおりに昨夜お三根が殺される前後の時刻において、博士はどんなことをしていたか、叫び声を聞かなかったか。格闘の物音を耳にしなかったか。犯人と思われる者のすがたを見、または足音を聞かなかったか。それから最初にこの事件に気がついたのは何時ごろだったか、などについて訊問《じんもん》していった。
 これに対する博士の答えは、かんたんであり、そして明瞭《めいりょう》であった。
 それによると、博士は昨夕《さくゆう》いらい、徹夜実験をつづけていたこと。犯行の音も聞かず、犯人のすがたも見なかったこと。そして博士はその徹夜のうち、二度ばかり実験室を出てかわや[#「かわや」に傍点]へいっただけで、他は実験室ばかりにいたことを述べた。
 検事は、博士のことばについて、いろいろとものたりなさを感じた。あれだけの殺人が、十|間《けん》ほどはなれているにしても、同じ屋根の下で行なわれたのに、被害者の声も耳にしなかったというのはおかしく思われた。
「じゃあ、誰がお三根を殺したと思われますか。ご意見を参考までにお聞きしたいのですが」
「知らんです。人の私行《しこう》については興味を持っていません」
「まさかあなたがその下手人ではありますまいね」
 検事のこのことばは、はじめてこの無神経な冷血動物《れいけつどうぶつ》のような博士を、とびあがらせる力があった。
「な、何ですって。ぼくが殺したというのですか。どこにぼくがこの女を殺さねばならない必要があるのです。さあ、それをいいたまえ、早く……」
 長身の博士が、髪をふりみだして、両手をひろげて検事の方へせまったかっこうは、とてもものすごいものだった。
 長戸検事はたじたじとうしろへ二、三歩さがってから、博士をおしもどすように手をふった。
「なぜそんなに興奮なさるんですか。わたしとしては、今の質問にイエスとかノウとか、かんたんにお答えくださればそれでよかったんです」
「失敬な……」
 と博士はやせた肩を波うたせて、ふうふう息を切っていたが、
「もちろん、ぼくはこんな女を殺したおぼえはない」
「この邸にはみょうな仕掛けがあるといっている者があるんですがね、お心あたりはありませんか。たとえば、するどい刃物を矢のさきにとりつけたものを、弓につがえて飛ばせる。そして人間に斬りけるという……」
「はっはっはっ」博士は笑いだした。
「きみはずいぶんでたらめ[#「でたらめ」に傍点]なことを聞くですなあ。それはおとぎばなしにある話ですか」
「いや、大まじめで、あなたのご意見をうかがっているのです。……そしてその恐るべき兇器《きょうき》は人目にもはいらない速さで、遠くへ飛んでいってしまう……」
「おとぎばなしならもうたくさんだ。ぼくはいそがしいからだだ。もうこれぐらいにしてくれたまえ」
「お待ちなさい」
 検事は手を前に出して博士を引き止めた。
「お三根さんがそのような兇器《きょうき》で殺されたばかりでなく、きょうここへきたわれわれの仲間がふたりまで、その同じ凶器によって重傷を負《お》っているのです。これでもおとぎばなしでしょうか」
「本当ですか」
 博士は、はじめて真剣な顔つきになった。
「本当ですとも。川内警部と田口巡査のあの傷を見てやってください」
「ああなるほど。それでその矢はどこにあるんですか」
「それがあるなら、事件はかんたんになります。それがどこにも見えないから、われわれは苦労しているのです。あなたにうかがえば、その恐るべき兇器のからくり[#「からくり」に傍点]がわかるだろうと思って、おたずねしているわけです」
「そんなことをぼくに聞いてもわかる道理《どうり》がない。捜査するのはあなたたちの仕事でしょう。徹底的にさがしたらいいでしょう。かまいませんから、邸内どこでもおさがしなさい」
「そういってくださると、まことにありがたいですが、どうぞそれをお忘れなく――」
 と検事はほくそ笑《え》んで、
「では、あなたの実験室も拝見したいですし、それからこの天じょう裏をはいまわってさがさせていただきたい」
「天じょう裏はいいが、ぼくの研究室をさがすことはおことわりする」
「今のお約束のことばとちがいますね。それはこまる。そしてあなたに不利ですぞ」
「……」
「研究室をさがすために強権《きょうけん》を使うこともできますが、なるべくならば――」
「よろしい。案内しましょう。しかしはじめにことわっておくが、後できみたちが後悔したって知りませんよ」
 博士は何事かを考え、気味のわるいことばをはなった。さて博士の研究室の中に、何があるのか。


   待っていた奇々怪々《ききかいかい》


 係官の一行は、うすぐらい廊下を奥の方へと進んでいった。
 先頭には、かなりきげんのわるそうな針目博士が肩をゆすぶって歩いている。そのすぐうしろに右頬を斬られ大きなガーゼをあてて、ばんそうこうで十字にとめた田口巡査がついていく。もしも博士が逃げだすようすを見せたら、そのときはすぐうしろからとびついて、その場にねじ伏《ふ》せる覚悟をしている田口巡査だった。
 それから少し歩幅《ほはば》をおいて、長戸検事を先に、残り係官一行が五、六名つきしたがっている。
 検事の顔色は青黒い。細く見ひらいたまぶたのうしろに、眼球《がんきゅう》がたえずぐるぐる動いている。
 それはかれが気持わるく悩んでいることを意味する。
(手がかりらしいものは、なんにもない。犯行だけが、二つ、いや三つもある。こんなことではこの事件はいつとけるかわからない。ぼやぼやするなよ、長戸検事)
 そんな声が、検事の頭の中でどなり散らしている。これまで彼が現場へのぞめば、事件解決のかぎとなる証拠物《しょうこぶつ》を、たちどころに二つや三つは見つけたものである。そして犯人はすぐさま図星《ずぼし》をさされるか、そうでないとしても、犯人のおおよその輪廓《りんかく》はきめられたものである。
 しかるに、こんどの場合にかぎり、そうではなく、さっぱり犯人の見当がつかないのである。そればかりか、事件そのものの性質がよくのみこめないのだ。
 が、そんなことで考えこんで、多くの時間をつぶすわけにはいかない。事件の性質がどうあろうと、お三根はむごたらしく斬殺《きりころ》されて冷たいむくろ[#「むくろ」に傍点]となって隣室によこたわっているんだし、部下の川内警部は足を斬られて、げんに足をひいてうしろからついてくる。田口巡査はほおを切られて、あのとおり、かっこうのわるいガーゼを顔にはりつけているのだ。検事はいよいよくさらないでいられなかった。
 だから検事としては、このうえは、あやしい針目博士の研究室の中を徹底的に家探しをして、犯人としての、のっぴきならぬ証拠物件を手に入れたいものと熱望していた。
 かぎをまわす音が検事の胸をえぐった。
 気がつくと、針目博士が研究室のドアの錠《じょう》をはずし、そこを開いた。そして博士はゆっくりと部屋の中へすがたを消した。検事は全身がかっとあつくなるのをおぼえた。取りおさえるか逃がすか、それはこれからの室内捜査のけっかできまる。
「なぜ、すぐはいらんのだ。しりごみしていてどうする」
 検事は、入口のところに足をとめてしまった田口巡査を、低い声で叱《しか》りつけた。しかし検事は冷汗《ひやあせ》をもよおした。ぐずぐずしている自分の方を、もっときびしく叱りつけたいことに気がついたからである。
 田口巡査は、はっとおどろいて、ウサギのようにぴょんとひとはねすると、研究室の中へとびこんだ。とたんにかれは、
「あっ」
 という叫び声を発した。
 長戸検事の顔は、いっそう青ざめた。そしていそいで部下のあとを追って中へはいった。
「うむ」
 検事はうなった。あやうく大きな叫び声が出そうになったのを、一生けんめいに、のどから下へおしこんだ。
 かれらはいったいなにを見たのであろうか。
 それはなんともいいようのない奇妙な光景であった。窓のないこの部屋の四つの壁は、隣室《りんしつ》につうずる二つのドアをのぞいたほかは、ぜんぶが横に長い棚《たな》になっていた。下は床のすこし上からはじまって、上は高い天じょうにまでとどいて、ぜんぶで十段いじょうになろう。
 そしてこの棚の上に、厚いガラスでできた角型《かくがた》のガラス槽《そう》が、一定のあいだをおいてずらりとならんでいるのだったが、その数は、すくなくとも四、五百個はあり、壮観《そうかん》だった。
 しかもこのガラス槽の中には、それぞれ活発に動いている生物がはいっていた。検事が最初に目をとどめたガラス槽の中には、頭のない大きなガマが、ごそごそはいまわっていた。もっともそのガマは、背中にマッチ箱ぐらいの大きさの、透明な箱を背おっていた。その箱の中には、指さきほどの灰白色のぐにゃぐにゃしたものがはいっていたが、検事はそこまで観察するよゆうがなく、ただふしぎな頭のない大きなガマがガラス槽の中で、あばれまわっているのにびっくりしたのであった。
 検事は、おどろきの目を、つぎつぎのガラス槽に走らせた。その結果、かれのおどろきはますますはげしくなるばかりだった。かれはもうひとつのガラス槽の中において、たしかに木製《もくせい》おもちゃにちがいない人形が、やはり透明な小箱を背おってあるきまわっているのを見た。
 それはゼンマイ仕掛けの人形とはちがい、どう見ても昆虫《こんちゅう》のような生きものに思えた。
 つぎのガラス槽の中では、やはり頭のないネズミが、透明の小箱を背おって、人間のように直立し、のそりのそりと中を散歩しているのを見た。またそのお隣のガラス槽《そう》の中では、一本足のコマが、ゆるくまわりながら、トカゲのように、あっちへふらふら、こっちへちょろちょろと走りまわっているのを見た。なんという奇怪な生物の展覧会場であろう。
 いや、展覧会場ではない、これは針目博士が、他人にのぞかせることをきらっている密室のひとつなのであるから、極秘《ごくひ》の生きている標本室《ひょうほんしつ》といった方がいいのだろう。
 検事はこのふしぎな生きものの世界へとびこんで、あまりの奇怪さに自分の頭がへんになるのをおぼえた。それから後、かれは一言も発しないで銅像のように立ちつづけた。するとその部屋が急に遠くへ離れてしまったような気がした。音さえ、遠くへ行ってしまった。かれは自分が卒倒《そっとう》の一歩手前にあることをさとった。が、どうすることもできなかった。


   博士、怪物を説《と》く


 長戸検事《ながとけんじ》が気がついてみると、かれはいつのまにか長いすによこたわっていた。そばでがやがやと人ごえがする。
「これをお飲みなさい。元気が出ますから」
 検事の鼻さきに、ぷーんと強い洋酒のにおいがした。こはく色の液体のはいったコップがかれの目の前につきつけられている。血色《けっしょく》のいい手がそのコップをにぎっている。誰だろうかと検事がその声の主をあおいでみるとそれは針目博士《はりめはくし》だった。そしてそのまわりに、検事の部下たちの頭がいくつもかさなりあっていた。長戸検事は、びっしょりと冷汗《ひやあせ》をかいた。
「いや、もう大丈夫です」
「やせがまんをいわずと、これをお飲みなさい」
「いや、ほんとにもう大丈夫だ」
 検事は、強く洋酒のコップをしりぞけて、長いすからきまりわるく立ちあがった。
「だからぼくは、あらかじめご注意をしておいたのです。こんな見なれない動物をごらんになって、気持が悪くなったのでしょう」
「いや、そうじゃない。じつは昨夜からかぜ[#「かぜ」に傍点]をひいて気持がわるかったのだ。この部屋へはいったとき、異様《いよう》なにおいがして、頭がふらふらとしたのだ。心配はいらんです」
 検事は強く弁明をした。かれは強引《ごういん》にうそ[#「うそ」に傍点]をついた。このうそを、ほんとうだと自分自身に信ぜしめたいと願った。けっして、この奇妙な標本を見て気持がわるくなったのではないと思いたかった。そうでないと、これから先、この奇妙な標本と取っ組んで、事件の真相をしらべあげることはできなかろう。かれは、つらいやせがまんをはったのである。
 かれの配下たちの中にも、ふたりばかり脳貧血《のうひんけつ》を起こした者があった。それはもっともだ。誰だって、こんな奇妙な標本に向かいあって五分間もそれを見つめていれば、脳貧血を起こすことはうけあいだ。
 脳貧血を起こさない連中の筆頭には、川内警部がいた。かれは顔をまっかにして、憤激《ふんげき》している。どなり散らしたいのを、一生けんめいにがまんしているという顔つきで、針目博士の一挙一動からすこしも目をはなさず、ぐっとにらみつけていた。
「針目博士。この動物はなぜここに集めてあるのですか」
 長戸検事は職権《しょっけん》をふたたびふるいはじめた。
「ぼくの研究に必要があるからです」
「博士の研究とは、どういう研究ですか」
「そうですね。それはお話しても、とてもあなたがたには理解ができないですね」
 針目博士は、回答をつっぱねた。
「理解できるかできないかは問題がいです。説明してください」
「じゃあ申しましょう。これはぼくが本筋の研究にかかるについて、その準備のため作った標本です。つまり本筋の研究そのものじゃないのですよ。いいですね」
 と、博士はねんをおして、
「そこでこの標本をごらんになればわかるでしょうが、この動物たちは、自分が持って生まれた脳髄《のうずい》を持っていないのです。そうでしょう。みんな頭部を斬り取られています。そしてかれらは他の動物の脳髄をもらって、それをかわりに取りつけています。あの透明な小箱の中にあるのは他の動物の脳髄なのです。それを取りつけて、生きているのです。おわかりですか」
「よくわかります」
 長戸検事は、反抗するような声で、そういった。ほんとうは、かれには何のことだか、よくのみこめなかったのだけれども。
「ほう。これがよくおわかりですか。いや、それはけっこうです」
 針目博士は、目をまるくした。皮肉でもないらしい。
「これなどは、おもちゃの人形に、ニワトリの脳髄を植えたものですよ。もちろん人形の手足その他へは神経にそうとうする電気回路をはりまわしてありますから、そのニワトリの脳髄の働きによって、この人形は手足を働かすことができるのです。気をつけてごらんなさればわかりますが、この人形の歩きかたや、首のふりかたなどは、ニワトリの動作によく似ているでしょう」
「そのとおりですね」
 そう答えた検事の服のそでを、うしろからそっと引いた者がある。そしてつづいて、検事の耳にささやく声があった。それは川内警部であった。
「この標本や博士の研究は、こんどの殺人傷害事件《さつじんしょうがいじけん》には関係ないようではありませんか。それよりも、早く奥の部屋をしらべたいと思いますが、いかがですか」
 そういわれて、検事も警部のいう通りだと思った。そこで一行は奥へ進むこととなった。


   大きな引出《ひきだし》


 この部屋から奥へ通ずるドアが二つあった。左手についているのは、物置へ通ずるもので、これはあとで捜査《そうさ》することとなった。
 まっ正面のドアのむこうに、博士の一番よく使うひろい実験室があった。一行はドアを開いてその部屋へ通った。
 それは十坪ほどあるひろい洋間だった。
 ざつぜんと器械台がならび、その上にいろいろな器械や器具がのっている。まわりの壁は戸棚と本棚とで占領されている。天じょうは高く、はじめは白かった壁であろうが、灰色になっており、大きな裂《さ》け目《め》がついている。
 まえの部屋もそうであったが、この部屋にも窓というものがない。天じょうの上の古風なシャンデリアと、四方の壁間にとりつけられた、間接照明灯《かんせつしょうめいとう》が、影のない明かるい照明をしている。
「この部屋は、何のためにあるのですか」
 検事が針目博士に質問した。ここには、まえの部屋で見たような、奇怪な標本が目にうつらないので、検事はいささか元気をもりかえしたかたちであった。
「ごらんになるとおり、ぼくが実験に使う部屋です」
「どういう実験をしますか」
「どういう実験といって――」
 と博士は笑いだした。
「いろんな実験です。数百種も、数千種も、いろいろな実験をこの部屋ですることができます。みんな述《の》べきれません」
「その一つ二つをいってみてください」
 検事はあいかわらずがんばる。
「そうですね。細胞の電気的反応をしらべる実験を、このへんにある装置をつかってやります。もうひとつですね。ここにあるのは生命をもった頭脳から放射される一種の電磁波を検出する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対して検出しやすいように、組み立てたものであります。これぐらいにしておきましょう。おわかりになりましたか」
「今のところ、それだけうかがえばよろしいです。それでは室内をいちおう捜査しますから、さようにご承知ねがいたい」
「職権をもってなさるのですから、とめることはしません。しかしたくさんの精密器械があるのですから、そういうものには手をつけないでください。万一手をつける場合は、ぼくを呼んでください。いっしょに手を貸して、こわさないようにごらんに入れますから」
「参考として、聞いておきます」
「参考として聞いておく? ふん、あなたがたに警告しておきますが、この部屋の精密器械に対して、ぼくの立ち合いなしに動かして、もしもそれをこわしたときには、ぼくは承知しませんよ。場合によって、あなたがたをこの部屋から一歩も外に出さないかもしれませんぞ」
 針目博士は、にわかにふきげんとなって、きびしい反抗の態度をしめした。そしてかれは、すみにすえてある大机の向うへ行って、どこかこわれているらしい回転いすの上に、大きな音をたてて腰をかけた。そしてタカのような目つきになって、検事たちの方へ気をくばった。
 検事は、こんな場合にはよくなれているので、相手がかんかんになればなるほどこっちは落ちつきを深めていった。そして部下たちに、この部屋をじゅうぶんに捜索し、れいの事件に関係ありと思われる証拠物件があったら、さっそく検事を呼ぶようにと命令した。
 それから捜査がはじまった。一同は、これまであつかいなれない器械器具るいだけに、どうしらべてよいのやら、こまっているようであった。しかしこころえ顔の係官たちは、床の上にはらばいになって器械台の下をのぞきこんだり、戸棚の引出《ひきだし》をぬきだしたりして、どんどん仕事を進めていった。
 だが、思うようなものはすぐには見つからなかった。
 この部屋の、博士がいま腰をおろしているのと、ちょうど対角線上の隅《すみ》にあたるところに、一部に黒いカーテンがおりていた。それを開いて中へ入った川内警部は、そこにもやはり大きな引出が、三段十二個になってならんでいるのを発見した。その引出は、そうとう大きかった。しかしかぎもかかっていなかった。引出にはそれぞれ番号札がついていた。
 警部が、その引出のひとつに手をかけたとき、誰も気がつかなかったが、針目博士の口のあたりには、あやしいうす笑いがうかんだのであった。もちろん川内警部は、それに気がつくはずもなく、引出のとってに力をいれて、ぐっと引きだした。
「おや、これは何だ!」
 警部は、すっとんきょう[#「すっとんきょう」に傍点]な声をあげた。彼の顔からすっかり血の気が引いてしまった。
 見よ、その半びらきになった引出の中には、黄いろくなった人間の足が二本ならんでいた、いや、足だけではない。裸体《らたい》のままの死骸《しがい》がそこにはいっているにちがいなかった。
 事件はいよいよ奇怪な段階に突入した。いったいこれは何者の死体なのであろう。針目博士の身辺にいよいよ疑問の影がこい。


   警部じれる


「おう、ここにも死骸《しがい》がかくしてある」
 警部のそばにいた若い巡査が、おどろきの声をあげた。
 針目博士は、しらぬ顔をして、回転いすに腰をかけている。
 警部は、その死骸いりの大きな引出をひっぱり出した。消毒薬くさいカンバスにおおわれて若い男の死体がはいっていた。しかしその男の頭蓋骨は切りとられていて、その中にあるはずの脳髄もなく、中はからっぽであった。
 警部は、この死体が、学術研究の死体であることに気がついた。
 ねんのために、おなじような他の引出をかたっぱしからひっぱり出してみた。するとほかに、男の死体が一つ、女の死体が二つ、はいっていることがわかった。
「この死体は、どうして手にいれましたか」
 川内警部は、やっぱりそのことを針目博士にたずねた。
「研究用に買い入れたんです。証書もあるが見ますか」
「ええ、見せていただきましょう」
 警部はけっきょくその死体譲渡書《したいゆずりわたししょ》が、正しい手つづきをふんであることをたしかめた。
 死体がこの部屋に四つある。そのうえに、もう一つなまなましい死体を、博士はほしく思ったのであろうか。
 警部は、針目博士がいよいよゆだんのならない人物に見えてきた。このうえは、こんどの事件に直接関係のある証拠をさがしだして、なにがなんでも博士を拘引《こういん》したいと思った。
「針目さん。あなたのお使いになっている部屋は、まだありますか」
 長戸検事が、タバコのすいがらを指さきでもみ消して、博士にたずねた。
「あとは、第二研究室と倉庫と寝室の三つです。やっぱり見るとおっしゃるんでしょう」
「そうです、見せていただきますよ」
「どうしても見るんですか」
 博士の顔がくるしそうにまがった。
「見せろというなら見せますが、あなたがたがこの室や標本室でやったように、室内の物品に無断《むだん》で手をつけるのは困るのです。じつは第二研究室では、ぼくでさえ、非常に注意して、足音をしのび、せきばらいをつつしみ、はく呼吸《いき》もこころしているのです」
「それはなぜです。なぜ、そんなことをする必要があるのですか」
 長戸検事が、口をはさんだ。
 すると博士は、吐息《といき》とともに、遠いところをながめるような目つきになって、
「おそらく今、世界でいちばん貴重《きちょう》な物が、そこに生まれようとしているのです。荘厳《そうごん》と神秘《しんぴ》とにつつまれたその部屋です。あなたがたは、もしその荘厳神秘の中にひたっている主《あるじ》を、すこしでも、みだすようなことがあれば、あなたがたはとりもなおさず、地球文明の破壊者《はかいしゃ》、ゆるすべからざる敵でありますぞ」
 それを聞いていた川内警部は、口のあたりをあなどりの笑《え》みにゆがめて、
(ふん、邪宗教《じゃしゅうきょう》の連中が、いつも使うおどかしの一手だ、なにが神秘《しんぴ》だ。わらわせる)
 と、心の中でけいべつした。
「なんです、生まれ出ようとしている荘厳神秘のあるじ[#「あるじ」に傍点]というのは……」
 検事は、顔をしかめて、博士を追う。
「生命と思考力とをもった特別の細胞が、人間の手でつくられようとしているのだ。もしこれに成功すれば、人間は神の子を作ることができる」
 博士は、わけのわからないことをつぶやく。
「カエルの脳髄《のうずい》を切りとって、それを他の動物にうつしうえることですか」
 検事は、一世一代の生命科学の質問をこころみる。
「そんなことはいぜんから行われている。ぼくが研究していることは、すでに存在する生命を、他のものに移し植えることではない。生命を新しくこしらえることだ。生命の創造だ。細胞の分裂による生命の誕生とはちがうのだ。それは神が、神の子をつくりたもうのだ。それではない、この場合は、人間の意志のもと、人間の設計によって、新しい生命を創造するのだ。ローマの詩人科学者ルリレチウスの予言したことは、二千年を経《へ》たいま、わが手によって実現されるのだ。自然科学の革命、世界宗教の頓挫《とんざ》、人間のにぎる力のおどろくべき拡大……」
 川内警部は、にがり切って長戸検事のそで[#「そで」に傍点]をひいた。
「検事さん、あれは気が変ですよ。ちんぷんかんぷんのねごと[#「ねごと」に傍点]はやめさせて、となりの部屋部屋を、どんどん洗ってみようじゃありませんか。さもないと、この事件はさっぱり片づきませんよ。迷宮入《めいきゅうい》りはもういやですからね」
 そういわれて、長戸検事も警部の意見にしたがう気になった。さっぱりわけのわからない博士のうわごと[#「うわごと」に傍点]に、頭痛のするのをこらえているのは、ばかな話だと思った。
 検事は、つぎの部屋を見るから案内するようにと、博士にいった。博士は、いす[#「いす」に傍点]からのそりと立ち上がった。
 どんな光景が、つぎの部屋に待っていることか。


   三重《さんじゅう》のドア


 第二研究室へはいりこむのは、たいへんめんどうであった。
 ドアだけでも、三重になっていた。
 しかもそのドアは、どういう必要があってかわからないが、大銀行の地下大金庫のドアのように、厚さが一メートル近くあるものさえあった。第三のドアが、いちばんすごかった。
 それをあけると、がらんとした部屋が見えた。水銀灯《すいぎんとう》のような白びかりが、夜明け前ほどのうす明かるさで、室内を照らしつけていた。
 博士は、らんらんとかがやく眼をもって、係官たちの方をふりかえった。そして、自分のくちびるに、ひとさし指をたてた。それからその指で、自分の両足をさした。いよいよ室内へはいるが、無言《むごん》でいること、足音をたてないことを、もういちど係官たちにもとめたのであった。
 それから博士は、足をそっとあげて、室内へはいった。
 長戸検事も、それにならって、しずかに足をふみいれた。
 川内警部は、ことごとに、鼻をならしたり、舌打《したう》ちをしたりして、針目博士《はりめはくし》に反抗の色をしめしていたが、第二研究室にはいるときだけは、検事にならって、しずかにはいった。
 そのあとに、三人の部下がはいった。
 はいってみると、この部屋は天じょうがふつうの部屋の倍ほど高く、ひろさは三十坪ばかりであった。がらんとした部屋と思ったが、それは入口の附近の壁を見ただけのこと、それはいちめんに蝋色《ろういろ》に塗られて、なにもなかった。
 左を向いて、奥正面と、右の壁とが、陳列室よりも、もっとひろい棚《たな》があり、まえにドアつきの四角い陳列棚《ちんれつだな》が、それぞれ小さい番号札をつけて、整然とならんでいた。壁のいちめんに、百個ぐらいの棚がある。
 左の壁は、電気装置のパネルが、ところせましとばかりはめこんであり、背の高い腰かけが一つおいてある。
 部屋のまん中に、箱がたのテーブルがひとつおいてある。そしてその上に、ガラスでつくった標本入れの箱が一つのっている。
 これだけの、べつに目をうばうほどの品物も見あたらない部屋だったが、気味《きみ》のわるいのは、この部屋の赤や黄を欠《か》く照明と防音装置だった。それにあとで検事たちも気がついたことだが、気圧がかなり低かった、係官のなかには、鼓膜《こまく》がへんになって、頭を振っている者もあった。
 博士は、係官を手まねきして、陳列棚の前を一巡《いちじゅん》した。
 陳列棚のうちそのドアが開かれて、壁の中におし入れてあるものは、ガラス容器が見られた。検事や警部は、前へ進んで、一生けんめいにその中をのぞきこんだ。
 ふたりは、目を見あわせた。
 ガラス箱の中には、下の方にかたまったゼラチンのようなものが、三センチほどの厚さで平《たい》らな面を作っており、その上に、つやのある毛よりも細い金属線らしいものがひとつかみほど、のせてあった。
(何でしょうか)
(何だかわからないねえ)
 警部と検事とは、目だけでそんなことをかたりあった。
 それに類するものが、他のガラス箱の中でも見られた。
 警部は検事に耳うちをした。それから警部は針目博士を手まねいた。
「これは何ですか。説明を求めます」
 警部が声を出したので――その声はかれ、川内警部にしては低い声だったが、針目博士の顔色をかえさせた。博士はあわてて警部を戸口に近いところへひっぱって行き、
「こまるですなあ、そう大きな声を出しては……」
「職権《しょっけん》を行使《こうし》しているのに対し、きみはそれをとやかくいう権利はない」
「こまった人だ。あとで後悔しても追っつかんのですぞ」
 と博士は悲しげにまばたいて、
「これらのものが何であるかは、さっきもちょっといいかけましたが、あとで隣の部屋で申しあげます」
「いや、いまいいたまえ、あとではごまかされる」
 そういっているとき、検事もふたりのそばへ歩みよった。
「この部屋には、よほど大切な試験材料がおいてあるらしいね」
「試験材料というよりも、わたしが全霊全力《ぜんれいぜんりょく》をうちこんで作った試作生物《しさくせいぶつ》なんです」
「あの針金《はりがね》の屑《くず》みたいなものは何ですか。あの中に、その生物がかくれているんですか」
「そうではないのです……。いくどもお願いしますが、説明はあとで隣室《りんしつ》ですることでおゆるしください。もしもかれらをくるわせて、悪魔のところへやるようなことがあったら、まったく天下の一大事ですからね」
 警部が検事のわきばら[#「わきばら」に傍点]をついた。やはりこの博士は気が変だよというつもりだった。警部の顔に、決心の色が見えた。かれは、いつもの大きな声になって、博士にいった。
「陳列棚に戸のしまっている棚がたくさんある。あれもいちいち開《ひら》いて見せなさい」
 博士のおどろきは絶頂《ぜっちょう》にたっした。かれはふるえる自分の指をくちびるに立てた。そしてあきらめたというようすで、ふたりをさしまねいた。
 博士のうしろに勝ちほこった川内警部と、いよいよむずかしい顔の長戸検事がついていく。


   おそろしい異変


 針目博士は、陳列棚《ちんれつだな》の前に立って、戸のしまっている棚を一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イと八つかぞえた。その小さい戸の上には、骸骨《がいこつ》のしるしと、それから一、二、三の番号とが書きつけてあった。
 博士は、用心ぶかく「骸骨の一」の戸を、しずかに手前へ引いた。
 中には、おなじようなガラス器があり、それの中に見られたものは、よく見ないとわからないほどの細い針金でもって、だ円形《えんけい》のかごのような形を、あみあげたものだった。
 検事にも警部にも、それはすこしも、おどろきをあたえないものだった。
「骸骨の二」の戸を開くと、そこにもやはり細い針金ざいくのかごのようなものがあった。これは三稜《さんりょう》の柱《はしら》のようであった。
 川内警部は、早くもその前を通りすぎて、つぎなる戸の前へ行ったが、長戸検事はその前に足をとどめて、首を横にかしげた。彼はその三角形の柱が、なんだか背のびをしたように感じたからである。
「骸骨の三」には、やはり針金で、クラゲのような形をしたものがはいっていた。警部はいよいよがまんがならないというふうに、鼻をならした。博士がおどろいて、警部の方をふりかえり、嘆願《たんがん》するようにおがんだ。それから「骸骨の四」の戸のまえへ進んで、それを開いた。
 とたんに博士の顔が、大きなおどろきのためにゆがんだ。博士いがいの者にはわからないことだったが、「骸骨の四」のガラス箱の中はからっぽだったのである。
 博士は顔色をかえたまま、係官をつきのけるようにして、左側の壁にはめこんである配電盤の前にかけつけた。そしてほうぼうのスイッチを入れたり、計器の針の動きをにらんだり、ブラウン管の緑色の光りの点の位置を、目盛りで読んだりした。
「針目さん。なにか起こったのですか」
 検事が博士のそばへ寄って、低い声でいった。
「大切にしていたものが、なくなりました。いったいどうしたのか、わけがわからない……」
 すると川内警部がやってきて、博士の腕をむずとつかんだ。
「きみ、ごまかそうとしたって、そうはいかないよ。あと骸骨《がいこつ》の戸《と》は五、六、七、八と四つあるじゃないか。早く開いて見せなさい」
「あ、そんな大きな声を出しては――」
「これはわしの地声《じごえ》だ。どんなでかい声を出そうと、きみからさしずはうけない」
 警部がどなるたびに、配電盤の計器の針がはげしく左右にゆれた。
 そのときだった。室内にいた者はきゅうにひどい頭痛《ずつう》にみまわれた。誰もかれも、ひたいに手をあてて顔をしかめた。
 それと同時に、骸骨のしるしのつけてあった陳列棚から、すーっと黒い煙が立ちのぼった。しかし「骸骨の四」のところからは出なかった。
「もう、いけない。危険だ。みなさん、外へ出てください」
 博士が叫んで、さっき一同のはいって来た戸口の方をゆびさした。しかしその戸は、しっかりしまっていた。
「どうしたんです、針目博士」
 検事がおどろいてたずねた。
「もうおそいのです。警部さんが、この部屋にねむっていた大切なものの目をさましてしまった。えらいことが持ちあがるでしょう。早くその戸口から逃げてください」
 そういう間も博士は、まん中にすえてあったテーブルの横戸《よこど》を開き、その中から潜水夫のかぶと[#「かぶと」に傍点]のようなものを引っ張り出して、すっぽりとかぶった。それから両手に、大げさに見えるゴムの手袋をはめ、同じくテーブルの横からたいこ[#「たいこ」に傍点]に大きなラッパをとりつけたようなものをつかみ出し、たいこの皮のようなところを棒で力いっぱいたたきつづけた。しかしそれは音がしなかった。そのかわり、ラッパのような口からは、銀白色《ぎんはくしょく》の粉《こな》が噴火《ふんか》する火山灰《かざんばい》のようにふきだし、陳列棚の方からのびてくるきみのわるい黒い煙をつつみはじめた。
 黒い煙は、いったん銀白色の膜《まく》につつまれたが、まもなくそれを破って、あらしの黒雲《くろくも》のように――いや、まっくろな竜《りゅう》のように天じょうをなめながら、のたくりまわった。このとき頭痛が一段とひどくなって、もう誰も立っていられなかった。いや、例外がある。針目博士だけは、足をぶるぶるふるわせながらも立っていた。
「でよう。この部屋からでよう」
 長戸検事が叫んだ。すると川内警部ははっていって戸口を押した。戸口はびくともしなかった。
 それを博士が見たものと見え、とぶようにかけて来て、ハンドルをまわして戸をあけると、五人はあらそうようにして、外へとび出した。
 五人の係官が出てしまうと、戸はもとのようにしまった。博士がしめたのである。
 検事たちは、まだ二つのドアを開かねばならなかった。文字どおり必死で、ようやくドアを開いて、第一研究室へ出ることができた。一同の足は、そこでもとまらなかった。あきれ顔の人たちや他の警官の前をすりぬけて、一同は庭へころげ出た。
 そしてほっと一息ついたおりしも、天地もくずれるような音がして、目の前にものすごい火柱《ひばしら》が立った。第二研究室が、大爆発を起こしたのだった。なにゆえの爆発ぞ。針目博士はどうしたであろうか。


   事件|迷宮《めいきゅう》に入る


 第二研究室の爆発のあと、針目博士のすがたを見た者がない。
 爆発による被害は、さいわいにも第二研究室だけですんだ。それはまわりの壁が、ひじょうにつよかったせいで、爆発と同時に、すべてのものは弱い屋根をうちぬいて、高く天空《てんくう》へ吹きあげられ、となりの部屋へは、害がおよばなかったわけだ。
 焼跡は一週間もかかって、いろいろ念入りにしらべられた。
 だが、この室内にあったものは、すべてもとの形をとどめず、灰みたいなものと化《か》していた。よほどすごい爆発を起こし、圧力も熱もかなり出たらしい。なにしろ鋼鉄《こうてつ》の棒《ぼう》ひとつ残っていないありさまだった。
 捜査は、とくに針目博士の安否《あんぴ》に重点《じゅうてん》をおいておこなわれたが、前にのべたように博士のすがたは発見できなかった。また人骨《じんこつ》の一片《いっぺん》すら見あたらなかった。
 もしや博士は地下室へでものがれたのではないかと、焼跡《やけあと》を残りなく二メートルばかり掘ってみたが、出てくるものは灰と土ばかりで、なんの手がかりもなかった。
「どうもこのようすでは、博士は爆発とともにガス体《たい》となり、屋根をぬけて空中へふきあげられちまったんじゃないかね」
 川内警部は、おしいところで重大容疑者《じゅうだいようぎしゃ》に逃げられてしまったという顔で、こういった。
 長戸検事はしょんぼりと立ちあがった。
「みんな引揚《ひきあ》げることにしよう。もうわれわれの力にはおよばない」
 これをもって、お三根殺害事件《みねさつがいじけん》をはじめ二つの怪傷害事件《かいしょうがいじけん》も、いまはまったく迷宮入《めいきゅうい》りとなってしまった。
 だが、事件捜査は、ほんとに終ってしまったわけではなかった。
 その筋では、どういう考えがあったものか、この事件の捜査をこれまでどおり検察当局の手でつづけるとともに、それと平行して、私立探偵の蜂矢十六《はちやじゅうろく》に捜査を依頼したのであった。
 私立探偵蜂矢十六!
 この若い探偵について、一般に知る人はすくない。しかし検察係官の中には、蜂矢十六を認めている人が、かなりある。かれの特長は、科学技術と取り組んでおそれないこと、かんがするどいこと、推理力にすぐれていること、それから、ひとたび獲物《えもの》の匂《にお》いをかいだら、猟犬《りょうけん》のように、どこまでも追いかけ、追いつめることなどであった。
 だがかれにも欠点はあった。それはまず第一に年が若いために、古いものにあうとごまか[#「ごまか」に傍点]されやすいこと、どんどん走りすぎて足もとに注意しないために、溝《みぞ》へおっこちるようなことがあること、すこしあわてん坊であること、それからタバコをすいすぎることなどであった。かれはひとりの少年を助手にもっていた。それは小杉二郎《こすぎじろう》という、ことし十四歳になる天才探偵児《てんさいたんていじ》であって、この少年がいるために、蜂矢はずいぶんあぶない羽目から助かったり、難事件をとくカギをひろってもらったりしている。
 しかし蜂矢探偵は、めったにこの少年とともに外をあるかない。ふたりはたいていべつべつにわかれて仕事をする。これは蜂矢探偵の考えによるもので、べつべつにはなれていたほうが、おたがいの危険のときに助けあうこともできるし、また事件の対象を両方からながめるから、ひとりで見たときよりも、正しく観察することができるというのであった。
 これはなかなかいい考えであった。
 さて蜂矢十六は、この事件のこれまでのあらましを、長戸検事の部屋で、検事からひと通り聞いた。検事は人格の高い人であったから、自分たちの失敗やら、とくことのできなかったことを、つつまずにすべて蜂矢につたえた。そしてそのあとで、なにか蜂矢のほうで質問があれば、それに答えるといった。
 それに対して蜂矢はつぎのことを聞いた。
「第二研究室の爆発が起こるまえ、針目博士が皆さんを案内して、その部屋にはいったときのことですがね、博士の態度に、なにか変ったことはありませんでしたか」
「さあ、かくべつ変ったということも――いや、ひとつあったよ」
 と検事はぽんと手のひらをたたき、
「すっかりわすれていたが、いま思いだした。それはね、あの第二研究室にはいると、博士はきゅうにおとなしくなったんだ。その前までは博士は気が変ではないかと思ったほど、ごう慢《まん》な態度でわたしを叱《しか》りつけ、悪くいい、からみついてきた。しかるにあの第二研究室へはいると同時に、博士はまるで別人のように、おとなしい人物になってしまったのだ」
「ふーむ、それは興味ぶかいお話ですね。しかしどういうわけで、そんなに態度が一変《いっぺん》したのでしょうか」
「それはわたしにはとけない謎だ」
「あなたはあの部屋へはいると、きゅうにはげしい頭痛におそわれたのでしたね」
「部屋へはいってすぐではなかった。すこしたってからだ。五分もしてからだと思う。それにさっきもいったように、この頭痛はわたしだけでなく、あとからきくと他の同僚たちも、みんなおなじように頭痛におそわれたそうだ。これと博士の態度とに、なにか関係があるのかな。いや、それほどにも思われないが……」
「そのとき博士のほうはどうだったでしょう。やっぱり頭痛になやんでいたようすでしたか」
「ちょっと待ちたまえ」
 と検事は腕ぐみをしたが、まもなく首を左右にふって、
「いや、針目博士は頭痛になやんでいるような顔ではなかったね」
「それはどうもおかしいですね」
 このちょっとしたことがらが、後になってこの事件解決のかぎになろうとは、気のつかないふたりだった。


   大学生、雨谷《あまたに》君


 せっかく蜂矢探偵の登場を、みなさんにお知らせしたが、ここで蜂矢探偵のことをはなれて、べつの事件についてお話しなくてはならない。それというのが、まことに前代未聞《ぜんだいみもん》の珍妙なる事件がふってわいたのである。
 東京も、中心をはなれた都の西北|早稲田《わせだ》の森、その森からまだずっと郊外へいったところに、新井薬師《あらいやくし》というお寺がある。そこはむかしから目《め》の病《やまい》に、霊験《れいけん》あらたかだといういいつたえがあって、そういう人たちのおまいりがたえない。
 しかし筆者は、いまここにお薬師《やくし》さまの霊験をかたろうとするものではなく、そのお薬師さまの裏のほうにある如来荘《にょらいそう》という、あまりきれいでないアパートの一室に、自炊生活《じすいせいかつ》をしている雨谷金成《あまたにかねなり》君をご紹介したいのである。
 雨谷君は大学生であった。
 だがその時代は、学生生活はたいへん苦しいときであったうえに、雨谷君の実家は大水《おおみず》のために家屋《かおく》を家財《かざい》ごと流され、ほとんど、無一物《むいちぶつ》にひとしいあわれな状態になっていた。しかしかれの両親とひとりの兄は、この不幸の中から立ちあがって、復興《ふっこう》のくわ[#「くわ」に傍点]をふるいはじめた。二男の雨谷金成君も、今は学業をおもい切り、故郷にかえって、ともにくわ[#「くわ」に傍点]をふろうと思って家にもどったところ、
「金成《かねなり》や、おまえは勉強をつづけたがいいぞ。そのかわりいままでみたいに学資や生活費をじゅうぶん送れないから、苦学《くがく》でもしてつづけたらどうじゃ」
 と皆からいわれ、それではというので、その気になってまた東京へひきかえした金成君だった。
 金成君は、それから友人たちにもきいて歩いたけっか、にぎやかな新宿へ出、鋪道《ほどう》のはしに小さな台を立て、そのうえに、台からはみだしそうな、長さ二尺の計算尺を一本よこたえ、それからピンポンのバットぐらいもある大きな虫めがねを一個おき、その横に赤い皮表紙の「エジプト古墳小辞典《こふんしょうじてん》」という洋書を一冊ならべ、四角い看板灯《かんばんとう》には、書きも書いたり、

[#ここから天地、2字あきの罫囲み]
 ――古代エジプト式手相及び人相鑑定
 三角軒ドクトル・ヤ・ポクレ雨谷狐馬《あまたにこま》。なやめる者は来たれ。
 クレオパトラの運命もこの霊算術《れいさんじゅつ》によりわり出された。エジプト時代には一回に十五日もかかった観相《かんそう》を、本師は最新の微積分計算法《びせきぶんけいさんほう》をおこない、わずかに三分間にて鑑定す。
 見料《けんりょう》一回につき金三十円なり。ただしそれ以外の祝儀《しゅうぎ》を出さるるも辞退せず。
[#下げて、罫囲みの地より1字あきで]敬白。
[#ここで罫囲み終わり]

 と大変なことが書いてある。
 三角軒ドクトル・ヤ・ポクレの雨谷狐馬とは、いったいなんのことやらわけがわからないが、そこはその新宿《しんじゅく》という盛《さか》り場《ば》のことゆえ、わけのわからない人間もかなりたくさん歩いている。
「エジプト式の占師《うらないし》なんて、はじめてお目にかかるね。話のたねにちょいとみてもらおう」
 などと寄ってくる。
 そのおかげで雨谷君は、開店第一日には純所得《じゅんしょとく》として金二百八十円をもうけ、二日目には金三百九十円をといううなぎ上りの収入をえた。これが午前中は学校の講義を聞き、午後一時から店を出して夕がた六時ごろまでのかせぎであった。なかなかぼろいもうけだと、かれは気に入った。
 雨谷君の商売の話をくわしく書けばおもしろいのだが、それは本篇の事件にはあまり関係がないので、あまりのべないこととし、関係のあることだけを書きつづるが、三日目にはかれは思い切って、おなじ露店商《ろてんしょう》から電気コンロとお釜とお釜のふた[#「ふた」に傍点]とを買って如来荘《にょらいそう》へもどった。
 かれの考えでは、いままではほかの食堂で露命《ろめい》をつないでいたのであるが、露店商売をはじめてみると、なかなか時間が惜しくて、店なんかあけていられないし、それにあの商売はとても腹がへるので、食堂で食うよりも自分でめし[#「めし」に傍点]をたいて食った方が、経済であるという結論をえたので、いよいよ文字どおり自炊生活《じすいせいかつ》をはじめることにしたのである。
 その夜八時ごろから、一時間ばかりかかって、とてもやわらかいめし[#「めし」に傍点]ができた。それを茶わんで、じかにしゃくって、こんぶ[#「こんぶ」に傍点]のつくだに[#「つくだに」に傍点]をおかずに、
「ああ、うまい、うまい」
 と六ぱいもたべて満腹した。
 満腹《まんぷく》すると、雨谷君の両方のまぶたがきゅうに重くなり、すみにたたんで積んであった夜具《やぐ》をひきたおすと、よくしきもせず、その中へもぐりこんでしまったのだ。
 珍妙《ちんみょう》なる怪異《かいい》は、そのあとにはじまったのである。
 お釜がとつぜん、ことこと左右にからだをゆすぶったのである。そして、ゆすぶっては休み、休んではゆすぶった。お釜のふた[#「ふた」に傍点]がだんだんずれて、やがて大きな音をたてて下に落ち、茶わんとさら[#「さら」に傍点]をこわしてしまった。
 雨谷君は、その音におどろいたか、ぱっとはね起きたが、お釜の方をちょっと見ただけでまたドーンと横に倒れて、ぐうぐうと眠ってしまった。


   大金《おおがね》もうけの種《たね》


 お釜は、ことこと、ことこと、と左右にからだをゆすぶっている。
 お釜の中にネズミがはいっているわけではなかった。またお釜のかげで、ネコがからだを動かしているわけでもなかった。お釜は、ひとりでからだをゆすぶっているのだった。
 それは運動力学の法則に反しているように思われた。他からの力がくわえられないで、金属製の釜が動くはずはなかった。
 それとも電気の力か、磁気《じき》の力が、そのお釜にはたらいているのであろうか。いやいや、そんな仕掛けは、この部屋の中に見あたらない。
 動くはずはないのに、お釜は実際ことことからだをゆすぶっている。
 動いているのがほんとうであるかぎり、お釜には力がはたらいているのだと思わなくてはならない。その力はいったいどこにはたらいており、そしてその力の源《みなもと》はどこにあるのだろうか。
 お釜の持主である大学生|雨谷《あまたに》君は、なんにも知らず、なんにも考えないで、しきりにいびきの音を大きくしているだけだった。
 そのうちにお釜は、はじめにおしり[#「おしり」に傍点]をすえていた場所よりも、すこし前の方へ出てきた。そしてあいかわらず、からだを左右にぐらぐらとゆすっている。
 それは一時間ばかりかかったが、お釜は壁ぎわから出発して、たたみ[#「たたみ」に傍点]一枚を縦《たて》に旅行し、そして夜具のはしからはみ出している雨谷の足首のそばにまで接近した。そのとき雨谷君は寝がえりをうった。かれの太い足が動きだして、いやというほどお釜にぶつかった。
「あいたッ」
 おどろいてかれは目をさまし、ふとんをはねのけて、その場にすわりなおした。そしてしきりに目をぱちぱちして、あたりを見る。
「ありゃりゃ、お釜をひっくりかえしたぞ」
 お釜はひっくりかえり、おしり[#「おしり」に傍点]が上に、さかさまになっていた。
「あああ、ごはんがたたみ[#「たたみ」に傍点]の上へぶちまかれちまった」
 彼はお釜をおこし、その中へ、たたみ[#「たたみ」に傍点]の上に散らばっているごはんをもどした。そしてそのお釜を持って、壁のところへ行きそこへおこうとして、またびっくり。
「おやおや、茶わんとさらがこわれている。誰がこわしたんだろう。また買いなおすと、三十円ぐらいかかる。たまらないや」
 そういいながら、雨谷はお釜をはじめの場所へおき、重いふた[#「ふた」に傍点]をかぶせた。そして寝具をちゃんとしきなおした。まくら[#「まくら」に傍点]もおいた。
「さあ、ねるとするか」
 彼は上着のボタンに手をかけた。
 そのときであった。がたんと音がした。釜のふた[#「ふた」に傍点]が下へすべり落ちたのである。
「おや……」
 彼は目をまるくした。ふしぎなことを発見したからである。ふた[#「ふた」に傍点]を落としたお釜が、ことことン、ことことンと左右にからだをふりながら、前へはいだしてくるではないか。
 雨谷君はびっくりしたが、彼はもともと勇気があったから、立ちあがってお釜をつかみあげた。そして中を見たり、ひっくりかえしておしり[#「おしり」に傍点]を見たり、こーンとたたいたりして、お釜をしらべた。
 異常はなかったし、中に動物がはいっていない。彼はお釜を下においた。
 下におかれた釜は、しばらくすると、またかたことと、からだをゆすぶり出した。
「ふーン、ふしぎだなあ」
 雨谷はおどろいて天眼鏡《てんがんきょう》を出すと、動く釜をしげしげながめた。かれはしきりに頭をふった。釜は元気づいてカニのようにたたみ[#「たたみ」に傍点]の上をはいまわる。
 雨谷君は、とつぜん天眼鏡《てんがんきょう》をひっこめてぽんと膝をうった。
「うふン。これはすばらしい金もうけが見つかったぞ。エジプト手相よりは、ずっともうかるにちがいない。二十世紀の奇蹟|今様文福茶釜《いまようぶんぶくちゃがま》――ではない文福釜《ぶんぶくがま》。……文福釜では弱い。そうだ文福茶釜二世あらわる。さあいらっしゃい。見料は見てからでいいよ、見ないは末代《まつだい》までのはじ[#「はじ」に傍点]だ。得心《とくしん》のいくまでゆっくり見て、見料はたった三十円だ。写真撮影、写生、録音、なにしてもようござんすよ。いらっしゃい、いらっしゃい、というのはどうだ」
 大学生雨谷君は、すっかり香具師《やし》になったつもりである。
 さあ、彼の大金もうけの計画は、うまく成功するだろうか。それにしてもふしぎなのはその釜であった。いったいどんな秘密を、この釜が持っているのであろうか。


   金属Qの謎


「どうかね。なにか手がかりをつかんだかね」
 長戸検事は、役所へたずねてきた蜂矢十六探偵の顔を見ると、目をすばしこく走らせてそういった。
「あなたのお気に召さない、例の方面をほじくっているんですがね」
 と、蜂矢探偵は検事の机の横においてあるいす[#「いす」に傍点]に腰をおろして、にやりと笑った。
「ははあ、また“金属Q”の怪談《かいだん》か。きみも若いくせにおばけばなしにこるなんて、おかしいよ。良くいっても、きみがおとぎばなしをひとつ作ったというにすぎない」
 検事は、いまいましそうに、エンピツのおしり[#「おしり」に傍点]で前にひろげてある書類をぽんぽんとたたく。
 金属Qとは? それは本篇のはじめにご紹介したが、針目博士の日記と研究ノートのなかから蜂矢探偵がひろいあげた謎にみちた物件であった。
 金属Q!
 それはほんとうに実在するのか。それとも針目博士が頭の中にえがいていた夢にすぎないのかそのどっちか、よくはわからなかった。第一、博士の書き残してあるものを読みあさっても、金属Qなるものがどんなものやら、そしてどんな性質をもっているものやら、そこらがはっきり書いてない。そのうえに、博士の書いてある説明は現代において、普通に知られている理学《りがく》の範囲《はんい》をかなりとび出していて、解《かい》することがむずかしい。正しいのか、まちがっているのか、それさえ判定がつきかねる。
 だが、蜂矢十六は、そういうわけのわからないものの中に、自分も共にわからないでころがっているのは、おろかであると思った。じぶんは探偵だ。金属Qの理学に通じ、その論文を完成するのは、世の学者たちにまかせておけばいい。じぶんは身をもって金属Qという、怪《あや》しき物件《ぶっけん》にぶつかり、それを手の中におさえてしまえば、それでいいのであった。そしてそれはいそがねばならない。
 そこで蜂矢は、すこぶる大胆《だいたん》に、つぎの仮定を考えた。
 一、金属Qという怪物件《かいぶっけん》が実在《じつざい》する。
 二、金属Qは、人造《じんぞう》されたものである(針目博士だけが、それを創造《そうぞう》することができるらしい)。
 三、金属Qは、生命《せいめい》と、思考力《しこうりょく》とを持っている。
 蜂矢は、この三つの条件をそなえた金属Qが実在すると、かりに信じ、これをレンズと見なし、そのレンズを通してこれまでの怪事件を、見なおしたのであった。そのけっか、長戸検事のところへ出むいて、もう一度おとぎばなしをする必要を感じたのだ。
「検事さんもごらんになった、あの第二研究室の中の棚に並んでいた、へんな試作物《しさくぶつ》のことですがね。たしか『骸骨《がいこつ》の一』から『骸骨の八』までの箱がならんでいたそうですが、あの中にあったへんな試作物こそ、金属Qの兄弟だったんじゃないですかね」
「ふーン」
 検事は、天じょうのすみを見あげて、ため息ともうなり声ともつかない声を発した。
 ――そうだ。たしかにじぶんは「骸骨の一」とか「骸骨の二」とか札のついていたものを見物《けんぶつ》した。それは、すこぶるかんたんな立体幾何学的《りったいきかがくてき》な模型《もけい》のような形をしていた。
 大小三つの輪が、からまりあっているような、そしてかごのできそこないみたいにも見えるものがあった。あれがたしか「骸骨の一」であった。
 それから、三本の直線の棒が平行にならんでいて、そのあいだに助骨《ろっこつ》のように別のみじかい棒が横にわたっていて、もとの三本の直線の棒をしっかりとささえていた。それが「骸骨の二」であったと思う。じぶんは、ふしぎに思ったので、よく見て、いまもわすれないでいるのだ。
 そのつぎに「骸骨の三」は前の二つのものよりずっと複雑なものだった。いやにまがりくねった透明《とうめい》の糸みたいなものが走っていて、なんだかクラゲのような形をしていた。
 さてそのつぎの「骸骨の四」という仕切りの中を、針目博士が開いて、おどろきの目をみはったのだ。その箱の中には、かんじんの物件《ぶっけん》がはいっていなかった。
“どうしたのだろう。わけがわからない”
 と博士が叫んだ。その直後、さっきからじりじりと焦《じ》れていた川内警部が、火のついたような声で叫んだため、なにかそれが刺《し》げきとなったらしく、博士は“危険だ、みなさん外へ出てください”と追い出し、そしてそのあとであの爆発が起こったのだ。してみれば、「骸骨の四」が紛失《ふんしつ》していたことがひとつの手がかりかもしれない。いま、蜂矢探偵が、あのへんな透明な針金細工《はりがねざいく》のようなものを、金属Qの兄弟ではないかとうたがっているのも、根拠《こんきょ》のないことでもないと思われる。そこで検事はいった。
「……もし、そうだったら、どうしたというのかね」
「殺人事件の起こるまえに、金属Qだけは、第二研究室から逃げ出していたんです。博士は、それに気がつかないでいた。その金属Qは、お手伝いさんの谷間三根子《たにまみねこ》の部屋にもぐりこんでいた。そして彼女を殺したのです。三根子の両手両腕、肩や胸などに傷がたくさんついていますが、あれはみな、金属Qとわたりあったときにできた傷だと思うんです。どうですか」
 蜂矢は、にやにやと笑った。そのとき検事の方は、さっきとはちがってかたい表情になっていた。だが、黙《もく》していた。


   殺人者の追跡


「そののちになって、川内警部が足首の上を斬られ、田口巡査はほおを斬られましたね。あれもみな、金属Qのやった第二、第三の事件なんです。これはどうです」
 蜂矢探偵は、いよいよ検事のほうへ向きなおって、検事の答えはどうかと、目をすえる。
 検事は、目をとじた。そして無言《むごん》だ。
「そう考えると、針目博士邸《はりめはくしてい》における三つの殺人傷害事件《さつじんしょうがいじけん》も、かんたんに答が出てしまうのですがねえ。どうです検事さん。このおとぎばなしを採用なさったらどうですか」
 検事が、やっと目をあけた。かれは、エンピツのおしりで書類のうえをぴしりとうった。
「だめだ。いくら答がうまく出ようと、仮定のうえに立つ答は、ほんとの答とはいえない。金属Qがはたして谷間三根子を殺したか、川内君を斬り、田口巡査を斬ったか。そのところの証明ができないかぎり、その答を採用するわけにはいかん。まさか検事が全文おとぎばなしの論告はおこなえない」
 そうはいったが、検事も「もし犯人が金属Qならば」の仮定をおいて、答がずばりとでるその明快《めいかい》さには、心をうごかされているようすであった。
 蜂矢はかるくうなずいた。その仮定さえ証明できれば、検事も了解《りょうかい》すると見てとったからである。
「さあ、その仮定《かてい》が真《しん》なりという証明ですが、これは針目博士に会って聞けば、一番はっきりするんです。しかし困ったことに針目博士は姿を消してしまった」
「針目は死んだと思うか、それとも生きていると思うか、どっちです」
「みなさんの調査では、針目博士はからだを粉砕《ふんさい》して、死んだのだろうという結論になっていますね。ぼくもだいたいそれに賛成します」
「だいたい賛成か。すると他の可能性も考えているの」
「これは常識による推理ですが、針目博士はあの部屋の爆発危険《ばくはつきけん》をかんじて、あなたがた係官を隣室《りんしつ》へ退避《たいひ》させた。そしてじぶんひとり、あの部屋にのこった。博士のこの落ちつきはらった態度はどうです。博士はじぶんが助かる自信があったから、あの部屋にのこったんです。そう考えることもできますでしょう」
「それは考えられる。だがあのひどい爆発は、われわれがあの部屋を去るとまもなく起こった。博士が身をさけるつもりなら、なぜそのあとで、われわれのあとを追って出てこなかったのであろうか。そうしなかったことは、博士は爆発から身をさけることができなかったんだ。それにあの爆発は、じつにすごいものだったからね」
 検事は、そのときのことを思い出して、ため息をついた。
「あなたがたから見れば、爆発はたいへんすごいものであり、爆発はあッという間に起こったと思われるでしょう。しかし針目博士はあの部屋のぬしなんだから、そういうことはまえもって知っていたと思うんです。だから、いよいよわが身に危険がせまったときに、博士は非常用の安全な場所へ、さっととびこんだ。ただしこれは、あなたがたのあとについて、隣の部屋へのがれることではなかった。つまり、べつに博士は非常用の安全場所を用意してあり、そこへのがれたと考えるのはどうでしょう」
「そういう安全場所のあったことを、焼跡《やけあと》から発見したのかね」
「いや、それがまだ見つからないのです」
「それじゃあ想像にすぎない。われわれとて、もしやそんな地下道でもあるかと思ってさがしてみたが、みつからなかった」
「わたしは、もっともっとさがしてみるつもりです」
「いくらさがしても見つからなかったらどうする。それまでこの事件を未解決のまま、ほおっておくわけにはゆくまい」
「そうです。博士の安否《あんぴ》をたしかめるほかに、他のいろいろな道をも行ってみます。そのひとつとして、わたしは金属Qを追跡《ついせき》しているのです」
「え、なんだって、金属Qを追跡しているって。きみは正気《しょうき》かい」
 長戸検事は目をまるくして、蜂矢探偵の顔を見つめた。
「検事さん。わたしはもちろん正気ですよ」
「だってどうして金属Qを追跡することができるんだい。そんなものは、どこにもすがたを見せたことがない」
「さあ、そこですよ。金属Qのすがたを見た者はない。また金属Qのすがたがどんな形をしているか、それを知っている人もないようです。ですが金属Qは、まず第一に谷間三根子を殺害《さつがい》しました。あの密室をうちやぶって、中へとびこんだ連中は、室内に金属Qのすがたを発見することはできなかったが、そのすこしまえに金属Qが電灯のかさ[#「かさ」に傍点]にあたって、かさ[#「かさ」に傍点]をこわす音は耳で聞きました。そうでしょう」
 蜂矢の話は、事件のすじ道をたしかに前よりもあきらかにしたように思われ、検事も心を動かさずにいられなくなった。蜂矢はつづける。
「つまり、金属Qは、相当のかたさを持っているが、すがたは見えにくいものである。このように定義《ていぎ》することができます。このことを裏書するものは、つぎの警部と田口巡査の負傷です」
「あ、なるほど」
「見えない金属Qは、あの室内にとどまっていたんですが、きゅうにふとん[#「ふとん」に傍点]のしたかどこからかとび出した。そのとき川内警部の足首の上を、すーッと斬った。そして金属Qは室外へとび出したのです。そこは廊下です。廊下を博士の居間《いま》のある、奥のほうへととんでいく途中、田口巡査のほおを斬った。そうでしょう。こう考えて行けば、われわれは金属Qを追跡していることになる。そう思われませんか」
 蜂矢の顔は、真剣だった。


   「骸骨《がいこつ》の四」とQと


「なるほど。そう考えると、すじ道がたつ。感心したよ、蜂矢君」
 検事はポケットからタバコを出して、火をつけた。
「さあその先です」
 と蜂矢はこぶし[#「こぶし」に傍点]でじぶんの手のひらをたたいた。
「それから先、金属Qはどこへ行ったかわからない。わかっているのは、あなたがたが、博士に談判して、倉庫や研究室をおしらべになったことです。それから爆発が起こったというわけです」
「ちょっとまった、蜂矢君。れいの『骸骨の四』ね。第二研究室の箱の中からすがたをけしていて、針目博士がおどろいたあれだ。あの『骸骨の四』と金属Qとはおなじものだろうか。それとも関係がないものだと思うかね」
 検事も、いつの間にか、蜂矢のおとぎばなしに出てくる仮定を、しょうしょう利用しないではいられなくなったらしい。
「ああ、そのことですか。わたしは問題をかんたんにするため、いちおうその『骸骨の四』と金属Qとが同一物であったと仮定します。もしこの仮定がまちがっていたところで、たいしたあやまりではないと思います。同一物でないとしても、両者は親類ぐらいの関係にあるものと思います」
「ふーン。そうかね」
「つまりどっちも博士の研究物件なんです。そしてどつちも生命《せいめい》と思考力《しこうりょく》とを持っているものと考えられる。いや、その上に活動力《かつどうりょく》を持っているんです。『骸骨の四』は、金属Qと同一物であるか、そうでないにしても、金属Qは『骸骨の四』から生まれた子か孫かぐらいのところでしょう。けっして他人ではない」
 蜂矢のほおが赤く染まった。かれも、じぶんのたてた推理に興奮《こうふん》してきたのであろう。
「これは気味のわるいことになった」
 と検事は、指にはさんだタバコから、灰がぼたりとひざの上へ落ちるのにも気がつかない。
「われわれは知らないうちに、金属Qと同席していたことになるんだね。これは生命びろいをしたほうかね。いやな気持だ」
「検事さん、これはあなたのお信じにならない、おとぎばなしの仮定のうえに立つ推定なのですよ。それでも気味が悪いですか」
 蜂矢が皮肉ではなく、まじめにたずねた。
「うむ。なんだか知らないが、ぼくはいましがた、とつぜんいやな気持におそわれた。いままでの経験にないことだ。そうだ、これはきみの話し方がじょうずなせいだろう。ぼくはやっぱりおとぎばなしなんか信じることはできないね。はははは」
 と検事は笑った。そしてタバコを口へ持っていったが、火は消えていた。
「ところが検事さん。いままでの話は、おとぎばなしや仮定であったかもしれんですが、ここに新しく、厳然《げんぜん》たる怪事実が存在することを発見しました。このものは、考えれば考えるほど、おそろしい正体《しょうたい》を持っていると思われてくるのです。まさに二十世紀がわれわれに、おきみやげをする奇蹟《きせき》である。というか、それとも、われわれは実にばかにされていると思うんです」
 蜂矢の目が、あやしく光ってきた。
「それは何だい。きみのいっていることはチンプンカンプンで、意味がわかりゃしない」
「いや、そうとでもいわなければ、その怪事実のあやしさ加減《かげん》をすこしでも匂《にお》わすことができないのです。まあ、それよりは、さっそくこれからご案内しましょう。わたしといっしょに行ってください。そして検事さんはご自分の目でごらんになり、そしてご自分の頭で、その怪事実の奥にひそむ謎をつまみ出してください」
「え、どこへ行ってなにを見ろというのかい」
「今、浅草公園にかかっている“二十世紀の新文福茶釜《しんぶんぶくちゃがま》”という見世物を見物に行くんです。これは、わたしの助手である小杉《こすぎ》少年が、わたしに知らせてくれたものです。じつは茶釜じゃなく、めし[#「めし」に傍点]たき釜の形をしているんですが、それがひょこひょこ動き出し、音楽に合わせておどったり、綱わたりもするんです。しかもインチキではないらしい……」
「インチキにきまっているよ。きみもばかだねえ」
「いや、ところがわたしのしらべたところは、インチキでないのです。わたしは気がついたのです。あの新文福茶釜こそ、金属Qそのものが、茶釜にばけているのかもしれません」
「なに、金属Qだって。よし、すぐ出かけよう。そこへつれていってくれたまえ」
 検事は立ちあがって帽子をつかんだ。


   観音堂《かんのんどう》うら


 すばらしい人気だった。
「二十世紀の文福茶釜は、こちらでござい。これを一度みないでは、二十世紀の人だとはいえない。これを見ないで、二十世紀の科学文化をかたる資格はない。東京第一の見世物はこれでござい。
 坊っちゃん、お嬢ちゃん、さあ、いらっしゃい。学童諸君も大学生諸君も、早く見ておいたがよろしい。社会科に関係あり、理科に関係あり。
 このめずらしい『鉱物』を見おとしては一代の恥《はじ》ですよ。さあ、いらっしゃい。入場料はびっくりするほどやすい。たった三十円です。こどもさんは大割引のたった十円」
 観音堂《かんのんどう》のうらにあたる空地《あきち》に、本堂そこのけの背の高い大きな小屋がけをし、サーカスそっくりのけばけばしいどんちょう[#「どんちょう」に傍点]やら大看板《おおかんばん》、それに昔のジンタを拡大したような吹奏楽団《すいそうがくだん》が、のべつまくなしに、ぶかぶかどんどん。
 この大宣伝政策はみんな、かの大学生|雨谷金成《あまたにかねなり》、いや、この興行主《こうぎょうしゅ》の雨谷狐馬《あまたにこま》が、頭の中からひねりだしたもの。
 花形大夫《はながただゆう》の二十世紀文福茶釜は、じつは彼が新宿《しんじゅく》の露天《ろてん》で、なんの気なしに買ってきた、めしたき釜《がま》であった。
「どうです、長戸さん、この景気は……」
 と、蜂矢探偵は検事の顔を見る。
「いやあ、大したものだね。おそるべき大あたりの興行だ。これじゃ表の観音さまのおかせぎ高よりは多いだろう」
 検事は目をぱちくり。
「それじゃ、われわれも場内へはいってみましょう。二郎君。入場券を買っておくれ、大人二枚に子供一枚。子供というのは、君のぶんだよ」
 そういって蜂矢はポケットから、紙幣《さつ》をまいたのを出して、その中から七十円をとって、小杉少年にわたした。
 少年は、すぐかけていって券を買って来た。そこで三人は、すごい人波にもまれながら、小屋の入口から中へはいった。
 三千人あまりの入場者が、ひしめきあって、舞台の上の怪物の動くあとを、目で追いかけていた。
 舞台は、拳闘のリングのように、見物人に四方をかこまれてまん中にあり、いちだん高くなっていた。そして舞台から二本の花道が、楽屋《がくや》の方へわたされていた。
 大学生|雨谷《あまたに》は、りっぱな燕尾服《えんびふく》をつけ、頭髪はとんぼの目玉のように光らせ、それから長い口ひげをぴんと上にはねさせ、あご[#「あご」に傍点]には三角形のあごひげ[#「あごひげ」に傍点]をはやして、どうやら西洋の悪魔の化身《けしん》のように見える。
 手にはぴかぴか光る銀の棒を持って、二十世紀茶釜にしきりに気あいをかけている。
「いよいよ、これより千番に一番のかねあい、大呼び物の綱わたりとございまする」
 美しい女助手が六人、ばらばらとあらわれ、舞台に高く綱をわたす。そのあいだ、問題の怪物は、台の上の、赤いふとん[#「ふとん」に傍点]の上にどっしりしり[#「しり」に傍点]をおちつけ、ごとごととからだをゆすぶっている。
 綱は引きはられた。助手たちは、左右へぱっと、花が飛ぶようにわかれると、三角軒狐馬師《さんかくけんこまし》がしずしずと舞台の中央に立ちいでて、口上をのべる。
「いよいよもって、二十世紀茶釜の綱わたりとございまする。ところがこの綱わたりは、あっちにもある、こっちにもあるというかびくさい綱わたりとはちがい、すこぶる奇想天外《きそうてんがい》、大々奇抜《だいだいきばつ》なる綱わたりでございまする。それはじつに、ユークリッドの幾何学を超越《ちょうえつ》し」
 と、ここまでいうと、れいの花のような女助手が左右から雨谷のうしろにきて、雨谷のからだに、うらがまっかな大学教授のガウンを着せ、それから雨谷の頭の上に、ふさのついた四角い大学帽をのせる。
「しかして二十世紀の物理学の弱点をつき、大宇宙の奥にひそめられたる謎をば、かつ[#「かつ」はママ]ギリシャの科学詩人――」
「能書が長いぞ」
「早くやれッ。演説を聞きにきたんじゃねえや。綱わたりをやらかせ」
「そうだ、そうだ。早く茶釜の綱わたりを見せろ」
「……いや、諸君のご熱望にこたえ、くわしき説明はあとにゆずり、ではさっそく綱わたりをお目にかけまする。花形茶釜大夫《はながたちゃがまだゆう》、いざまずこれへお目どおりを。はーッ」
 すると、れいの怪物の釜が、赤いふとんからむくむくと動きだして、ぬっとさしだした雨谷の手の上にひょいと乗る。
 そのまま、お客のまえを、釜はあいさつするように、つつーッと通る。
 それが一巡《ひとまわ》りすると、釜は綱のはしへ、ひょいとのせられる。
 一本の綱だ。その綱はゆらゆらとゆれている。その上へ、釜がのる。見たところ、はなはだ不安定だ。
 だが、怪物の釜は、どんとおしり[#「おしり」に傍点]をおちつけて、落ちはしない。


   すごい空中曲芸


「早く綱をわたらせろ」
「足はどうした。茶釜から足がはえないぞ」
「タヌキの首もはえないや」
「さきに説明を打ち切りましたが……」
 と雨谷が、ここぞと声をはりあげての口上《こうじょう》だ。
「二十世紀の茶釜は、昔の文福茶釜のようなタヌキのばけた動物とはちがい、純正《じゅんせい》なる『鉱物』でござりまする。その証拠には、お見物のみなさんがたよ、この二十世紀茶釜は足もはえませずタヌキの首もでませず、お見かけどおりの、いつわりのない釜でござりまする。それが、あたかも生《せい》あるもののごとく、綱わたりをいたしまするから、ふしぎもふしぎ、まかふしぎ。さあ大夫さん、わたりましょうぞ。はーッ」
 雨谷の口上に、二十世紀茶釜は、そろそろと綱の上をわたりはじめた。
 あれよ、あれよと、見物の衆の拍手大かっさいである。小杉少年も蜂矢探偵も、手をぱちぱちとたたく。ただ長戸検事だけは、こわい目を舞台へ向けて、手をたたくどころか、にこりともしない。
 あやしい茶釜は、するすると綱の上を走ってまんなかまで進んだ。そこでぴったりととまった。
「茶釜はひとまず休憩《きゅうけい》、絶景《ぜっけい》かな、絶景かな、げに春のながめは一目千金《ひとめせんきん》……」
 と、釜はまたそろそろと綱をわたりだした。囃方《はやしかた》がおもしろくはやしたてる。
「どうです、長戸さん」
 蜂矢は、検事の耳にささやいた。
「なんだかあやしいね。あれは何か仕掛けがあって綱わたりをしているんだろうね」
「さあ、そこが問題なんですが、まあ、もうすこし見ていらっしゃい」
 釜は、綱を向うのはしまでわたりきると、こんどは引き返しだ。むぞうさに綱の上をつつーッと走る。
「さあ、これよりはお目をとめてご一覧、二十世紀茶釜は脱線《だっせん》の巻とござい」
 雨谷の口上。するとふしぎな釜は綱をふみはずした。あっ、落ちるかと思ったが、落ちもしない。綱をふみはずしたまま、あやしい釜は宙に浮いている。
「つぎなる芸当は、二十世紀茶釜は宙がえり飛行の巻……」
 するとあやしい釜は綱のまわりを、くるッくるッとラセン状にまわりだした。なぜ釜が、そんな宙がえり飛行をするのかわからない。
「このところ糸くり車。これよりいよいよ早くなりまして急行列車の車輪とござい」
 釜はくるくると、目にもとまらぬ速さでまわりだした。観客は拍手大かっさいである。
「これこれ釜さん。ちょいと見物の衆に拍手のお礼をなされよ」
 雨谷がいうと、ものすごい速さでラセン回転をしていたあやしい釜は、ぴたりと舞台の中央に――おお、それは宙づりの形でもって、ぴたりととまり、おじぎをするように見えた。
 またもや見物席よりは拍手のあらしだ。
「ごあいさつすみましたれば、つぎは大呼びものの大空中乱舞《だいくうちゅうらんぶ》とござい。はーッ」
 口上《こうじょう》とともに、釜は舞台の上をはなれて、見物席の上へとんでいった。そこでひらりひらりと、まるでこうもり[#「こうもり」に傍点]のように飛びまわるのであった。見物人は、ほうほうとおどろきの声を発してあやしい釜のあとを目で追いかける。
「どうです、検事さん」
 蜂矢探偵は、長戸のそで[#「そで」に傍点]をひいた。
「うむ、じつに奇怪きわまる。どうしてあんな空中乱舞ができるのだろうか。あれが仕掛けによるにしても、それは非常にすぐれた仕掛けであるにそういない」
「ぼくはあれについて、三人の技術者と、二人の科学者の意見をもとめましたが、この五人の専門家の感想はおなじでありました。つまりああいう運動は、今日の科学技術の力では、とてもやらせることができないというんです。この言葉は、ご参考になるでしょう」
「ふーむ。すると、あれは仕掛けあって動いているのではないという解釈なんだね」
「そうなんです、その五人の専門家の意見というのはね」
「じゃあ、なんの力で動くのか、解釈がつかないではないか。あの釜を動かしている力のみなもとは、いったいなんだ」
「それこそ金属Qですよ」
「金属Q?」
「針目博士が作った金属Qです。生きている金属Qです。生きているから動きもするし、宙がえりもする」
「はっはっはっ。きみは解釈にこまると、みんな金属Qの魔力にしてしまう。いくら原子力時代でも、そんなふしぎな金属Qが存在してたまるものか。またはじまったね。きみのおとぎばなしが」
「長戸さん。あなたはここへきて、さっきからあれほど、金属Qなるものの活動をごらんになっておきながら、まだその本尊《ほんぞん》を信じようとはせられないのですか」
「あれは一種の妖術《ようじゅつ》だよ」
「では、誰が妖術を使っていると思われるのですか」
「それはあの燕尾服《えんびふく》の男とその一統《いっとう》か、あるいは針目博士だ」
「針目博士ですって。あなたは博士がまだこの世に生きていると思っているんですね」
「いや、確信はない。しかし、もしも針目博士が生きていたら、この種《しゅ》の妖術を使うかもしれないと思うだけだ」
 そういっているとき、とつぜん場内がそうぞうしくわきあがった。それは一大椿事《いちだいちんじ》が発生したからだ。その椿事を、蜂矢も長戸も、たがいに論争しながらも、ちゃんと見ていたのである。だからふたりも、他の観客とおなじように「あああッ」と叫んで、席から立ちあがった。
 その一大椿事とは何?


   一大椿事《いちだいちんじ》とは?


 一大椿事というは、二十世紀茶釜が上から落ちて、小さな破片にわれてしまったことである。
 そのすこのしまえ、かのあやしい釜は、見物人の頭の上の飛行を一巡《ひとまわ》りおえて、からだをひねって、ひらりと舞台の上へもどってきた。そしてもういちど綱わたりをはじめたのだ。
 見物人たちは、めでたく場内大飛行に成功してもどってきた二十世紀茶釜に拍手をあびせかけた。綱わたりははじまっているが、もう誰も以前のように、その綱わたりが成功するか失敗するかについて、手に汗をにぎっていなかった。成功するのは、もうあたりまえといってよかった。
 ところが、その予想が狂ったのである。二十世紀茶釜は、綱のまん中まできたとき、とつぜんすうーッと下に落ちていった。
 がちゃーン。
 金属的なひびきがして、二十世紀茶釜は、舞台のゆかにあたってこわれてしまった。
「やあ、茶釜がこわれた」
「ようよう、芸がこまかいぞ。二十世紀茶釜は、このとおり種もしかけもありませんとさ」
「ああ、そうか。わっはっはっはっ」
 見物席のわきたつ中に、きも[#「きも」に傍点]をつぶして、その場にぶっ倒れそうになったのは、興行主《こうぎょうしゅ》の大学生|雨谷《あまたに》だった。かれは、こわれた釜のそばへかけより、ひざを折って破片《はへん》をひろいあつめ、むだとは知りつつも、その破片をつぎあわしてみた。
 だめだった。二十世紀茶釜はもとのとおりにならなかった。かれは落胆《らくたん》のあまり、場所がらをもわきまえないで、舞台にぶっ倒れて、おいおいと泣きだした。
「おい、あそこにあやしい奴がいる。逃げるつもりらしい。逃がすな」
 そういったのは、長戸検事であった。
 かれはさすがに、職掌《しょくしょう》がら落ちついていて、あのような大椿事《だいちんじ》のときにもあわてないで、ひとりのあやしい人物をみとめたのだ。その人物は、舞台のすぐ前にいて、いす席にはつかず、たって見物していた。そしてあの事件の起こるすこし前になって、かれは、吊皮《つりかわ》でくびから吊《つ》って小脇にかかえていたカバンぐらいの大きさの黒い箱を胸の前へまわした。その箱と舞台とをはんぶんにのぞきながら、かれはその箱を手でいじっていた。そのうちに、かれがさっと顔をきんちょうさせた。そのせつなに、舞台では二十世紀茶釜が、綱を踏みはずして下に落ちたのであった。
 するとその人物は、いっしゅん硬直《こうちょく》していた。快心《かいしん》のほおえみをもらしたようにも思えたが、なにしろその人物は、茶色の、型のくずれたお釜帽子《かまぼうし》をまぶかにかぶり、大きな黒めがねをかけ顔の下半分は、黒いひげでおおわれていたので、その表情をはっきりたしかめることができなかった。
(あやしい奴!)
 検事の目が、はりついたようにじぶんの上にあると知ってか知らないでか、その怪人物は席をはなれて、わきたつ見物人たちをかきわけて場外へ出ようというようすだ。そこで長戸検事は、蜂矢探偵に、
「あそこに、あやしい奴がいる。逃がすな」
 と声をかけたのであった。
 検事が席を立って走りだしたので、蜂矢はかれのあとにしたがわないわけにいかなかった。だがこのとき蜂矢十六は舞台の方へ、かなりひきつけられていたのである。その心をあとへ残し、助手の小杉少年にそれッと目くばせをして、わずかのことばを少年の耳にのこすと、蜂矢は検事のあとを追いかけた。
 小屋の出口のところで、検事は不良青年数名《ふりょうせいねんすうめい》につかまって、なぐりっこをやっていた。そこへ蜂矢はとびこんで、不良青年たちをあっさりとかたづけた。そしで検事を助けて、場外へでた。
「あ、あそこにいる」
 怪人物は公園から町の方へ逃げだすところだった。かれはちらりとうしろを見た。
 蜂矢は検事とともに全速力で追った。
 怪人物は、うしろを見ながら、ひろい道路を馬道《うまみち》の方へかけていく。かれは老人のように見えながら、いやに足が早かった。しかし検事は学生のとき短距離の選手だったから、足には自信があったし、蜂矢は若さで追いつくつもりだった。
 怪人物は、馬道の十字路をはすかいにわたった。そのとき自動車が怪人物をじゃました、だから追うふたりがつづいて、その十字路をよこぎったときには、わずかに距離を十メートルほどにちぢめていた。もうすこしだ。
 がちゃーン。
 怪人物は小脇にかかえていた黒い箱を歩道の上におとした。
「あッ、それを拾《ひろ》わせるな」
 検事が叫んで、黒い箱の方へとびついた。蜂矢もその黒い箱にちょっと注意をうつした。それが怪人物にとっては、絶好の機会だった。二人が顔をあげて、怪人物の方をみたとき、怪人物のすがたはもうなかった。
 怪人物は、かきけすようにすがたを消してしまったのである。異様《いよう》な黒い箱だけが、ふたりの手にのこった。


   黒箱《くろばこ》の謎


「うーん、ざんねん。うまく逃げられてしまったわい」
 長戸検事は、大通りのヤナギのかげで汗をふきながら、そういった。とり逃がした怪人物をあきらめたようなことをいいながらも、まだかれの目は往来《おうらい》へいそがしく動いていた。
「きょうは逃がしても、そのうちにきっとつかまりますよ」
 蜂矢探偵が、検事をなぐさめた。
「そうだ。とにかく、彼奴《あいつ》はこのへんですがたを消したんだから、どこかこの近くに巣《す》くっているのにちがいない。ああ、そうだ。怪人物がおとしていった黒箱を、ちょっとしらべてみよう。こっちへだしたまえ」
 その黒箱は、さっきから蜂矢が検事からあずかって、こわきに抱いていたのだ。それは木の箱だった。しかしかなり重いところをみると、中に金属製の何物かがはいっているにちがいない。
「どこかあくんだろうが、どうしたらいいだろうかね」
 検事は、こういうことになると、いつも手をやく方であった。そこで蜂矢のたすけをもとめる。
「さあ、どこがあくんですかな」
 蜂矢もその場にしゃがんで、黒箱をいろいろといじってみる。なかなかあかなかったけれど、蜂矢がその黒箱の板の節穴《ふしあな》に小指を入れてみたときに、きゅうに箱がばたんとはねかえり、四方の枚がはずれた。そして中から出てきたものは、銀色のうつくしい金属|光沢《こうたく》をもった箱であった。
「二重箱《にじゅうばこ》になっているんですね。なかなか用心ぶかい作りかただ」
 蜂矢は、おどろいていった。
「なるほど。そしてこれは何かの器械らしいが、いったいなんの器械かね。なんに使う器械かね」
「さあ。待ってくださいよ」
 蜂矢は、ポケットからドライバーを出して器械の裏蓋《うらぶた》をあけた。中を見ると、ラジオ受信機に似た、こまかい部品器具が集まっており、赤や青や黄のエンパイヤ・クロスのさやをかぶった電線が、くも[#「くも」に傍点]の巣のように配線してあった。
「電波を出す器械のようですね。いわゆる送信機の一種らしいのですが、かんじんの真空管がぬいてあるし、電波長《でんぱちょう》を決定する、同調回路《どうちょうかいろ》のところもねじ切ってあるから、はっきりわかりませんねえ」
 蜂矢は、いよいよおどろきの色を見せてそういった。
「なんだって、かんじんの真空管やら、何やらがぬいてあるというのかい。誰がそんなことをしたのだろう。やっぱり、あのあやしい男のしわざか」
 検事は自問自答した。
「そうでしょうね。あの怪人物は、なかなか注意ぶかくやっていますね。ただのネズミじゃありませんね」
「そうだ。こうなると、こんな黒箱なんかに目をくれないで、彼奴《あいつ》をおいつめた方がよかったんだ。そして、みんな彼奴の註文《ちゅうもん》に、こっちがはまったことになる。まったくわれながらだらしがないわい」
 検事は、苦笑してくやしがった。
「とにかくこの黒箱は持ってかえって、なおよくしらべてみましょう。時間をたっぷりかけてしらべると、もっとはっきりしたこの器械の性質なり使いみちなりがわかるかもしれません」
「そうしてくれたまえ」
 そこでふたりは、ヤナギの木かげから腰をあげた。
「検事さんは、これからどうしますか」
「もう一度、二十世紀茶釜の小屋のようすを見てから、役所へもどることにしよう」
「では、おともしましょう」
 ふたりは、道をひきかえして、浅草公園のうらから中へはいった。
 さっきまで大にぎわいだった小屋のあたりには、もう人影もまばらだった。
 小屋のまえに立ってみると、あの景気のよい呼びこみの声もなく、にぎやかすぎるほどの楽隊の楽士たちも、どこへ行ったかすがたがなく、表の札売場《ふだうりば》はぴったりと閉じられ、「都合により本日休業」のはり紙が四、五枚はりつけられ、そよかぜにひらひらしていた。
 ふたりは、小屋の中へはいってみた。
 なかには、もちろん見物人はただのひとりも残ってはいず、この小屋の雑用《ざつよう》をしているらしい老人が四、五名、のんきそうに舞台の上でタバコをすい、茶をのんでいるだけだった。
「おいきみ、興行主《こうぎょうしゅ》の雨谷《あまたに》君は、どこにいるのかね」
 検事が、そういって、たずねた。
 その筋《すじ》の人だということは、老人たちにもすぐぴーんときたらしく、かれらはぺこぺこと頭をさげて、
「へい、だんな。雨谷さんは、さっき寝台自動車《しんだいじどうしゃ》にのせられて、なんとか病院へ行きましたがね」
「どこか、からだの工合がわるいのかね」
「へい。なんですか、心臓が悪いとか、アクマがどうしたとかいってましたがね、あっしはよくみませんので。へへへへ」


   茶釜小屋《ちゃがまごや》の終幕《しゅうまく》


 その夜、小杉二郎少年が蜂矢のところをたずねてきたので、ひるま茶釜破壊の椿事《ちんじ》があってからあとの、小屋のなかのようすがだいたいわかった。
「あの雨谷《あまたに》という茶釜使《ちゃがまつか》いの人は、たしかに気がへんになったようですよ。はじめは舞台の上にうつぶして、わあわあ泣いていたんですが、しばらくすると、むっくり起きあがりましてね、歌をうたい出したんです。それから踊るようなかっこうをしながら、綱わたりをはじめたんです。文福茶釜にかわって、じぶんが綱わたりを見せようというのです。見物人は、わっとかっさいしました」
「ふーん。それはかわっているね」
「ところが、とつぜん雨谷はおこりだしましてね、見物人をにらみつけて、さかんに悪口をとばすのです。見物人たちの方では、これをおもしろがって、わあわあとさわぎたてる。すると雨谷はますます怒って、ゴリラのように歯をむきだし、どんどんと舞台をふみならし、たいへんな興奮です。あげくのはてに、足もとに落ちていた文福茶釜の破片を拾いあげて、これを見物人席へ投げはじめたからたいへんです」
「ほうほう。それはたいへんだ。見物人はけが[#「けが」に傍点]をしやしなかったかい」
「けがをしました。だから見物人の方が、こんどはほんとうに怒ってしまいましてね、こんどあべこべに見物人の席から、茶釜の破片《はへん》を舞台へ向かって投げかえす。すると雨谷の方でも、それに負けていずに投げかえす。しまいには、茶釜の破片だけでなくて、棒ぎれや電球や本や弁当箱までが、見物人席と舞台の間にとびかうさわぎです」
「えらいことになったもんだね」
「小屋の方の人も、ものかげから声をからして、見物人の方へしずまってくださいとたのむのですが、さっぱりききめなしです。そうかといって、そういう人たちは舞台の前へでるわけにもいかないのです。見物人の見えるところへでると、たちまち見物人から何かを投げつけられて、けがをしなければなりませんからね」
「雨谷君は、まだけが[#「けが」に傍点]をしていなかったのかい」
「けがをしていたらしいが、当人は気が変になっているらしく、けがをしていることに気がつかないで、なおも舞台の上であばれていたんです。ところが、見物人の席から板ぎれがとんできましてね、これが雨谷の頭にごつんとあたったんです。そこで雨谷はばったり倒れてしまいました。そしたら、さわぎはきゅうにしずまってしまったんです。そして見物人たちはどんどん小屋から出ていってしまいました」
「ははあ、なるほど。雨谷君が死んだと思ったんだな。それで人殺しのかかりあいになるのをおそれて、みんな小屋から逃げだしたんだな」
「そうなんでしょう。とにかくこれで、さわぎはしずまりました。雨谷は、外へかつぎ出され、寝台自動車《しんだいじどうしゃ》に乗せられて、本所《ほんじょ》の百善病院《ひゃくぜんびょういん》へつれて行かれました。ぼくはそれを見おくって、そこを引きあげたんです。これがすべてのお話です。」
「そうかい。よくわかった」
 蜂矢探偵は、少年の労《ろう》をねぎらったのち、ふと思い出したかのように、
「あれはどうしたろうか。問題の文福茶釜の破片はどうしたろう」
「ああ、それはですね。ひとつだけぼくが拾ってきましたよ。いま持ってきます。」
 二郎は玄関へ行ったが、まもなく風呂敷包を持って引き返してきた。
「場内でひろったんですが、たしかにこれは二十世紀文福茶釜の破片の一つです。よく見てください」
「これが、そうなのかい」
 蜂矢は、その破片を手にとって、いくども裏表をひっくりかえして見いった。この破片は、釜のごく一部分であるが、釜のつば[#「つば」に傍点]もついていた。
「このほかに、茶釜の破片は落ちてなかったんだろうか」
「さあ。落ちていたかもしれませんが、ぼくの目にとまったのは、これだけでした」
「そうかい。とにかくこれはいいものを拾って来てくれた。これは、ぼくのところに保管しておくが、ひょっとすると今夜あたり、これがコウモリのように空中をとびまわるかもしれないね」
「えっ、なんですって」
「いや、なんでもないよ」
 蜂矢は、あとをいわなかった。それはじぶんの想像のために、小杉少年を不必要にこわがらせてもいけないと思ったからである。だが蜂矢の想像としては、もしもこの茶釜が、針目博士の作り出した金属Qであったとしたら、たとえそれが今は破片になっているにせよ、いつかは生きかえって、破片ながら動き出すかもしれないと思ったのであった。
 はたして、蜂矢探偵のこの予想は的中するかどうか。


   ふしぎな電話


 きゅうにある家出人事件《いえでにんじけん》がおきて、そのことについて蜂矢探偵は一生けんめいに走りまわっていたので、れいの茶釜破壊の日から約二十日間を、怪金属事件の捜査から、手をぬいていたのだった。
 ようやくその家出人も、ついに探しあてられて、ぶじ家にもどり、蜂矢の仕事も、ここに一段落となった。そこでかれは、ふたたび怪金属事件の方へあたまをふりむけることになった。
 この二十日間、さいわいべつに怪しい事件も起こらず、まず泰平《たいへい》であった。
 しかしいろいろなことが、あしぶみをしていた。針目博士の行方の捜査のこと。黒箱の中にはいっていた器械をしらべること。こわれた茶釜の行方をつきとめ、その破片をみんな集めることなどが、きゅうを要することだった。
 茶釜の破片あつめは、いまとなってはどうにも手おくれで、いたしかたがなかった。あの事件の直後、小屋の中をめんみつに探したなら、破片あつめはあるていど、成功したかもしれないのだがいまとなって後悔《こうかい》しても、もうおそかった。
 けっきょく、ちゃんとはっきりのこっているのは、小杉二郎少年が拾ってきて、いま蜂矢の書斎の金庫の中にある一破片だけであった。この破片は、もしや奇怪なる生き返りでもして、家の中をコウモリのように飛びまわりはしないかと、気をもませたものであったが、事実そういうことは起こらなかった。まったくしずかに箱の中にはいっているふつうの金属片にすぎなかった。蜂矢は、はじめはこれが飛びまわるかと、おそれをなしたものの、飛びまわらないとわかったいまは、少々がっかりしているふうであった。
 雨谷君も、まず正気《しょうき》にかえって、いまではふつうの人のようになり、退院も間ぢかという話であった。この雨谷君に茶釜の破片を持っているなら、参考のために見せていただきたいと申し入れた。しかし雨谷君のところには、ひとつもないことがわかった。
 そうなると、蜂矢の家にある一破片は、いよいよ貴重なものとなった。
 ほかの破片は、いったいどこへ行ったのであろうか。
 それはたぶん、掃除夫が集めて、塵芥焼却場《じんかいしょうきゃくば》にはこび、そこで焼いてしまったのであろう。むかしなら、そういうときには、金属材料は大切にあつかわれ、横にのけておいて、製鉄所へ回収されたかもしれない。今はもうおそまつにあつかっているので、焼いたあとは、灰の中へうずまり、ますます深く地中へうずもれていったことであろう。
 もしもあの茶釜の中に、蜂矢探偵が想像したように、生命のある怪金属《かいきんぞく》がはいっていたものなれば、その生命は、どうなったであろう。
 茶釜が破壊したときにいっしょに、怪金属の生命も終ってしまったのであろうか。
 いやいや、そうかんたんには断定できないであろう。もともと怪金属は、非常に小さいものであるから、もし茶釜の中にそれがはいっていたとしても、茶釜が破壊したときに、その生命が不運にも二つに折られるようなことは、まずまずないであろう。
 そうだとすると、怪金属は、どこかに今も生きている可能性がある。可能性があるというだけのことで、かならず生きているとはいえない。この二十日間、世の中に、怪金属を思い出させるような怪事件が報道されないところをみると、怪金属はあるいはすでに、死滅《しめつ》してしまったかもしれないのだ。
 蜂矢探偵は、きょうは実験室にはいって、れいの黒箱を解体し、いろいろとしらべている。
 かんじんの真空管《しんくうかん》や同調回路《どうちょうかいろ》がないので、このしらべもなかなか困難であったが、しかし蜂矢探偵は、持ちまえのやりぬく精神をもって、こつこつと仕事をすすめていった。
 すると、とつぜん電話がかかってきた。
 蜂矢は、ドライバーをほうりだして、受話器を取りあげた。異様《いよう》につぶれた声が聞こえてきた。
「……もしもし。探偵の蜂矢さんは、あんたかね」
「そうです。蜂矢十六《はちやじゅうろく》です。あなたはどなたですか」
「蜂矢君。きみは身のまわりを注意したまえ。ひょっとするときょうあたり、おそろしい奴がたずねて――」
 電話は、そこでぷつりと切れた。そのあといくら電話局に連絡しても、さっきの相手はふたたび出なかった。
 通話はあきらめた。
 だがこれはおかしなことになった。あやしい客がくるという警告だ。あの通話者《つうわしゃ》は、いったい何者だろうか。同情者《どうじょうしゃ》なのであろうか。それとも脅迫者《きょうはくしゃ》がみずから電話をかけてきたのであろうか。
 ちょうどそのとき、玄関の呼鈴《よびりん》が鳴った。訪問客だ。はたして、さっき電話で注意をうけた怪人物の来訪であろうか。それともふつうの事件依頼人《じけんいらいにん》であろうか。
 蜂矢は、玄関へ出ていって、秘密の透視窓《とうしまど》ごしに、外にたっている訪問客のすがたを見た。まっ黒な長いマントに、おなじ黒の頭巾《ずきん》をすっぽりかぶった異様な人物が、まるで影のようにそこに立っていた。
 蜂矢探偵は、ぎくりとした。


   怪少年


 何者だろう。ふしぎな服装の訪問客は、顔を頭巾の奥ふかくかくしているので、誰だか見当がつかなかった。
「先生。あやしい人ですよ。おいかえしましょうか」
 小杉少年が、蜂矢探偵の方を心配そうな顔で見て、そういった。その訪問客は、長い黒マントの下にピストルぐらいかくしていそうであった。とにかく、雨も降っていないのに、なぜあのように、下にひきずるほど長いマントを着ているのだろう。こんな怪しい客はおいかえすにかぎる。
「ちょっとお待ち。怪しいお客なら、特にていねいに応待をして、応接室へご案内しなさい」
「それでは、あべこべですね。先生、あの長いマントの下から、ピストルがこっちをねらっているかもしれませよ。きっと、そうだ」
「もちろん、こっちは充分に注意をするから大丈夫だ。それにさっき電話で、“きょう怪しい客が行くぞ”と知らせがあったほどだから、怪しい客にはぜひお目にかかりたい」
「先生はかわっていますね。それではぼぐが玄関へ出ますが、先生はくれぐれも注意をおこたらないようにしてくださいよ」
 小杉少年は、蜂矢探偵があまり大胆すぎるので、気が気でない。
 それから小杉少年は、玄関へとび出していった。玄関をあける音、それから客と小杉との対話が、客にはわからない秘密屋内電話の線をつたわって、蜂矢のところへ聞こえてくる。
 それを聞いていると、怪しい客は、小杉の質問には答えようとはせず、ただすこしも早く蜂矢探偵に会わせてくれ、会うまでは、何にも説明しないとがんばっているようす。
「そんなことでは、先生に取次《とりつ》ぎができません」
 というと、怪しい客は、
「そんなら、きみに取次ぎはたのまない。じぶんが奥へふみこんで、蜂矢探偵に面会をとげるであろう」
 といって、かれは前に立ちふさがる小杉少年の胸をぽんと押しかえした。すると小杉は、うしろへひっくりかえった。怪しい客は、えらい力持《ちからもち》だった。
 怪しい客は、どしどし奥へはいりこんだ。そして蜂矢探偵が書斎にいるのを見つけると、つかつかとその前へ―。
「蜂矢君。茶釜の破片をわたしたまえ」
 怪しい客は、しゃがれた声を出して、ぶっきらぼうにいう。
「いったいきみは、誰ですか」
 蜂矢探偵は、しずかなことばで、怪しい客にたずねた。
「茶釜の破片をわたしたまえ。いそいで、それをわたしたまえ」
「なぜ、きみにわたす必要があるんですか。それがわからないと、たとえその破片が手もとにあったとしても、きみにはわたせませんね」
「そんなことは必要ない。早くわたせ」
「きみは礼儀《れいぎ》を知りませんね。人間というものは、いやな命令をされると、ますます反抗したくなるものですよ。けっきょくきみは自分の思うとおりにならなくて、困るでしょう。そういうやりかたは、きみにとってたいへん損ですよ」
「早く破片を手にいれたいのだ。これがきみにわからんのか」
 怪しい客は、いらいらしてきたらしく、大きな黒頭巾《くろずきん》の奥で、しきりに小さな顔をふりたてている。そのとき蜂矢は、怪しい客の顔が、ほんとうの人間の顔ではなく、マネキン人形の首であることを見破った。そのマネキン人形は、かわいい少年の首であった。
 人形の首が、なぜ口をきくのか。生きている人間のように、ものごとを考えたり、こっちの話を聞きわけたりするのか。とにかく、これはとんでもない怪物であることが察しられた。
「いや、ぼくは、礼儀を知らない人間とおつきあいをするのは、ごめんです。もちろん、何をおっしゃっても、ぼくは聞き入れませんよ。協力するのはいやです……」
「いうことをきかないと、殺すぞ」
「殺す、ぼくを殺して、なんになりますか。すこしもきみのためにはならない、茶釜の破片をしまってある場所は、もしぼくが殺されると、きみにおしえることができない。それでもいいんですか」
「ううむ――」
 怪しい客は、うなりごえとともに、からだをぶるぶるふるわせて、
「早く出せ。きみが茶釜の破片を持っていることは、今きみが自分でしゃべった」
「たしかに、持っています。話によれば、おわたししてもいいが、礼儀は正しくやってもらいましょう。まず、そのいす[#「いす」に傍点]に腰をかけてください。ぼくもかけますから、きみもかけてください」
 そういって蜂矢探偵は、先に自分のいす[#「いす」に傍点]に腰をおろした。
「わたしは腰をかけることができないのだ」
 怪しい客は、うめくようにいった。
「なぜ、きみにそれができないのか。そのわけを説明したまえ。およそ人間なら、誰だって腰をかけるぐらいのことはできる。きみは、人間でないのかね」
 蜂矢は、ことばするどく相手にせまった。
 すると怪しい客の全身が、がたがたと音をたてて、大きくふるえだした。怒《いか》りに燃えあがったのか、それとも恐怖《きょうふ》にたえ切れなくなったためか。


   恐ろしき笑い声


「もうきみの力は借りない。今まで人間のまねをしていたが、ああ苦しかった。もうこれからはわたしの実力で、必要とするものをさがし出して持っていくばかりだ」
 怪《あや》しい客は大立腹《だいりっぷく》らしく、声をあらげて叫んだ。と、かれの頭巾《ずきん》が、ひとりでにうしろへひっぱられ、今まで頭巾《ずきん》でかくれていたマネキン人形の首が、むき出しにあらわれた。
「あッ」
 これには蜂矢もおどろいて、思わず声をあげた。にこにこ笑っている木製の男の子の首だ。がそれだけではない。マネキン人形の頭の上に、やかんのふた[#「ふた」に傍点]ぐらいの大きさの金属らしい光沢の物体がのっている。それが生きもののように、はげしく息をしている。ふくれたり、ちぢんだり、横に立ったり、形をかえたり。いよいよ怪しいものだ。
「待ってくれ。きみのいうことは、きく。らんぼうするな」
 蜂矢は、まっさおになっていす[#「いす」に傍点]から立ちあがりあとずさりした。今までの落ちつきをうしなって、日頃の蜂矢には見たくても見られないほどの大狼狽《だいろうばい》だ。どうしたのだろう。
「もうきみと口をきく必要はない。しずかにしていろ。きみの脳にたいし直接問いただすことがあるんだ。茶釜の破片《はへん》のかくしてある場所を問いただすんだ。もうきみには答えてもらう必要はない。用がすめば、きみを殺してやる」
「待て、金属Q! 話が残っているんだ。待ってくれ、骸骨《がいこつ》の第四号!」
「ふふふふ。そこまで、きみは知っているのか。それを知っていながらわたしのじゃまをするとは、いよいよゆるしておけない。いじわるの人間よ。あとできっとかたづけてやる」
「まあ待て、きみに一つ重大な注意をあたえる。きみを作った針目博士はちゃんと生きているぞ。博士はきみを逮捕《たいほ》するために、一生けんめい用意をととのえている。それを知っているか」
「針目は死んだ。生きているわけはない。でたらめをいうな」
「博士が死んだと思っていると、きみはとんだ目にあうよ。この前きみが浅草公園《あさくさこうえん》の小屋の中で、綱わたりをしていたときに、きみはいつもりっぱに、らくらくとあの芸当《げいとう》をやりとげていた。ところが最後の日、きみは綱わたりに失敗して墜落《ついらく》した。そして茶釜はめちゃめちゃにこわれてしまった」
「それがどうした。過《す》ぎたことが」
「きみは、あの日、なぜ綱わたりに失敗して、墜落したかそのわけを知っているのかい。それをぼくが話してやる。あれはね、針目博士が特殊の電波をもちいてきみをまひ[#「まひ」に傍点]させたんだ。きみは思いだしてみるがいい」
「ふーん。どうもおかしいと思った。針目博士が生きているなら、これはぐずぐずしてはいられない。おい、博士はどこにいる」
「知らないよ。ほんとうに知らない。ぼくたちも博士の居所《いどころ》を探しあてたいと思っているのだ」
「ううーん。うそつきどもの集まりだ。よし、おれは他人の力によって征服されるものか。さあ、仕事だ。茶釜の破片を出せ。いや、きみの返事なんかいらない。直接にきみの脳からきいてやる」
 そういうと、怪しい客――金属Qは蜂矢におどりかかった。
 蜂矢はひらりとからだをかわしたが、金属Qはとてもす早く、蜂矢は二度目にはねじ伏《ふ》せられた。とたんにひどい頭痛を感じた。
「うーッ、苦しい」
「はっはっはっ。金庫の中にしまってあるのか。もうきみには用はない。いや、殺してやるんだ」
 このとき小杉少年がとびこんできて、ゴルフのクラブで、金属Qのうしろから力いっぱいなぐりつけた。
「ややッ。誰だ」
 金属Qは、びっくりしてうしろをふり返った。そのすきに蜂矢は立ちあがって、いす[#「いす」に傍点]をつかんで怪人の足をはらった。怪人は大きな音をたててひっくりかえった。が、すぐさまはね起きると、こんどはふたりには目もくれず金庫の前にとんでいった。すると金庫は、とつぜん火を吹いた。金庫のかたい扉《とびら》のまん中に大穴があいた。怪人は、その中から、蜂矢のたいせつにしていた茶釜の破片をつかみだした。
「だめだ。これはただの鉄片《てつへん》だ。おれがさがしている大切な十四番|人工細胞《じんこうさいぼう》ではない。ちえッ、いまいましい」
 がちゃんと、鉄片は床にたたきつけられた。と怪人は大きなマントをひるがえして窓からさっととび出した。
「ああッ、待て」
 蜂矢は立ちあがって、窓から外へ手をのばした。しかしそれはもう間に合わなかった。
「二郎君。怪人の行方《ゆくえ》を監視していてくれ。ぼくは長戸検事《ながとけんじ》のところへ電話をかけるから……」
 蜂矢はいす[#「いす」に傍点]の背をとびこえて、電話機のところへとんでいった。


   怪魔《かいま》の最後《さいご》?


 怪魔金属《かいまきんぞく》Qが逃げた!
 怪金属Qは、長い黒マントに黒頭巾《くろずきん》を着て人間の形をよそおい、日比谷公園《ひびやこうえん》の方へ逃げた。
 怪金属の実体《じったい》というべきものは、マネキン人形の頭部のてっぺんに乗っている。それを捕《とら》えるんだ!
 このような知らせが、長戸検事のところへ蜂矢からとどいたので、検事はびっくりしたが、かねて待っていたことだから、すぐ手続きをとって、警察力のすべてをあげて怪魔《かいま》の追跡《ついせき》と逮捕《たいほ》にとりかかった。
 連絡の電波は、四方八方《しほうはっぽう》にみだれとんで、金属Qの行方をたずねまわる。
「いました。金属Qらしい長マントの怪人が議事堂の塔の上にいます」
「なに。議事堂の塔の上に怪魔がいるというのか」
 長戸検事は今は金属Q捜査隊長《そうさたいちょう》に任命せられていたので、これを聞くとただちにぜんぶの隊員へ放送した。
「手配中の犯人は議事堂の塔上《とうじょう》にのぼっている。包囲《ほうい》して、取りおさえよ」
 命令一下、警官隊は議事堂へむけて突進した。自動車とオートバイとの洪水《こうずい》だ。それに消防隊が応援にかけつける。
 選抜隊が百名、いよいよ屋上へ通じている階段をのぼって、塔のもっとも下の遊歩場《ゆうほじょう》へ姿をあらわした。
 怪魔は、塔の上で、ぐったりとなっている。やっぱり疲れはてたものと見える。風に、長マントがまくれる。黒頭巾《くろずきん》が、ひとりでこっくりこっくりとおじぎをしているが、これも風のいたずららしい。
 附近の建築物の屋上にも、警官隊がぎっしりとのぼって、もし怪魔がこっちへ逃げてきたときは取りおさえようと、手ぐすねひいている。
 そのうちに怪魔は気がついたらしく、塔《とう》の尖端《せんたん》に立ちあがって、きょろきょろと下をながめまわした。と、思ったら、怪魔はマントの下から、石のようなものを下へばらばらとまいた。それは下にせまっている警官隊のまん中で大きな音をあげて破裂《はれつ》した。警官たちは将棋《しょうぎ》だおしになった。
「うてッ」
 警官たちも今はこれまでと、下から銃器《じゅうき》でもって応じた。上と下とのはげしいうちあいはしばらくつづいた。警官たちは、どんどん新手《あらて》をくりだして、怪魔を攻《せ》めたてた。
 怪魔はついにふらふらしだした。
「あ、あぶない」
 怪魔のからだが塔の上からすっとはなれた。
「下へ飛ぶぞ。逃がすな」
 大きく弧《こ》をえがいて、長い黒マントの怪魔は議事堂の庭の上に落ちた。そして動かなくなった。
「とうとう自分でお陀仏《だぶつ》になったか」
「あんがい、かんたんな最期《さいご》をとげたじゃないか」
「大事なところを弾丸《たま》にうちぬかれたのだろう」
 怪魔のからだは、ばらばらになっていた。もちろんこれはマネキン人形の手足や胴中《どうなか》や首であるから、そのはずである。
 長戸検事がかけつけ、怪魔のばらばらになったからだを念入《ねんい》りにしらべた。
「はてな。なんにもない」
「検事さん、あれがありませんか」
「おお、蜂矢君」
 と検事はすこしおくれてかけつけた蜂矢をふりかえって、
「あれが見えないよ。人形の首はこのとおりあるが、きみがいったようなやかん[#「やかん」に傍点]のふたみたいなものは見えない」
「もっと徹底的《てっていてき》にしらべましょう。しかしあれは怪力《かいりき》を持っていて、危険きわまりないものですから、ぴかりと光ってあらわれたら、すぐ警官隊はそれをたたき伏せなければ、あぶないですよ」
「よろしい」
 蜂矢探偵は念入りにしらべた。
 だが、やっぱりこわれたマネキン人形のばらばらになった部分のほかに何もなかった。
「あるはずなんだがなあ」
 蜂矢は、首をかしげる。
「あれだけが逃げたんじゃないかなあ」
「そういう場合もあるでしょう。あなたの部下の誰かが、これを見かけたでしょうか」
「いや、そういう報告はない」
「ふしぎですね」
 この謎はとけないままに、その日は暮れた。怪魔《かいま》はどこへ行ったのであろうか。どこにかくれているのであろうか。
 怪魔のばらばらになった遺骸《いがい》は、どこにどう始末をするか、ちょっと問題になった。けっきょく、やっぱり大事をとって、これを怪魔の死体としてあつかうこととなり、たる[#「たる」に傍点]に入れ、死体置場《したいおきば》の中へはこびこまれ、その夜は警官隊をつけて厳重《げんじゅう》な警戒をすることになった。なんだかあまりにものものしいようであるが、なにしろ相手がえたいの知れない怪物であるだけに、ゆだんはすこしもできなかった。
 はたしてその夜ふけて、怪魔の遺骸《いがい》をおいてある死体置場に、世にもあやしいことが起こった。


   死体置場《したいおきば》の怪《かい》


 死体置場の警戒のために、その部屋に詰めていた警官は、長夜《ちょうや》にわたって、べつに異常もないものだから、いすに腰をおろしたまま、うつらうつらといねむりをしていた。
 ところが、とつぜん怪しい物音がして、警官をねむりから引き起こした。
「やッ。今のは、何の音……」
 と、すばやく部屋の中を見わたすと、意外な光景が目にうつった。
「あッ」
 警官は、おそろしさのあまり、全身に水をあびせられたように感じた。
 見よ。そこに収容《しゅうよう》されてあった二つの死体が並べてあったが、それにかぶせてあった布《ぬの》がとり去られてあった。そして警官が目をそこへやったとき、男の死体が、上半身をつつーッと起こしたかと思うと、警官の方へ顔を向け、上眼《うわめ》でぐっとにらんだのである。
「わッ」
 警官はおどろきの声をたてた。そして気が遠くなりかけた。
 すると、その男の死体は、よろよろと立ちあがった。そしてあやつり人形のような動きかたをして警官の方へふらふらと近づいた。
「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」
 警官は、おそろしさに、たまらなくなって、合掌《がっしょう》してお念仏《ねんぶつ》をとなえ、目をとじた。
 ばさり。
「うーむ」
 ばさりというのは、死体が冷たい手で、警官の横面《よこつら》をなぐりつけた音であった。
「うーむ」という呻《うな》り声《ごえ》は、とうとうこらえきれなくなって、その警官が目をまわしてしまったのである。
 その警官は、それから三十分ほど後、交代の同僚がやってきたときに発見され、手当《てあて》をくわえられて、われにもどった。
「おお、気がついたか。しっかりしなくちゃいかんよ。いったいぜんたいどうしたんだ」
 同僚が警笛《けいてき》を吹いたので、たちまち宿直《しゅくちょく》の連中がかけつけて、人事不省《じんじふせい》の警官をとりまいて、元気をつけてやった。
「あーッ、おそろしや。死体が棺の中に起きあがって、ふらふらとこっちへやってきた。そしてわたしをにらんだ。わたしは、死体にくいつかれると思った。おそろしいと思ったら、気が遠くなって、あとのことはおぼえていない」
「なるほど、そういえば、死体が一つたりないが、どこへ行ったんだろう」
 死体の行方が問題となって、警官たちはお手のものの捜査を開始した。
 しばらくすると、さっき目をまわした警官は、もうすっかり元気をとりもどしたが、行方をたずねる男の死体は、どこにも見あたらなかった。
 ふしぎだ。
 どこへ行ったんだろう。第一、死体が歩くというのはおかしい。
 だが、死体がなくなったことは、まちがいない。出口は、方々にある。そのどこかを抜けて通ったものにちがいない。
 死体置場は、さらに念入りにしらべあげられた。そのけっか、二つの新しい発見があった。
 その一つは、議事堂の塔から落ちた怪少年の死体――これは死体といっても、マネキン人形のからだなのであるが――その死体が、それを入れてあった箱の中にはなく、手や足や胴などがばらばらになって、箱の外にほうりだされていたことである。
 そして、それを集めてみると、マネキン人形の首だけが足りなかったのである。
 もう一つのこと。それは、たずねるマネキン人形の首の破片《はへん》と思われるものが、なくなった男の死体のはいっていた棺《かん》のうしろのところに、散らばって落ちていたことだ。
 この二つのことが、なぜ起こったのか、すぐにはとけそうもなかった。
 紛失《ふんしつ》した死体の主は、上野駅のまえで、トラックに追突《ついとつ》されてひっくりかえり、運わるく頭を石にぶつけて、脳の中に出血を起こして頓死《とんし》した四十に近い男であって、どこの何者ともわからず、ただ服の裏側に「猿田《さるた》」と刺繍《ししゅう》したネームが縫《ぬ》いつけてあるだけであった。職業もはっきりしないが、からだはがんじょうであるけれど、農業のほうではなく、手の指や頭部《とうぶ》の発達を見ても、文筆労働者《ぶんぴつろうどうしゃ》でもなく、所持品から考えても商人ではない。けっきょく、わりあい財産があって、のんきに暮らしている人ではあるまいかと察《さっ》せられた。そして東京の人ではなく、地方から上野駅でおりたばかりのところを、やられたのであろうと思われた。
 そのうちに、地方から、「猿田なにがし」という人物の捜査願《そうさねがい》が出てくるであろう。そうしたらその身分もあきらかになる。それを当局は待つことにして、「猿田」の死体の方は、ひきつづきげんじゅうに捜査をすすめていたのである。
 だが、死体の行方は、いつまでたっても知れなかった。


   蜂矢探偵《はちやたんてい》の決心


 蜂矢探偵《はちやたんてい》は、ようやくからだがあいたので、ひさしぶりに、怪金属Qの事件の方にかかれることとなった。
 探偵は、カーキー色の服を着、シャベルとつるはし[#「つるはし」に傍点]とをかついで、針目博士邸《はりめはくしてい》へ行った。
 博士邸は、あの爆発事件で、第二研究室が跡かたなくとんでしまって以来、住む人は留守番のほかに、検察庁から警官が詰めていたが、その人々もだんだんにへり、最後はただのひとりとなったが、今はそのひとりも常に詰めかけてはいず、三日に一度ぐらい、巡回《じゅんかい》にちょっと寄ってみるくらいだった。
 警戒の方も、このくらいかんたんになっていることゆえ、世間《せけん》も、この事件をもはやわすれかけていた。
 はじめ事件の捜査《そうさ》の指揮《しき》をとっていた長戸検事《ながとけんじ》は、もちろん、この事件をわすれてはいなかった。ひそかに毎日毎夜、頭をひねるのがれいになっていた。しかし表面にあらわれたところは、検事はやはりこの事件をわすれているように見えた。それは、この事件の捜査を蜂矢探偵に肩がわりをしたので、検事は任務から解放されたのだと、みんなはそう思っていた。
 さて、蜂矢探偵のきょうのいでたちや、肩にかついだ道具は、なにを語るであろうか。
 かれは、これまで針目博士邸につぎつぎに起こった怪事件を、くりかえし考えた。そのけっか、結論にたっすることができなかった。
(まだ方程式《ほうていしき》の数がたりないんだ)
 結論をだすには、まだしらべがたりないところがあることが、はっきりわかったのだ。
 そのたりない方程式の一つは、博士の第二研究室あとを掘りかえしてみることである。あの土の下から、かれは何ものかを発見したいと思っているのであった。
 その爆破跡は、これまでに検察庁やその他の方面の人々の手によって、いくどとなく念入りに掘りかえされたのだ。しかし、ついに重大なる手がかりと思われるものは、発見されなかったのである。それなれば、これから遅ればせに、蜂矢が掘ってみたところが、何も出てくるはずがない。ところが蜂矢探偵は、あえてもう一度掘りかえす決心を立てたのだ。
 かれは、博士邸《はくしてい》のさびついた門を押して、中へはいった。
 貞造《ていぞう》じいさんに、まずことわっておく必要があると思い、かれをたずねた。
「やあ。どなたかね。わしは、このところ腰がいたくて、ずっと寝こんでいますでな。ご用があれば、こっちへずっと入ってください」
 貞造は、そういって、ふとんの中から声をかけた。
 そこで蜂矢は中へはいって、見舞《みまい》をのべた。それからかんたんに、その後、邸内《ていない》におけるかわったことはないかとたずねた。
「いやあ。さっぱりございませんな。どなたも、ずっと見えませんですよ。あまり静かで、墓地《ぼち》のような気がしてまいりますわい」
 貞造は、そうこたえた。
 蜂矢は、それからいよいよ第二研究室のあとに立った。かれは首をひねって、焼跡《やけあと》の四隅《よすみ》にあたるところをシャベルで掘った。下からは土台石《どだいいし》らしいものが出てきた。その角のところへ、かれは竹を一本たてた。それからなわをもちだして、竹と竹とを一直線にむすんだ。
 するとなわばり[#「なわばり」に傍点]の中が、第二研究室の跡になるわけであった。
 蜂矢は、それをしばらく見ていたが、こんどは別のなわ[#「なわ」に傍点]の切《き》れ端《はし》を手に持って、第二研究室跡のうしろへまわった。そこは、すこしばかりの土地をへだてて、石造りのがんじょうな塀《へい》が立っていた。そして塀の内側には、樹齢《じゅれい》が百年近く経ている大きなケヤキが、とびとびに生《は》えていた。
 ちょうど、その研究室跡に近いところに一本のケヤキが、むざんにも枝も葉もなくなって、まる裸になって立っていた。それはもちろんあの爆発のために吹きとばされ、焼かれてしまったものであった。
 蜂矢探偵は、なわの切れはしを持って、塀と枯《か》れケヤキとの間や、枯れケヤキと研究室跡の外壁《がいへき》のあったところと思われるあたりとの間をはかったり、いろいろやった。そのうちについに答えが出たものと見え、かれはつるはし[#「つるはし」に傍点]をふりかぶって、大地《だいち》へはっしとばかり打ちこんだ。
 そこは、枯れケヤキの立っているところから研究室の壁へ向かって、四十五度ほどななめに線をひき、そのまん中にあたる地点であった。
 かれはどんどん掘った。上衣をぬいで、シャツ一枚になって、えいやえいやと熱心に掘りつづけた。それがすむと、シャベルで土をすくって、わきの方へどかした。
 自分の掘っている穴の中へ、かれの頭がだんだんかくれていった。ずいぶん深い穴を掘っている。まちがいではないのか。かれは自信を捨《す》てなかった。そして探さ四メートル近くにたっしたとき、かれは穴の中で思わず、
「しめた。とうとう見つけた」
 と、思わずよろこびの声をあげた。直径《ちょっけい》七十センチばかりの、マンホールのふたのようなものが掘りあてられたのだ。
 かれは、この重い鉄ぶた[#「ぶた」に傍点]をあけるために、地上においてきた道具をとるために、穴からはいあがった。ついでに汗をふいて、大きく深呼吸をし、それからポケットから紙巻《かみまき》タバコを出して火をつけた。
 かれは、生まれてはじめて、すばらしい味のタバコを吸ったと思った。かれはしばらくすべてをわすれて、タバコの味に気をとられていた。
「ああ、もしもし。きみは蜂矢君でしたね」
 とつぜん、蜂矢のうしろから声をかけた者があった。それは蜂矢が油断《ゆだん》をしていたときのことだったので、かれはぎくりとして、手にしていた短かいタバコをその場へとり落とし、うしろへふりかえった。
 そこに立っていた人物がある。誰だったであろうか。


   意外な一人物


 蜂矢がふりかえって顔を見あわしたその人物は、黒い服を着、白いカラーの、しかも昔流行したことのある高いカラーで、きゅうくつそうにくび[#「くび」に傍点]をしめ、頭部には鉢巻《はちまき》のようにぐるぐる繃帯《ほうたい》を巻きつけ、その上にのせていた黒い中折帽子《なかおれぼうし》をとって、蜂矢にあいさつした。
「ほう。やっぱり蜂矢探偵でしたね。わたしをごぞんじありませんか、針目《はりめ》です」
「ああ、やっぱりそうでしたか」
 蜂矢は、うれしそうに目をかがやかして、針目博士にあいさつをかえした。
「なかなかご活躍のようですね。とうとう地下室へはいる口を掘りだされたんですね。感心いたしました」
「これは、ごあいさつです」
 と蜂矢はあたまをかいて、
「ご主人がいらっしゃるのを知らないままに、わたしが勝手《かって》なことをしてしまいまして申しわけありません。しかし、じつは針目博士は、あの爆破事件のとき、粉砕《ふんさい》したこの研究室と運命をともになすったように聞いていたのですから、もう博士はこの世に生きていらっしゃらないと思っていました。いや、これはとんだ失礼を申しまして、あいすみません」
「やあ、さあそれもしかたがありません。わたしはあの事件いらいきょうまで、姿をみなさんの前に見せなかったのですから、そういううわさ[#「うわさ」に傍点]の出たことはしぜんです。悪くはとりません」
 博士は、冷静な顔つきで、そういった。
「どうされたんですか、博士は、つまりあの爆発のときのことです」
「それはさっききみが掘りあてたとおり、第二研究室の床《ゆか》の下には、外へのがれる道がこしらえてあったので、いそいでそれへとびこんで、一命《いちめい》をまっとうしたのです」
「ああ、なるほど」
 と蜂矢はうなずき、
「すると第二研究室の床のどこかに、その秘密の地下通路へ通ずる入口があいていたはずですが、それが爆破後、跡をいくら掘ってみても発見できなかったというのは、どういうわけでしょうか」
 この質問は、蜂矢探偵ならずとも、この事件に関係した人々なら、誰でも知りたいことの第一であろう。
「それはかんたんなことです。わたしが先へ、その穴へとびこむ。するとそのあとで大爆発が起こり巨大なる圧力でもって、その穴をふさいでしまったんですな。おわかりでしょう」
「あッ、そうか」
 蜂矢探偵は、思わず感歎《かんたん》の声を発した。そうなんだ。大爆発のときに、それ位の巨大な力が出ることは予想のできることだった。それでそうなることを、どうして気がつかなかったのであろう。
「とにかくこれからきみを、その地下室の中へわたしみずからご案内いたしましょう。さっきのところから入ってみますか。せっかくきみが掘ったものだから」
「じゃあ、そうしていただきましょう。おお、博士は頭に繃帯《ほうたい》をしていらっしゃるが、どうなすったのですか――けがでもなさったのですか」
「ああ、これですか」
 と博士はにやりと笑って、頭へ手をあてた。
「昨夜、じつは某方面にあるわたしのかくれ家を出ようとしたとき、人ちがいをされて、頭をなぐられて、こんなけが[#「けが」に傍点]をしたのです。まだすこし痛みますが、たいしたことはありませんから、心配しないでください」
 蜂矢は、それを聞いて、それはたいへんお気のどくさまとあいさつをした。
 それから彼は、博士とともに穴の中へおりていった。重い鉄蓋《てつぶた》を、蜂矢はうまくつりあげて、横へたてかけた。
「さあ、どうぞ」
 蜂矢は、博士に先頭《せんとう》をゆずった。
「きみから先へはいってください。いいですよ、えんりょしなくても……」
「ぼくには、中の勝手がわかりませんから、博士。どうぞお先に」
「そうですか。では先へはいりましょう」
 博士は、先に穴の中へはいった。そして地下道に立って、上を見あげ、
「蜂矢君。何してますか。大丈夫ですよ。おりてきたまえ」
 そういってから博士は、横を向いて、にたりと気味のわるい笑いを頬のあたりに浮かべた。
「じゃあ、おりますよ」
「さあ、早くおりてきたまえ」
 蜂矢は、穴へおりた。
 だがかれはどうしたわけか、その前に穴の上へ、ぽんと手帳をほうりあげた。なぜ手帳を捨てたのであろうか。
 それと同時に、木かげに少年の二つの目が光った。小杉二郎《こすぎじろう》少年の目だった。


   意外な工場


「早くおりてこないと、きみの相手にはなってやらないぞ。わたしにことわりもなく、こんな穴を掘って、けしからん奴だ」
 異様《いよう》な姿の針目博士は、ごきげんがはなはだよろしくない。
 もうすこし蜂矢探偵が穴の上でぐずぐずしていたら、博士はほんとうに怒って、ずんずん中へはいってしまったかもしれない。
 ちょうどきわどいところで、蜂矢は穴の中へとびこんで、博士のそばに、どすんとしりもち[#「しりもち」に傍点]をついた。
「お待たせして、すみません。なにしろ、こんなところに地下道《ちかどう》があるなんて、きみのわるいことです。つい、尻《しり》ごみしまして、先生に腹を立たせて、あいすみません」
 蜂矢は、そういって、あやまった。
「はははは。きみは、見かけに似合《にあ》わず臆病《おくびょう》だね。そんなことでは、これからきみに見せたいと思っていたものも、見せられはしない。見ている最中《さいちゅう》に気絶《きぜつ》なんかされると、やっかいだからね」
 博士は、意地のわるいうす笑いをうかべで、そういった。
 蜂矢は、博士のことばに、新しい興味をわかした。それは博士が蜂矢に何か見せたがっているということだ。いったいそれは何であろうか。
「さあ、こっちへはいりたまえ。このドアは、しっかりしめておこう」
 博士は、地下道の途中《とちゅう》にあるドアをばたんとしめ、それにかぎをさしこんでまわした。蜂矢は、そのときちょっと不安を感じた。しかしすぐ気をとりなおして、力いっぱい博士とたたかおうと思った。かれは、これから針目博士が彼をどんなにおどろかそうとしているか、それをすでにさとって、覚悟《かくご》していた。
「ほら、こんな広い部屋があるんだ。きみは知らなかったろう」
 とつぜん、すばらしく大きな部屋へはいった。二十坪以上もある広い部屋、天じょうはひじょうに高い。そしてこの部屋の中には、えたいの知れない機械がごたごたとならんでいて、工場のような感じがする。もちろん人は、ひとりもいない。
「ここは、なにをするところだか、きみにわかるかい」
 針目博士は、からかい気味《ぎみ》に蜂矢に話しかける。
「さあ、ぼくにはわかりませんね」
 あの第二研究室の下に、こんなりっぱな部屋があるとは、想像もつかなかった。針目博士という学者は、じつにかわった人だ。
「わからなければ、教えてあげよう。この機械は、金属人間を製作する機械なんだ。つまりここは、金属人間の製作工場なんだ。どうだ、おどろいたか」
「金属人間の製作工場ですって」
 蜂矢は、思わず大きな声を出して、問いかえした。博士がこんなにずばりと、金属人間のことを口にするとは予期《よき》していなかったのだ。
「そのとおりだ。金属人間をこしらえる工場なんだ。きみは知っているかね、金属人間というものはどんなものだか?」
 博士の方から、かねて蜂矢が最大の謎と思っている金属人間のことに、ずばりとふれてきたものだから、蜂矢はおどろきもし、また内心ふかくよろこびもした。
「くわしいことは知りませんが、針目博士が金属Qの製作に成功せられたことは聞いています」
「ははは、金属Qか」
 博士はうそぶいて笑った。
「君は金属Qを見たことがあるかね」
 蜂矢は、すぐには返事ができなかった。見たと答えるのが正しいか、見ないといったほうがよいか。
「はっきり手にとってみたことはありませんねえ」
「手にとってみるなんて、そんなことはできないよ。だが、すこしはなれて見ることはできるのだ。どうだ、見たいかね」
「ぜひ見たいものですね」
「よろしい。見せてやろう。金属Qを、近くによってしみじみ見られるなんて、きみは世界一の幸運者《こううんもの》だ」
 そういうと博士は、いきなり上衣をぬぎすてた。チョッキをぬいだ。高いカラーをかなぐりすてた。
 その下から、おそろしい大きな傷あとがあらわれた。くびからのどへかけて、はすかいに十センチ近い、大傷《おおきず》を、あらっぽく糸でぬいつけてある。そんなひどい傷をおって、死ななかったのが、ふしぎである。
 博士は、ワイシャツもぬぎとばして、上半身はアンダーシャツ一枚になった。
 それでもうおしまいかと思ったが、博士はまたつづけた。手を頭の繃帯《ほうたい》にかけた。それをぐるぐるとほどいた。
「おおッ」
 ようやくにしてとれた長い繃帯《ほうたい》の下からあらわれたものは、頭のまわりをぐるっと一まわりした傷あとであった。
 それを見ると、蜂矢は気絶《きぜつ》しそうになった。
 博士は、蜂矢探偵を前にして、いったい何をする気であろうか。


   奇蹟見物


「さあ、よく見るがいい。今、金属Qを、この頭の中から取りだすからね」
 博士《はくし》は、とくいのようすだ。
 それにひきかえ、蜂矢探偵はまっさおになり、失心《しっしん》の一歩手前でこらえていた。もしもかれが、金属人間事件の責任ある探偵でなかったら、もっと前に目を白くして、ひっくりかえっていただろう。
 それから先、博士がしたことを、ここにくわしく書くのはひかえようと思う。くわしく書けば読者の中に、ひっくりかえる人が出るかもしれないからだ。それだから、かんたんに書く。――博士は、両手をじぶんの頭にかけると、帽子をぬぐような手軽さで、頭蓋骨《ずがいこつ》をひらき、中から透明な針金細工《はりがねざいく》のようなものを取りだし、それを手のひらにのせて、蜂矢探偵の目のまえへさしだした。
「うーむ」
 と、探偵は歯をくいしばって、博士の手のひらにのっている奇妙《きみょう》な幾何模型《きかもけい》みたいなものを見すえた。
 あの爆発のおこる前「骸骨《がいこつ》の四」だけが箱の中になかった。それで博士があわてだした。そのことを、いま蜂矢探偵は思いだした。
 博士はだまっている。気味のわるいほどだまっている。蜂矢は「これは骸骨の四ですか」とたずねようとして博士の顔を見ておどろいた。なぜなら博士の顔色は、人形のように白かった。生きている人の顔色とは思われなかったのである。
「針目博士。どうしました」
 と、蜂矢がさけんだ。
 そのとき博士は、いそいで手をひっこめた。そして手のひらにのせていたものを、すばやくもとのとおり頭蓋骨の中におしこんで、両手で頭の形をなおした。それから深呼吸を三つ四つした。すると博士の顔に、赤い血の色がもどってきた。死人の色は消えた。
 博士は、そのあとも、しばらく苦しそうに肩で息をしていたが、やがて以前のとおりの態度にかえって、蜂矢をからかうような調子で話しかけた。
「どうです。お気にめしましたかね。ところがこっちは、どえらい苦しみさ。ああ、きみをよろこばすことの、なんとむずかしいことよ」
 蜂矢は、このときには、ふだんの落ちつきはらったかれにもどつていた。奇々怪々《ききかいかい》なる博士のふるまいである。いったい、なんでそんなことをするのか、その秘密をここでつきとめてしまいたい。
「いま、見せてくだすったのがれいの行方不明になった『骸骨の四』ですか」
 ずばりと斬《き》りこんだ。
「よく知っているね。そのとおりだ。くわしくいえば、金属Qという名前があたえられた第一号だ。つまり、たくさん作った生きている金属の試作品の中で『骸骨の四』がまっ先に、生きている金属となったのだ、そこでこれを金属Qと名づけた」
「なるほど」
「いま、きみが見たのは、金属Qだけではなくその金属のまわりを、人工細胞十四号が包んでいるものだ。それは金属Qを保護するものなんだ。もっともはじめのころのように、人工細胞十四号は完全に金属Qを包んでいない。欠《か》けている個所《かしょ》があるのだ。そのために、金属Qはいつも不安な状態におかれてある。ああ、人工細胞十四号がほしい。この上の部屋にはあったんだが、この部屋にはないらしい」
 博士は、不用意に歎《なげ》きのことばをもらした。そしてその後で、はっと気がついて、蜂矢をにらみかえした。
「はははは、昼間からねごとをいったようだ。ところで蜂矢君。きみは感心に、気絶もしないでもちこたえているね」
 蜂矢はうすく笑った。
「すばらしいものを見せていただきまして、お礼を申します。すると、あなたは、針目博士ですか。それとも金属Qなんですか」
 金属Qが、人間の形をしたものを動かしている、その人間は、針目博士によく似ていたが、その人間のからだを支配しているのは金属Qである。ちょうど、金属Qが、二十世紀文福茶釜《にじゅっせいきぶんぶくちゃがま》にこもっていたように。――これが蜂矢のつけた推理だった。
「どっちだと思うかね」
「金属Qでしょう」
「ちがう」
「じゃあ、なんですか」
「針目博士と金属Qが合体したものだ。二つがいっしょになったものだ。しかし、もちろん金属Qは、針目博士よりもかしこいのだから、支配をしているのは金属Qだ。おどろいたかね、探偵君」
 博士はそういって、からからと笑うのであった。その笑い声が、蜂矢の耳から脳をつきとおし、かれは脳貧血《のうひんけつ》をおこしそうになった。


   恐怖の計画


「気味のわるい話は、もうよそう。こんどはもっと愉快《ゆかい》な話をしよう」
 博士は、とつぜんそういった。
 蜂矢は、いうことばもなく、おしだまっている。
「生きている金属が作られるなんて、すばらしいことではないか」
 そういいながら、博士は手ばやくぬいだ服を着て、胸をはって、いかめしく室内を歩きまわりながら演説するような、くちょうでいった。
「生命と思考力とを持った金属が、人工でできるなんて、愉快なことだ。人間は、もっと早く、このことに気がつかなくてはならなかったのだ。植物にしろ動物にしろ、また鉱物にしろ、それを作っている微粒子《びりゅうし》をさぐっていくと、みんな同じものからできているんだからね。だから、植物と動物に生命と思考力があたえられるものなら、鉱物にもそれがあたえられていいのだ。そうだろう」
「植物に思考力があるというのは、聞いたことがありませんね」
「じっさいには、あるんだよ。人間の学問が浅いから、気がつかないだけのことなんだ。とにかく植物のことなんか、どうでもよろしい。今は生きている金属のことだけを論ずればいいのだ。金属を人工するのは、他のものをこしらえるよりも、一番やさしいことだ。そして、そのとき生命と思考力を持つように設計工作してやれば、生きている金属ができあがるのだ。生命も思考力も、電気現象《でんきげんしょう》にもとづいているのだから、そういうことを知っている者なら、かんたんにやれるのだ」
「なるほど」
「そこでわしは、これからこの部屋で、生きている金属をじゃんじゃん作ろうと思う。そしてそれを人体に住まわせる。かまうことはない、生きている金属は人間よりもかしこくて、強力なんだから、思いのままに人間を襲撃《しゅうげき》して、そのからだを占拠《せんきょ》することができるんだ」
 おだやかならない話になったので、蜂矢探偵は、からだをしゃちこばらせる。そんなことならいつ自分も、そのへんからとび出してきた怪金属のため、からだをのっとられるかもしれないと思えば、不気味《ぶきみ》である。
 博士は、そんなことにはおかまいなしに、しゃべりつづける。
「それを進めていくと、この世の中に金属人間がたくさんふえる。たびたびいうとおり、金属人間は、ふつうの人間よりもかしこいのだから、金属人間群は、ふつうの人間が百年かかってやりとげる科学の進歩を、金属人間は二、三年のうちにやりとげてしまう。世の中は、急速に進歩発展するだろう。すばらしいことじゃないか、探偵君。ふん、あんまり深く感心をして、ことばも出ないようだね」
 そのとおりだった。なんという奇抜《きばつ》な計画であろう、またなんというおそろしいことであろう。もしもそんなことができたなら、人間の立場はあやうくなる。蜂矢の背すじにつめたい戦慄《せんりつ》が走った。
「まあ、講義はそのくらいにしてこんどはいよいよ、しんけんな話にうつる。きみをここまでひっぱりこんだことについて、説明しなくてはならない。だが、もうきみはかんづいているだろう」
「なんですって」
「きみのからだをもらいたいのだ。わしは仲間のひとりに、きみのからだを世話《せわ》したいと思うのだ」
「とんでもない話です。わたしはおことわりします」
 と、蜂矢はうしろへ身をひいた。まったくとんだ話である。そんな怪金属にこの身を占拠《せんきょ》されてたまるものか。
「きみがなんといおうと、わしは思ったとおりにやるのだ。じたばたさわぐのはよしたがいいぞ」
 博士は、じりじりとつめよってくる。蜂矢探偵は、だんだんうしろへさがって、やがて壁におしつけられてしまった。
「どうするんです。金属Qは、ただひとりのはず。ほかに仲間があるなんて、うそ[#「うそ」に傍点]です。きみが、わたしのからだへはいりたいのでしょう」
 さすがに探偵は、いいあてた。その事情はわからないが、相手の計画しているところはわかるような気がする。
「ふふふふ、どっちでもいいじゃないか」
 いつのまにやら博士の手には、大きなハンマーが握られていた。博士はそれを頭上にふりあげて、今や蜂矢の頭に一撃をくわえようとしたとき、
「待て、金属人間。動くな。動けば生命《いのち》がないぞ」
 と、ひびいた声。
 蜂矢はおどろいて、そっちへ目を走らせた。するとこはふしぎ、もうひとりの針目博士が蜂矢をおびやかしている針目博士の方へしずしずとせまってくる。その博士は腕に機銃《きじゅう》に似たような物をかかえていた。
 ふたりの針目博士だ。どういうわけであろう。


   二人の針目博士《はりめはくし》


 針目博士《はりめはくし》が、ふたりあらわれた。
 蜂矢探偵は、わが身の危険も忘れて、しばしふたりの針目博士の顛を見くらべた。
 どっちも同じような顔つきの針目博士であった。ちょっと見ただけでは見分けがつかなかった。どっちの針目博士も、青い顔をしている。しかしどっちかというと、後《あと》からあらわれた博士の方がいっそう青い顔をしている。
 ところが顔いがいのところを見ると、だいぶんちがいがあった。蜂矢探偵を壁のところにまで追いつめた針目博士の方は、いやに高いカラーをつけて、くびのところが窮屈《きゅうくつ》そうに見える。また頭部に繃帯《ほうたい》をしている、その上に帽子をかぶっている。
 これにたいして、あとから現われた針目博士の方は無帽《むぼう》である。頭には繃帯を巻いていない。
 服装は、蜂矢探偵を追いつめている針目博士のほうは、黒いラシャの古風《こふう》な三つ|揃《ぞろ》いの背広をきちんと身につけているのに対し、あとからあらわれた針目博士の方は、よごれたカーキー色の労働服をつけていた。服はきれいではないが、小わきにりっぱな機銃《きじゅう》みたいなものを抱えている。
「動くと、これをつかうぞ。すると、金属はとろとろと溶《と》けて崩壊《ほうかい》する」
 あとからあらわれた針目博士が、はやくちに、だがよくわかるはっきりしたことばでいった。
「待て、それを使うな。わしは抵抗しない」
 始めからいた針目博士が、苦しそうな声で押しとどめた。もはや蜂矢探偵の頭上に、一撃を加えるどころのさわぎではない。かれ自身がすくんでしまったのだ。
「蜂矢さん。もうだいじょうぶだ。横へ逃げなさい」
 あとからあらわれた針目博士がいった。
 いったい、どっちがほんとうの針目博士であろうか。
 蜂矢探偵は、壁ぎわをはなれて、自由の身となったが、この問題を解《と》きかねて、あいさつすべきことばに困った。
「おい、金属Q。こんどは、廻れ右をして壁を背にして、こっちへ向くんだ」
 金属Q――と、しきりに、あとからあらわれた博士が呼んでいるのが、はじめからいた方の針目博士のことだった。――ほんとかしら――と、蜂矢は目をいそがしく走らせて見くらべるが、顔はよく似ていて、くべつをつけかねる。
 金属Qと呼ばれた方の博士は、しぶしぶ動いて壁に背を向け、こっちへ向きなおったが、とつぜん早口で叫んだ。それは、妙にしゃがれた声だった。
「きさまこそ、金属Qじゃないか。わしは針目だぞ、ごまかしてはいかん。しかし、わしは今、抵抗するつもりはない」
 頭に繃帯を巻いた方が、こんどは機銃みたいなものを抱《かか》えた方にたいし、金属Qよばわりをするのだった。これではいよいよどっちがほんものの針目博士だかわからなくなった。
「きみこそ金属Qだ。そんなにがんばるのなら、仮面《かめん》をはいでやるぞ」
 とあとからあらわれた博士が自信ありげにいって、蜂矢の名を呼んだ。
「なにか用ですか」
「そのニセモノのそばへ寄《よ》って、頭に巻いている繃帯《ほうたい》をぜんぶほどいてくれたまえ」
 と、機銃みたいなものを抱えている博士がいった。
「むちゃ[#「むちゃ」に傍点]をするな、傷をしているのに、繃帯をとるなんて、人道《じんどう》にはんする」
 と、壁のそばに立っている方の博士が、すぐ抗議した。
「蜂矢君。早く繃帯をとってくれたまえ。繃帯をとっても、血一滴《ちいってき》、出やしないから心配しないで早くやってくれたまえ」
 蜂矢は、ふたりの博士の間にはさまって、迷《まよ》わないわけにいかなかったが、とにかく繃帯をといてみれば、どっちがほんものかニセかがわかるかもしれないと思い、ついに決心して壁の前に立っている博士の頭へ手をのばした。博士は何かいおうとした。がもうひとりの博士が、機銃みたいなものを、いっそうそばへ近づけたので、顔色をさっと青くすると、おとなしくなった。
 蜂矢は、その機《き》に乗《じょう》じて、長い繃帯をといた。なるほど、繃帯はどこもまっ白で血に染《そま》っているところは見あたらなかった。ただ、その繃帯をときおえたとき、博土の頭部《とうぶ》をぐるっと一まわりして、三ミリほどの幅《はば》の、手術のあとの癒着《ゆちゃく》見たいなものが見られ、そのところだけ、毛が生えていなかった。
 なお、もう一つ蜂矢が気がついたのは、額《ひたい》の生えぎわのところの皮が、妙にむけかかっているように見えることだった。そのとき、後からあらわれた博士の声が、いらだたしく聞こえた。
「蜂矢君。こんどは、その高いカラーをはずしたまえ」
「カラーをはずすのですね」
 はじめから博士の特徴《とくちょう》になっていたその高いカラーを、蜂矢は、いわれるままに、とりはずした。すると蜂矢探偵は、そこに醜《みにく》い傷《きず》あとを見た。短刀《たんとう》で斬《き》った傷のあとであると思った。いつ博士はこんな傷をうけたのであろうか。すると、またもや、あとからあらわれた博士がいちだんと声をはりあげて、蜂矢に用をいいつけた。
「つぎは、その男の面《つら》の皮《かわ》をはぎたまえ。えんりょなく、はぎ取るんだ」
「顔の皮をむくのですか」
 蜂矢は、おどろいて、命令する人の方をふりかえった。あまりといえば、惨酷《ざんこく》きわまることである。


   落ちた仮面


「わけはないんだ。それ、その男の額《ひたい》のところに、皮がまくれあがっているところがある。それを指先でつまんで、下の方へ、力いっぱいはぎとればいいんだ」
 なんという惨酷な命令だろうと、蜂矢は、この命令を拒絶《きょぜつ》しようと考えたが、ちょっと待った、なるほどそれにしてはおかしい額ぎわの皮のまくれ工合《ぐあい》だ。
(ははあ。さては……)
 と、かれはそのとき電光のように顔の中に思い出したことであった。もうかれは躊躇《ちゅうちょ》していなかった。いわれるままに、そのまくれあがった額のところの皮を指でつまんで、下へ向けてひっぱった。
 すると、おどろいたことに、皮は大きくむけていった。皮の下に、白い皮下脂肪《ひかしぼう》や赤い筋肉があるかと思いのほか、そこには、ごていねいにも、もう一つの顔面《がんめん》があった――蜂矢探偵の手にぶらりとぶら下がったものは、なんと顔ぜんたいにはめこんであった精巧《せいこう》なるマスクであった。
 そのマスクの肉づきは、うすいところもあり、またあついところもあり、人工樹脂《じんこうじゅし》でこしらえたものにちがいなかった。
 マスクのとれた下から出てきた新しい顔は、どんな顔であったろうか。
 それは針目博士とは似ても似つかない顔であった。頬骨のとび出た、げじげじ眉《まゆ》のぺちゃんこの鼻をもった顔であった。
「あッ」
 蜂矢探偵は、あきれはててその顔を見守った。
 はじめから、高いカラーをつけた針目博士を、怪しい人物とにらんではいたが、まさかこんな巧《たく》みな変装《へんそう》をしているとは思わなかった。
 しかもマスクの下からあらわれたその顔こそ、前に警視庁の死体置場から、国会議事堂の上からころがり落ちた動くマネキン少年人形の肢体《したい》とともに、おなじ夜に紛失《ふんしつ》した猿田の死体の顔とおなじであったから、ますます奇怪《きかい》であった。
 これでみると、蜂矢探偵をこの地下室へ案内した針目博士こそ、金属Qのばけたものであると断定して、まちがいないと思われる。怪魔金属Qは、議事堂の塔の上から落ちて死体置場に収容せられたが、夜更《よふ》けて金属Qはそろそろ動き出し、身許不明の猿田の死体の中にはいりこみ、そこをどうにか逃げ出したものらしい。そういうことは、金属Qの力と智恵とでできないことではない。その上で、彼はおそらくこの針目博士の地下室へもぐりこみ、そこで針目博士そっくりのマスクを作ったり、健康を早くとりもどすくふうをしたり、博士の古い服を盗み出して着たり、その他いろいろの仕事をやりとげたのであろう。
 まことにおどろくべき、そしておそるべき怪魔金属《かいまきんぞく》Qであった。
 こうして、始めにあらわれた針目博士の正体が金属Qであるとすれば、あとからあらわれた針目博士こそ、ほんものの針目博士なのである。そう考えて、この際《さい》まちがいないであろう。蜂矢は、その方へふりかえった。
「これでいいですか、針目博士」
 すると機銃《きじゅう》みたいなものを、なおもしっかり抱《かか》えている針目博士が、
「それでよろしい。どうです。わかったでしょう。かれこそニセモノであったのです。まったく油断もならぬ奴です。もともとわたしが作った金属Qですが、まったくおそろしい奴です」
 といって、博士は顔を青くした。
「どういうわけで、あなたに変装したのでしょうか。何か、はっきりした計画が、金属Qの胸の中にあるんでしょうか」
 蜂矢探偵は、そういってたずねた。
 あとになって考えると、蜂矢のこの質問は、あんまり感心したものでなかった。そんな質問はあとでゆっくり聞けばよかったのである。それは不幸なできごとの幕あきのベルをならしたようなものだった。
「それはですね。金属Qという奴は――」
 と、博士が蜂矢探偵の質問に答えはじめたとき、機銃のような形をした人工細胞破壊銃《じんこうさいぼうはかいじゅう》をかまえた博士に、ちょっと隙《すき》ができた。
 この人工細胞破壊銃というのは、その名のとおり、人工細胞にあてると、それをたちまちばらばらに破壊しさる装置で、強力に加速された中性子《ちゅうせいし》の群れを、うちだすものだ。かねて博士は安全のために、こういうものが必要だと思い設計まではしておいたのであるが、「生きている金属」を作る研究の方をいそいだあまり、実物はまだ作っていなかった。その後、金属Qがあばれるようになって、博士はかくれて、この人工細胞破壊銃の製作に一生けんめい努力したのだ。そのけっか、きょうの事件に間にあったのだ。
 が、今もいったように、博士の手許にわずかな隙ができたのだ。
「ええいッ」
 とつぜん金属Qが身をひるがえして、前へとびだした。そしてかれは、博士の抱えていた破壊銃の銃先《つつさき》を、力いっぱい横にはらった。
「あッ」
 と、博士が叫んだときは、もうおそかった。破壊銃は博士の腕をはなれて横にすっ飛び、旋盤《せんばん》の方をとび越して、その向うに立っていた配電盤《はいでんばん》にがちゃんとぶつかった。もちろん破壊銃は壊《こわ》れた。ガラスの部分がこなごなになって、あたりにとび散った。


   金属Qの始末


「なにをするッ」
 と、針目博士が、どなる。
「銃はこわれた。こうなりゃ、こっちのものだぞ」
 金属Qは、はんにゃ[#「はんにゃ」に傍点]のような形相になって、博士にとびついていった。
 大乱闘《だいらんとう》になった。ものすごい死闘《しとう》であった。金属Qの方が優勢《ゆうせい》になった。かれは、どこから出るのか、くそ力を出して、手あたりしだい、工具であろうと、器具であろうと、何であろうと取って投げつける。
 蜂矢探偵は、このすごい闘いの外にあった。かれはしばし迷った。仲裁《ちゅうさい》すべきであろうか、それとも針目博士に味方すべきであろうかと。
 針目博士は、はじめのうちは、器物《きぶつ》を投げることを控《ひか》えていた。しかし相手がむちゃくちゃにそれを始め、わが身が大危険となったので、博士はついに決心して、手にふれたものを相手めがけて投げつけた。もう一物のよゆうもないのだ。死ぬか、相手を倒すかどっちかだ。声をあげて蜂矢探偵に協力を頼むひまもない。
 ここに至って蜂矢探偵も心がきまった。
(ここはいちおう、正しい博士に味方して、仮面をはがれた相手を倒さなくてはならない)
 蜂矢探偵は、すぐ目の前の台の上においてある大きなスパナをつかんだ。それをふりあげて、金属Qになげつけようとした。そのとき遅く、かのとき早く、どしんと正面から腰掛《こしかけ》がとんできて、
「あッ」
 と蜂矢が体《たい》をかわすひまもなく、ガーンと彼の頭にぶつかった。かれは、一声うなり声をあげるとうしろへひっくりかえり、そのまま動かなくなった。
 それから、どのくらいの時間が流れたかわからないが、蜂矢はようやく息をふきかえした。ずきずき頭が痛む。それへ手をやってみると大きなこぶができていた。血もすこし出ていた。しかしたいしたことではないようだ。
 蜂矢はふらふらと起きあがった。
 その気配《けはい》を聞きつけたか、部屋の一隅《いちぐう》から声があった。
「ああ、気がついたかね、蜂矢君」
「やッ」
 蜂矢は、どきんとしてその声の方を見た、そこには針目博士がいた。博士は頭部にぐるぐると繃帯を巻いていた。その正面のところは赤く血がにじんでいた。
「安心したまえ、怪物は、とうとうくたばったからね」
 そういって博士は、自分の前を指さした。そこには、れいの金属Qが倒れていた。
「死んだんですか」
「いや、まだ油断がならない。金属の本体を取り出して、始末しないうちは、ほんとうの意味で金属Qは死んだとはいえないのだ、今それを始末するところだ。きみは見物していたまえ」
 そういって博士は前かがみになって、たおれた人の頭のところでごそごそやっていたが、やがてうす桃色をしたぐにゃりとしたものを両の手のひらにのせて、部屋のまん中へ出てきた。それは脳みたいなものであった。
「それは何ですか」
 と、蜂矢はたずねた。
「この中に、金属Qの本体がはいっているんだ。はやいとこ、これを焼き捨てる必要がある。そうでないと、金属Qはまた生きかえってくる。生きかえられたんでは、また大さわぎになる」
 博士は、大きな硬質ガラス製のビーカーの中に、そのぐにゃりとしたうす桃色のものを入れた。それからガスのバーナーに火をつけ、その上に架台《かだい》をおき、架台の上に今のビーカーを置いた。
 それから博士は、薬品戸棚のところへ行った。
 博士が、棚から薬品のはいった瓶を三つも抱えてもどってくるまでの少しの時間に、蜂矢は部屋の隅にたおれている人のようすを知るために、その方へ目を走らせた。その人は、もちろんしずかに伸びていた。そしてその頭部が開かれ、頭骸骨がお碗《わん》のようになって、中身が空虚《くうきょ》なことをしめしていた。
 怪金属Qがやどっていた肉体は、ふたたびもとの死体に帰ったのである。
 ぱっと茶褐色《ちゃかっしょく》の煙があがった。れいのビーカーの中である。博士が、液体薬品のはいった瓶の口をひらいて、ビーカーの中へそそぎこむたびに、茶褐色の煙が大げさにたちのぼるのだった。金属Qがはいっているという脳髄は、ビーカーの中で、沸々《ふつふつ》と沸騰《ふっとう》する茶褐色の薬液《やくえき》の中で煮られてまっくろに化《か》していく。
「これでいい、もうこれで、金属Qは生存力を完全にうしなった。やあやあ、骨を折らせやがった。おお、蜂矢君。もう安心していいですぞ」
 博士は、そういって、蜂矢の方へにやりと笑ってみせた。
 そのときであった。この部屋の戸が外からどんどんと、われんばかりにたたかれた。
「あけろ、あけろ、検察庁の者だ」
 長戸検事の声らしいものもまじっている。


   大会見


「おおッ……」
 博士は、その場にとびあがり、おどろきの色をしめした。そしてさッとからだを壁ぎわにひいて、乱打《らんだ》されている戸をにらみつけた。
 蜂矢は、博士がいやにおどおどしているのを見て、気のどくになった。
「針目さん。心配しなくてもいいですよ。長戸検事たちがきてくれたのでしょう」
「わたしは、なにも心配なんかしていない。しかしなぜ今ごろ、長戸検事がこんなところへ来たのか、わけがわからない」
 博士は口ではそういったが、蜂矢の目には、博士がやっぱり胸をどきどきさせているように思われた。
「わけはわかっているのです。さっきぼくが、ニセの針目博士にここへつれこまれるのを小杉少年が見ていて、いそいで検事に知らせたのでしょう。それで検事がぼくを助けにきてくれたのですよ。戸をあけてもいいですか」
「ふーん」
 針目博士は、しばらくうなっていたが、
「それなら、戸をあけてよろしい。しかしこの部屋の中で、わたしにことわりなしに、勝手なことをしないように誓わせておくんだな。でなければ、わたしはすぐさま検事たちを追いだすから、そのつもりで」
 と、きびしく申しわたした。
 蜂矢は、うなずいて、戸のところへ行って向う側へ声をかけ、やはり長戸検事たちであることをたしかめたうえで、かけ金《がね》をはずして戸を開いた。
「やあ、先生。よく生きていてくれましたね」
 まっ先にとびこんできたのは小杉少年であった。少年は蜂矢の胸にとびついて、喜びに目をかがやかした。
「よう、蜂矢君。どうしたんだ」
 そのうしろに長戸検事の緊張した顔があった。ことばつきはやさしいが、蜂矢と室内をかわるがわるにながめて、一分のすきもなかった。
 そこで蜂矢は、かいつまんで、この部屋へはいってからの、いきさつを説明した。そして、
「……そういうわけで、怪人Qは、それの製作者であるところの針目博士の手で、あのとおり焼きすてられたのです。どうか、くわしいことは博士にたずねてください。しかしですね、博士はいま、かなり興奮しているようですから、腹をたてさせないように気をつけたがいいですよ」
 と、かれとしての説明を終った。
 そこで針目博士と長戸検事の会見となったわけであるが、検事はよく蜂矢の忠告を守って、ひきつれてきた部下たちをしずかに入口にならばせておくだけで、捜査活動は自分ひとりでやることにした。
「ずいぶん、しばらくお目にかかりませんでしたなあ、針目博士」
「そうでした、そうでした。で、きょうは何用あって、ここへきたのですか」
 博士はすぐ質問の矢をはなった。
「それは、あなたにお目にかかって、怪人Q事件について、最初からもう一度、説明をしていただくためです。われわれは正直に告白しますが、これまでの捜査はみんな失敗でありました。それに気がついたので、いままでの努力を惜しいが捨てまして、はじめから出直すことにきめたのです。おいそがしいでしょうが、もう一度われわれの相手になっていただきたい」
 と、長戸検事は、むきだしにのべて、博士にたのみこんだ。
「わたしはいそがしいんで、頭のわるい検察当局の尻《しり》ぬぐいなんかしていられないのです。わたしを待っている重大な問題がたくさんある――いや、これはすべてわたしの研究に関する問題のことであって、しゃば[#「しゃば」に傍点]くさい刑事のことじゃありませんよ。だから、わたしとしては、きみの申し入れをおことわりするのが、あたりまえだ。だが、せっかく来たことでもあるし、わたしもたいへんやっかい[#「やっかい」に傍点]にしていた金属Qが、あのとおり完全に分解して、生命を失ったことゆえ、みじかい時間ならばきみの申し入れをきいてあげてもよい。できるだけかんたんに、ききたいことをのべたまえ。われわれの会話は、十五分間をこえないのを条件とする」
 博士は、いやに恩にきせて、長戸検事の申し入れをきいてやるといった。
「では、さっそくお願いしましょう。議事堂の塔の上から落ちて、からだがバラバラになったマネキン人形がありましたが、あれにも怪金属Qがついていたのでしょうか」
「わかりきった話です。Qがあのマネキン人形を動かしたんでなければ、マネキン人形があんなにたくみに動くことはない」
「すると、文福茶釜《ぶんぶくちゃがま》となって踊ってみせたのも、やっぱりQのなせるわざですか」
「それも明白《めいはく》。あの二十世紀文福茶釜、じつはアルミ製の釜だが、あの中にQがまじっていたのです。そうでなければ、釜が踊ったり綱わたりができるものではない」
「なるほど、では、なぜQが茶釜になったのですかな」
「針目博士邸――いやこの研究所からとび出したQがねえ、きみ、道ばたで、アルミの屑《くず》かなんかをふとんにして寝ていたんだ。Qは金属だから、金属をふとん[#「ふとん」に傍点]にしたほうが気持よく眠られる。そこで寝ていたところを、人がひろって屑金問屋へ持っていったんだ――いったんだろうと思う。Qは金属がたくさん集まっているので、いい気になって、その中に寝てくらしているうちにある日、熔鉱炉《ようこうろ》の中に投げこまれ、出られなくなった。そのうちに、鋳型《いがた》の中につぎこまれ、やがて、かたまってお釜になっちまった。そうなると出ることができない。やむをえず、文福茶釜を神妙につとめたんだというわけ。そんなところだろうと思う」
 博士は、まるで見てきたように、かたってきかせたのであった。もう時間は残りすくない。


   Qの興奮《こうふん》


「文福茶釜が綱から落ちてこわれたのはどういう事情でしょう。あれは博士が何か器械をつかって茶釜を落としたといううわさもありますがね」
「そのとおり、博士、いやわしは、見物席にまじっていて、Qの運動の自由をうばう特殊電波を茶釜にむけて発射した。そこで茶釜は落ち、こわれてしまったというわけ。わしはあんなあやしげな見世物《みせもの》を、一日も早くなくしてしまわないといけないと思って、思いきってそれをやったのだ」
「あなたが、その場からお逃げになったのはどういうわけです。逃げなければならない理由はないと思いますがね」
「なあに、あの場でわあわあさわがれるのがいやだったからだ。それにわしは――わたしはぼろ服をまとって変装していたのでね。新聞記者にでもつかまれば、いいネタにされてしまうから、こいつは逃げるにかぎると思って逃げたんだ」
 博士の説明は、水を流すように、よどみがなかった。
「まあ、それで――茶釜がこわれたので、Qは解放されて、自由に動きまわれるようになったのですね」
「そのとおりだ。それでマネキン人形をつけて、それをあやつるようになったんだが、その途中Qは、じぶんのからだの一部分が欠けていることに気がつき、それを一生けんめいにさがしてあるいた形跡がある。そこにいる蜂矢君のところへも、Qはおしかけたようだ。そうではなかったかね、蜂矢十六先生」
 さっきから蜂矢十六は、検事と博士を底辺《ていへん》の二頂点《にちょうてん》とする等辺三角形の頂点の位置に腰をかけて、からだをかたくして聞いていたが、とつぜん博士に呼びかけられて、はっとわれにかえった。
「ああ、そんなこともありました。博士のおっしゃるとおりです」
 博士はまんぞくそうにうなずいた。
「なぜ、Qはここから逃げ出したのでしょうか、ここにいれば一等安全でもあり、おもしろい目にもあえるし、博士からもかわいがられたでしょうに。どうしてでしょうか」
 と、長戸検事は、博士が息つくひまもないほど、すぐさま質問の矢をはなった。もうあと一分間ばかりで、約束の時間がきれる。
「それはきみ、すこしちがっているよ。Qはここにおられなくなったんだ。かれは殺人をやって、ひどく興奮したんだ。その殺人は、かれが計画したものではなく、ぐうぜん、若い女を殺してしまったので、かれの興奮は二重になった。そこへ警官がのりこんでくるし、かれはいよいよあわてた、かれは生きものなんだから、そのように興奮したり、あわてたりするのは、あたりまえだ。そうだろう」
「ごもっともなご意見です」
「かれはね、Qとして生命をえて、うれしくてならない。第二研究室の中で、ひとりぴんぴんとびまわっていたのだ。このときわしは二つの失策をしている。一つは、Qがそんなに活動的になっていることを知らなかったんだ。まだまだ、クモがはうぐらいのものだと思っていた。ところが実際は、Qは三次元空間《さんじげんくうかん》を音よりも早くとびまわることができたんだ」
「なるほどなあ」
「よろしいか。それから二つには、わしはうっかりしていて、かれQがかぎ[#「かぎ」に傍点]穴から抜け出せるほど小さくて細長いからだを持っていることを考えずにいたんだ。だから、ある夜、Qはかぎ穴から外に広い空間があることに気がつき、かぎ穴から抜け出したのだ。つぎの室にはわしがいたが、ちょうど文献《ぶんけん》を読むことに夢中になっていたので、Qはそのうしろを抜けて、戸のすき間から廊下へ抜け出した。わかるだろう」
「ええ、よくわかりますとも」
「それからお三根《みね》さんの部屋へはいりこんだ。めずらしい部屋なので、Qはよろこんで踊りまわっていると、お三根が寝床《ねどこ》から起きあがった。水を飲みに行くつもりか、かわや[#「かわや」に傍点]へ用があったのか、とにかく起きあがったところへ、Qがとんでいってお三根ののど[#「のど」に傍点]にさわった。Qのからだはかみそり[#「かみそり」に傍点]の刃《は》のようにするどいので、お三根ののど[#「のど」に傍点]にふれると、さっと頸動脈《けいどうみゃく》を切ってしまったのだ。思いがけなく、Qは人間の死ぬところを見て興奮した。そして、朱《あけ》にそまって死んでいくお三根のまわりを、なおもとびまわったので、お三根のからだのほうぼうを傷つけた。どうだ。わかるかね」
「よくわかります。それだけよくごぞんじだったのに、あなたはなぜはじめに、そのことをわれわれに説明してくださらなかったのですか」
「おお……」
 と、博士はうめいた。
「これは最近になって、わしがつけた結論なんだ。事件当時には、わしもあわてていて、なにも判定することができなかったんだ」
 博士の話は、なかなか鋭いところをついていた。思いがけない殺人に、みずから興奮してあわてたQは、お三根の部屋でうろうろしているうちに、すっかり疲れてふとん[#「ふとん」に傍点]のすそに眠ってしまったところを、川内警部がぎゅうと踏みつけたので、Qはおどろいて目をさまし、とびあがった。そのときかみそりのように鋭いQが、警部の左の足首にさわったので、さっと斬ってしまったのだ。
 Qはいよいよおどろき、戸口から廊下へとび出し、もとの研究室へひきかえした。そのとき田口警官が、廊下をこっちへやってくるのとすれちがった。すれちがうとたんに、Qは田口の右ほおにさわって斬ってしまった。
 そこでQはますますあわて、その建物から外へとびだした。そうして人に拾われるようなことになったのだ。
 と、博士は見ていたように、話をしたのである。
 その話の間に、約束の時間は過ぎてしまった。だが博士は、それに気がつかないのか、しゃべりつづけた。興奮の色さえ見せて、かたりつづけたのであった。


   大団円


「おどろきました、感じいりました」
 と、長戸検事は厳粛《げんしゅく》な顔になっていった。
「あなたはどうしてそこまで、おわかりになったのでしょう。Qをお作りになったのは、あなたであるにしても、Qの行動をそこまでくわしく知る方法とか器械があるのでしょうか」
 博士は、はっとしたようすだった。きゅうにふきげんになった。そして腕時計を見た。
「おお、もう約束の十五分間は過ぎている。会見は終りにします。これ以上、なにもしゃべれません。さあみなさん、出ていってもらいましょう。はじめからの約束ですから」
 だんだんと語勢《ごせい》を強くして、博士は手をあげ、戸口《とぐち》を指した。
「わたしのいまの質問は、いちばん重要なものですから、きょうの会見のさいごに、それだけはお答えください」
 検事は、くいさがる。
「おたがいに約束は守りましょう。さあ、いそいで帰ってください」
 と、博士は、ますますこわい顔つきになって、検事をにらみすえた。
「まあ、もうしばらく待ってください。博士、もしあなたがこの答えをなさらないと、あなたは不利な立場におかれますが、かまいませんか」
「答えることはしない。何者といえども、わしの仕事をじゃますることをゆるさない。じゃまをする者があれば、わしは実力を持って容赦《ようしゃ》なくその者を、外へたたき出すばかりだ」
 博士の全身に、気味のわるい身ぶるいが起こった。
 蜂矢十六は、このとき検事のうしろに、ぴたりと寄りそって、なにごとかを検事に耳うちした。それを聞くと検事は夢からさめたような顔になって、うなずいた。検事は、博士に向かって、ていねいに頭をさげた。
「たいへん失礼をしました。おゆるしください。それでは、わたしどもはこれでおいとまいたします。また明日、五分間ほどわれわれに会っていただきたいと思いますが、いかがですか」
「ばかな。もう二度ときみたちの顔を見たくない。早く出ていくんだ」
「ああ、たった五分間です。それも博士のご都合のよろしい時刻をいっていただきます」
「いやだ。帰りたまえ」
「すると明日はご都合がわるいのですかな。どこかお出かけになりますか」
「よけいなことを聞くな」
「では、明後日にどうぞお願いします」
「じゃ、明日会うことにしよう。午後二時から五分間、時刻と面会時間は厳守《げんしゅ》だ」
 とつぜん博士が態度をかえて、いったんことわった明日の会見を約束した。検事はほっとした。
 博士もなんとなくなごやかな顔にもどった。
「では、失礼しましょうや、長戸さん」
 蜂矢がうながした。博士に一礼すると、カバンを抱《かか》えるようにして、戸口から外へでた。
 さて、その翌日のことだったが、きのうとおなじ顔ぶれの長戸検事一行が、針目博士邸《はりめはくしてい》へ向かった。もちろんその中に蜂矢探偵もまじっていた。その蜂矢は、いつになく元気がなかった。
「おい、蜂矢君。どうしたんだ。元気をだすという約束だったじゃないか」
 気になるとみえ、長戸検事は蜂矢のそばへ行って肩を抱えた。
 蜂矢は苦笑した。
「どうもきょうは調子が出ないのです。ぼくだけ抜けさせてもらえませんか」
「それは困るね。ここまでいっしょにきたのに、いまきみに抜けられては、おおいに困るよ」
 と、検事はいって、蜂矢の顔をのぞきこんだが、蜂矢はほんとうにすぐれない顔色をしているので、検事はきゅうに心配になって、
「うむ、蜂矢君。抜けていいよ。早く帰って寝たまえ。あとから医務官《いむかん》を君の家へさし向けてあげる」
 といって、蜂矢が一行とはなれることをゆるした。そこで蜂矢はとちゅうからひきかえした。
 ところが、検事一行が博士の門の手前、百メートルばかりのところまで近づいたとき、
「おーい、おーい」
 と後から呼ぶ者があった。一同が振り返ってみると、いがいにも蜂矢が追いかけてくるのだった。
「どうした、蜂矢君」
 蜂矢は息を切って、さっきかれひとりが抜けようとしたことをわびた。そしてかれのせつなる願いとして、午後二時五分過ぎまでは、ぜったいに博士邸に、はいらないことにしてくれといった。検事はおどろいて、その理由の説明を蜂矢にもとめた。
「なにも聞かないで、二時五分まで待ってください。なんにもなかったら、そのときはぼくはあなたがたにあやまってわけを話します」
 検事は、蜂矢を笑おうとしたが、思いとどまった。そして部下たちとともに、博士邸の門から三十メートルほど手前の空地《あきち》にはいって、休憩をとった。
 おそるべき事件が、午後二時を数秒まわったときに発生した。
 それは第二の爆発事件だった。天地のくずれるばかりの音がして、博士邸からはものすごい火柱が立った。もし一行が、博士に約束したとおり、その時刻、博士の研究室にはいっていたとしたら、どうであろう。長戸検事以下の警官たちも蜂矢十六も、一瞬にして貴重な生命をうばい去られたことだろう。
 いったい何故《なにゆえ》に第二の爆発が起こったのであろうか。それは前回のものよりもはるかに強烈なるものであって、博士邸をまったく粉砕《ふんさい》してしまったのをみても、そのはげしさがわかる。事件後|焼跡《やけあと》に立った一同は、カッパのような顔色にならない者はなかった。
 ふしぎにも針目博士はすがたをあらわさなかった(いや、その後も博士は引き続いて、すがたをあらわさないのだ)。前日より、いささか考えるところがあって、ひそかにこの邸のまわりに私服警官数名を配置し、博士の行動を監視させておいた。ところが、かれら監視当直の者の話では博士はずっと邸内にとどまっていたらしく、けっして外出しなかったそうである。
「蜂矢君。きみはどうしてこんどの爆発を予知したのかね」
 検事は、うしろをふりかえって、生命《せいめい》を拾うきっかけを作ってくれた探偵にたずねた。
「わかりませんねえ。ただ、さっきはきゅうに気持が悪くなったんです。いまはなんともありません。これは一種の第六感ではないでしょうか」
「きみの第六感だとね。なるほど、そうかもしれない」
 いつもならまっこうから、ひやかす長戸検事が、笑いもせず、そういってうなずいた。
「とにかくきみもぼくも、きのう博士をうさんくさい人物とにらんでいたことは、意見一致のようだね。そうだろう」
「そうです。かれこそ、怪金属Qにちがいありません。Qは、ほくが気絶《きぜつ》している間《ま》に、本当の針目博士を殺し、そして博士の頭を切り開いて、じぶんがその中へはいりこみ、あとをたくみに電気縫合器《でんきぬいあわせき》かなにかで縫いつけ、ぼくが気がついたときにはすっかり、針目博士にばけて[#「ばけて」に傍点]いたのにちがいありません」
「そうだ。そうでなくては、われわれを呼びよせて、みな殺しにする必要はなかったはずだ。もし本当の博士だったとしたらね」
「本当の博士なら『わし』などとはいわず『わたし』というはずです。それから話のあいだに、博士であることをわすれて、Qが話しているような失策を二度か三度やりましたね」
「そうだった。そんなことから、Qはぼくたちを生かしておけないと考え、きゅうにきょうの午後二時かっきり、時刻厳守《じこくげんしゅ》で会うなんていいだしたのだろう。どこまでわるがしこい奴だろう」
 このとおり長戸検事と蜂矢探偵の意見はあったようだが、はたしうる一点はそのとおりかどうか、いま、にわかにはっきり断言はできない。
 もしも万一、ふたりの説がほんとうで、怪金属Qが第二の爆発をのがれて、生命《せいめい》をまっとうしているとしたら、そのうちにきっと奇妙な事件がおこり、新聞やラジオの大きなニュースとして報道されるだろう。諸君は、それに細心《さいしん》の注意をはらっていなくてはならない。これは常識をこえたあやしい出来事だと思うものにぶつかったら、なにをおいても、検察当局へ急報するのが諸君の義務であると思う。
 Qは、人間よりもすぐれた思考力と、そして惨酷《ざんこく》な心とを持っているので、もしかれが生きていたなら、こんどはじめる仕事は、われわれの想像をこえた驚天動地《きょうてんどうち》の大事件であろうと思う。
 ただに日本国内だけの出来事に注意するだけでなく、広く全世界、いや宇宙いっぱいにも注意力を向けていなくてはならない。
 大魔力《だいまりょく》を持った人造生命《じんぞうせいめい》の主人公Qこそ、小さい日本だけを舞台にして満足しているような、そんな小さなものではないのだから。



底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
   1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「サイエンス」
   1947(昭和22)年12月〜1949(昭和24)年2月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月28日公開
2002年1月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

前のページに戻る 青空文庫アーカイブ