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火薬船
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)香港《ホンコン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)祖先|発祥《はっしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)カンバスのぬの[#「ぬの」に傍点]を
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   怪貨物船あらわる!


 北緯二十度、東経百十五度。
 ――というと、そこはちょうど香港《ホンコン》を真南に三百五十キロばかりくだった海面であるが、警備中のわが駆逐艦《くちくかん》松風は、一せきのあやしい中国船が前方を南西へむかって横ぎっていくのを発見した。
「――貨物船。推定トン数五百トン、船尾に“平靖号《へいせいごう》”の三字をみとむ……」
 と、見張兵は、望遠鏡片手に、大声でどなる。
 艦橋には、艦長の姿があらわれた。そしてこれも双眼鏡をぴたりと両眼につけ、蒼茫《そうぼう》とくれゆく海面に黒煙をうしろにながくひきながら、全速力で遠ざかりゆくその怪貨物船にじっと注目した。
「商船旗もだしておりませんし、さっきから観察していますと、多分にあやしむべき点があります」
 副長が、傍から説明をはさんだ。
 艦長は、それを聞いて、双眼鏡をにぎりしめ、ぐっと顎《あご》をむこうへつきだした。
「追え!」
 命令は下ったのだ。
 駆逐艦松風は、まもなく全速力で、怪船のあとをおいかけた。艦首から左右に、雪のような真白な波がたって、さーっと高《たか》く後へとぶ。
 一体あの怪中国船は、どこの港から出てきたのであろうか。どんな荷をつんで、どこへいくつもりなのであろうか。いま怪船のとっている針路からかんがえると、南シナ海をさらに南西へ下っていくところからみて、目的地はマレー半島でもあるのか。
 小さな貨物船は、速力のてんで到底わが駆逐艦の敵ではなかった。ものの十分とたたない間に駆逐艦松風は、怪船においつき、舷と舷とがすれあわんばかりに近づいた。
 駆逐艦のヤードに、さっと信号旗がひるがえった。
“停船せよ!”
 怪貨物船は、この信号を知らぬかおで、そのまま航走をつづけた。甲板《かんぱん》上には、たった一人の船員のすがたも見えない。さっきまでは、そうではなかった。双眼鏡のそこに、たしかに甲板にうごく船員のすがたをみとめたのに。
 停船命令を出したのに、怪船がそれを無視してそのまま航走をつづけるとあっては、わが駆逐艦もだまっているわけにはいかない。副砲は、一せいに怪船の方にむけられた。撃ち方はじめの号令が下れば、貨物船はたちまち蜂のすのようになって、撃沈せられるであろう。雨か風か、わが乗組員は唇をきッとむすんで、怪船から眼をはなさない。
 それがきいたのか、怪船はにわかに速力をおとした。それとともに、甲板のものかげから、ねずみのように船員たちがかおを出しては、また引っこめる。
 岸《きし》少尉を指揮官とする臨検隊《りんけんたい》が、ボートにうちのって、怪貨物船に近づいていった。むこうの方でも、もう観念したものと見え、舷側《げんそく》から一本の繋梯子《けいはしご》がつり下げられた。わがボートはたくみにその下によった。
 岸少尉を先頭に、臨検隊員は、怪船の甲板上におどりあがった。
「帝国海軍は、作戦上の必要により、ここに本船を臨検する」
 中国語に堪能な岸隊長は、船員たちのかおをぐっとにらみつけながら、流暢《りゅうちょう》な言葉で、臨検の挨拶をのべた。
 そのとき、甲板にぞろぞろ出て来た船員たちの中から、半裸の中国人が一人、前にでて、
「臨検はどうぞ御勝手に。その前に、船長がちょっと隊長さんにお目にかかりたいと申して、このむこうの公室《こうしつ》でまっています」
「なに、向うの室へ、船長がこいというのか。なかなか無礼なことをいうね。用があれば、そっちがここへ出《で》て来《こ》いといえ」
「はい、それがちょっと出られない事情がありまして、ぜひにまげて御足労をおねがいしろとのことです」
「出て来られない事情というのは何か。それをいえ」
 岸隊長は、まるで母国語《ぼこくご》のように、中国語でべらべらいいまくる。
 そのとき、かの半裸の中国人は、一歩前に出た。ひそかに岸隊長にはなしをするつもりだったらしいが、隊長の部下がどうしてこれを見おとそうか、剣つき銃をもって、隊長の前に白刄のふすまをきずいた。
「とまれ!」
 もう一歩隊長の方へよってみろ、そのときは芋ざしだぞというはげしいいきおいだ。
「あッ、危ねえ!」
 かの半裸の中国人は、飛鳥《ひちょう》のように後へとびさがったが、そのとき臨検隊の一同は、おやという表情で、その中国人のかおをみつめた。それも道理だ。その中国人が、“あッ、危ねえ!”と、きゅうにあざやかな日本語をしゃべったからである。
「やっ、貴様は何者!」
 岸少尉は、相手をにらみすえた。


   太々《ふてぶて》しい若者


「いや、どうも。びっくりしたとたんに、化《ばけ》の皮《かわ》がはがれるとは、われながら大失敗でありました。はははは」
 と、半裸の若者は、頭をかいてわらう。びっくりした気色《けしき》はさらに見えない。見なおすと、この男、わかいながらなかなか太々しいところが見える。
 だが、こっちは岸隊長以下、すこしも油断はしていなかった。中国人が、急に巻舌《まきじた》の東京弁でしゃべりだしたのには、ちょっとおどろいたが、わけのわからないうちに安心はしない。
「わらうのは後にしろ。貴様は何者か」
 岸隊長も、こんどは日本語でどなりつけた。
「やあ、どうもわが海軍軍人の前でわらってすみませんでした」
 と、かの若者は頭を下げ「私は四国の生れで竹見太郎八《たけみたろうはち》という者です。この貨物船平靖号の水夫《すいふ》をしています」
「ふん、竹見太郎八か、お前、なぜこんな中国船の水夫となってはたらいているのか」
「はい。私はなにも申上げられません。しかし、さっきも申しましたとおり、船長があなたにお目にかかりたいといっていますから、まげて船長の公室《こうしつ》へおいでくださいませんか。これにはいろいろ事情がありまして……」
 水夫竹見は、俄《にわか》にていねいになって、岸隊長をうごかそうとする。その熱心が、彼の顔にはっきりあらわれているので、隊長もその気になって、彼に案内をめいじた。
 このような小さな貨物船に、船長の公室があるというのも笑止千万であるが、ともかくも岸隊長は、隊員の一部をひきつれて、竹見のあとにつづいて公室の入口をくぐった。そこは船橋のすぐ下で、船長室につづいた室だった。
 入ってみて、またおどろいた。
 室内は、こんな貧弱な船に似合わず、絢爛《けんらん》眼をうばう大した装飾がしてあって、まるで中国のお寺にいったような気がする。入口をはいったところには、高級船員らしい七八人の男がきちんと整列していて、隊長岸少尉のかおを見ると、一せいに挙手の礼を行った。
 室の真中に、一つの大きな卓子《テーブル》がある。その前に、一人の肥満した人物が、ふかい椅子に腰をかけている。
「さあ、どうぞこちらへ」
 と、その肥満漢《ひまんかん》は手をのばして、隊長に上席《じょうせき》をすすめた。混じり気のない立派な日本語であった。どうやらこれが船長らしい。だが船長にしろ、椅子にこしをかけたまま、帝国軍人に呼びかけるとは無礼至極であるとおもっていると、かの肥満漢は、
「私は脚が不自由なものでしてナ、お迎えにも出られませんで、御無礼《ごぶれい》をしておりますじゃ。この汽船の船長|天虎来《てんこらい》こと淡島虎造《あわしまとらぞう》でござんす」
 と、ていねいに挨拶をしてあたまを下げた。
 脚が不自由だという。見れば、なるほどこの虎船長の両脚は、太腿のところからぷつりと両断されて無い。
 このように脚が不自由だから、岸隊長を公室までまねいたことが一応|合点《がってん》がいった。しかしいくら脚が不自由でも、この船長だって出てこられないはずはないのだがと、岸隊長はどこまでも、こまかいところへ気を配りつつ訊問《じんもん》にかかった。
「本船のせきは、日本か中国か」
「もちろん日本でございます」
「日本船なら、なぜ船尾に日章旗を立てないのか」
「おそれ入りますが、これにはいろいろ仔細《しさい》がございまして……」
 と、かの虎船長は一揖《いちゆう》して、きっと形をあらため、かたりだしたところによると、
「――この平靖号は、中国から分捕った貨物船でありまして、払下《はらいさげ》手続をとって手に入れたものであります。この汽船には四十八名の乗組員がおりますが、どれもこれも中国語をよくあやつる。しかしそのうち八名を除いて、のこり四十名はいずれも生粋《きっすい》の日本人でございます。そこに立っております高級船員たちも、どこから見ても中国人ですが、これがみな日本人なんで、商船学校も出た者もおりまするし、予備の海兵も混っております」
 虎船長は、そういって後の船員たちを指した。岸隊長は、あらためて高級船員の面をじっと見まわしたが、なるほど、眼の光だけは炯々《けいけい》として、新東亜建設の大精神にもえていることがはっきりと看取される。
「本船の目的は、どこか。また、なぜこんなに、すっかり中国式になっているのか。日本人らしい装飾も什器も、なんにもないではないか」
 岸隊長は、疑問のてんをついた。
「はい、本船の目的と申しまするのは、日本を飛びだして日本に帰らないということであります。われわれ一同、こせこせした日本人に嫌気《いやけ》がさし、日本人を廃業して中国人になり切り、南シナ海からマレー、インドの方までもこの船一つを資本として、きのうは東に、きょうは西にと、気ままに航海をつづけようというのであります。積荷は、ことごとく中国雑貨と酒です」
 日本人を廃業するんだとは、船長なかなかすごいことをいいだしたものである。そういっておいて、船長はじっと岸少尉の顔色をうかがっていた。


   地方版の記憶から


「日本人を廃業して、ふたたび日本にかえらないというのか。ふん、なるほど」
 岸少尉は、わかいがさすがに思慮ある士官、べつだんいやなかおもせず、船長のおもてを見かえして、
「あれは今から一ヶ月ほど前のことだったか、長崎県の或るさびれた禅寺《ぜんでら》において、土地の人がびっくりしたくらいの盛大な法会《ほうえ》が行われたそうだね」
 と妙なことを岸少尉はしゃべりだした。
「はあ、そうでしたか」
「そうでしたかというところを見ると、貴公《きこう》は知らないと見えるね。――その法会に参加した人数は五十人あまり、法会の模様からさっすると、これは団体的葬儀の略式なるものであったということが分った。その中に一人、容貌魁偉《ようぼうかいい》にして、ももより下、両脚が切断されて無いという人物が混っていたそうだが、そういうはなしを貴公は聞いたことがないか。なんのためのひめたる団体葬儀であろうか。仏の数が五十人あまり、参会者もまた同数の五十人あまりだという。一体だれの葬儀なのであろうか」
 岸少尉のかたるうちに、途中で一度、虎船長は、はっと思った様子だが、少尉がかたりおわるや、からからとうち笑って、
「はっはっはっはっ。世間には、どうもまぎれやすいはなしがあるものですな。両脚のない人間も世間には何百人といるんですぞ。団体葬儀だなんて、それは誰かの早合点《はやがってん》でありましょう」
 と、少尉のいうことを盛んにうちけす。
「はっはっはっ」と、こんどは岸少尉がうちわらって
「こうやって見まわすと、この船の乗組員たちは、どういうものかそろいもそろって、頭の天頂《てっぺん》の附近に二銭銅貨大の禿《はげ》――禿ではない、毛が生えそろわなくてみじかいのだ、それが揃いも揃って目につく。第一貴公のあたまにも、妙なところに山火事のあとみたいなものがあるではないか。さっきいった長崎の禅寺へ、五十人ほどの参会者がそろいもそろって毛髪をそって、納めていったそうだが、ずいぶん世間には、こまかいところまでつじつまのあう不思議なはなしがあるものだねえ」
 これを聞くと、虎船長は、目を白黒。おもわず両手で椅子からとび下りようとしたが、結局それをあきらめて、
「ふふン、ふふふふ。ふふふふ」
 と、妙なわらい方をした。隊員一同も、わらいもできず、くすぐったいかおをして唇をかんでいる。臨検隊員は、少尉の言葉のいみをやっと諒解して、ものめずらしげに一同のかおを端から端へいくどもじろじろとながめやる。向うの一団は、いよいよ顔のやり場にこまっている様子だ。
 そのとき岸少尉は、きッと形を改め、荘重《そうちょう》なこえで、
「臨検は、これで終了した。なお、おわりに四十何人かの生ける亡者どのの健康をしゅくし、そしてその成功をいのってやまぬ。おわり」
 そういって少尉は、隊員をひきつれ、さっさと公室を出ていった。
 少尉たちの靴音が甲板へきえても、虎船長はじめ公室の一同は、その場を石のようにうごかなかった。どこからか、鳴咽《おえつ》のこえがもれた。するとあっちでもこっちでも、すすりなきのこえが起った。拳でなみだをはらっている者もある。感激のなみだだ!
 生ける屍《しかばね》となって、ひめられた或る使命のために壮途につこうという虎船長以下は、はからずも臨検の海軍軍人からげきれいの言葉をうけ、感激のなみだは、あとからあとへと湧きいでて尽きなかったものだ。
「おい、おおくりしよう。わしを抱いてつれていけ」
 虎船長がさけんだ。
 船員たちは、へんじをするよりもはやく、脚のない船長を両脇からいだきあげ、甲板へつれていった。そのとき臨検隊長岸少尉は、舷側におろされた縄梯子《なわばしご》を今手をかけて下りようとしたところだったが、虎船長があらわれたと知って、つかつかと後へ戻り、無言のまましっかとその手をにぎった。そのときである。副隊長の兵曹が、
「あっ、岸隊長。本艦から至急帰還せよとの信号です。別な船が一せき、南方にあらわれました」と、こえをかけた。
 このとき平靖号が、はからずも一つの大失敗をやったことが、後に至って思いだされることとなったが、まだだれも気がつかない。


   ノールウェーの汽船


「あっはっはっ。さすがの海軍さんも、この平靖号にあきれてかえったようだな」
 例の大々《ふてぶて》しい水夫の竹見太郎八は、甲板《かんぱん》のうえにはらをゆすぶってからからとわらう。
「ちえっ、自分のことをたなにあげて、なにをわらうんだよ」
 すぐ横槍が入った。それは、デリックの下《した》にあぐらをかいて、さっきからのさわぎをもうわすれてしまった顔附で、せっせと釣道具の手入れによねんのない丸本慈三《まるもとじぞう》という水夫が、口を出したのである。
「な、なにをッ」
「なにをじゃないぜ。さっきお前は、もうすこしで水兵の銃剣にいもざしになるところじゃった。あぶないあぶない」
 この丸本という水夫は、竹見の相棒だった。年齢のところは、竹見よりもそんなに上でもないのに、まるで親爺《おやじ》のような口をきくくせがあった。この二人の口のやりとりこそ、はなはだらんぼうだが、じつはすこぶるの仲《なか》よしだった。
「なんだ、丸本。貴様は俺がいもざしになるところをだまってみていたのか。友達甲斐《ともだちがい》のないやつだ」
「ははは、なにをいう。お前みたいなむこう見ずのやつは、一ぺんぐらい銃剣でいもざしになっておくのが将来のくすりじゃろう。おしいところで、あの水兵……」
「こら、冗談も休み休みいえ。あの銃剣でいもざしになれば、もう二度とこうして二本足で甲板に立っていられやせんじゃないか」
「そうでもないぞ。あの、われらの虎船長を見ろやい。足は二本ともきれいさっぱりとないが海軍さんを見送るため、ああしてちゃんと甲板に立った。お前だって、いもざしになってもあれくらいのまねはできるじゃろう」
「おお虎船長!」
 と、竹見太郎八は、なにかをおもいだしたらしく、
「そうだ、俺は虎船長に用があったんだ。おい、ちょっといってくるぞ」
 水夫竹見は、軽く甲板を蹴って、船橋へのぼる階段の方へ歩いていった。
 船橋では、虎船長をはじめ、一等運転士や事務長以下の首脳者が、しきりに、はるかの海面を指して、そこに視線をあつめている。
「おお、あの船が、やっと旗を出した」
「なるほど、あれはノールウェーの旗ですな、ノールウェーの船とは、ちかごろめずらしい」
 いま船橋で話題にのぼっているのは、さっきまでこの平靖号を臨検していたわが駆逐艦が、その臨検中に見つけた新しい一隻の怪船のことだった。わが駆逐艦は、その間近かにせまっている。そのとき怪船は、とつぜんノールウェーの国旗を船尾にさっと立てたのである。
「どうもあのノールウェー船はあやしいよ。むこうも貨物船だが、あのスピードのあることといったら、さっきは豆粒ほどだったのが、今はこうして五千メートルぐらいに近づいている」
「ノーマ号と、船名がついていますぜ、一体なにをつんで、どこへいく船なのかなあ」
「きっと軍需品をつんでいるよ、あのかっこうではね。たしかにあやしいことは素人《しろうと》にもそれとわかるのに、ノールウェーでは、海軍さんも手の下《くだ》し様《よう》がないんだろう」
「残念、残念。宣戦布告がしてないと、ずいぶんそんだなあ」
 幹部たちは、ノーマ号と名のるノールウェー船のうえに、すくなからぬ疑惑をもって、ざんねんがったのである。
 はたして、一同が見ているうちに、わが駆逐艦松風は、ノーマ号からはなれ、舳《へさき》をてんじて北の方へ快速力で航行していった。
 ノーマ号も、その後を追って北上するかとおもわれたが、どうしたものか、急に針路をかえ南西に転じた。
「あれっ、こっちと同じ方向へいくぞ!」
 事務長が、目をぱちくりとやった。
「おい、へんだぞ。ノーマ号は、一向前のようなスピードを出さないじゃないか」
 足のない虎船長がさけんだ。
「これじゃ、間もなく本船は、ノーマ号においついてしまいますよ。なにかむこうは、かんがえていることがあるんですな」
 頭のいい一等運転士の坂谷《たかたに》が、早くも前途を見ぬいて、船員の注意をうながした。
 坂谷のいったとおりだった。わが平靖号は、どんどんノーマ号の後に接近していった。
 水夫の竹見は、さっきから船橋の入口に立っていたが、この場の緊張した空気におされて、無言のままだった。
「おや、竹見。なにか用か」
 と、かえって虎船長からとわれて、彼は、はっといきをのんで二三歩前に出た。
「ああ船長。私は、折角ですが、この船から下りたいのであります」
「なにィ……」
 虎船長は、あっけにとられて、竹見の顔をあらためて見なおした。


   信号旗


「なに、もう一度いってみろ」
 船長は虎《とら》の名にふさわしく、眼を炯々《けいけい》とひからせて、水夫竹見をにらみつけた。
「はい。私は本船を下りたくあります」
「な、なにをいうか、本船にのりこむ前に、あれほど誓約したではないか。本船にのったうえからは、本船と身命をともにして、目的に邁進すると。ははあお前は、南シナ海の蒼《あお》い海の色をみて、きゅうに臆病風《おくびょうかぜ》に見まわれたんだな」
 竹見は、目玉をくるくるうごかしつつ、
「臆病風なんて、そんなことは絶対にありません。私は……」
 といっているとき、横から一等運転士の坂谷が
「船長。ノーマ号が、本船に“用談アリ、停船ヲ乞ウ”と信号旗をあげました。いかがいたしましょうか」
「なに、用談アリ、停船ヲ乞ウといってきたか。どれ、向うはどういう様子か」
 船長は、ノーマ号の様子をみるため、一旦双眼鏡を目にあてようとしたが、気がついて水夫竹見太郎八の方を向き、
「お前のはなしは、後でよく聞こう。それまでは下にいってはたらいていろ。じつに厄介《やっかい》なやつだ」
 と、はきだすようにいった。
 ノーマ号は、もうすこしで平靖号と並行しそうな位置まで近づいていた。そしてヤードにはたしかに用談アリ、停船ヲ乞ウの信号が出ていた。甲板を見わたすと、赤い髪に青い眼玉の船員や水夫が、にやにやうすわらいしながら、こっちを見おろしていた。
 虎船長は、うむとうなって、
「用談とは何の事だ。聞きかえしてやれ」
 といった。
 信号旗は、こっちのヤードにも、するするとあがった。
 すると、すぐノーマ号から返事があった。
“飲料水、野菜、果実ノ分譲ヲ乞ウ。高価ヲ以テ購《あがな》ウ”
 それを見て虎船長は、
「駄目だ。本船にも、その貯蔵がすくないから、頒《わ》けてやれない。香港《ホンコン》か新嘉坡《シンガポール》へいって仕入れたらよかろうといってやれ」
 と、命令した。
 その信号は、再び平靖号のヤードに、一連《いちれん》の旗となってひらひらとひるがえった。
 すると、また折かえして、ノーマ号からの返事があった。
“ゼヒ分譲タノム。量ノ如何ヲ問ワズ、本船ニ[#「ニ」は底本では「に」]壊血病《かいけつびょう》多数発生シ、ソノ治療用ニアテルタメナリ”
 ノーマ号は、壊血病患者がたくさん発生しているから、ぜひ野菜や果実をわけてくれという信号なのである。
「壊血病とは、気の毒じゃ」と、虎船長はいって、くびをふった。
「じゃあ、すこしわけてやることにするか」
 と、いって、事務長の方をふりかえった。
「でも、本船の貯蔵量は、ほんとにぎりぎり間に合うだけしかないのですから、どうですかな」
 事務長は、分譲に反対の口ぶりだった。
「うむ、まあ海のうえでは、船のりと船のりとは相身互《あいみたが》いだ。すこしでいいから、なんとか融通してやったらどうじゃ」
 虎船長は、若い日の船乗り生活の追憶からして、相身互いの説もちだした。
 事務長は、だまっていると、傍にいた一等運転士の坂谷が、船長と事務長の間にわって入り、
「じゃあ、こうしてはどうですかなあ。こっちからノーマ号へ出かけていって、むこうのいうがごとくはたして壊血病患者がどんなに多数いるかどうかをたしかめたうえで、野菜や果実をわたしてやったがいいではありませんか」
 坂谷は、なかなかうまいことをいった。
「ああ、それならよかろう。事務長も、賛成じゃろう」
 と虎船長は、事務長の同意を確かめたうえで、飲料水一斗、野菜二貫匁、林檎三十個を、ボートで持たせてやることにして、その指揮を事務長にやらせることにした。
「よろしい、行ってきます」
 事務長は、気がるに立ち上った。
 そのときであった。
「船長。私も、事務長と一緒に、ノーマ号へやってください」
 船橋の入口に立っていた水夫竹見が、いきなり船長の前へとびだしてきた。
「ううっ、竹見か、お前は、行くことならんぞ。下船《げせん》したいなどといい出すふらちなやつだ……」
「ちがいます。私が下船したいといったのは……」
「だまれ、竹見」と船長は、あかくなってどなりつけた。
「わしは船長として貴様にめいずる。只今からのち貴様は本船内で一語も喋《しゃべ》ってはならん。しかと命令したぞ。下へいって、謹慎《きんしん》しておれ」
 船長は竹見に対して、たいへん不機嫌をつのらせるばかりだった。
 一体竹見は、なぜ下船したいなどと、とんでもないことをいいだしたものであろうか?


   意外な人物


 ノーマ号では、飲料水などを、平靖号が頒《わ》けてやってもいいという返事に、いろめきわたった。だが、ノーマ号からボートを下そうといったのに対し、平靖号は、こっちが品物をボートに積んでそっちへいくといって聞かないので、ちょっと当惑をしたらしく、しばらくは、その返事をよこさなかった。
 やがてのことに、やっと応諾《おうだく》の返事が、ノーマ号からあがったので、いよいよ事務長はボートを仕立てて、六人の部下とともに海上に下りた。
 事務長は、みずから舵《かじ》をひいた。
 飲料水と野菜と果実とは、舳にあつめられ、そのうえに大きなカンバスのぬの[#「ぬの」に傍点]をかぶせてあった。
 虎船長は、本船をはなれていくボートをじっとみていたが、側をかえりみて、
「おい、一等運転士。あの荷は、ばかに大きいじゃないか。事務長は、もっていく分量を、まちがえたんじゃあるまいな」
「そうですね」と坂谷はくびをかしげて「まさか、事務長が、分量をまちがえることはありませんよ。事務長は、林檎一つさえ、ノーマ号へやりたがらなかったんですからねえ」
「そういえば、そうだが、他人に呉れてやる物は、いやに大きくみえるのが人情なんだろうか」
 船長は、ふしぎそうに、くびを左右へふった。
 そのうちに平靖号のボートは、停船しているノーマ号の舷側についた。縄梯子《なわばしこ》は、すでに水ぎわまで下されていた。
 例のカンバスが、一度とりのぞかれたが、すぐ元のように、品物のうえに被せられた。ノーマ号の船員に、ちょっと見せただけのようであった。
 ボートからは、事務長を先頭に、三人の者が、縄梯子をするするとのぼって、ノーマ号の甲板に上った。
 ノーマ号の、高級船員らしいのが五六人、そこへ集ってきて、なにか協議をはじめた様子である。きっと、壊血病患者がたくさん出たという先方のはなしをたしかめたうえでないと、品物を売りわたすことはできないといっているらしい。
「おやッ、あれはおかしいなあ」
 とつぜん、船長が叫んだ。
「な、なんです。おかしいというのは……」
 一等運転士が船長の顔をみた。
「あれみろ」と船長は、ボートの方をゆびさして「ノーマ号の上にのぼった奴は三名、ボートには、五名のこっているじゃないか。合計して八名。どうもへんだ」
「ははア」
「ははアじゃないよ。君もぼんやりしとるじゃないか。いまボートにのって出懸《でか》けたのは、事務長と六名の漕手《こぎて》だから、みんなで七名だ。ところが今見ると、いつの間にやら八名になっている」
「ははア、するといつの間にかどっかで一名ふえたようですな。これはどうもふしぎだ」
 と、一等運転士は、口では愕《おどろ》いているが、態度では、そんなに愕いていない。彼はすでに、なにごとかをよき[#「よき」に傍点]していたようだ。
「ああッ、彼奴だ」と船長が大きなこえを出した。「竹見の奴、いつの間にか、本船をぬけだして、ノーマ号の甲板《かんぱん》に立っていやがる。あいつ、どうも仕様がないやつだなあ」
「えっ、やっぱり竹見でしたか」
「うぬ、船長の命令を聞かないで、わが隊のとうせいをみだすやつは、もうゆるしておけない。かえってきたら、おしいやつだが、ぶったぎってしまう」
 虎船長はついに激怒してしまった。
 その当人、竹見太郎八は、悠々とノーマ号の甲板をぶらぶらと歩いている。事務長が、ノーマ号の高級船員を相手に、強硬に主張をつっぱっているには、一向おかまいなしで、むこうの水夫をつかまえて、手真似ではなしをしている。
「どうだい。これは胡瓜《きゅうり》の缶詰だ。ほら、ここに胡瓜のえが描いてあるだろう。欲しけりゃ、お前たちに呉れてやらねえこともないぜ、あははは」
 集ってきたノーマ号の水夫たちは、竹見の顔色をうかがいながら、ごくりと咽喉《のど》をならした。
「われわれは、その缶詰が欲しい。そのかわり、汝《なんじ》はなにをほっするか」
 と、むこうも手真似だ。
「そうだねえ――」
 と、竹見はいって、ポケットから煙草《たばこ》を一本だして口にくわえ、ぱっと燐寸《マッチ》をつけた。
 すると、ノーマ号の船員たちは、一せいに呀《あ》っとさけんで、真青になった。
 なぜ彼等は、青くなったのであろうか。


   煙草《たばこ》をなぜ嫌う?


 ノーマ号の船員の一人が、水夫竹見のそばへとびこんできたと思うと、いきなり手をのばして、竹見の口から、火のついた煙草をもぎとった。
「あれッ、らんぼうするな。おれに、煙草をすわせないつもりか」
 竹見は、ことばもはげしく、中国語でどなりつけた。そしてすばやくみがまえた。だが、彼の眼光は、どうしたわけか、てつのように冷たくすんで、相手の顔色をじっとうかがっていた。
「いのち知らずの、黄いろい猿め! とんでもない野郎だ!」
 そういったのは、ノーマ号の船員だ。
 彼は、竹見からもぎとった火のついた煙草を、大口あいて、ぱくりと口中《こうちゅう》へ! まるで、はなしにある煙草ずきの蛙のように。
「おや、この煙草どろぼうめ。おれには、煙草をすわせないで、ひったくって食べっちまうとは、呆《あき》れたやつだ」
 水夫竹見が、一本うちこむ。
 が、このときはやく、かのときおそく、かの碧眼《へきがん》の船員は、ぷっと煙草をはきだし、
「あ、あつい!」
 と叫ぶ。そして甲板《かんぱん》へぺたりと落ちた煙草を、足下に踏みにじった。もちろんこのとき、煙草の火はきえていたけれど、
「あははは、ざま見ろ。火のついた煙草を喰って、やけどをしたんだろう。ふふふふ、いい気味だ」
 竹見は、へらず口をたたいて大いに、わらった。
 だが相手の船員たちは、真剣なかおで同僚の足元に視線をあつめる。そして煙草に、火のついていないのをたしかめると、ほっとした面持《おももち》になった。言葉を発する者さえない。
 竹見は、いじわるくにやりとわらって、ポケットに手を入れた。そしてまた新たに一本の煙草をとりだして、唇の間へ、ひょいとくわえた。
 おどろいたのは、ノーマ号の船員たちだ。わっとわめいて、一せいに水夫の竹見におどりかかった。竹見は、
「な、なにをするッ!」
 と、どなったが、もちろん多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》で、とてもかなわないと見えたし、そのうえ、じつはこのとき竹見にもいささか考えがあって、わざと相手のやりほうだいにまかせておいたのだった。
 すると相手は、ますますいい気になって、竹見のポケットに手をさし入れた。なにをするかとみていると、煙草の入った箱とマッチとを、だつりゃくした。そして、その二つの品物を、こわごわ舷側《げんそく》から海中へ、ぽーんとすてたものだ。
 それでもまだ心配だとみえて、舷側からわざわざ海面をみて、この二つの品物がたしかに水びたしになっているのを確かめている者もあった。なぜそんなに煙草とマッチが、きらいなのであろうか。
 このとき、竹見がさけんだ。
「ちえっ、おれをあまく見て、よくもまあ大勢でもって手ごめにしやがったな、それじゃこっちも、胡瓜の缶詰をかえしてもらうよ」
 どうせ相手にはわからないであろうところの中国語でしゃべって、さっき竹見が船員中のおとなしそうな一人にくれてやった胡瓜の缶詰を、すばやくうばいかえした。
 報復手段なのである。どっちもまけてはいない。
「あっ、それはおれが貰った缶詰じゃないか」
 その船員は、びっくりして竹見にとびかかってきたが、彼は相手にならないで、ひらりとからだをかわした。このことは、その相手の船員ばかりでなく、附近に立ち並んでいた彼の同僚に少からぬ失望をあたえたようである。そうでもあろう、そういう野菜ものにうえていた彼等は、あたらきゆうりのお裾分《すそわ》けを失ってしまったのだから。
 船員たちは、たがいに顔を見合わせて、なにか早口にどなり合っていたが、やがて一同は、やっぱり胡瓜の缶詰にみれんがあると見え、竹見の傍へよってきて、ぐるっと取まいた。
「こら、その缶詰を、こっちへかえせ」
「さっきおれたちがもらった缶詰だ。こっちへよこせ」
 竹見から煙草とマッチをうばいとったことなどは知らんかおで、多勢を頼んで水夫竹見に肉薄してくるそのずうずうしさには、あきれるよりほかない。
 竹見は、べつにおどろきもしない。ふふんと鼻のさきでわらうと、とびかかってくる奴の腕を、かるくふりはらって、ぐんぐん前へ出ていく大胆さ。そこで彼は、さっきからこの有象無象《うぞうむぞう》とは別行動をとり、ウィンチにもたれて、こっちをじろじろしていた一人の、たくましい水夫の前にちかづき、
「おい、お前にこれをやるよ」
 と、もんだいの缶詰をさしだした。
 すると相手は、にやりと笑って、竹見のさしだす缶詰をうけとった。


   巨人ハルク


「やい、ハルク、その缶詰は、おれたちのものだ。こっちへよこせ」
 ハルクというのは、その逞《たくま》しい巨人水夫の名のようだ。缶詰にみれんたっぷりの船員たちはハルクの前へおしかけて、うばいかえそうとする。
「……」
 巨人ハルクは、一語も発しないで、近づいてくる船員のかおをじろりじろりとながめまわす。そして缶詰をわざと顔の前でひねくりまわして、ごくりと唾をのんでみせたりする。こいつはかえって気味がわるい。
 いきおいこんだ船員たちは、猫ににらまれたねずみのように、もう一歩も前に出られなくなった。
「やい、ハルク。意地わるをすると、あとで後悔しなければならないぞ」
 ハルクは、どこを風がふくかといったかおであった。
 竹見は、ハルクが、ばかに気に入った。彼はそこでハルクの前へいって、右手をさしのばした。
「ハルクよ。お前は世界一の巨人だぞ!」
「ふふん、それほどでもないよ」
 ハルクがはじめて口をきいた、しかも片言ながら、とにかく広東《カントン》語で……。そして二人は、しっかり握手をしてしまったのである。そこで、さしものめんどうな胡瓜の缶詰事件も、一まず、かたづいた。
 こっちで缶詰事件が起っている間に、平靖号から野菜その他をもってノーマ号へ出掛けた事務長の一行は、とどこおりなく取引をすませた。ノーマ号の船長ノルマンは、金貨でその代金をはらったが、その支払いぶりは、なかなかよかった。よほど金がある船であるのか、それともよほど野菜類にこまっていたものらしい。
「貴船は、これからどこへいかれるのですか」
 平靖号の事務長は、中国人らしい発音で、ノルマンにたずねた。
「本船は、サイゴンをへて、シンガポールに出るつもりだよ」
 ノルマン船長は、たいへんおちついた紳士のように見えた。おそろしくやせぎすで、大きな両眼は、日よけの色眼鏡によって遮蔽《しゃへい》されてあった。
「貴船は貨物船らしいが、なにをつんでおられるのですか」
「鉱石である」
 鉱石である――という返事が、ばかにはやくとびだした。まるでさっきからこれをきかれることを予想して、すぐ出せるように用意しておいた返事のように聞えた。
「鉱石というと、どんな種類の鉱石ですか」
 ノルマン船長のくちびるが、ぎゅッとまがった。
「もう用事はすんだのだ。いそいで帰りたまえ」
 ノルマン船長は、はじめて叱咤《しった》するようにさけんだ。彼の語尾は、かすかにふるえおびていた。
 事務長の質問が、ノルマンの気にさわったらしい。
「ねえ、事務長」
 そのとき、事務長のうしろからこえをかけた者がある。それは一緒にノーマ号へのりつけた一行の中の一名、丸本という水夫だった。
「なんだ」
「本船からの信号でさあ。はやくかえってこいといってますぜ」
 事務長は、うむとくびをふって、
「ああ、いますぐかえると、手旗信号で返事をしてくれ」
「ねえ、事務長」
「なんだ。まだなにかあるのか」
「へえ、もう一つ、厄介《やっかい》なことをいってきました。虎船長から、じきじきの命令でさあ」
 といって、常日ごろ、ばかに年寄りじみたことをいうので、“お爺《じい》”と綽名《あだな》のある丸本水夫だが、すこし当惑《とうわく》の色が見える。
「なんだ、やっかいなことというのは」
「ほら、あの竹《たけ》のことでさあ。さっきわれわれ一行の中に紛《まぎ》れこんでいましたね。彼奴はカンバスの下に野菜と一緒になってかくれていたんですよ。ところが虎船長、大の御立腹《ごりっぷく》ですわい。いまも船からの信号で、竹の手足をしばってつれもどれとの厳命《げんめい》ですぜ。ようがすか」
「ふむ、そうか。竹見……いや竹の手足をしばってつれもどれと、船長の命令か。無理もない、船長の許可なくして船をぬけだすことは、一番の重罪だからな」
「じゃあ、やりますかね」
「なにを?」
「なにをって、竹の手足を縛《しば》ってつれてかえるかということです」
「もちろんだ。なぜそんなことをきくのか」
「だって、彼奴は大力があるうえに、猿のように、はしっこいのですからね。こっちがつかまえると感づくと、この船内をはしりまわって、なかなかつかまえられませんぜ」
「ふーん、それはお前のいうとおりだな」
 と、事務長はうらめしそうなかおになって、本船の方をふりかえった。本船の甲板では、虎船長が、椅子のうえにどっかとすわって、こっちをにらんでいた。


   投《な》げナイフ


「おい、こまったな。お前一つ、骨をおってくれないか」
「えっ」
「お前は竹と仲よしなんだろう。だからお前がむかえば、竹は反抗しないでつかまるだろう」
「ごめんこうむりましょう。そんなことをすれば、わしゃ、ねざめがわるいや。とらえられりゃ、どうせ竹の野郎は、死刑にならないまでも、船底に重禁錮《じゅうきんこ》七日間ぐらいはたしかでしょう」
 丸本は、なかなか承知をしない。
 事務長も、これにはかえす言葉もなかったが、さりとてこんなところにぐずぐずしているわけにもいかない。
「竹の刑罰のことは、おれが保証して、かるくしてやるから、お前《まえ》一つつかまえろ」
「困ったなあ。重禁錮にしない約束、くい物と酒はたっぷり竹にやってくれる約束、それなら引受けますぜ。わしゃ計略《けいりゃく》をもって、竹のやつを縛っちまいまさあ」
「くうものはくい、のむものはのむ囚人なんて聞いたことがないが……仕方がない、おれが虎船長にとりなすから、はやくお前はかかってくれ。おれたちはこっちで、おとなしく控《ひか》えている、しかし加勢をしろと合図《あいず》をすれば、すぐとびかかるから」
「ようがす。じゃあ、いまの約束は、男と男との約束ですぜ。まちがいなしですぜ」
「うん、くどくいわなくてもいい。まちがいなしだ」
 ノルマン船長を前にして、二人は気がねをしながらも、早口の相談一決!
 そこで丸本は、ノーマ号のとも[#「とも」に傍点]の方へ、のこのことでかけていった。それと入れかえに、事務長は、部下を彼のかたわらへよびよせて、いつでも丸本に加勢のできるように用意をした。
 丸本は、どんな計略をもっているのであろうか。彼の歩いていく後から見ると、いつの間にか麻紐《あさひも》で輪をこしらえて、かくし持っている。
「おい竹……おい、竹」
 丸本に呼ばれて、竹見は知らぬが仏で、安心しきってノーマ号の船員の間をかきわけ、前へ出てくる。
「おい竹よ。いま事務長さんから特別手当が出た。ほら、わたすよ。手を出せ」
「なんだ。特別手当だって、いくらくれるのか知らないが、はて、あの事務長め、いつからこんなに気がきくようになったか」
 と、ひょいと手を出すところを、丸本がまっていましたとばかり、麻紐の輪をかけてしまった。
「あっ、おれをどうするのか」
「わるくおもうな、おとなしくしろい。お前を縛ってつれもどれと、虎船長の命令だ」
 竹見は、しばらく目をぱちぱちしていたが、
「いやだい。あんな船へ、だれがかえるものか。お前、おれを売ったな」
「売ったなどと、人聞きのわるいことをいうな。これもお前のためだ。わしは飯《めし》も酒も……」
「いうな、うら切りお爺《じい》め! お前なんぞにふんづかまってたまるかい」
 といってはねのけようとする。そのときばたばたとかけてきたのは、待機中の事務長をはじめ派遣隊の連中だった。この連中にそうがかりになっては、大力の竹見といえどもどうにもならない。
「おーい、ハルク、だまってみていないで、おれをたすけてくれ。おれが捕って本船へつれもどられると、死刑になっちまうんだ」
 それを聞くと、ハルクはウィンチの下からのっそり前に出てきた。彼は、太い筋の入った両腕を、ゆみのようにはって、竹見の加勢をすると見せた。
「よせよせ、ハルク」
 他の船員たちが忠告した。しかしハルクは缶詰をもらったおれいの分だけ、力を出すつもりであった。
 平靖号の船員対ハルクの乱闘のまくは、今にもノーマ号の甲板の上に切っておとされそうになった。
 そのとき竹見は、ハルクの後へ退《さが》っていたが、睨《にら》み合いの相手丸本をいつになくきたない言葉でののしり、
「やい、うら切り者よ。これが受けられるなら受けてみろ」
 というなり、竹見の掌《てのひら》からぴゅーんといきおいよく、一挺のナイフが丸本の方へとんでいった。竹見のなげナイフ。丸本のとめナイフ――といえば、平靖号の名物の一つだ。どっちも神技というべきわざをもっている。だが今は曲技《きょくぎ》くらべではない。丸本は、竹見が自分に殺意を持っていると見て、大立腹《だいりっぷく》だ。ぴゅーととんでくるナイフを、ぴたりと片手でうけとめ、ただちに竹見の心臓をねらってなげかえそうとしたが、そのとき妙な手触《てざわ》りを感じた。見ると、ナイフの柄《え》に、シャツをひきちぎったような布ぎれがむすんであった。
「おや!」
 と叫んだ、丸本はその布ぎれに、なにか字が書いてあるのに気がついた。


   火薬船


 丸本は、はっとおもった。
 どうも、さっきから、竹見のそぶりという奴が、一向《いっこう》腑《ふ》におちない。あれほどの仲良しの竹見から、ナイフを、なげつけられようなどとはまったく想像もしなかったのである。でも、とんでくるナイフは、ぜひ受けとめねばいのちにかかわる。そこで、こっちも手練の早業《はやわざ》で、やっとナイフを受けとめてみると、そのナイフの柄に、布《ぬの》ぎれがついていたのであった。それにはおどろいた。
 いや、愕《おどろ》きは、そればかりではない。その布ぎれには文字がしたためてあった。彼は、すばやくその文字を拾いよみした。
“火ヤク船ダ。オレハノコルヨ”
 彼は、たてつづけに二三度、それをよみかえした。しかし、そのいみを諒解《りょうかい》するには、まだその上、五六|度《ど》もよみかえさねばならなかった。そして、その真意がわかったとき、丸木のからだは、昂奮《こうふん》でぶるぶるふるえだした。
「うむ、“火薬船だ、俺は残るよ”そうか、このノーマ号は火薬をつんだ船なのか、それで、竹見のやつが、この船にのこるというのか」
 丸本は、ちらと、竹見の方に、すばやい眼をはしらせた。
“どうだナイフにつけてやった手紙の文句のいみが分るか”
 と、いいたげな竹見の目附であった。
「竹見の奴、このノーマ号が火薬船だから残るというが、火薬船なら、なぜ残らなければならないのか」
 こいつは、ちょっとばかり謎がむずかしい。丸本には、竹見の意中が、どうもよく分らなかった。が、それが分らないといって、ぐずぐずしていられないこの場であった。
 そのとき、丸本のかたをたたいたものがある。それは事務長だった。
「おい、丸よ。なにをぐずぐずしているんだ。はやく、その麻紐《あさひも》を、手元へ引《ひっ》ぱれ」
 そうだ、麻紐の一端が、脱船水夫の竹見の片手を、しっかりと捉えているのだ。竹見はこの船に居残るという。しからば、この紐をはなしてやらなければなるまい。といって、この場合、下手なはなしようをすれば、ノーマ号の船員どもにさとられるから、竹見の後のためによろしくあるまい。日ごろ、和尚《おしょ》さんのようにおちついている丸本水夫も、こうなっては、煙突のうえで、きゅうに目かくしされたように、狼狽《ろうばい》しないではいられない。
 でも、ぐずぐずしてはいられなかった。すすむにしろ、しりぞくにしろ、ここで一秒たりともためらっていることはゆるされないのだ。彼は、ついに決心した。
「こらッ、竹の野郎! もう誰がなんといっても、おれがゆるしちゃおかないぞ。手前《てめえ》の生命は、おれがもらった!」
 すさまじく憤怒《ふんど》の色をあらわし、なかなか芝居に骨がおれる丸本は、竹見の手首を縛った麻紐を、ぐっと手元へ二度三度|手繰《たぐ》った。
 すると竹見の身体は、とんとんと前へとびだして、つんのめりそうになった。
「うん、野郎!」
 ハルクが、たくましい腕をのばして、横合《よこあい》から麻紐をぐっと引いた。
 とたんに、麻紐が、ぷつんと切れた。
「あっ」
「うーむ」
 丸本も竹見も、前と後《うしろ》のちがいはあるが、ともにどっと尻餅をついて、ひっくりかえった。巨人ハルクさえが、あやうく足をさらわれそうになった。――麻紐は、なぜ切れたのか。それは丸本の早業だった。手ぐるとみせて、彼は手にしでいたナイフで、麻紐をぷつんと切断したのであった。
 巨人ハルクは、ゴリラの如く、いかった。
「な、生意気な! もう勘弁がならないぞ!」
 と、大木のような両腕をまくりあげて、じりじりと前へ出てくる。
 これを見て、おどろいたのは、丸本よりも平靖号の事務長だった。いや、事務長ばかりでない。その後につきしたがう平靖号の乗組員たちであった。いよいよこれは、ものすごい乱闘になるぞ、そうなると、最早《もはや》生きて本船へかえれないかもしれないと、顔色がかわった。
 丸本も、立ち上って、今はこれまでと、みがまえた。
 巨人ハルク、その後に水夫竹見、そのまた後に、ノーマ号のあらくれ船員どもがずらりと、一くせ二くせもある赤面《あかづら》が並んで、前へおしだしてくる。ノーマ号の甲板《かんぱん》上に、今や乱闘の幕は切っておとされようとしている。
 甲板のうえは、たちまち鼻血で真赤に染まろうとしている。こうなっては、どっちも引くに引かれぬ男の意地、さてもものすごい光景とはなった。


   俺は若い!


「みんな、停《や》めろッ!」
 とつぜん、晴天の雷鳴《らいめい》のように、どなった者がある。
 船長だ。ノーマ号の船長、ノルマンだ。いつの間にか、船長ノルマンは、双方《そうほう》の間へとびだしていた。
「おお」
「うむ、いけねえ」
 双方とも、ぎくりとして、にぎりこぶしのやり場に当惑《とうわく》した。
「こらッ、喧嘩《けんか》したいやつは、こうして呉れるぞ」
 ノルマン船長の足が、つつと前に出たかと思うと、彼の両腕が、さっとうごいた。と思うとたんに、彼の両腕には、すぐ傍にいた平靖号の水夫一名と、ノーマ号の水夫一名とが、同じく襟《えり》がみをとられて、猫の子のように、ばたばたはじめた。このほそっこい船長には、見かけによらない力があった。そのまま船長は、つつッと甲板をはしって、
「えいッ。」
 というと、二人の水夫を、舷からつきおとした。おそるべき力だ。船長は、或る術を心得ているのかもしれない。
 どどーンと、大きな水音《すいおん》がした。
「どうだ。後の奴も、海水の塩辛《しおから》いところを嘗《な》めて来たいか。希望者は、すぐ申出ろ」
 と、威風堂々と、あたりを見まわしたが、そのいきおいのはげしいことといったら、見かけによらぬノルマン船長の怪力を知らない者は、窒息《ちっそく》しそうになったくらいである。
「おい、みんな。帰船だ」
 事務長は、そういって、ノルマン船長に、型ばかりの挙手の礼をおくると、自分はいそいで、舷側に吊った縄梯子《なわばしこ》の方へ歩いていって、足をかけた。
 丸本が、その後につづいた。
 そうして、一同は、大急ぎで縄梯子をおりて、ボートにうちのった。
「漕《こ》げ!」
 事務長は、舵《かじ》をひきながら、命令した。
「竹見の奴は、あのままでいいのですか」
 と、一人の水夫が聞いた。
「うむ――」
 と、事務長は、答えにつまった。
「仕方がないじゃないか。それとも、お前に智恵でもあるか」
 これは丸本の言葉だった。
 水夫は、だまってしまった。
 ボートは、だんだんとノーマ号からはなれていく。事務長は、舵をとりながら、ノーマ号の船上に、脱走水夫竹見のすがたをもとめたが、どこにいるのか、さっぱり分らなかった。ただそこには、ノーマ号の水夫たちが、おもいおもいに、こっちを馬鹿にしきったかおで、見おくっていた。
 まったくのところ、馬鹿にされたようなこのボート派遣であった。
 さて竹見は、一体どうしたのであろうか。彼は、前から退船の意志をもっていた。その理由は、虎船長に具申《ぐしん》したたびに、後にしろとかたづけられてしまったが、彼の真意は、駆逐艦松風の臨検隊員をむかえて、ああ自分も志願して、天晴れ水兵さんになって、軍艦に乗組み、正規の御奉公したいと、急にそういう気にかわったのである。すると、中国船平靖号の一員として、そのままいることが厭《いや》になった。そこへ虎船長には、こっぴどくおこられる。どうにでもしろと、こっちも中《ちゅう》ッ腹《ぱら》になっているところへ、ボートがノーマ号に出かけることになったが、こいつがまた虎船長から、はっきり停《と》められてしまったので、どうせ怒られ序《ついで》だとおもって、脱船をしてしまったのである。
 そういうことはよくない事だった。船長の命令をまもらないのは、わるいことだと、竹見は百も二百も承知していた。しかしながら、彼はわかかった。海へ出て来たのは、生命《いのち》をまとに、おもいきり冒険をするためだった。若い者は、なんでもはやいところむさぼり食《く》いたい。冒険味だってそうだ。平靖号乗組員として参加したのもそうなら、水兵さんになりたいとおもったのもそうである。三転して、ノーマ号へいって、外人のかおを見ないではいられない衝動にかられたのも、やっぱりそれだった。若い者は、気もみじかい。ことに竹見にいたっては、非常に気がみじかい。
 気がみじかいことは、一めんから見れば、たいへんよろしくない。しかし他の一めんから見れば、それほど心が目的物にむかってもえている証拠であって、若い者なればこその特長である。
 気がみじかいという性質を、悪いところへ用いてはよくない。我儘《わがまま》と混同せられるからである。しかし、気がみじかいという性質を、良いところへ用いれば、ずいぶんといい仕事が出来る。今の世に、仕事をしない人間は、無駄であり、邪魔でさえある。気みじかを善用して、どんどん仕事をはこんでいい若い者は、大いにほめてやっていい。そういう気みじかい若者が、少ければ、国家は亡びるのじゃないかと思う。
 とにかく、竹見は、気がみじかく、冒険を慕ってどんどんうごいているうちに、秘密の火薬船ノーマ号のうえに、ただ一人取りのこされてしまったというわけである。


   “死《し》に神《がみ》”船長


 ノーマ号を火薬船だと、観察した竹見の眼力《がんりき》は、なかなかえらいものだった。
 煙草《たばこ》を甲板《かんぱん》で吸うと、船員たちが顔色《かおいろ》をかえた。――たったそれだけのことで、竹見は万事をさとったのである。
(火薬船とは、こいつは有難《ありがた》い!)
 竹見は、思いがけない宝の山をほりあてたように思った。これなら、彼のあこがれている冒険味百パーセントの世界だ。彼は、当分この船で、スリルを満喫《まんきつ》したいとかんがえた。
 それだけではない、竹見をしてこのノーマ号に停まらせた理由があった。
 それは外でもない。この切迫した世界情勢の下において、香港《ホンコン》の南方を、変な国籍の船が火薬を満載して、うろうろしているなんて、どうもただ事ではないとおもったからである。
(ふむ、この火薬船が、どこでなにをやるつもりなのか、これは日本人としてうっかりしていられないぞ!)
 そうおもった彼は、得《え》たりや応《おう》と、ノーマ号でがんばることに決めてしまったのである。ノーマ号が、これからなにをするか、それを監視してやろう。これはきっとおもしろいことになるぞと、ほくそ笑《え》んだのである。
 巨人ハルクを、いちはやく味方につけたことは、竹見のはやわざであった。竹見は、ハルクさえ味方につけておけば、あとはこの船に停《とどま》ることなんて、わけはないものとかんがえていた。なにしろ、中国人水夫はよく働くことは、世界中に知れていることであるから、ハルクの口ぞえで、簡単に船長ノルマンにとりなしてもらえるものと決めていた。
 ところが、事実は、そうかんたんには、いかなかったのである。“死に神”という綽名《あだな》のあるこの秘密の火薬船の船長ノルマンだった。これが一通りや二通りでいくような、そんな他愛のない船長とは、船長がちがうのであった。
「おい、ちょっと、ここへ出てこい!」
 船長ノルマンは、船橋のうえから、甲板へこえかけた。これもちょっとした中国語をつかう。
「へえ、――」
 竹見は、わざと頭脳のにぶそうな声で、返事をした。
「へえじゃないぞ。いそいで、ここへ上ってこい」
 船長の語気は、一語ごとにあらくなっていく。
(船長め、どうしたのかナ)
 竹見は、白刄《はくじん》で頸《くび》すじをなでられたような気味のわるさをかんじた。
「へえ、ただ今」
 とこたえて、竹見は、ハルクに、ちくりと目配《めくば》せした。
 ハルクは、無言のままあごをしゃくった。
(船長のいうとおり、船橋《せんきょう》へのぼれ)
 といっているのである。
 竹見は、にやッとわらって、いそぎ足で、昇降段《しょうこうだん》をのぼった。
 下から、ほッほッという嘆声《たんせい》が聞えた。竹見がましらのように身軽にのぼっていったのを、水夫どもが感心しているらしい。
「へえ、なにか御用ですか」
 と、竹見はぬっとかおを前につきだした。
 船長ノルマンは両腕をくんで、けわしい目つきで、竹見をじっとにらみつけた。
「貴様は、なぜ本船へかえらないのか」
 するどい船長の質問だ。
「へえ、私はもう、あの船へかえりたくないんです」
「なぜ。なぜか、そのわけをいえ」
「かえれば、死刑になりますからね」
「なぜ死刑になる?」
「へえ、それは――」といったが、竹見はちょっとどぎまぎした。
「それはその、仲間をちょいとやって、監禁されていたんでがすよ。死刑になる日まで、どこに待つやつがあるもんですか。丁度いい塩梅《あんばい》に、ボートがこっちへ出るということを聞いたもんで、それにもぐりこみやした」
 竹見は、口から出まかせを、べらべらしゃべりながら、よくまあこうもうまいことが喋《しゃべ》れるものだと、自分ながら感心した。
 船長ノルマンは、苦《に》が虫《むし》をかみつぶしたようなかおをして、聞いていた。そして竹見の言葉がおわっても、そのまま無言で、竹見をにらみつけていた。
 あまりいい気持のものではない。
 二三分たった後のこと、ノルマンは、熱が出た病人のようにからだをぶるぶるとふるわせると、はきだすようにいった。
「うそをつけ、小僧。貴様は日本人じゃないか!」


   手剛《てごわ》いノルマン


 水夫竹見は、肚《はら》のなかで、あっとさけんだ。
“うそをつけ、小僧、貴様は、日本人じゃないか!”
 と、船長ノルマンから、だしぬけに一かつをくらわせられたのである。全く不意打《ふいうち》をくらったので、びっくりした。だが、竹見は、こういうときのしぶとさについては、人後におちない自信があった。
(ふン、なにをぬかすか)
 と、口の中でいっていた。
「どうだ。ちゃんと、当ったろう。当ったら、すなおに、日本人ですと白状《はくじょう》しろ」
 船長ノルマンは、威丈高《いたけだか》になって、竹見をきめつけた。
「日本人だったら、大人《たいじん》は、なにか、わしに呉れるんですかい」
「よくばるな。貴様に何一つ、呉れてやる理由があるか」
「なあんだ。それじゃ、日本人であってもなくても、同じことだ。つまらねえ」
 と、いいすてて、竹見は、船長にくるりとしりをむけて、むこうへいこうとする。
「まて、小僧、まだ話はすんじゃいないのだ」
 船長ノルマンは、ふたたびどなりつけた。
「やれやれ、まだ話が、のこっているのですかい」
 竹見は、わざとつまらなさそうな顔をして、もどってきた。
「貴様は、相当|図々《ずうずう》しいやつだ。一たい、誰のゆるしを得て、このノーマ号のうえを歩いているのか」
「わしの気に入ったからですよ」
「なにッ」
「おどろくことはありませんや。船長さん、あなただって、この船が気に入ってればこそ、こうしてノーマ号にのって、船長とかなんとかを引きうけているのでしょう」
 竹見は、おそれ気《げ》もなく、いいはなした。
「ふふン」
 さすがに、船長ノルマンは、おちついたものである。はらを立てないで、鼻さきでちょっとわらったばかりだ。
「とにかく、貴様みたいなわけのわからない小僧には、貴重な本船の食糧を食べさせておくわけにはいかん、日本人ならともかくもだが、中国人などに、用はない」
「……」
「用はないから、貴様をかたづけてやる。わが輩の腕力が、いかに物をいうかについては、貴様もさっき舷《ふなばた》をとびこえて二匹の濡《ぬ》れねこが出来あがったことを知らないわけじゃあるまいね。どうだ」
 船長ノルマンは、さっき二人の水夫を、舷ごえに、海中へなげこんだことをいっているのであろう。
「よわい者を、おどかしっこ無しだ」
「なにを、ぐずぐずいうか」
 船長ノルマンは猿臂《えんぴ》をのばして、水夫竹見の襟髪《えりがみ》をぐっとつかんだ。怪力だ。竹見はそのままひっさげられた。足をばたばたしたが、足の先に、どうしても甲板《かんぱん》がさわらないのであった。それでは、どうすることもできない。
「さあ、どうだ。このまま舷へもっていって、ぽいとすててやろうか」
「なぜすてるのか」
「わかっているじゃないか。この船に、中国人なんか、用はないんだ。それとも、まっすぐに日本人だと、白状するか」
 ノルマンは、どこまでも、竹見に白状させるつもりだ。
「船長さん、さっきから、何度もいっているじゃありませんか。わしは日本人が大きらいなんですよ。それにも拘《かかわ》らず、あなたという人は、なんでもかでも、わしを日本人にしてしまわないと承知ができないらしい。それは無理ですよ。いや無理などころか、無茶ですよ」
 竹見は、どこまでも、中国人でがんばる決心だった。
「まだ、白《しら》ばくれて、そんなことをいうか……」
 と、船長ノルマンは、憎々《にくにく》しげにいいはなって、竹見の襟髪をもったまま、猫《ねこ》の仔《こ》でもあつかうようにふりまわした。
 竹見は、もうなにもいわなくなった。ていこうもしない。そして怪力船長の腕が、もうそろそろくたびれて、自分を下におろすだろうとまちかまえていた。が、船長ノルマンの腕は、なかなかしっかりしている。
「よオし、貴様は、日本人でないことが、よくわかったぞ」
「えっ、中国人だということがわかりましたか」
「うふん。たしかに貴様は中国人であるということにしておけ。しかしよく見ているがいい、今に吠《ほ》えつらをかかないがいいぞ。そのときは、なにをいってもおそいんだぞ。それまでは、この船で貴様を、やとっておいてやる」
 そういって船長ノルマンは、ふりかえって、いみありげに、はるか後方の海面に目をやった。
 そこには、船足のおそい平靖号の船影は、もうかなり小さくなって、おくれているのが見えた。
 ノルマンは、胸の中になにをかんがえているのであろうか。


   虎船長の決心


 こっちは、平靖号の船上。
 虎船長は、不自由な身体を、船長室の藤椅子のうえにおいて、ぷんぷん怒っている。
 その前には、ノーマ号へ派遣され、野菜などを金貨にかえてきた事務長をはじめ、一行の若者たちが、かしこまっている。
「火薬船だというが、はたして本当かどうか、なぜもっとはっきりしらべてこなかったんだ。竹見の奴が、脱船《だっせん》したい一心で、火薬船などと手前《てまえ》をつくろう手もないではないからのう」
 事務長は、髭面には似合わず、少女のようにはじらいながら、
「どうもソノ、あの場合ぐずぐずしていると、こっちの部下たちが、みんな海の中に、なげこまれそうになったもんでしてナ。なにしろ多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》というやつです。そのうえ、向こうは、なかなか手剛《てごわ》いごろつきぞろいなんです」
 と、弁解に、これとつめているが、虎船長には、はら立《だ》たしくひびくばかりだった。
「もし火薬船というのが本当のことなら、ノーマ号へのこるといった竹見の奴は、さすがにわしの部下らしく見上げた者じゃ。じゃが、あの男は、どうもたちがわるいから、俄に信用はできない」
「ええ船長、竹見のいっていることは、本当です。間違いはありません。私は太鼓判を捺《お》しますよ」
 そういったのは、竹見の相棒《あいぼう》の水夫丸本だった。彼は、竹見から、密書のついたナイフをなげつけられ、それをうまくうけとった男だ。
 虎船長の眼が、ぎょろりと光る。
 そのとき、入口の扉をノックして、入ってきたのは一等運転士の坂谷だった。
「船長。どう決心がつかれましたか」
「ああ、わが艦隊へ無電を打つことか」
 じつは、ノーマ号が火薬船だという報告があったとき、坂谷は、この事実をすぐさま、艦隊へ報告しておくのがいいと進言したのだった。しかし虎船長は、なるべく無電を打ちたくない主義だった。なにしろ中国船のつもりであるから、あまりスパイ船のようにはきはきした行動をとりたくないこともあったし、とかく無電という奴は、四方八方ひろがるので、ぬすみ聞きされる。その結果、平靖号があやしまれて、今後の行動が、制限せられるようだとこまるとおもったのである。
「ねえ、一等運転士」
 と、虎船長は、深刻な表情をして、
「やはり、艦隊へ無電をうつことは、当分見合わせよう」
「そうですか。見合わせますか」
 もと、海軍の下士官だった坂谷は、ちょっと不満のようである。
「その代り、じゃ。わが平靖号は、これから極力、ノーマ号の後をつけていくことにしよう。そして、ノーマ号がなにをはじめるかを十分監視して、確実にあやしい事実をつきとめたら、そのときは、こっちは、平靖号を犠牲にしても、艦隊へ報告する。そういうことにしては、どうか」
 虎船長は、さすがに船長らしく、どこまでも慎重にやろうというかんがえだった。慎重にやって、いよいよその場にのぞめば、大犠牲をはらう決心もしているというわけだった。
「ああ、そんなら、結構でしょう。一つ石炭をうんとたいて、ノーマを追いかけましょう」
 坂谷も、ついに同意した。水夫丸本が、にっこりわらった。相棒の竹見と、いよいよ永のお別れかと、かなしんでいたのに、ここへ来て、きゅうに、彼ののりこんでいるノーマ号を追いかけることになった。竹見に会う機会も、必ず出来るであろうと、丸本の胸は、にわかにおどりだした。
「おい、坂谷一等運転士。今のノーマ号の針路は、どっちへ向いているのかね」
 虎船長が、質問した。
「はい、さっき南西へ針路をてんじました」
「ほう、南西へ。どこへいく気かな」
「その見当では、近くに海南島がありますが、まさか海南島へは、いかないでしょう。結局、仏領インドシナのハノイか、それとも、ずっと南に下りて、サイゴンへ入るか、そのどっちかでしょうと思います。
「ふむ、どっちにしても、相当の長い航程だ。ノーマ号を見うしなっちゃ、おしまいだから、ひとつ石炭をどんどんたいて、やつにくっついて、はなれないように船をやれ」
 虎船長は、そこではじめて、にやりと笑顔を見せた。


   謎の人物


 そのころ、南シナ海を中心とする界隈《かいわい》の各国官辺すじで、ポーニンと名のる白人のことが、しきりに問題になっていた。
 ポーニン氏は、トマトのようにかおの赤い、そして桃のような白い毛が密生した、小柄の白人であった。彼は、白系ロシア人であると自ら称していたが、だれも一ぺんでそのようなことを信じる者はなかった。
 このポーニン氏は、身体の小柄ににあわず、ひどく心臓のつよい人物で、相当の金をもっているようにいっていたが、ときには宿屋の払いにもさしつかえることなどもあって、まことに複雑怪奇な人物というべき人物だった。
 彼は、なにか仕事でもさがしているらしく、しきりに南シナ海を中心に、あっちへいったり、こっちへ来たりしていた。
 さて、この物語は、彼ポーニンが、インドシナの南方の海岸サイゴン港にやってきてからのちに始まる。
 サイゴンといえば、ちかごろは、わが欧州航路の汽船でかならずよっていくという重要な貿易港であって、米、チーク材、棉花などを輸出し、パリー風の賑《にぎや》かな町で、フランスの東洋艦隊の根拠地でもある。
 フランスの守備軍司令部に属する警備庁の、奥まった一室では、長官アンドレ大佐以下の首脳部があつまって、しきりに会議の最中である。
「おい。たしかに、ポーニンにちがいないんだね。容貌《ようぼう》や、身長なども、よくしらべてみたかね」
 と、大兵肥満のアンドレ大佐が、係の警部モロにいった。
「長官閣下、そのへんは、念入りによくしらべあげてあります。容貌や身長だけでなく、指紋までもしらべました。全く、例のポーニンにちがいありません」
「じゃあ、ただ一つちがっているのは、名前だけなんだね」
「そうです。フランス氏と名乗っていますが、もちろんこれは変名です。フランス氏などという名前は、フランスにだって、そう沢山ある名前じゃありませんからね」
「よし、わかった。では、謎の人物ポーニンに相違ないものとして、話をすすめよう」
 と、長官アンドレ大佐は、大きく肯《うなず》いて、
「そこでじゃ。ポーニンが、しきりにセメントを買いあつめているというが、それは本当か」
「本当ですとも。まだ口約束だけのことですが、私の部下のしらべてきたところによると、こんなに有ります。このとおり、全部あつめるとたいへんな量です」
 警部モロは、鞄の中から、いろいろな形の紙を重ねあわせた書類束をとりだした。
「ええと、これが五百袋。こっちの商会が、千二百袋。またこっちは、三百袋。……」
「合計して、どのくらいになるのか」
「ざっと勘定しまして、九百トンです」
「ふーン、九百トンのセメントか。相当の分量だ。そんなセメントを買いこんで、どうする気かな」
「当人は、今にセメントが値上《ねあが》りするから、買《か》いしめておくのだ、といっているそうです」
「すると、値上がりのところで、売ってもうけるつもりなんだな。すると、単に、目さきの敏《さと》い商人でしかないではないか」
 長官アンドレ大佐は、そういって、卓子《テーブル》にあつまっている首脳部の人たちのかおを、ずーと見まわした。
「それは、どうもおかしいですな」
「ポーニンが、金|儲《もう》けだけに、うき身をやつしているとは思われませんねえ。イギリス大使からの内報をよんでも、単に、それだけの人物とはおもえない」
 席上では、誰も、ポーニンが、今目さきの敏い商売だけをやっているものとは信じない。
「おい、モロ警部。報告材料は、もうこれで、おしまいなのか。想《おも》いの外、すくないじゃないか」
 長官は、モロの方に不満そうなかおをむけた。
「ああ長官閣下。じつは、もう一人、報告をしてくるはずの者がいるのですが、とうとうこの時間に間にあいませんでした。すみませんです」
「もう一人というと、誰のことだ」
「は、それは……」
 といっているところへ、卓上の電話が、じりじりとなりだした。
 警部モロは、発条《バネ》じかけの人形のように、その受話器にとびついた。
「――なんだ、なんだ。ポーニンが、しきりに船をさがしているって、汽船を買いたいといっているのか。うむ、そいつは、すばらしいニュースだ」
 警部モロは、電話で相手とはなしながら、長官アンドレ大佐に、仰々《ぎょうぎょう》しい目配せをした。


   セメント問答


 怪人物ポーニン氏の行動は、もはやそのままに見のがす事はできなかった。
 警備庁長官アンドレ大佐は、うでききのモロ警部に命じて、自称フランス氏のポーニン氏と会見させることとなった。そのうえで、ポーニン氏が、なぜ九百トンもの多量のセメントを買いこんだのか、一応その事情について説明をもとめること。それと同時に、もし出来るならば、ポーニン氏は本当は何処の国籍を有する人物で、東洋へ来て、何を目標に活動をするつもりなのか、そこらのところも探偵すること。この二つのことについて警部モロは、命令をうけたのだった。なかなか容易ならぬ仕事だった。
 警部モロは、この命令をうけるや、この町に出張所を持つ極東セメント商会出張所の外交員に、はやがわりをしてしまった。この商会のセメントは、値段が高いため、前になぞのポーニン氏から一度はなしはあったが、取引はなく、そのままになっていたのである。警部モロは、またそのうち、きっとなぞのポーニン氏から口をかけてくるだろうからそのときは長官アンドレ大佐からめいぜられた任務を遂行しようと、網をはって、まっていたのである。
 もちろん、警部モロの身分については極東セメント商会の出張所長と、秘書課員だけが知っていて、他の社員には、それを知らせてなかった。それは、あくまで事を秘密にはこぶためだった。
 二三日経って、この商会へ、自称フランス氏から電話がかかってきた。それによると、セメントを購入《こうにゅう》したいが、この前申出のあった値段は高すぎるからすこしかんがえなおしてくれないか、返事を至急ほしいということだった。
 商会では、この返事をするため、警部モロがポーニン氏のところへ派遣されることとなった。すべてはかねて仕くんでおいた芝居の筋書どおりであった。
 警部モロは、ポーニン氏を、そのホテルへ訪ねていった。
 ポーニン氏は、今起きたばかりのところだといって、はれぼったい瞼《まぶた》を、こすりながら、応接室へ出てきた。
 一通りの挨拶があって、値段のはなしになったが、今度はポーニン氏の腰は、すこぶる妥協的であって、ほとんど極東セメント商会の言い値でもって、話《はなし》がまとまった。
 そのときモロはいった。
「ああもし、フランス様」
 と、ポーニンの偽名のとおりに呼び、
「じつは、手前の店の倉庫に、すこぶる格安のセメントが、相当多量にございますのですが、お買いもとめくださいませんでしょうか」
 ポーニン氏は、ぴくりと眉《まゆ》をうごかし、
「格安のセメントというと」
「さようですな、お値段のところは、まあ殆んど半額みたいなものでございます。まったく、ばかばかしい値段で……」
「それは、どうした品物かね。つまり品質のところは、どうだね」
「いや、その品質という奴が、すこし他のものとはかわって居りましてナ、そこのところが値段をお安くねがっているところでございますが、つかいみちによっては、りっぱに使えますので……」
 モロは、わざと、相手の求めているのを、知らんふりをして、自分に都合のいい方へ引張りこんでいく。なかなか達者なものだった。しかしポーニン氏も、二くせも三くせもある人物である。うまく警部の手にのるかどうか。
「値段のところは、まあどっちになってもいいんだが、普通品に比べてその品物の欠点というと、どんなことかね」
「実は二三の欠点がございます。まあしかし、そのうち主な欠点というのは、太陽の光線に会いますと、表面が白くなってまいります。つまり一種の風化作用が促進されるというわけですナ」
「ああ、太陽光線による風化作用か。そんなことはどうでもいいが、その他の欠点というのは……」
 モロは、腹の中で、にやりと笑った。
(うふ、ポーニン奴。太陽光線のことはどうでもいいといったが、するとポーニンのやつは、例のセメントを、太陽の光が届かないところで使うことを白状したようなもんだ。ふふふふ)
 だが、モロは、それを顔付《かおつき》には一向出さず、
「あとの欠点は、それほど目立ったものではありませんが――まあもう一つは、つまりソノ、潮風とか塩気に当りますと、くろい汚点が出てまいりますんで」
 といって、モロは、ポーニン氏の顔色を、じっとうかがった。


   恐ろしき予感


「黒くなるというのは、品質がかわるという意味なのかね」
 とたずねるポーニンの言葉つきには、真剣な色がうかんでいるようであった。
 モロは、腹の中で、ふふふと、微笑をきんじ得なかった。
(ははあ、ポーニンの奴は、買いこんだセメントを、海洋方面で使うんだな。とうとう大事なことを白状してしまったようなものだ。俺も、なかなか大したうでをもっているわい)
 だが、それはむねから下に、おさえておいて、
「いや、黒く色がつくだけのことで、べつに品質がかわるという意味ではございませんので……」
「もう他に、どんな欠点があるのか」
「いや、もうあとに、なにもありません」
「そうか。ではすこしかんがえたうえで、買うか買わないかを、はっきり決めよう。そのうちに、僕の方から電話をするからね」
「へい、どうもありがとうございます。どうぞよろしく」
 警部モロは、ポーニンに別れると、すぐその足で、警備庁へかけつけた。
「おい、どうだったか、モロ警部」
「ああ、長官。ポーニンの奴は、はなはだ奇怪なところへ、あの多量のセメントを売りこむようですよ」
「ふん、そうか。それで……」
「第一に、そこは太陽の照《て》っていない場所です。第二に、そこは、塩分がある場所なんです。どうです、お分りになりますか」
 アンドレ大佐は、首を横にかしげて、怪訝《けげん》なかおをした。
「なんだ、それは。まるで謎々《パズル》のだいみたいではないか。このいそがしいのに、そんな遊戯はよそうではないか」
「はははは。長官閣下、これは、遊戯的な謎々ではありません。現下の国際情勢の複怪奇性《ふくかいきせい》を解く重大な鍵の一つでありますぞ」
「ほう、モロ警部。はやく結論をいったがいい」
 長官アンドレ大佐は、自分の長い髭《ひげ》を指先で、ちょいとおしあげた。
「つまり、長官閣下、これはポーニンの買いこんだセメントが、海底でつかわれることを物語っているのです」
「なんじゃ、海底でセメントを使う?」
「そうです。そのセメントは太陽光線で風化するぞと、私はポーニンにいったんですが、そんなことは平気だ、というのです。これはつまり風化をおそれないのではなくて、そこには太陽光線がとどかないから、だからおそれないという意味なんです。太陽光線のとどかないところといえば、地底か海底か、そのいずれかです」
「なるほど、手のこんだ推理だ」
 長官は、別の髭の方に、指先をうつした。
「それから私は、潮風や塩分によって、そのセメントはすぐくろくなるぞといったのです。ポーニンは、これをきいて、くろくなるということは、セメントが分解して変質でもするという意味かと、聞きかえしました。私は、そうではない。黒ずんで見た目がわるいだけのことで、品質にはかわりないといったところ、ポーニンは、それなら自分の使い途にはさしつかえないというので、近日はっきり注文すると約束をしてくれました」
「うん」
「つまり、これで判断すると、ポーニンがこれからそのセメントをつかおうとする所は、塩気があるのです。――さきに申上げた第一で、地底か海底かのどっちかときまり、次の第二で、塩分の多いという条件が入れば、結局その答は、ポーニンのやつ、海底でそのセメントをつかうのだということになるではありませんか」
「なるほど、なるほど。それでよく分った。たった二つの質問でもって、そのような重大事実をつきとめたとは、最近モロ警部はなかなか凄腕になったものだ」
 長官からしきりにほめちぎられて、警部モロは、少々はなの先がむずがゆくなった。
「ところで、そのおくを洞察することが、肝要《かんよう》だて」
 アンドレ長官は、モロをほめるのはいい加減にして、急に方向転換した。
「えッ」
「セメントを海底へもっていって、一体何をするつもりかという問題じゃ」
「はあ、なるほど」
「なんだ、モロ警部。君が感心していては、こまるじゃないか。そのところが、事件の核心をつくものだとおもうが、君はまだその方をしらべきっていないのかね」
「はあ、まだですが……」
 といったきり警部モロは、ぼうのように固くなった。なるほど、あのセメントを海底へもっていって何をするつもりか。これはたいへんな大問題である。


   サイゴン近し


 謎のポーニン氏から、極東セメント商会の外交員を装う警部モロのところへ電話がかかってきた。
 当時モロは、店にいなかった。
 でも、モロがいなくてもポーニンからの電話には、すぐ出てくれるようにとの言伝《ことづて》が、官憲の名によってきびしく命令されていたので、その電話は、すぐさま警部モロと声音のにた秘書課のラームという社員の机上電話につながれた。
「ラームさん」と商会の交換手がいった。
「例のフランス氏こと実はポーニン氏から、モロ警部さんあてにお電話よ。しっかりして、応対してくださいね」
「わーっ、とうとう来たか。よし、おちつくぞ。――つないでもいいぞ」
 間もなく、くりッとおとがして、ポーニン氏の声がはいってきた。
「ああ、もしもし。フランスですがね。あなたはこの間私のところへ来られた……」
「ああ、そうです、そうです。えッへん」
 と、ラーム社員は、警部モロをまねて、わざとへんなせきばらいをした。
「ああ、わかりました」とポーニン氏は、へんなことに感心して、
「ところで、例の話のことですがね、すぐお出《い》でをねがいたい。場所はモンパリという料理店です。私の名をいっていただけば、すぐわかります」
「ははア、承知いたしました。す、すぐにうかがいますでございます。えッへん」
 といって、受話器をおいたが、彼の額には、玉のようなあせが行列をつくっていた。
「おいおい皆、きいてくれ。フランス氏がモロ警部に会いたいというんだが、すぐ警部に電話で連絡をつけなきゃならない。一体警部は、今どこにいっとるのか、知っているやつはいないか」
 社員ラームは、まわりの同僚のかおを、ずっと見廻《みまわ》した。
「ああ僕が知っているよ。さっき御当人から知らせがあったよ。料理店のモンパリにいるといってたよ」
「えっ、モンパリ、なんだ、同じ店じゃないか。あらためて出かけるまでもなく、モロ警部は、モンパリにいるのか。なんだかはなしがへんだね」
「すこしも、へんじゃないよ。モロ警部は、実は昨日から、ずっとフランス氏のあとをつけてまわっているんだよ。今の電話も、当人のモロ警部が、机の下かなんかにはいこんだまま、お先へ聞いてしまったかもしれないよ」
「うむ、なんでもいいから、すぐモンパリへ連絡しなきゃ、あとで大へんなおしかりに会うぞ」
 ラーム社員は、また電話器をとりあげて、料理店モンパリへの連絡をたのんだ。
 ところが、電話が話中で、なかなか相手が出て来ない。ラーム社員は、髪の毛をむしって、じれた。
 丁度そのころ、このサイゴンの港から三十キロの海上を、問題のノーマ号と平靖号とが、おしどりのようにつながって、西に航行していた。もう夕刻に近かった。
「おいおい、竹!」
 呼んだのは、船長ノルマンであった。
 竹とよばれた水夫の竹見は、巨人のハルクと繋索《けいさく》の手入れをしているところであったが、うしろを向くと、そこに船長ノルマンが立っているので、また例の皮肉な用事かと、舌うちをしながら立ち上った。
「なにか御用ですかい。こんどは、トップスルまで、十五秒半でのぼって御覧に入れますかい」
「だまって、わしについてこい。面白いものを見せる」
「面白いもの?」
 どうせ、真直に面白いものではなかろうが、そういわれると、見ないではいられない。水夫の竹見は、ハルクの方へ、それと眼くばせしてから、船長のうしろにしたがった。
「まあ、入れ」
「はあ。ここは船長室ですか」
「ふん、それがどうした」
「いやに綺麗ですね。へえ、今夜はなにか始まるんですか。これは小型映画の機械じゃないですか」
 竹見は、卓上にのっている小型映画の映写機をさした。
「ははあ、おまえ、なかなかインテリだな」
「いえ、わしは活動の小屋で、ボーイをしていたことがあるんで」
「なんでもいい。面白いものを見せるといったのは、サイゴンに入港する前、お前にぜひ見せておきたいフィルムがあるんだ。今うつすから、まあそこで見ていろ」
「えっ。船長さん、おどかしっこなしですよ」
 竹見が、椅子のうえにこしをおろすと、室内がぱっとくらくなって、スクリーンに映画がうつりだした。海の映画だ。
「あっ、あの船は!」
 竹見は、おもわず、大きなこえを出した。


   おお平靖号《へいせいごう》


「あっ、あの船は!」
 と、竹見がさけんだのも道理であった。スクリーンのうえに、とつぜん現れた汽船は、これぞ竹見が先に乗組んでいた仮装中国貨物船の平靖号であったではないか。
 そのとき、竹見の背後で、船長ノルマンの、ふふふふと、うすわらいをするこえが聞えた。
「船長さん。いまうつっているのは平靖号だが、いつ撮影したんですか」
 と竹見は、たずねた。
「まあ、しずかにして、もっと先を見ているがいい」
 船長のこえは意地悪い調子をおびていた。
 映写機はことこととおとをたて、フィルムをくりだす。竹見は、だんだん目を大きく見開いて、画面にすいつけられたようになっている。
 画面の平靖号は、かなり大きくうつっていた。船長が、ほとんど画面の全部をうずめているくらいの大きさだ。どうやら、これは倍率の大きい望遠レンズのついた器械でうつしたものらしい。
 そのとき、竹見がふと気がついたのは、平靖号の船腹に、一隻のボートが、大きくゆれながら、繋留《けいりゅう》していることだった。そのボートには、不似合いな大きなはたが、はためいていた。
(おお、あれは軍艦旗のようだ!)
 竹見は、どきんとした。いやなところを、船長ノルマンはうつしたものだ。これはどうやら、平靖号が、岸少尉の指揮する臨検隊を迎えたときの光景ではあるまいか。なぜノルマンは、こんなところを、映画にとっておいたのか、ふしぎでならない。
 すると、画面は一変して、甲板《かんぱん》の大うつしとなった。また更に倍率の大きいレンズを、つぎ足したものとみえる。
 甲板に整列している乗組員は、いずれも見覚えのある同志ばかりだった。両脚のない虎船長が、船員にかかえられて甲板に姿をあらわした。すると、画面に岸少尉が出てきた。つかつかと虎船長のところへ寄ると、しっかと握手をして、つよくふった。感激に虎船長の顔が歪《ゆが》んだようになるところまでが、いやにはっきり画面に出てきた。
 画面は、それから下方に動いて、岸少尉一行がボートへ乗りうつるところがうつり、それから画面はまた甲板にもどって、虎船長の感激のなみだにぬれた顔やら、幹部の万歳をとなえて手をあげるところや、はては水夫竹見のすがたまでがうつったものであるから、竹見はもうびっくりしてしまった。
「ふふふふ、どうだ、この映画は、さぞ貴様の気に入ったろう」
「うむ――」
 船長ノルマンの皮肉な台詞にたいして、竹見は目を白黒するより外なかった。なぜ船長ノルマンは、こんな映画をとったのであろう。そしてまた今、わざわざ竹見をよんで、強制的に見せたのであろう。これは油断がならないぞと思った瞬間、竹見の腹の中は、熱湯が通ったようにあつくなった。
「わしには、よく分らないが、平靖号を映画にとるなんて、フィルムの方が勿体《もったい》ないじゃないですか」
「ふふふふ。相手は平靖号だから、こうして貴重なフィルムをついやすだけの値打があるわけさ」
「ふん、ばかばかしい。きつい道楽というものですよ。とび魚のとんでいるところや、甲板を怒濤があらうところなどをとっておいた方が、よほど値打がありますよ」
「あはははは。そう狼狽《ろうばい》しないでもいいじゃないか。この映画を見れば、平靖号の乗組員が、本当の中国人か、それとも偽せの中国人だか、よく分るのだ。これほど値打のある映画は、そうざらにあるものか」
 そういって、船長ノルマンは、映写をとどめ、まどをあけて室内を明るくした。竹見は、ここでノルマンにとびつき、首をしめてやろうかとおもったが、むこうでも油断なく竹見の方に気をくばっていて、すぐにもピストルをつきつける用意のあるのが見えた。
(もう、これは諦《あきら》めるしかない)
 えい、竹見は嘆息《たんそく》した。たしかにこの映画をみると、一同が日本人であることは、明白であった。
「船長さん。わしにこんな映画を見せて、それでどうしようというのですか」
 竹見は、自分からお先に切り込んだ。
「ふふふふ。貴様はなかなかはなせる男だぞ。そこでこっちのたのみというのは、平靖号まで貴様に、使いにいってもらいたいのだ」
「なに、わしに平靖号へ、つかいにいけというのですかい」


   憎むべき恫喝《どうかつ》


 船長ノルマンがとつぜんいいだした用件というのは、竹見に平靖号へつかいにいけという意外な用事だった。
「そうだ、平靖号へいって、船長に、こっちの用件をつたえてくれ。その用件というのは、平靖号はこれからサイゴンに入港し、貨物を全部売りはらうか下《おろ》すかして、そしてあらためて新しい貨物をつんで出航してもらいたいのだ」
「なんです、それは……」
 竹見は、急にノルマンの言葉がのみこめないという風だった。平靖号の積荷を、そう勝手に下ろしたり、変えたり出来るわけのものでない。
「はやくいえば、サイゴン港において、平靖号をやといたいのだ」
「ああ、雇船《やといせん》となるのですか。そいつは駄目だ」
 竹見は、首を左右に振った。平靖号には、特別の使命がある。それをノールウェーの汽船なんかの船長に雇われて、航海をつづけるなんて、そんなことは出来ない。
「やかましいやい」船長ノルマンは、地金《じがね》を出して、厳しい口調で竹見をどなりつけた。
「貴様に平靖号をやとうから承知をしてくれなどといっているのじゃない。むこうの船長に、こっちの命令をつたえりゃ、それで貴様の役目はすむんだ」
「命令? 平靖号がそんな不法な命令を聞く必要がどこにあるものですか」
 船長も竹見も、どっちもかおをこわばらせて、言いあった。
「これは命令だ。このノルマンの命令なのだ。平靖号の船長が、それを聞かないといったら、こういってくれ。“しからば、こっちは、お前の船が、中国人を装った日本人の乗組員でうごいていることを、むこうの官憲に知らせてやる。こっちには、それを証拠だてる映画があるぞ”と、そういってやるのだ。映画のことは、貴様に見せておいたから、どの位の値打のある映画だか、貴様から、よくはなしてやるんだ」
「それは脅迫《きょうはく》だ。恫喝だ」
「ふん、なんとでもいえ。わしは、一旦決心したことは、やりとおす主義だ。さあ、これからすぐ用意をしろ、本船は、間もなく平靖号に接近して、停船信号を出す」
 竹見は、なにもいわなかった。いっても無駄であることが、よくわかったのだ。船長ノルマンは、おもったよりすごいやつであった。一目で、平靖号の秘密をさとり、そしてそれを利用するため、その重大光景を映画にとっておいて、今それをつかおうとするのだった。
 竹見は、ノルマン船長の命令どおり、つかいにいくしかなかった。
「仕方がない。じゃあ、平靖号へつかいにいくことにします」
 と、わるびれずにいった。
 それを聞いた船長ノルマンは、大よろこびであった。早速彼は電話器にかかって、平靖号への接近を命令した。船は、すぐさま針路をかえ、そしてスピードを高めた。そしてヤードに新しくあげた信号旗をびらびらさせながら、平靖号の方へ近づいていった。
 竹見は、身軽にふなばたに立って、近づく平靖号を、じっと見下《みお》ろしていた。
 船長ノルマン、なぜきゅうに、平靖号への使者を出して、雇船を申し出たのであろうか。
 これより一時間ほど前、船長は秘密符号から成る電報をうけとった。その電文によると“サイゴン港で、急に貨物船を雇う必要ができたから、海上において、至急、貨物船をさがしてくれ”といういみのことがしるされてあった。発信人の名は、もちろん秘密符号でしるされてあったが、それを解いてみると、ポーニンと出た。
 ポーニン!
 ポーニンといえば、フランス氏と仮りに名をかえ、サイゴンでしきりにセメントを買いこんでいるあの怪人物だった。
 汽船ノーマ号の船長ノルマンと、怪人ポーニンとは、こんど始めての取引ではなかった。その間をあらえば、おどろくべき両人の深い関係があらわれてくるであろう。
 それにしても、奇怪さを倍加したのは、ノルマン船長である。ノールウェーの汽船が、ソ連の密使といわれるポーニンとの間に相当ふかい連絡があるというのは、一たいどうしたことであろうか。
 水夫の竹見はおもいがけなく、ふたたび平靖号の甲板をふんだ。
 同志たちは、いずれも竹見を歓迎してくれた。そして、彼が火薬船だと知ったのは、どういうわけかなどと、質問をかけられたが、竹見は、それにはこたえず、虎船長のもとへいそいだ。
 虎船長は、それこそ猛虎が月にほえるような大きなこえを出して、ノルマンの無礼極《ぶれいきわ》まる命令を一蹴《いっしゅう》した。


   奇妙な相談


 竹見は、虎船長とノルマンとの間にはさまって、まったくこまってしまった。
「船長。ああいう場面を撮影されちまったんですから、サイゴンに入港するとたんに訴えられ、そこでそのまま拿捕《だほ》されてしまいますぞ」
「いや、われわれ日本人は、東洋水面において、他国人から威嚇《いかく》される弱味は、なんにも持っていないんだ」
 虎船長は、きっぱりとそういって、ノルマンの申入れをしりぞけた。このことは、早速ヤード上の信号旗によって、船長ノルマンへ通じられた。
 すると、折かえしノルマンから、返事がおくられてきた。
「例の映画を、平靖号の行くさきざきへ配布して、寄港を妨害するがよいか」
 これに対して、平靖号からは、
「勝手にしろ、船長ノルマン」
 と、やりかえした。そして虎船長は、ノーマ号の火薬に、何とかして火をつけて撃沈させる工夫はないものかと、思った。
 すると、またもや、ノルマンからの信号がやってきた。
「では、已《や》むを得ない。貴船は、あと五分ののち、撃沈されるであろう。嘘だと思うなら、貴船の左舷前方の海面を、仔細《しさい》に観察してみるがいい」
 すこぶる気味のわるい警告であった。虎船長は、すぐさまこのことをしらべるよう、命令した。
 ところが、間もなく伝声管が鳴って、船橋から、たいへんな報告がとどいた。
「船長。潜水艦がいます。ノーマ号から注意のあったとおり、本船の左舷前方、わずか五百メートルのところに、潜望鏡が見えます」
「なに、潜水艦が、本船を狙って五百メートルの近くに……。うむ、そうか」
 虎船長は、身体をふるわせて、いきどおったが、どうすることもできない。ノールウェーの汽船だというノーマ号が、潜水艦と結んでいるなんて、へんなことだ。すると、ノーマ号はノールウェーの汽船ではないのかもしれない。
 潜水艦の襲撃をうけて、ここで沈没したのでは、せっかくここまで出かけた平靖号の使命は、それこそ文字どおりの水の泡となってきえてしまう。虎船長は、無念やる方なく、しばし黙考していたが、しばらくして、幹部を呼んで評定《ひょうじょう》を開いた。その結果、あらためてノーマ号に対して、信号を送ることとなった。
 信号旗は、三度ヤードのうえに、するするとあがった。
「貴船の申入れを大たい諒承《りょうしょう》した。くわしい返事は、水夫竹見を通じて申入れるから、しばらくまたれよ」
 事実上、平靖号は、まんまと船長ノルマンの毒牙《どくが》に、かかってしまったわけだった。南シナ海方面で大いにあばれるつもりだった仮装中国汽船の平靖号も、ついにつまらない運命におちこんだ。そして水夫竹見は、虎船長の返事を持って、再びノーマ号へ、かえっていくことになった。
 ここではなしは、サイゴンに飛ぶ。
 怪人ポーニンは、フランス氏と仮称して、モンパリにおさまっていた。セメント会社の社員に化けている、警部モロは、ポーニンの室の前に現われ、とびらをたたいた。ポーニンがモロを呼びつけたのであった。用件は、多分例の安物のセメントの買いつけのことであろうとおもわれた。
「やあ、フランスさん。さっきはお電話を、ありがとうございました。急なお呼びは、何の御用ですか」
 と、警部モロは、商人らしい口のきき方をした。
 すると、ポーニンは、いやににこにこ顔で、
「おいそがしいところをよびつけて、すみませんなあ。じつはおり入って、あなたに相談があるんです」
「はあ、セメントの値段を、もっとまけろとおっしゃるのですか」
「いや、その話は、べつです。後でしましょう」
「ははあ、セメントのはなしでないというと、はて、どんなことでしょうか」
 警部モロは、ポーニンが何をいい出すかと、非常に興味をおぼえた。
「いや、外でもないが、あなたに大金儲けをさせたいんです」
「大金儲け? ほう、この私にですか」
「そうですとも、それには、あなたに、今つとめているセメント会社をやめてもらって、その代り、私の所有船の船長になってもらいたいのです」
「えっ、セメント会社の社員をやめて、船長になれというんですか」
「私のもうけの二割を、あなたに提供します。数十万フランにはなるでしょう」
「一体その船は、何という船ですか」
「私が買う以前は、平靖号という船名を持っていた中国の貨物船なんです」


   勇士の途《みち》


 平靖号のうえでは、水夫竹見をノーマ号におくりかえして、船長ノルマンの申入れを承諾することに決していながら、なおも議論は、沸騰《ふっとう》した。
「ノーマ号に屈服するなんて、なにがなんでも、あまり情けないことです。船長、わが平靖号が日本を出発するときの、あの天をつくような意気は、どこへおとしてしまったんですか」
「かりそめにも、ノールウェーの一汽船のため、あごでつかわれるとは、日本男児のはじです。あとのことはあとのこととして、サイゴンへ入らないうちにノーマ号の中へ斬りこんでは、どうでしょう」
「そうだ。それがいい。平靖号をノーマ号のそばへ持っていって、いきなりぶっつけるのもいいとおもう。竹見のはなしによると、むこうの船は、火薬船だということだから、こっちからぶっつけたとたんに、火薬が爆発して、船長ノルマンはじめ船もろともに、空中へふきあげられてしまうだろう。ねえ、船長。それをやってみようじゃないですか」
 なにしろ血の気が多くて、祖国日本をとびだした連中のことだから、平靖号が、ここでノールウェー汽船の雇船《やといせん》になっておわるというのでは、躍る血潮の持っていきどころがない。だから一つの議論が、さらに二つの議論を生むという調子で、船長室の中は、われるようなさわぎとなった。
 虎船長は、若者たちの、熱血あふるる言葉を、じっと目をつぶって、聞いていた。事務長その他、高級船員は、むしろ、若者の留《と》めやくにまわったのであるけれど、自分たちとても、もともと胸中にたぎる武侠精神《ぶきょうせいしん》の所有者だったから、あたまから、若者たちをしかりつけるわけにはいかない。もうこの上は、虎船長の裁断《さいだん》をまつよりほかに、手段はなかった。このとき船長は、やっと両眼をぱっと開き、一座をずっと見まわすと、
「おう、聞け。さいぜんから、お前たちのしゃべっていることは、わしのこの胸の中に、ちんちん煮えたっているものと、全く同じことじゃ」
 そういって、虎船長は大きな拳固《げんこ》をかため、自分の幅広いむねを、どんとたたいた。
「じゃあ、船長……」
「まあ、聞け」と虎船長は、制して、
「だが、われわれは匹夫《ひっぷ》の勇をいましめなければならない」
「えっ、いまさら、匹夫の勇などとは……」
 若者連中は、匹夫の勇といわれて、おさまらない。
「まあ、しずかにしろ。――これが、わが平靖号の壮途《そうと》の最後に近い時ならば、それは、だれかがいったように、こっちの船体を、ノーマ号の船体にぶっつけ、ともに天空へふきあげられてけむりになってしまうのも、わるくない。だが、かんがえてもみろ。平靖号は、まだやっと祖国の領海をはなれたばかりのところじゃないか。壮途にのぼりながら、まだ一回も、壮途らしいことをやったことがないのだ。おい、そうでないというやつは、いないだろう」
 それは、そのとおりにちがいない。平靖号が航海にとびこんでからこっち、多少、風浪《ふうろう》ともみ合ったり、横合《よこあい》から入って来た危難を切りぬけるのに、ほねをおったぐらいのことで、こっちから仕かける壮途らしいことは、ただの一回もやったことがないのだ。この虎船長のことばには、だれも反対をとなえる者がいなかった。
 それと見定《みさだ》めたうえで、虎船長は、こえをはりあげていった。
「なにごとも、自分のおもいどおりになるものじゃないのだ。全力をつくしても、そこには運不運というやつが入ってくる。時に利のないときにも、かならず突破しなければならぬとおし出していくのは、猪武者《いのししむしゃ》だ、匹夫の勇だ。すすむを知って、しりぞくを知らないものは、真の勇士ではない」
「じゃあ、船長は、どうしろというのですかい」
 若い船員は、虎船長の長談議にしびれを切らして、こえをかけた。
「だから、わしはお前たちに、かんがえなおせというのだ。あんな不利な映画まで撮ったノルマンという船長は、只者《ただもの》ではないぞ。汽船《きせん》だって、ノールウェー汽船といっているが、そうじゃあない。ここは、こっちの負けだ。こっちに油断があったのだから、仕方がない。負けを負けと承知して、しばらく運とともにながれてみようじゃないか」
「運とながれるって、船長、どうしろというのですか」
「つまり、しばらくノルマンのいいなり放題になっていることさ」
「ううん、癪《しゃく》だなあ」
「そうして様子をうかがっていれば、そのうちに、むこうにきっと、油断ができるにちがいない。そのときこそは、わしが号令をかけるから、そこでみな立って、日東健児の実力をみせてやるのだ。わしの好きな大石良雄はじめ赤穂四十七義士にも、時に利あらずして、雌伏《しふく》の時代があったではないか」


   サイゴン港


 虎船長の説得が、功を奏して、さしもの平靖号の若者たちも、別人のように、しずかになった。
 竹見水夫も、妙にはにかんだようなかおをして、ふたたびノーマ号への使者となって、ボートにのって出かけた。
 船長ノルマンは、竹見の口上をきいて、わがことなれりと、大よろこびだ。
「うわっはっはっ。はじめから、あっさり、それを承知すればいいのに。つまらんことで、いい加減、手数をかけやがった。さあ、おくれた船足をとりかえして、先へいそごうぜ」
「はい、はい。心得ました」
 一等運転士は、操舵《そうだ》当番へ、大ごえで進航命令を下した。それと同時に、平靖号へも、全速力で、ノーマ号の先登《せんとう》に立って、ドンナイ河の河口をさかのぼるようにと、信号旗を出した。
 目的地のサイゴン港は、ドンナイ河をさかのぼること六十キロのところにある。つまり、陸岸にはさまれた河のみなとで相当まがりくねっている。だから、港の中は、たいへんおだやかである。軍港はすこしはなれたところにあるが、こっちの港には、大小おびただしい数の汽船が、安心し切ってぎっしりと舷と舷とをよせ合って、碇泊《ていはく》している。
 平靖号は、後から監視の目を光らせているノーマ号からの指令にしたがって、なにごとにもさからわず、命令どおり忠実に港へ入っていった。連日みたし切れないむねを持てあましていた平靖号の船員たちも、異色ある亜熱帯地方の風物が、両岸のうえにながめられるようになって、すこしばかし、なぐさめられた。
「いよいよ、やってきたぜ。あれみろ、妙なかっこうの寺院みたいなものが見えらあ」
「ふん、あれはノートル・ダムだろう。おれたち俘虜《ふりょ》ども一同そろって、はやく武運をさずけたまえと、おいのりにいこうじゃないか」
「やかましいやい。捕虜だなんて、おもしろくねえことを、いうもんじゃない」
 そのうちに、両船は相前後して、投錨《とうびょう》した。お互いに、すねにきずをもっていることとて、仏官憲の臨検《りんけん》を、極度に気にした。だが、そこはどっちも、相当のしたたかもののことだから、なんとかかんとかいって、うまく仏官憲を丸めて、退船してもらった。狐と狸とで、同じ人間を化かしっこしたようなものだった。臨検官は、御丁寧にも二重に化かされていながら、なんにも気がつかないというのだから、まことに御苦労さまな次第だった。
 怪人ポーニンが、平靖号にのりこんできたのは、その夜《よ》ふけてのことだった。
 丁度《ちょうど》虎船長は、明日積荷を売るについて、その準備に、帳簿と書類の間にうずもれて、きりきりまいの最中だった。そこへ、当直の二等運転士が、注進のため、船長室へとびこんできた。
「船長。いよいよ来ましたぜ。船長ノルマンが、七八人ひきつれて、船長に会いたいといってやってきました。竹見の奴も、いけしゃあしゃあと、案内に立っていやがるんです」
「なに、もうノルマン一行が来たか。おい、事務長。ここはいいから、お前がすぐいって、応接しろ」
 そういっているところへ、ノルマン以下は、竹見を先に立てて、つかつかと、船長室へふみこんだ。
「おい、竹。どれが船長だ」
 竹見は、唇をぎゅっとかんで、無念そうにノルマン船長の命令を、きいている。
「そこにすわっているのが、虎船長です。両脚がないんだから、椅子から下りて、気をつけをしろなどとは、いわないようにねがいますよ」
「ふん、そうか。わしは、足のない船長に、用事をいいつけようとはおもわない。新しい船主のフランス氏も、同じことをいっていられるよ」
 ポーニン氏は、眼をぎらぎら光らせながら、虎船長の、こしから下を、見ていたが、
「なるほど、これじゃあ、船長のやくめをやってもらうのは気のどくだ。よろしい。この船は、貨物ぐるみ、一千五百フランで買うことにして、このロロー氏を、新たに船長に任ずる。よいかな、虎船長とやら」
 よいもわるいもない。虎船長は、フラン紙幣をうけとって、その代り、船長の服と帽子とを、ロロー氏に手わたした。
「たしかに、引きうけました」
 と、ロロー氏は、にこにこがおでいって、虎船長の手をにぎった。ロロー氏というのは、外でもない。警部モロの変名だった。


   新船長


「ええ、船主のフランスさま。この船が、つんでいる雑貨は、どのくらいの利益で、売りはらえばいいですかなあ」
 警部モロは、虎船長がまだ、しょうちしたともいわないさきから、もう船長気取りで、船主となったポーニンに、相談をかけた。
 虎船長も、さすがに、ゆがんだかおで、この場の成行《なりゆき》をじっと見おくっているばかりであった。だから、若《わか》い船員たちは、或る者は、紙のように白い顔となり、また或る者は朱盆《しゅぼん》のように、真赤な顔になっていた。一等運転士が、それをしきりに、止めている。
 フランス氏を名乗るポーニンは、にやりにやりと、あたりをながめまわし、
「いや、本船の積荷を売りはらうことは、いずれゆっくり、かんがえることにして、まず大いそぎで、この積荷を下ろしてもらいましょう」
「へえ、すぐというと、今夜にもといういみですか」
「そうです。夜分の荷役《にやく》は、なかなかむずかしいというかもしれないが、やってやれないことはない。さあロロー船長。はじめて船長になったあなたのうでだめしだ。すぐはじめてください」
 ポーニン氏は、平靖号の荷を下ろすのを、たいへんいそいでいる様子だ。
「下ろしただけで、いいのですか。そんならやりましょうが、下ろしたあとで、船員たちの労をねぎらう意味で、酒をのませてやってください」
 と、新船長さんは、なかなかぬけ目がない。他人のふんどしで、相撲をとるのたぐいであった。
「酒? 酒はのませるが、もっと後のことだ」
 ポーニンは、難色《なんしょく》をしめした。
「もっと後とは、いつのことですか。酒なんてものは、はやい方がいいのだが……」
「それは、私がゆるしません。酒をのめば、仕事をする力がなくなる。ここはなんでも、私の命令どおり、まず雑貨をいそいで下ろし、それに引きつづいて、セメントをいそいでつみこんだ上で、酒宴《しゅえん》をゆるすことにしましょう」
「ははあ、セメントを、はやくつむことが必要なのですね。どうして、そんなにセメントをはやくつみこまなければならないのですか」
 警部モロらしい質問のもっていきかたであった。
「それは、こっちに必要があるからだ。そうすれば、ロロー船長、あなたのもうけも、うんとふえる」
 そうはいったが、それは返事になっていないようであった。
「私も、大金儲けはしたいですがね」と、警部モロは、わざとにやりと笑顔をつくり「だが、船長となった以上は、船員の厚生福利をかんがえてやらねばなりませんでねえ。まるで牛馬か人造人間のように、部下を使役することは、できません。もっともこれが船火事になったというような非常時なら、べつですがね」
 船長ロロー役の警部モロは、下心《したごころ》があって、なかなか怪人ポーニンの意にしたがわない。
 ポーニンとしては、ロローに金もはらったことだし、今さら予定を変えることもできないので、だんだん船長ロローにひきずられていく形となった。
「うう、こまったやつだ」
 と、ポーニンは首をふって、
「おい船長。われわれは、いま事業のうえで、非常時に立っているのだ」
「どうも、わかりませんね。雑貨をセメントにつみかえることが、なぜ非常時なんですか。私は船長として、部下にたいし、わけのわからないことに、無闇《むやみ》に力を出せとは、命令しかねます」
「どうも、こまったやつだ」
 と、さすがの怪人ポーニンも、ここでいらだたしさを、かくすことができなくなってしまった。
「じゃあ、仕方がない。おい、船長ロロー。君だけに、わけをはなそう。他の者は、ちょっと、この部屋から、出ていってくれ」
 といって、ポーニンは、虎船長をはじめ余人を、ことごとく去らしめ、そのうえで、なおもこえをひそめて、モロにいうには、
「君、こまるじゃないか。すこしは、こっちのむねの中《うち》を察してくれなくちゃ。日ごろ、あたまのいい君にも似合《にあ》わないぜ」
「一体どうしたというんです。そのわけというのは」
「あべこべに、取調べをうけているようなかっこうだ。いやだね」
 と、ポーニンは、あごへ手をやって、
「じつは、こうなんだ。私が今、うけおっている仕事というのは、海の底に、潜水艦の根拠地をつくるという大仕事なんだ」
「ええっ、海のそこに、潜水艦の根拠地を? 一たいそれは、どこの国の計画なんですか」


   身辺《しんぺん》の危険


 怪人物ポーニンと警部モロとの間に、どんな程度のはなしがとりかわされたかは、つまびらかでない。が、とにかく二人は、間もなく平靖号の船長室から、至極仲がよさそうに、すがたをあらわした。
 もとの虎船長、つまり虎松《とらまつ》となにか無駄話をしていたらしいノーマ号の船長ノルマンは、これを見ると、立ち上って、
「どうしました。荷あげのはなしは?」
 といった。ノルマン船長も、ポーニンには一目も二目もおいているらしい様子だ。ポーニンは、にやりと、うす気みわるいわらいをもらし、
「ふふん、どうもこうもない。計画したことは、途中でどんな邪魔がはいろうと、かならずその計画どおりにやりとげるのが私の主義だ」
「すると、すぐ、この平靖号の荷役がはじまるというわけですな」
「もちろん、そのとおりだ。君の船からも、出せるだけの人数を出して手つだわせてもらおうかい。あの方の仕事は、一日でもはやくかからないと間に合わないからね」
「はい、わかりました。では、帰船して、力のあるやつを、できるだけたくさんかり出しましょう」
「うん、そうして呉《く》れ、私も一しょに、君の船へいこう。ほかに、すこし相談したいこともあるから……」
 怪人物ポーニンは、警部モロや、虎松以下の乗組員におくられ、船長ノルマンとともに、平靖号を退船した。
 あとで、平靖号のうえでの、ひそひそばなし。
「なんだい、あの白人は。いやに、すごい目を光らせていたじゃないか」
「あいつが、この船を買って、セメントをつみこむんだとさ。どうも、この平靖号もおかしなまわりになってきたのう」
「虎船長にもう一度いって、今夜のうちに、サイゴンからずらかることにしちゃ、どうかな」
「そうもなるまい。ノルマンのやつは、どうやらこの土地でも、にらみが利く男らしいから、うっかりしたことはできない。まあ、虎船長のはなしじゃないが、こちとらは時節をまっているんだね」
「どうも、いまいましいあのノーマ号だ」
 さだめし、ポーニンとノルマンは、小艇をノーマ号の方へ走らせながら、たびたびくさめを催したことであろう。
 そのポーニンとノルマンは、小艇のうえで、ぴったりよりそって、ぼそぼそと、秘密の会話をつづけている。
「とにかく、私の失策だ。どうも、すこし功をいそぎすぎた恰好《かっこう》だ」
 そういったのは、ポーニンだった。
「どうもよくのみこめませんが、一体どういうわけで……」
「さあ、それだがねえ、ノルスキー」と、ポーニンは、船長ノルマンのことを、ノルスキーと呼んで、「ちょっと頭脳《あたま》がきくやつだとおもったから、これは金さえくれてやれば、うまくこっちの役に立つとかんがえたんだ。まさか、そのすじのものとは、おもわなかったよ。つまりあの船長ロローは、そのすじのまわし者にちがいないということが、はっきりしたんだ」
「へえ、おどろきましたな。どうもまずいことになったものだ」
 本名ノルスキーの船長ノルマンは、ちょっと、くさった様子であった。
「船員に酒をのませろとかなんとか、いいがかりをつけて、そのじつ、こっちの仕事の様子をさぐるのが彼奴《きゃつ》の目的だった。さすがは商売だけあって、はじめのうちは、至極《しごく》すらすらと、私にしゃべらせおった。近ごろにない私の大黒星だ」
 二人の話していることは、警部モロの身の上にちがいなかった。モロの追窮《ついきゅう》があまりにきびしかったので、ポーニンもようやくそれと、彼の素性《すじょう》に気がついたのであった。
「このうえは、彼奴を、なんとかしなければなりませんね」
「そうだ、そのことだ」
 とポーニンは、またさらに顔をノルマンの方に近づけ、
「さっきから、それをかんがえていたが、こういうことにしようとおもう。耳をかせ」
 ポーニンは、船長ノルマンの耳に、なにごとかをささやいた。
 すると、ノルマンは、急にはっと息をとめ、
「えっ、青斑《あおまだら》の毒蛇《どくじゃ》を……」
「これ、声が高い!」
 ポーニンは、ノルマンの口に手をあてて、あたりへ気をくばった。


   雑草園《ざっそうえん》


 サイゴンの港湾部や税関の方へは、うまくはなしをつけたものと見え、それから夜にかけて、平靖号の搭載貨物の大荷役《だいにやく》が、たいへんなさわぎのうちに行われた。
 ノーマ号の船員や水夫たちも、やむを得ず自船《じせん》に停らなければならない者のほかは、全部平靖号へ出かけ、荷役を手つだった。
 船と陸とには、おしげもなく灯火がてんぜられ、まるでみなとまつりの予行演習であるかのようにおもわれた。
 荷役は、深更《しんこう》までつづいた。
 竹見水夫も、あせみどろになって、船と陸との間を何十回となく往復した。
 巨人ハルクも、もちろん、労働の花形であった。彼は陸上の倉庫の方ではたらいていた。
 警部モロは、ポーニンの口から重大な秘密をきいたので、これを何とかして、本部へ知らしたいものと、荷役の指揮をとりながら、しきりにじれていたが、船長ノルマンやポーニンのめが、いっかなそれをゆるさず、そのために、モロは、いくたびも、海へとびこみたくなったほどである。
「どうですな、ロローさん。船長のやくわりというやつは、なかなか大したものでしょうがな」
 ポーニンは、わざとモロのそばへすりよって、そんな風にはなしかけた。
「なあに、大したことはありませんや。このあんばいじゃ、夜明けまでにかたづくでしょう」
「いや、私はもっとはやいような気がする。もう下には、いくらも貨物がのこっていませんよ。すめば、あなたの申出があったように、酒を出します」
「ああ、酒なんか、もうどっちでもいいです」
「いやいや、御遠慮はいらない。倉庫のところからすこしいったところに、あなたも知っているでしょうが、雑草園という酒場がある。あそこへ酒の用意をさせましょう」
「えっ、雑草園ですか。もう、そこへ酒をたのんだのですか」
「いえ、これからたのむところです」とポーニンはいったが「そうだ、あなた一つ雑草園へいってたのんでみてくれませんか。こっちの荷物は、もういくらもなさそうだから、あなたがいないでもいいでしょう」
「そうですね、いってみますかねえ」
 と、警部モロはこたえたが、そのじつ彼は心の中で、たいへんよろこんでいた。いよいよだれにも気づかれず、至極《しごく》自然に上陸ができることになったのだ。
 警部モロが、いそいそと舷側《げんそく》を下りて、小艇の中にすがたを消したのを見すまして、平靖号の甲板《かんぱん》のうえから、それを見おくっていたポーニンとノルマンは、してやったりと、目を見合わせてにやりとわらった。
「うまくいきそうですね」
「ふむ、やっこさん、雑草園へいけば、きっとガーデンの卓子《テーブル》の前にこしかけて、一ぱいやりたくなるにきまっている。そのとき、なんとかいった大きな男が出ていって、うしろから知れないように、うまくやるだろう」
「ああ、あれは巨人ハルクです。青斑《あおまだら》の毒蛇《どくじゃ》は、ハルクにわたしておきました」
「ハルクか。そのハルクは、きっとうまくやるだろうね。毒蛇を仕こんでおいたステッキの蓋《ふた》の明け方を、彼はよくおぼえただろうね。あれは、知らない者がやっても、決して明かないように、複雑な機構にしてあるんだ」
「あの明け方は、一度や二度きいたのでは、おぼえきれませんよ。ですから、私は、予《あらかじ》め蓋をもうすぐ明くというところまで外して、ゆるめておきました」
 と、船長ノルマンは、したりがおにいった。毒蛇は、仕掛のあるステッキの中に入れてあるらしい。一体、その毒蛇を、どのようにつかうのであろうか。
「それは危険だ!」
 と、ポーニンが、まゆをつりあげていった。
「それは危険だ。もし、ステッキの蓋が外れて、毒蛇がはい出す。そして、ハルクにかみつくと、ハルクが死んでしまう。すると肝腎《かんじん》の船長ロローをかたづける計画が、だめになってしまう」
 船長ノルマンは、しばらくだまっていたが、
「そんなに心配なら、私も上陸しましょう。そして、もしハルクが、やりそんじたら、こいつでかたづけてしまいましょう」
 と、胸のポケットの上をたたいた。そのポケットの中には、彼ら一派が愛用している万年筆の形をした消音小型ピストルが入っていた。
「それをこんなことにつかうのは、感心しないぞ」とポーニンは、くびをふった。「弾痕《だんこん》や弾丸から、われわれが何処の国籍の人間か、すぐ判断されてしまう」
「じゃ、彼奴《きゃつ》のうしろへまわってくびをしめましょう。そしてだれにも気づかれぬうちに死骸《しがい》をうまくかくしてしまいましょう。われわれの出帆までに発見されなければいいでしょうから」
 警部モロの身の上について、おそるべき相談が、怪人物ポーニンと、船長ノルマンとの間に出来た。


   荒療治《あらりょうじ》


 なにも知らない警部モロは、上陸すると、すぐその足で、酒場《さかば》雑草園へいった。それは、まず忠実にいいつけられた用事をはたし、ほかからうたがいの眼をむけられないためであった。まさか彼は、そのような細心の注意が、もはや無駄だとは知らなかった。
 警部モロは、ビールがすきであった。
 だから彼は、その夜の饗宴《きょうえん》のことをすっかりたのんでしまった後で、ボーイに、ビールを所望した。
「じゃあ、旦那さん。あっちに、すずしいしずかな席がございますから……」
 と、ボーイは、警部モロを、この酒場の名のとおりの雑草園の方へ案内し、そこにところどころに置いてある野外席の卓子へみちびいた。
 むしあつい夜だったので、そよ風吹くその卓子は、警部モロを悦《よろこ》ばせた。そして彼は、ここ暫くつづいた敵中の緊張を、一時ほぐすために、ビールの大コップをとりあげたのだった。それは、実にすばらしいビールのあじだった。モロは、生れてはじめて、ビールがこんなうまいものかと、おどろいた。そうであろう、そのビールこそ、彼の末期《まつご》の水であったのだから。
 雑草園のものかげに、巨人ハルクは、原地人のふくを着て身をしのばせていたが、船長ノルマンからいいつけられたとおり、モロの卓子に、当のモロの外、誰もいなくなったのを見すまし、例のステッキを持って、のこのこ出ていった。
「もし旦那さん。ステッキをおとどけ申します」
 警部モロは、もうすこしあかいかおになっていたが、
「ステッキ? 一体そりゃ何事だ」
 と、こわい眼で、ハルクを見た。
「さあ。わしはなんにも知りませんが、今雑草園へ入っていった旦那に、このステッキをわたしてくれと、たのまれましたのです」
「ふーん、それをたのんだのは何者か」
「さあ、わしの知らない人ですが、どうやらそのすじの人らしい……」
「よし、わかった。もう後をいうな。ステッキをこっちへよこせ」
 ハルクは、フランス語をすこししゃべる。それをノルマンが利用して、この芝居をやらせているわけだった。
 ハルクとしては、めいわくこのうえもないが、まさか相手が、土地の警部であり、そしてハルク自身が今殺人に取り懸っているなどとは知らない。一方、警部モロはモロで、ハルクのことを本部からの連絡密使であると、かんちがいをしてしまった。
 黒いステッキのあたまが、モロの方へさしだされた。ハルクは、そのステッキの根元《ねもと》をもって、さしだしたのであるが、それもノルマンからいわれたとおりにした。すると、彼の手は、釦《ボタン》をおさえたことになる。とたんに、ステッキの蓋が、ぱちりとあいた。その瞬間ステッキがにゅっと伸びたように見えた。
「あっ、あッッ!」
 それが警部モロの最後のこえだった。ステッキの中にひそんでいた青斑《あおまだら》の毒蛇《どくじゃ》が、蓋が明いたとたんに、警部モロのゆびさきに咬《か》みついたのである。
 モロは、面色《めんしょく》土のごとくになり、発条仕掛《バネじかけ》の人形のように、突立ちあがり、椅子をたおした。彼の左手が、ぶるぶる震えるなわのようなものを、右手からひきちぎった。そしてハルクめがけて、ぱっと投げつけた。それは青斑の毒蛇だった。
「あっ!」
 ハルクは、ふって湧いた意外な事件にすこしぼんやりしていたところだった。とびついて来るものが蛇だと知ったとき、ハルクは、拳《こぶし》をかためて、ぴしりと蛇を払いのけた。蛇は足元におちて、がさがさと音をたてた。
「こいつ奴《め》!」
 ハルクは、それがまさかおそるべき毒蛇だとまでは気づかず、こんどは、足をあげて、うむと、蛇をふみつけた。
「おう、うまくいった。ハルク、その先生をこっちへ抱いてこい」
 突然ハルクに呼びかけたのは、船長ノルマンだった。
「あっ、船長」
「余計な口をきくな。はやくやれ、はやく。その先生をかかえて、こっちへ来い」
 警部モロは、酒をのんでいたところへ、毒蛇に咬まれたので、たちまち毒が全身にまわって一命をおとしてしまったのである。
 ノルマンは、ハルクに手つだわせ、彼が怪訝《けげん》なかおをしているのをしかりつけながら、警部モロの死骸を、下水管の中へ放りこんで、しまつをしてしまった。
「まず、これでいい」
「船長、ひどいことをするじゃないか。わしには何にもいわないで……」
「れいをする。だから喋《しゃべ》るな」
「毒蛇をわしにあずけておいて、用心しろ、咬まれるとお前の生命があやういぞともいってくれなかったのは、いくらなんでも……」
 といっているうちに、どうしたわけか、ハルクは、急にあわてだした。


   蛇毒《じゃどく》は廻る


「船長、ま、まってくだせえ」
 ハルクは、くるしそうにあえぎながら、ふりしぼるようなこえでいった。
「なんだ、ハルク」
 と、船長ノルマンは、うしろをふりかえったが、ハルクは、やけつくようないきをはっはっと、はいている。
「おや、お前どうした、ハルク」
「あ、いけねえ……」
「なに、いけない。なにが、いけないというのか」
 船長ノルマンが、懐中電灯をてらして、ハルクにさしつけたときには彼は、くちびるを紫色にし、死人のようなかおをしていた。
「うむ、さては」
「船長。あの蛇は、毒蛇だったんだな」
 ハルクは、ぎりぎりと歯をかみあわせた。
 船長ノルマンは、無言だ。おもいがけないことになって、彼は善後処置をかんがえているらしい。
「おれは知らなかった。あの男を殺す役目をいいつかっていたとは知らなかったんだ。だが、そのばつがあたったんだ、おれは、毒蛇に足を咬まれてしまった。ああ、あいた……」
 巨人ハルクは、どさっと、地上にうちたおれた。
「こら、ハルク。しっかりしろ。お前が、どじをふんだもんだから、だれをうらむこともないぞ」
「なにを、船長ノルマン。お前は、ず太いが、卑怯者《ひきょうもの》だ。なぜ、正直者のおれに人ごろしをさせた。しかもおれには、わけもなんにも知らせないで……。おれをペテンにかけやがった。正直者のおれを……」
 巨人ハルクは、傷口の上を両手でけんめいにおさえて、うらみのことばをノルマンになげつけた。
 そのとき、雑草園の本館の方から、がやがやと、人のさわぐこえが、きこえてきた。
 船長ノルマンは、ここで人に見つかってはあとが面倒だとおもったので、ハルクのかたを叩き、
「おい、ここじゃ、具合がわるい。かたをかしてやるから、つかまれ。あっちで、医者に診《み》せてやるから」
「うーん、いたい」
 ハルクは、口で、自分のシャツを、ペリペリと引き破《やぶ》った。それから、片手をつかって、ギリギリと巻き、それで右脚を、ふくら脛《はぎ》のうえで、かたく縛った。その間も、彼はたえず、獣のようにうなったり、はあはあと、あらいいきをはいたりした。
 雑草園の中は、ますますさわがしくなった。ノルマンたちのことに気がついたのか、それとも酔《よ》っぱらいがさわいでいるのか、はっきりしなかったが、とにかく、はやくむこうへいかないと、とがめられる恐れがあった。
「さあ、しっかりつかまれ」
 船長は、そういって、ハルクにかたをかした。そしてかけるように、速歩《そくほ》で歩きだした。
「うっ、くるしい。もっと、しずかに……」
「ちぇっ、なんだ、ふだんは巨人ハルクといわれていばっているあらくれ男のくせに。これくらいのことで音《ね》をあげるたあ、死《し》に損《ぞこな》いの女の子みたいじゃないか」
「ま、まって……」
「しっかりしろ。ぐずぐずしてりゃ、二人ともつかまっちまう」
 船長ノルマンは、有名な強力《ごうりき》だったから、巨人ハルクのうでをかたにかけ、彼の巨体を、ひきずるようにして、どんどん埠頭《ふとう》の方へいそいだ。
 やがて二人が近よったのはぷーんと異様な臭気のただよっている倉庫だった。その倉庫の入口は明いて、しきりに物をはこびこんでいる。そこはつまり、平靖号の積荷をはこびこんでいる例の倉庫だったのである。
「あっ、船長」
 ノーマ号の火夫《かふ》の一人が、目ざとく、二人をみつけた。
「おう、だれにもいうな。こいつ、意気地《いくじ》がないから、やられちまったんだ。おくへ入るから、だれにもだまっているんだぞ、いいか」
「へい、へい」
 火夫は、ぺこぺこあたまをさげた。彼も、船長ノルマンのおそろしいことは、知りすぎるほど知っていた。ノルマンは、肩にしていたハルクを、倉庫の一等おくまったすみへ、たわらでもなげつけるように、ころがした。
「ううッ……」
 といったきり、ハルクは、死人のようにぶったおれ、そのままうごかない。
 船長は、足をあげて、ハルクのかたをけった。ハルクは、上むきになった。ひどい形相《ぎょうそう》であった。
「ふん、此奴《こいつ》は、もうだめらしい」


   鬼船長


 そこへ飛びこんできたのは、竹見水夫だった。
 彼は、船長ノルマンの姿をみるや、
「ハルクが、やられちまったそうですね。何処にいますか、ハルクは? 一たい、どの野郎と喧嘩をしたんですか」
 と、あたりをきょろきょろとうかがう。ノルマンは、無言で、竹見の間に、通《とお》せんぼうをして立つ。
 そのとき、ハルクが、一声うなった。
「あっ、ハルク。お前、どこにいるんだい」
 竹見は、ようやくハルクが、貨物のかげにたおれているのに気がついたようであった。彼が、ノルマンの間をすりぬけて、後へとびこもうとすると、奇怪にも、ノルマンは竹見の肩を力まかせに、どんとつきとばした。
「あっ、……」
 竹見は、不意《ふい》を食《くら》って、その場によろよろ、しりもちをついた。
「船長、な、なにをするッ」
 竹見は、あわててとび起きると、すさまじい形相で、みがまえた。
「さわぐな。お前には関係のないことだ。むこうへいけ――」
「いやだ、仲間のくるしんでいるのを知って、放っておけるものですか」
「なに、反抗するか。竹、船長の命令だ。おもてへいって、お前は仕事をつづけろ」
「いくら命令でも……」
「うるさい野郎だ。じゃあ、早いところ、はなしをつけるぞ。これでも、おれの命令にしたがわぬというか」
 船長ノルマンの手には、きらりとピストルが光った。
「やっ」竹見は、いきを、はっととめた。「それほど――いや、向うへいきますよ」
 手元へ飛びこんで組打《くみうち》とも考えたが、船長と格闘することよりも、自分に親切にしてくれたハルクの安否《あんぴ》をはやく見てやりたいとおもったので、歯をくいしばって我慢した。そして倉庫の出口へ出ていった。
 船長ノルマンは、ぴゅーと、唾をはくと、やはりハルクのことが気になると見え、彼の様子をのぞきにいった。
「あっ、船長。手をかしてくれ」
 ハルクは、こえをふりしぼってさけぶ。
「なんだ、ハルク」
「ここんところを……」といって、ハルクはひざがしらをさし、
「ここんところを、船長の力一ぱいにしばってくれ。毒が……毒が……」
 さっき彼のふくらはぎのところを自分で縛《しば》ったが、それがゆるんで、蛇毒《じゃどく》が上へまわるのをおそれてのたのみだったらしい。
 だが船長ノルマンは、ぬッと立ったまま、あわい電灯の光の下に、冷やかにハルクを見下《みお》ろすばかりだった。
「船長。は、はやく……」
「おい、ハルク」
「ええッ」
「くたばるものなら、はやくくたばってしまえ」
「な、なんと……」
「そうじゃないか。お前の不注意で、蛇にかまれたんだ。そのおかげで、おれにまで、つまらない心配と、無駄な時間とをついやさせやがった。お前がはやく死んで呉《く》れれば、おれはたすかるのだ。おればかりではない、全乗組員も、ポーニン委員も、皆たすかるんだ」
「ううーッ」
「お前も、そのくらいのことは、察しがつくだろうがな。お前を医者にかけてみろ。お前が雑草園で、なにをしたかということが、すぐ世間へばれてしまうじゃないか。ノーマ号と平靖号とが、特別の積荷をそろえて、無事このサイゴン港を出航できるまでは、お前のその身体は、だれにも見せたかないんだ」
「うう、この悪魔め!」
「こういうわけだと、そのわけを聞かせてやるのも、あの世《よ》へたび立つお前への手土産のつもりだ。もっとも、医者にみせたって、この有様じゃ、所詮《しょせん》たすかる見こみはないにきまっていらあ」
「ち、畜生! お、おれは死なないぞ!」
「これ、しずかにしろ」
「お、おれの死ぬときゃ、き、貴様たちも、地獄へ引《ひっ》ぱっていくんだ。は、うん、くるしい」
「まだ、喋《しゃべ》るか」
「だれが、き、貴様たちの計画どおりに――」
「だまれ!」
 鬼のような船長ノルマンは、足をあげて、ハルクの顔を、下からうんと力まかせに蹴上《けあ》げた。
 ハルクの顔からは、たらたらと赤い血がながれだした。
 二度目に蹴上げたとき、ハルクは、うんとうなって、その場に悶絶《もんぜつ》してしまった。
 彼等の秘密計画がばれるのを、ひどくおそれているからのこの暴行ではあったが、それにしても、面倒を見てやらなければならない部下にたいして、このひどい仕打は、船長ノルマン――いやノルスキーの脈管にながれている残虐性のあらわれであるとおもえた。


   友情


 船長ノルマンは、ハルクが、気をうしなってしずかになったのを見すますと、倉庫の出入口へ現れた。
「おい、この倉庫は、閉めるから、出る者は今のうちに皆出てこい」
 倉庫の中は、もうほとんど一杯だったので、皆は、他の倉庫へ、陸揚の貨物をはこんでいた。残っていたのは、後片附けと見張りのノーマ号の船員数名だけだった。
 船長ノルマンは、倉庫の入口を自《みずか》らぴたりととじると、大きな錠《じょう》をかけた。その鍵は、彼のポケットへ――。
「なにを、ぼんやりしとる。ぐずぐずしていると、もうすぐ夜明けになるじゃないか。はやくむこうへいって、手伝え」
 ノルマンに、口汚《くちぎたな》くしかられて、船員たちはあわてて、別の倉庫の方へかけ出していった。
 瀕死《ひんし》のハルクは、ただ一人、とうとうこの倉庫のおくに、とじこめられてしまった。まったく同情に値《あたい》することだった。このうえは、サイゴン警視庁の活動をまつよりほかないが、まだむこうでは、モロ警部の遭難さえ気がつかない様子だ。
 それから、小一時間ほどたってから後のことだった。巨人ハルクのとじこめられた倉庫の、通風窓《つうふうまど》にはめられてあった鉄格子《てつごうし》が、きいきいとおとをたてはじめた。
 きいきいという音は、しばらくすると、ぱたりと止み、それからまたしばらくすると、きいきいと高いおとを立てはじめる。窓からは、セメントが、ばらばらと下へおちる。誰か、通風窓の鉄格子を、ひき切っている者があるのだった。
 二十分ばかりたつと、その通風窓から、ぬっと、一つの顔が現れた。
「おい、ハルク」
 あたりを忍《しの》ぶようなこえで、倉庫の中へよびかけたが、返事はなかった。
「どうしたのかな。もう一本切れば、なんとか入れるだろう」
 ふたたび、きいきいと鉄格子をひき切る音がはじまった。どこから持ってきたか、高速度鋼《こうそくどこう》のはまった鋸《のこぎり》を、一生けんめいにつかっているのは、外ならぬ水夫の竹見だった。彼は、ハルクの身の上をあんじて、この無理な仕事をつづけているのだった。
 やがて竹見は、ついに目的を達して、通風窓から、倉庫の中に、ずるずるどすんと、入った。
「おい、ハルク。どこにいる」
 竹見は、マッチをすって、あたりを探しまわった。
「あ、こんなところに……」
 とうとうハルクの倒れている隅っこを見つけた。
 ハルクは、虫の息《いき》だった。体は、火のようにあつい。竹見は、おどろいて、空《あ》き瓶《びん》の中に入れて持ってきた水で、彼のくちびるをうるおしてやった。
 ハルクは、やっと気がついたようであった。
「お、おのれ!」
「おい、ハルク、おれだ、竹だ。お前の仲よしの竹だよ、ほら、よく見ろ」
 竹見は、マッチをすって、自分の顔を照《て》らした。だがハルクは、目を開かなかった。まぶたをあける力もないのであろう。でも竹見のこえはわかったと見え、かすかにうなずき、
「うん、た、竹か。よ、よく……」
 よく来てくれた――といいたいのであろう。
「一体どうしたのだ。ハルク。おや、脚をしばったり……。おお。脚が紫色に腫《は》れあがっているぞ」
「へ、蛇だ。ど、毒蛇だ……」
「なに、毒蛇にやられたのか、そいつは災難だなあ」
「いや、ノルマン……」
 といいかけて、ハルクは、苦しさのあまり、また昏倒《こんとう》してしまった。
 竹見は、おどろいた。何もかも、一ぺんにやりたくて、焦《じ》れったかった。
 彼は、ノーマ号へ乗り込んだときからの、この親切な巨人のため、おんがえしのいみで、できるだけのことをした。傷口を、持って来た洋酒で洗ったり、新たに膝のうえで縛り直したり、それからハルクの口を割って気つけ薬を入れてやったりした。
 その手篤《てあつ》い看護が効《こう》を奏《そう》したのか、それとも竹見の友情が天に通じたのか、ハルクはすこし元気を取り戻したようであった。
「た、竹。おれは、うれしいぞ。おれは、まだ死にはしない」
「うん、死ぬものか」
 と、竹見は口ではいったものの、この重症のハルクが再起できるとは、ひいき目にもおもわれなかった。
「おい、た、竹。おれのズボンのポケットから、水兵《ジャック》ナイフを出して……刃《は》を起せ!」
「水兵ナイフ! 危いじゃないか」
「いや、は、はやくしろ。そして、おれの手ににぎらせてくれ」


   つのる蛇毒《じゃどく》


 蛇毒にやられて、かびくさい倉庫の床に、気息奄々《きそくえんえん》のハルクほど、みじめな者はなかった。常日ごろ、“巨人”という名をあたえられて畏敬《いけい》されていた彼だけに、今の有様は、なみだなしでは見られなかった。
「おい、竹。どうした、水兵《ジャック》ナイフは……」
 と、巨人ハルクは、はあはあ喘《あえ》ぎながら、水夫竹見に、さいそくをした。
「うん、水兵ナイフは、あったが、これをお前がにぎって、どうするつもりかね」
 竹見は、ハルクにいわれたとおり、ズボンのポケットから水兵ナイフを出して、刃《は》を起してやったものの、このとぎすまされた水兵ナイフを、重態のハルクににぎらせていいものかどうかについて、竹見は迷った。
「はやく、は、はやく、こっちへ呉れ。な、なにをぐずぐずしている……」
「はやく渡せといっても、お前、これをにぎってどうするつもりか」
 ハルクは、くるしさのあまり、このナイフでわれとわが咽喉《のど》をかききって、自殺するのではなかろうか、そう思った竹見は、友にナイフを手わたすことを、ためらった。
「ええい、こっちへよこせ!」
 とつぜんハルクは、半身《はんしん》をおこすと、竹見の手から、ナイフをうばった。が、ナイフをうばったというだけのことだ。そのまま、また土間《どま》にかおを伏せて、うんうんと、高くうなりだした。
「ほら、そんな無理をするから、余計にくるしくなるじゃないか。おい、ハルク、おれが、これから出かけて、医者をさがして、呼んできてやる」
「い、医者なんか、だめだ。お、おれは、自分で、やるんだ」
 と、いったかと思うと、ハルクは、とつぜん、むくむくと起きあがった。
「おい、どうするんだ」
 ハルクは、無言で、いきなり、べりべりと音をさせて、右脚の入っているズボンを、ひきさいた。
「竹、おれのバンドをといて、右脚のつけ根を、お、思い切り、ぎゅっと縛ってくれ。早く、早くたのむ」
 ハルクは、歯をくいしばりつつ、自分の右の太ももを指した。
「あ、そうか、もっと上を、しばるんだな」
 竹は、ようやく合点がいって、ハルクがいったとおり、バンドをといて、太ももを、力のかぎり、ぎゅっとしめた。蛇毒は、ハルクのふくらはぎのむすび目をこえて、上へのぼってきたらしい。
「もっと強く、しばれ」
「でも、これ以上やると、皮がやぶけるぞ」
「皮ぐらい、やぶけてもいいんだ。なんだ、お前の力は、それっばかりか」
「なにを。うーん」
 竹見は、全身の力を腕にあつめて、ハルクの太ももをしばった。
「うーむ」
 さすがのハルクも、竹見が力一杯にしめつけたので、気が遠くなるような痛みに、うなった。
「これでいいか」
「うん、よし」
 と、ハルクはうなずいて、
「竹、お前、向うへいっておれ」
「なんだと、――」
「お前がいると邪魔だ。向うへいっておれ」
「なにをするつもりだ」
「ええい、うるさい野郎だ。見ていてこしをぬかすな。これが、おれのさいごの力一杯なんだ!」
「えっ」
 ハルクの手に、ぴかりとナイフの刃がひかった。と、思うと、懸《か》け声《ごえ》もろとも、ハルクはナイフを自分の太ももに、ぐさりとつき刺した。
「おい、ハルク」
「だまっておれ! くそッ」
 ハルクの硬いひじが、いきなり竹見の顎《あご》を、下からつきあげた。
 竹見は、うーんと一声|呻《うな》って、ふかくにも、その場にどうと倒れて、気をうしなってしまった。
 ほど経《へ》て、竹見が、再び意識をとりもどして、その場にむっくり起きあがったとき、彼は、ハルクが、ついに自ら、片脚を見事に切断しているのを発見して、愕《おどろ》きもしたし、また感歎もした。
 ハルクは、血の海の中に、うつ伏せとなり、水兵ナイフをそこへ放りだしたまま、虫の息となっていた。おそるべき大力だった。おどろくべき気力であった。何をどうしたのか詳《つまびら》かではないが、蛇毒をうけて瀕死《ひんし》のハルクは、ついに自らの手で、自分の太ももを切断することに成功したのだ。
 竹見ほどの豪胆者《ごうたんもの》も、この場の光景を見たときに、なにかしら、じーんと頭のしんにひびいた。


   死力《しりょく》


 ハルクの呼吸は、発動機船のように、はやい。
「おい、ハルク。しっかりしろ」
 竹見が、いくど声をかけても、ハルクはもう、一語も返事をしなかった。
 ハルクを抱きおこして、その口にブランデーを注ぎこんでやろうとしたが、ハルクは歯をくいしばって、口をひらかなかった。彼の顔面は、紙のように蒼白《そうはく》になっていた。
「おい、ハルク。死ぬな。死んじゃ、いけないぞ。おれは、医者をさがして、ここへ引張ってくる。それまでは……」
 水夫竹見は、そこで声が出なくなった。そでで両眼をぎゅっとこすりあげ、
「それまでは、死んじゃならないぞ。気をしっかり持っているんだ!」
 竹見は、この世の中に、ハルクが、一等彼の愛する人間であるように思われてきた。なんとかして、ハルクを助けてやらなければならない。
 彼は、立ち上った。
(このまま、ハルクをここに残しておいて、大丈夫かしらん?)
 想《おも》いは、ハルクの一つのすういき、一つのはくいきにかかって、心配は限りない。だが、このままぐずぐずしていれば、結局ハルクは、死との距離をだんだんつめていくばかりであろう。なんにしても、早く医者をここへ引張ってきて、解毒《げどく》の注射をうってもらうとかして、正しい手当をうけさせねば駄目である。
 竹見は、ついに最後の決心をして、
「ハルク、頑張っているんだぞ」
 と、彼の耳許に叫ぶや、破ったまどをよじのぼり、外に出た。が、彼は、うしろがみをひかれる想いであった。
(なぜ、おれは、こうして、急に気がよわくなったんであろう?)
 竹見は、自分の心をしかりつけた。しかし彼は、ハルクのそばをはなれていくのが、いやでいやで仕方がなかった。
 それも、無理からぬことであった。後に、そのときのことが、思いあわされたように、竹見にとっては、これが良き仲間ハルクとの永遠のお別れであったのだ。いくたびか、悪船長ノルマンの暴力から、竹見を救い出してくれた巨人ハルク! 身体の大きいに似合わず、母親のように、親切にしてくれたハルク! そのハルクとは、このとき限り、再び手をにぎる機会を逸してしまった竹見であった。
 こっちは、船長ノルマンであった。
 ノルマンは、さんざ、巨人ハルクを、利用するだけ利用したうえ、ハルクが毒蛇のためにかまれて、もう再起する力がないと見るや、れいこくにも、ハルクを倉庫の中にすててしまった。
 彼は、倉庫の鍵をもっていたから安心しきっていた。まさか、あの倉庫の通風窓《つうふうまど》が破られることなどは、勘定に入れておかなかった。だから、鍵を自分のポケットにしっかりにぎっているかぎり、誰もハルクの傍に行くことはできないものと信じていた。
(いずれ、あとでもう一度いってみよう。ハルクは、たぶん息をひきとっているだろうから、そうしたら、後に面倒のおこらないために、倉庫の中に穴をほって、ハルクの死体をうずめてしまおう)
 船長ノルマンは、自分たちに都合のよいことばかりかんがえ、そして万事《ばんじ》手《て》ぬかりのないように、先の段取《だんどり》を、心のうちに決めたのであった。そこで彼は、モロ殺しのことも、ハルクを捨てたことも、知らん顔をして、悠々《ゆうゆう》と火薬船ノーマ号へもどってきたのであった。
 船では、怪人ポーニンが、彼のかえりを、今か今かと待ちかねていた。
「おお、ノルマン。遅かったじゃないか」
 船長ノルマンが、部屋に姿をあらわすと、ポーニンは、手にしていたハイボールの盃《さかずき》を下において、つかつかと入口へ、ノルマンを迎えに出た。
「どうも、骨をおりましたよ」
 そういって、ノルマンは、ポーニンが、もっとなにか云い出しそうなのを手でせいして、入口のとびらを、ぴったりとじた。
「おい、結果を早く聞こう。あれは、どうした。そのすじの密偵《いぬ》を片づけることは?」
「あははは、もう安心してもらいましょう。あいつは二度と、この船へはやって来ませんぜ。万事すじがきどおり、うまくいきました。蛇毒《じゃどく》で昏倒《こんとう》するところを引かかえて、あの雑草園の下水管の中へ叩きこんできました。死骸は、やがて海へ流れていくことでしょうが、それは永い月日が経ってのちのことで、そのときは、顔もなにもかわっているし、この船も、このサイゴン港にはいないというわけです」
「そうか。それはよかった。ハルクには、特別賞をやらにゃなるまい」
「そのハルクも、序《ついで》に片づけておきましたよ。万事《ばんじ》片づいてしまいました。あとは、一意、われわれの計画の実行にとりかかるだけです」


   怪しき男


 そういっているとき、部屋の扉を、とんとんとたたいた者があった。
 ポーニンとノルマンは、顔を見合わせた。
「誰だ」
 と、ノルマンが声をかけると、
「はい、私で……」
 と、はいって来たのは、事務長だった。
「なに用だ、事務長」
「なんだか、へんなやつが、船へやってきましたよ。ロロー船長がこっちに来ていないでしょうか、と、たずねているのです」
「なに、ロロー船長?」
 ロロー船長というのは、警部モロのことだった。彼のことなら、もうとくのむかしに、この世から息を引取っているのだった。船長ノルマンは、ポーニンと顔を見合わせて、意味深長《しんちょう》な目くばせを交わした。
「船長ロローは、上陸したが、なにか用事があって、まだ帰ってこない――と、そういえ」
「はい」
「それから、なにか用なら、聞いといてやるからと、そういってみろ」
「はい、かしこまりました」
 事務長は、出ていった。
 船長ノルマンは、ポーニンの方に、身体をすりよせ、
「ごらんなさい。さっそく警備庁の連絡係が、ロローのところへのりこんできたんですよ」
「ふん、あの一件を嗅ぎつけたんだろうか。それとも、平靖号の乗組員が、こっちを裏切って、密告したんだろうか」
「さあ、どっちですかね。ねえ、ポーニンさん、ともかくも、そのすじの奴等に雑草園をしらべられると困りますから、それを胡麻化《ごまか》すため、例の骨折賃《ほねおりちん》の饗宴《きょうえん》を、すぐさま雑草園で始めてはどうでしょう。わいわい酒をのんでさわいでいりゃ、なにがなんだか、わかりませんよ。そのうちに夜が明ける。荷役《にやく》が終る。おひるごろには、このノーマ号も平靖号も、サイゴン港を、おさらばする。ちょうどだん取がうまくはこぶじゃありませんか」と、船長ノルマンは、なかなか悪智恵《わるじえ》をはたらかす。
「ふん、それでよかろう。では、さっそく、雑草園で、大盤ふるまいをはじめよう。お前、みなにそう伝えろ。船にのこっているやつも、できるだけ、上陸させてやるがいい」
「ええ」
「どうする、その大盤ふるまい始めの命令は。お前がもう一度上陸して、伝えることにするかね」
「いや、私はここにいます。そして事務長を上陸させましょう。」
「お前は上陸しない。なぜだ」
「雑草園には、あなたや私がいない方がいいのですよ。いりゃ、またそのすじのやつなどにつかまって、こっちも、したくない返事をしなきゃならない。われわれがいないで、みなに勝手に飲ませて、大いにわいわいさわがせておけば、官憲が調べようたって、手のつけようがありませんよ」
「ふむ、なるほど。それは名案だ。じゃあ、事務長をよんで、お前から上陸命令をつたえろ」
「よろしゅうございます」
 こうして、二人の巨魁《きょかい》は、ノーマ号に残っていることになった。
 一方、竹見は、サイゴンの町に急ぐと、医者をたずねてまわった。
 だが、なにしろ深夜のことではあるし、竹見の風体《ふうてい》がよくないうえに言葉がうまく通じないという有様で、医者に来てもらう交渉は、どこでも、なかなかうまくいかなかった。
(ちぇっ、ぐずぐずしてりゃ、ハルクの奴は冷くなってしまう!)
 と、竹見は、気が気でないが、相手の病院では、一向うごく気配《けはい》がない。でも、最後の一軒で、ようやく蛇毒《じゃどく》を消す塗薬《ぬりぐすり》を小壜《こびん》に入れてもらうことができた。
 竹見は、それで満足したわけではなかったが、ハルクを、あまり永く放りぱなしにしておくこともできないので、ようやくにして得た塗薬の小壜を握ると、再び、倉庫へ引きかえした。
 そのころ雑草園には、荷役に従事した人夫や船員たちが押しかけ、思いがけない深夜の大盤ふるまいに、飲む食うおどる歌うの大さわぎの最中だった。
 竹見は、そのさわぎをよそにハルクのねている倉庫の中にとびおりた。
「おい、ハルク。どうだ、容態は?」といったが、竹見は、けげんなかお!
「おや、ハルクがいない。あいつ、動けるような身体じゃないのに、どうしたんだろう?」


   桟橋《さんばし》


 竹見は、大きな心痛のため、気が遠くなりそうだった。
「このまま放っておいては、たいへんだ。よし、どんなにしても、ハルクをさがしあてないじゃいないぞ」
 それから水夫竹見は、気が変になったようになって、重態の恩人ハルクをさがしまわった。
 倉庫裏のせまい路地を、彼は鼠のようにかけまわりもした。雑草園の饗宴のどよめきに気がついて、ふるまい酒にさわいでいる仲仕《なかし》や船員たちの間をかきわけて、ハルクのすがたをさがしもとめてもみた。路傍のねころがっている人をゆりうごかして、たずねてもみた。だが、一切の努力は無駄におわった。
 水夫竹見は、がっかりしてしまった。
 彼は、疲労の末、魂のぬけた人のようになって、桟橋のうえに佇《たたず》んだ。
「まさか、ハルクのやつ、この桟橋から、とびこんだんじゃあるまいな」
 そういった彼は、もう動くのもいやになるほど、疲れ果てていた。彼はいつの間にか、桟橋のうえに、ごろりとたおれていた。涼しい夜風が快い眠りをさそったのだ。
「おい、おい!」彼は、目がさめた。だれを呼んでいるのであろうと、目をみらいてみると、眩《まぶ》しい懐中電灯が、彼のかおをてらしていた。彼はびっくりして、跳《は》ねおきた。
「だ、誰だ!」
「なんだ、やっぱり竹じゃねえか」
「そういうお前は……」
「誰でもねえや。おれだ。丸本だ!」
「えっ、丸本、なんだ、貴様だったのか。ちえっ、おどかすない」
 丸本というのは、竹見と同じく平靖号乗組の水夫で、彼のいい相棒《あいぼう》の丸本秀三だった。
 丸本は、彼のかたわらにすりよって、
「こら、あんな雑草園のふるまい酒ぐらいに酔いたおれるなんて、だらしがないぞ」
「冗談いうな。おれは酔っちゃいない」
 そこで竹見は、手短《てみじ》かに、ハルクのことをはなして、丸本にもハルクを見かけなかったかとたずねたが、丸本もやはり知らないとこたえた。竹見は、いよいよ落胆《らくたん》した。
「おい、ハルクのことをしんぱいするのもいいが、ちと、虎隊長のことも考えてくれ。隊長は、雑草園へもいかなんだ。がっかりしているらしいが、色にも出さないで、平船員の部屋で本をよんでいるよ。お前も何か、隊長にいって、元気をつけてあげてくれ」
 いわれて竹見は、気がついた。
「おお、そうか。虎船長は、いまは平靖号の船長ではなくなって、さぞさびしいことだろう。おれは、ひょっとすると、ハルクが、平靖号へにげこんでやしないかとも思っていたところだから、これから一緒に平靖号へ帰ろうじゃないか」
「うん。帰るというのなら、ちょうどいま、ランチが一せき、あいているんだ。おれは、それにのって帰ろうと思っていたところだ。じゃあ、ちょうどいい」
 丸本は、竹見をうながして、桟橋のうえを、ランチの方へと歩いていった。
 二人が、ランチの索《ひも》をといているところへ、また一人、飛ぶように駈《か》けつけてきた者があった。
「おーい、そのランチ、待て」
「だ、誰だ」
「おれだ」
 飛びこんできたのは、これも平靖号乗組の一等運転士の坂谷だった。
「おや。一等運転士。どうなすったので」
「うん、雑草園でぐいぐいと酒をあおっていたんだが、妙に船が気になってなあ。それでぬけて来たんだ」
「えっ、そうですか。妙に船が気になるなんて、どうしたというわけです」
「どうもわからん。こんな妙な気持になったことは、初めてだ」
「ははああ、虎船長のことが、やっぱり心配になるんでしょう」
「いや、船長のことは心配しなくともいいんだが、船のことが、いやに気になってねえ。ともかくも、早くランチをやれ」
「へえ、合点《がってん》です。おい、竹見、考えこんでないで、手つだえよ」
「なんだ竹もいるのかね」
「へい、一等運転士。そういえば、わしもなんだか船のことが気がかりなので……」
「よせやい、竹。お前の心配しているのは、ハルクのことじゃないか。いやに調子を合せるない」
「うん、ところが、おれも急に今、船のことが気がかりになってきたんだ。どうもへんだねえ」
「ふん、何をいい出すか……」
 そこでランチは、沖合《おきあい》に信号灯の見えている平靖号さして、波をけ立てて進んでいった。


   血染《ちぞめ》の手紙


 ランチは、平靖号の舷側《げんそく》についた。
「いやに静かだねえ」
「そうでしょうとも。虎船長のほかに、だれもいないんですよ」
「まさかネ」
 三人は、するすると縄梯《なわばしご》のぼって、甲板《かんぱん》へ――。
「隊長! 虎隊長!」
 一等運転士は、気になるものと見え、虎隊長のところへ、とんでいった。
 隊長は、平船員のベッドにもぐりこんで、暗い灯火の下で、本を読んでいたが、とつぜん帰ってきた三人の顔を見て、たいへんよろこんだ。
「隊長、るす中なにかかわったことはありませんでしたかねえ」
 と、一等運転手は、わざと何気《なにげ》なき体《てい》で、それを尋ねた。
「船のことかね、それとも、わしのことかね。どっちも大丈夫さ。心配するなよ」
 と、破顔大笑《はがんたいしょう》したが、途中で、急に改まった調子になり、
「――そういえば、思い出した。さっき、丁度《ちょうど》この真上の甲板あたりで、がたんと、大きな音がしたんだ。なにか、物をなげつけたような音だった。行ってみようと思ったが、生憎《あいにく》傍《そば》にはだれもいないし、そのままにしておいた。あれは何の音だったか、だれかいって、見てくるがいい」
「はあ、この真上の上甲板あたりでしたか。その音のしたのは?」
 一等運転士の坂谷と、水夫竹見とが、一緒にそこをとびだした。
 駈《かけ》あがった二人は、甲板のうえを探しあるいた。
「あっ、これだ!」
 一等運転士が叫んだ。
 竹見が、かけつけてみると、一等運転士は、一挺《いっちょう》の水兵《ジャック》ナイフをにぎっていた。
「おや、血が……」
 竹見の心臓が、どきんと大きく波うった。
「あっ、それはハルクの持っていた水兵ナイフだ!」
「えっ?」
 ハルクの持っていた水兵ナイフが、なぜこんなところにあるのだろうか。そのナイフこそは、ハルクが自ら右脚をきりおとしたナイフだった。
「おい、なにか手紙みたいなものが、えにまいてあったぞ」
「手紙?」
 一等運転士の手には、手帳の一頁をひき裂いたものが、にぎられていたが、それも血にそまっていた。
「なに、ほう、これは竹見、お前あての手紙だ」
「なんですって、何と書いてあるんですか」
 竹見には、英語がよくよめない。手紙は、英文だった。
「こういうんだ“親愛ナル竹ヨ。俺ハ復讐ヲスルンダ。コノ手紙ヲ見タラ、オ前ノ船ハスグニ抜錨《ばつびょう》シテ、港外へ出ロ。ハルク”どういう意味だろうか、この手紙は」
「えっ、復讐! 復讐は、わかるが、お前の船は、すぐにいかりをあげて、港外にでろというのがわからない」
「ふむ、お前に喧嘩を売るんだったら、親愛なる竹よは、へんだね」
「あっ、そうだ!」
 と、竹見は、とつぜん弾《はじ》かれたように、とびあがった。
「一等運転士、すぐに抜錨を命じてください。でないと、この船は沈没しますぞ」
「なぜだ、とつぜん何をいう。なぜ、そんなことを」
「さあ、すぐ抜錨しないと危険です。一秒を争います。さあ、命令を……」
「おお、この事かなあ、さっきからの、わしのむなさわぎは!」
 一等運転士は、やっと、自分のむなさわぎに関係をつけ、すぐさま船長のところへ、おどりこんだ。
「大至急、抜錨。総員、部署につけ!」
「な、なんだって!」
 総員といっても、集まってきたのは、たった七人だった。七人で、抜錨ができるか。でも、大至急、それをやる命令が、一等運転士によって発せられた。
 虎船長は、かつがれて、船橋へ。すべて非常時のかまえだった。
 汽缶《きかん》には、すぐさま石炭が放りこまれた。間もなく蒸気は、ぐんぐん威力をあげていった。
「避難演習かね、これは」
「だまって、はやくやれ! 本物なんだぞ」
「気はたしかかね」
「お前、死にたくないのなら、黙って、命ぜられたとおりやれ!」
 水夫竹見は、ハルクを信じていた。だから、この大切な平靖号を、一秒も早く港外にうつさないと、取りかえしのつかぬことが起ることを信じていたのだ。その一大事が、どんな形で現われるか、そんなことを考えている暇《ひま》は、今の彼にはなかった。瀕死のハルクが、平靖号の甲板へ、血染めの水兵ナイフをなげこんでいったというそのことが、いかに驚異的であるか、それが分れば、まっしぐらにハルクの忠言に従うよりほかなかったのであった。


   大椿事《だいちんじ》


 信仰のあつき一等運転士坂谷も、これまた、出来事の真相は、よくのみこめないが、霊感にもとづいて、死力をつくして出航を急いだ。
 エンジンは、ようやくうごき出した。しかし錨《いかり》は、なかなかひき上げられなかった。これには、一等運転士はよわってしまったが、
「早くやるんだ。じゃあ、錨は、そのままにしておいて、船を出せ。全速力! 全速力でやるんだ」
「全速といっても、錨が……」
「かまうことはない、錨索《びょうさく》はフリーにしておいて、船を走らせるんだ」
 船は、うごきだした。だから、錨索は、がらがらと船内からくり出していった。
「全速まで、早くあげろ。錨索を切ってしまえ」
 そんな無茶な命令を、聞いたことがない。
「よし、おれがやろう!」
 竹見は、大きなハンマーをかついで、甲板へとびだした。彼は、力一杯、走る錨索の上を、がーんと、どやしつけた。しかしそんなことで錨索は切れない。
 そのうちに、とうとう錨索は、ぴーんと張ってしまった。船はエンジンをかけているが、錨のために、もはやすこしも前進しなくなったのだ。
「だめです。一等運転士。錨が上らなきゃ、もうどうしてもうごきません」
「もっと石炭を放りこめ、蒸気が、まだ十分あがっていないじゃないか」
「だめです。そんなに早くは…………」
「石炭! 送風機! バルブ全開! 錨を切っちまにゃ……」
 ガーン。ガーン。
 竹見の傍に、丸本もやってきて、どっちも重いハンマーをふりかぶって、錨索のうえに打ちおろす。錨索は、繰り返えされる衝撃のため、だんだん熱してきた。
 ガーン。
 がらがらがら、どぼーン。
「ああ、切れた!」
 つよく錨索が引張られていたところへ、二人のハンマーが調子よく当ったので、錨索は、とうとう見事に切断して、水中へとびこんでしまった。
「おお、切れた! 全速」
 平靖号は、弦《つる》を切って放たれた矢のように、水面を滑りだした。
「おお」
 虎隊長は、朱盆《しゅぼん》のようなかおをして、自ら舵器《だき》を握っている。船は飛ぶ。
 平靖号が走りだしてから、それは正《しょう》二分ののちのことであった。天地も崩れるような大音響が、それに瞬間先んじて一大火光とともに、平靖号をおそった。
「ああッ!」
「うむ、爆発だ!」
 ひゅーと、はげしい風の音とともに、平靖号の真上を、なにものかが走り過ぎた。つづいて、ばらばらがらがらと、さかんに物が横なぐりに、甲板へとんでくる。竹見と丸本の両水夫は、甲板にうつぶせになって生きた心地《ここち》はない。
 爆音、また大爆音!
 だが、平靖号は、さいわいにして、さしたる損傷もうけなかった。その大爆音は、はるかにサイゴン港内において頻発しているのであった。そのものすごい火の海を、なんといって形容したらいいのであろうか、また天地のくずれ落ちるような大爆音を、なんといって言い現わしたらいいであろうか。爆発はまた新たなる爆発を生んで、いつ果つべしとも分らない。
 火災だ! サイゴンの街に火がうつってもえだした。
「ああ、ハルクの復讐だ! 彼奴《きゃつ》は、ノーマ号のつんでいた火薬に火をつけたのだ! それにちがいない!」
 水夫竹見は、しばらくして甲板からかおをあげ、炎々たる港内の火をきっと見つめながら、うめくようにいった。
 全くおそろしい出来事だった。これで、もう二分間おそければ、平靖号も、そば杖《づえ》をくらって、船体はばらばらに壊れてしまい、虎船長以下、竹見も丸本も、今ごろは屍《しかばね》になっていたかもしれない。
 ノーマ号は、あと形なく飛び散った。船長ノルマンも、怪人ポーニンも、ともに一まつの瓦斯《ガス》体となって消え失せた。それとともに、かのごくひの大計画である海底要塞の建設事業も、一たん挫折してしまったのだ。この怪人たちの陰謀のそばつえを食ったサイゴン港こそ、悲惨の極《きわみ》であった。沈没艦船三十九隻、焼失家屋五百八十余戸、死者三千人、負傷者は数しれず、硝子《ガラス》の破片で眼がみえなくなった者が、三百余人と伝えられる。
 平靖号の船員も、相当死んだが、元気な虎船長や竹見水夫がいる限り、これにこりず、改めてさらに壮途《そうと》をつづけることであろう。



底本:「海野十三全集 第9巻 怪鳥艇」三一書房
   1988(昭和63)年10月30日第1版第1刷発行
初出:「大日本青年」(「浪立つ極東航路」のタイトルで。)
※「丸本慈三」と「丸本秀三」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年3月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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