青空文庫アーカイブ

海底都市《かいていとし》
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)催眠術《さいみんじゅつ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)黒|焦《こ》げ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あのきざ[#「きざ」に傍点]な釣針ひげ
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   妙な手紙


 僕は、まるで催眠術《さいみんじゅつ》にかかりでもしたような状態で、廃墟《はいきょ》の丘をのぼっていった。
 あたりはすっかり黄昏《たそが》れて広重《ひろしげ》の版画の紺青《こんじょう》にも似た空に、星が一つ出ていた。
 丘の上にのぼり切ると、僕はぶるぶると身ぶるいした。なんとまあよく焼け、よく崩れてしまったことだろう。巨大なる墓場だ。犬ころ一匹通っていない。向うには、焼けのこった防火壁《ぼうかへき》が、今にもぶったおれそうなかっこうで立っている。こっちには大木が、黒|焦《こ》げになった幹をくねらせて失心状態をつづけている。僕の立っている足もとには、崩れた瓦《かわら》が海のように広がっていて、以前ここには何か大きな建物があったことを物語っている。
 悪寒《おかん》が再び僕の背中を走りすぎた。
 僕はポケットに手を入れると、紙をひっぱりだした。それは四つ折にした封筒だった。その封筒をのばして、端《はし》をひらいた。そして中から用箋《ようせん》をつまみ出して広げた。
 その用箋の上には次のような文字がしたためてあった。
――君は九日午後七時|不二見台《ふじみだい》に立っているだろう。これが第二回目の知らせだ。
 これを読むと、僕はふらふらと目まいがした。今日は九日、そしてうたがいもなく僕は今、この手紙にあるとおり不二見台に立っているのだ。ふしぎだ。ふしぎだ。ふしぎという外《ほか》はない。
 僕は一昨日と昨日とふしぎな手紙を受取ること、これで二度であった。その差出人は誰とも分らない。僕の知らない間に、その手紙は僕の本の間にはさまっていたり、僕の通りかかった路の上に落ちていたりするのだ。その封筒上には、僕の名前がちゃんと記されており、そして注意書きとして「この手紙は明日午後七時開け」と書いてあったのだ。
 昨日開いた第一回目の知らせには「君は今寄宿舎の自室に居る。机の上には物象《ぶっしょう》の教科書の、第九頁がひらいてあり、その上に南京豆が三粒のっているだろう」とあった。
 そのとおりであった。ふしぎであった。まるで僕の部屋をのぞいて書いた手紙のようであった。しかしよく考えてみると、この手紙はその前の日にもらったものである。前の日から、翌日の僕の行動が分っているなんて、全くふしぎである。
 ふしぎは、今もそうだ。僕は一時間前、急に決心してこの不二見台へのぼることにしたのだ。それは第二回目の予言をあたらないものにしてやろうと思い、寄宿舎からは電車にのって四十分もかかる、この不二見台へのぼってみたのである。
 ところがどうだ、ちゃんと的中しているのだ。なんという気味のわるいことだろう。これが身ぶるいしないでいられるだろうか。
 その後、僕は神経を針のようにするどくして警戒していた。それは例の気味のわるい予言的な手紙の第三回目の分がそのうち僕の手に届けられるだろうが、そのときこそ僕はその手紙の主をひっつかまえてやろうと思ったからだ。
 ところがその手紙は、僕の予期に反してすぐには届けられなかった。前の手紙がついたその翌日もその翌々日も新しい手紙は届けられず、それではもうおしまいかと思っていたところ、その次の日になって、遂《つい》に第三回目の手紙が僕の手許へ届けられた。ただし僕は一生けんめいに警戒していたにもかかわらず、その手紙の主をつかまえることに失敗した。
 というのは、その手紙は僕がその日の朝、寄宿舎で目をさましたとき、僕の枕許《まくらもと》においてあったからだ。
 ふしぎ、ふしぎ。いったい誰がこんなに早くこのあやしい手紙を持って来たのであろう。僕が何にも知らないで眠っているとき、僕の枕許に近づいてこのあやしい手紙をおいて行く怪人《かいじん》――その怪人の姿を想像して僕は戦慄《せんりつ》を禁ずることができなかった。なんという気味のわるいことだろう。その怪人は、そのとき僕の寝首をかくこともできたのだ。そう考えると僕はますます気持がわるくなり、自分のくびのあたりを手でさわってみた、もしや怪人の刃をうけてそこから血でも出てはいまいかと、心配になったので……。もちろん血は出ていなかった。
 怪人の正体は、僕には全く想像がつかなかった。僕はその第三回目の封筒を手にして、しばらくはふるえていた。封筒の上には、これまでと同じに、明日の午後七時に開封せよとの注意がしたためてあった。
 僕はその日一日中、あやしい手紙のことでいっぱいであった。夜になって僕はますます胸がくるしくなった。と同時に、しゃくにさわり出した。僕はたまらなくなって、その夜寝床に入ってから、ふとんの中でその封筒をそっとあけてみた。怪人の命令よりは一日早かったけれど……。
 するとその手紙には、「君は十三日午後七時、ふたたび不二見台に立っている。そして君は思いがけない人から思いがけない話をきいて、ふしぎな旅行に出発する事になる」と書いてあった――僕は頭からふとんをかぶってねてしまった。
 夜があけると、いよいよ十三日、その当日であった。僕は手紙にあるように、決してその当日は不二見台へのぼるまいと決心したのであった。
 だが、目に見えぬあやしい力は、僕に作用し、僕の足は僕の心にさからって僕を不二見台へはこんでいった。そして僕は、そこで思いがけない人に出合った。


   かわった少年


 無遊病者《むゆうびょうしゃ》のように、廃墟《はいきょ》の不二見台に立っていた僕だった。
 僕のからだは氷のようにかたくなって、西を向いて立っていた。暮れ残った空に、この前来たときと同じに、怪星が一つかがやいていた。
「本間君。やっぱり君は来てしまったね」
 僕はとつぜんうしろから声をかけられた。その声をきくと僕は電気にうたれたようにその場に身体がすくんでしまった。いよいよ出たぞ、怪人が! 果して何者?
 壊れた瓦《かわら》の山を踏む無気味《ぶきみ》な足音が、僕のうしろをまわって横に出た。僕のひざががたがたふるえだした。うつろになった僕の眼に一人の少年の姿が入ってきた。
「本間君、君はふるえているのかい」
 僕の気持は、ややおちつきをとりもどした……。
「あっ、君は……」
 僕の前に立ってにやにや笑う少年。それは同級生の辻《つじ》ヶ谷《や》虎四郎《とらしろう》君であった。
 この辻ヶ谷君というのは、かわった少年で、少年のくせに額《ひたい》が禿《は》げあがっており、背は低いが、顔は大人のような子供で、いつも皆とは遊ばずひとりで考えごとをしているのが好きで、ときには大人の読むようなむずかしい本をひらいて読みふけっていた。したがって今まで僕たちは、辻ヶ谷君とはほとんど口をきいたことがない。
 その辻ヶ谷君の、かさかさにかわいた大きな顔を見たとき、僕は今までの秘密がなにもかも一ぺんに分ったように思った。
「ふふふふ、本間君。なにもそんなにふるえることはないよ。僕は君が好きだから、君を選んだわけだ。僕は君をうんとよろこばしてあげるつもりだ」
「あんないたずらをしたのは、君だったの」
「いたずらだって、とんでもない。いたずらなんという失敬なものじゃないよ」
 と辻ヶ谷君は僕と向きあって、大きな顔をきげんのわるい大人のような顔にゆがめた。
「僕は君に、すばらしい器械のあることを教えてあげたのさ。実にすばらしい器械さ。未来のことがちゃんと分る器械さ。いや、そういうよりも、未来へ旅行する器械だといった方が適当だろうね」
 辻ヶ谷君は、とくいらしく右あがりの肩をそびやかせた。
「未来へ旅行する器械? うそだよ。そんなものがあってたまるものか」
 僕は信じられなかった。
「ふふふふ。君はずいぶん頭がわるいね。なぜって、そういう器械があればこそ、君は三回も、その翌日の行動を僕にいいあてられたんじゃないか」
 辻ヶ谷君がなんといおうと未来の世界へ旅行ができるなどというふしぎな器械が、この世にあろうとは、僕には信じられなかった。
「頭がわるいねえ、本間君は……」と、辻ヶ谷君は気の毒そうに僕を見ていった。「まあいい。君をその器械のところへ連れていってやれば、それを信じないわけにいかないだろう」
「君は、気がたしかかい」
 僕はもうだいぶんおちついてきたので、そういってやりかえした。
「僕のことかい。僕はもちろん気はたしかだとも。さあ、それではこっちへ来たまえ。そこに入口があるんだから……」
 そういった辻ヶ谷君は、そこにしゃがみこんで、自分の足もとの、こわれた瓦《かわら》の山を掘りかえしはじめた。しばらく掘ると、下からさびた丸い鉄ぶたがあらわれた。辻ヶ谷君はその鉄ぶたの穴へ指を入れ、上へ引っぱるとふたがとれ、その下は穴ぼこになっていた。辻ヶ谷君は、こんどはその中へ手をぐっとさしこんだ。肘《ひじ》も入った。腕のつけねまで中に入った。顔を横にして辻ヶ谷君はしかめッ面になった。
「どうしたい、辻ヶ谷君」
 僕は、すこし気味がわるくなったので、きいてみた。
「しずかに……」辻ヶ谷君は、しかりつけるようにいった。
「……うん、あったぞ」
 辻ヶ谷君の青んぶくれの顔に赤味がさしたと思ったら、彼はあらい息と共に穴から腕をひきぬいた。穴ぼこの中からがちゃがちゃという音がきこえたと思ったら、彼の手は鉄の鎖《くさり》を握って引っぱりだした。
「これさ。これを引っぱると、君の目玉はぐるぐるまわしだ、びっくりするだろう。いいかね」
 辻ヶ谷君は、その鎖に両手をかけて、えいやッと手もとへひいた。すると、どこだか分らないが近くで、ぎいぎいぎぎいと、重い扉がひらくような音がした。いや、ほんとうに扉がひらいたのだ。すぐ目の前の小石が瓦のかけらが一方へ走りだしたと思ったら、敷石《しきいし》のゆかが傾《かたむ》き出してその上から地下道へつづいている階段が見えだしたのだ。さあその階段を下りて地面の下へ入って行くのだ。「頭をぶっつけないようにしたまえ。君から先へ……」
 辻ヶ谷君はそういって僕の尻をついた。僕は不安になったが、ここで尻込《しりご》みしていたのではしょうがないから、思い切って腰を曲げると、はね橋のようにはねあがったゆかをくぐって、地下への階段をふんだ。
 もうのっぴきならない運命が僕をとらえてしまったのだ。不安も恐怖も今はなくなってしまって、あとは辻ヶ谷君のさしつける懐中電灯の光をたよりに、どんどん地下へ下った。階段がつきると、ぼんやりと明りのついた廊下が左右へ走っていたが、辻ヶ谷君はその左の方へ進んでいった。その廊下は、その先でもう一度右に折れると、その奥で行きどまりとなっていた。辻ヶ谷君は、その奥まで行って、手さぐりで壁の上を探しまわっていたが、そのうちに澄んだベルの音が聞こえだしたと思ったら、壁がぱくりと口を開いた。
 行きどまりの壁が、すうっと下って、下にはまりこみ、目もさめるほどの明るい部屋が目の前にあらわれた。形のふしぎな器械がずらりと並んでいる。
「早くこっちへ入りたまえ」
 辻ヶ谷君にいわれて、僕は下へ落ちた壁――それは隠《かく》し扉であったのだ――をまたいで中へ入った。ぷうんといい匂いがした。ばたんという音がしたので、後をふりかえってみると、隠し扉が元のようにあがって、壁になっていた。


   タイム・マシーン


 ふしぎなこの地下の器械室に足をふみ入れた僕は、おどろきとめずらしさに、ぼんやりとつっ立っていた。
「おい本間君。早くこっちへ来たまえ」
 僕をこの部屋へ連れこんだ辻ヶ谷君は、そういって一台の背の高い円柱形《えんちゅうけい》の器械の前から手まねきした。
 その前へ行ってみると「タイム・マシーン第四号」と真鍮《しんちゅう》の名札が上にうってあり、その名札の下には、計器が五つばかりと、そして白い大きな時計の指針《ししん》のようなものが並んでついていた。
 辻ヶ谷君は、その器械の横についている小さい汽船の舵輪《だりん》のようなものにとりついて両手を器用にうごかし、からんからんと輪をまわした。すると器械の壁が、計器の下のところで引戸のように横にうごくと、そこに人の入れるほどの穴があいた。
「本間君。その中へ君は入るんだよ」
「えっ、この中へ……」
「そうだ。それが時間器械なのだ。それはタイム・マシーンとも航時機《こうじき》ともいうがね、君がその中に入ると、僕は外から君を未来の世界へ送ってあげるよ。君は、何年後の世界を見物したいかね。百年後かね、千年後かね」
 百年後? 千年後? 僕はそんな遠い先のことを見たいとは思わない。そんな先のことを見てびっくりして気が変になったらたいへんである。それよりはわりあい近くの未来の世の中が、どうなっているか見たいものである。僕は考えた末、辻ヶ谷君にいった。
「二十年後の世界を見たいんだ」
「二十年後か。よろしい。じゃあ入口の戸をしめるぞ。じゃあ、よく見物して来たまえ、さよなら」
「あ、辻ヶ谷君。一時間たったら、今の世界へもどしてくれたまえね」
 僕はそういったがすでに辻ヶ谷君はがらがらと引戸をしめにかかっていたので、その音に僕の声はうち消されて辻ヶ谷君の耳にはとどかなかったようである。さあ困ったと不安が再び僕の上にはいあがって来た。
 いや、その不安よりも、もっと大きい不安が今僕の上に落ちてきた。それは、ばたんと閉じこめられたこのタイム・マシーンの中だ。
 それは卵の中へ入ったようであった。卵|形《かた》の壁だ。それが鏡になっているのだ。僕の顔や身体が、まるで化物《ばけもの》のようにその鏡の壁にうつっている。僕がちょっと身体をうごかすと、鏡の中では、まるで集団体操をやっているようにびっくりするほど大ぜいの化物のような僕の像がうごいて、同じ動作をするのであった。不安は恐怖へとかわる。
「おい、辻ヶ谷君。ここから僕を出してくれ。困ったことができたのだ。早く出してくれ」
 僕は鏡の壁を、うち叩いた。だが辻ヶ谷君の返事は聞えない。僕はのどがはりさけるような声を出して、鏡の壁をどんどん叩きつづけた。
「おほん。何か御用でございましょうか」
 聞きなれない声が、後にした。
 僕はぎくりとして、後をふりかえった。
 ああ、そのときのおどろきと、そしてここに書きつづることができないほどの奇妙な気持ち! 僕はいつの間にか、りっぱな大きな部屋のまん中に突立っていたのだ。
 そして僕の前に立っているのは、燕尾服《えんびふく》を着た、頭のはげた、もみあげの長い、そして背の高いおじさんだった。
「ああ、おじさん。今日は。僕は辻ヶ谷君の紹介で、二十年後の世界を見物に来た本間という少年ですがね……」
 と僕が名のりをあげると、そのおじさんは顔をでこぼこにして、
「ご冗談《じょうだん》を。へへへへ」と笑った。
 僕は、なにを笑われたのか分らなかった。
「失礼でございますが、あなたさまが少年とはどう見ましても、うけとりかねます」とその老ボーイらしき燕尾服《えんびふく》の人物が言った。そして美しいクリーム色の壁にかかっている鏡の方へ手を傾《かたむ》けた。
 僕は、何だかぞっとした。が、その鏡の中をのぞいてみないではいられなかった。僕はその方へ足早によった。
 僕はびっくりした。鏡の中で顔を合わせた相手は、どことなく見覚えのある顔付《かおつき》の人物だった。年齢の頃は三十四五にも見えた。鼻の下にぴんとはねた細いひげをはやしている。僕が顔をしかめると、相手も顔をしかめる。おどろいて口をあけると、相手も口をあける。ますますおどろいて手を口のところへ持っていくと、相手もそうするのだった。僕はあきれてしまった。僕は少年にちがいない。それだのに、なぜこの鏡の中には釣針《つりばり》ひげの大人の顔がうつるのであろうか。
「こののちは、どうぞご冗談をおっしゃらないようにお願い申上げまする。そこでお客さま。どうぞお早く御用をおっしゃって下さいませ」
 老ボーイは、姿勢を正し、眼を糸のように細くし、鼻の穴を真正面《ましょうめん》にこっちへ向けて小汽艇《しょうきてい》の汽笛のような声でいった。
 とつぜん僕の頭の中に、電光のようにひらめいたものがあった。それは辻ヶ谷君にさようならをいってから、一足《いっそく》とびに早くも二十年後の世界へ来てしまっているのだ。したがって僕自身も、一足とびに二十年だけ年齢がふえてしまったのだ。だから鏡の中からこっちをじろじろみているあのきざ[#「きざ」に傍点]な釣針ひげのおとなこそ正《まさ》しく二十年としをとった僕のすがたなのであろう。
 そう思って、手を鼻の下へやると、指さきに釣針ひげがごそりとさわった。
「はっはっはっはっ」と、僕はとうとうたまらなくなって、腹をゆすぶって笑い出した。二十年たったら、僕はこんなきざな男になるのかと思うと、おかしくて、笑いがとまらない。
 笑っているうちに、また気がついたことが一つある。
(とにかく僕はもう二十年後の世界へ来てしまっているんだから、その気持になって万事《ばんじ》しなければならない。あの老ボーイに対しても、こっちはお客さまで、大人だぞというふうに、ふるまわなければいけない)
 それはちょっとむずかしいことであったが、この際もじもじしていたんでは、みんなにあやしまれて、かえって苦しい目にあわなければなるまい。
「やあ。わしはちょっと町を見物したいのである。誰か、おとなしくて話の上手《じょうず》な案内人を、ひとりやとってもらいたい」
「はあ」と老ボーイは、しゃちこばって、うやうやしく返事をした。
「それからその案内人が来たら、すぐ出かけるから、乗物の用意を頼む」
「はあ、かしこまりました」
「それだけだ。急いでやってくれ」
「はあ。ではすぐ急がせまして、はい」
 老ボーイは部屋を出て行こうとする。そのとき僕は、また一つ気がついたことがある。
「おいおい、もう一つ頼みたいことがあった」
「はい、はい」
「あのう、ちょっと腹がへったから、何かうまそうなものを皿にのせて持ってきてくれ」
「はあ、かしこまりました」
「これは一番急ぐぞ」
 そのように命じて、僕はにやりと笑った。しめしめ、これですてきなごちそうにありつける。さてどんなごちそうを持って来るか……。


   タクマ少年


 老ボーイが持って来たごちそうのすばらしさ。それは山海《さんかい》の珍味づくしだった。車えびの天ぷら。真珠貝の吸物、牡牛《おうし》の舌の塩漬《しおづけ》、羊肉《ひつじにく》のあぶり焼、茶の芽《め》のおひたし、松茸《まつたけ》の松葉焼《まつばやき》……いや、もうよそう。いちいち書きならべてもしようがないから。
 僕は、これ以上お腹がふくらむと破けるところまでたべた。そのとき老ボーイが又やって来た。
「旦那さま。案内人が参りましてございます」
 ようやく案内人が来たか。
「よろしい。では、すぐこれから出かける。あのう、帽子とオーバーとを持ってきてくれ」
 ほんとうのところ、僕は自分の帽子やオーバーがこのホテルに預けてあるかどうか知らなかった。しかしこうなった以上は、なんでもかんでも知ったかぶりで、じゃんじゃんものをいう方がいいと思った。
 でないと、もしもこの僕が時間器械を使ってこの町へもぐりこんだ怪しい客だと知れたときには、この老ボーイを始めホテルの支配人以下[#「以下」は底本では「以外」と誤植]は大憤慨《だいふんがい》をして、僕を外へ放りだすことであろう。そのあとは更に悪化して、僕は警察のごやっかいになるかもしれない。そんなことがない方がいい。だから出来るだけ僕は落着きはらっていなければならない。そして何でも心得ているような顔をしていなければならないのだ。
「お帽子と御オーバー?」
 老ボーイはふしぎそうに僕の顔を見返した。
「はて、そんなものはここにはございませんが、もし特に御入用《ごいりよう》でございましたら、早速《さっそく》博物館へテレビジョン電話をかけまして、旦那さまのお好みのものを貸出してもらうことにいたしましょう」
 僕はそれを聞いてびっくりした。博物館から帽子やオーバーを借出さねばならぬとは一体何事であろうか。帽子店や洋服店はないのであろうか。――いや待てよ。帽子やオーバーがそれほど古くさいものなら、それをかぶったり着たりして歩いては、皆に笑われるのかもしれない。
「ああ、もう帽子もオーバーもいらないよ。実は僕はすこし風邪《かぜ》気味なのでね、外は寒いだろうから温くしようと思ったんだが、急に今気持ちが直って来たから、もう帽子もオーバーもいらない」
 僕は苦しいいいわけをした。老ボーイはきょとんとした顔であった。僕のいうことが通じないらしい。
 もっとも後で分かったことだが、この町は、家の中も往来も、温度はいつも同じの摂氏十八度に保たれていた。
「では、出かける」
 僕が部屋を出て行こうとすると、老ボーイは夢からさめたような顔をして、先に立った。
 ホテルの帳場は、はじめて見たが、宮殿のようにすばらしい構えであった。その中からちょこちょこと一人の少年が走り出た。顔の丸い、ほっぺたの紅い、かわいい子供だった。全身を、身体にぴったりと合う黄色いワンピースのシャツとズボン下で包んでいた。かわいそうに、この子は貧乏で、服が買えないのであろう。
「あい、旦那さま。それなる少年が、案内係のタクマ君でございます。おいタクマ君、おそまつのないように十分ご案内をするんだよ」
 老ボーイはそういって少年をひきあわせた。
「こんにちは、お客さま。ではどうぞこちらへおいで下さい」
 そういってタクマは僕を玄関から外に連れだした。
 僕はそこで、おびただしい人通りを見た。ホテルの前はにぎやかであった。行き交《か》う多くの人々は、いいあわせたように帽子もかぶっていなければ、オーバーも着ていない。そしてタクマ少年のように身体にぴったりあった上下のシャツを着て、平気で歩いていたのだった。それを見た僕の方が顔をあかくしたほどであった。
「この町には、貧乏な人が多いと見えるね」
 僕は、案内係のタクマ少年にそういった。
「ええっ、貧乏ですって。貧乏というのはどんなものですか」
 少年は貧乏でいながら、貧乏というものを知らないらしい。なんてのんきな少年だろう。
「だって君。こう見渡したところ、町を歩いている人たちは服も着ないで、シャツとスボン下だけしかつけていないじゃないか」
 君もその一人で、シャツとズボン下だけしか身体につけていないじゃないか――といいたいのを僕は遠慮して、このホテルの玄関の前を通行する人々だけを指していったのだ。
 するとタクマ少年は、目を丸くして僕の顔を見、それから通行人たちの姿を見て、声をあげて笑った。
「お客さんは、ずいぶん田舎からこの町へお出でになったんでしょうね。だからお分りにならないのも無理はありませんが、あそこを通っている人たちも私も、一番りっぱな服を着ているのでございます」
「一番りっぱな服だって。でもシャツとズボン下とだけではねえ」
「よくごらん下さい。これは一番便利で、働くのに能率のいい『新やまと服』なんです。身体にぴったりとついていて、しかも伸《の》び縮《ちじ》みが自在《じざい》です。保温がよくて風邪もひかず、汗が出てもすぐ吸いとります。そして生まれながらの人間の美しい形を見せています。私たち若いものには、この服が一番似合うのです。お客さんのお年齢《とし》ごろでも、きっと似合うと思いますから、なんでしたら、後でお買いになっては、如何ですか」
 お客さんの年齢《とし》ごろ――といわれたので、僕は自分が時間器械に乗ってこの国へ来てからこっちいっぱしの大人の形となり、髭《ひげ》まで生えていたことを思い出した。
「なるほど。わしは田舎から来たばかりなんで、この町のことはよく分らんのだ。それで君に案内を頼んだわけさ。はっはっはっ」
 僕は笑いにまぎらせて、たいへん進歩した、新やまと服の議論をおしまいにした。
「はいはい、十分にご案内をいたします。少しばかり歩いていただきます。この向うに乗物がありますから……」
 タクマ少年は、僕の手をとって、群衆の中を向こうへとぬけて歩いていった。
「自動車は、ホテルの玄関につけられないのかね」
「自動車、自動車と申しますと、何でございましょうか」
 僕はいやになってしまった。自動車を知らない案内人なんて、じつに心細い話だ。僕はこの少年を赤面させないようにと思って、次のようにいった。
「つまり、僕たちは歩いてばかりいると疲れるから、そこで車がついた乗物に乗って走らせると、疲れもしないし、速いからいいだろうと思うんだが……」
「ああ、お話中しつれいでございますが、乗物のことならどうぞご心配なく。しかしその車がついたとか何とか申しますものは、今思出しましたが、あれは博物館に陳列されているあれではございませんでしょうか。ガソリン自動車とか木炭自動車とか申しまして……」
「えへん、えへん、ああ、もうそんな話はよそうや」
 また博物館が話の中にあらわれた。帽子のことで博物館が出、それから自動車のことで又博物館が出た。察するところ、あんな物はもうとっくの昔に博物館入りをしてしまって、この町では使わなくなっているのだ。いいだすたびに、とんだ恥《はじ》をかく。


   やまと服


「さあ乗物のところへ参りました。これにのりまして、目的地へ急ぎましょう」
 タクマ少年はそういって、前方を指さした。しかしふしぎなことに、目の前は川のようなものがあるばかりで、小型自動車一つ待っていないのであった。ふしぎ、ふしぎ。
「さあ、ようございますか。ご一緒に足をかけましょう。一《ヒ》イ、二《フ》ウ……」
 タクマ少年は右足を出して、川の中へ足をつけようとするので、僕はおどろいて、
「やっ、待った。待ちたまえ」
 と叫んだ。
 タクマ少年は、けげんな顔をして足をひっこめた。
「君。短気《たんき》を起さないがいいよ。川の中へはまって、あっぷあっぷするのは、いい形じゃないよ」
 僕は忠告してやった。
「川ですって。どこに川がありますか」
「タクマ君。君は目がどうかしているらしいね。ほら、目の前に川が流れているじゃないか」
 と、僕は、われわれの立っているところのすぐ下を流れている川を指した。
「ちがいますよ、お客さま。これが乗物でございます。……ああ、そうでしたね。お客さまは遠いところから始めてこの町へいらしったので、この町の乗物をご存じなかったのですね」
「うん、まあそうだ」
「この乗物はたいへん便利に出来ています。つまり長いベルトが動いているのです。道が動いているといってもいいわけです。私たちはあの上へ乗りさえすれば、ベルトが動いて、ずんずん遠くへはこんでくれるのです。さあ乗ってみましょう。一二三で、一緒に乗れば大丈夫ですから。さあ一イ二イ三ン」
 動く道路などというものに始めてお目にかかった僕は、気味がわるくて仕方がなかったけども、思い切ってタクマ君と一緒に、その動く道路へとび乗った。と、ふらふらとたおれかかるのを、タクマ少年は僕の腰をささえてくれたので、幸いにたおれずにすんだ。少年の頭は僕の胸のところぐらいしかない。
 なるほどこれは便利だと、僕は感心した。動く道路の上に立っていると、歩きもなんにもしないのに、どんどんと遠くへいってしまうのであった。これならいくら遠方まで行ってもくたびれることはないだろう。
「さあお客さま。こんどはもう一つ内側の、もっと早く動いている道へ乗りかえましょう」
 タクマ少年は、そういって奥を指して歩きだした。
 なるほど、今僕が乗っている道路のとなりに並んで、ずっと早く動いているもう一つの道路があった。
「ほう、こっちが急行道路だね」
「いや、急行道路は、これからまだもう三つ奥の道路です」
「へえっ、そんなにいくつも変った速力の道路があるのかね」
「はい、みんなで五本の動く道路が並んでいるのです」
 ふしぎな道路があればあるものだ。
「それじゃあ急行道路は、ずいぶん速く動くんだろうな。時速何キロぐらいかね」
「時速五百キロです」
「五百キロ? たいへんな高速だね。それじゃ目がまわって苦しいだろう」
「いえ、第一道路から第二道路へ、それから第三第四第五という風に、順を追って乗りかえて行きますから、平気ですよ。目なんか決してまわりません」
「へえっ、そうかね」
 僕はそういうより外《ほか》なかった。そしてあとはタクマ少年のいうとおりにして、動く道路をぴょんぴょんと一つずつ乗りかえて、ついに急行道路へ乗りうつった。なるほど速い。風が強く頬をうつ。
「うしろへ向いて、しゃがんでいらっしゃれば、わりあい楽ですよ」
 少年は教えてくれた。僕はそのとおりにした。少年の方はなれていると見え、平気で立っている。
「ねえ、タクマ君。一体見物する第一番の名所はどこなのかね」
 僕はたずねた。
「まずこの町の一番高いところへ御案内するのが例になっています。そこへ行けば、魚群《ぎょぐん》が見えます」
「えっ、なんだって」と僕はおどろいた。
 どうもタクマ少年の話は、いちいちおかしい。しかし僕がそれをつっこむと、たいてい失敗してこっちが田舎者あつかいにされる。でも、こんどはタクマ少年をかならずへこますことができると思った。
「ねえ、タクマ君。君は今、魚の群を見物するために、一番高い所へ案内しますといったが、それはいいまちがいだろう。だって、魚は海の中に泳いでいるんだから、それを見物のためには、一番高い所ではなく、一番低いところへ行かなくてはなるまい。え、君。そういう理屈《りくつ》だろう」
 そういって僕は、どうだいといわんばかりに胸をはって少年を見た。
「いや、お客さんのおっしゃることの方が、まちがっていますよ。だってこの町では、下へさがればさがるほど魚はないんですからね」
「深海魚《しんかいぎょ》ならいるんだろう」
「いえ、そこには第一水がなくて土と岩石《がんせき》ばかりです。だから魚はすめやしません。しかし一番上へ行けば、海の中が見えますから、魚も見えるわけです」
「なんだか君のいうことは、ちんぷんかんぷんで、わけがわからないね」
 と、僕はとうとう、さじをなげてしまった。


   海中展望台


 タクマ少年のいうとおりになって、僕はいくども動く道路をのりかえ、どんどんはこばれていった。
 その途中には、トンネルがあったり、明るい商店街があったり、にぎやかなプールがあったり、動く道路の上にしゃがんでて遠くから黙って見ていても一向《いっこう》退屈《たいくつ》でなかった。この二十年後の世界の人々は、みんな幸福であるらしくたいへん明るく見え、そして元気に動いていた。
 動く道路が、螺旋《らせん》のようにぐるぐるまわりをして、だんだん高いところへ登っていくのが分った。
「お客さま。目的地に近づきましたから、そろそろ下りる支度《したく》にかかりましょう」
 タクマ少年は、僕の方をふりかえって、そういうと、腰をかけた僕も急いで腰をあげた。下りそこなっては一大事である。
 うつくしい菫《すみれ》色の大きな星が空に輝いている――と思ったが、それはどうやら燈火《あかり》であるらしい。燈台の灯でもあろうか。かなり高いところにある。その菫色の燈火をめがけて、この動く螺旋形の道路は近づいていくようである。
「さあ、道路をとび越えますよ」
 庭の飛石を飛び越えるように、僕たちは高速道路から低速道路へと渡っていった。そして最後にぴょんと動かない歩道の上に立った。例の菫色の大燈火は、このときちょっと頭上にあった。よく見れば、それは天井についている大きな半球形の笠の中に入った電灯であり、その笠には「海中展望台」という五文字が、気のきいた字体で記されてあった。
「いよいよ来ましたよ。ここが、この町中で一番高いところです。ほら、この標柱《ひょうちゅう》をごらんなさい。『スミレ地区|深度基点《しんどきてん》〇メートル』と書いてあるでしょう」
 そういってタクマ少年は、そこに立っているおごそかな石碑《せきひ》のようなものを指した。
 なるほど、正《まさ》にそのとおりに記されている。
「スミレ地区の深度基点はここだというわけだね。スミレ地区というのは、この町のことかい」
「お客さんはスミレ地区へ見物に来ながら、ここがスミレ地区だということさえご存じなかったんですか」
 タクマ少年は、あきれはてたというような顔つきで僕の方を見上げる。僕ははずかしくて、あかくなった。
「今日はすこし頭がぼんやりしているんでね、とんちんかんなことをいうんだよ」と僕はいいわけをして、「おやおや、深度基点〇メートルはいいが、その脇《わき》に但《ただ》し書《がき》がしてあるじゃないか。『世界|標準海面《ひょうじゅんかいめん》(基本水準面《きほんすいじゅんめん》)下《か》一〇〇メートル』とあるところを見ると、ここは大体のところ、海面下百メートルの地点だということになる。ははあ、それでやっとわけがわかった。ここは海の底なんだな」
「お客さまは、ずいぶん頭がどうかしているんですね。ここが海底にある町だということは、赤ちゃんでも知っていることですよ。一体お客さまはどこからこの町へ来たんですか。海底の町へ来るつもりではなくて、この町へ来たんですか」
「まあまあ、そういうなよ。すこし気分が悪いから、しばらく君は黙っていてくれたまえ。ああ、ちょっと休まないと、頭がしびれてしまう」
 じょうだんではなかった。僕はその場にしゃがんで、額《ひたい》に手をやった。額には、ねっとりと脂汗《あぶらあせ》がにじみ出ていた。
 たいへんなところへ来たものだ、ここは深い海底《かいてい》なのだ。してみると、あのホテルを出てからこっち、空だと思っていたのは空ではなくて、海底の町の天井《てんじょう》だったのか。
 ああ、息ぐるしい、海の底に缶詰になっている身の上だ――と、僕は強《し》いてそのように息ぐるしがってみたが、実はくるしくもなんともなかった。海底に缶詰になっているとは思えないほど、空気はさわやかであり、どこからともなくそよ風がふいて来て額のあたりをなでた。それにバラのようないい香がする……僕の気分は、おかげでだいぶん落ちついて来た。
「大丈夫ですか、お客さま」
 僕が立上ったのを見てタクマ少年は走りよった。
「ああ、もう大丈夫。……見物にかかりましょう」
「本当にいいんですか」とタクマ少年はまだ心配の顔で、僕を前の方へ案内し「ここから海の中が見えるんです。よくごらんなさい。魚や海藻《かいそう》だけではなく、お客さまをおどろかす物がなんか見えるはずですから……」
 僕をおどろかすものとは何のことだろう。僕は水族館の魚のぞきの硝子《ガラス》窓のようなものの方へ顔を近づけた。


   大海底《だいかいてい》


 僕は目を見はった。
 大きな硝子《ガラス》ばりの窓を通して、眼下にひらける広々とした雄大《ゆうだい》なる奇異《きい》な風景! それは、あたかも那須高原《なすこうげん》に立って大平原《だいへいげん》を見下ろしたのに似ていたが、それよりもずっとずっと雄大な風景であった。鼠色《ねずみいろ》の丘がいくつも重《かさ》なり合って起伏《きふく》している。それから空を摩《ま》するような林が、あちらこちらにも見える。
 と、その林がとつぜんゆらゆらと大きくゆれるのであった。すると林の中から、まっ黒な颶風《ぐふう》の雲のようなものが現われ、急行列車のようなすごいスピードで走る――と見えたは、よく見れば何千何万という魚群《ぎょぐん》なのであった。そしてうしろの林、これは、ポプラの木に似ているが実はそうではなく、大きな昆布《こんぶ》の林だということが分ってきた。
 雲のような魚群が、左から右からとぶっちがい、あるいはとつぜん空から舞い下りて来るように見えたり、あるいはまた急にすぐ前の硝子ばりの向こうを嵐のように過ぎて、まるでトンネルの中へ入ったようにしばらくは何にも見えなくなることもあった。すばらしく活発な魚群だった。
 大海底の住民は、魚群なのだ。
 その大海底が、ふしぎにも月光に照らし出されたように、はっきりと遠くまでが見えているのであった。あとで聞くと、これは海底全体に強い照明が行われているのだった。
「お客さん、分りましたか。向こうに見えるへんなものが何であるか、お分りですか」
 僕はタクマ少年の声によって、びっくりして、吾《わ》れにかえった。
「ああ、そうだったね。何かへんなものが見えるだろうと、君はさっきからいっていたんだね。それはどこかね」
「あそこですよ。今、鯛《たい》の大群《たいぐん》が下りていった海藻《かいそう》の林のすぐ右ですよ」
「ああ、見える、見える、あれだね。なるほど、へんなものが丘の上にある。まるで傾《かたむ》いたお城のようだが、一体何だろう」
「分りませんか。よく見て下さい」
 僕はそのお城が地震にあったようなふしぎなものをしばらくじっと見つめていた。そのうちに僕は、はたと思いあたった。
「分った。あれは沈没した軍艦じゃないか。ねえ君、そうだろう」
 僕がふりかえると、タクマ少年は無言でうなずいてみせた。
「軍艦にしてはずいぶん大きい軍艦だね。形もかわっているし、航空母艦じゃあないだろうか」
「そうです。あれは航空母艦のシナノです」
「シナノ? すると、あの六万何千トンかあったやつかね。太平洋戦争中に竣工《しゅんこう》して、館山《たてやま》を出て東京|湾口《わんこう》から外に出たと思ったら、すぐ魚雷《ぎょらい》攻撃をくらって他愛《たあい》なく沈没してしまったというあれかね」
「そうですよ」
「あんなものを、なぜあんなところへ持って来ておいたんだい」
「シナノは、あそこで沈没したんですよ」
「ああ、そうだったか。すると、ここは東京湾口を出たすぐのところの海底だというわけだね」
 僕は、始めて自分が今立っている位置を知ることが出来た。しかしなんという変りかたであろう。海底にいつの間にかこんな立派な海のぞき館が出来ているなんて。
「ねえタクマ君。あんなシナノをなぜ片づけてしまわないのかね。目ざわりじゃないか」
「そういう意見もありましたがね、しかし多数の意見は、シナノをあのままにしておいて、われわれが再び人類|相食《あいは》む野蛮《やばん》な戦争をしないように、そのいましめの記念塔として、あのままおいた方がいいということになったのです。日本が戦争放棄を宣言して以来、世界の各国は次から次へとわしの国も戦争放棄だといいだして、今のような本当の平和世界が完成したんです。この平和世界の始まりの記念塔としても、あの不《ぶ》ざまな沈没艦は観光客によろこばれているのです」
「なるほどねえ」
 僕はしみじみと昔を思い出した。
 敗戦のあとの苦しかったあの年々のこと。希望もなんにもなくなって死のことしか考えられなかったときに、それまでは敵として戦ってきた戦勝国のアメリカなどが意外にもわれわれの手をとって泥溝《どろみぞ》の中から救い上げてくれ、そしていろいろと慰《なぐさ》め、元気づけ、そして行くべき道を教えてくれたこと。ああ、その偉大なる愛の力によって今このような楽しい時代が来たのである。
「さあ、それでは、これからにぎやかな下町の方へご案内しましょう。お客さんにはきっと気に入りますよ」
 タクマ少年が、僕の服の袖をひっぱってそういった。


   雄大《ゆうだい》なる誕生


 タクマ少年の案内で、僕は下町へ向かった。また例のとおり、気味のわるい動く道路の上に乗った僕は、こんどは前よりも少しうまく身体の釣合をたもつことが出来るようになった。
 その道々、僕はタクマ少年にいろいろと話しかけた。さっき海底をのぞかせられてから、僕は胸の中にふに落ちないことがたくさんたまったからである。
「ねえ少年君。僕はさっぱり世の中のことにうといんだが、一体これはどういうわけなんだろうね」
「何がですか」
「何がといって、つまりこの町のことさ。なぜこんな海の底に人間が住むようになったのかね」
「そのわけは簡単ですよ。今から二十年前に日本は戦争に負けて、せまい国になってしまったことは知っているでしょう。しかしその後人間はどんどんふえで、陸の上だけでは住む場所もなくなったんです。なにしろ相当広い面積を農業や林業や道路などに使わねばならず、輸出のための工場も広い敷地《しきち》がいるので、いよいよ窮屈《きゅくつ》になったんです。そこで困って考えて、ついに考えついたのが、海底に都市をつくることでした。これはすばらしい名案でした。この名案を思いつかなかったら、日本の国はどんなに苦しい目にあわなければならなかったか分りません」
 タクマ少年の声は泣いているような、ひびきを伝えた。
「でも、海底に都市をつくるなんて、たいへんな工事じゃないか。水圧のことを考えてみただけでも身ぶるいがする。あのすごい水圧に対して耐《た》える材料といえば、鉄材とセメントを使ってするにしても、たいへんな量がなければならない。それにさ、うっかりするとそれに穴があいて、水が町へどっと滝のように流れこんできたら、これはいよいよたいへんだよ。海底の町に住んでいる人は、ほとんど皆、おぼれ死んでしまわなければならないわけだからね。またその工事にしても何十年何百年かかるかもしれない……」
「待って下さい、お客さん」
 タクマ少年はおかしさをこらえきれないという顔つきでいった。
「まさかお客さんは日本人が原子力を使うことを知らないとおっしゃるのじゃないでしょうね」
「原子力? ああそうか。あの原子爆弾の原子力か」
「いえ原子爆弾ではありません、原子力を使ってエンジンを動かしどんどん土木工事をすすめるのです。昔は蒸気の力や石炭や石油の力、それから電気の力などを使ってやっていましたが、あんなものはもう時代おくれです。原子力を使えばスエズ運河も一ヵ月ぐらいで出来るでしょう。また海の水をせきとめる大防波堤《だいぼうはてい》も、らくに出来上ります。昔のエンジンの出す力を、かりに蟻《あり》一匹の力にたとえると、今どこにでもある一番小さいエンジンの出る力は、七尺ゆたかな横綱力士が出す力ぐらいに相当するんですからねえ、まるで桁《けた》ちがいですよ」
「なるほど、そういわれると、そのはずだねえ。しかし……」
「しかしも明石《あかし》もありませんよ。原子力エンジンが使えるおかげで全世界いたるところに大土木工事の競争みたいなものが始まったことでしたよ。そして日本では、この海底都市の建設が始まったわけです。三浦半島のとっさきの剣崎《つるぎざき》の付近から原子力エンジンを使ってボーリングを始めましたが、どんどん鋼材《こうざい》とセメントを注ぎこんで、その日のうちに工事は海面下五十メートルに達するという進み方です。翌日は更に掘って二百メートル下まで掘り下げ、それからこんどは横に掘り始めたんです」
「そうかね、そんなに速く工事が進むとは、夢のようだ」
「最初の設計では、大体海面下に十階建くらいの大きなビルのようなものを作るつもりでしたが、工事があまり楽に行くので、急に設計替えとなり、陸地をはなれること十五キロの地点を中心とした海底都市を作ることになりました。そしてその探さは、浅いところでは海面下百メートルという範囲に人口がおよそ百万人見当の都市を建設することになりました。……聞いておいでですか」
「ああ、聞いているとも」
「その海底都市の骨格《こっかく》に相当する八十階で建坪《たてつぼ》一万一千平方キロメートルの坑道ががっちり出来たのが、実に起工後十四日目なんです。それからこんどは、生活に必要な設備をしたり、町を美しく装飾したり、各工場や商店や住宅や劇場などの屋内をそれぞれ十分に飾りたて、道具を置くのに、更に一週間かかって遂に出来上ったんです」
「ふうん、信じられない。信じられないことだ」
 僕はとうとう本心を言葉に出して、つぶやいた。


   海溝《かいこう》の大工事《だいこうじ》


「信じられないというんですか、はははは。分りましたよ。お客さんは、まだ原子力エンジンが仕事をしているところを、ごらんになったことがないのでしょう」
 タクマ少年は、動く道路の上で僕の方をふりかえってそういった。
「まだ見ていないことは、見ていないんだけれどねえ……」
 僕は、きまりのわるいおもいをして、本当のことを告白するしかなかった。だが、そのとき僕は自分の心の中で、くりかえしさけんでいた。
(うそだ。うそだ。いくら原子力エンジンかは知らないが、こんなりっぱな海底|街《がい》が、たった三週間で完成するものかい。うそだ。うそだ)
 このときタクマ少年は、大きくうなずくと僕の腕をとって引立てた。
「それじゃ、下町へご案内するのを後まわしにして、先に原子力エンジンを動かして仕事をやっている工事場の方へおつれいたしましょう」
「それはたいへん結構だね。ぜひ一度見て、おどろかされたいと思っていたところだ。だがね、僕は生まれつき心臓がつよいから、ちょっとや、そっとのことでは、おどろかない人間だからねえ」
 僕は、やせがまんのようだが、そういってやった。これくらいつよくいっておかないと、僕はますますタクマ少年にばかにされそうであった。
「さあ、この先で、動く道路を乗りかえるのです。私と調子をあわせて、べつの道路へうまく乗りかえてくださいよ。もし目がまわるようだったら、私にそういって下さい。すぐおくすりをあげますからね」
「おくすりなんかいらないよ」
 僕は行手《ゆくて》に、虹《にじ》のような流れが左右にわかれて遠くへ流れ動いていくのを見、目がくらみそうになった。
「来ました、来ました、乗りかえ場所のヒナゲシ区です。はい、一、二、三、それッ」
 僕の身体は、ふわりと浮いた。と、身体は左へひったくられたようになった。身体の釣合《つりあい》がやぶれた。(あぶない!)と口の中でさけんだとき、僕の腰は何ものかによってしっかり抱きとめられていた。いうまでもなく、僕を抱きとめたのはタクマ少年であった。少年に似合わぬすごい力だ。それにもなにかわけがあるのかもしれない、などと思っているうちに、少年はしずかに僕を、下におろした。道路は気持よく走っていた――あの辻のところで、僕らは道を左へ乗りかえたらしい。と、道は下《くだ》り坂になった。
 あたりはひろいトンネルの中の感じで、間接照明によって、影のない快い照明が行われていた。さっきの辻のところまでは、にぎやかな街の家並が見え、買物や散歩の人々の群をながめることが出来たものだが、今はそういうものは全く見えない。単調なトンネルの感が強い。
「いやに、さびしいところだね」
 と、僕がいったら、タクマ少年は、
「ここは一昨日出来上がったばかりのところなんですからね、それだからまださびしいのです。それにこの道は、これからご案内する海溝《かいこう》の棚工事《たなこうじ》のための専用道なんです」
 海溝の棚工事? いったいそれはどんなことであろう。僕は、すぐ少年に聞きかえさずにいられなかった。
「海溝というのは、ご存でしょう。海の底が急に深く溝のようにえぐられているところです。こっちで一番有名なのは日本大海溝《にっぽんだいかいこう》です。その外にも海溝があります。――こんどの工事は、海溝の上に幅五キロ、深さ百キロの棚をつくり、その棚の先から下へ壁深さ五十キロのをおろし、そして中の海水を外へ追出してしまうのです。すると、それだけの海溝が乾あがってわれわれ人間が潜水服などを着ないで行けるようになります。ねえ、そういうわけでしょう」
「そういうわけには違いないが、そんな誇大妄想《こだいもうそう》のような大工事が、人間の手でやれるかい」
「この棚工事は、この海底|都《と》が始まって以来の新しい種類の工事なので、先例はないのですが、やってやれないことはないんだと、みんないっていますよ。しかしさすがに不安なところもあると見え、技師たちは念入りに工事計画をしらべていますよ」
「一体、そんな棚工事をして、どんな利益をあげようというのかね」
「それは分っていますよ。海溝のような大深海《だいしんかい》における資源を、一度に完全に、こっちのものにしようというんです」
「なんだか、とても大きなバクチの話を聞いているような気がするよ。――それで、その資源というと、どんなものかね。特別の掘出し物でもあるのかね」
「それはいろいろあるという話ですがね、中でもみんなの期待しているのは……」
 といいかけたとき、僕たちは急に明るい広々とした大造船所《だいぞうせんじょ》みたいなところへ出た。


   原子エンジン


 こんな大仕掛な造船所を、いまだ見たことがない。しかも地上にあるのならとにかく、海底の国にこんな造船所を設備して、いったい何になるのであろうかと、僕はふしぎに思いながら、そのすばらしい機械の動きに目をみはっていた。
「お客さん。今、ここから海溝へ棚をつきだしているのですよ」
 とタクマ少年はいった。
「もう一時間もすれば、予定の棚は全部出来上るそうです。棚が出来たところからは、更に下へ向かって柱をたてます。どんどん柱が立ったところで、それを横につらねて、堅固《けんご》な壁が出来ます。そうして一|区画《くかく》ずつ出来上ると、こんどは排水《はいすい》作業をやります。壁の下部に排水|孔《こう》がありますから、そこから海水を押出すのです。ああここに工事のあらましを書いた図面がありますから、これをごらんなさい」
 タクマ少年は、やすんでいる起重機《きじゅうき》の上にのっていた青写真をとりあげると、僕に見せてくれた。なるほど、その図面には、今少年が話をしてくれたとおりの、大胆《だいたん》きわまる大深海《だいしんかい》の工事が略図《りゃくず》になって、したためられてあった。
「すばらしい着想だ。が……」
 僕は、あとの言葉をのみこんだ。
「だが、どうしました。どこかおかしいですか」
 少年は、すっかり僕を田舎者にしてしまって、おとなしくその相手になってくれる。前のように、僕がとんちんかんなことをいっても、あざ笑うようなことはなくなった。
「つまりだね、棚を海中に横につきだすという考えはいいが、その棚を横につきだすにはたいへんな力が要《い》るよ」
「それはわけなしです。原子力エンジンでやればいいですからね」
「ふん、原子力エンジンか。なるほど。しかしだ、棚を海中へにゅうと出す。すると棚と、われているこの地下街の壁との間に隙間《すきま》が出来るだろう。その隙間から、海水がどっと、こっちへ噴《ふ》きだすおそれがある。なんしろ海面下何百メートルの深海だから、この向こうにある海水の圧力は実に恐るべきものだ。ああ、僕は心臓がどきどきして来た」
 僕の顔から血がさっとひいて、皮膚が鳥肌《とりはだ》になるのが、僕自身にもよく分った。
「お客さん、大丈夫ですよ。そんなことは、始めから考えに入れて計画してあるんですから、危険は絶対にないですよ。石炭やガソリンを使った昔のエンジンに、危険はあったにしろ、原子力エンジンになってからは、そんな危険は一つもないですよ。それというのが昔のエンジンは出力《しゅつりょく》が小さいのでそのために能率をうんとあげなければならず、そこに無理が出来てよくエンジンの故障や機関の爆発などがあったんですよ。今の原子力エンジンでは、出力は申し分なく出ます。能率は、低いものでも三千パーセント、いいですか百パーセントどころじゃなくて、三千パーセントですぞ。つまり三十倍に増大して行くんですから、出力は申し分なしです。ですから、昔のように無理をして使うということがない。従って、危険だの何だのという心配は、絶対にしなくていいんです」
 タクマ少年の話を聞いているとたいへんうれしいやら、そしてまた僕自身の頭の古さが腹立たしいやらであった。
 だが、それにしても、僕は知ったかぶりをしてはよろしくないと思った。分らないことは何でも分るまで聞いておくがいいと思った。ことにこの案内人のタクマ少年と来たら、肩のところにかわいい羽根をかくしている天国の天使じゃないかと怪《あや》しまれるほどの純良《じゅんりょう》な無邪気《むじゃき》な子供だったから、僕は知らないことを知らないとして尋《たず》ねるのに、すこしも聞きにくいことはなかった。ただ、自分の頭の悪さに赤面《せきめん》することは、しばしばあった。
「さあお客さん。実物を見た方が早わかりがしますよ。あれをごらんなさい。ぐんぐんと向こうへ押し込まれていく不錆鋼《ふしょうこう》の長い桿《かん》[#ルビの「かん」は底本では「かく」と誤植](ビーム)をごらんなさい。あれが棚になる主要資材なんです」
 なるほど、巨人国で使うレールのような形をした鉄材が数十本、上下から互いに噛み合ったようになったまま、ぐんぐん壁の向こうへ入っていく。すさまじい力だ。原子力エンジンを使ってうちこんでいるのだ。
「よく見てごらんなさい。あの長い桿には、端《はじ》というものがないですからね。どこまでも一本ものとして続いているでしょう。あれは蚕《かいこ》が糸をくりだすのと同じ理屈で桿が製造され、そして製造される傍《そば》からああして押し出され、うちこまれていくのです」
 全くすばらしく進歩した技術だ、僕は舌をまいて感心のしつづけだ。
 そのとき僕は、これは夢をみているのではないかと思った。それはかかる大工事が行われているのにも拘《かかわ》らず、よく工場で耳にするあのやかましく金属のぶつかる音が、すこしもしないのであったから……。


   乾《かわ》いた海溝底《かいこうてい》


「ふしぎだなあ、これだけの大仕掛な工事が行われているのに、さっぱりそれらしい鉄のぶつかる音がしない」
 僕がそういうと、タクマ少年がびっくりしたような顔で、僕をみつめていたが、しばらくしてやっと分ったという顔付になり、
「ああ、お客さん、昔はニューマチック・ハンマーとか、さく岩機《がんき》だとか、起重機《きじゅうき》だとかいう機械が土木工事に使われていて、たいへんにぎやかな音をたてていたそうですよ。しかし今は、雑音制限令《ざつおんせいげんれい》があって、そういう不愉快な音は出せないことになっています。それに、穴を掘ったり、鉄の棒をおしこんだりする器機も、原子力エンジンから力を出すので、まるで巨人が棒をおしたり、巨人が土を手で掘ったりするように、楽に仕事が出来て、音もしないのです。……さあ、あっちへ行ってみましょう。海溝工事場で、海水をかいだしてもう人間が歩けるようになっている所がありますから、そこを見物しましょう、どんな鉱物が掘りだされるか、おもしろいですよ」
 タクマ少年は、ずんずん歩きだす。僕はそのあとからおくれまいとついていく、そこには既《すで》に、丹那《たんな》トンネルのようなりっぱなトンネルが出来ていて、あかるい電灯が足許《あしもと》を照らしているので、すこしも危険なおもいをしなくてすんだ。
 おどろいたことは、いつの間に据《す》えつけたか、エレベーターが十台ばかり並んで、しきりに上《のぼ》り下《お》りしている。ずいぶん早い仕事ぶりだ、とても何から何まで、僕には意外なことばかり、昔おとぎばなしで読んだ「魔法の国」に来ているような気がする。
 そのエレベーターの一つに乗りこんだ。タクマ少年と二人きり、運転手は居ない。中へ入って、タクマ少年が数字のついているボタンのうえを押すと、エレベーターは自動式に扉がしまって、下へさがり始める。
 こんなエレベーターなら、僕だって知っていると思った。しかししばらくすると、これがあたりまえのエレベーターではないことが解《わか》った。扉は透明であったし、また箱の奥の板もまた透明であった。だから前方もよく見えるし、後側もよく見えた。そしてどういう仕掛か分らないが、まっすぐに下におりるだけではなく、横に走っていることもあった。つまり上下だけでなく、横にも走れるエレベーターなのだ。
「こっち側が海になっています。海水がある側です」
 と、タクマ少年は、箱の後側を指した、なるほど、いつの間にかそちらの側には、美しい深海の光景がひろがっている。妙な形をした色のきたない魚が、ゆっくり泳いでいる。みんな深海魚だそうである。
 そのうちにエレベーターは、速力をゆるめて、ぴったりと停る、扉があく。
「下りましょう、海溝の棚工事場の底のところへ来たのです」
 エレベーターの外へ出てみると断崖《だんがい》の下へ出たような気がした、正《まさ》しく断崖にちがいない。目の前にそびえ立つのは、海溝をつくっている海中の断崖であったから。
 断崖の下は、かなりひろく平《たい》らにならされていて、芸術的ではないが、実用向きの幅《はば》のひろいセメント道路が出来ていた。仕事の早いのには全くおどろかされる。僕が今立っているところは、昨日の夜までは、海水が満々《まんまん》とたたえられていたところで、深海魚どもの寝床であったんだ。
 海溝の断崖の色は、わりあい明るい色をしていた。黄いろいような、赤味のついているような岩質で、黒ずんだ醜《みにく》い深海魚とは、およそ反対の感じのものだった。
 道を行くこと五十メートルばかりで、断崖の中へ向かって掘りすすめられている坑道の入口へ出た。これは今、試験的に、穴を掘ってみているので、土はどんな地質かどんな岩があるか、鉱石であるかそれを調べているのだという。
 坑道の中から、長い帯のようなものが出ていて、それが川の流れのようにこっちへ押しだしてくる。それはいわずと知れたベルト・コンベーヤーで、掘った土をその上に乗せて穴の外へはこび出す器械だった。
 技師と見える人が四五名、流れ出てくる土をしきりに調べている。
 すると、タクマ少年が叫んだ。
「あ、金だ。黄金だ。ふうん、やっぱりそうだったんだよ、海溝には黄金があるという噂《うわさ》があったんだが、本当だった」
「えッ、これが金か? すごいなあ」
 僕は、土の流れの中からぴかぴか光るやつを、手に拾いあげて思わず大きな声を出した。


   悲願《ひがん》の黄金《おうごん》


 僕はタクマ少年の案内で、海溝の排水地区《はいすいちく》から、またもや動く道路に乗って下町へ向かった。
 僕は、動く道路の上にうずくまり、複雑な思いに渋い顔をしていた。
 金だった。黄金が海溝の底から掘り出されていたのだ。あんなにたくさんの量の黄金を見たのは始めてだ。すばらしい富だ。あれを使えば、いろいろなものが買えるだろう。僕は非常に興奮《こうふん》して来た。
 なんとかして、あの金を持って帰りたいものである。二十年前の世界――すなわち、現に僕が一人の生徒として住んでいる焼跡だらけの世界へ?
 それはむずかしいことだ。
 考えれば考えるほど、むずかしいことだ。二十年も前へ物を移すということは、二十|粁《キロ》後へ物をはこぶこととは違って、甚《はなは》だ困難なことだ。いや、絶対に出来ないことのように思われる。
(しかし、何とか出来ないものかなあ。あれだけの黄金が、いま日本にあれば、復興《ふっこう》のためや、食料輸入のために、ずいぶん役に立つんだがなあ)
 いくらはげしい希望であっても出来ないことは出来ないんだ。あきらめるより外《ほか》ないのか。
(いや、待てよ。時間器械というものが、すでに発明されていて百年昔へ行くことも出来るし、僕がいまやっているように二十年先の未来へ行くことも出来るんだ。そういう器械が出来ている以上、何か工夫をすれば、あの黄金を二十年前の焼跡だらけの東京へ持って帰ることが出来るのではないか。――そうだ、僕はこのことを、これから真剣になって研究しよう)
 僕がこんな無謀《むぼう》に近いことを思いたったのを、諸君はあざ笑わないことと思う。ぺこぺこのお腹を抱《かか》え、あの焼跡に立ってみれば、誰だって僕と同感になるだろう。
 この悲願を、僕は二十年後の世界の、動く道路の上で思いたったのである。これから僕は、この実現に、あらゆる知恵をしぼり、あらゆる努力を払い、一日も早く目的を達したいと思う。
「あっ、待てよ。一日なんて、そんな永い時間を待っていられないんだ。僕を時間器械へ入れてくれたあの友達辻ヶ谷君は、二時間か三時間したら、僕を元の世の中へ戻してくれると約束した。そんなら、今より僕は元の世の中へ呼び戻されるだろう。それではたいへん困る。どうしたらいいだろうか、黄金を持って帰るよりも、この方のことが重大であり、大至急《だいしきゅう》よい手をうたねばならない!)
 どうしたらいいだろうか。
「来ましたよ。下町で一番にぎやかなニコニコ街です。さあ、下りる支度《したく》をして下さい」
 タクマ少年が僕に話しかけたので、僕はびっくりして吾れにかえった。
「ああ危ない。もっとゆっくり道路を乗り移ればいいんです。おちついて下さい」
 僕は、あやうく身体の平衡《へいこう》を失ってすってんころりんとするところを、タクマ少年が敏捷《びんしょう》に腕をつかんで引揚げてくれたので、醜態《しゅうたい》をさらさないですんだ。
 無事に、動く道路から下りた。
 すてきなにぎやかさだ。音楽が交錯《こうさく》して、聞こえて来る。五彩《ごさい》の照明の美しさ、それは建物を照らしているだけではなく、大空にも照りはえて虹《にじ》の国へいったようだ。
 いや、大空はこの海底都市からは見えない筈《はず》。しかしここから空を仰ぐと、高い夜空が頭上にひろがっているとしか思われないのであった。たくみな照明法を用いているのであろうか、じつにすばらしい。
 タクマ少年は、僕が人ごみの中にはぐれないようにと、手をひいて歩いてくれる。
 映画館もある。劇場もある。美術館があるかと思うと、サーカスがある。奇術魔術団大興行《きじゅつまじゅつだんだいこうぎょう》などと幟《のぼり》のたっているところもある。
「どこへ入りましょうか」
 タクマ少年に聞いた。
 僕は正直なところ、例の問題をはやく解決したいことに、呑気《のんき》に見物などしていられないとおもった。それよりは、さきほどから方々へ行ったので、かなりお腹がすいた。何かたべたい。このことを少年に話すと、
「あ、そんなら、きっとお客さんの口にあうおいしい料理を作る家へご案内しましょう。それはヒマワリ軒《けん》といって、僕の姉の家なんです」といった。
「それはいいね。ぜひそこへ連れていってくれたまえ。そして僕は君の姉さんという人に会いたいと思う」
「はい、ヒマワリ軒はすぐこの先です」
 僕は、早足のタクマ少年に手を引張られて、人波の中をぐんぐん歩いていった。これが大きなおどろきの序幕《じょまく》だとは露知《つゆし》らずに……。


   長い廊下《ろうか》


「ここが、そうなんです。姉の経営しているヒマワリ軒《けん》という料理店です」
 タクマ少年が、僕の袖をひいて立ち停《どま》らせたのは、上品な店舗《てんぽ》の前だった。白と緑の人造大理石《じんぞうだいりせき》を貼《は》りめぐらし、黄金色《こがねいろ》まばゆきパイプを窓わくや手すりに使ってあった。
「ほう、なかなか感じのいい店だ、さぞ料理もおいしいであろう」
 僕はタクマ少年について、店内へ入った。この店内の構造が、僕を面くらわせた。
 これまでの僕の知識によると、料理店の構造は、まず玄関を入ると、お帽子《ぼうし》外套《がいとう》預《あず》かり所《じょ》があり、それから中へはいると広間があって、ここで待合わせたり、茶をのんだりする。その奥に大食堂があって、卓子《テーブル》の準備が出来るとボーイさんが広間まで迎えに来る。まず、そういう構造の料理店が普通で、その外に酒場がついているところもあった。
 ところが、このヒマワリ軒と来たら、だいぶん勝手がちがう。まず入口を入ったすぐのところが円形《えんけい》の広間になっていて、天井は半球《はんきゅう》で、壁画が秋草と遠山の風景である。急に富士山麓《ふじさんろく》へ来たような気持ちになる。あまり高くない奏楽《そうがく》が聞こえていて、気持はいよいよしずかになる。そこで二分間ばかり待たされていると、「どうぞ、こちらへ」という声がして奥へ通ずる扉を自動的に開かれる。そこで私たちは奥へぞろぞろ入って行く。
「タクマ君。僕たちはなぜ待たされたんだい。やっぱり食卓の用意をととのえるためかい」と、僕は少年にきいた。
 すると少年は、頭を横にふってそれから僕の耳へそっと囁《ささや》いた。
「違いますよ。あそこで僕たちは消毒をされたんです。外から入って来た者は、どんなばい菌を身体につけているか分りませんから、それでガスで消毒したんです。もうきれいになりました。服も手も足も口の中も、十分に殺菌《さっきん》されましたから、ご安心なさい」
「ははん、そうかね」
 僕は、感心してしまった。
 ところが、今僕がタクマ少年と歩いている廊下なんだが、それがいやに長い。その廊下はどこまでもぐるぐる廻って長く続いている。廊下の壁紙の模様は、蔦《つた》の葉や紅葉《もみじ》や松などに変っていくが、しかし至極《しごく》単調である。照明も、あまり明るくない間接照明だ。ゆるやかな音が聞えてくることは、前の円形の部屋と同じだ。
「ずいぶん歩かせるじゃないか」
 僕はたまらなくなって、タクマ少年に耳うちをした。
「食前には正常な歩調で姿勢を正しく歩くとたいへん消化力が強くなるから、こうして歩くのです。この廊下は、迷路に似たもので、家の中をぐるぐる廻るようになっていますが、しかし一本道ですから、決して迷うようなことはありません。それにこの廊下を通る間に、私たちに対して或る重要な測定が行われているのです」
「重要な測定!」
「そうです。それがどんな重要な測定であるかは、やがて食卓につけば分ります。それまでこの話はお預りにしておきましょう」
 僕は異常な興味をかきたてられたが、しばらく辛抱することにした。そしてまた歩き続けた。
 そのうちに僕は、当然気がかりなことを思い出した。
 それは外《ほか》でもない。僕がこの料理店に支払うだけの金を持っているかどうか、蟇口《がまぐち》の中味のことが心配になったのだ。
「君、君。ちょっと聞くがね、この店の料理の値段はいくらだろうか。一人前が何円かね」
「料理の値段ですか。それは一人前五点にきまっています」
「五テン? 五テンて何だね。まさか五円の間違いではなかろうが……」
「五点です、間違いなしです」
 僕はタクマ少年の言葉を解しかねたが、ポケットに手を入れて財布《さいふ》をさがした。財布らしいものはどこにもなかった。これはいけない、金がなくては料理どころではない。
「あのうタクマ君。はなはだ僕がうっかりしていたが、僕はお金を持って来るのを忘れたんだがねえ。だから食事は、やめにしよう」
「ああ、支払いのことなら心配いらないです。あとで政府から支配命令書が来たとき払えばいいのですから」
「ああ、そうかね。それで安心……」
 僕は、腹をさすった。
 さて僕たちは二百メートルも長廊下を歩いた末に、やっと大食堂に出た。そして案内されるままに一つの食卓についたが、その食の豪華さに目を奪われた。
「お客さん、料理が来ましたよ」
 タクマ少年の声に、僕は食卓へ目を移したが、そのときは僕は意外さに目をみはらねばならなかった。


   見えざる診察者《しんさつしゃ》


「おや、タクマ君。君の料理はいやに量がすくないじゃないか。それに、僕の皿に盛ってある料理に較《くら》べると見劣《みおと》りがするじゃあないか。ははあ、君は料理を注文するときに、わざと遠慮《えんりょ》したんだね」
 僕はそういって、食卓越しにタクマ少年の顔を見た。
 タクマはそれを聞くと、にやにや笑い出した。
「お客さん。僕は遠慮なんかしませんよ。だってそうでしょう、ここは僕の姉の経営している料理店ヒマワリ軒なんですものねえ」
「でも、君。僕ばかりがこんなすばらしいごちそうをたべるんじゃ、気がひけるよ。君は遠慮しているのに違いない」
「そうじゃないんですよ、お客さん。そんな大きな声を出して、他の人に聞かれると笑われますよ。だって、食事にどんなものをたべるかということは、自分が勝手にきめることが出来ないんですものねえ」
「なんだって。料理店で食事をするのに、自分で好みの料理をあつらえることが出来ないと、君はいうのかね」
 そんなばかなことがあってたまるものか。僕はタクマ少年の言葉を信じかねた。
「そうですとも」タクマ少年は自信にみちた声でいった。
「私たちの現在の健康状態に最も適した料理が選ばれるのです。それは保健省《ほけんしょう》の仕事なんです」
「なにを君はいってるのか、さっぱり君の話はわからないね」
「わからないですかねえ。いいですか。私たちの健康状態は、めいめいに違っています。脳の疲れが他人よりもひどい人もあれば、また心臓が弱っている人もあります。ですから脳の疲れている人には、脳の疲労を急速になおすような料理をたべさせることが必要ですし、また心臓が弱っていて脈がよくない時には、心臓を強くしてやる力のある食物をすぐたべさせなくてはならないのです」
「ふん。それはわかるが、そんな薬をのめばいいじゃないか」
 僕はそうだと思うから、またいつもそうしているから、そのようにいった。
「いや、薬をのんで健康の失調をなおすなどということは昔流行した不自然な、そして損なやり方です。あの妙ちきりんないやな味のする薬をのむ不愉快を考えてみただけでも、あれは人間のすることじゃありませんね。だから近世においては、食物でもって健康の失調をなおすのです。つまり、健康の水準に戻すために、一番適した料理をたべる。その人の健康がなおる料理だから、身体によく合います。だからそれをたべると、いかなる他の料理をたべるよりもずっとおいしく感ずるのです。一挙両得《いっきょりょうとく》とは正《まさ》にこのことです。健康の失調はなおるし、口にもすてきにおいしいし、両得ではありませんか」
 タクマ少年のいうことは、なるほど道理にかなっている。誰だって、薬をのむよりは、おいしい料理をたべることを好むだろう。魚がたべたくて仕様がないときには魚肉が持っている蛋白質《たんぱくしつ》やビタミンのAやDが身体に必要な状態にあるわけだし、昆布《こんぶ》がたべたくて仕様がないときには、身体に沃度分《ヨードぶん》が必要な場合なのであろう。
「しかしねえ、タクマ君。僕らが今どのような健康状態にあるかを知らないくせに、このとおり特別料理を僕らにあてがうのは、でたら目すぎるではないか」
「いや、そんなことはありません。私たちはこの食堂に入る前に、ちゃんと健康状態を調べられたんだから、まちがった料理をたべさせられることはありませんです」
「あんなことをいってら、いつ、僕らの健康状態が調べられるかね。そんな診察なんかちっとも受けやしなかったじゃないか」
 僕はタクマ少年のでたら目をやっつけた。
「いいえ、ちゃんと診察されましたよ」
 タクマ少年のこの返事は、僕にとって意外だった。
「君はどうかしているよ。少なくとも僕はどこに於《おい》ても診察されたおぼえがない」
「たしかに診察は行われました。さっき待合室で消毒されてから、この大食堂へ入るまでに、かなり長い廊下を一人ずつ歩かされましたねえ。あのとき私たちは一人ずつ診察をうけたのです」
「おや、そうかね。だが、誰も医師らしい人は見えなかったし、僕の胸に聴診器《ちょうしんき》があてられたおぼえもないが……」
「あれは廊下の両側の壁の中に、電気|診察器《しんさつき》があって、それで診察するんです。ですから見えもしないし、また非常にくわしい診察も出来るわけです。あんまりしゃべって[#「しゃべって」は底本では「しゃべて」と誤植]いると、料理がまずくなりますから、たべましょう。どうもごちそうさま」
「そうだ。とにかくたべなくてはね。大いに腹が減った」
「私に出された料理が、お客さんのよりもみすぼらしいということは、お客さんの方が私よりも健康の失調がひどいのです。おわかりでしょう」
 なるほど、たしかにそうだ。


   カスミ女史《じょし》


 食事が終ったあとで、かねて会いたいと思っていたカスミ女史と初対面《しょたいめん》のあいさつをとりかわした。
 カスミ女史は、タクマ少年の姉さんであり、そしてこの料理店ヒマワリ軒の経営者であった。僕は、この海底都市において、はじめて婦人と話をする機会にぶつかったわけだ。
 女史は、年のころ二十歳と思われる。まだうら若い婦人であった。ひじょうに美しい人で、目鼻だちがよくととのって居り、口許《くちもと》は最も魅力に富んでいたが、そのつぶらな両眼は、どんな相手の心も見ぬきそうな知的なかがやきを持っていた。
 いや、事実カスミ女史は、なみなみならぬすぐれた頭脳の持主であり、その後、僕は女史からさまざまな指導をうけ、あやうい瀬戸《せと》ぎわをいくたびも女史に助けられた。それはいずれ綴《つづ》っていくつもり。とにかく女史と二人きりで語り合った初対面は、非常に印象的なものであった。
「ああ、本間さんでいらっしゃるの。弟をたいへん愉快に働かせて下さるそうで、お礼を申します」
「いや、どうも。僕の方こそ、タクマ君にたいへん厄介をかけていまして、恐縮《きょうしゅく》です」
「そうなんですってね、あなたからすこしも目が放せないといって、弟が心配して居ましたわよ。当地ははじめてなんですってねえ」
 僕は、カスミ女史からずけずけいわれて、顔があつくなるのをおぼえた。
「はい、はじめてですから、万事《ばんじ》まごついてばかりいます」
「一体あなたはどこからいらしたんですの」
 痛い質問が、女史の紅唇《こうしん》からとび出した。僕はどきんとした。
「ちょっと遠方《えんぽう》なんです」
「遠方というと、どこでしょう。金星ですか。まさか火星人ではないでしょう」
「ま、ま、まさか……」
 女史の質問に僕はどんなに面くらったことか。これでも僕は人並《ひとなみ》の顔をしているつもりである。それを女史はまちがえるにも事によりけりで、僕を火星人ではないだろうか、金星から来た人かと思っているのである。事のおこりは、僕がいった「遠方」という言葉をとりちがえたにしても、あまりにひどいとりちがえかたである。
「では、どこからいらしったの。ねえ本間さん」
 困った。全く困った。僕は困り切った。嘘をつくのはいやだし、それかといって本当のことをいえば、怪《あや》しき曲者《くせもの》めというので、ひどい目にあうにちがいない。
「ほほほほ。ほほほほ……」
 とつぜんカスミ女史は、声高く笑いだした。
「よく分りました。やっと今、分ったんです。まあ、そうでしたか、ほほほほ」
 僕は目をぱちくり。気持ちが悪いったらない。女史は何をひとり合点しているのであろうか。
「ねえ本間さん。あなたのいらしたところは……」
 と、女史は僕の耳に口をつけて、
「あなたは、うそつきの人間ですね。本当の人間じゃないんですね。あなたは二十年前か十五年前の人間で、こっそりこの世界に忍びこんで来たんでしょう。どうです、ちゃんと当ったでしょう。白状《はくじょう》なさい」
 僕は全身に汗をかいて、今にも顔から火が出そうであった。
「はッ。それは……それはご想像にまかせます。しかし一体それは、なぜお分りになったんですか」
 これまでに僕の正体を見破った者はひとりもないのだ。しかるにカスミ女史は、何を証拠《しょうこ》に、断定《だんてい》したのであろう。
「いってあげましょうか」
 女史はくすくす笑った。
「あなたの影法師《かげぼうし》を、よく見てごらんなさい」
「えっ、影法師ですって」
「そうです。うしろをふりかえってごらんなさい。壁にうつっていますね。ほほほほ」
 僕は、ぎょっとしてうしろをふりかえった。
「ああッ、これは……」
 壁にうつっている僕の影法師! なんとそれは大人の影法師ではなく、坊主頭《ぼうずあたま》の子供の影法師だった。つまり僕は今大人の姿をしているが、壁にうつっている影法師は子供の姿をしているのだった。僕が時間器械に乗って、二十年後の世界にもぐりこんでいることを影法師ははっきりと語っているのである。僕は身体がすくんでしまう思いで、頭をかかえた。
「たいへんよ。気をつけなくては……。もし検察官《けんさつかん》に知れると、あなたは密航者《みっこうしゃ》として、たいへんな目にあわなくちゃならないわよ。一体どうなさるおつもり?」
 女史の言葉に、僕は塩をふりかけられたなめくじのように、いよいよ縮《ちじ》まった。


   密航者狩《みっこうしゃがり》


 あんなにおどろいたことは今までにない。僕は大人になっているつもりで、なまいきな口をきいているのに、僕の影法師は、いが栗《ぐり》の頭の子供なんだ。そして、それをヒマワリ軒の女主人カスミ女史に言いあてられてしまったのは、一層きまりの悪いものだった。僕の顔は火が出そうにあつくなった。
「実は………実は……」
 僕は、先生の前に出たいたずら小僧《こぞう》の様《よう》に、どもった。
 カスミ女史は、こっちをみて、にやにや笑っている。女史の方からみれば、僕がこんなに困っているのが面白くてならないのだろうがこっちは全身|汗《あせ》だくである。
「実《じつ》は、僕は二十年前の世界から時間器械に乗って、当地へやってきた本間という生徒なんです。申訳《もうしわけ》ありません」
「申訳ないことはありませんけれど、よくまあそんな冒険をなすったものねえ」
「はっ。ちょっと好奇心にかられたものですから……」
 僕は頭をかいた。
「僕は見つかると、ひどい目にあうでしょうか」
「それはもちろんですわ」
 女史は急にこわい顔になって肩をそびやかした。
「この国では時間器械による旅行者を厳重《げんじゅう》に取締っているのです。というわけは、あまりにそういう旅行者がこの国へ入りこんで、勝手なことばかりをして、荒しまわったものですから、それで厳禁《げんきん》ということになってしまったのよ」
「ははあ。彼等は一体どんなことをしたんですか」
「いろいろ悪いことをしましたわ、料理店に入ってさんざんごちそうをたべたあげく、金を払わないでたちまち姿を消してしまったり……」
「ああ、ちょっと待って下さい」
 僕は、すっかり忘れていたことを思いだして、あわてて声をはりあげた。
「そういえば、僕はまださっきの食事のお金を払ってありませんでしたね。今お払い致します」
 僕は、ポケットをさぐってみた。実は、ポケットにお金の入っている自信はなかった。こっちへ来るについて、お金の用意なんかしなかったので、恐《おそ》らくどのポケットにもお金なんか入っていないことであろう。大失策《だいしっさく》だ。僕はいよいよこの国の罪人《ざいにん》になるほか道がないのだ。困ったことになった――おや、ポケットの中に、何かあるぞ蟇口《がまぐち》みたいなものが……。
 僕は、おそるおそる、それをポケットから出してみた。青い皮で作ってある大きな蟇口。
(あっ、蟇口だ! 相当重いぞ!)
 僕は夢に夢見る心地で、蟇口をあけた。
(ほほッ、すばらしい! 金貨が入っている!)
 本当だ。大きな蟇口の中には、ぴかぴか光る金貨が百枚近くも入っていたではないか。
(どうしてこんなすごい大金が、僕のポケットの中に入っていたのだろう)
 僕は不思議で仕方がなかった。
 しかし今は、その不思議を追っているひまがない。なぜなら、僕の前にはカスミ女史が待っている。
「どうぞ、この蟇口の中から、料理代をお取り下さい」
 料理代はいくらか知らない。たとえ料理代は何万円だといわれても、この金貨は一体いくらの金貨か分らないから、蟇口の中からその何枚を出していいか分らない。だから蟇口ごと女史の前にさし出したのである。
「まあ、たくさんお金を持っていらっしゃるのね。……料理代は、その金貨一枚をいただいて、おつりをさし上げますわ」
「そうですか」
 女史は蟇口の中から金貨を一枚つまみあげ、戸棚のところへ持っていって引出《ひきだし》をあけて、何かがちゃがちゃやっていたが、やがて何枚かの銀貨を持って戻って来た。
「はい、おつりです」
「こんなに沢山のおつりですか」
 僕はおどろいた。二十年後の世界は物価《ぶっか》がたいへんやすいようである。
 女史が元の席へ戻ったので、僕はさっきの話のつづきをしてくれるよう頼《たの》んだ。
「もうその話はよしましょう。あなたに悪いことを教えては、よくありませんから」
 女史はそのことについては、もう口をつぐんでしまった。
「とにかくそんなわけで、時間器械による密航者が見つかると、警察署は直《ただ》ちにその密航者を冷凍してしまうのです」
「冷凍? へえッ、どうして冷凍になんかするのですか」
 僕は目まいがして来た。
「冷凍にすると、もう時間の上を歩けなくなってしまうんです。人体を形成するあらゆる物質――すなわち電子も陽子《ようし》も中性子《ちゅうせいし》もみんな活動を極度に縮めてしまうので、人間は丸太ン棒と同じになります」
 女史は、鼻をつんと高くした。


   合法的《ごうほうてき》滞留《たいりゅう》


 時間器械を使ってこの国へもぐりこんだ密航者は、見つけ次第《しだい》、警察の手によって冷凍されてしまうと聞いて、僕は寒気を催《もよお》した。
「冷凍されちまうと、もう絶対にこの国から逃げ出せませんですかね」
 僕は未練《みれん》なようだが、更にカスミ女史に聞きただした。
「それはもちろんそういうわけでしょう。かんじんの本人が冷凍されちまって、脳も働かなくなり、細胞もなにも凍ってしまえば、動きがとれないじゃありませんか」
「そうですかねえ。そして、それからどんな目にあうんですか。つまり刑罰《けいばつ》の重さはどんなものでしょうね」
「罰の重い軽いに従って、冷凍時間に長い短いがあります。また、たびたび罰を重《かさ》ねる悪質の者は、永久冷凍にして、物置などの壁の材料に使われます」
「永久冷凍にして、物置などの壁の材料に使うというと、どんなことになるんですかね」
 僕には、カスミ女史の言葉の意味がはっきりのみこめなかった。
「つまりそれは、永久冷凍なんだから、コンクリートや煉瓦《れんが》や材木などと同じような固い材料なんですからねえ。ですから冷凍人体をたくさん積みあげ、壁などをこしらえるわけです。冷凍の物置などにはよく使われていますよ」
 おやおや、たいへんな目にあうものだと、僕は気持ちがわるくなった。百年も千年も、物置の壁になって暮しているなんて、人間のやることではない。
「なんとか合法的に、この国に停《とどま》る道はないものでしょうか」
 冷凍物置の壁にされちまわない先に、なんとか安全な道をとっておきたいものだと考えた。
「そうですね」
 カスミ女史は首をかしげる。
「ないことはありませんが、手続きがなかなか面倒でしてね……」
「手続きの面倒なくらいはいいですよ。なにしろ冷凍人間になってしまわない先に、その手を打っておかないと、後悔《こうかい》してもおいつきませんからね。どうぞその方法を教えて下さい。それは一体どうすればいいのですか」
「それはね……でもたいへんなのですよ、そのことは……」
 と、カスミ女史はいいにくそうにしている。
「早く教えて下さい。どんことでも、僕はおどろきやしませんよ。とにかく何かの合理的な手段によって、この国で当分暮すことが出来れば、たいへんうれしいのです」
 実は、僕は例の黄金をこの国から持ち出して、本当の東京へ土産に持って行こうという気を起こしているのである、しかしこのことはうっかり誰にももらすことが出来ない。そんなことが分ったら、それこそ僕は永久に冷凍されちまって壁の代用品にならなければならない。
「その方法の一つは、研究材料になるのです。つまり、あなたの場合なら二十年前の人間として、二十年前あるいはそれより以前《いぜん》の生活や社会事情や人格《じんかく》や嗜好《しこう》、言動《げんどう》、能力などといういろいろな事柄《ことがら》を研究する材料になることですね。それなら考古学者《こうこがくしゃ》が欲しいというかもしれません」
「ははあ、考古学者ですかね」
 僕は急に自分がかびくさい人間になってしまったような気がした。
「あるいは、医科大学の標本室へ入れておかれる手もありますがねえ」
「ああ、それも悪くないですね。大学生を相手に、僕が話をしてやればいいのでしょう」
「それもありますけれど、主な仕事は、はだかになって、身体をいじらせることです。男の大学生も女の大学生も居ますが、この二十年に人類ばどんな進化をしたか、性能はどんなに変化したか、それを器械で調べるのです。なにしろ学生なもんで、扱い方が乱暴で、一二ヶ月のうちに手足がもげてばらばらになってしまうそうです」
「ああ、それは駄目だ」
 手足がもげてばらばらになるなど、うれしいことではない。
「やっぱり考古学の方がいいですね。どこかに親切な思いやりのある学者を御存じでしょうか」
「そうですね」カスミ女史は目をぱちぱちさせていたが、
「実は私の夫のカビ博士は考古学者なんです。話をしてみたら、あるいはあなたが欲しいというかもしれません。でもね、あなたは辛抱《しんぼう》なさるでしょうか」
 僕はよろこんだ。カスミ女史の夫なら、きっといい人であろう。
「辛抱はしますよ。僕、これでなかなか辛抱づよいのですからね」
「でも、私の夫のカビ博士は、学問に熱心のあまり、時には気が変になるのですよ」
「え、気が変に? いや、それでもいいですよ、僕がこの国に停《とどま》っていられるなら……」
 前後も考えず、僕は決めてしまった。


   考古学教室


 このすばらしい海底都市に、もっと永く居たいばかりに、僕はいろいろと苦労をしなければならなかった。
 僕の欲が探すぎると責《せ》めてはいけない。誰だって僕みたいな境遇《きょうぐう》におかれるなら、きっと僕と同じ考えをおこすにちがいない。なんにしても二十年後のこのすばらしい海底都市の文化発達のありさまを一目見た者は、もとの焼跡《やけあと》だらけの、食料不足の、衣料ぼろぼろの、悪漢《あっかん》だらけの一九四八年の東京なんかに戻りたいと誰も思わないだろう。
 そのように、元の東京へ戻りたくないのであるが、僕を時間器械にのせてここへ送ってくれた、友人辻ヶ谷君は、いつその器械をまわして、僕をもとの焼跡へよび戻すかしれないのだ。彼との約束は僕がたった一時間だけ、二十年後の世界を散歩することだった。こうと知っていたら、半年か一年の長期にわたる逗留《とうりゅう》を頼んでおいたものを。
「しかし、僕がこの海底都市へ来てから、もう一時間どころか、すくなくとも十時間ぐらい経《た》っている。辻ヶ谷君は、僕との約束を忘れているのかなあ。もう一年か二年、忘れていてくれるといいんだが、とにかく、いつ元の焼跡へ呼び戻されるかと思えば、全く気が気じゃないや」
 幸いにもカスミ女史が、その夫君《ふくん》である考古学者カビ博士を紹介してくれたので、なんとかうまくやってもらえるかもしれない。
 だが、聞くところによると、カビ博士はかなり変り者らしい。きげんをそこねないで、うまくやってくれるといいが、もしそうでないときは、たちまち僕を冷凍人間にしてしまうかもしれない。気がかりなことではある。
 タクマ少年に案内されて、例の動く道路に乗り、方々で乗換え、やがて大学へ着いた。すばらしい構内だった。通路の天井《てんじょう》が非常に高く、千メートル以上もあるような気がした。そのことをタクマ少年にいうと、少年は笑いをかみころしながら、
「天井の高さは、ほんとうは三十メートル位しかないんです。しかし照明の力によって、上に大空があると同じような錯覚《さっかく》をおこすようになっているのですよ」
 と、説明してくれた。
 僕は感心した。この進歩した海底都市では、人間の気分ということを大切に扱っている。気分を害するようなことは極力《きょくりょく》さけ、そしてすこしでも人間の気分をよくして生活を楽しませるように都市|施設《しせつ》や居住施設が工夫せられている。だからこの都市の人々は、誰もみなよく肥《ふと》って居り、血色もよく、元気に見える。声だって、みんなあたりへひびくようなでかい声を出す。どこからか息がすうすう抜けているような、あの焼跡で聞く虫細い声なんか、いくら探してもない。
 考古学教室は、五区の左側にある赤い煉瓦《れんが》づくりの古風な二階建であって、まわりには銀杏樹《いちょう》とポプラとがとりまいていた。僕はこの見なれた風景に、うっかりここが海底都市であるということを忘れるところだった。
「わざわざ、あのように赤煉瓦《あかれんが》なんかを使って建てたんです。なにしろ考古学の研究をするんですものねえ」
 とタクマ少年はあいかわらず忠実に案内役をつとめる。
「銀杏樹《いちょう》やポプラを植えこむには、ずいぶん困りました。でも、赤煉瓦のまわりには木がないと、考古気分が出ないというわけで、いろいろと工夫《くふう》をこらして、やっと成功したのです。ご承知でしょうが、樹木というものは、太陽がないと育たないものですからね」
「ふん。そのとおりだ」
「で、つまり成功した工夫というのは、人工で、太陽と同じ成分の光線の量を、この樹木だけに注ぎかけてあるんです。その器機は天井にありまして、あらゆる方向からこの樹木を照らしています。しかし私たちの目では、普通の照明とはっきり区別しては見えないのですけれど」
「そうかね。なんでも工夫をすると道は見つかるんだね」
「さあ、教室へ入ってみましょう。姉からも申したと思いますが、義兄《ぎけい》のカビ博士はたいへんな変り者ですから、何をいいましても、どうか腹をお立てにならないようにお願いいたします」
「大丈夫だとも。僕は十分心得ているよ」
 僕たちは古風なせりもちの下をくぐって、建物の中に入った。中世紀《ちゅうせいき》の牢獄の中かと疑うほどのうすぐらい廊下を二三度曲って奥の方へ行くと、タクマ少年は一つの扉の前に足をとどめた。扉には、「教室カビ博士|私室《ししつ》」という名札がかかっていた。
 と、いきなりその扉が動き出したと思うと壁の中にはいってしまった。開いた戸口に、頭の大きな一人の異様な人物が白い実験着をつけて現われ、僕をにらみつけた。
 その顔に、どこか見覚えがあった。


   標本勤務《ひようほんきんむ》


「カビ教授、ここにお連れした方がさっきテレビ電話でお話した本間さんでいらっしゃいます。どうぞよろしく」
 タクマ少年は、あざやかに僕をカビ博士に紹介してしまった。カビ博士は少年の義兄《ぎけい》に当たるんだから「ねえ兄さん」とでも呼びかけるかと思いの外《ほか》、そうはしないで「カビ教授」などと、しかつめらしく名を呼ぶところが、なんだかわざとらしかった。だが、それも博士が、特別なる変人だから、そのようにしかつめらしく扱うのかもしれなかった。
「君はちゃんと勤めるだろうな。途中で逃げ出すようなことはなかろうな。もしそんなことがあると、わしは君を保護することに責任がもてないんだ。今はっきり誓いたまえ」
 カビ博士は、あいさつも抜きにして、いきなり僕の頭の上で、かみつきそうないい方で、わめいた。
 僕はもちろん、勤めは怠《なま》けないから、ぜひ保護をしていただきたいと頼んだ。
「ふむ。では契約《けいやく》した。学生が待っているから、早速《さっそく》標本《ひょうほん》になってもらおう。こっちへ来なさい」
 博士は廊下へ出ると、すたすたと右手の方へ歩き出した。その足の速いことといったらまるで駆足《かけあし》をしているようだ。僕は博士を見失ってはたいへんと、けんめいに後を追いかけた。そしてタクマ少年と、どこで別れてしまったのか知らないほどだった。
「なにをまごまごしている。ここだ、ここだ」
 博士のわれ鉦《がね》のような声にびっくりして、僕は博士が手招《てまね》きしている一つの室へとびこんだ。
(あっ、いい室だなあ)
 思わず僕は感嘆《かんたん》の声を放った。
 なんという気持ちのいい室であろう。室は小公会堂《しょうこうかいどう》ぐらいの大きさであるが、まるで卵の殻《から》の中に入ったように壁は曲面《きょくめん》をなしていてクリーム色に塗られている。清浄《せいじょう》である。そしてやわらかい光線がみちみちていて、明るいんだが、すこしもまぶしくない。
 室の中には、やまと服を着た男学生と女学生とが十四五名集まっていて、カビ博士と私を迎えた。男学生と女学生の区別は、男学生の方はぴったり身体にあう服を着ていて、身体の形がそのまま外に現われているのに対し、女学生の方は背中にひだのある短いカーテンのようなものを垂《た》らしていた。それから頭髪の形もちがっていて、女学生は髪を細い紐《ひも》みたいなものでしばっていた。
 カビ博士は、僕を連れて、室の中央まで行って、学生に紹介した。
「これは本間君といって、今から二十年前の人間だ。いいかね、二十年前だよ」
 学生たちは、黙ってうなずいた。非常におとなしい学生たちである。そして博士のいった事柄《ことがら》に、べつにおどろいている様子はなかった。僕は意外に思った。
「二十年前の人間と、現代のわれわれとの間に、いかなる人体上の差違があるか。この興味ある問題について、諸君はこれから好ましき一つの機会があたえられるであろう――さあ、装置を出すから、うしろへ下ってくれたまえ」
 博士がそういって、自分も五足六足うしろへさがった。学生たちも下がって、互いに間隔《かんかく》の広い円陣《えんじん》がつくられた。
「ええと……装置のエル百九十九号。二百一号、二百二号、二百三号。それからケーの十二号、四十号、八十号。それだけ」
 カビ博士は天井の方を向いて、まるで魔術師のように、装置の番号をいった。
 すると、目の前におどろくべきことが起った。それまでは一面に平らな床《ゆか》であったものが、博士のことばが終るか終らないうちに、まるで静かな海面に急に風が吹きつけて波立ちさわぎ出すように、床がむくむくと動き出し、下から妙な形をしたものがせりあがって来た。それはすべて、にぶい金属|光沢《こうたく》を持った複雑な器械類であった。ほんのしばらくのうちに、円陣の中にはりっぱな実験装置が出来上がった。
 平《たい》らな劇の舞台の上に、とつぜん大道具が組立てられ、大実験室の舞台装置が出来上ったようなものであった。その派手《はで》な大仕掛《おおじかけ》には、僕はすっかり魅《み》せられてしまって、ため息があとからあとへと出てくるばかりだった。
 この装置群の中央に、直径が一メートルに三メートルほどの台があり、その上に透明な、やや縦長《たてなが》な大きな硝子様《ガラスよう》の碗《わん》が伏《ふ》せてあった。そしてその中の台の上には、何にもなかった。そのくせ、まわりの各装置は、うるさいほどに、さまざまな器械器具によって組合わされているのだ。
「おい本間君。この中に入ってくれたまえ」
 博士はそういうと、いきなり僕の背中を押して、前へついた。と透明《とうめい》な大碗《おおわん》が、すっと上にあがった。その下へ僕がころがりこむのと、その透明な大碗が落ちて来てその中に僕をふせるのと、同時だった。


   時間軸《じかんじく》逆《ぎゃく》もどり


 大きな透明の碗《わん》の中にふせられてしまった僕は、覚悟の上とはいいながら、やはりあわてないでいられなかった。僕は碗から外へ逃げだし、行動の自由をとりかえしたいと思って、碗の内側をぐるぐると這《は》いまわった。が、どこにも脱けだすすき間は見つからなかった。
 僕は、透明な碗のふちに手をかけて、この碗を持ちあげることを試みた。だが、それもだめだった。碗は非常に重い。カビ博士はあのようにこの碗をかるがるとあつかったのに……。
「もしもし、僕をここから出して下さい。いくら僕が標本勤務をひきうけたといっても、こんなに人格を無視した監禁《かんきん》をするなんてけしからんじゃないですか」
 僕は大憤慨《だいふんがい》をして、透明碗の壁を両手でたたき続けた。すると男女の学生たちは、みんな僕の前に集まって来て、透明|壁越《へきご》しに僕をしげしげと見まもるのだった。目をぐるぐる動かしておどろいている学生もあり、また大口をあいて呆《あき》れている学生もあった。カビ博士は、学生たちにはすこしも構わず、配電盤の前に立って計器を見上げたり、それから急ぎ足で、僕をのせている台の下へもぐりこんだり、ひとりで忙しそうに動いていた。そんなわけだから、博士はもちろん僕の訴えていることに聞き入る様子はなかった。
「ねえ諸君。おたがいに人格を尊重しようじゃないですか。膝をつきあわせて、僕は観察されることを好むものである。諸君は、なによりもまずこの透明な牢獄の壁を持上げて、向うへ移動して下さるべきである。さあどうぞ、諸君、手を貸して下さい」
 男女学生たちの表情には、あきらかに興奮《こうふん》の色が現われた。その興奮をきっかけに、彼等はこの透明壁へとびついて持上げてくれるかと思いの外《ほか》、彼等は肩越しに重なりあって僕の方へ首をさしのべるばかりであって、僕の注文に応じてくれる者はひとりもなかった。僕はがっかりすると共に、新しい憤《いきどお》りに赤く燃えあがった。
 そのときだった。のぼせあがった頭が、すうっと涼しくなった。憤りが、急にどこかへ行ってしまったような気がする。
 と、ぼッと目の前がうす紫色に見えだした。よく見ると、それは透明碗の壁《かべ》が、どうしたわけかうす紫色に着色したのである。なおよく見ると、それは縞《しま》になっている。そして縞がこまかくふるえている。――僕はますます爽快な気持ちになっていった。
 が、変なことが起こった。僕の来ている服が、いやにだぶだぶして来た。そして服が、僕のからだから逃げようとするではないか。
(へんてこだぞ、これは……)
 誰か、見えない人間が僕のまわりにいて、僕の服を脱がそうとしてひっぱっているようでもある。まさか、そんな人間があろうとも思われないけれど。
 服が脱がされては困る。僕は忙しく、一生けんめい自分の服のあっちを引張り、こっちを引張りして、目に見えない相手と力くらべをした。
 ああ、しかし、服は僕の力にうち勝ち、からだから、手から足から、逃げだした。僕がやっきになって一人|角力《ずもう》をとっているうちにとうとう僕は赤裸《はだか》になってしまった。
「これが二十年前の彼の姿である。非常に興味のあるからだを持っている。よく観察されるがよろしかろう」
 これはカビ博士だった。
 見ると、博士はいつの間にか、透明碗の側に立って、僕の方を指して講義を始めているではないか。学生たちも、今までにない真剣な顔で、僕を穴のあくほど見つめている。僕ははずかしさのあまり、全身が火と燃える思いであった。男学生はともかく、女学生に僕の赤裸《はだか》を見られていると思うと、消えて入りたかった。僕は、逃げだした服を追いかけた。が、碗の壁のそばにぽっかりとあった穴の中に、僕の服はするすると入ってしまって、僕は捕《つか》まえそこなった。
「二十年前の人間は、悪病と栄養失調と非衛生とおどろくべき無知無能のために、このような衰弱《すいじゃく》したからだを持っている。よくごらんなさい。これでも十五歳の少年なのである」
 十五歳の少年? カビ博士は、なんというばかなことをいっているのだろうと、僕はふきだしかけて、そのときはっと気がついた。
 手を顔にやってみたところが、髭《ひげ》がないではないか、あのぴーンと立てた僕の特徴になっている髭がないのだ。僕は自分の手を見た足をみた。手足はいつの間にか小さくなっていた。
(ああッ、僕は元の少年の姿になっている。時間器械が働かなくなったのか。元の世界によびかえされたのか。それとも……)
 と、少年の姿に戻った僕は大狼狽《だいろうばい》であたりを見まわした。ところが僕の前にはさっきと同じく、十四五人の男女学生やカビ博士が熱心に僕を見つめている。
 これは一体どうしたわけか。


   興奮《こうふん》する学生


 いつの間にか十五の少年の姿に戻された僕は、カビ博士とその学生たちの前で、さんざんに標本として勤《つと》めさせられた。
 博士は、僕の健康や知能の欠点ばかりを探して、学生たちに講義をした。口を大きくあけさせて、虫くいだらけのらんぐい歯を見せさせたり、肺門《はいもん》のあたりにうようようごめている結核菌《けっかくきん》を拡大して見せさせたり、精神力の衰弱状態を映写幕の上に波形《なみがた》で見せさせたり、そのほかいろいろなことをやってみせた。僕は、なるべく聞いてないことにしたけれど、やっぱり博士の講義が耳に聞こえた。そして僕は、自分のからだが、まるで半分くさった日かげの南瓜《かぼちゃ》のように貧弱きわまるものであることに恥じ、且《か》つ自分で自分がいやになった。
 カビ博士の講義がすむと、こんどは男女学生が、僕のからだをいじりまわした。それは直接手でいじるのではなく、ぴかぴか光った長い消息子《しょうそくし》のようなものを、透明碗の外から中へつきたて、その先についている五本指の触手《しょくしゅ》みたいなものによって、僕のからだをいじるのであった。僕には、いくら圧《お》しても鋼鉄の壁のように硬くて動かない透明碗の壁を、学生たちが消息子を手にとって壁につきさすとかんたんにぷすりとそれをつきとおしてしまうのであった。なんの力を利用したのか、すごい力だ。しかし消息子の先についている触手《しょくしゅ》は、手ざわりのよいやわらかいものであったから、こっちのからだは痛みはしなかったが、そのかわりみんなが無遠慮《ぶえんりょ》に十何本もの消息子でもって僕の腋《わき》の下でも咽喉《のど》でも足の裏でもお構いなしにさわるので、くすぐったくてやりきれなかった。
 その間に、僕に話しかけてくる学生もいた。僕はやりきれなくていい加減《かげん》な返事をしてお茶を濁《にご》した。全くやりきれない。この世界に停《とどま》っていたいがために、こんな苦痛をこらえているわけであるが、ずいぶん、がまんがなりかねる。
「博士。標本人間の肌の色が変って来ましたですよ。足なんか長くなりました」
 よく喋《しゃべ》りまわっている一人の女学生が、カビ博士の胸を叩いて注意をした。
 博士は眉をあげて僕の方を見た。
「ははあ、なるほど。磁界《じかい》がよわくなったらしい。君、ダリア嬢。あの配電盤の黄いろの3という計器の針を18のところまであげてくれたまえ。そうだとも、もちろんその計器の調整器《ちょうせいき》のハンドルをまわしてだ」
 ダリヤ嬢とよばれた猿の生まれかわりみたいな顔のお喋《しゃべ》り姫は、博士に命ぜられると、すぐ配電盤のところへ行って、そのとおりにした。
 すると僕は気分が急に悪くなった。見ると自分の足が小さく縮《ちじ》んでいく。肌色がわるくなる。――どうやら僕はある器械が出している磁場《じば》の中にいるらしく、そして今しがたその場の強さがよわくなったので、僕のからだは二十年後の世界の方へ滑《すべ》り出《だ》したものらしい。それを今ダリヤ嬢が場の強さをつよくして元へ戻したものらしかった。
 とにかく妙な仕掛を使っているらしい。それはそのあたりに並んでいる装置《そうち》のうちのどれからしいが、時間器械と同様な働きをするものらしい。
 いや、それはそのとおりであることが、後になって学生と博士との会話によって知れた。僕はそれを知って、むしろ安堵《あんど》の胸をさすった。カビ博士の器械によって、一時僕が二十年前に戻されているのは我慢できる。なぜなら待っていれば、博士はこの海底都市の世界へ私を戻してくれることは間違いないからである。しかし、もしかの学友辻ヶ谷君の手によって、二十年前の焼跡へ戻されたなら、これは僕の楽しみにしている時間旅行がここで中絶してしまうことを意味する。――どうぞ“辻ヶ谷君よ。僕のことは忘れて、僕が満足するまでどうぞ僕を二十年後の海底都市で生活させてもらいたい。このことを君に確実に通信できないので、実は僕はいつでもびくびくしているのだよ”
 標本勤務は一時間で終った。そこで僕は元のはねあがった髭《ひげ》の大人の姿へかえされ、服も着た。僕はようやく安心した。博士は僕を透明碗から外へ出してくれた。
「本間君。どうじゃったね。標本勤務は、あんがい楽なものだろう」
 博士は、今までになく機嫌《きげん》のいい調子で、僕に話しかけた。
「いやいや、僕はうんと疲《つか》れましたよ」
「それはあとで食事をすれば、たちまち直るから心配ない」
「そうですかね……それにあの学生さんたちが無遠慮《ぶえんりょ》に僕のからだをいじりまわすので閉口《へいこう》しました」
「おいおい慣《な》れれば、大した苦痛じゃなくなるよ。なにしろ学生たちは君に対して異常な興味をもっている。だから君は今後ますます大切に扱《あつか》われるだろう」
「そんなに彼等は興味を持っていますかね」
 そのことが災難の火の元だとは知らずに、僕はむしろ得意になって聞きかえした。


   五頭《ごとう》パイプ


 カビ博士の顔の下半分は黒い毛でうずもれている。その毛むくじゃらの草原のまん中が、ぽっかりあくと、赤いものが髭越《ひげご》しに見える。それは博士の口の中の色である。この赤いきんちゃくのような口は、ひろがったりすぼまったりして、よく動く。そして髭の中から博士のがらがら声がとび出して来るのである。
 博士は、僕との対談のうちに、安全|剃刀《かみそり》の柄《え》をくわえた――と見えたが、それから煙が出てくるところを見ると、それは安全剃刀ではなくて、どうやら煙草のパイプの類らしいことが分った。
 普通のパイプは、煙草をつめる火皿、すなわち雁首《がんくび》が一つである。ところがカビ博士が口にくわえるパイプには、五つの雁首が並んでいるのだった。そしてそれに一々火をつけるわけでもないのに、雁首から煙がゆらゆらとあがった。
 その煙のあがり方が愉快だ。五本の雁首から五本の煙があがって、煙突だらけの工場そっくりになるかと思うと、次の雁首の一つだけが煙がゆらゆら立ちのぼる。そうかと思うと、こんどは三本から立ちのぼる。それを見ていると、まるで煙の音楽会というか、煙の舞踊《ぶよう》会というか、たしかに或るリズムに乗って煙がふきだしてくるのであった。
 もちろん、その合間合間には、博士の髭《ひげ》だらけの中から、別にもうもうたる煙がふき出てくる。
「先生は、煙草がお好きと見えますね」
 僕は、素直に感想をのべた。
「うん。わしは連日《れんじつ》、脳細胞を使い過ぎるので、どうしてもこれをやらないと、早く疲労《ひろう》がとれないのじゃ」
「ずいぶん変わった形のパイプですね。そんなパイプが海底都市では、はやるのですか」
「はやるというわけではない。これはわしの考案したものでな、ほかにはない特殊のものじゃ」
「煙の出るところが五つもありますね」
「そうだ。五種類の薬品をつめこんであるのだ。それを適当に蒸発せしめて、或る特殊のリズムで脳神経に刺戟をあたえる。このリズムを決定することがむずかしい」
「なるほど。僕もそのリズムの利用には気がついていましたよ。面白い療法ですね。どんな味がするか、僕にもちょっと吸わせてください」
「いや、いけない!」
 博士は目をくるくるさせてパイプをポケットに隠《かく》した。
「君なんかが吸うと、とんでもないことになる。絶対にいけない」
 博士の狼狽《ろうばい》ぶりを、僕は意外に感じた。
「君に警告しておくが、君は実在の人間ではなく、イマジナリーの人間なんだ。それを忘れないようにしなければならんね。つまり何でもわれわれと同じには、やれないってことを、よく頭にいれておいてもらいたい」
 イマジナリーの人間! それはそうだ。僕は二十年後の世界へ先走りをして生活をしているのだから。
「君は何も知らないが、君の実在する世の中からその後二十年経つ間に、文明はあらゆる方面において驚異《きょうい》的な発展進歩をとげた。人でも人体改良《じんたいかいりょう》には、非常な努力が払われ、そして改造進化が行われ、今日の高等人間を生むに至ったものである」
「高等人間ですって。人体改造ですって」
「人体の進化を自然にのみまかせていたのは昔のことさ。なんという知恵のない話じゃないか。さればこそ昔の人間はやたらに病気にかかって悩み、そして衰弱し生命を縮めた。そればかりか人智《じんち》のレベルは、さっぱり向上しなかった。なぜ昔の人間は、そこに気がつかなかったんだろう。人為《じんい》的に人体改造進化を行う事によって病気と絶縁《ぜつえん》する。それから人智を高度にあげる。こんな思いつきは赤ん坊にでも出来ることじゃないか。もちろん今の赤ん坊のことだがね。とにかく昔の人間は実に哀れなものだった。眼前の実在のみに注意力や情熱を集中して、遙かなる未来世界について夢を持つことをしらず、従ってその夢から素晴らしい現実の発展が起こることにも想到《そうとう》しなかった。ああ哀《あわ》れなりし人類よ……」
 カビ博士は、日頃のとつ弁《べん》とはうってかわって雄弁に論旨《ろんし》をすすめていた。しかし僕は白状するが、博士の熱弁を聞くのは、もうそのくらいで沢山だと思った。
「先生。すると、そういう意味において、自然進化にまかせて来た僕の身体は、この海底都市の研究家たちにとって絶好の標本だというわけですね」
「そうだ。全く貴重なる標本だといわんければならん」
「じゃあ、僕は大いばりで、ここに滞在することが許されるのですね。いや、国賓待遇《こくひんたいぐう》を受けてもいいじゃないですか」
 僕は朗らかな気持ちになって叫んだ。


   暗い問題とは


「君を国賓待遇《こくひんたいぐう》にするなんて、とんでもないことだ。政府に見つかれば、もちろん君は海底冷蔵庫の壁になるしかないんだ」
 カビ博士は僕のことばをひっくりかえして、いつか僕が聞かされたと同じ警告をあびせかける。
「だって僕は、貴重な標本なんでしょう」
「そうさ。君は網の目をのがれている所謂《いわゆる》ヤミ物品だから値が高いんだ。しかしどう釈明《しゃくめい》しても君は合法的存在じゃない」
 ああ、ヤミというやつにはずいぶん悩まされた僕であるが、この海底都市へ来てまでヤミ扱いされるとは、なんという情けないことだろう。
「学問のための貴重な標本なりということを、政府の役人どもは了解《りょうかい》しないのですか」
「そこじゃ、実に困った対立、いや暗い問題があるんだ、この海底都市にはね」
「へえッ、こんな理想境《りそうきょう》にも暗い問題なんかがあるんですかね。それは一体どんな問題なんですか」
 僕は非常に意外に感じたので、強く問《と》いただした。
 博士はすぐには返事をせず、例の五頭のパイプを髭の野原の中に押しこんで、やけに煙をふかしていたが、やがてやっとパイプを口から取ってつぶやくように低いことばをはき出した。
「それは言えない。わしの口から言えない。君のようなエトランジェ(異境人)には言えない」
 博士は、そのことばが終るとともに立上って、両の肩をぶるぶるとふるわせた。
 僕の好奇心は火柱《ひばしら》のようにもえあがったけれど、博士の沈痛《ちんつう》な姿を見ると、重《かさ》ねて問《と》うは気の毒になり、まあまあと自分の心をおさえつけた。
 しかし一体《いったい》なんであろうか。この完全文明理想境を脅《おびや》かすところの、暗い問題とは。暗い問題があるということすら、僕には不審《ふしん》でならないのだが……。
 僕はそれから間もなく、博士に別れた。
 別れる前にカビ博士は、僕の合法的滞留《ごうほうてきたいりゅう》を政府に対してあらゆる手段によって請願《せいがん》することを誓ってくれた。
 タクマ少年が待っていてくれたので、僕は少年と連《つ》れだって考古学教室を出た。
「どうです。疲れましたか」
 少年は僕にきいてくれた。
「疲れはしないけれど、標本になって閉《と》じこめられていたので、気が詰《つ》まったよ。なんか気持ちがからりとすることはないだろうかね」
「ありますよ、いくらでも、本当はお客さんは、これから食事をしてそれから睡眠《すいみん》をとるといいんですが、その前に、喜歌劇《きかげき》見物でもしましょうか」
「喜歌劇だって、それはいい。ぜひそこへ案内してくれたまえ」
 僕とタクマ少年は、動く道路を利用し、第十八|歓楽街《かんらくがい》のクラゲ座へ行った。
 入場してみて、僕はやっぱりおどろかされた。すばらしい劇場だといって、僕がこれまで知っている、座席のきちんと並んだ大劇場を拡大したすばらしさとは違う。
 場内は、森かげの草原のようであった。そこに掛け心地のいい椅子が、勝手に放りだしてあるんだ。客はそれを好きなところへ移して座をきめればいい。卓子《テーブル》を持って来れば、軽い飲物や喫煙に都合がいい。
 舞台は明るく、近くなく、遠くない距離にある。いい音楽。すてきな俳優たち。出しものは三つ。第一が「タンポポはどこへ飛んで行きたいか」第二は「火星人の引越しさわぎ」そして第三は「クレオパトラの蒸留《じょうりゅう》」と、番組に出ていた。今、舞台は「火星人の引越しさわぎ」が演ぜられていて、陽気な笑いが続いていた。
 客席は、朧月夜《おぼろづきよ》の森かげほどの弱い照明がしのびこんで来る程度であるから、隣の席の客がどんな顔をしているのか分りかねた。
 その客たちは、熱心に舞台を見ているわけではなく、盛んにコップの音をさせたり、ぺちゃくちゃしゃべったり屁《へ》をひったりするのであった。僕には勝手のちがうこと、いや呆《あき》れることばかりであった。
 それでも僕は、タクマ少年と並んでおとなしく見物を続けた。そのうちに睡《ねむ》くなって、とろとろんとしていると、かん高い女の声が耳にとびこんだので、はっと目ざめた。隣の席で、なにか言い合っているのだった。
「――いいえ違うわ、わたくしは、改造以前の人間といえども、海に棲息《せいそく》し得る特質を具備《ぐび》していると思うの。それは、あの人類は、海から陸へあがってから八千万年を経ているでしょうが、それでも尚且《なおか》つ人類は、その発生の故郷である海中生活に耐《た》える器官や本能を残して持っていると断定しますわ」
「それは一種の感傷主義《かんしょうしゅぎ》だ。もはや人類は、そういう能力を全然失っている。海中生活に耐える器官は痕跡《こんせき》程度残っているかもしらんが、海中|棲息《せいそく》の本能なんど有るもんですか」
 反対するのは男の声だ。この男女二人の声に、僕はいささか聞きおぼえがあった。


   平衡器官《へいこうきかん》


 クラゲ座の中の、僕の座席のうしろで、喜歌劇見物はそっちのけにして、しきりに人類学について論じ合っている若い男女の声。それは、昼間、考古学教室で見かけた熱心な学生のダリア嬢とトビ君の声にちがいなかった。
 両人は、僕がすぐ前に腰を下ろしていることも気がつかないほど、夢中になって論争を発展させていた。
「いや、そういう君の論は、甚だしく定量性《ていりょうせい》を欠《か》いている。退化が或る限度に及ぶと、もう器官は全然用をなさないのだ。だからそういう器官が始めから存在しなかったと考えていいのだ。例えば、われわれに尾骨《びこつ》があるからといって未だ一度も尻尾《しっぽ》を振ってみたい欲望を催《もよお》したことはないですぞ、ダリア君」
「それは暴論というものですわ。尾骨のことと内耳迷路《ないじめいろ》の平衡器官《へいこうきかん》のこととは一しょに論じられませんわ。尾骨の方は、今は全然動かないのですよ。尻尾なんか人間にはぶら下っていませんし、ね。動かなきゃ尻尾なんか意味ないです。そこへいくと、平衡器官の方は現在もちろん働いている。人類が大むかし海中に棲《す》んでいたときと同様に、彼の平衡器官は、今もちゃんと機能をもって役立っているんですからね」
「ちがうよ、ダリア君。それは平衡器官といえば平衡器官にちがいないけれど、今は海の中で棲んでいるわけじゃない。空気の中に於ける陸上生活ばかりなんだ。人類の祖先が海から陸上へあがってからこっち何十万年はたっているが、その長い間の陸上生活に、かの平衡器官は退化してしまって、海中生活用の平衡器としてはもう役に立たなくなっているんだ。そこを考えなくちゃね。美しいお嬢さん」
「まあ。まあまあまあ。ディスカッションに勝った、と思って、あたくしをからかうんですね」
「からかいやしません。美しいから美しいといった、までです。急にあなたを美しいと感じたもんですから素直にいっただけです。それにもうあの方は論じつくした感がありますから、ここらでよしましょう」
「ごま化《か》していらっしゃるのね。トビ君、あなたこそもう論ずべき種がつきてしまったんでしょう。きっと、そうよ。ところがあたくしの方は、これから本格的な実証に移るのですわ。実験証明ほど、たしかなものはありませんわ。そしてあたくしは、何人をも納得《なっとく》させます。あたくしの論文は、そのときになって、だんぜん光を放つでしょう。ああ、そのときのことを今から予想しただけで胸が高鳴りますわ」
「うわッ、とんでもない。考古人類学は、詩ではないです。あなたみたいに、夢に感激ばかりしていたんでは、自然科学の正しい解決はつきませんよ」
「ああ、なんとでもおっしゃい。あたくしには、ちゃんと自信満々たる研究企画があるんですわ。まことにお気の毒さま、タングステン鋼《こう》あたまのトビ、トビタロ君」
 両人の仲が険悪になって来たので、僕は見るに見かねて座席を立つと両学生の間へ顔をつき出した。
「たいへん御両所とも討論にご熱心のようですが、ひとつ僕も中に入れていただいて、乾杯といきましょう」
 僕は給仕を呼んで酒を注文した。
 ダリア嬢とトビ君とは、僕が顔を出すと、顔を見合わせて、すっかり黙りこんでしまった。そして給仕が酒を持って来ると、両人は席からはじかれるように立った。僕が声をかけるのも聞かずに、両人はどんどん帰ってしまった。
 僕は、あとにいやな気持ちでとりのこされた。
 なにかが両人の気持ちを悪くしたにちがいない。しかしそれがなんであるかについては、僕にはさっぱり心あたりがなかった。
 同伴していたタクマ少年は、分かりませんと答えた。
 なんだか気持ちが悪い。
 劇場がはねると、僕はタクマ少年に送られてホテルに帰った。
 僕は部屋にひとりとなった。やがて僕はベッドの上に横になった。
 すぐには寝つかれなかった。昼間からの、あまりにも多いいろいろの刺戟的《しげきてき》な出来ごとを、それからそれへと思い続けていくと、ますます眼がさえて来た。
 それにしても、辻ヶ谷君が僕を時間器械でよびもどしてくれないことが不審《ふしん》でもあり、またありがたかった。たしかに二十年後の世界を約一時間散歩してくるという申し合わせで、僕はこっちへ来たわけだ。彼は何をしているのだろう。辻ヶ谷君も一しょに来ればよかったと思う。……
 急に睡《ねむ》くなった。
 それがあたり前の睡さでないことに僕はすぐ気がついた。どうしたんだろうと、いぶかしく思っているうちに、僕は知覚がなくなった。


   ふしぎな場所


 猛烈に睡《ねむ》い。
 しかし僕はそのとき自分の知覚をすこしずつ取戻しつつあったのだ。
(誰か僕に麻薬を嗅《か》がしたんだな。そして眼がさめてみりゃ僕は意外な場所に横たわっているという寸法だろう)
 それは果して麻薬であったか、それとも脳|麻痺力《まひりょく》のある電波であったか、そのところは、はっきりしないが、何者かのたくらみによって僕がホテルの一室から他の場所へ誘拐《ゆうかい》されたことはたしかだった。
 僕は徐々に眼ざめつつあった。
 かたいコンクリートの床の間に自分が横たわっていることに気がついた。果して誘拐されたんだ。それにしても、冷たいコンクリートの上に寝かされているとは、なんという相手の無礼《ぶれい》だろう。いや、強盗のたぐいに、無礼もへちまもないだろう。なんだって、その強盗は僕をこんなところへ……。
「おや、僕はすっ裸《ぱだか》になっているぞ」
 いつの間にか僕の寝巻《ねまき》ははぎとられていた。まっ裸だ。これにはおどろき、かつあきれてしまい、その場に座り直した。そしてあたりをぐるぐると見まわした。
 へんな場所であった。
 お伽噺《とぎばなし》の中では、王城の奥のすばらしい美室へ誘拐されることもあるが、それは特別の場合で、誘拐されるとなると、多くの場合はあやしき場所へ連れこまれるのが普通であった。正《まさ》に僕はあやしき場所へ連れこまれている。床《ゆか》はつめたいコンクリート。四方の壁はどんな材料で作ってあるのか、墨《すみ》のようにまっ黒である。天井は――天井はすこぶる高い。五十メートル位はある。そして上に向いたときに発見したのであるが、四方の壁は十メートル位しかない。十メートルの壁が、立ちっ放しである。天井がそこにあっていいはずと思うが、そこは天井がなくてそれより四十メートルも高いところに天井がある。要するに、蓋《ふた》のない箱みたいなものの中に、僕が入っているんだ。
 上には、放電灯が明るく輝いていて、僕を照明している。寒くはないが、はずかしかった。
 と、そのとき床の上を、どこからともなく水が流れて来た。僕は身体をぬらすまいとして、ふらふらする足取りで、その場に立ち上がった。
 が、水はいつの間にか嵩《かさ》を増し僕の足の甲を水が浸した。
 それから先は、そんななまぬるいことではなかった。水嵩《みずかさ》はみるみるうちに増大して、水位《すいい》は刻々《こくこく》あがって来た。床の四隅《よすみ》から水は噴出《ふきだ》すものと見え、その四隅のところは水柱が立って、白い泡の交った波がごぼんごぼんと鳴っていた。
 ひざ頭を水は越えた。間もなくお臍《へそ》も水中にかくれた。しかも増水のいきおいはおとろえを見せず水位はぐんぐんあがってくる。
(水槽《すいそう》らしいが、僕をどうしようというんだろう。水浴をさせるつもりでもあるまいに……)
 水は僕の乳の線を越え、やがて肩を越した。僕は今にも溺《おぼ》れそうになった。爪先立《つまさきだ》ちをして僕は背のびをした。
(水責《みずぜ》めにして、僕を溺死《できし》させるつもりか。一体|何奴《どいつ》だ。こんなに僕を苦しめる奴は?)
 もういけない。爪先で立っていても、水が鼻孔《びこう》に入って来る。仕方がないから僕はもう立っていることを諦《あきら》めて平泳ぎをはじめた。
 水は塩っからかった。
(なるほど、海水だな)
 平泳ぎから立泳ぎになったり、また平泳ぎにかえったり、僕は二十分間ぐらい泳いだ。相手は僕を泳ぎ疲れさせて殺すつもりかもしれない。しかし僕は、水に浮いていることなら十八時間がんばった記録をもっている。だからちっとも恐れなかった。
 ただ一刻も早く、この憎むべき陰謀の主を見つけだして、きめつけてやりたい。
 相手は、どこからか僕の様子を監視しているのに違いない。そう思ったから、僕はますます落着きはらっているところを[#「ところを」は底本では「ところ」と誤植]見せるために、泳ぎながら佐渡《さど》おけさを歌ったり、草津節《くさつぶし》を呻《うな》ったりした。
「だめね、これでは。水の中へ潜らなくちゃ実験になりゃしないわ」
 壁の向うと思うが、かすかではあるが、そんな風にしゃべる女の声を聞いた。
 あれッと、僕が緊張《きんちょう》する折《おり》ふし、水槽の横手の方から、ぎりぎりと硝子《ガラス》の板が出て来て、僕の頭の上を通りすぎていった。
「やっ、硝子天井《ガラスてんじょう》だ」
 とつぜん出現した硝子天井は、僕を完全に水中におし下げた。
 こうなると、鉢の中に入れられた金魚《きんぎょ》か亀《かめ》の子同然だ。金魚や亀の子なら、水中ですまして生きていられる。しかし僕は人間だ。空気を吸わねば生きていられない。これはいよいよ溺死《できし》の巻《まき》か。
 僕はなぜ溺死させられるのか。


   迫《せま》る硝子天井《ガラスてんじょう》


 水槽の中の水かさはいよいよ増した。
 僕は泳ぎ続けていた。
 頭が硝子天井につかえるまでに水かさは増した。まっすぐに顔を向けて泳ぐことは、もう出来ない。鼻の孔《あな》も口も、共に水中に没してしまうからだ。仕方なく僕は平泳ぎをしながら、顔だけは横に寝かして、辛《かろ》うじて息をつくことが出来た。
(一体何者か。僕をこんなに苦しめる奴は。まさか僕を殺すつもりじゃないだろうと思うが、ひどい目にあわすじゃないか)
 僕は、一生けんめい水をかきながら、姿の見えないこの暴行《ぼうこう》の主を恨《うら》んだ。
 ところが、水かさは更にずんずん増して来るではないか。硝子天井は、容赦《ようしゃ》なく僕の頭をおさえつける。僕はさっきから無理な姿勢をとり首《くび》を横にまげて泳いでいるので、頸《くび》の筋《すじ》がひきつって痛くてたまらない。そのうちに鼻の孔も口も、水に洗われるようになった。いよいよ水が天井につきそうなのである。僕は、したたか水を呑んでしまった、水なんか決して呑みたくないのに。
 今や僕は溺死《できし》の一歩手前にあった。顔を上に向けた。硝子天井に接吻《せっぷん》するような恰好である。そして立ち泳ぎだ。頸をうしろに無理に曲げているので、痛いやら苦しいやらで生きている心持もない。「助けてくれ」と叫びたいのだがそんな声も出ない。そんな声を出して叫ぼうものなら、たちまち身は水中に沈んで、溺死をせねばならぬ。
 苦しい立泳ぎが、一層苦しくなる。浮力がなくなり、いくたびとなく、ずぶりずぶりと水中にもぐる。これ以上水を呑まないようにと息をつめるものだから、再び水面へ浮かびあがるまでの息苦しさったらない。ああ、何だって僕をこんなに苦しめるのか。
 もう欲もなんにもいらないと思った。助けてくれぃだ。もう二十年後の世界に逗留《とうりゅう》する欲もなんにもなくなった。おお辻ヶ谷君よ。早く僕を時間器械の力でもって、元の焼跡の世界へもどしてくれたまえ。ぐずぐずしていると、僕はここで土佐衛門《どざえもん》になってしまうであろう。
 またずぶずぶともぐりこんで、そこで手足をだらんとして浮力《ふりょく》が勝って身体の浮きあがるのを千秋《せんしゅう》のおもいで待った。ようやく浮き身がついて、身体がすううっとよっていった。僕は例のとおり頸を曲げ、唇を一番高い位置へつきだして、水面へ唇が一刻も早く出ることを願った。ところが唇は水面へ出るかわりに、冷たい硝子天井に触れた。
 いつの間にか、水面と硝子天井とがくっついてしまったのである。水面と硝子天井との間に残っていたわずかの空気層がなくなってしまったのである。水はついに硝子天井についたのである。ああもう吸うべき空気がなくなった。
(本当か。僕をここで溺死させるつもりか。なんという憎むべき悪魔!)
 僕はもうやぶれかぶれだった。
 拳《こぶし》をかためて、硝子天井をどんどんつきあげた。頭を天井にぶつけてみた。硝子天井は厚い。そんなことでは破れそうもない。僕はついに身体をさかさまにして、両脚に全身の力をこめて、硝子天井を蹴った。
 ああ、それも無駄に終った。足の骨が折れそうになり、激痛《げきつう》が全身を稲妻《いなづま》のように突《つ》き刺《さ》しただけであった。
(もう駄目か。息が出来なければ僕は死んでしまう)
 僕はもう気が変になりそうだ。どこかに空気のもれて来る穴がないものかと、僕は水槽の中を魚のようにもぐって、あっちの壁やこっちの底を探りまわった。だが、すべては無駄であった。
 無駄と知りつつ、それでも僕は水中を、あざらしのようにはねまわった。
 やがて僕は、続けざまに水をがぶかぶ呑んでいた。呼吸は苦しさを通り越して、奇妙に楽になった。胃の腑の方が苦しくなった。僕はもっと泳ぎまわり潜り続けて空気を見つけなければならないと思いながらも、僕の身体はだらんとしていた。水の層を通してあいている両眼に、うす青いあかりが入って来るのが、夢の国にいるような感じだった。
 僕の知覚はだんだん麻痺《まひ》して来たんだ。
 わが耳に、遠くで人がいい争っている声が聞こえる。本当に聞こえるんだか、幻想なんだか、どっちとも分らない。それは男と女との口論のようでもある。声高く笑っている。そうかと思うと、くやしそうに泣いているようでもある。
(僕はもう死ぬんだな)
 僕はそう悟《さと》った。死にたくない。しかしどうにもならない。ああ神さま!
 それからどのくらいの時間が経《た》ったか、僕は覚《おぼ》えていない。とにかくぼんやりと気のついたとき、僕はしきりに口から水を吐いていた。いや、正確にいえば水を吐かされていたのだが……。


   遠大なる実験案


 僕は、うつ向いて、水を吐《は》かされていた。
 胃袋の下に、砂枕《すなまくら》のようなものがあたっていた。そして誰かが、僕の背中に、ぐいぐいと力を加える。そうすると僕は、障子がひきさけるような音をたてて、ごぽごぽと下へ水を吐くのだった。
 僕には見えないが、僕の頭の上で、がやがやと喋《しゃべ》っている人声がする。それは非常に遠いところで喋っているようにも思われる。僕の知覚は、まだ麻痺《まひ》状能を脱し切っていないのである。その証拠に喋っている人声が急に遠くなったり、また僕が水を吐いていることが分らなくなって花園の中に犬を追いまわしている夢の中に入ってしまったりした。僕の身体の方々には、三重にも四重にも違った疼痛《とうつう》があって、それに耐えるのに僕のエネルギーは精一ぱいであった。誰が僕の背中を押して水を吐かせているのか、誰が口論《こうろん》してるのか、頭をあげてその方を見る余裕など全くなかった。
 それでも、時間の経過するにつれ、もうろうたる意識ながら、それがすこしずつ整理されて来るようであった。
 すなわち、僕は盛んに罵《ののし》りあう男女の言葉の意味がところどころ分るようにもなったし、また僕の臀部《でんぶ》にいくども注射針がぶすりと突立てられることも分った。
「なんといっても、あたしの説が正しいと証明されたわけよ」
「いいや、そうはいえない。僕の説の方が正しい。そうでしょう、この実験動物は、正《まさ》に溺死《できし》してしまったじゃないですか」
「それは溺死したかもしれないわ、でもそれはこの実験動物が、目下|腮《えら》を備えていないために、水中で呼吸が出来ないという構造を持っているためよ。溺死しようと、この実験動物が水槽の中で見せた水中動物らしいあのすばらしい運動や反射作用や平衡感覚などはあたしの説を正しいものと証明したじゃありませんか。正にこの実験動物は、水中動物たるの機能を持ち、機能を保持していると断定できる。そうじゃなくって」
「そりゃね、いくぶんそれは認められるけれど……」
「ああ、なんてしみったれな仰有《おっしゃ》り様《よう》でしょうか。これだけ明らかなことを、しぶしぶ認めるなんてフェア・プレイじゃないわ」
「だがね、とにかくこの実験動物は一度|溺死《できし》してしまったんだ。だから、そう大きなことは、いえないわけだ」
「あなたは頭が悪いのね。そういう難癖《なんくせ》のつけ方は、何といってもフェアじゃないわ」
「まあ、そういうなら、それでもいいということにして、僕はもっとくりかえし、この実験を続けることを提議《ていぎ》しますね」
「それはもちろんあたしも同感ですわ」
 僕は急に目がまわりだした。僕の頭の上で、があがあ口論をやっているのは、男大学生のトビと女大学生のダリア嬢にちがいない。かねてこの御両人は熱心に人体に残る平衡器官の研究をすすめていたわけだが、両者の説は対立していて正しいか然《しか》らざるか判定がつかないので、遂に両人は僕をホテルのベッドから盗み出して、かの水槽へ入れ、魚のような目にあわしたのに違いない。その揚句《あげく》、乱暴にも僕を溺死させたが、まだそれにあきたらないで僕を実験動物と呼び、そしてその僕をもっと金魚《きんぎょ》や鮭《さけ》のまねをさせようといっているのである。溺死はもうたくさんだ。この上第二回、第三回の溺死をくりかえされていると、そのうちに僕は弱ってしまって、いくら注射をうっても生きかえらなくなることだろう。僕は大いに抗議をしたいと思ったが、残念なことに口も身体もきかない。
「あたし、考えたんですけれどね」
 とダリア嬢が元気一ぱいの声でいう。
「この次の実験には、この実験動物が水槽で楽に呼吸が出来るように呼吸兜《こきゅうかぶと》を頭にかぶせようと思うんですの。つまり、適当に酸素を補給させ、過剰の炭酸|瓦斯《ガス》が排出《はいしゅつ》されるようになっていればいいんですから、そのような呼吸兜を作るのはわけありませんわ」
「それはいいでしょう。しかし身体の釣合いを破らないように考えないといけませんね」
「そうですね。身体の他の部分にも別の錘《おもり》をつけましょう。あたしはもっといろいろと考えていますのよ、発展的な実験をね」
「発展的な実験というと、どんなことをしますか」
「すこし大胆《だいたん》かもしれませんけれど、この実験動物をやがて深海へ放ってみようと思うんです。そして深海の重圧力《じゅうあつりょく》がこの実験動物の平衡器官にどんな影響を及ぼすかを調べてみたいと思います」
「それは面白いですね。しかしその実験を最後として、この実験動物は役に立たなくなりますよ。おそらくひどい内出血《ないしゅっけつ》をして死《し》んじまうでしょうからね」
「それはもう死んでもようござんす」
 僕は聞いていて気が遠くなりそうだった。死んでもようござんすとは御挨拶《ごあいさつ》だ。おお、僕は一体《いったい》これからどうなるか。


   絶望《ぜつぼう》の底《そこ》


 女学生ダリア嬢と男学生トビ君のために、水槽の中で実験の道具にさんざん使われて、へとへとになっている僕の耳に、この次は呼吸兜《こきゅうかぶと》を僕にかぶせて深海へ放りこむつもりよとのダリア嬢の放言が響いた。
 僕はおどろいたが、すっかり精力《せいりょく》をなくしているので、立上って逃げ出す元気はないばかりか、それに抗議する声さえ出なかった。
(もう駄目だ。僕はやがてこの両人に殺される。――殺された結果、僕は一体どういうことになるのか、元の世界へ舞い戻ることになるのか、それともあたり前の死のように、たちまち意識は消えて、それなりけりとなるのか、どうなんだろう?)
 殺されることだけでさえいやな上に、死後のことまでを心配しなければならないとは、なんたる不幸な僕であろうか。禁断《きんだん》の園《その》に忍び入ったる罪は、今、裁《さば》かれようとしているのだ。僕はもう観念した。たとえ針の山であろうと無間地獄《むげんじごく》であろうと、追いやられるところへ素直《すなお》に行くしかないのだ。
 僕は、ひそかに仏《ほとけ》さまの慈悲《じひ》に輝いたお顔を胸に思いうかべた。そして南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》を唱《とな》え始めた。もちろん声は出ない、心の中でどなりたてたに過ぎないけれど……。
 そのときであった。大きながらがら声で突然|怒鳴《どな》り散らし始めた者があった。その声はトビ男学生の声でもなく、また[#「また」は底本では「まだ」と誤植]もちろんダリア嬢のそれでもなかった。その叱咤する声は、だんだん大きくなっていって、雷鳴《らいめい》かと疑うばかりだった。
「……ばかだねえ、君たちは。二度と手に入らない貴重な人間をそんな無茶な目にあわすとは困るじゃないか。死んじまったら、わしは免職だよ。それに第一、これは君たち両人の所有物じゃないだろう、両人だけに勝手に処分されちゃ困るよ」
 その声に聞き覚えがあった。それこそ正《まさ》にカビ博士だった。
 カビ博士が救援に駆けつけてくれなかったら、僕は遂《つい》にダリア嬢たちの手であえない最後《さいご》を遂げてしまったことであろう。後でタクマ少年から聞いたところによると、博士は僕の盗難を大学の人からの急報によって知り、ベッドを滑《すべ》り下《お》りると寝巻《ねまき》のまま大学へ駆けつけ、それから捜査に移ったそうである。
「もう大丈夫だ。明日になれば元気を恢復するだろう。そしてもう、学生たちには襲撃されないように万全《ばんぜん》の手配をしてあるから、安心したまえ」
 と、博士は僕を見舞って、こういった。
「先生。もう深海《しんかい》になげこまれるようなことはないでしょうね」
「そんな危険は今後絶対に起こらない。あの凶悪《きょうあく》なるダリア嬢と共犯者トビ学生は、共に本校から追放されたんだから、もう心配することはない」
 遂に放校処分にあったのか。そんならもう大丈夫だろう。しかし僕はどこかに不安の影が宿っているような気がしてならなかった。
 その翌日になると、カビ博士は又僕の病室を訪れて、枕頭《ちんとう》に立った。
「さあ、退院だ。わしと一緒に出よう」
「えっ、もう退院ですか。しかし僕は起上ろうとしても、ベッドから起上る腰の力さえないんですよ」
「ああ、そうか。それはまだ磁界《じかい》を外《はず》してないからだ。待ちたまえ今それを外すよ。……さあ、これでいい。起上りたまえ」
 博士がベッドの下へ手を入れて何かしたと思うと、僕の身体は俄《にわか》に楽になり、軽くなった。それは病人の安静器《あんせいき》がベッドの下に入っているんだと、博士の説明であった。
 その博士は、「今日はこれから君の慰安《いあん》かたがた、君を深海見物に連れて行こうと思う」といって、髭《ひげ》の中からにやりと笑った。
 深海見物と開いて、いつもの僕なら大喜びをするところだったが、ダリア嬢たちから深海へ放りこむと嚇《おど》されたことを思い合わして、僕はぞっと寒くなった。
「それは願い下げにしたいですね。僕は深海と聞くと、ぞっとしますんですね」
「心配はないよ。わしの愛艇《あいてい》メバル号に乗っていくんだから、どんなに海底深く下《くだ》ろうと絶対安全だ」
「でも当分僕は……」
「それにわしは、折入って君に相談したいことがあるんじゃ。それも早くそれを取決めたいんだ。だからぜひ行ってくれ」
 いつになくカビ博士が下手から出て、僕に懇願《こんがん》せんばかりであった。そういうとき、僕が博士のいうことをきいておかないと、僕が困ったときにどんな目にあうかもしれないと思ったので、僕は遂に同意した。すると博士は非常に喜んで、顔中の髭を動かし、満面に笑みを浮かべた。その笑顔を見ていた僕は、ふと別の顔を思い出した。
(ふしぎだなあ。カビ博士の顔と辻ヶ谷君の顔とは、非常によく似ているところがあるが……)


   水圧嵐《すいあつあらし》


 カビ博士は、僕を愛艇メバル号へ案内してくれた。
 メバル号は、メバルのような形をした潜水艇で、深海の水圧にもよく耐える構造をもっているのだと博士は説明し、艇の横腹《よこはら》についている扉をあけて、僕に先に艇内へ入れといった。
 扉は三重になっていた。つまり三つの区画を通らないと艇内に入れないのだ。おどろくべき用心である。しかしこのあたりの深海圧は、しばし潜水艇を、卵を外から叩いたように、くしゃりとおしつぶしそうである。
「でも、水圧というものは、深度によって一定なんだから、艇の構造をそれに対して十分に耐える設計にしておけば心配ないわけでしょう」
 と、僕はちょっと理科の知識をふりまわした。
 すると博士は首を左右にふった。
「いやそんなかんたんなことじゃない。ここらの海中では、水圧嵐《すいあつあらし》が起こるんだ。水圧嵐が起こると、水圧が急にふだんの三倍にも四倍にも、時には何十倍にもあがる。そういうときには、どんな堅固《けんご》な潜水扉も卵をおしつぶすようにやられてしまう」
「なんでしょうね、その水圧嵐の原因は……」
「そのことじゃ。わしが日頃からひそかに注意を払って調べているのは。そして君に相談したいことがあるといったが、そのことにも関係しているんだ。要《よう》するに、われわれの今すんでいる海底都市は何者かによって狙《ねら》われているような気がするんだ。われわれはゆだんがならない。詳《くわ》しいことは、中へ入ってから話そう。さあ、早く入りたまえ」
「大丈夫ですかね、このメバル号も水圧嵐にあって、ひとたまりもなく潰《つぶ》れてしまうのではないですか」
「いや、その心配はない。わしは特別に用心してこの艇を設計した。ふだんの水圧の百倍までかかっても大丈夫なんだ」
「百倍ぐらいじゃ、まだ心配だなあ」
「なあに、大丈夫だ、心配に及ばん」
 僕は博士がそういうので、まだ心配はすっかりなくなったわけではなかったが、艇内へ進んだ。最後の防水耐圧扉《ぼうすいたいあつとびら》がひらかれた。その戸口から中に、りっぱな部屋が見えた。僕はおどろきながら、足を中へふみいれたが、その室内の豪華さに魂をうばわれてしまった。
 それと分る二つの操縦席。その前に並んだ計器板。左右の壁には精密《せいみつ》器械るいが、黄びかりのするパネルを並べて整然としていた。その他の空間にも、各種の食料の缶詰や、飲料の出てくるフックや何から何までがまるで蜂《はち》の巣みたいに小区画《しょうくかく》に入って、ぎっしりつまっていた。
 扉がばたんと閉まって、博士が、やれやれといった顔で中へ入って来て、操縦席の右側へ腰をおろした。そして左側の席へ、僕に座るようにといった。
「すぐ出発する。これがテレビジョンの映画幕だから、これを見ていたまえ」
 博士は、そういって、僕の前方の壁に、計器板の下についている六つの窓のようなものを指した。それには、さっき僕たちが入っていった博士の艇庫の内部がうつっていた。
 が、間もなく映像は動きだした。それは艇が航行をはじめたからだ。いつの間にか、艇は水の中につかって進んでいた。運河の中をもぐって進んでいるようだ。数條《すうじょう》の、きちんとした間隔《かんかく》で直線的に並んでいる標識燈《ひょうしきとう》が、映画幕にうつくしく輝いている。
 やがてその標識燈の行列が消えた。
「海中へ出た」
 博士がいった。なるほど、そうらしい。海底都市の構築物をはなれて、深海へ。異様な形をした魚群が、こっちへどんどん近づいて来たと思ったら、ぱっと花を散らしたように上下左右へとんだ。
 海中には、うす青い光がみちていた。また海底の丘などは白っぽく輝いていた。緑や茶色の海藻はすきとおって見え、魚群が近づくと嵐にあったような恰好《かっこう》で、おどりまくった。
 僕は、ふと博士のことが気にかかって、幕面より目を放すと、横にむいて隣席《りんせき》の博士の様子をうかがった。
 カビ博士は、一心ふらんに、計器を見ながら操縦をしている。
 僕は髭もじゃの博士の横顔をしばらく見ていた。
 それは、かねて僕が抱《いだ》いている疑問に、十分にこたえてくれたようだ。
「ねえ、先生。いや、辻ヶ谷君」
 僕は遂にそれをいってしまった。
 そういったときの博士のおどろきはどんなであろうかと、僕はそれを喋《しゃべ》るよりも前から興奮の絶頂《ぜっちょう》にあったのだが、博士は僕の期待に反して冷然《れいぜん》としていた。そしていつもの調子の声でいった。
「君は、今頃になって、それに気がついたのかね」


   奇妙な再会


「ああ、ほんとうに君は辻ヶ谷君だったのか、あのウ、君が二十年後の辻ヶ谷君で、そしてカビ博士なのかい」
 そうとは思っていたにしろ、カビ博士がこうして素直《すなお》にそれを認めたとなると、僕はあらたな狼狽《ろうばい》におちいらないわけにいかなかった。辻ヶ谷君なる学友は、今もあの東京の焼け野原に、時間器械をまもって計器を読んでいることとばかり思っていたのに、こうして僕のそばに何日もいっしょにいたとは、全く思いがけないことだ。
「君のいうとおりじゃ。ミドリモ君」
 ミドリモ君? 僕は、そういわれて博士の顔を見直した。
「ミドリモて、なんだい。君が今いったミドリモ君てえのは」
「知らないのか、それを。君の頭はまだまだ十分に恢復《かいふく》していないらしいな。ミドリモというのは君の名前なんだ」
「じょうだんじゃないよ。僕にはちゃんと、本間良太《ほんまりょうた》という名がある」
「ふふん。それがミドリモと改名されたんだよ。ちょうどわしが、辻ヶ谷からカビに改名したようにね」
 博士はふしぎなことをいった。
「本当かい。なぜそんな改名をしたのか」
「名前というものは昔から親がつけたもんだ。しかしそれはやめて名前は自分でつけることに、法令が改められた。それと同時に姓もやめることになり、今は誰でも名前だけになったんだ」
「なぜそんなことをしたんだろう」
「わしは知らない。法令だ」
 法令で、そんなことをきめなければならないわけは、どこにあったのであろうか。僕はそんな問題についてカビ博士と永く問答する興味はなかった。しかしそのとき得た印象として、この理想的自由都市らしいこの町にも、なにかもうカビのようなものが生えかかっているらしく直感した。果してこの直感は当っていたかどうか。
 それはさておき、カビ博士が学友辻ヶ谷と同一人だと分った今、僕はこれまでに感じていた窮屈《きゅうくつ》さを一ぺんに肩からおろすことができた。それと共に、彼にいろいろと問いただしたいことが山のようにあるのを感じ、それをどこから彼に問いただすべきかに迷ったほどである。
「とにかくミドリモ君。君は興奮しないように極力《きょくりょく》気をつけたまえ。君がこの際、興奮して、頭がカーッとしてしまうと、えらいことになってしまうからね。昔の言葉でいうなら、それは君が自爆《じばく》するようなものだ。だから気をつけてそれを避《さ》けたまえ。極力、興奮しないようにしたまえ。聞きたいこともあろうが、それは後日ゆっくりしたときに聞き出すことにすればいい」
 と、カビ博士は一生けんめいに僕をなだめるのであった。
「それよりも目下の大問題は、さっきちょっと話したが、われわれの海底都市が外部から何者かによって狙《ねら》われているらしいことだ。彼奴《あいつ》は、われわれの海底都市を破壊し、この平和人《へいわじん》をみな殺しにしようと思っているのではないか。果《はた》してしからば、彼奴とは一たい何者だ。――それを早いところ突きとめてしまわねばならぬ。そこで君の力を借りたいのだ」
「それは容易《ようい》ならぬ事件だ。しかし僕にどんな仕事がつとまるというのかね。僕は、君のいうところでは、すこし頭がつかれて、南瓜頭《かぼちゃあたま》らしいんだが、それでも役に立つのだろうか」
 僕は、いささか皮肉《ひにく》なもののいい方をした。
「いや。それがね、君でなくちゃならないことがあるんだ。とにかく、あそこに見える海底の丘かげへ、このメバル号をつけて、ゆっくり話をするとしよう」
 カビ博士は、下方《かほう》に見える乳房《ちぶさ》の形にこんもりもりあがった白い丘陵《きゅうりょう》へ向け、下《さ》げ舵《かじ》をとった。艇はゆるやかに曲線の道をとって、水中を降下していった。
「わざわざこんなところまで出かけないと、話が出来ないのかね。そんなわけがあるのかい」
 僕は、きいた。
「そうなんだ。町では、こんなことはうっかり喋《しゃべ》れないんだ。おそろしい相手が、到《いた》るところに秘密のマイクをしかけてあるし、そのうえに、あやしい人物がうろうろしているんだからね。この間も、博物標本室の、象《ぞう》の剥製《はくせい》標本の中から、のこのこと出て来た諜者《ちょうじゃ》がいたからね、わしの教室だって、決して安全な場所ではないんだ」
 そういうカビ博士の顔には、いつにない不安の色が漂《ただよ》っていた。
「深海底なら大丈夫というわけかね」
「うん、多分大丈夫だろう。しかしここも絶対に安全とはいえないんだ――ありゃりゃ、これはたいへんだ、逃げよう、力いっぱい!」
 なにおどろいたか、カビ博士は急にアクセルを入れて、艇に最大速力をあたえた。飛ぶ、飛ぶ。海底の丘をとびこして艇は必死に飛んで逃げる。


   恐怖《きょうふ》の陰謀者《いんぼうしゃ》


 カビ博士が、あんな真剣な顔付になったことを、今までに見たことがない。博士は、操縦席に、長髪をさか立て、目を皿のように見開いて全速力のメバル号の速度をもっともっとあげようと努力したのだ。
 メバル号は流星の如く深海の中をかけぬけた。もはや海底のはてまでも来たのではないかと思われる頃、それまで石像《せきぞう》のようだった博士は、やっとからだを動かしはじめた。
「あああ、おどろいた。さっきはもういけないかと思った」
 博士は、そういって、ハンカチーフで額の汗をぬぐった。
「どうしたんだね、君をそんなにびっくりさせたのは……」
 と、僕はたずねた。何者か強敵《きょうてき》においかけられたらしいことは察せられたが……。
「姿を見せたことのない陰謀者《いんぼうしゃ》だ。さっき君に話をしたばかりの例の陰謀者だ。ぐずぐずしていれば、殺されるところだった。逃げることが出来たのは、非常な幸運だ」
 博士は、まだ興奮している。
 僕は博士のことばの中に、辻つまの合わないものを見つけた。
「君、姿を見せたことのない陰謀者といったが、姿を見せたことのないものなら、君にも見えるはずがないじゃないか」
「そのとおり……」
「そんなら、君がそれを見つけたようなことをいって、逃げだしたのがおかしいね」
「ちがうよ。かの陰謀者どもは今までに一度も姿を見せていない。だが、彼奴らがわれわれに対して仕事をはじめると、すぐ分るんだ。さっきも僕は、とつぜん海底の丘のかげから急に砂煙《すなけむり》がむくむくとまるで噴火《ふんか》のようにたちのぼり始めたのを見つけたのだ。彼奴らの仕業《しわざ》なんだ。彼奴らが仕事を始めたしるしなんだ。おそらくその砂煙の下に大ぜいの彼奴らがひそんでいるにちがいない。だからそれを見ると、僕は全速をかけて、現場からずらかったんだ」
 博士はそういって説明した。
「このあたりもまだ危険らしい。もっと遠くへ行こう」
 博士はメバル号をさらに沖合へはしらせた。
「その陰謀者は、なぜ姿を見せないのかね」
 僕はたずねた。
「なぜだか、われわれには、まだ分っていない。自分たちの姿をわれわれに見せることを極端《きょくたん》にきらっているのだろうが、なぜそうなんだか見当《けんとう》がつかない」
「で、その陰謀者たちは、君たちに対して何を計画しているの」
「その方はうすうす分るんだ。ちょっと耳を貸したまえ」
 と、博士はふかい用心ぶりを見せて僕の耳に口を近づけた。
「つまりね、彼奴はわれわれの海底都市を覆滅《ふくめつ》しようとしているのにちがいない。覆滅だ。分るかね、この海底都市を大破壊し、われわれを死滅させようと考えているんだと思う」
「ふうん、それがほんとうなら、けしからん話だ」
「そうだ。けしからん話だ。せっかく平和|裡《り》に、高度の文化のめぐみをうけてくらしている、われら海底都市住民の生存をおびやかすなどとは、許しておけないことだ」
「それなら、早速《さっそく》彼等に対抗したらいいではないか。彼等を追払ったがいいじゃないか」
「それが考えものなんだ。第一、そんなことは、わが住民たちが同意しないにきまっている」
 と、博士は首を左右に振った。
「でも、そうしなければ陰謀者はいよいよのさばって、君たちへ暴力をほしいままにふりかけるじゃないか」
「わが海底都市住民は、武力抗争《ぶりょくこうそう》ということを非常に嫌っているんだ。だから武力をもって彼奴を追払うという手段は、すくなくとも表面からいったのでは、住民たちの同意を得ることはむずかしい」
「だがおとなしくしていれば、君たちは彼等にくわれてしまうばかりだ。だから防衛のために武力を用いることは――」
「君はいけないよ、そういうことを、この国へ来ていうから。そういうことは、この国では全く通用しないんだから」
「そんなに武力行使ということを嫌っているのかい。それならそれでいいとして、では平和的に外交手段でいってはどうだ」
「それでもだめ。相手は全面的に暴力をもってわれわれに迫っている。外交手段を用いる余地はないのだ。しかも困ったことに、いかなる点から考えても、彼奴らはわれわれよりもずっと知能のすぐれた生物らしい。だから正面からぶつかれば、こちらが負けることはほとんど間違いないと思うんだ。それに、彼奴らは姿さえ見せない……」
 博士はため息をついた。が、そのとき彼は僕の腕をぐっと握ると、あえぐようにいった。
「実は、君に頼みたいというのは君が単身《たんしん》で、彼奴《あいつ》に面会をしてくれることだ」
「それは危険だ」
「そうだ。君は多分彼らの手にかかって殺されるだろう」
「ええッ!」


   不死《ふし》の真理《しんり》


 僕は、このときほど腹の立ったことはなかった。
(このカビ博士――いやこの辻ヶ谷の野郎め!)
 と、思わず拳《こぶし》が彼の方へうなりを生じて動きだした。――僕を危険きわまりない謎の陰謀者のところへ使者にやり、そしてそこで僕が殺されるであろうことを知っていながら、僕を行かせようというカビ博士の薄情《はくじょう》さ。
「あ、ちょっと待て。怒るのはもっとものようだが、ちょっと話をきいてくれ」
 博士は両手をあげて僕を制した。
 メバル号は、とたんにぐっと傾《かたむ》いた。博士はまたあわててハンドルをとりながら、
「君、おちつかにゃいかんよ。君は今、僕のことばにびっくりしたようだが、おどろくことは何もないんだ。君は殺されても一向《いっこう》さしつかえないんだ。いや、待った。怒ってはいかんよ、終りまで聞いてくれなくては――」
「だまれ。僕なんか殺されて一向さしつかえないとは、何という言《い》い草《ぐさ》だ。おせっかいにも程《ほど》がある、何というあきれた――」
「いやそこをよく考えてもらいたいんだ。これはなかなか重大なことなんだが、冷静を失うと、もう分らなくなるのだ。いいかね、ミドリモ君。いや、本間君。君がこれから出かけて殺されたとしてもだ――怒ってはいかん、よく考えてくれ――君が殺されたとしても、本当の君は殺されないのだ。分るかね――」
 僕には何のことだが分らない。また、腹が立ってたまらないので、分らせるつもりもなかった。
「よく考えてみたまえ。これから君が出かけていって、恐るべき陰謀者と対談中、不幸にも君が相手の手にかかって殺されてしまってもだ、本当の君は死なないのだ、なぜならば、僕とこうして並んでいる君は『二十年後の世界』へ見物に来ている君にすぎないからだ。本当の君はこの世界よりも二十年過去にさかのぼった世界に住んでいるんだ。そうだろう。これは分るか」
 そういわれてみると、なるほどそれにちがいない、僕は博士の説に興味をおぼえた。
 博士は、僕の顔色が直ったのを早くも見てとったか、その機を外《はず》さず、喋《しゃべ》りたてた。
「つまりだ。今僕と並んでいる君は、本体《ほんたい》のない幻《まぼろし》にすぎないのだ。本体の君は、連続的成長を続けて、やっと青年になりかけのところにいるんだ。だからね、幻の君が……で殺されようとも、君の本体は死なない。ただ君の幻が、殺されたように見えるだけだ。君の生命は絶対に安全である。分ったかね」
 分ったようでもあり、なんだかごま化《か》されているようでもあった。僕はそのとおり素直に博士にいってやった。
「ごま化したりしていやしないよ、子供でもこれは分る理屈《りくつ》なんだがなあ。――とにかく君の本当の生命があやうくなるようなことを、君の親友の僕たるものがすすめるはずがないじゃないか。そしてね、なにもかもさらけだしてしまうと、君なる者はいくらこの世界で殺されたって、君の本当の生命には異常がないという真理を、僕は大いに重宝《ちょうほう》に思って、それを出来るだけ利用しようとしているのだ。もちろん他日《たじつ》、君にはうんと報酬《ほうしゅう》を払うことを約束する」
 だんだん聞いているうちに、僕は彼のいっていることが大体理解できるようになった。本体は、僕は青少年なんだ。こんな大人ではないんだ。だからこの恰好の僕が死んでも、それは幻が死ぬだけで本体の僕の生命には異常がない――という理屈は、筋が立つ。
 が、疑問が起こった。
「おい君。幻の僕が死んだら、僕はどういうことになるんだ。感覚のある僕は、どこに現れるのかい」
「それはもちろん、時間器械の部屋の中さ」
 博士は、はっきり答えた。
「時間器械の部屋の中というと、あの焼跡の地下室に据《すえ》付《つ》けてある、あれのことだね。君が僕に入《はい》れといったあの器械の中のことだね」
「そうさ。あの中だ。そこで僕は君をまた未来の世界へ送りつけることが出来る。あの同じ器械を使えば、それはわけのないことだ」
 なるほど、そうかと、僕は始めて納得《なっとく》がいった。
「じゃ、この海底都市へ帰って来ようと思えば、すぐ帰って来られるんだね」
「もちろん、そうだよ。時間器械のところには辻ヶ谷と名乗る僕がいつもついているんだから、君の希望どおりにしてあげられる。――どうやら分ってくれたようだから、早速《さっそく》、例の謎の陰謀者たちのまん中へ入りこんでもらいたいね。通信機もここに用意してある。彼らの正体をつきとめてくれたまえ、そしてわれら海底都市に対して何を行うつもりか。われらと平和的に妥協《だきょう》するつもりはないか。それから、出来るなら、彼奴らの生活の弱点などというものを見て来てもらいたい。さあ、そうときまったら、この潜航服《せんこうふく》を着せてあげよう」
 博士はいつの間にかメバル号を海底に停止させていた。そして座席から立上って、僕の衣《ころも》がえをうながした。


   海底を行く


 へんなことになった。
 カビ博士と名のる辻ヶ谷君の切《せつ》なる頼《たの》みにより、僕は海底ふかく分け入って、凶暴《きょうぼう》なる未知の怪生物族を探し、それと重大なる談判《だんぱん》をしなくてはならない行きがかりとはなった。
 カビ博士は、僕にきせた潜航服をもう一度めんみつに点検して、異常のないのをたしかめた後、僕に門出《かどで》の祝福《しゅくふく》をのべてくれた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「しっかり頼んだよ」
「なんか異変があったら、すぐ救い出してくれるんだよ。いくら僕がこの海底都市では幻の人間だといっても、やっぱり自分が殺されるなんて、気持がよくないからねえ」
「それはよく分っている。こっちも十分に君を監視しているんだから、もしまちがいが起こったと分れば、全力をあげて救出するから、安心して行きたまえ」
 カビ博士は、そういってうけあってくれた。
 僕はついに海底に下りた。軟泥《なんでい》の中に、鉛《なまり》の靴がずぶずぶとめりこんで、あたりは煙がたちこめたように濁《にご》ってしまった。
「かぶとにつけてある電灯のスイッチを入れるんだ」
 博士の声が、超音波を使った水中電話器にのって、聞こえてくる。
 僕はいわれたとおりにした。ぱっと前方が明るくなった。僕がかぶっている潜水兜《せんすいかぶと》のひたいのところについている強力なヘッド・ライトが点《つ》いたのである。なかなか明るくて、前方百メートルぐらいまでのものは、昼間と同じようにはっきり見えた。
「百十五度の方向だよ。まちがえないようにね。……そのうちに、くりッくりッという怪音《かいおん》が聞こえだすだろう。その音の方向へ進んでいくんだ。多分七八百メートル先に、例のトロ族の哨戒員《しょうかいいん》か何かがいると思うよ」
 カビ博士はよほど心配になると見えて、またぎゃあぎゃあと、水中電話器を通じて僕に話しかける。
 僕は羅針盤をにらみながら、百十五度の方向へ、よたよたと歩いていった。
 あたりは軟泥ばかりで、外《ほか》に海草も何にもない。魚群さえみえない。――いや、魚はいないわけではない。ぐっと踏んだ鉛の靴の下がぐらぐらと崩壊《ほうかい》するように感じたときは、かならず足もとから、まっくろなものがとび出す。それは深海魚《しんかいぎょ》であった。僕はそのいくつかの姿を、ヘッド・ライトの中にみとめたが、どれもこれもどす黒く、そして醜怪《しゅうかい》な形をしていて魚らしくなかった。魚と両棲類《りょうせいるい》の合の子としか見えなかった。
 ふだんは何一つ光の見えないこの深海にも、ちゃんと楽しく棲《す》み暮《くら》している動物の世界があるのだ。いや、動物だけではなかろう。僕には見えないが、おそらく原始的な微生植物《びせいしょくぶつ》も、ここをわが世とばかりに活動して繁茂《はんも》しているのであろう。
 行けども行けども、どこまで行っても単調な同じ地形ばかりであった。僕は少々ばかばかしくなった。ひょっとしたら、カビ博士にうまく一ぱいはめられたのかもしれない、などと考え出した。
 その博士は、さっきからもう黙りつづけているのだ。ただ水中電話器から発する連続性の搬送音《はんそうおん》だけが、かすかに受話器に入って来ている。
 そのときだった。全く不意打《ふいうち》だった。
 僕が歩いている前方五メートルばかりの海底が、急にむくむくともちあがった。それは恰《あたか》も大きなもぐらがいて、大地の下から土をもちあげたらこうもなるだろう、と思われるような光景だった。とにかく僕の目の前に、とつぜん高さ二メートルあまりの小山みたいなものが出現したのである。そしてよく見ると、それは生き物のようにしきりに動いていた。
「な、なんだ。おどかすなよ、海もぐらの親方さん」
 僕は水中電話器を通して、何者とも正体《しょうたい》の知れない土塊《どかい》に声をかけた。
 僕が声をかけたとき、例の土塊ははげしく上下左右へ震動《しんどう》したようであった。しかし相手は返事一つしなかった。
「おい、おい、通り路をじゃましないでもらいたいもんだね」
 僕はふてぶてしくいいはなった。そしてたちまち土塊に近づいて、その横を通りすぎようとした。
 と、僕の行手《ゆくて》にあたって、また別の土塊がむくむくと頭をもちあげた。一つではなかった。五つ六つ――いや、その数はぐんぐんふえて、十四五にもなったであろうその土塊は、まるでダンスでもしているように上下左右にゆれながら、僕の行手を完全にふさいでしまったのである。
 このとき僕は、それまでに聞いたことのないあやしい音響を耳にした。


   トロ族


 僕は当惑《とうわく》の絶頂《ぜっちょう》にあった。
 むくむくと、土饅頭《どまんじゅう》のような怪物が、僕のまわりを這《は》いまわる。
 へんに耳の底をつきさすような怪音が、だんだんはげしくなる。始めはそれが何の音だか見当もつかなかったが、そのうちにあれは怪物どもがさかんに喋《しゃべ》り合《あ》っている声ではないかと思った。どうせ僕のことをやかましく喋り合っているのだろう。
 僕は立往生《たちおうじょう》をしていた。そして怪物どものさわぎを、見まもっているしかなかった。
 が、そのうちに気持ちが少し落着いて来た。あとはどうにでもなれと、はらを決めたせいであろう。
「もしもし、トロ族君たち。いつまでも僕のまわりを走りまわらないで、話があるのならさっさと話しかけてくれたらどうだね」
 相手に通ずるという自信はなかったが、かねてカビ博士から教わっていたところもあるので、思いきって普通のことばで話しかけてみた。
 或る程度のききめはあったようだ。僕が話しかけると同時に、怪物群は一せいに動きまわるのを中止して、僕の方へ頭部をつきだすようにしたからだ。
「もしもし、トロ族君たち。話は早いところきまりをつけようじゃないか」
「それはこっちも望《のぞ》むところだ」
 奇妙な声が、僕に答えた。それはすりきれた音盤《おんばん》にするどい金属針をつっこんで無理にまわしたときに出るゆがんだきいきい声だった。
「よろしい。君たちはいったい何を希望するのかね、われわれ人類に対して……」
「へんなことをいっては困る。われわれも人類だよ。君たちだけが人類じゃない」
 返事とともに怪物群は、一せいに頭部《とうぶ》をゆすぶって奇声《きせい》を放った。それはあざけりの笑い声のようにひびいた。
「僕には信じられない。ほんとうに君たちも人類であるなら、ちゃんと姿をあらわしたがいいではないか。そんな揚げない前の天ぷらみたいな恰好で僕の前に立っていて、おかしいではないか」
 鋸《のこぎり》の目たて大会のように、きいきい声がはげしくおこった。が、そのうち別の声がすると、きいきい声はぴたりとしずまった。
「ではヤマ族君」と相手の声がいった。
「われわれは姿を見せるであろう。今まで姿を見せなかったのは、一つには防衛のためであり、また一つには君たち劣等《れっとう》な人類がわれわれを見て、気が変になるような事があっては困ると思ったからだ」
 劣等な人類――とは、何事であるかと、僕は少々むかむかしたが、それはおさえた。誰が気が変になんかなるものか。
「御念《ごねん》の入ったごあいさつです。気が変になんかなりませんから、早く素顔《すがお》と素顔とをつきあわせましょう」
 そういってしまってから、僕はしまったと思った。なぜなれば、こっちは潜水兜《せんすいかぶと》なんかをからだにつけているのだ。これをとって素顔を見せたりすると、たちまちあっぷあっぷで土左衛門《どざえもん》と変名しなくてはならない。
 そのときであった。僕はおどろきのあまり息がとまった。
 見よ、一せいにトロ族が姿をあらわした。例の背の高い土饅頭《どまんじゅう》みたいなものが、とろとろと下にとけおちると、そのあとに残ったのは僕の二倍ほどの背丈の、ふしぎな顔をした人間に似た動物であった。
 彼等の全身はまっ白で、肉付のわるい方ではなかった。
 その顔は、頸のところがなくて肩の上にすぐついていた。いや頸がなくなって、肩とあまりちがわない幅《はば》をもっていたという方がいいかもしれない。頭部に全然毛はなく、丸い兜《かぶと》のような形をしていた。額はせまく、目はすこぶる大きくて、顔からとび出していた。そして両眼の間はかなりはなれ、別なことばでいうと、目は顔の側面の方へ大分移動していた。
 鼻はあるかなしかで低かった。そのかわり口吻《こうふん》はふくらんで大きく前に伸び、唇はとがっていた。あごは逞《たくま》しくふくれていた。
 腕は短く、手はひろがって鰭《ひれ》のようであった。脚は太くて長かったが、足首のあたりから先は、やはり尾鰭《おひれ》のような形をしていた。鰭らしいものが、背中と、胸と腹の境目とにもつづいていた。乳房のある者と、それのない者と両方がいた。
 大ざっぱに彼等の身体つきについて感じを述べると、たしかに人間らしくはあるが、多分に魚の特徴を備《そな》えていた。しかし人魚というほどではなく、それよりもずっと人間に近い。とにかく、こんな奇妙な相手の身体と知っていたら、もうすこし正体をあらわすのを待ってもらった方がよかったとも思う。
「どうだね、君、気はたしかかね」
 僕の前にいた一きわ大きい魚人《ぎょじん》が、そういって、口からあぶくをふいた。


   海底の下


「大丈夫ですよ。君たちの姿を見て気が変になるなんて、そんな気の弱い者じゃない」
 僕はトロ族たちに、そういった。
「ふうん、どうかなあ。君たちヤマ族は、よく嘘《うそ》をつくからね」
 魚人《ぎょじん》がいった。
「さあ、そんなことより、話をつけよう。一体君たちトロ族は、われわれに対して何を希望するのかね。僕は出来るだけ、君たちの希望がとげられるように努力するつもりだ」
 僕は早く交渉を切上げてしまいたいと思ったので、その話を始めた。
「よろしい。われわれの不満を君に聞いてもらう――近来、君たちヤマ族の海中侵入《かいちゅうしんにゅう》はひどいではないか。われわれトロ族としては甚《はなは》だ不安である。前以《まえも》ってあいさつもなしに、どんどん海底まで侵入してくるとは、よろしくないではないか」
 トロ族の委員長らしい魚人は、はっきりと要旨《ようし》をのべた。他の魚人たちは、頭を僕の方へつきだして、今にもとびつきそうな恰好である。
「君の申し出は分った。われわれは侵入を正しいとするものではない。われわれは君たちがこんなところに住んでいることを全然知らなかったのだ。やむを得ず地上の生活を放棄して、この海中海底に下って来たのであるが、まさかこんなところに君たちが住んでいるとは思わないものだから、どんどん工事をすすめて海底都市を建設したのである。これだけいえば、われわれに不正な侵入の意図のないことを知ってもらえるだろう」
 僕は、秘密のうちに、後方のカビ博士からの指示をうけながら、雄弁《ゆうべん》に述べたてた。
「われわれが住んでいるとは知らなかったというが、それは本当だとは思われない。われわれのことについては、地上にもその文献が残っているはずだし、またわれわれの一部は地上にも残留《ざんりゅう》していて、われわれの移動についても物語ったはずだ」
「そんなことは知られていない。地上ではたびたび人類を始め生物が死に絶《た》えたことがある。少なくも三回の氷河期や、回数のわからないほどの大洪水《だいこうずい》、おそろしい陥没地震《かんぼつじしん》などのために、地上の生物はいくたびか死に絶え、口碑伝承《こうひでんしょう》もとぎれ、記録も流失紛失《りゅうしつふんしつ》して、ほとんど何にも残っていないのだ。ねえ、分るだろう」
「しかし、どうだろうか。あれほどの巨大無数のものが完全に失われたとは思わないが、まあそれはそれとして――その外にもわれわれは、侵入の君たちに対して、たびたび警告を発している。しかるに何の誠意も示さないのはけしからん」
「いや、それも君たちが一方的に警告を発しているだけであって、われわれにはそれが通じなかったのだよ。通じなければ何にもならない」
「ふふん、ヤマ族は昔ながらに劣等なんだ。われわれとの知恵《ちえ》の差はその後ますますひどくなったものと見える」
 魚人は嘲笑《ちょうしょう》の意をはっきり示した。
「それを知っているんなら――つまり君たちトロ族が、われわれよりずっと文化的に進歩していることを知っているんなら、君たちはわれわれを親切に指導してくれなくてはならない。それをだ、むやみにあざ笑ったり、またわれわれをおそろしがらせたり、不意打《ふいうち》のひどい攻撃を加えたりするのはまちがっていないかと思うが、どうだ」
 僕は、ここぞと熱弁《ねつべん》をふるった。
「それこそ君たちの一方的な考え方だ。とにかくわれわれの現《げん》に蒙《こうむ》っている損害を見てくれれば、どっちの主張が正しいか分るのだ。われわれは今までに、がまん出来るだけのがまんをして来た。しかしもうこの上はがまんが出来ないのだ。君はこれから海底の下へおりて、われわれの蒙っている実害を視察するのだ。その上で改めて君の釈明《しゃくめい》を聞こう」
 海底の下へ――とは、海底の下に、まだ国があるのだろうか。彼等トロ族の住んでいる国がそこにあるのだろうか。魚人《ぎょじん》は、僕を海底のまたその下へ引きずりこもうとするのだ。どうしよう。行こうか、それとも断《ことわ》ろうか。
「よろしい。僕は視察する。万事《ばんじ》は視察した上でのことだ」
「来たまえ。そして見たまえ」
 魚人は僕の手をとると、どんどん足許《あしもと》を掘り始めた。彼の足はプロペラのように動いて、みるみる穴が大きくなっていった。僕のからだはその穴へ引きずりこまれた。穴のふちは、僕の目の高さよりはるかに上にあった。
「来たまえ。こっちだ」
 魚人が手をはげしく引っぱった。僕は魚人に引きずられるようにして歩いた、始めはたいへん歩きにくかったが、そのうちに楽になった。しかしかなり抵抗がからだの正面に感じられた。それはまだいいとして、憂鬱《ゆううつ》なことには、あたりがまっくらで、墨《すみ》つぼの中を歩いているような感じのすることであった。


   地底《ちてい》居住者《きょじゅうしゃ》


 僕は途中のことをよくおぼえていない。あの気持のわるい海底の、そのまた下の泥の中へひきずりこまれていったとき、途中で気を失ってしまったらしかった。
「あ、痛ッ!」
 高圧電気にふれたときのようなはげしい衝動《しょうどう》を感じると共に、全身にするどい痛みをおぼえた。それで僕は気がついた。
 すると、奇妙なたくさんの声が笑うのが聞こえた。僕をあざ笑ったのにちがいない。
 僕は空気兜《くうきかぶと》の中から目をみはった。意外な光景が、前にあった。そこにはあの黒ずんだ海水がなかった。水のない空間が、あかるく光っていた。うす桃色の大きな波が、その空間をうずめて、左右上下にさかんに動いていた。
 僕の目がだんだん落ちついてくるにつれ、空間のうす桃色の大きな波と見えたのは例の魚人《ぎょじん》トロ族がおびただしくこの洞窟《どうくつ》みたいな中に充満《じゅうまん》し、そして彼らは僕をもっとよく見たがって、たがいにひしめきあっているのだと分った。
 その醜怪なる魚人のかたち! 僕は嘔吐《おうと》しそうになって、やっとそれをこらえた。
 ひしめきあう魚人たちは、急にしずかになった。誰かが号令《ごうれい》をかけたようでもある。
 そのとき僕の耳もとで、僕に分かる言葉がささやかれた。
「君の兜をぬぎたまえ。君の服もぬぎたまえ。そうしても君は、楽に呼吸ができるよ。ここには十分の空気があるからね」
 僕は横をふりむいた。するとそこには見おぼえのある魚人がいた。はじめ海底で会見したときに、僕にものをいいかけた彼だった。彼は乳の上に、黒いあざをこしらえていた。そのあざは、彼のからだが或る方向になったときにかぎり、雄鶏[#「雄鶏」は底本では「鶏鶏」と誤植]《おんどり》のシルエットに見えた。僕は彼のことを、これからオンドリと呼ぼう。
「いや、僕はぬぐつもりはない。このままがいいのだ」
 僕は断固《だんこ》として、ことわった。うっかりぬいでしまった後で、どこからか海水がどっと侵入して来たときには、僕はたちまち土左衛門《どざえもん》にならなくてはならない。
「じゃあ、勝手にしたまえ」とオンドリは、いった。
「とにかくこんなにたくさんのわれわれの同胞《どうほう》が、海底の下わずか百メートルのところに住居をもっているんだ。分ってくれたろうね」
「これが住居か。ほら穴みたいだが……」
「第一|哨戒線《しょうかいせん》についている同胞なのだ」
「ははあ、ここが第一哨戒線か」
「こんな余計なところへ住居をあけなければならなくなったのも、元はといえば、君たちヤマ族のあくなき侵略に対抗するためだ。……こんどは別のところを見せる。こっちへ来たまえ」
 オンドリが僕の腕をかかえて立上った。すると魚人たちは奇声《きせい》を発して左右にとびのいた。そのまん中の道を、オンドリと僕とが歩いていった。
 正面の壁に、とつぜん明るい光がさした。と思ったらそこは狭いトンネルの入口であることが分った。
 僕たちはその中へはいっていった。
 僕はふしぎなものを見た。いやふしぎな出来ごとにあった。というのは、そのトンネルの穴が、すぐ向こうで行《ゆ》き停《どま》りになっているように見えるのに、僕たちがそっちへ歩みよるに従って、その穴がしずかに後退していくことだった。つまり、前方において行き停りになっている浅い穴が、僕らがそっちへ一歩進めば、穴の底は一歩奥深くなり、三歩進めば三歩奥深くなり、どこまで行っても穴の奥に突き当たらないのであった。
「へんだなあ。自然に穴があいて、通り穴が出来るなんて……」
 僕は思わず感嘆《かんたん》の声をもらした。
 すると僕の前にいたオンドリが僕の方へふりかえった。
「はははは。自然に穴があくわけではない。この器械で穴をあけていくんだよ。君たち人類は、こんな道具を持っていないと見えるね」
 オンドリはそういって、手に持っていた大きな探検電灯のようなものを見せた。それはもちろん電灯ではなかった。彼がそれをすぐ横の壁にさしつけると、壁はとろとろととろけるようになくなって、奥行十メートルばかりの、われわれが立って歩けるぐらいのトンネルがあいたではないか。僕は、トロ族のおそるべき技術力について知り、背中がぞっとした。
 僕たちは前進した。
 約二十分ばかり歩いたとき、オンドリは僕の方をふりかえった。
「いよいよ君に見せたい場所へ来た。われわれの善良なる同胞の住居が、君たちの海底都市工場のために、いかにひどく破壊せられているか、さあ、こっちを見たまえ」
 オンドリは、僕をひっぱって、急ぎ足になった。――僕はいかなる光景を見たろうか。


   険悪化《けんあくか》


 魚人オンドリの声に、僕は彼の指す方を眺《なが》めた。
 ああ、僕はその光景を一目見たとき、そっちへ目を向けたことを後悔《こうかい》した。それは悲惨《ひさん》きわまる光景だった。洞窟の中に、大きな崖《がけ》くずれが起こり、その土砂の下から数百数千の魚人が血だらけになって救《たす》けをもとめているのであった。そして天井から、にゅうと顔を出しているのは、まぎれもなく海底都市のボーリングの末端《まったん》をなす鋼鉄棒《こうてつぼう》だった。
「とつぜんあのとおり、大震動と共に、あのような金属棒がわれらの居住区を突きさしたのだ」
 オンドリは叩きつけるような口調でいった。
「そこで天井はくずれる。たちまちわれらの同胞はあのとおり生き埋めになる。皮膚は破れ、肉はさけ、死する者数知れず、その救出《すくいだ》しにわれらは総力をあげているが、このとおりまだ救い出しきらないのだ。どうです、君たちヤマ族が見ても気持ちのいい光景じゃないでしょう」
「ごもっともである。海底都市の拡張《かくちょう》工事がこんな惨禍《さんか》を君たちに与えようとは全然知らなかった。早速《さっそく》僕は、このことを報告して、直ちに善後策を講ずるであろう」
「とにかく無法にも程がある。何等の案内も警告もなしに、上からどかどかと鉄の棒をさしこんで、こんな目にあわすんだからね。かりに君たちの居住区が、こんな風に荒されたと考えてみたまえ。君たちはそのときどんなに怒りだすことか」
「ごもっとも。げにごもっともである。早速警告をわれらの仲間へ発信しよう」
 僕はそういって、カビ博士への通信器を取上げた。しかしそれは機能を発揮しなかった。
 と、そのとき大雷《おおかみなり》の落ちたような音響がした。それと共に、僕が踏まえている大地が地震のように揺れた。
「おッ、又来たぞ。憎むべきヤマ族!」
 オンドリの呪《のろ》いにみちた声と共に、右手の正面の壁がどっと下へ動きだして、滝のように落下していった。するとそのあとに、直径二百メートルほどの大穴があいた。その底はどのへんになっているのか、土煙のために見えなかった。
 トロ族の叫び。僕のまわりから、また土煙のたちのぼる地底からも、あわれな叫喚《きょうかん》があがって来た。
「また陥没《かんぼつ》だ。ひどいことをしやがる」
 オンドリの声は、前よりもずっと興奮《こうふん》している。
 僕は目を蔽《おお》いたかった。僕は出来るならすぐさまその場を逃げ出したかった。だが、そうすることは不可能だった。僕はどの道を行けば、カビ博士の待っているところへ行けるのかを知らない。――オンドリが、僕の手をつかんだ。
「あの声を聞け。トロ族の呪《のろ》いの声を聞け」
 そういって彼は、僕の耳にゴムまりを半分に切ったようなものを、ぺたんとはりつけた。するとそれまでは、ただわあわあ、ぎゃアぎゃアとばかり聞こえていたトロ族たちの叫喚が、とたんに言葉になって僕に聞こえた。
「ヤマ族の悪魔め! また、やりやがった」
「もうかんべんならん。海底都市へ進撃して、ヤマ族をみな殺しだ」
「そこに立っているヤマ族の一人を、まず血祭《ちまつ》りにぶち殺せ」
「そうだ、そうだ。やっつけろ」
 僕は背中が寒くなった。
 暴民《ぼうみん》どもだ。彼らのいっていることから考えて、彼らを暴民と呼んでさしつかえないだろう、たとえ彼らが憤激《ふんげき》すべき理由を持っているにしろ……。
「君は、僕に何を求めるのかね」
 僕はたまりかねて、傍《そば》にいて僕の手首をしっかり握っているオンドリにいった。
「あのとおり同胞は激昂《げきこう》しているんだ。尋常《じんじょう》のことではおさまらないだろう。同胞たちは君の姿を見て、一層|刺戟《しげき》されたのだ。同胞たちは、日頃の忍耐を破って、ヤマ族の海底都市襲撃を叫んでいる。あれ、あの通り……」
 オンドリにいわれなくても、僕にも彼らの好戦的な叫びは、さっきから耳に入っている。困ったことになったものだ。
「海底都市の人たちは、自分たちの進めている海底工事が、このように君たちトロ族に惨害を与えていることを知らないのだ。知ってりゃ即座《そくざ》にやめるにちがいない。だから君たちは海底都市を襲撃する前に、先ず事情を海底都市へ申し入れるべきだ。及ばずながら僕はその使者の一人となってもいいと思う」
「遅い。もう遅い。われわれの同胞はあの通りの大激昂《だいげきこう》だ。君は……君は気の毒だが、われわれの門出《かどで》の血祭だ。ひッひッひッひッ」
 オンドリは歯をむきだして、僕の腕の骨も折れよと掴《つか》んで振った。
 これまで穏健《おんけん》の人と見えていたオンドリまでが、もはや気が変になってしまったようになったのだ。万事休《ばんじきゅう》すである。
 僕の心は千々《ちぢ》に乱れた。愛する人たちの住んでいる海底都市を、トロ族の暴行より如何にして護ったらいいだろうか。また大激昂《だいげきこう》のトロ族を何とか一度で鎮《しず》まらせる方法はないものであろうかと。
 ……と、僕は一策を思いついた。


   タイム・マシーン


 最後の竿頭《かんとう》に立って思いついた僕の一策というのは、どんなことであったろうか。
 それはすこぶる大胆《だいたん》な、そして乱暴な方法であった。だがそれが今残されたる只一つの道であるのだ。トロ族の群衆は、今僕の身体を八《や》つ裂《さ》きにしようと思っている。それに続いて大挙《たいきょ》、海底都市に侵入しようとしている。そしてトロ族の惨虐性《ざんぎゃくせい》と復讐心《ふくしゅうしん》とが、言語に絶する暴行を演ずるであろうことは明白だ。この際だ。どんなに[#「どんなに」は底本では「どんに」と誤植]険しい道であろうと、それが道であれば、僕は突き進まないでいられないのだ。
「はははは、僕を血祭にするというのか」
 僕はオンドリの方へ笑いかえした。
「そうだ。それによって、われわれは、先ず同胞の流した血の最初の一滴をとりかえすのだ。あとは海底都市へなだれこんで、何十倍何百倍の血にして取り戻す……」
「はははは。たわ言《ごと》もいい加減《かげん》にしたまえ。君たちはわれわれ人類ヤマ族を劣等生物視《れっとうせいぶつし》しているが今に後悔するだろう。われわれ人類は、君たちみたいに野蛮ではない。また文化においてもずっとすぐれている」
「うそだ。ヤマ族は貧弱な文化力を持った劣等未開の奴ばらだ」
「それが認識不足というものだ。今に分る。そのときおどろかないように……」
「ヘヘン、わらわせる。なにが認識不足だ」
「殺してしまえ。八つ裂にしろ」
「早く、殺《や》っちまえ。顔を見ているのも、むなくそが悪い」
「迷っている死霊《しれい》のために、そのヤマ族野郎の頭を叩きつぶせ」
 トロ族群衆の興奮と激昂《げきこう》とはその頂点に達した。ついに彼らは鬨《とき》の声をあげて、僕の方へ殺到した。手に手に異様な凶器《きょうき》を持ち、目玉をむき出し歯をむき出して、怒れる野獣群のように僕を目がけてとびついた。
 何條《なんじょう》もってたまるべき、僕はたちどころに惨殺《ざんさつ》されてしまった――。
 ちりちりちりちりン。
 警鈴《けいれい》が鳴っている。
 僕は目を見開く。まぶしい金属壁《きんぞくへき》の反射である。
(ほう、ここは見覚えのあるタイム・マシーンの中だ!)
 と、気がつく折しも、この金属壁の一部がぽかりと四角にあいて――そこが扉だったのだ――外からこっちを覗きこんだ者がある。
「あッ、君は……」
 覗きこんだ男こそ、辻ヶ谷少年だった。僕をこのタイム・マシーンの中に入れてくれた、同級生の辻ヶ谷君だった。
「おう、君。もういいだろう。出たまえ」
「いやだ。今が大切なんだ。もう一度二十年後の世界へ僕を戻してくれ。君も知っているじゃないか、僕は今トロ族に殺されて……」
「何をいってるんだ。うわごとはそのくらいにして、こっちへ出て来たまえ。足がどうかしたんなら手を貸してやろうか」
「だめ、だめ。絶対に下《お》りない。ねえ君、頼むよ。今非常に大切なところなんだ。僕がたとえ何十回ここへ戻って来ても、僕がもしいいというまでは、君は僕を二十年後の世界へ何回でも送りつけるんだ。そうしないとわが人類は一大危機にさらされることになるんだ。いいかね、何回でも僕を、二十年後の世界へ追いかえすのだ」
 僕は泣かんばかりにして辻ヶ谷君に頼んだ。
 なにしろ僕はトロ族の暴民のため殺されたにちがいない。死ぬと共に、僕はこの世の中へ戻って来て、タイム・マシーンの中に自分の身体を発見したのである。僕が予想したとおりだった。
 然《しか》らば僕は、かねて計画したところに従って頑張るばかりだ。これから何べんでもトロ族の暴民の前に姿を現わして、彼等をおどろかせ、そして彼らをどこまでも説得するんだ。
「よォし、そんなに君がいうんなら、また二十年後の世界へ送ってやるが、そのかわりどんな事が起っても、僕は知らないよ」
 辻ヶ谷君は、そういって扉に手をかけた。
「ありがとう、ぜひ頼む。――いいね、僕がもうよろしいというまでは、僕が何べんここへ戻って来ても、二十年後の世界へ追いかえすのだよ」
「よし分かった。君の希望するとおりに計《はか》らってあげる」
 そういうと辻ヶ谷君は、扉をぱたんと閉めた。
 それから例のとおりタイム・マシーンは働きはじめた。あたりがぼんやりとなる。そしてしばらくすると、別の音響が聞こえて来た。
「ひッひッひッひッ。見やがれ。とうとう八つ裂にしてやった」
「血祭《ちまつり》第一号だ。ヤマ族め、思い知ったか。くやしかったらもう一度生きてみろ」
 僕は今だと思った。僕はむくむくと起きあがった。そして大音声《だいおんじょう》をはりあげた。
「あわててはいけない。僕は死んでいないのだ。オンドリ、僕が見えるか」
 僕は傍《そば》にいたオンドリの肩を叩いた。そのときのオンドリのおどろいた顔!


   不死身《ふじみ》


「僕はまだ死んで居らんぞ。よく見たまえ」
 僕はオンドリの腕をとらえて、つよくゆすぶった。
「おやッ。まだ死ななかったか」
 オンドリは、僕がまだ生きて居るのを、ようやく認識したようだ。
「この野郎はまだ生きている。これではまだ血祭《ちまつり》にならないぞ」
 オンドリは前に集まっているトロ族たちを煽動《せんどう》した。さっきまでは彼は平和愛好者のような顔をしていたのに、今はもうがらりと変って煽動者をつとめている。なんという卑《いや》しい根性《こんじょう》の持主だろう。
「殺してしまえ。そのヤマ族の代表者を、ずたずたにひきさいてしまえ」
「復讐だ。そしてヤマ族の国へ攻めこんで行く前の血祭に、そのヤマ人を張り殺すがいい」
「そうだ、そうだ。やってしまえ」
 興奮しきったトロ族の暴漢は、僕をめがけて押しよせた。
 その野獣的な彼らの形相《ぎょうそう》に、また太古《たいこ》のままの好戦的な性格まるだしの有様《ありさま》に、僕はいささかひるみはしたけれど、ここで決心を曲げては万事《ばんじ》水の泡と思い、こっちも負けずに大声を張りあげた。
「トロ族の人々よ。君たちは悪魔に呪われていることに気がつかないのか。目ざめよ。君たちはもっと冷静にならなければならない。平和的に事を解決する道をえらばなければならない。暴力のみで、自分の意志を押し通そうというのは、神の憎みたまう最も邪道《じゃどう》である。目を開け、トロ族の諸君。君たちは神の道に反して、僕を暴力によって殺害しようとしている。しかし見ていたまえ。そういう暴力行使は何の役にもたたないから、君たちは遂《つい》に僕を殺害し得ないということを悟るだろう。そのとき君たちは、神のみ心を――」
「やっちまえ。きゃつをこの上、勝手気ままにしゃべらせておくことがあるものか」
「そうだ、そうだ。早く八つ裂にしてやるんだ」
 わあッと、彼らは殺到《さっとう》した。
 棒、石塊《せきかい》、刀、斧《おの》、その他いろいろな兇器が僕の頭上に降って来た。――僕は昏倒《こんとう》した。
 気がついてみると、辻ヶ谷君がタイム・マシーンの扉を細目に開いて、こっちをのぞきこんでいる。
「おう、辻ヶ谷君。早く僕を二十年後の世界へ送りかえしてくれたまえ。今、とても重大な出来事があの世界で起こっているんだから……」
「ほんとに、いいのか。何べんでも、あっちへ送りかえしてやればいいのか」
「そうなんだ。僕がもういいというまでは、いくどでも二十年後の世界へ僕を追い返してくれ給え」
「よし。やってあげるよ。器械がこわれない間は、やってやるよ」
 扉が、ぱたんとしまった。
 気がついてみると、僕はオンドリの足許《あしもと》に倒れていた。
 むくむくと起き上がった。
「おい、トロ族諸君。君たちは大ぜいでもって、まだ僕を殺し得ないではないか。いったい、どうしたんだ。よく反省してみたまえ」
「おンや。この野郎。また生き返って来たぞ。執念《しゅうねん》ぶかい野郎だ」
「へんだなあ。たしかにぶち殺して、手足も首も、ばらばらにしてしまったはずだが……」
「わたしは、なんだか気味が悪くなって来たわ」
「あの人がいっているとおり、神さまはあの人の方についているようね」
 そんな声が僕の耳にちらちらと、はいった。どうやら相手の中に、軟化《なんか》のしるしが見え始めた。が、安心するのは、まだ早かった。
「こいつは悪魔だ。もっと徹底的に叩きつぶさにゃ駄目だ」
「執念ぶかいやつ。やっつけろ」
「やっつけろ」
 オンドリは気が変になったようになって、僕におどりかかった。暴漢たちが、それに続いて僕へのしかかる。
 僕は息がつまってしまった。
 が、僕は四度五度と、死にかわり生きかわり、彼らの目の前に姿をあらわした。そしてそのたびにまずまっ先にオンドリを見つけて彼の肩を叩くことにした。
 オンドリは、始めの慓悍《ひょうかん》さをだんだんと失ってきて、次第にむずかしい顔付をするようになった。九回目には、彼は大きな恐怖の色をうかべて、死んだようになってしまった。僕は、そのそばへ行って介抱《かいほう》をしてやった。そして、こういった。
「もう分ったでしょう。君たちのやり方が間違っているということを。……それが分ったら、僕の忠告に従って、君たちは平和的に事を解決するために、代表者を数名えらんで海底都市へ派遣したまえ。及ばずながら、僕が仲介をしてあげるから」


   平和使節


 トロ族の暴漢どもは、今や鳴りをしずめた。その指導者のオンドリ先生と来たら、鳴りをしずめる以上にへたばってしまって、僕の足許《あしもと》に長く伸びて、気息《きそく》えんえんである。
「さあ、僕の提案を君たちは採用するか、採用しないか。すぐ決めたまえ」
 僕は彼らに、平和的解決をはかるために、トロ族代表者を決めて海底都市へ派遣するように、そしてその手引は僕がしてあげると申し入れたのだ。こうなっては、彼らは僕の提案を受けとるしかないのだ。
 彼らはオンドリのそばへ集まって低音の早口で、しきりに相談しているようだった。が、遂《つい》に事は決まったと見え、オンドリは大ぜいに身体を抱えあげられて僕の前に来た。
「あなたのおっしゃるとおりにします。われわれは五名の代表者を出します。そしてあなたについて海底都市へ行かせます。どうかよろしくお願いしたい。……なお、今までのかずかずの失礼の段、ふかく遺憾《いかん》の意を表します。すみません」
 オンドリは別人のようにおとなしくなって、大恐縮《だいきょうしゅく》のていで、僕に嘆願《たんがん》し、且《か》つわびた。僕は、あとは責任をもって引受けるといってやった。そしてすぐ海底都市へ出発するから、代表者は用意をするようにといった。
 代表者五名が、やがて僕の前に並んだ。
 そのうちの一人はオンドリであった。あと四人は、男二人、女が二人。半数は若く、半数は老人だということであった。
 彼らは服装をととのえた。裸身《らしん》の上へ、西陣織《にしじんおり》のようなもので作った、衣服をつけた。そして頭部を頭巾《ずきん》のようなもので包み、目ばかりを見せていた。
 それから彼らは、身のたけよりも長い筒を背中にくくりつけた。
「これは何が入っているんですか」
 と、僕がたずねると、彼らは答えて、行って帰るまでの生活用具が入っていること、決してあやしげなるものははいっていないことを説明した。そして中をひらいて、内容物をぞろぞろと取り出して見せた。しかし僕にはそれらがどういう役をするものであるか、一つとして見当がつかなかったので、そのまま収《しま》ってもらうことにした。
 僕と五人のトロ人は、大ぜいに見送られて出発した。
 それから僕は五人の者に案内せられて、例の不愉快な旅行をつづけた。
「ヤマ族には、影というものがないのですかねえ」
 ビロという若者は、途中でえらい発見をして、僕にたずねた。
 僕はぎくりとした。
「それはね、影のある者もあるし、ない者もあるんだ」
「ふしぎですね。われらトロ族はみんな一つずつ影を持っていますよ」
「そうだろうね」
「なぜ、ヤマ族には、あなたのように影のない人があるのでしょうか」
 僕は返答に困った。
「ま、その訳を話すと長くなるから、しないでおくが、要するにわれわれヤマ族では、影なんかどうにでもなるんだ。一人で五つも六つも影を持っている者もある」
「ほう。それは、ますますふしぎだ」
 ビロはびっくり[#「びっくり」は底本では「びっく」と誤植]したようだ。
 僕は、決してでたらめをいったわけではない。物の影などというものは光線の数によって決まるものだ。
 つぼのうしろに、一本の蝋燭《ろうそく》をたてると、つぼの影は一つできる。もしこのとき蝋燭を二本にするとつぼの影は二つになる。だから光源をもっとふやせば、影はそれに応じてふえる。影を五つも六つも持つことは、らくにやれることだ。しかし僕のように、この世に影をなげかけることの出来ないものは、影のふやしようがない。
 もっとも、このことも理学的に研究を進めるなら、あるいは出来るようになるかもしれないが……。
 僕たちは、ついに最後の砂をつきやぶって海底に出た。
 例のなつかしい海底風景であった。
 僕はカビ博士のことを念頭《ねんとう》に思いうかべた。そこで博士の貸してくれた通信機のことをも思い出して胸のあたりをさぐってみると、ちゃんとそれがあった。これ幸いと僕はその送話器を通じて、放送をこころみた。
 すると、応答があった。
「了解した。すぐそこへ迎えに行く」
 という。
 そういってから、五分間とかからないうちに、カビ博士は高速潜水艇メバル号に乗ってやって来た。しかもそのうしろには、メバル号よりずっと大きなりっぱな潜水艇が三|隻《せき》したがっていた。
「ご苦労だったね。大いに心配していた」
 と博士は潜水服姿であらわれていった。
「ひどい目にあったよ」
「そうだろう。あとから話を聞くことにしよう。……あんまり君が戻って来ないものだから、とうとう、わしは政府を動かして、この潜水艇三隻の協力を得ることになったのだ」
 博士はそういいながら、五人のトロ族の方をじろりと見た。


   新龍宮《しんりゅうぐう》ホテル


 五人の魚人《ぎょじん》たちをむかえた海底都市は、その歓迎に、町々がひっくりかえるほどのにぎやかさであった。
 そういう魚人が、海底のさらにその下に住んでいたとは知らない人の方が多かったので、「先住《せんじゅう》トロ族の発見とその来訪《らいほう》」というカビ博士の解説文は、報道網《ほうどうもう》を通って海底都市の人々に大きなおどろきと、深い感銘とをあたえた。そして代表オンドリ氏・ビロ氏などの五名の宿舎にあてられた新龍宮《しんりゅうぐう》ホテルの前の広場には、朝早くから夜ふけまで、たくさんの群衆があつまって、わいわいさわぎたてていた。一目でもいいから、魚人を見たいという望みなのだ。
 彼らは、魚人を見たいために、いろいろなはなやかな飾りものをこしらえ、それをホテルの前へ引いて来て、歓迎の音楽を演奏したり合唱をしたりした。
 カビ博士のことは、一躍《いちやく》有名となった。
 世界的考古学者また生物学者として称《たた》えられ、また海底のそのまた底までさぐって魚人代表を連れてかえったその勇気と辛抱づよさとその人徳をも賞めあげられた。
 カビ博士は、時に僕と目をあわせると、くすぐったそうに笑った。
(どうも具合《ぐあい》がわるいよ。ほんとは、みんな君の手柄なんだからねえ)
 僕は、博士のちぢれた髭《ひげ》がくすぐったい笑いのために、ふるえるのを見るのは愉快であった。あの気むずかしい博士は、今や学界といわず市民たちからといわず、尊敬のまとになってしまって、二十四時いつも彼らの前へひっぱり出されているので、むずかしい顔なんか五分間もしていられないのだ。それは彼にとって、むずがゆい苦しさにちがいない。
 僕は、このお祭さわぎの中に、すこしも表面に立っていない。そのわけは、僕は日かげの身で、表面には立てないのだ。僕は、表向きに名のりをあげると、ただちに逮捕せられて、例の海底牢獄《かいていろうごく》へぶちこまれるにきまっている。僕はカビ博士の努力によって、ようやく考古学の標本または実験動物として、この世界に逗留《とうりゅう》を黙認されている次第《しだい》だ。
 だから、この間から僕の演じた冒険も外交交渉も、何もかもすべてカビ博士自らが行ったことになっているのだ。
 影の人だ。僕は影にいて、賞讃でもみくちゃになるカビ博士をくすぐったく隙見《すきみ》しているわけだった。
 僕は、ほんとなら、このお祭さわぎの席には顔を出したくない。しかし、そうしないわけに行かないのだ。なぜならオンドリをはじめ五人の代表魚人たちは、もともと僕との交渉により、僕を信用して、はるばるここまで足をはこんだのである。だから、僕の姿が、彼らのそばから少時間消えても、彼らは非常な不安な色をうかべて僕を探しまわるのであった。そういうことは、ことに始めの一週間ばかりにおいて甚《はなは》だしかった。
 僕は、ひやひやしながら、魚人たちの身のまわりの世話や、連絡にあたった。僕は、影のない身であることを海底都市の人に知られまいとして、どんなに毎日苦労をしたか知れない。僕は安全な間接照明の室をよって走りまわった。さもなければ雑《ざっ》とうの巷《ちまた》が安全だった。そこでは影法師《かげぼうし》のことなんか誰も注意していないから。
 五名の代表たちは、海底都市の市長や委員たちにほんとうの会談をとげるまでに四五日かかった。それは彼らが、海底都市における生活になれないためと、そしていろいろな気づかれが重なったせいであった。
「いかがですか、オンドリ氏。もうすこしは空気の中の生活になれましたか」
 僕は、五日目にそのことをたずねた。それは市長たちが一日も早く会談を始めたくて、カビ博士に毎日のようにさいそくをしているからだった。
「ああ。ようやくなれて来たが、あまりながくここに逗留《とうりゅう》していると、病気になるね」
 オンドリ氏は、気密兜《きみつかぶと》の中から、そういった。
 彼ら五名は、いつでもこの気密兜を被《かぶ》り、気密服をすっぽりと着ていなければならなかった。この兜《かぶと》と服の中には、海水と、そして特別な気体とがはいっていた。それは彼らの呼吸になくてはならないものだった。彼らが身体をうごかしたとき、兜の透明板《とうめいばん》の中で、海水がしぶきをたてるのが、よく見られた。
 またこの兜や服は、彼らの裸身《らしん》にかかる圧力を、ちょうど適当に保っていた。これがないと、いつも圧力の高いところで生活していた彼らは圧力の低い空中ではとても生きていられないし、身体がたちまち気球のようにふくれてパンクするおそれがあった。
 それに、もう一つ、彼らの異様な形をした裸身《らしん》が、海底都市の人たちの目にとまって、不快な感じを持たれたり、きらわれたりするのを防ぐためにも必要だった。


   破局《はきょく》来《きた》る


 オンドリ氏をはじめトロ族の代表者たちが、いよいよ会談を始めることを承知した。
 会議場は、市会議事堂であった。
 海底都市側では、市長をはじめ七名の最高委員たちが出席した。
 カビ博士が急造した言語の翻訳器械は、各人の胸にとりつけられた。それは写真器ほどの小型のものだったが、なかなか成績は優秀で、相手の言葉はこの中ですぐ翻訳されて生理波《せいりは》となり、自分の脳を刺戟《しげき》する。すると相手の言葉が自分たちの言葉となって感ずる仕掛だった。
 つまり、じっさいに相手の言葉は音響とならず、直接に聴覚を刺戟して、音を聞いたと同じに感ずるのだった。
 会談は、すらすらとは行かなかった。
 オンドリ氏を始めトロ族の委員たちは、会談が始まると、急にはげしい気性《きしょう》を表に出して、これまでのかずかずの惨害《さんがい》事件をならべあげて、海底都市側の責任をただした。
 これに対して、海底都市側では全然知らなかったために起った惨害事件であると釈明《しゃくめい》し、そして今後は大いに気をつけること、またこれまでの被害については、ある程度の見舞品を贈ることを答えた。
 魚人たちの側では、それだけではあきたらないと述べ、海底都市の発展をこれ以上ひろげないこと、今始めている一切の、それらの工事を中止せよと申し入れた。
 だが、海底都市側では、そういうことには従うことが出来ないこと、人口の多いことと生活のために、海底都市はますますひろげられねばならないことを主張して、ゆずらなかった。
 そこでこの会談は、暗礁《あんしょう》にのりあげた形となった。
 僕もたいへん残念であったし、カビ博士もすっかりしおれてしまった。
 会談は、対立のまま、すこしの解決の光も見えず、二日三日と過ぎていった。
 その間、オンドリ氏はじめ五名の魚人代表は、しきりに彼らの郷里と連絡をとっていたが、日ましに彼らの態度は硬化してきて、これでは間もなく会談は決裂して、両方は武力をもって解決するという道をえらぶほかなくなるのではないかと心配された。
 もしそんなことが起ったら、それこそたいへんである。
 海底において、人類ヤマ族と、その下層《かそう》にすむ魚人トロ族が、双方の全滅をかけた大戦闘を始めなくてはならないのだ。そのふしぎなすさまじい海底戦闘は、どんな風にひろがるか、考えてみただけでぞっとする。そしてそれによって生《しょう》ずる惨禍は、とても見るにしのびないほどのいたましいものであろう。
 しかも、どっちかが勝ち、他方が負けたとしても、勝った方はもう今までのように気持よくそこに住むことが出来ないだろう。
 いや、ほんとうは、この海底戦闘では、その特殊な場所がらと体力から考えて、双方ともひどいぎせいを払うことになりそうだ。つまり、共にひどく死に、そして傷ついて、この海底は死屍《しし》るいるいとなるであろう。
「カビ君。なんとか妥協《だきょう》の道はないのか」
 僕はカビ博士にきいた。
「ないね。絶望だ。それ以上|譲歩《じょうほ》すると、わが海底都市は生存のための海底開拓ができなくなる。水深五百メートルのところまでは、絶対に自由行動をみとめてもらわねば困る」
 博士は、かたい決意を眉のあたりに見せて、譲歩《じょうほ》のできないことを主張した。
 僕はオンドリのところへいって同じようなことをきいた。
「だめですね。これ以上、譲歩できません」
 とオンドリは冷やかにいった。
「もっとも、わしは始めからこの協定は不成功に終ると思っていました。ヤマ族は全く無反省《むはんせい》です。われわれトロ族がこれまでに蒙《こうむ》った惨禍《さんか》に目を向けようとしない。そしてわれわれを無視して、無制限に侵入して来る。はなはだ遺憾《いかん》だが、こうなれば一戦を交える外《ほか》ないです」
 オンドリは、トロ族の好戦的態度を自らの言動の上に反映して、いよいよ強いことをいうのだった。
 僕は全くいやになった。悲鳴をあげた。こんなに和平のために努力しているのに、力およばず、両者はだんだん離れて行き、そしてますます態度は硬化し、前よりもずっと正面衝突の危険が感じられてくるのだ。
 僕にいわせると、どっちも病気にかかって、熱にうかされているようなものだ。なんとかして解熱させたうえでないと、どつちも冷静になれないのであろう。僕は、ついに道に行きづまって、神に恵《めぐ》みを乞《こ》うた。
 はたしてそれは神の御心《みこころ》に通じたかどうか僕には分らないが、とにかくすばらしい機会がやって来た。予想だにしなかった絶好のチャンスがやって来た。ヤマ族とトロ族のにらみ合いも、そのとたんに解消《かいしょう》の外《ほか》なくなった。この機会というのは何だったろう?
 とつぜん、この海底に起った大地震だ!


   和解《わかい》の日


 とつぜんこの海底に起った大地震!
 それはこの十世紀間にわたってまだ一度も記録されたことのないほどの烈《はげ》しい海底大地震だった。そしてその震源地《しんげんち》が、トロ族の棲《す》んでいる地帯のすぐ下、深さの距離でいって、わずか千メートルばかりのところに起ったものであった。
 そのために、海底都市は天井が落ちたり、壁が倒れたり、また一部には海水がどっと侵入したところもあった。しかしいろいろとそういう場合の安全装置がしてあったので、災害はある程度でくいとめられた。
 海底都市の方は、まずその程度であったけれど、トロ族の居住《きょじゅう》地帯の方は、非常にひどい災害をうけた。そして大混乱はいつまでもつづき、それはだんだんと大きな不安のかげをひろげていった。
 海底都市へ来ていたオンドリを始め五人のトロ族代表は、次々におくられてくる災害の急報を読むたびに、色を失っていた。もう会議どころではなかったし、この弱味につけこんで海底都市のヤマ族に攻めこまれたら、どうしたって自分たちトロ族の大敗であろうし、悪くすると一族はほとんど全滅することは明らかであった。
 そこへカビ博士が興奮《こうふん》の色で、オンドリのところへやって来た。
「おお、オンドリどの。われわれは直《ただ》ちに大ぜいの者を、君の国へ出発させることになりました」
 いよいよ来るものが来たなと、オンドリたちは無念の歯がみをした。
 しかし、それはオンドリたちの思いちがいであった。つづいてカビ博士が語ったところによると、この大震災の救済のために、わが海底都市は全力をあげてトロ族の国へ急行するというのであった。食糧や飲料や薬品や居住資材、それからいろいろの交通機関や工作機械に土木用具などをあつめて、それを地底へ持っていって、トロ族を救い、出来るだけ早く、生き残ったトロ族のために居住の場所をこしらえ、彼等が元気づくまでは、食糧をどんどん送って生活の面倒を見ようというのであった。全く人類愛というか、同胞愛というか、それとも生物愛というか、その深い愛に従って行動するわけで、そこには侵略の意志が全然ないことが、くりかえしカビ博士によって説明された。
「それみたまえ、オンドリ君。僕がかねがねいったとおりだ。君らこそむしろ頭を切りかえなくてはならない。われわれヤマ族は、もう野蛮な侵略なんてことは、すこしも考えていないんだ。これだけの楽しい社会を持ち、これだけの豊かな資源と科学技術を持っているわれわれが、不正の手段でもって、これ以上の幸福を得ようとは思わないのだ。今こそ分ったろう。え、どうだい、オンドリ君」
 僕は、前のようなざっくばらんの態度にかえって、オンドリにいった。
 オンドリは、大きな頭を、すこし上下にふって、ようやく話が分ったらしい様子だった。
「そのとおりです、オンドリどの」
 とカビ博士は力をこめていった。
「さあ、笑ってください。これまでの不快なことはすべて忘れて下さい。一時でもいいから忘れてください。そして一刻も早く救援作業を始めようではありませんか。あなたがたは、ぜひその先頭に立ってください。そして、あなたがたのことばで、あなたのお国の方々を、まず安心させてください」
「ありがとう。どうか、そうしてください」
 頑固だったオンドリも、ついに礼をいって、万事《ばんじ》を相手にまかせた。
「オンドリ君。君は今の一言で、たくさんのトロ族を救った。君は、トロ族の大恩人になった。世界平和の鍵のような役目をしたのだ。君たちはあとで、トロ族全体から、うんと感謝されるだろう。よく分ってくれたねえ」
 僕はオンドリの身体をだいて、よろこびのことばを送った。
「いや。われわれの力ではない。これは君の力で、こうなったのだ。君の辛抱《しんぼう》づよいこと、君の深い愛、君の正しい信念――君が使者になって地底へ来てくれたんでなかったら、こう平和にはいかなかったろうと思う。ありがとう、ありがとう」
 オンドリは、僕にすがりついて、感謝《かんしゃ》のことばをのべてくれた。
 さあ、これで平和のうちに、惨禍《さんか》のトロ族たちを救い出しに行ける。
 カビ博士は、救済団長《きゅうさいだんちょう》になって、すぐ出発することになった。もちろんオンドリたちといっしょに、先頭に立って地底へのりこむのだ。
 海底都市の人々は、この救済団の出発を見送るために、広場をさして集まって来た。すごい人出だった。こんなに人が集まったことは、海底都市が始まって以来今までに一度もなかったことだ。
 人々の声は、カビ博士の名をよんで、その殊勲《しゅくん》をほめたたえる。博士は上気《じょうき》して、顔をまっ赤にしている。


   意外なる待人《まちびと》


「おめでとう、カビ君。この手柄によって、君はこの次の市長に選挙せられるだろう。しっかりやって来たまえ」
 僕は博士の肩をうしろから叩いて、そういった。
 博士は、くるりとうしろをふりかえって、片目をふさいで頭を振った。
(そうじゃない。みんな君の手柄なんだ)
 という意味をこめているのだ。
「これから君もいっしょに来て、わしを例のとおり助けてくれるだろうな」
「もちろんだ。僕はこの機会に、徹底的にトロ族を研究し、そして彼らのために幸福な安住《あんじゅう》のできる国を建設してやりたいと思っているんだ」
「おお、万歳《ばんざい》。それだ、君はこんどこそ表面に立って仕事をするのだ。わしは君のことについて、いずれ市民にすっかり本当のことを話をするつもりだ」
「不正入国の影の人間だということもか」
「しいッ。……大きな声を出してはいけない。わしも同罪《どうざい》になるおそれがある。それは隠《かく》しておいた方がいい。それを隠しても、君の勲功《くんこう》は隠し切れないのだ」
「好きなようにしたまえ」
 僕もこのとき、前途《ぜんと》の大計画を思って、大興奮《だいこうふん》を禁ずることが出来なかった。事実上、僕が海底にトロ族の新興都市を作るその指導者になるんだ。そしてヤマ族の海底都市と連絡をつけて、ここに海底連合大居住区を建設するんだ。それから双方の文化を交流し――。
「そうそう、出発の前に、ぜひとも君に会わさねばならない人があったのを忘れていた」
 とカビ博士が、いいだした。
「僕にぜひ合わせるんだって。それは一体誰だい」
「ふふふふ」
 とカビ博士はひとり笑いをしてから、
「おどろいてはいけない、君の妻君《さいくん》だよ。君の夫人だよ」
「ええッ、僕の妻?」
 僕はおどろいた。全くおどろいた。じょうだんではない。本当は僕はまだ生徒なんだ。妻君なんかがあってたまるものか。そのことをカビ博士にいうと、彼はせせら笑った。
「なんという頭の悪いことだ。君は本当は生徒かもしらんが、この海底都市では、君、年齢《とし》をとっているんだから、君に妻君があってもなんにもふしぎじゃない」
「だって僕は、影の人物だぜ」
「しかし君は、現在の生徒の時代よりも何十年先まで生きる運命を持っているんだから、君の未来というものがあるわけだ。今は妻君がなくとも、やがて結婚する年齢になるだろうじゃないか。だから二十年先の世の中であるこの海底都市において、君の妻君が町をうろうろしていたって、べつにふしぎでもなんでもない。そうだろう」
「ふーン」
 僕は呻《うな》った。そういえば、そうにちがいない。しかし正直なところ、僕は自分の妻君に会うのが、はずかしくてしょうがないのだ。――でも、どんな顔をしているであろうか。ちょっと会って見たい気も起こらないではない。
「大分前から、君の妻君は別室で待っているんだ。タクマ少年が、ずっとそのそばについて、わしが連絡するのを待っているのじゃ。さあ、これからいって、すぐ会いたまえ。なに、もじもじしているのか」
 カビ博士は、えんりょなく僕をやっつける。
「あ、ちっょと待った」
 と僕は手をあげ、
「どうも訳が分らないことがある……」
「訳が分らないって、何が……」
「これは会わない方がいいと思うね。なぜといって、いいかね、その妻君だがね、その妻君には夫があるんだろう」
「知れたことさ。君という夫がある」
「ちょっと待った。そこなんだが――」
 と僕は一息ついて、
「かの妻君には僕という本当の夫がある。そこへ持って来て、これから本当の僕ではない僕の影が出ていって会う。これはへんなもんじゃないか」
「なんだって」
「そうだろう。影の僕が出ていって、妻君に会う。二人で話をしているそのそばへ、二十年後の世界の本当の僕がのこのこ現れて妻君のそばへ行く。すると僕の姿をした同じ人間が二人も出来て、妻君の前に立つ。妻君はそれを見てどうするだろう。おどろいて目をまわしてしまうぜ。だから会わない方がいいんだ」
「わははは」
 とカビ博士は笑いだした。
「気がつかないで通りすぎるかと思ったが、とうとうそこに気がついてしまったか」
「なんだ、君は始めからその矛盾を知っていたのか。人のわるい男だ」
「いや、これには実は深い事情があるんだ。それを今ここで説明しているひまはないが、とにかくわしは君に保証する。いいかねその深い事情が実にうまく今一つの機会を作っていて、君と妻君が会うに、今が絶好の機会なんだ。君の妻君は君を決して怪《あや》しみはしないだろう。またほんものの君が横から出て来てびっくりさせるようなことは決してない。だからぜひ会いたまえ」
 カビ博士はしきりにすすめる。


   大団円《だいだんえん》


 カビ博士は、僕を僕の二十年後の妻君と会わせたがっている。熱心にいろいろと僕を説《と》きつける。ほんものの僕と、この影の僕とが鉢《はち》あわせをするようなことはないと、博士は保証する。
 しかも博士は遂《つい》に妙なことをいいだした。これには「深い事情がある」と。僕は気になってしょうがない。そこで博士に向い、その「深い事情」とは何かとたずねた。
「ま、そのことは後でゆっくりと君自身が考えたがいい。わしは説明しているひまがない。それよりは早く、君の妻君に会ってくれ。――ほら、タクマ少年がやって来たぜ。あまりおそいから、さいそくに来たんだろう」
 なるほど、タクマ少年がいつものように顔を赤くして、こっちへ笑いかけた。
「お客さん。さっきから奥様がお待ちかねですが。お隣の部屋まで来ていらっしゃいます。その扉の向こうです」
 少年の指《さ》す方を、僕はおそるおそる見た。
「タクマちゃん。まだなの」
 美しい女の声が、扉の向こうで、そういった。僕ははっとした。心臓が大きく動悸《どうき》をうって今にも破裂しそうになった。――聞いたような声だ。あれは誰かの声に似ている。
「もうちょっとお待ちになっていて下さい」
 タクマ少年が返事をした。
「いやよ。もうこれ以上待っていられないわ。あたし、そっちのお部屋へ、自分ではいっていきますわ」
 女の声と共に、その扉がしずかに、こっちへ向って開きだした。
「さあ、今こそ君の妻君に会ってやるんだ」
 カビ博士が、僕の背中をどんとついた。
「ま、まあ待ってくれ――」
 僕は困った。全身が火に包まれたようになった。心臓は機関車のボイラーのように圧力をたかめた――扉はしずかに開かれる。あ、見えた、若い女の頭髪が! 若い女の腕が!
「うーむ」
 その瞬間、僕は呻《うな》り声と共に昏倒《こんとう》した。意識は濁ってしまった。一切の色彩も光も形も消えた……。
 暗黒の空間に、流星《りゅうせい》のようなものがしきりにとぶ。
「おい、本間君。こっちへ出て来いよ」
「……」
「おい。こっちへ出て来いといったら。そこに腰をかけていても、もう何にも見えやしないよ。この器械は、もうこわれてしまったんだから……」
「えっ、こわれた?」
 僕は、やっと正気にもどつた。あたりを見まわすと、そこには鉄のような壁があるばかり。けんらんたる海底都市の市庁ホールもなければ、タクマ少年の姿も、僕の妻君だという女も、カビ博士も――いや、小さいひねくれたカビ博士である辻ヶ谷少年が、入口からこちらをのぞきこんで、しきりにさいそくのことばをつらねている。
「今日はもう遅いから、早く帰らないと、途中があぶないんだ。さかんに強盗《ごうとう》が出るというからねえ」
「強盗? 強盗てえ何かねえ」
「なにをいっているんだ、おい本間君。早くこっちへ出ろよ。このタイム・マシーンは故障になったといっているじゃないか」
「えっ、このタイム・マシーンが故障に。なぜ故障なんかにしたのか」
「えらそうな口をきくね。なぜ故障になったか、僕は知らないよ」
「お願いだ、辻ヶ谷君。どうかもう一度、海底都市へ送ってくれたまえ。頼む。頼む」
 僕は辻ヶ谷君に合掌《がっしょう》した。
「だめだよ、僕を拝《おが》んでも……。停電になると厄介《やっかい》だ。さあさあ、早くこの地下室から出よう」
 辻ヶ谷は、中へはいって来て、僕の手をとって引立てた。
「どうしてもだめか。もう一度だけでいいから海底都市へ行かせてくれ。あと、一ヶ月向うで生活させてくれれば、君にうんと御礼をするが――」
「よせよ。そんな気が変になるみたいな話は。それよりも、どこかで、一本十円の闇屋《やみや》の飴《あめ》をおごってくれよ。その方がありがたい」
「だめだなあ、君は。もう一ヶ月僕を海底都市に居らしめば、僕は偉大な事業を完成し、そして君を市長に選挙して!」
「よせ、よせ。いつまで夢の中の寝言みたいなことを喋《しゃべ》りつづけているんだ。ほら、足許《あしもと》に大きな石っころがあるよ」
 僕は、辻ヶ谷君に引立てられてタイム・マシーンの地下室から出て焼野原《やけのはら》に立った。
 もうすっかり夜になっていた。西空にうっすらと三日月《みかづき》が、はりついていた。こわれた瓦《かわら》の山を踏みしめながら、僕たちは、焼け残りの町の方へ歩いていった。
 僕は、だんだんと興奮からさめそれにかわって疲労がやって来た。それでとうとう辻ヶ谷君におぶさって寮へはいった。
 すっかり疲れてしまって、今は何を考える余裕《よゆう》もない。カビ博士が最後に僕にいった「深い事情」の謎も、気にはなるが、まだ解いてはいない。
 しかしふと気がついたのは、僕の寿命《じゅみょう》は、あの婦人が僕に会いに来るすこし以前に終ったのではなかろうか。しかもそれはあの海底都市ではなく、他の場所で終焉《しゅうえん》を迎えたのではなかろうか。それをカビ博士は知っているが、僕の妻君は、まだそれに気がついていないという場合ではないのだろうか。
 いずれ疲労がなおったら、このことを筋道だてて考えてみるつもりである。ともかく今は休養のひと眠りが僕に必要なのだ。



底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
   1992(平成4)年2月29日初版発行
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2001年7月17日公開
2001年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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