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一坪館
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)焼跡《やけあと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五十|銭《せん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さしこ[#「さしこ」に傍点]のはっぴに、
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   銀座の焼跡《やけあと》


 すばらしき一坪館《ひとつぼかん》!
 一坪館て何だろうか。
 何がそんなにすばらしいのか。
 早くそれを御話ししたいのであるが、待って下さいよ、よく考えて見るとやっぱり一坪館のお誕生のところから、このものがたりを始めた方がいいようだ。
 さて、その始まりの話であるが、ここは銀座である。ただし、あのにぎやかな銀座の姿はどこにもみられない。みわたすかぎり焼野原《やけのはら》である。
 灰と瓦と、まだぷすぷすとくすぶっている焼け棒くいの銀座である。あまりにもかわりはてた無残《むざん》な銀座。じつは、昨夜この銀座は焼夷弾《しょういだん》の雨をうけて、たちまち紅蓮《ぐれん》の焔《ほのお》でひとなめになめられてしまって、この有様であった。
 人通りは、さっぱりない。みんな遠くへ逃げさってしまったのだ。
 交番も焼けてしまって、わずかに残ったのは立番所の箱小屋の外がわだけで中にはお巡《まわ》りさんの姿もない。焼けた電話機の鈴とマグネットが下にころがっている。
 そのとき珍らしく、そのあたりにエンジンの音が聞えだしたと思ったら、それがだんだん近づいてこの交番の焼跡《やけあと》の前に停った。それはオート三輪車というもので、前にオートバイがあり、うしろが荷物をのせる箱車になっているあれだ。
 前にまたがって運転をしているのは一六、七歳の少年で風よけ眼鏡をつけている。頬《ほっ》ぺたはまっ黒。少年の右腕は、三角巾《さんかくきん》でぐるぐるしばり、上に血がにじんでいる。
「矢口家《やぐちや[#ママ]》のおかみさん。交番もこの通り焼けていますよ。お宅はこの横丁《よこちょう》だが、入ってみますか」
 少年は元気な声で、うしろをふりかえった。箱車の上に、蒲団《ふとん》を何枚も重ね、その上に防空頭巾をかぶって、箱にしがみついている老婦人があった。
「ああ、入ってみておくれな、源《げん》ちゃん。せっかくここまで来たんだもの、せめて焼灰《やけはい》でもみておかないと、わたしゃ御先祖《ごせんぞ》さまに申しわけないからね」
「ええ、ようがす。おかみさん、上から電線がたれていますから、頭をさげて下さい」
「あいよ、わたしゃ大丈夫だよ。源ちゃん、お前気をおつけよ」
 車は、交番跡から銀座横丁へすべりこんだ。そしてすぐ停った。そこはすぐ裏通りの四つ辻だった。
「おかみさん、そこがお宅のあとですよ」
「まあ、きれいさっぱり焼けたこと」
 声は元気だったが、老婦人の小さな目にきらりと涙が光った。


   一坪《ひとつぼ》の土地


「おかみさん、お気の毒ですね」
 源ちゃん――正しくいうと飛島源一《とびしまげんいち》は、箱車にうずくまっている老婦人に、おもいやりのあることばをかけた。
「しようがないよ。矢口家一軒だけじゃない、よそさまもみんな同じだからね」
「それはそうですけれど……」
「わたしなんか、しあわせの方だよ。だってさ、源ちゃんのおかげで三輪車にのせてもらって生命《いのち》は助かるし、大事な御先祖さまのお位牌《いはい》や、重要書類だの着がえだのは、こうして蒲団にくるんでわたしのお尻の下に無事なんだからね。だから大したしあわせさ」
「ほんとうに私たち運がよかったんですね。行手を火の手でふさがれて、もうこんどは焼け死ぬかと思ったことが四度もあったんですがねえ」
「みんな源ちゃんのお手柄だよ。あわてないで、正しいと思ったことをやりぬいたから、急場をのがれたんだよ。しかし源ちゃんは気の毒ね。わたしをすくってくれたのはいいが、そのかわり源ちゃんの持ち物はみんな焼いちまったんだろう」
「ええ、そうです。着たっきり雀《すずめ》というのになりました。もっともお店のためには、この車一台をたすけたわけですが、店の連中はどこへ行ったんだか、誰も見かけないんで、私は気がかりでなりません」
「どうしたのかね、ひょっとすると、逃げ場所が悪かったんじゃないかね。濠《ほり》の中にずいぶん死んでいるというからね」
 二人は、しばらく黙っていた。
「そうそう、おかみさん、これからどうなさいます」
「わたしゃね、これから弟のいる樺太《からふと》へ帰ろうと思う。すまないけれど源ちゃん、この車で、上野駅まで送っておくれなね」
「はい、承知《しょうち》しました。しかし樺太ですって。ずいぶん遠いですね」
「でも、わたし身内《みうち》といったら、樺太に店を持っている弟の外《ほか》ないんだものね」と、矢口家のおかみさんは心細くいった。
「それはそうと、源ちゃんに、わたしお礼を何かあげたいんだが、何がいい」
 矢口家のおかみさんは、生命などをすくってもらった礼に、源一に何か贈りたいが何がいいかといって、きかなかった。源一はさんざんことわったが、おかみさんはぜひというので、源一はふと心に思いつき、
「それでは、おかみさんの店の焼跡《やけあと》から、この角のところの一坪の地所を私にゆずって下さいませんか」
 といった。
 おかみさんはもちろん承知して、その場で譲渡証《じょうとしょう》を書いてくれた上、土地の登記《とうき》について矢口家の弁護士への頼み状までそえてくれた。これが源一が一坪の土地の持主となったいきさつである。


   焼けあと整理


 銀座の焼けあとの一坪の土地を、とうとう自分のものにすることができた飛島源一《とびしまげんいち》は、天にものぼるうれしさで胸がいっぱいだった。
「さあ、ここで、ぼくはすばらしい仕事を始めるんだ。なにしろ、こうして見わたしたところ、まだ誰も店をひらいていないじゃないか」
 源一は、今日から彼の所有となった一坪の焼け土の上に立って、あたりをぐるっと見まわした。目のとどくかぎり、どこもここも焼の原である。いや、まだぷすぷすと、煙のあがっているビルもある。
 人影一つ見えない。みんなどこへ行ってしまったのだろうか。
「ほほう。ぼくが今ここに店を出したら、ぼくは戦災後《せんさいご》、復興《ふっこう》の一番のりをするわけだ。よし今日中に店を出そう」
 銀座復興の店開きの第一番を、少年がひきうけるのはゆかいではないかと源一はいよいようれしくなった。
「じゃあ、いったい何の店を開いたらいいだろうか」
 さあ何がいいか。源一は一坪の焼土を四角に歩きまわって、いろいろと考えた。
 この土地をゆずりうけるとき、彼は、ここに煙草やをひらくつもりだった。昔からその角《かど》に煙草やがあって、はんじょうしていたから、やはり煙草やがいいと思ったのだ。
 だが、今、煙草やの店を出すのはどうかしらんと考えた。焼野原一番のりの店開きが、煙草やさんではどうもおもしろくない。もっと復興一番のりらしい品物を売りたいと思った。
「なにを並べて売ったらいいかなあ」
 源一は腕ぐみをして、一坪のまわりをぐるぐる歩きまわった。と、一つの考えがうかびあがった。
(そうだ。誰か人が通りかかったら、その人をよびとめて、相談してみよう)
 いくら焼けあとでも、ここは銀座通りだから、そのうちにきっと誰か通るにちがいない。銀座はどんなになったと、心配してみにくる人が、きっとあることだろう。その人をよびとめればいいんだ。
 源一はあたりを見渡した。まだ朝の七時であったが、人影はさらに見えない。みんな銀座を忘れてしまったのかなあ。
 水筒《すいとう》の水をすこしのんでから、源一は腰をかがめて、焼けあとの一坪を整理にかかった。石ころと灰と分け、そして元の固い地面を出すつもりだった。そんなことをしているうちに、誰かそこの通りを通りかかるだろう。
 源一は、一生けんめい仕事をつづけた。それは骨の折れる仕事だった。しかしおもしろくもあった。焼けあとからは石ころと灰だけではなく、針金やせとものや、いろんなものが出てくる。
「おうい、坊や」
 源一はとつぜん誰かによびかけられた。


   さしこの老人


 あべこべに、源一の方が誰かによびかけられた。源一はびっくりして顔をあげた。すると源一をよんだ相手は、銀座の本通りに立って、こっちを見ているのだった。さしこ[#「さしこ」に傍点]のはっぴに、さしこの頭巾《ずきん》、下は巻きゲートルに靴をはいている。頭巾から出しているのは、二つの小さな目だけ、若い人か、老人か、どっちかわからない。しかし声をきくと老人のようだった。
「おい、坊や。ここに立っているのは、七丁目の交番かい」
 江戸から明治にかけてこのような消防のすがたが、はやったことを、源一は何かの本で読んだことがある。
「そうです。七丁目の交番です」
「うへえ、やっぱりそうか。もうすこしで戸まどいするところだった。なんしろこうきれいに焼けちまっちゃ見当《けんとう》がつきやしない。じゃあ、アバよ」
 と、行きかけるのをあわててとめた。
「おう、待ってくれよ、おじさん」
「なんだい、待てというのは……」
「ちょっとおじさんの意見をきかしてもらいたいんだ。ぼくはね、これからここに店を開くんだけれど、何の店を始めたらいいだろうね」
「なんだって」
 相手は本通りから源一の立っているところまで歩いてきた。そして頭巾をぬいで背中へまわした。すると相手は、あから顔の、短い白毛頭《しらがあたま》の、六十歳あまりの老人だと分った。人の好さそうな小さい目、実行力のある大きな唇、源一は、この人の前に、ざっくばらんに事情をぶちまけた。
「はははは、それはむずかしい相談だ」老人は頭を左右へ大きくふった。
「だがね、理屈《りくつ》に合ったことをやるのが一番だよ、つまりでたらめのことはやらないがいいってことだ。おれの着ているこのさしこの頭巾《ずきん》や、はっぴを見なよ。これは昔の人が工夫してこしらえたもので、これを水にずぶりとぬらせば、どんな焔の中へとびこんでも大丈夫なんだ。そういう工合に理屈のあるものは、今でもすたらないんだ。だからよ、坊やも考えて、これは理屈に合うなと思ったら、それをどんどん実行にうつすんだ。おれなら何を売るかな。そうだ、花を売っちゃどうだい」
「花? 花ですか、あのきれいな花を?」
「そうだ、その花だ。切花《きりばな》でもいい。鉢植《はちう》えでもいい。これは理窟に合っているぜ」
「へえッ、どこが理窟に合っています」
「だってそうじゃないか、このとおりの焼野原だ。殺風景《さっぷうけい》この上なしだ。これをながめるおれたち市民の心も焼土のようにざらざらしている。そこへ花を売ってみねえ。みんなとびついて来るぜ。やってみりゃ、それはわかる。……先をいそぐから、これであばよ」
 さしこ頭巾《ずきん》の老人は、そういうとすたすたと向うへ行ってしまった。
「花を売るのか。なるほど」源一は、かんしんしたようにつぶやいた。


   郊外《こうがい》へ


 いよいよ花を売ることにきめた源一だった。しかし花などというものがこの東京に――いや、この日本にあるのだろうかと源一は首をかしげた。
 東京はこのとおり焼けてしまって、どこをみまわしても一輪《いちりん》の花さえみあたらない。そうではなくても、食糧不足のためにどんなせまい土地にも野菜を植えろ植えろといわれつづけて来たので、野菜こそどこにもはえているが、花は全《まった》くみあたらない。花なんか植えてあると、花どころじゃないよ、そんなものは早くぬいて、ねぎ一本でも植えておけ、としかられる。
「花? 花なんて、どこにもないねえ」
 源一は、がっかりして焼跡にしゃがみこんだ。そのうちに、つかれが出て、うとうととねむってしまった。
 どのくらいねむったか知らないが、源一はふと目をさました。
「そうだ。花は咲いているにちがいない。あのさしこのおじいさんは、まさか出来ないことをいうはずがない。――それにああ、僕は今ゆめの中で花がいっぱい咲いた春の野原をとびまわって遊んでいたのだ。れんげ草や、たんぽぽやクローバーやいろんなものが咲いていたよ。そうだ、野原へ行けば花は咲いているにちがいない」
 ゆめの中に、源一は花のあるところをみつけたのだった。
 彼は元気づいて立ち上った。そしてオート三輪車にひらりとまたがると、エンジンを音高くかけて出発した。
 もうもうと、焼け灰を煙のようにかきまわしながら、源一ののった車はどんどん郊外《こうがい》の方へ走っていった。
 赤坂《あかさか》から青山の通りをぬけ――そこらはみんなむざんな焼跡《やけあと》だった――それから渋谷《しぶや》へ出た。渋谷も焼けつくしていたがおまわりさんが辻《つじ》に立っていた。そこで源一は、車を下りて、おまわりさんにたずねた。
「おまわりさん、花がいっぱい咲いている野原へ行きたいんですが、どこへ行けばいいでしょう」
「ええッ、花だって。この腹ぺこ時代に、花なんかみても腹のたしになるまいぜ。それとも、主食《しゅしょく》の代用に花でも食べるつもりかね」
 おまわりさんはおどろいていたが、それでも親切に、花の咲いていそうな野原は、これから二キロほど先の三軒茶屋《さんげんぢゃや》よりもうすこし先のところから始まって、多摩川《たまがわ》の川っぷちまでの間に多分みつかるだろう、と教えてくれた。
「ありがとうございました」
 源一はうれしくて大きな声でお礼をいうと、再び車にうちのって走りだした。しかし、行けども行けども、あいかわらずのひどい焼跡つづきで、だんだん心細くなって来た。
 こんな時に花をさがしに走っている自分が、世界一のまぬけな人間のように思われて来るのだった。


   れんげ草《そう》


「三軒茶屋《さんげんぢゃや》は、まだでしょうか」
 源一は、とちゅうでオート三輪車をとどめて、道ばたにぐったりなって休んでいる大人に声をかけた。
「三軒茶屋だって、三軒茶屋はもう通りすぎたよ。ここは中里《なかざと》だよ」
「へえッ通りすぎましたか」源一のおぼえている三軒茶屋は、大きな建物のならんだにぎやかな町だったが、それも焼けてしまって、ぺちゃんこの灰の原っぱになったため、通りすぎたのに気がつかなかったらしい。「多摩川へ行くのは、こっちですかね」
「多摩川だね、多摩川なら、これをずんずん行けば一本道で二子《ふたこ》の大橋へ出るよ」
「ありがとう」
「買出し行くんかね、あっちは高いことをいって、なかなか売ってくれないよ」
「そうですか、困りますね」
 電車の姿のない電車道の上を源一は車をすっとばして行った。やっぱり焼けているけれど、ぽつんぽつんと所々に焼跡があるだけで大部分の町が残っていた。源一はそれに気がつくと、なんだか、救われたように急に胸がひろがった。
「ほッ、多摩川だ」
 いつの間にか多摩川の見えるところまで来た。二子の橋を渡る。美しい流れだ。川岸は目のさめるような緑の木や草にすがすがしく色どられている。
「いいなあ」
 まるで夢の国へ来たようだ。こんな美しい世界が、まだこの日本にのこっているとは気がつかなかった。橋を渡ったところで左に折れ、堤《つつみ》の方を川にそって下って行く。
「ああ咲いている、咲いている! 花だ。れんげ草があんなにたくさん……」
 源一はエンジンをとめると、車からとびおりた。そして目の下の堤いっぱいに咲きひろがっている紅《あか》いれんげ草の原へかけこんだ。
「うわあ、すごいなあ。すごいなあ」
 源一は気が変になったように、れんげの原の上をとびまわったり、ころがったりした。そのうちに彼は、急に気がついたという風に、花の上にちょこんとすわりなおした。
「待てよ。こんなれんげ草を持っていって銀座の店に並べても、ほんとうに売れるかなあ。チューリップや、ヒヤシンスなら、よく売れることは分っているが、そんなものはないし……」
 ちょっと迷ったけれど、源一にはこの紅いれんげ草が、この上なくうつくしいものに見えたので、やがて決心をして、それから根から掘った。
 そして車のうしろにのせてあったカンバスの中に、ぎっしりつめこんだ。
「さあ、このお花の代金は誰に支払ったらいいんだろうなあ……はははは、れんげ草だから、これはタダでいいんだ」
 源一はゆかいになって、花をつんだ車にのって、再び銀座にむかった。


   一株《ひとがぶ》五十|銭《せん》


 源一は、銀座の焼跡にもどると、さっそくれんげ草を売りはじめた。
「きれいな草花が、やすいやすい。両手にいっぱいでたった五十銭です」
 れんげ草の根を、土とともに新聞紙でうまくくるんで、わらではちまきをしたものが、一かぶ五十銭で売り出されたのだ。このねだんをきめるまでに、源一はながいこと考えた。
 はじめは十銭にしようかと思った。なにしろ多摩川堤《たまがわつつみ》に行けば、いくらとってもただなんだから、十銭でも高いといえる。
 しかし、あそこまでオート三輪車をとばすためには、ガソリン代もいるし、タイヤのパンク修理代もみこまなくてはならない。
 れんげ草を掘るためのシャベルを買うこと、草花を枯れないように水をかけてやらねばならないが、それに使うじょうろも買わなければならない。
 手にはいるなら、小さいすきや、きのはちを買いこみたい。それにこのれんげ草を植えるのだ。そうしたらさぞ見ばえがすることであろう。
 なおそのうえに、源一は一日に三度はたべなければならない。夜は手足をのばしてねるところを借りなければならない。そんなことを考えると、いくらただのれんげ草でも五十銭ぐらいには売らないと商売にもならないし、源一はたべて行けない。
「さあ、買って下さい。きれいな草花《くさばな》が、一かぶ五十銭ですよ」
 源一は銀座の焼跡に人が通りかかると、こういって声をかけながら、れんげ草の一かぶを高くさしあげる。しかし相手は源一の方をむいて、にっこり笑うだけであって、源一の店までやって来て買って行く者はなかった。源一は、だんだん自信を失っていった。
 なぜ、売れないんだろう。相手は誰でも、れんげ草をみて、にこにこ笑う。そういうところを見るとみんな花がきらいではないのだ。きらいでないくせに買っていかないのはどうしたわけだろう。
「ははあ、みんなお金がないのかな」
 そうでもあるまい。たった五十銭なんだから。
「それとも場所がよくないのかな。この店は、銀座の通りから、ちょっとひっこんでいるから、ここまで入りこむのがおっくうなんだろうか」
 たぶん、そうであろうかと思った。しかし、これはどうすることも出来ない。ここが店の場所なんだから仕方《しかた》がない。
「お客さんの来るまで、とうぶん、ここでがんばってみよう」源一はそう決心した。そして売れなくても毎日店を出した。
 すると、ある日のことめずらしく彼の店の前に近づいた三人の若者があった。三人は、源一の店に並んでいる品物をのぞきこむと、一度にぷっとふきだして大笑いした。


   三人組


「なあんだ。花を売っていると思えば、れんげ草じゃないか。人を笑わせやがらあ」
「誰がそんなものを買うものか」
「そうだ、そうだ。今みんな腹をへらしているんだ。食いものなら買うが、花なんぞ、誰が買っていくものか。この坊や、よっぽど頭がどうかしてるぜ。わっはっはっ」と、三人の若者は、源一の頭へ、あざけりの大笑いをあびせかけた。
 源一は、しゃくにさわって、下から胸へぐっとあがってくるものを感じた。(なにをバカヤロウ、何を売ろうと、ひとのことだ。おせっかいはよしやがれ)と、かなわないまでも三人の若者をどなりつけてやりたかった。が、源一は、一生けんめいに腹の立つのを自分でおさえつけた。こんなにおたがいに焼けちまい、みじめになっているのに、このうえけんかをしてどうなるだろうか。仲よくしなければならないんだ。たすけあわなければならないんだ。笑顔《えがお》でいかなければならないんだ。
「あははは、おかしいねえ」と、源一は、気をかえて笑った。
「あれッ。自分でおかしいといっているよ、この小僧《こぞう》は……」
「誰も買わなきゃ、あんちゃんたち、買ってくださいよ」
「しんぞうだよ、この虻《あぶ》小僧は。みそ汁で顔を洗って出直せ」
「ああ、みそ汁がほしい」
「そらみろ。だからよ、食いものはみな買いたくなるんだ。花はだめだ。店をひらくだけ損《そん》だよ」
「でも、ぼくはれんげ草を売るです。だんぜん売ってみせるです」
「ごうじょうだよ、お前は……」
「バカだよ、きさまは……」
「損だよ。今に泣き出すだろうよ」
 三人の若者は、てんでんにいいたい言葉を源一にはきかけると、そこを立ち去った。源一が見ていると、三人は自転車につんで来た荷物を開いて、本通りに店をひろげた。
「さあ、おいしい芋《いも》だ。ほし芋だ」
「ふかし芋もある。いらっしゃい、いらっしゃい」
「腹がへってはしょうがない。さあお買いなさい、あまいあまいほし芋だ」
 三人の若者が、かわるがわるに声をあげて、ほし芋とふかし芋を売りはじめると、通行人たちはたちまち寄って来て、芋店の前は人だかりがつづき、品物は羽根《はね》が生えたように売れていった。そして二時間ばかりすると、すっかり売り切れてしまった。三人の若者は、えびすさまが三人そろったようににこにこ顔だ。そして源一の方へ近づいて、たずねた。
「おい虻小僧。れんげ草の原っぱはまだ売切れにならないかい。うふッ。まだ一つも売れてねえじゃねえか。どうするんだ、そんなことで……」
「ぼく、だんぜん花を売ります。誰がなんといっても売るです」
 源一は、ふりしぼるような声で叫んだ。


   犬山画伯《いぬやまがはく》


 三人組が芋を売りきって引きあげていったあと、源一は一坪の店をまもって、れんげ草とたんぽぽを一株《ひとかぶ》でも売りたいと思い、がんばった。
 だが、ついに一株も売れなくて、やがてさびしく日はかたむきだした。
 一日中、焼けあとにほこりをあび、くさいにおいをかぎ、おなかをすかせ、三人組からは、悪口《わるくち》をあびせかけられ、向うの通りを行く人々からは相手にされないで、源一もすっかり元気をなくし、くたびれはてて焼けあとの焼け煙突《えんとつ》のうえにあかあかと落ちてくる夕日が目にうつると、もうたまらなく、目からぽつりぽつりと大きな涙の粒が、焼け灰のうえに落ちるのだった。
「死んでしまおうか……」
 源一は、唇をかみしめた。自分もなさけない。東京もなさけない。日本もなさけない。未来にたのしみも希望もみつからない。
 そのときだった。源一の前にゲートルをまいた二本の足が停《とま》った。誰だろう。
「ほほう、これはおそれいった。れんげに、たんぽぽか」
 がらがらとした大きな声が、源一の頭の上にひびいた。源一は、下を向いて泣いていたので、顔は涙によごれていた。その涙を、ひざの上に組んだ服の袖《そで》で、ごしごしとこすってから顔をあげた。
 源一の前には、見るからに人のよさそうな男がつったっていた。その男は、年が若いのか、そうでないのか、よく分らなかったが、後で分ったところによると、まだ二十歳の青年だった。年がよく分らないのは、その男の顔が、南瓜《かぼちゃ》に似ていて、そのうえに雀《すずめ》の巣をひっかきまわしたようなもじゃもじゃの髪の毛を夕風にふかせ、まるで畑から案山子《かかし》がとびだしてきたような滑稽《こっけい》な顔かたちをしていたせいであろう。彼は、肩から画板《がばん》と絵具箱とをつりさげ、そして右手には画架《がか》をたたんだものをひっさげていた。それを見れば、この男が画家であることが一目で分るはずであるが、源一はすぐにはそれに気がつかなかった。
「えらくしょげているね。ほ、目のまわりがまっ黒だ。そうか、泣いていたね。はははは、子供のくせにいくじがないぞ。いったいどうしたんだ」
 それから話が始まって、犬山猫助《いぬやまねこすけ》というその画家は、源一の身の上からこの店をだして品物が一つも売れないまでのことを、すっかり聞いてくれた。
「そんならなにも、しょげることはないじゃないか。花を売ろうという考え方はいいんだから、もっとしんぼうして売れる日までがんばるんだね。しかし、もっと人目《ひとめ》につくようにしなくちゃ、誰も知らないで通ってしまう。よろしい。僕が君のために画看板《えかんばん》をかいてやろう」
 そういって犬山猫助は画板をひらくと、その場ですらすらと、美しい花の画看板をかいてくれた。源一は、その画をうけとって、うれしそうに大にこにこ、礼をいうのも忘れていた。


   命名《めいめい》


 源一は、画家犬山猫助がかいてくれた美しい花の画看板《えかんばん》を、棒《ぼう》の先にゆわいつけて、一坪の店に、高々とはりだした。
 これはたいへんききめがあった。
「おや、花だ。花を売っているよ」
 と、通りからこっちへ通行人がとびこんで来る。
「れんげ草か、これはいいね。一株五十銭。ふうん。安くはないが……しかしほかの物にくらべると、やっぱりこんな値段だろうね。よし、十株もらうよ。うちの焼跡へこれをうえて、うちの庭をれんげ畑にしよう」
 そういって、よろこんで買っていくお客さんがふしぎにつづいた。
「犬山さん。今日はばかに花が売れますよ。犬山さんのおかげです。昨日かいて下すったこの花の画看板のおかげです。ありがとう。ありがとう」
 源一は、一坪店から、通りの方へ大きな声でさけんだ。犬山猫助は、今朝からこの銀座通りへ、似顔《にがお》スケッチの店をひらいたのである。彼は、源一にすすめて、源一もこの表通りへ出てきたらいいだろうといったが、源一は矢口家《やぐちけ[#ママ]》のおかみさんから譲《ゆず》られた裏通りの一坪の地所から放れるつもりはなかった。
 犬山さんが近くに店を出してくれ、そしていろいろと元気づけてくれるので、源一はもう涙なんか出さなかった。
 犬山画伯は、その日、もう一枚、花の画看板をかいてくれた。そしてそれは、表通りに棒をたてて、その上にはりつけることにした。“この奥に最新開店の花やがございます。どうぞちょっとお立より下さいまし”と、案内の文句がかいてあった。
 この宣伝看板が出ると道行く人々は、前よりもずっと源一の店に気がつくようになった。
「君、源ちゃん。店の名前をつけなくちゃね」
 と、犬山画伯は源一の店の前へやって来て、画看板を指でたたいた。なるほど、名前がほしい。
「なんとしますかね、犬山さん」
「さあね。すっきりした名がほしいね」
「あっ、そうだ。一坪花店《ひとつぼはなてん》というのはどうでしょう」
「なに、ヒトツボ花店というと……」
「ここの地所が、一坪の広さだから、それで一坪花店ですよ」
「な、なあるほど。よし、それがいいや」
 犬山さんは、画筆《がひつ》をふるってこの画看板に「一坪花店」という名をかき入れた。
 源一は、すっかりうれしくなって、あき箱に腰をかけ、うららかな陽をあびながら商売《しょうばい》をつづけた。お客さまは、おもしろいほどつづき、店頭《てんとう》に人だかりがするほどになった。
 お昼すこし前のこと、通りが急にさわがしくなった。それは例の三人組がやって来たのだ。干《ほ》し芋《いも》とふかし芋とをならべると、三人がメガホンを使って、さわがしく呼びたてた。すると客は、みんな三人組の方へ吸いとられてしまった。三人組の声は、ますます調子にのっている。
 源一は、また少しさびしくなった。


   半年後


 ここで話は、半年ばかり先へとぶ。
 銀座も、バラック建ながらだいぶん復興《ふっこう》した。
 進駐軍《しんちゅうぐん》の将校や、兵士たちがいきいきした表情で、ぶつかりそうな人通りをわけて歩いていく。
 銀座の通りの、しき石の上には、露店《ろてん》がずらりとならんで、京橋と新橋との間の九丁の長い区間をうずめている。
 道のまん中にたれさがっていた電線は、きれいにかたずけられて、今は電車が通っている。
 通行人の身なりも、だいぶんかわって来て、もんぺすがたがすくなくなり、ゲートルはほとんど見えない。
 戦争はおわって、平和の日が来たのだ。
 しかし敗戦のみじめさは、あらゆるもの、あらゆるところをおおっていて、日本人は一息つくごとに、いたみをおぼえなければならなかった。
 だが、戦争はおわり、平和の日が来たんだ。もう空襲警報《くうしゅうけいほう》もなりひびかないのだ。焼夷弾《しょういだん》や、爆弾の間をぬって逃げまわることもなくなったのだ。今は苦しいが、日一日と楽しさがかえってくるにちがいない。
 その楽しさは、どこまでかえって来たか。どんな形をして目の前にあらわれているのであろうか。人々は、それをさがすために、みんな、銀座の通りへあつまってくるのだった。ものすごい人通りが、こうしてできる。
 前には、新橋の上に立つと、源一の店がどこにあるか分った。しかし今はもうさっぱりだめだ。家が建って、見とおしがきかない。
 銀座の通りからでも、源一の店は見えない。通りにもだいたいバラック式の家が立ちならんだからである。例の交番のある辻のところまでくると、はじめて源一の一坪店が見え出す、その奥の方に……。
 源一の店は、まだ家になっていない。天幕《てんまく》ばりの店である。しかし、店内は、にぎやかだ。
 もう、れんげ草やタンポポは、ならんでいない。
 菊、水仙、りんどう、コスモス、それから梅もどきに、かるかやなどが、太い竹筒《たけづつ》にいけてある。すっかり高級な花屋さんになってしまった。
 その主人公の源ちゃんは、日やけのした元気な顔をにこにこさせて、お客さまのご用をうけたまわっている。いつの間におぼえたのか、いくつかの花を器用にあしらって、あとは花活《はないけ》になげこめばいいだけの形の花束《はなたば》にまとめあげるのだった。
「どうも花のおろし値が高いものですからね。お高くおねがいして、すみませんです」
 などと、源一は顔ににあわぬ口上もいう。
「ずいぶん高いのね」
 と、お客さんはため息をつきながら、それでも花ににっこり笑って買っていく。
 花よ。花よ。ずいぶん永い間、あなたにあわなかったね。


   戦敗街道《せんぱいかいどう》


 天幕《てんまく》ばりながら源一の一坪店は、はんじょうしている。
 しかし源一を虻《あぶ》小僧とあざけり笑った三人組の青年たちの姿は、そのへんのどこにも見えない。彼らは芋《いも》を売っている間は、まだよかったのであるが、その後芋が統制品《とうせいひん》となって売るのをとめられた。それでも彼らは売った。それを売らないと彼らは収入がなくて食べられないからであった。そのあげく、彼らの商品はすっかりおさえられ、そしてそのまま没収《ぼっしゅう》されたものもあり、とんでもない安値《やすね》で強制買上げになったものもあった。
 三人が留置場《りゅうちじょう》から出たときには、仕事がなくて、食べるに困った。その結果、とうとう悪の道へはいりこんで強盗《ごうとう》をはたらいた。
 彼らが、もし正しい心を持ち、神を信じていたら、そんな悪の道におちないですんだことであろう。しかし彼らは不運にも、そういう方向へみちびいてくれる先生をもたなかったし、いい友だちがなかったし、工場が空襲で焼けて後は職を失いみじめな生活にうちひしがれ、すっかり心をどぶにつけていたようなものだった。――そして今彼ら三人は、刑務所の中に暮している。だから三人組は、この銀座へ顔を見せないのであった。
 そんなことは、源一は知らなかった。にくい奴《やつ》らであるが、こうながく彼らが姿を見せないと、どうしたのかしらと、心配になった。
 犬山画伯も、このところしばらく姿を見せない。しかし画伯は、刑務所で暮しているわけではない。画伯は、もともとからだの丈夫な方ではなかったので、人通りしげき銀座通りに立ち、もうもうとうずまく砂ほこりを肺《はい》の中に吸って、暮したのがよくなかったらしく、夕方には熱が出、はげしいせきが出るようになった。そこで銀座で仕事をすることは、もう三ケ月も前にやめたのである。
 しかしもう大分よくなっている。仕事も、家の中でしている。進駐軍《しんちゅうぐん》の将兵たちがお土産に買ってかえる絹地の日本画を家でかいているのであった。これは、往来《おうらい》にたって似顔スケッチをやるよりは、ずっといい仕事であった。だから画伯は、ヤミで卵を買ったり肉を買ったりして食べることが出来、そのおかげで健康がもどって来たのだった。そしてときどき銀座へあらわれて、源一の一坪店を見によってくれる。
 店の看板も、もう五六度もかきなおしてくれた。源一はその代金を払おうとしたが、画伯《がはく》はいつも、
「とんでもない。源ちゃんからそんなものをもらわなくても、僕は大丈夫食っていける」
 といって、けっして受取らなかった。
「でも、僕だって、このごろそうとう儲《もう》かるんですよ。とって下さい」
「今に僕が展覧会をひらいたら、そのときには源ちゃんに買ってもらおうや」
 犬山画伯は、これは冗談《じょうだん》だがとことわりながら、それでも目をかがやかしたものだったが……。その画伯は、どうしたんだろう?


   残された者


 そのうち銀座は、えらいいきおいで復興しはじめた。まずその第一着手《ちゃくしゅ》として、銀座八丁の表通を、一か所もあき地のないように店をたてならべることになった。
 その工事はにぎやかにはじめられた。木材を使った安っぽい建物ながら、おそろしいほどの金がかかった。しかし焼跡が一つ一つ消えていって、木の香も高い店舗《てんぽ》がたつとさすがににぎやかさを加えて、だれもみんなうれしくなった。
 表通りの建築がすすむにつれ、こんどは銀座の裏通りの建築がはじまった。表通りがにぎやかになるのなら、裏通りへも人が来るにちがいない、だから表通りにおくれないように商売家をたてようというねらいだった。
 そういう建築主《けんちくぬし》は、ないないといいながらも、たくさんのお金を持っていて、「こう高くちゃ、家をたてただけで、財布《さいふ》がからになってしまう」などとこぼしつつ、どんどん家をたてるのだった。
 一日ごとに目に見えて銀座の表通りは家がたちそろいにぎやかになっていった。それと競争のように、裏通りの方も日に日に町並がかわって、新店があちらにもこちらにも開店祝いのびらをにぎやかにはりだした。「銀座が復興したね。ずいぶんにぎやかになったね」
「そうだってね。今日は、行ってみようと思ってたところだ、そんなに復興したかい」
「君はまだ行ってないのか。じゃあ早く行ってみたまえ、びっくりするから。品物も、なんでもならんでいるね。そのかわり、目の玉がとびだすほど高いけれどね」
 品物が高いそうなといわれても、それじゃあ銀座へ行くのはよそうやという者はなく、どんな品物がならんでいて、どんな高い値段札《ねだんふだ》がついてるかを見たいというので、若い人はもちろん、いい年をした老人などもわっしょいわっしょいと銀座へおしだした。
 そしてそれが新しい話題となって、どんどん人から人へと伝わっていくものだから、それを聞き伝えた人々は、われもわれもと銀座へ出てくるのだった。
「高いね、高いね、これじゃ何にも買えないや」
 といいながら、はじめは見物ばかりして行く人々ばかりのようであったが、そういう人たちも、たびたび銀座をあるいているうちに、高値《たかね》になれてしまい、そしていつも不自由を感じている鞄《かばん》だのマッチだのライターだのを見てほしくなって買ってしまうのだった。そうして銀座では、ものすごく物が売れるようになった。源一のテント店はどうなったであろうか。
 あわれにも彼のテント店は雨にたたかれて汚《きたな》い色と化し、みすぼらしさを加えた、そればかりか両隣《りょうどな》りもお向いも、みんな本建築になってしまったので、源一のテント店は一そうみすぼらしくなってしまった。源一の心境《しんきょう》はどうなんだろう。


   暁《あかつき》の街道《かいどう》


 銀座の表通りの復興|店舗《てんぽ》もすっかり出来上り、りっぱになったので、昔のように表通りのどこからでも、源一の店が見えるというわけにはいかなかった。それに源一のみすぼらしいテント店のまわりも、みんな本建築《ほんけんちく》になってしまったので、源一の店のみすぼらしさは一そう目についた。したがって花を買ってくれるお客さんの数も、だんだん少くなった。
 源一はしぶい顔をして店のまん中に、石のように動かなかった。(うちも、本建築にしたいんだが、まだお金がそんなに溜《たま》っていない。ああ、あ、いつになったら、ちゃんとした店が、建てられるのかなあ)
 源一のなげきは大きかった。
(一生けんめいに働いているんだが、思うようにもうからない。サービスも一生けんめいやっているんだが、思うようにお客さんが来てくれない。どうすれば、うんとお金が手に入るかなあ)
 そのころ新聞には、毎日のように強盗《ごうとう》事件が報道されていた。一夜のうちに、強盗の手にわたる金額は何十万円、何百万円にのぼった。源一は、まさか強盗になろうという気はしなかった。しかし世間の家には、よくまあそんな大きな金がころがっているものだと感心した。そのような金を、すこし僕に貸してくれないものだろうか。せめて十万円だけ費《ついや》してくれる人があれば、うすっぺらな板を使ったにしろ、とにかく家らしいものが出来るんだが、しかしこの源一のねがいは、夢でしかなかった。誰もそんな金を貸してやろうといってくれなかった。
 その日の早朝、源一はオート三輪車で風を切って街道をとばしていた。花を仕入れるため、多摩川《たまがわ》の向岸まで行く用があったのである。まだ陽が出たばかりで、田畑《たはた》にさえ人影がなかった。
 そのとき、同じ道のずっと前方から、こっちへ向って走って来る自動車があった。それはアメリカ軍が使っているジープといわれる小型のものだった。それがスピードを出していると見え、うしろにもうもうと砂けむりをあげていた。
 源一は、やがてジープとすれちがうときのことを予想して、スピードをおとしていった。ジープは一本道をだんだん近づいた。あと三百メートルぐらいになったとき、どうしたわけかそのジープはいきなり左へ頭をふると、車体《しゃたい》が宙にういて道を踏みはずし、田の中へとびこんでひっくりかえった。
「あッ、たいへんだ」
 これを見ていた源一はおどろいて、三輪車のエンジンを全開にして現場へかけつけると、ブレーキをかけるのも、まどろこしく、車からとびおりて田の中を見た。
 ジープは車輪を上にして田の中にめりこんでいた。乗っていた人は、どうなったかと見ると、車から五メートルばかり離れたところでのびていた。生きているのか死んでいるのかわからない。顔が血でまっ赤だ。さあたいへん。


   ゲンドン


 源一は、できるだけの速力で、泥田《どろた》の中へとびこんでいった。ひっくりかえったジープの横をぬけ、たおれているアメリカ人のそばへ寄《よ》った。
 その人の顔からは、まだたらたらと血が流れ出てくる様子、いきはしているが、その人は目をとじたままだった。
 かたわらにその人の帽子が落ちていた。将校の帽子だった。
「しっかりなさい、もしもし、ハロウ。ハロウ。しっかりなさい」
 源一は、「しっかりなさい」という英語を知らないことをたいへんに後悔《こうかい》した。
 その人はそれでも気がつかなかった。
「……早く病院につれていかなくては――」
 源一は、いきなりその人をかつぎあげた。ずいぶん重い身体だった。しかし源一は力持ちだったから、相手をかついで田の中をわたり、道まで出た。そしてその人を、三輪車のうしろの、荷物をのせるところへ入れ、走り出した。
 走っている途中で、その人は気がついたようであった。
 その人は、何かいった。しかし源一にはよく分らなかった、源一はいいかげんに返事をしながら、先を急いだ。
 病院の玄関に車をつけた。源一は車をとびおりると、大声で看護婦をよんだ。奥からばたばたと白い服を着た看護婦があらわれた。
「アメリカの将校《しょうこう》が自動車事故で大けがをしたんです。僕の車のうしろに積んで来ました。早くたんかを持って来て下さい。院長さんは、いるでしょうね。早く手当をしてあげて下さい」源一は早口にしゃべった。看護婦たちはあわてて奥へかけこむと、すぐたんかをかついで出て来た。
 そして玄関先へ下りて、源一の三輪車のうしろへまわった。
「わたくし、たんか、いりましぇん」アメリカ人は、たんかを見ると、手をふりながら、そういった。そして三輪車から下りて立った。血のこびりついた顔は元気に見え、そして笑っていた。看護婦たちはおどろいてしまって、ことばも出なかった。
「おいしゃさま、どこにいますか」アメリカ人は、重《かさ》ねて日本語でいった。
「看護婦さん。早くこの方を手術室へ案内しなさい。早く早く」源一がそういったので、看護婦たちは始めてわれにかえってアメリカ人をなかへ案内した。中へはいりかけたアメリカ人は、まわれ右をして、また、玄関先に出て来た。そして源一の方へつかつかと歩いていって、握手をもとめた。
「ありがと、ございました。……おや君はゲンドンではないか」アメリカ人は、大きく目をひらいて、源一の顔をみつめた、源一は奉公していたお店で「源《げん》どん」とよばれていた。「源どん」という名をしっているこのアメリカ将校は、一体だれであったろうか。


   ヘーイ少佐《しょうさ》


 源一は、自分が助けてこの病院へつれて来たアメリカの将校から、
「おや君はゲンドンじゃないか」とよばれて、目をみはった。誰だろう、自分の名を知っているこの将校は? 「ああ、そうか。ヘーイさんですね」源一は顔をまっ赤にしてさけんだ。
「そのとおり、ぼくはヘーイさんだよ。おもいだしたね」
 将校の大きなからだが、足をひきずりながら源一にぶつかるようによって来たと思うと、源一の手は、相手の大きな手の中につつみこまれそしてはげしくふられた。
「ヘーイさんだったのか。こんなところであうなんて……」
「ぼくは日本がすきだったから、志願《しがん》をしてやって来たのさ」
「将校でしょう。見ちがえちゃったな」
「そうだろう。むかし、夜おそく君んところの店をたたきおこして、時間外に、酒やかんづめを出してもらったときの、のんべえのヘーイさんとは、すこし服装がかわっているからね。しかしねえゲンドン、中身はやっぱりあのときと同じヘーイさんだよ。安心してつきあっておくれ。おもしろい話が、うんとあるよ」
 そういってヘーイ少佐《しょうさ》は、大きなこえで笑ったが、とたんに、
「あいたタタタタ――」
 と顔をしかめた。大きく笑ったのが傷口《きずぐち》にひびいたためであった。
 そのとき看護婦たちがヘーイ少佐に、早く中へ入って手当を受けるようにとすすめなかったなら、少佐はまだまだゲンドンと思い出話をやめなかったことだろう。
 少佐は、それから病院の中へ入った。そして手術室で手当を受けた。
 隊との連絡がついて、やがて三時間たったら寝台車で隊へはこぶこととなった。それまでを、少佐は病室でしずかにねむることとなった。
 源一は少佐と別れるときに、銀座の小さい店のことを話した。すると、いずれお礼かたがたゲンドンの店を訪問するであろうといった。
 源一は、看護婦たちにおくられて、にぎやかに病院を出た。そしてオート三輪車にまたがると、花の買出しに、もう一度郊外の道をすっとばしていった。
 源一はハンドルをにぎって車をはしらせながら、おもいはいつの間にか七八年昔へとんでいた。
 そのころよく店へ来たのんべえのヘーイさんだった。ヘーイさんは建築技師で、なかなかいい収入があったのに、気どることがきらいで、近所の二階家《にかいや》を一けん借りて生活していた。そして夜ふけによく源一のつとめている店の表戸をわれるようにたたき、ウイスキーや、かんづめを売れとわめいたものだった。みんなはいやがったが、一番小さい源どん少年だけは、ヘーイさんのこえがすると起きて戸をあけ、品物を売ってあげたのであった。そのヘーイさんが、少佐となって、日本へ来たんだ。うれしい出来事だ。


   ふるわぬ店


 ヘーイ少佐は、やくそくしたとおり、源どんのテントばりの店さきにあらわれた。
 それはあの事件があってから、三週間のちのことであった。
「おう、ゲンドン、かわいい花を売っているね。よく売れるかい」
 そういって少佐は、にこにこ顔ではいって来て、店の中をみまわした。
 源一は、このみすぼらしいテント店にはこのごろお客もめったに入らないので、いすの背にもたれて「火星探検」という小説をよんでいたところだった。火星探検が、ほんとにこの小説のように出来ればいいなあ。原子力《げんしりょく》エンジンをつけたロケットにのって、くろぐろとした大宇宙をのり切って、やがて火星に近づいて行く……。「ああ、すばらしいねえ、いい気持だねえ。ゆかいだろうなあ」と、すっかり火星|探検者《たんけんしゃ》になりきっているところへ、源一は少佐から声をかけられたのだ。
 源一は、あわてて本をふせると、立上って少佐をむかえた。
「ああ、いらっしゃい。よくいらっしゃいました」
 源一はぺこぺこおじぎをした。少佐もそれをまねておじぎをした。少佐は日本語が上手につかえる。少年のときにも日本にいたことがあり、中学を卒業するとアメリカへ帰り、教育をうけ、大学を出て、建築技師としてはたらいているうちに、またこの日本へ来た人であった。
「足はどうですか。まだ痛みますか」
「すっかりなおった。君があのとき、すばやくかけつけて、すぐ病院につれていってくれたから、わるいばいきんも入らなかったんだ。だからこんなに早くよくなった。ありがとう、ありがとう」
「それはよかったですね。とにかく神さまがぼくをヘーイさんにひきあわせてくだすったのだと思って、かんしゃしています」
「ほんとだ。ふしぎなえんだね、ゲンドン」
「ヘーイさんの好きなお酒でも一ぱいあげたいけれど、今は何もないんでね」
「いらない、いらない、酒はぼくの方にうんとある。持って来てあげてもいい」
「ぼくは、酒をのみません」
「ああ、そうか」少佐は、それはざんねんだという顔をしたが、それから彼は改《あらた》まった調子で「この店は、よく売れるかね」と聞いた。
 源一は、正直にちかごろすっかり売行のわるくなったことをのべた。値段を下げても買い手が来ないことをいった。
 少佐はそれを聞いていて、うなずいた。
「花を売るためには、店をもっと美しくしなくてはならない。この店のテントはよごれていけない。なぜ近所のように家をたてないのか」
 少佐はそういって、たずねた。そこで源一は、この一坪に家をたてるには一万円かかるが、とてもそんな金を自分はもっていないのだといった。すると少佐は、
「それならいいことがある。このつぎの土曜日にまた来るよ。待っていたまえ」と、なぐさめ顔でかえって行った。


   すばらしい話


 源一は、「それならいいことがある」と、ヘーイ少佐がなぞのようなことばをのこしてかえったので、それは何であろうと、たのしんで待っていた。
 次の土曜日、ちゃんと少佐は、源一の店にすがたをあらわした。首をちぢめて、少佐は中へ入って来た。そしてかかえていた巻いた紙を源一の前にひろげた。
「ゲンドン。こういう店は、君の気にいらないだろうか」
 少佐は、白い長い指で、図面のうえにぐるっと円をかいた。
「えっ、なんですって……」
 源一はすっかり面くらった。少佐のひろげた図面には塔のような家がかいてあった。それは三階建《さんがいだて》になっていた。いや、地階があるから四階だ。
 一階は表へひらいた店になっていて、たくさんの花の鉢をならべ、また上からは蘭科《らんか》の植物などをぶらさげてある絵までかいてあるのだった。
「こういう店を、君はもちたくないか」
 少佐は、源一が目を皿のようにひらき、はあはあと胸をはずませながら、その図面にみとれているのを笑いながらみていて、そういった。
「持ちたいですがねえ……」持ちたいですが、現在の身の上では、火星探険と同じように、自分の力では出来ない相談だと源一はあきらめ顔になる。
「じゃあ、このとおり、ぼくはここへこの店を建てることにしよう」
「えっ、なんですって……」
 源一は、思わず大きなこえを出して、ヘーイ少佐の顔をみつめた。
 少佐は愉快そうに美しい歯なみをみせて笑っていた。
「これはぼくが設計したビルだ。これをぼくがたてる。ぼくは、三階に住む。あとの二階と一階と地階は、君が使って店にしてもいいし、ベッドをおいてもいい。そういう条件を君が承知するなら、ぼくはこのビルをたてる。どうだい、ゲンドン」
 そういわれて、源一はすぐにことばも出ず、つづけさまに、大きなため息が二つ出た。それから彼は、自分の頬《ほ》っぺたをぎゅうとつねってみた。
「あ、痛い。ゆめじゃないね」と源一はひとりごと。
 少佐はパイプを出して火をつけながら、笑っている。
「承知するかい、ゲンドン」
「ありがとう。ぜひお願いします」と、源一はやっとものがいえた。全く思いがけないことだ。しかし少佐の好意にあまえていいのだろうか。
「心配しなくてもいい。ぼくが家をつくり、君に番をしてもらうんだから」
「ほんとにヘーイさんは三階に住むんですか」
「ベッドを一つおきたいね」
「それは、いいですけれど、全部でたった一坪ですよ。ヘーイさんのそんな長いからだが、のるようなベッドがおけるかしら」
「心配しないでいいよ、君は……」


   一坪館《ひとつぼかん》開店


 すばらしい四角な塔のような建物がたった。
 近所の人たちはおどろいた。なにしろ自分たちの家は平家が多く、たまに天井の低い二階家があるくらいだった。
 ところが源一の新築した建物は、雲にそびえているようにみえるほど高かった。地上から三階建であるが、各階ともに天井が高くとってあるのですばらしく高い。したがって外から見ると、どうしても塔に見える。その塔は近所の家をすっかり見下ろしている。いや、銀座界隈《ぎんざかいわい》を見下ろしているといった方がいいだろう。
 全体はクリーム色にあかるく仕上げられた。屋根には緑色の瓦《かわら》がおかれた。
 銀座を通る人々は、誰もみんな、この新しい塔の建物に目をむけた。
 屋根に近いところに、モザイクで、赤バラの花一輪がはめられると、この建物は盛装《せいそう》をこらした花嫁さんのようになった。
「すばらしい塔をこしらえたもんだ。あの塔は何だね」
「さあ、何だかね。今どき、ごうせいなことをやったもんだ。ちょっとそばへいってみようよ」
 みんな、この塔の下にあつまって来た。
 そのとき彼らは見たのである。その一階の店前《みせさき》に、いろとりどりの美しい草花が鉢《はち》にもられていっぱいに並んでいるのを。
「あ、花屋だ」
「やあ、きれいだなあ。花ってものは、こんなに美しかったかしらん」
「うれしいね。焼夷弾《しょういだん》におわれて、こんな美しい草花のあることなんかすっかり忘れていたよ。一鉢買っていこう。うちの女房や子供に見せてよろこばしてやるんだ」
 塔見物にそばへよって来た人々は、こんどは草花の美しさにとりこになって、争《あらそ》うようにして源一の店から花の鉢を買っていく。
 源一は、あせだくで、うれしい悲鳴をあげていた。
 この新しい銀座名物の建物は「一坪館《ひとつぼかん》」と名づけられた。
 たった一坪の土地が、こんなに能率よく利用せられたことは、今までにはほとんどないことだろう。
 店の品物があまり売れすぎるので、午後一時頃には品物が店になくなりかけた。困ってしまった源一は、誰かを雇《やと》って花の仕入《しいれ》をしようかと考えた。しかしそのとき思い出したのは、いつも源一に元気をつけてくれた犬山画伯《いぬやまがはく》のことだった。
(そうだ、犬山さんに頼んで、しばらくこの店を手つだってもらおう)
 そう思った彼は、その夜、犬山画伯のもとをたずねた。
 犬山画伯は、家を留守にしていた。田舎へ出かけて、いつ帰ってくるか分らないという話だった。彼はがっかりして一坪館へひきあげた。
 彼にもう一つの心配があった。明日は土曜日でヘーイ少佐が来る。そして、いよいよベッドを三階に入れるわけだが、あんなせまいところへうまく入るだろうか、そして少佐が土曜日の夜をあそこでうまくねられるだろうかという心配だった。


   ベッドを三階へ


 ヘーイ少佐は、土曜日の午後、ジープを自分で運転して一坪館へのりつけた。
「ほう。すばらしい繁昌《はんじょう》だ」
 少佐は、よろこびのあまり、ぴゅーッと口笛を吹いたほどだった。全く一坪館の前は人垣《ひとがき》をつくっていて、中で働いているはずの源一の顔も見えなかった。
 店の中へ少佐がはいって来た。源一の顔を見ると、大きな手をさしのべて握手をした。
「すばらしい繁昌、おめでとう」
「ありがとう、ヘーイさん。なにもかも、あなたのおかげです」
「なあに、ぼくは君に、ちょっぴりお礼をしただけだよ。ぼくは君のために、もっともっと力を出すつもりだ」
「すみません」
 源一は、強く少佐の手をにぎりかえした。
 昔、すこしばかり親切にした酒屋の小僧を忘れずにいてくれるヘーイ少佐。
 それから少佐の奇禍《きか》に通りあわせて、ほんのすこしのきてんをきかせて助けたことを、恩にきていてくれる少佐。そしてこんなりっぱな一坪館を建ててくれた少佐。――少佐の人情のあつさに、源一は感謝のことばを知らないほどだった。
「ベッドは、いつ三階へあげますか」と、源一は少佐に聞いた。
「今、上にあげよう」
「あ、そうですか。ベッドはもうトラックで持って来たんですか」
「いや、ジープにのせて来た」
「え、ジープに、まさか、ジープにベッドがのるもんですか。そして三階にあげるにはどうするんですか。人足《にんそく》を十人ぐらい集めるのでしょう」
「いや、ぼく一人でたくさんだ」
「あんなことをいっている。ヘーイさんはお茶目《ちゃめ》さんだからなあ」
「うそじゃないよ。いっしょに来てみたまえ」
 少佐はそういって、外に待たせてあるジープの方へいった。
 源一も三人力を出すつもりで外へとび出した。すると少佐はジープの中へ上半身《じょうはんしん》をさし入れて、ごそごそやっていたが、やがて中から一抱《ひとかかえ》ある布ぎれ細工のものをとりだした。
「これだよ、ゲンドン。これがベッドだ」
「え、それですか。……なあんだ。それはハンモックじゃないですか」
「そう。ハンモックだ。われわれ軍人のベッドはハンモックでたくさんだ」
 そういうと、少佐はハンモックをかついで三階へあがっていった。
「おどろいたなあ。ハンモックだったのか」
 源一はアメリカ軍人の簡易生活《かんいせいかつ》におどろきながら、少佐のハンモック吊《つ》りを手つだった。対角線《たいかくせん》にハンモックを吊った。なるほど、そのように吊ると、長い少佐のからだも入るであろうと思われた。
「まあ、よかった」
 源一は、一息ついた。それを見て少佐は、からからと笑った。


   大人気《だいにんき》


 三階建の一坪館は、あたりの建物からひときわ高く頭を出して、うれしそうに天を仰いでいる。
「やあ、すごい店ができたね。ははあ、花やだな」
「あ、二階に絵画展覧会場があるって、ポスターが出ているぜ」
「こんなせまい家で、展覧会ができるのかなあ。どうしてそんなことができるのか、ちょっと上って見てこようや」
 銀座のお客さんは、こうした風がわりを好む。きゅうくつな階段を、がけのぼりのようにしてあがって二階へ。
「ほう。やったね」
「ふーン、壁という壁にのこりなく絵をはりつけたね。こんな能率のいい展覧会場は、はじめて見たよ」
 そのとおりだった。四方の壁という壁が、すっかり絹地《きぬじ》へかいた日本画でうずまっている。草花の画がある、かわいい子供の人物画がある、花のさいた田舎《いなか》の風景画がある。
「ああ、これはたのしいね。画なんて、こんなきれいな、いいもんかな」
「戦争に夢中になっていて、こういう世界をすっかり忘れていたよ」
「こうして画を見ていると、敗戦のくるしさを忘れるね」
「おいおい、見るだけじゃ悪いよ。僕とちがって君は金を持っているんだろう。一枚買っていけよ」
「あんなことをいっているよ。ぼくだって金はあまり……この画は非売品《ひばいひん》だよ。売らない画なんだ。見たまえ、ねだんの札《ふだ》がついていないじゃないか」
「いや、おのぞみでございましたら、お売りもいたします。ねだんは、こっちに分っておりますから……」
 そういって顔を出した人物があった。かぼちゃにもじゃもじゃ毛をはやしたような目の美しくすんだ男――犬山画伯だった。この画をかいた本人の犬山画伯だ。
「いや、今日はねだんをおしえていただかなくともけっこうです。ごめんなさい」
 二人の客は、あとからどかどかとあがって来たあたらしい一団の客といれかわりに、笑いながら、下へおりていった。
 この話でわかるとおり、源一は犬山画伯をこの一坪館へよびむかえたのである。画伯夫妻のよろこびは大きかった。ゆめにも思わなかったりっぱな展覧場を、源一が貸してくれたので、天にのぼるよろこびだった。
 二階はそれでいいが、問題は三階だ。
 この一坪館を建ててくれた恩人のヘーイ少佐は六尺ゆたかな長身だ。その少佐は三階へハンモックをもちこんで、はすかいにつった。ヘーイ少佐はときどき来ては、その上にねた。少佐はたいへんきゅうくつなねかたをしなければならなかった。一坪館だから、たてもよこも六尺はあったが、それは家の外側の寸法だ。あつい壁があるから、中へはいると寸法がちぢまっているのだ。
 でも少佐は不平もいわず、ゆかいな歌を口笛でふきながら、三階でやすんだ。


   建築競争


「一坪館だって三階建で地下室もあるんだ。こちとらも、ぼんやりしていられないぜ」
 一坪館の建設にあおられて、銀座かいわいの商人たちも、これまでの平家建や二階建では、気がひけるというので、今までの店をばらばらにこわして、また新しく建設をはじめた。そしてこんどはだんぜん三階建が多くなった。
 もちろん、銀座をあるく人のみなりも、ずっとよくなってきた。むかしのようなゲートルに戦闘帽《せんとうぼう》の人なんか、どこにもみられなくなった。モンペもすがたをけした。女はスカートのついた服をきてあるいた。男たちのズボンのおり目はきちんとついていたし、靴はぴかぴかにみがかれていた。それはぼろ靴でほうぼうが修理してあったが……。
 時代は、すばやくうつっていくのだ。平和が来て、ひとびとは安心して文化のみちをふんですすむのだ。そして銀座かいわいは、どこよりもまっ先にきれいになり、りっぱになり、そしてあっと目をうばうようなものがあらわれるのだった。
 銀座をあるいていても、もう靴にほこりがつかなくなった。一丁目で靴をみがいて、銀座八丁をぐるぐると二回ぐらいまわっても、靴はやはりぴかぴか光っていた。文化の光は、ようやく銀座からかがやきはじめたのである。「ふーン、もう目につかなくなっちゃった。これじゃしようがない」
 源一は、一坪館の向い側に立って、こっちを見ながら、大きなためいきをついた。
 建てたときは、あたりからずばぬけて背の高い三階建の一坪館だったけれど、今はもうあたり近所にかなりりっぱなものが建ってしまって、一坪館なんか下の方にひくく首をちぢめてしまったかたちだ。
 ヘーイ少佐はそのころアメリカへ連絡にかえって不在だった。
「どうしたもんだろうね、犬山さん」
 源一は、相談相手といって、ほかにないから犬山画伯に相談をかけた。
「しんぱいすることはないよ。そのうちに、いい運がむいてくるよ」
 画伯《がはく》はなぐさめる顔でいった。しかし画伯は何を建てるにしても、まず先立つものは金と資材《しざい》とであることを思い、源一も自分も、そういう方にはあまりえんがない人間だとさびしく思った。
 それから四五日のちのこと、店の前に一人の老婦人が立って、しきりに中をのぞきこんでいたが、そのとき源一は地下室からあがって来て、ひょいとその老婦人と顔を見あわせた。源一は、あっとおどろいた。
「あっ、矢口家《やぐちや[#ママ]》のおかみさんじゃありませんか。ぼく、源一ですよ」
「まあ、まあ……」老婦人もおどろきに目をまるくして、
「やっぱり、そうだったのね。源どん、お前さん、ほんとうに、ここに店を出しておくれだったのね」と、うれし涙であった。


   とびだした名案


 源一がうれし涙でむかえた老婦人こそ、この一坪の店を源一にゆずって東京を去った矢口家のおかみさんだった。焼けるまでは、おかみさんは、ここに煙草店をひらいていた。
「おかみさん。どうしてかえって来たのですか。樺太《からふと》へいっていたんでしょう」
「いいえ、それが源どん。あたしが途中で病気になったもんだから、樺太へは渡れなくて、仙台《せんだい》の妹の家に今までやっかいになっていたのさ」
「へえーッ、それはかえってよかったですね。で、まだ病気はなおらないのですか」
「もういいんだよ。このごろは元気で働いているくらいだから大丈夫よ。そればかりか、妹のつれあいにすすめられて山を買ってね、それがセメントの原料になるんで、あたしゃ大もうけをしちまったよ。病人どころじゃないやね」
「へえーッ、大したもんだな。じゃあ、このお店もおかみさんにかえしましょう」
 源一は、とっさに決心をしてそういった。
「な、なにをおいいだね。この店はきれいに源どんにあげたんじゃないか。とりかえすなんて、そんなけちな考えは持っちゃいないよ。それよりもね、源どん。あたしがこんど東京へ出て来たのは、一つはこの店のあとが今どうなっているかを知りたいこと、それからもう一つには、やっぱり東京へ出て、新しい時代にふさわしい商売をはじめたいと思ってね、それで出て来たのさ、お金なら二、三百万はあるし、セメントならいくらでもあるんだが、なにかいい商売ないだろうかねえ、源どん」
「はっはっはっ。これはおそれいった。やっぱり商売の腕は、矢口家のおかみさんにはかなわねえや」と、源一は頭をかいて、
「その新しい商売ですがね、じつは、私も考え中なんですが、ひとつ私の方の仕事へのってくれませんかね」
「どんな仕事だい、お前さんのもくろんでいるのは……」
「じつは、この一坪館を建てなおして、もっと上へのばしたいのですがね。つまり十階か二十階ぐらい高いものにしたいのです。そして各階に、いろいろ楽しい店を開くのです。どうです、おもしろいでしょう」
「でも大丈夫かね、そんなにひよろ高い煙突《えんとつ》みたいな建物がつくれるかしらん」
「きっと出来ますよ、大丈夫です。二十階の一坪館ができてごらんなさい。銀座の新名物になりますよ。どうです、おかみさん。これをいっしょにやりませんか」
「おもしろそうだけれどね、台風《たいふう》が来たら吹きとびやしないかね。あたしゃ心配だよ」
「たぶん大丈夫です。このことはいずれ、よくしらべておきます」
 源一は、ヘーイ少佐が日本へかえって来たら相談しようと思った。少佐は建築工学に明るいのだったから。
「しかし、なにしろたった一坪だから、二十階つくってみたところが、いくらの広さでもありやしないやね」
 矢口家さんのおかみさんの心は、だんだん源一の話の方へうごいてくる様子だ。


   りっぱな土産《みやげ》


 一坪館を十階または二十階にするという考えは、源一が矢口家のおかみさんと話をしているときにふっと思いついた企画だった。
 しかし源一は、その思いつきが自分でもたいへん気に入った。なにしろ銀座に今二十階建の家なんかありはしないのだ。そういう高層建築物――たとえ一坪しかないにしろ――を建て、そのてっぺんから下を見下ろしたらさぞゆかいなことであろうと思った。ぜひ、つくりたいものだ。
 だが、なんとかもっと店の広さを大きくする工夫はあるまいか。せめて店が四坪ぐらいの広さをもっていたら、どんなに便利だかしれない。お隣りでは地所を売って下さらないか、一つあたってみようと思い、さっそくたずねてまわった。
「とんでもない。うちの地所を売るつもりは、絶対にないね。それよりも、君のところの地所をうちへ売ってくれませんか。うんと高く買いますぜ」
 両隣りでも、裏の家でも、みんな同じようなへんじであった。売ってくれるどころか、はんたいに一坪館の地所を買いたいというのであった。一万円ではどうかと、すぐ金額をきりだす者もあった。
 これでは源一の望《のぞ》みもだめだ。
「源どん、かえって来たよ。けさ東京についた。源どん、元気かわりないか」
 ヘーイ少佐が、血色《けっしょく》のいい顔をぬっと店の中へ入れた。
「やあ、おかえりなさい。待ってましたよ」
 源一は少佐にとびついて手をにぎってふった。
「ほう、源どんへおみやげだ。この本、気にいるだろう」
 そういってヘーイ少佐が源一の手にわたしたのはアメリカ版のりっぱな大形の本だった。
「英語の本ですね。ぼく、はずかしいけれど、きっぱり英語は読めないんです」
「心配いらない。本をひらいてごらん」
 源一は少佐にいわれたとおりにした。どのページにも建築物の図と設計図とがついていた。すばらしい美本の建築設計集であった。
「なるほど。画なら分りますよ」
「それ、みたまえ。はははは」
 四百ページもあるその本には、各種類の近代建築物がのっていた。源一は少佐がそばにいるのもわすれて、ねっしんに各ページを見ていった。
「これはおもしろい。こんなことができるのかなあ。ねえヘーイさん」
 源一が少佐の方へさしだした図面は、塔の形をした建物で、下の方が細く上へいくにしたがってひろがっている。
「できるね。つまり鉄のビームを組んで、横にはりだせばいい。鉄橋や無線局の鉄塔で、そうなっているものが少くない。ほら、ここに出ている」
「よし、これ式の一坪館をつくろうや」
 源一は、一つのヒントをつかんだ。


   摩天閣《まてんかく》


 源一はヘーイ少佐に相談をして、十二階のはりだし式になった一坪館をつくることになった。
 これは十階までが一坪であるが、十一階と十二階は、横にはりだしている。そのはりだしをささえるために八、九階あたりからななめ上へ鋼鉄のビーム(大きな腕金《うでがね》)をつきだして、下からささえているのだった。なかなか名案であった。
 こうした構造によって十一階、十二階は、他の階の三倍ぐらいの広さになった。これならかなり品物をならべることができる。ヘーイ少佐のためにゆっくりしたベッドを用意することもできると、源一はよろこんだ。
 少佐は源一のために、またいろいろと力を貸してくれた。
 矢口家のおかみさんの方は、もちろん大のり気になってセメントやお金をつぎこんでくれた。
 こうして、新しい一坪館は、十二階の摩天閣《まてんかく》となって、銀座を行く人々にお目みえした。
「いよう、すごいものを建てたね。いったい、何階あるんだ」
「地上が十二階だとさ。地階が五階あるから、これもあわせると十七階だあね」
「ほう、すごいすごい。むかし浅草に十二階の塔があったがね、これは最新式の十二階だ。しかし、なんだかあぶないね、頭でっかちだからね」
「ところが、あれで安定度も強度もいいんだそうだ。ちゃんと試験がすんで、大丈夫だと折紙つきなんだ」
「よく君は、知っているね」
「昨日あの上までのぼったのさ。十二階に、今いったようなことの証明書や設計図面などが並べてあるんだ。君もひとつ、てっぺんまでのぼってみたまえ」
「のぼっても、いいのかい」
「いいとも。各階とも全部店なんだ。ただ十二階だけは展覧会場に今つかっているがね」
「そうか。じゃあ今からのぼってみよう。早くのぼっておかないと、時代おくれになる」
 十二階の一坪館は、たちまち、東京の大人気ものとなった。したがって各階の店は売れること売れること、みんなほくほくだ。
 この建物の持主である源一と来たら、えびすさまみたいに、一日中笑顔を見せつづけている。
 犬山画伯も大よろこび、註文の絵の表装《ひょうそう》が間にあわないというさわぎだ。
 矢口家のおかみさんは、源一に、とうとうときふせられて、一階に再び煙草店《たばこみせ》を出した。しかし煙草はすぐ売切れになってしまうので、雑誌と本の店を開いた。
 源一の花店は、十一階へ移った。
「源どん。一坪館、りっぱになった。これで君は満足したか」
 ある日、ヘーイ少佐がたずねて来て、笑いながら源一にきいた。
 すると源一は、首を横にふった。
「まだまだ、満足しません。もっと大きなものを作りたいんです」
「ひゅウ」少佐は口笛をふいて、おどろいてみせた。
「これ以上大きな家ができるとは思わない」


   二十年後


「ヘーイさん。ぼくの夢をここに図面にしてかいておきました。これを見て下さい」
 源一は、そういってヘーイ少佐の前に、図面をひろげてみせた。
「わははは。これはいったい何ですか」
 ふだんは落ちつきはらっている少佐が、ひどくおどろいて、図面の前に頭をふった。
 そうでもあろう。その図面には、大きな飛行場がかいてあったのだ。
 もっともその飛行場は、大地の上にあるものではなく、高架式《こうかしき》になっているのだ。つまり、飛行場の下に、大建築物の並んだ近代都市が見えるのだ。飛行場は高架式で、源一の図面によれば百四十四本の支柱《しちゅう》でささえられていた。
 その支柱は、約五十メートルの高さがあり、そして互いにビームで枠形《わくがた》に組み合っていた。そういう支柱百四十四本の上に、平らな飛行場がのっているのだ。もちろん鉄の枠の上に鉄板が張ってあり、その上に滑走路《かっそうろ》用の舗装材料が平らにのせてある。
 また、その図面には、飛行機が数台|翼《つばさ》をやすめているところがかいてあった。それはいずれもみなヘリコプター式の飛行機ばかりであった。
 つまり銀ブラのために、人々はヘリコプターに乗ってこの飛行場まで来て着陸し、それから下へさがって銀ブラとなるわけであった。
「ああ、そうか。ここに見える一本の支柱が一坪館だ。そうだね」
 少佐は、太い指で、一本の支柱をおさえた。
「そうです。よく見て下さい。ヒトツボカンと、ネオンサインがついているでしょう」
「はははは、ゆかいだ。こんな大きな飛行場を上にかつぐようになっても、一坪館は、やはりあるんだね」
「そうですとも、この一坪館をみんなに見せて、あと百四十三軒の一坪館をこしらえるんです。それからその上に飛行場をこんな工合につくるんです」
「すばらしい考えだ」
「これで儲《もう》かったら、こんどはもっと飛行場をひろげて、大型の旅客機が発着できるようにしたいです。そのときには、銀座はもちろん木挽町《こびきちょう》から明石町の方まで、すっかり飛行場の下になってしまうはずです。どうですか、おもしろいでしょう、ヘーイさん」
「下のビルディングの人たちが怒《おこ》りはしないだろうか。うちの頭の上に飛行場をつくったので、日光がはいらなくなったといってね」
「その頃になると、建築物はアメリカ式になって、もう窓のない家ばかりになるでしょうから、日光の方の心配はないと思います」
「なるほど。それでは下のビルディングが、飛行場よりもっと高いビルを作るから、飛行場に穴をあけるぞといって来たらどうする」
「さあ、そのときは、またヘーイさんに来てもらって、相手をうまく説きふせてもらいましょう。はははは」
「おやおや、まだぼくを使う気かね。いったいこの図のとおりになるのはいつのことかね」
「まあ二十年後でしょうね」
「二十年後か。よろしい二十年後に、ぼくはかならず源どんのところへ飛んで来るよ。はははは」
 ヘーイ少佐と源一は、ゆかいそうに笑う。



底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
   1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
※底本に見る矢口家に対するルビの不統一(《やぐちや》、《やぐちけ》)はママとした。
初出:未詳
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年11月12日公開
2003年8月31日修正
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