青空文庫アーカイブ

地中魔
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)丸《まる》の内《うち》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)それでわし[#「わし」に傍点]のところへ
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   少年探偵三浦三吉


 永く降りつづいた雨がやっとやんで、半月ぶりにカラリと空が晴れわたった。晴れると同時に、陽の光はジリジリと暑さをもって来た。
 ここは東京|丸《まる》の内《うち》にある有名な私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》氏の探偵事務所だ。
 少年探偵の三浦三吉《みうらさんきち》は、今しも外出先から汗まみれになって帰って来たところだ。いきなり上衣《うわぎ》とシャツとを脱ぎすてると、乾いたタオルでゴシゴシと背中や胸を拭《ふ》いた。それがすむと、どこから持って来たのか冷々《ひえびえ》と露の洩《も》れている一升壜《いっしょうびん》の口を開いてコップに移した。冷え切った麦湯! ゴクンゴクンと喉を通って腸《はらわた》までしみわたる。
「ああ、いい気持だ」
 と三吉少年は胸を叩いて独《ひと》り言《ごと》をいった。そのとき天井を仰《あお》いだ拍子に、欄間《らんま》の彫りものの猫の眼が、まるで生きているようにピカピカと青く光っているのに気がついた。
「オヤッ!」
 少年は驚きの声をあげた。


   怪事件?


 三吉少年はコップを下に置くと、テーブルの下を探って釦《ボタン》をグッと押した。すると、天井に嵌《は》めこまれてあった電灯のセードが音もなく、すうっと下りてきた。
 だがセードは床から一|米《メートル》ばかりの所でピタリと停った。
 見るとセードのあった穴から太い金属の円柱が下りて来た。セードはその円柱の先についているのだ。円柱には二つの穴があった。三吉は眼を穴にあてた。そして円柱の横についているヨーヨー位の大きさの受話器をとって左の耳にあてた。人の話声がする。
「では明日中にどうぞ」
「大丈夫です。不肖《ふしょう》ながら大辻《おおつじ》がこの大きい眼をガッと開くと、富士山の腹の中まで見通してしまいます。帆村荘六の留守のうちは、この大辻に歯の立つ奴はまずないです」
 少年はクスリと笑って受話機をかけ、円柱に手をちょっと懸《か》けると、この機械は忽《たちま》ち動き出し、スルスルと天井の中に入って元のようにセードばかりが残った。
 すると側の扉《と》が開いて、洋服を着た小さい力士のような大人が入って来た。グリグリと大きい眼だ!


   地底機関車


「三吉、大事件だ。お前も働かせてやる」
 とグリグリ眼の男はイキナリ言った。
「大変威張ってたね、大辻老」
 と三吉少年は天井を指さして笑った。天井から下りて来ていたのは、この事務所の応接室を覗《のぞ》く潜望鏡のような眼鏡と、その話をききとる電話とだった。客が来ているときは猫の眼が青く光る仕掛だ。
「こいつがこいつが」と老人らしくもないがグリグリ眼の大辻|小父《おじ》さんは、三吉の頸《くび》を締《し》めるような恰好をした。「しかし大事件を頼んでいったよ。芝浦の大東京倉庫の社長さんが来たんだ。昨日の夕刻、沖合から荷を積んでダルマ船が桟橋《さんばし》の方へやって来るうち、中途で船がブクブク沈んでしまった。貴重な品物なので今朝早く潜水夫を下してみたところ、チャンと船は海底に沈んでいた。しかし調べているうちに、大変なことを発見した」
「面白いね」と三吉少年は手をうった。
「なにが面白いものか」と眼をグリグリとさせて「荷物の一部がなくなっているんだ。しかも一番急ぎの大切な荷物が」
「その荷物というのは、なーに?」
「地下鉄会社が買入れた独逸《ドイツ》製の穴掘り機械だ。地底の機関車というやつだ。三|噸《トン》もある重い機械が綺麗《きれい》になくなってしまったんだ」
 不思議も不思議!


   ホラ探偵|大辻又右衛門《おおつじまたえもん》


「地底機関車というのは、素晴しく速力《スピード》の速い穴掘り機械で、今日世界に一つしかないものだそうだ。何しろそれを造った独逸《ドイツ》の工場でも、もう後を拵《こしら》えるわけにゆかない」
「なぜ?」と三吉少年は訊《たず》ねた。
「それを作った技師が急死したからだ」と、ここで大辻老は得意の大眼玉をグリグリと動かした。「地下鉄では青くなっている。是非早く探してくれというんだ。それでわし[#「わし」に傍点]のところへ頼みに来た。ヘッヘッヘッ」
「あんなこといってら。先生に頼みに来たんだよ。誰が大辻老なんかに……」
「ところが、ヘッヘッヘッ。――先生は今フランスへ出張中だ。先生が手を下されることは出来ないじゃないか。そうなれば、次席の名探偵大辻又右衛門先生が出馬せられるより外に途がないわけじゃないか。つまりわし[#「わし」に傍点]が頼まれたことになるのじゃ。オホン」
 大辻老はそこで大将のように反身《そりみ》になったが、テーブルの上の麦湯の壜をみると、忽《たちま》ちだらしのない顔になり、ひきよせるなり、馬のような腹に波をうたせて、ガブガブと一滴のこらず呑んでしまった。
「ああ、うまい。ここの井戸は深いせいか、実によく冷えるなア」
 三吉にはそれも耳に入らぬらしく、折悪しく帆村名探偵の海外出張中なのを慨《なげ》いていた。


   怪盗「岩」


「岩が帰ってくるそうじゃ」
 そういったのは警視総監の千葉八雲《ちばやぐも》閣下《かっか》だった。
「なに、岩が、でございますか」
 とバネじかけのように椅子から飛び上ったのは大江山《おおえやま》捜査課長だった。それほど驚いたのも無理ではなかった。岩というのは、不死身《ふじみ》といわれる恐《おそろ》しい強盗紳士だ。彼は下町の大きい機械工場に働いていた技師だが、いつからともなく強盗を稼《かせ》ぐようになっていた。頭がいいので、やることにソツがなく、ことに得意な機械の知識を悪用して、身の毛もよだつ新しい犯罪を重ねていた。三年前に脱獄して行方不明になったまま、ひょっとすると死んだのだろうと噂されていた岩だったが……。
「ここに密告状が来ている」
 総監は桐函《きりばこ》の蓋をとって捜査課長の前に押しやった。その中には一通の角封筒と、その中から引出したらしい用箋《ようせん》とが入っていた。
「うーむ」と課長は函を覗《のぞ》きこんで呻《うな》った。「イワハ十三ニチフネデトウキョウニカエッテクルゾ。――おお、差出人の名が書いてない。十三日! あッ、今日だッ」


   非常警備につけ!


 十三日というと、帆村探偵事務所へ、芝浦沖に沈んだ地底機関車が行方不明になった事件を頼みに来た丁度《ちょうど》その日に当っていた。警視庁では「岩帰る」という密告状が舞いこんで、俄かに煮え返るような騒ぎになった。強盗紳士の手際に懲《こ》りているので、忽《たちま》ち厳重な警戒の網が展《ひろ》げられた。
 本庁の無線装置は気が変になったように電波を出した。東京と横浜との水上署の警官と刑事とは、直ちに非常招集されて港湾の警戒にあたった。陸上は陸上で、これ又、各署総動員の警戒だった。空には警備飛行機が飛び交い、水中には水上署が秘蔵している潜航艇が出動した。空、陸、海上、海底の四段構えで、それこそ針でついたほどの隙もなく二重三重に守られた。
 大江山捜査課長は部下を率いて、横浜埠頭《よこはまふとう》へ出張した。
「フネデトウキョウヘカエッテクルゾ……東京へ帰るというからには、芝浦へ着くのか、それとも横浜に着いて東京へ入るのか」
 課長は大いに迷った。しかし愚図愚図《ぐずぐず》することは許されない。係員を半分にわけ、一隊は芝浦港へ、一隊は横浜港へ。そして課長自身は信ずるところあって横浜へ――。
 さて今や、当日たった一|艘《そう》入港《にゅうこう》する外国帰りの汽船コレヤ丸が港外に巨影を現した。


   コレヤ丸入港


 米国《べいこく》がえりのコレヤ丸は、疲れ切った船体を、港内の四|号《ごう》錨地《びょうち》へ停めた。
 停まるを遅しと一艘のモーターボートが横づけになった。ドヤドヤと梯子《はしご》を上る一行の先頭に、大江山捜査課長の姿があった。
「やあ御苦労さまです」と船長が迎えた。
「無線で命令したことは御承知でしょうな」と捜査課長は鋭くいった。
「はい。船客は一人も降りていません」
 その言葉を課長は聞咎《ききとが》めた。
「船客だけじゃない、船員もですよ」
「それは勿論ですとも。しかし先刻《せんこく》機関長をお連れになりましたね」
「なに、先刻とはいつです」サッと課長の顔は青ざめた。
「先刻港外へ水上署の汽艇をおよこしになったじゃありませんか。そして取調べがあるからといって機関長だけを……」
「ばッばかなッ」皆まで聞かず大江山課長は怒鳴《どな》った。「その機関長の室へ、直ぐ案内するのだ」
 矢のように機関長室へ駈けこんだ課長は、三分と経たない間に、又矢のように甲板へ飛び出して来た。
「彼奴《あいつ》の指紋ばかりだ。機関長に化けていたのが岩だッ」
 そのとき、一人の船員が叫んだ。「あれッ、あすこへ先刻《さっき》の汽艇《きてい》が行きますよ」


   消えた機関長


「どこだ、どこだ」
 大江山課長は双眼鏡を借りて指さされた遥《はる》か彼方《かなた》の海上を見た。なるほど水上署の旗を翻《ひるがえ》した一艘の汽艇が矢のように沖合を逃げてゆく。
「あッ!」課長は舷《ふなばた》から乗り出さんばかりにして叫んだ。「いるぞ。機関長の姿をした奴が見える。よしッ、追跡だッ」
 壮烈な海上追跡が始った。逃げる汽艇は東京の方へ進んでゆく様子に見えた。しかし課長がこんなこともあろうかと選定して置いた快速のモーターボートは、遂《つい》に目指す汽艇へ追いついた。
「こらッ!」
 大江山課長は真先《まっさき》に向うの汽艇へ飛び移った。つづいて部下もバラバラと飛び乗った。狭い汽艇だから、艇内は直ぐに残《のこ》る隈《くま》なく探された。しかし肝心の機関長の姿もなければ、無論岩の姿も発見されなかった。係官一同はあまりの不思議に呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。そんな筈はない。
 その夜更《よふ》け。ここは東京の月島という埋立地の海岸に、太った男が、水のボトボト滴《た》れる大きな潜水服を両手に抱えて立っていた。
 折からの月明《つきあかり》に顔を見ると、グリグリ眼の大辻老だった。一体今時分何をしているのだろう?
 海底に消えた地底機関車はどうした?
 機関長に化けていた強盗紳士岩は、どうして逃げ、どこへもぐりこんでいるだろうか? 少年探偵三吉はどこへ行ったか?


   怪盗の秘密室


 水底に沈んだ地底機関車を、あとから潜水夫を入れて探してみると、奇怪にも影も形もなく消え失せている。一方、怪盗「岩」が外国から帰ってくるという密告があったので、警視庁の連中は横浜港まで出かけ、岩の乗った汽艇に追いついたが、不思議に岩の姿はどこにも見当らなかった。
 何とまあ奇怪な事件が頻《しき》りに起ることではないか。
 ――さてここはどこだか判らないが、奇妙にも窓が一つもない室である。荒くれ男が五六人、円卓《えんたく》を囲んでいる。正面にふんぞり返っているのは、どこをどう逃げて来たのか正《まさ》しく「岩」だ!
「おい皆《みんな》! 夜が明けりゃ、早速《さっそく》仕事だぞ」
 岩が部下に仕事を命じたとなると、これは実に穏《おだや》かなことではない。何をやるつもりなのだろうか?


   魔手は伸びる


 岩は片目をキョロキョロ廻しながら呻《うめ》く様に物をいっている。
「どうだ。でかい所を覘《ねら》ったものだろう。これより上に大きな仕事なんてありゃしない。考えつくことも、この岩でなけりゃ駄目だし、仕事をやるにしてもこの岩の一党を除いて外にはいないのだ。して見ればこの岩は世界的怪盗だ。いや富の帝王だ。いまに世界中の国がこの岩の前に膝を曲げてやってくるだろうよ。わッはッはッ」
 岩は巨体をゆすぶり、天井を向いて、カンラカラカラと笑った。部下は只もう呆気《あっけ》にとられて、親分の笑う顔を眺めつくしていた。
「そのかわり、仕事としてはこの上もなくむつかしいのだ。いざという時までは、これっぱかりも他人に悟《さと》られちゃならない。そのために、日数をかけて随分遠くからジワジワと大仕掛にやってゆくのだ。これをやりとげるものは英雄でなくちゃならない。この岩は英雄である部下が必要だ。英雄でない部下はいらないから、さア今のうちにドンドン帰って行っていいぞ」
 しかし誰も席を立とうとしない、誰も皆英雄なのだろうか? 大変な英雄たちもあったのである。
 その時どこからともなくごうごうと恐しい響が近づいて来た。オヤッと思ううちに、今度はだんだんと遠のいていった。
 部下の一人が立ち上って壁の額を外すと、驚いたことに、その裏に四角いスクリーンが現れて、その上には今しも遠ざかってゆく地下鉄電車の姿が映っているではないか。
「いまのが地下鉄の始発電車ですよ」
「よしッ。仕事に掛ろう!」
「岩」はスックと立上った。


   大辻珍探偵


 こちらは珍探偵大辻又右衛門だ。
 水のボトボトたれる潜水服を抱えているけれど、あまり時間が長く経《た》つので、いまはこらえ切れなくなって、水に漬《つか》ったままあくび[#「あくび」に傍点]の連発である。
「フガ……フガ……うわッ……うわッ……うわうわうわうわーッ」
 まるで蟒《うわばみ》があくび[#「あくび」に傍点]をしているようだ。
「なんてまア遅いんだろう。いやになっちゃうなア。名探偵は辛《つら》いです。天下に名高い大辻……うわッ……ハーハックション!」
 どうやら大辻又右衛門、風邪をひいたらしい。
 とたん[#「とたん」に傍点]に陸《おか》の方から何だかオーイオーイの声がする。
「おッ。呼んでいるな。さては敵か味方か。とにかく寒くてやり切れないから上陸、上陸……」
 大辻探偵は潜水服を背負《しょ》うと危い足取で月島の海岸めがけてザブザブと上ってきた。


   潜水服を預けた男


「その恰好はどうしたの?」
「なアんだ。三吉か」大辻又右衛門は胸をなで下した。
「潜水服でもぐっていたのかい?」
「うんにゃ」と大辻は正直に首を振り、「お前が命じたとおり月島の海岸に立って海面を見張っていたよ。すると傍へ大きな男が寄って来てね、『まさかのときには、こいつで探したがいいでしょうから、貸してあげます』とこいつを貸してくれたのだよ」と潜水服を指さした。
「大きい男? そしてどうしたの」と三吉少年は詰《つ》めよりました。
「俺は有難うと礼をいったが、どうして着るのか分らない。ついでに教えてくれと頼むと、『今先生をよこすから、これを抱《かか》えてちょっと待っていて下さい』といって向うへ行ったよ。もう来るはずだ」
 三吉は笑いだしました。
「何を笑うんだい。これが役に立つことを知らないね」
「だってその潜水服、始めから濡れていたんだろう?」
「そうさ」
「じゃ駄目だよ。その服は海中で使ったばかりだったんだ。大きい男というからには、岩にちがいない。ほーら御覧、赤字で岩と書いてあるじゃないか。僕たちは、馬鹿にされているんだよ」
 懐中電灯で照らすと、なるほどそのとおりの印《しるし》があった。大辻はベソをかいている。


   怪盗「岩」の逃げた路


 三吉は、ズバリと結論を下した。
「岩の奴は、汽艇の中で発見されなかったろう。それは、追付《おっつ》かれる前に、この潜水服を着てヒラリと海中に飛びこんだからだ。この潜水服には酸素タンクがついているから、一人で海底が歩けるのだ。どんどん歩いて月島の海岸に近づくと大辻さんの隙《すき》をねらって、海面から海坊主《うみぼうず》のような頭を出し、いちはやく服をぬいで、大辻さんに渡し、自分は逃げてしまったのだ」
「そうかなア。先生をよこすといっていたけれどね」
「先生も生徒も来るものか。それよりか足跡でも探してみようよ」
 懐中電灯をたよりに、附近を探してゆくと、砂地に深くそれらしい一風変った靴跡が残っているのを発見することができた。
「やあ、しめたしめた」三吉は用意の石膏《せっこう》をとかして、手早くその靴の形を写しとった。それは真白の靴の底だけのようなものだった。
「どうだ三吉。俺は遊んでいるようでいて案外手柄を立てるだろう。名探偵はこうでなくちゃ駄目だ。この靴型も俺の手柄だから、俺が持っていることにするよ」
 大辻は三吉の手から岩の靴型をひったくるように取った。そうこうするうちに東の空に次第に紅《くれない》がさしてきた。やがて夜明である。
 ほのぼのとあたりが薄紙《うすがみ》を剥《は》ぐようにすこしずつ見えて来た。
 波がザブリザブリと石垣を洗っている。その時だった。
「はてな?」
 砂地にうずくまっていた少年探偵三吉は、そう呟《つぶや》くとつと立ち上った。


   追跡急!


 三吉の見つめる五百メートル彼方の路に、今しも大きい貨物自動車が、十台ばかり列を組んでユラユラと動きだしているのだった。
「大辻さん、あれを御覧よ」と三吉は後を振返った。
「貨物自動車だね。新品のようだ。あれだけあれば、自動車屋としても結構食べてゆけるがなア」とどこまでも慾が深い。
「あの自動車隊は立派すぎると思わない? 何を積んでいるのかわからないが、皆ズックの覆《おお》いをかけている。どこへ行くんだか検《しら》べてみようよ」
「よし、見失《みうしな》わないように追掛《おっか》けよう。……この潜水服は勿体ないが、ここに捨てておけ」
 二人は空腹《くうふく》を抱《かか》えて一生懸命に駈け出した。幸《さいわい》に例の貨物自動車は、路面の柔いのに注意してか、ソッと動いている。
 四五分経つと、いい舗道《ほどう》へ出たと見えて、自動車隊は速力をグンとあげた。見る見る自動車の姿は小さくなってゆく。
「チェッ。まだ大通へ出られないのかなア」
「早く円《えん》タクでもつかまえないと駄目だぞ」
「ああ、しめしめ。あっちからボロ貨物自動車がやって来た。オーイ、オーイ」
「オーイ。乗せてってくれよオー」
 やっと二人はボロ貨物自動車を停めることができた。運転手に頼んで、荷物を積みこむ後の函の中へ乗りこませて貰った。
「お礼はたんまりするから、僕のいうように走らせてくれ給え」
「さあそれは――」と運転手は考えていたが、
「一つ中のお客さんに相談して下さいよ」
 中のお客さん? 二人は驚いて後をふりかえって見ると、今まで一向気がつかなかったが、その函の片隅に薄汚い洋服を着た中年の男が、膝小僧《ひざこぞう》を抱えてよりかかっていた。睡っているらしい。


   怪トラックの行方


 睡っていると思った洋服男は、実は睡っていなかった。
「わしは反対じゃ。わしは理科大学の地質学講座を持っている真鍋《まなべ》じゃ。探偵のお伴は御免《ごめん》じゃ。皆下りてくれんか。この車はわしが契約しとるのでな」
「こいつ大きな口を利く男じゃな。畳《たた》んじまった方が早い」
 と大辻は飛びかかりそうだ。
「待てったらお待ちよ大辻さん。この人は先生だから大きな口を利くんだよ」
 と三吉は真鍋先生の方に向き、
「先生と知らなかったもんで、御免なさい。今私達の追掛けているのは向うにゆく十台の大貨物自動車なんです。あれは――」
「なアんだ、あのトラックかい」先生は眼をパチクリして、「あれなら追掛けてもよろしい」
「へえー」
 二人はむき[#「むき」に傍点]になって、貨物自動車隊を見失うまいとした。暁の街をスピードを早めて追い掛けたが、こっちはボロ自動車であるから、ともすれば遅《おく》れ勝《がち》である。
 敵は深川を離れて京橋から日本橋を経て神田に入り、本郷《ほんごう》の通をグングン進んで行った。そして、やがて速力をおとして入りこんだのが、何と理科大学――。
「ヤレヤレ帰って来たかな」
 真鍋先生は起き上った。
「なアーンだ」
 三吉と大辻とは声を合わせて舌打をした。意地の悪い先生ではある。といってこれで疑問が消えたわけではない。


   エンプレス号の金貨


「金貨百万ドルを積んだエンプレス号、東京湾沖に沈没す。奇怪なる船底の大穴」
 またまた大事件だ。
 このニュースが出たのは、あの日の午前中だった。お昼ごろに、また驚くべき追加ニュースが出た。
「金貨百万ドル、行方不明となる。潜水夫の報告に係官驚く。魔の海東京湾。国際問題起らんか」
 イヤ大変だ。
 地底機関車が海底に沈んで、それがどこかに見えなくなったという怪事件から、まだ幾日も経っていないのに、又同じような場所で大事件が持ち上った。警視庁の狼狽《ろうばい》ぶりが目に見えるようだ。
 一体誰がやったのだ。どうしてやったのだ。
 理科大学の広い校庭では一面に地盛《じもり》をしている。例の十台の貨物自動車隊から下《おろ》した夥《おびただ》しい土であった。
 この土は月島から掘ってきたもの。真鍋先生はこの地盛を幸《さいわい》に月島へ出かけては、地質の研究に文字通り寝食を忘れている有様だ。金塊事件のニュースが出たとき、三吉と大辻はまた理科大学で地盛を見ていた。二人は号外を両方から引張り合った。
「僕の思っていたとおりの大事件だ。これからはもっともっと凄いことがあると思うよ」
「これは大変なことになった。帆村先生にフランスから帰って頂くことにしてはどうかな」
 大辻は岩の靴型を握る手を震わしながら、いよいよ本音の弱音《よわね》を吐《は》きだした。
「驚くなんてみっともないよ」
 と三吉は大きい男をたしなめた。「僕たちは警視庁の連中よりは早く、事件の正体に向きあっているのだよ」
「事件の正体?」
「そうだ。これを御覧よ――」
 そういって三吉は地盛をした一|箇所《かしょ》に鋭い指を向けた。ああ、一体そこにはどんなに驚くべき事件の正体が暴露していたろうか。


   怪盗の怪電話


 世界に一つしか無い地底機関車の行方《ゆくえ》も判らねば、怪盗「岩」の行方も知れない。大辻珍探偵は、岩と月島海岸で言葉を交《か》わしたが、気がつかなかった。駈けつけた少年探偵三浦三吉も口惜しがったが、すべてはもう後の祭だった。
 岩は地の底へ巧みに作られた自分の巣窟《そうくつ》に帰ると、いきなり部下を集めて下した大命令! さてどんな大事件が、「岩」の手によってこれから捲《ま》き起されようとしているのだろうか。
 非常な早朝だのに、警視庁の大江山捜査課長のところへ、ジリジリと電話がかかってきた。
「ああ、もしもし。大江山ですが……」
「大江山さんだね」
 と相手は横柄《おうへい》な口のきき方をした。
「大汽船エンプレス号が百万|弗《ドル》の金貨を積んで横浜に入港しているが、あれは拙者《せっしゃ》が頂戴するから、悪く思うなよ」
「なッ、なにをいう。何物かッ貴様は――」
「岩だ!」電話はハタと切れた。


   理科大学の盛土《もりつち》


「岩だ。それ――」
 と、命令一下、かねてこんなこともあろうかと用意して待っていた特別警察隊は、ラジオを備えた警視庁自慢の大型追跡自動車で、京浜《けいひん》国道を砲弾のように疾走《しっそう》して行った。
 そのころ三吉と大辻とは、理科大学の新築場《しんちくじょう》に立って首をひねっていた。
 月島海岸から十台のトラック隊を追跡して行った二人は、思いがけなくも、本郷の理科大学の中へ着いたので驚いたわけだった。
 そして、そこまで送ってくれた自動車の中から、一人の怪人物がノコノコおりてきたが、これがいま鉱物学者として世界に響いている、真鍋博士だったので、二度びっくりだった。博士はスタスタと研究室へ入ってしまった。
(二度あることは、きっと三度ある)
 と諺《ことわざ》にいうとおり、二人はとうとう三度目のびっくりにぶつからねばならなかった。
「この盛土はおかしいね」と三吉少年は叫んだ。
「そういえばおかしいね」と大辻も目をショボショボさせて叫んだ。「どうやらベルダンの要塞《ようさい》のような恰好をしている。欧洲大戦のときドイツの……」
「そうじゃないよ。形のことじゃなくてこの青い土のことさ」
「ほほう、この青い土がおかしいって? 青い土がおかしいなら、この辺の赤い土はおかしくないかね、黒い土なら、さあどうなるかな」
 大辻のいうことは、いつもトンチンカンだ。


   日本橋特有の青土


「僕、この青い土のことで、ちょっと知っているのだよ」
「はて、何を知っているのじゃ」
「この前、地下鉄工事が僕んちの近所であった。僕んちは日本橋の真中だ。始めは赤い土、黒い土ばかりだったが、ある日珍しく、この青い土が出た。僕は珍しかったので、工事をしている監督さんに尋《たず》ねてみたんだ。大変青い土ですね、おじさん、とね」
「ふんふん」
「すると監督さんは、この青い土は、全く珍しい土で、東京附近でも、この日本橋の地底だけにしか無い土だ。その日本橋も、日本銀行や三越や三井銀行のある室町《むろまち》附近にかぎって出てくる特有の土だといった。この青い土が、それなんだよ」
「そりゃおかしい。だってこの土は、トラックで月島から運んでくるものじゃないか。してみると、あの辺の土だと考えていい、日本橋室町附近の土が、月島から掘りだされて本郷へ運ばれるというのは、こりゃ信ずべからざることでアルンデアル」
 大辻先生は、そこで例の大きなドングリ眼をグルグルと廻して見せた。
「だけど大辻さん、何か訳さえ考え出せると、おかしいと初めに思ったことも、おかしくなくなるのじゃないかね。日本橋の土が、なぜ月島から掘りだされるかという訳さえつけられればね」
「そんな訳なんかつくものかい」
「だけど――」と三吉少年は口ごもった。
 ――もし地底機関車が活動していれば……と口先まで出たのをやっと嚥《の》みこんだ。


   足跡を追いて


「それよりも、この靴型さ」
 大辻珍探偵は、岩の足跡から取った白い石膏《せっこう》の靴型《くつがた》を、大事そうに礼拝《らいはい》した。
「大辻さんは何だかその靴型を壊《こわ》しそうで、横から見ていてハラハラするよ」
「なーに大丈夫。ほらごらん、ここに三つの足跡が、この軟《やわ》らかい土の上についている。これを一つ調べておこう」
 大辻探偵は、いよいよ大事そうに、靴型を地面へおろしました。
「これはどうだ」と第一の足跡につけ「これは合わないぞ。これは真鍋博士の足跡だが、博士は岩ではない」
「ぷッ」三吉はふきだした。「博士は岩じゃないよ」
「ところがそうとも安心していられないよ。さて第二の足跡。これは小さい足跡だ。これでは合うはずがない。これも大丈夫」
「それは誰の足跡だい」
「これはお前の足跡じゃ」
「僕の足跡? まあ呆《あき》れた大辻さんだね」
「もう一つ、これが第三の足跡。おやおや、これは大きすぎて合わない。これも岩ではなさそうだ」
「その足跡は誰の?」
「これはわし[#「わし」に傍点]の足跡さ」
「なんだって」
「つまりわし[#「わし」に傍点]は、岩じゃないということさ。どうだ、ちゃんと理窟に合っているじゃろう」
「なーんだ。あたり前じゃないか」ワッハッハと、二人は腹を抱《かか》えて笑い出した。


   エンプレス号の怪火


「もう見えそうなものだが」
 大江山捜査課長は、矢のように走っている自動車の上から、横浜港と思われる方向を、望遠鏡で探していた。
「課長」と叫んだのは、ギッシリ詰めこまれた武装警官の一人だった。「あすこに、変な煙が立ち昇っています。火事じゃないでしょうか」
「なに煙? おお、あれか」
 見ると、やはり海の方角に、煙突の煙にしては、すこし量が多すぎる真黒な煙がムクムクともちあがっている。
「はてな、おい、通信員。横浜警察をラジオで呼び出して、尋《たず》ねてみろ」
 ジイ、ジイ、ジイ。
 横浜の警察はすぐに呼び出された。
「おお、こっちは警視庁の特別警察隊。お尋ねしますが、海の方角に、煙が立っていますが、あれは何です」
「さあ、まだ報告が来ていませんが――」といって横浜の方では答えたが「ああ、ちょっと待って下さい。今報告が入りました。あッ大変です。たいへんたいへん」
「たいへんとは?」
「港内に碇泊《ていはく》している例のエンプレス号が突然火を出したのです。原因不明ですが、火の手はますます熾《さか》んです。この上は、あの百万|弗《ドル》の金貨をおろさにゃなりますまい」
 ああ、エンプレス号の怪火。果してそれは過失か、それとも……。


   一度危機は去る


「さあ急げ、全速力だ!」
 大江山課長は、車上に突立《つった》って叫んだ。自動車は、驀進《ばくしん》する――
「もっと速力を出せ。出せといったら出さんかッ」
 課長は満面を朱《しゅ》に染めて呶鳴《どな》った。
「もうこれで一杯です。これ以上出すと、壊《こわ》れます」
「壊れてもいいから、やれッ。岩に、また一杯喰わされるよりはまし[#「まし」に傍点]だッ」
 もう目を明いていられぬような速力だ。自動車は空《くう》を走っているように思えた。サイレンの恐ろしい呻《うな》り声が、賑《にぎ》やかな大通を、たちまち無人の道のようにした。
 やっと、恨《うら》みの残る波止場へ出た。なるほど燃えているのはエンプレス号だった。黒い煙や黄色い煙が色テープのように、横なぐりの風に吹き叩かれ、マストの上を、メラメラと赤い火焔が舌を出していた。
「金貨は?」課長は叫んだ。
「安全に正金銀行《しょうきんぎんこう》へ移しました」と波止場を警戒中の警部が駈けつけていった。
「そうか。では正金へ行こう」
 一行の自動車は、正金へ又動き出した。二分とかからぬうちに、銀行の大玄関についた。
「金貨はどうした?」課長は又叫んだ。
「地下金庫に入れました。御安心下さい」
 そこにいた警部が、挙手《きょしゅ》の敬礼《けいれい》をとって、自信ありげに答えた。
「そうか。それで安心した」
 と課長は言葉と共に、額の汗を拭った。


   暗闇の警備


 その夜の正金銀行の警戒ほど厳重なものは無かったと思われる。
 特別警察隊の腕きき警官が三十人と、横浜の警察の警官と刑事とが五十人と、合わせて八十人の警戒員は、大江山捜査課長の指揮のもとに、それこそ蟻のはい出る隙もないほどの大警戒に当った。
 夜はシンシンと更けた。
「大丈夫かい」
「大丈夫にもなんにも、人一人やって来ないというわけさ」
 警戒員同志が、暗闇の中でパッタリ突きあたると、お互いの顔を懐中電灯で照らし合いながらこんな会話をした。
「異状なし」
「全く異状ありません」
 かくて夜明けが来た。東の空が、ほの明るくなって来た。
「夜が明けるぞ。とうとう、岩はやってこなかった」
「あいつもやき[#「やき」に傍点]が廻ったと見える。昨日のうちに貰うぞといっときながら、一向《いっこう》やってこんじゃないか。尤《もっと》も僕たちの警戒がうまく行ってるので、恐れをなして寄りつかなかったんだろうけれど」
 だが課長だけは心配が抜けなかった。今日になって、金貨の顔を実際に見ておけば、本当に安心出来ると思った。
「よし、金庫を開けよう」


   ああ金貨百万|弗《ドル》


 正金銀行の大金庫は、入れるのには簡単だったが、開くのには大変骨が折れた。それは容易に盗み出されないためだった。
 ようやく、ギーと最後の室が開いた。もうあとは最後の文字盤を合わせて、ハンドルをぐっと引張ればよい。
 大江山課長はじめ警察の人々、銀行の人々は、思わず唾《つば》を嚥《の》みこんだ。
 ガチャン、ガチャン、ガチャン。――
 ハンドルを握って引張ると、ビール樽《だる》をはめこんだような金庫の扉《と》が、音もなく口をあけてくる――
 金貨は?
「あッ」
「おお、金貨が見えない」
 不思議だ、不思議だ。金貨が重さで一|瓲《トン》半もあるというのが、姿を消して一枚も残っていなかった。あの厳重な警戒網を誰が抜けることができたろう。
 全くのところ、この金庫室には誰も入らなかったのに、それだのに金貨は煙の如くに失《う》せている。
 大江山課長の顔は、赤くなったかと思うと、こんどは反対に土のように青ざめた。
 怪盗岩は、約束をほんとうに果したのだった。
 少年探偵三吉は、どこで何をしているか。岩は、あの大金をどうして運び出したか、そしてまたどこへ使おうというのか。
 ルンルンルンルン、どこからともなく響いてくるエンジンの音――あれは若《も》しや噂に聞く地底機関車ではないだろうか。


   少年探偵の疑問


「岩」という怪盗は、さきに世界に一つしかないという地底機関車をさらっていったが、それから間もなく、今度はエンプレス号の金貨百万|弗《ドル》を、正金銀行の大金庫から、やすやすと奪い去った。
 少年探偵三吉は、珍探偵大辻又右衛門と一緒に、この事件の探偵にあたっている。
 大辻の方は、「岩」の足型を後生大事《ごしょうだいじ》に抱《かか》えているのに対して、わが三吉は理科大学の造築場へ、月島から搬《はこ》んできた青い土に眼をつけている。
「日本橋室町附近にしかないといわれるこの青い土が、どうして月島から掘り出されるんだろう?」
 と、これが三吉の大疑問だった。
 さて「岩」は、どこに潜んでいる?


   博士の地震計


「そんなばか気たことがあるものかね」
 そういったのは、鉱物学の大家《たいか》、真鍋博士だった。前には三吉と大辻とが控《ひか》えている。
「そうだ、ばかばかしいや。おい三吉、もう止《や》めて帰ろうよ」と大辻老は腰が落付かぬ。
「いや先生」と三吉は一生懸命だ。「あの月島と日本橋室町とが、もし、地中路で続いていたとしたら、この疑《うたがい》がうまく解けるじゃないですか」
「そんな地中路はありゃせんよ」
「でも地底機関車を使えば作れますよ」
「地底機関車を見たものは一人もないじゃないか。そんなあぶなげな想像は、学者には禁物だ」
「じゃ、僕は地底機関車をきっと発見してきますよ」
「ばかなことを」
「とにかく先生。先生の考案された携帯用地震計を貸して下さい。それで地底機関車を探し当てて来ますから」
「それほどにいうのなら、あいているのを一台貸してあげよう」
 とうとう博士は折れて、三吉のために携帯用地震計を貸し与えた。それは机の引出ほどの大きさの器具だった。
 博士が室を出てゆくと、二人も立上った。
「三吉、そんなもの何にするのだよオ」
「これで僕が手柄を立てて見せるよ」
「手柄といえば」と大辻は急に思い出したように、岩の足型を出して、博士の残していった靴跡に合わせた。
「まだ岩は博士に化けていないや」大辻は仰山《ぎょうさん》に失望の色をあらわしていった。


   右の手首!


「親分じゃねえかな」
 地下室で不安な顔を集めていた岩の子分は、サッと顔をあげた。入口の上につけた赤い電灯が、気味わるく点滅している――
 コツ、コツ、コツコツ。
「うッ、親分だッ」
「親分は無事だったぞ」
 子分たちは兎のように席から躍り出て、扉《ドア》を開いた。はたして外には、岩が、スックと立っていた。
「お帰りなせえ」「お帰りなせえ」
 岩は黙々《もくもく》として室に入った。右手を深くポケットに入れたまま、大変疲れている様子だ。
「親分、首尾は?」
 奥の大椅子に身体を埋めた岩は、子分の声にハッと眼を開いた。
「百万弗は正に手に入れた。だが――」と岩は声を曇らせた。
「おれも相当な代価を払ってきた」
「なんですって、親分?」
「こ、これを見ろ!」
 岩は痛そうに歯を食いしばって、右手をポケットから静かに出した。
「おッ、お親分、手首をどうしたんです」
 手首が見えない。右の手首の形はなく、ゴム布《ぎれ》のようなものでグルグル捲《ま》いてある。
「正金銀行の金庫の底に、爆弾が仕掛けてあったのだ。……そいつに手首を吹き飛ばされたのさ」
 怪盗にしては、百万弗の代償にしろ、たいへん不出来ではないか。


   恐しき相手


「俺ともあろうものが、かけがえのない手首をもがれるなんて。無念だッ」岩は手首のない右腕をブルブルふるわせて叫んだ。「どうだ、これを怪しいとは思わねえか。あの金庫のことは、ネジ釘《くぎ》一本だって調《しらべ》をつけてあったんだ。それにむざむざと……」
「そういえば親分」と兄貴株の紳士|鴨四郎《かもしろう》がいった。「昨日のラジオじゃ、エンプレス号は午前中に金貨と諸共《もろとも》、海底に沈んだそうで、それが間もなく潜水夫を入れて探したところ、もう百万弗の金貨が影も形もなくなっていたという。しかし親分の話では、昨夜遅く、正金銀行まで出掛けて、百万弗を奪ってきたという。これじゃ話が合わない。一体どっちが本当なんです」
「それだ」岩の顔は歪《ゆが》んだ。「俺は正金へ金貨を搬《はこ》ばせる計画だった。ところがラジオでは、海底に金貨が沈んだと放送し、それから二度目のニュースでは、金貨が海底で見えなくなったという。これでは俺が手を出さない先に、鳶《とび》に油揚《あぶらげ》をさらわれた形だ――と、もう少しで口惜涙《くやしなみだ》で帰るところだった。
 ところがあれが警察のデマ、でたらめなんだ。正金銀行へ移したことは極力《きょくりょく》秘密さ。そう放送すれば岩は諦めるだろうと思ったのだ。……俺はも少しでマンマと百万弗を握り損《そこな》うところだった。
 警察にしちゃ、鮮《あざや》かすぎる手だ。そこで俺は気がつくべきだった」
「どう気がつくべきだったんです」
「爆弾に手首を吹き飛ばされ、痛いッと叫んだ瞬間に、俺は気がついたのだ。恐るべき俺の敵が、日本に帰ってきているということを――」
 そういって岩はフッと押し黙った。怪盗岩が恐れる敵とは、そも何者か?


   岩は何をする?


 警視庁では千葉総監を囲み、捜査係官の非常会議が始っていた。遠く横浜警察の署長までが参加していた。
「では始めます」そういったのは大江山捜査課長だった。「岩はこれから何をするか、それについて皆さんの御意見を伺《うかが》いたいものです。……いままでに岩のやったことを考えてみますと、第一には地底機関車を奪い取った事件です。これが岩の仕業《しわざ》であることは、証拠の上でハッキリいえます。第二には、正金銀行から百万弗の金貨を盗んだ事件です。
 私達は金庫の前面ばかりを注意していましたが、岩の方はその裏を掻《か》いて、地下から坑道を掘り、金庫の裏側のあまり丈夫でないところを破って、金貨を盗んでいったのです」
「一体岩は、そんな機関車を手に入れたり、百万弗の金貨を握ったりして、これから何をやろうと思っているのだ」
「さア――」といったなり一同は顔を見合わせて、誰も返事をするものがなかった。それほどこの答は難しかった。
「先刻《さっき》の話では、岩は坑道をあけていったそうじゃ。どうだい、その坑道を逆に進んでいったら岩の巣窟《そうくつ》へ行けそうなものじゃないか」
 と総監が口を挿《はさ》んだ。
「それは名案」
 と一同は卓《たく》を打って叫んだ。
「では決死隊を編成して、これからすぐ地中に潜ることにしよう」と総監は決心の色をアリアリと浮かべた。


   決死隊を募る


「さア、岩と地中で戦おうという勇士はいないかア。決死隊に加わろうという偉い者はいないかア」
 大江山捜査課長は庁内の警官を集めて、一段高いところから叫んだ。
「よオし。私が参ります」と手をあげた若い警官がある。
「なに、お前やるかッ」
「私も参ります」
「私も是非やって下さい」
 忽《たちま》ち、九人の決死隊員が出来あがってしまった。
「気を付けッ」大江山捜査課長は九人の決死隊員を並べて号令をかけた。九人が九人、いずれも強そうな立派な体格の勇士ばかりだ。この中に岩が紛れこんでいては大変と、課長は一同をズラリと見廻したが、誰もかもチャンとしていた。
(まず安心だ)
 と課長は心の中で思った。しかし念のために勇士たちの手袋をとって、その手を見ておくとよかったのであるけれど、岩が片手を爆弾でやられたことを知らぬ課長のこととて、それは気がつかなかった。
「穴掘り機械も取りよせてある。ほら、あの自動車に積んであるのがそれだ」
 勇士たちは振りかえって課長の指さす方を見ると、なるほどガッチリした機械が車上に積まれてあった。
「それから、この決死隊のことを地中突撃隊と名付ける。隊長としては、この大江山が先頭に立って指揮をする」
 ああ、大江山課長が進んで決死隊長になるというのだ。これこそ正に警視庁の非常時だ!


   大辻老の参加


 十人の地中突撃隊が警視庁前に勢揃をして、いよいよ勇ましい出陣に移ろうというその時だった。そこへ駈《か》けつけたのは一人の少年と、布袋腹《ほていばら》の巨漢、これはいうまでもなく少年探偵の三吉と珍探偵大辻だった。
「オイ三吉どん」と大辻が真赤な顔をしていった。「僕等もこの地中突撃隊に参加させて貰おうじゃないか。この方が岩をとッ捕《つか》まえる早道だぜ」
「そうだね」と三吉は例の調子で黒い可愛い眼玉をクルクルさせていたが「僕は反対するよ」
「なに反対をする。この弱虫め!」
「僕はいままで探偵してきたことを続けてゆく方がいいと思うんだ」
「なんのかんのというが、実はこわいのだろう。わし[#「わし」に傍点]はそんな弱虫と一緒に探偵していたくはないよ。帆村先生が帰って来て叱《しか》られても、わし[#「わし」に傍点]は知らぬよ」
「叱られるのは大辻さんだよ」
「いや、もう弱虫と、口は利かん」
 とうとう三吉と大辻とは別れ別れになってしまった。
 大辻老は決死隊に参加を許されると、いよいよ大得意だ。ふんぞりかえって、自動車に乗っている。ナポレオンのような気持らしい。しかも岩の足型を大事に小脇に抱えている。
「大辻さん。その足型を壊《こわ》しちゃ駄目だよ」
「なアに大丈夫……おっとッとッ。お前とは口を利かぬ筈《はず》じゃった」
 仕度は出来た。突撃隊の自動車は一列に並んで出発した。横浜正金銀行さして……。


   「はてな」の室町《むろまち》附近


 三吉少年は一人残されたが、失望しない。
「すみませんが、ちょっと測《はか》らして下さい」
 そういって彼は日本橋|界隈《かいわい》の地下室のあるところを一軒一軒廻っては、携帯用地震計を据《す》えつけて測って歩いた。
「一体、何を測るんだい」
「おじさんの家は大丈夫だということが分るんですよ」
「なにが大丈夫だって」
「それは今に分りますよ。フフフ」
 こんな会話をしながら三吉は歩いて廻った。しかし三吉が室町方面に近付くに従って、彼の顔はひきしまってきた。
「はてな」と彼は日本銀行の地下室でいった。
「はてな」と又、東京百貨店の地階でいった。
「はてな」と彼はまた三井銀行の地下室でもいった。
 三吉は、その三つの場所で、いつも休みなく伝わってくる小地震を感じた。それは地底のはるかの下から伝わってくるのであって、決して地上からではない。本当の地震はごくたまにやってくる。しかも強くひびくところはごく短い時間だけだ。しかしこの室町界隈では不思議な連続地震が起っている。
「これは何かあるぞ!」
 しばらくの間、ジッと考え込んでいた三吉は、何を思ったか、地震計をしまうと、三井銀行の地下室を、アタフタと飛び出した。
 一方、横浜正金から地中へもぐりこんだ十一人の決死隊はどうなったか。もう四十時間も経ったが、消息が分らなくなった。生か死か?


   探偵競争


 怪盗「岩」は、世界に一つしかないという地底機関車を動かして、何ごとか大きな悪事をくわだてているらしいのであるが、一体それは何だか、まだ様子がハッキリわからない。
 大江山捜査課長はとうとう一大決心をかため、十人の警官から成る地中突撃隊を編成した。これを見ていたのが、「岩」の足型を抱えて放さない大辻珍探偵で、彼も勇ましくこれに加わって一行は十一人となった。早速、横浜正金銀行の金庫裏から地中にもぐりこんだ。
 わが少年探偵三吉は、参加したいのを怺《こら》え、師の帆村探偵から教わったとおり、最初から一貫した探偵方針を捨てることなく、その後は地震計をもって、日本橋室町附近の地下室という地下室を、なんどか一生懸命で探しまわっている。


   地中の怪


 地中突撃隊はどうなったか?
 大江山隊長を先頭に、大辻珍探偵をビリッコに、一行十一勇士は勇ましくも土竜《もぐら》のように(というと変だが)、明暗《めいあん》もわからぬ地中にもぐりこんだ。始めは腹這《はらば》って、やっと通れるくらいの穴が、先へ行くにつれ大きく拡がってきた。おしまいには、楽に立ってあるけるようになって、持ちこんだ穴掘機械が邪魔なくらいだった。
「さあ、こんどは穴が北に向いたぞ」
 と磁石をしっかり手に持った大江山警部が叫んだ。
「はあ、もうこれで横浜の北東を十キロも来ました」
 と測量係の警官が報告をした。こうして一行は今どの辺の位置にいるのかを、地図の上に鉛筆のあとをつけながら、たゆまず前進をつづけた。――しかし一向に、「岩」にも出会わなければ、その子分手下にもぶつからない。
「ねえ大江山さん」と大辻が後から声をあげた。「岩の奴は、あの大金を持って、外国へずらかったんじゃありませんか。それとも私達に恐《おそれ》をなしたのか、さっぱりチュウとも鳴きませんぜ」
 大辻老は、岩を鼠かなんかと間違えていた。一行の気がすこしゆるみかけた。丁度《ちょうど》そのときだった。
 どどーン、ぐわーン。いきなり恐しい物音が、後の方にした。ハッと思う間もなく、恐しい風が一同の横面《よこつら》をいやというほど殴《なぐ》った。「さあ引返せッ」と隊長が呶鳴《どな》った。すわ何事が起ったのだろう。


   生埋《いきうめ》の一行


「うわーッ、たいへんだッ」
「どうしたどうした」
「今通った道が崩《くず》れて、帰れなくなった」
「なに帰れない」大辻老の顔色は紙のようにあせた。「帰れないとたいへんだ。早く掘って穴をあけといて下さい」
 しかし隊長は一向号令を下さない。さすがは捜査課長だ。這《は》いつくばって崩れた土の臭《におい》を熱心に嗅《か》いでいるのだ。
「おお、ダイナマイトの小型のを仕掛けた者がいる。油断をするなッ」
「大丈夫です。大丈夫です」と一同。
「ダッ、ダイナマイトですって」大辻老は気が変になった鶏のように、一人でバタバタ跳《は》ねかえっている。
「崩れた箇所はあのままにしておいて、一同前進!」隊長は勇ましい号令を下した。
 だッだッだッと、一行は小さく固まって、懐中電灯をたよりに、低い泥の天井の下をドンドン前進した。
「左、左、左へ曲れ」
「オヤ道が行きどまりだ。おかしいぞ」
「うん、これは一杯|食《く》ったかな――集れッ」
 と隊長の号令だ。
「番号」
 一チ、二イ、三ン……。
「オヤ一名足りないぞ。誰がいなくなったのだッ」
 確かに一名足りない。どこへ消えたというのだろう。その足りない男については、誰もかもどこの誰だかハッキリ知らなかった。一同は心臓をギュッと握られたように、無気味《ぶきみ》さに慄《ふる》えあがった。


   岩のいた証拠


「オイ大辻君。君の大事にしている足型は、こういうときに使わなくちゃ、使うときがないよ。ちょいと貸したまえ」
「イヤイヤイヤイヤ」と大辻は仰山《ぎょうさん》にその手を払いのけた。「探すのは、わしに委《まか》せなさい。貸すくらいなら、壊した方がましだ」
「そんな意地の悪いことをいわないで……」
「どいたどいた、わしが探す。ホラ皆さん、足を出して……」
「失敬なことをいうな」
 そんなにまで騒いだが、一名|欠《か》けた残《のこり》の十名の中には岩は絶対にいないことが解った。
「いませんよ。大丈夫です。隊長さん」
「じゃ、今まで来た軟かい道の上から行方不明の警官の足跡を探して、調べてみたまえ」
「はいはい」
 大辻老は向《むこ》うへ懐中電灯をたよりに引返《ひっかえ》していった。そしてしきりと路上にかがまっては探していたが、
「あッ、あった、あった。岩だ、岩だ」
「本当かッ」
 一同は駈けつけた。
「なるほど、たしかに足型は合っている。岩の奴、警官に化けて、決死隊に加わっていたのだ。うーむ、ひどい奴だッ」
 隊長はじめ一同は、狭い地中路の中で、歯ぎしり噛《か》んで口惜しがった。
「オイそんなに口惜しいかッ」
 そのとき一同の背後に、鋭い声があった。


   大辻老の狂乱


「なにをッ」
 一同がふりかえると、五メートルほど向うに、どこからともなく照らしている電灯の光の下に、警官姿の大きな男が立っていた。右手の黒い革の手袋を取ると、物凄い釘《くぎ》ぬきのような人造手が現れた。
 その手をしずかにあげて、覆面をパッと取ると、その下には大きな眼だけが、爛々《らんらん》として光っていた。おお、紛れもない「岩」だ。こんなに明るい光の下に、ハッキリと彼の姿を見たことは、いまだかつて一度もなかった。突撃隊の勇士の面々もジッとしてその場に立竦《たちすく》んだ。
「いま面白いところへ案内してやるッ」
「なにをッ」
 そういう言葉の終るか終らないうちに、一同の立った足許がグラグラと揺《ゆら》めき、あッと思う間もなく、身体の中心が外《はず》れて、ガラガラと奈落《ならく》へ墜落《ついらく》していった。仕掛のある落し穴だと気がついたのは、それから暫く経って、一同が息を吹きかえした後のことだった。
「うわーッ、いたいいたい」大辻老は起きも上らず、腰の辺《あたり》をさすっていた。「三吉やーい。三吉やーい。助けに来てくれやーい」
「大辻さん、岩の足型を持っているかい」
「うん、持っているとも」そういって大辻老は腋《わき》の下へ手をやったが、うわーッと一声《ひとこえ》、たちまち跳《は》ね上った。「岩の足型がないッ」
「ほうほう、ここに白いものがこぼれているぜ」と懐中電灯を足許《あしもと》へ照らしたものがあった。それは粉々に粉砕した石膏の足型に違いなかった。「うわーン。足型が壊れちまった。俺は、俺は……。うわーン、三吉」


   井戸蓋《いどぶた》の異変


 そのころ、三吉少年探偵は、師の事務所に一人ポツンと、卓《たく》を前にして坐っていた。しかし彼は居睡《いねむり》をしているのではない。卓の上には大きな東京市の地図が拡げられてあった。その地図の上に、なにやら盛んに線が引張ってある。赤鉛筆で書いた大きい輪が、室町の辺に幾重《いくえ》にも重《かさな》っていた。
「すると、どうしても、ここのところが怪しいわけだ」
 と三吉は鉛筆の尻で、地図の上を叩いた。「よし、こいつはどうしてやるかな」
 三吉は地図の上に、すべての注意を集めているようだった。もう少しよく気をつけているなれば、そのとき人気のない奥の方でカタリ、コトリと小さい音のするのが聞えたはずだ。鼠でも出ているのか。
 いや鼠ではないようだ。この事務所には有名な大きな井戸のあることは、記憶のよい皆さんはご存じであろう。その井戸はいつも黒い大蓋がしてあるのだ。その黒い大蓋がひとりで、ソロソロと持ち上ってくるではないか。誰も井戸の側にはいないのに大蓋はスクスクと持ち上ってくる。化物屋敷か? それとも何者?
 三吉は、いよいよ地図と夢中に首っぴきである。しかし彼の足は、床下から出た二つの踏み釦《ボタン》の上に軽く載っている。それは果して故意か偶然か。いや、何にしても不思議なこの場の光景ではある。


   三吉の大危難


 ソロソロと持ち上った大蓋《おおぶた》から、やがて一本の手が生《は》えた。つづいて何か釘《くぎ》ぬきのようなものが……。
 もし人が見ていたなら、物凄《ものすご》さに、あッと声をたてたかも知れない。井戸からノッソリ全身を現したは、紛れもなく巨大漢「岩」だった。彼はなぜ井戸から出てきたのだろう。
 岩は細心の注意を配って、ソロリソロリと隣の室をうかがった。人気《ひとけ》ないのを見すまして、だんだんと事務室の方へ……。やがて硝子戸《ガラスど》越《ご》しに、三吉少年が後向《うしろむき》になって、地図を案じているのが、ハッキリ解った。
「うーむ」
 岩はそれを見ると、満面を朱に染めた。
(小童《こわっぱ》め、おれ様の計画を嗅《か》ぎつけたからには、もう生かしておけぬぞ。小童の癖に、おれ様の仕事の邪魔をする御礼をするぞ。うーむ)
 岩は胸の中でその呪わしい言葉を吐くと、静かに硝子戸に手をかけた。戸は細目に開《あ》いた。音もなく大きく開く。岩はスルリと三吉のいる室内に滑りこんだ。その手にはコルトの六連発のピストルを握って。
 三吉は一向気がついた様子もない。
「うぬッ」
 ぱぱーン。ぱぱーン。
 ついに引金は引かれたのだ。はげしい弾丸の雨の下、この近距離で、果して三吉は射殺を免《まぬか》れることが出来るだろうか。否! 否!


   岩の悲運


 三吉の頭のところに最初、プスリと穴があいた。次に肩のところに……。
「あッ」
 と鋭い叫声だ。叫んだのは三吉でなくして、それは「岩」だった。ガラガラと硝子板の壊れる響がした。
(しまった!)
 三吉を射ったには射ったが、三吉が大きい魔法鏡にうつっているその三吉を射ったので、三吉の生命には別条《べつじょう》がなかった。本物の三吉はどこにいるかと、クルリと岩が身体をひねったときは既に遅かった。なにか足首にガチャリとからまったものがある。と思う間もなく、足がいきなり宙に浮いた。あッとピストルを取落した。
「これはいかん」
 と思う間もなく、キリキリキリと音がして足が頭より上に上った。巨大な岩の身体が、天井に逆《さかさ》に釣《つる》されてしまったのだ。
「おッ、おッ、おのれッ」
 もう歯噛《はがみ》をしても間に合わない。
 そのときどこからか、本物の三吉少年が現れた。
「オイ岩。もう駄目だぞ」
「なにを、この小僧《こぞう》奴《め》」
「お前は室町の地下で、どんな大悪事を企《たくら》んでいるのだ。それをいえ。いわないと苦しがらせるぞ」
「誰がいうものか。死んでもいわねえ。しかし日本国中の人間どもが泣《な》き面《つら》をすることは確かだ。もうとめてもとまらぬぞ。ざまアみやがれ」
 何事か大変なことが起りかけているのだ。三吉少年はハッと胸を衝《つ》かれた。岩がこんなになってもいわなければそれまでだ。
「よオし」
 と叫ぶと、三吉少年は井戸の蓋をあけて、その中へいきなり身を躍らせた。


   井戸を下りる三吉


 怪盗「岩」は、少年探偵三吉のためにうまく一杯喰わされ、逆《さか》さに梁《はり》に釣り下げられている癖《くせ》に、「いまに日本国中の人間どもが泣面《なきつら》をかくぞ、ざまア見やがれ」と大きなことをいっているのは、怪盗とはいえ、なんと面憎《つらにく》いことではないか。しかし日本国中の人間どもが、泣面をかくことなどという恐しいことが、本当に起りかけているのだろうか。一体それは、どんなことなのだろう?
 勇敢にも少年探偵は、井戸の中へ飛びこんだ。飛びこんでみると、果してそこには、一条の縄梯子が懸っていた。
「やッ、こんなものを使って、岩のやつ、登って来たんだナ」
 三吉はスルスルと、深い井戸の底の方へと下っていった。およそ四五メートルも下ったときのことだった。突然に彼の頬を、一陣の生温《なまあたたか》い風が、スーッと撫《な》でた。
「おやッ」


   袋の鼠か?


(なんだろう?)
 三吉は懐中電灯をパッと照らしてみた。するとそこには真四角な窓みたいなものが、壁のところにポカリと開いていた。生温い風が、その窓からスーッと吹いてきた。
(どこから風が上ってくるのだろう。この窓の下には、なにがあるのだろう?)しかしグズグズしている場合ではない!
「よオし、突進だッ」
 三吉は自分で自分を励《はげ》ますように叫んで、その窓の中へ入っていった。内部には誰が拵《こしら》えたのか階段があった。少年は、薄明るい懐中電灯の光を頼りに、ゴム毬《まり》のようにトントンと階段を下っていった。
 階段は間もなく尽《つ》きた。そしてそこには、重い鉄の扉が行手を遮《さえぎ》っていた。
 そのとき突然、頭上からピカリと強い光が閃《ひらめ》いた。
「おッ」
 と三吉は身を縮めると共に、上を見上げた。ああ、どうしたというんだろう。さっき三吉の潜りこんだ窓が、真四角にポッカリ明るくなっている。そしてその窓口から、しきりに三吉の方を窺《うかが》っている一つの恐しい顔! それは紛れもなく「岩」ではないか。しきりに懐中電灯をふっているところを見ると、まだ三吉を見つけていないらしい。道は一本筋の、しかも行き止りの袋路《ふくろじ》だ。見つけられたが最後、三吉の生命はないものと思わねばならぬ。
 一番下の階段に、少年の身体が僅かに隠れる程の、隙間があった。三吉は、まるで兎が穴へ潜っているような恰好で、その蔭にうつ伏《ぶ》していた。
 ギギーッ。三吉の耳許で、突然、金属の擦《す》れ合う音がした。はッと驚いて、頭をあげてみると、いままで岸壁のように揺《ゆ》らぎもしなかった鉄扉《てっぴ》が、すこしずつ手前の方へ開《あ》いてくるのだった。


   九死に一生!


 扉は重いと見えて、ほんの少しずつ拡がっていった。
「お、親分?」
 と三吉の頭の上で、太い声がした。
(もう駄目だッ)
 と三吉は思った。敵も敵、岩の子分である。上からは岩が恐しい眼を剥《む》き、下からは逞《たくま》しい子分が腕を鳴らしているのである。三吉の進退は、まったく谷《きわ》まってしまったのであった。
 だがしかし、さすがは少年探偵として、師の帆村荘六から折紙《おりがみ》をつけられている三吉のことだった。九死のうちにも、僅かな隙を見出す機転と胆力《たんりょく》とがあった。
「おお、気をつけろ。その辺に小僧が逃げこんでやしないかッ」
 と上から岩がどなった。
「えッ」
 と下にいる子分は、階段の下をジロジロと眼をくばった。しかし三吉の姿はどこにも見えなかった。階段の蔭にも、扉のうしろにも……。
「いませんぜ、親分」
「そんなことはないんだが……」と岩も不思議そうにまわりを見たが、やっぱりいない。「ハテナ。たしかにこっちへ来たはずなんだが」
「親分、もう時間がありませんぜ」
「そうか。いよいよ、もう始る時刻だったな。それじゃ小僧にかまってなどいられない。さア地底機関車に全速力を懸けて飛ばすんだ」
 ああ、地底機関車。地底機関車は、その扉の向うにあるんだ。
 三吉はどこへ消えたのであろうか。


   解けぬロープ


 三吉は、危い瀬戸際《せとぎわ》で、子分の足許を鼠のように潜《くぐ》りぬけると、扉の向うへ入ってしまったのだった。まさか自分の足許を潜るものがあろうとは、子分先生も思わなかった。
 三吉は見た! そこで彼は見たのである。噂には聞いたが、始めて見る地底機関車だった。
 芋虫《いもむし》を小山ぐらいの大きさにした奇妙な姿の地底機関車だった。全体はピカピカと、銀色に輝いていた。車体の前半分は、鯨でも胴切《どうぎ》りに出来そうな大きい鋭い刃が、ウネウネと波の形に植えつけられてあった。これがブーンと廻転を始めると、土は勿論《もちろん》、硬い岩石でも、鉄壁《てっぺき》でも、コンクリートでも、まるで障子《しょうじ》に穴をあけるのと同じように、スカスカ抉《えぐ》られてしまうのだった。なんという不気味《ぶきみ》な、いやらしい恰好の地底機関車だろう!
 車体の後半分は、普通の汽車の運転台と大した変りはなかった。
「よいしょッ!」
 と子分は飛びのって、運転手の席についた。岩も続いて乗りこんだ。
「親分、なんです。その足のところに捲《ま》きつけている長いものは……」
「これか」岩はチェッと舌打《したうち》をした。「小僧に捲きつけられた鋼《はがね》のロープだが、上の鉤《かぎ》のところはやっと外《はず》して来たが、あとは足首から切り離そうとしても、固くてなかなか切れやしない」
「そんな長いものを引張《ひっぱ》っていらっしゃるなんて、ご苦労さまですね」
「な、なにをッ」岩は子分をピシャリとぶんなぐった。「無駄をいわねえで全速力でやれッ」
 子分は見る見る面をゴム毬《まり》のように膨《ふく》らませたと思うと、起動桿《きどうかん》をグッとひいた。地底機関車は、獣のような呻《うな》り声をあげて、徐《しず》かに動き出した。――三吉はヒラリと、車の背後に飛びついた。


   全速力の地底機関車


 泥土《どろつち》や岩石は、渦を巻いて飛び散り、物凄い響に耳はきこえなくなるかと思われた。
 岩は機関車の出入口に近く、向うを向いて膝小僧を抱《かか》えていた。彼は、
「見ろよ見ろ、見ろ」
 と、呪《のろい》の声を発しつづけていた。
 三吉はじりじりと匍《は》いながら、前進した。彼は岩の足首を縛っているロープの端《はし》っこをつかんだ。
(見ろよ見ろ、見ろ!)
 彼は、岩の独言《ひとりごと》を真似して、口中でいった。
 ロープの端っこは、素早く機関車の鉄格子《てつごうし》に結びつけられた。
「もっと速力を出さねえか、コノ愚図野郎め」
 岩は運転をしている子分の腰のところを蹴った。
「あッ痛テ。なにを親分……」
「き、貴様、おれに反抗する気かッ」
 と立ち上ろうとした岩は、その瞬間、ロープが足に結びついていることを忘れていたので、立ち上るが早いか、ロープに足を搦《から》まれ、あッという間に身体の中心を失った。
「うわーッ」
 と叫び声を残すと、岩の身体は、もんどりうって、車外へ飛び出した。
「ざまア見ろッ」
 と子分があざ笑う、その鼻先へニューッとピストルの銃口が……。
「あッ――て、てめえは……」
「小僧探偵の三吉だ。神妙《しんみょう》に、向うを向いてそのまま地底機関車を走らせるんだ。そしてあの現場へ急がせろッ」
 あの現場とは、三吉の当てずっぽだった。そういえば、うまいところへ連れてゆくだろう。外では「岩」が全速力の機関車にひきずられて、眼も口も泥まみれになって、虫の息だった。地底機関車は、マンマと三吉少年に占領されてしまった!


   地底の大鳴動


「間に合うか?」
 とピストルの銃口を向うにして三吉は声をかけた。
「さア、もうあと三十秒です」
「もっと速力を出すんだッ」
 轟々《ごうごう》たる音響をあげて、真暗な地中を地底機関車は急行した。
 もう二十秒、十秒、五秒……。
「地底機関車は壊れてもいい。もっと速力を出せッ」
「もう一ぱい出ています」
「そこを、もっと出せ!」
「ううッ。あッもう駄目だッ」
 ピカピカピカッと白い閃光《せんこう》が、雷《いなずま》のように目を射た。ガラガラガラッという天地が崩れるような大鳴動と共に、地底機関車はゴム毬のように跳《は》ね返《かえ》された。キッキッキッ。ドン、ガラガラガラ。すさまじい鳴動は続いた。すわ、なにごとが起ったのだろう?
     *
 その翌朝、東京中は大騒《おおさわぎ》でした。日本橋のあの十階建の東京百貨店が一夜のうちに見えなくなったのです。
 なにしろ、一夜明けると、城廓《じょうかく》のような大建築物が地上から完全に姿を消してしまったのだから、驚くのも無理はない。
 黒山のようにたかった人々は目を何遍《なんべん》もこすって胆《きも》をつぶした。
 百貨店ビルディング紛失事件!


   消えたビルディング


 そうこうしているうちに、百貨店の消えたその敷地の一点がムクムクと動き出した。
「オヤッ。何か出たぞオ」
 といっている群衆の目の前に、大砲弾の鼻さきのようなものが持ち上って来た。それは見る見る大きくなって、小山のような芋虫の化物みたいなものが現れた。
「うわッ、怪物だア……」
 それッというので、人々は我勝《われが》ちに逃げ出した。しかしやがて、怖《こわ》いもの見たさで、またソロソロと群衆は引きかえして来た。見ると、変な形をしたものの蓋が開いて、そこから可愛らしい少年の顔が覗《のぞ》いているではないか。
 そこへ矢のように駈けつけて来た一台の自動車。中から現れた一人のキリリとした紳士は、少年を見つけると、ツカツカと近づいた。
「三吉、大手柄だったね」
 これは三吉の地底機関車が東京百貨店跡から地上に顔を出したのであった。
「ああ、帆村先生!」
 それは、いままで外国にいたとばかり思っていた三吉の師、帆村荘六だった。
「岩はどうした」
「……」
 少年は黙って短いロープの端《はし》っこを見せた。そこは滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に引き裂かれていた。あの地底の大地震に、ロープが切断され「岩」は、とうとう地中に埋められ、地中魔変じて地中鬼と化したのであった。それは悪をたくらむ者の、行きつく道だった。


   吹上げられた地中突撃隊


「先生、これは一体どうしたというのでしょう」
 三吉は不審の顔を、師の方へ向けた。
「これかね」帆村はニッコリ笑った。「これは岩が、室町の日本銀行をそっくり地下へ陥没させて、金貨を奪おうとしたのが、つい間違って東京百貨店を地下へ陥没させちまったのだよ。彼奴は、地底機関車を使って、百貨店の下へ予《あらかじ》め大きな穴を掘っておいて、時計仕掛けの爆弾で、これを陥没させたんだよ」
 そういっているところへ、どこから出て来たか、大辻珍探偵が、大江山捜査課長はじめ地中突撃隊の一同と共にかけつけて来た。全身はビショビショだった。
「いやア、ひどい目に逢った。大地震があってネ、地中から吹き上げられたところが、日本橋の下のあの臭い溝泥《どぶどろ》の川の中サ」
 大辻老は、目の前に、百貨店が埋《うずま》り、その反動で自分たちが吹き上げられて助かったなどとは気がつかず、大地震とばかり思っているところは、どこまでも大辻式だった。
 とにかく、日本銀行は助かったが、陥没した東京百貨店をこれから掘りだすには、大変なことであろう。それはまたいずれ、地底機関車の御厄介にならねばならないだろう。



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「講談雑誌」
   1937(昭和12)年1月号〜10月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2002年12月22日作成
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