青空文庫アーカイブ

月夜のあとさき
津村信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蕈《きのこ》と

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)所謂|素人《アマチュア》で、
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「戸隠では、蕈《きのこ》と岩魚に手打蕎麦」私がこのように手帖に書きつけたのは、善光寺の町で知人からきかされたのによる。
 岩魚は戸隠山中でもそう容易には口に這入らない。岩魚釣を専門にしている、さる農家の老人をひとり知っているが、その他に所謂|素人《アマチュア》で、ひそかに釣に出るような人もある。
 一日歩いて骨折ってみても、まずこんなものですよと云って、石油の空缶をのぞかせて呉れたのは、山の写真屋の隠居であった。空缶のなかには膚の美しい岩魚が、僅か二疋だけ泳いでいるにすぎなかった。
 水の綺麗なところを選ぶこの川魚は、いささか神秘に属するものかもしれない。
 足の悪い老人は、今朝から牧場のあたりから川に沿ってきたのだと云って、額の汗をふいていた。
「土地の人はこうして水を飲むのですよ」と云って、笹の葉を一枚舟の形に折って、私にも美しく澄んだ水を飲ませてくれた。
 秋には坊の食膳にかならず蕈《きのこ》の類が上《のぼ》される。ふかい秋のもの哀しい風味がある。
 晩《おそ》夏の一日、私が奥社に詣でたとき、逆川のほとりの茶店に、新聞紙の上に一杯黄色い小さな蕈《きのこ》を干しているのを見た。傍にはグリムの物語にでも出てきそうな老婆がぼつねんと坐っていた。私が何と云う蕈《きのこ》かと尋ねると、これは楡《にれ》の木に生えるものですと答えた。少し分けてくださいと頼むと、気持よく承知してくれた。
 老婆がもう店を閉じるから、よかったら里まで御一緒に行きましょうかと云う。老婆の里と云うのは、戸隠中社のことである。
 私が待っているからお婆さん早く支度をしなさいと云うと、品のいい顔立のその老婆は、いささかあざけるようにして云った。
「わしは足が早いからすぐに追いつきやす、一足さきにおいでなして」
 老人《としより》のくせにと私は意外に思った。山路をものの十分と行かぬうちに、後の方で声がする。振り返って見ると、老婆は店の品物でも入れたらしい大きな風呂敷包を肩にして、飛ぶように歩いてくる。木曾地方で軽サンと云う袴、あの立つけ袴をはいて、思いなしか腰のあたりもすっくりのびたようである。
「随分早かったね」と云うと、「いいえ、年するとね」そう答えて一向に平気そうである。
 店の番をしながら、暇をみて蕈を採る、採った蕈は中社まで持って帰り、あちらこちらの坊の厨房《くりや》にわけてやるのだと云った。
 越後の海も一度見たいね、だがそれよりも孫が長野で教員をしているから、その方に行ってみたい、善光寺に行くには、余程朝早く立たないとね、そう云って話しかける。お婆さんのような丈夫な足なら、すぐ行かれるよと云うと、老婆はいかにも嬉しそうに相好を崩した。
 私の宿った坊では、月夜の晩にはきまって蕎麦を打った。
 蕎麦は更科と云うけれども、信州蕎麦のほんとに美味しいのはこの戸隠飯綱の原を中心とするあたりで、この地方に多い麻畑は刈りとってしまった後は、みんな蕎麦畑になるのである。
 山の月をみるためには、畳を敷いた坊の廊下に、薄や吾木香が供えられた。
 蕎麦を打つのは、家内総出であって、少年と雖ども心得ている。もっとも、少年少女の場合は、蕎麦打ちを手伝うひまに、こっそり蕎麦粉を盗んで、あたかも粘土細工のように牛や犬の動物を作ったり、鳥居をこさえたりするのが、楽しみなのである。蕎麦の玩具は戸隠の子供部屋の雛様である。
 坊の娘が片方の手に蕎麦を入れたザルを持ち、一方の手にお膳を持って、月のいい晩にやってきた。
「お蕎麦がおいやなら、こちらに御飯も御座います」
 蕎麦は色が黒いが、口触りがまことによい。山中の夜はそれを口にすると、何かひやりとした感触がある。
 娘はいつも着物を長目にきるので、歩くたびに、かすかな衣ずれがする。書院作りの広い間を二つ三つ通りすぎて行く足音は、まるで燭の火で足もとを見つめて行く、昔の人のそれのようである。
「お蕎麦を召上ったら、御庭に出て御覧なさい」と云う。「私共もこれからお月さまを拝みに参ります」
 山中の月の出は晩いときいたが、庭に出て見ると、いつのまにかうっすらした光が射していた。海抜幾千尺、庭の萩の花が咲き乱れていた。一つびとつの小さな花は秋の眸のように鮮やかであった。
 坊の娘は何処でお月さまをおがんでいるのか、一向に姿を見せなかった。



底本:「日本の名随筆19 秋」作品社
   1984(昭和59)年5月25日発行
底本の親本:「津村信夫全集 第二巻」角川書店
   1974(昭和49)年11月
入力:小鍛治茂子
校正:林幸雄
2003年5月17日作成
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