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錯覚自我説
辻潤

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雌伏《しふく》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)かれは大|劫初《ごうしょ》から

[#]:入力者注
(例)必要[#「必要」は底本では「心要」と誤記]
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 1

 現代においてはすべて形而上的な一切の思想は季節外れである。芸術(特に文学)においても幻想的な、主観的な、浪漫的なものはすでに過去の遺物ででもあるかの如く蔑視されている。
 時代の潮流と共に歩調し得ないあらゆる思想や芸術はほろび去るがいい!
 来るべき天国への鍵は新興プロレタリアートのみで把握しているのだ。自余のブルジョア的、小ブルジョア的、インテリゲンチャ的の一切は来るべき天国への資格を欠いている。かれ等はやがて小気味よくもほろびんとしている人種どもである。たとえかれ等が如何にもがきあがこうとも最早生命の道を無残にも断絶されている過去的亡者どもである。
 現実的、科学的、生産的なもののみが未来の栄光に与かり、溌剌たる健康な新世界に生きる資格を有しているのである。
 私は果して然るか否かについてここに論じようとする者ではない。否、それには全然関係のない一友人の最近の著述について少しく語ろうとしているのである。
 自我とはなんぞや? 自我とは人間の錯覚より起った一つの迷妄である。一切は相対的である。宇宙は歪んでいる。エーテルは果して存在しているか否か? マルクス的価値とアインシュタイン的価格とはいずれが高価なるや否や? 神聖にして犯すべからざる物は世界に果して幾個存在するか否か?――凡そこれ等の問題は極めて高遠に形而上的なる問題である。
 凡そ形而上的思索とは現実的な価値から遙かに距離した物品である。われ等はパンによってのみ生きる者である。思想は決して飯の菜にさえなり得ない程に空漠たるものである。「自我」の存在の有無の如きはわれ等の生活となんのかかわるところぞ。むしろ、市会議員の選挙に狂奔するこそ有意義である。
 錯覚自我説とはなにか?
 錯覚自我説とは人間の自我なる意識は万有者の持てる普遍意識で個体に現われた個体意識の錯覚だという説である。
 一切の存在は万有生命の惰性の表現である。宇宙は微分流動している。古谷栄一君の中に辻潤が存在し、辻潤は今これを書いている瞬間、かれの耳にしている蛙の音楽と交流している。かつてオランダの放浪哲学者はわれ等が太陽の子孫であることを説いてきかせた。人間の故郷は太陽であるという説である。かつてわれわれは太陽中に棲息していたことがあったともいえるのである。しかし、太陽は果して吾人の中に現に存在しているのである。
 人間の生活は本来は無目的な生命であった。非合目的な生命であった。なん等の方針方向なるもののない生命であった。
 人間の意志にはふた通りある。生命意志と実行意志とである。前者は生活力であり、生物意志であり、植物や鉱物さえこれを持っている。後者は実行力がある、意志は決しておのれが本来目的として欲しないものを目的としない。かれが目的を立てる時は必ずやすでにかれは大|劫初《ごうしょ》からそれを目的とせねばならぬ様に運命づけられている。かれの目的とはただかれに与えられた運命の追認的ホンヤクであり、自己欺瞞である。
 経験的には意志は価値によって導かれる。ゆえに価値は意志より原始的のものに見えるがそうでない。意志あってはじめて価値なるものは設定せられるのである。

 2

 価値は機制に付帯した副感情である。副現象である。複雑な主観がおのれの中にある惰性必然の機制を感ずると、それを遂ぐる事においてある快感を感ずる。この快感から誘われてある価値感を主観は感ずる。そうして何かある特殊な偉大な価値が実在するかのように錯覚を起す。ゆえに価値は意志同様にこの盲目必然の傀儡である。
 人生における一切の価値の真相はこれである。誠に一つの錯覚である。形而上的な原本的無価値の妄動に惰性が加わって出来た動向に主観的錯覚の加わった空想が価値である。
 人生が形而上的に巨大なる無意味だといい得る事はこの処から確証を得る。
 徹底的な形而上的虚無思想はここを通らねばならない。
 個体なるものはその如何なる個体でも本来が本当の個体ではないから本当の統一はない。一つの個体は無数の執意、無数の惰性の中心に過ぎない。ただその中の一つのものが偶然の事情で最も強い型式を獲得したので、他のものは亡びたのでなく、皆その下に雌伏《しふく》したのに過ぎぬ。それゆえ一朝事情が変ずれば勿ち雌伏したものは雄飛し、崛起《くっき》して第一のものを覆す。そうしてそれが調整する余地がなければその時に大抵個物は破壊される。個人は滅亡する。或は精神の破産となる。若し人間が真に永遠不滅な絶対統一的な強健な自我を持っているならこんなことはない筈である。が、自我はただ個人の存在の一追加物に過ぎない。個人が一時的事情によって自我的傾向を帯びたのである。
 個物、生物個体、これ等のものは本来一個とか二個とか一人とか二人とかいう数でかぞえられる存在ではない、数を超越した存在である。万有は一切が微分流動であるから海に立って水を数え、空に立って風を数えることの出来ぬように、形而上的には星を数え、魚を数えることが出来ない。ただ経験的に、方便的にある措定と仮定の上に立って数えるだけである。形而上的には一人の個人は一人でも二人でもなく、今や水の如く遍融無碍の流動在である。ただその流動が長い間の惰性によって一点を中心として緊縮せられたに過ぎぬ。死によらずんばこれ等何千万年の惰性を打砕して本然の微分流動に放化し、散却することが出来ぬ。が一度心眼を開いて黙想するならばこの縦鼻広目の活人そのままのかれを微分流動の中に放って数えることが出来る。要するに一の個人はただかれを中心として全宇宙の流動循環が浪打ち来るその一切の力の尖端における全宇宙の一表現、一仮現に過ぎない。それゆえ、個人はそのまま全宇宙である。
 私は今、徒らに古谷栄一氏のパアロットになっているのではない。私はすでに十余年前から仏教の実在観に降伏してしまっている人間なのである。そうして古谷君の旧著『オイケン哲学の批難』なる著書は、私の十年来の愛読書の一ツなのである。
 私は古谷栄一氏の著書に対して非常な興味をもっていたが、更にその人物に対して更にそれ以上の好奇心を抱いていた。しかし、氏の十余年以上の沈黙は私をしてしばしばかれの存在をさえ疑わしめたのであった。
 しかし、偶然は私をして遂に氏との親交を結ばしめた。氏は拮据《きっきょ》十余年かれの仕事に没頭して、千数百枚にのぼる『循環論証の哲理』と、約六百余枚にわたる『錯覚自我説』と更に驚くべき創作とを完成させていたことを知ったのである。
 私は形而上学の学徒でもなければ、マルクスの信奉者でもない。哲学史をすら通読したことさえない人間である。しかし、古谷君の『オイケン哲学の批難』なる書物は何ゆえか私を非常に魅惑せしめて数回反復熟読せしめた。かれは一面すばらしき詩人でもある。決して単なる形式論理的、講壇的、乾燥無味的哲学者ではない。
 新著『循環論証の新世界観と錯覚自我説』とは氏の哲学のエッセンスで、これだけ読めば十分にかれの思想を知ることが出来る。
 現代はまことに形而下的時代である。功利主義万能、唯物史観全盛時代である。この時にあたって、古谷氏の如き偉大なる形而上的ドン・キホーテが現出して、形而上的欲望のために万丈の光焔を吐くことは実に僕のひそかに愉快とするところである。
 形而上的思索の如きは無用の長物であるかも知れぬ。宇宙が三角であり、四角であり、自我が錯覚であると否とは生きる上になんの必要もないことかも知れぬ。しかし、必要と不必要とを問わず、人間は形而上的にも思索し得る生物であるのだ。
 西洋哲学の講釈や、東洋思想の解説者はなるほど腐る程いるかも知れない。しかし、真に独創的な思想を披瀝し、それを血肉的に体験して、日常生活の上にも、それを生かしている人間はまことに少ない。
 単なる思想は概念である。それが如何に唯物的であろうとも畢竟一つの概念である。飢えたる人間にとってはバイブルがなんの役にも立たない如く、マルクスの資本論も同様に役には立たないのである。

 3

 人間が生きる上において哲学や芸術が不必要だというような考えは、生きる上にタバコや酒が不必要だという説と少しもちがいはないのである。必要[#「必要」は底本では「心要」と誤記]、不必要を論じて極端に行けば人間が生きていることそのことが不必要であるとさえいえる。われわれはなんのために生きているのか、国家のためか、両親のためか、愛する女のためにか、無産階級解放のためか、芸術のためか、酒のためか、資本家のためか――生きる対象は無数に存在する。しかし、決して自分一人のわがままのためには生きてはならないのである。
 私は今、これを古谷栄一君のために書いているのである。氏の著作が一人でも多くの人々に読まれることを希望して書いているのである。私は一人の友達のために、友達を愛するがためにこれを書いているのである。
 しかし、果してそれが古谷氏のためになるかどうか私は確信は出来ないのである。偶々私の如き者がランタアンを持つためにかえって古谷氏の真価をその結果において傷つけることになるかも知れないのである。
 とに角、私がこれを書いたことは古谷式にいえば劫初から定められた一つの惰性である。古谷氏が書かせたものでも、私が書いたのでもない……DADAが書いたのだ。



底本:「辻潤著作集2 癡人の独語」オリオン出版社
   1970(昭和45)年1月30日初版発行
入力:et.vi.of nothing
校正:かとうかおり
1999年11月20日公開
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