青空文庫アーカイブ

佗しい放浪の旅
徳田秋聲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)菰囲《こもがこ》ひ

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(例)かんなわ[#「かんなわ」に傍点]
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 別府も私の行つた時分は、創始時代とでもいふのであつたらう。居るあひだに不老泉といふ階上階下の浴槽開きのお祝ひなどあつた事を覚えてゐるが、今は全然趣きが変つてゐるらしい。多分日露戦争以後どんどん開けたのだと思はれる。だから私が行つた時分葭簾張や菰囲《こもがこ》ひであつたやうな湯までが、今は立派な浴湯になつてゐるに違ひない。何しろ全市到る処湯の沸かないところはないくらゐで、普通の人家にも庭に浴槽があり、田圃道を歩いてゐると思はぬところに清澄な温泉が煙を立ててゐたりする。この町につづいた浜脇といふところには又砂風呂といふのがあつて、囲ひの枠に頭と足をもたせて、砂のなかに体を半分埋めてゐると、下から湯が噴き出して来る。広大なその種類の浴場が幾個もあつた。湯の豊富なことは恐らく世界一で、更に町を離れて大きな石塊の磊磊《ごろごろ》してゐる野を突切つて観音寺へ行つて見ると、そこは大友宗麟(?)の居城の跡とかで見晴らしのいい高台に温泉が湧いてをり、そこから奥へ入つて行つて、かんなわ[#「かんなわ」に傍点]の湯だとか明礬の湯だとか半里か一里ごとに色々な温泉が噴出してゐる。海法師海地獄などへも、私は観音寺で出来た連と一緒の乗物で見に行つたものだが、其の辺は一体に田圃や流れのなかからもぷすぷす硫黄くさい烟が立つてゐた。私はその後伊豆の温泉などへ行つたが、あれほど湯の豊富なところがないので、何となく物足りない気がしたほどである。それと同時に火のうへにゐるやうな日本といふ島国の不安さも貧寒さも思はれる訳で、日本が遅蒔きながら大陸進出を目論むのも無理からぬことではある。淫蕩な有閑階級や隠居の遊び場所である温泉の代りに、石油が無限に噴き出すとか宝石や金や鉄が到るところに採掘されるとかいふことだつたら、日本も亦相当恵まれた国土である訳だが、生産物が少しあるとしたところで、大衆までは行きわたらず、栄養価の乏しい米を頼りにして生きてゐるのは心細い。
 私は嫂の紹介で、嫂の叔母に当る人の家に落着いた訳だつたが、この叔母さんは嫂の弟で日米鉱油会社の当時の支配人であつた牧野氏に面影の似た人だつたが、何ういふ訳か土地の大親分の後妻となり、私の知つた時代は後家さんで、劇場を経営してをり、前妻の娘が三人あつて、夫々裕福に暮してゐた。劇場の脇にある住居の方には、鶴などが飼つてあつて、私は当がはれた日当のいい二階にゐて、肉胞《にきび》などを取つてゐると、つい近くに見える山の裾に、既に梅が咲いてゐて、鶯が啼いていたが、そこからの夏蜜柑の枝には、黄金色の大きい蜜柑が成つてゐた。多分二月の上旬だつたらうと思ふ。其の時分は浴客といつても、大分とか熊本とか山口とか近県の人達ばかりで、大阪は勿論、東京人などは一人もなかつたやうに思ふ。私は東京にも遊学したことのある同じ年頃の青年のゐる、丸嘉といふ土地で一番大きいお茶屋へも、叔母さんにつれられて行つたものだが、そこのお神さんは叔母さんの継娘の一番上で、その家にも可也ゆつくりした浴場が二つもあり、自分の部屋をもつて、そこに一世帯かまへてゐる女などもゐて、叔母はその女の部屋で、八々をやつたものだつた。ちよつと凄味のあるその年増女は芸者といふよりも女郎と言つた方が適当らしかつたが、吉原の花魁などとは気分がちがつて、どこか暢《のん》びりしてゐた。昼は湯に浸り、夜は芝居を見たりして遊んでゐるうちに、京都と大阪へ旅をしてゐた二番目の娘が帰つて来て、私は芝居小屋の傍よりも、環境の静かな其の人の家へ行くことになつた。さて芝居はちんこ芝居といつて、役者は皆な年の少い女なのだが、大分、熊本辺から来たものであらう。その少女俳優のファンが多勢、遠くから興行先きへついて来てゐるといふ騒ぎで、私は退屈凌ぎに宿がかはつてからも替り狂言が出ると、一幕二幕覗いてみたものだが、それが引きあげると、今度は男優の一座がやつて来た。この男優達は皆な近村の若い農夫で、閑を利用して芝居を打つてまはるのである。
 私が移つた家の女主人は、絹さんとかいつて、嫻やかな品の好い年増であつたが、主人といふのは唐津か大分の銀行家で、鐘紡などにも関係してゐるらしかつた。お絹さんは其の第二号なのだが、後に森川町の私の家を訪問したこともある。大阪の人達は、私の家へ来ると狭いのに喫驚したものらしいが、お絹さんも子供が多勢で、家が小さいのに驚いたに違ひなかつた。
 私の部屋は、菖蒲などの植はつた水に架つた土橋を渡つて、庭の奥の方に建られた茶室めいた小間だつたが、庭の飛石のあたりには、既に芍薬の莟が淡紅くなつてゐて、間もなく町ではネルを著てあるく人も見えた。お絹さんは何もすることがなく、婆やを一人つかつて、頭髪などいつも綺麗に取りあげ、渋いお召などを引張つてゐたものだが、小説が好きで、大和風爐――詰り長火鉢の傍でいつも弦斎ものを読んでゐた。それで、あんたも何か書くさうだから、読むのも巧いだらうといふので、私に読んでくれといふので、何うせ退屈なので、読んで聞かせると、読み方が実に巧いといふので、夫から夫からと聴き飽きない。多分「小猫」だつたかとおもふ。するうち或る日古い文芸倶楽部か新小説かのなかに、ふと私の名が発見されてから、二人で大笑ひしたものだつたが、このお絹さんの処へ遊びに来るお婆さんに、昔は、京の芸妓であつた女の成の果が一人あつて、維新時代の京の騒動を体験してゐたので、よく其の話をして聴かした。私は格別そんな事に興味をもたなかつたが、そのお婆さんの身のうへには興味があつたので、よく聴かうと思ひながら聴きもしなかつた。そんなやうな事は、その後も屡々あつたが、さて自分の環境以外のことは、少しくらゐ話の筋を掴んだところで、容易に書けるものではないのである。ただいろんなことを記憶しておくと、何か書く場合に、それを取入れて、いくらかヴヰヴヰッドに描けるといふ程度である。
 するうち私はひどい熱病にかかつて、山の方にある病院へ診てもらひに行つた。多少は快くなつた筈の胃のアトニイは相変らずで、食べものが不自由なので、後戻りした形だつたが、気管支もひどく悪くなつてゐた。私の肺気腫は淵源が頗る遠いので、曽て博文館時代にも、熱病を放抛つておいて、到頭ひどいことになつたのだが、別府でもそれに罹つた訳である。それに二月も東京を離れて、遊惰な日を送つてゐたので、何となく不安と焦燥を感じて来た。ちやうど佐々醒雪氏(後に博士)から手紙が来て、金港堂で、文芸界(?)が創刊され、初号の巻頭に小杉天外氏が書くことになつてゐて、二号の分を私に書くやうにと言つて来たのが、大阪から附箋になつて廻つて来た。遊惰は遊惰でも、私はさうして温泉に浸つてゐるあひだも、いつも暗い気持で、果して小説を作る才能が自分にあるか否かが疑はれ、前途に不安を感じてはゐたので、佐々氏の手紙に接すると、遽に文壇のことが気にかかり出して、何か緊張した気持になるのであつた。それに京都の日の出新聞にゐる中山白峰氏からも手紙が来て、消息もたえてしまつた私のことを、先生が怒つてゐるらしかつた。私は咽喉が少し快くなりかかつて来たところで、或る日遽かに人々に別を告げて、船に乗つた。そして乗つた瞬間から、私の熱病はけろりと癒つてしまつた。船の酔ひが一歩上陸した瞬間に癒ると同じなのである。
 その後私は時々別府を思ひ出すのだが、別府へ行けば福岡や博多、長崎などへも寄りたいし、中国や四国も見たくなるから、大阪や京都へ行くことがあつても、何時も別府まで延さうといふ機会もなくて過ぎてしまつたのである。私は帰りにちよつと京都を瞥見した。京都には自由党の支部に長岡以来の渋谷黙庵氏がゐたが、帰りに立寄るやうに言つてよこしたので、白峰氏の家に一両日足を止めることにした。それが何の辺であつたのか、頓と見当もつきかねるが、塾にゐる時分、僅か四銭か三銭五厘かのパイレイト一つ買ふのに三四人で出しつこをして、時によると一本の紙巻を半分に切つて、分配したほどの貧乏であつたのに、京都における彼は相当広い部屋が三つもある二階の書斎に頑張つて、母堂と夫人と三人家族に落着いてゐたのである。佗しい放浪の旅をつづけてゐる私には、白峰氏の気取つた家庭振が、何か可笑しいやうでもあつたが、自分の姿が寂しいやうな感じでもあつた。渋谷氏は二度も私を迎ひに来たが、或る日其の頃政友会の幹部であつた尾崎行雄氏が醍醐寺を訪問するといふので、案内役の渋谷氏が私をも誘つたので其の一行に加はり、所謂醍醐の花見で有名な其の寺を訪れ、宝物を見せてもらつたが、本当の案内役は島文博士であつた。花見の折の諸大名の短冊の綴込みを見たことだけは、今でも覚えてゐるが古画のうちには国宝もあつたやうである。私はそこで精進料理を御馳走になつたが、美術など鑑賞してゐる余裕は、勿論私にはなかつた。母堂や白峰氏の案内で、四条や三条、御所や嵐山、清水、金閣寺、祇園の都踊りなども見たが、京都で遊ぶには私の気分はすこしあわただし過ぎたし、懐中も寂しすぎたのである。私が先生へのお土産に鯉の丸揚げ(つまり支那料理の紅焼鯉に似たもの)をもつて東京へついたのは、下宿の窓は若楓の葉がそよいでゐる晩春のことであつたが、京都を立つとき、駅で其のたれ[#「たれ」に傍点]の入つた壜を落して壊してしまつたので、遺憾ながら鯉だけ届けたのも滑稽であつた。
 下宿のお神が、別府の或る旅館の娘であることも、この旅行から帰つて来て初めて分つたのだつたが、ちよつと大阪へ行つて来ると言つて年の暮に出たきりだつたので、荷物もいつか物置きに仕舞ひこまれてあつた。
 この三ヶ月余りの旅が、私に何を教へたかといへば、それは矢張りもつと真面目に文学へ入つて行くより外に生きる道のないといふ事より外何の得る所もなかつた。それには私が別にさう明白に意識してゐた訳ではなかつたけれど、一年ばかりの放蕩生活――といつても月に三度か五度花街に足を踏み入れたに過ぎないのだつたが、下宿生活の佗びしさに、呑めない酒を呑んだりして、悉皆胃腸を悪くしたので、何となく生きるのが慵く、ふらふらと旅に出てしまつたのであつたが、同時に其の放蕩生活にも興味を失つてしまつて、ああいふ場所へ立入つたり、殺風景な段梯子を上つたりするのが、不愉快で堪らなくなつて来たので、先年の兄の下宿したお寺で知つてゐた少女のことなどが、何となく思ひ出せたといふことも、偽りのない其の時の気持であつたに違ひない。学才があり、男性的な気象の持主であるその女性は、私が塾にゐる時分ふらりと訪ねて来たことがあつたが、場所が場所だつたし、其の頃の私達は女は買ふものと決めてゐたので、何か仄かな心持はあつても、別にこれといふ話もなくて別れてしまつたのだが、大阪へ行くと、兄が昔のことを知つてゐて、私を同行して其のお寺を訪ねて見たが、其の娘さんは、ちやうど私と行違ひに、或る工学士に片著いて、東京へ立つたばかりのところであつた。別に失望するといふ程のことでもなかつたし、其の女性は家内のまだ生きてゐる時分一度ふらりと訪ねて来て「私はほんたうに幸福に暮してゐます」と告げた。後に今一度家内の生前、私が昔大阪で世話になつた母堂と、結婚期の自分の娘とをつれてやつて来たが、私が「あんたは随分かはつた」といふと、反撥的に「御自分だつてお爺さんになつてゐる癖に」と遺返すといつた風の人であつた。家内が死んでから、J子事件の幕間にも、一度やつて来て、家政のことについて、忠告を与へてくれたが、母堂の訃音に接して、無精にも私からお弔み一つ出さなかつたので――それも其の頃近いうち下阪する積りだつたので、其の時訪ねるつもりで、つい其れきりになつてしまつたのだつたが、兎に角それでふつつり交渉が絶えてしまつた。
 しかし私は文壇的に地位もできてゐなかつたし、自信もなかつたので、現実的には結婚といふことは考へられなかつた。それが自然発生的に結婚生活へと引込まれた事情は「黴」に書いたとほりである。



底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2004年2月19日作成
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