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爛
徳田秋声
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(例)下谷《したや》
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(例)大分|自暴気味《やけぎみ》
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(例)※[#「鑞」の「金」に変えて「魚」、第4水準2-93-92]
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一
最初におかれた下谷《したや》の家から、お増《ます》が麹町《こうじまち》の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。
自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月《みつき》を過した。
そこは賑《にぎ》やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい平家《ひらや》で、ついその向う前には男の知合いの家があった。
出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。遊里《さと》の風がしみていたから、口の利き方や、起居《たちい》などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、風鈴《ふうりん》や何かと一緒に、上から隣の老爺《おやじ》の禿頭《はげあたま》のよく見える黒板塀《くろいたべい》で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
その当座昼間など、その家の茶の間の火鉢《ひばち》の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに雑巾《ぞうきん》がけをしたり、火鉢を磨《みが》いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の状《さま》が、目に浮んで来た。男は折り鞄《かばん》などを提げて、昼間でも会社の帰りなどに、ちょいちょいやって来た。日が暮れてから、家から出て来ることもあった。男は女房持ちであった。
お増は髪を丸髷《まるまげ》などに結って、台所で酒の支度をした。二人で広小路で買って来た餉台《ちゃぶだい》のうえには、男の好きな※[#「鑞」の「金」に変えて「魚」、第4水準2-93-92]《からすみ》や、鯛煎餅《たいせんべい》の炙《あぶ》ったのなどがならべられた。近所から取った、鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》を二人で食べたりなどした。
いつも肩のあたりの色の褪《さ》めた背広などを着込んで、通って来たころから見ると、男はよほど金廻りがよくなっていた。米琉《よねりゅう》の絣《かすり》の対《つい》の袷《あわせ》に模様のある角帯などをしめ、金縁眼鏡をかけている男のきりりとした様子には、そのころの書生らしい面影もなかった。
酒の切揚げなどの速い男は、来てもでれでれしているようなことはめったになかった。会社の仕事や、金儲《かねもう》けのことが、始終頭にあった。そして床を離れると、じきに時計を見ながらそこを出た。閉めきった入口の板戸が急いで開けられた。
男が帰ってしまうと、お増の心はまた旧《もと》の寂しさに反《かえ》った。女房持ちの男のところへ来たことが、悔いられた。
「お神さんがないなんて、私を瞞《だま》しておいて、あなたもひどいじゃないの。」
来てから間もなく、向うの家のお婆さんからそのことを洩《も》れ聞いたときに、お増はムキになって男を責めた。
「誰がそんなことを言った。」
男は媚《こ》びのある優しい目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》ったが、驚きもしなかった。
「嘘《うそ》だよ。」
「みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が訪《たず》ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。」
「へへ。」と、男は笑った。
「その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありませんか。」
「くだらないこといってら。」
「私はうまく瞞されたんだよ。」
男は床の上に起き上って、襯衣《シャツ》を着ていた。お増は側《そば》に立て膝《ひざ》をしながら、巻莨《まきたばこ》をふかしていた。睫毛《まつげ》の長い、疲れたような目が、充血していた。露出《むきだ》しの男の膝を抓《つね》ったり、莨の火をおっつけたりなどした。男はびっくりして跳《は》ねあがった。
二
しかし男も、とぼけてばかりいるわけには行かなかった。三、四年前に一緒になったその細君が、自分より二つも年上であること、書生のおりそこに世話になっていた時分から、長いあいだ自分を助けてくれたことなどを話して聞かした。そのころその女は少しばかりの金をもって、母親と一緒に暮していた。
「それ御覧なさい。世間体があるから当分別にいるなんて、私を瞞しておいて。」
二人は長火鉢の側へ来て、茶を飲んでいた。餉台《ちゃぶだい》におかれたランプの灯影《ひかげ》に、薄い下唇《したくちびる》を噛《か》んで、考え深い目を見据《みす》えている女の、輪廓《りんかく》の正しい顔が蒼白く見られた。
「けどその片《かた》はじきにつくんだ。それにあの女には、喘息《ぜんそく》という持病もあるし、とても一生暮すてわけに行きゃしない。」
男は筒に煙管《きせる》を収《しま》いこみながら、呟《つぶや》いた。
「喘息ですって。喘息って何なの。」
「咽喉《のど》がぜいぜいいう病気さ。」
「ううん、そんなお客があったよ。あれか。」
お増は想い出したように笑い出した。
「お酒飲んだり、不養生すると起るんだって、あれでしょう。厭だね。あなたはそんなお神さんと一緒にいるの。」
お増は顔を顰《しか》めて、男の顔を見た。男はにやにや笑っていた。
「でも、そんなに世話になった人を、そうは行きませんよ。そんな薄情な真似が出来るもんですか。」
「なに、要するに金の問題さ。」
「いいえ、金じゃ出て行きませんよ。それに、そんな人は他《ほか》へ片着くてわけに行かないでしょう。」
お増は考え深い目色をした。しかし深く男を追窮することも出来なかった。
「あなたの神さんを、私一度見たいわね。」
お増は男の心でも引いて見るように言った。
「つまらない。」
男は鼻で笑った。
「それに、こんなことが知れると、出すにしても都合がわるい。」
「やはりあなたはお神さんがこわいんだよ。」
「こわいこわくないよりうるさい。」
「じゃ、あなたのお神さんはきっと嫉妬家《やきもちやき》なんだよ。」
「お前はどうだい。」
「ううん、私はやきゃしない。こうやっているうちに、東京見物でもさしてもらって、田舎《いなか》へ帰って行ったっていいんだわ。」
お増はそう言って笑っていたが、商売をしていた時分の傷のついたことを感ぜずにはいられなかった。
近所が寝静まるころになると、お増はそこに独《ひと》りいることが頼りなかった。床に入ってからも、容易に寝つかれないような晩が多かった。夜の世界にばかり目覚めていたお増の頭には、多勢の朋輩《ほうばい》やお婆さんたちの顔や声が、まだ底にこびりついているようであった。抱擁すべき何物もない一晩の臥床《ねどこ》は、長いあいだの勤めよりも懈《だる》く苦しかった。太鼓や三味《しゃみ》の音も想い出された。
男の傍《そば》にいる神さんの顔や、部屋の状《さま》が目に見えたりした。
三
「お増さん、花をひくからお出でなさい。」
お増が大抵一日入り浸っている向うの家では、お千代婆さんが寂しくなると、入口の方から、そういって声かけた。
その家では、男の子供の時分の友達であった長男が、遠国の鉱山に勤めていた。小金を持っているお千代婆さんは、今一人の少《わか》い方の子息《むすこ》の教育を監督しながら女中一人をおいて、これという仕事もなしに、気楽に暮していた。
お増はここへ来てから、台所や買物のことでなにかとお千代婆さんの世話になっていた。髪結の世話をしてもらったり、湯屋へつれていってもらったり、寄席《よせ》へ引っ張られて行ったりなどした。
「何にも知らないものですから、ちと何かを教えてやってください。」
お増を連れ込んで来た時に、男はそう言ってお千代婆さんに頼んだ。
「浅井さん、あなたそんなことなすっていいんですか。知れたらどうするんです。私までがあなたの奥さんに怨《うら》まれますよ。」
お千代婆さんは少し強《きつ》いような調子で言った。婆さんは早く良人《おっと》に訣《わか》れてから、長いあいだ子供の世話をして、独りで暮して来た。浅井などに対すると、妙に硬苦《かたくる》しい調子になるようなことがあった。女の話などをすると、いらいらしい色が目に現われることさえあった。
宵《よい》っ張《ぱ》りの婆さんは寂しそうな顔をして、長火鉢の側で何よりも好きな花札を弄《いじ》っていた。
「差《さ》しで一年どうですね。」などと、お婆さんはお増の顔を見ると、筋肉の硬張《こわば》ったような顔をして言った。
「私それとなく神さんのことについて、今少し旦那《だんな》の脂《あぶら》を取ってやったところなのよ。」
お増は坐ると、いきなり言い出した。
「それで浅井さんはどう言っていなさるのです。」
「出すというんですよ。」
「どうかな、それは。書生時分から、あの人のために大変に苦労した女ですよ。それに今じゃとにかく籍も入って、正当の妻ですからの。」
「でも喘息が厭《いや》だから、出すんですって。」
「そんなことせん方がいいがな。あなたもそれまでにして入《はい》り込んだところで、寝覚めがよくはないがな。」
「私はどうでもいいの。あの人がおきたいなら置くがよし、出したいなら出すがいいんだ。」
お増は捨て鉢のような言い方をして、節の伸びた痩《や》せた手に、花の親見をした。
「あれあんたが親だ。」
お千代婆さんは、札をすっかりお増に渡した。
「奢《おご》りっこですよ、小母さん。」お増は器用な手様《てつき》で札を撒《ま》いたり頒《わ》けたりした。興奮したような目が、ちらちらしたり、頭脳《あたま》がむしゃくしゃしたりして、気乗りがしなかった。婆さんにまで莫迦《ばか》にされているようなのが、不快であった。
「何だい、またやっているのかい。」
音を聞きつけて、二階から中学出の子息《むすこ》が降りて来た。そして母親の横へ坐って、加勢の目を見張っていた。
お増はむやみと起《おき》が利《き》いた。
「駄目だい阿母《おっか》さん、そんなぼんやりした引き方していちゃ。」
お増は黙って附き合っていたが、じきに切り揚げて帰った。そして家へ帰ると、わけもなく独りで泣いていた。
四
とろとろと微睡《まどろ》むかと思うと、お増はふと姦《かしま》しい隣の婆さんの声に脅《おびや》かされて目がさめた。お増は疲れた頭脳《あたま》に、始終何かとりとめのない夢ばかり見ていた。その夢のなかには、片々《きれぎれ》のいろいろのものが、混交《ごっちゃ》に織り込まれてあった。どうしたのか、二、三日顔を見せない浅井の、自分のところへ通って来たころの洋服姿が見えたり、ほかの女と一緒に居並んでいる店頭《みせさき》の薄暗いなかを、馴染《なじ》みであった日本橋の方の帽子問屋の番頭が、知らん顔をして通って行ったりした。お増はそれを呼び返そうとしたけれど、誰かの大きな手で胸を圧《おさ》えつけられているようで、声が出なかった。
廊下で喧嘩《けんか》をしている、尖《とん》がった新造《しんぞ》の声かと思って、目がさめると、それが隣りの婆さんであった。そこへ後添いに来たとか聞いている婆さんは、例の禿頭の爺さんを口汚くやり込めているのであった。
「おやまたやっているよ。」
お増はそう思いながら、やっと自分が自分の匿《かく》されている家に、蚊帳《かや》のなかで独り寝ているのだということが頭脳《あたま》にはっきりして来た。見ると部屋にはしらしらした朝日影がさし込んでいた。外は今日も暑い日が照りはじめているらしい。路次のなかの水道際《すいどうぎわ》に、ばちゃばちゃという水の音がしてバケツの鉉《つる》の響きが燥《はしゃ》いで聞えた。
婆さんは座敷の方へ来たり、台所の方へ来たりしながら喚《わめ》いていると見えて、その声が遠くなったり、近くなったりした。爺さんも合間合間に何か言っていた。爺さんと婆さんとが夜中などに喧嘩していることは、これまでにもたびたびあった。その意味はお増にも解った。蒼《あお》い顔をしている、しんねりむっつりした爺さんのところでは、よく神さんが逃げて行った。
「あの爺さんは吝《けち》だから、誰もいつきはしませんよ。」
お千代婆さんはそう言っていたが、そればかりではないらしかった。
「いいえ、あの爺さんは、きっと夜がうるさいんですよ。」
お増はお千代婆さんに話したが、お千代婆さんは妙な顔をしているきりであった。
よく眠れなかったお増は、頭脳《あたま》がどろんと澱《よど》んだように重かった。そして床のなかで、莨《たばこ》をふかしていると、隣の時計が六時を打った。お増は、朝寝をするたびに、お千代婆さんに厭味を言われたりなどすると、自分で、このごろめっきり、まめであった昔の少《わか》い時分の気分に返ることが出来てきたので、これまでのような自堕落《じだらく》な日を送ろうとは思っていなかった。小遣いの使い方なども、締っていた。
「あなたの収入はこの節いくらあるんですよ。」
お増は浅井に時々そんなことを訊《たず》ねた。
浅井の収入は毎月決まっていなかった。
「家の生活《くらし》は、いくら費《かか》るんですよ。」
お増は、それも気になった。
「さあ、そいつも決まっていないね。しかし生活《くらし》には何ほどもかかりゃしない。ただ彼奴《あいつ》は時々酒を飲む。それから余所《よそ》へ出て花をひく。それが彼《あれ》の道楽でね。」
「たまりゃしないわ、それじゃ。あなたのお神さんは、きっと何かにだらしがないんですよ。」
浅井も、それには厭気がさしていた。
「私なら、きっときちんとして見せますがね。」
お増は自信あるらしく言った。そしてしばしば生活の入費の計算などをして見るのであった。それがお増には何より興味があった。
「おや、人の家の生活費《くらし》の算盤《そろばん》をするなんて自分のものにもなりゃしないのに。莫迦莫迦《ばかばか》しい、よそうよそう。」
お増は、そう言ってつまらなさそうに笑い出した。
五
ここへ落ち着いてから、一度ちょっと訪ねたことのある友達の顔が、またなつかしく憶《おも》い出された。お雪というその友達は、お増と前後して同じ家にいた女であった。一度人の妾《めかけ》になって、子まで産んだことのあるお雪は、お増よりも大分年上であった。お増は気振りなどのさっぱりしたその女と誰よりも親しくしていた。
女の亭主は、もとかなり名の聞えた新俳優であった。ずっと以前に政治運動をしたことなどもあった。お増は、口元の苦味走った、目の切れの長いその男をよく知っていた。
「また青柳《あおやぎ》がやって来たよ。」
お雪と喧嘩などをして、切れたかと思うと、それからそれへと渡り歩いていた旅から帰って来て、情婦《おんな》の部屋へ坐り込んでいるその男の噂《うわさ》が、お増の部屋へ、一番早く伝わった。
旅稼《たびかせ》ぎから帰って来た青柳は、放浪者のように窶《やつ》れて、すってんてんになってお雪のところへ転げこんで来るのであったが、お雪は切れた切れたと言いながら、やはり男の帰って来るのを待っていた。その家でも、一番よく売れたお雪は、娘を喰いものにしている一人の母親のお蔭で、そのころ大分|自暴気味《やけぎみ》になっていた。大きなもので酒を呷《あお》ったり、気の向かない時には、小っぴどく客を振り飛ばしなどした。二人とも、今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛《ただ》れていた。傍で見ているお増などの目に凄《すご》いようなことが、時々あった。
そこを出るとき、お雪の身に着くものと言っては、何にもなかった。箪笥《たんす》がまるで空《から》になっていた。以前ついていた種のいい客が、一人も寄りつかなくなっていた。お雪は着のみ着のままで、男のところへ走ったのであった。
浅草のある劇場の裏手の方の、その家を初めて尋ねて行った時、青柳の何をして暮しているかが、お増にはちょっと解らなかった。
「良人《うち》はこのごろ妙なことをしているんだよ。」
お雪はお増を長火鉢の向うへ坐らせると、いきなり話しだした。見違えるほど血色に曇《うる》みが出来て、髪なども櫛巻《くしま》きのままであった。丈《たけ》の高い体には、襟《えり》のかかった唐桟柄《とうざんがら》の双子《ふたこ》の袷《あわせ》を着ていた。お雪はもう三十に手の届く中年増《ちゅうどしま》であった。
「へえ、何しているの。」
などとお増は、そこへ土産物《みやげもの》の最中《もなか》の袋を出しながら、訊ねた。そこからは、芝居の木の音や、鳴物《なりもの》の音がよく聞えた。
「何だか当ててごらんなさい。」
「相場?」
「そんな気の利いたものじゃないんだよ。」
お雪は莨を吸いつけて、お増に渡した。
「会社?」
「あの男に、堅気の勤務《つとめ》などが出来るものですか。」
お雪はそう言いながら、煤《すす》ぼけた押入れの中から何やら、細長い箱に入ったものや、黄色い切《きれ》に包んだ、汚らしい香炉《こうろ》のようなものを取り出して来た。
「お前さんの旦那は工面がいいんだから、この軸を買ってもらっておくんなさいよ。何だか古いもので、いいんだとさ。」
燻《ふす》ぐれた軸には、岩塊《いわころ》に竹などが描かれてあった。
六
日中の暑い盛りに、お増はまたそこへ訪ねて行った。
お増は昨夜《ゆうべ》の睡眠不足で、体に堪えがたい気懈《けだる》さを覚えたが、頭脳《あたま》は昨夜と同じ興奮状態が続いていた。薄暗い路次の中から広い通りへ出ると、充血した目に、強い日光が痛いほど沁み込んで、眩暈《めまい》がしそうであった。お増は途中でやとった腕車《くるま》の幌《ほろ》のなかで、やはり男の心持などを考え続けていた。
お雪の家では、夫婦とも昼寝をしていた。青柳は縁の爛れたような目に、色眼鏡をかけて、筒袖の浴衣《ゆかた》に絞りの兵児帯《へこおび》などを締め、長い脛《すね》を立てて、仰向けになっていた。少し離れて、お雪も朱塗りの枕をして、団扇《うちわ》を顔に当てながらぐったり死んだようになっていた。部屋のなかには涼しい風が通って近所は森《しん》としていた。鉄板《ブリキ》を叩《たた》く響きや、裏町らしい子供の泣き声などが時々どこからか聞えて来た。
「よく寝ていること。随分気楽だね。」
お増は上へあがったが、坐りもせずに醜い二人の寝姿をしばらく眺めていた。
「いくら男がいいたって、私ならこんな人と一緒になぞなりゃしない。先へ寄ってどうするつもりだろう。」
お増はそんなことを考えながら、火鉢の側へ寄って、莨を喫《ふか》していた。
「おや、お増さん来たの。」
お雪はそう言って、じきに目をさました。
「大変なところを見られてしまった。いつ来たのさ。」
お雪は襟を掻き合わせたり、髪を撫《な》であげたりしながら、火鉢の前へ来て坐った。
お増はへへと笑っていた。
「この暑いのに、よく出て来たわね。」
「何だかつまらなくてしようがないから、遊びに来たのよ。」
「へえ、お前さんでもそんなことがあるの。」
お雪は火鉢の火を掻き起しながら、「あなたやあなたや。」と青柳を呼び起した。青柳はちょっと身動きをしたが、寝返りをうつと、またそのまま寝入ってしまった。
お雪が近所で誂《あつら》えた氷を食べながら、二人で無駄口を利いていると、じきに三時過ぎになった。かんかん日の当っていた後の家の亜鉛屋根《トタンやね》に、蔭が出来て、今まで昼寝をしていた近所が、にわかに目覚める気勢《けはい》がした。
お増は浅井の身のうえなどを話しだしたが、お雪は身にしみて聞いてもいなかった。
「へえ、あの人お神さんがあるの。でもいいやね。そんな人の方が、伎倆《はたらき》があるんだよ。」
「いくら伎倆があっても、私気の多い人は厭だね。車挽《くるまひ》きでもいいから、やっぱり独りの人がいいとつくづくそう思ったわ。」
青柳が不意に目をさました。
「よく寝る人だこと。」
お雪はその方を見ながら、惘《あき》れたように笑った。青柳は太いしなやかな手で、胸や腋《わき》のあたりを撫で廻しながら、起き上った。そして不思議そうに、じろじろとお増の顔を眺めた。
「どうもしばらく。」お増はあらたまった挨拶をした。
青柳はきまりの悪そうな顔をして、お叩頭《じぎ》をした。
「ごらんの通りの廃屋《あばやら》で、……私もすっかり零落《おちぶ》れてしまいましたよ。」
「でも結構なお商売ですよ。」
「は、この方はね、好きの道だものですから、まあぽつぽつやっているんですよ。そのうちまた此奴《こいつ》の体を売るようなことになりゃしないかと思っていますがね。」
「もう駄目ですよ。」お雪は笑った。
間もなく青柳は手拭をさげて湯に行った。
七
「あの人随分変ったわね。頭顱《あたま》の地が透けて見えるようになったわ。」
お増は笑いながら、青柳の噂をした。
「ああすっかり相が変ってしまったよ。更《ふ》けて困る困ると言っちゃ、自分でも気にしているの。それに私もっと、あの社会で幅が利くんだと思っていたら、からきし駄目なのよ。以前世話したものが、皆な寄りつかなくなっちゃったくらいだもの。」
「でも何でも出来るから、いいじゃないの。」
「いいえ、どれもこれも生噛《なまかじ》りだから駄目なのよ。でも、こんな商業《しょうばい》をしていれば、いろいろな家へ出入りが出来るから、そこで仕事にありつこうとでもいうんでしょう。それもどうせいいことはしやしないのさ。」
お雪は苦笑していた。
「それから見れば、お増さんなぞは僥倖《しあわせ》だよ。せいぜい辛抱おしなさいよ。」
お雪は、今外交官をしている某《なにがし》の、まだ書生でいる時分に、初めて妾に行ったときのことなどを話しだした。そして当然そこの夫人に直される運命を持っていたお雪は、田舎でもかなりな家柄の人の娘であった。二人の間には、愛らしい女の子まで出来ていたのであった。
「どうしてそこへ行かないの。」
「もう駄目さ。寄せつけもしやしない。その時分ですら、話がつかなかったくらいだもの。」
お雪はそのころのことを憶い出すように、目を輝かした。その時分お雪はまだ二十歳《はたち》を少し出たばかりであった。色の真白い背のすらりとした貴婦人風の、品格の高い自分の姿が、なつかしく目に浮んで来た。
「それがこうなのさ。黒田……その男は黒田というのよ。狆《ちん》のくさめをしたような顔をしているけれど、それが豪《えら》いんだとさ。今じゃ公使をしていて、東京にはいないのよ。そこへその時分、始終遊びに来て、碁をうったりお酒を飲んだりしていた男があったの。いい男なのよ。それが黒田の留守に、私をつかまえちゃ、始終厭らしいことばかり言うの。つまり私がその男を怒らしてしまったもんだから――そういう奴だから、逆様《あべこべ》に私のことを、黒田に悪口したのさ。やれ国であの女を買ったと言うものがあるとか、やれ男があったとか、貞操が疑わしいとか、何とか言ってさ。黒田はそれでも私に惚《ほ》れていたから、正妻に直す気は十分あったんだけれど、何分にも阿父《おとっ》さんが承知しないでしょう。そこへ持って来て、私の母があの酒飲みの道楽ものでしょう。私を喰い物にしようしようとしているんだから、たまりゃしない。黒田だって厭気がさしたでしょうよ。」
「あなた子供に逢いたくはないの。」
「逢いたくたって、今じゃとても逢わせやしませんよ。それでもその当座、託《あず》けてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあの楼《うち》へつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出しゃしなかったの。」
「つまらないじゃありませんか。」
「しかたがない。私にそれだけの運がないんだから。」
「ちっとお金の無心でもしたらいいじゃないの。」
「どうして、奥さんが大変な剛毅《しっかり》ものだとさ。」
八
「随分|諦《あきら》めがいいわねえ。」
お増は、自分にもそれと同じような記憶が、新たに胸に喚《よ》び起された。まだ東京へ出ない前に、しばらくいたことのある田舎の町のお茶屋の若旦那と自分との間の関係などが思い浮べられた。その時分のお増はまだ若かった。写真などに残っている、そのころのお増の張りのある目や、むっつり肉をもった頬や口元には、美しい血が漲《みなぎ》っていた。
コートなどを着込んで、襟捲きで鼻のあたりまでつつんだ、きりりとした顔や、小柄な体には、何でもやり通すという意気と負けじ魂があった。
お増の田舎では、縹緻《きりょう》のよい女は、ほとんど誰でもすることになっている茶屋奉公に、お増もやられた。百姓家に育ったお増は、それまで子守児《こもりこ》などをして、苦労の多い日を暮して来た。
やっと中学を出たばかりの、そのお茶屋の若旦那は、時々よその貸し座敷などから、そっと口をかけた。浪の音などの聞える船着きの町の遊郭には、入口の薄暗い土間に水浅黄色の暖簾《のれん》のかかった、古びた大きい妓楼《ぎろう》が、幾十軒となく立ちならんでいた。上方風の小意気な鮨屋《すしや》があったり、柘榴口《ざくろぐち》のある綺麗な湯屋があったりした。廓《くるわ》の真中に植わった柳に芽が吹き出す雪解けの時分から、黝《くろ》い板廂《いたびさし》に霙《みぞれ》などのびしょびしょ降る十一月のころまでを、お増はその家で過した。町に風評《うわさ》が立って、そこにいられなくなったお増は、東京へ移ってからも、男のことを忘れずにいた。そこのお神に据わる時のある自分をも、長いあいだ心に描いていた。男からも、時々手紙が来た。
「この人が死んじゃったんじゃしようがない。」
三年ほど前に、男の亡《な》くなったことが、お増の耳へ伝わった時、それがにわかに空頼《そらだの》めとなったのに、力を落した。お増はまた、通って来る客のなかから、男を択《えら》ばなければならなかったが、その男は容易に見つからなかった。長いあいだには、いろいろの男がそこへ通って来た。こっちでよいと思う男は、先で思っていなかったり、親切にされる男は、こっちで虫が好かなかったりなどした。年が合わなかったり、商売が気に入らなかったりした。双方いいのは親係りであった。主人持ちであった。
するうちに、お増はだんだん年を取って来た。出る間際のお増の心には、堅い一人の若いお店《たな》ものと浅井と、この二人が残ったきりであった。
男のために、始終裸になっていたお雪と自分とを、お増は心のなかで比べていた。
「だらしがないじゃないの。いつまで面白いことが続くもんじゃないよ。」
お増は一緒にいる時分から、時々お雪にそう言ってやったことがあった。けれどお雪自身は、それをどうすることも出来なかった。一つは、一時|新造《しんぞ》に住み込んでまで、くっついていた母親が、お雪に自分のことばかりを考えさせておかなかったのではあったが、黒田の世話になっていた時分からの、お雪自身の体にも、そうした血が流れていたのであった。
しみじみした話が、日の暮れまで絶えなかった。
「あの人の、どこがそんなにいいのさ。」
お増はお雪に揶揄《からか》った。
「こうなっちゃ、いいも悪いもありゃしないよ。しかたなしさ。」
お増をそこまで送りに出たお雪は、そう言って笑った。
町には灯影が涼しく動いて、濡れた地面《じびた》からは、土の匂いが鼻に通って来た。
九
日が暮れてからは、風が一戦《ひとそよ》ぎもしなかった。お増は腕車《くるま》から降りて、蒸し暑い路次のなかへ入ると、急に浅井が留守の間に来ていはせぬかという期待に、胸が波うった。しばらく居なじんだ路次は、いつに変らず静かで安易であった。先の望みや気苦労もなさそうな、お雪などのとりとめのない話に、撹《か》き乱されていた頭脳《あたま》が日ごろの自分に復《かえ》ったような落着きと悦びとを感じないわけに行かなかった。浅井一人に、自分の生活のすべてが繋《かか》っているように思われた。男の頼もしさが、いつもよりも強い力でお増の心に盛り返されて来た。
「ただいま。」
お増は鍵《かぎ》をあずけて出た、お千代婆さんの家の格子戸を開けると、そういって声かけた。
茶の間のランプが薄暗くしてあった。水口の外に、女中が行水を使っているらしい気勢《けはい》がしたが、土間にははたして浅井の下駄もあった。
「おや二階でまた始まっているんだよ。」
お増は浅井に済まないような、拗《す》ねて見せたいようななつかしい落着きのない心持で、急いで梯子段《はしごだん》をあがった。
風通しのよい二階では、障子をしめた窓の片蔭に、浅井や婆さんや、よくここへ遊びに来る近所の医者などが一塊《ひとかたまり》になって、目を光らせながら花に耽《ふけ》っていた。顔を見るたんびに、体を診《み》てやる診てやると言ってはお増に揶揄《からか》いなどするその医者は、派手な柄の浴衣《ゆかた》がけで腕まくりで立て膝をしていた。線の太いようなその顔が、何となし青柳の気分に似通っているようで、気持が悪かった。
「お帰んなさい。」
医者が声かけた。
「どこへ何しに行っていたんです。お増さんがついていないもんだから、浅井さんがさんざんの体《てい》ですよ。」
浅井がハハハと内輪な笑い声を洩らした。
お増は火入れに吸殻などの燻《いぶ》っている莨盆を引き寄せて、澄まして莨を喫《ふか》していた。そしてこの二、三日男が何をしていたかを探るように、時々浅井の顔を見たが、いつもより少し日焼けがしているだけであった。
「神さんに感づかれやしないの。」
お増は二年ばかり附き合ってから、浅井と前後してじきに家へ帰ると、蒸し蒸しするそこらを開け放しながら言い出した。向うの女中が火種を持って来てくれなどした。
浅井はにやにやしていた。
「それでもちっとは東京の町が行《ある》けるようになったかい。」
「ううん、何だかつまらなかったから、浅草のお雪さんの家を訪ねて見たの。」
お増は背筋のところの汗になった襦袢《じゅばん》や白縮緬《しろちりめん》の腰巻きなどを取って、縁側の方へ拡げながら言った。
「こら、こんなに汗になってしまった。」
お増は裸のままで、しばらくそこに涼んでいた。
「何か食べるの。」
「そうだね、何か食べに出ようか。」
「ううん、つまらないからお止《よ》しなさいよ。」
お増は台所で体を拭くと、浴衣のうえに、細い博多《はかた》の仕扱《しごき》を巻きつけて、角の氷屋から氷や水菓子などを取って来た。そして入口の板戸をぴったり締めて内へ入って来た。
お増はこの二、三日の寂しさを、一時に取返しをつけるような心持で、浅井の羽織などを畳んだり、持物をしまい込みなどして、ちびちび酒を飲む男の側で、団扇《うちわ》を使ったり、酒をつけたりした。そして時々時間を気にしている浅井の態度が飽き足りなかった。
十
その晩そこに泊った浅井が、明朝《あした》目を醒《さ》ましたのは大分遅くであった。その日もじりじり暑かった。昨夜《ゆうべ》更けてから、寝床のなかで、どこかの草間《くさあい》や、石の下などで啼《な》いている虫の音を聞いた時には、もう涼しい秋が来たようで、壁に映る有明けの灯影や、枕頭《まくらもと》におかれたコップや水差し、畳の手触りまでが、冷やかであったが、睡《ねむ》りの足りない頭や体には、昼間の残暑は、一層じめじめと悪暑く感ぜられた。
浅井を送り出してから、お増はまた夜の匂いのじめついているような蒲団のなかへ入って、うとうとと夢心地に、何事をか思い占めながら気懈《けだる》い体を横たえていた。その懈さが骨の髄まで沁《し》み拡がって行きそうであった。障子からさす日の光や、近所の物音――お千代婆さんの話し声などの目や耳に入るのが、おそろしいようであった。
「こんなことをしていちゃ、二人の身のうえにとてもいいことはないね。」
昨夜浅井が床のなかで言ったことなどが思い出された。
「真実《ほんとう》だわ。罪だわ。」
お増も、枕の上へ胸からうえを出して、莨を喫《す》いながら呟《つぶや》いた。お増の目には、麹町の家に留守をしている細君の寂しい姿が、ありあり見えるようであった。苦しい心持も、身につまされるようであった。
「いつかはきっと見つかりますよ。見つかったらそれこそ大変ですよ。」
お増の顔には、悪い夢からでもさめかかった人のような、苦悩と不安の色が漂っていた。
「ふふん。」
浅井は鼻で笑っていた。
「こんなことが、あなたいつまで続くと思って? 私だって、夜もおちおち眠られやしないくらいなのよ。第一肩身も狭いし、つくづく厭だと思うわ。あなただって、経済が二つに分れるから、つまらないじゃないの。」
「けれど、あの女もよくないよ。彼奴《あいつ》さえ世帯持ちがよくて、気立ての面白い女なら、己《おれ》だってそう莫迦《ばか》な真似はしたくないのさ。実際あれじゃ困る。」
「でもあなたのためには、随分尽したという話だわ。」
「尽したといったところで、質屋の使いでもさしたくらいのもので、そう厄介《やっかい》かけてるというわけじゃないもの、己も今では相当な待遇をして来たつもりだ。」
留守のまに、細君が知合いの家で、よく花を引いて歩いたり、酒を飲んだり、買食いをしたりすることなどを、浅井はお増にこぼした。それに病気が起ると、夜中でも起きて介抱してやらなければならなかった。それだけでも浅井の妻を嫌う理由は、充分であった。同棲《どうせい》している細君の母親も、浅井のためには、親切な老人ではなかった。部屋のなかが、始終引っ散らかっていたり、食べ物などの注意が、少しも行き届かなかったりした。
お増には、浅井も気の毒であったが、細君も可哀そうであった。細君と別れさすのが薄情なような気がしたり、意気地がないように思えたりした。
お増は長く床のなかにもいられなかった。そしてひとしきりうつらうつらと睡りに陥《お》ちかかったかと思うと、じきに目がさめた。
その日から、浅井は三、四日ここに寝泊りしていた。ちょいちょい用を達《た》しに外へ出て行っては、帰って来た。浅井はそのころいろいろのことに手を拡げはじめていた。
十一
「今日はちょっと家へ行って見て来ようかな。」
浅井はある朝寝床から離れると、少し開けてあった障子の隙から、空を眺めながら呟いた。空は碧《あお》く澄みわたって、白い浮雲の片《きれ》が生き物のように動いていた。浅井の耽り疲れた頭には、主《あるじ》のいない荒れた家のさまや、夜もおちおち眠れない細君の絶望の顔が浮んで来た。ついこのごろよそから連れ込んで来て、細君に育てさしている、今茲《ことし》四つになる女の子のことも、気にかかりだした。髪なども振り散らかしたままで、知合いや友人の家を、そっちこっち探しまわっているに決まっている細君の様子も、目に見えるようであった。
「うっかりしていると、ここへもやって来ますよ。」
お増も床の上に起き上りながら言った。
やがて、浅井が楊枝《ようじ》を啣《くわ》えて、近所の洗湯《せんとう》に行ったあとで、お増はそこらを片着けて、急いで埃《ごみ》を掃き出した。そして鏡台を持ち出して、髪を撫でつけ、鬢《びん》や前髪を立てて、顔を扮《つく》った。充血したような目や、興奮したような頬の色が、我ながら美しく鏡の面に眺められたが、頬骨の出たことや、鼻の尖って来たことが、ふと心に寂しい影を投げた。色が褪《あ》せてから見棄てられるものの悲しさが、胸に湧《わ》き起って来た。
「商売をしたものは、どうしたってそれは駄目さ。」
浅井のそう言ったことが、思い出された。
「私も早くどうかしなければ……。」
体の弱い自分の計《はかりごと》をしなければならぬということが、いつになく深くお増の心に考えられた。それからそれへと移って行くらしい、男の浮気だということも、思わないわけに行かなかった。いつ棄てられても、困らないことにさえしておけば、欲に繋《つな》がる男心の弱味をいつでも掴《つか》んでいられそうに思えた。お増は自分の心の底に流れている冷たいあるものを、感ぜずにはいられなかった。
「あの人の神さんなぞは、私に言わせれば莫迦さ。」
お増はそうも思った。勝利者のような誇りすら感ぜられるのであった。
晴れ晴れした顔をして湯から帰って来た浅井は、昨宵《ゆうべ》の食べ物の残りなどで、朝食をすますと、じきに支度をして出て行った。お増は男を送り出すときいつでも経験する厭な心持を紛らそうとして、お千代婆さんの家を訪ねた。
「へえ、それでもよく飽きもせずに、三日も四日も、寝てばかりいられたものだね。」
そう言っていそうなお千代婆さんの目の色が、嶮《けわ》しかった。
お増は、昨日《きのう》浅井と一緒に出て買って来た、銘仙《めいせん》の反物を、そこへ出して見せた。
「これを私の袷羽織《あわせばおり》に仕立てたいんですがね。」
婆さんは反物を手に取りあげて、見ていた。そして糸を切って、尺《さし》を出して一緒に丈を量《はか》りなどした。
「どうでしょう柄は。」
お増は婆さんの機嫌を取るように訊ねた。
「じみ[#「じみ」に傍点]でないかえ、ちっと。」
「私じみなものがいいんですよ。もうお婆さんですもの。」
お増は自分の世帯持ちのいいことに、自信あるらしく言った。
十二
浅井の細君が、ふとそこへ訪ねて来た。
「御免下さい。」
どこか硬いところのある声で、そういいながら格子戸を開けたその女の束髪姿を見ると、お増は立ちどころにそれと感づいた。細君は軟かい単衣《ひとえ》もののうえに、帯などもぐしゃぐしゃな締め方をして、取り繕わない風であった。丈の高いのと、面長《おもなが》な顔の道具の大きいのとで、押出しが立派であったが、色沢《いろつや》がわるく淋しかった。
細君は格子戸を開けると、見通しになっている茶の間に坐った二人の顔を見比べたが、傘《かさ》を持ったままもじもじしていた。
お増は横向きにうつむいていた。
「おやどなたかと思ったら、浅井さんの奥さんですかい。」
お千代婆さんはそこを離れて来た。
「さあどうぞ。」
「有難うございます。」
細君は手※[#「巾+白」、第4水準2-8-83]《ハンケチ》で汗ばんだ額などを拭いていたが、間もなく上へあがって挨拶《あいさつ》をした。そして時々じろじろとお増の方を眺めた。
「この方は近所の方ですがね。」
お千代婆さんは、お増を蔭に庇護《かば》うようにしながら言った。
「さいでございますか。」
顔の筋肉などの硬張《こわば》ったお増は、適当の辞《ことば》も見つからずに、淋しい笑顔《えがお》を外方《そっぽ》へ向けたきりであったが、その目は細君の方へ鋭く働いていた。そして細君が何を言い出すかを注意していた。
「浅井さんも、このごろじゃ大分御景気がいいようで、何よりですわな。」
お千代婆さんはお愛想を言いながら、お茶を淹《い》れなどした。
「何ですかね。」細君は気のない笑い方をした。
「外じゃどうだか知りませんけれど、内はちっともいいことはないんですよ。それに御存じですか、このごろは子供がいるものですから、世話がやけてしようがないんでございますよ。」
細君は断《き》れ断《ぎ》れに言った。
「そうですってね。お貰《もら》いなすったってね。」
「何ですか。料理屋とか、待合とかの女中と、情夫《いろおとこ》との間《なか》に出来た子だそうですよ。子供がないから、貰って来たっていうんですけれど、何だか解りゃしませんよ。こちらへはちょいちょい伺いますの。」
「たまあに見えますがね。」
お増は莨をふかしながら、じっと二人の話に聴き入っていたが、平気でそうしたなかに置かれた自分を眺めている自分の心持が、おかしいようであった。
「私|後《のち》に来ますわ。」
お増は反物を隅の方へ片づけると、そう言って、そこを出た。そして細目に開けてあった水口の方からそっと家へ入った。
三十分ばかり、不安な待ち遠しい時が移った。細君はじきに帰って行った。
「方々尋ねてあるいている様子だぜ。」
お千代婆さんは、客を送り出すと、急いで下駄を突っかけてやって来た。
「お増さんも、あんなに長く引き留めておくというのが悪いわな。」
「私を何だと思っていたでしょう。」
お増は眉根《まゆね》を顰めた。
「それは解るもんじゃない。私も何とも言い出しゃしないもんだから。」
十三
麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買いものなどに出歩いている浅井の細君の姿を、よそながら見ることがあった。
そのころには、一夏過したお増の様子がめっきり変っていた。世のなかへ出た当時の、粗野《ぞんざい》な口の利《き》き方や、調子はずれの挙動が、大分|除《と》れて来た。櫛《くし》だの半襟《はんえり》だの下駄などの好みにも、下町の堅気の家の神さんに見るような渋みが加わって来た。どこか稜《かど》ばったところのあった顔の輪郭すら、見違えるほど和らげられて来た。
「ほんとにお前さんは、憎いような身装《なり》をするよ。」
新調の着物などを着て訪ねて行くお増の帯や、襦袢の袖を引っ張って見ながら、お雪がうらやましそうに言った。
「今のうち、もっと派手なものを着た方がいいじゃないの。」
「ううん、派手なものは私に似合《にあ》やしないの。それにそんなものは先へ寄って困るもの。」
浅井はそのころ、根岸の方の別邸へ引っ込んでいる元日本橋のかなり大きな羅紗《ラシャ》問屋の家などへ出入りしていた。店を潰《つぶ》してしまったその商人は、才の利く浅井に財政の整理を委《まか》すことにしていた。浅井はほかにも、いろいろの仕事に手を染めはじめていた。会社の下拵《したごしら》えなどをして、資本家に権利を譲り渡すことなどに、優《すぐ》れた手際を見せていた。
お増を移らせる家を、浅井は往復の便を計って、すぐ自分の家の四、五丁先に見つけた。そこへ新しい箪笥《たんす》が持ち込まれたり、洒落《しゃれ》れた茶箪笥が据えられたりした。
「燈台下暗しというから、この方がかえっていいかも知れんよ。」
浅井は初めてそこへ落ち着いたお増に、酒の酌《しゃく》をさせながら笑った。もうセルの上に袷羽織でも引っ被《か》けようという時節であった。新しい門の柱には、お増の苗字《みょうじ》などが記されて、広小路にいた時分、よそから貰った犬が一匹飼われてあった。ふかふかした絹布の座蒲団《ざぶとん》が、入れ替えたばかりの藺《い》の匂いのする青畳に敷かれてあった。浅井の金廻りのいいことが、ちょっとした手廻りの新しい道具のうえにも、気持よく現われていた。
ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢《あふ》れているように見えた。お増の目には、その時ほど、頼もしい男の力づよく映ったことはかつてなかった。
浅井の調子は、それでも色の褪《あ》せた洋服を着ていたころと大した変化《かわり》は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌《きら》いなその身装《みなり》などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。
ここへ移ってからも、お増の目には、お千代婆さんの家で、穴のあくほど見つめておいた細君の顔や姿が、始終|絡《まつ》わりついていた。
「あなたのお神さんを、私つくづく見ましたよ。」
お増はその当時よく浅井に話した。
「へえ。家内の方じゃ何とも言やしなかったよ。少しは変に思ったらしいがね。」
「そこが素人《しろうと》なんですよ。」
お増は気の毒そうに言った。
「私あの人と二人のときのあなたの様子まで目につきますよ。」
お増は興奮した目色をして、顎《おとがい》などのしっかりした、目元の優しい男の顔を見つめた。
十四
迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画は、通りの物音などもまるで聞えなかったので、宵になると窟《あな》にでもいるようにひっそりしていた。時々近所の門鈴《もんりん》の音が揺れたり、石炭殻の敷かれた道を歩く跫音《あしおと》が、聞えたりするきりであった。
二人きり差し向いの部屋のなかに飽きると、浅井は女を連れ出して、かなり距離のある大通りの明るみへ楽しい冒険を試みたり、電車に乗って、日比谷や銀座あたりまで押し出したりした。
小綺麗な門や、二階屋の立ち並んだ静かな町を、ある時お増は浅井につれられて歩いていた。二人は一緒に入るような風呂桶《ふろおけ》を買いに出た帰路《かえり》を歩いているのであった。桶を買うまでには、お増は小人数な家で風呂を焚《た》くことの不経済を言い立てたが、浅井はいろいろの場所におかれた女を眺めたかった。
灯影の疎《まば》らなその町へ来ると、急に話を遏《や》めて、女から少し離れて溝際《どぶぎわ》をあるいていた浅井の足がふと一軒の出窓の前で止った。格子戸の上に出た丸い電燈の灯影が、細い格子のはまったその窓の障子や、上り口の土間にある下駄箱などを照していた。お増はすぐにそれと感づけた。
「およしなさいよ。」
お増はこっちから手真似をして見せたが、男は出窓の下をしばらく離れなかった。家はひっそりしていた。
「へえ、あれが本宅?」
お増はよほど行ってから、後を振り顧《かえ》りながら言い出した。浅井は「ふん。」と笑ったきりであった。
「随分いい家ね。」お増は独《ひと》り語《ごと》のように言った。
「でも前を通れば、やっぱりいい心持はしないでしょう。可哀そうだとか何とか思うでしょう。」
「へへ。」と浅井は笑い声を洩《も》らした。
帰ってからも、お増はいろいろのことを浅井に訊ねた。
「それは毅然《しっかり》した女だ。人との応対も巧いし、私がいないでも、ちゃんと仕事の運びのつくように、用を弁ずるだけの伎倆《はたらき》はある。それは認めてやらないわけに行かんよ。その点は、私の細君として不足はないけれど――。」
浅井は言い出した。
「じゃ、なぜ大事にして上げないんです。」
「そうも行かんよ。女はそればかりでもいけない。むしろそんな伎倆《はたらき》のない方が、私にはいいんだ。」
そう言って浅井は笑っていた。
昼間お増は、その家の前を通って見たりなどした。ふと八百屋の店先などに立っている細君の姿を見たこともあった。細君は顔の丸い、目元や口元の愛くるしい子供を、手かけで負《おぶ》いなどしていた。お増は急いで、その前を通り過ぎた。
冬になると、浅井の足が一層家の方へ遠ざかった。たまに細君や子供の様子を見に帰っても、一ト晩とそこに落ち着いていられなかった。ヒステレーの嵩《こう》じかかって来た細君は、浅井の顔を見ると、いきなりその胸倉に飛びついたり、瀬戸物を畳に叩《たた》きつけたりした。浅井は蒼い顔をして貴重な書類などを入れた鞄《かばん》をさげて、お増の方へ逃げて来た。
「こら、どうだ。」
浅井は胸紐《むなひも》の乳《ち》を引き断《ちぎ》られた羽織を、そこへ脱ぎ棄てて、がっかりしたように火鉢の前に坐った。
十五
一週間の余も、うっちゃっておいた本宅の方へ、浅井はある日の午後、ふと顔を出してみた。そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍《れんびん》の情も、少しずつ忿怒《ふんぬ》の消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。長いあいだ貧しい自分を支えてくれた細君の好意や伎倆《はたらき》も考えないわけに行かなかった。
「離縁するほどの悪いことを、私に対してしていないんだから困る。」
浅井は時々思い出したように、当惑の眉を顰めた。そのたびにお増は顔に暗い影がさした。
「あなたは一体気が多いんですよ。」
お増は男の心が疑われて来た。
「どっちへもいい子になろうたって、それは駄目よ。」
お増はそうも言ってやりたかったが、別れさしてからの、後の祟《たた》りの恐ろしさがいつも心を鈍らせた。
浅井の帰って行ったとき、細君は奥で子供と一緒に寝ていたが、女中に何か聞いている良人《おっと》の声がすると、急いで起きあがって、箪笥のうえにある鏡台の前へ立った。そして束髪の鬢《びん》を直したり、急いで顔に白粉を塗ったりしてから出て来た。
「お帰んなさいまし。」
細君は燥《はしゃ》いだ唇に、ヒステレックな淋しい笑《え》みを浮べた。筋の通った鼻などの上に、斑《まだら》になった白粉の痕《あと》が、浅井の目に物悲しく映った。
「この前、愛子という女が、京都から訪ねて来たときも、こうだった。」
浅井はすぐその時のことを想い出した。その時は浅井の心は、まだそんなに細君から離れていなかった。細君の影もまだこんなに薄くはなかった。長味のある顔や、すんなりした手足なども、今のように筋張って淋しくはなかった。
しばらく京都に、法律書生をしていた時分に昵《なじ》んだその女は、旦那取りなどをして、かなりな貯金を持っていた。そして浅井が家を持ったということを伝え聞くと、それを持って、東京に親類を持っている母親と一緒に上京したのであった。浅井はそれをお千代婆さんのところに託《あず》けておいて、それ以来の細君と自分との関係などを説いて聞かせた。女はむしろ浅井夫婦に同情を寄せた。そして一月ほど、そっちこっち男に東京見物などさしてもらうと、それで満足して素直に帰って行った。縹緻《きりょう》のすぐれた、愛嬌《あいきょう》のあるその女の噂《うわさ》が、いつまでもお千代婆さんなどの話の種子《たね》に残っていた。
「浅井さんが、よくまあ、あの女を還《かえ》したものだと思う。」
お千代婆さんは、口を極《きわ》めて女を讃《ほ》めた。
女が京へ帰ってからも、浅井は細君と相談して、よくいろいろなものを贈った。女の方からも清水《きよみず》の煎茶茶碗《せんちゃぢゃわん》をよこしたり、細君へ半襟を贈ってくれたりした。
「お愛ちゃんはどうしたでしょうねえ。」
消息が絶えると、細君も時々その女の身のうえを案じた。
「もう嫁入りしたろう。」
そう言っている矢先へ、思いがけなく女からまた小包がとどいた。女はやっぱり自分の体を決めずにいるらしかった。宿屋かお茶屋の仲居でもしているのではないかと思われた。
浅井はその女のことを、時々思い占めていたが、道楽をしだしてから逢ったいろいろの女の印象と一緒に、それも次第に薄れて行った。
十六
浅井は、妻が傍に自分の顔を眺めていることを思うだけでも気窮《きづま》りであったが、細君も手紙などを整理しながら、自分の話に身を入れてもくれない良人の傍に長く坐っていられなかった。
「あの静《しい》ちゃんがね。」
細君は、押入れの手箪笥のなかから、何やら古い書類を引っくら返している良人を眺めながら、痩《や》せた淋しげな襟を掻き合わし掻き合わし、なつかしげな声でまた側へ寄って来た。
「静《しい》ちゃんがね、昨日《きのう》から少し熱が出ているんですがね。」
浅井は押入れの前にしゃがんで、手紙や書類を整理していたが、健かな荒い息が、口髭《くちひげ》を短く刈り込んだ鼻から通っていた。
「熱がある?」
浅井の金縁眼鏡がきらりとこっちを向いたが、子供のことは深くも考えていないらしく、落着きのない目が、じきにまた書類の方へ落ちて行った。
「……急にそんなものを纏《まと》めて、どこへ持っていらっしゃろうと言うの。」
細君は、そこへべッたり坐って嘆願するように言った。
「静ちゃんも、ああやって病気して可哀そうですから、ちっとは落ち着いて、家にいて下すったっていいじゃありませんか。」
浅井は一片着《ひとかたづ》け片着けると、ほっとしたような顔をして、火鉢の傍へ寄って、莨をふかしはじめた。持ち主の知合いに頼まれて、去年の冬から住むことになったその家は、蔵までついていてかなり手広であった。薄日のさした庭の山茶花《さざんか》の梢《こずえ》に、小禽《ことり》の動く影などが、障子の硝子越《ガラスご》しに見えた。
やがて奥へ入って行った浅井は、寝ている子供の額に触ったり、手の脈を見たりしていたが、子供はぱっちり目を開いて、物珍しげに浅井の顔を眺めた。
「静ちゃんお父さんよ。」
細君は傍から声をかけた。
「なに、大したことはない。売薬でも飲ましておけば、すぐ癒《なお》る。」
浅井は呟いていた。
「でも私も心細うござんすから、おいでになるならせめて出先だけでも言っておいて頂かないと、真実《ほんと》に困りますわ。」
浅井は笑っていた。
「お前が素直にしていさいすれば、何のこともないんだ。それも台所をがたつかせるようなことをしておいて、女狂いをしているとでもいうのなら、また格別だけれど。」
その晩長火鉢の側に、二人差し向いになっている時、浅井は少し真剣《むき》になって言い出した。
三、四杯飲んだ酒の酔《え》いが、細君の顔にも出ていた。
「それに今までは、私も黙っていたけれど、お前は少し家の繰り廻し方が下手《へた》じゃないか。」
浅井は、不断の低い優しい調子できめつけた。
「人のことばかり責めないで、一体私の留守のまに、お前は何をしている。」
「それはあなたが、何かを包みかくしているから、私だってつまらない時は、たまにお花ぐらい引きに行きますわ。」
「私はそれを悪いと言やしない。自分の着るものまで亡《な》くして耽るのがよくないと言うのだ。」
浅井はこの前から気のついていた、ついこのごろ買ったばかりの細君の指環や、ちょいちょい着の糸織りの小袖などの、箪笥に見えないことなどを言い出したが、諄《くど》くも言い立てなかった。
「どっちも悪いことは五分五分だ。」などと笑ってすました。
十七
ある晩浅井とお増とが、下町の方の年の市へ行っている留守の間に、いきなり細君が押し込んで来た。
お増の囲われた家を突き留めるまでに費やした細君の苦心は、一ト通りでなかた。浅井が家を出るたびに、細君は車夫に金を握らしたり、腕車《くるま》に乗らないときは、若い衆を頼んで、後から見えがくれに尾《つ》けさしたりしたが、用心深い浅井は、どんな場合にも、まっすぐにお増の方へ行くようなことはなかった。
「大丈夫でござんすよ奥さん……。」
若い衆はそう言って、細君に復命した。
「しようがないね。きっとお前さんを捲《ま》いてしまったんですよ。」
終《しま》いに細君は素直にばかりしていられなくなった。大切な株券が、あるはずのところになかったり、債券が見えなくなったりした。それを発見するたびに、細君は目の色をかえた。どうかすると、出来るだけ立派な身装《なり》をして、自身浅井の知合いの家を尋ねまわるかと思うと、絶望的な蒼い顔をして、髪も結わずに、不断着のままで子供をつれて近所を彷徨《うろつ》いたり、蒲団を引っ被《かつ》いで二日も三日も家に寝ていたりした。
たまに手紙や何かを取りに来る浅井の顔を見ると、いきなり胸倉を取って武者ぶりついたり、座敷中を狂人《きちがい》のように暴れまわったりした。
「そんな乱暴な真似をしなくとも話はわかる。」
浅井はようようのことで細君を宥《なだ》めて下に坐った。
細君は、髪を振り乱したまま、そこに突っ伏して、子供のようにさめざめと泣き出した。
跣足《はだし》で後から追いかけて来る細君のために、ようやく逃げ出そうとした浅井は、二、三町も先から、また家へ引き戻さなければならなかった。
宵のうちの静かな町は、まだそこここの窓から、明りがさしていたり、話し声が聞えたりした。
「どこまでも私は尾《つ》いて行く。」
細君はせいせい息をはずませながら、浅井と一緒に並んで歩いた。疲れた顔や、唇の色がまるで死人のように蒼褪《あおざ》めていた。寒い風が、顔や頸《くび》にかかった髪を吹いていた。
そんなことがあってから二、三日のあいだ細君は病人のように、床につききりであった。
「つくづく厭になってしまった。」
浅井はお増の方へ帰ると、蒼い顔をして溜息を吐《つ》いていた。
「まるで狂気《きちがい》だ。」
「しようがないね、そんなじゃ……。」
お増も眉を顰《ひそ》めた。
「しかたがないから、当分うっちゃっておくんだ。」
浅井は苦笑していた。
お増の家のすぐ近くの通りをうろついている犬に、細君はふと心を惹《ひ》かれた。その犬の狐色の尨毛《むくげ》や、鼻頭《はながしら》の斑点《ぶち》などが、細君の目にも見覚えがあった。犬は浅井について時々自分の方へも姿を見せたことがあった。
「奥さん、あの尨犬が電車通りにおりましてすよ。」
買物などに出た女中が、いつかもそう言って報《しら》したことも思い出された。
やがて犬の後をつけて、静かなその地内へ入って行った細君は、その日もその辺へ、買物に来ていたのであった。
「ポチ、ポチ、ポチ。」
新建ちの新しい家の裏口へ入って行った犬が、内から聞える女の声に呼び込まれて行ったのは、それから大分|経《た》ってからであった。
「しかたがないじゃないか、こんなに足を汚《よご》して。」
埃函《ごみばこ》などの幾個《いくつ》も出ている、細い路次口に佇《たたず》んでいる細君の耳に、そんな声が聞えたりした。
晩方に細君は、顔などを扮《つく》って、きちんとした身装《みなり》をして、そこへ出向いて行ったのであった。
十八
浅井とお増とが、子供に贈る羽子板や翫具《おもちゃ》などをこてこて買って、それを帰りがけに食べた天麩羅《てんぷら》の折詰めと一緒に提げながら、帰って来たとき、留守を預かっていたお増の遠い縁続きにあたる若い女が、景気よく入って来るその跫音《あしおと》を聞きつけて、急いで玄関口へ顔を出した。
「お今ちゃんただいま。」
鼻を鳴らして絡《まつ》わりつく犬をいたわりながら、鉄瓶《てつびん》の湯気などの暖かく籠《こも》った茶の間へ、二人は冷たい頬を撫《な》でながら通った。
「あなたがたが出ておいでなさると、すぐその後へ女の人が訪ねて来たんですよ。」
お今はそこへ持ち出していた自分の針仕事を、急いで取り片着けながら、細君の来た時の様子を話し出した。
「へえどんな女?」
お増が新調のコートを脱ぎながら、気忙《きぜわ》しく訊いた。
「よくは判らなかったけれども、何だか老《ふ》けた顔していましたわ。背の高い痩せた人ですよ。それで、私がお二人ともお留守だとそう言いましたらば、名も何も言わずに、じきに帰って行きましたよ。」
「てっきりお柳《りゅう》さんですよ。」
お増は坐りもしないで言った。
「私もそう思いました。」お今も愛らしい目を二人の方へ動かしながら言った。その顔が美しく薔薇色《ばらいろ》に火照《ほて》っていた。
「知れるわけはないはずだがね。」
浅井は首を傾《かし》げながら呟いた。
「あなたがつけられたんですよきっと。」お増は思案ぶかい目色をした。
浅井は目元に笑っていた。
「何、知れるものなら、こっちがどんなに用心したっていつか知れる。向うはお前一生懸命だもの。」
「それにしても、あの人きっとまた来ますよ。ことによると、どこかそこいらにまだいるかも知れませんよ。」
お増は不安そうに言った。
「こうしているところへ踏み込まれてごらんなさい、それこそ事ですよ。私はどんなことがあったって、あの人と顔なぞ合わされやしませんよ。」
自分たちの巣を、また他へ移さなければならぬことが、さしずめ考えられた。
「わたしお雪さんところへ、しばらく行っていましょうか。」
お増は言い出した。
「とにかくここを出ようよ。見つかっちゃなにかと面倒だ。」
後をお今に頼んで、二人はそこを脱け出した。そして、用心深く通りまで出ると、急いで電車に乗った。電車は空《す》いていた。そして薄暗い夜更けの町を全速力で走った。二人は疲れた体を揺られながら、お柳の気のつかないような家を、あれこれと物色したが、蒼い顔したお柳が、どこまでもへばりついて来そうに思えてならなかった。
「綺麗に手を切ってしまわなくちゃ駄目ですよ。」
お増は暗い目をしながら、言った。
手土産などをさげて、本郷の方のある友人の家の門を叩いたのは、もう十二時過ぎであった。その友人は、近ごろお千代婆さんのところで知合いになった、ある雑誌の記者であった。
「まあ大変おそく――。」婆さんの家で浅井の旧《もと》から知っていたその細君は、寝衣姿《ねまきすがた》で出て来て門を開けた。そこにお増が笑いながら立っていた。蔭にいる浅井の顔には、寒さ凌《しの》ぎに途中で飲んだ酒の酔いがあった。
十九
夜のものなどの一向手薄なそこの家に、落着きのない一晩があけると、その午後浅井はつい近所に、当分お増を置くような下宿の空間《あきま》を探しに出た。
「とうとう見つかったんですかね。こわいこわい。」などと友人の細君が三つばかりの子供に乳を呑《の》ませながら、お増の身のうえを危ぶんででもいるような目色をしていた。
「じゃまあ今度|談《はなし》がつくんでしょう。」
「どうなるか解りゃしませんよ。」
その時二人はじめじめした茶の間の火鉢の側で、話し込んでいた。
一時の避難所に択《えら》んだ下宿の方へ移って行ってからも、浅井が外へ出て行った後の部屋が気窮《きづま》りになって来ると、お増はちょいちょい気のおけないそこの茶の間へ茶菓子などを持ち込んで遊びに来た。そこで髪などを結うことにした。
「私も子供が一人産んでみたいような気がするね。」
お増は無造作に自分の膝へ抱き取った子供の柔かい顔に、頬擦《ほおず》りなどしながら言った。
「貰って下さいよ一人。私のところでは、どしどし出来るそうですから。」
「ううん、くれるものか。大事に育てなけアいけないよ。」
二、三日たつと、何もなかった下宿の部屋へ、いろいろの手廻りのものが持ち込まれた。お増は何事か起っていそうな自分の家の様子が気にかかって来ると、そっとそこへ訪ねて行った。家には毎日裁縫や料理の学校へ通うお今のほかに、気丈夫そうな知合いの婆さんが一人、留守に頼んであった。
「あ、よしよし、お前ばかりだよ。そんなにしてくれるのは。」
お増はくんくん鼻を鳴らしながら、なつかしい主《あるじ》の膝や胸へ取りついて来る愛物の頭を撫でながら、買って来た干菓子《ひがし》などを壊《こわ》して口へ入れてやった。
「あれから誰も来ない?」
お増は家中を見廻りながら、明るい窓のところで、田舎へ出す手紙を書きなどしているお今の後から訊ねたが、やはりお柳の来たような様子はなかった。
「どうしたというんだろうね。」
何事もなければないで、お増はやはりそれが不安であった。そこに自分のために、不運な何物かが待ち設けているように思えた。
「こんなことしていたって、姉さんつまらないじゃないの。」
お今は箪笥から着替えを取り出しているお増の側から言い出した。
「着物なぞいくらあったって、日蔭者じゃしようがないじゃないの。」
堅気の田舎の家庭から巣立ちして来たばかりのお今の生《うぶ》な目には、お増の不思議な生活が、煩わしくも惨《みじ》めらしくも見えるのであった。
「それはお前さん方はそうさ。」
お増は笑っていた。
外湯に入りつけないお増は、自身湯殿へおりて、風呂の湯を焚《た》きつけたり、しばらく手にかけない長火鉢に拭巾《ふきん》をかけたりして働いていた。
日の暮れ方にお増は独りで、透《す》き徹《とお》るような湯のなかに体を涵《ひた》して、見知らぬ温泉場《ゆば》にでも隠れているような安易さを感じながら、うっとりしていた。
二十
赤坂の方で新たに借りた二階建ての家へ、やっとお増の落ち着いたのは、その年もぐっと押し詰ってからであった。それまでにお増は幾度となく、下宿と先の家との間を往来《ゆきき》したが、通りがかりに見る暮れの気の忙《せわ》しい町のさまが、そうして宙に垂下《ぶらさが》っているような不安定な心持に、一層あわただしく映った。
「これじゃお正月が来たって、しようがありゃしない。まるで旅にいるようなものだわ。」
お増はそう言いながら、いつ引き払って行くか知れない家の茶の間で、不自由な下宿では食べることの出来ない、自分の好きな煮物などで、お今と一緒に飯を食べながら言った。
そこへ浅井も、一日会社や自分の用を達《た》しに歩いていたその足で、寄って来た。
「今日ちょッと家へ行って見たよ。」
浅井は落着きのない目色をしながら、火鉢の側へ寄って来た。
「あの、奥様が旦那がお帰りになりましたらば、ちょいとでもいいから、おいで下さいましって。」
そう言って昨日の朝、お柳の方から使いが来た。それを聞いて、浅井は、そこへ廻って見たのであった。
「どんな様子でしたね。」
お増は訊いた。別れ談《ばなし》がうまく纏《まと》まるかどうかが、あの事件以来、二人の頭に懈《だる》い刺戟《しげき》を与えていたが、細君からすっかり離れてしまった浅井の心には、まだ時々かすかな反省と苦痛とが刺《とげ》のように残っていた。
「むむ別に変りはない。」
浅井は、自分から見棄てられてしまった、寂しい荒れた家のさまや、絶望の手を拡げてまだ自分に縋《すが》りつこうとしているようなお柳のやるせない顔を、今見て来たままに思い浮べながら、淋しく笑った。
「話を持ち出して見たのですか。」
「それも口を切って見たけれど、ああなると女は解らなくなるものと見えて、さっぱり要領を得ない。」
「それはそうですよ。それでどう言っているんです。」
「要するにお前を突き出してくれと言うに過ぎない。」
浅井はお柳がお増のことをいろいろ聞きたがったことなどを思い出していた。
「どうせ当人同士じゃ話の纏まりっこはありませんよ。誰か人をお入れなさいよ。」
「それにしても、目と鼻の間じゃ仕事がしにくい。早く家を見つけなくちゃ。」
新しい家の方へ、間もなく荷物がそっと運び込まれた。綺麗な二階が二タ間もあるようなその家は、前の家からみると周囲《まわり》なども綺麗で住み心地がよさそうであった。しばらくのまにめっきり殖《ふ》えた道具を、お増は朝から一日かかって、それぞれ片着けた。そして久しぶりで燥《はしゃ》いだような心持になって、そこらを掃いたり拭いたりしていた。
洒落《しゃれ》た花形の電気の笠《かさ》などの下った二階の縁側へ出て見ると、すぐ目の前に三聯隊《さんれんたい》の赭《あか》い煉瓦《れんが》の兵営の建物などが見えて、飾り竹や門松のすっかり立てられた目の下の屋並みには、もう春が来ているようであった。賑《にぎ》やかな通りの方から、楽隊の囃《はやし》などが、聞えて来た。
「ちょいと、ここならば長くいられそうね。」
置物などを飾っている浅井を振り顧《かえ》って、お増は悦《うれ》しそうに浮き浮きした調子で言いかけた。
二十一
心のわさわさするような日が、年暮《くれ》から春へかけて幾日《いくか》となく続いた。お増は暮の町を珍しがるお今をつれて、ちょいちょいした物を買いに、幾度となく通りの方まで出て行ったり、台所で重詰めなど拵えるのに忙しかったが、初めて一家の主婦として、いろいろのことに気を配っている自分の女房ぶりが、自分にも珍しかった。
羅紗《ラシャ》問屋の隠居が、引越し祝いに贈ってくれた銀地に山水を描いた屏風《びょうぶ》などの飾られた二階の一室で、浅井の棋敵《ごがたき》の小林という剽軽《ひょうきん》な弁護士と、芸者あがりのその妾《めかけ》と一緒に、お増夫婦は、好きな花を引いて、楽しい大晦日《おおみそか》の一夜を賑やかに更かした。
お歳暮に来る人たちの出入りするたびに鳴っていた門の鈴の音も静まって、そのたびにお今に呼ばれて下へ降りて行ったお増は、やっと落ち着いて仲間に加わることが出来た。本宅の方での交際《つきあい》も、今年は残らずこっちへ移されることになったのであった。水引きのかかったお歳暮が階下《した》の茶の間に堆《うずたか》く積まれてあった。
会社で浅井のそんなに顔の広いことを、お増はお今などの前にも矜《ほこ》らしく思った。
「へえ、またビールなの。そんなものを担ぎ込む人の気がしれないね。」
お増は宵のうちに、もう手廻しして結ってもらった丸髷《まるまげ》の頭を据えながら、長火鉢の傍から顔を顰《しか》めていた。
「奥さん奥さん、今年はあなた有卦《うけ》に入っていますよ。」
酒ずきな弁護士は、ぐでぐでに酔っても、まだにちゃにちゃする猪口《ちょく》を手から離さなかった。
「お柳さんの方は大丈夫、私が談《はなし》をつけてあげます。その代り私が怨《うら》まれます。少し殺生《せっしょう》だが、そのくらいのことは奥さんのために、私がきっとしますよ。」
弁護士は、太い青筋の立った手で、猪口をお増に差しつけた。
「いいえ。どうしたしまして。私はどうだっていいんです。」
お増は横を向いて、莨《たばこ》をふかしていた。
除夜の鐘が、ひっそり静まった夜の湿っぽい空気に伝わって来た。やがて友達の引き揚げて行った座敷に、夫婦はしばらく茶を淹《い》れなどして、しめやかに話しながら差し向いでいた。綺麗に均《なら》された桐胴《きりどう》の火鉢の白い灰が、底冷えのきびしい明け方ちかくの夜気に蒼白《あおざ》めて、酒のさめかけた二人の顔には、深い疲労と、興奮の色が見えていた。表にはまだ全く人足が絶えていなかった。夜明けにはまだ大分|間《ま》があった。
明朝《あした》は麗《うらら》かな、いい天気であった。空には紙鳶《たこ》のうなりなどが聞かれた。昨夜《ゆうべ》のままに散らかった座敷のなかに、ふかふかした蒲団を被《かず》いて寝ている二人の姿が、懈《だる》いお増の目に、新しく婚礼した夫婦か何ぞのように、物珍しく映った。部屋には薄赤い電気の灯影が、夢のように漂っていた。
「何だかあなたと私と、御婚礼しているようね。」
着替えをしたお増は屠蘇《とそ》の銚子《ちょうし》などの飾られた下の座敷で、浅井と差し向いでいるとき、独りでそう思った。そこへお今も、はればれした笑顔で出て来て、「おめでとう。」とはずかしそうにお辞儀をした。健かな血が、化粧した肌理《きめ》のいい頬に、美しく上っていた。
綱引きの腕車《くるま》で出て行く、フロック姿の浅井を、玄関に送り出したお増は、屠蘇の酔いにほんのり顔をあからめて、恭《うやうや》しくそこに坐っていた。
家のなかが、急にひっそりして来た。羽子の音などが、もうそこにもここにも聞えた。自分は自分だけで年始に行くときの晴れ着の襦袢の襟などをつけているうちに、もう昼になって、元日の気分がどことなくだらけて来た。
二十二
長火鉢の側の柱にかかった日暦《ひごよみ》の頁に遊びごとや来客などの多い正月一ト月が、幻のように剥《は》がれて行った。
お増は春になってから一度、二人打ち揃うて訪ねてくれた根岸の隠居の家へ浅井と一緒に出かけて行ったり、その連中と芝居を見に行ったりした。いつか浅井の骨折りで、それを抵当に一万円ばかりの金を借りたりなどした別荘に、隠居はお芳という妾と一緒に住んでいた。そして方々に散らかっている問屋時代の貸しなどを取り立てて月々の暮しを立てていたが、贅沢《ぜいたく》をし慣れて来た老人は、やはりそれだけでは足りなかった。時々古い軸が持ち出されたり、骨董品《こっとうひん》が売り払われたりした。色白の肉づきのぼちゃぼちゃした、目元などに愛嬌のあるお芳は、上がもう中学へ通っているこの子供たちと一緒に、劇《はげ》しいヒステレーで気が変になって東京在の田舎の実家《さと》へ引っ込んでいる隠居の添合《つれあ》いが、家政《うち》を切り廻している時分には、まだ相模《さがみ》の南の方から来て間もないほどの召使いであった。
五十三、四になった胃病持ちの隠居は、お増の訪ねて行ったときも、いつものとおり、朝から酒に酔っていた。癇癪《かんしゃく》の強いらしいその目が、どんよりした色に濁って、調子が相変らず突拍子《とっぴょうし》であった。
庭木や、泉水の金魚などに綺麗に霜除《しもよ》けのされた、広い平庭《ひらにわ》の芝生に、暖かい日が当って、隠居の居間は、何不足もなく暮している人の住居のように、安静であった。
「お揃いでおいでになったんだ。一つどこかへうまいものでも食べに行こうじゃごわせんか。」
隠居は少しふらつくような、細長い首を振り立てて、妙な手容《てつき》をした。
どこがよかろうかという評議が始まった。
「そのうえ酒を召し食《あが》って、皆さんに迷惑かけるよりか、今日はどこぞお芝居がいいじゃございませんか。」
お芳が傍から言い出した。
「芝居もいいが、どこか顔を知らねえところへ行こう。知ったところは金がかかってしようがねえ。」隠居は捲《ま》き舌で言った。
「私はな、いくら零落《おちぶ》れても、遊び場所などへ出かけて行って、吝々《けちけち》するのは大嫌いだ。浅井さん、私は大体そういった性分だ。」
今に行き詰って来ずにはおかぬ隠居の身のうえが、浅井にもお増にも見透されるようであった。
「お芳さんは、ああやっていて終《しま》いにどうするんでしょうね。」
外へ出ると、お増は不安そうに訊いた。
「あの人、自分でお金をよけておくという風でもないのね。着物や何か、いくら拵えたって知れたものですわ。」
「それでも、まだ二年や三年はね。」浅井は薄笑いをしていた。
二組の夫婦は、時々誘いあわして、浅草を歩いたり、相撲《すもう》見物に出かけたりした。そしていつも酔っ払って、隣の客に喰ってかかりなどする隠居のそばに、浅井もお増もはらはらしていたが、お芳は手※[#「巾+白」、第4水準2-8-83]《ハンケチ》を口にあてて、顔を赧《あか》らめながら、後でくすくす笑っていた。
「何がおかしいんだい。」
隠居は額に筋を立てて、お芳を呶鳴《どな》りつけた。それがまたおかしいといって、お芳は浅井夫婦と顔を見合わせて腹を抱えた。
二十三
「私しばらくのあいだお宅に御厄介になっていてもよくて?」
月が代ってから、痔《じ》に悩んでいた浅井が、伊豆《いず》の方へ湯治に行った留守に、お雪が不断着のままで、ふとある日お増のところへやって来た。
お雪は前の家にいる時にも、青柳と喧嘩《けんか》したとかいって、一度泊りがけでやって来たことがあったが、その時はじきに青柳が来て連れて行った。
黒い眼鏡などをかけた青柳は、そのおり浅井にもちょっと逢って挨拶をして行った。あまり風体《ふうてい》のよくない、そんな男の出入りすることは、浅井には快くはなかったが、お増は浅井に秘密《ないしょ》で、時々お雪に小遣いなどを貸していた。
「何だか自分の作った唄《うた》の本を出すんだとさ。」
お雪は芝居の方がすっかり駄目になった青柳が、流行節のような自作の読売りを出版するその費用の融通を、お増に頼みに来たりした。
「あの人駄目よ。あんた一生苦労しますよ。それよりかあの人と手を切って、今のうち黒田に泣きついて、何とかしてもらったらどう。その話なら宅《うち》の旦那に相談したら、先方へ交渉《かけあ》ってもらえないこともなかろうと思うがね。」
お増は、お雪が先に見込みもない芸人などに引き摺《ず》られているのを、歯痒《はがゆ》く思ったが、長いあいだ腐れあった二人のなかは、手のつけようもないほど廃頽《はいたい》しきっているのであった。
前垂がけに、半襟の附いた着物を着て、ずるりと火鉢の傍へ寄って来たお雪は、地の荒れた顔にだらけた笑いを浮べていた。ひとしきりこの女にあった棄て鉢な気分さえ見られなかった。
「へえ。また喧嘩したの。」
お増は気なしに訊いた。
「いいえ、そうじゃないの。」
お雪は莨をふかしながら、にやにやしていた。
「青柳が少し仕事をするんだとさ。」
「仕事って何さ。」
「大変な仕事さ。」
お雪はやはり笑っていた。
「後家さんでも瞞《だま》すのかい。」
「まあそういったようなもんさ。その相手がよそのお嬢さんなの。」
「へえ、罪なことをするね。」
お増はそう思いながら、友達の顔を眺めていた。
お雪は少し顔を赧らめながら、「それには私が家にいては都合が悪いのだとさ。」
「家へ引っ張り込むの。」
「多分そうでしょうよ。」
お雪はきまり悪そうにうつむいていた。
「わたし、あの男あんなに悪い奴じゃないと思っていたら……どうして。」
お雪は呟いた。
「芸じゃ駄目だから、色で金儲けをするなんて、あの男も堕落したものさ。あんな男に引っかかるお嬢さんがあるのかと思うと、気の毒のような気がするわ。それアお前さん、先《さき》は名誉のある人だもの、そんなことが新聞にでも出てごらんなさい、たまったもんじゃありゃしないわ。そこが青柳の附け目なのさ。」
「そのお嬢さん見たの。」
「いいえ。」
二十四
「だけど私もう一度あんな気になって見たいと思うよ。若い時分には、大なり小なり皆なそんなようなことがあったじゃないの。」
お雪は青柳が受け取ったという手紙の、心をこめた美しい文句やら、指環だの髪の道具だのの、青柳の手に渡った持物などから顔も様子もほぼ想像のできるような、その令嬢の淡々《あわあわ》しい心持を思い出していた。令嬢はちょっとした実業家の娘であったが、まだ年の若い派手ずきなその継母が堅気の女でないことだけは解っていた。
「ほら、二人で楽屋へ入って行ったことがあるじゃないかね。」
お雪は田舎の町で、お増などと一緒に通っていた、常磐津《ときわず》の師匠のところへ遊びに来る、土地の役者の舞台姿などに胸を唆《そそ》られて、その役者から貰った簪《かんざし》を挿《さ》して、嬉しがっていたことや、手を引き合いながら、暗い舞台裏を通って、こわごわその部屋へ遊びに行ったことなどを、よく覚えていた。朝顔日記の川場の深雪《みゆき》などをしていた役者の面影が、中でも一番印象が深かった。
「……何でも三人で行った時だったよ。何が悲しかったのか、三人とも舞台も見ないで、おいおい泣いていたじゃないの。泣かなくちゃ悪いとでも思ったものだろうよ。」
お雪はお増の手を打《ぶ》って、目に涙のにじむほど笑った。
「莫迦《ばか》だね。」
お増も苦笑した。「あの時分はまだ真《ほん》の子供だもの。やっと十四か五だよ。」
「でも色気はあったんだわねえ。」
紫の袴《はかま》をはいたお今が、「ただいま。」と言って帰って来たとき、お増は台所で瓦斯《ガス》の火で、晩の食べ物を煮ていたが、その傍に、お雪も何かの皮を剥《む》きながら、無駄話に耽《ふけ》っていた。
「だんだんよくなるよ、あの娘《こ》は――。」
お雪は自分の部屋へ入って行くお今の後姿を見送りながら、呟いた。
「あんな娘《こ》を傍におくと、険難《けんのん》だよ。」
「ううん、まさか。」
「初めて見た時から見ると、まるで変ったよ。――あんな時分が一番いいわね。何の気苦労もなさそうで。私なんか、長いあいだ何をして来たんだろうと、そう思うよ。――こうしてこんなことして終いに死んじまうんだわね。」
そう言うお雪の横顔が、お増の目に惨《みじ》めに見えた。張合いのなさそうな、懈《だる》いその生活がそぞろに憫《あわ》れまれもした。
「私まだあすこにいた時の方が、いくらか気に引っ立ちがあったよ。出てしまって、かえってつまらなくなってしまいましたよ。」
「でも青柳さんが、そんなことしていれば、やっぱりいい気持はしないでしょうね。」
「何でもありゃしませんよ。」
お雪は剥くものを剥いてしまうと、それを目笊《めざる》に入れて、水口にいる女中の方へ渡した。そして柱に背《せなか》を凭《もた》せて、そこにしゃがんでいた。
「ちょいと、あなたとこのこれはどうして?」
お雪は小指を出して見せて、「もう片着いて?」
「うん、まだ駄目なの。」
お増は眉を顰《ひそ》めた。
「月が変ったら、|お柳《あのひと》の兄さんが田舎からその談《はなし》に出て来ることになってはいるんですけれどね。」
「家の青柳も、堅気になって、何かこんなようなことでも出来ないものかしら。」
お雪は独り語《ごと》のように言っていた。
二十五
「お増さん、今日は私ちょっと家へ行って見て来ますわ。」
お増と差し向いの無駄話や花などに、うかうかした四日や五日はじきに過ぎてしまったある日の晩方、お雪はふと憶い出したように、毎日火鉢の傍に放下《ほったらか》してあった煙管《きせる》を袋に収めて出て行った。
「あなたはほんとうに仕合せだよ。」
お雪は箪笥から出してみせる、お増の新調の着物などを眺めながら、そう言ってうらやましがっていたが、ここに居昵《いなじ》むにつれて、近ごろめっきりお増の生活の豊かになったことが、適切に解って来た。
その日は午後にまわって来た髪結に、二人一緒に髪を結わしなどしたが、お雪は鏡に向って見る自分の、以前はお増などより髪の多かった頭顱《あたま》の地がめっきりすけて来たことが、心細かった。鏡台を据えた縁側の障子からは、薄い日影がさして、濁った顔の色が、黄色く鏡に映っていた。
「こら、こんなに禿《はげ》が大きくなったよ。」
お雪は下梳《したす》きが、癖直しをしているとき、真中のすけた地を、指頭《ゆびさき》で撫でまわしながら、面白そうに笑った。
「もう十年も経《た》ったら、このへんはまるで毛がなくなってしまうよ。」
お増は結立ての頭を据えて、側に莨をふかしながら見ていた。十六、七時分から、妾にやられたり、商売をさせられたりして来た、友達のこの十五、六年間の暗い生活が、振り顧《かえ》られた。
「鼠《ねずみ》の子を黒焼きにして飲むといいなんて、よくそんなことを言ったものだけれど、当てになりゃしない。」
お増はそんなことを思い出していた。
「やっぱり体が弱っているんだよ。」
「とてもやりきれないと思うことがあるものね。」
二人はそう言って、大話をしながら、髪結と一緒に笑った。
家へ帰って行ったお雪が、二、三日してまた訪ねるころには、もう浅井の湯治場から帰って来た家のなかが、何となくごたついていた。
来客のある二階から降りて来たお増の顔は、どこかいつもより引き締って、物思わしげであったが、食べ物の支度に取り散らかされた長火鉢の傍に坐って、銅壺《どうこ》に浸《つか》った酒の燗《かん》などを見ながら、待っているお雪の顔を見ると、意味ありげな目色をして、にやりと笑った。お雪はすぐにそれと呑み込めた。
「お柳さんの兄さんという人が、田舎から出て来たもんだから、急に話をつけることになったの。」
「へえ、その兄さんが来たの。」
「いいえ、間《なか》へ入る人――弁護士よ。」
「うまく行きそう。」
「ううん、どうだか。」
お増は煙管を取りあげて、莨をふかしながら、考え深い目色をしていた。
「これは、とても承知しませんよ。」お増は小指を出してみせた。「だけど、兄さんという人が、田舎で役人をしていて、欲張りなんですって。それがお金次第で、どうでもなりそうなんだと。」
お増は不安そうに呟いた。
「それに、宅《うち》じゃ随分綺麗な話をしているんだもの。先の身の立つように。」
お増は落ち着いて、そこに坐っていなかった。
「あのお嬢さんどうしたの。」
立ちがけにお増が聞いた。
「駄目よ、とうとう物にならずじまいだと。」お雪は苦笑した。
「誰が、あんなお爺さんに引っかかるものか。それに、来てみて、家の汚いのに惘《あき》れたでしょうよ。」
二十六
やがて銚子《ちょうし》を持って、二階へ上って行ったお増は、いろいろの打合せをしている浅井と小林弁護士との側に、お酌などをしながら、二、三十分も坐って話を聴いていると、すぐにまた下へ降りて来た。
お柳の兄が来たという電報を受け取って、浅井が東京へ帰って来るまで、小林はもう二度もお柳の家で兄に会見しているのだということであった。
「どんな人です。」
小林の口から話される、談判の進行模様などを聞きながら、お増が訊きたがるのであった。
小林の談《はなし》によって想像されるあれ以来のお柳は、持病のヒステレーが一層|嵩《こう》じているらしかった。春になってからは、浅井の一度も姿の見せぬ、物寂れた家のなかに、絶望的なその日その日を送っていたが、時々子供などをつれて、浅井の様子を捜《さぐ》りかたがた小林の細君の方へそっと遊びに来た。これまでに、浅井と一緒に苦労して来たことが、そのたびにその口から繰り返されるのであった。
「少し懐が温まって来ると、もうあんな女などに引っかかって。女が悪いんですよ。浅井だって今に目がさめますよ。」
お柳はそう言いながら、どうかすると、居所さえ明かしてくれぬ小林に突っかかるような様子を見せたが、その都度小林の細君に慰められて帰って行った。
小林がとても自分の味方でないことが、じきにお柳に解って来た。
「小林さんだって、ひどいじゃありませんか。」
お柳は、田舎から出て来た兄と談判を進めようとしている小林の傍へ来て、口を開かさないまでに、いきり立って畳みかけた。夜もおちおち眠らないらしいその顔が、げっそり肉が落ちていた。
「私にくれるお金を、その人にくれて手を切らして下さい。」
お柳はそう言って、肯《き》かなかった。
「そんならその人を、自宅《うち》へつれて来ておけばいいじゃありませんか。」
お柳はそこまでも、終いに気が折れて来たのであった。
お柳のそうした苦悶《くもん》を、お増は自分の胸にも響けて来るように感じた。お千代婆さんの家や、途中などで、二度も三度も見かけたことのある、お柳の蒼白い顔や、淋しい痩せぎすな後姿などが、まざまざ目に浮んで来た。
「やっぱりあなたが悪いんですよ。」
お増は浅井の顔を眺めながら、そう思った。どんなことにも驚かないような優しい浅井の目は、怜悧《れいり》そうにちろちろ光っていた。
「兄貴ですか。そうさね。」小林はお増の顔を眺めて、
「かれこれ私くらいの年輩でしょう――四十七、八だね。収税吏もあまりいいところじゃないらしいよ。一度御馳走でもして、金の顔を見せさえすれば、それは請け合って綺麗に纏《まと》まる。金のほしいということは、ありあり見えすいているんだ。」
「お金はみんなその人の懐へ入ってしまうんでしょう。」お増は訊いた。
「どうせそうさ。」
浅井が淋しく笑った。
「いいじゃないか、金がお柳さんの身につこうと着くまいと。」
小林は言い出した。
階下《した》へおりると、お雪がとんだところへ来合わせたというような顔をして、淋しそうに火鉢の側へ膝を崩していた。その前へ来て坐るお増の顔には、胸に溢《あふ》れる歓喜の情が蔽《おお》いきれなかった。
二十七
飲み出すと、いつも後を引く癖のある小林が、浅井と二、三番も碁を闘わしてから、帰って行ったのは、大分遅くであった。
「また始まったよ。」
二階に碁石の音の冴《さ》えだした時に、ちょうどお雪からその令嬢の話など聞かされていたお増は、傍に針仕事をしているお今と、顔を見合わせながら呟いていた。お雪の口からは、お今が熱《ほて》る顔に袖をあてて、横へ突っ伏してしまうほど、きまりの悪いようなことが、話し出された。
「今度私にも加勢しろと、青柳がそう言うんだけれど、いくら何でもそんな罪なこと私に出来やしませんわ。つまり、私が現場へ呶鳴《どな》り込むかどうかするんでしょう。」
「へえ、そんな人の悪いことするの、まるでお芝居のようだね。」
お増は目を丸くした。
「ほんとに私も厭になってしまったのよ。」お雪ははずかしそうにうつむいた。
「そんなことして、法律の罪にならないの。」
「どうだか解りゃしないわ。」
お雪は苦笑していた。
そこへ、ふらふらと降りて来た小林が、茶の間へ入って、女連に揶揄《からか》いながら帰って行った。
「奥さん、今夜からあなたは安心して寝られますよ。」
小林は酒くさい息を吹きながら、
「その代り、今度はあなたの番ですよ。私が明言しておく。」
小林はそう言いながら、衆《みんな》に送り出されて出て行った。
「厭なこと言う人だよ。」
お雪がお今が寝静まってから、お増は蒲団のなかに横たわっている浅井の枕頭《まくらもと》へ来て、莨を喫《ふか》しながら、それを気にしていた。くやしまぎれに、小林に喰ってかかるお柳の険相な顔や、長いあいだ住みなれた東京の家を離れて、兄と一緒に汽車に乗り込んで田舎へ帰って行く姿などが、目に見えるようであった。
「あれだけは、己の失策だったよ。」
浅井が興奮したような顔を抬《もた》げて言い出した。
「己は他に人から非難を受けるような点はないんだ。あれに懲りて、女には今後断然手を出さんということにしよう。」
「そうは行きませんよ。」
お増はまじまじその顔を眺めていた。
「いや、あんな女もちょっとめずらしいよ。こうなるのが、彼奴《あいつ》の当然の運命だよ。己は決して可哀そうとは思わん。」
長いあいだ、お柳に苦しめられて来たことが、浅井の胸に考えられた。
「でも、私は一生あの人に祟《たた》られますよ。」
「莫迦《ばか》言ってら。」
浅井は笑った。
「後悔するのが当然だ。今でこそ話すが、あの女が二日も三日も家をあけて、花を引いてあるく裏面には、何をしていたか解るものか。あの女の貞操を疑えば疑えるのだ。」
「何かそんなことでもあったんですか。」
「まあさ……そういうことはないにしてもさ。とにかくこれでさっぱりしたよ。己はこれまでに、幾度あの女のために、刃物を振り廻されたか知れやしない。それに、あの持病と来ている。まず辛抱できるだけして来たつもりだ。」
「お鳥目《あし》がなくなったら、また何とかいって来ますよ、きっと。」
「そんなことに応じるものか。」浅井は鼻で笑った。
二十八
お柳の手もとに育てられて来た女の子が、お増の方へ引き渡されたのは、お柳|母子《おやこ》がいよいよ東京を引き払って行こうとする少し前であった。小林の家から、浅井が途中で買った翫具《おもちゃ》などを持たせて、その子をつれて戻った時、お増は物珍しそうに、話をしかけたり、膝に抱き上げたりした。
「これがお前の阿母《おっか》さんだよ。今日から温順《おとな》しくして言うことを聞くんだよ。」
浅井にそう言われて、子供はにやにや笑っていたが、誰にも人見知りをしないらしいのが、お増にも心嬉しかった。
昼からつれて来た子供は、晩方にはもう翫具《おもちゃ》を持って、独りでそこらにころころ遊んでいた。
「気楽なもんだね。」お増はお今と、傍からその様子を眺めながら言った。
「ちょいと、どこか旦那に似ていやしなくて。」
お増はその横顔などを瞶《みつ》めながら、呟いたが、それはやはり自分の気のせいだとしか思われなかった。浅井の言ったとおりに、日本橋の方の、ある料理屋に女中をしていた知合いの女と、その情夫《おとこ》のある学生との間に出来た子だというのが、事実らしく思えた。女が情夫《おとこ》と別れて、独立の生活を営むにつけて、足手纏《あしてまと》いになる子供を浅井にくれて、東京附近の温泉場《ゆば》とかへ稼《かせ》ぎに行っているのだということも、真実《ほんとう》らしかった。
「どちらにしたっていいじゃないか。お前だって、今に子供の欲しいと思う時機《おり》があるんだから、これを自分の子だと思っていれば、それでいいわけだ。」
浅井はそう言って、淡白に笑っていた。
年の割りに子供のませたことが、日がたつに従って、お増の目に映って来た。子供はいつかお増の顔色などを見ることを知っていた。自分だけでは、子供と何の交渉を持ち得ないことが、だんだんお増に解って来た。憎むときは打《ぶ》ったり撲《は》ったりして、可愛がるときは頬っぺたに舐《な》めついたり、息のつまるほど抱きしめたりしたヒステレカルなお柳に、長いあいだ子供は弄《いじ》られていたらしかった。
「……可愛くも、憎くもありませんよ。」
子供を傍に据えて、自分の箸《はし》から物を食べさせなどしながら、晩酌の膳に向っている浅井に、子供のことを訊かれると、お増は、いつもそう言って答えるよりほかなかった。
着飾らせた子供の手を引いて、日比谷公園などを歩いている夫婦を、浅井もお増も、どうかすると振り顧《かえ》って見たりなどしたことが、三人連れ立って出歩いている時の、お増の心に寂しく浮びなどした。
「もう二人で歩くのはおかしい。」
浅井はこう言っては、子供の悦びそうな動物園や浅草へ遊びに行った。子供も一緒に見る、不思議な動物や活《い》き人形などがお増の目にも物珍しく眺められたが、電車の乗り降りなどに、子供を抱いたり擁《かか》えたりする浅井の父親らしい様子を見ているのが、何とはなしに寂しかった。
「静《しい》ちゃんや静ちゃんや……。」
お増は時々うっかり物に見入っている子供の名を呼んで、柔かい小さい手を引っ張りなどしたが、やはり気乗りがしなかった。
「母ちゃん――。」
子供は父親のいない家のなかが寂しくなって来ると、思い出したように、抱いてでももらいたそうにお増の側へ寄って来るのであったが、女らしい優しさや、母親らしい甘い言葉の出ないのが、お増自身にももの足りなかった。
お増は茶箪笥の鑵《かん》のなかから、干菓子を取り出して、子供にくれた。
二十九
静子と同じ年ごろの男の子が、時々門の外へ来て、「静子《ちずこ》ちゃん遊びまちょう。」などと声かけた。「はーい。」と奥から返事をして、静子は護謨鞠《ゴムまり》などを持って駈け出して行くのであったが、男の子は時々呼び込まれて家のなかへも入って来た。色の蒼い、体の※[#「兀+王」、第3水準1-47-62]弱《ひよわ》そうなその子は、いろいろな翫具《おもちゃ》を取り出してしばらく静子と遊んでいるかと思うと、じきに飽きてしまうらしかった。
「坊ちゃんのお父さんは何をなさるの。」
二人で仲よく遊んでいる子供のいたいけな様子に釣《つ》り込まれながら、お増はいつか自分の荒く育った幼年時代のことなどを憶い出していた。町垠《まちはずれ》にあったお増の家では、父親が少しばかりあった田畑へ出て、精悍精悍《まめまめ》しくよく働いていた。夏が来ると、柿の枝などの年々なつかしい蔭を作る廂《ひさし》のなかで、織機《はた》に上って、物静かにかちかち梭《ひ》を運んでいる陰気らしい母親の傍に、揺籃《つづら》に入れられた小さい弟がおしゃぶりを舐《しゃぶ》って、姉の自分に揺られていた。夏になるとその子を負《おぶ》って、野川の縁《ふち》にある茱萸《ぐみ》の実などを摘んで食べていたりした自分の姿も憶《おも》い出せるのであった。
男の子は、じきに迎いに来る女中につれられて帰って行った。
「僕の父さん博士でっ。」
子供はお増の問いに答えた。
その博士が、ある大学の有名な教授であることが、おりおり門口などで口を利き合うほどに心易くなった女中の口から、お増に話された。
「旦那さまは、それでも一年に四、五回もいらっしゃるでしょうかね。」
そう言う女中は、小石川の方にある博士の邸《やしき》のことについては何も知らなかった。しかし子供の母親が、逗子《ずし》にある博士の別荘に召使いとして住み込んでいる時分に、ふと博士の胤《たね》を娠《はら》んだのだということや、ある権門から嫁《とつ》いで来た夫人の怒りを怖れてそのことが博士以外の誰にも、絶対に秘密にされてあることだけは知られてあった。
門へ出て、時々子供を見ている、醜いその母親の束髪姿が、それ以来お増の注意を惹《ひ》いた。年のころ五十ばかりの博士は、不断着のまま、辻俥《つじぐるま》などに乗って、たまにそこへやって来るのであったが、それは単に三月とか四月とかの纏まった生活費と養育費とを渡しに来るだけに止まっていた。女は長いあいだ頑《かたくな》な独身生活を続けて来た。そして三千四千と、自分の貯金額の、年々増加して行くと同時に、子供の育って行くのを楽しみに、気の張りつめたその日その日を送っていた。女と子供との関係は、母子というよりは、保姆《ほぼ》と幼児との間柄に近かった。一生夫をもたずに、子供を仕立てて行こうと誓った女の志は、ますます堅かった。
「おそろしい厳しい躾《しつけ》をしますよ。」
その母親とも親しくなったお増は、おかしいほど子供に対する言葉遣いなどを上品ぶる、女の様子を見て来て浅井に話した。
「それごらん、そんなお手本が、ちゃんと近所にあるじゃないか。」浅井が言い出した。
「それもやっぱり欲にかかっているからですわ。」
「それもあるが、子供に対する愛情もある。」
「それは腹を痛めた子ですもの、どうしたって違いますわ。」
外へ出るとき、お増はいつも静子をつれて行った。子供は日増しに母親と気安くなって来た。
田舎へ帰ってからのお柳の病気がちなことが、夫婦の耳へもおりおり伝わって来た。
「死んだらお前にとっつくだろう。」
浅井は時々お増を揶揄《からか》った。
三十
盆過ぎに会社から休暇を貰った良人と一緒に、静子をつれて、一ト月たらずも、そっちこっち旅をして帰って来たお増は、顔や手首が日に焦《や》けて、肉も緊《しま》って来たようだったが、健康は優《すぐ》れた方ではなかった。一日青々した山や田圃《たんぼ》を見て暮したり、ぴちぴちする肴《さかな》に、持って来た葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲んだり、胸のすがすがするような谿川《たにがわ》の音にあやされて、温泉場《ゆば》の旅館に、十幾年来覚えなかった安らかな夢を結んだりした時には、爛《ただ》れきった霊《たましい》が蘇《よみがえ》ったような気がしたのであったが、濁った東京の空気に還《かえ》された瞬間、生活の疲労が、また重く頭に蔽《お》っ被《かぶ》さって来た。
汽車がなつかしい王子あたりの、煤煙《ばいえん》に黝《くす》んだ夏木立ちの下蔭へ来たころまでも、水の音がまだ耳に着いていたり、山の形が目に消えなかったりした。長いあいだ見た重苦しい自然の姿が、終いに胸をむかむかさせるようであった。
「静《しい》ちゃん。もう東京よ。」
お増は胸をどきつかせながら、心が張り詰めて来るのを感じた。
日暮里《にっぽり》へ来ると、灯影《ひかげ》が人家にちらちら見えだした。昨日まで、瀑《たき》などの滴垂《したた》りおちる巌角《いわかど》にたたずんだり、緑の影の顔に涼しく揺れる白樺《しらかば》や沢胡桃《さわぐるみ》などの、木立ちの下を散歩したりしていたお増の顔には、長いあいだ熱鬧《ねっとう》のなかに過された自分の生活が、浅ましく振り顧《かえ》られたり、兄や母親たちと一緒に、田舎に暮しているお柳の身のうえが、哀れまれたりした。
「こんなところに一生暮したら、どんなにいいでしょう。」
お増は涙含《なみだぐ》んだような目色をして、良人に呟いた。
子供の時分、二、三度遊びに行ったことのある、叔父の住まっている静かな山寺のさまが、なつかしく目に浮んだりした。
「あなたに棄てられたら、私あすこへ行って、一生暮しますよ。」
気を紛らすもののない山の生活が、孤独のたよりなさと、生活のはかなさとに、お増の心を引き入れて行った。
「何といったって、自分の家が一番いいのね。」
お増は、お今などに世話をしてもらった風呂から上ると、ばさばさした浴衣姿《ゆかたすがた》で、縁側の岐阜提灯《ぎふぢょうちん》の灯影に、団扇《うちわ》づかいをしながらせいせいしたような顔をしていた。
簾《すだれ》を捲《ま》きあげた軒端《のきば》から見える空には、淡い雲の影が遠く動いていた。星の光も水々していた。
濡《ぬ》れた髪に綺麗に櫛《くし》を入れて、浅井の坐っているお膳のうえには、お今が拵えた料理が二、三品並んでいた。浅井は、この夏期の講習で、大分料理の品目の多くなったらしいお今の手際を、物珍しそうに眺めながら、もうちびちび酒を始めていた。
お今が一ト夏のうちに、めっきり顔や目などに色沢《つや》や潤いの出て来たことがお増の目に際立って見えた。
「お前さん、よっぽど幅がついたよ。」
「めっきり女ぶりがあがった。」
浅井も気持よげにその顔を眺めた。
「若いものはやっぱり違いますよ。私なぞ、いくら旅行したって駄目。」
「あら、あんな……田舎の女ばかり見ていらしったせいでしょう。私こんなに肥《ふと》って、どうしようかと思いますわ。」
お今は浅井の出した猪口にお酌をした。
三十一
冬になってから、お増は再び浅井に送ってもらって、伊豆の温泉《ゆ》へ入浴に出かけて行ったが、その時も長くそこに留まっていられなかった。
冷えがちな細い腰に、毛糸や撚《ネル》などの腰捲きを、幾重にも重ねていたお増は、それまでにも時々医者に診《み》てもらいなどしていたが、ちょっとやそっとの療治では快《よ》くなりそうもなかった。
「思いきって、根本療治をしえもらわなくちゃ駄目だよ。」
浅井は、下《お》りものなどのした時、蒼い顔をして鬱《ふさ》ぎ込んでいるお増に言ったが、お増はやはりその気になれずにいた。
「前には平気で診てもらえたんですけれど、この節は、あの台のうえに上るのが、厭で厭でたまりませんよ。」
お増はそう言って、少しの間毎日通うことになっている、病院の方さえ無精になりがちであった。
伊豆へ立つときも、このごろ何かのことに目をさまして来たらしいお今のことが、気になってしかたがなかった。浅井の傍に、飯の給仕などをしている、処女らしいその束髪姿や、弾《はず》みのある若々しい声などが、お増の気を多少やきもきさせた。
お今に自分が浅井の背《せなか》を流さしておいた湯殿の戸の側へ、お増はそっと身を寄せて行ったり、ふいに戸を明けて見たりした。
「いい気持でしょう。」などと、お増は浅井の気をひいて見た。
浅井は「ふふ。」と笑っていた。
お今は何の気もつかぬらしい顔をして力一杯|背《せなか》を擦《こす》っていた。
お増と二人で行きつけの三越《みつこし》などで、お今に似合うような柄を択《よ》って、浅井は時のものを着せることを忘れなかった。
「お今ちゃん、旦那がこれをお前さんのに買って下すったんですよ。仕立てて着るといいわ。」
お増は品物をそこへ出して、お今にお辞儀をさせたが、自分にもそれが嬉しく思えたり、妬《ねた》ましく思えたりした。お今の年ごろに経て来た、苦労の多い自分の身のうえを、考えないわけに行かなかった。
伊豆の温泉場《ゆば》では、浅井は二日ばかり遊んでいた。海岸の山には、木々の梢が美しく彩《いろど》られて、空が毎日澄みきっていた。小高いところにある青い蜜柑林《みかんばやし》には、そっちこっちに黄金色した蜜柑が、小春の日光に美しく輝いていた。
湯からあがって、谿川の音の聞える、静かな部屋のなかに、差し向いに坐っている二人のなかには、初めて一緒になった時のような心の自由と放佚《ほういつ》とが見出されなかった。そして何か話し合ったり、思い出したりしていると思うと、それが過去のことであったり、前途《さき》のことであったりした。
「前《まえ》やい――。」
浅井は海や人家などの幽《かす》かに見える山の麓《ふもと》に突っ立っていたとき、大きな声を張り上げて叫んだ。そして独りで侘《わび》しげに笑った。声は何ほどの反響をも起さないで、淋しく山の空気に掻き消えた。
「おっと危い危い。」
浅井は足元の崩《ぐ》れだした山腹の小径《こみち》に踏み留まって、お増の手に掴《つか》まった。
「いやね。」とお増はその手を引っ張ったが、心は寂しいあるものに涵《ひた》されていた。蜜柑の匂いなどのする四下《あたり》には、草のなかに虫がそこにもここにも、ちちちちと啼いていた。
にやにやしている男の顔を、お増は時々じっと瞶《みつ》めていた。悪戯《いたずら》な企《たくら》みが、そこに浮いてみえるようであった。
三十二
浅井の行ってしまった寂しい部屋のなかに、お増は毎日湯疲れのしたような体を臥《ね》たり起きたりして暮したが、どうかすると草履《ぞうり》ばきで、外へ散歩に出かけることもあった。
部屋の硝子障子から見える川向うの山手の方に、がったんがったんと懈《だる》い音を立てて水車が一日廻っていたが、小雨《こさめ》などの降る日には、そこいらの杉木立ちの隙に藁家《わらや》から立ち昇る煙が、淡蒼《うすあお》く湿気のある空気に融《と》け込んで、子供の泣き声や鶏《とり》の声などがそこここに聞えた。春雨のような細い雨が、明るい軒端《のきば》に透しみられた。
垠《はずれ》の部屋へ来ている、気楽な田舎の隠居らしい夫婦ものの老人《としより》の部屋から碁石の音や、唐金《からかね》の火鉢の縁にあたる煙管の音が、しょっちゅう洩れて来たが、つい隣の隅の方の陰気くさい部屋にごろごろしている一人の青年の、力ない咳《せき》の声が、時々うっとりと東京のことなどを考えているお増の心を脅《おびや》かした。
「毎日雨降りでいけませんな。」
廊下へ出て、縁《へり》に蘇鉄《そてつ》や芭蕉《ばしょう》の植わった泉水の緋鯉《ひごい》などを眺めていると、褞袍姿《どてらすがた》のその男が、莨をふかしながら、側へ寄って来て話しかけた。男はまだ三十にもならぬらしく、色の小白い、人好きのよさそうな顔をしていた。時々高貴織りの羽織などを引っかけて川縁《かわべり》などを歩いているその姿を、お増は見かけていた。
「さようでございますね。」
お増は愛想らしく答えたが、よく男にでたらめな話の応答《うけこたえ》などの出来た以前の自分に比べると、こうした見知らぬ男などと口を利くのが不思議なほど億劫《おっくう》であった。
どの部屋もひっそりと寝静まった夜更《よなか》に、お増の耳は時々雨続きで水嵩《みずかさ》の増した川の瀬音に駭《おどろ》かされた。電気の光のあかあかと照り渡った東京の家の二階の寝間の様などが、目に映って来た。そこに友禅模様の肩当てをした夜着の襟から、口元などのきりりとした浅井が寝顔を出していた。階下《した》に寝ているお今のつやつやした髪や、むっちりした白い手なども、幻のように浮んで来た。疲れた頭の皮一重が、時々うとうとと眠りに沈むかと思うと、川の瀬音が苦しい耳元へ、またうるさく寄せて来たり、隣室の男の骨張った姿が、有明けの灯影におそろしく見えたりした。
そこへ夜番の拍子木の音が、近づいて来た。
夜のあけるに間もないころに、お増は湯殿の方へ独り出て行った。まだ人影の見えない浴槽《ゆぶね》のなかには、刻々に満ちて来る湯の滴垂《したた》りばかりが耳について、温かい煙が、燈籠《とうろう》の影にもやもやしていた。
婦人病らしい神さん風の女や、目ざとい婆さんなどが、やがて続いて入って来た。
お増が湯からあがるころには、外はもうしらしらと明けて来た。
「翌朝《あした》こそ帰りましょう。」
昨夜《ゆうべ》一晩中思い続けていたお増は、朝になると、いくらか気が晴れて、頭脳《あたま》のなかのもやもやした妄想《もうそう》が、拭うように消えて行った。
雨の霽《あが》った空には、山の姿がめずらしくはっきりして見えた。部屋から見える川筋にも、柔かい光が流れていた。
朝飯の膳のうえに、病気の容体を気にしているお今の葉書が載っていた。家には何のこともないらしかった。
三十三
三週間というのを、やっと二週間そこそこで切り揚げて来たお増は、嶮《けわ》しい海岸の断崖《だんがい》をがたがた走る軽便鉄道や、出水《でみず》の跡の心淋《うらさび》しい水田、松原などを通る電車汽車の鈍《のろ》いのにじれじれしながら、手繰《たぐ》りつけるように家へ着いたのであった。いつも、じーんと耳の底が鳴るくらい淋しい湯宿の部屋にいつけた頭脳《あたま》は、入って来た日暮れ方の町の雑沓《ざっとう》と雑音に、ぐらぐらするようであった。
お増はがっかりしたような顔をして、べったり長火鉢の前に坐って、そこらを見廻していた。
「まあ早かったこと。」
お今が荷物を持ち込みなどした。浅井はまだ帰っていなかった。
「このごろは、それはお帰りが遅いのよ。だから淋しくて淋しくてしようがなかったの。ねえ静《しい》ちゃん。」
お今は今まで台所にいた、白いエプロンをかけたまま、散らかった雑誌などを片着けていた。静子は含羞《はにか》んだような顔をして、お増が鞄から出す、土産《みやげ》ものの寄木細工の小さい鏡台などを弄《いじ》っていた。
「へえ、いいもの貰ったわね。」
お今もそこへ顔を寄せて行ったが、冬になってから、皮膚が一層白くなっていた。
お増はもの足りなさそうな顔をして、火鉢の傍を離れると、箪笥などの据わった奥の間へ入って見たり、二階へあがって、人気のない座敷の電気を捻《ひね》って見たりした。押入れをあけると、そこに友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の夜具の肩当てや蒲団をくるんだ真白の敷布の色などが目についた。
「何も変ったことはなかったの。」
お増は階下《した》で着更えをすると、埃《ほこり》っぽい顔を洗ったり、袋から出した懐中鏡で、気持のわるい頭髪《あたま》に櫛を入れたりしていた。
「え、別に……姉さんがいないと、家はそれはひっそりしたものよ。それにどうしたって兄さんがお留守がちでしょう。」
「浮気しているのよきっと。鬼のいない間《ま》にと思って。」
お増は淋しく笑った。そして脱棄てや着替えを畳みつけて、奥へしまい込もうとするお今に、「それはそうやっておいて頂戴。一遍干すから。」と声かけた。
湯の熱の体にさめないようなお増は、茶漬で晩飯をすますと、まだ汽車に揺られているような体を、少し座蒲団のうえに横になって、そこにあった留守中の小使い帳や、書附けなどを眺めていた。
「誰も来なかったの。」
「ええどなたも。」とお今は箸を休めて、考えるような目色をして、「そうそう、根岸のあの神さんが二度ばかり来てよ。何だかあすこに事件が持ち上ったようなんですよ。」
「へえ、そう。」と、お増は顔をあげたが、お今は赤い顔をして、笑ってばかりいて、後を話さなかった。
「おかしな子だよ、お前さんは。」
お増はじれったそうに呟いた。
「姉さん、男って皆なそんなものでしょうか。」
お今は真面目な顔をこっちへ向けたが、じきに横を向いて噴笑《ふきだ》してしまった。
「何がさ。」
「だっておかしいんですもの。」お今は、また顔に袖を当てて笑いだした。
「いやだね。この子は、色気がついたんだよ。」お増は眉をしかめた。
「嘘よ。」
「旦那に、何か揶揄《からか》われたんだろ。」
お増は苛《いじ》めて見たいような気がしたが、お今のけろりとしているのが、張合いがなかった。
三十四
一時ごろに、浅井が腕車《くるま》で帰って来るまで、お増は臥床《ねどこ》に横になったり、起きて坐ったりして待っていた。時々下の座敷へも降りて見た。つい先刻《さき》ほどまで、このごろ静子と一緒に寝ることになっているお今が、枕頭《まくらもと》に明りをつけて、何やら読んでいたのであったが、それもそのころにはもう深い眠りに陥ちていた。
宵にお今が話しかけたことを、お増は二度も訊いて見たが、ふいと子供らしい無邪気さから、大人のような取り澄ました態度に変る癖のあるお今は、「つまらないことなの。」と言ったきりで、何にも話さなかった。お今は一通り家政科に通じてから、帰って行くことになっている、自分の田舎で生活したものか、それとも好きな東京で暮したものかと、時々それをお増などに相談するのであったが、結婚とか独立生活とかいうことについても、自分自身の心持がかなり混乱しているらしかった。
「旦那に相談して、いいお婿さんを世話してもらったらいいじゃないの。」
お増はそのたびに、無造作にそう言った。
「伎倆《はたらき》のある商人か、会社員がいいよ。男ぶりなどはどうでもいいのよ。」
お増はそうも言ったが、最初たよって来た時から見ると、お今の心が大分自分から離れていることなどが、お増にもちらちら感ぜられた。自分の家のような心易さで、お互いに往来《ゆきき》のできそうなお今の家庭が、自分の思いどおりに作られそうもないことが寂しくもあり安易でもあった。
「だんだん生意気になりますよ。」
お増は夫婦でお今の噂をしている折々などに、浅井に話したが、笑って聞いている浅井はそれを受け入れそうにも見えなかった。
「あなたがちやほやするから、なおさらなんですよ。」
「まさか。世間がそうなんだよ。」
「あなたはやっぱり若い女がいいものだから。」
浅井はにやにやしていた。
「だから、いい加減に田舎へ還《かえ》す方がいいんですよ。せっかく世話して、喧嘩《けんか》でもしちゃつまらないから。きっとそうなりますよ、終《しま》いには……。」
「それもよかろう。」
浅井は争いもしなかったが、お今を排斥することは、お増にも心寂しかった。後から後からと、機嫌を取って行く、お今の罪のない様子が、可愛くも思われた。
「そんな深い考えも持ってやしないよ。」
お増が少し悔いたような時に、浅井の言い出す言葉が、男だけに大様《おおよう》だとも感心されるのであった。
玄関へあがって来た浅井は、どこか落着きがなかった。酒の気のある顔の疲れが、お増の一瞥《ひとめ》にも解った。
「ちと早いじゃないか。」
浅井は火の気のまだ残っている火鉢の前に坐ると、言い出した。このごろちょいちょい逢っている女の家で、今日もそれらの人たちに取り捲かれて花などを引いて夜を更かしたのであったが、この三、四日の遊びに浸っていた神経が、興奮と倦怠《けんたい》とに疲れていた。お今の若々しい束髪姿が、そんな時の浅井の心に、悪醇《あくど》い色にただれた目に映る、蒼いものか何ぞのように、描かれていた。
「己は少《わか》い女は嫌いだよ。」
何か言い出すお増に、始終そう言っていた浅井の頭脳《あたま》に、お今のことが、時々考えられた。
三十五
猫板《ねこいた》のうえで、お増が途中から買い込んで来た、苦い羊羹《ようかん》などを切って、二人は茶を飲みながら、ぼそぼそ話していたが、すぐにそこらを片着けて二階へ上って行った。
「あんなものに手を出すなんて、あの爺さんもよっぽど焼きがまわっているんですよ。」
召使いの少女が妊娠したという、根岸の隠居の噂が、生欠《なまあくび》まじりに浅井の口から話された時、お増はそう言って眉を顰めた。夜更けて馴染みの女から俥に送られて帰って来た良人《おっと》と、しばらくぶりでそうして話しているお増の心には、以前自分のところへ通って来る浅井を待ち受けた時などの、焦燥《いらいら》しさがあった。
東京近在から来ている根岸の召使いを、お増も一、二度見かけたことがあった。女の身元保証人になっている、女の伯父《おじ》だという男から持ち込まれた難題に、お爺さんも妾のお芳も蒼くなっていた。それを浅井が間《なか》へ入って、綺麗に話をつけてやったのであった。女には、別に男のあるらしいことが、じきに浅井の目に感づかれた。浅井は商業に失敗して、深川の方に逼塞《ひっそく》しているその伯父と一度会見すると、こっちから逆捻《さかね》じを喰わして、少しの金で、事件の片がぴたりついてしまった。
「でも隠居は、やっぱり自分の子だと思っているらしい。私のやり方が、少してきぱきし過ぎるといった顔をしているからおかしい。」
浅井は重い目蓋《まぶた》をとじながら、懈《だる》そうに笑った。
「あなただって、女には随分|惚《ほ》れる方ですよ。」
お増はまだ離さずにいた莨を、浅井の口に押しつけなどした。
「ふふ。」と、浅井は今まで一緒にいた女の匂いが、まだ嗅《か》ぎしめられるような顔をして、溜息を洩らした。浅井のその女と、かなり深い関係を作っていることは、前からお増にも感づかれていたが、そんな時には、浅井の活動ぶりも、一層目ざましかった。収入も多かったし、自分のわがままも利いた。お増はその隙に、家をつめて物を拵えたり、金で除《の》けたりすることを怠らなかった。
「あまりやかましく言っちゃ駄目ですよ。遊ぶような時でなくちゃ、お金儲けは出来やしないの。」
小林の妾などと、女同士寄って、良人の風評《うわさ》などしあうとき、お増はいつもそう言っていた。
「浮気されると思や、腹も立つけれど、きりきり稼がしておくんだと思えば、何でもないじゃないの。私はこのごろそう思っていますの。」
お増はそうも言った。
翌朝《あした》目のさめたころには、縁側の板戸がもう開けられてあった。欄干《てすり》には、昨夜《ゆうべ》のお増の着物などがかけられて、薄い冬の日影が、大分たけていた。聞きなれた静子の唱歌の声も、階下から洩れて来た。
三十六
じきに、思いがけない縁談のことで、お今が一旦田舎へ呼び戻されることになった。
お今が、どうしても厭な田舎へ、ちょっとでも行って来なければならぬことに決まるまでに、二度も三度も、兄から手紙が来た。兄は郡役所などへ勤めて、田舎でも野原《のら》へなど出る必要もない身分であったが、かなりな製糸場などを持って、土地の物持ちの数に入っているある家の嫁に、お今をくれることに、肝《きも》を煎《い》ってくれる人のあるのを幸い、浅井に一切を依託してあった妹を急に自分の手に取り戻そうとするのであった。
婿にあたる男は、以前東京にもしばらく出ていたことがあった。妙に紛糾《こぐらか》った親類筋をたどってみると、その家とお今の家との、遠縁続きになっていることや、その製糸工場の有望なことや、男が評判の堅人《かたじん》だということなどが、兄の心を根柢《こんてい》から動かしたらしかった。
東京の生活の面白みに、やっと目ざめて来たお今の柔かい胸に、兄の持ち込んで来た縁談が、押石《おもし》のように重くかかって来た。日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄《もや》か何ぞのような雰囲気《ふんいき》のなかに、お今の心を涵《ひた》しはじめるのであった。
「兄さん、私どうしたらいいんでしょう。」
お今に長いその手紙を出して見せられた時、兄の言い条の理解のないことが、浅井に腹立たしく思えた。
お今が、田舎へ呼び戻されることに、同意しているらしいお増が、ちょうど子供をつれて、行きつけの小林の妾宅《しょうたく》へ遊びに行っていた。
「どうといっても、私が喙《くち》を出す限りでもないが……。」
浅井もお今のために、安全な道を選ばないわけに行かなかった。
「しかしお今ちゃんはどう思うね。」
浅井は手紙を捲き収めながら、お今の顔を眺めていた。
「わたし?」お今は甘えるような目色をして、「私東京がいいんですの。東京で独立ができさえすれば、私田舎へなぞ行くのは、気が進まないんです。私独立ができるでしょうか。」
「そうなれば、またその談《はなし》にしなければならんがね。それは後の問題として、田舎へ引っ込むのがどうしても厭なら、一応私の方から、兄さんの方へ言って上げてもいい。私にしたところで、兄さんのしかたは少し勝手だと思う。」
しかし浅井の言ってやったことは、田舎では受け入られそうもなかった。とにかく、本人を一度よこして下さい。この手紙が着き次第すぐにも立たして下さい――そう言って兄の方から折り返し浅井に迫って来た。その手紙は、お増の前にも展《ひろ》げられた。夫婦はちょうどお今をつれて、暮の買物をしに、銀座の方へ出かけて行こうとしているところであった[#「あった」は底本では「あつた」]。新しい足袋《たび》をはいて、入れ替えたばかりの青い畳のうえをそっちこっちわさわさ歩いているお増の衣摺《きぬず》れの音が忙しそうに聞えたり、下駄を出すお今の様子が、浮き浮きして見えたりした。浅井は外出のそわそわした気分を撹《か》き乱されて、火鉢の傍に坐って、手紙を繰り返し眺めていた。
「やっぱり[#「やっぱり」は底本では「やつぱり」]返してくれと言うんでしょう。」
お増も、半襟を掻き合わせなどしながら、傍へ寄って来た。
「返した方がよござんすよ。」
お増は顔を顰めながら言い足した。
「田舎の人は、これだから困る。」
浅井は手紙を火鉢の抽斗《ひきだし》へそっと入れて、起ちあがった。
「それならそれで、立たす支度をしなけあならん。」
三十七
明日はいよいよお今が立って行くという日の来た時などは、浅井は外へ出てもじきに帰って来た。そこにお増が病院へ行っている留守を、お今は独りで、階下《した》の座敷で新しい自分の着物を縫っていた。静子もお今に一枚一枚縫ってもらった人形の蒲団や着物や、大きい小さいいろいろの人形の入った箱を出して、傍に遊んでいた。箱のなかにはいつもするように、屏風《びょうぶ》などを立て、人形の家族が寝かされてあった。
「女の子って、こんな時分から厭味なことをして遊ぶのね。」
お増は時々不思議そうにそれを眺めて、笑っていた。
「姉さんが帰ってしまったら、お前もう人形の着物など縫ってもらえやあしないぜ。」
寒い外から入って来た浅井は、そこに突っ立って、手袋を取りながら言った。
「嘘ですね。姉さんはじき帰って来るんですよ。」
お今は淋しげに自分を眺める静子に言いかけて、糸屑《いとくず》を払いながら起ちあがると、浅井の着替えをそこへ持ち出して来た。翌朝《あした》着て行く襦袢《じゅばん》が、そこに出来かけていた。お今の胸には、すっかり東京風に作って、田舎の町へ入って行くときの得意さや、兄や母に逢って、自分の動かしがたい希望を告げて、自由な体になって、再び東京へ出て来る時の楽しさや不安などが、ぼんやりと浮んでいた。
「帰ってしまえば、どうせそれきりになっちまいますよ。」
お増はお今の前でもそう言っていたが、お今の頭脳《あたま》には、自分の陥ちて行く道がはっきりしていなかった。
「私どうしても、帰って来ますわ。お正月までには、きっと来てよ。」
お今はそのたんびに言い張った。
浅井は火鉢の傍で、買って来た汽車の時間表などを、熱心に繰って見ていた。
「これがいい。朝の急行が……。」などと、浅井はそこのところを指して、茶をいれているお今に示《み》せた。
お今はそこへ手をついて、顔を突き合わせるようにして、畳のうえにある時間表を眺めていた。強い力で、体を抱きすくめられるような胸苦しさが感ぜられて来た。田舎へ立つことになってから、今まで挾まっていた何ものかが、急に二人の心に取り除かれたのであった。
「私今度出て来たら、またこっちへ来てもいいでしょうか。」
お今はふと想い出したように頭を抬《あ》げた。
「いいとも。」
浅井は頷《うなず》いて見せたが、女を別のところに置いてみたいような秘密の願いが、新しく心に湧《わ》いていた。
「しかし十分お今ちゃんの力になろうというには、ここでは都合がわるいかも知れない。」
浅井は女を煽動《せんどう》するような、危険な自分の好奇心を感じながら言った。
静子の後向きになって、人形に着物を着せたり脱がしたりしている姿が、しんとした部屋の襖《ふすま》の蔭から見られた。その目が、時々こっちを振り顧《かえ》った。
野菜ものを買いに出て来た婆やと、病院から帰ったお増とが、ちょうど一緒であった。
翌朝《あした》お今のたつ時、浅井は二階の寝室《ねま》でまだ寝ていた。階下《した》のごたごたする様子が、うとうとしている耳へ、伝わって来た。
やがてお今があがって来て、枕頭《まくらもと》へ旅立ちの姿を現わした。
「それではちょっと帰ってまいります。」
そこへ手をついてお今があらたまった挨拶をした。
三十八
お今を還《かえ》してしまってからの浅井は、この日ごろ張り詰めていた胸の悩ましさから、急に放たれたような安易な寂しさが、心に漲《みなぎ》って来た。静子をつれて、停車場まで見送って行ったお増が、二時間ばかり経ってから帰って来るまで、浅井はうとうとと寝所《ねどこ》のなかに、とりとめのない物思いに耽っていたが、展開せずに、幕のおりてしまったような舞台の光景がもの足りなくも思えた。やがて新しい幕が、自分の操《あやつ》り方一つでそこに拡がって来そうであった。
「ただいま。どうもいろいろ有難うございました。」
お増は帰りに静子の手をひいてぶらぶら歩いたついでに銀座から買って来た、セルロイドの小さい人形や、動物などを、浅井の枕頭《まくらもと》へ幾個《いくつ》も幾個も転《ころ》がしながら、面白そうに笑った。
「ちょいと御覧なさいよ。」
「ふふ。」浅井も笑いながら、尻に錘《おもり》のついた動物どもを、手に取りあげて眺めていた。
「外に出てみると、年の少《わか》い女が目につきますね。」
お増は枕頭《まくらもと》を起ちがけに思い出したように呟いた。
「どうしたって、女は十六、七から二十二、三までですね。色沢《いろつや》がまるでちがいますわ。男はさほどでもないけれど、女は年とるとまったく駄目ね。」
浅井はやっぱりふふと笑っていた。
浅井が床を離れて、朝飯をすまし、新調の洋服に身を固めて、家を出たときには、活動の勇気と愉快さが、また体中の健やかな脈管に波うっていた。込み合う電車のなかで、新聞を拡げている彼の頭脳《あたま》には、今朝立ったお今の印象さえ、もう忘られかけていたが、帰ってからの女の身のうえのどうなって行くかが、何となし興味を惹いた。
殺人や自殺などの、血腥《ちなまぐさ》い三面雑報の刺戟づよい活字に、視線の落ちて行った浅井の心に、田舎へ帰ってから、気が狂ったというお柳のことが、ふと浮んで来た。浅井は目を瞑《つぶ》って、別れたその女の悲惨な成行きを考えて見た。一緒にいるころ、心に絡《まつ》わりついていた女の厭《いと》わしい性癖や淫蕩《いんとう》な肉体、だらしのない生活、浪費、持病、ヒステレカルな嫉妬《しっと》――それらが、今も考え出されるたびに、劇《はげ》しい憎悪《ぞうお》の念に心を戦《おのの》かせるのであった。
「お今なども、年とったらやっぱりあんなになるかも知れない。」
浅井はそうも考えた。
金に目の晦《くら》んだ兄に引き摺《ず》られて、絶望の淵《ふち》へ沈められて行った、お柳に対する憐愍《れんびん》の情が、やがて胸に沁《し》み拡がって来た。
お柳の狂気《きちがい》になったことは、小林へあてての、お柳の兄からの手紙によって知れた。持って行った手切れの金などの、じきに亡くなってしまったことなどが、その手紙の文句から推測された。東京にいる時分に、もう大分兄の手で費消されたような様子も、小林の話でわかっていた。田舎へ帰ったときには、お柳のものといっては、もう何ほども残っていないらしかった。兄は不時に手にした大金に、急に大胆な山気が動いて、その金を懐にして相場に手を出したらしかった。
お柳がふとある晩、東京へ行くといって、騒ぎ出したのは、この冬の初めのことであった。子供などを多勢かかえた嫂《あによめ》から厄介《やっかい》ものあつかいにされるのを憤って、お柳はそれまでにも、二度も三度も、兄と大喧嘩を始めたのであった。
「今となっては、君よりも、君の細君よりも、自分の兄を呪《のろ》っているらしいのだ。」
浅井は小林からそんなことも聞かされたのであった。
三十九
会社の事務室へ入って行った浅井は、いつもかけつけの、帳簿などのぎっしり並んだデスクの前に腰かけたが、心が落ち着かなかった。建築物の請負いや地所売買の仲介などを営業としているその会社で、浅井は近ごろかなりな地位を占めて来たが、そこまで漕ぎつけるまでには、一身上にいろいろの変遷があった。会社内の誰にもそんなに頭を下げずに通されるようになった浅井は、時々過去を振り顧《かえ》ったり、立っている自分の脚元を眺めずにはいられなかった。関係したさまざまの女が、頭脳《あたま》に閃《ひらめ》いた。経済や自分の機嫌を取ることの上手なお増と一緒になってから、めきめき自分の手足が伸びて来た。
「お柳さんのような人と一緒にいては、とても有達《うだつ》があがりませんよ。」
いつかそんなことをお増にいわれたが、それはそうかも知れないと、浅井も心に頷けた。
「それに、己もちょうど働きざかりだ。これで女にさえ関係しなければ、己も一廉《ひとかど》の財産ができる。」
浅井は呟いたが、それだけではやっぱりその日その日の満足が得られそうもなかった。
「ちっと女からも取っておいでなさいよ。」
お増は笑談らしく言うのであった。
「それじゃやっぱり駄目だ。金を費《つか》うからこそ面白いんだ。」
客に接したり、手紙の返辞を書いたりしていると、じきに昼になった。紛糾《こぐらか》った事務に没頭した彼の忙しい心に、時々お今のことが浮んだ。隔たってからの少女から、どんな手紙が書かれるかが、待ち遠しいようであったが、仮に女を自分のものにしてしまってからの、内外の事件の煩わしさが、今から想像できるようであった。
四時ごろに、会社を出て行った浅井と、一人の友達の姿が、じきにそこからほど近い、とある新道のなかへ入って行った。隘《せま》いその横町には、こまごました食物屋が、両側に軒を並べていた。やがて二人は、浅井が行きつけの小じんまりした一軒の料理屋の上り口に靴をぬぐと、堅い身装《みなり》をした女に案内されて、しゃれた二階の小室《こま》へ通った。
箸と猪口《ちょく》の載った会席膳が、じきに二人の前におかれて、気づまりなほど行儀のいい女が、酒のお酌をした。ほどのいい軽い洒落《しゃれ》などを口にしながら、二人はちびちび飲みはじめたが、会社の重役や、理事の風評《うわさ》なども話題に上った。女遊びの話も、酒の興を添えていた。
そこを出たころには、もう灯影が町にちらついていた。
退《ひ》ける少し前に、会社へ電話のかかって来た、赤坂の女の方へ、浅井は心を惹かれていた。浅井はその女と、しばらく逢わずにいたのであった。
「どうなすって。いつかけてもあなたはいらっしゃらないのね。」
女は笑いながら、浅井の安否をたずねた。
「私あなたのことで、少しよそから聞いたことがあるのよ。」
「何だ何だ。」と、浅井は少しまごついたような返事をしたが、多分知合いの小林の妾からでも聞いた内輪のことだろうと思った。
幾年ぶりかで、浅井はその晩、お増がもといた家をそっと訪ねて見た。
そのころの女の、もうほとんど一人もいなくなったその家の、広い段梯子《だんばしご》をあがって行く浅井の心には、そこを唯一の遊び場所にした以前の自分の姿が、目に浮んで来た。
「おや、黴《かび》の生えたお客様がいらしたよ。よく道を忘れませんでしたね。」
浅井は廊下で見つかって古い昵《なじ》みの婆さんに、惘《あき》れた顔をしてそこに突っ立たれた。
四十
帰って行った当座、二、三度手紙が来たきり、ふっつり消息の絶えていたお今が、不意に上京して来たのは、翌年《よくとし》の一月も十日を過ぎてからであった。
親や兄の意志一つで、すっかり取り決められてしまった縁談が、お今の思いどおりに、壊《こわ》されそうもない事情が、最初の手紙でわかっていたが、談《はなし》の長引くうちに、先方の親たちの気の変って来たような様子が、後の音信《たより》でほぼ推測された。お今の家よりも、身代などのしっかりした嫁の候補者が、他からも持ち込まれて来た。前にしかけた談《はなし》で、かなり親たちの気に入った口も一つ二つはあった。
「……縹緻《きりょう》ばかりやかましく言う人だそうですから、これまでにもいくたびとなく、世話人を困らせたのだそうです。私はその人と見合いもしましたが、どんな人でしたかよくも見ませんでした。見合いは媒介人《なこうど》の家でしたのでしたが、私は目をつぶって、その人と結婚することに決心しました……。」
そんなことが、初めのうち手紙に書かれてあった。
「……媒介人《なこうど》の無責任から、話に少し行違いが出来たのだそうでございます。そんな財産家のうちへ、私を世話しようとしたのが、頭から間違っていたのです……。」
暮に来た手紙には、そんなことが書かれてあった。
「財産家財産家って、一体いくらあるんだ。」
浅井は手紙を読んで聞かせながら、お増に訊いたが、お今の萎《しお》れている様子が、いじらしいようであった。
「出来たと言っても、一代|身上《しんしょう》ですからね、大したことはないんでしょう。」
上京したお今の頭には、そんな事件の前後に経験された動揺がまだ全く静まりきらずにいた。お増の古の仕立て直しのコートなどを着て、一旦送り返された荷物を、また持ち込んで来た時、浅井夫婦は、晩飯の餉台《ちゃぶだい》の側で、静子を揶揄《からか》いながら、賑やかな笑い声を立てていたが、気の引けるお今は長く居昵《いなじ》んだ、そこへ顔を出すさえきまりが悪そうであった。
「ほら姉さんが来ましたよ。あなたの好きな姉さんですよ。」
お増は自分の膝に凭《もた》れかかって、含羞《はにか》んだようにお今の顔ばかり眺めている、静子に言いかけたが、顔には何の表情もなかった。
「ふむふむ。」と、浅井は莨を喫《ふか》しながら、少しずつほぐれて来るお今の話に、気軽な応答《うけこたえ》をしていたが、じきに目蓋《まぶた》の重そうな顔をして、二階へ引き揚げて行った。
「今年ほどつまらないお正月はございませんでしたよ。」
お今は次へさがって、行李《こうり》から取り出して来た土産物を、そこへ出すと、やっと落ち着いたような顔をして言い出した。
「それに、行って見て、つくづく田舎の厭なことが解りましたわ。どんなことをしても、私東京で暮そうと思いましたわ。」
「それじゃ、やっぱりこっちで片着くのさ。」お増は無造作に言った。
「お婿さんはどんな人。もう縁談がきまったの。」
お今のことがまだ思い断《き》れずにいる、その男の縁談のまだ紛擾《ごたつ》いている風評《うわさ》などが、お今の耳へも伝わっていた。
四十一
婿に定められようとしたその男の、両親たちなどとの間《なか》の、擦《す》れ擦れになった感情が衝突して、お今の上京後一人で東京へ逃げ出して来たという事実が、じきにお今にあててよこした、その男の手紙で知れた。
室鎮雄《むろしずお》と署名されたその手紙の文句は、至極簡短であったが、お今を慕う熱情が、行の間にも溢《あふ》れていた。室はやっと二十四になったばかりであった。……一度あなたに直接お目にかかって、胸にあることだけを、十分聞いて頂きたいと思います。僕はそれで満足を得られます……そんな卑下した言《ことば》が連ねられてあった。
「莫迦《ばか》な男ね。」
お増は浅井の低声《こごえ》で読みあげるその手紙を笑い出したが、お今は何の感情も動かぬらしかった。
「でもこんなに迷わせて、可哀そうじゃないか。何とかしてやったらいいじゃないの。」
お増はお今を振り顧った。
「こんな手紙を貰って、どんな気がするの。」
「悪い気持はしないさな。」
浅井は笑いながら手紙をそこに置いた。
「本人同士で、話ができてしまったら、親たちはどうするでしょう。」
お増はそうも言って浅井に訊ねた。
帰郷前よりも一層|潤沢《うるおい》をもって来たお今の目などの、浅井に対する物思わしげな表情を、お増は見遁《みのが》すことができなかった。
夜一つに寝ているときに、お増は浅井のいないのに気がついたように考えて、ふと目のさめることがあった。活動写真でいつか見たような一場の光景が、今見た夢のなかへ現われていたことが疲れた頭に思い出された。風に揺られる蒼々した木立ちの繁みの間に、白々した路が一筋どこまでも続いていた。そこに男の女を追いかけている姿がかすかに見透《みすか》された。それが浅井とお今とであるらしかった。ふと白いベッドのなかに、雑種《あいのこ》のような目をしたお今の大きな顔と、浅井の形のいい頭顱《あたま》とがぽっかり見えだしたりしていた。今までいなかったような浅井の寝顔が、薄赤い電燈の光のなかに、黄色く濁ったように眺められるのが、覚めたお増の目に、気味が悪いようであった。
まじまじ天井を見詰めているお増の目に、いつか気の狂って死んだというお柳の姿が、まざまざと浮き出して来た。
時々兄や母の圧《おさ》えつける手から脱《のが》れて、東京へ行くといっては、もがき苦しんだり、家中|暴《あば》れまわったりしたというお柳の、死んだという兄からの報知《しらせ》が、浅井のところへ来たのは、ついこのごろのことであった。
お柳は夜中に、寝所《ねどこ》から飛び出して、田舎の寂しい町を、帯しろ裸の素足のままで、すたすた交番へ駈け着けたりなどした。
「ちょいと恐れ入りますがね、今私を殺すといって、家へ男が押し込んで来ましてね……。」
お柳はそう言いながら、蒼い死人のような顔をして、落ち窪《くぼ》んだ目ばかり光らせていた。
そこへ兄が、跡を追ってやって来た。兄とお柳との劇しい格闘が、道傍《みちばた》に始まった。おそろしい力が、痩せ細ったお柳の腕にあった。引き摺られて行ったお柳は、兵児帯《へこおび》で縛られて、寝所に臥《ね》かされたが、もうもがく力もなかった。
兄の留守のまに、お柳は時々|荒《あば》れ出して、年|老《と》った母親をてこずらせた。近所から寄って来た人々と力を協《あわ》せて、母親はやっと娘を柱に縛りつけた。
狂気《きちがい》の起りそうな時に、井戸端へつれて行って、人々はお柳の頭顱《あたま》へどうどうと水をかけた。
お柳の体はみるみる衰えて行った。
四十二
お柳の訃《ふ》が来たときに、お増からも別にいくらかの香奠《こうでん》を贈ったのであったが、兄はそのころ、床についた妹を、ろくろくいい医者にかけることも出来ないほど、手元が行き詰っているらしかった。死ぬまでに、小林を通して、いくたびとなく金の無心が浅井のところへ来た。浅井は三度に一度は、その要求に応じていた。
「そのお金が、お柳さんの身につけばよござんすがね。」
「どうせそれは兄貴の肥料《こやし》になるのさ。狂人《きちがい》が何を知るものか。」浅井は苦笑していた。
悲惨なお柳の死状《しにざま》が、さまざまに想像された。おそろしい沈鬱《ちんうつ》に陥ってしまった発狂者は、不断は兄や嫂《あによめ》などとめったに口を利くこともなかった。別室に閉じ籠《こ》められた病人を看護している母親に、おどおどした低声《こごえ》で時々話をするきりであった。兄を怕《おそ》れたり、嫂に気をかねたりする様子が、ありありその動作に現われていた。ちょっとした室外の物音や、話し声にも、不安な目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》るほど、鋭い神経が疑り深くなっていた。
大分たってから、一度上京したついでに訪ねて来た母親から、そんなことが小林によって伝わってから、お増は時々お柳の夢を見ることがあった。
「お前の神経も少し異《あや》しいよ。ふとしたらお柳が祟《たた》っていないとも限らない。」
浅井はそう言って揶揄《からか》った。
お今から、何の返辞をも受け取ることのできなかった室が、大分たってから、一度浅井の方へ出向いて来た。室はいくたびとなく、門の前を往来《ゆきき》してから、やっと入って来た。丈《たけ》の高い痩せぎすなその姿が、何気なしにそこへ顔を出したお増の目に映ったとき、一瞥《ひとめ》でこの間の手紙の主だということが知れたが、浅井の留守に、上げていいか悪いかが判断がつかなかった。しかし、お増の家のことなども、よく知っているその青年を、そのまま還す気にもなれなかった。
ややあって、二階へ通された室は、途中で買って来た手土産などをおいて、これという話もしずに、じきに帰って行ったが、当分東京にいて、また学校へ入ることになるか、それも許されなければ、どこかへ体を売って、自営の道を講ずるつもりだという、自分自身の決心だけは雑談のうちにほのめかして行った。
「お今ちゃん、お前さんお茶でも持って出たらいいじゃないか。」
お増は階下《した》へ降りると、奥へ引っ込んでいるお今に私語《ささや》いたのであったが、お今は応じなかった。
「いずれ御主人にもお目にかかって、何かと御意見も伺いたいと思っております。」
室はそう言って、いくらか満足したような顔をして出て行った。
「そんなに厭な男でもないじゃないか。彼《あれ》ならば上等だよ。」
お増は、後で座敷を片着けているお今に話した。
「だって、先方から破談にしたのじゃありませんか。」
「けど、軽卒《かるはずみ》なことは出来やしないよ。その人のためにもよくない。」
晩方に帰って来た浅井は、お今の話を聞きながら、そう言っていたが、自分の出方一つで、二人の運がどうでもなりそうに思えた。
四十三
浅井はそれからも、ちょいちょい訪ねて来る室を、一度などはお増も一緒に下町の方へ飯を食べに連れ出したりなどしたほど、好意と好奇心とをもって迎えた。
酒の二、三杯も飲むと、じきに真赤になってしまうような室は、心のさばけた浅井に釣り出されて、思っていることを浚《さら》け出して、饒舌《しゃべ》るのであったが、偏執の多い、神経質な青年の暗い心持が、浅井には気詰りであった。
「若い時分には、誰しもそんな経験がありますよ。世間のほかの女が少しも目に入らないというような時代があるものです。」
浅井は軽く応《う》けていたが、同情のない男のように思われるのも厭であった。
「とにかく今少し待って、時機を見て、今一度田舎の方へ話をして見たらどうですか。」
浅井はお今の保護者らしい、穏健な意見を述べたが、いつまでも女の心を自分の方へ惹《ひ》きつけておきたいような興味が、一層動いていた。仮にお今が、この男と結婚するような時が来る――その場合が、いろいろに想像された。
「失礼ですが、あなたのお考えで、御本人の意志はどうなんでしょうか。この場合の私にとって、それが先決問題なんですが……。」
室はそう言って訊《たず》ねた。
「別にこれと言って、はっきりした考えのありようもないのです。何分年が若いのですから。」
浅井は答えたが、お増も傍から口を出した。
「今のうちなら、あの娘《こ》はどうでもなりそうですよ。」
そこを出てから、途中で室に別れた浅井夫婦は、このごろ、根岸の別荘を売り払って、神田の通りへ洋酒や罐詰《かんづめ》、莨《たばこ》などの店を開けた、隠居の方へちょっと立ち寄ってから、家へ帰った。
「ああして一人の女を思い詰めて、思いが叶《かな》ったら、どんな気持がするでしょうね。」お増は電車のなかで、今別れた室の姿を目に浮べながら、言い出した。
「あの男なら、一生お今一人を守るでしょうよ。」
浅井はふふと口元に笑っていた。
「だけど、そんなでも面白かありませんね。」
神田の隠居の家では、初め思ったよりも、店の景気のいいことが、お芳の口から話された。隠居は飲み過ぎで腹を傷《いた》めて、ちょうど奥の室《ま》に寝ていた。若い男たちが二、三人、お芳の坐っている帳場の前で、新聞を見たり、店の客を迎えたりしていたが、ここへ移ってからお芳の気に引立ちの出たことが、浮き浮きしたその顔や様子でも知れた。そんな商売に経験のある、清吉という二十四、五の男が、一切を取り仕切っているらしかったが、それらの若い店のものを対手《あいて》に、売揚《うりあ》げをつけたり、商いをしたりすることが、長いあいだ気むずかしい隠居のお守りに、気を腐らしていたお芳には物珍しかった。
「お蔭さまでね、まあどうかこうか物になりそうなんでござんすよ。」
お芳は珍しい食べ物などを猟《あさ》って歩く二人に話しかけた。
物腰のやさしい清吉が、そこへ来て、いろいろの品物を見せたりなどした。
「旦那はあなた、それこそ何にも解りゃしないんでござんすよ。」
お芳は莨をつけて、お増に渡しながら言った。
「この人でもいてくれなかったら、てんで商売は出来やしません。」
お芳は傍に夫婦の買物を包んでいる、清吉の方を見ながら言った。切れ長な大きいその目が、みずみずした潤沢《うるおい》をもっていた。
「お芳さんも、まだ三十にならないんですからね。」
お増はそこを出たとき、浅井に話しかけた。
四十四
ふとした感冒《かぜ》から、かなり手重い肺炎を惹き起した静子が、同じ区内のある小児科の病院へ入れられてから、お増はほとんど毎日そこに詰めきっていなければならなかった。
会社へ出ていても、静子の病気の始終心にかかっている浅井は、ろくろく仕事も手につかぬほど気分に落着きがなかった。少し緩《ゆる》んで来た寒気が、また後戻《あともど》りをして春らしい軟かみと生気とを齎《もたら》して来た桜の枝が、とげとげしい余寒の風に戦《おのの》くような日が、幾日も続いた。病室のなかには、かけ詰めにかけておく吸入器から噴き出される霧が、白い天井や曇った硝子窓《ガラスまど》に棚引《たなび》いて、毛布や蒲団が、いつもじめじめしていた。
途中で翫具《おもちゃ》などを買って来ることを怠らない浅井は、半日の余も、高い熱のために、うとうとと昏睡《こんすい》状態に陥っている病人の番をしながら、病室に寝たり起きたりしているようなことが多かったが、静子はぜいぜい苦しい呼吸遣《いきづか》いをしながら、顔や髪に、細かい水滴《しずく》の垂れて来るのをうるさがる力もないほど、体が弱っていた。
濛々《もやもや》した濃い水蒸気のなかに、淋しげな電燈のつきはじめるころに、今つけて行った体温表などを眺めていた浅井は、静子に別れを告げて、そっと室を出て行った。
「翌日《あした》父さんがまたいいものを買って来てあげるからね、うるさくとも、湿布はちゃんとしなくちゃいけませんよ。」
浅井は帽子を冠ってから、また子供の顔を覗《のぞ》きながら言った。
「やっぱり自分の子なのかしら。」
いつも思い出す隙もなしに暮して来た疑問が、こんな時のお増の胸に、また考えられて来た。血をわけない子供に、こうした自然の愛情の湧くものかどうかの判断が、子を産んだ経験のない自分には、つきかねるように思えた。
「この子の母親が見たければ、いつでも己が紹介する。」
浅井は東京附近の田舎にいる、その女のことを言い出したが、そんな女と往来《ゆきき》して、静子に里心の出るのが、お増自身にも好ましいこととは思えなかった。
「お今ちゃんを、すぐこっちへよこして下さいよ。」
お増は出て行く浅井に、ドアの外まで顔を出しながら言いかけた。二人は病床の傍で、看護婦のいない折々に、先刻《さっき》からお今のことで、一つ二つ言い争いをしたほど、心持が紛糾《こぐらか》っているのであった。
「己が結婚前の娘を手元において、どうしようというのだ。お今には、室という者もある。」
浅井は鼻頭《はなのさき》で笑っていたが、病院へ来てから、どうかすると二人きりの浅井とお今とを、家に遺《のこ》しておくような場合の出来るのが、お増には不安であった。
「父さんと姉さんと、ここで何のお話していたの。」
病人の側につけておいたお今が、交替に出て行った後などで、お増は怜悧《れいり》そうな曇《うる》んだ目をして、自分の顔を眺める静子に、そういって訊ねたりなどしたが、子供からは、何も聴き取ることが出来なかった。
来ようの遅いお今を待ちかねて、お増は病人を看護婦にあずけて、朝から籠っていた息だわしい病室を出て来た。
外はもう大分|更《ふ》けていた。空にはみずみずしい星影が見えて、春の宵らしい空気が、しっとりと顔に当った。
腕車《くるま》から降りて、からりと格子戸を開けると、しんみりした静かな奥の方から、お今が急いで出て来たが、浅井は火鉢の傍に何事もなさそうに寝そべっていた。晩飯の餉台《ちゃぶだい》がまだそこに出ていた。
四十五
入院してから三週間目に、ある暖かい日を選んで、静子が家へつれられて来るまでに、室も一、二度気のおけない病院を見舞った。
室は日本橋にある出張所の方から、時々取って来る金などで、どうかこうか不足のない月々の生活を支えていた。母親からそこへ宛《あ》てて、内密に送ってよこす着物や手紙の中などに封じ込められた不時の小遣いも、少い額ではなかった。
「ことによったら、僕は東京で一軒|家《うち》を仮りようかとも思っています。」
室は、病人の枕頭《まくらもと》へ来て、自分と家との関係が、初め心配したほど険悪の状態に陥ってもいないという内輪談《うちわばなし》などするほど、お増に昵《なじ》んで来た。
「でも田舎の方では、とてもお今を貰ってはくれないでしょう。」
お増は時々訊ねてみた。
「いや、そうでもないですよ。浅井さんという後援者のあることも、知れて来ましたからね。」
「田舎の方の談《はなし》がつきさえすれば、良人《うち》だってうっちゃっておくような人じゃありませんよ。もちろん大したことは出来やしませんけれど、相当なことはするつもりでいるんでしょうよ。」
お増は、ふと東京で懇意になった遠縁続きの男に、自分の身のうえや、生計向《くらしむ》きのことまで打ち明けるほど、なつかしみを覚えて来た。
家出した兄を気遣っている妹から来た手紙などを、お増は室から見せられた。その文句は、いきなりに育って来たお増などには、傷々《いたいた》しく思われるくらい、幼々《ういうい》しさと優しさとをもっていた。
自分がまだ商売をしている時分に、脚気《かっけ》衝心で死んだ兄のことなどが思い出された。幼い時分に別れたその兄は、長いあいだ神戸の商館に身を投じていた。田舎にいる母親の時々の消息を通して、やっと生死がわかるくらい、二人のなかは疎々《うとうと》しかった。
「無駄なお鳥目《あし》なぞつかって、皆さんに心配かけちゃいけませんよ。」
お増は帰って行く室を、病室の戸口に送りながら、そう言って別れた。しんみりしたような話が、しばらく続いていたのであった。
退院させた静子が、階下《した》の座敷に延べられた蒲団のうえに、まだ全く肥立って来ない蒼い顔をして、坐らせられていた。バスケットで運んで来た人形や世帯道具、絵本などの翫具《おもちゃ》が、一杯そこに拡げられてあった。
外には春風が白い埃をあげて、土の乾いた庭の手洗い鉢の側に、斑入《ふい》りの椿《つばき》の花が咲いていた。
「いや御苦労御苦労。」
浅井はろくろく髪なども結う隙《ひま》のないほど、体の忙しかった女たちに声かけながら、やっと自分のものにした病人を眺めていた。子供は碧《あお》みのある、うっとりした目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、物珍しくそこらを眺めていた。
「今ちゃんにお礼として、何かやらなけれあならんね。」
浅井は言いかけた。
「指環をほしがっているから、指環を買ってやろうか。」
お今は日に干すために、薬の香の沁み込んだ毛布やメリンスの蒲団を二階へ運んでいた。
四十六
床揚げの配りものなどが済んでから、浅井がふと通りがかりに、銀座の方から買って来たという真珠入りの指環が、ある晩お増の前で、折り鞄のなかから出された。
「へえ、ちょっと拝見。」などと、お増はサックのまま手に取り上げて眺めた。
「洒落《しゃれ》てますわね、十八金かしら。」
お増は自分の細い指に嵌《は》めて、明りに透《すか》しなどして見ていた。
「安ものだけれど、ちょっと踏める。お今におやり。」
ちょっとしたルビー入りのと、ハート型のと二つしか持たぬお今が、外出などの時に、どうかするとお増の手と比べて、つまらながっているのを、浅井は長いあいだ知っていた。
お今の不足がましい顔を見せるのは、指環ばかりではなかった。月々に物の殖えてばかり行くお増の箪笥や鏡台のなかなどが、最初そんなものに侮蔑《ぶべつ》の目を側《そば》だてていたお今の心を、次第に惹き着けるようになった。いつか田舎へ行く前に、仕立て直して着せられたセルのコートなどが、今のお今にはちょっとした外出にも、ひどく見すぼらしいもののように思えて来た。
「こんなコートなど、もう着ている人はありゃしませんよ。」
お今は、それがお増のせいか何ぞのように、言い立てるのであった。お今のわがままの募って来たことが、お増には腹立たしくも、情なくもあった。
「それでたくさんよ。今からそんなによいものばかり欲しがってどうするのさ。お今ちゃんちっと来た時のことを考えるといいんだよ。」
お増はここへ来たてのころの、まだ東京なれないお今の様子や、これまでに世話して来た、浅井や自分の好意を言い出さずにはいられなかった。
浅井と一緒によそへ出たりなどするお増に、お今は時々厭な顔を見せたりした。
「真珠のがないから、これは私のにしておきますわ。」
お増はそう言って、指環をサックに収《しま》った。
「そんならそれをお前のにしておいて、何か高彫りのを一つ代りにやるかね。」
浅井は笑いながら言った。
「いけませんよ。あなたがあんまりちやほやするから、増長してしようがないんです。このごろ大変|渝《かわ》って来ましたよ。あなたが悪いんです。」
「けど、それはしかたがないよ。見込んで託《あず》けられて見れば、こっちだって相当のことはしなければならん。これから室の方の話が纏まるものとすればなおさらのこと、うっちゃってはおけない。」
いつもよく出るお今のことが基《もと》で、それからそれへと、喧嘩《いさかい》の言《ことば》が募って行った。時々花などに託《かこつ》けて耽《ふけ》っている、赤坂の女のことなども、お前の口から言い出された。
「私がいくら骨おって始末したって、とても駄目ですよ。内は内でお今ちゃんなぞがいて贅沢《ぜいたく》を言うし、外は外で絞られるところがあるんだもの、私一人で焦燥《やきもき》したってしようがありゃしない。」
お増の調子がやや高くはずんで来た。
「莫迦いえ。誰のお蔭で、お前は着物なぞ満足に着られるとおもう。外で遊ぼうが何しようが、お前に不足いわれるような、無責任なことはしていないぞ。」
気優しい浅井にしては、珍しいような言《ことば》が口から出た。
お今はことりとも音のしない、台所でそれを聞いていた。
四十七
翌朝《あした》になると、お増は毎朝お今のすることに決まっている浅井のお膳拵えなどを、自分の手に一つに引き取って、さも自信のありそうな様子で、こまこまと立ち働くのであった。漬物の切り方や、盛り方などにも、自分の方が、長いあいだ気心を知っている浅井の気分に、しっくり適《あ》うところがあるように思えた。
「お早うございます。」
お増はお今の前を、わざと生真面目《きまじめ》な顔をして、あらたまったような挨拶を、良人にして見せた。浅井がちょうど二階から下りて来たのであった。病院以来、めっきり気分のだらけて来たお今は、まだ目蓋《まぶた》などの脹《は》れぼったい、眠いような顔をして、茶の室《ま》の薄暗いところにある鏡の前へ立っては髪を気にしたり、白粉を塗ったりしていた。
いつも気のそわそわしているお今は、今朝は筋肉などの硬張《こわば》った顔に、活き活きした表情の影さえ見られず、お増などに対する口も重かった。昨夜《ゆうべ》お増夫婦の言争いが募って、浅井が二階へあがってからも、自分に機嫌の悪かったお増が、とげとげした調子で二階へあがって行くまで、猫板のところに投《ほう》り出されてあった、自分の貰いにくくなって辞退した指環の、どこか姿を隠してしまったことや、夫婦の争いの鎮《しず》まったひっそりした夜更《よふ》けの二階のさまなどが、眠られない頭脳《あたま》を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》るように苛立《いらだ》たせて、腹立たしさと悲しさとに、びっしょり枕紙を濡らしていたくらいであった。
しっとりとした雨のふるある晩に、病院か、さもなければいつもの馴染みの何子とかいう芸者のところだとばかり思っていた浅井の、表の戸をさしてしまった夜中過ぎに、酒に酔って帰って来たときのことなどが、お今の目に、まざまざと、浮んで来た。あわてて火を起したり湯を沸かしたりする自分の傍にいる浅井と、いつとはなしに話に耽って、二階へあがって臥床《ふしど》を延べたのは、もう二時過ぎであった。不安と恐怖とに、幻のような短い半夜があけた。
秘密の機会が、浅井によって二度も三度も作られた。
病人の枕頭《まくらもと》などで、おそろしいお増の顔と面と、向き合っている時ですら、お今はやるせない思いに、胸を唆《そそ》られるのであった。甘えるような驕慢《おごり》と、放縦な情欲とが、次第に無恥な自分を、お増の前にも突きつけるようになった。
お増は楊枝《ようじ》や粉を、自身浅井にあてがってから、銅壺《どうこ》から微温湯《ぬるまゆ》を汲んだ金盥《かなだらい》や、石鹸箱などを、硝子戸の外の縁側へ持って行った。庭には椿も大半|錆色《さびいろ》に腐って、初夏らしい日影が、楓《かえで》などの若葉にそそいでいた。どこからか緩いよその時計の音が聞えて来た。
朝飯のときも、お増はぴったり浅井の傍に坐って、給仕をしていた。そして浅井が何か言いかけると、「ハア、ハア。」と、行儀よく応答《うけこたえ》をしていた。毛に癖のない頭髪《あたま》が綺麗に撫《な》でつけられて、水色の手絡《てがら》が浅黒いその顔を、際立って意気に見せていた。
「二階の方は私がしますよ。」
お増は蔭にばかり隠れているお今の、二階へあがって行く姿を見ながら言いかけた。二階はまだ床なども、そのままになっていた。
「来ちゃいけませんよ、静《しい》ちゃん――。」
お今は段梯子の中途へ顔を出した静子に、上から邪慳《じゃけん》そうな声をかけた。
四十八
浅井のいない家のなかに、お増はお今と顔ばかり突き合わしてもいられなくなると、静子をつれだして、向うの博士の落胤《おとしだね》だという母子《おやこ》の家へ遊びに行ったり、神田の隠居の店へ出かけて行ったりした。そんな時に、気のおけない身の上ばなしの出来るお雪が、青柳と一緒にしばらく東北の方へ旅稼ぎに出ていて、東京にいないことが、お増には心寂しかった。
「今度は私も芝居をするんですとさ。」
お雪は旅へ出る少し前に、お増のところへ暇乞《いとまご》いに来て、いつものとおり、二日ばかり遊んでいながら、そう言って、変って行く自分の身のうえを嗤《わら》っていた。青柳は東京ではもう、どこも登るような舞台がなかった。
それはちょうど収穫《とりいれ》などのすんで、田舎に収入《みいり》のある秋のころであった。どこかとそんな契約が成り立ったと見えて、お雪は身装《みなり》なども比較的綺麗であった。新調のコートや傘なども、お増の目を惹いた。お増は、「この人はいつまでこんな気楽をいっているのだろう。」と、いつもお雪について考えるようなことを、その時もつくづく考えさせられたのであったが、気心に少しの変化もみえないお雪には、それを得意がっているような様子もあった。
「それで、私の出しものが阿古屋《あこや》なんですと。」
お増は阿古屋が何であるか、よくも知らなかった。
「へえ、そんなものが出来るの。」
「どうせ真似事さ。ことによったら、それを持って北海道の方へ廻るかも知れないのよ。そうすれば、お金がどっさり儲《もう》かるから、その時は借りたお金を、あなたにもお返しするでしょうよ。」
そう言って出て行ったきり、お雪からは何の消息《たより》もないのであった。いつまでたっても、頭の上りそうもない芸人などにくっついて、うかうかと年の老《ふ》けて行くお雪の惨《みじ》めさが、情なくも思えるのであったが、気のくさくさするような時には、寸時もお雪のような心持ではいられない苦労性の自分が、窮屈でもあった。
「あの人|終《しま》いに、野仆死《のたれじに》でもしやあしないかしら。」
お増は時々浅井と、お雪の噂をしていたが、いろいろの女に心の移って行く男一人に縋《すが》っている自分の成行きも、思って見ないわけに行かなかった。
「まだ、そんなことを思っているのかい。」
そうなる時の自分の行く末のために、金や品物などを用意することを怠らぬらしい、お増の箪笥の着物や、用箪笥の貯金の通帳などの目に入るたんびに、浅井はそういって、不断は苦笑していたが、嫉妬《やきもち》喧嘩の時などには、忌々《いまいま》しげにそれが言い立てられた。
しかし仲のいい時に、そんな金がまたいつか、その時々の都合で浅井の方へ融通されていた。
「また旦那に取られてしまった。」
お増は後でハッと思うようなことがあったが、その場合には、やっぱり隠し立てをすることが出来なかった。
静子をつれて、一日外を遊び歩いていると、家を出るとき感じていたような、お今に対する憎しみの念が、いつか少しずつ淋しいお増の胸に融《と》けて行かないではおかなかった。
神田の店はだんだん繁昌《はんじょう》していた。
お芳の若やいで来た顔の色沢《いろつや》が、お増にはうらやましいようであった。茶の間へ坐り込んで、厭な内輪ばなしなどに※[#「日/咎」、第3水準1-85-32]《とき》を移していたお増は、行った時とは、まるで別の人のような心持で、電車に乗った。
四十九
お増は、浅井がもう帰っている時分だと思うと、電車のなかでも気が急《せ》くのであったが、隠居にいわれたことなどが、繰り返し考え出された。
「今のうちにお今さんを、どこかへ出しておしまいなさい。ことによったら、当分のうちどこぞ私の親類へお預かりしてもようがすよ。」
隠居は相変らず、酒気を帯びた顔を振り立てて言ってくれたのであった。
そんなことには何の意見も挟《はさ》まないお芳は、時々顔を赧《あか》らめて、お増の話に応答《うけこたえ》をしていた。
「お今さんも可哀そうですな。お婿さんが欲しいでしょうに、その金満家の子息《むすこ》さんと、一緒にしてあげたらどうです。」
お増は退《ど》けてしまってからの、若い女の体の成行きも考えてやらないわけに行かなかった。自分の良人のしたことを、田舎のお今の兄などに、知られるのも厭であった。単純に、二人の所業を憎んでばかりもいられないと思った。
灯影のちらちらする町や、柳の青い影が、暗い思いを抱いているお増の目の前を、電車の進行と一緒に、夢のように動いて行った。窓からは、夏の夕らしい涼しい風が吹き込んで、萎《な》えたような皮膚がしっとり潤うようであった。
「そう先の先まで考えたって、どうなるものか。」
お増はじきにいつもの自分に返った。いつまでも、こんな厭な思いをしてばかりいられないと思った。
いつか側に引き着けて、油を搾《しぼ》ったときのお今の様子などが、思い返された。お増はそれと前後して、浅井からも謝罪めいた懺悔《ざんげ》を聞いたのであったが、二人のなかは、やはりそれきりでは済まなかった。
「どうしたの。私に残らず話してごらんなさいよ。」
お増は落ち着いた調子で、お今を詰《なじ》ったが、お今は黙って、うつむいているきりであった。目が涙に曇《うる》んでいた。
「……それじゃお今ちゃん、あんまりひどいじゃないの。」
お増は、とうとうそんなことをされるようになった自分がいじらしいようであった。嫉《ねた》ましさに、掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》ってもやりたいようなお今に、しゃぶりついて泣きたいような気もしたのであったが、やはり自分を取り乱すことが出来なかった。
後悔と慚愧《ざんき》とに冷めていた二人の心が、また惹き着けられて行った。家でも寝るときの浅井の姿の、側にいないことが、時々夜更けに目のさめるお増の神経を、一時に苛立《いらだ》たせるのであった。淋しい有明けの電燈の影に、お増は惨酷な甘い幻想に、苦しい心を戦《わなな》かせながら、時のたつのを、じっと平気らしく待っていなければならないのであった。
「はやくお今を引き離そう。」
お増はじれじれと、そんなことを思い窮《つ》めるのであったが、その手段がやはり考えつかなかった。
「あの子に傷をつける日になれば、それはどんなことだって出来ますよ。」
お増は浅井に愚痴をこぼした。
「そうすれば、お前のためにも、どうせよいことはないよ。」
浅井は笑っていた。
五十
書生の時分に、学資などの補助を仰いでいた叔父の病気を見舞いに、浅井がしばらく田舎へ行っている留守の間を見て、お増が小林などと相談して、とうとうお今の姿を隠さしてしまったのは、その年ももう涼気《すずけ》の立ちはじめるころであった。
それまでにも、お増とお今との間には時々の紛紜《いざこざ》が絶えなかった。お今はどうかすると、小蔭で自分の荷物などを取り纏めて、腹立ちまぎれにそっと家を出て行こうとしたり、死ぬ決心でもするかと、お増が気味を悪がるくらい、二日三日も暗い顔をして、台所の隣の陰気らしい四畳半に閉じ籠ったりしていた。小林がお今のために持ち込んで来てくれた縁談なども、お今の反抗的な心を一層混乱せしめた。
「姉さんに御心配かけてすみません。私の体などはどうなってもようございますから、どうぞ皆さんのよろしいように……。」
お今はそんな棄て鉢のような口を利きながら、目に涙をにじませていた。
「とにかく、本人の希望どおり、独立さしてやるようなことにしてやったらいいじゃないか。引き受けた以上は、己にも責任がある。」
浅井のそういう反対説に、そんな話もやはり成り立たずにしまった。
浅井が田舎へ立ってから、お増は思いついて室をも一緒につれて、三人で浅草辺をぶらついたり、飯を食べたりして、お今を男に昵《なじ》ませようと試みた。
「今でもやっぱりあなたは、あの人のことを思っていて。」
お増は、お今のいないおりに、そっと室に訊いてみたが、この男に秘密を打ち明けないでいることが、空おそろしいようであった。
「なぜです。」
室はそう言いたげに、にやりと笑っていた。
「あの人にも困ったもんですよ。」
お増は口まで出そうにするその秘密を、やはり引っ込めておかないわけに行かなかった。
「一度あなたから、よく訊いてみて頂戴よ。」
そこへ小用に行ったお今が、入って来た。三人はある小奇麗な鳥料理の奥まった小室《こま》で、ビールやサイダなどを取りながら話していた。廊下の手欄《てすり》に垂れた簾《すだれ》の外には、綺麗に造られた庭の泉水に、涼しげな水が噴き出していたり、大きな緋鯉《ひごい》が泳いでいたりした。碧《あお》い水の面《おもて》には、もう日影が薄らいでいた。湯に入って汗を流して来た三人の顔には、青い庭木の影が映っていた。お今は肥った膝のうえに手巾《ハンケチ》を拡げて、時々サイダに咽喉《のど》を潤していたが、室と口を利くようなことはめったになかった。
室はどうかすると、幽鬱《ゆううつ》そうに黙り込んでしまった。
「あなたはほんとに真面目だわ。」
お増はビールを注《つ》いでやったりなどしたが、室は苦しそうに時々飲んでいるだけであった。
「今度二人で、どこかへ行ったらどう?」
お増は調子づいたように言いかけたが、やはり自分でしくじった。
夕方に三人はそこを出て、じきに電車で家へ帰った。
「駄目駄目。」
お増は家へ入ると、着物もぬがずに、べったり坐って、溜息をついた。
「人の気もしらないで、この人はどうしたというんだろ。」
五十一
お増がある物堅そうな家を一軒、小林の近所に見つけて、そこへお今を引き移らせてから大分たって、浅井がちょうど田舎から帰って来たのであった。
そこは小林の妾《めかけ》の身続きにあたる、ある勤め人の年老《としと》った夫婦ものであった。お増から身のまわりの物などを一ト通り分けてもらって、その家の二階に住まうことになったお今は、初めて世帯でも持つときのような不安と興味とを感じながら、ある晩方に、浅井の家を出て行ったのであった。
お増がそこいらから見つけだして、お今のために取り纏めようとした品物は、大抵お今には不満足であった。お今はお増の鏡台や、櫛笄《くしこうがい》だの襟留《えりどめ》だの、紙入れなどのこまこました持物に心が残った。
「私が新しく買ったら、それをあなたにあげますがね、当分それで間に合わしておおきなさいよ。鏡立《かがみた》てがあればたくさんですよ。」
お増はそう言って、長火鉢の傍で莨を喫《ふか》していたが、お今の執念が絡《まつ》わり着いているようで、厭であった。
いつまでも自分の部屋で、何かごそごそしていたお今は、やがて人顔の見えなくなったころに、すごすごと家を出た。
「静《しい》ちゃん、さよなら。」
お今は荷物などを作る自分の傍に、始終着き絡《まと》って離れなかった静子に声かけながら、門《かど》を離れて行った。
その翌日朝早く、お今は何やら忘れものをしたとか言って入って来ると、自分の居馴れた部屋の押入れなどを、そっちこっち掻き廻していたが、お増は黙って見ていた。
「今のうちなら、幾度来たってかまやしないけれど、旦那が帰ってからはいけませんよ。」
お増は駄目を押すように言って聴かせた。
「ええ、大丈夫来やしませんとも。」
お今は昨宵《ゆうべ》一晩自分の身のうえなどを考えて、おちおち眠られもしなかった体の疲れが、白粉を塗った、荒れた顔の地肌にも現われていた。目のうちも曇《うる》んでいた。朝の夙《はや》い階下《した》の夫婦が寝静まってからも、お今は時々消した電気をまた捻《ひね》って、机の前に坐ったり、蒸し暑い部屋の板戸をそっとあけて、熱《ほて》った顔を夜風にあてたりした。部屋にはまだ西日の余熱《ほとぼり》が籠っていて、病人のようないらいらしい一ト夜が、寝苦しくてしかたがなかった。怨《うら》めしいような腹立たしいような、やるせない思いに疲れた神経の興奮が、しっとりした暁《あ》け方《がた》の涼気《すずけ》に、やっとすやすや萎《な》やされたのであった。
お今は静子などを対手に、しばらく遊んでいたが、じきに帰って行った。
「室さんがきっとお前さんのことを訊ねますよ。どう言っておこうかしら。」
お増はお今の気を引くように、二度も三度も室の噂を持ち出したが、お今はいつも澄ましていた。
「従姉《ねえ》さんも随分勝手ね。」
お今はそうも言いたげであった。
お増の方からも、二、三度静子をつれて途中で茶菓子などを買って、そこの二階を訪ねて行った。格子のはまった二階の窓からは、下の水道栓《すいどうせん》に集まって来る近所の人や、その人たちの家の裏門などがあけ透けに見えた。水道端には残暑の熱い夕日が、じりじりと照っていた。
退屈な日が、幾日も幾日も続いた。じっと部屋に坐っていると、お今は時々|澱《おど》んだ頭脳《あたま》が狂いそうに感ぜられた。
五十二
「あなたに相談しようかとも思いましたけれど、それでは話が面倒ですから、私お留守のまにお今ちゃんを出してしまいましたよ。」
旅から帰って来たばかりで、何事も気づかずにいる浅井に、お増はあらたまった調子で言い出した。
浅井は癒《なお》るとも癒らぬとも片着かぬ叔父の田舎から貰って来た土産などを、やっと鞄から取り出しているところであった。むかし若い時分に、その妻が、自分の実の妹と良人《おっと》とのなかを知って、腹立たしさと恥かしさとに喉《のど》を切って死んだなぞという惨劇のあった、叔父の家のことを、お増もいつか浅井から聞かされて知っていた。
「それはそうなりますよ。」
姉から、何を言われても、義兄《あに》と切れることの出来なかった妹や、倉へ入って、白小袖を着て、剃刀《かみそり》で自殺したという姉のことを、浅井から聞いたとき、お増はそれを浄瑠璃《じょうるり》か何ぞにあるような、遠い田舎の昔風な物語とのみ聞き流していたのであった。
「お前がその姉だったらどうする。」
浅井は笑談を言っていた。
「私なら死んだりなぞしやしませんわ。逐《お》い出してしまいますよ。」
お増はそういって笑っていた。
長いあいだ憶い出しもせずにいたその出来事が、生々《なまなま》しくお増の心に浮んで来た。村で葡萄《ぶどう》を栽培したり、葡萄酒の醸造に腐心したりしていたという、その叔父の様子なども目に見えるようであった。自殺した連合いは、どんな女だったろうと想像されたり、叔父と甥《おい》との体に、同じ血が流れているらしく思われたりした。
お今の姿の匿《かく》されたことに心着いた浅井は、その当座深く問い窮《つ》めもしなかったが、お今の身のうえを、お増の考えで取り決められたことが不安であった。
「出したのなら出したでもいい。どこへやったか、それを聞こうじゃないか。」
浅井は酒気のある時なぞに、憶い出したようにお増を詰《なじ》った。
「私に隠して、仕事をしようというのなら、私も嚮後《こうご》一切お今のことについては、相談を受けんということにしよう。」
浅井は真面目《むき》になってそうも言った。
「いくらお前が隠したって、捜そうと思えばわけはないよ。罷《まか》り間違えば、警察の手を仮りることも出来るし、田舎を騒がして、突ッつきだすという方法もある。」そうも言って脅《おどか》した。
「そんならそうして捜したらいいでしょう。」
お増は言い張ったが、やはり隠し通すことが出来なかった。室《むろ》の方の話を纏めるにしても、浅井の力を借りないわけに行かなかった。
居所《いどころ》を知らさないで、お今が浅井のところへ出入りするようになったのは、それから間もなくであった。
五十三
「姉さんのところへ来ると、ほんとに気がせいせいしてよ。」
気づまりな宿の二階に飽きて、お増の方へ遊びに来たお今は、道具などに金のかかった綺麗な部屋のなかや、掃除の行き届いた庭などを眺めながら言った。袖垣《そでがき》のところにある、枝ぶりのいい臘梅《ろうばい》の葉が今年ももう黄色く蝕《むしば》んで来た。ここにいるうちに、よく水をくれてやった鉢植えの柘榴《ざくろ》や欅《けやき》の姿《なり》づくった梢《こずえ》にも、秋風がそよいでいた。近ごろ物に感傷しやすいお今の心は、そんなものにもやるせない哀愁をにじませていた。浅井の家では、若い女中が一人殖えたり、田舎から托《あず》けられた、浅井の姉の子だという少年が来ていたりして、たまに傍《はた》から来ているお今が、軽い反感を覚えるほど賑やかであった。衆《みんな》は、宵のうちに下の座敷に集まって、このごろ取り寄せた蓄音器などに、笑い興じていた。最近の一ト夏で、めっきりおしゃまさんになった静子の様子も、変って来た自分の身のうえの心持を、お今の目に際立たせて見せた。
「お今ちゃんも、いよいよ室さんと御婚礼かな。」
まだ晩酌の餉台《ちゃぶだい》を離れずにいる浅井は、避けてばかりいるようなお今が、ふとそこへ来て坐ると、そういって声かけた。お今は絡《から》みついて来る静子と、敷物などのしっとりした縁側にいた。
「室さんは、時々来るかね。」
浅井は訊ねた。
「いいえ。」
お今は今日もお増につれられて宿へ訪ねて来た室のことを訊かれるのが、くすぐったいようであった。
「少し都合があって、よそへ出してあるんですがね。」
お増は初めそういって、お今の居所を室に明かすことも出来ずにいたのであったが、自分に絡《まつ》わりついて来るような、男の心持が、見ていても苦しそうであった。差し向いにいてもあまり口数をきかぬお今の様子が、室の心を一層いらいらさせた。別居さしてある理由などに、疑いを抱いているらしい懊悩《もどか》しさが、黙っている室の目に現われていた。宿を出た三人は、途中その問題に触れることなしに、別れたのであった。
「お今も可哀そうですよ。」
お今が歩き遅れているときに、お増は謎でもかけるように呟いたが、室はそれを問い返そうともしないのであった。
座敷では、いろいろの譜が差し替えられた。
お増の顔色を見て、浅井の側を離れて行ったお今は、衆《みんな》と一緒にそれに聴き入っていたが、甲高《かんだか》な謳《うた》の声や三味線の音に、寂しい心が一層掻き乱されるだけであった。
「運動がてらみんなでそこまで送ろう。」
帰りかけようとするお今に、浅井は言いかけた。浴衣《ゆかた》のうえに、羽織を引っかけて、パナマを冠った浅井に続いて、お増も素足に草履《ぞうり》をつっかけて外へ出た。
暗い町続きを三人はぶらぶらと歩いていた。空には天の川が低く流れて、夜がしっとりと更けていた。
「一人帰すのは可哀そうだ、別荘まで送ろう。」
浅井は笑いながら、どこまでもとついて来た。三人はお今の宿のすぐ二、三町手前まで来ていた。
「いけませんよ。入浸《いりびた》りになっちゃ困りますよ。」
お増は笑いながら、とある四ツ辻《つじ》の角に立ち停った。水のような風が、三人の袂や裾を吹いていた。
五十四
室がちょいちょい訪ねて行くお今の二階へ、浅井もお増と一緒に行ったり、静子を連れたりして、たまには顔を出した。
室の身内にあたるという出張店をあずかっている若い男が、お今のことでちょいちょい浅井を訪ねて来てから、浅井もおのずからその話に肩を入れないわけに行かなかった。
「老主人の方だって、何もこちらの縁談が絶対にいけないと言うんじゃないんでござんすからな。」
前垂などをかけて、堅気の商人らしい風をしたその男は、そう言って話を進めた。
「もう一つほかの縁談を纏めてくれた方に対して、今さら義理が悪いというだけのことなのです。」
そんな話を一々素直に受け入れた浅井は自分からお今にも説き勧めた。そういう時の浅井の頭には、何らの矛盾もないらしく見えた。時がたちさえすれば、罅《ひび》の入ったお今の心が、それなりに綺麗に縫《と》じ合わされたり熨《の》されたりして行くとしか思えなかった。
浅井の見立てで、お今に着せて見たいと思う裾模様をおかせた紋附などが、お増と三人で三越へ行ったとき註文されたのは、それから間もない十月の末であった。お今が同意とも不同意とも、はっきり言いきらないうちに、話が自然《ひとりで》に固められて行った。
お今はどうかすると、燥《はしゃ》いだような調子で、支度などについての自分の欲望を、浅井一人の前に言い出した。お増の立てた見積りが、反抗的な甘えたお今の気分には、一つ一つ不満足であった。
浅井のところで、どうかすると室と落ち合う時などの、髪や着物を気にする、お今のそわそわした様子が、お増の目にも憎らしく見えて来た。お今は室が帰って行くあとから、お増に見せつけ気味らしくじきに出て行ったりなどした。
「ああなると、こっちが厭になってしまいますね。もうあなたのことなどは何とも思っていやしませんよ。」
お増は腹立たしそうに、後で浅井に話した。
「出来るだけ、支度でもよけいに拵えてもらおうという、欲だけなんですよ。」
年のうちに内祝言《ないしゅうげん》だけを、東京ですますことに話が決まるまでに、例の店員が、いくたびとなく浅井のところへやって来たが、お今の兄からも手紙が来たり、支度の入費が送られたりした。話が何のわだかまりもなく進んで行った。
新しい着物が仕立てあがるたびに、浅井はお今を呼びにやって、座敷でそれを着せて眺めなどした。下座敷の明るい電気の下などで、お今はふっくらした肌理《きめ》のいい体に、ぼとぼとするような友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》などを着て、うれしそうに顔を熱《ほて》らせて立っていた。汚れた足袋をぬぎすてた足の爪《つま》はずれなどが、媚《なま》めいて見えた。
「いいいい。」
浅井はこっちからその姿を眺めながら、声かけた。
「いいね、お今ちゃんは。」
お増も傍から、うっとりした目をして、眺めていた。
「私なぞ一度もそんなことはなかったよ。」
「己もないな」
浅井も傍から、溜息をついた。
「あなたはあったじゃありませんか。先のお神さんの時に。」
「ううん。」浅井は薄笑いをしていた。
「見惚《みと》れていちゃいけませんよ。」
興奮したような浅井の目に、お増は気づきでもしたように、急いでそれを脱がした。
五十五
「どうも有難うございました。」
脱いだ着物をきちんと畳んで、元の通り紙をかけてしまってから、お今の帰って行ったあとで、夫婦は、何かもの足りないように甘いいらいらしさを心に感じた。そこには萌黄《もえぎ》の布《きれ》の被《かか》った箪笥のうえに新しい鏡台などが置かれてあった。
「お前もちょっと着てごらん。」
浅井はお今の長襦袢を畳むとき、お増に言いかけた。
「私? 私にこんな派手な物は似合やしませんよ。」
体の痩せぎすな、渋い好みのお増は、着物の上へちょっと袖を片方《かたかた》通しただけでじきに止めてしまった。
「若い時分から私はそうでしたよ。」
写真に遺《のこ》っている、お増のその年ごろの生々《ういうい》しい姿が、浅井の目にも浮んで来た。勝気らしい口元のきりりと締った、下脹《しもぶく》れの顔は、今よりもずっと色が白そうで、睫毛《まつげ》の長い冴《さ》えた目にも熱情があった。写真のお増は、たっぷりした髪を銀杏返《いちょうがえ》しに結って、そのころ流行《はや》った白い帛《きれ》を顎《あご》まで巻きつけて、コートを着ていた。田舎の町で勤めていた家の子息《むすこ》の学生と、思いきった恋をしたというお増は、やっと十八か九であった。
古い話が二人の間に、また掘り返されはじめた。初めて商売に出て、その男を知った時のことなどが、情味に餒《う》えているような浅井の耳に、また新しく響いた。
「ねえ、あなた。」お増はしみじみしたような調子で言い出した。
「あの人の婚礼がすんだら、私たちも誰かを媒介《なこうど》に頼んで、お杯をしましょうか。あんまり年を取らないうちに、そんな写真も取っておきたいじゃないの。」
お増はそう言って、淋しげに笑った。
「心細いやね。」
浅井も女を憫《あわ》れむように空虚な笑い声を立てた。
「まだ我々はそんな年でもないよ。」
横になっていた浅井は、二筋三筋白髪のちかちかする鬢《びん》のところを撫でながら言った。そうして冬になってから、いくらか肉がついて来たが、目角《めかど》などにはまだ曇《うる》みのとれない妻の顔を眺めた。
「そうするにはまずお前の体から癒してかからなけあならない。入院して、思いきって手術をしてみたらどうだ。一ト月の辛抱だ。」
「厭々。」
お増は頭《かぶり》を振った。一ト月の入院のあいだに、家がどうなるか知れないという不安が、これまでにも始終お増の決心を鈍らせた。
「今年も来年も年廻りがわるいから、明後年《さらいねん》にでもなったら、療治をしましょうよ。」
しみじみした話に、時が移って行った。
このごろ色稼業《いろかぎょう》を止めて、溜めた金で、芝の方に化粧品屋を出した女のところからの帰りがけなどに、ふと独りでお今の二階へ寄って、疲れた体を休めて行くことなどがあった。お今は押入れから掻捲《かいま》きなどを出して来て、横になっている浅井にそっと被《き》せかけなどした。
花で夜更《よふか》しをして、今朝また飲んだ朝酒の酔《え》いのさめかかって来た浅井は、爛《ただ》れたような肉の戦《わなな》くような薄寒さに、目がさめた。綺麗にお化粧《つくり》をして、羽織などを着替えたお今が、そこに枕頭《まくらもと》の火鉢の前にぽつねんと坐っていた。
お今のいれてくれた茶に、熱《ほて》った咽喉《のど》や胃の腑《ふ》を潤しながら、浅井は何事もなさそうな顔をして、日の迫って来たお今の婚礼の話などをしていた。
五十六
埃《ほこり》っぽい窓の障子に、三時ごろの冬の日影が力なげに薄らいで来たころに、浅井はやっとそこを脱け出したが、遊びに耽り疲れた神経に、明るい外の光や騒がしい空風《からかぜ》がおそろしいようであった。先刻《さっき》まで被《き》ていた掻捲きなどの、そのままそこに束《つく》ねられた部屋の空気も、厭《いと》わしく思えて来た。
「私もそこまで出ましょうかしら。」
お今も、今まで二人で籠っていた部屋に、一人残されるのが不安であった。
「ねえ、いけないこと?」
お今は甘えるようにそういって、鏡の前で髪などを直していた。弄《もてあそ》ばれた自分の感情に対する腹立たしさと恥とを、押し包んででもいるような、いじらしいその横顔を、浅井は惨酷らしい目でじっと、眺めていた。
「お別れに一度どこかへ行こうかね。」
浅井は先刻《さっき》そういって、その時の興味でお今を唆《そそ》ったのであったが、お今は躊躇《ちゅうちょ》しているらしく、紅《あか》い顔をして、うつむいていたのであった。
「どこへ行くね。」
浅井は調子づいたような女に、興のさめた顔をして訊いたが、淡いもの足りなさが、心に沁み出していた。
「どこでもいいわ、私まだ見ないところが、たくさんあるから。」
「婚礼がすんだら、方々室さんに連れて行ってもらうといい。」
「それはそうだけれど、その前に……。」
室の名を聞くと、お今は間近に迫って来ている晴れがましい婚礼が、頭脳《あたま》にはっきり閃《ひらめ》いたが、その考えはやはり確実ではなかった。いつとも知らず、乗せられて来たその縁談が、支度などに気のそわそわする、その日その日の気分に紛らされて来たことが、一層心苦しかった。その間にも、お今は自分の手で切盛りをする世帯の楽しさや、人妻としての自分の矜《ほこ》りなどを、時々心に描いていた。財産家だという室の家を相続する日を考えるだけでも、お今の不安な心が躍《おど》るようであった。
「ほんとにお前さんは幸《しあわ》せだよ。辛抱さえすれば、十万円という財産家の家を、切り廻して行けるんだもの。」
室を嫌っているとしか考えぬお増のそういって聞かす言《ことば》の意味が、お今にはおかしく思えたり、自分から勧めた縁談に、気のいらいらするようなお増が、蔑視《さげす》まれたりした。
電燈のちらちらするころに、二人は銀座通りをぶらぶら歩いていた。
日の暮れたばかりの街に、人がぞろぞろ出歩いていた。燥《はしゃ》いだ舗石《しきいし》のうえに、下駄や靴の音が騒々しく聞えて、寒い風が陽気な店の明り先に白い砂を吹き立てていた。
「こんなところ、いつ来たって同じね。」
お今は蓮葉《はすは》なような歩き方をして、不足そうに言った。近ごろ出来たばかりの、新しい半コートや、襟捲きに引き立つその姿が、おりおり人を振り顧《かえ》らせていた。
「どこかもっと面白いところへ連れていって頂戴よ。」
お今は体を浅井に絡《から》みつくようにして低声《こごえ》で言った。
五十七
翌朝《あした》お今が訪ねて行った時、浅井もお増もまだ二階に寝ていた。
浅井の甥の学校へ行ったあとの茶の間は、しんとしていた。そこに静子が、千代紙などを切り刻みながら、寂しげに坐っていた。昨夜《ゆうべ》すぐこの近所で別れた浅井が帰ってからの家の様子を嗅《か》ぎ出そうとでもするように、お今はいらいらしげに、そっちこっち部屋のなかを歩いていた。若い方の女中は、縁側の硝子障子に、せっせと雑巾がけをしていた。
時計が九時を打ってから、やっと二階から降りて来たお増は、明るい階下《した》の光に、目眩《まぶ》しそうな目をして、火鉢の前に坐ると、口も利かずに、ぼんやりと莨をふかしていた。
近ごろ浅井の入り浸っている情婦《おんな》の店の近所を、お増は一昨日《おととい》の晩も、長いあいだ往来《ゆきき》していた。その情婦《おんな》のところへ、浅井はお柳のいたころの自分にしたように、株券や貴重な書類の入った手提げ金庫などを運んでいることが知れてから、二人の情交《なか》のだんだん深みへ入っていることが、お増に解って来た。情婦《おんな》の母親が、菓子折や子供への翫具《おもちゃ》などをもって、ある日浅井の留守に、奥さんにお昵近《ちかづき》になりたいといって、挨拶に来たことが、一層お増の心を、深い疑惑の淵《ふち》に沈めた。
「今度こそ真《ほん》ものだ。」
お増は小林などの讖言《しんげん》が、とうとう自分の身のうえに当って来たように信ぜられてならなかった。
お今の縁談が決まってから、浅井の心は一層|情婦《おんな》の方へ惹かれて行った。
「ほんとに憎らしい婆さんだよ。ああやって機嫌を取って、私を掌中《てのうち》に丸めこもうとするんだよ。」
お増は普通の女のように、野暮な仕向けもしたくなかった。そして当らず触らずに、その場は愛想よく遇《あしら》って還したのであったが、肉づきなどのぼちゃぼちゃした、腰の低いその婆さんの、にこにこした狡《ずる》そうな顔が、頭脳《あたま》に喰い込んでいて取れなかった。
「旦那にはいろいろとお世話さまになっておりますので、一度御挨拶に出なくちゃならないと始終そう申していたんでございますがね、何分店があるものですから……。」
婆さんは茶の間へ上り込んで、お増や子供に、親しい言《ことば》をかけたのであった。
浅井が留守になると、お増はその婆さん母子《おやこ》にちやほやされている状《さま》が、すぐに目に浮んで来た。まだ逢ったことのない女の顔なども、想像できるようであった。
「これを御縁に、手前どもへもどうぞ是非お遊びにいらして下さいましよ。そして仲よく致しましょうよ。」
婆さんのそういって帰って行った語《ことば》にお増ははげしい侮辱を感じた。
「どうして、喰えない婆さんですよ。母子《おやこ》してお鳥目取《あしと》りにかかっているんでさ。」
お増はくやしそうに後で浅井に突っかかったが、浅井は、にやにや笑っていた。
帰りのおそい浅井を待っているお増の耳に、美しい情婦《おんな》の笑い声が聞えたり、猥《みだ》らな目つきをした、白い顔が浮んだりした。
お増は寒い風にふかれながら、婆さんに教えられた、その店の居周《いまわ》りを、いつまでもうろうろとしていた。そして時々向う側にまわって、遠くからその方を透《すか》して見たが、硝子障子をはめた店のなかは、はっきり見えなかった。
やがてそこらの店がしまって、ひっそりした暗い町の夜が、痛ましいほど更けて来た。お増はやっぱりそこを離れることができなかった。
五十八
その翌日、お増は半日外で遊び暮すつもりで、静子をつれて、お芳の店などを訪ねて見たが、いろいろ引っかかりのある気が滅入《めい》って、話がいつものようにはずまなかった。
「今度という今度は、どんなことしたって駄目なの。」
お増はいつもの茶の間で、お芳夫婦に話した。
「私が理窟を言えば、お前に理窟を言われるような、だらしのないことはしておかないって言うし、それじゃ田舎へ帰りますとそういえば、お前の方で勝手に出て行くんだから、お金なんざ一文もやらないって言うし、それは私もいろいろやって見ましたの。だけど、ああなっちゃとても駄目なの。」
諍《あらそ》えば諍うほど、お増は自分を離れて行く男の心の冷たい脈摶《みゃくはく》に触れるのが腹立たしかった。ある晩などは、お増はくやしまぎれに、鏡台から剃刀《かみそり》を取り出して、咽喉《のど》に突き立てようとしたほど、絶望的な感情が激昂《げっこう》していたが、後で入り込んで来る情婦《おんな》のことが、頭脳《あたま》に閃《ひらめ》いて、後へ気が惹かされた。
「私はどうしたって、お柳さんのようにはならない。」
お増は、じきに自分と自分の心を引き締めることが出来た。
「浅井さんを、旧《もと》の人間にしようっていうにゃ、どうしたってあなたの体から手を入れてかからなけあ、駄目だと私は思うがね。」
隠居は笑いながら言った。
「家のお芳をごらんなさい、体がぽちゃぽちゃしていますから、私のような老人《としより》じゃ喰い足りねえとみえて、店の若いものに、色目をつかやがってしようがありませんよ。」
隠居はふらふらした首つきをして、顔を顰《しか》めた。
お芳はみずみずした碧味《あおみ》がかった目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、紅い顔をしていた。
「それでまた不思議なもんでして、こいつを店へ出しておくと、おかねえとでは、売り高の点で大変な差がありますよ。」
調子づいて自分のことばかり言い立てる、お爺さんの元気のいい話を聞いているお増の胸には、しおらしい寂しさが、次第に沁み拡がって来た。お芳を誘い出して、うんと買物をしようと目論《もくろ》んでいた自棄《やけ》な欲望が、いつか不断の素直らしい世帯気に裏切られていた。
お増は、帰りに日比谷公園などを、ぶらぶら一周りして、お濠《ほり》の水に、日影の薄れかかる時分に、そこから電車に乗った。
「お帰りなさい。」
昨夕《ゆうべ》浅井がおそく帰ったときも、出迎えたお増は、玄関に両手をついておとなしやかに挨拶をした。そして誰が着せたか知れないような着物をぬがして、褞袍《どてら》などを着せると、それは箪笥にしまい込んだ。お増は髪なども綺麗に結って、浅井のすきな半衿《はんえり》のかかった襦袢などを着込んでいた。
遊びに倦《う》みつかれたような浅井には、幾夜ぶりかで寝る、広々した自分の寝室《ねま》の臥床《ねどこ》に手足を伸ばすのが心持よかった。
お増は顔を洗って、髪に櫛《くし》を入れなどしてから、昨夜《ゆうべ》室の親元から、いろいろ浅井に頼んで来た手紙を見せたりなどして、いつものようにお今に、婚礼の話などをしかけた。
五十九
仮にお今を迎えるための室の家が、出張店の人たちによって、じきに山の手の方に取り決められた。
結納《ゆいのう》の目録などが、ある晩浅井へ出入りする物知りの手によって書かれたり、綺麗な結納の包みが、その男の手によって、水引きをかけられたりした。やがて、そんな品が、下座敷の床の間に景気よく並べられた。お芳夫婦から祝ってくれた紅白の真綿なども、そこに色を添えていた。
「気持のいいものね。」
お増は座敷の真中に坐って、それを眺めながら呟いた。
二、三日前から、またこっちへ引き移って来ているお今は、そんなものを持ち込まれるたびに、気がひけるようで、不安な瀬戸際まで、引き寄せられて来た自分の心が疑われて来たが、やはり避けるわけに行かなかった。
「私ほんとに厭な気持がして、しようがないのよ。」
お今はお増のいないところで、溜息を吐《つ》きながら浅井に言いかけたが、浅井もしかたがないというように、黙っていた。
台所の隅などに突っ立って、深い思いに沈んでいるお今の姿が、時々お増の目についた。
「お今ちゃん、お嫁に行くのが厭になったんだね。」
お増は気遣《きづか》わしげに訊ねた。何か、思いがけない破綻《はたん》が来はしないかという懸念が、時々お増の心を曇らせた。
「進まないものを、私だって無理にやろうというんじゃないのよ。壊すなら、今のうちですよ。」
お増は用事の手を休めて、そこへお今を引き据えながら気を揉《も》んだ。
「はっきりしたことを言って頂戴よ。むやみなことをして、後で取返しのつかないようなことになっても困るじゃないの。」
結婚を破ってからの、自分とお増との不愉快な感情や、お増一家に一層|澱《よど》んで来る暗い空気、自分の不安な生活などを、お今は思わないわけに行かなかった。
お今は、唇を噛んで、目に涙をにじませていた。
「厭になっちまうね、お今ちゃんより、私の方が泣きたいくらいなものよ。」
お増はまた起って、奥の方へ行った。浅井は明朝《あした》結納を持って行くことになっている、その世話焼きの男と、前祝いに酒を飲んでいた。結婚の調度の並んだ、明るい部屋のなかには、色っぽい空気が漂っていた。浅井はその男の講釈などを聞きながら、ぐいぐい酒を飲んでいた。
「おかしな人、お今ちゃんが泣いているのよ。」
お増はその男の帰ったあとの、白けた座敷の火鉢の前に坐って、莨をすいながら言い出した。膳や銚子などが、そこに散らかったままであった。
「あなたから、あの人の気をよく聴いて頂戴よ、私には何にも言いませんよ。」
浅井は座蒲団のうえに、ぐったり横になって、目を瞑《つぶ》っていた。電気の火影が、酔いのひいたようなその額を、しらしらと照していた。
「まあいい。羽織をおだし。」
などと、浅井はむっくり起き上ると、帯のあいだから時計を出して見た。
「お前から、ようくそう言っておおき。私が今口を出すとこじゃない。」
浅井はそう言いながら、茶を飲んでいた。
「もうどうでもいい。」
素直らしく浅井を送り出してから、お増はむしゃくしゃしたように、座敷へ来て坐った。
六十
内輪だけの式を挙げるというその当日には媒介役《なこうどやく》のその世話人夫婦と一緒に、お増夫婦もついて行った。
五台の腕車《くるま》が、浅井の家を出たのは、午後五時ごろであった。島田に結って、白襟に三枚襲《さんまいがさね》を着飾ったお今の、濃い化粧をした、ぽっちゃりした顔が、黄昏時《たそがれどき》の薄闇《うすやみ》のなかに、幌《ほろ》の隙間から、微白《ほのじろ》く見られた。その後から浅井夫婦が続いた。
会社の用事で、今朝《けさ》から方々駈けまわっていた浅井が、ぼんやりした顔をして帰って来た時には、お増やお今はもう湯から上って、下座敷にすえた鏡台の前で、結いつけの髪結の手伝いで、お化粧《つくり》をすましたところであった。道具の持ち出されてしまった部屋には、二人の礼服の襲《かさね》に、長襦袢や仕扱《しごき》などの附属が取り揃えられ、人々は高い声も立てずに、支度に取りかかった。厳《おごそ》かな静かさが、部屋の空気を占めていた。
丸髷《まるまげ》に、薄色の櫛《くし》や笄《こうがい》をさしたお増は、手ばしこく着物を着てしまうと、帯のあいだへしまい込んだ莨入れを取り出して、黙って莨をすいながら、お今の扮装《つくり》の出来るのを待っていた。
「こんな騒ぎをして行ったって、一年もたてば世帯持ちになって、汚れてしまうんだよ。」
お増は髪結が後から、背負《しょ》い揚《あ》げを宛《か》っている、お今の姿を見あげながら呟いた。
「真実《ほんとう》でございますね。」
物馴れた髪結は、帯の形を退《しさ》って眺めていた。
「でも一生に一度のことでございますからね。私みたいに、亭主運がわるくて、二度もあっちゃ大変でございますけれど。」
髪結はお愛想笑いをした。お増も浅井も空洞《うつろ》な笑い声を立てた。お今はきついような、不安らしい含羞《はにか》んだ顔をして、黙っていた。室との結婚の正体が、はっきり頭脳《あたま》に考えられないようであった。
来るとか来ないとかいって、長いあいだ決しなかった父親や母親の、家の都合でとうとう来ないことになった、その日の式は、至極質素であった。
杯のすんだ後のお今は、黒紋附を着た室と並んで、結納や礼物《れいもつ》などの飾られた床の前の方に坐っていた。松に鶴をかいた対《つい》の幅がそこにかけられてあった。田舎から代りに出て来た室の親類の人たちや、出張店の店員などが、それに連なって居並んだ。世話焼き夫婦の紹介で、一同の挨拶がすむと、親類の固めの杯が順々にまわされた。互いに顔を見合っているような重苦しい時が、静かに移って行った。
室の叔父分にあたるという、田舎の堅い製糸業者らしい、フロックの男が、持って来た猪口《ちょく》を、浅井夫婦の前へ差し出したころ、一座の気分が、ようやくほぐれはじめて来た。
「今回は不思議な御縁で……。」
と、その男は両手を畳について、あらためて慇懃《いんぎん》な挨拶をした。
浅井も丁寧に猪口を返した。製糸業などの話が、じきに二人のあいだに始まっていた。
お増夫婦のそこを出たのは、席がばたばたになってからであった。疲れたようなお今の姿も、その席にはもう見えなかった。
「これからです。徹夜《よっぴて》飲みましょうよ。」
叔父は起ち上る浅井の手を取って、引き留めた。
帰ったのは大分おそかった。夫婦は、静子などの寝静まった茶の間で、そのままの姿で、茶を飲みながら、いつまでも向き合っていた。
「私たちと、あの人を頼んで、一度お杯をしてみたいじゃないの。」
お増は晴れ晴れした顔をして、奥へ着替えにたって行った。
底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
ファイル作成:
2003年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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