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縮図
徳田秋声
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)片隅《かたすみ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)草|蓬々《ぼうぼう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、323-上1]
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日蔭《ひかげ》に居《お》りて
一
晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった。
銀子と均平とは、しばらく二階の片隅《かたすみ》の長椅子《ソファ》で席の空《あ》くのを待った後、やがてずっと奥の方の右側の窓際《まどぎわ》のところへ座席をとることができ、銀子の好みでこの食堂での少し上等の方の定食を註文《ちゅうもん》した。均平が大衆的な浅草あたりの食堂へ入ることを覚えたのは、銀子と附き合いたての、もう大分古いことであったが、それ以前にも彼がぐれ出した時分の、舞踏仲間につれられて、下町の盛り場にある横丁のおでん屋やとんかつ屋、小料理屋へ入って、夜更《よふ》けまで飲み食いをした時代もあり、映画の帰りに銀子に誘われて入口に見本の出ているような食堂へ入るのを、そう不愉快にも感じなくなっていた。かえって大衆の匂いをかぐことに興味をすら覚えるのであった。それは一つは養家へ対する反感から来ているのでもあり、自身の生活の破綻《はたん》を諦《あきら》め忘れようとする意気地《いくじ》なさの意地とでも言うべきものであった。
しかし今は長いあいだ恵まれなかった銀子の生活にも少しは余裕が出来、いくらかほっとするような日々を送ることができるので、いつとはなし均平を誘っての映画館の帰りにも、いくらかの贅沢《ぜいたく》が許されるようになり、喰《く》いしん坊の彼の時々の食慾を充《み》たすことくらいはできるのであった。もちろん食通というほど料理の趣味に耽《ふけ》るような柄でもなかったが、均平自身は経済的にもなるべく合理的な選択はする方であった。戦争も足かけ五年つづき物資も無くなっているには違いないが、生活のどの部面でも公定価格にまですべての粗悪な品物が吊りあげられ、商品に信用のおけない時代であり、景気のいいに委《まか》せて、無責任をする店も少なくないように思われたが、一方購買力の旺盛《おうせい》なことは疑う余地もなかった。
パンやスープが運ばれたところで、今まで煙草《たばこ》をふかしながら、外ばかり見ていた均平は、吸差しを灰皿の縁におき、バタを取り分けた。五月の末だったが、その日はひどく冷気で、空気がじとじとしており、鼻や気管の悪い彼はいつもの癖でつい嚔《くさめ》をしたり、ナプキンの紙で水洟《みずばな》をふいたりしながら、パンを※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、323-上1]《むし》っていた。
「ひょっとすると今年は凶作でなければいいがね。」
素朴《そぼく》で単純な性格を、今もって失わない銀子は、取越し苦労などしたことは、かつてないように見えた。幼少の時分から、相当生活に虐《しいた》げられて来た不幸な女性の一人でありながら、どうかするとお天気がにわかにわるくなり気分がひどく険しくなることはあっても、陰気になったり鬱《ふさ》ぎ込んだりするようなことは、絶対になかった。苦労性の均平は、どんな気分のくさくさする時でも、そこに明るい気持の持ち方を発見するのであった。彼女にも暗い部分が全然ないとは言えなかったが、過去を後悔したり現在を嘆いたりはしなかった。毎日の新聞はよく読むが、均平が事件の成行きを案じ、一応現実を否定しないではいられないのに反し、ともすると統制で蒙《こうむ》りがちな商売のやりにくさを、こぼすようなこともなかった。
「幕末には二年も続いてひどい飢饉《ききん》があったんだぜ。六月に袷《あわせ》を着るという冷気でね。」
返辞のしようもないので、銀子は黙ってパンを食べていた。
次の皿の来る間、窓の下を眺めていた均平は、ふと三台の人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端《ではな》に立往生しているのが目についた。そしてそれが行きすぎる間もなく、また他の一台が威勢よくやって来て、大通りを突っ切って行った。
二
もちろん車は二台や三台に止《とど》まらなかった。レストウランの食事時間と同じに、ちょうど五時が商売の許された時間なので、六時に近い今があだかも潮時でもあるらしく、ちょっと間をおいては三台五台と駈《か》け出して来る車は、みるみる何十台とも知れぬ数に上り、ともすると先が閊《つか》えるほど後から後から押し寄せて来るのであった。それはことに今日初めて見る風景でもなかったが、食事前後にわたってかなり長い時間のことなので、ナイフを使いながら窓から見下ろしている均平の目に、時節柄異様の感じを与えたのも無理はなかった。
ここはおそらく明治時代における文明開化の発祥地で、またその中心地帯であったらしく、均平の少年期には、すでに道路に煉瓦《れんが》の鋪装が出来ており、馬車がレールの上を走っていた。ほとんどすべての新聞社はこの界隈《かいわい》に陣取って自由民権の論陣を張り、洋品店洋服屋洋食屋洋菓子屋というようなものもここが先駆であったらしく、この食堂も化粧品が本業で、わずかに店の余地で縞《しま》の綿服に襷《たすき》がけのボオイが曹達水《ソーダすい》の給仕をしており、手狭な風月の二階では、同じ打※[#「※」は「にんべん+分」、第3水準1-14-9、323-下22]《いでたち》の男給仕が、フランス風の料理を食いに来る会社員たちにサアビスしていた。尾張町《おわりちょう》の角に、ライオンというカフエが出来、七人組の美人を給仕女に傭《やと》って、慶応ボオイの金持の子息《むすこ》や華族の若様などを相手にしていたのもそう遠いことではなかった。そのころになると、電車も敷けて各区からの距離も短縮され、草|蓬々《ぼうぼう》たる丸の内の原っぱが、たちどころに煉瓦《れんが》造りのビル街と変わり、日露戦争後の急速な資本主義の発展とともに、欧風文明もようやくこの都会の面貌《めんぼう》を一新しようとしていた。銀座にはうまい珈琲《コオヒー》や菓子を食べさす家《うち》が出来、勧工場《かんこうば》の階上に尖端的《せんたんてき》なキャヴァレイが出現したりした。やがてデパートメントストアが各区域の商店街を寂れさせ、享楽機関が次第に膨脹するこの大都会の大衆を吸引することになるであろう。
この裏通りに巣喰《すく》っている花柳界も、時に時代の波を被《かぶ》って、ある時は彼らの洗錬された風俗や日本髪が、世界戦以後のモダアニズムの横溢《おういつ》につれて圧倒的に流行しはじめた洋装やパーマネントに押されて、昼間の銀座では、時代錯誤《アナクロニズム》の可笑《おか》しさ身すぼらしさをさえ感じさせたこともあったが、明治時代の政権と金権とに、楽々と育《はぐく》まれて来たさすが時代の寵児《ちょうじ》であっただけに、その存在は根強いものであり、ある時は富士や桜や歌舞伎《かぶき》などとともに日本の矜《ほこ》りとして、異国人にまで讃美されたほどなので、今日本趣味の勃興《ぼっこう》の蔭《かげ》、時局的な統制の下に、軍需景気の煽《あお》りを受けつつ、上層階級の宴席に持て囃《はや》され、たとい一時的にもあれ、かつての勢いを盛り返して来たのも、この国情と社会組織と何か抜き差しならぬ因縁関係があるからだとも思えるのであった。
「今夜はとんぼ[#「とんぼ」に傍点]あたりで、大宴会があるらしいね。」
均平は珈琲を掻《か》きまわしながら私語《ささや》いた。
生来ぶっ切ら棒の銀子は、別に返辞もしなかったが、彼女は彼女でそんなことよりも、もっと細かいところへ目を注いでいて、車のなかに反《そ》りかえっている女たちの服装について、その地や色彩や柄のことばかり気にしていた。それというのも彼女もまた場末とはいいながら、ひとかどの芸者の抱え主として、自身はお化粧|嫌《ぎら》いの、身装《みなり》などに一向|頓着《とんじゃく》しないながらに、抱えのお座敷着には、相当金をかける方だからであった。それも安くて割のいいものを捜すとか、古いものを押っくり返し染め返したり、仕立て直したり、手数をかけるだけの細かい頭脳《あたま》を働かすことはしないで、すべて大雑把《おおざっぱ》にてきぱき捌《さば》いて行く方で、大抵は呉服屋まかせであったが、商売人の服装には注意を怠らなかった。
「この花柳界は出先が遠くて、地理的に不利益だね。」
均平は呟《つぶや》きながら、いつか黄昏《たそがれ》の色の迫って来る街《まち》をぼんやり見ていた。
三
均平は、こんな知明の華《はな》やかな食堂へなぞ入るたびに、今ではちょっと照れ気味であった。今から十年余も前の四十前後には、一時ぐれていた時代もあって、ネオンの光を求めて、そのころ全盛をきわめていたカフエへ入り浸ったこともあり、本来そう好きでもない酒を呷《あお》って、連中と一緒に京浜国道をドライブして本牧《ほんもく》あたりまで踊りに行ったこともあったが、そのころには船会社で資産を作った養家から貰《もら》った株券なども多少残っていて、かなり派手に札びらを切ることもできたのだが、今はすっかり境遇がかわっていた。今から回想してみるとそのころの世界はまるで夢のようであった。これという生産力もなくて、自暴《やけ》気味でぐれ出したのがだんだん嵩《こう》じて、本来の自己を見失ってしまい、一度軌道をはずれると、抑制機《ブレーキ》も利かなくなって、夢中で遊びに耽《ふけ》っていたので、酒の醒《さ》めぎわなどには、何か冷たいものがひやりと背筋を走り、昔しの同窓の噂《うわさ》などを耳にすると、体が疼《うず》くような感じで飲んで遊んだりすることが真実《ほんとう》は別に面白いわけではなかった。ことに雨のふる夜更《よふ》けなどに養家において来た二人の子供のことを憶《おも》い出すと、荊《いばら》で鞭打《むちう》たるるように心が痛み、気弱くも枕《まくら》に涙することもしばしばであった。しかしほとんど酷薄ともいえる養家の仕打ちに対する激情が彼の温和な性質を、そこへ駆り立てた。
今はすでにその悪夢からもさめていたが、醒めたころには金も余すところ幾許《いくばく》もなかった。それでも気紛《きまぐ》れな株さえやらなかったら、新婚当時養家で建ててくれた邸宅まで人手に渡るようなことにもならなかったかも知れなかった。
そのころには世の中もかわっていた。放漫な財政の破綻《はたん》もあって、財界に恐慌が襲い来たり、時の政治家によって財政緊縮が叫ばれ、国防費がひどく切り詰められた。均平も学校を卒業するとすぐ、地方庁に官職をもったこともあるので、政治には人並みに興味があり、議会や言論界の動静に、それとなく注意を払ったものだったが、彼自身の生活がそれどころではなかった。それに官界への振出しに、地方庁で政党色の濃厚な上官と、選挙取締りのことなどで衝突して、即日辞表を叩《たた》きつけてからは、官吏がふつふついやになり、一時新聞の政治部に入ってみたこともあったが、それも客気の多い彼には、人事の交渉が煩わしく、じきに罷《や》めてしまい、先輩の勧めと斡旋《あっせん》で、三村の妹の婿《むこ》が取締をしている紙の会社へ勤めた。そこがしっくり箝《は》まっているとも思えないのであったが、田舎《いなか》に残っている老母が、どこでも尻《しり》のおちつかない、物に飽きやすい彼の性質を苦にして漢学者の父の詩文のお弟子であったその先輩に頼んで、それとなし彼を戒めたので、均平も少し恥ずかしくなり、意地にもそこで辛抱しようと決心したのであった。そしてそれが三村家の三女と結婚する因縁ともなり、三村家の別家の養子となる機縁ともなったのであった。
しかし均平にとって、三村家のそうした複雑な環境に身をおくことは、決して心から楽しいことでも、ありがたいことでもなかった。祖父以来儒者の家であった彼の家庭には、何か時代とそぐわぬ因習に囚《とら》われがちな気分もあると同時に、儒教が孤独的な道徳教の多いところから、保身的な独善主義に陥りやすく、そういうところから醸《かも》された雰囲気《ふんいき》は、均平にはやりきれないものであった。それが少年期から壮年期へかけての、明治中葉期の進歩的な時代の風潮に目ざめた均平に、何かしら叛逆的《はんぎゃくてき》な傾向をその性格に植えつけ、育った環境と運命から脱《ぬ》け出ようとする反撥心《はんぱつしん》を唆《そそ》らずにはおかなかった。それゆえ学窓を出て官界に入り、身辺の世のなかの現実に触れた時、勝手がまるで違ったように、上官や同僚がすべて虚偽と諂諛《てんゆ》の便宜主義者のように見えて仕方がなかった。しかしそっちこっち転々してみて、前後左右を見廻した果てに、いくらか人生がわかって来たし、人間の社会的に生きて行くべき方法も頷《うなず》けるような気がして、持前の圭角《けいかく》が除《と》れ、にわかに足元に気を配るようになり、養子という条件で三村の令嬢と結婚もしたのであったが、内面的な悲劇もまたそこから発生しずにはいなかった。
四
ここでは酒が飲めないので、均平は何か間のぬけた感じだったが、近頃はそう物にこだわらず、すべてを貴方《あなた》まかせというふうにしていればいられないこともないので、酒の払底な今の時代でも、格別不自由も感じなかった。もちろん心臓も少し悪くしていた。こうした日蔭者《ひかげもの》の気楽さに馴《な》れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲《じちょう》するほどの感情の熾烈《しれつ》さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。時にははっとするほど自分を腑効《ふがい》なく感じ、いっそ満洲《まんしゅう》へでも飛び出してみようかと考えることもあったが、あの辺にも同窓の偉いのが重要ポストに納まっていたりして、何をするにも方嚮《ほうこう》が解《わか》らず、自信を持てず、いざとなると才能の乏しさに怯《おじ》けるのであった。四十過ぎての蹉跌《さてつ》を挽回《ばんかい》することは、事実そうたやすいことでもなかったし、双鬢《そうびん》に白いものがちかちかするこの年になっては、どこへ行っても使ってくれ手はなかった。
二人が席を立つと、後連《あと》がもうやって来て、傍《そば》へ寄って来たが、それは中産階級らしい一組の母と娘で、健康そのもののような逞《たくま》しい肉体をもった十六七の娘は、無造作な洋装で、買物のボール箱をもっていた。均平は弾《はじ》けるような若さに目を見張り、笑顔《えがお》で椅子《いす》を譲ったが、今夜に限らず銀座辺を歩いている若い娘を見ると、加世子《かよこ》のことが思い出されて、暗い気持になるのだったが、同窓会の帰りらしい娘たちが、嬉《うれ》しそうに派手な着物を着て、横町のしる粉屋などへぞろぞろ入って行くのを見たりすると、その中に加世子がいるような気がして、わざと顔を背向《そむ》けたりするのだった。加世子が純白な乙女《おとめ》心に父を憎んでいるということも解っていた。そしてそれがまた一方銀子にとって、何となし好い気持がしないので、彼女の前では加世子の話はしないことにしていた。そのくせ銀子は内心加世子を見たがってはいた。
「いいじゃないの。加世子さん何不足なく暮らしているんだから。」
加世子の話をすると、均平はいつも凹《へこ》まされるのだったが、それは均平の心を安めるためのようでもあり、恵まれない娘時代を過ごした彼女の当然の僻《ひが》みのようでもあった。
階段をおりると、明るい広間の人たちの楽しそうな顔が見え、均平は無意識にその中から知った顔を物色するように、瞬間視線を配ったが、ここも客種がかわっていて、何かしら屈托《くったく》のなさそうな時代の溌剌《はつらつ》さがあった。
「いかがです、前線座見ませんか。」
映画狂の銀子が追い縋《すが》るようにして言った。彼女は大抵朝の九時ごろから、夜の十一時まで下の玄関わきの三畳に頑張《がんば》っていて、時には「風と共に去りぬ」とか、「大地」、「キュリー夫人」といった小説に読み耽《ふけ》るのだったが、デパート歩きも好きではなかったし、芝居も高いばがりで、相もかわらぬ俳優の顔触れや出しもので、テンポの鈍いのに肩が凝るくらいが落ちであり、乗りものも不便になって帰りが億劫《おっくう》であった。下町にいた十五六時代から、映画だけが一つの道楽で、着物や持物にも大した趣味がなかった。均平も退屈|凌《しの》ぎに一緒に日比谷《ひびや》や邦楽座、また大勝館あたりで封切りを見るのが、月々の行事になってしまったが、見る後から後から筋や俳優を忘れてしまうのであった。物によると見ていて筋のてんで解らないものもあって、彼女の解説が必要であった。
「さあ、もう遅いだろ。」
「そうね、じゃ早く帰って風呂《ふろ》へ入りましょう。」
銀子はでっくりした小躯《こがら》だが、この二三年めきめき肥《ふと》って、十五貫もあるので、ぶらぶら歩くのは好きでなかった。いつか奈良《なら》へ旅した時、歩きくたぶれて、道傍《みちばた》の青草原に、べったり坐ってしまったくらいだった。
銀子は途々《みちみち》車を掛け合っていたが、やがて諦《あきら》めて電車に乗ることにした。この系統の電車は均平にもすでに久しくお馴染《なじみ》になっており、飽き飽きしていた。
五
銀子の家《うち》は電車通りから三四町も入った処《ところ》の片側町にあったが、今では二人でちょいちょい出歩く均平の顔は、この辺でも相当見知られ、狭いこの世界の女たちが、行きずりに挨拶《あいさつ》したりすることも珍しくなかったが、均平には大抵覚えがなく、当惑することもあったが、初めほどいやではなくなった。それでも何か居候《いそうろう》のような気がして、これが自分の家という感じがしなかった。銀子も商売を始めない以前の一年ばかり、ここからずっと奥の方にあった均平の家へ入りこんでいたこともあって、子供もいただけに、もっといやな思いをしたのであったが、均平も持ちきれない感じで、「私はどうすればいいかしら」と苦しんでいるのを見ながら、どうすることもできなかった。そういう時に、自力で起《た》ちあがる腹を決めるのが、夙《はや》くから世間へ放《ほう》り出されて、苦しんで来た彼女の強味で、諦めもよかったが、転身にも敏捷《びんしょう》であった。今まではこの世界から足を洗いたいのが念願で、ましてこの商売の裏表をよく知っているだけに、二度と後を振り返らないつもりであったが、一度この世界の雰囲気《ふんいき》に浸った以上、そこで這《は》いあがるよりほかなかった。
「そう気を腐らしてばかりいても仕方がないから、ここで一つ思い切って置き家を一軒出してみたらどうかね。」
母が言うので銀子もその気になり、いくらかの手持と母の臍繰《へそく》りとを纏《まと》めて株を買い、思ってもみなかったこの商売に取りついたのだった。銀子の気象と働きぶりを知っているものは、少し頭を下げて行きさえすれば、金はいくらでも融通してくれる人もあり、その中には出先の女中で、小金を溜《た》めているものもあり、このなかで金を廻して、安くない利子で腹を肥やしているものもあったが、ともすると弱いものいじめもしかねないことも知っているので、たといどんな屋台骨でも、人に縋《すが》りたくはなかった。ともかく当分自前で稼《かせ》ぐことにして路次に一軒を借り、お袋や妹に手伝ってもらって、披露目《ひろめ》をした。案じるほどのこともなく、みんなが声援してくれた。
「ああ、その方がいいよ。」
見番の役員もそう言って悦《よろこ》んでくれ、銀子も気乗りがした。
「大体あんたは安本《やすもと》を出て、家をもった時に始めるべきだった。多分始める下工作だろうと思っていたら、いつの間にかあすこを引き払ってアパートへ移ったというから、つまらないことをしたものだと思っていたよ。」
その役員がいうと、また一人が、
「それもいいが、子供のある処へ入って行くなんて手はないよ。第一三村さんは屋敷まで担保に入っているていうじゃないか。」
銀子は好い気持もしなかったが、息詰まるような一年を振りかえると、悪い夢に襲われていたとしか思えず、二三年前に崩壊した四年間の無駄な結婚生活の失敗にも懲りず、とかく結婚が常住不断の夢であったために、同じことを繰り返した自分が、よほど莫迦《ばか》なのかしら、と思った。
「子供さんならいいと思っていたんだけれど、やはりむずかしいものなのね。」
別にそう商売人じみたところもないので、銀子は加世子には懐《なつ》かれもしたが、それがかえって傍《はた》の目に若い娘を冒涜《ぼうとく》するように見えるらしかった。均平の亡くなった妻の姉が、誰よりも銀子に苦手であり、それが様子見に来ると、女中の態度まてががらり変わるのもやりきれないことであった。
しかし均平との関係はそれきりにはならず、商売を始めてから、その報告の気持もあって、ある日忘れて来た袱紗《ふくさ》だとか、晴雨兼用の傘《かさ》などを取りに行くと、均平はちょうど、風邪《かぜ》の気味で臥《ふ》せっていたが、身辺が何だか寂しそうで、顎髭《あごひげ》がのび目も落ち窪《くぼ》んで、哀れに見えた。均平から見ると、宿酔《ふつかよ》いでもあるか、銀子の顔色もよくなかった。
「それはよかった。何かいい相手が見つかるだろう。」
厭味《いやみ》のつもりでもなく均平は言っていた。
六
この辺は厳《きび》しいこのごろの統制で、普通の商店街よりも暗く、箱下げの十時過ぎともなると、たまには聞こえる三味線《しゃみせん》や歌もばったりやんで、前に出ている薄暗い春日燈籠《かすがどうろう》や門燈もスウィッチを切られ、町は防空演習の晩さながらの暗さとなり、十一時になるとその間際《まぎわ》の一ト時のあわただしさに引き換え、アスファルトの上にぱったり人足も絶えて、たまに酔っぱらいの紳士があっちへよろよろこっちへよろよろ歩いて行くくらいのもので、艶《なまめ》かしい花柳|情緒《じょうしょ》などは薬にしたくもない。
広い道路の前は、二千坪ばかりの空地《あきち》で、見番がそれを買い取るまでは、この花柳界が許可されるずっと前からの、かなり大規模の印刷工場があり、教科書が刷られていた。がったんがったんと単調で鈍重な機械の音が、朝から晩まで続き、夜の稼業《かぎょう》に疲れて少時間の眠りを取ろうとする女たちを困らせていたのはもちろん、起きているものの神経をも苛立《いらだ》たせ、頭脳《あたま》を痺《しび》らせてしまうのであった。しかし工場の在《あ》る処《ところ》へ、ほとんど埋立地に等しい少しばかりの土地を、数年かかってそこを地盤としている有名な代議士の尽力で許可してもらい、かさかさした間に合わせの普請《ふしん》で、とにかく三業地の草分が出来たのであった。まだ形態が整わず、組織も出来ずに、日露戦争で飛躍した経済界の発展や、都市の膨脹につれて、浮き揚がって来たものだが、自身で箱をもって出先をまわったような元老もまだ残存しているくらいで、下宿住いの均平がぶらぶら散歩の往《ゆ》き返りなどに、そこを通り抜けたこともあり、田舎《いなか》育ちの青年の心に、御待合というのが何のことか腑《ふ》におちないながらに、何か苦々しい感じであった。その以前はそこは馬場で、菖蒲《しょうぶ》など咲いていたほど水づいていた。この付近に銘酒屋や矢場のあったことは、均平もそのころ薄々思い出せたのだが、彼も読んだことのある一葉という小説家が晩年をそこに過ごし、銘酒屋を題材にして『濁り江』という抒情的《じょじょうてき》な傑作を書いたのも、それから十年も前の日清《にっしん》戦争の少し後のことであった。そんな銘酒屋のなかには、この創始時代の三業に加入したものもあり、空地のほとりにあった荷馬車屋の娘が俄作《にわかづく》りの芸者になったりした。
この空地にあった工場が、印刷術と機械の進歩につれて、新たに外国から買い入れた機械を据《す》えつけるのに、この町中では、すでに工場法が許さなくなったので、新たに新市街に模範的な設備を用意して移転を開始し、土地を開放したところで、永い間の悩みも解消され、半分は分譲し、半分は遊園地の設計をすることにして、あまり安くない値で買い取ったのであった。日々に地が均《なら》され、瓦礫《がれき》が掘り出され、隅《すみ》の方に国旗の棹《さお》が建てられ、樹木の蔭《かげ》も深くなって来た。ここで幾度か出征兵士の壮行会が催され、英魂が迎えられ、焼夷弾《しょういだん》の処置が練習され、防火の訓練が行なわれた。
夜そこに入って、樹立《こだち》の間から前面の屋並みを見ると、電燈の明るい二階座敷や、障子の陰に見える客や芸者の影、箱をかついで通る箱丁《はこや》、小刻みに歩いて行く女たちの姿などが、芝居の舞台や書割のようでもあれば、花道のようでもあった。
狭苦しい銀子の家《うち》も、二階の見晴らしがよくなり、雨のふる春の日などは緑の髪に似た柳が煙《けぶ》り、残りの浅黄桜が、行く春の哀愁を唆《そそ》るのであった。この家も土地建ち初まりからのもので、坪数にしたら十三四坪のもので、古くなるにつれていろいろの荷物が殖《ふ》え、押入れも天井の棚《たな》も、ぎっしり詰まっていた。均平の机も箪笥《たんす》とけんどん[#「けんどん」に傍点]の間へ押しこまれ、本箱も縁側で着物の入っている幾つかの茶箱や、行李《こうり》のなかに押しこまれ、鼓や太鼓がその上に置かれたりした。もちろん彼は大分前から机の必要がなくなっていた。古い友人に頼まれて、一ト夏漢文の校正をした時以来、ペンを手にすることもまれであった。
銀子は家の前へ来ると、ちょっと立ち停《ど》まってしばらく内の様子を窺《うかが》っていた。留守に子供たちが騒ぎ、喧嘩《けんか》もするので、わざとそうしてみるのであった。
七
ちょうど最近|披露目《ひろめ》をした小躯《こがら》の子が一人、それよりも真実《ほんとう》の年は二つも上だが、戸籍がずっと後《おく》れているので、台所を働いている大躯《おおがら》の子に、お座敷の仕度《したく》をしてもらっているところだったが、それが切火に送られて出て行く段になって、子供たちはやっとお母さんが帰って来たことに気がついた。養女格の晴弥《はるや》と、出てからもう五年にもなる君丸というのが二人出ているだけで、後はみんな残っており、狭い六畳に白い首を揃《そろ》えていた。さっそく銀子たちの下駄《げた》を仕舞ったり、今送り出した子の不断着を畳んだりするのは、今年十三になった仕込みで、子柄が好い方なので銀子も末を楽しみにしていた。
銀子はこの商売に取り着きたての四五年というもの、いつもけい[#「けい」に傍点]庵《あん》に箝《は》め玉《ぎょく》ばかりされていた。少し柄がいいので、手元の苦しいところを思い切って契約してみると、二月三月も稼《かせ》いでいるうちに、風邪《かぜ》が因《もと》で怪しい咳《せき》をするようになり、寝汗をかいたりした。逞《たくま》しい体格で、肉も豊かであり、皮層は白い乳色をしていた。髪の毛が赭《あか》く瞳《ひとみ》は白皙人《はくせきじん》のように鳶色《とびいろ》で、鼻も口元も彫刻のようにくっきりした深い線に刻まれていたが、大分浸潤があるので、医者の勧めで親元へ還《かえ》したこともあり、銀子自身があまり商売に馴《な》れてもいないので、子供の見張りや、芸事を仕込んでもらうつもりで、烏森《からすもり》を初め二三カ所渡りあるいたという、二つ年上の女を、田村町から出稽古《でげいこ》に来る、常磐津《ときわず》の師匠の口利きで抱えてみると、見てくれのよさとは反対に、頭がひどい左巻きであったりした。一年間も方々の病院をつれ歩いてみても、睫毛《まつげ》や眉毛《まゆげ》を蝕《むしば》んで行く皮膚病に悩まされたこともあり、子柄がわるい代りに病気がないのが取柄だと思うと、親がバタヤで質《たち》が悪く、絶えず金の無心で坐りこまれたりした。銀子もいろいろの世間を見て来て、時には暴力団や与太ものの座敷へも呼ばれ、娘や女を喰《く》いものにしている吸血児をも知っていたが、女ではやっぱり甘く見られがちで、つい二階にいる均平に降りてもらうことになるのだったが、均平も先の出方では、ややもするとしてやられがちであった。
「いやな商売だな。」
均平がいうと銀子も、
「そうね、止《よ》しましょうか。」
「いやいや、君はやっぱりこの商売に取りついて行くんだ。泥沼《どろぬま》のなかに育って来た人間は、泥沼のなかで生きて行くよりほかないんだ。現に商売が成り立ってる人もあるじゃないか。」
「それはそうなのよ。世話のやける抱えなんかおくより自分の体で働いた方がよほど気楽だというんで、いい姐《ねえ》さんが抱えをおかないでやってる人もあるし、桂庵《けいあん》に喰われて一二年で見切りをつけてしまう人もあるわ。かと思うと抱えに当たって、のっけ[#「のっけ」に傍点]からとんとん拍子で行く人もたまにはあるわ。」
つまり好いパトロンがついていない限り、商売は小体《こてい》に基礎工事から始めるよりほかなかった。何の商売もそうであるように、金のあるものは金を摺《す》ってしまってからやっと商売が身につくのであった。
とにかく銀子は、いろいろの人のやり口と、自身の苦い経験から割り出して抱えはすべて仕込みから仕上げることに方針を決めてしまい、それが一人二人順潮に行ったところから、親父《おやじ》の顔のひろい下町の場末へ手をまわして、見つかり次第、健康さえ取れれば、顔はそんなによくなくても取ることにした。
「あんなのどうするんだい。」
粒をそろえたいと思っている均平が言うと、銀子は、
「あれでも結構物になりますよ。」
と言って、こんな子がと思うようなのが、すばらしく当たった例を二つ三つ挙げてみせた。
「だからこれだけは水ものなのよ。一年も出してみて、よんど駄目なら台所働きにつかってもいいし、芸者がなくなれば、あんなのでも結構時間過ぎくらいには出るのよ。」
もちろん見てくれがいいから出るとも限っていなかった。いくら色や愛嬌《あいきょう》を売る稼業《かぎょう》でも、頭脳《あたま》と意地のないのは、何年たっても浮かぶ瀬がなかった。
八
銀子は誰が何時に出て、誰がどこへ行っているかを、黒板を見たり子供に聞いたりしていたが、するうちお酌《しゃく》がまた一人かかって来て、ちょっと顔や頭髪《あたま》を直してから、支度《したく》に取りかかった。そしてそれが出て行くとそこらを片着け多勢の手で夕飯の餉台《ちゃぶだい》とともにお櫃《はち》や皿小鉢《さらこばち》がこてこて並べられ、ベちゃくちゃ囀《さえず》りながら食事が始まった。
この食事も、彼女たちのある者にとっては贅沢《ぜいたく》な饗宴《きょうえん》であった。それというのも、銀子自身が人の家に奉公して、餒《ひも》じい思いをさせられたことが身にしみているので、たとい貧しいものでも、腹一杯食べさせることにしていたからで、出先の料亭《りょうてい》から上の抱えが、姐《ねえ》さんへといって届けさせてくれる料理まで子供たちの口には、少しどうかと思われるようなものでも、彼女は惜しげもなく「これみんなで頒《わ》けておあがり」と、真中へ押しやるくらいにしているので、来たての一ト月くらいは、顔が蒼《あお》くなるくらい、餓鬼のように貪《むさぼ》り食べる子も、そうがつがつしなくなるのであった。子供によっては親元にいた時は、欠食児童であり、それが小松川とか四ツ木、砂村あたりの場末だと、弁当のない子には、学校で麺麦《パン》にバタもつけて当てがってくれるのであったが、この界隈《かいわい》の町中の学校ではそういう配慮もなされていないとみえて、最近出たばかりのお酌の一人なぞは、お昼になると家へ食べに行くふりをして、空腹《すきばら》をかかえてその辺をぶらついていたこともたびたびであり、また一人は幾日目かに温かい飯に有りついて、その匂いをかいだ時、さながら天国へ昇ったような思いをするのであった。この子は二人の小さい仕込みと同じ市川に家があるので、大抵兵営の残飯で間に合わすことにしていたが、多勢の兄弟があり、お櫃の底を叩《たた》いて幼い妹に食べさせ、自身はほんの軽く一杯くらいで我慢しなければならないことも、いつもの例で、みんなで彼女たちは彼女たちなりの身のうえ話をしているとき、ふとそれを言い出して互いに共鳴し、目に涙をためながら、笑い崩れるのであった。もちろん銀子にだって、それに類した経験がないことはなかった。彼女は食いしん棒の均平と、大抵一つ食卓で、食事をするのだったが、時には子供たちと一緒に、塗りの剥《は》げた食卓の端に坐って、茄子《なす》の与市漬《よいちづけ》などで、軽くお茶漬ですますことも多かった。そしてその食べ方は、人の家の飯を食べていた時のように、黙祷《もくとう》や合掌こそしないが、どうみても抱えであった時分からの気習が失《う》せず、子供たちの騒々しさや晴れやかさの中で、どこかちんまりした物静かさで、おしゃべりをしたり傍見《わきみ》をしたりするようなこともなかった。
非常時も、このごろのように諸般の社会相が、統制の厳《きび》しさ細かさを生活の末梢《まっしょう》にまで反映して、芸者屋も今までの暢気《のんき》さではいられなかった。人員の統制が、頭脳《あたま》のぼやけたものにはちょっと理解ができないくらいだが、簿記台のなかには帳面の数も殖《ふ》えていた。銀子の今までの、抱え一人々々の毎日々々の出先や玉数《ぎょくかず》を記した幾冊かの帳面のほかに、時々警察の調査があり、抱えの分をよくするような建前から、規定の稼《かせ》ぎ高の一割五分か二割を渡すほかは、あまり親の要求に応じて、子供の負担になるような借金をさせないことなどの配慮もあって、子供自身と抱え主とで、おのおのの欄に毎日の稼《かせ》ぎ高を記入するなどの、係官の前へ出して見せるための、めいめいの帳簿も幾冊かあって、銀子はそれを煩《うる》さがる均平に一々頼むわけにも行かず、抱え主の分を自身で明細に書き入れるのであった。勘定のだらしのないのは、大抵のこの稼業《かぎょう》の女の金銭問題にふれたり、手紙を書いたりするのを、ひどく億劫《おっくうう》がる習性から来ているのであったが、わざと恍《とぼ》けてずる[#「ずる」に傍点]をきめこんでいるのも多かった。
食事中、子供は留守中に起こったことを、一つ一つ思い出しては銀子に告げていたが、
「それからお母さん、砂糖|壺《つぼ》を壊しました。すみません。」
台所働きの子が好い機会《きっかけ》を見つけて言った。
「それから三村さんところへお手紙が……。」
均平はここでの習慣になっている「お父さん」をいやがるので、皆は苗字《みょうじ》を呼ぶことにしていた。
山 荘
一
簿記台のなかから、手紙を取り出してみると、それは加世子から均平に宛《あ》てたもので、富士見の青嵐荘《せいらんそう》にてとしてあった。涼しそうな文字で、しばらく山など見たことのない均平の頭脳《あたま》にすぐあの辺の山の姿が浮かんで来た。しかし開かない前にすぐ胸が重苦しくなって、いやな顔をしてちょっとそのまま茶盆の隅《すみ》においてみたりした。いつも加世子のことが気になっているだけに、どうしてあの高原地へなぞ行っているのかと、不安な衝動を感じた。
しばらくすると彼は袂《たもと》から眼鏡を出して、披《ひら》いてみた。そして読んでみると、帰還以来陸軍病院にずっといた長男の均一が、大分落ち着いて来たところからついこのごろ家《うち》に還《かえ》され、最近さらにここの療養所に来ているということが解《わか》ったが、父親に逢《あ》いたがっているから、来られたら来てくれないかと、簡単に用事だけ書いてあった。
均一と均平の親子感情は、決して好い方とは言えなかった。それはあまりしっくりも行っていなかった。家付き娘以上の妻の郁子《いくこ》との夫婦感情を、そのまま移したようなものだったが、郁子が同じ病気で死んで行ってから主柱が倒れたように家庭がごたつきはじめた時、均平の三村本家に対する影が薄くなり、存在が危くなるとともに、彼も素直な感情で子供に対することができなくなり、子供たちも心の寄り場を失って、感傷的になりがちであった。均一は学課も手につかず喫茶店やカフエで夜を更《ふ》かし煙草《たばこ》や酒も飲むようになった。
泰一という郁子の兄で、三村家の相続者である均一の伯父《おじ》が、彼を監視することになり、その家へ預けられたが、泰一自身均平とは反《そ》りが合わなかったので、均一の父への感情が和《なご》むはずもなかった。それゆえ出征した時も、入院中も均平はちょっと顔を合わしただけで、お互いに胸を披《ひら》くようなことはなかった。均一は工科を卒業するとすぐ市の都市課に入り、三月も出勤しないうちに、第一乙で徴召され、兵営生活一年ばかりで、出征したのだったが、中学時代にも肋膜《ろくまく》で、一年ばかり本家の別荘で静養したこともあった。
手紙を読んだ均平の頭脳《あたま》に、いろいろの取留めない感情が往来した。早産後妻が病院で死んだこと、そのころから三村本家の人たちの感情がにわかに冷たくなり、自分の気持に僻《ひが》みというものを初めて経験したこと、郁子の印鑑はもちろん、名義になっている公債や、身につけていた金目の装身具など、誰かいつの間にもって行ったのか、あらかたなくなっていたことも不愉快であった。均平はそれを口にも出さなかったが、物質に生きる人の心のさもしさが哀れまれたり、先輩の斡旋《あっせん》でうっかりそんな家庭に入って来た自身が、厭《いと》わしく思えたりした。世話した先輩にも、どうしてみようもなかったが、均平も醜い争いはしたくなかった。
「どうしたんです。」
均平が黙って俛《うつむ》いているので、銀子はきいた。
「いや、均一が富士見へ行ってるそうで、己《おれ》に逢いたいそうだ。」
「よほど悪いのかしら。」
「さあ。」
「いずれにしても、加世子さんからそう言って来たのなら、行ってあげなきゃ……何なら私も行くわ。中央線は往《い》ったことがないから、往ってみたいわ。」
「それでもいいね。」
「貴方《あなた》がいやなら諏訪《すわ》あたりで待っててもいいわ。」
「それでもいいし、君も商売があるから、一人で行ってもいい。」
「そう。」
銀子にはこの親子の感情は不可解に思えた。三村家で二人を引き取り、不安なく暮らしている以上、その上の複雑な愛情とが憎悪とかいうようなむずかしい人情は、無駄だとさえ思えた。彼女はまだ若かった父や母に猫《ねこ》の子のように育てられて来た。銀子の素直で素朴《そぼく》な親への愛情は、均平にも羨《うらや》ましいほどだった。
二
汽車が新緑の憂鬱《ゆううつ》な武蔵野《むさしの》を離れて、ようやく明るい山岳地帯へ差しかかって来るにつれて、頭脳《あたま》が爽《さわ》やかになり、自然に渇《かつ》えていた均平の目を愉《たの》しましめたが、銀子も煩わしい商売をしばし離れて、幾月ぶりかで自分に還《かえ》った感じであった。少女たちの特殊な道場にも似た、あの狭いところにうようよしている子供たちの一人々々の特徴を呑《の》み込み、万事要領よくやって行くのも並大抵世話の焼けることではなかった。
均平もあの環境が自分に適したところとは思えず、この商売にも好感はもてなかったが、ひところの家庭の紛紜《いざこざ》で心の痛手を負った時、彼女のところへやって来ると、別に甘い言葉で慰めることはしなくても、普通商売人の習性である、懐《ふところ》のなかを探るようなこともなく、腹の底に滓《おり》がないだけでも、爽《さわ》やかな風に吹かれているような感じであった。それにもっと進歩した新しい売淫《ばいいん》制度でも案出されるならいざ知らずとにかく一目で看通《みとお》しがつき、統制の取れるような組織になっているこの許可制度は、無下に指弾すべきでもなかった。雇傭《こよう》関係は自発的にも法的にも次第に合理化されつつあり、末梢的《まっしょうてき》には割り切れないものが残っていながら、幾分光りが差して来た。進歩的な両性の社交場がほかに一つもないとすれば、低調ながらも大衆的にはこんなところも、人間的な一つの訓練所ともならないこともなかった。
もちろん抱え主の側《がわ》から見た均平の目にも、物質以外のことで、非人道的だと思えることも一つ二つないわけではなく、それが男性の暴虐な好奇心から来ている点で、許せない感じもするのであった。それも銀子に話すと、
「果物《くだもの》は誰方《どなた》も青いうち食べるのが、お好きとみえますね。」
銀子は笑っていたが、その経験がないとは言えず、厠《かわや》へ入って、独りでそっと憤激の熱い涙を搾《しぼ》り搾りしたものだったが、それには何か自身の心に合点《がてん》の行く理由がなくてはならぬと考え、すべてを親のためというところへ持って行くよりほかなかった。
しかし銀子の抱えのうちには、それで反抗的になる子もあったが、傍《はた》の目で痛ましく思うほどではなく、それをいやがらない子もあり、まだ仇気《あどけ》ないお酌《しゃく》の時分から、抱え主や出先の姐《ねえ》さんたちに世話も焼かさず、自身で手際《てぎわ》よく問題を処理したお早熟《ませ》もあった。
猿橋《えんきょう》あたりへ来ると、窓から見える山は雨が降っているらしく、模糊《もこ》として煙霧に裹《つつ》まれていたが、次第にそれが深くなって冷気が肌に迫って来た。その辺でもどうかすると、ひどく戦塵《せんじん》に汚《よご》れ窶《やつ》れた傷病兵の出迎えがあり、乗客の目を傷《いた》ましめたが、均平もこの民族の発展的な戦争を考えるごとに、まず兵士の身のうえを考える方なので、それらの人たちを見ると、つい感傷的にならないわけに行かず、おのずと頭が下がるのであった。彼は時折出征中の均一のことを憶《おも》い出し、何か祈りたいような気持になり、やりきれない感じだったが、今療養所を訪れる気持には、いくらかの気休めもあった。
富士見へおりたのは四時ごろであった。小雨がふっていたが、駅で少し待っていると、誰かを送って来た自動車が還《かえ》って来て、それに乗ることができた。銀子はここを通過して、上諏訪《かみすわ》で宿を取ることにしてあったので、均平は独りで青嵐荘へと車を命じた。ここには名士の別荘もあり、汽車も隧道《トンネル》はすでに電化されており、時間も短いので、相当開けていることと思っていたが、降りて見て均平は失望した。もちろん途中見て来たところでは、稲の植えつけもまだ済まず、避暑客の来るには大分間があったが、それにしても、この町全体が何か寒々していた。
青嵐荘は町筋を少し離れた処《ところ》にあった。石の門柱が立っており、足場のわるいだらだらした坂を登ると、ちょうど東京の場末の下宿屋のような、木造の一棟《ひとむね》があり、周囲《まわり》に若い檜《ひのき》や楓《かえで》や桜が、枝葉を繁《しげ》らせ、憂鬱《ゆううつ》そうな硝子窓《ガラスまど》を掠《かす》めていた。
三
玄関から声かけると、主婦らしい小肥《こぶと》りの女が出て来て、三村加世子がいるかと訊《き》くと、まだ冬籠《ふゆごも》り気分の、厚い袖《そで》無しに着脹《きぶく》れた彼女は、
「三村さんですか。お嬢さまは療養所へ行ってお出《い》でなさいますがね、もうお帰りなさる時分ですよ。どうぞお上がりなすって……。」
だだっ広い玄関の座敷にちょっとした椅子場《いすば》があり、均平をそこでしばらく待たせることにして、鄙《ひな》びた菓子とお茶を持って来た。風情《ふぜい》もない崖裾《がけすそ》の裏庭が、そこから見通され、石楠《しゃくなげ》や松の盆栽を並べた植木|棚《だな》が見え、茄子《なす》や胡瓜《きゅうり》、葱《ねぎ》のような野菜が作ってあった。
「療養所はこの町なかですか。」
「いいえ、ちょっと離れとりますが、歩いてもわけないですよ。何なら子供に御案内させますですが。」
均平はそれを辞し、病院は明朝《あした》にすることにした。主婦の話では、このサナトリウムはいつも満員で、この山荘にいる人で、部屋の都合のつくのを待っているのもあり、近頃病院の評判が非常にいいから、均一もきっと丈夫になるに違いないが、少し時日がかかるような話だというのであった。
「そうですか。今年一杯もかかるような話ですか。」
「何でも本当に丈夫になるには、来年の春まで病院にいなければならないそうですよ。」
病気がそう軽くないということが、正直そうな主婦の口吻《くちぶり》で頷《うなず》けた。
それからこの辺のこのごろの生活に触れ、昔は米などは残らず上納し、百姓は蜀麦《とうもころし》や稷《きび》のようなものが常食であり、柿《かき》の皮の干したのなぞがせいぜい子供の悦《よろこ》ぶ菓子で、今はそんな時勢から見ると、これでもよほど有難い方だと、老人たちが言っているというのであった。
均平は少し退屈を感じ、玄関をおりて外へ出てみた。駄荷馬などの砂煙をあげて行く道路を隔てて谷の向うに青い山がそそり立ち、うねった道路の果てにも、どっしりした山が威圧するように重なり合って見え、童蒙《どうもう》な表情をしていた。均平は町の様子でも見ようと思い、さっき通って来た方へ歩いて行ったが、寂しいこの町も見慣れるにつれて、人の姿も目について来て、大通りらしい処《ところ》へ出ると、かなりの薬局や太物屋、文房具屋などが、軒を並べていた。
ある八百屋《やおや》の店で、干からびたような水菓子を買っている加世子と女中の姿が、ふと目につき、均平は思わず立ち停《ど》まった。加世子は水色のスウツを着て、赤い雨外套《あまがいとう》を和服の女中の腕に預け、手提《てさげ》だけ腕にかけていたが、この方はしばらく見ないうちに、すっかり背丈《せたけ》が伸び、ぽちゃっとしたところが、均平の体質に似ていた。土間に里芋が畑の黒土ごと投《ほう》り出されてあった。
均平が寄って行くと、加世子がすぐ気づいた。頬《ほお》を心持赤くしていた。
「あら。」
「今帰って来たのか。」
「え、ちょっと療養所へ行って来ましたの。」
「どんな様子かしら。」
加世子はそれについて、いずれ後でというふうで、何とも言わなかった。
「お手紙ありがとう。」
「いいえ。」
紙にくるんだ夏蜜柑《なつみかん》にバナナを、女中が受け取ると、やがて三人で山荘の方へ歩き出した。
「お兄さまそう心配じゃないんですけど……多分この一ト冬我慢すればいいんでしょうと思います。」
「そうですか。すぐ行ってみようかと、実は思ったけれど、興奮するといけないと思って。」
「何ですか来てほしいようなことを言うんですの。それでお手紙差し上げましたの。」
聞いてみると、故郁子の姉の子加世子には従兄《いとこ》の画家|隆《たかし》も来ているらしかった。
四
雨がぽつりぽつり落ちて来たので、三人は石高な道を急いで宿へ帰って来た。
ちょうど入笠山《にゅうがさやま》あたりのハイキングから帰って来たらしい、加世子の従兄と登山仲間の友人とが、裏の井戸端《いどばた》で体をふいているところだったが、加世子が見つけて、縁端《えんばな》へ出て言葉を交している工合《ぐあい》が、どうもそうらしいので、均平も何か照れくさい感じでそのまま女中の案内で二階の加世子の部屋へ通った。
部屋はたっぷりした八畳で、建具ががたがたで畳も汚かったが、見晴らしのいいので助かっていた。床脇《とこわき》の棚《たな》のところに、加世子のスウツケースや風呂敷包《ふろしきづつみ》があり、不断着が衣紋竹《えもんだけ》にかかっており、荒く絵具をなすりつけた小さい絵も床脇の壁に立てかけてあった。
女中が座布団《ざぶとん》を床の間の方におき、あらためて挨拶《あいさつ》してから部屋を出て行ったが、入れ替わりに加世子が入って来て、これもあらためて挨拶をした。
「大きくなったね、外であってもちょっと解《わか》らないくらいだ。」
均平は欅《けやき》の食卓の端の方に坐り、煙草《たばこ》をふかしていた。
「そうですか。」加世子はにやりとして、
「お父さまも頭髪《おつむ》が大分白くなりましたわ。」
「己《おれ》もめっきり年を取ったよ。皆さんお変りもないか。老人はどうだ。」
「お祖父《じい》さまですか。このごろ少し気が弱くなったようだけれど、でも大丈夫よ。」
「貴女《あなた》も丈夫らしいが、結婚前の体だ、用心した方がいいね。」
「ええ。私は大丈夫ですけれど、かかったっていいわ。」
「今どんなふうに暮らしているのかしら。」
「どんなふうって別に……北沢の叔母《おば》さまの近くに、小さい家《うち》を借りているんですわ。」
「借家に?」
「そうです。おばさまの監督の下に。なるべく均一お兄様の月給でやって行くようにというんでしょう。」
「均一の月給でね。それじゃ均一もなかなかだね。」
「ええ。今度の入院費なんかは別ですけど。」
「あんたはずっといるつもりか。」
「さあどうしようかと思ってますよ。看護婦もついていますし、療養所は若い人ばかりで賑《にぎ》やかだから、ちっとも寂しいと思わないと言うし、一週間もしたら帰ろうかと思っていますよ。だってこんなつまらない処ってありませんわ。」
久しぶりで親子水入らずで、お茶を呑《の》みバナナを食べながら、そんな話をしているうちに風呂《ふろ》の支度《したく》が出来、均平は裏梯子《うらばしご》をおりて風呂場へ行った。風呂に浸《つか》っていると、ちょうど窓から雨にぬれた山の翠《みどり》が眉《まゆ》に迫って来て、父子《おやこ》の人情でちょっと滅入《めい》り気味になっていた頭脳《あたま》が軽くなった。
北の国で育った均平は、自分の賦質に何か一脈の冷めたいものが流れているような気がしてならなかった。老年期の父の血を受けたせいか、とかく感激性に乏しく、情熱にも欠けており、骨肉の愛なぞにも疎《うと》いのだと思われてならなかった。加世子たちに対する気持も、ほんの凡夫の女々《めめ》しい愛情で、自分で考えているほど痛切な悩みがあるとも思えなかった。しかし加世子や均一の前途がやッぱり不安で、加世子のためには均一の生命が、均一のためには加世子の存在が必要であった。
「そう心配したものでもないのよ。結婚してしまえば、旦那《だんな》さまや奥さまに愛せられて、自分々々の生活に立て籠《こ》もるのよ。」
銀子に言われると、それもそうかと思うのであった。
玄関の喫煙場で、隆と友人とが山の話をしていたが、ここにも病人があるらしく、若い女が流しの方で、しきりに氷をかいていた。二人の青年をも加えて、ビールをぬき晩餐《ばんさん》の食卓についたのは、もう夜で、食事がすんでから間もなく隆たちは東京へ立っていった。
五
加世子が隆たちを駅へ送って帰って来ると、もう八時半で、階下《した》からラジオ・ドラマの放送があり、都会で型にはめて作った例の田舎《いなか》言葉でお喋《しゃべ》りをしているのが、こんな山の中で聞いていると、一層|故意《わざ》とらしく、いつも同じような型の会話だけの芝居が、かつての動作だけの無声映画と同じく、ひどく厭味《いやみ》なものに聞こえた。
加世子も毎晩このラジオには悩まされるらしく、
「今夜はまた声が高いわね。氷で冷やしている病人があるのに、もっと低くしないかな。」
均平は加世子と女中が寝床を延べている間、階下《した》へおりて、玄関の突当りにある電話室へ入って、上諏訪のホテルへ電話をかけ、銀子を呼び出した。
「何だか雨がふって退屈で仕様がないから、今下へおりてラジオを聞いているところなの。」
銀子の声が環境が環境だけに一層晴れやかに聞こえた。
「均一さんどんなでした。」
均平は今夜はここに一泊して、明日病院へ行くつもりだということだけ知らせ、受話機をおいた。そして廊下の壁に貼《は》り出してある、汽車の時間表など見てから、二階へあがった。まだ寝るには少し早く、読むものも持って来たけれど、読む気にもなれず、加世子と何か話そうとしても、久しぶりで逢《あ》っただけに話の種もなく、三村家一族のことに触れるのも何となしいやであった。三村は千万長者といわれ、三十七八年の戦争の時、ぼろ船を買い占めて儲《もう》けたのは異数で、大抵各方面への投資と土地で築きあげた身上《しんしょう》であり、自身に経営している産業会社というようなものはなく、起業家というより金貸しと言った方が適当であった。論語くらいは読み、お茶の道楽もあり、明治から大正へかけての成功者として、黄金万能の処世哲学には均平もしばしば中《あ》てられたものだが、それはそれとして俗物としては偉大な俗物だと感心しないわけにいかなかった。こんな時勢を彼はどんなふうに考えているであろうか。多分戦争でもすめば、日本の財界はすばらしい景気になり、自分のもっている不動産も桁《けた》はずれに値があがり、世界戦以上の黄金時代が来るものと楽観しているであろうか。
均平は加世子と枕《まくら》を並べて寝ながら、そんなことを考えていたが、加世子は少し離れて入口の方に寝ている女中と、お付きの女が氷をかいている患者のことや、療養所の看護婦や、均一と同室のいつもヴァイオリンをひいている患者の噂《うわさ》などで、しばらくぼそぼそと話をしていた。
均平はもしかしたら、銀子を一足先へ帰して、二三日この山荘に逗留《とうりゅう》し、山登りでもしてみたいような気もしたが、どうせ同棲《どうせい》というわけにもいかない運命だと思うと、愛着を深くしない方が、かえって双方の幸福だという気もして口へは出さなかった。
ラジオは戦争のニュースであった。
「まだやってるわ。寝られないわ。」
加世子が寝返りした。
「それに雨がふるんですもの。」
女中が答えた。
「明日晴れるかしら。ここはお天気のいい日はとてもいいんですわ。お父さんしばらくいらしてもいいんでしょう。」
「さあ、それでもいいんだが、誰か東京から来やしないか。それに己《おれ》もここは一日のつもりで来たんだから。」
加世子は黙って天井を見詰め、むっちりした白い手を出して、指先で頭をかいていたが、またごそごそ身動きをしたと思うと、今度は後ろ向きになって眠った。均平はふと妻の死の前後のことが憶《おも》い出され、小学校へ上がったばかりの加世子が、帰って来ると時々それとなし母を捜して歩き、来る女ごとに手を伸ばし、抱きつきたがる可憐《いじら》しい姿が浮かんで来て、思わず目が熱くなって来た。
六
翌朝は晴天であった。
均平はラジオ体操で目がさめ、階下《した》へおりて指先の凍るような井戸の水で顔を洗い、上半身をも拭《ふ》いて崖《がけ》はずれの処《ところ》に開けた畑の小逕《こみち》や建物のまわりを歩いていた。軽い朝風の膚《はだ》ざわりは爽快《そうかい》だったが、太陽の光熱は強く、高原の夏らしい感じだった。そうしているうちに加世子も女中と一緒に、タオルや石鹸《シャボン》をもって降りて来た。
二階へ上がると部屋もざっと掃除がすんでおり、均平は縁側のぼろ椅子《いす》に腰かけて、目睫《もくしょう》の間に迫る雨後の山の翠微《すいび》を眺めていた。寝しなに胸を圧していたあの感傷も迹《あと》なく消えた。
不思議なことに今朝《けさ》になってみると、田舎《いなか》の兄のやっている陶器会社が破産状態に陥った時、相談を持ちかけられ、郁子を説得したうえ、万に近い金をようやく融通して急場を救ったことがあり、後に紛紜《いざこざ》が起きて困ったことがあったが、結局解決がつかずじまいであったことが、今朝の清澄な心にふと思い出された。それで三村が均平を警戒しはじめ、郁子も間へ挾《はさ》まって困っていた事情や径路が、古い滓《おり》が水面へ浮かんで来たように思い出されて来た。しかし思い出してみても今更どうにもならないし、どうかする必要もなかった。
「俺《おれ》もよほど弱気になった。」
均平は嘆息した。ひところ金を浪費して、荒れまわった時のことを考えると、とにかく勇気があった。
内へ入って茶をいれているところへ、加世子が帰って来た。
「今この人と決めたんですけれど、今日は午前中病院へ行って、お昼から上諏訪へ遊びに行こうと思いますの。幾日もこんなところにいて鬱々《くさくさ》して来たから。それに少し買いたいものもありますの。」
加世子は鏡の前で顔にクリームを塗りながら、言っていた。
「上諏訪! ああそう。」
均平も頷《うなず》いた。
「お父さまもいらっしゃるでしょう。私たちお接待のつもりで……。」
加世子はふ、ふと笑っていた。
「それあありがとう。俺も光栄だよ。」
「光栄だなんて……。上諏訪へいらしたことがおありになって?」
「いや、こっち方面はどこも知らない。旅行はあまり好きじゃなかったし、隙《ひま》もなかった。しかし、上諏訪へ行くんだったら、ちょっと訪ねたい処《ところ》もある。」
均平は匂わした。
「どこですの。」
「ホテルだ。」
「ホテルに誰方《どなた》か……。」
加世子は小声で言ったが、気がついたらしく口をとじた。
「何なら紹介しよう。」
「ええ。」
食事がすんで療養所へ行ったのはもう九時であった。療養所はこの狭い高原地の、もっとも高燥な場所を占めていたが、考えていたよりも建築も儼《げん》としており、明るい環境も荒い感じのうちに、厳粛の気を湛《たた》えており、気分のよさに、均平もしばらく立ち止まって四辺《あたり》を見廻していた。
均一は鈴蘭病棟《すずらんびょうとう》の一室にいたが、熱も大して無いと見えて、仰臥《ぎょうが》したまま文庫本を見ていた。木造だけに部屋の感じもよく、今一人の同じ年頃の患者とベッドを並べているので、寂しそうにもなかった。
「お父さま来て下さったの。」
加世子が傍《そば》へ寄って胸を圧《お》されるように言うと、均一は少し狼狽《ろうばい》したように、本を枕頭《まくらもと》におき、入口にいる均平を見た。
「どうだね、こちらへ来て。」
均平は目を潤《うる》ませたが、均一も目に涙をためていた。
「今のところ別に……。」
七
「何しろこの病院は素晴らしいね。ここにいれば大抵の患者は健康になるに決まっているよ。」
「ここまで持って来れる患者でしたら、大抵|肥《ふと》って帰るそうです。」
「とにかくじっと辛抱していることです。一年と思ったら二年もいる気でね。……戦争はどうだった?」
「戦争ですか。何しろ行くと間もなく後送ですから、あまり口幅ったいことは言えませんが、何か気残りがしてなりません。病気でもかまわず戦線へ立つ勇気があるかといえば、それはできないけれど……。死の問題なぞ考えるようになったのは、かえってここへ来てからです。」
均平は今いる世界の周囲にも、事変当初から、あの空地《あきち》で歓送されて行った青年の幾人かを知っていた。役員や待合の若い子息《むすこ》に、耳鼻|咽喉《いんこう》の医師、煙草屋《たばこや》の二男に酒屋の主人など、予備の中年者も多かった。地廻りの不良も召集され、運転士も幾人か出て行った。その中で骨になったり、不具者になって帰って来たのはせいぜい一人か二人で、大抵は無事で帰って来た。ある待合の子息は、出征直前に愛人の芸者が関西へ住替えしたのを、飛行機で追いかけ、綺麗《きれい》に借金を払って足を洗わせておいてから、出征したものだったが、杭州湾《こうしゅうわん》の敵前上陸後、クリークのなかで待機しているうち、窮屈な地下生活に我慢ができず、いきなり飛び出した途端に砲丸にやられ、五体は粉微塵《こなみじん》に飛び、やっと軍帽だけが送り還《かえ》された。またこの町内のある地主の子息は、工科出の地質学者であったが、召集されるとすぐ、深くも思い決した体で、心を後に残さないように、日頃愛用していたライカアやレコオドを残らず叩《たた》き壊《こわ》し、潔《いさぎよ》く征途に上ったものだったが、一ト月の後にはノモンハンで挺身《ていしん》奮闘して斃《たお》れてしまった。同じ奉公は奉公に違いなく、町の与太ものの意気もはなはだ愛すべきだが、科学人の白熱的な魂の燃焼も、十分|讃《ほ》め称《たた》えられるべきだと思われた。
均平は長くもこの病室にいなかった。ただ均一を見舞うだけの旅行であったが、逢《あ》ってみると別に話すべきこともなく、今の自分の姿にも負《ひ》け目《め》が感じられ、後は加世子に委《まか》せて、ベランダヘ出て風に吹かれていた。均平はこの年になっても持前のわがままがぬけず、別にこれと言って希望もなく、今後の生活の設計があるのでもなかったが、そうかと言ってそこに全く安住している気にもなれず、絶えず何か焦躁《しょうそう》を感じていた。
「もう帰るとしようか。また来るかも知れないが……。」
汐《しお》を見て均平は椅子《いす》を離れた。
「そうね。」
兄との話の途切れたところで、加世子も言った。
均平は均一の傍へ寄って、痩《や》せた手を握り、
「俺も何か物質的に援助もしたいと思うのだが、今のところその力はない。お前たちのためには、まことに頼りのない父だが、これもどうも仕様がない。辛抱も大事だが金も必要だからね。」
「いや、そんな心配はありません。」
「丈夫になったら、元通り勤めることになってるのだろうね。」
「まあそうです。しかし三年も四年も休んでいると、すベてがそれだけ後《おく》れてしもうわけです。この損失を取り還《かえ》すのは大変です。僕はもし丈夫になったら、今度は方嚮《ほうこう》をかえるつもりです。」
「方嚮をかえるって……。」
「向うで懇意になった映画界の人がいますから、あの世界へ入ってみようかとも思っています。」
「それもいいだろうが、三村の老人や他の皆さんともよく相談することだね。」
「お祖父《じい》さんは僕のことなんか、そう心配していません。」
「とにかく体が大事だ。偉くなる必要もないから、幸福にお暮らしなさい。」
「は。」
均一は素直に頷《うなず》いた。
均平は思い切って病室を出てしまった。何か足が重く、心が後へ残るのだったが、わざと銀子のことを考えたりして、玄関口へ出た。
八
均平はしばらく玄関前で、加世子たちの出て来るのを待ってから、やがて製材所の傍《そば》を通って街道《かいどう》へ登った。この道を奥の方へと荷馬車の通うのにも出逢《であ》ったが、人里がありそうにも思えない荒寥《こうりょう》たる感じで、陰鬱《いんうつ》な樹木の姿も粗野であった。
途中に、それでも少し小高い処《ところ》に、ペンキ塗りの新築のかなり大きな別荘があり、レコオドの音が朗らかに聞こえ、製氷会社と土地会社を兼ねた事務所があったりした。
「お兄さま感謝していましたわ。」
加世子は父と並んで歩き出した時言った。
「感謝!」
「それからお兄さまこのごろになって、お父さまの心持がやっと解《わか》るような気がすると言っていましたけれど。」
「可哀《かわい》そうに病気して気が弱くなったんだろう。」
「それもあるでしょうけれど、あれで随分しっかりしたところもあるわ。」
「何しろあの時分は、お母さんが少し子供に甘くしすぎたんだよ。己《おれ》は子供の時から貧乏に育って、少しいじけていたもんだから、お母さんのやることが気に入らなかった。学生のくせに毛糸のジャケツを買ったり、ゴムの雨靴を買ったりさ。己は下駄箱《げたばこ》のなかで、それを見つけてかっとなって引き裂いてしまったものだよ。あの時分は己も頭脳《あたま》が古かったし、今から思うと頑固《がんこ》すぎたと思うよ。明治時代に書生生活をしたものには、どうかするとそういうところがあったよ。そのころから均一はコオヒーを飲んだり、音楽を聞いたり、映画や歌劇を見たりしたものだ。もっとも己も最近では若いものに感染《かぶ》れて、だんだんそういうものの方が好きになった。」
「そうね。映画御覧になります?」
「時々見る。退屈|凌《しの》ぎにね。しかしこのごろはいい画《え》がちっとも来ないじゃないか。」
「え、御時勢が御時勢だから。でもたまには……。」
「ひところは均一も、音楽家にでもなりそうで、どうかと思っていたが、そうでもなかった。己も明治時代の実利主義派で、飯にならんものはやっても困ると思っていたものだ。近代的な教養というものに、まるで理解がなかった。」
「けれど今はまたそういう時代じゃないんでしょうか。」
「そうも言えるが、それとはまた違うようだ。もっとも世の中にはそういう階層もないとはいえん。しかしみな頭脳《あたま》がよくなって、単に古いものを古いなりに扱っているのではなく、時代の視角で新しい解釈を下そうとしているようだ。己は一切傍観者で、勉強もしないから何も解《わか》りはしないけれど。」
「そういえばお兄さまも少し変わって来たわ。」
「どういうふうに。」
「どうといって説明はできないけれど、何しろ一年の余も大陸の風に吹かれていましたから。」
ぼつぼつ話しながら、二人は青嵐荘近くまで来ていた。かれこれ十時半であった。
部屋は一晩寝ただけに、昨日着いた時よりも親しみが出来、均平はここで一ト月も暮らし、自分をよく考えてみるのもよいかも知れぬと思ったが、そういう機会はこれまでにもなかったわけではなく、本当に考える気なら、それが絃歌《げんか》の巷《ちまた》でも少しも差《さ》し閊《つか》えないはずだと思われた。
しばらくお茶を呑《の》んで休んでから、加世子が頼んだタキシイが来たところで、三人はまた打ち揃《そろ》って山荘を出た。
上諏訪でおりたのは、十二時過ぎであった。
「どうしましょう、私お腹《なか》がすいたんですの。フジ屋へでもお入りになりません?」
「食事ならホテルでしよう。買物はその後になさい。」
ホテルまではちょっと間があった。銀子に加世子を紹介したところで、こだわりのない銀子のことだから加世子に悪い感じを与えるはずもなく、反対に銀子にもいやな印象を与えるわけもなく、これを機会にたまには逢っても悪くはないし、夙《はや》く母に別れて愛に渇《かつ》えている加世子にとって、時にとっての話相手になるのではないかと、均平は自分勝手にそんなことを考えていた。
九
銀子はちょうどつまらなそうに独りでサロンにいて、グラフを読んでいたが、サアビス掛りのボオイが取り次ぎ、均平が入って行った。
「退屈したろう。」
均平が帽子を取ると、
「そんなでもない。」
と素気《そっけ》なく言ってすぐ入口にまごついている加世子に目を見張った。この眼も若い時は深く澄んで張りのある方だったが、今は目蓋《まぶた》にも少し緩《たる》みができていた。
「お嬢さんでしょう。」
「そうだよ。上諏訪へ遊びに行くというから、連れて来たんだ。あすこは病院だけは素敵だが、何しろ荒い山で全くの未懇地だ。」
そう言って均平が、振り返ってにやり笑うので、加世子も口元ににっこりして、照れくさそうに父の側へ寄って来た。
「いらっしゃい。」
銀子もざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]に挨拶《あいさつ》した。彼女は客商売をしたに似合わず、性分としてたらたらお愛相《あいそ》のいえない方であった。好いお嬢さんねとか、綺麗《きれい》ねとか肚《はら》に思っていても口には出せないのだった。
「均一さんは。」
「心配するほどのこともなさそうだよ。」
「ここも一杯よ。一番上等の部屋が一つだけしかなかったんですの。でも皆さん食事は。」
「あすこのホテルではひどいものを食わされて、閉口したよ。昼はこっちで食うつもりで。」
銀子も食堂の開くのを待っていたところなので、ボオイに四人分用意するように頼み、揃《そろ》って食卓に就《つ》いた。食堂の窓からは渚《なぎさ》に沿って走っている鉄道の両側にある人家や木立をすかして、漂渺《ひょうびょう》たる、湖水が見えた。
「大変ですね加世子さん、ずっと付いていらっしゃるんですか。」
銀子はナプキンを拡《ひろ》げながら、差向いの加世子に話しかけた。
「そういうわけでもないんですわ。あの病院は割と陽気ですから、心配ないんですの。いつでも帰ろうと思えば帰れますの。」
「私今日あたりお電話して、事によったら行ってみようかと思ってたんですけれど、出しぬけでも悪いかと思って。」
「いらっしゃるとよかったわ。いらしたことありませんの。」
「ええ、こっち方面はてんで用のない処《ところ》ですから。この辺製糸工場が多いんです。何でも大変景気のいい処だって……。」
彼女は岡谷《おかや》あたりの製糸家だという、大尽客の座敷へ出たことなどを憶《おも》い出していた。
「それは前の世界戦の時分のことだろう。今は糸も売れないから、景気のいい時分田をつぶして桑を植えたのと反対に、桑を引っこぬいて米を作ってるんじゃないか。しかしどんな時代でも、農民は土に囓《かじ》りついてさえいれば食いっぱぐれはない。」
均平はパンを※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、348-上13]《むし》りながら、
「己《おれ》も士族の零落《おちぶれ》の親父《おやじ》が、何か見るところがあったか、百姓の家へもらわれて行くところだったんだ。その百姓は大悦《おおよろこ》びで夫婦そろって貰《もら》いに来たそうだが、生まれた子供の顔を見ると、さすがに手放せなかったそうだ。しかしなまじっか学問なんか噛《かじ》りちらすより、土弄《つちいじ》りでもしていた方がよかったかも知れんよ。詩を作るより田を作れって、昔しから言うが、こんな時代になって来ると、鉄や油も必要だが、食糧の方がもっと大切だからね。」
加世子は女中と顔を見合わせ、くすくす笑っていたが、銀子も話は好きで、「大地」の中に出て来る農民の土への執着や、※[#「※」は「虫+奚」、第3水準1-91-59、348-上24]※[#「※」は「虫+斥」、第3水準1-91-53、348-上24]《ばった》の災害の場面について無邪気に話したりした。
それからこの辺の飯の話になり、日本米を食べるために、わざわざ地方へ旅する人も少なくなく、飯食いの銀子も、それが一つの目当てで、同伴したというのだった。
和《なご》やかな食事がすんでから、銀子は三人を三階の洋室へ案内したが、そこからは湖水が一目に見え、部屋も加世子の気に入った。
「いいお部屋ね。」
「よかったら加世子さん、今夜ここにお泊まりになっては。」
十
均平がヴェランダで籐椅子《とういす》にかけ、新聞を見ていると、女たちは部屋のなかで円卓子《まるテイブル》を囲み、取り寄せた林檎《りんご》を剥《む》いて食べながら、このごろの頭髪《あたま》の流行などについてひそひそ話していた。
「私も今生きていると、いい年増《としま》の姉が二人もいたのよ。だけど、それは二人とも結核でしたわ。大きい方の姉は腕の動脈のところがぽつりと腫《は》れて、大学で見てもらっても、初めははっきりしたことが解《わか》らなかった。そのうちにだんだんひどくなってとても痛んで、夜だっておちおち眠れないもんですから、一晩腕をかかえて泣いていましたわ。朝と晩に膿《うみ》を吸い取るために当ててある山繭《やままゆ》とガアゼを、自分でピンセットで剥《は》がしちゃ取り替えていましたけれど、見ちゃいられませんでしたわ。」
「動脈の結核なんてあるの。恐《こわ》いわね。」
「もう一人は肺でしたけれど……、でもそういう時は、女の子ばかり五人もいて、家《うち》も貧乏でしたからできるだけのことはするつもりでも、仕方がないから当人も親たちもいい加減|諦《あきら》めてしまうのね。」
銀子は姉たちの病気の重《おも》なる原因が栄養不良から来たものだということをよく知っていた。そのころ彼女たちは一家|挙《こぞ》って、蝙蝠傘《こうもりがさ》の袋や子供洋服や手袋などのミシンかけを内職にしていたが、手間賃が安いので口に追っつけず、大きい方の娘たちは空腹をかかえてしばしば夜明しで働かなければならなかった。
銀子が話すと、悲惨なことがそう悲惨にも聞こえず、それかと言って、均一たちの身分との対照のつもりでもなかったが、加世子が気をまわせば、自分のしていることが、少し大袈裟《おおげさ》だというふうに取れないこともなかった。
そのころ銀子は子柄が姉妹《きょうだい》たちよりよかったところから芸者屋の仕込みにやられ、野生的に育っただけに、その社会の空気に昵《なじ》まず、親元へ逃げて帰っていたり、内職の手伝いをしていたのだったが、抱え主も性急《せっかち》には催促もしず、気永に帰るのを待つことにしていた。ある夜銀子がふと目をさますと、父と母とが、ぼそぼそ話しているのが耳につき、聴《き》き耳を立てていると、世帯《しょたい》をたたんで父は大きい方を二人、母は小さい方を二人と、子供を二つに分けて、上州と越後《えちご》とめいめいの田舎《いなか》へ帰る相談をしていることがわかり、その心情が痛ましくなり、小僧を二人もつかっていた相当の靴屋を、競馬道楽や賭事《かけごと》で摺《す》った果てに、自転車を電車にぶっつけ、頭脳《あたま》に怪我《けが》をしたりして、当分仕事もできなくなってしまった、そうしたさんざんの失敗はとにかく、親子が散り散りになることは、子供心に堪えられない悲しみであった。彼女はもうのそのそしてはいられないと考え、またいくらかの前借で主人の処《ところ》へ帰ることに決心したのであった。
するうち話もつき、加世子も何か気づまりで、町へ買物に出ようと言い出した。
「おばさんもお出《い》でになりません。」
「そうね、行きましょうか。私も何かお土産《みやげ》を買いたいんですの。」
「罐詰《かんづめ》でしたらかりん[#「かりん」に傍点]に蜂《はち》の子、それに高野《こうや》豆腐だの氷餅《こおりもち》だの。」
「ああ、そうそう。何でもいいわ。小豆《あずき》なんかないかしら。」
「さあどうだか。」
見ると均平は、昨夜の寝不足で、風に吹かれながら気持よげに眠っていた。起こすのも悪いと思って、そっと部屋を出たが、均平もうつらうつらと夢心地《ゆめごこち》に女たちの声を耳にしていた。
二人はぶらぶら歩きながら、大通りへ出て行った。銀子は唐物屋《とうぶつや》や呉服屋、足袋屋《たびや》などが目につき、純綿物があるかと覗《のぞ》いてみたが、一昨年草津や熱海《あたみ》へ団体旅行をした時のようには、品が見つかりそうにもなかった。
「このごろはどこの有閑マダムでも、掘出しものをするのに夢中よ。有り余るほど買溜《かいだ》めしていてもそうなのよ。お父さんは買溜めするなと言うんですけれど、この稼業《かぎょう》をしていると、そうも行かないでしょう。足袋なんかもスフ入りは三日ともちませんもの。だから高くても何でもね。」
「そうよ。」
銀子は菓子屋や雑貨店なども、あちこち見て歩いた。そして氷豆腐や胡桃《くるみ》をうんと買いこんだ。加世子はキャンデイを見つけ、うんとあるパンやバタも買った。
十一
富士屋の前へ来た時、
「冷たいものでも飲みましょうか。」
と加世子が店先に立ち止まったので、「いいわ」と銀子も同意した。それから先へ行くと、宿屋の構えも広重《ひろしげ》の画《え》にでもありそうな、脚絆《きゃはん》甲掛けに両掛けの旅客でも草鞋《わらじ》をぬいでいそうな広い土間が上がり口に取ってあったりして、宿場の面影がいくらか残っており、近代式のこの喫茶店とは折り合わない感じであったが、チャチな新しい文化よりも、そうした黴《かび》くさいものの匂いを懐かしむ若い人たちもあるのであった。
銀子はそのどっちでもなかったが、どこがよくて若い娘たちが何かというと喫茶店へ入るのか、解《わか》りかねた。彼女もかつての結婚生活が巧く行かず、のらくらの良人《おっと》を励まし世帯を維持するために、銀座のカフエへ通ったこともあったが、女給たちの体が自由なだけに生活はびっくりするほど無軌道で、目を掩《おお》うようなことが多く、肌が合わなかった。喫茶店はそれとは違って、ずっと清潔であり、学生を相手にする営業だということは解っていても、喫茶ガアルもカフエの卵だくらいの観念しかもてず、隅《すみ》っこのボックスに納まって、ストロオを口にしている、乳くさい学生のアベックなどを見ると、歯の浮くような気がするのだったが、加世子にはそんな不良じみたところは少しもなかった。
二人は思い思いの飲みものを取って、少し汗ばんだ顔を直したりしてから、そこを出た。
駅前まで来た時、加世子はもう一度ホテルヘ帰り父に挨拶《あいさつ》したものか、それともこのまま富士見へ帰ったものかと、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。ホテルもよかったが、父子《おやこ》二人きりよりか寛《くつろ》ぎがつきそうで、やはり銀子がいたのでは物が歯に挾《はさ》まったようであり、銀子も父子|揃《そろ》っているのは、傍《はた》で見る目にも羨《うらや》ましそうであったが、何となし相手の気持をもって行かれそうな感じであった。嫉妬《しっと》を感ずる理由は少しもなかったが、たまに外出した均平の帰りが遅かったりすると、すぐ子供たちのことが頭脳《あたま》に浮かぶのであった。
銀子が初めて不断着のままで、均平の屋敷を訪れた時、彼女は看板をかりていた家《うち》の、若い女主《おんなあるじ》と一緒であった。女主は誕生を迎えて間もない乳呑《ちの》み児《ご》を抱いていた。
ちょうど郁子の姉が監視に来ていたところで、廻り縁を渡って行く二人の後ろ姿を見、てっきり均平の情人が、均平の子供を背負《しょ》いこんで来たものと推断し、わざとひそかに庭へおりて、植込みの隙間《すきま》から、二人の坐っている座敷の方を覗《のぞ》いて見たりした。
姉は均平に実否《じっぴ》を糾《ただ》そうともしず、その推定を良人《おっと》にも話せば、三村の老母にも宣伝し、後で大笑いになったこともあったが、その時銀子たちを送って出た女中の感じもよくなかったし、目にみえぬ家庭の雰囲気《ふんいき》も険悪であった。ちょうど帰りぎわに均平に送られて、玄関へ出て来た時、ちろちろと飛び出して来たのは、九つか十の加世子で、誰かが窘《たしな》めるように「加世子さんいけません」と緊張した小声で言っていたのが、銀子の耳に残った。
銀子はちらとそのことを思い出し、あながちにそのためとも言えなかったが、強《し》いて加世子を引き留める気にもなれなかった。
「風呂《ふろ》へでも入って、ゆっくりしていらしたらどう。」
「ええまた。黙って帰っても悪りんですけれど、あまり遅くなっても。」
「そうお。」
加世子は女中に切符を買わせ、もう一度銀子にお辞儀をして、改札口から入って行ったが、銀子はいつまでもそこに立っていた。還《かえ》して悪いような気もした。
やがて列車が入って来て、加世子たちの乗りこむのが見え、乗りこんでからも、窓から顔を出して軽く手を振った。思い做《な》しか、涙をふいたようにも見えた。銀子も手を振った。
ホテルへ帰ると、均平はちょうど一ト風呂《ふろ》浴びて来たところであった。
「どうした?」
「方々買いものして駅で別れてしまいましたわ。」
「そう。」
均平は椅子《いす》に腰かけ、煙草《たばこ》にマッチを擦《す》ったが、侘《わび》しい顔をしていた。
「帰るというものを、強いて引っ張って来ても悪いと思ったから。でも富士屋で曹達水《ソーダすい》呑《の》んだり何かして。」
「まあいいさ。一度|逢《あ》っておけば。」
そう言って均平も顔に絡《まつ》わる煙草の煙を払っていた。
時の流れ
一
均平がこの町中の一|区劃《くかく》にある遊び場所に足を踏み入れた時は、彼の会社における地位も危なくなり、懐《ふところ》も寂しくなっていた。銀子はちょっと逢ったところでは、ウェーブをかけた髪や顔の化粧が、芸者らしくなく、態度や言葉|遣《づか》いもお上品らしく、いくらか猫《ねこ》を被《かぶ》っていた。芸者がることは彼女も嫌《きら》いであり、ただ結婚の破綻《はたん》で、女にしては最も大切な時代の四年を棒に振ったことは、何と言っても心外であり、再び振り返ろうとも思わなかった。元の古巣へ逆戻りした以上、這《は》いあがるためには何か掴《つか》まなければならなかった。この世界では、二十二三ともなれば、それはもう年増《としま》の部類で、二十六七にもなれば、お婆《ばあ》さんの方で、若い妓《こ》の繋《つな》ぎに呼ばれるか、遊びに年期の入った年輩者の座持ちに呼ばれるくらいが落ちであり、男に苦い経験のある女が男を警戒するように女に失敗した男は用心して深入りしず、看板借りともなれば、どんな附き物があるか解《わか》らなかった。しかし銀子は世帯《しょたい》崩れのようには見えず、顔にもお酌《しゃく》時代の面影が残っており、健康な肉体の持主であった。
「君はこの土地の人のようには見えんね、それに芸者色にもなっていないじゃないか。」
「商売に出ていたのは、前後で六年くらいのものですから。それも半分は芳町《よしちょう》でしたの。」
その時分は銀子もまだ苦い汁《しる》の後味が舌に残りながら、四年間|同棲《どうせい》した、一つ年上の男のことが、綺麗《きれい》さっぱりとは清算しきれずにいた。均平の方が一時代も年が上なので、銀子は物解りのいい相手のように思われるせいか、ある時、
「二三日前に木元がふらりとやって来たのよ。」
と話した。
「私が風呂から帰って来ると、姐《ねえ》さんが木元さんが来たというのよ。ちょっと貴女《あなた》に話があるから、うき世で待っているとか言ってたわ、と言うのよ。私もどうしようかと思ったけれど、逃げを張るにも当たらないことだから、春芳《はるよし》さんを抱いて行ってみたの。ところがしばらくの間に汚い姿になっているのよ。ワイシャツも汚《よご》れているし、よく見ると靴足袋《くつたび》も踵《かかと》に穴があいてるの。」
彼は仲の町の引手茶屋の二男坊であり、ちょうど浅草に出ていた銀子と一緒になった時分には、東京はまだ震災後の復興時代で、彼も材木屋として木場に店をもち、小僧もつかい、友達付き合いも派手にやっていた。しかし遊びや花が好きで、金使いが荒く、初めての銀子の夫婦生活にすぐに幻滅が来た。
「それからどうした。」
均平はきいた。
「別にお金の無心でもないの。坊っちゃん育ちだから、金を貸してくれとも言えないのね。ただ今までは悪かったと言ってるの。」
「君は甘いから小遣《こづかい》でもやったんだろう。」
「まさか。さんざん無駄奉公させられたんですもの。その辺まで付き合ってくれないかと言うから、お金はいけないから、靴足袋の一足も買ってやりましょうと思って、上野の松坂屋まで行って、靴足袋とワイシャツを買って、坊やと三人で食堂で幕の内を食べて別れたけれど、男もああなると駄目ね。何だかいい儲《もう》け口があるから、北海道へ行くとか言ってたけれど、その旅費がほしかったのかも知れないわ。」
「未練もあるんだろう。」
「そんなこだわりはないの。それがあればいいけれど、ただ何となしふらふらしてんのね。」
それからまた大分月日がたってから、銀子はまた北海道から電報が来て、金の無心をして来たというのであった。
「北海道のどこさ。」
「どこだか忘れてしまったけれど、何でも、病気をして、お金もなくなるし、帰る旅費がないから、一時立てかえてくれというような文句だったわ。」
「いくらぐらい?」
「それがほんの零細金なの。よほど送ろうかと思ったけれど、癖になるから止した方がいいと父さん(抱えぬし)が言うから、仲の町のお母さんの処《ところ》へ電話で断わっておいたわ。」
その時分になると、銀子も座敷に馴《な》れ、心の痍《きず》もようやく癒《い》えていた。
二
均平はこの辺の新開地時代そっくりの、待合の建物があまり瀟洒《しょうしゃ》でもなく、雰囲気《ふんいき》も清潔でないので、最初石畳の鋪《し》き詰まった横町などへ入ってみた時には、どこも鼻のつかえるようなせせっこましさで少し小綺麗《こぎれい》な家《うち》はまた、前の植込みや鉢前燈籠《はちまえどうろう》のような附立《ついた》てが、どことなく厭味《いやみ》に出来ているのが鼻についたものだが、たびたび足を入れているうちに、それも目に馴《な》れてしまい、女に目当てがあるだけに、結局その方が気楽であった。しかしだんだん様子がわかってみると、ここは建て初まり当初には、モンブランと言えば大学生の遊び場所になっていただけに、相当名の聞こえた官僚人や政治家、法曹界《ほうそうかい》の名士に大学関係の学者たちの、宴会や隠れ遊びもあって、襖《ふすま》一重を隔てた隣座敷に、どんな偉方《えらがた》がとぐろ捲《ま》いているか知れないのであった。友達同士の遊びや宴会は下町でしても、こっそり遊びにはここもまた肩が凝らなくてよかった。もちろん座敷|摺《ず》れのしないお酌《しゃく》のうちから仕切って面倒を見たり、一本になりたてを、派手な落籍祝いをして落籍したり、見栄《みえ》ばった札びらの切り方をするのは、大抵近郊の地主とか、株屋であり、最近では鉄成金であり、重工業関係の人たちであったが、それも時局情勢の進展につれてようやく下火になって来た。
均平はこの世界以外の少し晴々した場所で遊んだ習慣があり、待合の狭苦しい部屋に気詰りを感じ、持前の放浪癖も手伝って、時々場所をかえては気分を紛らせるのであった。それには彼女も体の自由な看板借りであり、何かというと用事をつけて、出歩くのであった。銀子が今度出たときからお馴染《なじみ》になった、赤羽辺の大地主や、王子辺のある婦人科の病院長の噂《うわさ》をして聞かせるのは、大抵話の種のない均平とそんな処《ところ》で寛《くつろ》ぎながら飯を食っている時のことで、下町にいたころのこと、震災後避難民として、田舎《いなか》へ行っていて、東京から追いかけて来た男に売られた話も、断片的に面白|可笑《おか》しく語られた。抱え主の親爺《おやじ》の話もちょいちょい均平の耳へ入った。ある点は誇張であり、ある点はナイブな彼女の頭脳《あたま》で仕組まれた虚構であった。無論それも彼女のお座敷の戦法であり、映画で見たり物の本で読んだりしたことが、種になっているものらしかった。
ある時、それはちょうどお盆少し前のことで、置き家では出先へのお配り物などで、忙しい最中に銀子の主人は扁桃腺《へんとうせん》で倒れ、二階に寝ていたが、かつては十四五人の抱えをおき、全盛をきわめていた松の家というその家も、今度銀子が看板借りで来た時分には、あまり売れのよくない妓《こ》が二人いるきりで、銀子の月々入れる少しばかりの看板料すら当てにするようになっていた。しかし主人は人使いが巧いようにやり繰りも上手で、銀子や家人の前には少しも襤褸《ぼろ》を出さず、看板を落とすようなことはなかった。
「扁桃腺でそんなに酷《ひど》くなるなんて可笑しいね。腎臓《じんぞう》じゃないのか。」
均平は銀子の松次から、その容体をきいた時、そんな直感が動いた。その主人は五十七で、今の女房が銀子より五つ六つ年若の二十四だということも思い合わされた。
「少し手おくれなの。お医者のいうには、松島さんどうも膿《うみ》を呑《の》んだらしいというの。もう顔に水腫《むくみ》が来てるようだわ。」
そしてその次ぎに逢《あ》った時には、もう葬式のすんだ後であり、銀子も二度も使われた主人であるだけに、何か侘《わび》しげにしていた。
「あれからすぐ病院へ担《かつ》ぎこんだのよ。けどその時はもう駄目だったのね。お小水が詰まって、三日目にお陀仏《だぶつ》になってしまったの。入院する時私も送って行ったけれど、姐さんのことを、あれも年がいかないし、商売のことはわからないから、留守を何分頼むと言っていましたっけが、三人も子供があるし、お祖母《ばあ》さんもあるし、後がどうなりますか。でも姐さん年が若いし、泣いてもいなかったわ。」
「父さん父さんて、君の口癖にいうその親爺さんどんな人なんだい。」
「何でもお父さんが佐倉の御典医だったというから、家柄はいいらしいんだけれど、あの父さんは確かに才子ではあるけれど、ひどい放蕩者《ほうとうもの》らしいのよ。」
三
この松島の死んだ時、銀子は家にいなかった。
「父さん悪いのに、私出ていていいのかしら。」
彼女は松島の姑《しゅうとめ》に当たるお婆《ばあ》さんにきいてみた。
松島も父が佐倉藩の御典医であり、彼自身も抱えたちの前では帝大の医科の学生崩れのように言っていたので、銀子たちもそのつもりでいたが、ずっと後に彼の前身は洋服屋だということを言って聞かせるものもあった。しかし家柄はれっきとしたもので、この老母も桑名あたりの藩士の家に産まれただけに、手蹟《しゅせき》は見事で気性もしっかりしていた。
「松次さんには働いてもらわなくちゃ。病院の方はみんながついているから。」
銀子はそのつもりで、自動車のブロカアの連中と、暑さしのぎに銀座会館の裏から築地河岸《つきじがし》へと舟遊びに出ており、帰りの土産《みやげ》に大黒屋で佃煮《つくだに》を買い、路傍の花売娘から、パラピンにつつんだ花を三束買って、客と別れて帰って来た。そして大通りのガレイジの処《ところ》で、車をおりて仲通りへ入って来ると、以前の朋輩《ほうばい》であり、今は松の家の分け看板として、めきめき売り出して来た松栄とひょっこり出喰《でく》わし、松島の死を知った。
「あら。」
「今病院からお棺で帰って来るところよ。貴女《あなた》を方々捜したんだけど、どこへ行ったんだか、お出先でも知らないというんでしょう。」
「あら、私金扇(鳥料理)からお客と涼みに行ってたのよ。」
そのころ日比谷や池ノ畔《はた》、隅田川《すみだがわ》にも納涼大会があり、映画や演芸の屋台などで人を集め、大川の舟遊びも盛っていた。松次は看板借りであり、鳥屋で昼間からの玉数《ぎょくかず》も記入された伝票をもらうと、舟遊びはサアビスに附き合ったのだったが、さっそく分《わけ》松の家で衣裳《いしょう》を着かえ、松の家の前にならんで棺の来るのを待っていたのだった。すべての情景があまりにもあわただしく彼女もぼんやりしてしまった。
「この土地では、お弔いは千円とか千五百円とか、お金があって、少し派手好きだと、もっと盛大にやるけど、一切見番|委《まか》せで、役員たちで世話をやくんですのに、お父さんのはそんな表立ったこともしず、集まったのは懇意な人だけで、あの虚栄《みえ》っ張りに似合わない質素なものよ。」
銀子は言っていたが、死後彼女も松島の懇意筋から、後に残った若い姐《ねえ》さんと年寄を助けて、この家《うち》でもう少し働くようにとも言われ、ちょっと立場に困っていたが、近所に別居している松島の第一夫人や、中野に邸宅を構えて裕福に暮らしている故人の異腹の妹などの集まった席上で、松次の身の振り方について評議が行なわれ、とにかく三村にも安心させるように、それでも万一の場合を慮《おもんぱ》かって廃業とまでは行かず、一時休業届を出して一軒もつことになった。均平も重荷は背負《しょ》いたくはなかったが、彼女を失いたくもなかった。
「それはね、私もああいう世界に知った人もあって、少しは事情も解《わか》っているが、よしんば踏台にされないまでも、金が続かなくなると女も考え出すし、こっちは今まで入れ揚げた金に未練も出て来て、なかなか面倒なもので、大抵の人が手を焼くんですよ。」
均平が懇意なダンス友達の医者に、それとなく意見をきいた時、友達は言っていた。均平も自信はなく、先が案じられたが、今更逃げを張る気にもなれず、銀子の一本気な性格にも信頼していた。
家は松の家と裏の路次づたいに往来のできる、今まで置き家であった小体《こてい》な二階屋であった。初め均平は出入りに近所の目が恥ずかしく、方々縁台など持ち出している、宵《よい》のうちはことにも肩身が狭く、できるだけ二階にじっとしていることにした。そのころになると、主人が生前|見栄《みえ》を張っていた松の家も、貸金があると思っていた方に逆に借金のあることが解ったり、電話も担保に入っていたりして、皆で勧めた入院の手おくれた謎《なぞ》も釈《と》けて来た。
四
均平は場所もあろうのに、こんな不潔な絃歌《げんか》の巷《ちまた》で、女に家をもたせたりして納まっている自分を擽《くすぐ》ったく思い、ひそかに反省することもあり、そんな時に限って、気紛《きまぐ》れ半分宗教書を繙《ひもと》いたり、少年時代に感奮させられた聖賢の書を引っ張り出したりするのだったが、本来|稟質《ひんしつ》が薄く、深く沈潜することができないせいもあって、それらの書物も言葉や文章は面白いが、それを飯の種子《たね》として取り扱うのならとにかく、宇宙観や人生観を導き出すにはあまりに非科学的で、身につきそうはなかった。中学時代に読んだダアウィンやヘッケルのような古い科学書の方がまだしも身についている感じだった。
「君だって何かなくては困るよ。いつも若ければいいが、年を取れば取るほど生活の伴侶《はんりょ》は必要だよ。」
これも中年で妻を失った均平の友人の言葉で、均平は近頃この友人の刊行物を、少し手伝っていた。
例のお医者も、この辺を往診のついでに、時々様子を見に来たりして、「あの人は金取りではないね」と、銀子を気に入っていた。
均平は邸宅を取られてから、子供と一緒に小さい借家にいたので、自然双方を往来することになり、銀子の癖で何となし気分が険悪になったり、均平自身も理由もなしに神経が苛立《いらだ》たしくなったりすると、いきなりステッキを手にして、ふらりと子供の方へ帰って行くのだったが、それも二人の生活の前途に不安の影が差していたからであった。
銀子は退屈しのぎというだけでなく、まさかの時にはいつ何時|撥《ばち》をもつことにならないとも限らないので、もとから清元が地だったので、六十に近い女の師匠に出稽古《でげいこ》をしてもらい、土橋を稽古していた。師匠は日の少しかげった時分に浴衣《ゆかた》がけで現われ、たっぷりした声で、江戸ものらしい調子で謳《うた》っていたが、銀子の謡《うた》いぶりはいつも素朴《そぼく》で、甘味たっぷりの豊かな声ながら、気取りや巧者なところはなかった。それがすむと小唄《こうた》を四ツ五ツつけてもらうことにしていた。均平もそれらの稽古本を開いて見ることもあり、古い江戸の匂いをかぐような気がして、民衆の間から産まれた芸術だというのと、声調が長唄ほどうわずった騒々しさがないのとで、時には聴《き》く気にもなるのであった。
「少し勉強して名取になったら、どうなのか。」
均平が言っても、銀子にはそれほどの熱意もなく、商売道具だから仕方なしやっているものの、名取になれば附き合いが張り、金がかかるばかりだと言うのであった。
前には大黒屋という大きな芸者屋があり、主人は砲兵|工廠《こうしょう》の職工あがりだったが、芸者に出してあった娘に好い運がおとずれ、親たちもこの商売に取りつき、好況時代にめきめき羽を伸ばしたのだったが、ある大衆ものの大作家が、方々荒らしまわった揚句、一時ここで豪遊をきわめたのも、売れっ子のその娘が目に留まったからであった。
裏には狭い庭と路次を隔てて、活動館の弁士の家庭が見透かされ、弁士の妹夫婦もそこに同棲《どうせい》していた。そのころは弁士もまだ場末の小屋には、ちらほら残炎を保っていて、彼はこの附近の二つの館を掛持ちし、無声映画のちゃんばらものなどに出演していた。妹は芸者では芽が吹かず、カフエ全盛の時代だったので、廃業して女給に転身し、そこで医専出の若い男と出来あい、二階で同棲生活を始めたところであった。
「あれみんな権太さんの兄弟よ。あの姐《ねえ》さんも気の毒よ。男の兄弟も多勢あるのに、どれもこれもやくざ[#「やくざ」に傍点]で、年がら年中たかられてばかりいるのよ。この土地建て初まりからの姐さんだけれど、今にお米の一升買いしてるという話だわ。あの弁士がまた為様《しよう》のない男で、お金がないというと、暴《あば》れまわって姐さんと取っ組み合いの喧嘩《けんか》をするそうだわ。」
しかし均平が窓から見たところでは、そんな様子もなく、館から帰って来ると、庭向きの部屋でビイルをぬき、子供をあやしたり、ダンス・レコオドをかけたりして、陽気なその日その日を暮らしていた。
五
均平は銀子の松次から言うと本家に当たる松の家で、風呂《ふろ》を入れてもらったり、電話を取り次いでもらったりしていたので、たまには二階へ上がってお茶を呑《の》み、金ぴかの仏壇の新仏《あらぼとけ》にお線香をあげることもあった。二階は八畳と六畳で、総桐《そうぎり》の箪笥《たんす》が三|棹《さお》も箝《は》め込みになっており、押入の鴨居《かもい》の上にも余地のないまでに袋戸棚《ふくろとだな》が設《しつら》われ、階下《した》の抱えたちの寝起きする狭苦しさとは打って変わって住み心地《ごこち》よく工夫されてあった。
ここが松島と今の若い姐さんの品子と、朝夕に睦《むつ》み合った恋愛生活の巣で、銀子たちはうっかりそこへ上がってはならず、伝票を渡すにも段梯子《だんばしご》の三四段目から顔だけ出すというふうであった。お八ツ時分になると、甘党の松島は卓上電話で紅谷《べにや》から生菓子を取り寄せ、玉露を煎《い》れて呑んでいたが、晩餐《ばんめし》には姐さんのためにてんや[#「てんや」に傍点]ものの料理が決まって二三品食卓に並び、楽しい食事が始まるのだったが、彼自身は口がきわめて質素で、ひじきや煮豆で済ますのであった。
東京はまだ復興途上にあったので、下町はバラック建てで営業を始め、山の手へ押し寄せた客も幾分緩和された形だったが、この悲惨な出来事のあとには厳粛になるべきはずの人間の心理も、反対の方嚮《ほうこう》へと雪崩《なだ》れがちで、逆に歓楽を追求する傾向にあり、避難民で行っていた田舎《いなか》から足を洗って来たばかりの銀子たちも、出先で猛烈な掠奪戦《りゃくだつせん》が始まり、うっかり後口《あとくち》を廻ろうとして外へ出ると、待ち伏せしていた出先のお神に厭応《いやおう》なし持って行かれるというふうだったが、それでもたまには隙《ひま》を食う宵《よい》の口もあり、いやな座敷を二階へ秘密で断わることもあった。すると松島は近所で聞こえる燧火《きりび》の音に神経が苛立《いらだ》ち、とんとんと段梯子をおりて来て、
「おい、近所は忙しいぞ。お前たち用事でもつけたのなら、伝票切るんだ。」
と呶鳴《どな》る。
しかしその気分に憎むべきところがなく、またお株が始まったくらいで、お馴染《なじみ》が来たとき、出先でその分の伝票を切ってもらうことにしていた。抱えたちを競争させることにも妙を得ていたが、親たちの歓心を買うことにも抜目がなく、本人の借金が殖《ふ》えれば殖えるだけ、主人は儲《もう》かるので、親への仕送りを倍加するという一石二鳥の手も使うのであった。親もその手には乗りやすく、主人をひどく徳としていた。
「私のお母さんなんか、来るたびにちやほやされて、盆暮には家中めいめいにうんとお中元やお歳暮をもらうもんだから、あんな話のわかる御主人はないと言って、有難がっていたものよ。」
銀子は言っていた。
「けど一ついいことは、月末の勘定をきちんとしてくれるんで張合いがあるんです。勘定をきちんとする主人なんてめったにありませんからね。」
一週に一度松島は品子をつれて銀ぶらに出かけるのが恒例で、晩飯はあの辺で食うことにしていたが、彼は元来夜店のステッキと綽名《あだな》されたほどでつるりとした頭臚《あたま》に、薄い毛が少しばかり禿《は》げ残っており、それが朝の起きたてには、鼠《ねずみ》の巣のようにもじゃもじゃになっているのを、香油を振りかけ、一筋々々丁寧にそろえて、右へ左へ掻《か》き撫《な》でておくのだったが、この愛嬌《あいきょう》ある頭臚も若い女たちを使いまわすのに、かなりの役割を演じていた。しかし年が大分違うので、まだ二十《はたち》にもならないのに、品子には四十女のような小型の丸髷《まるまげ》を結わせ、手絡《てがら》もせいぜい藤色《ふじいろ》か緑で、着物も下駄《げた》の緒も、できるだけじみ[#「じみ」に傍点]なものを択《えら》んだ。彼女の指には大粒のダイヤが輝き、頭髪《あたま》にも古渡珊瑚《こわたりさんご》の赤い粒が覗《のぞ》いていた。
子供が初めて産まれた時も、奇蹟《きせき》が現われたか、または何様の御誕生かと思うほど、年取ってからの子供だけに、歓喜も大袈裟《おおげさ》なもので、毎日々々湯を沸かし、新しい盥《たらい》を部屋の真ン中へ持ち出して湯をつかわせるのだった。
品子は小さい時分から、松島の第二の妻の姉に愛され、踊りや長唄《ながうた》を、そのころ愛人の鹿島《かしま》と一緒に、本郷の講釈場の路次に逼塞《ひっそく》し、辛うじて芸で口を凌《しの》いでいた、かつての新橋の名妓《めいぎ》ぽん太についてみっちり仕込まれたものだったが、商売に出すつもりはなく、芸者屋の娘としては、おっとり育っていた。
銀子は噂《うわさ》にきいている、土地で評判の品子の姉の写真が見たく、ある時老母にきいてみた。
六
「私長いあいだお宅にいて、小菊姐さんの写真つい見たことないわ。」
銀子が老母のお篠《しの》お婆《ばあ》さんに言うと、彼女は子供のような笑顔《えがお》で、
「写真はお父さんが、束にして天井裏かどこかへ仕舞ったのさ。」
小菊は松島の死んだ妻で、品子姐さんの姉の芸名だが、お篠おばあさんは、そう言いながら、仏壇の納まっている戸棚の天井うらから、半紙に裹《くる》んだものを取り出して来た。
銀子があけてみると、出の着物で島田の半身像のほかに仮装が幾枚かあり、手甲《てっこう》甲掛けの花売娘であったり、どんどろ大師のお弓であったりしたが、お篠お婆さんに似て小股《こまた》のきりりとした優形《やさがた》であった。赤坂時代のだという、肉づきのややふっくりしたのなぞもあった。
均平もちょっと手に取ってみたが、どこか大正の初期らしい古風な感じであった。
この小菊と松島との情痴の物語は、単に情痴といって嗤《わら》ってしまえないような、人間愛慾の葛藤《かっとう》で、それが娼婦型《しょうふがた》でないにしても、とかく二つ三つの人情にほだされやすいこの稼業《かぎょう》の女と、それを愛人にもった男との陥りやすい悲劇でもあろう。
均平は芝居や小説にある花柳|情緒《じょうしょ》の感傷的な甘やかしさ美しさに触れるには、情感も疾《と》うの昔しに乾ききり、むしろ生まれつき醜悪な心情の持主でさえあったが、二人の愛慾の悩みは、あながちよそごとのようにも思えなかった。
小菊は親たちが微禄《びろく》して、本所のさる裏町の長屋に逼塞していた時分、ようよう十二か三で、安房《あわ》の那古《なこ》に売られ、そこで下地ッ児《こ》として踊りや三味線《しゃみせん》を仕込まれ、それが彼女の生涯の運命を決定してしまった。
彼女の本所の家の隣に、あの辺の工場で事務を扱い、小楽に暮らしている小父《おじ》さんがおったが、不断|可愛《かわい》がられていたので、暇乞《いとまご》いに行くと、何がしかの餞別《せんべつ》を紙にひねってくれ、お披露目《ひろめ》をしたら行ってやるから、葉書でもよこすようにとのことだったので、その通りすると、約束を反故《ほご》にせず観音|詣《まい》りかたがたやって来て、また何某《なにがし》かの小遣《こづかい》をくれて行った。彼女は東京でいっぱしの芸者になってからも、それを忘れることはなかった。
銀子は深川で世帯《しょたい》をもった時分、裁縫の稽古《けいこ》に通っている家《うち》で、一度この小父さんに逢《あ》い、銀子が同じ土地に棲《す》んでいたというので、小菊のことをきかれた。しかし銀子がこの土地の、しかも同じ家へ来た時分には、小菊の亡くなった直後であった。
那古は那古観音で名が高く、霊岸島から船で来る東京人も多かった。洋画家や文学青年も入り込んだ。芸者は大抵東京の海沿いから渡ったもので、下町らしい気分があり、波の音かと思われる鼓や太鼓が浜風に伝わった。小菊はそこに七年もいたが、次第に土地の狭苦しさに堪えられなくなり、客に智慧《ちえ》をかわれたりして、東京への憧《あこが》れと伸びあがりたい気持に駆られた。彼女は赤坂へと住みかえた。
松島を知ったのは、ちょうどそのころであった。
松島は儲《もう》けの荒いところから、とかく道楽ものの多いといわれる洋服屋で、本郷通りに店をもっていた。年上の女房に下職、小僧もいて、大学なぞへも出入りしていた。この店を出すについての資金も、女房の方から出ていた。松島はそうした世渡りに特別の才能をもっており、女の信用を得るのに生まれながら器用さもあった。
一夜遊び仲間と赤坂で、松島は三十人ばかり芸者をかけてみた。若い美妓《びぎ》もあり、座持ちのうまい年増《としま》もあった。その中に小菊もいて、初め座敷へ現われたところでは、ちょいとぱっとしないようで、大して美形というほどでもなく、芸も一流とは言いがたく、これといって目立つ特色はなかったが、附き合っているうちに、人柄のよさが出て来、素直な顔に細かい陰影があり、小作りの姿にも意気人柄なところがあった。
彼は何かぴったり来るものを感じ、かれこれと品定めは無用、今まで人の目につかなかったのが不思議と、思わず食指の動くのを感じた。
七
行きつけの家で松島はしばらく小菊を呼んでいた。電話でもかけておかないと、時には出ていることもあったが、耳へ入りさえすれば少し遅くなっても、彼女はきっと貰《もら》って来ることにしていた。
するとある日、約束の日に仕事が立て込んで行けず、翌日少し早目に出かけて行くと、彼女はいなかった。
「何ですかね、見番は用事になっているそうですけれど、そのうちには帰るでしょう。繋《つな》ぎに誰か呼びますから、どうぞごゆっくりなすって。」
女中は言うのであった。
しかし松島は呑《の》めそうにみえて、酒はせいぜい二三杯しか呑めず、唄《うた》も謳《うた》わず、女に凝る一方なので、小菊がいないとなると遊ぶ意味もなかった。芸者が二三人来て、お銚子《ちょうし》を取りあげ酌《しゃく》をするので、一口二口呑んでみても口に苦く、三味線《しゃみせん》を弾《ひ》かれても陽気にはなれないで、気を苛立《いらだ》つばかりであった。松島は待ちきれず、つかつか廊下へ出て女中を呼び、病気か遠出か小菊の家へ電話をかけさせてみた。そしてその返事で、小菊が客につれられて、三四人の芸者と熱海《あたみ》へ遠出に行っていて、昨日行ったのだから今夜は遅くも帰るのではないかというのであった。
松島が座敷へ還《かえ》って来ると、一人の妓《こ》が何の気もなしに、
「小菊さんですか。小菊さんなら昨日新橋で一人でぼんやりしていたと言うわ。」
「一人で……。」
「そうらしいのよ。」
いやなことが耳に入ったと、松島は思ったが、どうにもならず、約束の昨日というのと一人というのが面白くなく、その晩は家へ帰って寝た。
間一日おいて、松島は小菊に逢い、連れが多勢で、決してお楽しみなどの筋ではなく、客も突然の思いつきで、誰某《だれそれ》さんに強《し》いられて往《い》きは往ったが、日帰りのつもりがつい二タ晩になったりして、一人先へ帰るわけにいかず、何も商売だと思って附き合っていたと、小菊もお茶を濁そうとしたが、松島はそれでは納まらず、何かとこだわりをつけたがるのであった。
「じゃあ今度話してあげるわ。」
小菊はその場を逃げた。
間もなく松島は、房州時代からの馴染《なじみ》の客が一人あることを知った。それは松島と目と鼻の間の駒込《こまごめ》に、古くから大きな店を構えている石屋で、二月か三月に一度くらい、船で観音|参詣《さんけい》に来て、そのたびに人目につかぬ裏道にある鰻屋《うなぎや》などで彼女を呼び、帰りには小遣《こづかい》をおいて行った。そこはこの土地にしては、建物も庭も風流にできており、荒れたところに寂《さび》があった。小でッぷりした四十がらみの男で、山上の観音堂の前には、寄進の燈籠《とうろう》もあり、信心家であった。本所の家の隣のおじさんと、気分の似たところもあって、小菊には頼もしく思われ、来るのが待ち遠しかった。赤坂で披露目《ひろめ》をした時も一ト肩かつぎ、着物の面倒も見てくれた。小菊の姿にどこか哀れふかいところがあるので、石屋は色恋の沙汰《さた》を離れた気持で、附き合っているのだったが、それだけに小菊に人情も出て来るのであった。
しかし客はそればかりではなく、松島も気が揉《も》めるので、ここへ出てから二年目、前借もあらかた消えたところで、彼女は思い切って足を洗い、母や弟妹たちと一緒に、やがて湯島に一軒家をもったが、結局それも長くは続かず、松島の商売も赤字つづきで、仕送りも途絶えがちになったので、今度は方嚮《ほうこう》をかえ公園へ出た。小菊にすると、多勢の家族を控えて、松島一人に寄りかかっているのも心苦しかったが、世帯《しょたい》の苦労までして二号で燻《くすぶ》っているのもつまらなかった。
公園は客が種々雑多であった。会社員、商人、株屋、土木請負師、興行師に芸人、土地の親分と、小菊たちにはちょっと扱い馴《な》れない人種も多かった。それにあまり足しげく行かないはずであった松島も、ここは一層気の揉めることが多く、小菊は滅茶々々《めちゃめちゃ》に頭髪《あたま》をこわされたり、簪《かんざし》や櫛《くし》を折られたりしがちであった。
八
小菊が開けてまだ十年にもならないこの土地へ割り込んで来て、芸者屋の株をもち、一軒の自前となり、辿《たど》りつくべき処《ところ》へ辿りついて、やっとほっとした時分には、彼女もすでに二十一、二の中年増《ちゅうどしま》であり、その時代のことで十か十一でお酌《しゃく》に出た時のことを考えると、遠い昔しの夢であった。
松島という紐《ひも》ともいえぬ紐がついていて、彼女の浅草での商売は辛《つら》かったが、松島も気が気でなかった。しかし堅気にしておけばおいたで、目に見えない金が消え、先の生活の保証のつく当てもなく、ゴールのないレースを無限に駈《か》けつづけているに等しかった。それに湯島時代でも経験したように、女房が嗅《か》ぎつけ、葛藤《かっとう》の絶え間がなかった。何よりも生活それ自体が生産機能でなければならなかった。松島と小菊はいつもそのことで頭を悩ました。小料理屋、玉突き、化粧品店、煙草《たばこ》の小売店、そんな商売の利害得失も研究してみた。彼は洋服屋に懲り懲りした。次第にお客が羅紗《ラシャ》の知識を得たこと、同業者のむやみに殖《ふ》えたこと、他へは寸法の融通の利かない製品の、五割近くのものが、貸し倒れになりがちなので、金が寝てしまうことなどが、資本の思うようにならないものにとって脅威であり、とかく大きい店に押されるのであった。
「だから貴方《あなた》もぶらぶらしていないで、自分で裁断もやり、ミシンにかかればいいじゃありませんか。」
年上のマダムは言うのであった。彼女は近頃財布の紐を締めていた。
「大の男がそんなまだるいことがしていられますか。よしんばそれをやってみたところで、行き立つ商売じゃないよ。」
「第一あんな人がついていたんじゃ、いくら儲《もう》かったって追い着きませんよ。どうせ腐れ縁だから、綺麗《きれい》さっぱり別れろとは言いませんけれど、何とかあの人も落ち着き、貴方もそうせっせと通わないで月に二度とか三度とか、少し加減したらどうですかね。」
「むむ、おれも少し計画していることもあるんだがね。何をするにも先立つものは金さ。」
今までにマダムの懐《ふところ》から出た金も、少ない額ではなかった。今度はきっと清算するから、手切れがいるとか、今度は官庁の仕事を請け負い、大儲けをするから、利子は少し高くてもいいとか、松島の口車に載せられ、男への愛着の絆《きずな》に引かされ、預金を引き出し引き出ししたのだった。
彼女は松島と同じ家中の士族の家に産まれ、松島の従兄《いとこ》に嫁《とつ》いだとき、容色もよくなかったところから、相当の分け前を父からもらい、良人《おっと》が死んでから、株券や家作や何かのその遺産と合流し、一人娘と春日町《かすがちょう》あたりに、花を生けたり、お茶を立てたり、俳句をひねったりして、長閑《のどか》に暮らしていた。母に似ぬ娘は美形で、近所では春日小町と呼んでいたが、ある名門出の社会学者に片着いていたが、一人の女の子を残して急病で夭死《わかじに》し、彼女の身辺に何か寂しい影が差し、生きる気持が崩折《くずお》れがちであった。そんな折に亡夫の親類の松島が何かと相談に乗ってくれ、お茶を呑《の》みに寄っては、話相手になってくれた。松島も別に計画的にやった仕事ではなかったが、年上の彼女に附け込まれる弱点はあった。
育ちのいい彼女は、松島には姉のような寛容さを示し、いつとはなし甘く見られるようになり、愛情も一つの取引となってしまった。
今度も彼女は陶酔したように、うかうかと乗って、松島の最後の要求だと思えば、出してやらないわけに行かなかった。
つまり小菊に芸者屋を出さす相談であったが、彼女も最初に首をひねり、盗人《ぬすびと》に追い銭の感じがして、ぴったり来ない感じだったが、しかしその割り切れないところは何かの惑《まど》かしがあり、好いことがそこから生まれて来るように思えた。
「……そうすれば、今までのものも全部二倍にして返すよ。」
松島は言うのであった。彼女にも慾のあることは解《わか》っていた。
九
浅草ではちょうど芸者屋の出物も見つからず、小菊の主人と一直《いちなお》で朋輩《ほうばい》であった人が、この土地で一流の看板で盛っていて、売りものがあるから、おやりなさいといってくれるので、松島と小菊はそこへ渡りをつけ、その手引で店を開けることにした。
家号|披露目《びろめ》をしてから、一日おいて自前びろめをしたのだったが、その日は二日ともマダムの常子も様子を見に来て、自分は自分で角樽《つのだる》などを祝った。湯島時代に彼女は店の用事にかこつけ、二日ばかり帰らぬ松島を迎えに行き、小菊に逢《あ》ったこともあったが、逢ってみると挨拶《あいさつ》が嫻《しと》やかなので、印象は悪くなかった。それに本人に逢ってみると、自分の気持もいくらか紛らされるような気がして、それから少したってから、三人で上野辺を散歩して、鳥鍋《とりなべ》で飯を食い、それとなし小菊の述懐を聞いたこともあった。今度も相談相手は自分であり、後見のつもりで来てみたのだった。と看《み》ると玄関の二畳にお配りものもまだいくらか残っていて、持ちにきまった箱丁《はこや》らしい男が、小菊の帯をしめていた。彼女は鬢《びん》を少し引っ詰め加減の島田に結い、小浜の黒の出の着つけで、湯島の家で見た時の、世帯《しょたい》に燻《くすぶ》った彼女とはまるで別の女に見え、常子も見惚《みと》れていた。
「いらっしゃい。」
小菊はいやな顔もしず、着つけがすむとそこに坐って挨拶《あいさつ》した。
「今日はおめでとう。それにお天気もよくて。」
「今度はまたいろいろ御心配かけまして。」
小菊は懐鏡《ふところかがみ》を取り出して、指先で口紅を直しながら、
「でもいいあんばいに、こんな所が見つかりましたからね。」
「じゃ姐《ねえ》さん出かけましょう。」
箱丁が言うので、小菊も、
「どうぞごゆっくり。」
と言って、褄《つま》を取って下へおりた。
「いやどうも馴《な》れないことでてんてこまいしてしまった。しかしこれでまあ今夜から商売ができるわけだ。何しろフールスピイドで、家号披露目と自前びろめと一緒にやったもんだから。」
二階へ行こうというので、常子もお篠《しの》お婆《ばあ》さんと一緒に上がって行った。彼岸桜がようやく咲きかけた時分で、陽気はまだ寒く、前の狭い通りの石畳に、後歯の軋《きし》む音がして、もうお座敷へ出て行く芸者もあった。
菓子を撮《つま》んでお茶を呑《の》みながら、松島は商人らしく算盤《そろばん》を弾《はじ》いて金の出を計算していたが、ここは何といっても土地が狭いので、思ったより安くあがった。一時間ばかりで小菊は一旦帰り、散らばっている四五軒の料亭《りょうてい》を俥《くるま》でまわった。
その晩小菊は忙しかった。今行ったかと思うと、すぐ後口がかかり、箱丁《はこや》もてんてこまいしていたが、三時ごろにやっと切りあげ、帰ってお茶漬《ちゃづけ》を食べて話していると、すぐに五時が鳴り、やがて白々明けて来た。
常子は夜が早い方で、八時ごろに引き揚げて行った。
三日ばかり松島は家をあけ、四日日の午後ふらりと帰って来たが、電気のつく時分になるとまた出かけるのだったが、そうしているうちに、三月四月と時は流れて、小菊も土地のやり口が呑み込め、お客の馴染《なじみ》もできて、出先の顔も立てなければならないはめ[#「はめ」に傍点]にも陥り、わざとコップ酒など引っかけ、鬢《びん》の毛も紊《ほつ》れたままに、ふらふらして夜おそく帰って来ることもあった。
神経的な松島の目は鋭く働きはじめた。
「自前の芸者が、一時二時まで何をしているんだ。」
上がるとすぐ松島は呶鳴《どな》る。小菊は誰某《たれそれ》と一座で、客は呑み助で夜明かしで呑もうというのを、やっと脱けて来たと、少し怪しい呂律《ろれつ》で弁解するのだったが、それはそんなこともあり、そうでない時もあった。
松島は出て行く時の、帯の模様の寸法にまで気をつけるのだったが、帰る時それがずれているか否かはちょっと見分けもつきかねるのだった。
十
何とか言っているうちに、春を迎えたかと思う間もなく盆がやって来、月が替わるごとの移りかえが十二回重なればもう暮で、四五年の月日がたつうちに、この松廼家《まつのや》も目にみえて伸び出して来た。昨日まで凍《かじか》んだ恰好《かっこう》で着替えをもって歩いていた近所のチビが、いつの間にか一人前の姐《ねえ》さんになりすまし、あんなのがと思うようなしっちゃか面子《めんこ》が、灰汁《あく》がぬけると見違えるような意気な芸者になったりするかと思うと、十八にもなって、振袖《ふりそで》に鈴のついた木履《ぽっくり》をちゃらちゃらいわせ、陰でなあにと恍《とぼ》けて見せる薹《とう》の立った半玉もあるのだった。
とんとん拍子の松の家でも、その間に二十人もの芸者の出入りがあり、今度は少し優《ま》しなのが来たと思うと、お座敷が陰気で裏が返らなかったり、少し調子がいいと思っていると、客をふるので出先からお尻《しり》が来たり、みすみす子供が喰《く》いものになると思っても、親の質《たち》のわるいのは手のつけようがなく、いい加減前借を踏まれて泣き寝入りになることもあった。係争になる場合の立場も弱かった。
せっかく取りついてみたが松島もつくづくいやになることもあった。抱えの粒が少しそろったところで小菊に廃業させ、今は被害|妄想《もうそう》のようになってしまった自分の気持を落ち着かせ、彼女をもほっとさせたいと思うのだったが抱えでごたごたするよりか、やっぱり自分で働く方が、体は辛《つら》くとも気は楽だと小菊は思うのであった。
松島は小菊の帰りが遅くなると、後口があるようなふうにして電話をかけ、そっと探りを入れてみたりすることもあり、少し怪しいと感づくと、帳場に居たたまらず、出先の家《うち》のまわりをうそうそ歩くことも珍しくなかった。
「夜店のステッキがまたじゃんじゃんするといけないから、貴女《あなた》は早くお帰り。」
などと小菊は傍《はた》から言われ言われした。
痴話|喧嘩《げんか》のあとは、小菊も用事をつけるか、休業届を出すかして骨休めをした。
そのころになると、とっくに本郷の店も人に譲り、マダムの常子も春日町の借家を一軒立ち退《の》かせ、そこで小綺麗《こぎれい》に暮らしていたが、もう内輪同様になっているので、気が向くと松の家へ入りこみ、世間話に退屈を凌《しの》いだ。小菊も薄々知っていたが、松島も折にふれては機嫌《きげん》取りに春日町を訪ねるらしく、芸者を抱える時に、ちょっと金を融通してもらったりしていた。前々からのはどうなっているのか、多分一旦は何ほどか返したと思うと、また借りたり、ややこしいことになっているので、常子も松島も明瞭《めいりょう》なことは解《わか》らず、彼女もたまに返してもらえば、思わぬ株の配当でも貰《もら》ったような気がするのだった。
松島も次第に商売の骨《こつ》もわかり、周旋屋の手に載せられるようなどじ[#「どじ」に傍点]も踏まず、子供を使いまわすことにも、特得の才能が発見され、同業にも顔が利くようになった。やがて松の家の芸者が立てつづけに土地での玉数《ぎょくかず》のトップを切り、派手好きの松島は、菰冠《こもかぶ》りを見番へ担《かつ》ぎ込ませるという景気であった。
松島は夏になると、家では多勢の抱えの取締りをお篠お婆《ばあ》さんと小菊に委《まか》せて伊香保《いかほ》へ避暑に出かけることにしていた。小菊|母子姉妹《おやこきょうだい》も交替で行くこともあり、春日町のマダムも出かけた。毎年旅館は決まっていて、六月の半ば過ぎになると、早くも幾梱《いくこり》かの荷物が出入りの若衆の手で荷造りされ、漬物桶《つけものおけ》を担ぎ出さないばかりの用意周到さで同勢上野へ繰り出すのであった。松島はすらりとした痩《や》せ形で、上等の上布|絣《がすり》に錦紗《きんしゃ》の兵児帯《へこおび》をしめ、本パナマの深い帽子で禿《はげ》を隠し、白|足袋《たび》に雪踏穿《せったば》きという打※[#「※」は「にんべん+分」、第3水準1-14-9、367-下9]《いでたち》で、小菊や品子を堅気らしく作らせ、物聴山《ものききやま》とか水沢の観音とか、または駕籠《かご》で榛名湖《はるなこ》まで乗《の》し、榛名山へも登ったりした。部屋は離れの一|棟《むね》を借り、どんなブルジョウアかと思うような贅沢《ぜいたく》ぶりであった。
十一
その時代にもこんな古風な女もあった――。
小菊は九月の半ば過ぎに、松島から、もう引き揚げるのに足を出すといけないから、金を少し送れという電話がかかったので、三四日遊んで一緒に帰るつもりで、自分で持って行ったのだったが、どうしたのか午後に上野を立った彼女は、明くる日の昼ごろにもう帰って来ていた。
「どうしたのさ。一緒に帰ればいいのに。」
お婆さんが訊《き》くと、
「え、でもやっぱり家が心配で。」
彼女は曖昧《あいまい》な返事をしながら、何か落ち着かない素振りをしていた。
伊香保では客もめっきり減り、芒《すすき》の穂なども伸びて、朝夕は風の味もすでに秋の感触であったが、松島が品子と今一人、雑用に働いている遠縁の娘と三人づれで、土産《みやげ》をしこたま持って帰ってみると、小菊の姿は家に見えなかった。
「今日帰ることは知ってるはずだから、髪でも結いに行ったんだろう。」
松島は独りで思っていた。
「子供の時分にいた房州の海が見たくなったから、二三日行って来ると言って、昨夜《ゆうべ》霊岸島から船で行きましたよ。お父さんたちの帰る時分に、帰って来ますといってね。」
松島は怪訝《けげん》な顔をしたが、またあの石屋にでも誘い出されたのではないかと、しばらく忘れていた石屋のことを何となく思い出したりしていた。
しかしそれは当たらず、小菊は昔しの抱え主を訪ね、幼い時代の可憐《いとし》げな自分の姿を追憶し、しみじみ身の上話がしたかったのであった。やり場のない憂愁が胸一杯に塞《ふさ》がっていた。品子は妹といっても、腹違いであり、小菊はお篠にとって義理の娘であった。今までに互いに冷たい感じを抱《いだ》いたことは一度もなかった。
「それじゃ貴女《あなた》も別に一軒出して、新規に花々しく旗挙げしたらどうだえ。」
昔しの主人は言うのであったが、内輪に生まれついた小菊にそんな行動の取れるはずもなかった。
小菊は遅くまで一晩話し、懐かしい浪《なみ》の音を耳にしながら眠ったが、翌日は泳ぎ馴《な》れた海を見に行き、馴染《なじみ》のふかい町の裏通りなど二人で見て歩き、山の観音へもお詣《まい》りして、山手の田圃《たんぼ》なかの料理屋で、二人で銚子《ちょうし》を取り食事をした。
小菊の帰ったのは翌日の朝であった。
「何だってまた己《おれ》の帰るのを見かけて、房州なんか行ったんだ。」
「すみません。何だか急にあの家が見たくなったもんですから。」
小菊は心の紊《みだ》れも見せず、素直に答えた。二人は暗礁に乗りあげたような気持でしばらく相対していた。
彼女が自決したのは、それから一月とたたぬうちであった。自決の模様については、噂《うわさ》が区々《まちまち》で、薬品だともいえば、刃物だとも言い、房州通いの蒸汽船から海へ飛びこんだともいわれ、確実なことは不思議に誰にも判らなかった。
均平は銀子が松の家へ住み込むちょうど一年前に起こった、この哀話を断片的に二三の人から聴《き》き、自分で勝手な辻褄[#底本は「褄」を「棲」と誤植]《つじつま》を合わせてみたりしたものだったが、土地うちの人は、この事件に誰も深く触れようとはしなかった。
「姐《ねえ》さんどういう気持でしょうかね。」
そういう陰気くさいことに、あまり興味のもてず、簡単に片附けてしもう銀子も、小菊の心理は測りかねた。
「さあね。やっぱり芝居にあるような義理人情に追いつめられたんじゃないか。」
「そうね。」
「とにかく松島を愛していたんだろう。よく一人で火鉢《ひばち》の灰なんか火箸《ひばし》で弄《いじ》りながら、考えこんでいたというから。」
「でもいくらか面当《つらあ》てもあったでしょう。」
「それなら生きていて何かやるよ。」
「そういえば父さんも、時々|姐《ねえ》さんの幻影を見たらしいわ。死ぬ間際《まぎわ》にも、お蝶《ちょう》がつれに来たって、譫言《うわごと》を言っていたらしいから、父さんも姐さんには惚《ほ》れていたんだから、まんざら放蕩親爺《ほうとうおやじ》でもなかったわけね。初めて真実にぶつかったとでも言うんでしょうよ。」
「そうかも知れない。」
「父さんもお金がなかったからだと言う人もあるけれど、不断注意ぶかいくせに、入院が手遅れになったのも、死ぬことを考えていたからじゃないの。」
素 描
一
「私はこの父さんと、一度きり大衝突をしたことがあるの。」
ある日銀子は、松島の噂《うわさ》が出た時言い出した。
それは第一期のことだったが、この世界もようやく活気づこうとする秋のある日のことで、彼女はその日も仲通りの銭湯から帰って、つかつかと家《うち》の前まで来ると、電話があったらしく、マダムの常子が応対していた。硝子戸《ガラスど》のはまった格子《こうし》の出窓の外が、三尺ばかり八ツ手や青木の植込みになっており、黒石などを配《あしら》ってあったが、何か自分のことらしいので、銀子は足を止めて耳を澄ましていたが、六感で静岡の岩谷《いわや》だということが感づけた。
「……は、ですけれどとにかく今松ちゃんはいないんですよ。もう帰って来るとは思いますけれど、帰ってみなければ何とも申し上げかねますんですよ。何しろ近い所じゃありませんから、同じ遠出でも二晩のものは三晩になり五晩になり、この前のようなことになっても、宅で困りますから。」
しかし話はなかなか切れず、到頭松島がとんとん二階からおりて来て、いきなり電話にかかった。
「先は理窟《りくつ》っぽい岩谷だから、父さんも困っているらしいんだけれど、何とかかとか言って断わっているのよ。」
岩谷はある大政党の幹事長であり、銀子がこの土地で出た三日目に呼ばれ、ずっと続いていた客であった。議会の開催中彼は駿河台《するがだい》に宿を取っていたが、この土地の宿坊にも着替えや書類や尺八などもおいてあり、そこから議会へ通うこともあれば、銀子を馴染《なじみ》の幇間《ほうかん》とともに旅館へ呼び寄せることもあった。銀子は岩谷に呼ばれて方々遠出をつけてもらっていたが、分けの芸者なので、丸抱えほど縛られてもいず、玉代にいくらか融通を利かすことも、三度に一度はしていた。長岡とか修善寺《しゅぜんじ》などはもちろん、彼の顔の利く管内の遊覧地へ行けば、常子がいうように、三日や五日では帰れなかったが、銀子も相手が相手なので、搾《しぼ》ることばかりも考えていなかった。
岩谷は下町でも遊びつけの女があり、それがあまり面白く行かず、気紛《きまぐ》れにこの土地へ御輿《みこし》を舁《かつ》ぎ込んだものだったが、銀子がちょっと気障《きざ》ったらしく思ったのは、いつも折鞄《おりかばん》のなかに入れてあるく写真帖《しゃしんちょう》であった。
写真帖には肺病で死んだ、美しい夫人の小照が幾枚となく貼《は》りこまれてあり、彼にとっては寸時も傍《そば》を離すことのできない愛妻の記念であった。妻は彼の門地にふさわしい家柄の令嬢で、岩谷とは相思のなかであり、死ぬ時彼に抱かれていた。写真帖には処女の姿も幾枚かあったが、結婚の記念撮影を初めとして、いろいろの場合の面影が留《とど》めてあった。銀子のある瞬間が世にありし日の懐かしい夫人の感じを憶《おも》い起こさせるのて、座敷へ姿を現わした刹那《せつな》の印象が心に留まった。しかし満点というわけには行かず、妻の生きた面影は地上では再び見る術《すべ》もなかった。
岩谷の片身難さぬ尺八も、妻の琴に合わせて吹きすさんだ思い出の楽器で、彼はお座敷でも、女たちの三味線《しゃみせん》に合わせて、時々得意の鶴《つる》の巣籠《すごも》りなどを吹くのだった。
岩谷は柔道も達者で、戯れに銀子の松次を寝かしておいて吭《のど》を締め、息の根を止めてみたりした。二度もそんなことがあり、一度は証書を書かせたりした。
「試《ため》すつもりか何だか知らないけれど、いやな悪戯《いたずら》ね、ああいう人たちは、みんなやるわ。」
銀子は言っていたが、情熱的な岩谷には彼女も心を惹《ひ》かれたものらしく、話にロマンチックな色がついていた。
「それでその電話はどうしたのさ」
「私岩谷だと思ったから、いきなり上がって行って電話にかかったの。岩谷はその時|興津《おきつ》にいたんだわ。しょっちゅう方々飛びまわっていたから。それで行く先々に仲間の人がいて、何かしら話があるのね。お金もやるのよ。あれから間もなく松島|遊廓《ゆうかく》の移転問題で、収賄事件が起こったでしょう。そしてあの男は、ピストルで死んだでしょう。」
「あの時分から政党も、そろそろケチがつき出したんじゃないか。」
「岩谷は今ここにいるから、来いというのよ。来るか来ないか、はっきり返辞をしろというんで、さっきからの電話のごたごたで、少し中っ腹になっているの。」
二
「それでどうしたんだ。」
均平は淡い嫉妬《しっと》のようなものから来る興味を感じたが、銀子はいつも話の要点をそらし、前後の聯絡《れんらく》にも触れない方だったので面倒くさいことを話しだしたものだというふうで、
「私も傍に人がいるから、言いたいこともいえないでしょう。は、はとか、ああそうですかとか言ったきりで電話を切ってしまったの。私が行くとも行かないとも言わないもんだから、みんな変な顔していたけれど、それから警戒しだしたの。お風呂《ふろ》へ行くにも髪結いさんへ行くにも、何とかかとか言って、子供を守《も》りするふうをして幸ちゃんが付いて来るの。どこの主人でも、抱えとお客とあまり親密になることは禁物なんだわ。どこの出先からも万遍なくお座敷がかかって、お馴染《なじみ》のお客とも付かず離れずの呼吸でやらしたいから、後口々々と廻すように舵《かじ》を取るんです。いいお客がつかないのも困るけれど、深くなるのも心配なんです。」
均平はこの世界の内幕は、何も知らなかった。
「私もその時分はこれでなかなか肯《き》かん坊だったから、ああこれなら安心だと監視の手が緩《ゆる》んだ時分に、ちょっとそこまで行くふりして、不断着のまま蟇口《がまぐち》だけもって飛び出してしまったんです。そして東京駅でちょっと電話だけかけて、何時かの汽車に乗ってしまったの。」
「それで……。」
「それから別に……。三保《みほ》の松原とか、久能山《くのうさん》だとか……あれ何ていうの樗牛《ちょぎゅう》という人のお墓のある処《ところ》……龍華寺《りゅうげじ》? 方々見せてもらって、静岡に滞在していたの。そして土地の妓《こ》も呼んで、浮月に流連《いつづけ》していたの。まあ私は罐詰《かんづめ》という形ね。岩谷もあの時分は何か少し感染《かぶ》れていたようだわ。お前さえその気なら、話は後でつけてやるから、松の家へ還《かえ》るなというのよ。少し父さんに癪《しゃく》にさわったこともあったのよ。私だってそれほどの決心もなかったんだから、このままここにいたところで、岩谷が入れるつもりでいても、家へ入れるわけではないし、入ったところで先は格式もあるし、交際も広いから、私ではどうにもならないでしょう。第一親にもめったに逢《あ》えないんだもの。私も心配になって、実は少し悲しくなって来たのよ。独りでお庭へ出て、石橋のうえに跪坐《しゃが》んで、涙ぐんでいたの。すると一週間目に、箱丁《はこや》の松さんとお母さんが、ひょっこりやって来たものなの。随分方々探し歩いたらしいんだけれど、とにかく後でゆっくり相談するから、一旦は帰ってくれって言うんですの。内々私も少しほっとした形なの。第一岩谷もあの時分お金に困っていたんだか何だか、解決するなら前借を払うのならいいんだけれど、そうでもないし、帰るも帰らないも私の肚《はら》一つだというんだから、わざわざお母さんまで来たのに、追い返すのもどうかと思って、一緒に帰ってしまったの。何とか言って来るかなと思って、私も何だか怏々《くさくさ》していると、とても長い手紙が来たの。何だかむずかしいことが書いてあったけれど、結局、女は一旦その男のものとなった以上、絶対に信頼して服従しなければいけない。すべてのものを擲《なげう》って、肉体と魂と一切のものを――生命までも捧《ささ》げるようでなかったら、とても僕の高い愛に値しないというような意味なのよ。結局それでお互いに手紙や荷物を送り返してお終《しま》いなの。――大体岩谷という男は、死んだ奥さんの美しい幻影で頭脳《あたま》が一杯だから、そこいらの有合せものでは満足できないのよ。何だかだととても註文《ちゅうもん》がむずかしくて、私もそれで厭気《いやき》も差したの。自殺したのも、内面にそういう悩みもあったんじゃないの。」
均平も新聞でその顔を見た覚えはあるが、あの時代の政界を濁していた利権屋の悲劇の一つである。事件の経緯《いきさつ》は知らなかった。
「松の家の方は。」
「父さんも少し怖《こわ》くなって来たらしいの。そんなことをたびたびやられちゃ、使うのに骨が折れるから、何なら思うようにしてくれというの。結局松さんやお母さんが口を利いて、私も一生懸命働くということで納まったの。そのために借金が何でも六百円ばかり殖《ふ》えて、取れるなら岩谷から取れというんだけれど、出しもしないし言ってもやれないし、そのままになったけれど、とかくお終いは芸者が背負《しょ》いこみがちのものよ。私も借金のあるうちは手足を縛られているようで、とてもいやなものだから、少し馬力をかけて、二千円ばかりの前借を、二年で綺麗《きれい》に切ってしまったの。荷が重くなった途端に、反撥心《はんぱつしん》が出たというのかしら。」
三
銀子が若かったころの自分の姿を振り返り、その時々の環境やら出来事やらの連絡を辿《たど》り、過去がだんだんはっきりした形で見えるようになったのは、ついこのごろのことで、目にみえぬ年波が一年一年若さを奪って行くことにも気づくのであった。
「今のうちだよ。四十になると若い燕《つばめ》か何かでなくちゃ、相手は見つからんからね。」
均平は銀子を憫《あわ》れみ、しばしば自分が独りになる時のことを考え、孤独に堪え得るかどうかを、自身に検討してみるのだったが、それは老年の僻《ひが》みに見えるだけで、彼女には新しい男性を考えることもすでに億劫《おっくう》になっていた。貞操を弄《もてあそ》ばれがちな、この社会の女に特有な男性への嫌悪《けんお》や反抗も彼女には強く、性格がしばしば男の子のように見えるのだった。
「みんなどうして、あんなに色っぽくできるのかと思うわ。」
「恋愛したことはあるだろう。」
「そうね、商売に出たてにはそんなこともあったようだわ。あんな時分は訳もわからず、ぼーっとしているから、他哩《たわい》のないものなのよ。先だって若いから、恋愛ともいえないような淡いものなの。」
銀子にもそんな思い出の一つや二つはあったが、彼女が出たての莟《つぼみ》のような清純さを冒された悔恨は、今になっても拭《ぬぐ》いきれぬ痕《あと》を残しているのであった。
父が何にも知らず、行き当りばったりに飛び込んで行った浅草の桂庵《けいあん》につれられて、二度目の目見えで、やっと契約を結んだ家《うち》は、そうした人生の一歩を踏み出そうとする彼女にとって、あまり好ましいものではなかった。
彼女は隣りの材木屋の娘などがしていたように、踊りの稽古《けいこ》に通っていたが、遊芸が好きとは行かず、男の子のような悪さ遊びに耽《ふけ》りがちであった。そこは今の江東橋、そのころの柳原《やなぎわら》で、日露戦争後の好景気で、田舎《いなか》から出て来て方々転々した果てに、一家はそこに落ち着き、小僧と職人四五人をつかって、靴屋をしていたのだったが、銀子が尋常を出る時分には、すでに寂れていた。ちょうど千葉|街道《かいどう》に通じたところで水の流れがあり、上潮の時は青い水が漫々と差して来た。伝馬《てんま》や筏《いかだ》、水上警察の舟などが絶えず往《ゆ》き来していた。伝馬は米、砂糖、肥料、小倉《おぐら》石油などを積んで、両国からと江戸川からと入って来るのだった。舟にモータアもなく陸にトラックといったものもまだなかった。
銀子は千葉や習志野《ならしの》へ行軍に行く兵隊をしばしば見たが、彼らは高らかに「雪の進軍」や「ここはお国を何百里」を謳《うた》って足並みを揃《そろ》えていた。
銀子はそこで七八つになり、昼前は筏に乗ったり、※[#「※」は「てへん+黨」、第3水準1-85-7、374-上19]網《たも》で鮒《ふな》を掬《すく》ったり、石垣《いしがき》の隙《すき》に手を入れて小蟹《こがに》を捕ったりしていた。材木と材木の間には道路工事の銀沙《ぎんさ》の丘があり、川から舟で揚げるのだが、彼女は朝飯前にそこで陥穽《おとしあな》を作り、有合せの板をわたして砂を振りかけ、子供をおびき寄せたりしていたが、髪を引っ詰めのお煙草盆《たばこぼん》に結い、涕汁《はなみず》を垂らしながら、竹馬にも乗って歩いた。午後になると、おいてき堀《ぼり》といわれる錦糸堀《きんしぼり》の原っぱへ出かけて行く。そこには金子の牧場があり、牛の乳を搾《しぼ》っていたが、銀子はよくそこで蒲公英《たんぽぽ》や菫《すみれ》を摘んだものだが、ブリキの乳搾りからそっと乳を偸《ぬす》んで呑《の》み、空《から》の時は牛の乳からじかに口呑みに呑んだりもした。彼女はよく川へ陥《はま》り、寒さに顫《ふる》えながら這《は》いあがると、棧橋《さんばし》から川岸の材木納屋へ忍びこんで、砂弄《すないじ》りをしながら着物の乾くのを待つのだった。
二丁ばかり行くと、そこはもう場末の裏町で、おでん屋や、鼈甲飴屋《べっこうあめや》の屋台が出ていた。飴は鳩《はと》や馬や犬の型に入れられ、冷《さ》めたところで棒ごと剥《は》がれるのが、後を引かせるのだったが、その辺には駄菓子屋もあり、文字焼にあんこ焼などが、子供の食慾をそそり、銀子は金遣《かねづか》いのきびきびしているところから、商人たちにも人気がよかった。
そんな育ち方の銀子なので、芸者屋の雰囲気《ふんいき》と折り合いかね、目見えも一度では納まらなかった。
四
均平も、銀子がまだ松の家にいる時分、病気で親元へ帰っている彼女からの手紙により、水菓子か何かもって見舞に行ったこともあった。
「お父さんもお母さんも、田舎《いなか》へ行って留守だから、お上がんなさいな。」
と店つづきの部屋で、独りぽつねんと長火鉢《ながひばち》の前に坐っている彼女にいわれ、二階から妹たちも一人一人降りて来て挨拶《あいさつ》するのだったが、彼女は鼠《ねずみ》に立枠《たてわく》の模様のある新調のお召を出して見せ、
「いつ旅行するの。私着物を拵《こさ》えて待っていたのに。」
と催促するのだった。
家をもった時、父親が箪笥《たんす》や葛籠《つづら》造りの黒塗りのけんどん[#「けんどん」に傍点]などを持ち込み、小さい世帯《しょたい》道具は自身リヤカアで運び、釘《くぎ》をうったり時計をかけたりしていたが、職人とも商人ともつかぬ、ステンカラの粗末な洋服を着ており、昔し国定と対峙《たいじ》して、利根川《とねがわ》からこっちを繩張《なわばり》にしていた大前田の下ッ端《ぱ》でもあったらしく、請負工事の紛紜《いざこざ》で血生臭い喧嘩《けんか》に連累し、そのころはもう岡っ引ではない刑事に追われ、日光を山越えして足尾に逃げ込み、養蚕の手伝いなどしていたこともあり、若い時は気が荒かったというので均平も少し気味悪がっていたけれど、苦労をさせたことを忘れないので銀子のことは銀子の好きなようにさせ、娘を操《あやつ》って自身の栄耀《えいよう》を図ろうなどの目論見《もくろみ》は少しもなかった。酒も呑まず賭事《かけごと》にも手を出さず、十二三歳の時から、馬で赤城《あかぎ》へ薪《たきぎ》を採りに行ったりして、馬を手懐《てなず》けつけていたので、馬に不思議な愛着があり、競馬馬も飼い、競馬場にも顔がきいていた。
均平はその後も、前科八犯という悪質の桂庵にかかり、銀子の後見として解決に乗り出し、千住《せんじゅ》辺へ出かけた時とか、または堀切《ほりきり》の菖蒲《しょうぶ》、亀井戸《かめいど》の藤《ふじ》などを見て、彼女が幼時を過ごしたという江東方面を、ぶらぶら歩いたついでに、彼女の家へ立ち寄ったこともあり、母親の人となりをもだんだん知るようになった。
汽車で清水隧道《しみずトンネル》を越え、山の深い越後《えちご》へ入って幾時間か行ったところに、織物で聞こえた町に近く彼女の故郷があり、村の大半以上を占める一巻という種族の一つから血を享《う》けているのだったが、交通の便もなく、明治以来の文化にも縁のないこの山村では、出るものとては百合《ゆり》とかチュリップとか西瓜《すいか》くらいのもので、水田というものもきわめてまれであった。織物が時に銀子のところへ届き、町の機業家も親類にあるのだったが、この村では塩鮭《しおざけ》の切身も正月以外は膳《ぜん》に上ることもなく、どこの家でも皺《しわ》くちゃの一円紙幣の顔すら容易に見られなかった。他国者は異端視され、村は一つの家族であった。
「その代り空気は軽いし、空はいつでも澄みきっているし、夜の星の綺麗《きれい》さったらないわ。水は指が痺《しび》れるほど冷たくて、とてもいい気持よ。高い処《ところ》へ登るとアルプス連山や赤倉あたりの山も見えるの。」
銀子も若い時分一度行ったことがあったが、妹の一人は胸の病気をその山の一と夏で治《なお》した。
「けれどあんな処でも肺病があるのはどういうんだろう。お母さんの一家は肺病で絶えたのよ。お父さんも兄弟も。私あすこへ行って初めて聞いて解《わか》ったわ。」
しかし銀子の母親には、結核体質らしいところが少しもないばかりか、あの白皙《はくせき》人型の越後系のがっしりした、均齊《きんせい》のよく取れた骨格で、性格にも恪勤《かっきん》とか忍耐とか、どんな困難に遭遇しても撓《たわ》まない強靱《きょうじん》さがあり、家を外にして飛び歩きがちな放浪癖の父親と反対に辛抱づよく、世帯《しょたい》の切盛りに忠実であった。父親が馬の年なら彼女はきっと牛で、彼は気の荒い駄々ッ児《こ》なかわりに人情っぽい人のよさがあり、彼女は何かと人の世話を焼きたがる一面、女らしい涙|脆《もろ》さはなく、多勢の子供だから一人や二人は死んでも、生きるためにはしかたがないといったふうだった。
父や兄弟が肺病で死に、母が油を商っていたところから、ある時|過《あやま》ってランプの火が油壺《あぶらつぼ》に移り、大火傷《おおやけど》をしたのが原因で、これも死んでしまってから、独り取り残された彼女は、親類へ預けられることになった。
「それが小山の叔母《おば》さんの家《うち》よ。」
銀子の家庭と今におき絡《から》み合いのある、小山の叔母さんも、そのころはまだ銀子の母より二つ三つ年下の娘であった。
五
三つの時|孤児《みなしご》になり、庄屋《しょうや》であった本家に引き取られた銀子の母親も、いつか十五の春を迎え、子供の手に余る野良《のら》仕事もさせられれば、織機台《はただい》にも乗せられ、同じ年頃の家の娘とのあいだに愛情や待遇の差別があり、絶えず冷たい目で追い廻されている辛《つら》さが、ようやく小さい胸に滲《し》み込んで来たところで、彼女はある時村の脱出組に加わり、息苦しいこの村を脱け出たのであった。
ここは油屋が一軒、豆腐屋が一軒、機織工《はたおりこう》七分に農民が三分という、物質には恵まれない寒村で、一生ほとんど給銀もなしに酷使《こきつか》われる若い男女は、日頃ひそかに二銭三銭と貯蓄して、春秋二期の恒例になっている、この村脱けに参加し、他国へ移動するのであった。一行は十二人、毎年それを仕事にしているリーダアが一人つくのであった。十五六から二十《はたち》、二十四五の男女もあった。彼らは寄り寄り秘密に相語らい、監獄部屋でも脱出するような気持で、昼は人気のない野山に寝て、夜になるのを待って道のない難路を歩み、五昼夜もかかって三国峠《みくにとうげ》を越え、ようやく上州路へ辿《たど》りつくのだったが、時には暗夜に樵夫《きこり》の野宿しているのに出逢《であ》い、年少の彼女は胸を戦《わなな》かせた。案内者は味噌《みそ》の入った握飯を、行く先々で用意し、餓《う》えを凌《しの》ぐのだったが、そこまで来るともう安心で、前橋へ入って来たところで、彼は各自の希望を訊《き》き、ここに留《とど》まるものは、この町の桂庵《けいあん》に引き渡し、東京を希望のものは、また上野まで連れて行くことになっていた。
銀子の母は、手堅い家で給銀の出る処《ところ》という希望だったので、一軒の真綿屋へ落ち着くことになり、やっとほっとした。気強く生まれついていたので、なまじい互いに知り合った村で、惨《みじ》めな姿を見られているよりも、見ず知らずの他国の方がずっと自由であり、初めて働き効《がい》のあるような気がするのであった。
真綿は繭《まゆ》を曹達《ソーダ》でくたくた煮て緒《いとぐち》を撈《さぐ》り、水に晒《さら》して蛹《さなぎ》を取り棄《す》てたものを、板に熨《の》して拡《ひろ》げるのだったが、彼女は唄《うた》一つ歌わず青春の甘い夢もなく、脇目《わきめ》もふらず働いているうちに、野山に幾度かの春が来たり秋がおとずれて、やがて二十三にもなった。彼女の肉体は熟《みの》り、真白の皮膚は硬《かた》く張り切り、ぽったりした頬《ほお》は林檎《りんご》のように紅《あか》かった。
銀子の父親はちょうどその時分、やくざの世渡りを清算し、同じやくざ仲間で、いくらか目先の見える男が、東京で製靴《せいか》の仕事で、時代の新しい生活を切り開き、露助《ろすけ》向けの靴の輸出を盛大にやっていたのを手寄《たよ》り、そこでその仕事をおぼえ、田舎《いなか》へ帰って小さな店をもっていた。同じ真綿工場の持主であった彼の嫂《あによめ》は、不断銀子の母親の働きぶりを見ていたので、その眼鏡に※[#「※」は「りっしんべん+「篋」から「竹」を除いた形」、第3水準1-84-56、377-上14]《かな》い、彼を落ち着かせるために、彼女を娶《めあわ》せた。
しかしこの結婚も甘美とは行かず、半年もたたぬうちに彼の前生活について、そっちこちで悪い噂《うわさ》が耳に入り、そのうち放浪時代から付き絡《まと》っていた、茨城《いばらき》生まれの情婦が現われたりして、彼女が十年働いて溜《た》めた貯金も、あらかたその手切れに引き取《だ》されてしまった。彼女は一度は目が覚《さ》め、別れようと決心したが、その時はすでに遅く、銀子が腹へ出来ていた。
銀子がこの世の光に目を開いてから五月目に、彼はまた店を仕舞い、妻子をつれて上京し、柳橋に知合いの株屋があったので、そこの二階で行李《こうり》を釈《と》き、九段の輸出商会へと通いはじめた。やがて彼も遺産の田地もいくらか残っていたので、それを金にして、柳原で店を拡《ひろ》げることになったのだったが、もう十四にもなった銀子が、蔵前のある靴工場へ通い、靴製造の職を仕込まれた時分には、子供も殖《ふ》え、彼も怪我《けが》をして、小僧と職工を四五人つかっていた、柳原の店も寂れがちであった。
銀子が芸者屋をいやがり、手に職を覚えるつもりで、靴の徒弟に住みこんだのは、ちょうど蔵前の大きな靴屋で、そのころハイカラな商売とされた斯界《しかい》の先達《せんだつ》であり、その商売に転向した多勢の佐倉藩士の一人で、夫人も横浜の女学校出のクリスチャンであり、一つ女の職人を仕立てるのも面白かろうと引き受けてくれた。
六
銀子はクリスチャンであったその家庭で日常を躾《しつ》けられ、多勢の兄弟子に交じって、皮を裁つことや縫うことを覚え、間もなく手間賃をもらい、家の暮しを助けることができたが、やがて彼女の細腕では持ちきれない時が来た。
やがて皮削《かわそ》ぎ庖丁《ぼうちょう》や縫針で、胼胝《たこ》の出来た手で、鼓や太鼓の撥《ばち》をもち、踊りも、梅にも春や藤娘、お座敷を間に合わせるくらいに仕込まれた。銀子は撫《な》で肩の肩が少し厚ぼったく、上背《うわぜい》もなかったが顔は彼女の型なりに完成美に近く、目も美しく、鼻も覗《のぞ》き気味で尋常であった。鼻の下の詰まったところにも意気味があった。
銀子はもとちょっと居た人形町の家《うち》へも行きづらく、その土地で人に顔を見られるのもいやで、今度はあらためて河岸《かし》をかえ、体が楽だという触れ込みのある千葉の蓮池《はすいけ》から出ることにしたのであった。
蓮池の埋立てだという蓮池の花街は、駅から二丁ばかり行った通りにあった。その辺には洋食屋やカフエ、映画館などもあり、殷賑《いんしん》地帯で、芸者の数も今銀子のいる東京のこの土地と乙甲《おつかつ》で、旅館料理屋兼業の大きい出先に、料亭《りょうてい》も幾つかあった。
銀子の出たのは、藤本《ふじもと》という、土地では看板の古い家で、通りから少し入り込んだ路次の一軒建てであったが、下の広々した玄関の上がり口の奥に、十畳の部屋があり、簿記台や長火鉢《ながひばち》、電話も廊下につけてあり、玄関|脇《わき》の六畳と次ぎの八畳とで、方形を成した二階屋であったが、庭づたいに行ける離れの一|棟《むね》も二階建てであった。周囲は垣根《かきね》で仕切られ、庭もゆっくり取ってあった。のんびりした家の気分が目見えに行った途端、すっかり銀子の気に入ってしまったのだったが、主人の方でもいくらか、他の抱え並みには見なかった。
主人は夫婦とも北海道産まれで、病気で奥の八畳に寝ている主婦の方が、五つ六つも年嵩《としかさ》の、四十六七にもなったらしく、髪も六分通りは白く、顔もうじゃじゃけていたけれど、笑い顔に優しみがにじみ、言葉は東京弁そっくりで、この稼業《かぎょう》の人にしては、お品がよかった。前身は解《わか》らなかったが、柔道家の娘だという噂《うわさ》を、抱えの姐《ねえ》さんがしているのは真実《ほんとう》らしく、丈夫の時には、呑助《のみすけ》の親爺《おやじ》が大々した体を小柄の女房に取って組み敷かれたという笑い話もあった。病気は腎臓《じんぞう》に神経痛で、気象のはっきりした銀子が気に入り、肩や腰を擦《さす》らせたりして、小遣《こづか》いをくれたり、菓子を食べさせたりした。
彼女の話によると、養女が二人あり、みんな大きくなって、年上の方は東京の方で、この商売に取りついており、抱えも五人あって、調子が悪くないというのだったが、下の方もこれもこの土地での評判の美人で、落籍《ひか》されて、東京で勤め人の奥さんで納まっており、子供も三人あるのだった。
「私もこんな病気だもんだからね。あの人たちもいつ死ぬかと思って、少しばかりのものを目当てに時々様子を見て来るのさ。苦労して大きくしてやっても、つまらないものさ。」
親爺はいつも酒くさい口をしていた。近所の酒場やおでんやでも呑むが、家でも朝から呑んだ。銀子はここでは牡丹《ぼたん》というので出たが、彼はいつもぼた公ぼた公と呼び、お座敷のない時はお酌《しゃく》をさせられた。目のくりくりした丸顔で、玉も撞《つ》くし映画も見るが、浪曲は何よりも好きで、機嫌《きげん》のいい時は楽燕《らくえん》張りの節廻しで、独りで南部坂を唸《うな》ったりしていた。
銀子は秋に披露目《ひろめ》をしたのだったが、姐さんたちに引き廻されているうちに、少しずつ座敷の様子がわかり、客の取做《とりな》しもこなれて来て、座敷は忙しい方だったが、ある晩医専の連中に呼ばれて、もう冬の寒い時だったので、狐拳《きつねけん》で負けるたびに、帯留め、帯揚げ、帯と一枚々々|剥《は》がされ、次ぎには罰杯のコップ酒を強《し》いられ、正体もなくへとへとに酔って帰ったことがあったが、家の閾《しきい》を跨《また》ぐ途端一度に酔いが発して、上がり口の廊下に崩れてしまった。
やがて銀子は親爺の両手に抱かれ、二階の四畳に寝かされたが、翌朝目がさめても、座敷を貰《もら》った後のことは、何一つ覚えがなかった。
七
朝目のさめた銀子の牡丹は、頭脳《あたま》の蕊《しん》がしんしん痛んだ。三味線《しゃみせん》に囃《はや》されてちょんぬけをやり、裸になる代りに酒を呑まされ、ヘベれけになって座敷を出たまでは覚えているが、帰ってから二階で親爺に介抱されたような気もするが、あのくりくりした目で見ていられたようにも思われ、それが幻覚であったようにも思われた。少し吐いたとみえて、嗽《うが》い茶碗《ぢゃわん》や濡手拭《ぬれてぬぐい》が丸盆の上にあった。
昼少し過ぎに、マダムの容態に何か変化が来たのか、昨夜呼ばれた連中の一人である栗栖《くるす》という医学士が来ていた。栗栖は銀子の仕込み時代から何となし可愛《かわい》がってくれた男で、病院へ薬を取りに行ったりすると、薬局へ行って早く作らせてくれたり、病院のなかを見せてくれたりした。そのころ吉川鎌子《よしかわかまこ》と運転手の恋愛事件が、世間にセンセイションを捲《ま》き起こしていたが、千葉と本千葉との間で轢死《れきし》を図り、それがこの病院に収容されているのだった。
「この病室にいるんだよ。」
などと病室の前を足早に通りすぎたこともあった。
マダムお気に入りの銀子が、手洗いの湯やタオルを盆に載せて持って行くと、ちょうど診察が済んだあとで、一両日中に入院でもするような話であった。
「どうも昨夜は失敬した。途中まで送ってあげようと思ったんだけれど、いつの間に帰ったのか……今朝何ともないかい。」
銀子に言うのだった。銀子もこの若い医者が好きなので、前へ出ると顔が少し紅《あか》くなったりするのだったが、その理由は解《わか》らず、何となし兄さんのような感じがするのだった。昨夜も若い同僚たちに揶揄《からか》われ、酒を強いられ、わざとがぶがぶ呑んで逃げて来たのだった。
栗栖は十畳の主人の帳場で、マダムの容態を説明し、入院の話をしていた。
「何しろお宅も忙しいから、とても手が届かないでしょう。つい自分で起《た》ったり何かするのがいけないんです。」
親爺もそれに同意していたが、昨夜の銀子の話もしていた。
この家《うち》には六人の抱えがあり、浜龍《はまりゅう》という看板借りの姐《ねえ》さんと銀子が、一番忙しい方だった。浜龍は東金《とうがね》の姉娘の養女で、東京の蠣殻町《かきがらちょう》育ちだったが、ちょっと下脹《しもぶく》れの瓜実顔《うりざねがお》で、上脊《うわぜい》もあり、きっそりした好い芸者だった。東金で仕込まれたが、柄がいいのでみすみす田舎《いなか》芸者にするのが惜しまれ、新橋の森川家へあずけて、みっちり仕込んでもらっただけに芸でも負《ひ》けは取らなかった。長唄《ながうた》のお浚《さら》いにかかると、一時に五六番から十番も弾《ひ》きつづけて倦《う》むことを知らなかったが、宴会の席で浦島などを踊っても、水際《みずぎわ》だった鮮かさがあった。出たてには銀子の牡丹も、自分の座敷へ呼んでくれた。
「今日牡丹ちゃん呼んであげるわ。余計なこと喋《しゃ》べらないことよ、そしてちゃかちゃかしないで落ち着いているのよ。」
彼女は少しそそっかしい銀子に言うのであった。
銀子が行ってみると、それは小山という六十年輩の土地の弁護士で、浜龍のペトロンであった。銀子はお酌《しゃく》をしたり、銚子《ちょうし》を取りに行ったり、別にすることもなかったが、余計なことを封じられたのは、浜龍にはこのほかにも一人材木屋のペトロンがあり弁護士のことも承知の上なので、昼間来て晩方引き揚げるのだったが、この男が帰ると彼女はいつも貰《もら》ったお札《さつ》の勘定をするのだった。
養女で看板借りなので、ほかの抱えと一緒の部屋には寝ないで、離れの一|棟《むね》を占領していたが、食事の時もみんなと一つの食卓には就《つ》かず、ちょっとした炊事場も離れについていたので、そこで自分だけの好きなものを拵《こしら》えたり、通りの洋食や天麩羅《てんぷら》を取り寄せたりして、気儘《きまま》に贅沢《ぜいたく》に暮らしていた。
材木問屋はこの離れへ来ても、ビールでも呑《の》んで帰るくらいで、外で呼ぶことになっていたが、長いあいだ月々世話になっている弁護士の来る日は二階を綺麗《きれい》に掃除させ、桐《きり》の丸火鉢《まるひばち》に火を起こし、鉄瓶《てつびん》の湯を沸《たぎ》らせたりして、待遇するのだった。
八
浜龍は材木屋の座敷から帰って来ると、座敷着もぬがず、よくお札の勘定をしていたものだが、驚くことにはそれが銀子のまだ手にしたこともない幾枚かの百円札であったりした。彼女は弁護士からもらう月々のものを大体家へ入れ、材木屋から搾《しぼ》る臨時《ふり》のものを、呉服屋や貴金属屋や三味線屋などの払いに当て、貯金もしているらしかったが、どこか感触に冷たいところがあり、銀子がお札を勘定しているところを覗《のぞ》いたりすると、いやな顔をして、
「いやな人ね、人のお金なんぞ覗くもんじゃないわよ。そっちへ行ってらっしゃい。」
などと邪慳《じゃけん》な口の利き方をした。
この姐《ねえ》さんは年ももう二十一だし、美しくもあり芸もあるが、腕も凄《すご》いのだと銀子は思うのだったが、どうすれば腕が凄くなるのか、想像もつかなかった。
抱えの大半が東京産まれだったが、そのころは世界戦後の好況がまだ後を引き、四時が鳴ると芸者は全部出払い、入れば入ったきり一つ座敷で後口もなく、十二時にもなると揃《そろ》って引き揚げ、月に一度もあるかなしの泊りは、町はずれの遊廓《ゆうかく》へしけ込む時に限るのだった。
翌日の午後マダムは寝台車で病院へ運ばれ、お気に入りの銀子もついて行ったのだったが、病室に落ち着いてからも、忙《せわ》しい呼吸をするたびに、大きい鼻の穴が一層大きく拡《ひろ》がり、苦しそうであった。その日も銀子は、一昨日《おととい》の晩のことが夢のように頭脳《あたま》に残り、親爺《おやじ》と顔を合わすのがいやでならなかったが、彼は何とか言っては側へ呼びつけたがり、銀子が反抗すると刃物を持ち出して、飼犬に投げつけたり、抱えたちの床を敷くと、下座敷は一杯で、銀子は一人の仕込みと二階に寝かされることになっていたが、ひどく酔って帰って来る晩もあって、ふと夜更《よふ》けに目がさめてみて、また失敗《しま》ったと後悔もし、憤りの涙も滾《こぼ》れるのだった。
しばらくすると、銀子のむっちりした愛らしい指に、サハイヤやオパルの指環《ゆびわ》が、にわかに光り出し、錦紗《きんしゃ》の着物も幾枚か殖《ふ》えた。座敷がかかっても、気の向かない時は勝手に断わり、親爺に酌をさせられるのがいやさに、映画館でたっぷり時間を潰《つぶ》したりしたが、ある時は子供を折檻《せっかん》するように蒲団《ふとん》にくるくる捲《ま》かれて、酒を呑んでいる傍《そば》に転《ころ》がされたりした。
そのころになると、銀子と栗栖の距離も、だんだん近くなり、マダムを見舞った帰りなどに、一緒に映画を見に入ることもあり、お茶を呑むこともあった。映画は無声で、イタリイの伝記物などが多く、ドイツ物もあった。栗栖はドイツ物のタイトルを読むのが敏《はや》く、詳しい説明をして聞かせるのだったが、映画に限らず、この若いドクトルの知識と趣味は驚くほど広く、油絵も描けば小説も作るのであった。
病院でも文学青年が幾人かおり、寄ると触《さわ》ると外国の作品や現代日本の作家の批評をしたり、めいめい作品を持ち寄ったりもして、熱をあげていた。
「お銀ちゃん栗栖君を何と思ってるんだい。あれはなかなか偉いんだよ。小説を書かせたって、このごろの駈出《かけだ》しの作家|跣足《はだし》だぜ。」
同僚のあるものは蔭《かげ》で言っていたが、それも盲目の銀子に栗栖の価値を知らせるためだったが、銀子は一般の芸者並みに客として見る場合、男性はやはり一つの異性的存在で、細かい差別は分からなかったが、四街道《よつかいどう》、習志野《ならしの》、下志津《しもしづ》などから来る若い将校や、たまには商用で東京から来る商人、または官庁の役人などと違って、こうした科学者には、何か芸者に対する感じにも繊細なところがある代りに、気むずかしさもあるように思えた。それに栗栖の態度には、どうかすると銀子を教育するような心持があり、何だと思うこともあった。
暮はひどくあわただしかった。マダムが病院から死骸《なきがら》で帰り、葬式《とむらい》を出すのとほとんど同時に、前からそんな気配のあった浜龍が、ちょうど大森へ移転する芸者屋の看板を買って、披露目《ひろめ》をすることになり、家《うち》がげっそり寂しくなってしまった。
銀子も暮から春へかけて、感冒にかかり扁桃腺《へんとうせん》を脹《は》らして寝たり起きたりしていたが、親爺《おやじ》の親切な介抱にも彼女の憎悪は募り、ある晩わざと家をぬけ出して、ふらふらと栗栖の家の前まで来た。
九
栗栖は隅《すみ》に椅子《いす》卓子《テイブル》などを置いてある八畳の日本|室《ま》で、ドイツ語の医学書を読んでいたが、銀子の牡丹がふらふらと入って来るのを見ると、見られては悪いものか何ぞのように、ぴたりと閉じた。銀子は咽喉《のど》に湿布をして、右の顎骨《あごぼね》あたりの肉が、まだいくらか腫《は》れているように見えたが、目にも潤《うる》みをもっていた。そして「今晩は」ともいわず、ぐったり壁際《かべぎわ》の長椅子にかけた。
「どうしたんだい、今ごろ。」
「夜風に当たっちゃいけないんだよ。」
銀子は頷《うなず》いていたが、栗栖は診《み》てやろうと言って、反射鏡などかけ、銀子を椅子にかけさせて咽喉を覗《のぞ》いたりしたが、ルゴールも塗った。銀子は、親爺が栗栖を忌避して、別の医者にかかっていた。
「含嗽《うがい》してるの。」
「してるわ。」
「今夜は何かあったのかい。変じゃないか。」
栗栖はテイブルの前の回転椅子をこっちへまわし、煙草《たばこ》にマッチを摺《す》った。
「ううん。」
婆《ばあ》やは蜜柑《みかん》と紅茶をもって来て、喫茶台のうえに置いて行ったが、
「蜜柑はよくないが、少しぐらいいいだろう。」
「そうお。」
銀子も栗栖も紅茶を掻《か》き廻していたが、彼は銀子の顔を見ながら、
「君も十七になったわけだね。」
「十七だか十八だか、私月足らずの十一月生まれだから。」
「ふむ、そうなのか。それにしてはいい体してるじゃないか。僕も一度君を描《か》いてみたいと思っているんだが、典型的なモデルだね。」
「そうかしら。」
「それに芸者らしいところ少しもないね。」
「芸者|嫌《きら》いよ。」
「嫌いなのどうしてなったんだ。親のためか。大抵そう言うけれど、君は娼婦型《しょうふがた》でないから、それはそうだろう。」
栗栖は間をおいて、
「いつか聞こうと思ってたんだけれど、一体前借はいくらくらいあるの。」
栗栖は言いにくそうに、初めて当たってみるのだったが、銀子はマダムの初七日も済んだか済まぬに、ちょっとその相談を受け、渾身《みうち》の熱くなるのを覚えた。栗栖が少し酒気を帯びていたので、銀子も揶揄《からか》われているような気がしながら、ただ「いいわ」と言ったのであった。そしてそれから一層親爺に反抗的な態度を取るようになった。
ある晩なぞ枕頭《まくらもと》においた栗栖の写真を見て、彼はいきなりずたずたに引き裂き、銀子の島田を※[#「※」は「てへん+劣」、第3水準1-84-77、383-下8]《むし》ったりした。
マダムは死際《しにぎわ》に、浜龍にはどうせ好い相手があって、家を出るだろうから、銀子は年も行かないから無理かも知らないけど、気心がよく解《わか》っているから、マダムの後釜《あとがま》になって、商売を受け継ぐようにと、そんな意味のことも洩《も》らしていた。その時になると、マダムは死後のことが気にかかり、栗栖のことは口へ出しもしないのだった。この社会に有りがちのことでもあり、親や妹たちもいるので、銀子もよほど目を瞑《つぶ》ろうと思うこともあったが、脂肪質の顔を見るのも※[#「※」は「さんずい+垂」、383-下17]液《むしず》が走るようで、やはり素直にはなれないのだった。出たてのころ目につくのは、大抵若いのっぺりした男なのだが、鳥居の数が重なるにつれ、若造では喰《く》い足りなくなり、莫迦々々《ばかばか》しい感じのするのが、彼女たちの早熟の悲哀であった。しかし銀子はまだぴちぴちしていた。
「失敬なことを訊《き》いてすまないけれど、やはり現実の問題となるとね。」
銀子は黙っているので栗栖は追加した。
「いくらでもないわ。」
「…………。」
「千円が少し切れるぐらいだと思うわ。それに違約の期限が過ぎているから、親元身受けだったら、落籍《ひき》祝いなんかしなくたっていいのよ。」
「じゃ、それだけ払ったら、君僕んとこへ来るね。よし安心したまえ。」
銀子は事もなげに領いたが、何か大きな矛盾がにわかに胸に乗しかかって来て、瞬間弱い頭がぐらぐらするのだった。今夜もまた自暴酒《やけざけ》を呷《あお》っているであろう、獣のような親爺《おやじ》の顔も目に浮かんで来た。
急患があり、病院から小使が呼びに来たので栗栖は玄関へ出て行ったが、部屋へ帰ってみると、銀子が薬棚《くすりだな》の前に立って、うろうろ中を覗《のぞ》いていた。
十
「おい、そんな処《ところ》に立って、何を覗いていたんだい。その中には劇薬もあるんだぞ。」
栗栖は仄《ほの》かな六感が働き、まさかとは思ったが、いわば小娘の銀子なので、その心理状態は測りかね、窘《たしな》めるように言った。
「ううん。」
銀子の牡丹は苦笑しながら、照れ隠しに部屋をあちこち動いていたが、風に吹かれる一茎の葦《あし》のように、繊弱《かよわ》い心は微《かす》かに戦《そよ》いでいた。
「どうも少し変だよ、君、何か心配事でもあるんじゃないの。商売上のこととか、親のこととか。」
栗栖はワイシャツを着ながら尋ねた。
銀子は何か頭脳《あたま》に物が一杯詰まっているような感じで、返辞もできずに、猫《ねこ》が飼主に粘《へば》りついているように、栗栖の周囲《まわり》を去らなかった。
「君何かあるんだろう。今夜僕に何か訴えに来たんじゃないのか。それだったら遠慮なく言う方がいいぜ。」
銀子は目に涙をためていたが、栗栖もちょっとてこずるくらい童蒙《どうもう》な表情をしていた。彼女は何ということなし、ただ人気のない遠い処《ところ》へ行きたいような気が漠然《ばくぜん》としていた。蒼《あお》い無限の海原《うなばら》が自分を吸い込もうとして蜿蜒《うねり》をうっている、それがまず目に浮かぶのであった。彼女は稲毛《いなげ》の料亭《りょうてい》にある宴会に呼ばれ、夜がふけてから、朋輩《ほうばい》と車を連ねて、暗い野道を帰って来たこともあったが、波の音が夢心地《ゆめごこち》の耳に通ったりして、酒の酔いが少しずつ消えて行く頭脳に、言い知らぬ侘《わび》しさが襲いかかり、死の幻想に浸るのだったが、そうした寂しさはこのごろの彼女の心に時々|這《は》い寄って来るのだった。
「すぐ帰って来るけれど、君はどうする。よかったら待っていたまえ。」
栗栖は仕度《したく》を調《ととの》え、部屋を出ようとして、優しく言った。
「私も帰るわ。」
そう言って一緒に外へ出たが、銀子は一丁ばかり黙ってついて来て、寂しいところへ来た時別れてしまった。
栗栖から離れると、銀子の心はにわかに崩折《くずお》れ、とぼとぼと元の道を歩いたのが、栗栖の門の前まで来ると、薄暗いところに茶の角袖《かくそで》の外套《がいとう》に、鳥打をかぶった親爺の磯貝《いそがい》が立っているのに出逢《であ》い、はっとしたが、彼はつかつかと寄って来て、いきなり腕の痺《しび》れるほどしっかり掴《つか》み、物もいわずにぐいぐい引っ張って行くので、銀子も力一杯に振り釈《ほど》き、すたすたと駈《か》け出して裏通りづたいに家《うち》へ帰って来た。
銀子は少し我慢さえすれば、親爺は何でも言うことを聞いてくれ、小遣《こづか》いもつかえば映画も見て、わがままなその日が送れるので、うかうかと昼の時間を暮らすこともあり、あまり収入のよくない朋輩に、大束に小遣いをやってみたり、少し気分がわるいと見ると、座敷を勝手に断わらせもした。銀子は狡《ずる》いところもないので、親爺も大概のことは大目に見て、帳面をさせてみたり、金の出入りを任せたりしていたので、銀子も主婦気取りで、簿記台に坐りこみ、帳合いをしてみることもあった。東京の親へ金を送ることも忘れなかった。
銀子の父親はちょうどそのころ、田舎《いなか》に婚礼があり帰っていたが、またしても利根《とね》の河原《かわら》で馬を駆り、石に躓《つまず》いて馬が前※[#「※」は「足+「倍」のつくり」、第3水準1-92-37、385-上23]《まえのめ》りに倒れると同時に前方へ投げ出され、したたか頭を石塊《いしころ》に打ちつけ、そのまま気絶したきり、しばらく昏睡《こんすい》状患で横たわっていたが、見知りの村の衆に発見され、報告《しらせ》によって弟や甥《おい》が駈《か》けつけ、負《しょ》って弟の家まで運んで来たのだったが、顔も石にひどく擦《こす》られたと見え、※[#「※」は「骨+「權」のつくり」、385-下3]骨《けんこつ》から頬《ほお》へかけて、肉が爛《ただ》れ血塗《ちまみ》れになっていた。銀子もその出来事は妹のたどたどしい手紙で知っていたが、親爺に話して見舞の金は送ったけれど、かえって懲りていいくらいに思っていた。
銀子はわがままが利くようになったので、一つのことを拒みつづけながらも、時には不覚を取ることもあり、彼女の体も目立つほど大人《おとな》になって来た。
「お前のような教育のない者が、ああいう学者の奥さんになったところて、巧く行く道理がない。この商売の女は、とかく堅気を憧《あこ》がれるんだが、大抵は飽かれるか、つまらなくなって、元の古巣へ舞い戻って来るのが落ちだよ。悪いことは言わないから、家《うち》にじっとしていな。」
そんなことも始終親爺にいわれ、それもそうかとも思うのだった。
十一
三月のある日、藤本の庭では、十畳の廊下外の廂《ひさし》の下の、井戸の処《ところ》にある豊後梅《ぶんごうめ》も、黄色く煤《すす》けて散り、離れの袖垣《そでがき》の臘梅《ろうばい》の黄色い絹糸をくくったような花も、いつとはなし腐ってしまい、椎《しい》の木に銀鼠色《ぎんねずいろ》の嫩葉《わかば》が、一面に簇生《そうせい》して来た。人気《ひとけ》のない時は、藪鶯《やぶうぐいす》が木の間を飛んでいたりして今まで自然の移りかわりなどに関心を持とうともしなかった銀子も、栗栖の時々書いて見せる俳句とかいうものも、こういうところを詠《よ》むのかいなと、ぼんやり思ってみたりして、この家も自分のものか借家なのか、訊《き》いてみたこともなかったけれど、来たてに台所と風呂場《ふろば》の手入れをしたりしていたところから見ると、借家ではなさそうでもあった。それに金ぴかの仏壇、槻《けやき》の如輪目《じょりんもく》の大きな長火鉢《ながひばち》、二|棹《さお》の箪笥《たんす》など調度も調《ととの》っていた。磯貝は見番の役員で、北海道では株屋であったが、ここでは同業者へ金の融通もするらしかったが、酒とあの一つのことにこだわりさえしなければ、好意のもてなくもない普通の人間で、銀子も虚心に見直す瞬間もあるのだった。死んだマダムもこの親爺《おやじ》も両親は土佐の士族で、産まれは悪くもなかった。
「これが自分のものになるのかしら。」
銀子も淡い慾がないわけでもなかったが、それも棒が吭《のど》へ閊《つか》えたようで、気恥ずかしい感じだった。
ある日も親爺が見番で将棋を差している隙《すき》に、裏通りをまわって栗栖の家の門を開けた。栗栖はちょうど瓶《かめ》に生かったチュリップを、一生懸命描いているところだったが、
「お銀ちゃんか。どうしたい。しばらく来なかったね。」
栗栖はパレットを離さず、刷毛《はけ》でちょいちょい絵具を塗っていた。
銀子は休業届を出し、ずっと退《の》いていたので、栗栖は座敷では逢《あ》うこともできなかったが、銀子も少し気の引けるところもあって、前ほどちょいちょい来はしなかった。やがて彼はパレットを仕舞い、画架も縁側へ持ち出して、古い診察着で間に合わしている仕事着もぬいで、手を洗いに行って来ると、
「ちょうどいいところへ来た。田舎《いなか》から大きな蟹《かに》が届いたんだ。」
栗栖は福井の産まれで、父も郡部で開業しており、山や田地もあって、裕福な村医なのだが、その先代の昔は緒方洪庵《おがたこうあん》の塾《じゅく》に学んだこともある関係から、橋本左内の書翰《しょかん》などももっていた。
「そんな画《え》お金になるの。」
「そんな画とは失礼だね。これでも本格的な芸術品だよ。技術はとにかくとしてさ。」
洋楽のレコオドを二三枚かけ、このごろ栗栖が帝劇で見た、イタリイの歌劇の話などしているうちに、食事ができ、銀子が見たこともない茨蟹《いばらがに》の脚の切ったのや、甲羅《こうら》の中味の削《そ》いだのに、葡萄酒《ぶどうしゅ》なども出て、食べ方を教わったりした。銀子は栗栖の顔をちょいちょい見ながら、楽しそうにしていたが、栗栖がちらちら結婚の話に触れるので、蟹の味もわからなかった。
「来月になると、休暇を貰《もら》って田舎へ行って来るよ。親爺は田舎へ帰って来いと言うんだけれど、僕もそんな気はしないね。」
「遠いの? どのくらい?」
「遠いさ。君も一度はつれて行くよ。実はその話もあるしね。」
銀子は頷《うなず》いていたが、やっぱり自分も大胆な嘘吐《うそつ》きなのかしらと、空恐ろしくもあった。
「しかしいつかの晩ね、僕も三年がかりで、聞いてみようと思いながら、まだ訊かなかったけれど、あの晩は何だかよほど変だったね。」
「そうお。」
「まさか毒薬を捜していたわけじゃないだろうね。」
「そうじゃないの。」
銀子は打ち明けて相談したら、何とか好い解決の方法があるかも知れず、独りで苦しんでいるより、その方が腫物《はれもの》を切開して膿《うみ》を出したようで、さっぱりするかも知れないと、そう思わないこともなかったが、それを口へ出すのは辛《つら》かった。死んでも言うものかと、そんな反抗的な気持すら起こるのだった。人に謝罪《あやま》ったり、哀れみを乞《こ》うたりすることも、彼女の性格としては、とても我慢のならないことであった。痩《や》せ我慢とは思いつつも、彼女には上州ものの血が流れていた。不断は素直な彼女であったが、何か険しいものが潜んでいた。
栗栖も追窮しはしなかった。
十二
四月になってから、栗栖は郷里へ帰省し、妹が一人いると言うので、銀子は花模様の七珍《しっちん》の表のついた草履《ぞうり》を荷物の中に入れてやったが、駅まで送って、一緒に乗ってしまえば、否応《いやおう》なしに行けるのにと思ったりした。
しかし自分の取るべき方嚮《ほうこう》について、親たちに相談しようというはっきりした考えもなかったし、話してみてもお前の好いようにと言うに決まっているのだったが、何となし家《うち》を見たいような気がして、一と思いに乗ってしまった。
「私お父さん怪我《けが》しているのに、一遍も見舞に行かないから、急に行きたくなって。」
「そうか。君の家はどこだい。」
「錦糸堀なの。」
「商売でもしているの?」
「そう。靴屋。」
「靴屋か、ちっとも知らなかった。」
「私だって靴縫うのよ。年季入れたんですもの。」
「君が。女で? 異《かわ》ってるね。」
「東京に二人いるわ。」
「お父さんの怪我は?」
「馬から落ちたの。お父さんは馬マニヤなの。いい種馬にかけて、仔馬《こうま》から育てて競馬に出そうというんだけれど、一度も成功したことないわ。何しろ子供はどうなっても馬の方が可愛《かわい》いんだそうだから。」
「靴が本職で馬が道楽か。けどあまり親に注《つ》ぎこむのも考えものだね。」
そのうち綿糸堀へ来たので、銀子はおりてしばらく窓際《まどぎわ》に立っていた。このころ銀子の家族は柳原からここへ移り、店も手狭に寂しくなっていた。しかし製品は体裁よりも丈夫一方で、この界隈《かいわい》の工場から、小松川、市川あたりへかけての旦那衆《だんなしゅう》には、親爺《おやじ》の靴に限るという向きもあって、註文《ちゅうもん》は多いのであった。靴紐《くつひも》や靴墨、刷毛《はけ》が店頭の前通りに駢《なら》び、棚《たな》に製品がぱらりと飾ってあったが、父親はまだ繃帯《ほうたい》も取れず、土間の仕事場で靴の底をつけていた。
「もういいの。」
「ああお前か。まだよかないけれど、註文の間に合わそうと思って、今日初めてやりかけの仕事にかかってみたんだが、少し詰めてやるてえと、頭がずきんずきん痛むんでかなわねえ。」
内を覗《のぞ》いてみると、あいにく誰もいなかった。
「誰もいないの。」
「お母さんは巣鴨《すがも》の刺《とげ》ぬき地蔵へ行った。お御符《ごふ》でも貰《もら》って来るんだろう。」
父親はそう言って仕事場を離れ、火鉢《ひばち》の傍《そば》へ上がって来た。
「時ちゃんや光《みっ》ちゃんは?」
「時ちゃんたちは、小山の叔母《おば》さんとこへ通ってる。あすこも大きくしたでね。」
小山の叔母さんというのは、母親が十三までかかっていた本家の娘の市子のことであった。市子はその時分|日蔭者《ひかげもの》の母親が羨《うらや》ましがったほど幸福ではなく、縁づいた亭主《ていしゅ》に死なれ、姑《しゅうとめ》との折合いがわるくて、実家へ帰ったが、実家もすでに兄夫婦親子の世界で居辛《いづら》く、東京へ出て銀子の柳原の家に落ち着き、渋皮のむけた色白の、柄が悪くなかったので、下町の料亭《りょうてい》などに働き、女中|頭《がしら》も勤めて貯金も出来たところで、銀子の家と近所付き合いの小山へ縁づいたのであった。小山は日本橋のデパアト納めの子供服を専門に引き受けた。
「珍しいな。お前が出て来るなんて。どうだ変わったこともないか。」
父親はそう言ってお茶をいれ、茶箪笥《ちゃだんす》をあけて、小皿にあった飴《あめ》を出した。
「あの人たちも働いてるな。」
銀子は思った。芸者も辛いが、だらしない日々を送り、体に楽をしているのはすまないような気持だった。
「こないだ用があって、三里塚《さんりづか》へ行ってみたが、今年は寒かったせいか、桜がまだいくらかあったよ。今年は三里塚へお花見に行くなんて、時ちゃんたち言っていたけれど、あの雨だろう。」
「もう菖蒲《あやめ》だわ。」
銀子は家へ来てみて一層|侘《わび》しくなり、逝《ゆ》く春の淡い悩みに浸された。
「何か話でもあったかい。」
父親は心配そうに訊《き》いた。
「ううん。」
銀子は胸につかえるものを感じ、そういって起《た》ちあがると、そっと二階へあがってみた。
十三
二階は上がり口が三畳で、押入れに置床のある次ぎの六畳に古い箪笥があり、父は敬神家とみえて天照皇大神の幅がかかっていた。東郷大将の石版刷も壁にかかっていたが、工場通いと学校通いと、四人の妹がここで学課の復習もすれば寝床も延べるのだった。
銀子は物干へ出られる窓の硝子窓《ガラスまど》を半分開けて、廂間《ひさしあい》から淀《よど》んだ空を仰ぎ溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、夜店もののアネモネーや、桜草の鉢《はち》などがおいてある干場の竿《さお》に、襁褓《おしめ》がひらひらしているのが目についた。
銀子はまだ赤ん坊の顔も見ず、母の妊娠していたことすら知らずにいたのだったが、なるほどそう言えば正月に受け取った時ちゃんの年始状の端に、また妹が一人|殖《ふ》えました、どうして家《うち》には男の子が出来ないんでしょうなどと書いてあったが、余所事《よそごと》のような気持で、嬉《うれ》しくも悲しくもなかった。柳原時代の前後、次ぎ次ぎに産まれる妹たちを脊中《せなか》に縛りつけられ、遠遊びをしたこともあったが、負ぶったまま庭の柘榴《ざくろ》の木に登り、手をかけた枝が析れて、弾《はず》みで下の泉水へどさりと堕《お》っこちたこともあった。
「大変だわ。」
銀子は襁褓《おしめ》を見て、少しうんざりするのだったが、この小さい人たちだけは、一人も芸者にしたくないと思った。しかし妹たちの成行きがどうなろうと、これ以上の重荷は背負いきれそうもなく、やはり母の言うような、どうにか手足さえ伸ばせば、それでいいとしておくよりほかなかった。それにしても久しぶりで家庭の雰囲気《ふんいき》に触れ、結婚どころではないという気もするのだった。
巣鴨から煎餅《せんべい》なぞもって帰って来た母親が、二階へ上がってみると、銀子は机に突っ伏して眠っていた。
「何だお前寝ているのか。眠かったらゆっくり寝ていれ、床しいてやろうか。」
銀子はうとうとしたところだったが、ふと目をさまし、顔に圧《お》されていた手を擦《こす》っていた。
「あんばいでも悪くて来たのじゃないかい。」
「ううん、ただちょっとふらりと来てみたのさ。」
「そうかい、それならいいけれど……。」
母は負ぶい紐《ひも》を釈《と》き、腕を伸ばしてにこにこ絣《かすり》の負ぶい絆纏《ばんてん》の襟《えり》を披《はだ》けて、
「お前これちょっと卸しておくれ、巣鴨まで行って来て肩が凝ってしまった。」
そう言って脊《せ》なかを出され、銀子は少し伸びあがるようにして、赤ん坊を抱き取った。
「色黒いわね。いつ産まれたの。」
「お前んところのお母さんが亡くなるちょっと前だよ。」
赤ん坊は眠り足らず、銀子の膝《ひざ》で泣面《べそ》をかき、ぐずぐず鼻を鳴らし口を歪《ゆが》めているので、銀子も面白く、どの赤ん坊もこうだったと、思い出すのだった。
「よし、よし。」
銀子は無器用に抱きかかえ、起《た》ちあがって揺すってやったが、いよいよ渋面作り泣き出した。
「何だ、お前姉さんに抱っこして……。さあ、おっぱいやろう。腹がすいてるだろう。」
母はそう言って赤児《あかご》を抱き取り、黝《くろ》ずんだ乳首を含ませながら、お産の話をしはじめた。銀子の時は産み落とすまで母は働き、いざ陣痛が来たとなると、産婆を呼びに行く間もなく、泡《あわ》を喰《く》った父が湯を沸かすのも待たなかった。次ぎもその次ぎも……。
「この子お父さん似だわ。」
「誰に似たか知らないけれど、この子は目が変だよ。ほかの子は一人もこんな目じゃなかったよ、みんな赤ん坊の時から蒼々《あおあお》した大きい目だったよ。この子の目だけは何だか雲がかかったようではっきりしないよ。おら何だか人間でないような気がするよ。」
「そうかしら。こんなうちは判んないわよ。」
外は少し風が出て、硝子戸ががたがたした。するうち小さい妹が前後して、学校から帰って来た。みんなで下で煎餅を食べながら、お茶を呑《の》んだ。
「お銀姉ちゃん泊まって行くの。泊まって行くといいな。」
大きい方が言った。
「泊まってなんか行くもんかよ。風が出たから早く帰んなきゃ。」
母は帰りを促し気味であった。
十四
銀子は蟇口《がまぐち》から銀貨を出して妹に渡し、
「これお小遣《こづか》い、お分けなさい。」
そう言って帰りかけたが、父は額に濡手拭《ぬれてぬぐい》を当て臥《ね》そべっており、母はくどくどと近所の噂《うわさ》をしはじめ、またしばらく腰を卸していた。父は仕事ができないし、怪我《けが》をしなくても、元来春先になると、頭が摺鉢《すりばち》をかぶったように鬱陶《うっとう》しくなるのが病気で、碧《あお》い天井の下にいさえすれば、せいせいするので、田舎《いなか》へ帰りたくもあったが、本格的な百姓の仕事はできもしないのであった。
母親も今更住み馴《な》れた東京を離れたくはなかった。彼女はこの界隈《かいわい》でも、娘によって楽に暮らしている家のあることを知っていた。銀子とは大分時代の違う按摩《あんま》の娘は、この二三年二人とも上野の料亭《りょうてい》山下に女中奉公をしているうちに、亀井戸に待合を買ってもらったとか、貧乏なブリキ屋の娘が、テケツ・ガールから請負師の二号になり、赤ん坊を大した乳母車《うばぐるま》に載せて、公園を歩いていたとか。彼女はそれを銀子に望んでいるわけでもなく、むしろいくらか軽蔑《けいべつ》の意味で話しているのだったが、浮かびあがった親の身の上は、羨《うらや》ましくなくもなかった。
父はルムペンかと思うような身装《みなり》も平気だが、母は軟《やわ》らかい羽織でも引っかけ、印台の金の指環《ゆびわ》など指に箝《は》めて、お詣《まい》りでもして歩きたいふうで、家の暮しも小楽らしく何かと取り繕い、芸者をしている娘から仕送ってもらっていることなどは、叭《おくび》にも出さなかった。
やがて妹たちもめいめいの立場から、姉の身のうえを恥じ、学校でも勤め先でも、秘し隠しに隠さなくてはならないであろう。
銀子は胸に滞っている当面の問題については、何にも話ができず、責任がまた一つ殖《ふ》えでもしたような感じで、母のお喋《しゃ》べりにまかれて家を出た。
藤本へ還《かえ》ったのは、もう日の暮方近くで、芸者衆はようやく玄関わきの六畳で、鏡の前に肌ぬぎになりお化粧《つくり》をしていた。彼女たちの気分も近頃目立ってだらけていた。銀子のことを、そっちこっち吹聴《ふいちょう》して歩いたり、こそこそ朋輩《ほうばい》を突ついたり、銀子の手に余るので、どうせ一度は抱えの入替えもしなければと、親爺《おやじ》も言っているのだった。
親爺は十畳で酒を呑んでいた。
「お前どこへ行ってた。」
「家へ行ったんだわ。」
「行くなら行くと言って行けばいい。お前お父さんに何か話しだろ。」
「別に何にも。」
「もっとこっちへおいで。」
銀子は廊下の処《ところ》に跪《しゃが》んでいたが、内へ入って坐った。
「それじゃ何しに行ったんだ。」
「お父さんがぶらぶらしてると言うから、ちょっと行ってみたの。」
「どうせ己《おれ》も一度話に行こうとは思っているんだが、どういうふうにしたらいいと、お前は思う。」
「そうね。私にも解《わか》んないわ。お父さん仕事ができないで困っているの。それに赤ん坊が産まれたでしょう。私も事によったら、しばらく家へ帰っていようかと思ったんだけれど……それよりも、いっそ新規に出てみようかと、汽車のなかで考えて来たの。」
芸者に口がかかり、箱が動きだしたので、話はそれきりになり、銀子は台所へ出て、自分の食事の仕度《したく》をした。彼女はわざと抱えと一つの食卓に坐ることにしていたが、芸者たちの居ない時は、親爺の酌《しゃく》をしながら、一緒に食べることもあった。抱えに悪智慧《わるぢえ》をつける婆《ばあ》やも、もういなくなり、銀子は仕込みをつかって、台所をしているのだったが、大抵のことは親爺《おやじ》が自身でやり、シャツ一枚になって、風呂場《ふろば》の掃除もするのだった。
翌日親爺の磯貝は、銀子をつれて本所へ出かけて行った。彼は肴屋《さかなや》に蠑螺《さざえ》を一籠《ひとかご》誂《あつら》え、銀子を促した。
「何しに行くのよ。私は昨日行って来たばかしよ。」
彼は剽軽《ひょうきん》な目を丸くした。
「あれーお前の話に行くのよ。おれ一人でも何だから一緒に行こう。」
銀子は渋くった。この裏通りに一軒手頃な貸屋があり、今は鉄道の運輸の方の人が入っているが、少し手入れをすれば店にもなる。それが立ち退《の》き次第銀子の親たちを入れ、今一|棟《むね》、横の路次から入れる奥にも、静かな庭つきの二階家が一軒あり、それも明けさせて銀子が入り、月々の仕送りもするから、それに決めようと、親爺は昨夜も言っていたのだった。
十五
裏の家があき、トラックで荷物が運ばれたのは五月の初めで、銀子が潰《つぶ》しの島田に姐《ねえ》さん冠《かぶ》りをして、自分の入る家の掃除をしていると、一緒に乗って来た父が、脚にゲートルなぞ捲《ま》きつけてやって来た。――あの時本所の家では銀子が二階で赤ん坊をあやしているうちに、下で親父《おやじ》が両親を丸めこみ、出来たことなら仕方がないから本人さえ承知ならと父は折れ、母も少しは有難がるのだった。千葉から少し山手へ入ったところに逆上《のぼせ》に利く不動滝があり、そこへ詰めて通ったら、きっと頭が軽くなるだろうと親爺はそんなことも言っていた。
軟禁の形で休業していた銀子も、その前後からまた蓋《ふた》を開け、気晴らしに好きな座敷へだけ出ることにしていたが、田舎《いなか》から帰って来た栗栖にもたまに逢《あ》うこともできた。
「帰って来た途端に、妙なことを聞いたんだが……。」
一昨日帰ったばかりだという栗栖に、梅の家の奥の小座敷で逢った時、彼はビールを呑《の》みながら言い出した。病院の帰りで時間はまだ早かった。
銀子はもう帰る時分だと、いつも思いながら、病院へ電話をかけてみても、まだ帰っていないと後味がわるいし、家《うち》へ訪ねて行っても同様に寂しいので、帰って来ればどこかへ来るだろうと、心待ちに待ち、電話の鈴が鳴るたびに胸が跳《おど》り、お座敷がかかるたびに、お客が誰だか箱丁《はこや》に聞くのだったが、親爺が見番の役員なので、二人を堰《せ》き止めるために、どんな機関《からくり》をしていないとも限らず、気が揉《も》めているのだった。しかし逢ってみると、一昨日帰ったばかりだというので、ほっとしたが、「随分遅かったわ」とも口へ出せずにいるところヘ、栗栖にそう言って目をじっと見詰められ、銀子は少し狼狽《うろた》えた。
「まあ一杯呑みたまえ。」
栗栖はコップを差して、ビール壜《びん》を取りあげた。
「呑むわ。どうしたの?」
「どうもせんよ。」
「だって……田舎はどうだったの。」
「ああ田舎か。田舎は別に何でもないんだ。ああ、そう、妹がよろしくて。着物の胴裏にでもしてくれって、羽二重を一反くれたよ。ここには持って来なかったけれど。しかし君は相変わらずかい。」
「そうよ。」
「何か変わったことがあるんだろう。」
「何もないわ。どうして。」
「朗らかそうな顔しているところを見ると、別に何でもなさそうでもあるね。君がそんな猫冠《ねこかぶ》りだとは思えんしね。」
銀子も何か歯痒《はがゆ》くなり、打ち明けて相談してみたらとも思うのだったが、それがやはり細々《こまごま》と話のできない性分なのだった。
「僕も君を信用したいんだ。無論信用してもいるんだが、変なことを言って僕に忠告するものがいるんだ。」
「世間はいろいろなこと言いますわ。私が養女格で別扱いだもんだから、変な目で見る人もあるのよ。」
銀子はそう言いながら、この場合にも、いつか何かの花柳小説でも読み、何かの話のおりに土地の姐《ねえ》さんも言っていた、肉体と精神との貞操について考えていた。商売している以上、体はどうも仕方がない、汚《よご》れた体にも純潔な精神的貞操が宿り、金の力でもそれを褫《うば》うことはできないのだと。それも自分でそう信じていればいいので、口へ出すべきことではないと、そうも思っていた。誰が何と言わなくとも、自身が一番|涜《けが》された自身の汚さを感じているのだった。
「でもいいわ、クーさんがそう思うなら。」
「いや、そんなわけじゃないんだ。だから君に訊《き》こうと思って。」
銀子は空《から》になった壜《びん》を覗《のぞ》き、
「お代り取って来るわ、お呑《の》みなさいよ。」
「いや、今夜はそうしていられないんだ。明朝早く大手術があるんだ。」
栗栖は言っていたが、やっぱり呑み足りなくて、今一本取り、さっぱりしたようなしないような気持で、結婚の話を持ち出す汐《しお》を失い、銀子に爪弾《つめび》きで弾《ひ》かせて、歌を一つ二つ謳《うた》っているうちに時がたって行った。
十六
ある日も銀子は、お座敷の帰りにしばらく来てくれない栗栖を訪ねようと思って、門の前まで行ってみると、磯貝がちゃんとそこに立っていた。
「また嗅《か》ぎつけられちゃった。」
銀子は思ったが、引き返すのもどうかと思案して、かまわず近よって行った。銀子は自分持ちの箱丁《はこや》に、時々金を握らせていたので、栗栖の座敷だとわかると、箱丁も気を利かして、裏の家へ直接かけに来ることにしていたが親爺《おやじ》は見番の役員なので、何時にどこへ入ったかということも、あけ透《す》けに判るのであった。しかしお座敷にいる以上、明くまでは出先の権利で、お客がどこの誰であろうと、どうもならないのであった。ある時も銀子が栗栖の座敷にいると、彼は気が揉《も》めてならず、別の座敷へ上がってよその芸者をかけ、わざと陽気に騒いだりして、苛々《いらいら》する気分を紛らせていた。栗栖もそれが磯貝とわかり、六感にぴんと来るものがあり、酔いもさめた形であった。栗栖の足はそれから少し遠退《とおの》き、しばらく顔を見せないのであった。彼は銀子との結婚について父の諒解《りょうかい》を得たいと思い、遊びすぎて金にも窮《つま》っていたので、手術料などで相当の収入《みいり》がありそうに見えても、いざ結婚となると少し纏《まと》まった金も必要なのだったが、父も最近めっきり白髪《しらが》が殖《ふ》え酒量も減って、自転車で遠方の病家まわりをしている姿が気の毒になり、何も言い出さずに帰って来たのだった。帰って来ると、いやな噂《うわさ》が耳に入り、気を悪くしていたので、医専が県立であるところから、県内の方々から依頼して来る手術も人に譲り怠りがちであった。彼は銀子を追究して真相をはっきりさせることも怖《こわ》く、それかと言って商売人の銀子の言葉を言葉通りに受け容《い》れることもできず、病院の仕事もろくろく手に着かないのだった。
「お前一体ここへ何しに来るんだ。」
親爺は栗栖の家の少し手前の処《ところ》で、銀子を遮《さえぎ》った。
「用があるのよ。」
「何の用だかそれを言いなさい。己《おれ》に言えない用があるわけはない。」
磯貝は悪く気を廻していたが、銀子も立ちながら諍《あらそ》ってもいられず、一緒に還《かえ》ることにした。
そのころになると父の店もやや調《ととの》い、棚の前通りにズックの学生靴や捲《まき》ゲートル、水筒にランドセルなど学生向きのものも並べてぼつぼつ商いもあり、滝に打たれたせいか父の頭も軽くなり、仕事に坐ることもできた。上の妹は小山で当分寝泊りすることになり、小さい方の妹たちは磯貝の勧めで、学校から帰ると踊りの稽古《けいこ》に通わせ、銀子が地をひいて浚《さら》ったりしていた。
ある日の午後も、銀子は椿姫《つばきひめ》の映画を見て、強い感動を受け、目も眩《くら》むような豪華なフランスの歌姫の生活にも驚いたが、不幸な恋愛と哀れな末路の悲劇にも泣かされた。彼女は「クレオパトラとアントニイ」や「サロメ」など、新しい洋画を欠かさず見ていたが、弁士にもお座敷での顔馴染《かおなじみ》があり、案内女にも顔を知られて、お座敷がかかれば、そっと座席へ知らせに来てもくれた。
そのころ銀子は二度ばかり呼ばれた東京の紳士があり、これが昔しなら顔も拝めない家柄だったが、夫人が胸の病気で海岸へ来ているので、時々洋楽の新譜のレコオドなど買い入れて持って来るのだったが、銀子の初々《ういうい》しさに心を惹《ひ》かれ、身のうえなど聞いたりするのだった。
「事によったら僕が面倒見てあげてもいいんだがね、この土地としては君の着附けは大変いいようじゃないか、何かいいパトロンがついているんだろう。」
彼は思わせぶりに、そんなことを言いながら、大抵|家《うち》の妓《こ》も二三人呼んで酒も余計は呑まず、飯の給仕などさせて、あっさり帰るのだったが、身分を隠してのお忍びなので、銀子はそれが何様であるかも判らず、狭い胸に映画かぶれの空想を描いたりしてみるのだったが、男の要求しているものが、大抵判るので、この人もかとすぐ思うのであった。同じ土地の芸者が、間もなく落籍《ひか》され、銀子もその身分を知ったのだったが、ずっと後になって、彼はその女に二人の子供をおいて行方《ゆくえ》知れずになり、自身の手で子供を教育するため、彼女は新橋で左褄《ひだりづま》を取り、世間のセンセションを起こしたのだった。
十七
銀子が稽古に通っている、千葉神社の裏手に大弓場などもって、十くらいの女の貰《もら》い子と二人で暮らしている、四十三四にもなったであろう、商売人あがりの清元の師匠を、親父《おやじ》の後妻にしたらと、ふと思いつき、ある日磯貝に話してみた。
「父さんお神さん貰《もら》うといいわ。いい人があるから貰いなさいね。」
「うむ、貰ってもいいね。いい人って誰だい。」
親父は銀子が世間へ自分の立場をカムフラジュするための智慧《ちえ》だと考え、気が動いた。
「清元のお師匠さんよ。」
この師匠が東京から流れて来て、土地に居ついた事情も親父は知っていた。
「うむ、あの師匠か。子供があるじゃないか。」
「女の子だからいいでしょう。」
「お前話してみたのか。」
「ううん、お父さんよかったら、今日にでも話してみるつもりだわ。いい?」
「ああいい。お前のいいようにしろ。」
親父も頷《うなず》いた。
ちょうど山姥《やまうば》がもう少しで上がるところで、銀子はざっと稽古《けいこ》をしてもらい、三味線《しゃみせん》を傍《そば》へおくかおかぬに、いきなり切り出してみた。かつて深川で左褄《ひだりづま》を取っていた師匠は、万事ゆったりしたこの町の生活気分が気に入り、大弓場の片手間に、昔し覚えこんだ清元の稽古をして約《つま》しく暮らしているのだったが、深川女らしく色が黒く小締まりだったが、あの辺の芸者らしい暢気《のんき》さもあった。
「今日はお師匠さんにお話があるんですけれど……。」
銀子は切り出した。
「そう。私に? 何でしょうね。」
「お師匠さん。家《うち》のお嫁さんに来てくれません?」
「私が? お宅の後妻に?」
「お父さんも承知の上なのよ。」
「愛ちゃんがいるからね。」
「いたっていいわよ。」
「それはね、私も商売人あがりだから、この商売はまんざら素人《しろうと》でもないんですよ。だから旦那《だんな》が御承知なら行ってもよござんすがね。でもそんなことしてもいいんですか。」
「どうしてです。」
「真実《ほんとう》か嘘《うそ》か、世間の噂《うわさ》だから当てにはならないけれど、お銀ちゃんとの噂が立っていますからね。」
「そんなこと嘘よ。全然嘘だわ。」銀子はあっさり否定した。
「そうお。そんなら私の方は願ったり叶《かな》ったりだけれど、旦那がよろしくやっているところへ、私がうっかり入って行ったら、変なものが出来あがってしまいますからね。」
「そんなことないわ。父さんにお神さんがないから、そんな噂も立つんでしょう。お師匠さんに来ていただければ、私も助かるわ。」
師匠も銀子の口車に乗り、やがて大弓場を処分して、藤本へ入って来たのだったが、入れてみると、ちぐはぐの親父と、銀子の所思《おもわく》どおりに行かず、師匠の立場も香《かんば》しいものではなかった。親父と銀子は、時々師匠の前でもやり合い、声がはずんで露骨になり、人の好い師匠が驚いて、傍へ来て聴耳《ききみみ》を立てたりすると、親父は煩《うるさ》そうに、
「そこに何してるんだ。お前に用はない。あっちへ行っててくれ。」
と慳貪《けんどん》に逐《お》っぱらわれ、彼女も度を失い、すごすご台所へ立って行くのであった。
ちょうどそれと前後して、抱えの栄子が弁士の谷村天浪と深くなり、離れがあいていたところから、そこを二人の愛の巣に借りていたのて、藤本も人の出入りがしげくなり、若い弟子たちやファンの少女たちが頻繁《ひんぱん》に庭を往来し、そこに花やかな一つの雰囲気《ふんいき》が醸《かも》されていた。
「あんなの幸福な恋愛とでもいうのかしら。」
銀子は思った。彼女は映画は飯より好きだったし、大学を中途で罷《や》めただけに、歴史の知識があり、説明に一調子かわったところのあるこの弁士にも好感はもてたが、その雰囲気に入るには、性格が孤独に過ぎ、冷やかな傍観者であった。
何よりもせっかく入れた師匠に意地がなく、銀子の顔色をさえ見るというふうなので、世間への障壁にはなっても、銀子自身の守りにはならなかった。
十八
銀子はある暑い日の晩方、今そこの翫具屋《おもちゃや》で買ったばかりのセルロイドの風車を赤ん坊に見せながら、活動館の前に立って、絵看板を見ていると、栗栖の家の婆《ばあ》やがやって来て、銀子を探していたものと見え、今お宅へ行ったらお留守で、赤ちゃんを抱いているから、どこか近所にいるだろうというから見に来たが、
「あれ貴女《あなた》のお母さんですか。」
と訊《き》くのだった。
「そうよ。」
「この赤ちゃんは。」
「私の赤ん坊よ。」
銀子は笑談《じょうだん》を言ったが、正直な婆やはちょっと真《ま》に受け、「まさか」と顔を見比べて笑っていた。
映画の絵看板は「裁《さば》かるるジャンヌ」であった。ドムレミイの村で母の傍で糸を紡《つむ》いでいたジャンヌ・ダークが、一旦天の啓示を受けると、信仰ぶかい彼女は自らを神から択《えら》ばれた救国の使徒と信じきり、男装して馬をオルレアンの敵陣に駆り入れるところや、教会の立場から彼女の意志を翻させようとするピエール・コオションの厳《きび》しい訊問《じんもん》を受けながら、素直にしかし敢然と屈しなかったこの神がかりの少女が、ついに火刑の煙に捲《ま》かれながら、「私の言葉は神の声である」と主張し通して焚《や》かれて行く場面や、ジャンヌについて何も知らないながらに、画面から受ける彼女の刺戟《しげき》は強かった。そこへ婆やが来たのであった。
「何だかあんたに話があるそうですよ。瀬尾|博士《はかせ》も来ていられますから、急いで……。」
婆やはそう言って帰って行った。
銀子は何の話かと思い、赤ん坊を家《うち》において行ってみると、栗栖は博士とビールを呑《の》みながら洋食を食べていたが、銀子の分も用意してあった。
「まあ、こっちへ来たまえ。飯でも食いながらゆっくり話そう。」
五十年輩の瀬尾博士は、禿《は》げかかった広い額をてかてかさせていたが、どうしたのか、銀子から目をそらすようにしていた。栗栖は、しばらくするとちょっと腕時計を見て、
「それじゃ僕はちょいと行って来ます。今日は謡《うたい》の稽古日《けいこび》なのでね。お銀ちゃんもごゆっくり。」
と銀子にも言葉をかけて出て行った。
「何ですの、お話というの。」
銀子はフォークも取らずに訊《き》いてみたが、博士に切り出されてみると、それはやはりあの問題で、博士はこの結婚に自分も賛成であったことを述べてから、
「はなはだしいのは君に赤ん坊があるなんて、途方もないデマも飛んでいるくらいだが、そんなことはどうでもいいとして、一つ真実《ほんとう》のことを私にだけ言ってもらえないかね。よしんばそういう事実があるとしても、それは君の境遇から来た過失で、君の意志ではあるまいから深く咎《とが》めるには当たらないのだが、しかし事実は一応明らかにして、取るべき処置を講じなければならないんだ。」
銀子は自身の愚かさ弱さから、このごろだんだんディレムマの深い係蹄《わな》に締めつけられて来たことに気がつき、やはり私は馬鹿な女なのかしらと、自分を頼りなく思っていた。自分の意志でなかったにしても、親たちを引き寄せたりしたことは、何といっても抜き差しならぬ羽目に陥《お》ち込んだものであった。しかし彼女は単純に否定した。
「そんなことありません。全然|嘘《うそ》です。」
「そうかね。しかし君の親たちも家中あの近くへ引っ越して来て、君はその隣に一軒もっているそうじゃないか。」
「お父さん馬で怪我《けが》して、商売できなくなったもんですから、呼び寄せたんですわ。離れは栄子さんたちが入っていて家が狭いんです。それで裏続きの家があいていたから、私が時々|寝《やす》みに行くだけですの。」
銀子は何とかかとか言って否定しつづけたが、博士は栗栖がこのごろ仕事が手につかず、手術を怠けるので、県立病院にも穴があき、自分の立場も困るからと、だんだん事情を訴えるのだったが、一旦否定したとなると、銀子も今更恥を浚《さら》け出す気にはなれず、博士をてこずらせた。
「君があくまで否定するとなると、遺憾《いかん》ながらこの話は取消だね。君はそれでもいいのかね。それとももう一度考え直して、実はこれこれの事情だからこういうふうにしたいとか、私たち第三者の力で、何とか解決をつけてもらいたいとか、素直に縋《すが》る気持にはなれないものかね。」
博士は噛《か》んでくくめるように言うのだったが、銀子は下手に何か言えば弁解みたようだし、うっかり告白してしまった時の後の気持と立場も考えられ、終《しま》いに口を噤《つぐ》み硬《かた》くなってしまった。博士も、堪忍袋の緒を切らせ、ビールの酔いもさめて蒼《あお》くなっていた。
十九
「裁かるるジャンヌ」を見て来た一夜、ちょうどそれが自分と同じ年頃の村の娘の、世の常ならぬ崇高な姿であるだけに、銀子は異常な衝動を感じ、感激に胸が一杯になっていた。強い信仰もなく、烈しい愛国心もない自分には、とても及びもつかないことながら、生来の自分にも何かそれと一味共通の清らかさ雄々しさがあったようにも思われ、ジャンヌを見た途端に、それが喚《よ》び覚《さ》まされるような気持で、咀《のろ》わしい現実の自身と環境にすっかり厭気《いやき》が差してしまうのだった。
その晩から、銀子は蘇生《そせい》したような心持で、裏の家《うち》の二階に閉じこもり、磯貝の来そうな時刻になると、格子戸《こうしど》に固く鍵《かぎ》を差し、勝手口の戸締りもして、電気を消し蚊帳《かや》のなかへ入って寝てしまった。しかし呼び鈴が今にも鳴るような気がして神経が苛立《いらだ》ち、容易に寝つかれないので、今度は下へおりて押しても鳴らないように、呼び鈴に裂《きれ》をかけておいたりした。
うとうととしたと思うと、路次に跫音《あしおと》が聞こえ、呼び鈴の釦《ボタン》を押すらしかったが、戸を叩《たた》く音もしたと思うと、おいおいとそっと呼ぶ声もしていた。隣に親たちがいるので、彼もそれ以上戸を叩かず、すごすご帰って行くのだったが、いつもそれでは済まず、木槿《もくげ》の咲いている生垣《いけがき》を乗りこえ、庭へおりて縁の板戸を叩くこともあった。
「お前がそれほどいやなものなら、お母さんも無理に我慢しろとは言わない、きっぱり話をつけたらいいじゃないか。」
ある晩も座敷から酔って帰った銀子が寝てから、磯貝が割れるほど戸を叩き、母が聞きかね飛び出して来て、銀子に戸を開けさせ上にあげたが、白々明けるころまでごたごたしていたので、彼女は磯貝の帰るのを待って、銀子に言うのだった。銀子は目を泣き腫《は》らしていた。
「だから私きっぱり断わったのよ。こんな処《ところ》にいるもんかと思ったから。そしたら、あの男も今まで拵《こしら》えてやったものは、みんな返せと言っていたわ。」
「ああ、みんな返すがいいとも。そんなものに未練残して、不具《かたわ》にでもされたんじゃ、取返しがつかない。」
気の早い銀子の父親が、話がきまるとすぐ東京へ飛び出して行き、向島の請地《うけじ》にまだ壁も乾かない新建ちの棟割《むねわり》を見つけて契約し、その日のうちに荷造りをしてトラックで運び出してしまい、千葉を引き払った銀子たちがそこへ落ち着いたのは、夜の八時ごろであった。あの町には、あれほど愛し合った栗栖もいるので、立ち去る時、何となし哀愁も残るのだったが、銀子は後を振り返って見ようともしなかった。
足を洗った銀子に、一年半ばかり忘れていた靴の仕事が当てがわれ、彼女は紅や白粉《おしろい》を剥《は》がし、撥《ばち》をもった手に再び革剥《かわそ》ぎ庖丁《ぼうちょう》が取りあげられた。父はそっちこっちのお店《たな》を触れまわり、註文《ちゅうもん》を取る交渉をして歩いた。
「馬鹿は死ななきゃ癒《なお》らない。」
銀子はその言葉に思い当たり、なまじい美しい着物なんか着て、男の機嫌《きげん》を取っているよりも、これがやはり自分の性に合った仕事なのかと、生まれかわった気持で仕事に取りかかり、自堕落に過ごした日の償いをしようと、一心に働いた。彼女の造るのは靴の甲の方で、女の手に及ばない底づけは父の分担であり、この奇妙な父子《おやこ》の職人は、励まし合って仕事にいそしむのだった。
その時になっても、父親の持病は綺麗《きれい》さっぱりとは行かず、二日仕事場にすわると、三日も休むというふうで、小山で働いていた妹たちも健康を害《そこ》ねて家で休んでおり、銀子の稼《かせ》ぎではやっぱり追いつかず、大川の水に、秋風が白く吹きわたるころになると、銀子も一家に乗しかかって来る生活の重圧が、ひしひし感じられ、自分の取った方嚮《ほうこう》に、前とかわらぬ困難が立ち塞《ふさ》がっていることを、一層はっきり知らされた。
「お父さんとお銀ちゃんの稼ぎじゃ、やっと米代だけだよ。お菜代がどうしたって出やしないんだからな。」
母は言い言いした。
父母の別れ話が、またしても持ちあがり、三人ずつ手分けして、上州と越後《えちご》へ引きあげることになったところで、銀子はある日また浅草の桂庵《けいあん》を訪れた。
郷 愁
一
「おじさん私また出るわ。少しお金がほしいんだけど、どこかある?」
いくら稼いでも追いつかない靴の仕事を棄《す》て年の暮に銀子はまたしても桂庵を訪れた。早急の場合仮に越して来た請地《うけじ》では店も張れず、どこか商いの利く処《ところ》に一軒、権利を買わせるのにも相当の金が必要だった。
「いくらくらいいるんだ。」
「千二三百円ほしんだけれど。」
「芳町《よしちょう》の姐《ねえ》さんとこどうだろう。この間もあの子どうしたかって聞いていたから、もっとも金嵩《かねかさ》が少し上がるから、どうかとは思うがね。」
「そうね。」
銀子は田舎《いなか》でしばしば聞いていた通り、一番稼ぎの劇《はげ》しいのが東京で、体がたまらないということをよく知っていた。それにそのころの千円も安い方ではなかった。こうした場合かかる大衆の父母たるものの心理では良人《おっと》へのまたは妻への愛情と子供への愛情とは、生存の必要上おのずからなる軽重があり、子供が喰《く》われるのに不思議はなく、苦難は年上の銀子が背負《しょ》う以上、東京がいいとか田舎がいやだとか、言ってはいられなかった。好い芸者になるための修業とか、磨《みが》きとかいうことも、考えられないことであった。
「仙台《せんだい》はどうかね。家《うち》の娘があすこで芸者屋を出しているから、私の一存でもきまるんだがね。」
桂庵の娘の家では、何か問題の起こる場合に歩が悪いと、銀子は思った。
「やっぱり知らない家がいいわ。」
「それだとちょっと遠くなるんだが、頼まれている処がある。少し辺鄙《へんぴ》だけれど、その代りのんびりしたもんだ。そこなら電報一つですぐ先方から出向いて来る。」
そこはI―町といって、仙台からまた大分先になっていた。
「どのくらいかかる?」
銀子も少し心配になり、躊躇《ちゅうちょ》したが、歩けないだけに、西の方よりも、人気が素朴《そぼく》なだけでも、やりいいような気がした。
「今日の夜立って、着くのは何でも明日のお昼だね。それにしたところで、台湾や朝鮮から見りゃ、何でもないさ、遊ぶつもりで一年ばかり往《い》ってみちゃどうかね。いやならいつでもそう言って寄越《よこ》しなさい。おじさんがまたいいところを見つけて、迎いに行ってあげるから。」
「じゃ行ってみます。」
銀子は決心した。
町は歳暮の売出しで賑《にぎ》わい、笹竹《ささたけ》が空風《からかぜ》にざわめいていたが、銀子はいつか栗栖に買ってもらった肩掛けにじみ[#「じみ」に傍点]な縞縮緬《しまちりめん》の道行風の半ゴオトという扮装《いでたち》で、覗《のぞ》き加減の鼻が少し尖《とが》り気味に、頬《ほお》も削《こ》けて夜業《よなべ》仕事に健康も優《すぐ》れず荊棘《いばら》の行く手を前に望んで、何となし気が重かった。
二日ほどすると、親たちの意嚮《いこう》をも確かめるために、桂庵が請地の家《うち》を訪れ、暮の餅《もち》にも事欠いていた親たちに、さっそく手附として百円だけ渡し、正月を控えていることなので、七草過ぎにでもなったら、主人が出向いて来るように、手紙を出すことに決めて帰って行った。
銀子が出向いてきた主人夫婦につれられて上野を立ったのは十日ごろであった。父はその金は一銭も無駄にはせず、きっと一軒店をもつからと銀子に約束し、権利金や品物の仕入れの金も見積もって、算盤《そろばん》を弾《はじ》いていたが、内輪に見ても一杯一杯であり、銀子自身には何もつかなかった。
「お前も寂しいだろ、当座の小遣《こづかい》少しやろうか。」
「いいわよ。私行きさえすればどうにかなるわ。」
しかし父親は上野まで見送り、二十円ばかり銀子にもたせた。
二等客車のなかに、銀子は主人夫婦と並んでかけていた。主人は小柄の精悍《せいかん》な体つきで太い金鎖など帯に絡《から》ませ、色の黒い顔に、陰険そうな目が光っており、銀子は桂庵の家で初めて見た時から、受けた印象はよくなかった。お神は横浜産で、十四五までの仕込み時代をそこに過ごし、I―町へ来て根を卸したのだった。東のものが西へ移り、南のものが北で暮らし、この種類の女は遠く新嘉坡《シンガポール》や濠洲《ごうしゅう》あたりまでも、風に飛ぶ草の実のように、生活を求めて気軽に進出するのだった。
二
この客車にI―町の弁護士が一人乗りあわせていた。彼は銀子たちより少しおくれて、乗り込んだものらしかったが、主人夫婦が外套《がいとう》をぬぎ、荷物を棚《たな》へ上げたりしているうちに気がつき、こっちからお辞儀した。
「やあ。」
と弁護士の方も軽く会釈したが、彼は五十五六の年輩の、硬《こわ》い口髯《くちひげ》も頭髪も三分通り銀灰色で、骨格のがっちりした厳《いか》つい紳士であった。
「先生も春早々東京へお出掛けかね。」
主人夫婦は座席を離れ、傍《そば》へ寄って行った。
「ちょっと訴訟用でね。貴方方《あなたがた》はまたどうして。」
「私かね。私らも商売の用事をかね、この五日ばかり東京見物して今帰るところでさ。」
お神は挨拶《あいさつ》を済ますと、やがて銀子の傍へ帰って来たが、主人の猪野《いの》はややしばし弁護士と話しこんでいた。後で銀子も知ったことだが、猪野は大きな詐欺《さぎ》事件で、長く未決へ投げ込まれていたが、このごろようやく保釈で解放され、係争中をしばらく家に謹慎しているのだった。それはちょうどそのころ世の中を騒がしていた鈴弁事件と似たか寄ったかの米に関する詐欺事件だったが、隠匿《いんとく》の方法がそれよりも巧妙に出来ており、相手の弁護士をてこずらせていた。今猪野のお辞儀した渡《わたり》弁護士も、担任弁護士の一人であり、彼によって東京の名流が、土地の法廷へも出張して、被告猪野の弁護にも起《た》ったのであった。
猪野は小さい時分から、米の大問屋へ奉公にやられ、機敏に立ち働き、主人の信用を得ていたが、主人が亡くなり妻の代になってから、店を一手に切りまわしていたところから、今までの信用を逆に利用し、盛んに空取引《からとりひき》の手を拡《ひろ》めて、幾年かの間に大きな穴をあけ、さしも大身代の主家を破産の悲運に陥《おとしい》れたものであった。
やがて猪野は渡弁護士を食堂に案内し、お神の竹子も席を立ち、「お前もおいで」といわれて、銀子ものこのこついて行った。
「これが今ちょっとお話しした、新規の抱えでして。」
猪野は銀子を渡に紹介した。上玉をつれて帰るというので、彼は今日上野を立つ前に家へ電報を打ったりしていたが、弁護士にも少し鼻を高くしているのだった。
猪野は洋食に酒を取り、三人でちびちびやりながら、訴訟の話をしていたが、銀子には何のことか解《わか》らず、退屈して来たので、食べるものを食べてしまうと、
「私あっち行っててもいいでしょう。」
とお神にそっとささやき、食堂を出て独りになった。何を考えるということもなかったが、独りでいたかった。
福島あたりへ来ると、寒さがみりみり総身に迫り、窓硝子《まどガラス》に白く水蒸気が凍っていた。野山は一面に白く、村も町も深い静寂の底に眠り、訛《なまり》をおびた駅夫の呼び声も、遠く来たことを感じさせ、銀子はそぞろに心細くなり、自身をいじらしく思った。下駄《げた》をぬいで、クションの上に坐り、肱掛《ひじか》けに突っ伏しているうちに、疲れが出てうとうとと眠った。
三人が座席へ帰って来たのは、もう二時ごろで、銀子もうつらうつら気がついたが、ちょっと身じろぎをしただけでまた眠った。
仙台へついたのは、朝の六時ごろで、銀子も雪景色が珍しいので、夜のしらしら明けから目がさめ、洗面場へ出て口を掃除したり、顔を洗ったりした。少しは頭脳《あたま》がはっきりし、悲しみも剥《と》れて行ったが、請地《うけじ》ではもう早起きの父が起きている時分だなぞと考えてみたりした。
見たこともない氷柱《つらら》の簾《すだれ》が檐《のき》に下がっており、銀の大蛇《おろち》のように朝の光線に輝いているのが、想像もしなかった偉観であった。
「大変だね。冬中こんなですの。」
「ああ、そうだよ。四月の声を聞かないと、解けやしないよ。私もここの寒の強いのには驚いたがね。慣れてしまえば平気さ。東京へ行ってみて雪のないのが、物足りないくらいのものさ。」
仙台で弁護士は下車し、猪野は座席へ帰って来たが、I―町まではまだ間があり、K―駅で乗り替えるのだった。
I―町では、みんなが大勢迎えに来ていた。
三
その後間もなく市政の布《し》かれたこの町は、太平洋に突き出た牡鹿《おじか》半島の咽喉《いんこう》を扼《やく》し、仙台湾に注ぐ北上河《きたかみがわ》の河口に臨んだ物資の集散地で、鉄道輸送の開ける前は、海と河との水運により、三十五|反《たん》帆が頻繁《ひんぱん》に出入りしたものだったが、今は河口も浅くなり、廻船問屋《かいせんどんや》の影も薄くなったとは言え、鰹《かつお》を主にした漁業は盛んで、住みよい裕《ゆた》かな町ではあった。
迎えに来ていたのが、銀子の女主人が働いていた本家のお神やその養女たちで、体の小造りな色白|下腫《しもぶく》れのそのお神も、赤坂で芸者になった人であり、姪《めい》を二人まで養女に迎えて商売に就《つ》かしており、来てみるとほかにも東京ものが幾人かあって、銀子もいくらか安心したのだった。芸妓屋《げいしゃや》が六七軒に、旅館以外の料亭《りょうてい》と四五軒の待合がお出先で、在方《ざいかた》の旦那衆《だんなしゅう》に土地の銀行家、病院の医員、商人、官庁筋の人たちが客であった。
「この土地では出たての芸者は新妓《しんこ》といってね、わりかた東京ッ児《こ》の持てる処《ところ》なんだよ。だけどあまり東京風を吹かさずに、三四カ月もおとなしく働いていれば、きっと誰か面倒見てくれる人が見つかるのよ。お前が自分で話をきめなくても、お出先と私とでいいようにするから、そのつもりで一生懸命おやんなさい。」
出る先へ立って、お神は銀子の寿々龍《すずりゅう》にそんなことを言って聞かせたが、そういうものが一人現われたのは、この土地にも春らしい気分が兆《きざ》しはじめ、人馬も通えるように堅く張り詰めた河の氷もようやく溶けはじめたころで、町は選挙騒ぎでざわめき立っていた。銀子の行く座敷も、とかく選挙関係の人が多く、それも土地に根を張っていた政友会系の人が七分を占め、あと三分が憲政会という色分けで、出て間もない銀子はある時これも政友系の代議士|八代《やしろ》と、土地の富豪倉持との座敷へ呼ばれたのが因縁で、倉持のものとなってしまったのだった。
倉持はまだ年が若く、学生時代はスポーツの選手であり、色の浅黒い筋骨の逞《たくま》しい大男であったが、東北では指折りの豪農の総領で、そのころはまだ未婚の青年であり、遊びの味は身に染《し》みてもいなかった。分家も方々に散らばっており、息のかかった人たちも多いので、その附近の地盤を堅めるのに、その勢力はぜひとも必要であり、投票を一手に集めるのにその信望は利用されなければならなかった。
八代代議士と倉持との会談も、無論投票に関することで、倉持は原敬の依頼状まで受け取り、感激していた。
新聞社の前には刻々に情報の入って来る投票の予想が掲示され、呼ばれつけている芸者たちまで選挙熱に浮かされ、どこもその話で持ちきりというふうであった。
銀子にも男性的なこの青年の印象は悪くなかった。文化人気分の多い栗栖とは違って、言葉数も少なく、お世辞もなかったが、どこかのんびりした地方の素封《ものもち》の坊っちゃんらしい気分が、気に入っていた。
選挙騒ぎもやや鎮《しず》まった時分、倉持は二三人取巻きをつれて来たり、一人で飯を食いに来たりもしていたが、よって来ると三味線《しゃみせん》をひかせておばこ節など唄《うた》って騒ぐくらいで、手もかからず、気むずかしいところも見えなかった。
銀子は来る時から、別にここで、根を卸す考えはなく、来た以上は真面目《まじめ》に働いて借金を切り、早く引き揚げましょうと思っていたので、千葉時代から見ると、気も引き締まっており、お座敷も殊勝に敏捷《びんしょう》にしていたので倉持にもそこいらの芸者から受ける印象とは一風ちがった純朴《じゅんぼく》なものがあった。
「どうして、この土地へ来たのかね。」
「どうしてでもないのよ。私は上州産だから、西の方は肌に合わないでしょう。東北の方ならいいと思ったまでだわ。来るまではI―なんて聞いたこともなかったわ。でも来てみると、暢気《のんき》でいいわ。」
するとある時倉持の座敷へ呼ばれ、料亭のお神が、主人を呼んで来いというので、寿々龍の銀子はお神を迎えに行き、お神が座敷へ現われたところで、三人のあいだに話が纏《まと》まり、倉持が銀子のペトロンと決まり、芸妓屋《げいしゃや》へ金を支払うと同時に、月々の小遣《こづかい》や時のものの費用を銀子が支給されることになり、彼女も息がつけた。
四
文化の低いこの町では、銀子の好きなイタリイやドイツの写真もなく、国活がまだ日活になったかならない時分のことで、ちゃんばらで売り出した目玉の松ちゃんも登場せず、女形の衣笠《きぬがさ》や四郎五郎なぞという俳優の現代物が、雨漏《あまも》りのした壁画のような画面を展開していたにすぎなかった。しかし歌劇とか現代劇とか、浪花節《なにわぶし》芝居とかいった旅芸人は、入れ替わり立ち替わり間断なくやって来て、小屋の空《あ》く時はほとんどなかった。東京から来るのもあり、仙台あたりから来るのもあり、尖端的《せんたんてき》な歌劇の一座ともなれば、前触れに太鼓や喇叭《らっぱ》を吹き立て、冬|籠《ごも》りの町を車で練り歩くのであった。
銀子も所在がないので、たまには客につれられ、汚い桝《ます》のなかで行火《あんか》に蒲団《ふとん》をかけ、煎餅《せんべい》や菓子を食べながら、冬の半夜を過ごすこともあったが、舞台の道化にげらげら笑い興ずる観衆の中にあって、銀子はふと他国ものの寂しさに襲われたりした。
分寿々廼家《わけすずのや》というその芸者屋では、銀子より一足先に来た横浜ものの小寿々《こすず》という妓《こ》のほかに、仕込みが一人、ほかに内箱の婆《ばあ》やが一人いて、台所から抱えの取締り一切を委《ゆだ》ねられていたが、もと台湾の巡査に片附いて、長く台北で暮らし、良人《おっと》が死んでから二人の子供をつれて、郷里へ帰り、子供を育てるために寿々廼家で働いているのだったが、飯も炊《た》けば芸者の見張りもし、箱をもってお座敷へも上がって行き、そのたびに銀子が気を利かし二円、三円、時には五円も祝儀《しゅうぎ》をくれるのだったが、その当座はぺこぺこしていても鼻薬が利かなくなると、お世辞気のない新妓《しんこ》の銀子に辛《つら》く当たり、仮借《かしゃく》しなかった。銀子も体に隙《ひま》がないので、拭《ふ》き掃除に追い立てられてばかりもいず、夜床についてから読書に耽《ふけ》ったりして、寝坊をすることもあり、時には煩《うる》さがって、わざと髪結いさんの家で、雑誌を読みながら時間を潰《つぶ》したりした。すると内箱の婆やは容赦せず、銀子の顔を見ると、いきなり呶鳴《どな》るのだった。
「新妓《しんこ》さん、お前に便所を取っておいたよ。早く掃除してしまいな。」
この辺は便所は大抵外にあり、板をわたって行くようになっていたが、氷でつるつるする庭石をわたり、井戸から汲《く》んで来た水を、ひびの切れた手を痺《しび》らせながら雑巾《ぞうきん》を搾《しぼ》り、婆やの気に入るように掃除するのは、千葉で楽をしていた銀子にとってかなり辛い日課であった。しかしそれも馴《な》れて来ると自分で雑巾がけをしない日はかえって気持がわるく、便所の役をわざわざ買って出たりした。
お神が銀子に義太夫《ぎだゆう》の稽古《けいこ》をさせたのは、ちょうど倉持の話が決まり、この新妓に格がついたころのことだったが、お神も上方から流れて来た、五十年輩の三味線弾《しゃみせんひ》きを一週に何度か日を決めて家へ迎え「揚屋《あげや》」だの「壺坂《つぼさか》」だの「千代萩《せんだいはぎ》」に「日吉丸《ひよしまる》」など数段をあげており、銀子も「白木屋」から始めた。銀子の声量はたっぷりしていた。調子も四本出るのだったが、年を取ってからも、子供々々した愛らしい甘味が失《う》せず、節廻しの技巧に捻《ひね》ったところや、込み入ったところがなく、今一と息と思うところであっさり滑って行くので、どっちり腹で語る義太夫にも力瘤《ちからこぶ》は入らず、太《ふと》の声にはなりきらないので、師匠を苛々《いらいら》させ、ざっと一段あげるのにたっぷり四日かかったのだったが、その間に「日吉丸」とか「朝顔」とか「堀川」、「壺坂」など、お座敷の間に合うようにサワリを幾段か教わった。
しかしこの土地へ来て、一番銀子の身についたのは読書で、それを教えてくれたのは、出入りの八百屋《やおや》であった。八百屋はこの花街から四五町離れた、ちょうど主人の猪野の本家のある屋敷町のなかに、ささやかな店を持ち、野菜を車に積んで得意まわりをするのだったが、土地で一番豊富なのは豆のもやしと赤蕪《あかかぶ》であり、銀子は自分も好きな赤蕪を、この八百屋に頼んで、東京へ送ったりしたことから懇意になり、風呂《ふろ》の帰りなどに、棒立ちに凍った手拭《てぬぐい》をぶらさげながら、林檎《りんご》や蜜柑《みかん》を買いに店へ寄ったりした。彼はもとからの八百屋ではないらしく、土地の中学を出てから、東京で苦学し、病気になって故郷へ帰り、母と二人の小体《こてい》な暮しであったが、帳場の後ろの本箱に、文学書類をどっさり持っていた。独歩だとか漱石《そうせき》とかいうものもあったが、トルストイ、ドストエフスキー、モオパサンなどの翻訳が大部を占め、中央公論に婦人公論なども取っていた。
「こういう処《ところ》にいると、本でも読まんことには馬鹿になってしまうからね。僕は八百屋だけれど、読書のお蔭《かげ》で生効《いきがい》を感じている。貴女《あなた》も寂しい時は本を読みなさい。救われますよ。」
顔の蒼《あお》い青年八百屋は、そう言って、翻訳ものをそっと措《お》いて行った。
五
最初おいて行ったのは、涙香《るいこう》の訳にかかるユーゴーの「噫《ああ》無情」で、「こういうところから始めたらいいがすぺい。」
とそう言って、手垢《てあか》のついたその翻訳書を感慨ふかそうに頁《ページ》を繰っていた。
寿々龍の銀子は座敷も暇を喰《く》うようなことはなかったにしても、倉持に封鎖されてからは、出先でも遠慮がち――というよりも融通の利く当てがなくなったところから、野心ある客にはたびたびは出せず、自然色気ぬきの平場《ひらば》ということになり、いくらかのんびりしていられるので、読もうと思えば本も読めないことはなかった。大抵の主人は抱えの読書を嫌《きら》い、厳《きび》しく封ずるのが普通で、東京でも今におき映画すら断然禁じている家《うち》も、少なくなかった。芸者の昼の時間もそう閑《ひま》ではなく、主人の居間から自分たちの寝る処の拭き掃除に、洗濯《せんたく》もしなければならず、お稽古も時には長唄《ながうた》に常磐津《ときわず》、小唄といったふうに、二軒くらいは行き、立て込んでいる髪結いで待たされたり、風呂に行ったりすると、化粧がお座敷の間に合わないこともあり、小説に耽《ふけ》れば自然日課が疎《おろそ》かになるという理由もだが、元来が主人が無智で、そのまた旦那《だんな》も浪花節《なにわぶし》のほかには、洋楽洋画はもちろん歌舞伎《かぶき》や日本の音曲にすら全然|鉄聾《かなつんぼ》の低級なのが多く、抱えが生半可《なまはんか》に本なぞ読むのは、この道場の禁物であり、ひところ流行《はや》った救世軍の、あの私刑にも似た暴挙が、業者に恐慌を来たしていた時代には、うっかり新聞も抱えの目先へ抛《ほう》り出しておけないのであった。法律で保護されていていないような状態におかれていた時代は永く続き、悪桂庵《あくけいあん》にかかり、芸者に喰われても、泣き寝入りが落ちとなりがちな弱い稼業《かぎょう》でもあった。人々は一見仲よく暮らしているように見えながら、親子は親子で、夫婦は夫婦で相喰《あいは》み、不潔物に発生する黴菌《ばいきん》や寄生虫のように、女の血を吸ってあるく人種もあって、はかない人情で緩和され、繊弱《かよわ》い情緒《じょうしょ》で粉飾《ふんしょく》された平和の裡《うち》にも、生存の闘争はいつ止《や》むべしとも見えないのであった。
銀子も貧乏ゆえに、あっちで喰われこっちで喰われ、身を削《そ》いで親や妹たちのために糧《かて》を稼《かせ》ぐ女の一人なので、青年八百屋が彼女のために、何となしにジャン・バルジャンを読ませようとしたのも、意識したとしないにかかわらず、どこか理窟《りくつ》に合わないこともなさそうであった。
銀子は主人や婆《ばあ》やの目を偸《ぬす》みながら、急速度で読んで行った。
「一片のパンから、こんなことになるものかな。」
彼女はテイマの意味もよく解《わか》らないながらに、筋だけでも興味は尽きず、ある時は寝床のなかに縮こまりながら、障子が白々するのも気づかずに読み耽《ふけ》り、四五日で読んでしまった。
「これすっかり読んでしまったわ。とても面白かったわ。」
「解った?」
「解った。」
「じゃ明日また何かもって来てやろう。」
今度は「巌窟王《がんくつおう》」であったが、婦人公論もおいて行った。
ある晩方銀子は婦人公論を、膝《ひざ》に載せたまま、餉台《ちゃぶだい》に突っ伏して、ぐっすり眠っていた。主人夫婦は電話で呼ばれ、訴訟上の要談で、弁護士の家《うち》へ行っており、婆《ばあ》やは在方《ざいがた》の親類に預けてある子供が病気なので、昼ごろから暇をもらって出て行き、小寿々はお座敷へ行っていた。そのころ猪野の詐欺横領事件は、大審院まで持ち込まれ、審理中であるらしく、猪野はいつも憂鬱《ゆううつ》そうに、奥の八畳に閉じ籠《こ》もり、酒ばかり呑《の》んでいた。どうもそれが却下されそうな形勢にあるということも、銀子は倉持から聞いていた。渡弁護士は倉持には父方の叔父《おじ》であり、後見人でもあった。倉持は幼い時に父に訣《わか》れ、倉持家にふさわしい出の母の手一つに育てられて来たものだったが、法律家の渡弁護士が自然、主人|歿後《ぼつご》の倉持家に重要な地位を占めることとなり、年の若い倉持にほ、ちょっと目の上の瘤《こぶ》という感じで、母が信用しすぎていはしないかと思えてならなかった。倉持家のために親切だとも思えるし、そうでもないように思えたりして、法律家であるだけに、頼もしくもあり不安でもあった。それも年を取るにつれて、金銭上のことは一切自分が見ることになり、手がけてみると、この倉持の動産不動産の大きな財産にも見通しがつき、曖昧《あいまい》な点はなさそうであったが、今までに何かされてはいなかったかという気もするのだった。
六
「おい、おい。」
玄関わきの廊下から、声をかけるものがあるので、寿々龍の銀子は目をさまし、振り返って見ると、それが倉持であった。
彼は駱駝《らくだ》の将校マントにステッソンの帽を冠《かぶ》り、いつもの通り袴《はかま》を穿《は》いていた。
「あらどうしたの、遅がけだわね。」
「むむ、ちょっと銀行に用事があって、少し手間取ったものだから、途中自転車屋へ寄ったり何かして……。」
河《かわ》の上流にある倉持の家は、写真で見ても下手なお寺より大きい構えで、棟《むね》の瓦《かわら》に定紋の九曜星が浮き出しており、長々しい系図が語っているように、平家の落武者だというのはとにかくとしても、古い豪族の末裔《まつえい》であることは疑えない。
「倉持さんの家へ行ってごらん、とても大したもんだから。」
寿々廼家のお神も言っていたが、銀子にはちょっと見当もつきかねた。
彼は町へ出て来るのに、船で河を下るか、車で陸《おか》を来るかして、駅まで出て汽車に乗るのだったが、船も汽車に間に合わなくなると、通し車で飛ばすのだった。初め一二箇月のうちは、母が心配するというので、少しくらいおそくなっても大抵かえることにして、場所も駅に近い家に決めていたが、いずれも年が若いだけに人前を憚《はばか》り、今にも立ちあがりそうに腕時計を見い見い、思い切って帰りもしないで、結局腰を据《す》えそうになり、銀子もおどおどしながら、無言の表情で引き留め、また飲み直すのだったが、そういう時倉持はきまって仙台にいる、学校友達をだし[#「だし」に傍点]に使い、母の前を繕うのであった。二タ月三月たつと次第にそれが頻繁《ひんぱん》になり、寿々龍の銀子も寂しくなると、文章を上手に書く本家の抱えに頼んで、手紙を書いてもらったりするので、自然足が繁《しげ》くなるのだったが、倉持の家には、朝から晩まで家の雑用を達《た》してくれている忠実な男がいて、郵便物に注意し、女からのだと見ると、母に気取られぬように、そっと若主人に手渡しすることになっていた。
倉持も町から帰って行くと、別れたばかりの銀子にすぐ手紙をかき、母が自分を信用しきっているので、告白する機会がなくて困るとか、逢《あ》っている時は口へも出せなかったその時の感想とか、一日の家庭の出来事、自身の処理した事件の報告など純情を披瀝《ひれき》して来るので、銀子も顔が熱くなり、ひた向きな異性の熱情を真向《まとも》に感ずるのだった。
「僕いつもの処《ところ》へ行っているから君もすぐ来たまえ。そのままでいいよ。」
倉持はそう言って出て行ったが、銀子はちょっと顔を直し、子供に留守を頼んで家を出たが、そこは河に近い日和山《ひよりやま》の裾《すそ》にある料亭《りょうてい》で、四五町もある海沿いの道を車で通うのであった。そのころになると、この北の海にも春らしい紫色の濛靄《もや》が沖に立ちこめ、日和山の桜の梢《こずえ》にも蕾《つぼみ》らしいものが芽を吹き、頂上に登ると草餅《くさもち》を売る茶店もあって、銀子も朋輩《ほうばい》と連れ立ち残雪の下から草の萌《も》え出るその山へ登ることもあった。夜は沖に明滅する白魚舟の漁火《いさりび》も見えるのであった。
銀子が少しおくれて二階へ上がって行くと、女中がちょうど通し物と酒を運んで来たところで、どこかの部屋では箱も入っていた。いくらか日が永くなったらしく、海はまだ暮れきっていなかった。
倉持は何か緊張した表情をしていた。四五日前に来た時、彼は結婚の話を持ち出し、二晩も銀子と部屋に閉じ籠《こ》もっていたが、それは酒のうえのことであり、銀子もふわっと話に乗りながら、夢のような気持がしているのだったが、彼は今夜もその話を持ち出し、機会を作って一度母に逢わせるから、そのつもりでいてくれと言うので、昔亡父が母に贈ったというマリエージ・リングを袂《たもと》から出し、銀子の指にはめた。指環《ゆびわ》の台は純金であったが、環状《わなり》に並べた九つの小粒の真珠の真ん中に、一つの大きな真珠があり、倉持家の定紋に造られたもので、贈り主の父の母に対する愛情のいかに深かったかを示すものであり、それを偸《ぬす》み出して女に贈る坊っちゃんらしい彼の熱情に、銀子も少し驚きの目を見張っていた。
「そんなことしていいんですの。」
「僕は君を商売人だとは思っていないからそれを贈るんだ。受けてくれるだろう。」
「え、有難いと思うわ。」
七
桜の咲く五月ともなると、梅も桃も一時に咲き、嫩葉《わかば》の萌《も》え出る木々の梢《こずえ》や、草の蘇《よみが》える黒土から、咽《むせ》ぶような瘟気《いきれ》を発散し、寒さに怯《おび》えがちの銀子も、何となし脊丈《せたけ》が伸びるような歓《よろこ》びを感ずるのであった。暗澹《あんたん》たる水のうえを、幻のごとく飛んで行く鴎《かもめ》も寂しいものだったが、寝ざめに耳にする川蒸汽や汽車の汽笛の音も、旅の空では何となく物悲しく、倉持を駅まで送って行って、上りの汽車を見るのも好い気持ではなかった。東京育ちの、貧乏に痛めつけられて来たので、田舎《いなか》娘のように自然に対する敏感な感傷癖も、格別なかったけれど、他国もの同士のなかに縛られている辛《つら》さが、隙洩《すきも》る風のように時々心に当たって来て、いっそどこかへすっ飛んでしまおうかと思うこともあったが、来たからにはここで一と芝居うとうという肚《はら》もあり、乗りかかった運命を保って行くつもりで、自分では腕に綯《よ》りをかけている気であった。倉持がくれた指環をとにかく預かることにして、紙にくるんでそっと鏡台の抽斗《ひきだし》に仕舞っておいたが、そのころからまた一層親しみが加わり、彼は帰ることを忘れたように、四日も五日も引っかかっていることがあり、寿々廼家のお神も少し薬が利きすぎたような感じで、いくらか銀子を牽制《けんせい》気味の態度を取るのであった。お神も猪野の事件で特別骨を折ってもらっている、渡弁護士への義理もあり、一年も稼《かせ》がさないうちに、たとい前借を払うにしても、銀子を倉持に浚《さら》って行かれるのも口惜《くや》しいので、とかくほかの座敷を投げやりにして、倉持に夢中になっている銀子に、水を差そうとするのであった。腕に綯りをかけるといっても、銀子は倉持を搾《しぼ》る気はなく、お神が決めたもの以上に強請《ねだ》るのでもなく、未婚の男でこれと思うようなものも、めったにないので、千葉で挫折《しくじ》った結婚生活への憧憬《しょうけい》が、倉持の純情を対象として、一本気な彼女の心に現実化されようとしているのだった。
「当分のあいだ、どこか一軒君に家をもたせて、僕が時々通って来る。それだったら母もきっと承認してくれようし、周囲の人もだんだん君を認めて来るだろうと思う。そうしておいて――それではやはり家《うち》の方が留守になりがちで困るから、いっそ家へ入れたらということに、僕がうまく親類や子分に運動するんだよ。」
倉持は言うのであった。
一粒きりの家の相続人であり、母の唯一の頼りである倉持のことだから、それも事によると巧く行かないとも限らないとは思いながらも、銀子はその気になれなかった。
「妾《めかけ》だわね。」
「いや、そういう意味じゃないよ。結婚の一つの道程だよ。」
「あたし貴方《あなた》の家の財産や門閥は、どうでもいいのよ。妾が嫌《きら》いなのよ。私をそうやっておいて、どこかのお嬢さんと結婚するに決まっているわ。きっとそうよ。貴方がそのつもりでなくても、そうなります。いやだわそんなの。」
「僕を信用しないのかな。」
倉持は頭を掻《か》き、話はそれぎりになった。
世間見ずの銀子もお神がそれとなく暗示する通り、身分の不釣合《ふつりあい》ということを考えないわけではなかったが、彼女たちの育って来た環境が、産まれながらに、複雑な階級の差別感を植えつける余裕も機縁もなく、大して僻《ひが》んだり羨《うらや》んだりもしない代りに、卑下もしないのだった。俄成金《にわかなりきん》は時に方図もない札びらを切り、千金のダイヤも硝子玉《ガラスだま》ほどにも光を放たないのであった。
しかし銀子は千々《ちぢ》に思い惑い、ある時ぽつぽつした彼女一流の丸っこい字で、母へ手紙を書き、この結婚|談《ばなし》の成行きを占ってもらうことにした。もちろん銀子は小野の総領娘で、よそへ片附き籍を移すには、法律の手続を執らなければならず、父の同意も得なければならなかった。彼女はこの土地へ来てから、月々二三十円ずつ仕送りをしており、それを倉持に話すと、
「そうきちきち毎月送らん方がいいよ。お父さんまだ働けん年でもないんだろう。君を当てにしないように、たまにはすっぽかすのもいいじゃないか。ここへ来る時、前借金を全部資本にやったんだもの、君の義務は十分果たしているわけだ。」
そう言われて、銀子もその気になり、組んだ為替《かわせ》をそのまま留保し、次ぎの月もずる[#「ずる」に傍点]をきめていたのだったが、母の返辞が来てみると、金の催促もあった。占いは、大変好い話で、当人は十分その気になっているけれど、この縁談には邪魔が入り、破れるというのであった。
銀子は気持が暗くなり、高いところから突き落とされたような感じだったが、占いを全く信ずる気にもなれなかった。
八
八月の中旬《なかば》に倉持が神経痛が持病の母について、遠い青森の温泉へ行っている間に、銀子もちょっと小手術を受けるために、産婦人科へ入院した。
銀子は二月ほど前に、千葉で結婚をし損《そこ》なった栗栖が、この土地の病院の産婦人科の主任となって赴任したことを知っていたが、わざと寿々廼家のかかりつけの、個人経営の医院で手術を受けることにした。
彼女が栗栖に逢《あ》ったのは、山手にあるある料亭《りょうてい》の宴会にお約束を受けた時で、同じ料亭の別の座敷も受けていて、その方がお馴染《なじみ》の鰹《かつお》の罐詰屋《かんづめや》と銀行の貸出係との商談の席であり、骨も折れないので、二三人の芸者とお料理を運んだりお酌《しゃく》をしたりしていると、廊下を隔てた、見晴らしのいい広間の宴会席の方では、電気のつく時分に、ようやくぼつぼつ人が集まり、晴れやかな笑い声などが起こり、碁石の音もしていた。その話し声のなかに、廊下を通って行く時から、聴《き》いたような声だと思う声が一つあり、ふと栗栖の声を思い出し、よく似た声もあるものだと、聴耳《ききみみ》を立てていたのだったが、錯覚であろうかとも思っていた。まさか栗栖がこの土地へ来ようとは思えなかった。
十五六人の集まりで、配膳《はいぜん》が始まり、席が定まった時分に、寿々龍の銀子も女中に声かけられ、三十畳ばかりの広間へ入って行き、女中の運んで来た銚子《ちょうし》をもつと、つかつかと正面床の間の方へ行き、土地では看板の古い家の姐《ねえ》さんの坐っている床柱から二三人下の方へ来て、うろ覚えの四十年輩の男から酌をしはじめ、ふと正座の客を見ると、それが思いもかけぬ栗栖であり、しばらくの間に額が少し禿《は》げかかり、色も黒く丸々|肥《ふと》っていた。目と目が合った瞬間おやと思って銀子は視線をそらしたが、栗栖もそっと俛《うつ》むいて猪口《ちょく》を手にした。
銀子はこうした身の上の恋愛といったようなものを、ほんの刹那《せつな》々々のもので、別れてしまえばそれきり思い出しも出されもしないものと、簡単に片づけていたので、この土地へ来てからはあの葛藤《かっとう》も自然忘れているのだったが、その当座は自分の意地張りからわざと破《こわ》してしまったあの恋愛にいやな気持が残ってならなかった。次第にそれが郷愁のなかに熔《と》け込み、周囲との触れ合いで時々起こるしこり[#「しこり」に傍点]のような硬《かた》い気持が、何から来るのか自分にも解《わか》らなかった。
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おばアこなア、芸者子にもなりゃしゃんせ
人の座敷に巣を造らん鴎《かもめ》か 飛び止まらん鴎か コバイテコバイテ
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土地の芸者はよくこんなおばア子節を唄《うた》い囃《はや》すのだったが、銀子にはなかなかその郷土調が出ず、旅芸者におちた悲哀を深くするように思えて、好きではなかった。
銀子はしかし栗栖を避けるわけに行かず、お座附がすんで、酒がまわり席が乱れるころになって、栗栖が呼ぶので傍《そば》へ行くと、彼は盃《さかずき》を干し、
「しばらくだったね。」
と言って銀子に差すのを、銀子は銚子《ちょうし》を取りあげて酌をした。
「君がこんなところへ来ていようとは思わなかったよ。」
「私もくウさんがこんな処《ところ》へ来ようとは思わなかったわ。」
「いつ来たんだい。」
「この正月よ。」
窶《やつ》れていた千葉時代から見ると、銀子も肉がつき大人《おとな》になっていた。
お安くないなかと知って、みんながわいわい囃すので、銀子も銀行家の座敷へ逃げて来たが、広間で呼ぶ声がしきりに聞こえ、女中も呼ぶので再び出て行き、陽気に三味線《しゃみせん》などひいてわざと躁《はしゃ》いだ。
それから一度栗栖らしい口がかかって来たが、倉持の座敷へ出ていたので逢えず、病院へ入ってから、どこで聞きつけたか、見舞に来てくれたが、銀子も今はかえって世間が憚《はばか》られ、わざとよそよそしくしていた。
「ここへ入院するくらいなら、なぜ僕にそう言わなかったんだ。」
栗栖は云《い》っていた。
銀子の病室は、交《かわ》りばんこに罐詰の水菓子や、ケ―キの折などもって見舞がてら遊びに来る、家《うち》の抱えや本家の養女たちで賑《にぎ》わい、河《かわ》の洲《す》に工場をもっている罐詰屋の野良子息《のらむすこ》や、道楽半分に町に写場をもっている山手の地主の総領|子息《むすこ》も、三日にあげず訪ねて来た。顔の生白いこの写真屋は土地の言葉でいう兄《わん》さんで、来たてからの客であり、倉持とは比べものにもならないが、銀子のためには玉稼《ぎょくかせ》ぎに打ってつけの若い衆で、お神や仕込みの歓心を買うために、来るたびに土産物《みやげもの》を持ち込み、銀子の言いなり放題に、そこらの料亭を遊び歩いていた。
九
ある日の午後、銀子は看護婦の小谷さんと、彼女の恋愛問題について話し合っていた。小谷さんは今仙台の兵営にいる、同じ村の中学出の青年との間に、時々ラブレタアのやり取りがあり、別に、院長の甥《おい》でこの夏帰省した工科の学生と新たな恋愛が発生し、苦しんでいるのだった。彼女は仙台から来た手紙を一々銀子に見せるのだったが、工科の学生と逢った時の彼の言葉や行動をも一々報告した。
「学生さんの方が貴女《あなた》に魅力がありそうね。だけど兵隊さんの方が誠意がありそうね。」
その時軽く戸をノックしたと思うと、本家の養女の寿々千代の愛子が顔を出し、続いて見知らぬ男が一人戸口に現われた。
「こないだお話しした私の彼氏紹介するわ。」
彼女はそう言って、真珠船の船員である滝川という許婚《いいなずけ》を紹介した。
「こちら貴方《あなた》が大好きだといった銀子さんよ。」
「ああ、そうですか。初めまして、僕はこういう海賊みたいな乱暴ものです。」
彼は分け目もわからぬ蓬々《ぼうぼう》した髪を被《かぶ》り、顔も手も赤銅色《しゃくどういろ》に南洋の日に焦《や》け、開襟《かいきん》シャツにざぐりとした麻織の上衣《うわぎ》をつけ、海の労働者にふさわしい逞《たくま》しい大きな体格の持主だが、しかし大きからぬ眼眸《まなざし》に熔《と》けるような愛嬌《あいきょう》があり、素朴《そぼく》ではあるが、冒険家の特徴とでも言うのか、用心深そうな神経がぴりぴりしていそうに見えた。
銀子はちょっと勝手が違った感じだったが、最近しばらくパラオで遊んでいたこの男に、愛子の贈った写真の中に愛子姉妹と並んで銀子も真中ほどに立っており、不縹緻《ぶきりょう》な愛子によって一層引き立って見えるところから、その単純な彫刻的な白い顔が、はしなく異郷にいる滝川の情熱をかき立てたものらしかった。
「真珠を取るんですって?」
「そうです。鼈甲《べっこう》なんかも取りますがね。こんどは何にも持って来ませんでしたけれど……大概良いものは途中で英国人や米国人に売ってしまうんです。」
「どの辺まで出かけるんですの?」
「随分行きますね。委任統治のテニヤン、ヤップ、パラオ、サイパンはもちろん、時々は赤道直下のオーシャン付近からオーストラリヤ近くまでも延《の》しますが、もちろん冒険ですから、運が悪いとやられてしまいます。それに水を汲《く》みに、無人島へ上がることもありますが、下手まごつくと蛮人にやられますね。」
彼らは往《ゆ》きには小笠原《おがさわら》の父島から、硫黄ケ島《いおうがしま》を通り、帰りにはフィリッピンから台湾方面を廻って九州へ帰航するのであり、滝川はすでに幾度もその船に乗り込み、南洋諸島の風土、物資、島民の生活についてかなりの知識をもっており、南洋庁の所在地パラオには往き帰りに寄港し、政庁筋の歓迎を受けたり、富有な島民の家庭にも招待され、土人独特の料理を饗応《きょうおう》されたこともあった。
「そのまたアイス・クリームのうまさと来たら、持って来れるものなら、ここへもって来て、貴女方に食べさせたいくらいだね。僕今度東京へも寄って来たけれど、あんなアイス・クリームはどこにもないね。」
「そんなおいしいの、食べたいわね。」
「どうです、今度パラオへ行ってみませんか。横浜から二週間で行けますよ。」
「行ってみたいわね。」
滝川は愛子の養父であり、従って寿々廼家の旦那《だんな》である廻船問屋《かいせんどんや》の主人の甥《おい》であり、この町から出た多くの海員の一人で、中学を出たころすでに南洋に憧《あこ》がれを抱《いだ》き、海軍兵学校の入学試験をしくじってから、そんな船員団の仲間に加わったものだったが、長くこの冒険事業に従事するつもりはなく、二十六歳の現在から、十年余りも働いて、一財産造り、陸へ上がって生涯の方嚮《ほうこう》を決める肚《はら》であった。
話がはずんているところヘ、今日も罐詰屋《かんづめや》の野良息子《のらむすこ》が顔を出し、ちょっとふてぶてしくも見える青年が、壁ぎわの畳敷きに胡座《あぐら》を組んで葉巻をふかしているのを見て、戸口に躊躇《ちゅうちょ》した。彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廼家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋《かまめしや》へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいであった。
彼は日本橋の国府《こくぶ》へ納める荷物の中に、幾割かのロオズ物があり、それを回収して、場末の二流三流の商店へ卸すために、時々東京へ出るので、このころにもそのついでに、罐詰を土産《みやげ》に、錦糸堀の銀子の家を訪ね、荷はいくらでも送るから、罐詰の店を出してはどうかと、親父《おやじ》に勧めたりしたものだった。
十
二週間ほどして、ある朝銀子は病床のうえに起きあがり、タオルを肩にかけて、痒《かゆ》みの出て来た頭の髪をほどき、梳櫛《すきぐし》を入れて雲脂《ふけ》を取ってもらっているところヘ、写真師の浦上が入って来た。八月も終りに近く、驟雨《しゅうう》が時々襲って来て、朝晩はそよそよと、肌触りも冷やかに海風か吹き通り、銀子は何となし東京の空を思い出していた。
浦上は手足ののんびりした、華車造《きゃしゃづく》りの青年であったが、口元に締りがなく、笑うと上の歯齦《はぐき》が剥《む》き出しになり、汚《きたな》らしい感じで、何となく虫が好かず、親切すぎるのも煩《うるさ》かった。銀子は入院当時、自尊心を傷つけるのがいやさに、わざと肋膜《ろくまく》だといって脅《おど》かし、家《うち》の都合でここで安静にしているのだと話したのだったが、しばらく姿を現わさないところを見ると、それを真に受け、怖《おそ》れて近づかないのかしらなぞと思っていた。それが今ごろどうして来たのか、珍らしい人が来たものだと、わざと恍《とぼ》けていた。
「もう起きていいのかね。」
看《み》ると浦上は、左の頬《ほお》から頭へかけ、大袈裟《おおげさ》に繃帯《ほうたい》していたが、左の手首から甲へも同じく繃帯がしてあった。
「わんさんどうしたの?」
「酷《ひど》い目に逢《あ》いましたよ、高野山《こうやさん》で……。」
「高野山へ行ってたの。」
「そうですよ。高野山で崖《がけ》から落っこちて怪我《けが》したですよ。ほらね、足も膝皿《ひざさら》を挫《くじ》いて一週間も揉《も》んでもらって、やっと歩けるようになったですよ。」
「まあどうして……。」
「高野山に肺病なら必ず癒《なお》るという薬草があるのです。これは誰にも秘密だがね、僕の祖父時代までは家伝として製法して人に頒《わ》けてやっていたもんです。僕も十四五の時分に見たことがありますが、今は大概採りつくして、よほど奥の方へ行かないと見つからないということは聞いていたです。僕は寿々《すう》さんのためにそいつを捜しに出かけたんだがね、なるほど確かにそれに違いないと思う薬草はあるにはあるんだが、容易なことじゃ採れっこないですよ。何しろ深い谿間《たにあい》のじめじめした処《ところ》だから、ずるずる止め度もなく、辷《すべ》って、到頭深い洞穴《あな》のなかへ陥《お》ちてしまったもんですよ。」
「まあ。私また兄《わん》さんがしばらく見えないから、どうしたのかと思って……。」
「お山の坊さんに聞いてみたら、やはりそうだというから、二日がかりで採集したのはいいけれど、二日目に崖から足を踏みはずして、酷い目に逢ってしまいましたよ。しかし成功だったね。」
浦上はそう言って、三共で製剤してもらったという小さい罐《かん》を二個、紙包みから取り出し、銀子の病床におき、その用法をも説明した。
「そんなにまでしていただかなくてもよかったのに。お気の毒したわ。」
「なに、僕も一度は捜しに行こうと思っていたからね。寿々《すう》さんがそれで癒ってくれれば、僕の思いが通るというもんです。」
銀子は梳《す》いた髪をいぼじり捲《ま》きにしてもらい、少しはせいせいして、何か胸がむず痒《がゆ》いような感じで膝《ひざ》のうえで雑誌をめくったりしていたが、小谷さんは新聞にたまった雲脂《ふけ》と落ち毛を寄せて、外へ棄《す》てに行った。
「しかし僕が案じたより、何だか快《よ》さそうじゃないんだかね。」
「ええ、大分いいのよ。」
「そんならいいですが、これは僕を信じて、ぜひ呑《の》んでもらいますよ。わざわざ東京へ寄って、製剤して来たもんだからね。」
「あとで戴《いただ》くわ。それにそんな良い薬なら、東京の妹にも頒《わ》けてやりたいんです。このごろ何だかぶらぶらしているようだから。」
浦上はそれには返辞もしず、部屋をあちこち動いていた。
「しかし貴女《あんた》も、この商売はいい加減に足を洗ったらどうです。商売している間は、夜更《よふ》かしはする、酒は呑む、体を壊す一方だからね。」
「…………。」
「僕も写真をやるくらいなら、いっそ東京へ出て、少し資本をかけて場所のいいところで開業してみたいと思っておるんだが、そうすれば親父《おやじ》に相談して、貴女の借金も払うから、ぜひ結婚してもらいたいもんだね。貴女はどう思うかね。」
「そうね。そんなこと考えたこともないけれど……。」
「やっぱり倉持がいるから駄目かね。」
浦上は溜息《ためいき》を吐《つ》き、
「しかしあそこには渡さんという、喧《やかま》しい後見人がいるがね。」
と呟《つぶや》き、首を傾《かし》げていた。
「いいわよ、そんなこと。」
銀子は虫酸《むしず》が走るようで、そんな顔をしていた。
十一
十月の末、控訴院から大審院まで持って行った猪野の詐欺《さぎ》、横領に関する事件がいよいよ第二審通り決定した旨の電報が入り、渡弁護士の斡旋《あっせん》によって、弁護士の権威五人もの弁論を煩わしたこの係争も、猪野の犯した悪事の割には、事実刑も軽くて済むのにかかわらず、寿々廼家夫婦は今更のように力を落とした。猪野は今一年有余の体刑を被《き》ても、襤褸《ぼろ》を出さないだけの綿密な仕組の下に、生涯裕福に暮らせるだけの用意をしたのであり、体刑は覚悟の前であったはずだが、金を隠匿《いんとく》しない反証にもと、退《ひ》かして芸者屋を出させ、抱えも二人までおいてやった女を、たとい二年たらずの刑期の間でも、置いて行くのは心残りであった。
猪野はこの町の閑静な住宅地に三年ほど前に新築した本宅があり、仙台の遊廓《ゆうかく》で内所の裕《ゆた》かなある妓楼《ぎろう》の娘と正式に結婚してから、すでに久しい年月を経ていたが、猪野が寿々廼家の分けの芸者であった竹寿々の面倒を見ることになり、ほどなく詐欺事件で未決へ入っている間に、妻は有り金を浚《さら》って猪野の下番頭であった情夫と家出してしまい、今は老母と傭人《やといにん》と二人で、寂しく暮らしていた。猪野はこの事件のあいだ弁護士と重要な協議でもする場合に、お竹をも呼び寄せ、本宅を使うだけで、不断は二人で松島とか、金華山とかへ遊びに出かけるか、土地の料亭《りょうてい》で呑《の》むか、家で呑むかして、苦悶《くもん》を酒に紛らせているのだったが、お竹の芸者時代の馴染客《なじみきゃく》のことでは、銀子たちも途方に暮れるほどの喧嘩《けんか》がはじまり、宥《なだ》め役にしばしば本家のお神が駈《か》けつけたのだった。
不思議なことに、猪野が横領した二十万近くもの金を吐き出しもせず、体刑で済ましたやり方の巧妙さが、とにかく土地の人の賞讃を博し、鈴弁とは比較にならぬ智慧者《ちえしゃ》として、犯罪と差引き勘定をすることで、半面詐欺に罹《かか》ったものの迂濶《うかつ》さに対する皮肉の意味も含まれており、勝利者と敗北者への微妙な人間の心理作用でもあった。
どっちにしても寒さに向かってのことであり、猪野も神経衰弱で不眠症に陥っていたので、金と弁護士の力で、入獄は春まで延期され、彼は当分家にじっとしていたが、時も時、土地の郵便局長の公金費消の裁判事件が、新聞の社会面を賑《にぎ》わし、町も多事であった。
それらの事件をよそに、倉持はある時、どこか旅行でも思い立ったように、何かぎっちり詰まった鞄《かばん》を提《さ》げて、船で河《かわ》を下り、町に入って来た。
いつもの出先から、女中が走って来て家を覗《のぞ》き、
「寿々龍さんいるけ。」
鏡台の前で鬢《びん》をいじっていた彼女が、振り向くと、
「倉持さん来たから、早く来な。」
銀子が顔を直し、仕度《したく》をして行ってみると、薄色の間《あい》の背広を着た倉持は、大振りな赭《あか》い一閑張《いっかんばり》の卓に倚《よ》って、緊張した顔をしていたが、看《み》ると鞄が一つ床の間においてあった。縁側から畳のうえに薄い秋の西日が差し、裏町に飴屋《あめや》の太鼓の音がしていた。
「どうしたの、旅行?」
銀子がきくと、倉持はにっこりして、
「いや、そういうわけじゃないが、何だか家《うち》の形勢が変だから、僕の名義の株券を全部持ち出して来たんだ。」
「そう、どうして?」
「どうも母が感づいて、用心しだして来たらしいんだ。この間山を少しばかり売ろうと思ってちょっと分家に当たってみたところ、買わないというから、誰か買い手がないか聞いてみてくれないかと頼んでみたけれど、おいそれとすぐ買手がつくものでないから、止した方がいいだろうと言うんだ。分家の口吻《くちぶり》じゃ、渡の叔父《おじ》が先手をうって警戒網を張っているものらしいんだ。」
「それで株券を持ち出したというわけなのね。」
「叔父は肚《はら》が黒いから、おためごかしに母を手懐《てなず》けて、何をするか知れん。これを当分君に預けておくから、持って帰ってどこかへ仕舞っておいてくれ。」
「そんなもの置くとこないわ。第一家の人たちと叔父さんとなあなあかも知れないから、このごろ少し使いすぎるくらいのことを言っているかも知れないわ。」
「そんなはずはないと思うけどな。君んとこも半季々々に僕から取るものはちゃんと取っているからね。」
「何だか解《わか》んないけど、そんなもの持ち出しても仕様がないでしょう。」
十二
倉持が株券の詰まった鞄をひっさげて、そのまま帰ってから三四日も間をおいて、銀子はまた同じ家《うち》から早い口がかかり、行ってみると、女中が段梯子《だんばしご》の上がり口へ来て、そっと拇指《おやゆび》を出して見せ、倉持の母が逢《あ》って話をしてみたいと言って、待っていると言うのだった。倉持もせっかく株券を持ち出して来ても、それが売れない山と同じに先を越されて罐詰《かんづめ》になっており、下手をすれば親類合議で準禁治産という手もあり、妄動《もうどう》して叔父たちの係蹄《わな》にかからないとも限らないのであった。事情を知っている待合のお神にも、それとなく忠告され、彼もようやく考え直し、株券を元の金庫へ納めたのだったが、そのことがあってから、母もにわかにあわて出し、解決に乗り出したものだった。
ちょうどこの花柳界に、煙草屋《たばこや》があり、文房具なども商うかたわら、見番の真似事《まねごと》のような事務を執っている老人夫婦があり、それが倉持家の乾分《こぶん》であったところから、母はその夫婦に就《つ》いて、子息《むすこ》の相手の芸者の名や人柄を調べ、行きつけの家も分かったのであったが、銀子はどんな話かと思って逢ってみると、生家も倉持とほぼ同格程度の門地で、仙台の女学校出だと聞いていた通り、ひどく人触りの柔らかな、思いやりのふかいうちに門閥とか家とかいう観念の強さが見え、芸者|風情《ふぜい》には歯も立たないのだった。
彼女は持って来た袱紗包《ふくさづつみ》を釈《ほど》いて、桐《きり》の箱に入った、四五尺もあろうかと思う系譜の一巻を卓上に繰りひろげ、平家の残党として、数百年前にこの土地に居つき、爾来《じらい》宮城野《みやぎの》の豪族として、連綿数十代の血統の絶えなかったことから、夙《はや》く良人《おっと》に別れて、一粒種の幼児を守《も》り立て、門地を傷つけまいとして、内と外との軽侮や迫害と闘《たたか》って来た今日までの彼女自身の並々ならぬ苦労を、諄々《じゅんじゅん》と物語るのだった。
銀子もこの老婦人が、初めから芸者風情と見くびっているようには見えず、わが子の愛人としての情愛も一応は受け取れるので、少し話の長いのに痺《しび》れを切らしながら、じっと聴いていた。
「それでは随分御苦労なさったのですね。」
「大変長話で貴女《あなた》も御迷惑でしょうけれど、そういう訳で、私もあの子には世間から後ろ指を差されるようなことはさせたくありません。女親は甘いからあんな子息《むすこ》が出来たといわれても、御先祖へ相済まんことです。決して真吾《しんご》と貴女のしていることが、悪いというのではありません。真吾もいろいろ家の都合で高等の教育を受けておりませんが、人間はあの通りまんざら馬鹿でもないようです。貴女もお逢いしてみると、あまり商売人らしくもないようにお見受けしますし、評判も悪くないようで、そこらの商売屋か何かでしたら、芸者を家へ入れるということも、無いことではありませんから、そうしてやりたいとは思いますけれど、そこが今お話しした門閥の辛《つら》さで、側《はた》の目が多いし、世間の口も煩《うるさ》いというわけで、入ってからがなかなか辛抱できるものじゃございません。私の経験から申しても、貴女の不幸になればとて、決して幸福になる気遣《きづか》いはありません、若い同志で好き合ったから、家へ入れよう入りましょうと、気軽に約束しても、結果は必ずまずいに決まっておりますから、家へ入ることだけは思い止まっていただきましょう。その代り、私も生木《なまき》を割《さ》くようなことはしません。貴女さえ承知なら、借金を払って、どこか一軒小さい家でも借りて、たんとのこともできませんが、月々の仕送りをしてあげましょう。」
やっぱりそうだ! と銀子は思ったが、きっぱり断わるでもないと思って、黙って俛《うつむ》いていた。
「真吾も詳しいことは話しませんが、貴女も迹取《あとと》り娘のようなお話ですね。」
「そうですの。」
「それじゃなおさらのことです。どっちも相続人ということであれば、貴女が結婚しようと思っても、親御さんが不承知でしょう。」
銀子もそこまで、はっきり考えていたわけではなかったが、千葉で栗栖との結婚|談《ばなし》のあった時、妹の一人に養子を取りさえすれば、自分の籍はぬけるように聞いており、相続者の責任は早く脱《の》がれたいとは考えていたのだったが、そんな世間的のことは、この際考えたくはなく、古い階級観念を超越して、あれほど約束した倉持の情熱が、どうやらぐらついて来たように思えそれが悲しかった。
「お母さんのおっしゃることは、よく解《わか》りました。お世話になるかならぬか、それはよく考えてみます。」
銀子はきっぱり答えて、やっと母を送り出した。
十三
母を送り出し、銀子は帳場でちょっと挨拶《あいさつ》して帰ろうとすると、お神も女中も彼女の顔を見てへらへらと笑っているので、自分の莫迦《ばか》を笑っているのかしらと、思わず顔が赤くなった。
ふと看《み》ると帳場つづきの薄暗いお神の居間に、今まで寝転《ねころ》んでいたらしい倉持が起きあがって咳《せき》をした。
「何だそこにいたの。いつ来たんです。」
銀子はそう言って帳場へ坐ったが、さも退屈していたらしく、
「随分長たらしいお談義だったじゃないか。何を話してたんだい。」
「ううん別に……後で話すわ。」
銀子は気軽に言ったが、母の柔らかい言葉のうちにひしひし胸に突き当たるものが感じられ、その場ではうかうか聴《き》き流していたが、正味をつまみあげてみると、子息《むすこ》とお前とは身分が違うとはっきり宣告されたも同様だと思われてならなかった。しかしまた籍のことなども言っていたし、初めて逢《あ》った自分に愛情を感じたように取れば取れないこともなく、悪く取るのは僻《ひが》みだとも思えるのであった。
倉持は空腹を感じていたので、料理と酒を註文《ちゅうもん》し、今母のいた部屋で、気仙沼《けせんぬま》の烏賊《いか》の刺身で呑《の》みはじめ、銀子も怏々《くさくさ》するので呑んだ。倉持の話では、めったに町へ出たことのない母親が、倉持がちょっと役場へ行っている間に、出かけたというので、第六感が働き、来てみると果してそうであった。多分|煙草屋《たばこや》かどこかで聞いて来たものであろうことも、倉持は想像していた。
「何といっていた?」
「そうね。詰まるところ門閥も高いし、血統も正しいから、私たちのような身分のないものは、家へ入れられないというようなことじゃないの。」
「そうはっきり言ったかい。」
「家へ入るのは駄目だけれど、どこか一軒外に家をもつなら、そうしてあげてもいいといったような話もあったわ。」
「君は何と言ったの?」
「そう言われて、私もそれでもいいから、お願いしますとも言えないでしょう。だから考えさしていただきますと、返辞しておいたわ。」
「しかし大丈夫だと思うよ。母も株券持ち出し一件でほ、大分驚いたようだからね、今すぐ家へ入れるということはできなくとも、外において世話すると言うんだから結局僕がちょいちょい家をあけることになって、母も困るんだ。つまり時機の問題だよ。――君のことは何とか言わなかった。印象はどうだった。」
「そんなことわからないわ。」
「母の印象は?」
「そうね、一度ぐらいじゃ解らないけれど、何だか悪くなかったわ。入って来ても、周囲が煩いから、かえって不幸になるというようなことも言ったわ。そう言われると、何だかそんな気もするけれど、御大家というものは、一体そんなむずかしいものなの。」
「そんなこと気にすれば、どこの家だって同じだよ。僕の家なんか母と僕と二人きりで、小姑《こじゅうと》一人いるわけじゃないんだから、僕さえしっかりしていれば、誰も何とも言やしないよ。君は花でも作って、好きな本でも読んでいればいいさ。少しは母の機嫌《きげん》も取って、だんだん家事向きの勉強もしてもらわなきゃなるまいと思うがね。それに君は田舎《いなか》が好きだと言っていたね。」
「え、好きよ、お父さんもお母さんも、田舎でお百姓をしたり、養蚕したりしていたんですもの。」
「僕の家じゃ、畑仕事はしてもらう必要はないけれど、養蚕や機織《はた》くらいは覚えておいてもいいね。」
飯を喰《た》べながら、そんな話をしているうちに、銀子は気分が釈《ほぐ》れ、それほど悲観したことでもないと、希望を取り返すのだった。
夜になって、銀子は風呂《ふろ》に入り、土地の習慣なりに、家へ着替えに行くと、主人夫婦もちょうど奥で晩酌《ばんしゃく》を始めたところで、顔を直している銀子に声をかけた。
「寿々ちゃん、あんた今日倉持さんのお母《っか》さんに逢《あ》っただろう。」
「逢ったわ。」
「お母さん帰りに、見番へ寄って行ったそうだよ。」
「そう。」
「貴女《あなた》のことをね、顔にぺたぺた白粉《おしろい》も塗らず、身装《なり》も堅気のようで、あんな物堅い芸者もあるのかと、飛んだところで、お讃《ほ》めにあずかったそうよ。」
冷やかし半分にお神は言うのだった。
十四
何かといっているうちに、その年も暮れてしまい、銀子は娘盛りの十九の春を迎えたわけだったが、一年の契約が切れただけでも、いくらか気が楽になり、二度目の冬だけに、陰鬱《いんうつ》な海や灰色の空にも駭《おどろ》かず、真気山《まきやま》のがんちょ参りにも多勢の人に交じって寒気の強い夜中の雪の山を転《ころ》がりながら攀《よ》じ登り、言葉もアクセント違いの土地の言葉をつかって、嗤《わら》われたりしたが、不断親しく往来をしている、看護婦の小谷さんとか、内箱の婆《ばあ》やなどの土地言葉には、日常的な細かい点ではどうしても意味の取れないところもありがちで、解《わか》ったふりで応答しているよりほかなかった。
看護婦の恋愛には別に進展もなく、現実の生活に追われがちなその日その日を送り、学生が帰ってしまえばしまったで、いつとはなし音信も途絶えてしまった。彼女は俸給《ほうきゅう》のほとんど全部を親に取りあげられ、半衿《はんえり》一つ白粉《おしろい》一|壜《びん》買うにも並々ならぬ苦心があり、いつも身綺麗《みぎれい》にしている芸者の身の上が羨《うらや》ましくなり、縹緻《きりょう》もまんざらでないところから、時々そんな気持になることもあった。
「傍《はた》で見るほど私たちも楽じゃないのよ。私だって親や妹たちのために、こんな遠い処《ところ》まで来て、借金で体を縛られ、いやなお客の機嫌《きげん》も取って、月々家へ仕送りもしているのよ。」
銀子は倉持に言われ、退院後のこの夏二月ばかり仕送りを滞らせたところ、父親がさっそくやって来て、結局旅費や土産《みやげ》なぞに余分な金を使ったのが落ちであった。父は大洋の新鮮な鰹《かつお》や気仙沼の餅々《もちもち》した烏賊《いか》に舌鼓をうち、たらふく御馳走《ごちそう》になって帰って行ったのだったが、ここで食べた鰹の味はいつまでも忘れることができないであろう。
医院が院長の隠居仕事なので、看護婦の体も閑《ひま》で、彼女の部屋はだだっぴろい家族の住居《すまい》から離れたところにあり、銀子が買って往《ゆ》くケーキなどを摘《つ》まんで本の話や身のうえ話をするのだったが、銀子の汚《よご》れものなぞも洗ってくれた。大河《おおかわ》まで持ち出して行って[#底本では「行つて」と誤植、423-下6]、バケツで水を汲《く》みあげるのが面倒くさく、じかに流れで濯《すす》いだりして、襦袢《じゅばん》や浴衣《ゆかた》を流したりしていた銀子も、それを重宝がりお礼に金を余分に包んだり、半衿や袖口《そでぐち》などを買ってやったりしていた。吝々《けちけち》するのは芸者の禁物であり、辛気《しんき》くさい洗濯や針仕事は忙しい妓《こ》には無理でもあり、小さい時から家庭を離れている銀子は、見ず知らずのこの土地へ来てからは、一度汚したものは大抵古新聞に包んで河へ流すことにしているのだった。
田舎《いなか》の芸者屋では、抱えの客筋であると否とにかかわらず、最寄りの若い男の出入りすることを、都会のようにはいやがりもしないので、分寿々廼家でも、写真屋や罐詰屋《かんづめや》、銀子たちが顔を剃《そ》りに行く床屋の若い衆や、小間物屋に三味線屋《しゃみせんや》がよく集まった。土地の人の気風は銀子にもよく判らなかったが、表面《うわべ》の愛らしい言葉つきの感じなどと違って、性質は鈍重であり、しんねりした押しの強さが、東京育ちの銀子にずうずうしくさえ思えるのだった。写真屋も銀子をわが物顔にふるまい、罐詰屋も懲りずにやって来た。
「あの青ん造は一体お前の何だい。」
夏父親がやって来た時、彼は東京へ出るたびに、罐詰を土産《みやげ》に親類か何ぞのように錦糸堀の家《うち》へ上がりこみ、朝からお昼過ぎまで居座る罐詰屋のことを、そんなふうに怒っていた。
「何でもないわよ。お客というほどのこともないのよ。たまに釜飯屋《かまめしや》を附き合うくらいなのよ。あの男は天下に釜飯くらいうまいものはないと言ってるくらいだもの。ただ東京へ行くから、何か家へ言伝《ことづて》がないかと煩《うるさ》くいうから、干物なんかことづけてやるだけなのよ。」
写真屋がわざわざ高野山まで採りに行ったという肺病の薬を、銀子はあの時妹に呑《の》ませるように、家へ送ったのだったが、父にきくと、あれを二罐|服《の》んですっかり快《よ》くなったから、あったらもう少し頼んでくれと言うのだったが、写真屋に話してみると、
「あああれかね、僕も来年の夏もう一度採りに行くかも知れんから、採って来たらやるよ。」
と言ったきりであった。
ある日も銀子が、みんなと食卓にすわって、三時ごろの昼御飯を食べていると、玄関続きの部屋の廊下に人影が差し、振り向いてみると、しばらく姿を現わさなかった倉持であった。
「まあ、おめずらしい。どうなすったかと、今も噂《うわさ》していたところですよ。」
お神はお愛想《あいそ》を言ったが、倉持は何となく浮かぬ顔で、もぞもぞしていたが、よく見ると彼は駱駝《らくだ》のマントの下に、黒紋附の羽織を着て、白い大きな帯紐《おびひも》を垂らしていた。
十五
河の氷がようやく崩れはじめ、大洋の果てに薄紫の濛靄《もや》が煙《けぶ》るころ、銀子はよその家の妓《こ》三四人と、廻船問屋《かいせんどんや》筋の旦那衆《だんなしゅう》につれられて、塩釜《しおがま》へ参詣《さんけい》したことがあった。塩釜は安産と戦捷《せんしょう》の神といわれ、お守りを受けに往《ゆ》くところだが、銀子たちには土地の民謡「はっとせい節」を郷土色そのままに、土地の芸者から受け容《い》れるという目当てもあった。松島は主人夫婦にもつれられ、客とも遠出をして、船のなかへ行火《あんか》を入れ、酒や麦酒《ビール》を持ちこんで、島々の間を漕《こ》ぎまわり、最近心中のあったという幾丈かの深い底まで見えるような、碧《あお》い水を覗《のぞ》いたのだったが、塩釜までのしたのは初めてであった。それも銀子が一座する芸者のなかに、塩釜育ちの妓があり、「はっとせい節」の話が出て故郷を思い出し、客に強請《せが》んだからであった。
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塩釜|街道《かいどう》に白菊うえて
何をきくきくありゃ便りきく
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唄《うた》はどこも稚拙な洒落《しゃれ》だが、言葉の訛《なまり》や節の郷土色は、名歌手も及ばないところがあった。
連中は午後に出発し、一晩遊んで翌日昼過ぎに帰って来たのだったが、土地のその日の小新聞に、倉持の結婚式の記事が、大々的に出ていることを、銀子は晩方になるまで少しもしらなかった。
彼女は塩釜の土産を奥へ出し、塩釜はどうだったとお神に聞かれるので、雨がふってつまらなかったけれど、思ったより立派な神殿で、大鳥居をくぐった処《ところ》に、五六軒の娼楼《しょうろう》が軒をならべ、遊覧地だけに、この土地よりも何か情緒《じょうしょ》があるように思われ、そんな話をしてから、風呂《ふろ》へ行ったのだったが、風呂にはちょうど本家の寿々千代の愛子も来ていて不断から仲良くしている彼女の口から、それが出たのであった。
「今朝の新聞見ないの?」
「だって今塩釜から帰ったばかりだもの。」
二人は並んで石鹸《シャボン》をつかっていた。
「大きく出ているわよ。」
「そうお。ちっとも知らない。」
銀子は言ったが、半信半疑であった。担《かつ》がれているように思えたりした。
「それじゃ悪かったわね。」
先月だったかに、倉持は宴会の帰りだと言って、紋服でふらりとやって来て、一緒に麦酒を呑み飯を食ったのだったが、いつものように結婚の話にもふれず、憂鬱《ゆううつ》そうな顔をしているので、銀子も変に思ったが、倉持は、
「近いうちまた来る。今日は少し用事があるから……。」
と、二時間ばかり附き合って帰って行ったのだったが、今にして思うとそれが見会《みあい》の帰りでもあったであろう、と銀子はやっと気がつき、その時の倉持の素振りを追想していた。
「してみるとやはり真実《ほんとう》なのかな。」
銀子はまたしても自分の迂濶《うかつ》に思い当たり、大きな障害物にぶつかったような気持で、どこを洗っているのか浮《うわ》の空《そら》であった。寿々千代はそれ以上は語らず、一足先へあがって行った。
銀子はやがて家《うち》へ帰り、どこかに今朝の新聞があるかと、それとなく捜してみたが、お神がわざと隠したものらしく、どこにも見えず、訊《き》くのも業腹《ごうはら》なので、そのまま塩釜の土産の菓子折をもって、小谷さんのところへ行ってみた。
夕方から倉持も宿坊にしている銀子の入りつけの家で、二た座敷ばかり廻っているうちに、女中からもそのことを言われて、町中みんながとっくに知っており、知らぬのは当の自分だけだと感づき、客たちの目にさえそれがありあり読めるように思えて来た。
とにかく記事を読んでみようと思い、お座敷の帰りに、角の煙草屋《たばこや》で朝日を買い、今朝の新聞があるかと訊いてみた。
「今日の新聞かね。」
四十男の主人は、にやにやしながら、茶の間から新聞をもって来て、銀子に読まし、新婦の生家が、倉持とは釣合《つりあい》の取れないほどの豪家であり、高利貸としてあまねく名前の通っていることを話して聞かせた。式は銀子が塩釜で遊んでいるころ、仙台の神宮で行なわれ、宮古川で披露《ひろう》の盛宴が張られたものだった。
十六
銀子の帰りが遅いので、分寿々廼家のお神と内箱のお婆《ばあ》さんとで、看板をもった車夫を一人つれて、河縁《かわべり》を捜しにやって来た時、銀子は桟橋《さんばし》にもやってある運送船の舳《みよし》にある、機関の傍《そば》にじっとしゃがんでいた。暗い晩で河風はまだ寒かった。河口に近く流れを二つに分けている洲《す》の方に、人家の灯《ひ》がちらちらしており、水のうえに仄《ほの》かな空明りが差して、幾軒かの汽船会社の倉庫が寒々と黒い影を岸に並べていた。
銀子は一年いるうちに、いつか嫌《きら》いであった酒の量も増していたが、その晩は少し自暴《やけ》気味に呷《あお》り、外へ出ると酔いが出て足がふらふらしていた。ちらちらする目で、彼女はざっと記事を読み、鉄槌《てっつい》でがんと脳天をやられたような気持で、煙草屋《たばこや》を出たのだったが、どうしても本家へ帰る顔がなく、二丁ばかりある道を夢中で歩いて、河縁へ出て来たのだった。
「馬鹿は死ななきゃ癒《なお》らない。」
棧橋に佇《たたず》んでいるうち、彼女は死の一歩手前まで彷徨《さまよ》い、じっと自分を抱き締めているのだったが、幼い時分|悪戯《いたずら》をして手荒な父に追われ、泣きながら隣の材木屋の倉庫に逃げこみ、じっとしているうちに、いつか甘い眠りに誘われ、日の暮れるのも知らずに熟睡していると同じに、次第に気が楽になり、ここへ来る時|桂庵《けいあん》の言った言葉も思い出せるようになった。
「いやになったらいつでも迎えに行ってあげる。芳町の姐《ねえ》さんも貴女《あんた》を待っている。」
お神は船から起《た》ちあがる銀子の姿を見つけ、
「今時分そんな処《ところ》に何しているのさ。早く上がっておいで。」
銀子は車夫の手に縋《すが》って棧橋へあがり、三人の間に挟《はさ》まって陸《おか》へ上がって来た。
「新潮楼へ電話をかけると、二時間も前に帰ったというし、一時にもなるのにどこをうろうろしているのかと思って、方々捜したんだよ。まさかこんな処へ来ていようとは思わないしさ。あんた死ぬつもりだったの。」
「いいえ。少し呑《の》みすぎて、苦しかったもんですから、河風に吹かれていたんです。」
銀子は気軽に答え、家へ帰ると急いで寝所へ入ってしまったが、新聞の記事が頭脳《あたま》に絡《まつ》わり、時機を待てと、あれほど言っていた倉持の言葉も思い出され、こごた辺を通過する時、汽車の窓から見える、新婦の生家である、あの蓊鬱《こんもり》した森のなかにある白壁の幾棟《いくむね》かの母屋《おもや》や土蔵も目に浮かんだりして、ああいった人たちはやはりああいった大家でなくては縁組もできないものなのかと、考えたりもした。
二三日すると銀子もようやく決心がつき、家へ手紙を書いたが、そうなるとせっかく馴染《なじ》んだこの土地も、見るもの聞くものが、不愉快になり、東京から人の来るのが待遠しくてならず、気を紛らせに、家へ遊びに来る写真屋を誘い出して、最後の玉稼《ぎょくかせ》ぎに料亭《りょうてい》へ上がったりした。写真屋は倉持が結婚してからは、好運が急角度で自分の方に嚮《む》きかえり、時節が到来したように思われ、大島の対《つい》の不断着のままの銀子を料亭の庭の松の蔭《かげ》に立たせて、おもむろにシャッ[#底本では「ッ」を、「ソ」を小さくしたものと誤植、427-下8]タアを切るのだったが、二階へあがって来ると、呑めもせぬ酒を注《つ》ぎ、厳《おごそ》かな表情で三々九度の型で、呑み干したり干させたりした。
「そんなことしたって、私|貴方《あんた》の奥さんにならないわよ。」
「いや、僕はおもむろに時機を待つですよ。」
銀子もこの辺がちょうど好い相手かとも思い、彼のいう通り、誠意に絆《ほだ》される時機が来るように思えたりもするのだったが、差向いでいると、どうにも好感がもてず、「こん畜生!」とつい思うのであった。
ちょっと引っ係りのあった、芳町の芸者屋の主人が、看板借りの年増《としま》を一人つれて、新潮楼で銀子を揚《あ》げ見したのは、銀子が桂庵へ手紙を出してから、四日目の昼過ぎであった。田舎《いなか》廻りをしていた銀子が、どんな芸者になったか、仕込み時代の彼女を知っているだけでは見当がつかず、自身わざわざ見に来たものであった。
お神が麦酒《ビール》など取り、松島遊覧かたがた来たのだと言って、前借がどのくらい残っているか、いくらお金が入用か、この土地の習慣はどんなふうかなどと訊《き》き、三味線《しゃみせん》もちょっと弾《ひ》かせてみた。
「東京では躯《からだ》がそう楽というわけに行きませんが、それさえ辛抱してもらえれば……。」
十七
自発的な銀子の場合に限らず、揚げ見はどこの土地にもあり、少し売れる子供だとなると、桂庵《けいあん》が身銭を切り、お茶屋へ呼んで甘い言葉で誘いかけ、玉の引っこぬきに苦肉の策を用いる手もあるのだったが、分寿々廼家では東京から揚げ見に来たとはもとより知らず、二日ばかりしてから、住替えの場合の習慣どおり、銀子の父と浅草の桂庵とが、出しぬけに乗り込み、銀子の手紙で迎えに来たのだと言われ、初めて住替えとわかり、お神は少し狼狽《うろたえ》気味であった。
「どういう事情か知りませんが、この土地もちっと居辛《いづら》くなったそうで、本人が急に東京へ帰りたいと言ってよこしましたから、お父さん同道で、昨夜の九時の夜行で立って来ましたよ。」
「あら、そうですか。」
そしてお神は近所へ遊びに行っている銀子を呼びにやり、銀子が上がって来たところで、「ちょっと」と奥へつれて行き、
「あんた住替えですて?」
「何だかいやになったのよ。」
「無理もないと思うけれど。こっちは寝耳に水でね。もしお父さんにお金の入用なことがあるなら、何とか相談してもいいんですよ。それともこれじゃ働きにくいから、こういうふうにして欲しいとか何とかいうのでしたら、聴《き》いてあげてもいいんですがね。せっかく馴染《なじ》んだのに、あんた少し気が早すぎやしない?」
「すみません。別に理由はないんです。でもお父さんも来たもんですから。」
「じゃやっぱりあのことね。何もそんなに気にすることもないと思うがね。」
桂庵は今度の上りに間に合うようにとしきりに時計を気にしていたが、お神も思い切り、簿記台を開けて、しばらく帳面を調べていた。
やがて金と引換えに、証書を受け取り、東京からもって来た鏡台や三つ抽斗《ひきだし》、下駄《げた》や傘《かさ》なども一つに纏《まと》めて、行李《こうり》と一緒に父がすばしこく荷造りをすますと、物の四十分もたたないうちに銀子たち三人は車で駅に駈《か》けつけ、送って来た本家と分寿々廼家のお神と愛子に名残《なごり》を惜しむ間もなく、汽車はI―町を離れ、銀子も何となし目が潤《うる》んで来た。
「今ここへ来ている。事情は新聞で知ったことと思う。時機を待つことにする。」
こご田近くへ来た時、例の森のなかの白壁が遙かに汽車の中から見え、銀子はふと二日ほど前に新婚旅行先の飯坂《いいざか》温泉から来た、倉持の絵葉書が想《おも》い出され、胸先の痛くなるのを感じたが、あの物哀《ものがな》しい狭い土地から足をぬいたことは、何といっても気持がよかった。
錦糸堀の家《うち》へついたのは、夜の十一時であったが、一年ぶりで帰って来る姉の着くのが待遠しく、妹たちは二階で寝てしまったのもあり、店先へ出て車がつくかと目を見張っているのもあり、銀子が父のあとから土間へ入って行くと、東京を立つ時にはまだ這《は》い出しもしなかった末の妹が、黒い顔に例のどんよりした目をして、飾り棚《だな》の後ろからよちよち歩き出し、不思議そうに銀子を眺めていた。
「お前何か急にあしこがいやになった訳でもあるのかい。」
お神が窓から投《ほう》りこんでくれたお菓子を妹たちに頒《わ》け、自分は卯《う》の花《はな》漬《づけ》の気仙沼の烏賊《いか》をさいて、父と茶漬を食ベている銀子に、母が訊くのであった。
「ううん、何ということなしいやになったの。」
「結婚してくれるという人はどうしたい。」
「あれはあれぎりさ。あの家の十倍もお金のある家から嫁さんが来たという話だけれど。」
「そうだろう。こちとらと身分が違うもの。本人が結婚しようと思っても、傍《はた》が煩《うるさ》かろうよ。それよりかあの温順《おとなし》やかな写真屋さんな――あの人も一度東京へ用があって来たとか言って、寄って行ったけれど、罐詰屋《かんづめや》さんと違って、なかなか人品もいいし、何かによく気もつくし、何だかお前をほしいような口吻《くちぶり》だったが、あの人はどうしたろう。」
そんなことは、銀子も当の写真屋から聞いたようでもあり、今が初耳のようでもあった。
「いるわよ。」
「あの人なら申し分なしだが、何か話があったろう。」
「何だかそんなこといっていたけれど、私《あたい》あんな男|大嫌《だいきら》いさ。」
「どうしてさ。ああいう大金持よりも、あんな人の方がよほどいいと思うがな。」
「お銀が嫌いなものを、お前《めえ》がいくら気に入ったって仕様があるもんか。」
父は煩《うる》さがり、言葉荒くやりこめた。
裏木戸
一
翌日の晩方、銀子は芳町《よしちょう》の春よしというその芸者屋へ行ってみた。
春よしは人形町通りを梅園《うめぞの》横丁へ入ったところで、ちょうど大門《おおもん》通りへぬける路地のなかにあった。幕府の末期までこの辺に伝馬町《てんまちょう》の大牢《おおろう》とともに芳原《よしわら》があったので、芳町といい大門通りというのも、それに因《ちな》んだものだと言われていたが、春芳は三百に近い土地の置家のなかでは微々たる存在であり、家も豚小屋のように手狭なものであった。下は大門通りに店をもっている母屋《おもや》の下駄屋《げたや》と共通の台所が、板壁一枚で仕切られ、四畳半の上がり口と台所の間にある廊下に狭い段梯子《だんばしご》がその四畳半のうしろで曲がっており、それを上がったところに、六畳と三畳があり、下は親子三人に小僧一人の下駄屋の住居《すまい》という、切り詰め方で、許可地以外に喰《は》み出ることを許されない盛り場としてはそこへ割り込むのも容易ではなかった。
春よしというこの小さい置家も、元は土地の顔役の経営に係るある大看板の分れで、最近まで分け看板の名で営業していたのだったが、方々|流浪《るろう》した果てに、やっとここに落ち着くことになったお神の芳村民子の山勘なやり口が、何か本家との間に事件を起こし、機嫌《きげん》を害《そこ》ねたところから、看板を取りあげられ、今の春よしを新規に名乗ることになったので、土地では新看板であり、お神専用の二階と下の廊下と別々に、二本の電話がひいてあり、家は小さくても、表を花やかに虚栄《みえ》を張っていた。
一軒の主《あるじ》となった今、銀子は時々このお神のことが想《おも》い出され、大阪へ落ちて行ったとばかりで、消息も知れない彼女のそのころの、放漫なやり口の機関《からくり》がやっと解《わか》るような気がするのだったが、分けや丸、半玉と十余人の抱えの稼《かせ》ぎからあがる一万もの月々の収入も身につかず、辣腕《らつわん》を揮《ふる》いつくした果てに、負債で首がまわらず、夜逃げ同様に土地を売ることになった彼女の生涯もひどく数寄なものだと思われるのだった。
民子は浦和の小地主の娘として生まれ、少女時代を東京で堅い屋敷奉公に過ごし、その屋敷が時代の英傑後藤新平の家であり、目端《めはし》の利くところから、主人に可愛《かわい》がられ、十八までそこの奥向きの小間使として働き、やがて馬喰町《ばくろちょう》のある仕舞《しも》うた家に片着いたのだった。馬喰町といっても彼女の片着いたのは士《さむらい》階級で、土地や家作で裕福に暮らしており、民子の良人《おっと》も学校出であったところから予備少尉として軍籍にあった。そこでは本妻に子がなく、その時分にはまだそんな習慣もあって、彼は子種を取るためのお腹様の腹から産まれたのであり、本妻の子として育てられたものだったが、結婚生活の二年目に日露の戦争が起こり、彼も出征して戦死してしまった。その時民子は妊娠九カ月であり、戦死と聞くと瞬間激しい衝動にうたれてにわかに逆上し、心神を喪失して脳病院に担《かつ》ぎこまれ、そこで流産したきり、三年たらずもの歳月を送り、やっと正常に還《かえ》った時には、内輪であった彼女の性格も一変していた。
彼女の矜《ほこ》りは後藤の屋敷に愛せられていたことであり、抱えたちにもよく主人の日常を語って聞かせるのだったが、無軌道な彼女の虚栄《みえ》の種子を植えつけたのもおそらく数年間の奉公に染《し》みこんだその家庭の雰囲気《ふんいき》であり、それが良人の戦歿後《せんぼつご》、しばらく中断状態にあった心神の恢復《かいふく》とともに芽出しはじめ、凄《すご》い相手をでも見つけるつもりで、彼女は新橋から芸者としての第一歩を踏み出したものであった。
政治によらず実業によらず、明治時代のいわゆる成功には新柳二橋の花柳界が必ず付き纏《まと》っており、政党花やかなりし過去はもちろん、今この時代になっても、上層の社交に欠くべからざるものは花柳界であり、新柳二橋の大宴会は絶えない現状であるが、下層階級の娘たちの虚栄《みえ》も、大抵あの辺を根拠として発展したものらしかった。上層階級の空気を吸って来た民子が、良人に死に訣《わか》れ、胎児をも流した果てに、死から蘇《よみがえ》って新橋へ身を投じたのも、あながち訳のわからぬ筋道でもないのであった。
しかし新橋や柳橋に左褄《ひだりづま》を取るものが、皆が皆まで玉の輿《こし》に乗るものとは限らず、今は世のなかの秩序も調《ととの》って来たので、二号として顕要の人に囲われるか、料亭《りょうてい》や待合の、主婦として、悪くすると逆様《さかさま》に金権者流から高利を搾《しぼ》られるくらいが落ちで、ずっと下積みになると、行き詰まれば借金の多いところから、保護法のない海外へ出るよりほかなく、肉を刻まれ骨を舐《しゃ》ぶられても訴えるところがなく、生きて還《かえ》るのは珍らしい方とされた。
今この民子も玉の輿に乗り損《そこ》ねた一人で、彼女の放浪生活もそれから始まったわけだった。
二
彼女は華車《きゃしゃ》づくりで上背《うわぜい》もあり、後ろ姿のすっきりした女だったが、目が細く鼻も小さい割に口の大きい、あまり均齊《きんせい》の取れない長面《ながおもて》で、感じの好い方ではなく、芸もいくらか下地はあったが、もちろん俄仕込《にわかじこ》みで、粒揃《つぶぞろ》いの新橋では座敷の栄《は》えるはずもなく、借金が殖《ふ》える一方なので、河岸《かし》をかえて北海道へと飛び、函館《はこだて》から小樽《おたる》、室蘭《むろらん》とせいぜい一年か二年かで御輿《みこし》をあげ、そちこち転々した果てに樺太《からふと》まで乗《の》し、大泊《おおどまり》から汽車で一二時間の豊原で、有名な花屋に落ち着いたのだったが、東京へ舞い戻って芳町へ現われた時分は、もう三十の大年増《おおどしま》であり、そこで稼いでいるうちに、米屋町《こめやまち》で少しは名前の通った花村という年輩の男を物にし、花村がちょうど妻と死に訣《わか》れて、孤独の寂しさを身にしみて感じていた折なので、家へ入れる約束で、金を引き出し、とにかく自前となって一軒もつことになったのだった。
I―町へ銀子を見に来た時、一緒に来たのは、彼女が自前の披露目《ひろめ》の前後に抱えた分けの芸者の春次で、春次の来たてには、やっと七輪とお鉢《はち》が台所にあるくらいの創始期であったが、三四年するうちに金主も花村の上手を越した、同じ米屋町の大物がつき、これは色気ぬきの高い利子で資本《もと》を卸し、抱えも殖《ふ》えれば、世帯《しょたい》道具も揃《そろ》い、屋台は小さくても、派手ッ気な彼女の外の受けは悪くなく、世界戦後の好況の潮に乗って、めきめき売り出したものだった。
初めて行った晩、銀子は二階へあげられ、二枚|襲《がさね》の友禅|縮緬《ちりめん》の座蒲団《ざぶとん》に坐っているお神の前で、土地の風習や披露目の手順など聞かされたものだが、夜になると、お神は六畳の奥の簿記台を枕《まくら》に、錦紗《きんしゃ》ずくめの厚衾《あつぶすま》に深々と痩《や》せた体を沈め、それに並んで寝床が二つ延べられ、四人の抱えが手足を縮めて寝《やす》むのだったが、次ぎの三畳にも六人分の三つの寝床が敷かれ、下の玄関わきの小間では、奈良《なら》産まれの眇目《めっかち》の婆《ばあ》やと、夏子という養女が背中合せに、一つ蒲団の中に寝るのだった。
ここは出先の区域も広く、披露目も福井楼|界隈《かいわい》の米沢町《よねざわちょう》から浜町、中洲《なかず》が七分で、残り三分が源冶店《げんやだな》界隈の浪花町《なにわちょう》、花屋敷に新屋敷などで、大観音《おおかんのん》の裏通りの元大阪町では、百尺《ひゃくせき》のほかにやっと二三軒あるくらいだった。銀子は晴子《はるこ》で披露目をしたのだったが、丸抱えと言っても七三の契約が多く、彼女もそれで証書が作成されたので、三味線《しゃみせん》と、座敷の労働服である長襦袢《ながじゅばん》、それに着替えと不断着は全部自分もちで、分《ぶ》は悪く、その三分の取り分も、大抵の主人が計算を曖昧《あいまい》に附しがちなので、結局取り分がないのと同じであり、手元が苦しいので、三円五円と時々の小遣《こづかい》を借りなければならず、それが積もって百円になると、三円ずつの利息づきで、あらためて借用証書に判をつかされたりするのであった。この土地では、影は最初は五十円から百円くらいまであり、それが主人の手へ全部入るのであり、十人の抱えがあるとすれば、通しは大抵その三分の一の割だが、影は通しの場合とのみは限らず、一人あて百座敷のうち三十の座敷が影だとすれば、一座敷五十円としても、一人あて千五百円の金が主人の懐《ふところ》に落ちるわけだった。玉《ぎょく》がそのほかであるのは言うまでもなかった。
披露目の時、銀子について歩いたのは古顔の春次で、この女もその時分はすでに二十六七の中年増《ちゅうどしま》であり、東京は到《いた》る処《ところ》の花柳界を渉《わた》りあるき、信州へまで行ってみて、この世界はどこも同じだと解《わか》り、ある特志な養蚕家に救われてようやく東京へ帰り、春よしの開業とともに、一人の母親と弟を見るために、そこから出ることになったものだったが、銀子はすでにI―町で顔が合っており、商売上のことについて、何かと言い聞かされもした。
お神は披露目に出るに先だち、銀子に茄子《なす》を刻んだ翡翠《ひすい》の時計の下げ物を貸してくれたのだったが、銀子はそっちこっち車を降りたり乗ったりして、出先を廻っているうちに、どこで落としたか亡くしてしまい、多分それが相当高価の代物《しろもの》であったらしく、お神はいつもそれを言い出しては銀子の粗匆《そそう》を咎《とが》めるのだった。しかし春次に言わせると、お神の勘定高いにはほとほと呆《あき》れることばかりで、銀子を見に行った時も、春次はお神に誘われ、松島見物でもするつもりで出かけたのだったが、帰って来ると、往復の汽車賃や弁当代までを割勘にし、毛抜きで抜くように取り立てられたのであった。
「それもいいけれどさ、一人じゃ汽車の長旅は退屈だから、ぜひ一緒に行ってくれと言っておきながら、一日分の遠出の玉まで取ったのには、私もつくづく感心してしまったよ。」
三
しかしこの芸者屋の経済も、収入の面ばかり見ていると、芳村民子も、一代にして数十万の資産を作るはずだが、事実はそう簡単には行かず、金主に搾《しぼ》られる高い金利は、商売の常として仕方がなく、何かと理窟《りくつ》に合わぬ散り銭の嵩《かさ》むのも、こうした水商売に付きものの見栄《みえ》やお義理の代償として、それをあらかじめ勘定に入れるとしても、芸者に寝込まれたり、前借を踏み倒されたりすることは、何といっても大きな損害であり、頭脳《あたま》の利くある一人が率先して足をぬき、女給に転身してカフエに潜《もぐ》るか、サラリ―マン向きの二号でアパ―トに納まりでもすると、態形の一角はすでに崩れて全体が動揺し、資本の薄いものはたちどころに息づまってしまうのだった。
春よしでは、神田《かんだ》で腕の好い左官屋の娘である春次より年嵩《としかさ》の、上野の坊さんの娘だという福太郎を頭として、十人余りの抱えがおり、房州|船形《ふなかた》の団扇《うちわ》製造元の娘だという、美形の小稲に、近頃|烏森《からすもり》から住み替えて来た、仇《あだ》っぽいところでよく売れる癲癇《てんかん》もちの稲次、お神が北海道時代に貰《もら》って芸者屋に預けておいた養女の梅福、相撲《すもう》の娘で小粒できりりとしたお酌《しゃく》の小福、中ごろ樺太から逃げだして来た、これもお神が豊原で貰って花屋に預けておいた養女の五十奴《いそやっこ》、新橋から移って来た、品が好いので座敷の光る梅千代など、お神が弁天さまの砂糖漬《さとうづけ》がお好きといわれるほどの面喰《めんく》いであったところから、金に糸目をつけず、綺麗首《きれいくび》を揃《そろ》えたのだったが、その中で契約の年期一杯に勤めたものといっては、売れ残りの年増ばかりで、少し目星《めぼ》しい妓《こ》は、あるいは引かされ、あるいは住替えはいいとして、癲癇もちはお神も後難を恐れて、うんと負けて信州へ住替えさせ、その代りに仕入れた樺太産まれの染福は、自称女子大出の、少し思想かぶれがしていたところから、ある夜|自暴酒《やけざけ》に酔って、銀子の晴子と客のことで大喧嘩《おおげんか》となり、浜町の出先の三階から落ちて打撲傷で気絶してしまい、病院へ担《かつ》ぎこまれて唸《うな》っていたと思うと、千七八百円の前借を踏み倒して、そこから姿を消してしまい、相撲の娘は売れないので居辛《いづら》くなり、いつとなし足をぬいて、前借は据置《すえおき》のままに大増《だいます》の女中に住みこむなど、激しい気象のお神にも、拒《ふせ》ぐに手のない破綻《はたん》は仕方がなかった。
銀子に兜町《かぶとちょう》の若い旦那《だんな》の客がついたのは、土の見えないこの辺にも、咽喉《のど》自慢の苗売りの呼び声が聞こえる時分で、かねがねお神の民子から話があったと見え、贔屓《ひいき》に呼んでくれる藤川《ふじかわ》という出先のお神の見立てで、つけてくれたのであった。やっと二十五になったばかりの、桑名の出であるこの株屋が、亡くなった父の商売を受け継いでから、まだ間もないころで、銀子は三度ばかり呼ばれ、そのころの彼女の好みとしては、ちょぼ髯《ひげ》を生やして眼鏡をかけ、洋服姿のスマートな、あの栗栖の幻影が基本的なものだったので、歯切れのわるい上方弁の、色の生白い商人型のこの男は、どっちかというとしっくりしない感じであり、趣味に合ったとは言えないのだったが、ぽちゃりとした顔や躯《からだ》の皮膚も美しく、子供々々した目鼻立ちも感じが悪くなく、何か若草のような柔らかい心の持主で、いつ険しい顔をして怒るということもなかった。
藤川の女将《おかみ》は、年のころ五十ばかりで、名古屋の料亭《りょうてい》の娘といわれ、お茶の嗜《たしな》みもあるだけに、挙動は嫻《しと》やかで、思いやりも深そうな人柄な女であった。彼女の指には大粒の黒ダイヤが凄《すご》く光っていて、若い妓《こ》が値段を聞きたがると、
「これかい。安いのさ。五千円で買ったんだよ。」
と彼女は事もなげに言うのだった。
この若い株屋を銀子につける時、
「お前《ま》はんも何かないと、お困りだろうからね、若《わー》さんなら、堅くてさっぱりしていて、世話の焼けない方だから、よかろうと思ってね。」
とお神は言うのだったが、若造の若林もお前はんお前はんで子供扱いであり、いつもあまり興味のなさそうな顔で、酒も酔うほどに呑《の》まず、話がはずむということもなく、店を仕舞ったころに、ふらりとやって来たかと思うと、株の話などをして、お神に言われておひけになったかならぬに、もう風呂《ふろ》へ飛びこみ、部屋へ帰って出花でも呑むと、すぐ帰るのであった。もちろん家には最近迎えたばかりの新妻《にいづま》はあり、夫婦生活の味もまだ身に染《し》む間もないころのことだったが、銀子にも嫉妬《しっと》に似た感情の芽出しはありながら、それを引きとめる手もなく、双方物足りぬ感じで別れるのだった。
「お前はんもあまり情がなさすぎるやないか。それじゃこの子も愛情が出にくかろうから、少しゆっくりしていたらどうだろうね。」
お神は気を揉《も》み、取持ち顔に言うのであった。
四
藤川の女将の斡旋《あっせん》で若林の話がきまった晩、彼は別れぎわに小遣を三十円ばかり銀子に渡し、あまり無駄使いしないようにと言って帰ったのだったが、その晩は銀子も家《うち》の侘《わび》しいお膳《ぜん》で、お茶漬《ちゃづけ》で夜食をすまし、翌朝割引電車で、錦糸堀《きんしぼり》の家へ帰ると、昨夜もらった手付かずの三十円をそっくり母親に渡した。
父も母も宵寝《よいね》の早起きだったのて、台所ではもう焚《た》きたての飯の匂いがしており、七輪にかかった鍋《なべ》の蓋《ふた》の隙間《すきま》から、懐かしい味噌汁《みそしる》の甘い煙も噴《ふ》き出していた。
どこでもそうだが、今の主人も、表の派手な人に引き換え、内に詰めるだけ詰める方で、夜座敷から帰って来ても、夜食に大抵|古沢庵《ふるたくあん》の二|片《きれ》か三片で、昼も、たまに小猫《こねこ》の食べるほどの鮭《さけ》の切身の半分もつけば奢《おご》った方で、朝の味噌汁の冷え残りか、生揚げの一ひらで済ますという切り詰め方であった。飯も赤ん坊の茶碗《ちゃわん》ほどなのに、手甲盛《てこも》りやおかわりの二杯以上は許されず、それから喰《は》み出せば、お神の横目が冷たく睨《にら》み、
「芸者は腹一杯食べるものじゃありませんよ。」
と、それがこの道の行儀作法ででもあるように、戒めるのだった。貧しいながらに、田舎《いなか》育ちの父母によって、腹一杯食べるように慣らされて来た銀子にとって、三度の口を詰められるほど辛《つら》いことはなく、芸者も労働である以上、座敷では意地汚く食べ物に手を出すのが禁物である限り、餒《ひも》じいのが当然であり、彼女は日に二度も梅園の暖簾《のれん》をくぐり、蜜豆《みつまめ》やぜんざい、いそべ焼などをたらふく食べ、わずかに飢えを充《み》たすのであった。
先輩芸者の春次を初め、少し蟇口《がまぐち》のふくれている芸者は、お膳のうえが寂しいと見ると、子供を近くの煮物屋へ走らせ、酒で爛《ただ》れた胃袋にふさわしい、塩昆布《しおこぶ》や赤生薑《あかしょうが》のようなものを買わせ、朋輩《ほうばい》芸者の前に出すのだが、きゃら蕗《ぶき》や葉蕃椒《はとんがらし》のようなものも、けんどん[#「けんどん」に傍点]の隅《すみ》に仕舞っておき、お茶漬のお菜《かず》にするのだった。
昨夜お客がくれたからと、銀子は帯の間から出して金を火鉢《ひばち》の傍《そば》におくのだったが、起きそろった妹たちと一緒に、懐かしい家の飯を食べると、急いで芳町へ還《かえ》って来るのだったが、その時に限らず、彼女は朝座敷からの帰りがけに、着物を着替えているところから、その足で割引電車に乗り、温かい朝飯を食べに、わざわざ錦糸堀まで来ることも珍らしくなかった。
金を家へおいて来てから二日ほどすると、藤川から電話がかかり、行ってみると、若林はお神や女中と、鴈治郎《がんじろう》一座の新富座《しんとみざ》の噂《うわさ》をしており、人気が立っているので、三人で観《み》に行くことになった。
「お前、明後日《あさって》の切符を三枚取っておいておくれ。」
若林は銀子の晴子に命じたが、銀子にはその金がなかったので、引き受けることもできず、もじもじしていた。
「金あるだろう。」
株屋とはいっても、彼はまだ年が若く、世間知らずであった。
「お金ないのよ。」
「この間やった金、もう無いのか。」
「買いものして、みんな使っちゃいましたわ。」
「何を買ったんだ。」
「……………。」
「お前は金使いが荒いね。」
若林は不機嫌《ふきげん》そうに言ったが、お神はあの翌朝晴子が親の家《うち》へ行ったことを、春よしのお神から聞いていたので、じきに察しがつき、若林の顔に暗示的な目を注いだ。若林も晴子が孝行芸者だという触れ込みで、最初呼んでみる気になったので、お神の意味がわかり、なるほどそうかと言った顔で頷《うなず》いていた。
「だからね。やっぱりそうなんですよ。」
若林も一般俗衆のように、親孝行には頭の上がらない好人物の一人で、世間の親というものについても皆目無知であり、善悪の観念もはっきりしなかった。それに比べると、銀子には親を見る目もようやく開けかけており、感傷のゆえに親に尽くすのとは違って、かかる醜悪な職業に従事する女の恥辱の、心のやり場をそこに求めているのであった。
「お前、毎月家へやるのかい。」
若林が訊《き》くので銀子も、
「ううん、そうでもないの。このごろ妹が病気しているもんですから。」
とお茶を濁した。
五
夏の移り替えになると、春よしのお神は、丸抱えの座敷着に帯、長襦袢《ながじゅばん》といった冬物を、篏《は》め込みになっている三|棹《さお》ばかりの箪笥《たんす》のけんどん[#「けんどん」に傍点]から取りだし、電話で質屋の番頭を呼び寄せ、「みんな下へおりておいで」といって子供たちを遠ざけ、番頭はぱちぱち算盤《そろばん》を弾《はじ》いて、何か取引を開始し、押問答の末、冬物全部が手押車に積まれ、二人の小僧によって搬《はこ》ばれ、夏物と入れ替わりになるのだった。お神は置き場がないので、倉敷料を払って質屋の倉へ預けるのだとか、番頭に頼んで手入れをしてもらうのだとか言っていたが、実は手元の苦しい時の融通であることもだんだん銀子に解《わか》って来た。その時代には、一般世間の経済観念もきわめてルーズであり、貧しいものには貧しいなりの生活の余裕と悦楽があり、行き詰まってもどこかに抜け道があって、宵越《よいご》しの金は腐ってでもいるように言われ、貧乏人の痩《や》せ我慢が市井の美徳としてまだ残っていた。使用人の芸者にも金の観念はなかったが、主人にも算盤を弾くことをいやがるのがあり、春よしのお神の、勘定をきちきちしないのも、あながち狡猾《ずる》いとばかりも言えなかった。
彼女は簿記台に坐って毎朝玉帳につけていても、芸者への勘定はついしたことがなく、計算の頭脳《あたま》をもたない一般の慾張りと同じく、取るものは取っても、払うものは払い汚くなりがちであった。彼女は帳面がこぐらがって来て、手におえなくなると、そのころ株式に勤めていた伊沢《いざわ》という男に来てもらい、会計検査をしてもらうことにしていたが、それも単に数字のうえのきまりだけで、実際生活上の経済はやっぱりこぐらがっているのだった。
ひどく派手っ気な彼女は、どうかすると全く辻褄《つじつま》の合わないことをやり、女一人でいると、時には何か自分の閉じ籠《こ》もっている牢獄《ろうごく》の窓を蹴破《けやぶ》って飛び出し、思う存分手足を伸ばし胸を張り呼吸をしてみたくもなるものと見え、独りで盛装して出て行き、月に二三度くらいは行くことにしていた料亭《りょうてい》に上がり、家に居残っている抱え全部に、よその芸者も一流どころの年増《としま》連をずらりと並べ、看板の宣伝かたがた札びらを切って歓を交し、多勢の女中にも余分の祝儀《しゅうぎ》をばら撤《ま》き、お母さんお母さんと煽《あお》りたてられて、気をよくしているのであったが、一面ではまた月末の勘定をしてやらないので、それによって母と弟と二人が生計を立てている春次の母親が、せっせと足を運び、坐りこんで催促したりするのが煩《うるさ》く、用ありげにふいと席をはずすような、矛盾と気紛《きまぐ》れを多分に持っているのだった。
お神は抱えの着物を作るたびに、自分のも作り、外出する時はお梅さんという玄冶店《げんやだな》の髪結いに番を入れさせ、水々した大丸髷《おおまるまげ》を結い、金具に真珠を鏤《ちりば》めた、ちょろけんの蟇口型《がまぐちがた》の丸いオペラバックを提《さ》げ、どこともいわず昼間出て行くのだったが、帰りは大抵夜の九時か十時で、時には十二時になっても帰らぬことがあり、外の行動は抱えには想像もつかなかったが、時には玉捜しの桂庵《けいあん》廻りであったり、時には富士見町に大きな邸宅を構えている、金主の大場への御機嫌《ごきげん》伺いかとも思われた。大場も株屋で、金融会社をも経営していたが、富士見町は本宅で、鉄の門扉《もんぴ》に鉄柵《てっさく》がめぐらしてあり、どんな身分かと思うような構えだったが、大場その人はでっぷり肥《ふと》った、切れの長めな目つきの感じの悪い、あまりお品のよくない五十年輩の男で、これも花村からの※[#「※」は「「夕」の下に「寅」」、第4水準2-5-29、437-下15]縁《いんねん》で、取引することになり、抱え妓《こ》の公正証書を担保に、金を融通するので、勘定日には欠かさず背広姿で、春よしの二階へ現われるのだった。
帳場に坐るはずであった花村は、その時分には用がなくなり、開業当初の関係を断ち切るために、訪ねて来ても、気分が悪いといって、二階へ上げないこともあり、留守を使って逐《お》っ攘《ぱら》うこともあった。
「今日もお留守か。いや別に用事はないがね。どうしたかと思ってね。」
花村はそう言って上へあがり、お婆《ばあ》さんや抱えを相手にお茶を呑《の》みながら世間話をして帰るのだったが、お八つをおごって行くこともあった。
「この節私もあまり景気はよくないがね、まだお神に小遣《こづかい》をせびるほど零落《おちぶ》れはしないよ。みんなに蜜豆《みつまめ》をおごるくらいの金はあるよ。」
彼は笑いながら蟇口《がまぐち》をさぐり、一円二円と摘《つ》まみ出して子供を梅園へ走らせるのだったが、たまにお神と顔が合っても、彼女の方が強気であり、「何か用?」といわれると、同じようなことを繰りかえしていたが、後にお神が自身結婚媒介所で、いくらか金のある未亡人を一人捜し出し、後妻に迎えさせたので、いつも物欲しそうにしていた花村も、にわかに朗らかになった。
六
秋から冬にかけてのことだったが、銀子は女房持ちの若林に、何かしら飽き足りないものを感じ、折にふれてそれを言い出しでもすると、若林は一言のもとに排《しりぞ》け、金で面倒を見てやっていれば、それで文句はないはずだというふうだった。
「芸者は芸者でいるか、二号で気楽に暮らしている方が一番いいんだよ。女房で亭主《ていしゅ》に浮気をされることを考えてごらん、株屋のように体が閑《ひま》で金にもそう困らない割に絶えず頭脳《あたま》をつかっているものは、どうせ遊ぶに決まっているよ。そういう人間の本妻の立場になって考えてごらん。」
若林は言うのであった。
「だから私たちは気晴らしの翫具《おもちゃ》だわ。」
「そう思うからいけないんだ。いつ僕がお前を翫具にしたと言うんだ。このくらい愛していれば沢山じゃないか。」
そのころ銀子は、箱崎町《はこざきちょう》の本宅へ還《かえ》る若林を送って、土州橋の交番の辺《あたり》まで歩き、大抵そこで別れることにしていたが、交番の巡査も若林を見ると、お互いににっこりして挨拶《あいさつ》するくらい、それは頻繁《ひんぱん》であった。
「お前《ま》はんそれじゃ情が薄いというもんやないか。あすこから一停留所も行けば、そこがわーさんのお宅や。送りましょうか送られましょうか、せめて貴方《あなた》のお門《かど》までというどどいつ[#「どどいつ」に傍点]の文句を、お前はんしりへんのか。」
とお神にいわれ、宅まで送ることにしたが、若林の女房が母の病気見舞でちょうど田舎《いなか》へ帰っていたので、誰もいないから、ちょっと寄ってみないかと、若林が言うので、銀子も彼の家庭生活の雰囲気《ふんいき》に触れたくはなかったが、ついて行ってみた。ここも通りに向いた方は、事務机や椅子《いす》がおいてあり、奥は六畳の茶の間と八畳の居間で、特に銀子の羨《うらや》ましく思えたのは、文化的に出来ている台所と浴室であったが、二階にも父母の肖像のかかっている八畳の客間に、箪笥《たんす》の並んでいる次ぎの間があり、物干もゆっくり取ってあった。あたかも銀子が不断|頭脳《あたま》に描いていたような家で、若林は客間の方で銀子に写真帖などを見せ、紅茶を御馳走《ごちそう》したが、自分の家《うち》でいながら、人の家へでも来たようなふうなので、銀子も戸惑いした猫《ねこ》のように、こそこそ帰ってしまった。それに湯殿の傍《そば》にある便所で用を足すと、手洗のところに自分の紋と芸名を染め出した手拭《てぬぐい》が、手拭掛けにかけてあり、いやな気持だった。
「いやね、私の手拭便所に使ったりして。」
銀子が面白くなさそうに言うと、
「うむ、女房も薄々感づいているんだよ。」
と若林も苦笑していた。
夏のころも二人は国技館のお化け大会を見に行った帰りに、両国橋のうえをぶつぶつ喧嘩《けんか》をしながら、後になり先になりして渡って来たが、米沢町の処《ところ》に箪笥屋があり、鏡台も並んでいるので、銀子は千葉以来の箪笥が貧弱なので、一つほしいと思っていたところなので、
「私鏡台が一つ欲しいわ。」
と言うと、若林も、
「どうぞお買いなさいまし。」
「入って見てもいい?」
「ああいいよ。どれでもいいのを。」
「わーさん見てよ。」
「君の好きなの買えばいいじゃないか。ただし買うならいいのにおし。」
若林が金をくれるので、銀子は店に入り、あっちこっち見てあるき、
「ねえ――」と振りかえると、彼の姿は見えず、表へ出て見ても影も形も見えなかった。
彼はそういうことには趣味をもたず、何を買うにも金を吝々《けちけち》しないで、米沢町のどこの店に欲しい小紋の羽織が出ているとか、誰某《たれそれ》のしていたような帯が買いたいとか、または半襟《はんえり》、帯留のような、買ってもらいたいものがあり、一緒に行って見てほしいと思っても、女の買物は面倒くさいから御免だとばかりで、店頭《みせさき》で余計なものを買わせられるよりもと思って、ほどよく金はくれはするが、一度も見立ててくれたことはなかった。
「それが上方気質《かみがたかたぎ》というものなのかしら。」
銀子は思うのであったが、時に一緒に歩いている時、コンパクトとか下駄《げた》とか、珍しく見立てて買ってくれるかと思うと、決まってそれとほぼ同値の、またはそれより少し優《ま》しの類似の品を一緒に買うのであった。もちろんそれは妻への贈り物であり、彼自身の心の償いであったが、そのたびに銀子はげっそりした。
「何だこいつ。やっぱり私は附けたりなんだ。」
彼女は寂しくなり、買ったものを地面に叩《たた》きつけたくも思うのだった。
そのころに、銀子は製菓会社の社長|永瀬《ながせ》に、別の出先で時々呼ばれ、若林よりずっと年輩の紳士だったので、何かしっくりしないものを感じ、どうかと思いながら、疎《おろそ》かにもしなかった。
七
この製菓会社も、明治時代から京浜間の工場地帯に洋風製菓の工場をもち、大量製産と広範囲の販路を開拓し、製菓界に重きを成していたもので、社長の永瀬は五十に近い人柄の紳士だったが、悪辣《あくらつ》な株屋のE―某《なにがし》とか、関東牛肉屋のK―某ほどではなくても、到《いた》る処《ところ》のこの世界に顔が利き、夫人が永らく肺患で、茅ヶ崎《ちがさき》の別荘にぶらぶらしているせいもあろうが、文字通り八方に妾宅《しょうたく》をおき、商売をもたせて自活の道をあけてやっていた。それも彼の放蕩癖《ほうとうへき》や打算のためとばかりは言えず、枕籍《ちんせき》の度が重なるにつれて、つい絆《ほだ》されやすい人情も出て来て、いつか持株の数が殖《ふ》えて行くのであった。景気の好い時、株屋の某はそれからそれへと棄《す》てがたい女が出来、そっちこっちに家をもたせておいたが、転落して裏長屋に逼塞《ひっそく》する身になっても、思い切って清算することができず、身の皮を剥《は》ぎ酷工面《ひどくめん》しても、月々のものは自身で軒別配って歩き、人を嬉《うれ》しがらせていたという、芝居じみた人情も、そのころにはあり得たのであった。
永瀬の場合は、そうばかりとも言えず、ずっと後に近代的な享楽の世界が関西の資本によって、大規模の展開を見せ、銀座がネオンとジャズで湧《わ》き返るような熱鬧《ねっとう》と躁狂《そうきょう》の巷《ちまた》と化した時分には、彼の手も次第にカフエにまで延び、目星《めぼ》しい女給で、その爪牙《そうが》にかかったものも少なくなかったが、学生時代には、彼も父をてこずらせた青年の一人で、パンや菓子の研究にアメリカヘやられ、青年期をそこに過ごしたので、道楽仕事にも興味があり、大正の末期には、多摩川に大規模の享楽機関を造り、一号格の向島の女にそれをやらせていた。
銀子もためになるお客だから、せいぜいお勤めなさいなぞと、福井楼が出していたある出先の女将《おかみ》に言い含められ、春よしのお神から聞いて、若林のあることも薄々承知の上で出され、すでに三四回も座敷を勤めていたが、そのたびに多分の小遣《こづか》いも貰《もら》い、そうそうは若林に強請《ねだ》りにくい場合の埋合せにしていた。永瀬の今まで手がけたのは、大抵養女か、分けのれっきとした芸者で、丸同然の七三などは銀子が初めなので、格別の面白味もない代りに座敷ぶりも神妙で、外国の話をして聞かせても、一応通じるような感じがあり、何か心を惹《ひ》かれた。彼は手触りが柔らかく、
「晴子さんは一体いくら前借があるのかね。」
とか、
「貴女《あんた》の希望は何だか言ってごらん。」
とか、探りを入れてみるのであった。
永瀬はこの土地で呼ぶばかりでなく、時には神楽坂《かぐらざか》へもつれて行き、毘沙門《びしゃもん》横丁の行きつけの家《うち》で、山手の異《かわ》った雰囲気《ふんいき》のなかに、彼女を置いてみたり、ある時は向島の一号である年増《としま》の家へも連れて行き、彼女を馴染《なじ》ませてみようともした。
銀子も気が迷い、はっきり断わりもしなかったが、註文《ちゅうもん》を出したこともなかった。それというのも、わざと向島へつれて行ったりして、暗に幾人かの女を世話していることを衒《ひけら》かし、自身の金力と親切を誇示するかのような態度に、好い気持のするわけもなく、それに目を瞑《つぶ》るとしても、今まで世話になった若林を裏切るだけの価値があるかどうかの計算もなかなかつかないのであった。
「七人あるというから、私は八号目じゃないか。」
銀子は思ったが、しかし五つか六つしか年の違わない若林の何かにつけて淡泊で頼りないのに比べると、女で苦労し、世間も広いだけに、愛着も思いやりも深く、話も永瀬の方が面白かった。いずれも結婚の相手でないとすれば、永瀬の世話になった方が、足を洗うのに都合が好いようであった。
「どう思う、姐《ねえ》さん。」
あまり人に相談したことのない銀子もついに春次にきいてみるのだった。
「まあ当分双方うまく操《あやつ》っておくのよ。何もお嬢さんが結婚するんじゃありゃしまいし、はっきり決める手はないじゃないか。」
春次は言うのだったが、銀子もそうかと思いながら、永瀬の熱があがり、座敷が頻繁《ひんぱん》になって来るにつれ、ぐっと引っ張って行かれそうな気がしてならなかった。
八
藤川の奥二階では、よく花の遊びが初まった。名古屋もののお神も、飯よりもそれが好きだったが、類をもって集まるものに、常磐津《ときわず》の師匠に、その女房の師匠より一つ年上の自前の年増、按摩《あんま》のお神などがあり、藤川のお神は、名古屋で子供まで出来た堅気の嫁入り先を失敗《しくじ》ったのも、多分その道楽が嵩《こう》じてのことかと思われるほどの耽《こ》り性《しょう》で、風邪《かぜ》の気味でふうふう言っている時でも、いざ開帳となると、熱のあるのも忘れて、起き出して来るのであった。
「私が死んだらな、お通夜《つや》にみんなで賭場《とば》を開帳してな、石塔は花札の模様入りにしてもらいまっさかい。」
お神はそんなことを言っていたものだったが、若林も始終仲間に入れられ、好い鴨《かも》にされていた。銀子はというと、彼女は若林の財布を預かり、三十円五十円と金の出し入れを委《まか》せられ、天丼《てんどん》や鰻丼《うなどん》が来れば、お茶を入れるくらいで、じっと傍《そば》で見物しているのだったが、時には後口がかかって来たりした。
銀子は今夜あたり製菓会社が来る時分だと思い、どうしたものかと思っていると、
「どうせここに用事はないんだから、せいぜい稼《かせ》いで来た方がいいよ。」
若林は言うのだが、お神はまた、
「そう商売気出さんかていいがな。」
と言うので、銀子も去就に迷い、生咬《なまが》みの叭《あくび》を手で抑えるのだった。
そうした近頃の銀子の素振りに気づいたのは、芸者の心理を読むのに敏感な髪結いのお梅さんであった。彼女は年も六十に近く、すでに四十年の余もこの社会の女の髪を手がけ、気質や性格まで呑《の》み込み、顔色で裡《うち》にあるものを嗅《か》ぎつけるのであった。年は取っても腕は狂わず、五人の梳手《すきて》を使って、立ち詰めに髷《まげ》の根締めに働いていた。客は遠くの花柳界からも来、歌舞伎《かぶき》役者や新派の女房などもここで顔が合い、堀留《ほりどめ》あたりの大問屋のお神などの常連もあるのだった。家は裕福な仕舞うた家のようで、意気な格子戸《こうしど》の門に黒板塀《くろいたべい》という構えであった。
「晴子さん、あんたこのごろ何考えてるんです?」
彼女は鏡に映る銀子の顔をちらと覗《のぞ》きながら、そっと訊《き》くのだった。
「どうしてです。」
銀子は反問した。
「何だか変ですよ。私この間から気になって、聞こう聞こうと思っていたんだけれど、貴女《あんた》の年頃にはとかく気が迷うもんですからね。ひょっとしたら、今の家《うち》に居辛《いづら》くて、住替えでもしたいんじゃないんですか。」
「別にそういうこともないんですけれど。」
「それなら結構ですがね。住替えもいいけれど、借金が殖《ふ》えるばかりだから、まあなるべくなら辛抱した方がよござんすよ。」
「そうだわね。」
「それとも何か岡惚《おかぼ》れでも出来たというわけですかね。」
「あらお師匠さん、飛んでもない。」
「それにしても何だか変ですよ、もしかして人にも言えない心配事でもあるんだったら、私いいこと教えてあげますよ。」
「どんなことですの。」
「日比谷《ひびや》に桜田|赤龍子《せきりゅうし》という、人相の名人があるんですがね、実によく中《あた》りますよ。何しろぴたりと前へ坐ったばかりで、その人の運勢がすっかりわかるんですからね。その代り見料は少し高《たこ》ござんすよ。」
「そう。」
「瞞《だま》されたと思って行ってごらんなさい。」
お梅さんはそう言って、道順を丁寧に教えるのだった。
銀子も心が動き、帰って春次に話してみた。
「人相なんて中るもの?」
「中るね。他のへっぽこ占ないは駄目よ。見てもらうのなら、桜田さんとこへ行ってごらんなさい。私が保証するから。」
そういう春次も信者の一人であり、その人相見の予言のとおりに、過去はもちろん現在の彼女の運命が在《あ》るのであった。
翌朝銀子は朝の十時ごろに家を出て、築地《つきじ》まわりの電車で行ってみた。ちょうど数寄屋橋《すきやばし》を渡って、最近出来たばかりの省線のガードの手前を左へ入った処《ところ》に、その骨相家の看板が出ていた。
「貴女は住替えした方がいいのう。」
半白の顎鬚《あごひげ》を胸まで垂らした老骨相家は言うのだった。
「住替えは赤坂に限る。赤坂へ住み替えれば運は必ず嚮《む》いて来るのう。ほかはいかん。」
まるで見当はずれなので、銀子は可笑《おか》しくもあり、赤坂の芸者屋と聯絡《れんらく》でも取っているのかとも思い、見料をおいて匆々《そうそう》にそこを出た。
九
永瀬はその後も三四度現われたが、銀子に若林のついていることが、薄々耳に入ったものらしく、次第に足が遠退《とおの》き、ふっつり音信が絶えてしまったが、藤川のお神が間に立って、月々の小遣《こづかい》や、移り替え時の面倒を見てくれている、ペトロンはペトロンとして、銀子も明ければもう二十歳で、花柳気分もようやく身に染《し》み、旦那《だんな》格の若林では何か充《み》たされないものを感じ、自由な遊び友達のほしい時もあった。そしてそういう相手が、ちょうど身近にあるのであった。
時々帳場の調べに来てくれて、抱えたちを相手にトランプを遊んだり、芝居や芸道の話をしてくれたり、真面目《まじめ》な株式の事務員としてどこか頼もしそうな風格の伊沢がそれで、その兄は被服廠《ひふくしょう》に近いところに、貴金属品の店をもっており、三十に近い彼はその二階で、気楽な独身生活をつづけ、たまには株も買ったりして、懐《ふところ》の温かい時は、春よしの子供を呼んで、歌沢や常磐津《ときわず》の咽喉《のど》を聞かせたりもした。坊主の娘だという一番|年嵩《としかさ》の、顔は恐《こわ》いが新内は名取で、歌沢と常磐津も自慢の福太郎が、そういう時きっと呼ばれて、三味線《しゃみせん》を弾《ひ》くのだった。
この男が来ていると、銀子は口がかかっても座敷へ行くのがひどく億劫《おっくう》であったり、座敷にいても今夜あたり来ていそうな気がして、落ち着かなかったりするのだったが、三四人輪を作ってトランプ遊びをしている時でも、伊沢と膝《ひざ》を並べて坐りでもすると、何となしぽっとした逆上気味《のぼせぎみ》になり、自分の気持を婉曲《えんきょく》に表現することもできず、品よく凭《もた》れかかる術《すべ》も知らないだけに、一層|牴牾《もどか》しさを感ずるのだった。
「晴《はア》さん、貴女《あんた》伊ーさんに岡惚《おかぼ》れしてるんだろう。」
春次は銀子と風呂《ふろ》からの帰り路《みち》、蜜豆《みつまめ》をおごりながら言うのだった。
「あら姐《ねえ》さん……。」
銀子は思わずぽっとなった。
「判ってますよ。――だっていいじゃないか。若《わ》ーさんはあんなお人よしで独りでよがっているんだし、たまに逢《あ》うくらい何でもありゃしない。」
春次は唆《そそ》のかした。
「待っといで、私がそのうち巧く首尾してあげるから。傍《そば》で見ていても、じれったくって仕様がない。」
春次は独りで呑《の》み込み、もう暮気分のある日の午後のことだったが、銀子は中洲《なかず》の待合から口がかかり、車で行ってみると、大川の見える二階座敷で、春次と伊沢がほんの摘《つま》み物くらいで呑んでいた。水のうえには荷物船やぽっぽ蒸汽が忙しそうに往来し、そこにも暮らしい感じがあった。伊井や河合《かわい》の根城だった真砂座《まさござ》は、もう無くなっていた。
銀子は来たこともない家《うち》であり、こんな処《ところ》でも伊沢は隠れて遊ぶのかと思い、ちょっと妙な気もしたが、春次と二人きりでいるのも可笑《おか》しいと思い、この間の梅園での話が、そう急に実現するものとは想像もしていなかった。
「いらっしゃい。」
伊沢はあらたまった口を利き、寒いから一つと言って猪口《ちょく》を差すので、銀子も素直に受け、一つ干して返した。
「今、何かあったかいものが来るから、晴さんゆっくりしていらっしゃいね。」
春次は、わざわざ一つ二つ春よしの抱えの噂《うわさ》などをしてから、そんなことを言って、席をはずしたので、銀子は伊沢と二人きりになり、座敷にぎごちなさを感じたが、伊沢も同様であった。
「どうしたの一体。」
銀子が銚子《ちょうし》をもつと、
「さあ、どうしたというんだか、己《おれ》の方からも訊きたいくらいだよ。」
そう言って笑いながら注《つ》いで呑んだ。
「だけどね晴さん、率直に言っておくけれど、気を悪くしないでくれたまえ。」
銀子は勝手がわからず、
「何さ。」
と相手を見た。
「君も若ーさんという人があるんだろう。」
「そうよ。」
「だからせっかくだけれど、己はそういうことは大嫌《だいきら》いさ。ただ友達として清く附き合う分にはかまわないと思う。」
「どうでもいいのよ、私だって。」
十
春の七草に、若林は銀子のペトロンとして春よしの芸者全部に昼間の三時から約束をつけ、藤川へ呼んだ。年増《としま》の福太郎と春次は銀子と連れ立ち、出の着附けで相撲《すもう》の娘の小福を初め三人のお酌《しゃく》と、相前後して座敷に現われ、よそ座敷に約束のある芸者も、やがて屠蘇機嫌《とそきげん》で次ぎ次ぎに揃《そろ》い、揃ったかと思うと、屠蘇を祝い御祝儀《ごしゅうぎ》をもらって後口へ廻るものもあった。姐《ねえ》さん株の福太郎と春次が長唄《ながうた》の地方《じかた》でお酌が老松《おいまつ》を踊ると、今度は小稲が同じ地方で清元の春景色を踊るのだったが、酒がまわり席のやや紊《みだ》れた時分になって、自称女子大出の染福が、ヘベれけになって現われ、初めから計画的に酒を呷《あお》って来たものらしく、いきなり若林の傍に坐っている銀子の晴子に絡《から》んで来るのだった。
「やい晴子、お前このごろよほど生意気におなりだね。」
銀子は訳がわからず、不断から仲のわるい染福のことなので、いい加減に遇《あしら》っていたが、高飛車に出られむっとした。
「何が生意気なのさ。」
「若ーさんの前ですがね、晴子という奴《やつ》はね、家のお帳場さんの伊ーさんに熱くなって、世間の噂《うわさ》ではちょいちょい、どこかで逢曳《あいびき》しているんだとさ。」
「何ですて? 私が伊ーさんと逢曳してるって? 春早々人聞きの悪いことを言うもんじゃないわよ。」
「大きにすまなかったね、みんなの前で素破《すっぱ》ぬいたり何かして。」
「貴女《あんた》は素破ぬいたつもりかも知らないけれど、私は平気だわ。貴女は一体ここを誰の座敷だと思っているの。仮にも人の座敷へ呼ばれて来て、気の利いたふうな真似《まね》をするもんじゃないわよ。」
「悪かったわね。貴女のお座敷へ来て貴女の顔を潰《つぶ》すなんて。何しろ貴女には若ーさんという人が附いているんですからね。お蔭《かげ》で少し恰好《かっこう》がついたかと思うと、もうこの始末だ。」
「悪いわよ、有りもしないことを言って、貴女若ーさんの気持を悪くするばかりじゃないか。」
そうなると分けの染福より丸の晴子を庇護《かば》うのが、姐《あね》芸者の気持であり、春次も染福を抑え、
「貴女《あんた》も酔っているから、お帰んなさい。」
と手を取って引き起こそうとしたが、染福はそれを振り払い、
「いいわよ。私何も有りもしないことを言ってるんじゃないんだから。」
「それは貴女の誤解だよ。後で話せば解《わか》ることだよ。もういいからお帰んなさい。」
春次が引き立てるので、銀子もどうせ暴露《ばれ》ついでだと思い、
「帰れ、帰れ。」
と目に涙をためて叫んだ。
しかしその時に限らず、ちょうどその五六日前にも、銀子たちは三台の車に分乗し、伊沢も仲間入りして、春よしのお神に引率され、羽田の穴守《あなもり》へ恵方詣《えほうまい》りに行き、どうかした拍子に、銀子は春次と一緒に乗っている伊沢の車に割り込み、染福が一人乗りおくれてまごまごしているのを見たが、穴守へついてからも、染福の銀子を見る目が嶮《けわ》しく光り、銀子は何のこととも解らず、謎《なぞ》を釈《と》くのに苦しんだが、深く気にも留めず、帰りは一台の車にタイヤのパンクがあり、いっそ三台とも乗りすてて、川崎から省線で帰ることにしたのだったが、松の内のことで、彼女たちは揃《そろ》って出の支度《したく》であり、縁起ものの稲穂の前插《まえざ》しなどかざして、しこたま買いこんだ繭玉《まゆだま》や達磨《だるま》などをてんでにぶら下げ、行きがけの車に持ち込んだウイスキーと、穴守のお茶屋で呑《の》んだ酒にいい加減酔っていたので、染福は何かというと銀子に絡《から》んで来るのだった。
暮の中洲《なかず》で秘密に逢《あ》った銀子と伊沢は、春次が気を利かして通しておいた鍋《なべ》のものにも手をつけず、やがて待合を出て女橋を渡り、人目をさけて離れたり絡んだり、水天宮の裏通りまで来て、袂《たもと》を分かったのだったが、例の癲癇《てんかん》もちの稲次の穴埋めに、オーロラの見えるという豊原からやって来た染福は、前身が人の妾《めかけ》であり、棄《す》てられて毒を仰いで死にきれず、蘇生《そせい》して東京へ出て来たものだったが、気分がお座敷にはまらず、金遣《かねづか》いも荒いところから、借金は殖《ふ》える一方であり、苦しまぎれの自棄《やけ》半分に、伊沢にちょっかいを出したものだった。
さんざんに銀子とやり合った果てに、太々《ふてぶて》しく席を蹴立《けた》てて起《た》ち、段梯子《だんばしご》をおりる途端に裾《すそ》が足に絡み、三段目あたりから転落して、そのまま気絶してしまった。
十一
二月の半ば、余寒の風のまだ肌にとげとげしいころ、銀子は姉芸者二人に稲福、小福など四五人と、田所町《たどころちょう》のメリンスの風呂敷問屋《ふろしきどんや》の慰安会にサ―ビスがかりを頼まれ、一日|鶴見《つるみ》の花月園へ行ったことがあった。その時分には病院へ担《かつ》ぎこまれた染福も、酔っていたのがかえって幸いで、思ったほどの怪我《けが》でもなく、二週間ばかりで癒《なお》ったが、家《うち》へ還《かえ》りにくく、半ば近くになっていた前借を踏んで、どことも知らず姿を消してしまい、新橋から住み替えて来た北海道産の梅千代という妓《こ》も、日本橋通りの蝙蝠傘屋《こうもりがさや》に落籍《ひか》され、大観音の横丁に妾宅《しょうたく》を構えるなど、人の出入りが多く、春よしも少し陣容が崩れていた。子供に思いやりのないお神の仕方も確かに原因の一つで、食事時にはきまって冷たい監視の目を見張り、立膝《たてひざ》で煙管《きせる》を喞《くわ》えながら盛り方が無作法だとか、三杯目にはもういい加減にしておきなさいとか、慳貪《けんどん》に辱《はずか》しめるのもいやだったが、病気した時の苛酷《かこく》な扱い方はことに非人間的であり、銀子も病毒のかなり全身に廻っていることを医者に警告されながら、処置を取らず、若林が妻と三人同時に徹底的な治療に努めたので、このごろようやく清浄を取り返すことができたのだった。
その日も銀子は、朝から熱を感じ悪寒がしていた。体が気懈《けだる》く頭心も痛かった。寒さ凌《しの》ぎに昨夜出先で風呂《ふろ》を貰《もら》い、お神がもう冷《さ》めているかも知れないから、瓦斯《ガス》をつけようというのを、酔っていた彼女はちょっと手を入れてみて、まだ熱そうだったので、そのまま飛びこみ、すっかり生温《なまぬる》になっていることが解《わか》ったが、温まろうと思い、しばらくじっとしているうちに、身内がぞくぞくして来た。
今朝体の懈いのはそのせいだったが、それを言えば、
「私のせいじゃないよ。お前が悪いんじゃないか。」
と逆捩《さかね》じを喰《く》うにきまっていた。
この風呂敷の問屋は、芸者に関係者はなかったが、商談などの座敷に呼ばれ、お神が出入りの芝居者から押しつけられる大量の切符を、よく捌《さば》いてくれた。歌舞伎《かぶき》全盛の時代で、銀子たちも、帝劇、新富、市村と、月に二つや三つは必ず見ることになっており、若林も切符を押しつけられ、藤川や春よしのお神にもたかられた。お神は裏木戸の瀬川に余分の祝儀《しゅうぎ》をはずみ、棧敷《さじき》の好いところを都合させて、好い心持そうに反《そ》り返っているのだったが、銀子もここへ来てから、ようやく新聞や画報で見ていた歌舞伎役者の顔や芸風を覚え、お馴染《なじみ》の水天宮館で見つけた活動の洋画から、ついに日本の古典趣味の匂いを嗅《か》ぐのであった。よく若林と自動車で浅草へ乗り出し、電気館の洋物、土屋という弁士で人気を呼んでいるオペラ館の新派悲劇、けれん[#「けれん」に傍点]の達者な松竹座の福円などを見たものだったが、そのころ浅草を風靡《ふうび》しているものに安来節《やすぎぶし》もあった。
花月園では、外で一と遊びすると、もう昼で、借りきりの食堂でたらふく飲み食い、芝居や踊りも見つくして三十四五の中番頭から二十四五の店員十数人と入り乱れ、鬼ごっこや繩飛《なわと》び、遊動木に鞦韆《ぶらんこ》など他愛なく遊んでいるうちに、銀子がさっきから仲間をはずれ、木蔭《こかげ》のロハ台に、真蒼《まっさお》な顔をして坐っているのに気がつき、春次も福太郎もあわてて寄って来た。
「どうかしたの晴《はア》ちゃん。今朝からどうも元気がないと思ったんだけれど、何だか変だよ。」
「風邪《かぜ》よ。」
銀子は事もなげに言って、ロハ台を離れて歩こうとしたが、頭がふらふらして足ががくがくして、そのまま芝生のうえに崩れてしまった。
「ちょいとどうしたというの。歩けないの。」
「これあいけない。よほど悪いんだよ。」
そういう福太郎や春次の声も、銀子の耳には微《かす》かに遠く聞こえるだけであった。
銀子は春次の肩に凭《もた》れ、食堂に担《かつ》ぎこまれて、気付けや水を飲まされたが、銀子を春よしへ届けてから、いずれどこかで重立ったものだけの二次会を開くつもりだったので、店員の計らいでここは早く切り揚げ、省線で帰ることにした。
銀子は半ば知覚を失い、寝ている顔のうえの窓から見える空や森の影も定かにはわからず、口を利くのも億劫《おっくう》で、夢現《ゆめうつつ》のうちに東京駅まで来て、そこから自動車で家まで運ばれた。
車から卸され、狭い路次を二人の肩にもたれ、二階へ上がろうとする途端に、玄関口に立っている、妹の痩《や》せ細った蒼《あお》い顔がちらと目につき、口を動かそうとしたが、声が出ず、そのまま段梯子《だんばしご》を上がって奥の三畳に寝かされた。
不断薄情に仕向けているだけに、容体ただならずと見てお神もあわて、さっそく電話で係りつけの医師を呼び、梅村医師が時を移さず駈《か》けつけて来たところで、診察の結果、それが急性の悪性肺炎とわかり、にわかに騒ぎ出した。
十二
食塩やカンフルの注射の反応が初めて現われ、銀子はようやく一週間の昏睡《こんすい》状態から醒《さ》めかけ、何かひそひそ私語《ささや》き合う人の声が耳に伝わり、仄《ほの》かな光の世界へ蘇《よみがえ》ったと思うと、そこに見知らぬ老翁の恐《こわ》い顔が見え、傍《そば》に白衣の看護婦や梅村医師、父やお神も顔を並べているのに気がつき、これが臨終なのかとも思われた。若林もお神の電話で駈けつけ、最後の彼女を見守っていた。
「お銀しっかりするんだぞ。」
父親が目を拭《ふ》きながら繰り返し呼んだが、頷《うなず》く力もなく、目蓋《まぶた》も重たげであった。
「晴子、お前何も心配することはないから安心しておいで。何か言いたいことがあったら、遠慮なし言ってごらん。」
若林も耳に口を寄せ、呟《つぶや》くのだったが、銀子は後のことを頼むつもりらしく、何か言いたげに唇《くちびる》をぴくつかせるだけであった。彼女は頭も毬栗《いがぐり》で、頬《ほお》はげっそり削《そ》げ鼻は尖《とが》り、手も蝋色《ろういろ》に痩《や》せ細っていたが、病気は急性の肺炎に、腹膜と腎臓《じんぞう》の併発症があり、梅村医師が懇意ずくで来診を求めた帝大のM―老博士も首を捻《ひね》ったくらいであったが、不断から銀子に好感をもっていた医師は容易に匙《さじ》を投げず、この一週間というもの、ほとんど徹宵《よっぴて》付ききりで二人の看護婦を督励し、ひっきりなしの注射に酸素吸入、それにある部分は冷やし、ある部分は温めもしたり、寝食を忘れて九死に一生を得ようと努めるのだった。
春よしでは、婆《ばあ》やだけ残して抱え全部を懇意な待合の一室に外泊させ、お神も寝ずの番で看護を手伝うのだったが、苛酷《かこく》な一面には、派手で大業《おおぎょう》な見栄《みえ》っぱりもあり、箱丁《はこや》を八方へ走らせ、易を立てるやら御祈祷《ごきとう》を上げて伺いを立てるやらした。一人が柴又《しばまた》へ走ると一人は深川の不動へ詣《まい》り、広小路の摩利支天《まりしてん》や、浅草の観音へも祈願をかけ、占いも手当り次第五六軒当たってみたが、どこも助かると言うもののない中に、病人の肌襦袢《はだじゅばん》に祈祷を献《ささ》げてもらった柴又だけが、脈があることを明言したのだった。しかしその一縷《いちる》の望みも絶え、今はその死を安からしめるために人々は集まり、慰めの言葉で臨終を見送ろうとするのだった。
濛靄《もや》のかかったような銀子の目には、誰の顔もはっきりとは見えず、全身|薔薇《ばら》の花だらけの梅村医師の顔だけが大写しに写し出されていた。
「どうだえ楽になったかい。」
医師は脈を取りながら言った。
「なに、これ。」
銀子は洋服の釦《ボタン》が花に見え、微《かす》かに言ったが、医師には通ぜず、
「晴子は可愛《かわい》い子だよね。」
と額を撫《な》でた。
若林とお神は、次ぎの六畳で何か私語《ささや》いていたが、お神はやがて箪笥《たんす》のけんどんの錠をあけ、銀子の公正証書を取り出して来て、目の先きで引き裂いて見せた。
「お前これで何も心配することはない。芸者では死なない死なないと言っていたでしょう。この通り証文を引き裂いたから、お前はもう芸者じゃないよ。安心しておいで。」
お神はそう言って涙を拭《ふ》いたが、昏睡《こんすい》中熱に浮かされた銀子は、しばしば呪《のろ》いの譫言《うわごと》を口走り、春次や福太郎が傍《そば》ではらはらするような、日常|肚《はら》に畳んでおいたお神への不満や憤りを曝《さら》け出したりしたので、九分九厘まで駄目となったこの際に、心残りのないように、恩怨《おんえん》に清算をつけるのだった。
銀子の譫言も、こんな家《うち》にいたくないから、早く田舎《いなか》へやってくれとか、ここで死ぬのはいやだから、外へ連れ出してくれとか、そこに姐《ねえ》さんがいるから、早くそっちへ退《の》けてくれとか、そうかと思うと、役者の名を口走ったり、芸者の身のうえを呪ったりするのだったが、親の使いでよく明日の米の代を取りに来た妹に言うらしく、気をつけて早くお帰りなどと、はっきり口を利くこともあった。末の娘を負ぶった大きい妹が、二階の三畳に寝ている銀子の傍に坐って、姉の目覚《めざ》めをじっと待っていたことも、彼女の頭脳《あたま》に日頃深く焼きついているのだった。
するうち悲哀に包まれた人々の環視のうちに、注射の利き目は次第に衰え、銀子の目先に黒い幕が垂れ、黒インキのようにどろどろした水の激流に押し流されでもするように、銀子は止め度もなくずるずる深く沈んで行き、これが死ぬことだと思った瞬間に、一切が亡くなってしまった。
十三
しかし銀子の生命の火はまだ消え果てず、二日ばかりすると、医師が動かしてはいけないというのを、彼女の希望どおり春よしの二階から担架でおろされ、寝台車で錦糸堀の家の二階へと移された。医師は途中を危ぶみ、手当をしてくれたうえ、自身付き添ってくれたが、そろそろ両国まで来たと思うと患者は苦しみ、橋の袂《たもと》で休んでまた一本注射したりして、どうにか辿《たど》り着いたのであった。
家では大きい妹の時子も、下の奥の間で寝ていた。あの日彼女は妹を負ぶい、金をもらいに銀子を訪ねて来たのだったが、自動車から抱き降ろされ、真蒼《まっさお》になって二階へ担《かつ》ぎあげられるのを見て肝《きも》を潰《つぶ》し、駈《か》け出して来て家へ泣き込んだのであったが、一家の生命《いのち》の綱と頼む姉が倒れたとなると、七人の家族がこの先きどうなって行くであろうか。幼い彼女の胸にそれがどきりと来て、その晩方から熱があがり、床に就《つ》いてしまったのであったが、生命あって帰って来た姉が、二階へ落ち着くのを見ると、彼女はじっとしておらず、口も利けない姉の手を執って泣いていた。彼女はいやな思いをしながら、幾度梅園小路の春よしを訪ね、姉を表へ呼び出して金を強請《せび》ったか知れないのであった。それほど商売が行き詰まり、母の手元は苦しかったが、それはその時々の食糧や小遣《こづかい》になる零細な金で、銀子は月々の親への仕送りで、いつも懐《ふとこ》ろが寂しく、若林からもらう金も、大部分親に奉仕するのであった。
春よしのお神と若林の心やりで、家へ帰ってからも銀子の病床には二人の看護婦が夜昼附き添い、梅村医師も毎日欠かさずやって来たが、上と下との病人に負け勝ちのあるのも仕方がなく、三月に入って陽気が暖かくなるにつれて、銀子に生きる力が少しずつ盛りあがって来るのとは反対に、すでに手遅れの妹は衰弱が劇《はげ》しく、先を見越した梅村医師の言葉で、親たちも諦《あきら》めていた。
時子の病気も、銀子が写真屋にもらって送った高野山《こうやさん》の霊草で、少し快《よ》くなったような気もしたが、医者に言わせると栄養の不足から来ているのだが、母系の遺伝だとも思われた。銀子がたまに見番の札を卸し、用事をつけて錦糸堀へやって来ると、彼女は一丁目ばかり手前の焼鳥屋の暖簾《のれん》のうちに立っており、銀子がよく似た姿だと思って、近づいて声をかけると、時子はその声が懐かしく、急いで暖簾から出て来るのだった。
「時ちゃん、焼鳥の屋台なんか入るの。」
「焼鳥は栄養があるでしょう。だから私大好き。」
躯《からだ》ののんびりした彼女は銀子よりも姿がよく、人目につくので、嫁に望む家も二三あるのだったが、そうした時に病気が出たのであった。
彼女は自分よりも銀子に脈のあることを悦《よろこ》び、ある時は、目のとどく処《ところ》に花を生けておいたり、人形を飾ってくれたりしていたが、どうせ保《も》たないのは既定の事実なので、したいようにさせておいた。やがて彼女の死期が迫り、梅村医師がはっきり予言した通り、月の十三日に短いその生涯に終りが来た。
「私はこれから大磯《おおいそ》まで行って来ますが、帰りは十時ごろになるでしょう。さあ臨終に間に合うかどうかな。」
医師はそう言って帰ったのだったが、その予言にたがわず、時子の死は切迫して来た。学校の成績がいつも優等であった彼女は、最後の呼吸《いき》が絶えるまで頭脳《あたま》が明晰《めいせき》で、刻々迫る死期を自覚していた。
「今日が一番苦しい。きっと死ぬんだわ。」
その日彼女は昼間からそれを口にしていたが、夜になると一層苦痛が加わり、八時九時と店の時計が鳴るにつれて、医者の来るのが待たれた。
「先生が東京駅へついた時分よ。」
彼女は苛立《いらだ》って来たが、もう駄目だとわかりにわかに銀子に逢《あ》いたくなり、父に哀願した。
「お妹さんが御臨終です。逢いたがっていらっしゃいますから。」
看護婦はそう言って、そっと銀子を抱き起こし、一人は両脇《りょうわき》から上半身を抱え、一人は脚を支えてそろそろ段梯子《だんばしご》を降《くだ》り、病床近くへつれて来たが、時子は苦しい呼吸の下から、姉の助かったことを悦《よろこ》び、今まで世話になった礼を言い、後のことをくれぐれ頼んで、銀子を泣かせるのだった。
じきに最後の呼吸ががくりと咽喉《のど》に鳴り、咽《むせ》ぶように絶えてしまい、医師の駈《か》けつけた時分には、死者の枕《まくら》を北に直し、銀子も自分の寝床にかえっていた。
二階の病人を動かしたことで、看護婦はさんざん叱《しか》られたが、銀子の病気もそれからまた少し後退した。
十四
狭い二階の東向きの部屋で、銀子は五箇月もの間寝たきりだったが、六月になってから、少しずつ起きあがる練習をしてみたらばと医師も言うので、床のうえに起き直ろうとしたが、初めは硬直したような腕の自由は利かず、徒《いたず》らに頭ばかり重いので、前に※[#「※」は「足+「倍」のつくり」、第3水準1-92-37、452-上15]《のめ》って肩を突き、いかに大病であったかを、今更感ずるのだったが、やがて室《へや》へ盥《たらい》をもち込み、手首や足をそっと洗うほどになり、がくつく足で段梯子《だんばしご》を降り、新しい位牌《いはい》にお線香をあげたりした。
ある時仏にも供え看護婦をもおごり、みんなで天丼《てんどん》を食べたことがあったが、それは仏が生前に食べたいと言うので、取ってみたが蓋《ふた》を取って匂いをかいだばかりで食道はぴったり塞《ふさ》がり一箸《ひとはし》も口へもって行くことができなかったのを思い出したからで、寝ついてからはずっと食慾がなかった。有田ドラッグの薬の空罐《あきかん》が幾つも残っており、薬がなくなると薬代をもらいに銀子の処《ところ》へ往《い》ったこともあった。
銀子が芳町へ出たての時分、母は彼女をつれて町の医者に診《み》てもらったことがあったが、医者は母親を別室に呼び、不機嫌《ふきげん》そうに、あんなになるまでうっちゃっておいて、今時分連れて来て何になると思うのかと叱るので、母はその瞬間から見切りをつけていた。
「なるべく滋養を取らせて、遊ばせておくよりほかないね。」
銀子も言っていたのだったが、ある時|越後《えちご》の親類の織元から、子供たちに送ってくれた銘仙《めいせん》を仕立てて着せた時の悦びも、思い出すと涙の種であった。唐人髷《とうじんまげ》に結って死にたいと言っていたので、息を引き取ってから、母は頭を膝《ひざ》のうえに載せ、綺麗《きれい》に髪を梳《す》いて唐人髷に結いあげ、薄化粧をして口紅をつけたりした。その当座線香の匂いが二階へも通い、銀子はいやな思いにおそわれたが、まだ下に寝ているような気がしたり、春よしの路次を出て行く後ろ姿が見えたりした。「あの子はあれだけの運さ。悔やんでも仕方がない。それよりお前の体が大切だよ。」
母は言っていたが、銀子も一度死神に憑《つ》かれただけに、助かってそう有難いとも思えず、死ぬのも仕方がないと思っていた。
もうここまで来れば大丈夫だから、予後の静養に温泉へでも行ってみるのもよかろうと、医師が言うので、六月の末母につれられて伊香保《いかほ》へ行ってみたが、汽車に乗ってもどこか気細さが感じられ、手足の運動も十分とは行かず、久しぶりで山や水を見ても、それほど楽しめなかった。
伊香保はぼつぼつ避暑客の来はじめる時節で、ここは実業界の名士に、歌舞伎《かぶき》俳優や花柳界など、意気筋の客で、夏は旅館も別荘も一杯になり、夜は石の段々を登り降りする狭い街《まち》が、肩の擦《す》れ合うほどの賑《にぎ》わいなのだが、銀子の行った時分には、まだそれほどでもなく部屋は空《す》いていた。
銀子は看護婦に切られた髪が、まだ十分に伸びそろわず、おまけに父親の姉が、生命《いのち》の代りに生髪を鎮守の神に献《ささ》げる誓いを立てたというので、本復した銀子の髪の一束を持って行ってしまったので、恥ずかしいくらい頭が寂しかったが、それよりも湯からあがると、思いのほかひどい疲れを感じ、段々を登るにも母の手を借りなければならなかった。
「お前|一時《いっとき》に入らん方がいいよ。ああどうして、ここは湯が強いんだから、そろそろ体を慣らさんけりゃ。」
母は言っていたが、二日三日たっても、湯に馴染《なじ》めそうには見えず、花の萎《しぼ》むような気の衰えが感じられるのだったが、湯を控えめにしていても、血の気の薄くなった躰《からだ》に、赤城《あかぎ》おろしの風も冷たすぎ、肺炎がまたぶり返しそうな気がしてならなかったので、五日目の晩帰ることに決め、翌日の朝電車で山をおりた。
そのころになると、春よしのお神にも慾が出て来て、もう少し養生したら、気分のよい時、いずれ梅村さんも近いことだから、遊びに来てはどうかと言うのだったが、引き裂いた証書は実は写しで、本物は担保に取った大場の手元にあるのはとにかくとして、その言い分にも理窟《りくつ》がないわけでもなく、あの病気のひどい絶頂に、夜昼をわかず使った氷代だけでも、生やさしい金ではなかった。
「かかったものを全部証書にとは言いません。気の向く時ぼつぼつお座敷へ出てもらえば、結構なんですがね。」
十五
そのころ、春よしのお神が、裏木戸の瀬川さんと呼んでいる芝居ものの男が、ちょいちょい春よしへ現われ、場所を取ってくれたり、切符をもって来てくれたりした。裏木戸と言っても、瀬川はもとより俳優の下足を扱う口番でもなく、無論頭取部屋に頑張《がんば》っている頭取の一人でもなかったが、香盤《こうばん》の札くらいは扱っており、役者に顔が利いていた。お神が切れるところから、彼は来るたびに何かおつな手土産《てみやげ》をぶら下げ、時には役者の描《か》き棄《す》てた小幅《しょうふく》などをもって来て、お神を悦に入らせるのに如才がなかった。
「こちらは何と言っても玉|揃《ぞろ》いで、皆さんお綺麗《きれい》でいらっしゃいますよ。」
彼はそんなお世辞を言い、
「そのうち私も一つどこかでお呼びしますから、皆さんお揃いでいらして下さい。」
と言うので、お神も反《そ》らさず、
「どうぞぜひ、ほかはどうか分かりませんが、このごろ家《うち》は閑《ひま》で困るんですよ。」
そのころ大阪ですばらしい人気を呼んだ大衆劇の沢正《さわしょう》が、東京の劇壇へ乗り出し、断然劇壇を風靡《ふうび》していたが、一つは水際《みずぎわ》だった早斬《はやぎ》りの離れ業《わざ》が、今までのちゃんばらに一新紀元を劃《かく》したからでもあり、机|龍之介《りゅうのすけ》や月形半平太が、ことにも観衆の溜飲《りゅういん》を下げていた。
後から考えれば、すべては諜《しめ》し合わされた狂言の段取りであったようにも思えるのだったが、その時には銀子もぼんやりしていて、格別芝居好きでもないので、進んで見ようとも思わなかったが、沢正の人気は花柳界にも目ざましいので、ある日お神が瀬川に電話をかけて、場所を取ってもらうようにというので、銀子はその通りにして、その日の場所を都合してもらうことにした。
「ああ、晴《はア》ちゃんですか。今日はどこも一杯ですが、あんたのことだから、まあ何とかしましょう。」
その年ももう十一月で、銀子もほとんど健康を恢復《かいふく》し、疲れない程度で、気儘《きまま》に座敷を勤めていた。錦糸堀でも、裏に小体《こてい》な家を一軒、その当座時々|躰《からだ》を休めに来る銀子の芸者姿が、近所に目立たないようにと都合してあるのだったが、今はそれも妹たちが占領していた。
「やあ晴ちゃん、病気してすばらしく女っぷりがあがったね。助かってまあよかった。」
長く姿を見せなかった銀子を、初めて見た箱丁《はこや》は誰も彼もそう言って悦《よろこ》んでくれたものだったが、それほど躰が、きっそりして、お神が着物を造るたびに、着せ栄《ば》えがしないと言っていつもこぼしていた彼女の姿も、いくらか見直されて来た。
劇場では、入って行くとすぐ、そこらを忙《せわ》しそうに徘徊《はいかい》していた瀬川が見つけ、
「いらっしゃい。さっきはお電話で恐縮でした。場所も私の無理が通りまして、一番見いいところを取っておきました。さあどうぞ。」
と先に立ち、幕明き前のざわつく廊下を小股《こまた》にせかせか歩きながら、棧敷《さじき》の五つ目へ案内し、たらたらお世辞を言って、銀子の肩掛けをはずしたり、コオトを脱がせたり、行火《あんか》の加減を見たりした。
瀬川は四十を一つ二つ出たばかりで、蒼《あお》みがかった色白の痩《や》せ形で、丈《たけ》も中ぐらいであったが、大きな目の感じが好い割に、頬骨《ほおぼね》や顎《あご》が張り加減で、銀子もお世辞を言われて、少し胸の悪いくらいであった。
出しものは大菩薩峠《だいぼさつとうげ》に温泉場景などであったが、許嫁《いいなずけ》の難を救うために、試合の相手である音無し流の剣道の達人机龍之助に縋《すが》って行くお浜が、龍之助のために貞操を奪われ、許嫁の仇《あだ》である彼への敵意と愛着を抱《いだ》いて、相携えて江戸に走り、結局狂った男の殺人剣に斃《たお》れるという陰鬱《いんうつ》な廃頽《はいたい》気分に変態的な刺戟《しげき》があり、その時分の久松と沢正の恋愛が、舞台のうえに灼熱的《しゃくねつてき》な演技となって醗酵《はっこう》するのであったが、銀子も大阪から帰りたての、明治座の沢正を見ており、腐っていたその劇場で見た志賀《しが》の家《や》淡海くらいのものかと思っていたので、頼まれてお義理見をしたくらいだった。しかし沢正の人気は次第に高まり、今あらためて見て芸に油の乗って来たことが解《わか》り、一座を新しく見直したのであった。
後に銀子も沢正の座敷に一座し、出が出だけに歌舞伎《かぶき》や新派ほど役者の気取りがなく、学生丸出しで、マークの柳に蛙《かえる》の絵を扇子に気軽に描《か》いてくれたり、同じマークの刻まれたコムパクトをくれたりするので、芸者の間にも受けがよく、一座するのを光栄に思うのであった。
「晴《はア》ちゃん、すみませんが、今夜は一つ私に附き合って下さい。姐《ねえ》さんにも通しておきましたから、どうかそのつもりでね。皆さんもお呼びしておきました。たまにはいいでしょう。」
やがてはねるころになって、瀬川は土産物《みやげもの》などを棧敷へ持ちこみ、銀子が独りでいるところを見て、にやにやしながら私語《ささや》いた。
十六
芝居の帰りに、銀子は梅園横丁でお神に別れ、「いやな奴《やつ》」と思いながら、ほかの妓《こ》も行っているというので、教えられた通り、大川端《おおかわばた》に近い浜町の待合へ行ってみた。その時間には若林の来る心配もなかった。彼は病気あがりの銀子が、座敷へ現われるようになってから、またひとしきり頻繁《ひんぱん》に足を運ぶのだったが、ちょうどそのころ経済界に恐慌があり、破産する店もあり、彼も痛手を負い、遊んでも顔色が冴《さ》えず座敷がぱっとしなかった。銀子も傍《そば》で電話を聞きつけていたので、緊張したその表情がわかり、喰《く》いこんだ時の苦悩の色がつくづくいやだった。
「一生株屋なんか亭主《ていしゅ》にするものじゃない。」
彼女は思った。
ある時銀子は藤川のお神にちょっとお出《い》でと下へ呼ばれ、若林の傍を離れて居間へ行くと、お神は少しあらたまった態度で、
「若《わ》ーさんもお前《ま》はんが知っての通り、このごろひどい思惑はずれで蒼《あお》くなっていなさる。傍《はた》で見てもお気の毒でならん。お前はんもあの人の世話でどうやら一人前の芸者になったんだから、こういう時に何とか恩返しをしたらどうです。」
と言われ、銀子は当惑した。
「お前はんに纏《まと》まった金を拵《こしら》えろと言ってみたところで、出来る気遣《きづか》いはありゃしない。芸者の痩《や》せ腕で男の難儀を救う、そんな無理なことは言わないが、お前はんにできることだったら、してあげたらどうだろう。なるほど晴子という女は、芸者にしては見所《みどころ》がある、心掛けのいい奴だと、あの人が感心するようだったら、そこは若ーさんも肚《はら》のすわった男だから、この先きお前はんのためにも悪いはずはないにきまっている。」
「どうすればいいんです。」
銀子が訊《き》くと、何のことはない。それはお神の鼻元思案で、銀子が今までにしてもらったダイヤの指環《ゆびわ》に、古渡珊瑚《こわたりさんご》や翡翠《ひすい》の帯留、根掛け、櫛《くし》、笄《こうがい》、腕時計といった小物を一切くるめて返すようにと言うので、銀子はせっかく貰《もら》ったものを取りあげられるのが惜しく、不服だったが色に見せず、急いで家《うち》に帰り、片手ではちょっと持てないくらいの包みにして、持って来た。お神はそれを受け取り、さも自分の指図《さしず》に出たことだと言わぬばかりに、若林の前へ持ち出した。
若林は「ふむ」と顔を背向《そむ》けていたが、女にくれてやったものまで取り返すほど行き詰まっているわけでもなく、一旦持って帰りはしたものの、四五日すると、お前の智慧《ちえ》ではあるまいと言って、そっと銀子に返してくれるのだった。
浜町の待合では、福太郎に春次も来ており、お酌《しゃく》なども取り交ぜて五六人|揃《そろ》っていたが、やがて瀬川もやって来て、幕の内に摘《つま》み物などを通し、酒の強い福太郎や春次に強《し》いられて、銀子も三度に一度は猪口《ちょく》を乾《ほ》し、酔いがまわって来た。胃腸の弱い瀬川はたまに猪口を手にするだけで、盃洗《はいせん》のなかへ滾《こぼ》し滾しして、呑《の》んだふりをしていたが、お茶もたて花も活《い》け、庖丁《ほうちょう》もちょっと腕が利くところから、一廉《いっかど》の食通であり、[#地付きで](未完)
底本:「現代日本文学館8 徳田秋声」文藝春秋
1969(昭和44)年7月1日第1刷
※混在する「パトロン」と「ペトロン」は、統一しなかった。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2000年12月11日公開
2000年12月14日修正
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