青空文庫アーカイブ


徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)笹村《ささむら》

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(例)時々|枕頭《まくらもと》へ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「巾+白」、第4水準2-8-83、179-下-15]
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     一

 笹村《ささむら》が妻の入籍を済ましたのは、二人のなかに産《うま》れた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。
 家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の旅から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活の荒《さび》れたさまが、一層明らかに振り顧《かえ》られた。あっちこっち行李《こうり》を持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。九州の温泉宿ではまた無聊《ぶりょう》に苦しんだあげく、湯に浸《つか》りすぎて熱病を患《わずら》ったが、時々|枕頭《まくらもと》へ遊びに来る大阪下りの芸者と口を利《き》くほか、一人も話し相手がなかった。
「どういうのがえいのんや。私が気に入りそうなのを見立てて上げるよって……東京ものは蓮葉《はすは》で世帯持ちが下手《へた》やと言うやないか。」笹村が湯に中《あた》って蒼《あお》い顔をして一トまず大阪の兄のところへ引き揚げて来たとき、留守の間に襟垢《えりあか》のこびりついた小袖《こそで》や、袖口の切れかかった襦袢《じゅばん》などをきちんと仕立て直しておいてくれた嫂《あによめ》はこう言って、早く世帯を持つように勧めた。
 笹村はもう道頓堀《どうとんぼり》にも飽いていた。せせっこましい大阪の町も厭《いと》わしいようで、じきに帰り支度をしようとしたが、長く離れていた東京の土を久しぶりで踏むのが楽しいようでもあり、何だか不安のようでもあった。帰路立ち寄った京都では、旧友がその愛した女と結婚して持った楽しげな家庭ぶりをも見せられた。
「我々の仲間では君一人が取り残されているばかりじゃないか。」
 友達は長煙管《ながぎせる》に煙草《たばこ》をつめながら、静かな綺麗《きれい》な二階の書斎で、温かそうな大ぶりな厚い蒲団《ふとん》のうえに坐って、何やら蒔絵《まきえ》をしてある自分持ちの莨盆《たばこぼん》を引き寄せた。そこからは紫だったような東山の円《まる》ッこい背《せなか》が見られた。
「京の舞妓《まいこ》だけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片《ひとひらふたひら》ずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というものの匂《にお》いを嗅《か》いでいる隙《ひま》すらなかった。それで二人一緒に家へ還《かえ》ると、妻君が敷いてくれた寝所《ねどこ》へ入って、酔いのさめた寂しい頭を枕につけた。
 東京で家を持つまで、笹村は三、四年住み古した旧《もと》の下宿にいた。下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆《さ》びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓《かえで》の青葉が初夏の風に戦《そよ》いでいた。
 笹村は行きがかり上、これまで係《たずさ》わっていた仕事を、ようやく真面目に考えるような心持になっていた。机のうえには、新しい外国の作が置かれ、新刊の雑誌なども散らかっていた。彼は買いつけのある大きな紙屋の前に立って、しばらく忘られていた原稿紙を買うと、また新しくその匂いをかぎしめた。
 けれど、ざらざらするような下宿の部屋に落ち着いていられなかった笹村は、晩飯の膳《ぜん》を運ぶ女中の草履《ぞうり》の音が、廊下にばたばたするころになると、いらいらするような心持で、ふらりと下宿を出て行った。笹村は、大抵これまで行きつけたような場所へ向いて行ったが、どこへ行っても、以前のような興味を見出さなかった。始終遊びつけた家では、相手の女が二月も以前にそこを出て、根岸《ねぎし》の方に世帯を持っていた。笹村はがらんとしたその楼《うち》の段梯子《だんばしご》を踏むのが慵《ものう》げであった。他の女が占めているその部屋へ入って、長火鉢《ながひばち》の傍へ坐ってみても、なつかしいような気もしないのに失望した。聞きなれたこの里の唄《うた》や、廊下を歩く女の草履の音を聞いても、心に何の響きも与えられなかった。
「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村は悦《よろこ》んで承諾した。

     二

 その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおいていたK―が、国から少し纏《まと》まった金を取り寄せて、東京で永遠の計を立てるつもりで建てた貸家の一つであった。切り拓《ひら》いた地面に二|棟《むね》四軒の小体《こてい》な家が、ようやく壁が乾きかかったばかりで、裏には鉋屑《かんなくず》などが、雨に濡《ぬ》れて石炭殻を敷いた湿々《じめじめ》する地面に粘《へば》り着いていた。
 笹村は旅から帰ったばかりで、家を持つについて何の用意も出来なかった。笹村は出京当時世話になったことのある年上の友達が、高等文官試験を受けるとき、その試験料を拵《こしら》えてやった代りに、遠国へ赴任すると言って置いて行った少しばかりのガラクタが、その男の親類の家に預けてあったことを想い出して、それを一時|凌《しの》ぎに使うことにした。開ける時キイキイ厭《いや》な音のする安箪笥《やすだんす》、そんなものは、うんと溜《たま》っていた古足袋《ふるたび》や、垢《あか》のついた着物を捻《ね》じ込んで、まだ土の匂いのする六畳の押入れへ、上と下と別々にして押し込んだ。摺《す》り減った当り棒、縁のささくれ立った目笊《めざる》、絵具の赤々した丼《どんぶり》などもあった。
 長い間胃弱に苦しんでいた笹村は、旅から持って帰った衣類をどこかで金に換えると、医療機械屋で電気器械を一台買って、その剰余《あまり》で、こまこましたいろいろのものを、時々|提《さ》げて帰って来た。
 机を据《す》えたのは、玄関横の往来に面した陰気な四畳半であった。向うには、この新開の町へ来てこのごろ開いた小さい酒屋、塩煎餅屋《しおせんべいや》などがあった。筋向いには古くからやっている機械|鍛冶《かじ》もあった。鍛冶屋からは、終日機械をまわす音が、ひっきりなしに聞えて来たが、笹村はそれをうるさいとも思わなかった。
 下谷《したや》の方から来ていた、よいよいの爺《じい》さんは、使い歩行《あるき》をさせるのも惨《みじ》めなようで、すぐに罷《や》めてしまった。
「あの書生たちは、自分たちは一日ごろごろ寝転《ねころ》んでいて、この体の不自由な老人を不断に使いやがってしようがない。」
 爺さんは破けた股引《ももひき》をはいてよちよち使いあるきに出ながら、肴屋《さかなや》の店へ寄って愚痴をこぼしはじめた。
「あの爺さんしようがないんですよ。それに小汚《こぎたな》くてしようがありませんや。」肴屋の若《わか》い衆《しゅ》は後で台所口へ来て、そのことを話した。
 笹村は黙って苦笑していた。
 友達の知合いの家から、じきに婆さんが一人世話をしに来てくれた。
 友達の伯母《おば》さんが、その女をつれて来たとき、笹村は四畳半でぽかんとしていた。外はもう夏の気勢《けはい》で、手拭を肩にぶら下げて近所の湯屋から帰って来る、顔の赤いいなせ[#「いなせ」に傍点]な頭《かしら》などが突っかけ下駄《げた》で通って行くのが、窓の格子にかけた青簾越《あおすだれご》しに見えた。
 婆さんを紹介されると、笹村は、「どうぞよろしく。」と叮寧《ていねい》に会釈をした。
 武骨らしいその婆さんは、あまり東京慣れた風もなかったが、すぐに荒れていた台所へ出て、そこらをきちんと取り片づけた。そして友達の伯母さんと一緒に、糠味噌《ぬかみそ》などを拵えてくれた。
 晩飯には、青豆などの煮たのが、丼に盛られて餉台《ちゃぶだい》のうえに置かれ、几帳面《きちょうめん》に掃除されたランプの灯《ひ》も、不断より明るいように思われた。
 ここに寝泊りをしていた友達と、笹村はぼつぼつ話をしながら、箸《はし》を取っていた。始終胃を気にしていた彼は燻《くす》んだような顔をしながら、食べるとあとから腹工合を気遣《きづか》っていた。
 すぐに婆さんに被《き》せる夜の物などが心配になって来た。友達は着ていた蒲団を押入れから引き出して、
「これを着てお寝《やす》みなさい。」と二畳の方へ顔を出した。
 婆さんは落着きのない風で、鉄板落《ブリキおと》しの汚い長火鉢の傍に坐って、いつまでも茶を呑《の》んでいた。
「いいえ私は一枚でたくさんでござんす、もう暑ござんすで……。」

     三

 笹村の甥《おい》が一人、田舎《いなか》から出て来たころには家が狭いので、一緒にいた深山《みやま》という友人は同じ長屋の別の家に住むことになった。いかなる場合にも離れることの出来なかった深山には、笹村の旅行中別に新しい友人などが出来ていた。生活上の心配をしてくれるある先輩とも往来《ゆきき》していた。帰京してからの笹村は深山と一緒に住まっていても、どこか相手の心に奥底が出来たように思った。かなりな収入もあって、暮に旅へ立つとき深山の生活状態はひどく切迫しているようであったが、笹村の心は、かつて漂浪生活を送ったことのある大阪の土地や、そこで久しぶりで逢《あ》える兄の方へ飛んでいて、それを顧みる余裕がなかった。深山が荷造りの手伝いなどしてくれるのを、当然のことのように考えていた。今度帰って来ても、やはりそれを気づかずにいた。けれど深山が、自分にばかり調子を合わしていないことが少しずつ解って来た。
「笹村には僕も随分努めているつもりなんだ。今度の家だって、あの男が寂しいからいてやるんだ。」
 こんなことが、ちょいちょいここへ来て飯を食ったり、徹夜《よどおし》話に耽《ふけ》ったりして行く、ある男を通して、笹村の耳へも入った。笹村には甥の来たのが、ちょうど二人が別々になるのにいい機会のように考えられた。笹村には思っていることをあまり顔に出さないような深山の胸に横たわっている力強いあるものに打《ぶ》ッ突《つ》かったような気がしていた。笹村が時々ぷりぷりして、深山に衝《ぶ》ッ突《つ》かるようなことはめずらしくもなかった。
 深山は古い笹村の一閑張《いっかんば》りの机などを持って、別の家へ入って行った。そこへ、この家を周旋した笹村の友達のT氏も、駒込《こまごめ》の方の下宿から荷物を持ち込んで、共同生活をすることになった。そして、二人は飯を食いに、三度三度笹村の方へやって来た。
 甥が着いたその晩に、家主のK―やT―、深山も一緒に来て、多勢持ち寄ったものを出し合って、滅多汁《めったじる》のようなものを拵えた。
 台所には、すべてに無器用な婆さんを助《す》けに、その娘のお銀という若い女も来て、買物をしたり、お汁《つゆ》の加減を見たりした。
「私《わし》あ甘うて……。」と、可愛らしい顔を赧《あか》くして、甥が眉根《まゆね》を顰《しか》めた。
「笹村君は、これでもう何年になるいな。」と、健啖家《けんたんか》のT―は、肺病を患ってから、背骨の丸くなった背《せなか》を一層丸くして、とめどもなく椀《わん》を替えながら苦笑した。彼は肺のために大学を休んでから、もう幾年にもなった。その時は、ちょうどいろいろな調査書類などを鞄につめて、一、二年視学をしていた小笠原島《おがさわらじま》から帰ったばかりであった。
「作かね。」
 笹村もくすぐったいような笑い方をした。そして長いあいだの習慣になっている食後の胃の薬を、四畳半の机の抽斗《ひきだし》から持って来て、茶碗《ちゃわん》の湯で嚥《の》み下した。それが少し落ち着くと、曇ったような顔をして、後の窓際へ倚《よ》りかかって、パイレートを舌の痛くなるほど続けて吸った。
 衆《みんな》は食べ飽きて気懈《けだる》くなったような体を、窓の方へ持って行って、夕方の涼しい風に当った。
 やがてお銀が、そこらに散らかったものを引き取って行った。
 お銀が初めてここへ来たのは、ついこのごろであった。ある日の午後、どこかの帰りに、笹村が硝子《ガラス》製の菓子器やコップのようなものを買って、袂《たもと》へ入れて帰って来ると、茶の室《ま》の長火鉢のところに、素人《しろうと》とも茶屋女ともつかぬ若い女と、細面の痩《や》せ形《がた》の、どこか小僧気《こぞうけ》のとれぬ商人風の少《わか》い男とが、ならんでいた。揉上《もみあ》げの心持ち長い女の顔はぽきぽきしていた。銀杏返《いちょうがえ》しの頭髪《あたま》に、白い櫛《くし》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28、176-下-2]《さ》して、黒繻子《くろじゅす》の帯をしめていたが、笹村のそこへ突っ立った姿を見ると、笑顔《えがお》で少し前《すす》み出て叮寧に両手を支《つ》いた。
「……母がお世話さまになりまして。」

     四

 近所で表へ水を撒《ま》く時分に、二人は挨拶《あいさつ》をして帰って行った。
「ちょッといい女じゃないか。」
 笹村が四畳半の方で、その時まだ一緒にいた深山に話しかけると、深山は、「むむ。」と口のうちで言った。
「あの男は。」
「あれは情夫《いろ》さ。」深山はとぼけてそう言った。
「そうかね。」
 飯のとき笹村は笑いながら婆さんに、「お婆さん、いい子供がありますね。」と言うと、婆さんは、「ええ。」と言って嬉《うれ》しそうににっこりした。
 それから娘だけ二、三度も来た。
「あれも縁づいておりましたったけれど、ちっと都合があってそこを逃げて来とりますもんで、閑《ひま》だから、つい……。」
 婆さんは娘が帰って行くと、そう言っていた。
 娘は時々バケツを提げて、母親に水など汲《く》んで来てやった。台所をきちんと片づけて行くこともあった。娘が拵えてくれた小鯵《こあじ》の煮びたしは誰の口にもうまかった。
「これアうまい。お婆さんよりよほど手際がいい。」笹村は台所の方へ言いかけた。
「これは焼いて煮たんだね。」
「私は何だか一向不調法ですが……娘の方はいくらか優《まし》でござんす。」
 母親はそこへ来て愛想笑いをしたが娘はあまり顔出しをしなかった。
 使いあるきの出来ない母親の代りに、安くて新しい野菜物を、通りからうんと買い込んで来た娘が、傘《かさ》をさして木戸口から入る姿が、四畳半に坐っている笹村の目にも入った。
 見なれると、この女の窄《つぼ》まった額の出ていることなどが目についた。
 この女が、深山の若い叔父《おじ》の細君と友達であったことがじきに解って来た。この女が一緒になるはずであった田舎のある肥料問屋の子息《むすこ》であった書生を、その叔父の妻君であった年増《としま》の女が、横間《よこあい》から褫《うば》って行ったのだというようなことも、解って来た。
「あの女のことなら、僕も聞いて知っている。」と、深山はこの女のことをあまりよくも言わなかった。
「深山さんのことなら、私もお鈴さんから聞いて知ってますよ。」女も笹村からその話の出たとき、思い当ったように言い出した。
「へえ、深山さんというのは、あの方ですか。あの方の家輪《うちわ》のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」
 母親も閾際《しきいぎわ》のところに坐って、そのころのことを少しずつ話しはじめた。
「それでお鈴という女は、あんたのその男と一緒ですかね。」笹村は壁に倚りかかりながら、立てた両脛《りょうすね》を両手で抱えていた。
「いいえ、それはもうすぐ別れました。そんな一人を守っているような女じゃないんです。深山さんの叔父さんという方も、私よく存じております。この方もじきに後が出来たでしょう。」
 娘は低い鼻頭《はながしら》のところを、おりおり手で掩《おお》うようにして、二十二にしては大人びたような口の利き方をした。
「随分面白いお話なんです。」
 笹村はそんな話に大した興味を持たなかった。相手もそのことは深く話したそうにもなかった。
「ほんとに不思議ですね。」娘は少し膝《ひざ》を崩《くず》して、うつむいていた。

     五

 幼年学校とかの試験を受けに来た甥が、脚気《かっけ》の気味で、一時国へ帰る前に、婆さんはその弟の臨終を見届けに、田舎へ帰らなければならなかった。
 その弟が、いろいろの失敗に続いて、いたましい肺病に罹《かか》り、一年ほど前から田舎へ引っ込んでいたことを、婆さんは立つ前に笹村に話した。
「私が帰って来るまで、娘をおいて行ってもようござんすが、若いもののことだでどうでござんすか。それさえ御承知なら、娘も当分親類の家にぶらぶらしておりますもんだで……。」と、婆さんは立つ前に、重苦しい調子でこんな話を切り出した。
 お銀がそのころ、夕方になると、派手な浴衣《ゆかた》などを着て、こってり顔を塗っているのを、笹村は見て見ぬ振りをしていた。
「困るね、あんな風をされるようでは。君からよく言ってくれたまえ。近所でも変に思うから。」笹村は蔭で深山にそのことを話した。それでもこの女の時々|助《す》けに来るということは、そんなに厭わしいことでもなかった。お銀が来るようになってから、一々自身で台所へ出て肴の選択をする必要もなくなったし、三度三度のお菜《かず》も材料が豊かになった。これまでに味わったことのない新漬《しんづ》けや、かなり複雑な味の煮物などがいつも餉台《ちゃぶだい》のうえに絶えなかった。長いあいだ情味に渇《かわ》いた生活を続けて来た笹村には、それがその日その日の色彩《いろどり》でもあった。
「それでは娘はお預けして行きますで……。」と、婆さんは無口で陰気な笹村なら、安心して娘をおいて行けるといった口吻《くちぶり》であった。
 家はじきに甥とお銀と三人の暮しになった。お銀は用がすむと、晩方からおりおり湯島の親類の方へ遊びに行った。そして夜更けて帰ることもあった。笹村が、書斎で本など読んでいると、甥と二人で、茶の間で夏蜜柑《なつみかん》など剥《む》いていることもあった。
「真実《ほんとう》に新ちゃんはいい男ですね。」お銀は甥の留守の時笹村に話しかけた。甥は笹村の異腹《はらちがい》の姉の子であった。
「叔父甥と言っても、ちっともお話なんぞなさいませんね。見ていてもあっけないようですね。その癖新ちゃんは、私にはいろいろのことを話します。来るとき汽車のなかで綺麗な女学生が、菓子や夏蜜柑を買ってくれたなんて……。」
「そうかね。」笹村は苦笑していた。
 甥に脚気の出たとき、笹村はお銀にいいつけて、小豆《あずき》などを煮させ、医者の薬も飲ませたが、脚がだんだん脹《むく》むばかりであった。
「医者が転地した方がいいと言うんですよ。大分苦しそうですよ。それで、叔父さんに旅費を貰《もら》ってくれないかって、私にそう言うんですがね。田舎へ帰してお上げなすったらどうです。」
 間もなく笹村は甥を帰国の途につかせた。通りまで一緒に送って行って、鳥打の代りに麦藁《むぎわら》を買って被《かぶ》せたり、足袋に麻裏草履などもはかせた。
「どうも贅沢《ぜいたく》を言って困った。」
 笹村は帰って来ると、台所を片着けているお銀に話しかけた。
「安いもので押し着けようとしたって、なかなか承知しない。」
 甥のいなくなった家を見廻すと、そこらがせいせいするほど綺麗に拭《ふ》き掃除がされてあった。裏の物干しには、笹村が押入れに束《つく》ねておいた夏襯衣《なつシャツ》や半※[#「巾+白」、第4水準2-8-83、179-下-15]《ハンケチ》、寝衣《ねまき》などが、片端から洗われて、風のない静かな朝の日光に曝《さら》されていた。
「どうもそう何でも彼《かん》でも引っ張り出されちゃ困るね。」
 笹村は水口で渇いた口を嗽《すす》ぎながら言った。
「そうですか。」
 女は鬢《びん》の紊《ほつ》れ毛を掻《か》き揚げながら振り顧った。
「でも私、疳性《かんしょう》ですから。」

     六

 笹村は机の前に飽きると、莨《たばこ》を袂へ入れて、深山の方へよく話しに行った。T―は前の方の四畳半に、旅行持ちの敷物を敷いて、そこに寝転《ねころ》んでいた。T―は長いあいだ無駄に月謝を納めている大学の方をいよいよ罷《や》めて、好きな絵の研究を公然やり出そうかというようなことを、毎日考え込んでいた。父兄の財産によらずに、どうかして洋行するだけの金の儲《もう》けようはないものかなどと思い続けていた。島へ行ってから聖書などに親しみ、政治や戦争などを厭がるようになっていた。思想の毛色も以前より大分変っていた。
「僕は今小説を一つ書きかけているところなんだ。」と、鼻の高い、骨張った顔の相を崩しながら横に半身を起して、くうくう笑った。
 机のうえには、半紙に何やら書きかけたものがあった。T―の頭には、小笠原島で見た漁夫や、漂流の西班牙《スペイン》人や、多勢の雑種《あいのこ》について、小説にして見たいと思うようなものがたくさんあった。笹村のガラクタの中から拾い出して行った「海の労働者」の古本などが側にあった。
 二人はこのごろT―のところへ届いた枝ごとのバナナを手断《ちぎ》りながら、いろいろの話に耽った。薄暗い六畳から台所の横の二畳の方を透《すか》してみると、そこに深山が莨の煙のなかに、これも原稿紙に向っている。傍にパインナップルの罐《かん》や、びしょびしょ茶の零《こぼ》れている新聞紙などが散らかっていた。そして蟻《あり》が気味わるくそこらまで這《は》い上っていた。
「あの女が島田などに結うのは目障《めざわ》りだね。」笹村はこれまでよく深山に女の苦情を言った。夜家を明けて、女が朝|夙《はや》く木戸をこじ明けて入って来ることも、笹村の気にくわなかった。お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更《よふか》しをすることがあった。
「近所へ体裁が悪いから、朝木戸をこじあけて入って来るなどはいけないよ。」
 笹村は一度女にもじかに言い聞かしたが、負けず嫌いのお銀はあまりいい返辞をしなかった。
「肴屋などは、あれを細君が来たのだと思っていやがる。女がそんな態度をするだろうか。」
「やはり若い女なぞはいけないんだ。」深山は女のことについて、あまり口を利かなかった。
 T―は傍で、くすりくすり笑っていた。
 笹村が裏から帰って来ると、お銀は二畳の茶の間で、不乱次《ふしだら》な姿で、べッたり畳に粘り着いて眠っていた。障子には三時ごろの明るい日が差して、お銀の顔は上気しているように見えた。と、跫音《あしおと》に目がさめて、にっこりともしないで、起きあがって足を崩したまま坐った。それを、ちらりと見た笹村の目には、世に棄《す》て腐れている女のようにも思えた。笹村は黙ってその側を通って行った。
 二、三日降り続いた雨があがると、蚊が一時にむれて来た。それでなくともお銀は暑くて眠られないような晩が多かった。そして蚊帳《かや》が一張《ひとはり》しかなかったので、夜おそくまで、蝋燭《ろうそく》の火で壁や襖《ふすま》の蚊を焼き焼きしていた。そんなことをして、夜を明かすこともあった。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張《はり》もあるんですがね。」
 お銀は肉づいた足にべたつくような蚊を、平手で敲《たた》きながら、寝衣姿《ねまきすがた》で蒲団のうえにいつまでも起き上っていた。
 翌日笹村は独り寝の小さい蚊帳を通りで買って、新聞紙に包んで抱えて帰った。そしてそれをお銀に渡した。
「こんな小さい蚊帳ですか。」お銀は拡げてみてげらげら笑い出した。そして鼠《ねずみ》の暴れる台所の方を避けて、それをわざと玄関の方へ釣《つ》った。土間から通しに障子を開けておくと、茶の間よりかそこの方が多少涼しくもあった。
「こんなに狭くちゃ、ほんとに寝苦しくて……。」大柄な浴衣を着たお銀は、手足の支《つか》える蚊帳のなかに起きあがって、唸《うな》るように呟《つぶや》いた。
 笹村は、六畳の方で、窓を明け払って寝ていた。窓からは、すやすやした夜風が流れ込んで、軽い綿蚊帳が、隣の廂間《ひさしあい》から差す空の薄明りに戦《そよ》いでいた。
 ばたばたと団扇《うちわ》を使いながら、いつまでも寝つかれずにいるお銀の淡白《うすしろ》い顔や手が、暗いなかに動いて見えた。

     七

「……厭なもんですよ。終《しま》いに別れられなくなりますから。」
 お銀はある晩、六畳へ蚊帳を吊《つ》っていながら真面目にそう言った。
 互いに顔を突き合わすのを避けるようにして過ぎた日のことを、振り顧って話し合うように二人は接近して来た。
 お銀は机の傍《そば》へ来て、お鈴に褫《うば》われた男のことを、ぽつぽつ話し出した。
「どんな男です。」笹村もそれを聞きたがった。
 お銀は括《くく》られているようなその顎《あご》を突き出して、秩序もなく前後のことを話した。
「晩方になると、私家を脱《ぬ》け出して、お鈴の部屋借りをしていた家の前へ立っていたんですよ。すると二人の声がするもんですから、いつまでもじっと聴いているんでしょう。私|莫迦《ばか》だったんですね。自分から騒いで、かえっていけなくしたようなもんですの。」
 お銀はそれから、親類の若い男と一緒にそこへ捻《ね》じ込んで行ったことなどを話した。
「男も莫迦なんですよ。それから私の片づいている先へ、ちょいちょい手紙をよこしたり、訪《たず》ねて来たりするんです。そこはちょっとした料理屋だったもんですから、お客のような風をして上って来るんでしょう。洋服なんぞ着込んで、伯父さんの金鎖など垂《ぶら》さげて……私帳場にいて、ふっとその顔を見ると、もう胸が一杯になって……。」お銀は目のあたりを紅《あか》くしながら笑い出した。
「それで大変悪いことをした。お蔭で今度は学校の試験を失敗《しくじ》ったなんて……それもいいんですけれど、どうでしょう飲食いした勘定が足りないんでしょう。磯谷はそれア変な男なんです。まるで芝居のようなんです。」
 お銀は黒い壁にくっついている蚊を、ぴたぴた叩《たた》きはじめた。
「よくあなたは、こんな蚊が気にならないんですね。」
「僕は蚊帳なしに、夏を送ったことがあるからね。」笹村は頭の萎《な》えたような時に呑む鉄剤をやった後なので、脂《あぶら》のにじみ出たような顔に血の色が出ていた。ランプの灯に、目がちかちかするくらい頭も興奮していた。
 お銀は笹村の蒲団の汚いことを言い出して笑った。
「初めての蒲団を敷いたとき、びっくりしましたよ。食べ物やほかのことはそんなでもないのに、一体どうしたんでしょうと思って……敷いてから何だか悪いような気がして、また押入れへしまい込んだり何かして。」
「その家はどういう家なんだ。」笹村はまた訊《き》いた。
「そこの家ですか。それがまた大変に込み入った家なんです。阿母《おっか》さんというのが、継母で、もと品川に芸者をしていたとか言うんですがね、栄というその子息《むすこ》と折合いがつかなくて、私の行った時分には、余所《よそ》へ出ておったんですがね、それをお爺さんが入れるとか入れないとか言って、始終ごたごたしていたましたっけがね。子息も面白くないもんですから、やはりお金を使ったり何かするんですね。栄はちょっとした男でしたけれどね、私初めから何だか厭で厭で、いる気はしてなかったんです。」
 逃げて来てからも、その男に附き纏《まと》われたことなどを附け加えて話した。
「それに、ずうずうしい奴《やつ》なんです。」お銀は火照《ほて》ったような顔をして、そこへ片づいた晩のことを話した。
「深山は、お前がまた磯谷と一緒になるんだろうなんて言っていた。」
「いいえ、そうは行きません。」お銀は笑いながら言った。
「その方は、もうすっかり駄目なんです。」

     八

 時々大徳寺などに立て籠《こも》っていたことのあるT―が、ぶらりと京都に立って行ってからは、深山と笹村との間の以前からのこだわりが、お銀のことなどで一層妙になって来たので、深山は余所にいた出戻りの妹などと、世帯道具を買い込んで、別に食事をすることになった。笹村よりかむしろ一歩先に作を公にしたことなどもあり、自負心の高い深山が、一《い》ッ端《ぱし》働き出そうとしている様子がありあり笹村の目に見えた。いろいろの人がそこに集まっている様子なども、笹村の神経に触れた。
 女同士のことで、深山の妹とお銀とは、裏で互いに往来《ゆきき》していた。妹が茶の室《ま》へ来て、お銀や磯谷のことでも話しているらしいこともあったし、お銀から髢《かもじ》を借りて行ったり、洋傘《かさ》を借りて行くようなこともあった。懇意ずくで新漬けを提げ出すこともあった。
「うるさいな。」笹村はぷりぷりした。
「お前はまたどうして深山のところへなぞ行くんだ。」ときめつけると、お銀は笑って黙っていた。
 それでなくとも、心持のよく激変する笹村は、ふっとお銀の気もつかずに言ったことが、癪《しゃく》に触って怒り出した。
「帰ってくれ。お前に用はない。」
 女は上眼遣いに人の顔をじろじろ見ながら、低い腰窓の下に体を崩して、じッとしていた。そこへ腰かけている笹村は、膝で女を小突いた。
「あなた私を足蹴《あしげ》にしましたね。」お銀は険しいような目色をした。
 そういう女の太《ふ》てたような言い草が、笹村の心をいよいよ荒立たしめた。女は顔の汗を拭きながら、台所へ立って行った。伯父が失敗してから愚かな母親と弱い弟を扶《たす》けて今日までやって来たお銀は、そんなことを自然に見覚えて来た。そうしなければ生きられないような場合も多かった。
 静かな夏の真昼の空気に、機械鍛冶で廻す運転器の音が、苦しい眠りから覚めた笹村の頭に重く響いて来た。家のなかを見廻すと誰もいなかった。台所には、青い枝豆の束が、差し込んで来る日に炙《あぶ》られたまま、竈《かまど》の傍においてあった。風が裏手の広い笹原をざわざわと吹き渡っている。笹村は物を探るような目容《めつき》で、深山の家へ入っていった。
 六畳の窓のところに坐っている深山はいつもの通り、大きい体をきちんと机の前に坐ってうつむいていた。お銀が一畳ばかり離れて、玄関の閾際《しきいぎわ》に、足を崩して坐っていた。意味を読もうとするような笹村の目が、ちろりと女の顔に落ちた。
「家を開けちゃ困るじゃないか。」笹村は独り語《ごと》のように言って、すぐに出て行った。お銀も間もなくそこを起《た》って来た。
「何も言ってやしませんわ。お鈴さんのことで話していたんですわ。」
 お銀は深山が同情しているお鈴との一件のことで、自分が深山に悪く思われるのも厭であった。笹村はとにかく、お鈴を通して自分の以前のことを知っているはずの深山に、そう変な顔も出来ないというような心持もあった。機嫌《きげん》の取りにくい笹村の性質についても、深山の話に道理があるとも考えた。
「ほんとうにひどいことをしますよ。」
 お銀は晩に通りまで散歩に行った時、伴《つれ》の妹に話しかけた。
「私の手紫色……。」お銀は誇大にそうも言った。帰りに家の前で、「遊びにお出でなさいな。もし兄さんがいなかったら。」と、妹が声かけて別れて行くのを、笹村は暗い窓口から聞いていた。
 怜悧《れいり》な深山が、いつかお銀の相談相手になっているように思えた。

     九

 笹村との間隔《へだたり》が、だんだん遠くなってから深山は遠くへ越して行った。そのころは一時潤うていた深山の生活状態がまた寂しくなっていたので、家主のK―へやるべきものも一時そのまま残して行くことになった。後から笹村のところへ掛合いに来る商人も一人二人あった。
「お鈴さんから聞いてはいたけれど、随分めずらしい人ですね。」と、お銀が言っていたが、笹村も初めのように推奨する代りに、すべてを悪い方へ解釈したかった。深山に連絡している周囲が、女のことについて、いろいろに自分を批評し合っているその声が始終耳に蔽《お》っ被《かぶ》さっているようで、暗い影が頭に絡《まつ》わりついていた。
「あなたのやり方が拙《まず》いんですもの、深山さんと間《なか》たがいなどしなくたってよかったのに……。」と、女は笹村の一刻なのに飽き足りなかった。
「いっそいさぎよく結婚しようか。」
 お銀は支度のことを、なにかと言い出した。笹村もノートに一々書きつけて、費用などの計算までして見た。
「叔父さんが丈夫で東京にいるとよかったんですがね。小説なんか好きでよく読んでましたがね。……遊んでいる時分は、随分乱暴でしたけれど、病気になってからは、気が弱くなって、好きな小清《こせい》の御殿なぞ聞いて、ほろりとしていましたっけ。」
「東京で多少成功すると、誰でもきっと踏み込む径路さ。」
「それでも、自分はまだ盛り返すつもりでいますよ。今ごろは死んだかも知れませんわ。途中で宿屋へ担《かつ》ぎ込まれたくらいですもの。」お銀は叔父の死よりも、亡《な》くした自分の着物が惜しまれた。
「私横浜の叔母のところへ行けば、少しは相談に乗ってくれますよ。」お銀は燥《はしゃ》いだような調子で、披露《ひろう》のことなどをいろいろに考えていた。
 笹村は、旅行中羽織など新調して、湯治場へ貽《おく》ってくれた大阪の嫂に土産《みやげ》にするつもりで、九州にいるその嫂の叔母から譲り受けて来て、そのまま鞄《かばん》の底に潜《ひそ》めて来た珊瑚珠《さんごじゅ》の入ったサックを、机の抽斗《ひきだし》から出してお銀にやった。
「どうしてあなたがこんな物を持っているんです。」お銀は珠をひねくりながら、不思議そうに笑い出した。
「ただ安いから買っておかないかと、叔母さんから勧められたから……。」
「でも誰か、的《あて》がなくちゃ……おかしいわ。いくらに買ったのこれを……私|簪屋《かんざしや》で踏まして見るわ。」
 結婚するとなると、笹村はまたさまざまのことが考え出された。
「僕に世話すると言っていた人は一体どうなったんだ。」笹村は笑いながら言った。
「いい女ですがね。」お銀は窓の外を瞶《みつ》めながら薄笑いをしていた。
 暗くなると、二人は別々に家を出て行った。そして明るい店屋のある通りを避けて、裏を行き行きした。暗い雲の垂《た》れ下った雨催《あまもよ》いの宵《よい》であった。片側町の寂しい広場を歩いていると、歩行《あるき》べたのお銀は、蹌《よろ》けそうになっては、わざとらしい声を立てて笹村の手に掴《つか》まった。笹村の小さい冷たい手には、大きい女の手が生温かかった。
 寄席《よせ》の二階で、電気に照されている女の顔には、けばけばしいほど白粉《おしろい》が塗られてあった。唇《くちびる》には青く紅も光っていた。笹村の目には暗い影が閃《ひらめ》いた。
「そんな……。」女はうつむいて顔を赧《あか》くした。
 お銀の話でここへ磯谷とよく一緒に来たということが、笹村の目にも甘い追憶のように浮んだ。
「ちょッとああいったようなね、頚《くび》つきでしたの。」女は下の人込みの中から、形《なり》のいい五分刈り頭を見つけ出して、目をしおしおさせた。笹村もこそばゆいような体を前へ乗り出して見下した。

     十

 母親が果物の罐詰などを持って、田舎から帰って来てからも、お銀は始終笹村の部屋へばかり入り込んでいた。笹村は女が自分を愛しているとも思わなかったし、自分も女に愛情があるとも思い得なかったが、身の周《まわ》りの用事で女のしてくれることは、痒《かゆ》いところへ手の届くようであった。男の時々の心持は鋭敏に嗅《か》ぎつけることも出来た。気象もきびきびした方で、不断調子のよい時は、よく駄洒落《だじゃれ》などを言って人を笑わせた。緊《しま》りのない肉づきのいい体、輪廓《りんかく》の素直さと品位とを闕《か》いている、どこか崩れたような顔にも、心を惹《ひ》きつけられるようなところがあった。笹村の頭には、結婚するつもりで近ごろ先方の写真だけ見たことのある女や、以前大阪で知っていた女などのことが、時々思い出されていたが、不意にどこからか舞い込んで来たこうした種類の女と、爛《ただ》れ合ったような心持で暮していることを、さほど悔ゆべきこととも思わなかった。
「深山がいさえしなければ、僕だってお前をうっちゃっておくんだった。」笹村は時々そんなことを言った。磯谷と女との以前の関係も、笹村の心を唆《そそ》る幻影の一つであった。そしてその時の話が出るたびに、いろいろの新しい事実が附け加えられて行った。
「……それがお前の幾歳《いくつ》の時だね。」
「私が十八で、先が二十四……。」
「それから何年間になる。」
「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」
 笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函《はこ》をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。中にはお銀が十六、七の時分、伯母と一緒に写した写真などがあった。顎が括れて一癖ありそうな顔も体も不恰好《ぶかっこう》に肥っていた。笹村はそれを高く持ちあげて笑い出した。
 母親から帰京の報知《しらせ》の葉書が来た。その葉書は、父親の手蹟《しゅせき》であるらしかった。お銀はこれまであまり故郷のことを話さなかったが、父親に対してはあまりいい感情をもっていないようであった。
「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけれど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ。」
 お銀は田舎へ流れ込んで行っている叔父の旧《もと》の情婦《いろおんな》のことを想い出しながら、どうかすると、檻《おり》へ入れられたような、ここの家から放たれて行きたいような心持もしていた。磯谷との間が破れて以来、お銀の心持は、ともすると頽《くず》れかかろうとしていた。笹村は荒《すさ》んだお銀の心持を、優しい愛情で慰めるような男ではなかった。お銀を妻とするについても、女をよい方へ導こうとか、自分の生涯《しょうがい》を慮《おも》うとかいうような心持は、大して持たなかった。
「私がここを出るにしても、あなたのことなど誰にも言やしませんよ。」
 女は別れる前に、ある晩笹村と外で飲食いをした帰りに、暗い草原の小逕《こみち》を歩きながら言った。女は口に楊枝《ようじ》を啣《くわ》えて、両手で裾《すそ》をまくしあげていた。
「田舎へも、しばらくは居所を知らさないでおきましょうよ。」
 笹村は叢《くさむら》のなかにしゃがんで、惘《あき》れたように女の様子を眺《なが》めていた。
「そんなに行き詰っているのかね。」
「だけど、もう何だか面倒くさいんですから……。」女は棄て鉢のような言い方をした。
 二、三日|暴《あ》れていた笹村の頭も、その時はもう鎮《しず》まりかけていた。自分が女に向ってしていることを静かに考えて見ることも出来た。

     十一

 母親と顔を突き合わす前に、どうにか体の始末をしようとしていたお銀は、母親が帰って来ても、どうもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。この新開町の入口の寺の迹《あと》だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃《ほこり》を被《かぶ》って立っていた。賑《にぎ》やかなところばかりにいたお銀は、夜その下を通るたびに、歩を迅《はや》める癖があったが、ある日暮れ方に、笹村に逐《お》い出されるようにして、そこまで来て彷徨《ぶらぶら》していたこともあった。しかしやはり帰って来ずにはいられなかった。
「失敗《しま》ったね。私|阿母《おっか》さんに来ないように一枚葉書を出しておけばよかった。」
 母親が帰って来そうな朝、お銀は六畳の寝床の上に蚊帳をはずしかけたまま、ぐッたり坐り込んで思案していた。部屋の隅《すみ》には疲れたような蚊の鳴き声が聞えた。笹村もその傍に寝転んでいた。
 帰って来た母親は、着替えもしずに、笹村の傍へ来て堅苦しく坐りながら挨拶をした。そして田舎の水に中《あ》てられて、病気をしたために、帰りの遅くなったいいわけなどをしながら、世のなかにただ一つの力であった一人の弟の死んで行った話などをした。
「親戚《しんせき》は田舎にたくさんござんすが、私の実家《さと》は、これでまア綺麗に死に絶えてしまったようなものだで……。」
 笹村はくすぐったいような心持で、それに応答《うけこたえ》をしていた。そして母親の土産に持って来た果物の罐詰を開けて試みなどしていた。
 二、三日お銀は、あまり笹村の側へ寄らないようにしていたが、いつまでもそれを続けるわけに行かなかった。
「言いましたよ私……。」
 お銀はある時笑いながら笹村に話した。
「阿母さんの方でも大抵解ったんでしょう。」
 笹村も待ち設けたことのような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。
 仕事の方は、忘れたようになっていた。笹村の頭は、甥が出直して来た時分、また蘇《よみがえ》ったようになって来た。甥はしばらくのまにめっきり大人びていた。肩揚げも卸《おろ》したり、背幅もついて来た。着いた日から、一緒に来た友達を二人も引っ張って来て、飯を食わしたり泊らせたりして田舎語《いなかことば》の高声でふざけあっていた。ちょいちょい外から訪ねて来る仲間も、その当分は多かった。
「何を言っているんだか、あの方たちの言うことはさっぱり解りませんよ。」と、お銀はその真似をして、転がって笑った。
「それにお米のまア入《い》ること。まるで御飯のない国から来た人のようなの。」
 甥が日ののきに裏の井戸端で、ある日運動シャツなどを洗濯していた。その時分には、連中も落着き場所を見つけて、それぞれ散らばっていた。お銀は手拭を姉さん冠りにして、しばらく不精していた台所の棚《たな》のなかなぞを雑巾《ぞうきん》がけしていた。
「洗濯ぐらいしてやったらどうだ。」仕事に疲れたような笹村は、裏へ出て見るとお銀を詰問するように言った。
「え、だからしてあげますからって、そう言ったんですけれど。」お銀はそんなことぐらいというような顔をして笹村を見あげた。
 食べ物などのことで、女のすることに表裏がありはしないかと、始終そんなことを気にしていた笹村は、その時もそれとなく厭味を言った。
「そうですかね。私そんなことはちッとも気がつきませんでした。」女は意外のように、そこへべッたり坐って額に手を当てて考え込んだ。
「そんなことをして、私何の得があるか考えてみて下さい。」お銀は息をはずませながら争った。母親もほどきものをしていた手を休めて、喙《くち》を容《い》れた。
 そこへ甥と前後して、出京していた家主のK―が裏から入って来た。K―は、ほかの三軒が容易に塞《ふさ》がらないので、帰省して出て来ると、自分で尽頭《はずれ》の一軒を占めることにした。その日もお銀に冬物を行李から出させて、日に干させなどしていた。そして母親が、その世話をすることになっていた。
 片耳遠いK―は、立ったまま首を傾《かし》げて二人の顔を見比べていた。

     十二

 K―は、郷里では名門の子息《むすこ》で、稚《おさな》い時分、笹村も学校帰りに、その広い邸へ遊びに行ったことなどが、朧《おぼろ》げに記憶に残っていた。その後久しくかけ離れていたが、ある夏熊本の高等中学から、郷里の高等中学へ戻って来たK―のでくでくした、貴公子風の姿を、学校の廊下に認めてから間もなく、笹村は学校を罷《や》めてしまった。偶然にここで一つ鍋《なべ》の飯を食うことになっても、双方話が合うというほどではなかった。
 笹村は友人思いの京都のT―から、自分ら二人のその後の動静を探るようにK―へ言ってよこしたので、それでK―が貸家監理かたがたここへ来ることになった……とそうも考えたが、K―自身は、そのことについて一言も言い出さなかった。
「どうだい、男の機嫌をとるのはなかなか骨が折れるだろう。」K―は、二人の中へ割り込むように火鉢の傍へ来て坐り込んだ。
 それでその話は腰を折られて、笹村も笑って、奥へ引っ込んで行った。
 夜笹村は、かんかんしたランプに向って、そのころ書き始めていた作物の一つに頭を集中しようとしていた。機械鍛冶の響きはもう罷んで、向うの酒屋でも店を閉めてしまった。この町のずッと奥の方に、近ごろ出来た石鹸《せっけん》工場の職工らしい酔漢《よっぱらい》が、呂律《ろれつ》の怪しい咽喉《のど》で、唄《うた》を謳《うた》って通った。空車を挽《ひ》いて帰る懈《だる》い音などもした。
 K―は、茶の室《ま》でお銀たちを相手に、ちびちびいつまでも酒を飲み続けていた。しんみりしたような話し声が時々聞えるかと思うと、お銀の笑い声などが漏《も》れて来た。甥は真中の六畳の隅の方で、もう深い眠りに沈んでいた。
 夜になると、はっきりして来る笹村の頭は、痛いほど興奮していた。筆を執るには、目がちかちかし過ぎるほど、神経が冴《さ》えていた。
「酒というものは陽気でようござんすね。」客商売の家にいたりしたことのあるお銀が、先刻《さっき》酒好きなK―に媚《こ》びるように言ったことなどが想い出された。
 そういうお銀は、笹村の客が帰ったあとで、麦酒《ビール》などの残りをコップに注《つ》いで時々飲んでいた。酒が顔へ出て来ると、締りのない膝を少し崩しかけて、猥《みだ》らなような充血した目をして人を見た。齲歯《むしば》の見える口元も弛《ゆる》んで、浮いた調子の駄洒落などを言って独りで笑いこけていた。お銀の体には、酒を飲むと気の浮いて来る父親の血が流れているらしかった。
「女の酒は厭味でいけない。」
 時々顔を顰《しか》める笹村も、飲むとどこか色ッぽくなる女を酔わすために、自分でわざと飲みはじめることもあった。
 外が鎮まると、奥の話し声が一層耳について来た。女が台所へ出て、酒の下物《さかな》を拵えている気勢《けはい》もした。
 厠《かわや》へ立つとき、笹村は苦笑しながらそこを通った。女はうつむいて、畳鰯《たたみいわし》を炙《あぶ》っていたが、白い顔には酒の気があるようにも見えなかった。
「K―さんにお自惚《のろけ》を聴かされているところなんですの。どうしてお安くないんですよ。」お銀は沈んだような調子で言った。
 痛い頭を萎《な》やそうとして、笹村は机を離れてふと外へ出て見た。そして裏の空地を彷徨《ぶらぶら》して、また明るい部屋へ戻って見た。K―はまだちびりちびり飲み続けていた。そのうちに女は裏の木戸を開けて、ざくざくした石炭殻の路次口から駒下駄《こまげた》の音をさせて外へ出て行った。向うの酒屋へ酒を買いに行くらしかった。
「おい、少し静かにしないか。」
 大分たってから、たまりかねたように、笹村が奥へ大声で叫んだ。
 茶の室《ま》はひっそりしてしまった。

     十三

「そんなにお耳に障《さわ》ったんですか。だってK―さんがせっかくお酒を召し食《あが》っていらっしゃるのに、厭な顔も出来ないもんですから。」
 心持のゆったりしたようなK―が、間もなく黙って帰って行ってから、お銀は何気なげに遠くの方で言った。後で気のついたことだが、ちびりちびり酒を飲みながら、自惚《のろけ》まじりのK―の話のうちには、女を友達から引き離そうとするような意味も含まれてあった。それが今の場合K―自身として、笹村を救う道だと考えていたらしかった。以前下宿をしていた家の軍人の未亡人だという女主《おんなあるじ》と出来合っていたK―は、ほかにも干繋《かんけい》の女が一人二人あった。その晩もK―は、子まで出来た間《なか》を別れてしまった女のことを虚実取り混ぜて話していた。同じような心の痛みのまだどこかに残っている女は、しみじみした淡い妬《ねた》みの絡《まつ》わりついたような心持でそれに聴き惚《ほ》れていた。笹村の胸にも、それが感ぜられた。
 笹村は深山から聞いていた、お銀の以前のことなどを言い出した。
「それはあの方が、よく私たちのことを知らないからですわ。」お銀は口惜《くや》しそうに言った。
「今こそこうしてまごついちゃおりますけれど、田舎じゃ押しも押されもしねえ、これでも家柄はそんなに悪いもんでござんしねえに。」母親も傍へ来て弁解した。
「家柄が何だ。そんなことを今言ってるんじゃないんだ。」笹村は憎々しいような言い方をした。
「あなたから見れば、それはそうでもござんしょうが、田舎には親類もござんすで、娘がまたこんなことでまごつくようなことじゃ、私がまことに辛うござんすで……。」
 暴《あ》れたような不愉快な気分が、明朝《あくるあさ》も一日続いた。
 晩方K―が、ぶらりと入って来たころには、甥と一緒に、外を彷徨《ぶらつ》いて帰って来た笹村が、薄暗い部屋の壁に倚《よ》りかかって、ぼんやりしていた。茶の室《ま》では母親とお銀とが、声を潜《ひそ》めて時々何やらぼそぼそと話していた。
「おいおい、酒を持って来んか。」
 笹村はK―と話しているうちに、ふと奥の方へ声かけた。
「昨夜《ゆうべ》の今夜ですから、酒はお罷《よ》しなすった方がようござんすらに。」
 大分経ってから、母親がそこへ顔を出した。
「いいじゃないか。僕が飲むと言ったら。」笹村は吐き出すように言った。
 しばらくすると、出し渋っていた酒が、そこへ運ばれて、鰹節《かつぶし》を掻く音などが台所から聞えて来た。
「お銀に来て酌《しゃく》をしろって……。」
 笹村が言って笑うと、K―も顔を見合わせて無意味にニタリと笑った。
「おい酌をしろ。」笹村の声がまた突っ走る。
 夕化粧をして着物を着換えたお銀が、そこへ出て坐ると、おどおどしたような様子をして、銚子《ちょうし》を取りあげた。睡眠不足の顔に著しく窶《やつ》れが見えて、赭《あか》い目も弛《ゆる》み唇も乾いていた。K―はこだわりのない無邪気な顔をして、いつ飲んでもうまそうに続けて二、三杯飲んだ。
「お前行くところがなくなったら、今夜からKさんのところへ行ってるといい。」笹村はとげとげした口の利き方をした。
「うむそれがいい。己《おれ》が当分引き取ってやろう。今のところ双方のためにそれが一番よさそうだぜ。」
 K―は光のない丸い目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85、191-下-11]《みは》って二人の顔を見比べた。
 おどおどしたような目を伏せて、うつむいて黙っていたお銀は、銚子が一本あくと、すぐに起って茶の室《ま》の方へ出て行った。そしていくら呼んでもそれきり顔を見せなかった。
 何も彼も忘れるくらいに酔って、笹村は寝床の上にぐッたり横たわっていた。目を開いてみると、傍へ来て坐っている女の青白い顔が、薄暗いランプの灯影に寂しく見えた。
「……ほんとに済みませんでした。これから気をつけますから、どうか堪忍して下さい。」お銀の呟《つぶや》く声が、時々耳元に聞えた。
 笹村は冷たい濡れ手拭でどきどきする心臓を冷やしていた。

     十四

 四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車《くるま》に積んで持ち込んで来たのは、もう袷《あわせ》に羽織を着るころであった。町にはそっちこっちに、安普請の貸家が立ち並んで、俄仕立《にわかじた》ての蕎麦屋《そばや》や天麩羅屋《てんぷらや》なども出来ていた。
 お銀は萌黄《もえぎ》の大きな風呂敷包みを夜六畳の方へ持ち込むと、四ツ谷で聞いて来たといって、先に縁づいていた家の、その後の紛擾《ごたごた》などを話して蒼《あお》くなっていた。お銀が逃げて来てからも、始終跡を追っかけまわしていたそこの子息《むすこ》が、このごろ刀でとかく折合いの悪い継母を斬《き》りつけたとかいう話であった。
 その話には笹村も驚きの耳を聳《そばだ》てた。
「係り合いにでもなるといけないから、うっかりここへ来ちゃいけないなんてね、お蝶《ちょう》さんに私|逐《お》ん出されるようにして来たんですよ。」
「へえ。」と、笹村は呆《あき》れた目をして女の顔を眺めていた。
「私おっかないから、もう外へも出ないでおこう。この間暗い晩に菊坂で摺《す》れ違ったのは、たしかに栄ですよ。」
 傍で母親は、包みのなかから、お銀の不断着などを取り出して見ていた。外はざあざあ雨が降って、家のなかもじめじめしていた。
「私は顔色が大変悪いって、そうですか。」と、お銀は気にして訊《き》き出した。
 お銀はこの月へ入ってから、時々腹を抑《おさ》えて独りで考えているのであった。そして、
「私妊娠ですよ。」と笑いながら言っていたが、しばらくすると、またそれを打ち消して、
「冷え性ですから、私にはどうしたって子供の出来る気遣いはないんです。安心していらっしゃい。」
 しかしどうしても妊娠としかおもわれないところがあった。食べ物の工合も変って来たし、飯を食べると、後から嘔吐《はきけ》を催すことも間々あった。母親に糺《ただ》してみると、母親もどちらとも決しかねて、首を傾《かし》げていた。
「今のうちなら、どうかならんこともなさそうだがね。」
 また一ト苦労増して来た笹村は、まだ十分それを信ずる気になれなかった。弱い自分の体で、子が出来るなどということはほとんど不思議なようであった。
「そんなわけはないがな。もしそうだったとしても、己は知らない。」などと言って笑っていた。女の操行を疑うような、口吻《くちぶり》も時々|洩《も》れた。
「私はこんながらがらした性分ですけれど、そんな浮気じゃありませんよ。そんなことがあってごらんなさい、いくら私がずうずうしいたって一日もこの家にいられるもんじゃありませんよ。」お銀も半分真面目で言った。
「お前の兄さん兄さんと言っている、その親類の医者に診《み》てもらったらどうだ。」
「そんなことが出来るもんですか。あすこのお婆さんと来たら、それこそ口喧《くちやかま》しいんですから。」
 お銀は三人の子供を、それぞれ医師に仕揚げたその老人の噂《うわさ》をしはじめた。
 こんな話が、二人顔を突き合わすと、火鉢の側で繰り返された。火鉢には新しい藁灰《わらばい》などが入れられて、机の端には猪口《ちょく》や蓋物《ふたもの》がおかれてあった。笹村は夜が更けると、ほんの三、四杯だけれど、時々酒を飲みたくなるのが癖であった。
「そんなに気にしなくとも、いよいよ妊娠となれば、私がうまくそッと産んじまいますよ。知った人もありますから、そこの二階でもかりて……。」お銀は言い出した。
「叔父さんが世話をした人ですから、事情《わけ》を言って話せば、引き受けてくれないことはないと思います。あなたからお鳥目《あし》さえ少し頂ければね。」
「そんなところがあるなら、今のうちそこへ行っているんだね。」
 お銀は京橋にいるその人のことを、いろいろ話して聞かした。叔父が盛んに切って廻していたころのことが、それに連れてまた言い出された。
「その時分、あなたはどこに何をしていたでしょう。」
 お銀は自分の十六、七のころを追憶《おもいだ》しながら、水々した目でランプを瞶《みつ》めていた。
「真実《ほんと》に不思議なようなもんですね。」お銀は笹村の指先を揉《も》みながら、呟いた。

     十五

 朝寒《あさざむ》のころに、K―がよく糸織りの褞袍《どてら》などを着込んで、火鉢の傍へ来て飯を食っていると、お銀が台所の方で甲斐甲斐《かいがい》しく弁当を詰めている、それが、どうかして朝起きをすることのある笹村の目にも触れた。お銀の話に、商業学校へ通っていた磯谷に弁当を持って行ってやったり、雨が降ると傘を持って行って、よく学校の傍で出て来るのを待っていたという、その時の女の心持が二人の様子にも思い合わされた。笹村と通りへ買物などに出かけると、お銀は翌朝の弁当の菜を、通りがかりの煮物屋などで見繕《みつくろ》っていた。そのK―も貸家の差配を例の若い後家さんに託して、自分は谷中《やなか》のもといた下宿へ引き移って行ってからは、貸家にもいろいろの人が出入りしたが、明いている時の方が多かった。
 甥は、その空家の一軒へ入り込んで寝起きをしていた。時には友達を大勢引っ張り込んで、叔父の方からいろいろの物を持ち運んで、飲食いをしていた。笹村が渡す月謝や本の代が、そのころ甥の捲《ま》き込まれていた不良少年の仲間の飲食いのために浪費されるらしい形迹《けいせき》が、少しずつ笹村に解って来た。
「新ちゃんは、いつのまにか私の莨入《たばこい》れを持って行《ある》いてますよ。」
 お銀は、笑いながら笹村に言い告げた。月極めにしてある莨屋の内儀《かみ》さんが、甥の持って行く莨の多いのを不思議がって、注意してくれたことなどもあった。
 机の抽斗《ひきだし》を開けてみると、学校のノートらしいものは一つもなかった。その代りに手帳に吉原の楼《うち》の名や娼妓《しょうぎ》の名が列記されてあった。妾《めかけ》――仲居――などと楽書きしてあるのは、この場合お銀のこととしか思えなかった。
「ああいう団体のなかに捲《ま》き込まれちゃ、それこそお終いだぞ。呼び出しをかけられても、今後決して外出しない方がいい。」
 笹村は甥を呼びつけていいつけたが、甥は疳性《かんしょう》の目を伏せているばかりで、身にしみて聞いてもいなかった。そして表で口笛の呼出しがかかると、じきにずるりと脱《ぬ》けて行ってしまった。
「いつかの朝、顔を瘤《こぶ》だらけにして帰って来たでしょう、あの時吉原で、袋叩《ふくろだた》きに逢ったんですって……言ってくれるなと言ったから言いませんでしたがね。」お銀は笹村に言い告げた。
「その時も、あの連中につれられて行ったようですよ。あの中には、髭《ひげ》の生えた人なんかいるんですもの。それに新ちゃんは乱暴も乱暴なんです。喧嘩《けんか》ッぱやいと来たら大変なもんですよ。国で、気に喰わない先生を取って投げたなんて言ってますよ。」
 お銀は甥が、この近所で近ごろ評判になっていることを詳しく話した。
「だけど、なにしろ友達が悪いんですからね。あなたもあまり厳《きび》しく言うのはお休《よ》しなさいよ。おっかないから。」
 笹村の小さい心臓は、この異腹《はらちがい》の姉の愛児のことについても、少からず悩まされた。
「僕もあまりよいことはして見せていないからね。」笹村は苦笑した。
「だって、十六やそこいらで、色気のある気遣いはないんですからね。」
 笹村はしばらく打ち絶えていた俳友の一人から、ある夕方ふと手紙を受け取った。少しお話したいこともあるから、手隙《てすき》のおり来てくれないかという親展書であった。
 お銀は、体の工合が一層悪くなっていた。目が始終|曇《うる》んで、手足も気懈《けだる》そうであった。その晩も、近所の婦人科の医者へ行って診てもらうはずであったが、それすら億劫《おっくう》がって出遅れをしていた。
「私のこと……。」
 お銀は手紙を読んでいる笹村の顔色で、すぐにそれと察した。
「きっとそうでしょう。」

     十六

 笹村は、寒い雨のぼそぼそ降る中を、腕車《くるま》で谷中へ出かけて行った。この日ごろ、交友をおのずから避けるようにして来た笹村は、あの窪《くぼ》っためにある暗い穴のような家を、めったに出ることがなかった。これまで人の前でうつむいて物を言わなければならぬようなことのなかった笹村は、八方から遠寄せに押し寄せているような圧迫の決潰口《けっかいぐち》とも見られる友人が、どんな風にこのことを切り出すか、それが不安でならなかった。深山と気脈の通じているらしく思えるこの俳友B―に対する軽い反抗心も、腕車《くるま》に揺られる息苦しいような胸にかすかに波うっていた。
 ひっそりした二階の一室に通ると、B―は口元をにこにこしながら、じきに深山とのことを言い出した。しばらくB―は笹村の話に耳傾けていた。
 二人の間には、チリの鍋などが火鉢にかけられて、B―は時々笹村に酌をしながら喙《くち》を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28、195-下-22]《はさ》んでいた。
「……とにかく深山のことはあまり言わんようにしていたまえ。そうしないとかえって君自身を傷つけるようなもんだからね。」B―は戒めるように言った。
 笹村は深山との長い交遊について、胸にぶすぶす燻《くすぶ》っているような余憤があったが、それを言えば言うだけ、自分が小さくなるように思えるのが浅ましかった。
「……僕はいっそ公然と結婚しようと思う。」
 女の話が出たとき、笹村は張り詰めたような心持で言い出した。
「その方がいさぎよいと思う。」
「それまでにする必要はないよ。」B―は微笑を目元に浮べて、「君の考えているほど、むつかしい問題じゃあるまいと思うがね。女さえ処分してしまえば、後は見やすいよ。人の噂も七十五日というからね。」
「どうだね、やるなら今のうちだよ。僕及ばずながら心配してみようじゃないか。」B―は促すように言った。
 笹村はこれまで誰にも守っていた沈黙の苦痛が、いくらか弛《ゆる》んで来たような気がした。そしていつにない安易を感じた。それで話が女の体の異常なことにまで及ぶと、そんなことを案外平気で打ち明けられるのが、不思議なようでもあり、惨《いた》ましい恥辱のようでもあった。
「へえ、そうかね。」
 B―は目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85、196-上-23]《みは》ったが、口へは出さなかった。そしてしばらく考えていた。
「それならそれで、話は自然身軽になってからのことにしなければならんがね。しかしいいよ、方法はいくらもあるよ。」
 蕭《しめや》かな話が、しばらく続いていた。動物園で猛獣の唸《うな》る声などが、時々聞えて、雨の小歇《こや》んだ外は静かに更けていた。
「僕はまた君が、そんなことはないと言って怒るかと思って、実は心配していたんだよ。打ち明けてくれて僕も嬉しい。」
 帰りがけに、B―はそう言ってまた一ト銚子|階下《した》へいいつけた。
 幌《ほろ》を弾《は》ねた笹村の腕車《くるま》が、泥濘《ぬかるみ》の深い町の入口を行き悩んでいた。空には暗く雨雲が垂れ下って、屋並みの低い町筋には、湯帰りの職人の姿などが見られた。
「今帰ったんですか。」
 腕車と擦れ違いに声をかけたのは、青ッぽい双子《ふたこ》の着物を着たお銀であった。
「どうでした。」
「医者へ行ったかね。」
「え、行きました。そしたら、やはりそうなんですって。」
 腕車の上と下とで、こんな話が気忙《きぜわ》しそうに取り交された。
 笹村が腕車から降りると、お銀もやがて後から入って来て、火鉢の方へ集まった。

     十七

「医者はどういうんだね。」
 笹村は少し離れたような心持で、女に訊き出した。笹村はまずそれを確かめたかった。
「お医者はいきなり体を見ると、もう判ったようです。これが病気なものか、確かに妊娠だって笑っているんですもの。それに少し体に毒があるそうですよ。その薬をくれるそうですから……。」
「幾月だって……。」
「四月だそうです。」
「四月。厭になっちまうな。」
 笹村は太息《といき》を吐《つ》いた。そしておそろしいような気持で、心のうちに二、三度月を繰って見た。
 その晩は一時ごろまで、三人で相談に耽《ふけ》っていた。笹村は出来るだけ穏かに、女から身を退《ひ》いてもらうような話を進めた。その話は二人にもよく受け入れられた。
「あなたの身が立たんとおっしゃれば、どうもしかたのないことと諦《あきら》めるよりほかはござんしねえ。御心配なさるのを見ていても、何だかお気の毒のようで……。」母親は縫物を前に置きながら言った。
「どうせ娘《これ》のことは、体さえ軽くなればどうにでもなって行きますで。」
 そう決まると笹村は一刻も速く、この重荷を卸《おろ》してしまいたかった。そして軽卒《かるはずみ》のようなおそろしい相談が、どうかすると三人の間に囁《ささや》かれるのであった。笹村の興奮したような目が、異様に輝いて来た。
「そうなれば、私がまたどうにでも始末をします。――そのくらいのことは私がしますで。」
 そう言う母親の目も冴《さ》え冴《ざ》えして来た。
「だけどうっかりしたことは出来ませんよ。」お銀は不安らしく考え込んでいた。
「なアに、めったに案じることはない。」
 明朝《あした》目がさめると、昨夜《ゆうべ》張り詰めていたような笹村の心持が、まただらけたようになっていた。頭も一層重苦しく淀《よど》んでいた。昨夜|逸《はず》んだような心持で母親の言い出したことを考え出すとおかしいようでもあった。
 笹村は何も手につかなかった。そして究《つま》るところは、やはり昨夜話したようにするよりほかなさそうに考えられた。
「産れて来る子供の顔が、平気で見ていられそうもないからね。」
 笹村は、冴え冴えした声でいつに変らず裏で地主の大工の内儀《かみ》さんと話していたお銀が入って来ると、じきに捉《つかま》えてその問題を担ぎ出した。
「そうやっておけば、一日ましに形が出来て行くばかりじゃないか。」
「え、そうですけれど……。」
 お銀はただ笑っていた。
「今朝は何だかこう動くような気がしますの。」
 お銀は腹へ手を当てて、揶揄《からか》うような目をした。
「だけど、そう一時に思いつめなくてもいいじゃありませんか。あなたはそうなんですね。」
 お銀は不思議そうに笹村の顔を見ていた。
 気がくさくさして来ると、お銀は下谷の親類の家へ遊びに行った。
「今日は一つ小使いを儲《もう》けて来よう。」と言って化粧などして出て行った。
 親類のうちでは、いつでも二、三人の花の相手が集まった。「兄さん」のお袋に友達、近所に囲われている商売人あがりの妾などがいた。お銀はその人たちのなかへ交って、浮き浮きした調子で花を引いた。そこで磯谷の噂なども、ちょいちょい耳に挟《はさ》んだ。
「お前も何だぞえ、そういつもぶらぶらしていないで、また前のような失錯《まちがい》のないうちに田舎へでも行って体を固めた方がいいぞえ。」
 そこのお婆さんは顔さえ見ると言っていたが、お銀はどちらへ転んでも親戚の厄介《やっかい》になぞなりたくないと思っていた。どんなに困っても家のない田舎へなぞ行こうと思わなかった。

     十八

 暮に産をする間の隠れ場所を取り決めに、京橋の知合いの方へ出かけて行ったお銀は、年が変ってもやはり笹村の家に閉じ籠《こも》っていた。
 笹村にせつかれて、菓子折などを持って出かけて行くまでには、お銀は幾度も躊躇《ちゅうちょ》した。丸薬なども買わせられて、笹村の目の前で飲むことを勧められたが、お銀は売薬に信用がおけなかった。「そのうち飲みますよ。」と、そのまま火鉢のなかにしまっておいた。薬好きな笹村は、始終いろいろな薬を机の抽斗に絶やさなかった。知合いの医者から無理に拵えてもらったのもあるし、その時々の体の状態を自分自身で考えて、それに応じて薬種屋から買って来たのもある。それにお銀の体に毒気があるということを聞いてからは、一層自分の体に不安が増して来た。血色は薄いが、皮膚だけは綺麗であったお銀の顔に、このごろ時々自分と同じような、ぼつりとしたものが出来るのも不思議であった。明るかった額から目のあたりも一体に曇《うる》んで来た。そして何か考え込みながら、窓から外を眺めている時の横顔などが、その気分と相応《そぐ》わないほど淋しく見られることがあった。
「お産をすると毒は皆おりてしまうそうですよ。」
 病気を究《きわ》めようともしないお銀は、大して気にもかけぬらしかったが、どこへどうなって行くとしても、産れる子に負うべき責任だけは笹村も感じないわけに行かなかった。
「それじゃあなたは、自分にそんな覚えでもあるんですか。」お銀は笹村に反問した。
 笹村は学校を罷《や》めて、検束のない放浪生活をしていた二十《はたち》時分に、ふとしたことから負わされた小さな傷以来、体中に波うっていた若い血がにわかに頓挫《しくじ》ったような気が、始終していた。頭も頽《くず》れて来たし、懈《だる》い体も次第に蝕《むしば》まれて行くようであった。酒、女、莨、放肆《ほうし》な生活、それらのせいとばかりも思えなかった。そんなものを追おうとする興味すら、やがてそこから漂って来る影に溺《おぼ》れ酔おうとする心に過ぎなかった。太陽の光、色彩に対する感じ――食物の味さえ年一年荒れた舌に失われて行くようであった。
 頭脳《あたま》が懈くなって来ると、笹村は手も足も出なかった。そういう時には、かかりつけの按摩《あんま》に、頭顱《あたま》の砕けるほど力まかせに締めつけてもらうよりほかなかった。
「それはこっちの気のせいですよ。」
 お銀は顔に出来たものを気にしながらも、医者からくれた薬すらろくろく飲まなかった。
「……逢って話してみましたらばね。」と、お銀は京橋から帰って来た時、待ちかねていた笹村に話しだした。
「そんなことなら二階があいているから、いつでも来てもいいって、そう言ってくれるんですがね。――だけど女ばかりで、そんなことをして、後で莫迦《ばか》を見るようなことでも困るから、よく考えてからにした方がいいって言うんですの。正直な人ですから、やはり心配するんでしょうよ。」
「…………。」
「その人の息子《むすこ》は新聞社へ出ているんですって。」お銀は思い出したように附け加えた。
「へえ。それは記者だろうか、職工だろうか。」
「何ですか、そう言ってましたよ。」
 笹村はあまりいい気持がしなかった。
「それで、その二階はごく狭いんですの。天井も低くって厭なところなんです。お産の時にはあなたも来て下さらないと、あんなところで私心細い。」
 笹村は黙っていた。お銀は張合いがなさそうに口を噤《つぐ》んだ。
 正月に着るものを、お銀はその後また四ツ谷から運んで来た行李の中から引っ張り出して、時々母親と一緒に、茶の室《ま》で針を持っていた。この前に片づくまでに、少しばかりあったものも皆|亡《な》くして行李を開けて見てもちぐはぐのものばかりで心淋しかった。
 気がつまって来ると、煙草の煙の籠ったなかに、筆を執っている笹村の傍へ来て、往来向きの窓を開けて外を眺めた。門々にはもう笹たけが立って、向うの酒屋では積み樽《だる》などをして景気を添えていた。兜《かぶと》をきめている労働者の姿なども、暮らしく見られた。熊谷在《くまがやざい》から嫁入って来たという、鬼のような顔をしたそこの内儀さんも、大きな腹をして、帳場へ来ては坐り込んでいた。

     十九

 笹村は、少し手に入った金で、手詰りのおりにお銀が余所《よそ》から借りて来てくれた金を返さしたり、質物を幾口か整理してもらったりして、残った金で蒲団皮を買いに、お銀と一緒に家を出た。「私たちのは綿が硬くて、とても駄目ですから、今度お金が入ったら、払いの方は少しぐらい延ばしても蒲団を拵えておおきなさいよ。」と、笹村はよくお銀に言われた。
「十年もあんな蒲団に包《くる》まっているなんて、痩《や》せッぽちのくせによく辛抱が出来たもんですね。」
 初めて汚い笹村の寝床を延べた時のことが、また言い出された。
「僕はあまりふかふかした蒲団は気味がわるい。」
 笹村は笑っていたが、それを言われるたびに、自分では気もつかずに過して来た、長いあいだ満足に足腰を伸ばしたこともない、いきなりな生活が追想《おもいだ》された。そしてやはりその蒲団になつかしみが残っていた。安机、古火鉢、それにもその時々の忘れがたい思い出が刻まれてあった。そのべとべとになった蒲団も、今はこの人たちの手に引つ剥《ぺ》がされて、襤褸屑《ぼろくず》のなかへ突っ込まれることになった。
 通りまで来ると、雨がぽつりぽつり落ちて来た。何か話して歩いているうちに、ふと笹村の気が渝《かわ》って来た。
「お前は先へお帰り。」
 笹村はずんずん行《ある》き出した。
「それじゃ蒲団地は買わなくてもいいの。」
 女は惘《あき》れて立っていた。
 笹村はちょっとした女の言い草に、自分の気持を頓挫《しくじ》ると、しばらく萎《な》やされていた女に対する劇《はげ》しい憎悪《ぞうお》の念が、一時にむくむく活《い》き復《かえ》って来た。
 お銀は一、二町ついて来たが、やがてすごすごと引き返して行った。
 その晩笹村は帰らなかった。
 朝家へ入って来ると、女は興奮したような顔をして火鉢の前に坐っていた。甥も傍へ来て火に当っていた。
 書斎へ引っ込んでいると、女は嶮《けわ》しい笑顔《えがお》をして入って来た。
「随分ひどいわね。私やたら腹が立ったから、新ちゃんに皆な話してしまった。あなたはあまり新ちゃんのことも言えませんよ。」
「莫迦。少《わか》いものには少し気をつけてものを言え。」
「新ちゃんだって、叔父さんは今夜帰らないって、そう言っていましたわ。昨夜《ゆうべ》はお友達も来ていましたからね。三人で花を引いて、いつまで待っていたか知れやしない。――私ぐんぐん蹤《つ》いて行ってやればよかった。どんな顔して遊んでいるんだか、それが見たくて……。」
「うるさい。」笹村は顔じゅう顰《しか》めた。笑うにも笑えなかった。
 日が暮れかかって来ると、鍛冶屋の機械の音が途絶えて、坐っていても頼りないようであった。お銀は惑わしいことがあると、よく御籤《みくじ》を取りに行く近間の稲荷《いなり》へ出かけて行った。通りの賑やかなのに、ここは広々した境内がシンとして、遠い木隠れに金燈籠《かなどうろう》の光がぼんやり光っていた。鈴を引くと、じゃらんじゃらんという音が、四辺《あたり》に響いて、奥の方から小僧が出て来た。
「あなたのも取って来ましたよ。」と、お銀は笹村のを拡げて机の端においた。笹村は心《しん》を細めにしたランプを置いて、火鉢の蔭に丸くなって、臥《ね》そべっていた。
「私は今宙に引っかかっているような身の上なんですってね。家があってないような……いるところに苦労しているんですって。」
 笹村は黙ってその文章に読み惚《ほ》れていた。
「私京橋へ行こうか行くまいか、どうしようかしら。」
 お銀はBさんという後楯《うしろだて》のついている笹村と、うっかりした相談も出来ないと思った。
「B君の阿母《おっか》さんの説では、一緒になった方がいいと言うんだそうだけれど……。」と言う笹村は、その後もB―と一、二度逢っていた。
 晩に笹村は、賑やかな暮の町へ出て見た。そしてふと思いついて、女のために肩掛けを一つ買って戻った。
 お銀は嬉しそうにそれを拡げて見ると笑い出した。
「私前に持っていたのは、もっと大きくて光沢《つや》がありましたよ。それにコートだって持ってたんですけれど……叔父さんが病気してから、皆|亡《な》くしてしまいましたわ。」
「そうかい。お前贅沢を言っちゃいかんよ。入《い》らなけア田舎へ送ろう。」
 笹村は気色《けしき》をかえた。

     二十

 春になってから笹村は時々思い立っては引き移るべき貸家を見て行《ある》いた。お銀の体をおくのに、この家の間取りの不適当なことも一つの原因であった。茶の間から通うようになっている厠《かわや》へ客の起つごとに、お銀は物蔭へ隠れていなければならぬ場合がたびたびあった。そのころお銀は京橋の家へ行くことをすっかり思い止まっていた。二階は危いというのも一つの口実であったが、ここを離れてしまえば、後はどうなって行くかという不安が、日増しに初めの決心を鈍らせた。
「……それに私だって、余所《よそ》へ出るとなれば手廻りの世帯道具くらい少しは用意しなけア厭ですもの。いくら何でもあまり見すぼらしいことしてお産をするのは心細うござんすから。」
 お銀のこのごろの心には、そこへ身のうえの相談に行ったことすら、軽挙《かるはずみ》のように思われて来た。
「あんな窮屈な二階|住居《ずまい》で、お産が軽ければようござんすけれど、何しろ初産のことですから、どんな間違いがないとも限りませんもの。」
「こればかりは重いにも軽いにもきりがないんですからね。」と、母親も傍から口を利いた。
 笹村は黙って火鉢に倚《よ》りかかりながら、まじまじと煙草を喫《ふか》していた。麻の葉の白くぬかれた赤いメリンスの前掛けの紐《ひも》を結《ゆわ》えているお銀の腹のめっきり大きくなって来たのが目についた。水気をもったような顔も、白蝋《はくろう》のように透き徹《とお》って見えた。
「むやみなことをして、万一のことでもあっては、田舎にいるこれの父親や親類のものに私がいいわけがないようなわけでござんすでね。」
 そんなことから、笹村は家を捜すことに決めさせられた。
 笹村はずッと奥まった方を捜しに出て行った。その辺にはかなり手広な空家がぼつぼつ目に着いたが、周《まわ》りが汚かったり、間取りが思わしくなかったりして、どれも気に向かなかった。
 そして歩いていると、二枚小袖に羽織は重いくらい、陽気が暖かくなって来た。垣根《かきね》の多い静かな町には、柳の芽がすいすい伸び出して、梅の咲いているところなどもあった。空も深々と碧《あお》み渡っていた。笹村はそうした小石川の奥の方を一わたり見て歩いたが、友人の家を出て、普通の貸家へ移る時の生活の不安を考えると、やはり居昵《いなじ》んだ場所を離れたくないような気もしていた。
「今日はたしか先生の入院する日だ。」
 笹村はある日の午後、家を捜しに出て、途中からふと思い出したように引き返して来た。その日は薄曇りのした気の重い日であった。青木堂でラヘルを二函《ふたはこ》紙に包んでもらって、大学病院の方へ入って行くと、蕾《つぼみ》の固い桜の片側に植わった人道に、薄日が照ったり消えたりしていた。笹村は自分のことにかまけて、しばらくM先生の閾《しきい》もまたがずにいた。先生と笹村との間には、時々隔りの出来ることがあった。
 M先生は、笹村の胃がようやく回復しかけて来るころから、同じ病気に悩まされるようになった。
「今の若さで、そう薬ばかり飲んでるようじゃ心細いね。うまいものも歯で嚼《か》んで食うようじゃ、とても駄目だよ。」
 茶一つ口にしないで、始終曇った顔をしている笹村に、先生は元気らしく言って、生きがいのない病躯《びょうく》を嘲《あざけ》っていたが、先生の唯一の幸福であった口腹の欲も、そのころから、少しずつ裏切られて来た。
 定められた病室へ入って、大分待っていると、やがて扉を開けて長い廊下を覗《のぞ》く笹村の目に、丈の高い先生の姿が入口の方から見えた。O氏とI氏とが、その後から手周りの道具や包みのようなものを提げて入って来た。
 先生の目には深い不安の色が潜んでいるようであったが、思いがけない笹村の姿をここに見つけたのは、心嬉しそうであった。

     二十一

 腕車《くるま》からじきに雪沓《せった》ばきで上って来たM先生は、浅い味噌濾《みそこ》し帽子を冠ったまま、疲れた体を壁に倚りかかってしばらく椅子に腰かけてみたり、真中の寝台に肱《ひじ》を持たせなどして、初めて自分が意想外の運命で、入るように定められた冷たい病室の厭《いと》わしさを紛らそうとしているように見えた。
「いわば客を入れるんですから、病室ももっとどうかしたらよさそうに思いますんですがな。」
 O氏が言い出すと、
「うむ……たまらんさ。」と、先生も部屋を見廻して軽く頷《うなず》いたが、眉《まゆ》のあたりが始終曇っていた。それでもこのような日に衆《みんな》が聚《あつ》まって来ているということが、大いなる満足であった。そしていつもより調子が低く、気分に思い屈したようなところはあったが、話は相変らずはずんで、力のない微笑と一緒に軽い洒落も出た。
「ここを推してごらん。」
 先生は、病気の話が出たとき、痩せた下腹のあたりを露《あら》わして、※[#「やまいだれ+鬼」、203-下-15]《しこり》のあるところを手で示した。
「痛《いと》ござんしょう。」
「いやかまわんよ。」
「なるほど大分大きゅうござんすですな。」
 M先生は※[#「やまいだれ+鬼」、203-下-19]の何であるかを診察させるために、二週間ここにいなければならなかった。先生がこの※[#「やまいだれ+鬼」、203-下-20]を気にし出したのは、よほど以前から素地《したじ》のあった胃病が、大分|嵩《こう》じて来てからであった。先生はそのころから、筆を執るのが億劫らしく見受けられた。
「それはしかし誰かいい医師《いしゃ》に診《み》ておもらいになった方がようござんしょう。」
 笹村も※[#「やまいだれ+鬼」、204-上-3]《しこり》に不審を抱いて、一、二度勧めたことがあった。
「お前の胃はこのごろどうかね。」
 先生は時々笹村に尋ねた。その顔には、少しずつ躙《にじ》られて行くような気の衰えが見えた。
 笹村は新たに入った社の方の懸賞俳句の投稿などが、山のように机の上に積んであるのを見受けた。今まで道楽であった句選が、このごろ先生の大切な職務の一つとなったのが、惨《いた》ましいアイロニイのように笹村の目に閃《ひらめ》いた。
「己《おれ》は病気になるような悪いことをしていやしない。周囲が己を斃《たお》すのだ。」
 先生は激したような調子で言った。その声にはこの二、三年以来の忙しい仕事や煩いの多い社交、冷やかな世間の批評に対して始終鼻張りの強かった先生の心からの溜息も聞かれるようであった。
 ある胃腸病院へ診察を求めに行ったころは、そこの院長もまだはっきりした診断を下しかねていた。するうちに※[#「やまいだれ+鬼」、204-上-21]の部分に痛みさえ加わって来た。
 その日は、日暮れ方に衆《みんな》と一緒に、病室を引き揚げた。
 笹村が、ある晩二度目に尋ねて行った時には、広い部屋はいろいろの物が持ち込まれてあった。見慣れぬ美しい椅子があったり、綺麗な盆栽が飾られたりしてあった。火鉢、鍋、茶碗、棚、飲料、果物、匙《さじ》やナイフさえ幾色か、こちゃこちゃ持ち込まれてあった。新刊の書物、本の意匠の下図、そんなものもむやみに散らかっていた。船艙《せんそう》の底にでもいるように、敷き詰めた敷物の上に胡坐《あぐら》を掻いて、今一人来客と、食味の話に耽《ふけ》っている先生の調子は、前よりも一層元気がよかった。
「朝目のさめた時なんざ、こんなものでも枕頭《まくらもと》にあると、ちょッといいものさ。」
 先生はそこにあった鉢植えの菫《すみれ》の話が出ると、花を瞶《みつ》めていながら呟いた。先生はこれまで花などに趣味をもったことはなかった。
 ※[#「やまいだれ+鬼」、204-下-14]の胃癌《いがん》であることが確かめられた日に、O氏とI氏とが、夜分打ち連れて笹村を訪ねた。笹村は友人の医者に勧められて、初めて試みた注射の後、ちょうど気懈《けだる》い体を出来たての蒲団に横たえてうつらうつらしていた。
 お銀は狼狽《うろた》えて、裏の方へ出て行った。

     二十二

「それで問題は、切開するかしないかということなんだがね。Jさんなどは、どうせそのままにしておいていけないものなら、思いきって手術した方がいいということを言っているんだ。」
「そうすれば確かに効果があるのかね。」
「それが解らないんだそうだ。体も随分衰弱しているし、かえって死を早める危険がないとも限らんと言うのだからね。」
「それに切開ということはどうもね……先生もそれを望んではいらっしゃらないようだ。」
 ひそひそした話し声がしばらく続いていた。やがて二人はほぼ笹村の意嚮《いこう》をも確かめて帰って行った。
「へえ……お気の毒ですね。」
 お銀は客の帰った部屋へ入って来て、火鉢の傍へ坐った。
「三十七という年は、よくよく悪いんだと見えますね。私の叔父がやはりそうでしたよ。」
 笹村は懈《だる》い頭の髪の毛を撫《な》でながら、蒲団のうえに仰向いて考え込んでいた。注射をした部分の筋肉に時々しくしく[#「しくしく」に傍点]痛みを覚えた。
「……伝通院《でんずういん》前の易者に見ておもらいなすったらどうです。それはよく判りますよ。」お銀はまた易者のことを言い出した。
 笹村は翌日早く、その易者を訪ねたが、その日はあいにく休みであった。帰りに伝通院の横手にある大黒の小さい祠《ほこら》へ入って、そこへ出ているある法師《ぼうず》について観《み》てもらうことにした。法師は綺羅美《きらび》やかに着飾った四十近くの立派な男であった。在から来たらしい屈託そうな顔をした婆さんに低い声で何やら言って聞かしていたが、髪の蓬々《ぼうぼう》した陰気そうな笹村の顔を時々じろじろと見ていた。指環《ゆびわ》や時計をぴかぴかさした貴婦人が一人、手提げ袋をさげて、腕車《くるま》から降りて入って来ると、法師は笑《え》み交すようにしおしおした目をした。女はそのまま奥へ入って行った。
「これアとても……。」
 法師は水晶の数珠《じゅず》の玉を指頭《ゆびさき》で繰ると、本を開けて見ながら笹村に言いかけた。
「もう病気がすっかり根を張っている。」
「手術の効《かい》はないですか。」
「とても……。」と反《そ》りかえって、詳しく見る必要はないという顔をした。
 笹村は金の包みを三宝に投《ほう》り込むようにしてそこから出た。
 その日M先生を訪ねると、仕事場のようであった先生の部屋は綺麗に取り片着いていた。先生は髪などもきちんと分けて、顔に入院前のような暗い影が見えなかった。傍には他の人も来ていた。
「今朝も××が来て、この際何か書けるなら、出来るだけのことはするとか言ってくれたがね、まあ病気でも癒《なお》ってから願おうと言っておいた。己はこんなにまでなって書こうとは思わん。」と先生はその吝《しみ》ったれを嗤《わら》うように苦笑した。何もこの病人に書かさなくたって好意があるなら……という意味も聴き取れた。
「それに己は病気してから裕福になったよ。△△が昨日も来てハンドレッドばかり置いて行ってくれるし、何ならちっと御用立てしましょうかね。」と言って笑った。
 笹村は、M先生のある大きな仕事を引き受けることになってから、牛込《うしごめ》の下宿へ独りで引き移った。その前には、家族と一緒に先生の行っていた海岸の方へも一度訪ねて行って、二、三日をそこで遊んで過ごした。海岸はまだ風が寒く、浪《なみ》も毎日荒れつづいて、はっきりした日とてはなかった。笹村はちょうどまた注射の後の血が溷濁《こんだく》したようになって、頭が始終重く慵《だる》かった。酒も禁じられていた。
 牛込のその下宿は、棟が幾個《いくつ》にも分れて、綺麗な庭などがあったが、下宿人は二人ばかりの紳士と、支那人《しなじん》が一人いるぎりであった。笹村は、机とランプと置時計だけ腕車に載せて、ある日の午後そこへ移って行った。そして立ち木の影の多い庭向きの窓際に机を据えた。

     二十三

 下宿は昼間もシンとしていた。笹村は机の置き場などを幾度も替えて見たり、家を持つまで長いあいだこの近傍の他の下宿にいたころ行きつけた湯へ入りなどして、気を落ち着けようとしたが、旅にいるような心持で、何も手に着かなかった。それで寝転んだり起きたりしていると、もう午《ひる》になって、顔の蒼白い三十ばかりの女中が、膳を運んで来て、黙ってそこらに散らかったものを片着けなどする。膳に向っても、水にでも浸っていたように頭がぼーッとしていて、持ちつけぬ竹の塗り箸《ばし》さえ心持が悪かった。病気を虞《おそ》れるお銀の心着けで、机のなかには箸箱に箸もあったし、飯食い茶碗も紙に包んで持って来たのであったが、それはそのままにしておいた。
 それに生死の境にあるM先生の手助けであるから、仕事をしても報酬が得られるかどうかということも疑問であった。妙な廻り合せで、上草履一つ買えずにいる笹村は、もと下宿にいた時のように気ままに挙動《ふるま》うことすら出来なかった。
 飯がすむと、袋にどっさり貯えおきの胃の薬を飲んで、広い二階へ上って見た。二階には見晴しのいい独立の部屋が幾個《いくつ》もあったが、どちらも明いていた。病身らしい、頬骨《ほおぼね》と鼻が隆《たか》く、目の落ち窪《くぼ》んだ、五十三、四の主《あるじ》の高い姿が、庭の植込みの間に見られた。官吏あがりででもあるらしいその主の声を、笹村は一度も聞いたことがなかった。細君らしい女が二人もあって、時々厚化粧にけばけばしい扮装《なり》をして、客の用事を聞きに来ることのある十八、九の高島田は、どちらの子だか解らなかった。
 飲食店にでもいたことのあるらしい若い女中が、他に二人もいた。そして拭き掃除がすんでしまうと、手摺《てす》りにもたれて、お互いに髪を讃《ほ》め合ったり、櫛《くし》や簪《かんざし》の話をしていた。
「客もいないのに、三人も女がいるなんておかしいね。」笹村はそこらをぶらぶらしながら笑った。
「それアそうですけど、家は一晩二晩の泊り客がちょいちょいありますから……。」
 笹村は階下《した》へ降りて来て、また机の前に坐った。大きな西洋紙に書いた原稿の初めの方が二、三冊机の上にあった。笹村は錘《おもり》のかかったような気を引き立てて、ぽつぽつ筆を加えはじめた。やり始めると惰力で仕事がとにかくしばらくの間は進行した。時とすると、原書を翻《まく》って照合しなどしていた。ふと筆をおいて、疲れた体を後へ引っくら反《かえ》ると、頭がまたいろいろの考えに捉えられて、いつまでも打ち切ることが出来なかった。
 気が餒《う》えきって来ると、笹村はそっとにげるように宿の門を出た。足は自然に家の方へ向いた。
 お銀は寂しい下宿の膳のうえに載せるようなものを台所で煮ていた。
「私今車夫に持たしてやろうと思って……。」
 お銀は暑そうに額の汗を拭きながら、七輪の側を離れた。
 火鉢の傍に坐っていると、ゴーゴーいう鍛冶屋の機械の音が、いつも聞き馴《な》れたように耳に響いた。この音響のない世界へ行くと、笹村はかえって頭が散漫になるような気がした。
 夜おそく笹村は蓋物を提げて下宿へ還《かえ》って行った。そして部屋へ入ってランプを点《つ》けると、机の上の灰皿《はいざら》のなかに、赤い印肉で雅号を捺《お》したM先生の小形の名刺が入れてあった。笹村は、しばらく机に坐ってみたが、じきに火を細くして寝床へ入った。
 上総《かずさ》の方の郷里へ引っ込んでいる知合いの詩人が、旅鞄をさげて、ぶらりと出て来たのはそのころであった。そして泊りつけの日本橋の宿屋の代りに、ここの二階にいることになってから、笹村は三度三度のまずい飯も多少舌に昵《なじ》んで来た。
 中央文壇の情勢を探るために出て来たその詩人は、その時家庭の切迫したある事情の下にあった。自分自分の問題に苦しんでいる二人の間には、話が時々行き違った。

     二十四

 その詩人が、五日ばかりで帰ってしまうと、その時|齎《もたら》して来た結婚談《けっこんばなし》が、笹村の胸に薄い痕迹《こんせき》を留めたきりで、下宿はまた旧《もと》の寂しさに復《かえ》った。
 その結婚談は、詩人と同郷のかなり裕福なある家の娘であった。臥《ね》そべっていながら、その話を聞いていた笹村の胸は、息苦しいようであった。
 話の最中にその時めずらしく、笹村へ電話がかかって来た。かけ手は、笹村が一、二度|余所《よそ》で行き合わせたぎりで、深く話し合ったこともないある画家であったが、用事は笹村が家を持った当座、九州の旅先で懇意になった兄の親類筋に当る医学生が持って来て、少し運んだところで先方から寝返りを打たれた結婚談を復活しないかという相談であった。お銀の舞い込んで来たのは、ちょうど写真などを返して、それに絶望した笹村の頭脳《あたま》が、まだ全く平調に復りきらないころであった。
「今日は不思議な日だね。」いい加減に電話を切って座に復って来た笹村の顔には、興奮の色が見えた。
 笹村は破れたその結婚談から、お銀に移るまでの心持の経過を話しながらこうも言った。
「それに、僕は生理的に結婚する資格があるかということも、久しく疑問であったしね……。」
 詩人は不幸な友達の話を聞きながら、笑っていた。
 六月の初めごろには、M先生は床に就いていたが、就きッきりと言うほどでもなかった。そして寝ながら本の意匠を考えたり、ある人が持って来てくれた外国の新刊物などに目を通していた。中にはオブストロブスキイなどいう人の「ストルム」や、ハウプトマンの二、三の作などがあった。
「△△が是非読んでみろと言うから、目を通して見たけれど、これならさほどに言うほどのものでもない。」
 日本一の大家という抱負は、病に臥《ふ》してから一層先生の頭脳に確かめられて来たようであった。「人生の疑義」という翻訳書が、しばらく先生の枕頭《まくらもと》にあった。
「これを読んでごらん、文章もそんなに拙《まず》くはないよ。」
 これまで人生問題に没入したことのなかった先生は、ところどころ朱で傍線を引いたその書物を笹村に勧めた。
 断片的の話は、おりおり哲学にも触れて行った。周囲の世話を焼くのも、ただ一片の意気からしていた先生は、時々博愛というような語《ことば》も口に上せた。我の強かったこれまでの奮闘生活が先生の弱いこのごろの心に省みられるように思えた。
「己ももう一度思う存分人の世話がしてみたい。」先生は深い目色をしながら呟いた。
 病気にいいという白屈菜《くさのおう》という草が、障子を開け払った檐頭《のきさき》に、吊るされてあった。衆《みんな》は毎日暑さを冒して、遠い郊外までそれを採りに出かけた。知らぬ遠国の人から送って来るのもたくさんあった。先生は寝ていながら、干してあるその草の風に戦《そよ》ぐのを、心地よげに眺めていた。
「私は先生に、何か大きいものを一つ書いて頂きたいんですが……。」
 これまでそんなものをあまり重んじなかった笹村は、汐《しお》を見て頼んで見た。
 先生は、「そうさな、秋にでもなって茶漬けでも食えるようになったら書こう。」と、軽く頷《うなず》いた。
 笹村は黙ってうつむいてしまった。
 二、三人の人が寄って来ると、先生はいつまでも話に耽った。
「お前はこのごろ何を食っている。」
 先生は思い出したように訊《たず》ねた。
「そうでござんすな。格別これというものもありませんですからな。私ア塩辛《しおから》ばかりなめていますんです。」
 O氏は揶揄《からか》うように言った。
「笹村は野菜は好きか。」
「慈姑《くわい》ならうまいと思います。」
「そうさな、慈姑はちとうますぎる。」先生は呟いた。
 笹村は持って行った金の問題を言い出す折がなくてそのまま引き退《さが》った。

     二十五

 出産の時期が迫って来ると、笹村は何となく気になって時々家へ帰って見た。しばらく脚気《かっけ》の気味で、足に水気をもっていたお銀は、気懈《けだる》そうに台所の框《かまち》に腰かけて、裾を捲《まく》って裏から来る涼風に当ったり、低い窓の腰に体を持たせたりして、おそろしい初産の日の来るのを考えていた。興奮したような顔が小さく見えて、水々した落着きのない目の底に、一種の光があった。
 笹村はいくら努力しても、尨大《ぼうだい》なその原稿のまだ手を入れない部分の少しも減って行かないのを見ると、筆を持つ腕が思わず渋った。下宿の窓のすぐ下には、黝《くろ》い青木の葉が、埃を被って重なり合っていた。乾いたことのない地面からは、土の匂いが鼻に通った。笹村は視力が萎《な》えて来ると、アアと胸で太息《といき》を吐《つ》いて、畳のうえにぴたりと骨ばった背《せなか》を延ばした。そこから廊下を二、三段階段を降りると、さらに離房《はなれ》が二タ間あった。笹村はそこへ入って行って、寝転んで空を見ていることもあった。空には夏らしい乳色の雲が軽く動いていた。差し当った生活の欠陥を埋め合わすために何か自分のものを書くつもりで、その材料を考えようとしたが、そんな気分になれそうもなかった。
 往来に水を撒《ま》く時分、笹村は迎えによこした腕車《くるま》で、西日に照りつけられながら、家の方へ帰って行った。窪みにある静かな町へ入ると、笹村はもだもだした胸の悩みがいつも吸い取られるようであった。
 まだ灯も点《とも》さない家のなかは、空気が冷や冷やして薄暗かった。お銀はちょうど茶の室《ま》の隅《すみ》の方に坐って、腹を抑《おさ》えていた。台所には母親が釜《かま》の下にちろちろ火を炊《た》きつけていた。
「今夜らしいんですよ。」
 お銀は眉を歪《ゆが》めて、絞り出すように言った。
「なかなかそんなことじゃ出る案じはないと思うが、でも産婆だけは呼んでおかないとね……。」
 母親は強《し》いて不安を押えているような、落ち着いた調子であった。
「それじゃ使いを出そうか。」
 笹村はそこに突っ立っていながら、押し出すような声音《こわね》で言った。
「そうですね。知れるでしょうか。……それよりかあなたお鳥目《あし》が……。」と、お銀は笹村の顔を見上げた。
「私|拵《こしら》えに行こうと、そう思っていたんですけれど、まだこんなに急じゃないと思って……。」
 笹村は、不安そうに部屋をそっちこっち動いていた。無事にこの一ト夜が経過するかどうかが気遣われた。稚《おさな》い時分から、始終劣敗の地位に虐《しいた》げられて来た、すべての点に不完全の自分の生立《おいた》ちが、まざまざと胸に浮んだ。それより一層退化されてこの世へ出て来る、赤子のことを考えるのも厭であった。
 お銀も、子供の話が出るたびに、よくそれを言い言いした。
「どんな子が産れるでしょうね。私あまり悪い子は産みたくない。」
「瓜《うり》の蔓《つる》に茄子《なすび》はならない。だけど、どうせ、育てるんじゃないんだから。」笹村も言っていた。
 お銀はひとしきり苦々《にがにが》していた腹の痛みも薄らいで来ると、自分に起《た》ってランプを点《とも》したり、膳拵えをしたりした。
「何だか私、このお産は重いような気がして……。」
 飯を食べていたお銀はしばらくするとまた箸を措《お》いて体を屈《かが》めた。
 笹村も箸を措いたまま、お銀の顔を眺めた。その目の底には、胎児に対する一種の後悔の影が閃《ひらめ》いていた。
 慌忙《あわただ》しいような夕飯が済むと、笹村は何やら持ち出して家を出た。母親もそれと前後して、産婆を呼びに行った。

     二十六

 少しばかりの金を袂《たもと》の底に押し込んで、笹村は町をぶらぶら歩いていた。出産が気にかかりながら、その場に居合わしたくないような心持もしていたので、しばらく顔を出さなかった代診のところへ寄って見た。笹村はいい加減に翫弄《おもちゃ》にされているように思って、三、四月ごろ注射を五本ばかり試みたきり罷《や》めていたが、やはりそれが不安心であった。
「このごろはちっとは快《い》いかね。」
 医師《いしゃ》はビールに酔った顔を団扇《うちわ》で煽《あお》ぎながら言った。
 笹村は今夜産れる子供を、すぐ引き取ってもらえるような家はあるまいかと、その相談を持ち出した。稚い時分近所同士であったこの男には、笹村は何事も打ち明けることを憚《はばか》らなかった。
「ないことはない。けど後で後悔するぞ。」と、医師はある女とのなかに出来た、自分の子を里にやっておいた経験などを話して聞かした。
「後のことなど、今考えていられないんだからね。」
 笹村はその心当りの家の様子が詳しく知りたかった。七人目で、後妻の腹から産れた子を、ある在方《ざいかた》へくれる話を取り決めて、先方の親爺《おやじ》がほくほく引き取りに来た時、※[#「兀+王」、第3水準1-47-62、211-上-17]弱《ひよわ》そうな乳呑《ちの》み児《ご》を手放しかねて涙脆《なみだもろ》い父親が泣いたということを、母親からかつて聞かされて、あまりいい気持がしなかった。それをふと笹村は思い浮べた。
「まア産れてからにする方がいい。」
 医師は相当に楽に暮している先方の老人夫婦の身のうえを話してから言った。
 笹村は丸薬を少し貰って、そこを出た。
 家へ帰ると、小さい家のなかはひっそりしていた。母親は暗い片蔭で、お産襤褸《さんぼろ》を出して見ていたが、傍にお銀も脱脂綿や油紙のようなものを整えていた。
 おそろしい高い畳つきの下駄をはいて、産婆が間もなくやって来た。笹村は四畳半の方に引っ込んで寝転んでいた。
「大丈夫大船に乗った気でおいでなさい。私はこれまで何千人と手をかけているけれど、一人でも失敗《しくじ》ったという例《ためし》があったら、お目にかかりません。安心しておいでなさいよ。」産婆は喋々《ちょうちょう》と自分の腕前を矜《ほこ》った。
 お産は明家《あきや》の方ですることにした。母親は一人で蒲団を運んだり、産婆の食べるようなものを見繕ったりして、裏から出たり入ったりしていた。笹村も一、二度傍へ行って見た。
 産気が次第について来た。お銀は充血したような目に涙をためて、顔を顰《しか》めながら、笹村のかした手に取り着いていきんだ。そのたんびに顔が真赤に充血して、額から脂汗《あぶらあせ》がにじみ出た。いきみ罷《や》むと、せいせい肩で息をして、術なげに手をもじもじさせていた。そして時々頭を抬《もた》げて、当てがわれた金盥《かなだらい》にねとねとしたものを吐き出した。宵《よい》に食べたものなどもそのまま出た。
 九時十時と不安な時が過ぎて行ったが、産婦は産婆に励まされて、いたずらにいきむばかりであった。体の疲れるのが目に見えるようであった。
「ああ苦しい……。」
 お銀は硬い母親の手に縋《すが》りついて、宙を見つめていた。
「どういうもんだかね。」
 十二時過ぎに母親は家の方へ来ると、首を傾《かし》げながら笹村に話しかけた。
「難産の方かね。」
 火鉢の傍に番をしていた笹村は問いかけた。
「まアあまり軽い方じゃなさそうですね。」
「医者を呼ぶようなことはないだろうか。」
「さあ……産婆がああ言って引き受けているから、間違いはあるまいと思いますけれどね。」
 そのうちに笹村は疲れて寝た。
 魘《うな》されていたような心持で、明朝《あした》目のさめたのは、七時ごろであった。
 茶の室《ま》へ出てみると、母親は台所でこちゃこちゃ働いていた。
 お銀はまだ悩み続けていた。

     二十七

 産婆が赤い背《せなか》の丸々しい産児を、両手で束《つか》ねるようにして、次の室《ま》の湯を張ってある盥の傍へ持って行ったのは、もう十時近くであった。産児は初めて風に触れた時、二声三声|啼《な》き立てたが、その時はもうぐったりしたようになっていた。笹村は産室の隅の方からこわごわそれを眺めていたが、啼き声を立てそうにすると体が縮むようであった。ここでは少し遠く聞える機械鍛冶の音が表にばかりで、四辺《あたり》は静かであった。長いあいだの苦痛の脱けた産婦は、「こんな大きな男の子ですもの。」と言う産婆の声が耳に入ると、やっと蘇《よみがえ》ったような心持で、涙を一杯ためた目元ににっこりしていたが、すぐに眠りに沈んで行った。汗や涙を拭き取った顔からは血の気が一時に退《ひ》いて、微弱な脈搏《みゃくはく》が辛うじて通っていた。
 産婆は慣れた手つきで、幼毛《うぶげ》の軟かい赤子の体を洗ってしまうと、続いて汚れものの始末をした。部屋にはそういうものから来る一種の匂いが漂うて、涼しい風が疲れた産婦の顔に、心地よげに当った。笹村の胸にもさしあたり軽い歓喜《よろこび》の情が動いていた。
「随分骨が折れましたね。」産婆はやっと坐って莨《たばこ》を吸った。
「このぐらい長くなりますと、産婆も体がたまりませんよ。私もちょッと考えたけれど、でも頭さえ出ればもうこっちのものですからね。」
「そんなだったですか。」と言うように笹村は産婆の顔を見ていた。
 頭が出たきりで肩がつかえていた時、「それ、もう一つ……。」と産婆に声をかけられて、死力を出していた産婦の醜い努力が、思い出すとおかしいようであった。
「もっと自然に出るということに行かないもんですかね。」
「そんな人もありますよ。けど何しろこのぐらいの赤ちゃんが出るんですもの。」と産婆は笑った。笹村は当てつけられているような気がして、苦笑していた。
 汚い聴診器で産婦の体を見てから、産後の心着きなどを話して引き揚げて行くと、部屋は一層静かになった。
 母親は黙って、そこらを片着けていたが、笹村も風通しのいい窓に腰かけて、いつ回復するとも見えぬ眠りに陥《お》ちている産婦の蒼い顔を眺めていたが、時々傍へ寄って赤子の顔を覗《のぞ》いて見た。
 その日は産を気遣って尋ねてくれた医師《いしゃ》と一緒に、笹村は次の室《ま》で酒など飲んで暮した。産婦は目がさめると、傍に寝かされた赤子の顔を眺めて淋しい笑顔を見せていたが、母親に扶《たす》けられて厠《かわや》へ立って行く姿は、見違えるほど痩せてもいたし、更《ふ》けてもいた。赤子は時々、じめじめしたような声を立てて啼いた。笹村は、牛乳を薄く延ばして丸めたガーゼに浸して、自分に飲ませなどした。
 翌朝《あした》谷中の俳友が訪ねて来た時、笹村は産婦の枕頭《まくらもと》に坐っていた。
「そう、それはよかった。」
 裁卸《たちおろ》しの夏羽織を着た俳友は、産室の次の室へ入って来ると、いつもの調子でおめでたを述べた。沈んだ家のなかの空気が、にわかに陽気らしく見えた。
「どうだね、それで……。」と、俳友はいろいろの話を聴き取ってから、この場合笹村の手元の苦しいことを気遣った。
「少しぐらいならどうにかしよう。」
「そうだね、もし出来たらそう願いたいんだが……。」笹村はそのことも頼んだ。
 二人の前には、産婦が産前に好んで食べた苺《いちご》が皿に盛られてあった。

     二十八

 産婦は長くも寝ていられなかった。足や腰に少し力がつくと、起き出して何かして見たくなった。大きな厄難《やくなん》から首尾よく脱《のが》れた喜悦《よろこび》もあったり、産れた男の子が、人並みすぐれて醜いというほどでもなかったので、何がなし一人前の女になったような心持もしていた。
 七夜には自身で水口へ出て来て、肴《さかな》を見繕ったり、その肴屋と医者とが祝ってくれた鯉《こい》の入れてある盥の前にしゃがんで見たり、俳友が持って来てくれた、派手な浴衣地《ゆかたじ》を取りあげて見たりしていた。産婆は自分の世話をするお終《しま》いの湯をつかわせて、涼風の吹く窓先に赤子を据え、剃刀《かみそり》で臍《へそ》の緒《お》を切って、米粒と一緒にそれを紙に包んで、そこにおくと、「ここへ赤ちゃんの名と生年月日時間をお書きになってしまっておいて下さい。」と、笹村に言った。
「あなた何かいい名をつけて下さいよ。」
 産婦は用意してあった膳部や、包み金のようなものをいろいろ盆に載せて、産婆の前においた。
「はじめてのお子さんに男が出来たんだから、あなたは鼻が高い。」と、無愛想な産婆もお愛想笑いをして猪口《ちょく》に口をつけた。
 笹村は苦笑いをしていたが、時々子供を抱き取って、窓先の明るい方へ持ち出しなどした。赤子は時々|鼠《ねずみ》の子のような目をかすかに明いて、口を窄《すぼ》めていたが、顔が日によって変った。ひどく整った輪廓を見せることもあるし、その輪廓がすっかり頽《くず》れてしまうこともあった。
「目の辺があなたに似てますよ。だけどこの子はお父さんよりかいい児になりますよ。」
 お銀はその顔を覗き込みながら言った。
 七夜過ぎると、笹村は赤子を抱いて、そっと裏へ出て見た。そして板囲いのなかをあっちこっち歩いて見たり、杜松《ひば》などの植わった廂合《ひさしあ》いの狭いところへ入って、青いものの影を見せたりした。赤子はぽっかり目を開いて口を動かしていた。目には木の影が青く映っていた。その顔を見ていると、笹村は淡い憐憫《れんびん》の情と哀愁とを禁じ得なかった。そしていつまでもそこにしゃがんでいた。
「早くやろうじゃないか。今のうちなら私生児にしなくても済む。」
 笹村は乳房を喞《ふく》んでいる赤子の顔を見ながら、時々想い出したように母親の決心を促した。
「私育てますよ。あなたの厄介にならずに育てますよ。乳だってこんなにたくさんあるんですもの。」
 お銀は終《しま》いによそよそしいような口を利いたが、自分一人で育てて行けるだけの自信も決心もまだなかった。
 笹村はしばらく忘れていた仕事の方へ、また心が向いた。別れることについて、一日評議をしたあげく、晩方ふいと家を出て、下宿の方へ行って見た。夏の初めにお銀と一緒に、通りへ出て買って来た質素《じみ》な柄の一枚しかないネルの単衣《ひとえ》の、肩のあたりがもう日焼けのしたのが、体に厚ぼったく感ぜられて見すぼらしかった。手や足にも汗がにじみ出て、下宿の部屋へ入って行った時には、睡眠不足の目が昏《くら》むようであった。笹村は着物を脱いで、築山《つきやま》の側にある井戸の傍へ行くと、冷たい水に手拭を絞って体を拭いた。石で組んだ井筒には青苔《あおごけ》がじめじめしていた。傍に花魁草《おいらんそう》などが丈高く茂っていた。
 部屋はもう薄暗かった。机のうえも二、三日前にちょっと来て見たとおりであったが、そこにカチカチ言っているはずの時計が見えなかった。笹村は何だかもの足りないような気持がした。押入れや違い棚のあたりを捜してみたが、やはり見当らなかった。机の抽斗《ひきだし》を開けてみると、そこには小銭を少しいれておいた紙入れが失《なく》なっていた。

     二十九

 女中に聞くと、時計は日暮れ方から見えなかった。多分横手の垣根を乗り越えて、小窃偸《こぬすと》が入って持って行ったのであろうということであった。その垣根は北側の羽目に沿うて、隣の広い地内との境を作っていた。人気のない地内には大きな古屋敷の左右に、荒れた小家が二、三軒あったが、立ち木が多く、草が茂っていた。奥深い母屋《おもや》の垠《はずれ》にある笹村の部屋は、垣根を乗り越すと、そこがすぐ離房《はなれ》と向い合って机の据えてある窓であった。
「何分ここまでは目が届かないものですから。」と女中は乗り越した垣根からこっちへ降りる足場などについて説明していたが、竹の朽ちた建仁寺垣《けんにんじがき》に、そんな形跡も認められなかった。
 笹村は部屋に音響のないのがたよりなかった。そしてこの十四、五日ばかり煩いの多かった頭を落ち着けようとして、机の前に坐って見たが、ここへ来て見ると、家で忘れられていたことが、いろいろに思い出されて来た。M先生から折々せつかれる仕事のこともそうであったが、自分がしばらく何も書かずにいることも不安であった。国にいる年老《としよ》った母親から来る手紙に、下宿へ出る前後から、まだ一度も返辞を書かなかったことなども、時々笹村の心を曇らした。笹村は先刻《さっき》抽斗を開けた時も、月の初めに家で受け取って、そのまま袂へ入れて持って来ると、封も切らずにしまっておいた手紙が一通目についた。笹村は長いあいだ、貧しく暮している母親に、送るべきものも送れずにいた。
 そこらが薄暗くなっているのに気がつくと、笹村はマッチを摺《す》ってランプを点《つ》けて見たが、余熱《ほとぼり》のまだ冷《さ》めない部屋は、息苦しいほど暑かった。急にまた先生の方のことが気になって、下宿を出ると、足が自然にそっちへ向いた。笹村はこれまでにもちょっとした反抗心から、長く先生に背《そむ》いていると、何かしら一種の心寂しさと不安を感ずることがたびたびあった。
 先生はちょうど按摩《あんま》を取って寝ていた。七月に入ってから、先生の体は一層衰弱して来た。腰を懈《だる》がって、寄って行く人に時々|揉《も》ませなどしていた。唯一の頼みにしていた白屈菜《くさのおう》を、ある薬剤の大家に製薬させて服《の》んでいたが、大してそれの効験《ききめ》のないことも判って来た。
 笹村は玄関から茶の室《ま》へ顔を出して、夫人《おくさん》に先生の容態を尋ねなどした。
「先刻《さっき》も着物を着替えるとき、ああすっかり痩せてしまった、こんなにしても快《よ》くならないようじゃとても望みがないんだろうって、じれじれしているんですよ、しかし笹村も癒《なお》ったくらいだから、涼気《すずけ》でも立ったら、ちっとはいい方へ向くかしらんなんてそう言っていますの。」
 先生のじれている様子を想像しながら、笹村は玄関を出た。
 そこから遠くもないI氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下《した》の部屋へ入ると、そこには綺麗な簾《すだれ》のかかった縁の檐《のき》に、岐阜提灯《ぎふぢょうちん》などが点《とも》されて、青い竹の垣根際には萩《はぎ》の軟かい枝が、友染《ゆうぜん》模様のように撓《たわ》んでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえに堆《うずたか》く積んである校正刷りも、I氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。

     三十

 客が帰ってしまうと、瀟洒《しょうしゃ》な浴衣に薄鼠の兵児帯《へこおび》をぐるぐる捲《ま》きにして主が降りて来たが、何となく顔が冴《さ》え冴《ざ》えしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装《なり》の好みや部屋の装飾《つくり》は、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥には媚《なまめ》いた女の声などが聞えていた。草双紙《くさぞうし》の絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もう弄《いじ》りだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、I氏は刻み莨を撮《つま》みながら、健かな呼吸《いき》の音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂《かぐらざか》に見えたのは、大分たってからであった。O氏は去年迎えた細君と、少し奥まったところに家を持っていた。I氏の家を出た笹村は足がまた自然《ひとりで》にそっちへ向いて行った。O氏は二階の手摺《てす》り際へ籐椅子《とういす》を持ち出して、午後からの創作に疲れた頭を安めていたが、本をぎっしり詰め込んだ大きな書棚や、古い装飾品のこてこて飾られた部屋が入りつけている笹村の目には、寂しい自分の書斎よりも一層懐かしかった。机のうえに心《しん》を細くしたランプがおかれて消しや書入れの多い原稿がその前にあった。
 二人はO氏の庭に植えるような草花を見て歩いたが、笹村は始終いらいらしたような心持でいながら、書生をつれたO氏にやはりついて歩いた。坂の下で、これも草花を猟《あさ》りに出て来たI氏に行き逢った。植木の並んだ坂の下は人影がまばらであった。そこでO氏は台湾葭《たいわんよし》のようなものを見つけるとそれを二株ばかり買って、書生に持たせて帰した。I氏は花物の鉢を提げて帰って行った。
 O氏は残った小銭で、ビーヤホールへ咽喉《のど》の渇きを癒《いや》しに入ったが、笹村も一緒にそこへ入って行った。二人は奥まった部屋で、ハムなどを突ッつきながら、しばらく話してから外へ出た。
 往来の雑沓《ざっとう》は大分|鎮《しず》まっていた。O氏に別れた笹村は暗い横町からぬけて、人気のない宿へ帰って来た。
「僕の宿へ来てみないかね。」
 別れる時笹村はO氏を誘って見た。
「いや休《よ》そう。君の下宿もつまらんでね。」
 下宿では衆《みんな》が寝静まっていた。長い廊下を伝うて、自分の部屋へ入ると、戸を閉めきった室内には、まだ晩方の余熱《ほとぼり》が籠っていた。笹村は高い方の小窓をすかして、しばらく風を入れていたが、するうち疲れた体を蒲団のうえに横たえた。
 二、三日笹村は、朝の涼しいうちから仕事に取りかかった。前の離房《はなれ》の二室へは、急に下町の商家の内儀《おかみ》らしい、四十前後の女が、息をぬきに来たという風で入って来た。どこか体に悪いところのあるようなその女は、毎日枕を出して臥《ね》そべっていた。時々三十ばかりの女が小さい娘をつれて訪ねて来ると、水菓子などを食べて、気楽そうに半日|喋舌《しゃべ》って遊んで行った。宿の娘から借りた琴が、主人公の方の懈《だる》い唄の声につれて掻き鳴らされた。
「騒々しくてしかたがない。」
 笹村は給仕している女中に顔を顰《しか》めたが、部屋を移ろうともしなかった。

     三十一

 二つに岐《わか》れた経済が持ちきれなくなって、笹村がほどなく下宿を引き払ったのは、谷中の友人の尽力でお銀の体のきまりがようやく着いてからであった。そのころには、甥もその姉婿につれられて、田舎へ帰っていた。
 甥はますます悪い方へ傾いていた。夜おそく浅草の方から車夫を引っ張って帰ったり、多勢の仲間をつれ込んで来て、叔父を威嚇《いかく》するようなこともしかねなかった。同勢は空屋《あきや》へ寄って来てほしいままに酒を呷《あお》ったり、四辺《あたり》憚《はばか》らぬ高声で流行唄を謳《うた》ったりした。
「どうか漬物を少し。」などと、腕まくりした年嵩《としかさ》の青年が、裏口から酔っぱらって来てお銀に強請《ねだ》った。
「新を呼んでおいで。」と、笹村は顔色を変えていた。
「うっちゃっておおきなさいよ。おっかなくてとても寄りつけませんから。」
 お銀は裏から覗いて来ては、その様子を笹村に話した。
 同勢は近所の酒屋や、天麩羅屋《てんぷらや》などを脅《おど》かした。
「叔父さんが何か言や、殺してしまうなんて言ってますよ。」
 笹村はお銀からこんなことも一、二度聞いた。
「おい、お前は己を殺すとか言ってるそうだが……。」
 笹村は日暮れ方に外から帰って来た甥の顔を見ると、いきなり詰《なじ》った。
 酒気を帯びていた甥は坐りもしなかった。そして、「殺してやろう。」と嶮しい目をしながら、台所の方へ刃物を取りに行った。
「あなたあなたお逃げなさいよ。」
 お銀がけたたましく叫ぶまもなく、出刃を持った甥が、後からお銀に支えられながら入って来た。
 台所で水甕《みずがめ》のひっくらかえる音などを聞きつけて、隣に借家していた大学生が裏口へ飛び出して来てくれた。
 外へ逃げ出した笹村が、家へ入って来たころには、甥の姿はもうそこには見えなかった。
「あんな優しい顔していて随分乱暴なことをするじゃありませんか」
 お銀は一晩気味悪がっていたが、笹村もあまりいい気持がしていなかった。そして甥が行李の底に収《しま》っていた白鞘《しらさや》の短刀を捜したが、それは見つからなくて、代りに笹村が大切に保存していたある人の手蹟を留《とど》めた唐扇《とうせん》などが出て来た。
 笹村の従弟《いとこ》にあたる甥の義兄が、賺《すか》して連れて行ってからも、笹村の頭には始終一種の痛みが残っていた。変人の笹村は、従弟などによく思われていなかった。
「あの方は、新ちゃんのことをそんなに悪くも思っていないですよ。」
 お銀も二人を送り出してから、それを気にしていた。
 友人がお銀のことについて、笹村の意嚮《いこう》を確かめに来たのは、そんな騒ぎがあってから間もなくであった。それまでに二人はたびたび顔を合わして、そのことを話し合っていた。笹村は相変らずM先生の仕事を急いでいたが、別れる別れぬの利害が、二人のあいだにしばらく評議された。
「僕の母なぞは別れるのは不賛成なんだが、とにかく子供のあまり大きくならんうちに片づけてしまいたまえ、手切れさえやればむろん承知するよ。それも君の言う半分で、大抵話がつこうと思う。」
 世故《せこ》に長《た》けた友人は、そう言って下宿を出て行った。
「君のこともちっとは悪く言うかも知れんから、それは承知していてくれたまえ。」友人は出るとき笹村に念を押した。
 友人が帰って来るまでには、大分手間が取れた。笹村は寝転んだり起きたりして、心に落着きがなかった。そしてそれがいずれへ転んだ方が幸いなのか自身に判断がつかなかった。強《し》いて判断しようとも思っていなかった。
「いろいろ逢って話をしてみたがね。」友人は笹村の部屋へ引き返して来ると、予期と反したような顔をして、低声《こごえ》で言った。
「あれは君、一緒になった方がかえっていいかも知れないね。」友人は息をついでから断《き》れ断《ぎ》れに話し出した。
「君のあの女に対する態度から、あの女が今日まで君のために尽して来たことなどを聞くと、先方《さき》の言い分にも理窟《りくつ》があるよ。それにだんだん話してみると苦労もしているし、相当にわけも解っているようなんだ。本人の考えも、僕らの思惑《おもわく》とちっと違ったところもある。第一、乳を呑ましている赤ちゃんの顔を眺めて泣かれるには、僕も閉口したよ。」
 一緒になる場合の条件などについて、二人はしばらく語り合った。
「ちょッと男をチャームするところのある女だ。」友人は呟いた。
「いずれ話のすんだ時分に僕も後から行こう。」笹村は再び出向いて行く友人を送り出しながら言った。

     三十二

 友人が一緒になる場合の条件などを提げて出て行ってから、二時間ばかり経つと、笹村も撓《たわ》められた竹が旧《もと》へ弾《は》ね返るような心持で家へ帰った。
 夜になってから、三人は奥の六畳で花など引いて遊んだ。女の態度や仕打ちについて、笹村の始終友人に零《こぼ》していたことが、その日の女の弁解でほぼ友人の胸に釈《と》けていたことは、友人の口吻《くちぶり》でも受け取ることが出来た。女の言うことには、きちんとした条理が立っていた。
「僕も笹村君とは長いあいだのお交際《つきあい》ですが、今度のように困ったことはかつてなかったですよ。」と、いきなり友人の打《ぶ》っつかって行った時に、女は黙って聞いていた。
「……とにかく僕に委《まか》して下さい。別れてからあなたが商売でもしようと言うのなら、及ばずながら僕も出来るだけの心配はして見るつもりです、決して悪いようにはしない。」
 友人はそこまで話を進めて行った。
 女は笹村に対する自分の態度についてかえって友人に批判を仰ごうとした。夜具一つなかったこの家へ来てからの自分の骨折り――笹村のおそろしい気むらなこと、苦しい体をして始終質屋通いまでしたこと、自分の手で拵えた金で、ちょいちょい笹村の急場を救ったことなどが言い出された。
「笹村も、私が何か欲にでも絡《から》んでこの家にいるようなことを始終言いますけれど、そのくらいなら私だってもっと行くところもありますんです。私もこの子には引かされますし、一度|失敗《しくじ》ってもいるものですから、今度またまごつくようなことでもあれば、それこそ親類に顔向けも出来ませんのでございます。」
 母親も重い口で、傍から言い添えるのであった。
 そんな話の順序や、お銀のその時の態度は、友人の簡短な話で想像することが出来た。笹村は冷たいようなその条理だけは拒むことは出来なかった。そして一緒になるについても不服はなかったが、女の心持がしみじみ自分の胸に通って来るとは思えなかった。打ち解けたときの女の様子や口の利き方には心を惹《ひ》かれるところがあったが、温かい感情の融け合うようなことはあまりなかった。笹村の頭の底には、そこに淡い不満も暗い優愁もあったが、今はそれを深く顧みる余裕もなかった。
 花はかなりにはずんだ。頭脳《あたま》の悪い笹村は引いているうちに、時々札の見えなくなるようなことがあった。そして思いがけないところで、思いがけない手違いをやった。お銀は笹村を庇護《かば》うようにしては、花が引きづらかった。
 お銀の手で、青が出来かかった時、じらしていた友人が、牡丹《ぼたん》を一枚すんなりしたその掌《てのひら》に載せて、剽軽《ひょうきん》な手容《てつき》でちらりとお銀の目前《めさき》へ突きつけて見せた。
「お気の毒さま、一人で花を引いてるんじゃありませんよ。」
「ちょッ憎らしい。」お銀はぴしゃんとその手を打った。
 花札が箱のなかへしまい込まれたのは、大分遅かった。皆の顔には疲労の色が見えていた。笹村は頭がぼうッとしていた。
「どうもとんだ御心配をかけまして、有難うございました。おかまいもしませんで……お家へもどうぞよろしく……。」
 しばらく話をしてから、帰って行く友人を送り出しながら、お銀は戸を締めて入って来た。髪を引詰《ひっつ》めに結ったその顔は、近ごろようやく肉があがりかけて来た。
 笹村はランプを瞶《みつ》めながら、舌にいらいらする手捲き莨を喫《ふか》していたが、今日話をきめてしまったことが何となく悔いられるようにも思えて来た。花を引いていた間の女のだらけたような態度が腑《ふ》に落ちかねるような気もした。
「ああいう軽卒《かるはずみ》なことは慎んでもらいたい。」
 笹村はお銀が友人の手を打った時のことを口へ出して言った。
「あれがBさんだったからいいようなものの、ほかの人だったら、随分変に思うだろう。あんなことをしてお前ははずかしいとも思わんのか。」
「……ちッとも気がつきませんでしたよ。私そんなことをして。それは花を引いているんですから、そう硬くばかりもしていられませんから、調子に乗ってしたかも知れませんけれど……。」
 お銀はそう言いながら、子供に乳房を含ませた。そんなことを気にする笹村の言い草がかえって不思議に思われた。

     三十三

 仕事は少しずつ捗取《はかど》って来た。進行するにつれて原文に昵《なず》んでも来たし、訂正の骨《こつ》も自然《ひとりで》に会得されて来た。作そのものにも興味が出て来た。それに長いあいだの問題が、とにかくひとまず解決を告げたので、いくらか頭も軽くなっていたから、息もつかずずんずん筆を着けて行くことが出来た。
 二、三日手から放さなかった筆をおいて、笹村はふと想い出したように家の方へ行って見た。入って行くと、子供は産衣《うぶぎ》そのままの姿《なり》で、蚤《のみ》を避けるために、風通しのよい窓の側に取り出した一閑張りの広い机のうえに寝かされてあった。八月の半ばすぎで、暑さはまだ烈《はげ》しかった。子供の目の先には、くるくる風に廻っている風車などがあった。笹村はその顔を見ると、哀れなような気がした。
 お銀は箪笥《たんす》のうえにおいてあった浴衣地を卸《おろ》して来て、笹村に示《み》せた。
「もう正一のお宮詣《みやまい》りですよ、着のみ着のままであまり可哀そうですから、私|昨夜《ゆうべ》こんなものを二枚分買って来ましたの。安いもんじゃありませんか、これでようやく七十五銭……。」と言って、お銀は淋しい笑い方をした。
 笹村は窓の傍に腕まくりをしながら、脚を投げ出していた。母親は台所で行水の湯を沸かしていた。
「この子に初めて拵える着物が七十五銭なんて、私可哀そうなような気がして……。」と、お銀は涙含《なみだぐ》んでいた。
「一枚でたくさんじゃないか。それにこの柄というのはないな。」笹村は呟いた。
「そう言うけれど、ちょっといいじゃありませんか。子供にはこういうものがいいんですよ。それに有片《ありぎれ》だから、不足も言えませんわ。」
「医師《いしゃ》の話のところへ、くれてやればよかったんだ。」
「でもまアいいわ。いくら物がなくたって、他人の手に育つことを考えれば……。」
 お銀はせめて銘仙《めいせん》かメリンスぐらいで拵えてやりたかったが、それを待っていると拵える時が来そうにも思えなかった。
「それに、お宮詣りに行かないとしても、祝ってもらったところへだけは配り物をしなければなりませんからね。先の煙草屋などでは、毎日それを聞いてるんですよ。ここはお品のわるいところですけれど、そう貧乏人はいませんからね、出来ることなら氏神さまへ連れて行ってやりたいんですがね。」
 西日のさす台所で、丹念な母親は子供に行水をつかわせた。お銀も袂を捲《まく》りあげて、それを手伝った。やがてタオルで拭かれた子供の赭《あか》い体には、まだらに天花粉《てんかふん》がまぶされた。
「きれいな子ですよ。お腫物《でき》一つできない……。」と言って、お銀は餅々《もちもち》したその腿《もも》のあたりを撫でながら、ばさばさした襁褓《むつき》を配《あてが》ってやった。子供は吹き込む風に、心持よさそうに手足をばちゃばちゃさしていた。
 夕方飯がすんでから、笹村はM先生のもとを訪ねた。先生は涼しい階下《した》の離房《はなれ》の方へ床をのべて臥《ね》ていた。そのころ先生の腫物《しゅもつ》は大分痛みだしていた。面変《おもかわ》りしたような顔にも苦悶《くもん》の迹《あと》が見えて、話しているうちに、時々意識がぼんやりして来るようなことがあった。起き直るのも大儀そうであった。
 笹村は下宿の不自由で、仕事をするに都合の悪いこと、そこを引き払いたいということなどを話して、それとなく金を要求した。
「なにか用だったか。」
 先生はまるで見当違いの挨拶をした。口の利き方もいつものような明晰《めいせき》を欠いていた。病勢のおそろしく増進して来た先生の内部には、生きようとする苦しい努力、はかない悶《もだ》えがあった。日ごとに反抗の力の弱って行く先生は、笹村の苦しい事情に耳を傾けるどころではなかった。
「己もまだ先方から受け取らんのだから……。」と先生はしぶしぶ傍にあった鞄から、札を幾枚か取り出して笹村に渡した。そんな鞄を控えているということは、先生のこれまでには見られない図であった。
 笹村は疚《やま》しいような気がした。原稿の出来るのと、先生の死と――いずれが先になるか、それは笹村にも解っていなかった。

     三十四

 とにかく下宿を引き払って来た笹村は、また旧《もと》の四畳半へ机を据えることになった。近所にはその一ト夏のあいだに、人が大分|殖《ふ》えていた。正一と前後して産れたような子供を抱いて、晩方門に立っている内儀さんの姿も、ちらほら笹村の目についた。お銀がよくつれて来て、菓子をくれたり御飯を食べさしたりして懐《なつ》けていた四ツばかりの可愛い男の子も、しばらく見ぬまに大分大きくなっていた。その子は近所のある有福な棟梁《とうりょう》の家の実の姉弟《きょうだい》なかに産れたのだという話であった。
「自分に子をもってみると、世間の子供が目について来るから不思議ですね。」
 お銀は格子に掴《つか》まって、窓へ上ったり下りたりしているその子供の姿をじっと眺めていた。その姿はどこか影が薄いようにも思えた。
「今のうちは何にも知らないで、こうやって遊んでいるけれど、大きくなったら、これでもいろいろのことを考えるでしょうよ。」
 笹村も陰気なその家のことを考えないわけに行かなかった。嫁に行くこともできずにいる子供の母親は、近ごろまた年取った町内の頭《かしら》とおかしいなかになっていた。
 向うの煎餅屋《せんべいや》の娘が、二つになる男の子を、お銀のところへ連れ込んで来て、不幸な自分の身のうえを話しながら、子供の顔を眺めて泣いていた。その子供の父親は、芝の方のある大きな地主の道楽|子息《むすこ》であった。そして今は親から勘当されて、入獄していた。子供は女がお茶屋に奉公している時に出来たのであった。お銀も貰い泣きをしながら、子供に涎掛《よだれか》けを出してくれなどした。
「あの子は育たないかも知れませんよ。阿母《おっか》さんは心配して乳が上っているんですもの。脚など、自家《うち》の子くらいしけアありませんよ。」
「死ねばあの女の体も浮ぶんだろうが……。」と、そういう笹村は、まだ子供を育てるような心持になりきっていなかったが、それでも子供の病気をした時には、心を惹《ひ》きつけられずにはいられなかった。
 夕方お銀に抱かれて、表を見せられていた子供は、不意にどーッと乳を吐き出して、泣くことも出来ずに苦しんだ。
「あなたあなた、正一が大変ですよ……。」と、お銀は叫びながら家へ駈《か》け込んで来た。
 子供は先天的に、胃腸の弱い父親の素質を受け継いでいるように思えた。お銀は急いで医者へ連れて行ったが、その晩は徹宵《よっぴて》母親が床のうえに坐って、冷えやすい病児の腹を、自分の体で温めていた。笹村はしみ着くようなその泣き声に幾度となく目を覚まされたが、無慈悲な考えが時々頭に閃いていた。
 久しくお銀|母子《おやこ》が顔を見せなかったので、下谷の親類の婆さんがある日の晩方、不意に訪ねて来た。子供を寝かしつけていたお銀は、頓狂《とんきょう》なその声が耳に入ると、急いで裏へ子供を抱き出したが、小さい枕だけは隠す隙《ひま》がなかった。
「どうしたえ、この枕は……。」と、婆さんはじろじろそれを眺めていた。
 お銀は笑い笑い、やがて子供を抱いて入って来た。
「お前の子かえ、それは……。」婆さんも笑い出した。
「道理で様子が変だと思った。倅《せがれ》などはとうから気がついていたぞえ。」

     三十五

 この婆さんの報知《しらせ》で上京して来たお銀の父親が、また田舎へ引き返して行ってから間もなく籍が笹村の方へ送られた。
 東京でもいろいろのことをやって味噌《みそ》をつけて行った父親は、製糸事業で失敗してから、それを挽回《ばんかい》しようとして気を焦燥《あせ》った結果、株でまた手痛くやられた、自分の甥にあたる本家の方の家の始末などにかかっていた。それが婆さんの二番目の子息《むすこ》になる欽也《きんや》という医者に伴《つ》れられて、笹村の家へ来たのは、もう朝晩に袷羽織《あわせばおり》がほしいような時節であった。笹村は、それまでにその欽也という男に二度も逢っていた。遠い縁家先のある旧家を継ぐことになっていた欽也は、お銀からは「兄さん兄さん」と呼ばれていた。欽也がお銀を妹以上に愛していることも、笹村の目に見えた。
「おばさんは、私と兄さんと一緒にするつもりか何かだったんでしょうけれど……。」と、お銀は古い時分からのことを言い出して、淋しく笑っていた。「兄さんを一度呼んで下さいよ。」と、お銀は笹村に強請《ねだ》り強請りしていた。
 一度谷中の友人と、その時も花を引いていたのを機会として、笹村は車夫に腕車《くるま》を持たせて迎えにやった。欽也は気取った医師《いしゃ》らしい風をしてじきにやって来たが、笹村の方からもその後お銀と一緒に出かけて行った。そして連れ立って寄席《よせ》など聞きに入った。子好きの欽也はいつでも正一を手から放さなかった。
 五十五、六にもなったかと思われるお銀の父親は無口な行儀のよい人であった。噂に聞いていた、酒と女とで身代を潰《つぶ》した男とは受け取れぬほどであった。
「父もしばらくのまにめっきり弱ってしまいましたよ。前に東京にいたころはあんなじゃなかったんですがね。」と、お銀はその晩酒に酔った父親が、寝所へ入ってから笹村に話しかけた。
「年のせいもあるでしょうけれど、本家が潰れかかっているので、すっかり力を落したんでしょうよ。父は、自分はどんなめちゃをやっても、本家があるからという気が、始終していたんですからね。」
 そういうお銀自身も、それには少からず失望しているらしかった。
 笹村はそんなことを考えてみようとも思っていなかった。お銀の生立ち、前生涯《ぜんしょうがい》、家柄、その周囲の人たち――そんなことは、自分の祖先のことすら聞こうとしたことのない笹村には、一顧の価値すらなかった。笹村は時々兄から祖先のことを言い聞かされることがないでもなかった。自分の母親の実家に伝わったいろいろの伝説なども小耳に挟《はさ》んでいた。朝鮮征伐から分捕《ぶんど》って来た荒仏《あらぼとけ》、その時代の諸将の書翰《しょかん》、太閤《たいこう》の墨附《すみつき》……そんなような物をいろいろ見せられた幼時の記憶も長いあいだ忘られていた。時々振り顧って見る気になるのは、自分の体質の似ているといわれた母方の祖父ぐらいのものであった。その祖父は公債を友人に横領されたのを憤って、その男を刺して自分も割腹して死んだといわれていた。零落《おちぶ》れた家の後添えの腹に三男として産れて、頽廃《たいはい》した空気のなかに生い立って来た笹村の頭には、家庭とか家族とかいうような観念もおのずから薄かった。はかない芸術上の努力で、どうかして生きられるものならば……と、それに縋《すが》りついて、この六、七年一日一日と引き摺《ず》られて来た笹村は、お銀との長い将来のことなどは、少しも考えていなかった。
「君の頭脳《あたま》で、まアとにかくあの女を躾《しつ》けて行きたまえ。」
 こう言ってくれた友人の言葉にも、笹村は全く無感覚であった。
 翌日笹村が起きたとき、父親は母親と一緒に茶の間で朝茶を飲んでいた。こうして一緒に茶を飲むなどということの、近来めったになかった母親の顔には、包みきれぬ喜悦《よろこび》の色があった。大分経ってから後で知ったことではあったが、昔二人が狎《な》れ合った時のことが、笹村にも想像され得るようであった。

     三十六

 M先生が病苦を忘れるために折々試みていたモルヒネ注射も、秋のころは不断のようになっていた。注射が効力をもっている間の先生の頭脳《あたま》は、頸垂《うなだ》れた草花が夜露に霑《うるお》ったようなものであった。
「何ともいえぬ微妙な心持だ。」と言って、先生も限られたその時間の消えて行くのを惜しみ惜しみした。
 先生の仕事のもう揚《あが》っている笹村は、慌忙《あわただ》しいような心持で、自分の創作に執りかかっていた筆をおいて、時々先生の様子を見に行った。衆《みんな》は交替に、寂しい病室に夜のお伽《とぎ》をすることになっていた。先生の発言で、めいめい食べ物を持ち寄って、それを拡げながら夜すがら酒をちびちび飲んでいることもあった。お銀は笹村のために、鶏と松茸《まつたけ》などを蓋物に盛った。
「うまいものを食っているね。」などと、先生は戯れた。
 ある日も笹村は、八時ごろまで書いていて、それから思い出して出かけた。雨風のかなり劇しい晩で、町には人通りも少かった。
 床ずれの痛い寝所《ねどこ》にも飽いて、しばらく安楽椅子にかかっている先生の面《おもて》はすっかり変っていた。浅黒かった皮膚の色が、蚕児《かいこ》のような蒼白さをもって、じっと目を瞑《つむ》っている時は、石像のように気高く見えた。髪も短く刈り込まれてあった。先生が睡りに沈んで来ると、衆《みんな》は次の室へ引き揚げた。来合わせていた某《なにがし》の画家が、そこにあった画仙紙《がせんし》などを拡げて、とぼけた漫画の筆を揮《ふる》った。先生や皆の似顔なども描かれた。俳句や狂句のようなものも、思い思いに書きつけられた。夜が更けるにつれて、興も深くなって来た。その笑い声が、ふと先生の睡りをさました。
「あーッ。」と長い溜息が、持て余しているような先生の躯《からだ》から漏《も》れて来た。じろりと皆の顔を見る目のうちにも、包みきれぬ不安があった。
「どれお見せ。」
 いらいらしたような先生の顔には、淋しい微笑の影がさして来た。そして自身にも筆を取って、句案に耽《ふけ》った。
 夜があけてから、一同はそこを引き揚げた。山の手の町には、柿の葉などが道に落ち散って、生暖かい風に青臭い匂いがあった。
「先生は自覚しているんだろうか。」
「家族の人たちを失望させたくないために、わざとああした態度を取っていられるようにも見えるね。しかし病人の頭は案外暗いからね。」
 門を出てからO氏と笹村とはこんな話をしながら行《ある》いていた。
 初めて惨《いた》ましい診断を受けたおりの先生に対した時の絶望の心持は、二人の胸に少しずつ萎《な》やされていた。
「もう癌《がん》は胃の方ばかりじゃないそうだ。咽喉《のど》の辺へも来ているということだ。」
 こんな私語《ささやき》が、誰からともなく皆の耳に伝わったころには、笹村も先生と話をするような機会があまりなかった。
 医師の発言で使いや電報がそれぞれ近親の人たちの家へ差し向けられたのは、それから間もないある夜の深更であった。
 高く積みあげられた病床の周《まわ》りへ、人々はぽつぽつ寄って来た。
「こら、こんなだ。」と、心臓の悪いある画伯が、真先に駈け着けて来ると、蒼い顔をしてせいせい息をはずませながら入って来た。
 昏睡《こんすい》状態にあった患者が、朝注射で蘇《よみがえ》ったように※[#「目+爭」、第3水準1-88-85、226-下-19]《みひら》いた目に、取り捲《ま》いている多勢の人の顔がふと映った。部屋にはしめやかな不安の空気が漲《みなぎ》っていた。静かに段梯子を上り下りする跫音《あしおと》も聞えた。そして、それが患者におそろしい暗示を与えた。

     三十七

 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつ鎮《しず》まって来ると、先生は時々近親の人たちと語《ことば》を交しなどした。その調子は常時《いつも》と大した変りはなかった。
 興奮――むしろ激昂《げっこう》した時の先生の頭脳《あたま》はいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、啜《すす》りあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調に復《かえ》った。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸《しがい》を医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑《ほほえ》んだ。
「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、曇《うる》んだ目にじろりと見廻した。
「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。
 腰に絡《まつわ》りついている婦人連の歔欷《すすりなき》が、しめやかに聞えていた。二階一杯に塞《ふさ》がった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。
 先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。
 葬式が出るまでには、笹村は二度も家へ帰った。急いで書き揚げられた原稿を売りに、ある雑誌の編輯者《へんしゅうしゃ》の自宅を訪ねなどもした。生前M先生と交渉のなかったその記者は、周りにいろいろの陶器を集めて楽しんでいた。そしてとろ[#「とろ」に傍点]火で湯を沸かしてある支那製の古い土瓶について説明して聞かした。
 薄汚い焼物が、棚から卸《おろ》されたり、箱のなかから恭《うやうや》しく取り出されたりした。そして一々説明が附せられた。その記者が書きかけている小説の思構《しこう》なども話された。それは昔の吉原の地震を材料にしたもので、仏教から得て来た因果律のような観念が加わっていた。
 笹村は厭な顔もせずに、それを聴いていたが、葬式の時の自分の準備のことが気にかかった。話好きの記者は、サビタのパイプを磨《みが》きながら、話をいろいろの方へ持って行った。
 牛込へ帰って来ると、今朝しとしと降る雨のなかを、縁先から釣り台に載せられて、解剖室の方へ運ばれて行った先生の死骸が、また旧のとおり綺麗に縫いあわされて、戻って来てから、大分経った後であった。玄関には弔《くやみ》に来る人影もまだまれであった。
「先生はやはり異常な脳を持っていられたそうだ。」
 玄関ではそんな話が始まっていた。
「どうして解剖などということを言い出したろう。」
 笹村は死際までも幾分人間|衒気《げんき》のついて廻ったような、先生の言出しを思わないわけに行かなかった。
「私もお葬式《とむらい》が見たい。」
 支度をしに、笹村が家へ帰ったときお銀は甘えるように言ったが、先に半年ばかり縁づいていた家の親類のいる牛込のその界隈が、心遣《こころづか》いでもあった。
 葬式の出る前は沸騰《にえかえ》るようなごたつきであった。家の内外《うちそと》には、ぎッしり人が塞《つま》って、それが秩序もなく動いていた。
 葬式から帰って来た笹村の顔は、疲れきっていた。
「私|腕車《くるま》で駈けつけたけれど、お葬式《とむらい》が今そこへ行ったという後……。」と、お銀は婦人たちの様子などを聞きたがった。
 笹村は晴れがましくもない自分の姿を、誰にも見られたいとは思わなかった。

     三十八

 町内の頭《かしら》の手で、笹竹がまた門に立てられた。笹村はかさかさと北風に鳴るその音を耳にしながら、急《せ》き立てられるような心持で、田舎へ送る長い原稿を書いていた。笹村の肩には、去年の暮よりか一層重い荷がかかっていた。生活もいくらか複雑になっていた。そしてその原稿を抱いて、朝|夙《はや》く麹町《こうじまち》の方にいるある仲介者の家を訪ねたのは、町にすっかり春の装いが出来たころであった。久しく一室《ひとま》に閉じ籠ってばかりいた笹村の目には、忙しい暮の町は何となく心持よかったが、持っている原稿の成行きは心元なかった。笹村はこれまでにも、幾度となくこんな場合を経験していた。そして天分の薄い自分の寂しい身の周《まわ》りを見廻さないわけに行かなかった。
「これが外れると大変ね。」
 その日双方の思惑《おもわく》ちがいで、要領を得ずに帰って来た笹村の傍へ来てお銀は心配そうに言い出した。
 赤児が持っている一種の厭な臭《にお》いのよやくぬけて来た正一を、笹村は時々机の傍へ抱き出して来て、弄《いじ》りものにした。そして終《しま》いには泣かした。
「可哀そうに、あなたあまりしつこいから……。」
 お銀は抓《つね》られたり、噛《か》まれたりする子供を抱き取りながら、乳房を口に当てがった。
 思い立って人の少い朝湯へ連れて行くこともあった。するとその後からお銀がタオルを持って、揚げに来た。
「お父さんは赤ン坊を扱うのが上手ですよ。」
 お銀は帰って来ると母親に話した。
 赤ン坊はこの町の裏にいる、ある貧民の娘の背《せなか》に負《おぶ》われて、近所の寺の境内や、日当りのよい駄菓子屋の店頭《みせさき》へ連れて行かれたが、外で賺《すか》しに菓子などを口へ入れられて、腹を壊すことも間々あった。お銀は困っているその子守の家族の口を、一人でも減らすのを功徳のように考えていたが、それも長くは続かなかった。
「こんな寒い砂埃のなかへ、病気をしてるものを出しておいちゃいけない。」
 余所《よそ》から帰って来た笹村は、骨張った子守の背に縛られて、ぐったりしている子供の顔を見て、家へ入って来ると、いきなりむつかしい顔をした。
「二人まで女がいて、あまり気なしじゃないか。それに負わしておくということが、一体子供の体によくないのだ。」
 お銀は急いで子守を呼びに行った。子守りの家では、亭主に死なれた母親が、棕櫚縄《しゅろなわ》などを綯《よ》って、多勢の子供を育てていた。お銀はその家の惨めな様子をよく知っていた。
「田舎の百姓家じゃ、一日負い通しだけどね。それでも子供は皆丈夫で……。」
 母親は言いわけらしく言った。お銀も弟たちのかかって来た子守の乱暴であったことや、自分たちを蒲団捲きにしたり、夜更《よなか》に閉め出しを食わしたりした父親の気の荒かったことなどを話し出して笑った。おぼろげに目に残っている田舎家の様子や、幼時の自分の姿が懐かしげに思い出された。
「それでも皆なこうして育って来たんですからね。それで私が子持ちになるなんて……。」
 押し詰ってから、思わぬ方から思わぬ金が入って来たりなどして、お銀は急に心が浮き立った。そして春の支度に、ちょいちょい外へ買物に出かけた。笹村も一緒に出かけて、瀬戸物などを提げて帰ることもあった。晦日《みそか》になると、狭い部屋のなかには鏡餅《かがみもち》や飾り藁《わら》のようなものが一杯に散らかって、お銀の下駄の音が夜おそくまで家を出たり入ったりしていた。母親も台所でいそいそ働いていた。神棚には新しい注連《しめ》が張られて燈明が赤々と照っていた。
 笹村は余所の騒ぎを見せられているような気がしないでもなかった。そして、それを引っ掻き廻さなくてはいられなかった。
「そんな大きな鏡餅《もの》を何にするんだ。」
 笹村はふと頭が曇って来ると、得意になって二人のしていることに、片端から非《けち》をつけずにはいられなかった。

     三十九

 正月は淋しく過ぎた。気むずかしい笹村の部屋へは、しょうことなしに小さい方を据えた鏡餅の側に、貧相な鉢植えの梅の花弁《はなびら》が干からびて、机の傍は相変らず淋しかった。笹村は大阪にぶらぶら遊んでいた一昨年の今ごろのことが時々思い出された。そこでは新調のインバネスなどを着込んで動きのとれないような道頓堀のあたりを、毎日一人で歩いた。そして芝居や寄席《よせ》や飲食店のような人いきれのなかへ慕い寄って行った。
 時としては薄暗い、せせこましい路次のあいだに、当てどもなしに彷徨《うろつ》いているその姿が見出されたり、どこへも入りそびれて、思いがけない場末に、人気の少い鶏屋《とりや》などの二階の部屋の薄白い電燈の下で、淋しい晩飯にありついていたりした。それで懐が淋しくなって来ると、静かな郊外にある、兄の知合いの家に引っ込んで、刺戟《しげき》に疲れた頭を休めたり、仕事に耽《ふけ》ったりした。
 九州からの帰途、二度目に大阪を見舞った時には、二月も浸っていたそこのあくどい空気に堪えられないほど、飽き荒《すさ》んだ笹村の頭は冷やされかけていた。そして静かに思索や創作に耽られるような住居《すまい》を求めに、急いで東京へ帰った。
 笹村は自分の陥ちて来たところが、このごろようやく解って来たような気がした。
「どこかへ行こうか。」
 少し残った金を、机の抽斗《ひきだし》に入れていた笹村は、船や汽車や温泉宿で独り旅の淋しかったことを想い出していた。
「それから道具を少し買わなけア。家みたいに何にもない世帯もちょっとめずらしいですよ。」
 お銀は火鉢に寄りかかりながら部屋を見廻した。
「もし行くなら、一度坊やにお詣《まい》りをさせたいから成田さんへ連れて行って下さい。お鳥目《あし》がかからないでよござんすよ。」
「あすこなら人に逢う気遣いがないから、それもよかろう。鉱泉だけど、一晩くらい泊るにちょうどいい湯もあるし……」
「いつ行きます。」
「今日はもう遅いだろうか。」
「向うへ行けば日が暮れますね。」
 翌朝笹村が目をさますと、お銀はもう髪を束髪に結って、襦袢《じゅばん》の半衿《はんえり》などをつけていた。それは二月の末で、昨夜からの底冷えが強く、雪がちらちら降り出したが、それでも時々障子に日影がさして来た。
 汽車のなかで子供は雫《しずく》のたらたら流れる窓硝子《まどガラス》に手をかけて、お銀の膝に足を踏ん張りながら声を出して騒いだ。背後《うしろ》の方から、顔を覗《のぞ》いて慰《あや》したり、手を出しておいでおいでをする婦人などがあった。
 プラットホームを歩いて行くお銀の束髪姿は、笹村の目にもおかしかった。
「家鴨《あひる》のようだね。」
 笹村は後から呟いた。
「そんなに私肥っていて。」お銀は自分の姿を振り顧り振り顧りした。
 子供を車夫に抱かせて、二人はそっちこっちの石段を昇ったり降りたりしたが、明るい山内の空気は、少しも仏寺らしい感じを与えなかった。寄附金の額を鏤《ほ》りつけた石塔や札も、成田山らしく思えた。笹村は御護符《おごふ》や御札を欲にかかって買おうとするお銀を急《せ》き立てて、じきにそこを出た。
 周りに梅の老木の多い温泉宿《ゆやど》では、部屋がどれもがら空きであった。お銀は子供をお手かけ負《おんぶ》して、翌日《あくるひ》も一日広い廊下を歩いたり、小雨の霽《は》れ間《ま》を、高い崖《がけ》の上に仰がれる不動堂へ登ったりした。梅園には時々|鶯《うぐいす》が啼いて、その日も一日じめじめしていた。
「やっぱり自分の家が一番いい。」
 夕方雨戸が繰られるころになると、お銀は広い部屋に坐っていながら言い出した。


     四十

 子供が掴《つか》まり立ちをするころに、K―の手から裏の大工へ譲り渡されたその家を、笹村は立ち退かなければならなかった。大工は買い取るとすぐ改築の目算を立てたが、それ以前にK―から分割して借りていた裏の地所に、新築の借家がもう出来あがっていた。K―の借家は失敗に終ったが、大工の方は四軒建てて四軒とも明きがなかった。
「裏へ家が建つようでは、ここにもいられませんね、おまけに二階家と来てるんですもの。」
「出来あがったらそっちへ移ってもいいね。」
 笹村とお銀とはこんな話をしながら、時々裏へ出て見ていたが、家はいずれもせせッこましく厭味に出来ていた。
 壁が乾かぬうちに、もう贅沢な夜具やランプなどを担ぎ込んで来る人もあったが、それは出来星の紳士らしい、始終外で寝泊りしている独身ものであった。
「あの家は何をする人でしょうね。仕事に失敗して、どこか下町辺から家を畳んで来たらしいんですよ。」
 お銀は手摺りに干してある座蒲団の柄合いなどから、その人柄を嗅《か》ぎつけようとしていた。
 ある寒い朝、十時ごろに楊枝《ようじ》をつかいながら台所へ出て来た笹村の耳に、思い出したこともない国訛《くになま》りで弁《しゃべ》っている男女の声が聞えて来た。それがこっちの裏口と向い合っている真中の一軒へ入って来た若い夫婦であった。
 背のすらりとした、目鼻立ちのよく整ったその細君と、お銀はじきに懇意になった。気心が解って来ると、細君は茶の室《ま》へあがって来て、お国言葉丸出しで自分の身のうえを明け透《す》け話した。夫婦はついここへ来るまで、早稲田の方で下宿屋をやっていたが、東京なれぬ細君には勝手が解らなかった。そこから本郷の大学へ通っていた良人とは、国で芸者をしているころからの馴染みで年は七、八つ女の方が上であった。お銀も子供を抱いて、その家へよく話しに行ったが、男同士もじきに隔てのない仲になった。岡田というその男は、角帽子を冠って出るようなことはめったになかった。そして始終長火鉢の傍にへばり着いていた。
 子供はその細君の膝に引き取られて、頬を接吻《せっぷん》されたり抱き締められたりしていた。
 五月には、笹村が通りから買って来た内飾りが、その家の明るい二階に飾られた。ヒステレーの気味のあった細君は岡田が留守になると、独りで長火鉢の傍に、しくしく泣いているようなこともめずらしくなかった。二人で言合いをしている声も、時々裏から洩れ聞えた。
 お銀母子と、その時分寄宿していた笹村の親類先の私立大学へ出ている一人の青年との入っていられるような家を一軒取り決めて、荷物をそこへ運び込む時も、子供は半日岡田の細君の背《せなか》に負《おぶ》われていた。その家はそこから本郷に出る間の、ある通りの裏であったが、笹村はそこへ三人を落ち着かしてから、また自分の下宿を捜しに出なければならなかった。
「この家で、とうとうお正月を二度しましたね。」
 お銀は引越の日に、いろいろのものの取り出された押入れの前にベッタリ坐って、思いの深そうに言い出した。
「こんな家でも、さア出るとなると何だか厭な気のするもんですね。」
 笹村も、お銀が初めてここへ来てからのことが、思い出された。足かけ二年のあいだに、ここの台所の白い板敷きも、つるつると黝《くろ》い光沢《つや》をもって来た。
 時々袷羽織の欲しいような、風のじめつくころであった。笹村が持ち込んで来た行李に腰かけて、落着きのない家を見廻していると、岡田の細君は、背《せなか》で泣く子を揺《ゆす》りながら縁側をぶらぶらしていた。お銀はせッせとそこらを雑巾がけしていたが、時々思い出したように、「バア。」と子供の方へ顔を持って行っては、しゃがんで張って来る乳房を見せた。障子の取りはずされた縁側から吹き込む風が、まだ肌に寒いくらいであった。

     四十一

 笹村の出て行った下宿は、お銀たちのいるところからは、坂を一つ登った高台にあった。見晴しのいいバルコニーなどがあって、三階の方の部屋は軟か物などを着ている女中の所管《もち》と決まっていた。暑中休暇の来るまで笹村は落着き悪い二階の四畳半に閉じ籠っていたが、去年の夏いた牛込の宿よりは居心がよかった。
 気が塞《つま》って来ると、笹村はぶらぶら家の方へ行って見た。家には近所の菎蒻閻魔《こんにゃくえんま》の縁日から買って来た忍《しのぶ》が檐《のき》に釣られ、子供の悦ぶ金魚鉢などがおかれてあった。お銀は障子を伝い歩行《あるき》している子供の様子に目を配りながら、晩に笹村の食べるようなものを考えなどしていたが、笹村は余所《よそ》の家へでも来たように、柱に倚《よ》りかかって莨《たばこ》を喫《ふか》していた。笹村は下宿にいる人たちなどと、自分との距離の大分遠くなっていることを、しみじみ感じずにはいられなかった。下宿人のなかには、役所から退けて来ると、友達と一緒に夜おそくまで酒を飲んで、棋《ご》など打っている年老《としと》った紳士も二、三人紛れ込んでいたが、その心持は、周囲の学生連と大した相違はなさそうに見えた。それが笹村には羨《うらや》ましいようであった。
 夜になると、お銀は子供を抱え出して、坂のうえあたりまで一緒について来たが、子供に「ハイちゃい」をして下宿へ入って行く笹村は、下宿の空気とはどうしても融け合うことのできぬあるものが、胸にこだわっていた。もう試験を済ましてしまった学生連は、どこの部屋にも陽気な笑い声を立てていた。腕車《くるま》で飛び歩いている連中や、荷物を纏《まと》めている人たちもあった。笹村は台所の上になっている暑い自分の部屋を出て、バルコニーの方へ出ると、雨に晒《さら》された椅子に腰かけて、暗いなかで莨を喫《ふか》していた。そこへ二、三人の学生が出て来た。白粉の匂いのする女中たちも出て来た。
 笹村は齲歯《むしば》が痛み出して、その晩おそくまで眠られなかった。笹村は逆上《のぼ》せた頭脳《あたま》を冷《さ》まそうとして、男衆に戸を開けさせて外へ出た。外は雨がしぶしぶ降って、空は真闇《まっくら》であった。風も出ていた。その中を笹村は春日町《かすがちょう》の方へ降りて行った。
 暗い横町で、ばたばたと後を追っ駈けて来て体を検《しら》べる二人の角袖に出逢いなどしたが、足は自然《ひとりで》に家の方へ向いて行った。
「敵――の――生命《いのち》――と頼みたる……。」
 こんな軍歌の声に襲われながら、笹村は翌朝十時ごろようやく目がさめたが、睡眠不足の頭は一層重かった。軍歌は板塀を隔てた背後《うしろ》の家の子供が謳《うた》っているのであった。
 庭向きの下の座敷へ移ったころには、笹村も大分下宿に昵《なじ》んで来た。時々お銀に厭な気質を見せられると、笹村の神経は一時に尖って来た。そして寄食している法律書生を呼びつけて、別れる相談をした。そういう時の笹村は一刻《いっこく》に女を憎むべきものに思い窮《つ》めた。
「私だってこうしていてもつまらないから……。」
 女も、母親や書生の前で、負目《ひけめ》を見せまいとした。その言い草が一層女の経歴について笹村に悪いヒントを与えた。そして不断は胸の底に閉じ籠められていたようなことまでが、一時にそれぞれの意味をもって、笹村の頭をいら立たせた。
「お前たちはまるで妾根性《めかけこんじょう》か何かで、人の家にいるんだ。」
「ええ、どうせ私たちのような物の解らないものは、あなたのような方の家には向かないんです。」
 お銀は蒼い顔をしながら言い募った。
「それならそれで、父でも呼び寄せて話をつけて下さればいいのに、いくら法律を知っているたって、若山さんなどと相談して、まるで私たちを叩き出すようなことばかりなすって……。」
 いらいらした二人の心持は、どこまでもはぐれて馳《はし》らずにはいなかった。

     四十二

 一定の時が経つと、憎悪後悔の念が迹方《あとかた》もなく胸に拭《ぬぐ》い去られて、女はまた新しいもののように笹村の目に映った。そんな時のお銀は、初めて逢った時の女の印象を喚《よ》び起さすに十分であった。
 一日二日、笹村はまた家の人となっていた。そして下宿へ帰って来ても、頭はまた甘い追想に浸されていた。じきにまたそれの裏切られる時の来るのを考えようとすらしなかった。
「私はほんとに逐《お》い出されるかと思った。あなたはどうしてあんなでしょう。」
 お銀は発作的に来る笹村の感情の激変を不思議がらずにはいられなかった。
「僕も苦しい。」笹村も苦笑した。
「出て行くところがないと思って、ああ言うかと思うと、私もなお強味に出るんです。」お銀は笑いながら言い出した。
「お前の言い草も随分ひどいからね。嵩《かさ》にかかって来られると、理窟など言っている隙《ひま》がない。」
「私はまたあなたに、かッと来られると気がおどおどしてしまって、どうしてよいかさっぱり解らなくなってしまうんですよ。……それがやはり教育がないせいなんですねえ。そのために、私あなたの前でどのくらい気が引けるか知れない。親たちを怨《うら》みますよ。」お銀は萎《しお》れたような声で言った。
 笹村は、女に対する自分の態度の謬《あやま》っていることが判るような気がした。お銀に柔順《すなお》な細君を強《し》いながら、やはり妾か何かを扱うような荒い心持が自分にないとも言えなかった。そして、そこにまたその日その日の刺戟と興味を充《み》たして行くのではないかとも思った。
「それでも学校へは行ったろう。」
 笹村はお銀の生立ちについて、また何かを嗅ぎ出そうとしているような目容《めつき》で言った。
「え、それは少しは行ったんです、湯島学校へ……。お弁当を振り振り、私あの辺を歩いてましたわ、先生の言うことなんかちっとも聞きゃしなかった私……。」お銀はごまかすように笑い出した。
「叔父さんがなぜ行《や》らなかったろう。」
「叔父ですか。どうしてですかね。景気のいい時分は、自分で遊んでばかりいたんでしょう。それにその時は、私ももう年を取っていたのですから学問なぞは、私の柄になかったんでしょう。」
「でも手紙くらいは書けるだろう。」
「いいえ。」
「少しやって御覧。僕が教えてやろう。」
「え教えて下さい。真実《ほんとう》に……。」と言ったが、笹村はついお銀の字を書くのを見たことがなかった。
 下宿へ帰ると、笹村はある雑誌から頼まれた戦争小説などに筆を染めていた。その雑誌には深山も関係していた。笹村は深山の心持で、自分の方へ出向いて来たその記者から、時々深山のことを洩れ聞いた。
 筆を執っている笹村は、時々自分の前途を悲観した。M先生の歿後《ぼつご》、思いがけなく自然《ひとりで》に地位の押し進められていることは、自分の才分に自信のない笹村にとって、むしろ不安を感じた。
「君は観戦記者として、軍艦に乗るって話だが、そうかね。」
 谷中の友人がある日、笹村の顔を見ると訊き出した。
「けれど、それは子供のない時のことだよ。危険がないと言ったって、何しろ実戦だからね。」
 友人はそう言って、笹村の意志を翻《ひるがえ》そうとした。
 そんな仕事の不似合いなことは、笹村にもよく解っていた。

     四十三

 夏の半ば過ぎに、お銀たちの近くのある静かな町で、手ごろな家が一軒見つかったころには、二人の心はまた新しい世帯の方へ嚮《む》いていた。前の家を立ち退く時、話が急だったので、笹村は一緒に出るような家を借りる準備も出来なかった。仮に別居しているうちに、結婚を発表するに適当な時機を見つけようとも考えていた。
「ばかばかしい、こんなことをしていては、やはり駄目ですよ。いつまで経っても、道具一つ買うことも出来やしない。」
 お銀は下宿の帳面を見ながら、時々呟いていた。
 通りかかりに見つけたその家のことをお銀の口から聞くと、笹村は急いで見に行った。
 家は人通りの少い崖と崖との中腹のような地面にあった。腐りかけた門のあたりは、二、三本|繁《しげ》った桐《きり》の枝葉が暗かったが、門内には鋪石《しきいし》など布《し》かって、建物は往来からはかなり奥の方にあった。三方にある廃《あ》れた庭には、夏草が繁って、家も勝手の方は古い板戸が破《こわ》れていたり、根太板《ねだいた》が凹《へこ》んでいたりした。けれど庭木の多い前庭に臨んだ部屋は、一区画離れたような建て方で、落着きがよかった。
 笹村はじきに取り決めて帰ったが、何の用意もなしにそう早急に移って行くことは、お銀にはあまり好ましくなかった。いよいよ住むとなると、廃《あ》れたようなその家にも不足があった。
「もっとどうとかいう家がないものですかね。井戸が坂の下にあるんじゃしようがないわ。」
 お銀は笹村から家の様子を詳しく聞くと進まぬらしい顔をした。お銀の頭脳《あたま》には、かつて住んでいた築地や金助町の家のような格子戸造りのこざっぱりした住家が、始終描かれていた。掃除ずきなお銀は、そんなような家で、長火鉢を磨いたり、鏡台に向ったりして小綺麗に暮したかった。それに、ここを出るにしても、少しは余裕をつけて、手廻りのものなど調《ととの》えてからにした方が、近所へも体裁がいいと考えていた。
「あなたは門さえあればいいと思って……。」お銀はそうも言った。
「だけど、そういい家があるもんじゃないよ。あすこなら客が来ても当分子供のいることも解らないし、井戸の遠いくらいは我慢してくれなくちゃ困る。」
 やがてバケツに箒《ほうき》などを持たせて、書生と一緒に出かけて行った笹村は、裏から水を汲んで来て黴《かび》くさい押入れや畳などを拭いていた。そして疲れて来ると、縁側へ出て莨をふかしていた。高台に建てられた周《まわ》りの広い廃屋《あばらや》は、そうしていると山寺にでもいるように、風も涼しく気も澄んでいた。
 じきにお銀が子供を負って来て、笹村の傍において行った。
「お願い申しますよ。狭いところを危くてしようがありませんから。」
 子供は白い女唐服《めとうふく》を着ながら広い部屋のなかを、よちよちと笹村の跡へついて来ては歩いていた。そして少し歩くと畳の上に尻餅を搗《つ》いた。口も少しは利けた。
 落ち着いてからも、井戸の遠いことや、畳のじめじめする茶の間の陰気くさいことが、女たちの苦情になっていたが、笹村は初めて庭の広い家へ来たのが、心持よかった。そして外へ出ると、時々|配《わ》けてもらった草花を、腕車《くるま》の蹴込《けこ》みへ入れて帰って来た。中庭の垣根のなかには、いろいろのものが植えられた。中にはお銀と二人で、薬師の縁日で買って来たものもあった。
 子供は靴をはいて、嬉々《きき》と声を出して庭を歩き廻った。笹村はそれを前庭の小高い丘の上へ逐《お》いあげ逐いあげしては悦んだ。
 お銀は少しずつ家に馴れて来たが、それでも日が暮れてからは、一人外へ出るようなことはめったになかった。夜もおちおち眠らないことが多かった。
 桜の葉が黄ばんで散る時分に、妊娠の徴候がまたお銀の体に見えて来た。

     四十四

 お銀からその話を聞かされた時、笹村は、
「また手を咬《か》まれた。」というような気がした。そして責任を脱れたいような心持は、初めての時よりも一層激しかった。
 次第に好奇心の薄らいで来た笹村は、憑《つ》いていたものが落ちたように、どうかすると女から醒《さ》めることが時々あった。そんな時の笹村の心は、幻影が目前《めさき》に消えたようで寂しかった。そうして一度|頓挫《とんざ》した心持は、容易に挽回《とりかえ》されなかった。厭わしいような日が幾日も続いた。
 そんなことはお銀にも同じようにあるらしかったが、冷熱はいつも男よりか順調であった。
「あなたは人を翫弄《おもちゃ》にする気だったんです。あの時の言い草がそうだったんですもの。男はずうずうしいものだと、私はそう思った。」
 お銀は以前の話が出ると、時々そんなことを言って淋しそうに笑った。
「何だかおかしいようだね。」
 笹村は、腹を気にしているお銀の顔を眺めながら言った。
「二タ月も三月も隔たっていて、それで子ができるなんて……。」
 笹村の頭脳《あたま》には、磯谷という男のことがふと閃《ひらめ》いていた。磯谷の伯父のところに奉公していたという年増《としま》の女に、お銀は近ごろ思いがけなく途中で邂逅《でっくわ》してから、手の利くその女のところへ、時々仕立て物を頼みなどしていることは、笹村も見て知っていた。その女は今は近所に住んでいる小工面のよいある大工に嫁入りしていた。仕立て物を持って来た女は、笹村の部屋の入口へも顔を出してお辞儀などした。
「変な女でしょう。」と、お銀は後で若い亭主を持っているその女のことを笑った。
「あれでも手はどんなに利くもんだか……私の叔父は始終あれに縫わしたんですの。」
 そう言って見せる仕立て物は、笹村の目にもいかにも手際がよいように見えた。
 この女を透《とお》して、お銀と磯谷との消息が通じているのではないかと、笹村は時々そういうことを感ぐって見たりなどした。夜使いに出たお銀の帰りの遅いときも、笹村の頭にはおりおり暗い影がささないわけに行かなかった。そういうとき、笹村は泣き出す正一を抱き出して、灯影の明るい通りの方へ連れて行った。そうしてお銀の帰るのを待ち受けた。
 買いものの好きなお銀は、出たついでにいろいろなものをこまごまと擁《かか》えて、別の通りから冴《さ》え冴《ざ》えした顔をして家へ帰って来ていた。
「これを召し食《あが》ってごらんなさい、名代の塩煎餅《しおせんべい》ですよ。金助町にいる時分、私よくこれを買いに行ったものなんです。」
 お銀は白い胸を披《はだ》けながら、張り詰めた乳房を啣《ふく》ませると、子供の顔から涙を拭き取って、にっこり笑って見せた。
「私途中で、岡田さんの奥さんに逢ったんですよ。しばらく来ないから、どうしたのかと思ったら、あの方たちも世帯が張りきれなくなって、二、三日前に夫婦で下宿へ転《ころ》げちゃったんですって……。」
 お銀は塩煎餅を壊しながら、そんな話をしはじめるのであった。
 笹村の当て推量は、その時はそれで消えてしまうのであったが、外出をするお銀の体には、やはり暗いものが絡《まつ》わっているように思えてならなかった。
「三度目に、こんな責任を背負わされるなんて、僕こそ貧乏籤《びんぼうくじ》を引いてるんだ。」笹村は揶揄《からか》い半分に言い出した。
「三度目だって、可愛そうに……片づいていたのは真《ほん》の四ヵ月ばかりで、それも厭で逃げたくらいなんだし、磯谷とは三年越しの関係ですけれど、先は学生だし、私は叔父の側《そば》にいるしするもんだから、養子になるという約束ばかりで、そうたびたび逢ってやしませんわ。」

     四十五

 笹村の口から磯谷のことをいろいろに聞かれるのは、お銀にも悪い気持はしなかったが、その話も二人にとって、次第に初めほどの興味がなくなってしまった。お銀と磯谷との関係と磯谷の人物とがはっきり解って来れば来るほど、笹村の女に対する好奇心は薄らいで来たが、お銀の胸にもその時々の淡々しい夢はだんだん色が剥《は》げて来た。それでも時々笹村に身を投げかけて来るようなお銀の態度には、破れた恋に対する追憶《おもいで》の情が見えぬでもなかった。その時の女は、そう想像して見ると、笹村の目に美しく映った。
「でも、あの女から、磯谷が今どうしているかということぐらいは、お前も聞いたろう。」
 笹村はその男が持っていたという銀煙管《ぎんぎせる》で莨をふかしながら聞いたが、お銀にしては、それは笹村の前に話すほどのことでもないらしかった。
「やはりぶらぶらしているっていう話ですがね。」
 お銀の目には、以前男のことを話す時見せたような耀《かがや》きも熱情の影も見られなかった。
「お前の胸には、もうそんな火は消えてしまったんだろうか。」
 笹村はもう一度、その余燼《よじん》を掻き廻して見たいような気がしていた。
「いつまでそんなことを思っているものですか。思っているくらいなら、こうしちゃいませんよ。それに一度でも逢っていれば、それを隠しているなんてことは、とても出来るもんじゃありませんよ。」
 妊娠ということが、日が経つにつれてだんだん確実になって来た。
「どうしてもあなたには子種があるんですね。だって、深山さんの妹さんがあなたの体を見て、そう言ったっていうじゃありませんか。」と、お銀は笹村の顔を見て笑った。
「でもいいわ。一人じゃ子供が可哀そうだから、三人くらいまではいいですよ。」
 笹村はそのころから、少しずつ金の融通が利くようになっていた。新しい本屋から、原稿を貰いに来る向きも一、二軒あったし、しまっておいた新聞の古も、いつとはなしに出て行った。それだけ暮しも初めほど手詰りでなくなった。笹村は下町の方から帰って来ると、きっと買いつけの翫具屋《おもちゃや》へ寄って、正一のために変った翫具を見つけた。子供は翫具を持って一人で遊ぶようになっていた。
 お銀はそのころまだ長火鉢の抽斗《ひきだし》にしまってあった丸薬を取り出して、時々笹村に見せた。
「あの時のことを思うと、情ないような気がする。」
 お銀は目を曇《うる》ませながら、傍に遊んでいる子供の顔を眺めた。
「坊は阿母《おっか》さんが助けてあげたんだよ。大きくなったら、また阿母さんがよく話して聞かしてあげるからね。」
 お銀は笹村を厭がらせるような調子で言った。
「あの時のことを忘れないために、この丸薬はいつまでもこうやってしまっておきましょうね。」
「莫迦《ばか》。」笹村は苦笑した。
 お銀は胎児のために乳を褫《うば》われようとして、日に日に気のいじけて来る子供のうるささを、少しずつ感じて来た。そして老人《としより》の手に懐《なつ》けさせようとしたが、子供は母親よりもしなやかでない老人の手を嫌った。夜笹村の部屋で寝ようとするお銀の懐へ絡《まつわ》りついて来る子供は、時々老人の側へ持って行かれたが、やはり駄目であった。子供に対して細かしい理解のない老人の手に扱われて泣いている子供の声は、傍に見ている笹村の頭脳《あたま》に針を刺すように響いた。
「お前見たらいいじゃないか。」
 笹村はお銀に顔を顰《しか》めたが、長いあいだ襁褓《むつき》の始末などについて、母親に委《まか》しきりにして来たお銀は、そんなことには鈍かった。お銀の体のきまりのつく前と後では、子供に対する父と母の心持は、まるで反対であった。

     四十六

 お銀の遠縁にあたるという若い画家が一人神田の方にいた。山内というその男と笹村も一、二度どこかで顔を合わして相知っていた。お銀のことを表向きにするについて、笹村は自分のところへ出入りしている山内の従弟《いとこ》の吉村によって、ふと山内のことを思い出させられていた。吉村の家と近しくしていたお銀の父親は、山内の父親とも相識の間柄であった。
 春、笹村が幾年ぶりかで帰省する前に、笹村夫婦と山内とは、互いに往来《ゆきき》するほどに接近して来た。
 ある晩方年始の礼に来た山内は、ぐでぐでに酔っていた。一度盛んに売り出したことのある山内は、不謹慎な態度から、そのころ一部の人の反感を受けていた。その風評を耳にしていた笹村の頭にも、山内という名はあまりよい印象を遺していなかったが、吉村やお銀の母親から聞かされる山内の家柄や父親のことから推すと、外に現われた山内とまた違った山内が笹村の頭に映って来た。
 山内は、お銀がつぐ酒を、黒羽二重の紋附や、ごりごりした袴《はかま》に零《こぼ》しながら、爛《ただ》れたような目をして、やっと坐っていた。杯を持つ手が始終|顫《ふる》えていた。
「画家《えかき》というものは、面白い扮装《なり》をしているもんですね。」と、お銀は山内のよろよろと帰って行った後で言い出した。
「私たちの従姉のお房さんの片づいている、あの人の従兄の神崎も、やはり大酒飲みだそうですよ。」
「あの方のお父さんが、やはりおそろしい酒家《のみて》でね。」母親も杯盤の乱れている座敷へ入って来て話し出した。
「何しろ大きい身上《しんしょう》を飲み潰《つぶ》したくらいの人だもんだでね。大気《だいき》な人で、盛りに遊んでいる時分|温泉場《ゆば》から町へ来るあいだ札《さつ》を撒《ま》いて歩いたという話を聞いているがね。」
 笹村夫婦が訪ねて行ったとき、その父親も子息《むすこ》と並んで坐って、始終落ち着かぬような調子で、酒を飲んでいた。口の利き方も、女たちが腹を抱えるような突飛なことが多かった。そして笹村に猪口《ちょく》を差して、
「私は笹村さん、こんな人間ですよ。」といって、愉快そうに笑った。
 山内はにやにや笑っていた。
「ああ厭だ厭だ、父子《おやこ》であんなにお酒ばかり飲んで……家の父のことを思い出す。」
 お銀は正一の手を引きながら外へ出ると言い出した。
「でも皆ないい人たちですね。東京《こちら》に親戚がないから、人なつかしげで……。」
 人のところの世帯ぶりに、すぐ目をつけるお銀は、家へ帰ってからも山内の暮し方を、見透《みすか》して来たように話した。
 花の散る時分に、お銀は帰省する笹村の支度を調えるのに忙しかった。四、五年前に帰省した時、笹村はまだ何もしていなかった。身装《みなり》も見すぼらしかった。自分の腹に出来た子の初めての帰省を迎えたその時の母親の不快げな顔が、今でも笹村の頭に深く刻まれていた。
「母のために、少しは着飾って行かなくちゃ……。」
 笹村はお銀にも、そんな話をして聞かした。
 こまこました土産物などを買い集めるに腐心しているお銀の頭にも、笹村の郷里へ対する不安が始終附き纏《まと》っていた。
「新ちゃんが、ああいう風で帰ってったから、どうせ私なども阿母さんや姉さんによく思われていないに決まっている。」と、時々それを言い出していたお銀は、この機会に出来るだけの好意を示すことを忘れなかった。
 新しく仕立てたり、仕立て直したりした幾色かの着物の上に、お銀は下谷から借りて来た欽一《きんいち》の兵児帯《へこおび》なども取り揃えた。
「角帯もいいけれど、これも持っておいでなさいよ。」
 欽一はそのころ、その弟と前後して、軍医として戦地へ渡った。

     四十七

 郷里へ帰って行った笹村は、長くそこに留まっていられなかった。大きな旧城下の荒れた屋敷町の一つに育って来た笹村は、長いあいだ自分の生い立って来た土地の匂いを思い出す隙もないほど、目が始終前の方へ嚮《む》いていたが、そのころ時々幼い折の惨めな自分の姿や、陰鬱《いんうつ》な周囲の空気を振り顧《かえ》るようなことがあった。姉に手をひかれてはじめて歩いてみた珍しい賑やかな町や、近所の女の友達と一緒に蟋蟀《こおろぎ》を取ってあるいた寂しい石垣下の広い空地《あきち》の叢《くさむら》の香、母親の使いで草履の音を忍ばせて、恐る恐る通りぬけて行った、男の友達の頑張っている木蔭の多い、じめじめした細い横町、懶《なま》けものの友達と一緒に、厭な学校の課業のあいだを寝転《ねころ》んでいた公園の蕭《しめや》かな森蔭の芝生――日に日に育って行く正一を見るにつけて、笹村はここ十年来の奮闘に疲れた頭に、しみじみそこのなつかしい空気が嗅ぎしめて見たいような気がした。荒れている父親の墓の前で、今一度|敬虔《けいけん》なそのころの、やさしい心持を味わってみたいと考えた。
 そんなことを胸に描いていた笹村は、郊外に建てられた暗い夜のステーションへ降りて行くと、すぐにがさがさした、荒《さび》れたその町に包まれた自分の青年時代の厭な記憶に、面《おもて》を背《そむ》けたいような心持になった。
 黙って粗雑な木造の階段から、でこぼこした広い土間に降りて行く群集の下駄の音や、田圃面《たんぼづら》から闇《やみ》を流れて来る一種の臭気、ステーション前の広場の柳の蔭に透して見られる、仮小屋めいた薄暗い旅籠屋《はたごや》、大阪風に赤い提灯《ちょうちん》などを出した両側の飲食店――その間をのろのろした腕車《くるま》で、石高な道を揺られて行く笹村は、はじめて来る新開の町をでも見るような気がした。
 檐《のき》の低い家の立ち並んだ町を、あちらへ曲りこちらへくねりしているうちに、やがて見覚えのある大通りの町が目の前に現われた。そんな通りを幾個《いくつ》も通り過ぎて、腕車《くるま》は石垣や土塀《どべい》の建て続いた寂しい屋敷町の方へ入って行った。雲の重く垂《た》れ下った空から、雨がしぶしぶ落ちて来た。暗い木立ちや垣根の隙から、まだ灯影が洩れていて、静かな町はまだ全く寝静まっていなかった。
 その晩笹村は、広い二階の一室で、二、三杯の酒に酔って、物を食べたり、母や姉たちと話に耽《ふけ》ったりして、鶏の鳴くまで起きていた。昔風の広い式台のところまで出迎えた母親や姉は、そうして話しているうちに、初めて目に映った時の汚さがようやくとれて来たが、それでも顔は皆変っていた。長いあいだの気苦労の多い生活と闘ったり、もがいたりして来た痕《あと》が、いたましいほどこの女たちの老《ふ》けた面に現われていた。
 翌朝笹村は、汽車のなかで舞い込んだ左の目の石炭滓《せきたんかす》を取ってもらいに、近所の医師《いしゃ》を訪ねた。中学に通っている時分、軽い熱病にかかったり、脳脊髄《のうせきずい》に痛みを覚えたりすると、ここへ駈けつけて来たが、家はその時の様子と少しも変りがなかった。髪の薄かった医師も、それより以上|禿《は》げてもいないのが不思議のようであった。
 笹村は二、三日、姉たちの家や、兄の養家先などを廻ってみたが、町にはどこを探《たず》ねても、昔の友人らしいものは一人もいなかった。
 忘られていた食べ物の味が舌に昵《なじ》んで来るころには、笹村の心にはまた東京のことが想い出されていた。そして久しぶりで逢うわが子の傍へ寄って、手紙ではとても言い尽せない周囲の紛糾《こぐらか》った事情や、自分の生活状態について、誰に打ちあけようもない老人の弱い心持を聞いてもらえるような機会を捕えようとしている老母の沈んだ冷たい目からのがれるように、笹村はいつも落着きなく外を出歩いてばかりいた。

     四十八

 笹村は多勢の少《わか》い甥《おい》や姪《めい》と、一人の義兄とに見送られて、その土地を離れようとする間際に、同じ血と血の流れあった母親の心臓の弱い鼓動や、低い歔欷《すすりなき》の声をはじめて聞くような気がした。するすると停車場の構内から、初夏の日影の行き渡った広い野中にすべり出た汽車の窓際へ寄せている笹村の曇った顔には、すがすがしい朝の涼風が当って、目から涙がにじみ出た。
 笹村は半日と顔を突き合わして、しみじみ話したこともなかった母親の今朝のおどおどした様子や、この間中からの気苦労な顔色が、野面《のづら》を走る汽車を、後へ引き戻そうとしているようにすら思えてならなかった。孤独な母親の身の周《まわ》りを取り捲《ま》いている寂寞《せきばく》、貧苦、妹が母親の手元に遺《のこ》して行った不幸な孤児に対する祖母の愛着、それが深々と笹村の胸に感ぜられて来た。
[#ここから2字下げ]
……まことに本意ないお別れにて、この後またいつ逢われることやら……門の外までお見送りして内へ入っては見たれど、坐る気にもなれず、おいて行かれし着物を抱きしめていると、鼻血がたらたら流れて、気がとおくなり申し候《そうろう》……
[#ここで字下げ終わり]
 東京へつくと、すぐに、こんな手紙を受け取った笹村の目には、今日までわが子の坐っていた部屋へ入って行った時の、母親のおろおろした姿がありあり浮ぶようであった。
「これだから困る。このくらいならなぜいるうちに、もっと母子《おやこ》らしく打ち解けないだろう。」
 笹村は手紙をそこへ投《ほう》り出して、淋しく笑った。そして「もう自分の子供《もの》じゃない。」とそう思っている母親を憫《あわ》れまずにはいられなかった。
 いるうちに、笹村は一、二度上京を勧めてみたが、母親の気は進まなかった。東京へ来て、知らない嫁に気を兼ねるのも厭だったし、孫娘も人なかへ連れて行くのは好ましくなかったが、それよりも、笹村の考えているようにそう手軽に足を脱《ぬ》くことのできない事情が、そこにいろいろ絡《まつ》わっていた。そしてそれを言い出すほどの親しみが、まだ二人の間に醸《かも》されていなかった。
「いい画が家にあったが、あれも売ってしまったんだろうな。」
 笹村は少年時代に、ふと暗い物置のなかの、黴《かび》くさい長持の抽斗の底から見つけたことのある古い画本のことを思い出して、母親に訊《たず》ねるともなしに言い出した。その画が擬《まが》いもない歌麿《うたまろ》の筆であったことは、その後見た同じ描者《かきて》の手に成った画のしなやかな線や、落着きのいい色彩から推すことができた。
 笹村は姉の家の二階に預けてある、その古長持のなかにある軸物や、刀のようなものを引っくら返して見た時、その画本を捜して見たが、どこにも見つからなかったので、ふと母親に確かめてみる気になった。
 母親は怪訝《けげん》そうに、にっこりともしないで、わが子の顔を眺めた。
「嫁さんは素人《しろうと》でないとかいう話やが、そうかいね。」
 母親はふと訊《き》いた。
「戯談《じょうだん》じゃない。新《しん》がそういうことを吹聴《ふいちょう》したんでしょう。」
 笹村はそれを手強く打ち消した。
 母親の方からも、笹村の方からも、それきり双方の肝要な問題に触れずにしまった。笹村は時々外で泊ることすらあった。
 お銀のところから、帰りを促した手紙が来ると、母親は口へ出して止めることさえ憚《はばか》った。
「……つまらんこっちゃ。」
 立つ朝、いそいそと荷造りをしている笹村の側で、母親はふと言い出した。そして何か手伝おうとして、笹村に一ト声|邪慳《じゃけん》に叱り飛ばされて、そのまま手を引っ込めてしまうのであった。

     四十九

 この慈母の手を離れて、初めて東京へ出た当時のことなどを笹村は思い出していた。そのころは笹村も時々長い手紙も書いたし、どこかへ勤めることになったと言っては、手もとの苦しいなかから礼服なども送ってもらった。少しばかりの収入にありつくようになってからは、そのなかからいくらかずつ割《さ》いて贈ることも怠らなかった。
「これからは金もちっとはきちきち送らなけア……。」
 笹村は頷《うなず》いたが、汽車が国境を離れるころには、自分の捲き込まれている複雑な東京生活が、もう頭に潮のように差しかけていた。妻や子のことも考え出された。
 翌朝新橋へ着いた時分は、町はまだ静かであった。地面には夜露のしとりがまだ乾かぬくらいで、葭簾《よしず》をかけた花屋の車からは、濃い花の色が鮮かに目に映った。都会人のきりりとした顔や、どうかすると耳に入る女の声も胸が透くようであった。
 腕車《くるま》から降りて行った笹村は、まだ寝衣《ねまき》を着たままの正一が、餡麺麭《あんパン》を食べながら、ひょこひょこと玄関先へ出て来るのに出逢った。子供は含羞《はにか》んだような、嬉しそうな顔を赧《あか》らめて、父親の顔を見あげた。その後から、お銀も母親も出て来た。丈の高いお銀の父親の姿も現われた。弟も茶の室《ま》にまごまごしていた。
 この弟の出て来ることは、国へ立つ前から笹村も承知していた。東京で育ったこの弟は、お銀が笹村のところへ来てから間もなく、脚気《かっけ》で田舎へ帰った。そしてそこで今日まで暮して来た。東京で薬剤師になろうとしていたこの弟は、そんなことを嫌って、洋服裁縫にかなりな腕を持っていた。
「弟《あれ》も東京《こっち》で早くこんな店でも出すようにならなけア……。」と、外で洋服屋の前を通ると、お銀は時々田舎にいる弟のことを言い出していた。二十四、五になったら、田舎の親類からそれだけの資本は出してもらえる的《あて》もついていた。
「田舎においちゃ腕が鈍ってしまうだろうがね。」笹村も時々それを惜しむような口吻《くちぶり》を洩らした。
「一体田舎で何しているんだ。」
「このごろは体もよくなって、町で仕事をしているという話ですがね。女が出来たという噂もあるんですけれど……そのことは、去年欽一兄さんが養家先へ帰った時聞いて来たんですの。」
 その日は、留守中の出来事や子供の話で日が暮れた。お銀はそこへ取り散らされたいろいろの土産もののなかから、梅干の一折を見つけて、嬉しそうに蓋《ふた》を開けて見ていた。その梅干には東京やお銀の田舎では、味わうことのできぬ特殊の味わいがあった。かき餅もお銀の好物であった。
「阿母《おっかあ》さんが、まアたくさん下すった。お国の梅はどこか異《ちが》うんですかね。」
 子供は叔母からの贈り物の大きな軍艦や起きあがり小法師のようなものをあッち弄《いじ》りこっちいじりして悦んだが、父親の傍へは寄って来なかった。そして時々視線が行き会うと、妙にそれを避けるような様子があった。
「何だか窶《やつ》れているようだね。」
 笹村は腺病質《せんびょうしつ》の細いその頚筋《くびすじ》を気にした。
「いいえ、そんなことはないでしょう。随分元気がいいんですよ。お父さんはと聞くと、電車ちんちん餡パン買いに行ったなんて、それは面白いことを言いますよ。」
「ふとしたら、僕甥が一人来るかも知れんがね。とうとうまた推《お》っつけられた。」
 笹村は久しぶりでお銀と一緒に書斎へ入った時言い出した。そのことはお銀も待ち設けないことでもなかった。
 お銀は浮き浮きした調子で、飲みつけない莨《たばこ》を吸いつけて笹村の口に当てがいなどした。

     五十

 旅で養って来た健康は、じきに頽《くず》れて来た。田舎の母の同居してる家では、リュウマチを患《わずら》っている老人のために、上州の方から取り寄せられた湯の花で薬湯がほとんど毎日のように立てられた。笹村もそのたんびにその湯に浸った。それにそこは川を隔ててすぐ山の木の繁みの見えるところで、家の周《まわ》りを取り繞《めぐ》らした築土《ついじ》の外は田畑が多かった。広縁のゆっくり取ってある、廂《ひさし》の深い書院のなかで、たまに物を書きなどしていると、青蛙《あおがえる》が鳴き立って、窓先にある柿や海棠林檎《かいどうりんご》の若葉に雨がしとしと灑《そそ》いで来る。土や木の葉の匂いが、風もない静かな空気に伝わって、刺戟の多い都会生活に疲れた尖《とが》った神経が、軟かいブラシで撫でられるようであった。そこへ母や妹が入って来さえしなければ、笹村はいつまでも甘い空想を乱されずにいることが出来た。
 たまには傘をさして、橋を渡って、山裾《やますそ》の遊廓《ゆうかく》の方へ足を入れなどした。京の先斗町《ぽんとちょう》をでも思い出させるような静かな新地には、青柳《あおやぎ》に雨が煙って檐《のき》に金網造りの行燈《あんどん》が点《とも》され、入口に青い暖簾《のれん》のかかった、薄暗い家のなかからは、しめやかな爪弾《つまび》きの音などが旅客の哀愁をそそった。笹村は四、五歳のおり、父親につれられて行って、それらの家の一軒の二階の手摺り際から眺めた盆踊りのさまや、祭の日にこっちの家の二階から向かいの家の二階へかかった床《ゆか》に催される手踊りなどを思い出していた。
 笹村は奥まった二階の座敷で、燭台の灯影のゆらぐ下で、二、三杯の酒に酔いの出た顔を焦《ほて》らせながら、たまには上方語《かみがたことば》のまじる女たちの話に耳を傾けた。女たちのなかには、京橋の八丁堀で産れて、長く東京で左褄《ひだりづま》をとっていたという一人もあった。
「ここは駄目です。さアという場合に片肌ぬぐなんてことはありませんから。」
 その女は生温《なまぬる》い土地の人気が肌に適《あ》わぬらしく見えた。
「その代りお座敷は暢気《のんき》ですの。」
 東京へ帰って来てからの笹村は、しばらく懶《なま》け癖がぬけなかった。昼は庭に出て草花の種を蒔《ま》いたり、大分足のしっかりして来た子供を連れ出して、浅草へ出かけなどした。
 だんだん腹の大きくなって来たお銀は、側に寄りつく子供に対して、一層|嶮《けわ》しくなった。そして、「おッぱい、ないない。」と言って、襟《えり》を堅く掻き合わした。
「あなたに乳をのまれると、阿母さんは体がぞッとするようで……お父さん辛《から》い辛いをつけてもよござんすか。」
 お銀はそう言っては唐辛《とうがらし》を少しずつ乳首になすりつけた。
 子供は二、三度それをやられると、じきに台所から雑巾を持って来て、拭き取ることを覚えた。
「どんなにお乳がおいしいもんだか。」と、老母《としより》は相好を崩して、子供の顔を覗《のぞ》き込んだ。
 しょうことなしに老母《としより》の懐に慣らされて来た子供は、夜は空乳《からちち》を吸わせられて眠ったが、朝になると、背《せなか》に結びつけられて、老母の焚《た》きつける火のちろちろ燃えて来るのを眺めていた。
「煙々《けぶけぶ》山へ行け、銭と金こっちへ来い。」
 子供は老母から、いつかそんな唄《うた》を教わって、時々人を笑わせた。
 母親から突き放されたこの幼児の廻らぬ舌で弁《しゃべ》ることは、自分自身の言語《ことば》のように、誰よりも一番よく父親に解った。いらいらしたような子供の神経は、時々大人をてこずらすほど意地を悪くさせた。湯をつぐ茶碗が違ったと言って、甲高《かんだか》な声で泣き立てたり、寝衣を着せたのが悪いと言って拗《す》ねたりした。
「床屋へ行って髪でも刈ってやりましょう。そしたらちっとせいせいするかも解らない。」
 お銀は思いついたように、下駄をはかして正一を連れ出して行った。

     五十一

 旅から帰って来た時ほど、軟かい心持のいいベッドに寝かされたことは、これまで笹村になかった。前庭と中庭との間に突き出た比較的落着きのいい四畳半に宵々お銀の手で延べられる寝道具は、皆ふかふかした新しいものばかりであった。
 お銀の赤い枕までも新しかった。板戸をしめた薄暗い寝室は、どうかすると蒸し暑いくらいで、笹村は綿の厚い蒲団から、時々冷や冷やした畳へ熱《ほて》る体をすべりだした。
「敷の厚いのは困る。」
「そうですかね。私はどんな場合にも蒲団だけは厚くなくちゃ寝られませんよ。家でも絹蒲団の一ト組くらいは拵えておきたい。」
 お銀は軟かい初毛《うぶげ》の見える腕を延ばして、含嗽莨《うがいたばこ》などをふかした。
 お銀の臆病癖《おくびょうぐせ》が一層|嵩《こう》じていた。それは笹村の留守の間に、ついここから二タ筋目の通りのある店家の内儀《かみ》さんが、多分その亭主の手に殺されて、血反吐《ちへど》を吐きながら、お銀の家の門の前にのめって死んでいたという出来事があってからであった。その血痕《けっこん》のどす黒い斑点《まだら》が、つい笹村の帰って来る二、三日前まで、土に染《し》みついていた。
 女はこの界隈《かいわい》を、のたうち廻ったものらしく、二、三町隔たった広場にある、大きな榎《えのき》の下に、下駄や櫛《くし》のようなものが散っていた。自身に毒を服《の》んだという話もあった。
 お銀は床のなかで、その女が亭主に虐待されていたという話をして、自分の身のうえのことのように怯《お》じ怕《おそ》れた。お銀の一時片づいていた男が、お銀に逃げ出されてから間もなく、不断から反《そ》りの合わなかった継母を斬《き》りつけたということは、お銀の頭にまた生々しい事実のように思われて来た。男はその時分、どんなに血眼《ちまなこ》になって仲人の手からうまく逃れた妻を捜しまわっていたか。毎日酒ばかり呷《あお》って、近所をうろつき廻っていた男の心が、どんなに狂っていたか、それは聞いている笹村にも解った。
「あなたと一緒に歩いている時、いつか菊坂の裏通りで出会《でくわ》したじゃありませんか。あれがそれですよ。」
「へえ。」
 笹村はその時お銀が、ふいと暗闇で摺《す》れ違った男のあったことだけは、今でも思い出せたが、お銀がその時泡を喰って、声を立てながら笹村の手に掴まったのは、わざとらしいこの女の不断の癖だろうと考えていた。お銀はその時、はっきりその男をそれと指ざすほど笹村に狎《な》れていなかった。その晩はしょぼしょぼ雨が降っていたが、男は低い下駄をはいて、洋傘《こうもり》をさしながら、びしょびしょ濡れていた。
「あれがそうですよ。お銀って、私の名を呼びましたわ。」
「へえ。」
「あの時あなたがいなかったら、私はどうかされていたかも知れないわ。それは乱暴な奴なんです。酒さえ飲まなければ、不断はごく気が小さいんですけれどね。」
 その家のことについて、新しい事実がまたお銀の口から話し出された。
「……私行った時から厭で厭で、どうしても一緒にいる気はしなかった。日が暮れると、裏へ出てぼんやりしていましたよ。裏は淋しい田圃に、蛙が鳴いてるでしょう。その厭な心持といったら……私泣いていたわ。そして何かといっちゃ、汽車に乗って逃げて来たの。」
「その家を、僕は一度たずねてやる。」
 笹村は揶揄《からかい》半分に言った。
「そしてお前のここにいることを知らしてやろう。」

     五十二

 けれどそんなベッドの新しみは、長く続かなかった。枕紙に染《し》みついた女の髪の匂いの胸を塞《つま》らす時がじきに来た。笹村が渇《かつ》えていた本を枕元で拡げるようになると、開放された女も長四畳の方で、のびのびと手足を延ばして寝るのを淋しがらなくなった。
「ああ、何でもいいから速く身軽になりたい。」
 お銀は曇《うる》んだような目を光らせながら、懶《だる》い体を持ちあぐんでいた。
 笹村も、一度経験したことのある、お産の時のあの甘酸ッぱいような血腥《ちなまぐさ》いような臭気《におい》が、時々鼻を衝《つ》いて来るように思えてならなかった。
 それにお銀の背後には、多少の金を懐にして田舎から出て来て、東京でまた妻子を一つに集めて暮そうとしている父親や弟がいた。お銀は夫婦きりでいる四畳半の自分の世界を離れると、じきにその渦《うず》の中へ引き込まれずにはいられなかった。お銀の頭には、一家離散の悲しみが深く染みついていた。
「すぐこの先の車屋の横町に、家が一軒あるんですがね。」
 お銀はある日笹村に相談を持ちかけた。
 お銀はそれまでに、時々曇る笹村の顔色を幾度も見せられた。
「それをとにかく借りることにしようと思うんですがどうでしょう。父はそこからどこかへ勤めるんだそうです。芳雄も、今いるところは暑苦しくてしようがないとかで、やはり通いにしたいと言っていますから、二人で稼げば、そんなにむずかしいことじゃないと思うんですがね。」
「それじゃお爺さんもこっちに永住か。」
「やれるかやれないか、まあそういうつもりなんでしょう。」
「まあやって見たらよかろう。」
「そうすれば、私もお産をするところができて、大変に都合がいいんです。近くにいれば、赤ン坊の世話もしてもらえますから。」
 三人がそこへ移り住んだ時、笹村も正一をつれてぶらぶら行って見た。そしてちょっとした庭を控えた縁側から上り込んで、たまには母親が汲《く》んでくれる番茶に口を濡らして帰ることもあった。
 翫具《おもちゃ》の入った笊《ざる》などがやがて運ばれて、正一も大抵そこで寝泊りすることになった。
「正一はどんなにお婆さんの懐がいいんだか。」
 話しに行っていたお銀が、夜笹村の部屋へ帰って来ると、子供の言ったことやしたことを報告した。
「あれもお婆さんは嫌いなんだけれどしかたがないんだ。」笹村は打ち消した。
 お銀が琵琶《びわ》の葉影の蒼々した部屋で、呻吟《うめ》き苦しんでいると、正一はその側へ行って、母親の手につかまった。その日お銀は朝から少しずつ産気づいて来た。昼ごろには時をおいては来る痛みが一層間近になって来た。
「さあ私もう出ます。」
 お銀は昼飯のお菜拵《かずこしら》えなどをしてから、草履をはいて、産室の方へ出向いて行ったが、笹村はさほど気にもかけずにいた。二人はそのころ、不快な顔を背向《そむ》け合っているようなことが幾日も続いていた。
「あなたも来ていて下さいよ。」
 お銀は出がけに笹村に言った。
「みんないるからいいじゃないか。」
 笹村は呟《つぶや》いたが、やはり見に行かないわけには行かなかった。
 外には真夏の目眩《まぶ》しい日が照っていたが、木蔭の多い家のなかは涼しい風が吹き通った。
「くるちい?」
 子供は母親の顔を顰《しか》めて、いきむたんびに傍へ寄り添って、大人がするように自分の小さい手をかしてやった。そして手※[#「巾+白」、第4水準2-8-83、250-上-12]《ハンケチ》で玉のようににじみ出る鼻や額の汗を拭いた。
「おお、何てお悧巧《りこう》さんでしょう。自分もこうして阿母さんを苦しめた時もあったのにね。」
 産婆は泣くような声を出した。

     五十三

 産れた女の児《こ》が、少しずつ皮膚の色が剥《は》げて白くなって来るまでには大分間があった。くしゃくしゃした目鼻立ちも容易に調《ととの》って来なかった。笹村は見向きもしなかったが、乳房を哺《ふく》ませているお銀の様子には、前の時よりも母親らしい優しみが加わって来た。
 産婆は毎日来ては、湯をつかわせた。笹村も産児がどういう風に変化して行くかを見に行ったが、子供の顔は相変らず顰《しが》んでいた。
「何だいこれは……。」
 笹村はお七夜の時、産婆の手で白粉や紅をつけられて、目眩しそうな目を細めに開いている赤子を眺めて笑い出した。
 お銀も褥《とこ》のうえに起きあがって、蠢動《うごめ》く産児を見てにっこりしていた。
「いいですよ。こんな児がかえってよくなるものですよ。」
 お銀は自信がありそうに言った。
 老人のような皺《しわ》を目のあたりによせて、赤子は泣面《べそ》をかいた。胴の長い痩《や》せぽッちなその骨格と、狭い額際との父親そっくりであるほか、この子が母親の父方の顔容《かおかたち》を受け継いでいることは、笹村にとってかえって一種の安易であった。
 縁側を電車を引っ張って歩いていた正一も、側へ寄って来ると、赤子と一緒に苦痛らしい顔を顰めた。そして、「おッぱいやれ……。」と、母親に促した。
「どうも有難うございました。」
 少しは力の恢復《かいふく》して来たお銀が、捲《ま》き髪《がみ》姿で裏から入って来たとき、笹村の顔色がまだ嶮しかった。笹村はその時、台所へ出て七輪の火を起して、昼のお菜《かず》を煮ていたが、甥も側に働いていた。昼過ぎから学校へ通っている甥が出かけて行った後は、笹村は毎日独りで静かな家のなかに臥《ね》たり起きたりしていた。時々母親が来て、飯を運んだり、台所を見たりするのであったが、笹村はそのたんびにあまりいい顔を見せなかった。こうして面倒を見たり見られたりしながら、親たちや弟に幅を利かせようとしているらしいお銀の心持が、哀れでもあり苦々しくもあった。笹村は自分の力を買い被《かぶ》られていることも、苦しかった。老い先の短い田舎の母親、自分の事業、子供のことも考えなければならなかった。
「僕が今、金で衆《みんな》をどうするというわけに行かんことはお前も知っていてくれなけア困る。」
 笹村は衆《みんな》の前で時々お銀に言った。
「ええ、それどこじゃありませんとも。」
 お銀も言ったが、笹村はやはり不安でならなかった。目に見えぬ侵蝕《しんしょく》の力が、とても防ぎきれないように考えられた。
「子供一人を取って別れるよりほかない。そして母と妹とを呼び寄せて、累《わずら》いのない静かな家庭の空気に頭を涵《ひた》しでもしなければ……。」
 笹村は時々そういう方へ気が嚮《む》いて行った。物欲の盛んな今までの盲動的生活に堪えられないような気もした。虚弱な自分の体質や、消極的な性情が当然そうなって行かなければならぬようにも考えられた。
 十日ばかりの男世帯で、家のなかが何となく荒れていた。お銀は上って来ると、めずらしそうにわが家を見廻したが、目には不安の色があった。
「お前に帰って来てもらわないつもりなんだがね。」笹村は侵入者を拒むような調子で言った。
「でも私だって自家《うち》が気にかかりますから……。」
 叔父と甥と、何か巧《たくら》んでいるらしく、その場の光景が、しばらくぶりで帰って来たお銀の目に映った。お銀の猜疑《まわりぎ》は、笹村に負けないほど、いつも暗いところまで入り込んで行かなければ止《や》まなかった。

     五十四

 産は前より軽かったが、お銀の健康は冬になるまで恢復しなかった。一度水々しい艶《つや》を持ちかけて来た顔色は、残暑にめげた体と一緒に、また曇《うる》んで来た。手足もじりじり痩せて、稜立《かどだ》った胸の鎖骨のうえのところに大きな窪《くぼ》みが出来ていた。
 ある知合いの医師《いしゃ》は、聴診器を鞄にしまうと、目に深い不安の色を見せて、髯《ひげ》を捻《ひね》りながら黙っていた。
「肺じゃないか。」
 お銀が茶の室《ま》へ立って行ってから、笹村はたずねた。
 笹村は比較的骨格の岩丈《がんじょう》な妻の体について、これまで病気を予想するようなことはめったになかった。どうかすると鼻《はな》っ張《ぱ》りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽《くず》されそうになって来た。笹村は自分の体を流れている悪い血を、長いあいだ灑《そそ》ぎかけて来たようにも思えて、おそろしくもあった。
「浜田さんか橋爪さんに、私一度見てもらいたい。」
 お銀は時々そう言って、思うように肥立《ひだ》って来ない自分の体を不思議がったが、やはりずるずるになりがちであった。
「誰でもいいから予診をしてもらったらいいじゃないか。」
 笹村もお銀の気の長いのを、時とするとじれったく思うことがあったが、衰弱がどこまで嵩《こう》じて来るか、じっと見ていたいような気もした。終局は誰が勝利を占めるか……そうしたブルタルな気分に渇《かわ》くこともあった。若いその医師《いしゃ》は、容易に症状を告げなかった。
「まあ大学か順天堂へでも行って診《み》ておもらいなすった方がいい。ひょっとすると、肺に少し異状がありゃしないかとも思う。」
「何だか少しおかしいぜ。」
 笹村は医師が帰ってから、お銀に話しかけた。
「何だって言うんです。」
 お銀は若い医師に、頭から信用をおかないような調子で言った。
 明日その医師と一緒に病院へ診てもらいに行ったお銀の病気が、産後にはありがちな軽い腎臓病だということが解るまではお銀は何も手につかなかった。
「そうですかね。私もとうとうそんな病気になったんですかね。」
 平常《ふだん》のように赤子を抱いたり、台所働きをしているお銀の姿は、笹村の目にもいたましげに見えた。
「どれ、ちょッとお見せ。」と、笹村は気遣わしそうに胸を出さして見た。肋骨《ろっこつ》のぎこぎこした胸は看《み》るから弱そうであった。
「何て厭な体でしょう。骨ばかり太くて……。」
 お銀は淋しそうに自分の首や胸に触《さわ》って見た。そして肌をいれながら、
「私死んでもいい。子供さえなければ……。」
「何大丈夫だよ。きッと癒してやる。」
 笹村は心丈夫そうに笑って見せた。
「して見ると、あなたの方が丈夫なんですかね。」
「けれど、女の方はお産があるから……。」
 お銀は一ト月ばかり牛乳と薬を服《の》み続けていたが、腎臓の方が快くなると、じきに飽いて来た。
 涼気の立つころには、痩せていた子供も丸々肉づいて来るくらい、乳もたッぷりして来たが、時とするとお銀はやはりかかりつけの医者へ通った。
「あなたにちょいと来て下さいって、高橋さんがそう言いましたよ。」
 お銀はある日医者から帰ると、笹村に言い出した。
「何ですか、あなたに逢って、よく相談したいことがあるんだそうです。」

     五十五

 女のように柔和なその医者は、子供を診るのが上手であった。噛《か》んでくくめるように、容態なども詳しく話してくれるので、お銀も自然心易くしていた。一緒にいた芸妓《げいしゃ》あがりらしい女と、母親との折合いがわるくて、このごろ後釜《あとがま》に田舎から嫁が来ているという事情などもお銀はよく知っていた。
「あの書生さんが、またどことなく人ずきのする男ですよ。」とお銀はその薬局まで気に入っていた。
 お銀のことなどで、その医者に呼びつけられることは笹村にとって、あまり心持よくなかった。
「何んだつまらない、わざわざ人を呼びつけたり何かしやがって……。」
 笹村は帰って来ると、お銀に憤りを洩らした。笹村を詰問でもするらしい調子に出ようとした医者の態度は、お銀の若いその医者に対する甘えたような様子を想像せしめるに十分であった。
「今度は一つ、いい医者に診ておもらいなさらなけアいけませんよ。」
 医者のそう言った口吻《くちぶり》には、妻に対する良人の冷酷を責めでもするような心持がないとは言えなかった。
「高橋さんは何かあなたに失礼なことでも言ったんですか。」
 お銀は不思議そうな顔をした。
「だって私独りで病院へ行っても、明き盲ですからね。もし行くなら、高橋さんが婦人科の掛りを知っているから、一緒について行ってよく話をしてあげてもいい。とにかく一応あなたにも話すから……とそう言ったまでじゃありませんか。」
 この前にも知合いの医者に連れて行ってもらったことのあるお銀が、勝手の解らない広い病院で、あっちへまごまごこっちへまごまごするのが厭さに、始終出無精になっていたのは笹村にも呑み込めないことでもなかったが、そうした筋道の立ったお銀の言い分は、一層笹村の心をいらいらさせずにはおかなかった。
 不快な顔を背向《そむ》け合っていることが、幾日も続いた。笹村はそのまま病院へ行こうともしないでいる妻の無精を時々笑ったが、お銀はさほど気にもしないらしかった。
 前にもついて行ったことのある知合いの医者と一緒に、ある日大学の婦人科へ診てもらいに行ったのは、それから大分経ってからであった。
「今どこと言って、別に悪いところはないんですって……。」
 帰ってくると、お銀は晴れ着のまま、笹村の傍へ来て話し出した。
「ただお産の時に、子宮が少し曲ったんだそうですけれど、それは今度のお産の時にでも直せばいいそうです。今はほんの一週間も、洗うなら洗ってみてもいいって言うんですの。」
「へえ、そうかね。」笹村はその診断があっけないような気がした。
 潤沢《うるおい》も緊張《しまり》もないお銀の顔色は、冬になると、少しずつ、見直して来たが、お産をするごとに失われて行く、肉の軟かみと血の美しさは恢復《とりかえ》せそうもなかった。

     五十六

 そのころから、お銀はおりおり笹村の古い友達の前へ出て、酒の酌《しゃく》などをした。髪の抜け替わろうとしている鬢際《びんぎわ》の地の薄くすけて見えるお銀のやや更《ふ》けたような顔は、前よりはいくらか落ち着いてもいたし、媚《なまめ》かしさも見えた。そして遠慮なく膝を崩すような客に対する時の調子も、笹村が気遣ったほどには粗雑《がさつ》でもなかった。
 笹村が一週間ばかり、いろいろ紛糾《こぐらか》っている家庭の不快さを紛らしに、ふいと少しばかりのマネーを懐にして、海辺へ出て行った留守のまに、子供の帽子などを懐にして、宅《うち》を見舞ってくれる人などもあった。その男は、上《あが》り框《がまち》に腰かけてしばらく話し込んで行った。
「ぜひ遊びにいらっしゃい。笹村君が何か言えば、私がうまく言っておきますから……。」と、気軽にそんな愛想を言って行ったことなどを、お銀は後で笹村に話した。
「あの方なぞのお宅もさぞ立派でしょうね。――どんな風だか、後学のためによその家も私見ておきたい。」
 お銀は笹村の説明を聞いて、何にもない自分の家の部屋を気にしだした。
 海辺へ出て行くときの笹村の頭はくさくさしていた。じめじめした秋の雨が長く続いて、崖際《がけぎわ》の茶の室《ま》や、玄関わきの長四畳のべとべとする畳触りが、いかにも辛気《しんき》くさかった。そんな雨を潜《くぐ》りながら赤子を負って裏木戸から崖下の総井戸へ水を汲みに出て行った母親が、坂のところで躓《つまず》いて転んで、前歯が二本ぶらぶらになってから、ここの家の住みにくいことが、また母子《おやこ》の口から繰り返されなどした。
 飯を食うたびに、その歯を気にしている母親の顔を、お銀はいたましそうに眺めていた。笹村には、それが何か大きな犠牲でも払ったかのように思わせようとしているらしくも見えた。
「だから老人《としより》には無理ですよ。壮ちゃんに汲んでもらえばいいんだけれど、やはりそうも行かないし……。」お銀は笹村に当てこするような調子で言った。
 家を畳んで、そのころ渋谷《しぶや》の方のある華族の邸に住み込んでいた父親が、時々|羽織袴《はおりはかま》のままでここへ立ち寄ると、珍らしい菓子などを袂《たもと》から出して正一にくれなどした。
「御隠居が、こんな物をくれたで……。」と、綺麗な巾着《きんちゃく》を、紙に包んだまま娘の前に出すこともあった。
「工合はいかがです。」と、笹村はたまに愛想らしい口を利いた。いろいろの才覚のあるこの老人が、だんだん奥向きのことに係《たずさ》わるようになっていることは、笹村にも頷《うなず》かれたが、そこの窮屈な家風に、ようやく厭気《いやき》のさしていることも、時々の口吻《くちぶり》で想像することが出来た。
「何分|私《わし》も年を取っているもんだで……。」
 この五、六年田舎で懶惰《らんだ》に日を暮した父親は、ほかに何か気苦労のない仕事があるならばと、もうそれを考えているらしくも見えた。
 笹村は、そんな内輪の事情を、そのころまた旧《もと》の友情の恢復されていた深山にだけ時々打明け話をしたが、やはり独りでもだもだと頭を悩ましていることが多かった。そうして気が結ぼれていると、苦しい頭が狂い出しそうになった。

     五十七

 そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥《はしゃ》いだ口の利き方や、焦《いら》だちやすい動物をおひゃらかして悦《よろこ》んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。そして圧《お》し潰されたような厭な気分で、飯を食いに出るほかは、狭い檻《おり》のような自分の書斎のなかに、黙って閉じ籠ってばかりいた。笹村の臆病な冷たい目は、これまでに触れて来た女の非点《あら》ばかりを捜して行った。
 朝の食膳に向っている時、そうして張り合っている不快な顔の筋肉が、ふとくすぐられるような弛《ゆる》びを覚えて、双方で噴飯《ふきだ》してしまうようなことはこれまでにめずらしくなかったが、このごろの笹村の嫌厭《けんえん》の情は妻のそうした愛嬌《チャーム》を打ち消すに十分であった。
 笹村の目には、これまでにない醜い女が映って来た。そしてそれを見つめている苦しさに堪えられなかったが、お銀の頭にも、夫婦間に迫っている危機が感ぜられた。そして時々自分の前途を考えないわけに行かなかった。
 茶の室《ま》で、怯《おび》えたようなお銀が蔭でそっと差図して拵えさした膳に向って、母親の給仕で飯を食うのが苦しくなって来ると、笹村はそれを書斎の方へ運ばした。そして独りで寂しい安易な晩飯を取った。夜も冷や冷やする寝床のなかで、やっとうとうとしかけた眼がふと覚めると、痛いほど疲れた頭が興奮して来た。笹村はランプの心を挑《か》き立てて、時々蒲団のうえに起き直った。そして本など拡げて、重苦しい頭を慰《いや》そうとあせるのであったが、性のよくない目は、刺すような光に堪えられないほど涙がにじみ出して来た。呼吸《いき》も苦しかった。
 笹村は、よく夜更《よなか》に寂しい下宿の部屋から逃れて、深い眠りに沈んでいる町から町を彷徨《さまよ》い、静かな夜にのみ蘇生《よみがえ》っている、深山の書斎の窓明りを慕うて行ったころのことを思い出していた。そして、しらしらした夜明け方に、語りくたびれて森や池の畔《はた》を歩いていた二人の姿を考えた。
 笹村は、触る指頭《ゆびさき》にべっとりする額の脂汗《あぶらあせ》を拭いながら、部屋を出て台所へ酒や食べ物を捜しにでも行くか、お銀が用心深く鎖《とざ》した戸を推し開けて、そっと外へ逃げ出すかするよりほかなかった。
 明くる朝も笹村は早く目がさめた。舌にいらいらする昨夕《ゆうべ》の酒に、顔の皮膚がまだ厚ぽったく熱《ほて》っていて、縁側に差し込む朝日が目に沁《し》みるようであった。
 庭をぶらついている笹村の目に入ったお銀の蒼い顔にも、疲労の色が見えた。お銀は茶の間の縁先に子供を抱いてぼんやり坐っていた。
 その日は朝飯をすますと、お銀は子供を負って、めずらしく外へ出た。
「くさくさするからどこかへ行って遊んで来ましょうね。」
 そう言って出て行くお銀の調子には、いつにない落着きと、しおらしさとがあった。
 午後の三時ごろに、お銀がよく往来している友達と一緒に帰って来た時、笹村は襖《ふすま》を閉めきって自分の部屋に寝ていた。

     五十八

「……私もいつ逐《お》ん出されるか知れないから、ひょっとしたらあすこを出てしまおうかとも思うんですがね。」
 お銀は芝の方に家を持っているその友達を訪ねて、そんな話をしはじめた。
 商売人《くろうと》あがりのその友達は、お銀がもと金助町にいたころ、親しく近所|交際《づきあい》をしたことのある女であったが、このごろやり出したその良人はかなり派手な生活をしていた。女は来るたびに、時々の流行におくれないような身装《みなり》をしていた。
「須田さんでは、きっとこのごろ景気がいいんですよ。」
 笹村はお銀の口から、これまでにもおりおりそんなことを聞かされたが、そう言うお銀にはお銀自身の矜恃《プライド》がないこともなかった。
「私だっていつ出されるか知れやしないわ。」
 須田の細君もお附合いに同じようなことを言って笑っていたが、そんな不安はやはり時々あった。
 お銀は自分のこのごろの苦しいことを友達に話した。須田の細君も、笹村をおとなしいとばかりも言えないと思った。
「でも男というものは、皆なそんなもんですよ。」細君は自分などから見ると、まだ真面目に家ということを考えていないらしいお銀を慰めた。
「それに子供があるんだもの、どんな苦しいことがあったって、出ようなんて思うのは間違いですよ。」細君はそうも言って戒めた。
 二人は日比谷公園などを、ぶらぶら歩いて、それからお銀の家の方へやって来た。どこか寂しいところのあるこの細君が来ると、笹村も仲間入りをして、いつも一緒に花などを引いて遊ぶことになっていたが、その日は顔を出さずにしまった。そして茶の室《ま》で二人の話したり笑ったりしている声が、一層寝起きの笹村の頭をいらいらさせた。
 大分たってから、笹村はちょうど訪ねて来た深山と一緒に、どこという的《あて》もなしに町をぶらついていた。町にはどんよりした薄日がさして、そよりともしない空気に、羅宇屋《らうや》の汽笛などが懈《だる》げに聞え、人の顔が一様に黄ばんで見えた。
「どこへ行こうかな。」
「三崎町へ行って一幕見でもしようか。」
 二人はそんなことを呟きながら、富坂の傍にある原ッぱのなかへ出て来た。空には蜻蛉《とんぼ》などが飛んで、足下《あしもと》の叢《くさむら》に虫の声が聞えた。二人は小高い丘のうえに上って、静かな空へ拡がって行く砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の煙突の煙などをしばらく眺めていた。
 笹村の苦しい頭には、何の拘束もなしに、おりおりこうして二人一緒にそこら中を歩いた時の記憶が閃《ひらめ》いていた。笹村はよく劇場や食物屋のような賑やかな場所へ二人で入って行って、自分の寂しさを忘れようとした。今の苦しさもその時の寂しさと変りはなかった。
 しゃがんで莨《たばこ》をふかしながら、笹村は自分と妻の性格の矛盾などを語り出した。深山はそれを軽く受け流していた。
「多少の犠牲を払うことぐらいはしかたがないとしておかなけア……君の心持で細君を教養するよりほかないだろう。世間には、細君を同化して行く例がいくらもあるんだからね。」
 笹村にはそんな器用な真似の出来ないことは、そういう深山にも解っていた。
「あの当時もそういうことはF―なども言っていたさ。」深山は言い足した。「君はとてもあの女を制御し得まいってことをね……。」
 F―というのは、そのころ二人の間を往来していた文学志望の一青年であった。笹村はその当時の傍観者の一部の風評が、それで想像できるような気がした。
 一ト幕ばかり芝居の立ち見をして、家へ帰った時には、笹村の頭は前よりも一層|攪《か》き乱されたような状態にあった。
「おいおい。」
 笹村は薄暗い部屋のなかへ入って行くと、いきなり奥へ声をかけた。奥からは子供がひょこひょこ出て来たが、父親のむずかしげな顔色を気取ると、じきに顔を赧《あか》らめて出て行った。
 笹村はお銀を呼びつけて、また同じような別れ談《ばなし》を繰り返した。

     五十九

 お銀はそんな時、傍へ行っていいか悪いか解らなかった。半日外へ出ていた間に、深山とどこで何を話して来たか、それも不安であった。深山の口から、何か自分を苛《いじ》めるよな材料《たね》でも揚げて来たかのように、帰るとすぐ殺気立った調子で呼びつけられたのが厭でならなかった。あの当時、双方妙な工合で仲たがいをした深山の胸に、自分がどういう風に思われているかということは、お銀にも解っていた。自分と笹村との偶然の縁も、元はといえば深山の義理の叔父から繋《つな》がれたのだということも、何かにつけて考え出さずにはいられなかった。
 この夏はじめて、深山と笹村とが二年ぶりでまた往来することになった時、古い傷にでも触《さわ》られるように、お銀があまりいい顔をしなかったということは、笹村をして、そのころの事情について、さらに新しい疑惑を喚《よ》び起させる種であった。
「けど僕と深山とは、十年来の関係なんだからね。」
 笹村は自分の心持をその時お銀に話した。
「あの時、単に女一人のために深山を絶交したように思われているのも厭だし、相変らずの深山の家の様子を見れば、何だか気の毒のような気もするし……。」
 お銀や子供のこと以来、いろいろの苦労に漉《こ》されて来た笹村は、そうは口へ出さなかったが、衷心から友を理解したような心持もしていた。
 深山はそのころ、そっちこっち引っ越した果て、ずっと奥まったある人の別荘の地内にある貸家の一軒に住まっていた。笹村は時々深い木立ちのなかにあるその家の窓先に坐り込んで、深山が剥《む》いて出す柿などを食べながら、昔を憶い出すような話に耽《ふけ》った。庭先には山茶花《さざんか》などが咲いて、晴れた秋の空に鵙《もず》の啼《な》き声が聞えた。深山はそこで人間離れしたような生活を続けていたが、心は始終世間の方へ向いていた。
 笹村はたまには子供を連れ出して行くこともあった。深山の妹たちにそやされながら、子供は縮緬《ちりめん》の袖なしなどを着て、広い庭を心持よさそうに跳《は》ね廻っていた。
 深山もそうして遊んでいる子供には、深い興味を持つらしかった。
「おいおいこちらへ抱いておいで……危い。」などと、家のなかから妹たちに声かけた。
 この子供が、笹村に似ているということは、深山には一つの奇蹟《きせき》を見せられるようであった……と、笹村は初めて来たとき、玄関へ出て来た子供を見たおりの深山の顔から、そんな意味も読めば読めぬことはないような気がしていた。
「深山は正一を、磯谷の子だと思ってでもいたんだろう。」
 笹村はその時も、お銀に話したが、お銀にはその意味が、適切に通じないらしかった。
 お銀が蒼い顔をして、笹村の部屋の外へ来て、心寂しそうに衿《えり》を掻き合わせながら坐ったのは、大分経ってからであった。
「……あなたにもお気の毒ですから、方法さえつけば、私だってどうしても置いて頂かなければならないというわけでもないのでございます。だけど、さアといって、今が今出るということにもならないものですから……。」
 お銀はいつもの揶揄面《からかいづら》とまるで違ったような調子で、時々|応答《うけこたえ》をするのであったが、今の場合双方にその方法のつけ方のないことは、よく解っていた。
「とにかく僕はお前を解放しようと思う。今までにそうならなければならなかったのだ。」
「ですから、あなたも深山さんとよく御相談なすったらいいでしょう。」
 お銀はそうも言った。

     六十

 笹村の興奮した神経は、どこまで狂って行くか解らなかった。どうすることも出来ないほど血の荒立って行く自分を、別にまた静かに見つめている「自分」が頭の底にあったが、それはただ見つめて恐れ戦《おのの》いているばかりであった。口からは毒々しい語《ことば》がしきりに放たれ、弛《ゆる》みを見せまいとしている女のちょっとした冷語にも、体中の肉が跳《と》びあがるほど慄《ふる》えるのが、自分ながら恐ろしくも浅ましくもあった。そんな荒い血が、自分にも流れているのが、不思議なくらいであった。
「とてもあなたには敵《かな》いません。」
 そう言って淋しく笑う女も、傷《て》を負った獣のように蒼白い顔をして、笹村の前に慄えていた。骨張った男の手に打たれた女の頭髪《かみ》は、根ががっくりと崩れていた。爛《ただ》れたような目にも涙が流れていた。女はそれでも逃げようとはしなかった。
「ほんとに妙な気象だ。私が言わなくたって、人がみんなそう言っていますもの。」
 女はがくがくする頭髪を、痛そうに振り動かしながら、手で抑《おさ》えていた。
 笹村が、ふいに手を女の頭へあげるようなことは、これまでにもちょいちょいあった。寝ている女の櫛《くし》をそっと抜いて、二つに折ったことなどもあった。女は打たれるよりか、物を壊されるのが惜しかった。笹村の気色が嶮《けわ》しくなって来たと見ると、箪笥《たんす》や鏡台などを警戒して、始終体でそれを防ぐようにした。
 笹村は、弱い心臓をどきどきさせながら、母親の手に支えられて、やっと下に坐った。下駄や帽子を隠された笹村は、外へ飛び出すことすら出来ずにいた。
 二人は、時の力で、笹村の神経の萎《な》えて行くのを待つよりほかなかった。
 二、三日外をぶらついているうちに、今まで見せつけられていた他《ほか》のお銀が、また目に映りはじめて来た。
「私今度という今度こそは逐い出されるかと思った。」
 お銀は仔羊《こひつじ》のように柔順《おとな》しくなって来た。笹村の顔色を見ると、じきにその懐へ飛び込んで来るような狎《な》れ狎《な》れしさを見せて来た。
「けれど、お前も随分ひどいからな。」笹村はにやにやしていた。
「だって、あまり無理を言うから、私も棄腐《すてくさ》れを言ってやった。」
 お銀はそう言って、夜更けに卵の半熟などを拵えながら、火鉢の縁に頬杖《ほおづえ》をついて、にやりと笑った。
「あなたの言うことは、それは私にだって解らないことはないの。だけど、その時は何だか頭がかアっとなって、しかたがないんですの。やはり教育がないせいですね。」
 二人はランプを明るくして、いつまでも話に耽った。お銀が初めて笹村のところへ来た時のことなどが、また二人の頭に浮んで来た。正一をおろすとか、よそへくれるとか言って、毎日心を苦しめていたことが言い出されると、傍に寝ている子供の無心な顔を眺めているお銀の目には、涙が浮んだ。
「そう思って見るせいか、この子は何だか哀れっぽい子ですね。」
 笹村も侘《わび》しそうにその顔を見入った。親子四人こうして繋がっている縁が、不思議でもあり、悲しくもあった。
「この子は夭折《わかじに》するか知れませんよ。私何だかそんな気がする。」
「そうかも知れん。」笹村は呟いた。
「一体あの時、お前というものが、己《おれ》のところへ飛び込んで来なければ、こんなことにはならなかったんだ。」
「……厭なもんですね。」
「けど今からでも遅くない。お互いに、こうしていちゃ苦しくてしようがない。」
 二人はじっと向い合ってばかりいられなくなった。

     六十一

 笹村の姿が、また古い長火鉢の傍へ現われた。お銀は笹村が朝飯をすましてから、新聞や捲莨《まきたばこ》などを当てがっておいて、長いあいだの埃《ほこり》の溜った書斎の方へ箒《ほうき》を入れた。そしてだらしなく取り乱《ち》らかされたものを整理したり、手紙を選《え》り分けたりした。赭《あか》ちゃけた畳に沁み込むような朝日が窓から差し込んで、鬢《びん》の毛にかかる埃が目に見えるほど、冬の空気が澄んでいた。
 笹村は落ち着いて新聞すら見ていられなかった。投《ほう》り出されてあった仕事も気にかかって来たし、打ち釈《と》けるとじきに相談相手にされる生活のことなども、頭に絡《まつ》わっていた。仕事にかかる前に、どこかで一日気軽に遊びたいような気もしていた。
「今日はどこかへ行こうかな。」
 笹村は変った柄の手拭を姉さん冠《かぶ》りにして、床の間を片着けているお銀の後姿を入口から眺めながら呟いた。お銀は亡くなった叔父が道楽をしていた時分に、方々で貰った手拭を幾十本となく箪笥に持っていた。
「行ってらっしゃいよ。」
 お銀はばたばたと本にハタキをかけながら言った。
「私も行きたいけれど……あなたどこへいらっしゃるの。私何かおいしいものを食べたい。天麩羅《てんぷら》か何か。――ねえ、坊だけつれて行きましょうか。」
 お銀はにっこりした顔をあげた。
「私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね。」
「何なら出てもいい。」
 笹村は縁側の方へ出て、澄みきった空を眺めていた。
「中清《なかせい》で三人で食べたら、どのくらいかかるでしょう。私もしばらく食べて見ないけれど……。」と考えていたが、じきに気が差して来た。
「ああ惜しい惜しい。――それよりか、もうじき坊のお祝いが来るんですからね。七五三の……。子供にはすることだけはしてやらないと罪ですから。」お銀は屈託そうに言い出した。
 そんな見積りをしていたことは、大分前から笹村も知っていた。
「間に合わないと大変ですから、私今日にもお鳥目《あし》を拵えて、註文《ちゅうもん》だけしておいてよござんすか。」
 笹村は仲たがいしていた間のことが、一時に被《かぶ》さって来たようであったが、これをはっきりやめさすことも出来なかった。
 笹村と一緒に下町へ買物に出かけたお銀は、途中で手軽な料理屋を見つけてそこで夕飯を食べた。
「たまには外へ出るのもよござんすね。」といって、お銀はほっとしたような顔をして、猪口に口をつけた。
「私こんなところを歩くのは幾年ぶりだか。たまに来てみると髪や何か、女の様子が山の手とまるで違っていますね。」
 お銀は長いあいだ異《ちが》った水に馴《な》らされて来た自分の姿を振り顧《かえ》られるようであった。いつも女らしく着飾ったこともなしに、笑ったり泣いたりしているうち、もう二人の子の母になった。四年の月日は、夢のように流れた。笹村と一緒にここで酒を飲んでいるのも、不思議なようであった。
「前に来た時分からみると、ここの家も随分汚くなりましたね。」お銀はちらちらするような目容《めつき》をした。
「磯谷とだろう。」
 笹村は笑いかけると、お銀も、
「いいえ。」といって笑った。
 そこを出てから、二人はぶらぶら須田町のあたりまで歩いた。産後から体が真実《ほんとう》でないお銀は、電車に乗るとじきに胸がむかついた。電車は暗い方から出て来て、明るい方へ入ったり出たりした。青い火花が空に散るたびに、お銀は頭脳がくらくらするほど、眩暈《めまい》がした。
「私どうしてこんなに意気地がなくなったんでしょう。」
 お銀はおかしそうに笑いながら、笹村の手に掴《つか》まってやっとレールを渡った。

     六十二

「あなたあなた……。」と、お銀は外から帰ると書斎へ入って行く笹村の後を追いながら声をかけた。
 出癖のついた笹村は、毎日あわただしいような心持を、どこへ落ち着けていいか解らなかった。ちょうど長火鉢のところから見える後庭の崖際にある桜の枝頭《えださき》が朝見るごとに白みかかって来る時分で、落着きのない自分の書斎を出ると、気紛《きまぐ》れな笹村の足はどこという的《あて》もなしにいろいろの方へ嚮《む》いて行った。それでもやはり机のあたりが気にかかって、出たかと思うと、じきに帰って来るようなことが多かった。
「ひょっとすると、私たちはこの家を立ち退かなければならないかも知れませんよ。」
 お銀は坐るまもなく、今日この家の買い主らしい隠居をつれて、家主の番頭の来たことを話し出した。
「へえ、そうかね。」と言って、莨をふかしている笹村の頭には、まだ世帯持ちらしい何物も揃っていないが、何や彼や複雑になって来た家を移すということの億劫《おっくう》さが思われた。引っ越すには纏《まと》まった金を拵えなければならなかった。
「けど立ち退くにしても、いずれ今日明日ということでもないでしょうからね。」
 お銀は笹村に安易を与えるような調子で言った。
 見すぼらしい道具を引き纏めて小石川の方に見つけた、かなり手広な家へ引き移ったのは、それから間もないことであった。それまでに、お銀も一度笹村について、その家を見に行った。そして空《あ》き店《だな》を番している老人に逢って、いろいろの話を取り決めた。
「あんたまだ若い。お子供衆が二人もあるとは思えませんぜ。」
 家主は毛糸の衿捲《えりま》きを取って、夫婦に茶を侑《すす》めなどした。
 笹村は何よりも、茶の間の方と、書斎や客間の方の隔りのあるのが気に入った。茶の間の方には、茶室めいた造りの小室《こま》さえ附いていた。庭には枝ぶりのよい梅や棕櫚《しゅろ》などがあった。小さい燈籠《とうろう》も据えてあった。
 そこへ落ち着いて、広い座敷に寝た笹村は旅にいるような心持がした。
 笹村が前の家から持って来た萩《はぎ》の根などを土に埋《い》けていると、お銀は外へ長火鉢などを見に出て行った。古い方は引っ越すとき屑屋《くずや》の手に渡ってしまった。
「いくら何でも、こんなものはきまりがわるくて持ち出せやしませんわ。」
 お銀は落しのおちたその古火鉢を眺めながら、何もかまわない笹村に不足を言った。それでも手放すには、あまりいい気持はしなかった。拭くのも張合いのないその抽斗《ひきだし》の底には、どうなるか解らなかった母子の身の上を幾度となく占《うらな》った古い御籤《みくじ》などが、いまだに収《しま》ってあった。
 笹村は座敷の方に坐っているかと思うと、また落着きもなく勝手の方へ来て、少し高くなった四畳半の小室の方へやって来て、丸窓の下に寝転んだり、飛び石の多い庭へ下り立って見たりした。日によって庭にはどうかすると、砲兵工廠から来る煙が漲《みなぎ》り込んで、石炭|滓《かす》が寒い風に吹き寄せられて縁の板敷きに舞っていた。そんな日にはきっと空が曇って、棕櫚や竹の葉がざわざわと騒がしかった。笹村の頭も重苦しかった。
「これじゃしようがない。」
 お銀は時々障子を開けて見ながら呟いた。
「それにこの家の厠《はばかり》の位置が、私何だか気に喰いませんよ。」
 人殺しをしたある兇徒《きょうと》の妾《めかけ》が、ここにいたことがあるという話が、近所の人の口から、お銀の耳へじきに入った。
「そうさ、お前には隠していたけれど……。」
 笹村はそれを聞いて笑い出した。

     六十三

 人を二人まで締め殺して、死骸を床下に埋めておいたというその兇徒は、犯罪の迹《あと》を晦《くら》ますためにじきにその家を引き払った。その時移って来たのが、この家であった。笹村が移って来る以前にいたある翻訳家も、その当時警官や裁判官に入って来られて、床下の土も掘り返されなどした。――そんな事実が、お銀をして急にこの家を陰気くさく思わしめた。折合いの悪い継母を斬りつけたという自分の前の亭主のことが、それに繋がって始終お銀の頭に亡霊のようにこびり着いていた。新聞に出ていた兇徒の獰猛《どうもう》な面相も、目先を離れなかった。
 お銀は蒼い顔をして、よく夜更《よなか》に床のうえに起きあがっていた。そしてランプの心を挑《か》き立てて、夜明けの来るのを待ち遠しがっていた。
「ねえ、早く引っ越しましょうよ。私寿命が縮むようですから。」
 お銀は朝になると、暗い顔をして笹村に強請《せが》んだ。笹村もそれを拒むことができなかった。
 笹村も、いつか通りがかりにちょっと立ち寄ったことのある、お銀の先に縁づいていた家のことが思い出された。その家は、笹村がお銀の口から聴いて、想像していたほど綺麗な家ではなかった。東京に若い妾などを囲って、界隈《かいわい》に幅を利かしているというそこの年老《としと》った主、東京に芸者をしていたことがあるとか言ったその後添いの婆さん、仲人の口に欺《だま》されて行ったお銀が、そこにいた四ヵ月のあいだのいろいろの葛藤《かっとう》、ステーションまで提灯を持って迎いに出ていた多勢の町の顔利きに取り捲かれて、お銀が乗り込んで行ったという婚礼の一と晩の騒ぎ、そこへのこのこある日お銀に会いに行った磯谷の姿を見て、お銀が泣いたという芝居じみた一場の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28、264-下-19]話、そんなようなことが妙に笹村の好奇心をそそった。そうした客商売をしている家にいたころのお銀は、厭《いと》わしいような、美しいようないろいろの幻を、始終笹村の目に描かしめていた。
 汽車から降りて、その辺の郊外を散歩していた笹村の足は、自然《ひとりで》に、その家の附近へ向いて行った。そしてそんなような家を、あれかこれかとそちこち覗《のぞ》いて行《ある》いた。
 若いおりの古いお銀の匂いを、少しでも嗅ぎ出そうとしている笹村は、鋭い目をして、それからそれへとお銀の昔いた家を捜してあるいた。笹村の前には、葱青《あさぎ》、朽葉《くちば》、紺、白、いろいろの講中《こうちゅう》の旗の吊《つ》るされた休み茶屋、綺麗に掃除をした山がかりの庭の見えすく門のある料理屋などが幾軒となくあった。
 そんな通りから離れると、さらに東京の場末にあるような、かなり小綺麗な通りが、どこまでも続いていた。駄荷馬や荷車が、白い埃の立つその町を通って行った。人力車も時々見かけた。町の文明の程度を思わしめるような、何かなしきらきらした床屋があったり、店の暗い反物屋があったりした。冬の薄い日光を浴びて、白い蔵が見えたり、羽目板の赭《あか》い学校の建物が見えたりした。
 笹村の疲れた足は、引き返そう引き返そうと思いながら、いつかそのはずれまで行ってしまった。そこからはまだ寒さに顫《ふる》えている雑木林や森影のところどころに見える田圃面《たんぼづら》が灰色に拡がっていた。
 その白けたような街道では、東京ものらしいインバネスの男や、淡色のコートを着た白足袋の女などに時々|出遭《であ》った。
 笹村はその道をどこまでもたどって行った。

     六十四

 時々白い砂の捲き上る道の傍には、人の姿を見てお叩頭《じぎ》をしている物貰いなどが見えはじめて、お詣《まい》りをする人の姿がほかの道からもちらほら寄って来た。それがだんだん笹村を静かな町の入口へ導いて行った。
 この町にも前に通って来た町と同じような休み茶屋や料理屋などがあったが、区域も狭く人気も稀薄《きはく》であった。不断でもかなりな参詣人《さんけいにん》を呼んでいるそこの寺は、ちょうど東京の下町から老人や女の散歩がてら出かけて行くのに適当したような場所であった。四十から五十代の女が、日和下駄《ひよりげた》をはいて手に袋をさげて、幾人となくその門を潜《くぐ》って行った。中には相場師のような男や、意気な姿の女なども目に立った。
 勝手違いなところへ戸惑いをして来たような気がして、笹村がじきにその境内から脱けて出たころには、風が一層寒く、腹もすいていた。しばらくすると笹村は疲れた体を、ある料理屋の奥まった部屋の一つに構えていた。
 笹村は近ごろの増築らしいその部屋の壁にかかった、正宗やサイダの広告、床の間の掛け物や、瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28、265-下-20]した彼岸桜などを眺めていたが、するうちにいいつけたものが、女中の手で運ばれた。笹村の寒さに凍《かじか》んだ体には、少しばかり飲んだ酒がじきにまわった。そして刺身や椀のなかを突ッつきちらしたが、どれも咽喉《のど》へ通らなかった。笹村はまずい卵焼きで飯をすますと、間もなくそこを出て、また寒い田圃なかの道へ出て来た。そして何となくもの足りないような心持で、賑やかな前の町へ帰って来た。町ではもう豆腐屋の喇叭《らっぱ》の音などが聞えていた。
 笹村はそのままそこを離れてしまうのがあっけなかった。そして少しでもお銀から聞いていた話に当てはまるような家が見つかったら、そこへ飛び込もうと考えた。
 しばらくうろついた果てに、とうとう笹村の入って行った家は、そこらにある並《な》みの料理店と大した違いはなかった。それでも建物が比較的落着きのいいのと木や石のかなりに入っている庭の寂《さび》のあるのが、前に入った家よりかいくらか居心《いごころ》がよかった。東京風の女中の様子も、そんなにぞべぞべしてはいなかった。
「ここの家では何ができるんだね。」と、笹村は餉台《ちゃぶだい》の上におかれた板を取りあげながら、身装《みなり》のこざっぱりした二十四、五の女中に訊《たず》ねた。世帯くずしらしいその女中は、どこかに苦労人のようなところのある女であった。
「どうせこんなところですから、おいしいものは出来ませんけれど……さあ何がいいんでしょうね。」と、相手の柄を見て、自分で取り計らおうとするような風を見せた。
「なにかといっても種がありませんものですからね。それよりか鶏がいいじゃありませんか。お寒いから……。」
 笹村は何も食べたくはなかった。ただこの女の口からこの家のことを探りたいばかりであった。
「ねえ、そうなさい。」
 頭から爪先まで少しも厭味のないその女は、痩せた淋しい顔をして、なにかとこまこました話をしながら、鍋に脂肪《あぶら》を布《し》いたり、杯洗《はいせん》でコップを手際よく滌《すす》いだりした。
「ここの子息《むすこ》さんはどうしたい。まだ入牢《はい》っているのかい。」
 笹村は行けもせぬビールを飲みながら、軽い調子でそんなことを訊き出した。
「え、まだ……。」
 女は驚きもしなかった。そのころの家の馴染《なじ》みと思っているらしかった。
「その時分に来ていた嫁さんはどうしたんだね。」
 笹村はお銀のことを言い出した。

     六十五

 けれど笹村は、その女からあまり立ち入った話を聴くことが出来なかった。お銀の暗面をどこどこまでも掘《ほ》じくり立てようとしているような自分の態度にも気がさして来たし、女も以前のことは詳しく知らなかった。笹村は時々深入りしようとしては、他の話に紛らした。
「え、何だかそんな話ですけれどもね。」という風に、女も応答《うけこたえ》をしていた。
「あすこに戸を締めているのが、二度目に来た嫁さんですよ。」
 女はそこから斜《はす》かいに見える二階座敷の板戸を繰っている、一人の若い女を見あげて笹村に教えた。笹村は餉台の上へ伸びあがるようにしてそれを見たが、格別どうという女でもないらしかった。
「あの娘は家の親類から連れて来たんですけれど、辛抱するかどうだか解りませんよ。」女中はそうも言った。
 笹村は女にコップを差しなどした。
「君は一、二度亭主を持ったことがあるだろう。」とか「どんな亭主がいい?」とか、そんな笑談口《じょうだんぐち》をききながら、肉を突ついていた。
 部屋にはいつか灯が点《とも》されていた。土地の人らしい客が一組上って来たりした。
「そうですね、やっぱり親切な人がよござんすね、そうかといって、あまり鼻の下の長いのも厭ですわね、好いた人なら少しくらい打ったり叩《たた》かれたりしたってかまやしない。人前はそういう風を見せても、二人きりの時親切にしてくれるような男が私好きなの。」
「へえ、それじゃ己と同じだね。」笹村は笑った。
 女はヒステレックな笑い方をした。
 笹村はいつまでも、この部屋に浸《つか》っていたいような気がした。ことによると、ここはお銀が婚礼の晩に初めてこの家で寝た部屋ではないかというような感じもした。寝室の外の方にはほとんど夜あかし出入りの男たちが飲食いをして騒いでいたということや、初めてお銀の見た新夫が、その晩ぐでぐでに酔っていたということなどが、妙に笹村の頭をふらふらさせた。そしてビールが思いのほかに飲めるのであった。
「ここの子息《むすこ》というのを、君は知っているかい。」
 笹村はまた訊き出した。
「いいえ、私の来たのは、ついこのごろなんですから。何だか大変に酒癖の悪い人だそうですよ。男ぶりもよくはないという話ですよ。」
 いつかお銀の話に、「顔はのッぺりした綺麗な男なんですがね、何だかいけ好かない奴なんです。」と言ったのには、いくらか色気がつけてあるように思えて来た。
 そこを出た時、笹村はかなり酔っているのに気がついた。出るとき、ちろちろした笹村の目に映ったのは、一度お銀の舅《しゅうと》であったらしい貧相な爺さんであった。
 汽車の窓に肱《ひじ》をかけて、暗い外を眺めている笹村の頭脳《あたま》には、そんな家を訪ねたことを悔ゆる念も動いていた。お銀に向って、いつも真剣になっていた自分を笑いたくもあった。
 汽車はおそろしい響きを立てて走った。
「お前の古巣を見て来た。」
 笹村は家へ帰ってお銀の顔を見ると、そう言ってやりたいような気もしたが、やはり何事もないような風をするよりほかなかった。いつかはそれが勃発《ぼっぱつ》するだろう、とそれが気遣わしくもあった。
 お銀はその時、茶の間で、針仕事をしている母親と一緒に、何のこともなしに子供に乳を呑ませながら、良人《おっと》を待っていた。
 笹村は、すぐに書斎の方へ引っ込んで行った。

     六十六

 一皮ずつ剥《へが》して行くように妻のお銀を理解することは、笹村にとって一種の惨酷な興味であると同時に、苦痛でもあった。深山に情人《いろ》と誤解された弟と一緒に、初めて笹村の家へ来た当時のお銀――その時の冴《さ》え冴《ざ》えした女の目の印象は、まだ笹村の頭脳《あたま》に沁《し》み込んでいたが、年々自分に触れたところだけのお銀で満足していられなくなって来たのが、侘《わび》しかった。期待したような何物をももっていない女の反面、どんな場合にも、そこにいくらかの虚飾《みえ》と隠し立てとを取り去ることのできぬ女の性格、それに突き当る機会の多くなったのも厭であったが、やはり女をそっと眺めておけないような場合がたびたびあった。
 次に引き移って行った家では、その夏子供が大患《おおわずら》いをした。
 前にいた家の近所に、お銀がふとその家を見つけて来て、そこへ多勢の手を仮りて荷物を運び込んで行ったのは、風や埃の立つ花時から、初夏の落着きのよい時候に移るころであった。手伝いに来たものの中には、去年田舎から初めて出て来たお銀の末の弟の中学生などもいた。その弟は一家の離散したころから預けられていた親類の家から、東京へ遊学させられることになっていた。
 竹のまだ青々した建仁寺垣の結《ゆ》い繞《めぐ》らされた庭の隅には、松や杜松《ひば》に交《まじ》って、斑《ぶち》入りの八重の椿《つばき》が落ちていて、山土のような地面に蒼苔《あおごけ》が生えていた。木口のよい建物も、小体《こてい》に落着きよく造られてあった。笹村は栂《つが》のつるつるした縁の板敷きへ出て、心持よさそうに庭を眺めなどしていた。そして額《がく》を吊ったり、本を並べているお銀や弟を手伝っていたが、書斎と勝手の近いのが、気にかかった。
「これじゃそっちの話し声が耳について、勉強も何も出来やしない。」笹村は机の前に坐りながら言った。
「勤め人の夫婦ものか何かには、持って来いの家だよ。自分一人で住まう気になっているから困る。」
「そうですね。これじゃ……。」と弟も首を傾《かし》げた。
「やッぱり気がつきませんでしたかね。でもあんまり気持のいい家だったもんですから。」
 お銀も気がさして来たが、やはり住み心はよかった。
 木蓮《もくれん》や石榴《ざくろ》の葉がじきに繁って、蒼い外の影が明るすぎた部屋の壁にも冷や冷やと差して来た。ここへ来てから、急に蘇《よみがえ》ったようなお銀は、どうかすると、何事も忘れて半日も、せいせいした顔をして拭き掃除をしているようなことがあった。笹村も庭へ出ては草花|弄《いじ》りなどをして暮した。やがて頭の懈《だる》い夏が来た。
 風呂桶が新たに湯殿へ持ち込まれたり、顔貌《かおかたち》の綺麗な若い女中が傭《やと》い入れられたりした。
「これはおかしい。」
 笹村はそのころから、顔色の勝《すぐ》れない正一の顔を眺めながら、時々気にしていた。次の女の子が、少しずつ愛嬌《あいきょう》づいて来るにつれて、上の子は母親に顧みられなくなった。気むずかしい子供は、時々女中や老人をてこずらせた。
「変な子になりましたね。これを直しておかなけア、大きくなって困りますよ。」
 お銀は呆《あき》れたような顔をして、いじいじした声で泣き出す正一を眺めていた。
「お前たちには、この子供の気質が解らないんだ。」
 笹村はそう言って、傍で気を焦立《いらだ》った。

     六十七

 ある朝お銀がむずかる正一を背《せなか》へ載せて縁側をぶらぶらしていると、笹村は机の前に坐って、苦い顔をして莨ばかり喫《ふか》していた。笹村はしばらく勝手の方とかけ離れた日を送っていた。子供の病気を気にして、我から良人が折れて出るのを待つように、眼前《めさき》を往ったり来たりしている妻の姿や声が、痛い毛根に触《さわ》られるほど、笹村の神経に触れた。
 昨夜|麻布《あざぶ》の方に、近ごろ母子三人で家を持っている父親が、田舎から出て来たお銀の従兄《いとこ》と連れ立ってやって来た。その時|午前《ひるまえ》に連れられて行った正一も一緒に帰って来たが、いつにない電車に疲れて、伯父に抱かれて眠っていた。その前から悪くなっていた正一の胃腸は、ビールと一緒に客の前に出ていた葡萄《ぶどう》のために烈しく害《そこな》われた。蒸し暑いその一晩が明けるのも待ちきれずに、母親と一つ蚊帳《かや》に寝ていた子供は外へ這《は》い出して、めそめそした声で母親を呼んでいた。
「坊や厭になっちゃった。」
 子供の体の常《ただ》でないことが、朝になってからようやくお銀にも解って来た。
「手がないし、弱ってしまうね。」
 お銀は溜息を吐《つ》きながら、庭の涼しい木蔭を歩いたり、部屋へあがって翫具《おもちゃ》を当てがったりしていたが、子供は悦ばなかった。
「大変な熱ですよ。お医者さまへ行って来ましょうね。」
 お銀は子供に話しかけながら、乳呑《ちの》み児《ご》の方を女中に託《あず》けて出て行った。
 一時に四十二度まで熱の上った子供は、火のような体を小掻捲《こがいま》きにくるまれながら、集まって来た人々の膝のうえで一日|昏睡《こんすい》状態に陥ちていた。そして断え間なく黒い青い便が、便器で取られた。そのたびにヒイヒイ言って泣くのが、笹村の耳に響いた。
「今度という今度は、少し失敗《しくじ》りましたねって、そう言うんですよ。もし助けようと思うなら、入院させるよりほかないんですって。家ではどうしても手当てが行き届かないそうですから。」
 お銀は医者から帰った時、笹村に話した。
「どっちにしても、熱を少し冷《さ》ましてからでないといけないんだそうですがね。高橋さんが後で来て、も一度見て下さるそうです。けれど……その時病院の方も、紹介してあげますからというお話なんです。」
 午後になって、暑熱《あつさ》が加わって来ると、子供は一層弱って来た。そして烈しい息遣いをしながら、おりおり目を開いて渇《かわ》きを訴えた。目には人の顔を見判《みわ》ける力もなかった。
 いらいらする笹村の頭には、入院ということが大きな仕事に打《ぶ》つかったように考えられていたが、夏以来渇ききっている世帯のなかからさしあたり相当の支度もしなければならぬことが、お銀にとっても一と苦労であった。
 医者が様子を見に来た時には、熱が大分下っていた。子供はしきりに「氷……氷……。」などと甲立《かんだ》った弱々しい声で呼んでいた。
「だって子供にもメリンスの蒲団くらいは新しく拵えなければ……そうあなたのように今が今というわけにも行きませんわ。」
 お銀はいよいよ入院と決まった時に、急《せ》き立つ笹村に言い出した。長いあいだ叔母を看護したことのあるお銀は、病院の派手な世界であることを知っていた。
「何もかもちぐはぐの物ばかりで、さアと言うと、まごつくんですもの。」
 笹村は長くそこにいられなかった。そして紛擾《ごたごた》する病室を出ると、いきなり帽子を取って外へ出て行った。

     六十八

 その晩九時ごろに、子供が病院に担ぎ込まれるまでには、笹村も一度家へ帰って病院へ交渉に行ったりなどした。
「九時少し過ぎまでならいいそうだから、とにかく今夜のうちに担ぎ込もう。」
 お銀はその時、母親と一緒に押入れから子供の着替えのようなものを出したり、身の周《まわ》りの入用なものを取り揃えたりしていた。茶の室《ま》の神棚や仏壇には、母親のつけた燈明が赤々と照って、そこにいろいろの人が集まっていた。
「どうか戻されるようなことがなければいいがね。」
「多分大丈夫だろう。まだそんなに手遅れているわけでもないんだから。」と言いながら、笹村は一足先へ出た。
「よくなって速く帰っておいでよ。」
 老人《としより》にそう言われると、子供は車のうえで毛布に包《くる》まっていながら、
「おばアちゃんお宅《うち》に待っちしておいで……。」と言って出て行った。
 そろそろと挽《ひ》かれる車が、待ち遠しがって病院の外まで出て見ている笹村の目に映った。
「坊や、解るかい。ほーらお父さん……。」などと、お銀は車のうえで、子供に話しかけながらやって来た。町はもう大分ふけて、風がしっとりしていた。
 病室と入口の違った診察室は、大きな黒門の耳門《くぐり》を潜《くぐ》ってから、砂利を敷き詰めた門内をずっと奥まったところにあった。中へ入ったのは笹村とお銀とだけであった。
 部屋が決められる間、衆《みんな》は子供を囲んで暗い廊下に立っていた。子供は火がつくようにまた便通を訴えた。勝手のわからない人たちは、そこらをまごまごした。
 病室は往来へ向いたかなり手広な畳敷きであった。薄暗い電燈の下に、白いベッドが侘《わび》しげに敷かれてあった。
「坊やいや。」子供はそのベッドに寝かされるのを心細がった。
「お家へ帰ろう。」
「病気がよくなったらね。いい児《こ》だからここへ寝んねするんですよ。お医師《いしゃ》さまに叱《しか》られますよ。」
「いやだ……帰ろう……。」子供は頑強《がんきょう》に言い張った。そして疳《かん》の募ったような声を出して泣き叫んだ。終いには腰の立たない体をベッドから跳《は》ね出して、そこらをのた打ちまわった。笹村はびしゃりとその頬を打ったが、子供は一層|怯《お》じ怖《おそ》れてもがいた。
 女中は女の子を負《おぶ》いながら、傍にうろうろしていた。
「どうも何だか駄目のようですね。」
 お銀は畳の上へ転がりだして、もがきつかれて急《せわ》しい息遣いをしながら眠っている子供の顔を眺めて、落胆《がっかり》したように言い出した。
「これじゃ助かるところも助からんかも知れませんよ。そのくらいならいっそ家で介抱してやった方がようござんすよ。可哀そうですもの。」
「そうだね。」笹村も溜息をついた。
 後で解って来たとおりに、この病院が温かく家庭的に出来ているのが、その晩の医員や女事務員のお世辞ッ気のない態度では、かえってその反対に受け取られた。それも何だか二人には厭であった。
「とにかく院長が診《み》るまで待とう。」
 院長はその日は、千葉の分院へ出張の日であった。
 寝たまま便を取らせたり、痛い水銀|灌腸《かんちょう》をとにかく聴きわけて我慢するほどに、子供が病室に馴《な》らされるまでには、それから大分|日数《ひかず》がかかった。
「病勢はもっともっと上る。その峠をうまく越せれば、後は大して心配はなかろう。」
 入院の翌日に、初めて診察に来た老院長の態度は尊いほど物馴れたものであった。

     六十九

 病室の片隅に、小さい薄縁《うすべり》を敷いてある火鉢の傍で、ここの賄所《まかないじょ》から来る膳や、毎日毎日家から運んでくる重詰めや、時々は近所の肴屋《さかなや》からお銀が見繕《みつくろ》って来たものなどで、二人が小さい患者の目に触れないようにして飯を食う日が、三十幾日と続いた。患者が人の物を食っているのを見て、柵《さく》のなかの猿のように、肉の落ちた頬をもがもがさせて、泣面《べそ》をかくほどに食欲が恢復《かいふく》して来たのは、院長からやっと二粒三粒の米があってもさしつかえのないお粥《かゆ》や、ウエーファ、卵の黄味の半熟、水飴《みずあめ》などを与えてもいいという許しが、順に一日か二日おいては出るころであったが、その以前でも飲食物その他何によらず、患者はおそろしく意地が曲っていた。
「坊や厭になった。」
 患者は院長のいわゆる苦しい峠を越して、熱がやや冷《さ》めかけてからは、ベッドの周《まわ》りに並べられたり、糸で吊るされたりしてある翫具《おもちゃ》にも疲れて来ると、時々さも飽き飽きしたようにベッドに腰かけて、乾いた唇の皮を噛《か》みながら、顔をしかめて気懈《けだる》そうに呟いた。
「ああそうともそうとも。」とお銀は傍から慰めた。
「もう少しの辛抱ですよ。辛抱していさえすれば、今に歩行《あんよ》もできるし、坊やの好きな西洋料理も食べられるし、衆《みんな》で浅草へでもどこへでも行きましょうね。」
 便が少しよくなるかと思うと、また気になる粘液が出たり、せっかくさがった熱が上ったりして、傍《はた》で思うほど捗々《はかばか》しく行かなかった。笹村は外から帰って来でもすると、きっと体温表を取りあげて見たり、検温器を患者の腋《わき》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28、273-上-22]入《そうにゅう》したりして、失望したり、慣《じ》れったがったりしたが、外へ出ない時も、お銀にばかり委《まか》せておけなかった。
 微温湯《ぬるまゆ》の潅腸が、再び水銀潅腸に後戻りでもすると、望みをもって来た夫婦の心が、また急に曇った。笹村は潅腸をやったり、体温や脈搏《みゃくはく》などをとりに来る看護婦に、時々いろいろなむずかしいことを訊いた。
「あんまり訊くのはおよしなさいましよ。うるさがりますよ。」
 お銀は後で笹村に言った。
「もうあなたここまで漕《こ》ぎつけたんですもの。そう焦燥《やきもき》しないでいた方がよござんすよ。」
 今夜がもう絶頂だといって、院長が夜更《よなか》に特別に診察にまわって、心臓の手当てらしい頓服《とんぷく》をくれた前後の二、三日は、笹村は何事をも打ち忘れて昏睡に陥っている子供の枕頭《まくらもと》に附ききっていたが、時々|弛《ゆる》んだ心が、望みなさそうに見える子供から、ふと離れるらしいお銀の疲れた気無精《きぶしょう》な様子が目についた。それでなくとも笹村は、どうかすると気がいらいらして、いきなりお銀の頭へ手をあげるようなことがあったが、病児を控えている二人の心は、一緒に旅をして狭い船へでも乗った時のように和らぎあっていた。小さい生命を取り留めようとしている優しい努力、それをほかにしてはほとんど何の背景もなしに、二人は毎日顔を向け合っていた。
「坊が癒《なお》ったら温泉へでも行くかね。」
 笹村は明け方子供の傍に、突っ伏している妻の窶《やつ》れた姿を見出すと言いかけた。
「お前も疲れたろう。」
「いいえ。」お銀はくたびれた目を開けると、咎《とが》められでもしたように狼狽《あわ》てて顔をあげてにっこりした。
 窓の外が白々と明けかかって、すやすやした風が蚊帳の中まで滲《し》みて来た。笹村は意地くれた愛憎の情の狂いやすい自分の日常生活から、大分遠ざかっているような気がした。

     七十

 入院当時には満員であった病室が、退院するころにはぽつぽつ空きができて来た。まだ九月の半ばだというのに強い雨が一度降ってからは、急に陽気が涼しくなって、夜分などは白いベッドの肌触りが冷たいほどであった。お銀は家からセルなどを取り寄せたが、もうそんなころかと思うと、何だか心細かった。
 空が毎日曇って、病院のなかはじめじめしていた。どうかすると森《しん》と静まることのある古い建物のなかに、バタンと戸を閉める音などが遠くの方でするかと思うと、どこからか子供の泣き声が聞えたり、女の笑い声が洩れたりした。入院患者のなかには、子供を女中と看護婦に委《まか》しきりで、自分たちは時々着飾って一日外で遊んで来る若い下町風の夫婦があったり、沼津へ避暑に来ていて、それなり発病した子供を連れて来ている大阪弁の女がいたりした。死骸になった子供に白いものを着せて抱いて出て行く若い細君、全治した子を着飾らせて、幾台かの車を連ねて威勢よく退院する人、それらは残らず笹村の病室の窓から透《すか》し視《み》られるのであったが、そのたんびに夫婦はわが子の病勢を悲観したり、日数のかかるのを憤《じ》れったがったりした。
 お銀が翫具《おもちゃ》を交換したり、菓子のやり取りをしたりしている神さんも、一人二人あった。
「あの人の家は、浅草の区役所の裏の方だそうですよ、退院したら、きっと遊びに来てくれなんてね、莫大小《メリヤス》の工場なんかもってかなり大きくやっているらしいんですよ。あんなお世辞気のない人ですけれど、どことなく好いたような気象の人ですの。私の顔さえみるといろいろなことを話しかけて、先方《むこう》でも私のことをそう言うんですよ。」
 お銀はその病室から、そのころ出たての針金を縮ませて足を工夫した蜘蛛《くも》や蛸《たこ》の翫具を持って来て、それを床の上にかけわたされた糸に繋《つな》いだ。
 退屈がっている正一は、しばらくのまもお銀を傍から放さなかった。お銀は子供の寝息を窺《うかが》って、やっと手洗《ちょうず》をつかいに出たり厠《かわや》へ行ったりした。
「ちっと二階へでもあがって見ましょうね。そうしたら少しは気がせいせいしていいかも知れない。二階からは坊やの大好きな電車が見えてよ。」
 お銀はそう言って、正一を負《おぶ》い出した。そして次の女の子を負っている女中と一緒に、二階の廊下へ出て窓から外を眺めさせた。子供は少し見ていると、もうじきに飽いて来た。
 病室に飽きの来た笹村は、時々家へ来て、明け払ったような座敷の真中に、疲れた体を横たえた。庭には松や柘榴《ざくろ》の葉が濃く繁って、明るい小雨がしとしとと灑《そそ》いでいた。長いあいだ病室に閉じ籠って、どうかするとルーズになりがちな女のすることに気を配ったり、自身に夜昼体を働かして来たことが振り顧《かえ》られた。笹村は、始終苦しい夢に魘《うな》されているようであった。
 綺麗に取り片着けられた机のうえに二、三通来ている手紙のなかには、甥が報じてやったまだ見ぬ孫の病気を気遣って、長々と看護の心得など書いてよこした老母の手紙などがあった。手紙の奥には老母の信心する日吉《ひよし》さまとかの御洗米が、一ト袋|捲《ま》き込まれてあった。老母は夜の白々あけにそこへ毎日毎日孫の平癒《へいゆ》を祈りに行った。
 それを読んでいる笹村の目には、弱い子を持った母親の苦労の多かった自分の幼いおりのことなどが、長く展《ひろ》がって浮んだ。同じ道を歩む子供の生涯《しょうがい》も思いやられた。そうしていつかは行き違いに死に訣《わか》れて行かなければならぬ、親とか子とか孫とかの肉縁の愛着の強い力を考えずにはいられなかった。

     七十一

 刺身だとか、豆腐の淡汁《うすづゆ》だとかいうものを食べさせるころには、衰弱しきっていた子供も少しずつ力づいて来た。お銀が勝手の方でといで来た米を入れた行平《ゆきひら》を火鉢にかけて、粥《かゆ》を拵えていると、子供は柔かい座蒲団のうえに胡坐《あぐら》をかいて、健かな餒《う》えを感ずる鼻に旨《うま》い湯気を嗅ぎながら待っていた。悪い盛りに、潅腸をする看護婦の手を押し除《の》けたころの執拗《しつよう》と片意地とは、快復期へ向いてからは、もう見られなかった。
 さもうまそうに柔かい粥を食べる子供の口元を、夫婦は何事も忘れて傍から見守っていた。
「真実《ほんとう》によかったねえ、こんな物が食べられるようになって。」
 お銀は口の側《はた》などを拭いてやりながら、心から嬉しそうに言った。
「そんなにやっては多くないか。」
 中途|葛湯《くずゆ》で一度|失敗《しくじ》ったことのあるのに懲りている笹村は、医師の言う通りにばかりもしていられなかった。
「大丈夫ですよこのくらいは。あんまり控え目にばかりしているのもよし悪しですよ。」
 お銀は柔かそうなところを、また蓮華《れんげ》で掬《すく》ってやった。
「どれ立ってごらん。」
 笹村は箸をおいて、さも満足したように黙っている子供に言いかけた。
 子供は窓際に手をかけてやっと起ちあがったが、長く支えていられなかった。
「まだ駄目だな。」
 笹村は淋しそうに笑った。
 その窓際では、次の女の子がやっと掴《つか》まり立ちをするころであった。長い病院生活のあいだ、ろくろく母親の乳房も哺《ふく》ませられたことなしに、よそから手伝いに来てくれている一人の女と女中の背にばかり縛られていた。看護疲れのしたお銀の乳が細ってからは、その不足を牛乳で補って来たが、それでも子供はかなり肥《ふと》っていた。女中はそれを負って、廊下をぶらぶらしたり、院長の住居の方の庭へ出て遊んだりした。院長の夫人からは、時々菓子を貰って来たりした。つい近所にあるニコライの会堂も、女中の遊び場所の一つになっていた。笹村は日曜の朝ごとに鳴るそこの鐘の音を、もう四度も聞いた。お銀も正一を負いだして、一度そこへ見に行った。
「何て綺麗なお寺なんでしょう。あすこへ入っていると自然《ひとりで》に頭が静まるようですよ。だけど坊やは厭なんですって。」
「僕も子供の時分は寺が厭だった。」
 笹村は七、八つの時分に、母親につれられて、まだ夜のあけぬうちから、本願寺の別院の大きな門の扉《とびら》の外に集まった群集のなかに交って、寒い空の星影に戦《わなな》いていたことが、今でも頭に残っていた。「あの門跡《もんぜき》さまのお説教を聞くものは、これまでの罪が消えて、地獄へ行くものも極楽へ行ける」というような意味の母親の言《ことば》を耳にしながら、暗い広い殿堂のなかに坐っていた子供は、そこを罪を見現わされる地獄のように畏《おそ》れていた。その時の心理ほどはっきり頭に残っているものはなかった。
 腹のふくれた小さい患者は、今までにない健かな呼吸遣《いきづか》いをして、じきに眠ってしまった。
「さあ、私坊やの寝ているまに、ちょっとお湯へ行きたいんですがね。」
 お銀はここへ来てから時を見計らっては来てくれるお冬に、時々髪だけは結ってもらっていたが、一度もお湯に入る隙を見出すことができなかった。
 そこらを取り片着けてから、お銀が出て行ったあとの病室に、笹村はぽつねんと壁にもたれて子供の寝顔を番していた。そして疲れた頭が沈澱《ちんでん》して来ると、そこにいろいろ始末をしなければならぬ退院後の仕事が思い浮んで来た。「退院するときあまり変な見装《みなり》もして出られませんしね。」と言ってお銀の気にしていたことも考えられた。
 お銀はつやつやと紅味《あかみ》をもった顔を撫《な》でながら、じきに帰って来た。

     七十二

 退院後の家が、子供に珍らしかったと同じに、暗いところに馴れたお銀や笹村の目にも新しく映った。ふっくらした軟かい着物を着せられて、茶の間の真中に据えられた子供は、外の世界の強い刺戟に痛みを覚えるような力のない目を庭へ見据えていた。顔もまだ曇っていた。
 もう退院してもよかろうかといって尋ねた笹村に、「そう。もう少し。」と言って、院長は子供の腹工合を撫でて見ながら、
「予定より少し長くなったが、今度はもう大丈夫――随分苦しかったな。」と笑いながら引きあげた。
 それから二、三日も経った。後はしばらく通うことにしてとにかく夫婦は病院を引き払うことにした。その日は朝から、二、三日降り続いていた天気があがりかけて、細い雨が降っているかと思うと、埃《ほこり》のたまった窓の硝子に黄色い日がさして来たりした。
「今日退院しよう。」
 笹村は昼飯を喰ってから間もなく言い出した。もう見舞いに来る人も少くなった病室に、子供は配《あてが》われたウエーファを手に持ったまま、倦《う》み果てたような顔をして、ベッドに腰をかけていた。家から運んで来て庭向きの窓の枠《わく》に載せておいた草花も、しばらく忘れられて水に渇《かわ》いて萎《しお》れていた。
「それじゃ私はちょッと家まで行って来なくちゃ……。」お銀はその不意なのに驚いたようであった。
「家へ連れて帰ったら、かえってずんずん快《よ》くなるかも知れませんね。――さあ、それじゃ私行って来ましょう。」
 そう言ってお銀は髪など撫でつけながら、病気が恢復期へ向いたころに、笹村が買物のついでに、淡路町《あわじちょう》の方で求めて来た下駄をおろして、急いで出て行った。
 その間、笹村は子供を抱え出して、廊下をぶらぶらしていた。むずかしい病人がしきりに担ぎ込まれたり、死骸が運び出されたりした。ひところに比べると、そのころの病院の景気は何となく、だらけたものであった。死目になって張り詰めていた笹村の心にも、弛《ゆる》びと安易との淡い哀愁が漂っていた。廊下の突当りに、笹村の来ぬ前から痩せ細った十一、二の女の子を看護している婆さんだけが、今では笹村夫婦の一番古い馴染《なじ》みであった。その病人は里流れになった子であった。たまにパナマの帽子を冠った実の父親が訪《たず》ねて来ても子供は何の親しみも感じなかった。
「可哀そうなもんですね。」
 お銀は時々その部屋を見て来て、目を曇《うる》ませながら笹村に話した。
「家の坊やも、あなたの言うとおりに人にくれていたら、やっぱりあんなもんですよ。」お銀はそうも言っていた。
「母さんは……。」と言って、時々待ち遠しそうに顔を曇らしている正一を笹村は上草履のまま外へ抱え出した。
 町には薄暗い雲の影がさしていた。笹村はそこから電車通りへ出て、橋袂の広場を見せて歩いた。そうしているうちに、お銀が風呂敷包みなどを抱えて、車で駈けつけて来た。
 家では神棚に燈明が上げられたりした。神棚に飾ってある種々のお礼のなかには、髪結のお冬が、わざと成田まで行って受けて来てくれたものなどもあった。
 じきに催して来た子供の便には、まだ粘液が交っていた。
「やっぱりつれて来て悪かったでしょうかね。」
 お銀はお丸を覗き込んでいる笹村に呟いた。
 一時に疲れの出たお銀が、深い眠りに沈んでいる傍で、笹村は時々夜具をはねのける子供を番していた。蚊帳の外には、まだ蚊の啼き声がしていた。

     七十三

「何はおいても、お義理だけは早くしておきたいと思いますがね……。」と言うお銀に促されて、床揚げの配り物をすると一緒に、お冬へ返礼に芝居をおごったり、心配してくれた人たちを家へ呼んだりするころには、子供はまだ退院当時の状態を続けていたが、秋になってからは肥立ちも速《すみや》かであった。そしてその冬は、年が明けてから、ある日出先のお銀の弟の家で、急にジフテリアに罹《かか》って、危いところを注射で取り留めたほかは何事もなかった。
「この子は育てるのに骨が折れますよ。十一になるまで、摩利支天《まりしてん》さまのお弟子にしておくといいんだそうですよ。」
 お銀はお冬の知合いのある伺いやの爺さんから、そんなことを聞いて来たりした。
 しかしうっちゃっておいても育って行くように見えた、次の女の子が、いつもころころ独りで遊んでばかりいないことが、少しずつ解って来た。この子供は、不断は何のこともない大人の弄物《おもちゃ》であったが、どうかして意地をやかせると、襖《ふすま》にへばりついていて、一時間の余も片意地らしい声を立てて、心から泣きつづけることがあった。
「いやな子だな。豚の嘴《くちばし》のような鼻をして……此奴《こいつ》は意地が悪くなるよ。」
 笹村は小さい自我の発芽に触るような気がした。
「巳年《みどし》だから、私に似て執念ぶかいかも知れませんね。」
 そう言って子供を抱き締めているお銀は、不思議にこの子の顔の見直せるようになって来るのに、一層心を惹《ひ》かれていた。
「あなたは坊だけが可愛いようですね。私はどちらがどうということはありませんよ。」
 時々そんなことを口にする母親の情がだんだん大きい方の子供に冷《さ》めて行くのが笹村によく解った。
「そうさ、体質から気質まで、正一のことは己には一番よく解る。」
 そしてその交感の鋭いのが、笹村にとって脱れがたい苦痛の一つであった。
 その冬笹村のふと冒された風邪《かぜ》が、長く気管支に残った。熱がさめてからも、まだ咽喉《のど》にこびりついているような痰《たん》が取れなかった。時々|悪寒《おかん》もした。笹村は長いあいだ四畳半に閉じ籠って寝ていた。そして障子の隙間から来る風すらが、薄い皮膚に鋭く当った。
「とうとうこじらしてしまった。」笹村は痩せ細った手を眺めながら、憤《じ》れったそうに呟いた。
「こんな物が来たんですよ。」
 お銀はある日の晩方に、鏡台の抽斗《ひきだし》から一枚の葉書を出して、笹村に見せた。その葉書は磯谷から、いつかの大工の女房になっているお針の女へ当てたものであったが、書中にお銀の今の居所が尋ねてあった。その意味では、お銀がとうとう笹村のところに落ち着いたことを知らないらしかった。
 笹村は拙《まず》いその手蹟や、署名のある一枚の葉書に、血のむず痒《がゆ》いようななつかしさを覚えた。
「へえ。じゃまたお前に逢おうとでも思っているんだね。」
「そんなことかも知れませんよ。あの男は、一旦別れた女を、一、二年経つとまた思い出して来るのが癖なんです。今は何かあるかないか解りませんけれど、一人決まった女と関係していると、ほかの女のことが、やっぱり気になると見えるんですね。そして先方《むこう》の忘れた時分に、ふっと逢いに行って謝罪《あやま》ったり何かするんです。妙な男ですよ。」
「面白いね。」
「やっぱり気が多いんでしょうね。」
「今はどこにいるね。」
「どこにいるんですか。むろん学校の方も失敗《しくじ》ってしまったんですから。」
「どこかで一度くらい逢っているだろう。」
「逢えば逢ったとそう言いますよ。」

     七十四

 笹村はどんな片端《きれっぱし》でもいい、むかし磯谷からお銀に当ててよこした手紙があったらばと、それを捜してみたこともあった。読んで胸をどきつかすようなあるものを、その中から発見するのが、何よりも興味がありそうに思えた。笹村は独りいる時に、よく香水や白粉の匂いのする鏡台、箪笥、針箱、袋の底などを捜してみるのが好きであった。それは子供のおり田舎の家の暗い押入れにある母親の黴《かび》くさい手箪笥や文庫のなかを捜すとちょうど同じような心持であった。けれど書き物と言っては、お銀の叔父が世盛りのときに、友達に貸した金の証書の束、その時分の小使い帳、幾冊かの帳簿、その他は笹村の名の記されたものばかりであった。証書の束のなかにはかなりな金額の記されたものもあった。お銀の覚えている人も、その中に一人二人はあるらしかった。
「尋ねて見ようかしら。」
 お銀が時々そんなことを言っているのを、笹村も聴いた。そして、そのたびに、「誰しも貸して取れないのがあれば、一方には借りて返さないのもあるのさ。」と笑っていた。
「それよりか磯谷の手紙くらい残っていそうなものだね。それをお見せ。」笹村はそう言って尋ねた。
「小石川の家にいる時分、みんな焼いてしまいましたわ。」
「へえ、惜しいことをしたねえ。」笹村は残念がった。
 またある時、学校出の友達の夫人から、ある女学生が相愛していた男をふとしたことから母親の目に触れてから、一人娘であったわが子のために、父親はその男を養子に取り決めることになった。けれど男の心は、そんなことがあってから、じきに他の女に移って行った――そんな話を聞いた笹村は、お銀にもそれを語った。
「手紙を背負《しょ》い揚《あ》げに入れておくなんて、そんなことがあるのか。」
「え、そうでしょう。私もそうでした。」お銀はその時の娘らしい心持を追想するような目をして、呟くように言った。その手紙を焼いたころのお銀は、まだ赤いものなどを体に着けていた。
「なぜそれを己に見せなかった。」笹村はその時もそれをくやしがった。
 笹村の側《がわ》に、そんなことのないのが、お銀にとって心淋しかったが、それでもそのころ温泉場《ゆば》にいたある女から来た手紙や、大阪で少《わか》い時分の笹村が、淡いプラトニック・ラヴに陥ちていた女の手紙は、そんなことを誇張したがるお銀のためには、得がたい材料であった。
 二人寄席に行っているとき、向う側の二階に友達と一緒に来ている磯谷の顔を、お銀はじきに見つけた。そして前に坐っている人の陰に体をすくめながら、時々肩越しにそっちを見ていた。
「あれ磯谷の友達だった人ですよ。」
 お銀はそう言って笹村に教えたが、その傍に磯谷のいたことは、笹村も帰ってからはじめて聞かされた。
「莫迦《ばか》にしているな。向うは己を気づいたろう。己こそいい面《つら》の皮だ。」
 笹村はなぜその周囲の顔を、一々記憶に留めなかったかをくやしがった。
「気がつくもんですか。私のいることすら知らなかったでしょう。それに私も、あの時分から見るとずッと変っていますもの。口でも利けば知らず途中でちょッと逢ったくらいじゃ、とても解りっこはありませんよ。」
「だけど、お前の目が始終|先方《むこう》を捜していると同じに、先方の目だってお前を見遁《みのが》すもんか。」
「そんなことは真実《ほんとう》にありませんよ。」

     七十五

 けれど笹村の口にする磯谷という名前が、妻に対する軽侮と冷笑よりほか、何の意味をも響きをも与えない時の来たのは、そんなに長い将来のことでもなかった。お銀がそれを言い出されても、何の痛みをも感じないと同じに、笹村の方でも男が真の意味において自分のマッチでないことや、女が自分に値しないことのだんだんはっきりして来るのが、心淋しかった。
「電車通りのところで、阿母さんが余所《よそ》の人と話していたよ。」
 ある時歯の療治に行くお銀に連れられて行った正一は、ふと笹村の傍へ来てそう言って言い告げた。お銀は産をするたびに、歯を破《こわ》されていた。目も時々|霞《かす》むようなことがあった。二度目の産をしてからは、一層歯が衰えていた。
「大変な歯ですね。よく今まで我慢していましたね。」と医師《いしゃ》に言われてきまりがわるいくらいであった。
 お銀は痛みでもすると、その時々に弄《いじ》ってもらったりしていたが、続いて通うこともできずにいた。
「今の若さで、そう歯が悪くなるというのはどういうものだろう。」
 先の家にいるとき、雨のなかを井戸へ水を汲みに行って、坂で子供を負《おぶ》ったまま転んで、怪我《けが》で前歯を二本かいたほかは、歯を患《や》んだことのない老人《としより》に、そう言って笑われた。
「田舎の人と違いますよ。」
 物を食べるころになると、子供も同じように齲歯《むしば》に悩まされた。笹村はそこにも、自分の体を年々侵しているらしい悪い血を見た。
「今度こそ、少し詰めて通ってもよござんすか。」お銀はそう言って、正一の手をひきながら医師へ通った。四月ごろの厭な陽気で、お銀はどうかすると、歯と一緒に堪えがたい頭の痛みを覚えた。そしてせっかく結んだ髪を、また釈《と》いたりなどして、氷で冷やしていた。
「どうしたんでしょう。私の脳はもう腐ってしまうんでしょうか。何ともいえない厭な痛み方なんですがね。それに、体も何だか輪がかかったようになって……。」
 まだまだ先へ行けばよいこともある、そう思い思い苦しい世帯のなかを、意地を突ッ張って来たお銀も、体の衰えとともにもう三十に間もないことが、時々考えられた。
「己もいつまで働けるもんか。そのうちには葬られる。」
 時々そう言って淋しく笑っている笹村の顔を見ると、何だか情ないような気のすることもたびたびあった。
「お前も先の知れた己などの家にいて苦労してるよりか、今のうちにどうかしたらいいだろう。工面のよい商人か、請負師とでも一緒になって、姐《あねえ》とか何とか言われて、陽気に日を送っていた方が、どのくらい気が利いてるか知れやしない。箱屋をしたって、立派に色男の一人ぐらい養って行けるぜ。その代り、子供は己が、お前の後日の力になるように仕立てておいてやる。そしてお前の入用な時いつでも渡してやる。子供がお前の言うことを聴くか、どうか、それは己にも解らんがね。」
 笹村のそう言うたびに、お銀は聴かない振りをしていた。
 子供が電車通りで逢ったという男のことを、笹村はちょいと考えがつかなかった。
「どんな人……。」と言って、知っている人の名を挙げてみたが、やっぱり解らなかった。
「その人がね、お父さんのことを言っていたよ。」
 子供はうつむきながら言った。
 その男が磯谷であったことが、じきお銀の話で知れた。
「まるで本郷座のようでしたよ。私ほんとうに悪かった。これから妹と思って何かのおりには力になるからなんて、そう言って……。」と、お銀はその時の様子を笑いながら話した。

     七十六

 夏の初めに、何や彼やこだわりの多い家から逃れ、ある静かな田舎の町の旅籠屋《はたごや》の一室に閉じ籠った時の笹村の心持は、以前友達から頼まれた仕事を持って、そこへ来た時とはまるで変っていた。
 その町は、日光へも近く、塩原へもわずか五時間たらずで行けるような場所であったが、町それ自身には、旅客の足を留める何物もなかった。家を飛び出した時の笹村は、そこの退屈さを考えている遑《いとま》もないほど混乱しきっていた。それに適当な場所へ行くような用意ももとよりなかった。笹村は何かなし家と人から逃れて、そんなに東京からの旅客に慣らされていないような土地へ落ち着いて、静かに何かを考え窮めて見たかった。
 その前から、笹村はどうかすると家を飛び出しそうにしては、お銀や老人《としより》に支えられてしまった。春から夏へかけての笹村の感情は、これまでにも例のないほど荒《すさ》んでいた。自分の健康や世帯の苦労と、持っていた家をまた畳まなければならなかった弟や、そこへ行っていた母親についての心配とで、毎日溜息ばかり吐《つ》いているようなお銀の顔を見るのも苦しかったが、そうした波動の始終自分の頭に響いて来るのも厭であった。何事も隠そうとしているお銀の調子は、二人を一層打ち釈《と》けることの出来ないものにしてしまった。
 何ということなしに、笹村がちょいちょい通っていた女のことが、時々お銀の頭をいらいらさせた。体が悪いので、しばらく駿河台《するがだい》の方の下宿へ出ていたその女とは、年にも大変な懸隔《へだたり》があったし、集まって来る若い男も二、三人はあったが、土竜《もぐらもち》のような暗い生活をしている女の堕落的気分が、ただ時々の興味を惹《ひ》いていた。
 笹村は、家が重苦しくなって来ると、莨銭《たばこせん》を袂《たもと》の底にちゃらつかせながら、折にふれて行きどころのない足をそっちへ向けた。そしてその部屋の壁際に寝そべって、女からいろいろの話を聞いた。
 女の机のうえには薬瓶などがあった。女はしおしおしたような目をして、派手な牡丹《ぼたん》の置型のある浴衣《ゆかた》のうえに、矢絣《やがすり》の糸織りの書生羽織などを引っかけて、頽《くず》れた姿形《なりかたち》をして自分がそこへ陥ちて行った径路や、初恋などを話した。笹村は、頭が疲れて来ると、座蒲団のうえに丸くなって、毛布を被って、うとうとといい心持にまどろみかけていた。そして眠ったかと思うと、そこへ茶呑《ちゃの》み咄《ばなし》に来ている宿の内儀《かみ》さんと女との話し声が耳に入った。
 女のところへは、ほかにもそういう友達が一人二人遊びに来た。そのなかには、男に仕送りをされて、学校へ通っているような身のうえのものもあった。
 下宿には客が少かった。そして障子を閉めきって、そこに寝たり起きたりして、女の弁《しゃべ》ったりしたりすることを見ていると、暗いその部屋を起つのが億劫なほど、心も体も一種の慵《ものう》い安易に侵されるのであったが、やはりいらいらした何物かに苦しめられていた。
「坊ちゃんはお幾歳《いくつ》?」
 女は思い出したように、そんなことを訊いた。
「五つ。」笹村は自分を笑うように答えた。
 笹村はそこでまずい西洋料理などを取って食べた。
「この商売はそんなに悪い商売でしょうか。」女はそんなことを訊いた。
 笹村はそこに居たたまらなくなると、鳥打帽子に顔を隠して、やがて外へ出た。

     七十七

 そっちこっちへ手紙を出すのを仕事にしている女は、笹村のところへもどうかすると決り文句の手紙を男名で書いた。それがお銀の目にも触れた。それでなくとも、外から帰って来る笹村の顔から、その行き先を嗅ぎ出すくらいは、お銀にとってそんなむずかしいことでもなかった。そんな時のお銀の調子は、自分を恥じている笹村の心にとげとげしく触った。
「そんなものに関係なぞして、あなたは世間のいい笑いものになっていることを知らないんですか。深山さんでも誰でも、皆なそう言ってますよ。」
 お銀はムキになって、その女のことを口汚く罵《ののし》った。目の色も変っていた。
 二日ばかり、外をぶらついて帰って来た笹村は、お銀の神経をそんなに興奮させる何物もないのがおかしかったが、相手の心持に理解のないお銀の荒々しい物の言いぶりや仕草には、笑って済まされないようなことがあった。
 何事も投《ほう》り出して、ペンと紙だけポケットへ入れて、ある日の午後不意に笹村が家を出た時、お銀は何にも知らずにいた。それまで二人は幾度となくはしたなく言い争った。巣をかえてから、笹村の足の遠のいていた女のことは、もはやお銀の頭に何の煩いをも残さなかったが、そんなことでしばらく紛らされていた笹村の頭は、前よりも一層落着きを失っていた。そして年々煩わしさの増して行く生活につれていろいろに分裂している自分の心持を支えきれないような気がしていた。
 その日は雨がじめじめ降っていたが、汽車から眺める平野の青葉の影は、しばらく家を離れたことのない笹村の目に、すがすがしく映った。汽車は次第に東京の近郊から離れて、広い退屈な関東の野を走った。笹村の頭には今まで渦のなかにいるように思えた自分の家、家族の団欒《だんらん》、それらの影がだんだん薄くなって来た。そして今行こうとしている町の静けさと自由さが、沈澱《ちんでん》したような頭に少しずつはっきりして来た。どこへ旅しても、目は始終人や女の影を追うていた七、八年前の心持が、今と比べて考えられた。西の方へ長い漂浪《さすらい》の旅をした時は、ことにそうであった。家族と一緒に歩いている旅客を、船や汽車で見た時は、一層その念が強かった。その時の笹村の心には、どこへ行っても自然は気をいらいらさせる退屈な田舎の松並木に過ぎなかった。
 爽《さわや》かな初夏の雨は、汽車の窓にも軽く灑《そそ》いで来た。窓の前には、雨を十分吸い込んだ黒土の畑に、青い野菜の柔かい葉や茎を伸ばしているのが見えたり、色の鮮かな木立ち際に黝《くろず》んだ藁屋《わらや》が見えたりした。汽車のなかには、日光へ行くらしい西洋人の日にやけた紅《あか》い顔なども見えた。汽車は次第に山の方へかかって行った。深い雑木林が、絶えず煽《あお》りを喰って、しなやかなその小枝を揺がし、竹藪《たけやぶ》からすいすいした若竹が、雨にぬれた枝を差し交していた。古い油絵に見るようにこんもりした杉のところどころに叢立《むらだ》っているのが、山の気の深さを感じしめた。
 鉄道が敷けてから、急に寂しくなって来たその町は、耳がしんとするほど静かであった。かなり大きな家のある広い通りにも、人の影が疎《まば》らであった。
 宿の広い土間から、裏二階の座敷へ案内された笹村は、落着きもなく手擦《てす》り際《ぎわ》へ出て庭を眺めたり、額や掛け物を見つめたりしていたが、階下《した》に飼ってある小禽《ことり》の幽《かす》かな啼き声が、侘《わび》しげに聞えて来た。
 日暮れになっても、雨はしとしとと降っていた。

     七十八

 容易に坐り癖のつかない、そこの広い部屋の寂しさに慣れるまでには、かなり間があった。
 笹村は朝九時ごろに起きると、大抵風呂の沸く午後の三、四時ごろまでは、じッと机の側に坐りきりであった。他の部屋とかけ離れたその座敷へは、何の音響も伝わっていなかった。時とすると広い寂れた通りで、子供を集めているよかよか飴《あめ》の太鼓の音が、沈澱したような四辺《あたり》の寂寞《せきばく》を掻き乱して行くほかは、例の小禽の囀《さえず》りが耳につくだけであった。すべての感覚を絶たれたような笹村の頭は、どうかすると真空のように白けきっていた。
 笹村は喫《ふか》しつづけの莨に舌がいらいらして来ると、ふと机に向き直って何か書こうとして紙を見つめることもあったが、頭はやッぱり疲れていた。
 空の晴れた日には、男体山《なんたいさん》などの姿が窓からはっきり眺められた。社の森、日光の町まで続いた杉並木なども、目前《めさき》に黝んで見えた。大谷川《だいやがわ》の河原も、後の高窓から見られたが、笹村はどこを見ても沈黙の壁に向っているようであった。
 家のことが、時々目前に浮んだ。向き合っている時には見られなかったお銀の心持や運命も、こうして遠く離れていると、はっきり解るように思えた。肉体とともに、若い心の摺《す》りへらされて行くお銀の胸には、まだ時々恋愛の夢が振り顧られた。充《み》たしがたい物質上の欲求も、絶えず心を動揺させていた。それを踏みつけようとしている良人の狂暴な手は、年々反抗しがたいものとなった。
「子供にもそう不自由をさせず、時々のものでも着て行ければ私は他に何にも望みはない。」
 お銀のそういう言葉には、色の剥《は》げて行く生活の寂しい影がさしていた。
 笹村は、ある日劇場の人込みのなかで、卒倒したお銀の哀れな姿を思い出さずにはいられなかった。夫婦はその日、新橋まで人を見送った。そして帰りに橋袂で、お銀の好きな天麩羅《てんぷら》を喰べた。
「ああおいしい。」
 お銀はそう言って、笹村の顔を見ながら我ながらおかしそうに笑った。
「よく喰うな。」笹村は苦笑していた。
 二人は腹ごなしに銀座通りを、ぶらぶら歩いた。
「私こんなところを歩くのは何年ぶりだか、築地にいたころは毎晩のように来たこともありますがね。」
 お銀はそう言いながら、珍らしそうにそこらを眺めていた。
「歌舞伎《かぶき》を一幕のぞいて見ようか。」笹村は尾張町《おわりちょう》の角まで来たとき、ふと言い出した。
 一幕見はかなり込み合っていた。薄暗い舞台の方を伸びあがって見ると、そこにはちょうど、地震加藤の幕が開いていた。お銀は人の肩越しに、足を爪立《つまだ》てて、花道から出て来る八百蔵《やおぞう》の加藤を、やっと頭の先だけ見ることができた。ぼっとしたような目には、桟敷《さじき》に並んでいる婦人たちの美しい姿がだんだん晴れやかに映っていた。お銀は十年ほど前に、叔父と一緒に一世一代だという団十郎の熊谷《くまがい》を見てから、ここへ入るようなこともなかった。
 やがて下りた浅黄色の幕が落ちて、宗十郎の小西がそこへ現われて来るころに、お銀は真蒼《まつさお》な顔をして後の方へ退《さが》って行った。そして頭を抑えながら、苦しそうに呼吸《いき》をはずましていた。
「目がぐらぐらして、わたし何だかそこらが真暗……。」
 笹村の手に縋《すが》って、廊下の方へ出たお銀は、「あなた私もう駄目よ。」と、泣き声を出してじきにそこへ倒れてしまった。
 しばらくお銀は運動場へ出て、風に吹かれていた。亜鉛《トタン》の板敷きに、べったり坐っているお銀は、少しずつ性がついて来た。笹村はじきに外へ連れ出した。
 お銀はコートについた埃も払わずに、蒼い顔をして、薬屋を捜した。目にも涙がにじんで、手足が冷えきっていた。
「どうしてこう弱くなったんでしょう。」
 呟きながら、川端を歩いているお銀の姿を、笹村は時々振り顧ってみた。

     七十九

「お湯にお入んなすって。」といって毎日毎日刻限になると、栗山から来ているという、行儀のよい小娘が、部屋の入口へ来てにっこりしながら声かけるころには、笹村の頭は何を考えるともなしに萎《な》え疲れていた。沈黙の苦痛に気が変になりそうなこともあったが、やはり部屋を動くのが厭であった。
 もう十日の余もいて、町の人の生活状態も解っていたし、宿の人たちのことも按摩《あんま》などの口から時々に聴き取って、ほぼ明らかになっていた。町の宿屋という宿屋は、日光山へ登る旅客がここを通らなくなってからは、大抵|達磨宿《だるまやど》のようなものになってしまった。町の裏に繁っていた森も年々に伐《か》り尽されて、痩せ土には米も熟《みの》らないのであった。唯一の得意先であった足尾の方へ荷物を運ぶ馬も今は何ほども立たなかった。そのなかでその宿だけは格を崩さずにいた。裏には顕官の来て泊る新築の一構えなどもあった。魚河岸《うおがし》から集金に来ている一人の親方は、そこの広間で毎日土地の芸妓《げいしゃ》や鼓笛《つづみふえ》の師匠などを集めて騒いでいた。
 湯殿の上り場には、掘りぬきの水が不断に流れていた。山から取って来てその水に浸《つ》けてある淡色《うすいろ》の夏雪草などを眺めながら、笹村は筋肉のふやけきったような体を湯に浸していた。湯気で曇った硝子窓には、庭の立ち木の影が淡碧《うすあお》く映っていた。
 日暮れ方になると、笹村は町へ出て見た。そこここの宿屋の薄暗い二階からは、方々から入り込んでいる繭買《まゆか》いの姿などが見られた。裏通りへ入ると、黄色い柿の花の散っている門構えの家などが見えたり、ごみごみした飲食店や、御神燈の出た芸者屋が立ち並んでいたりした。
 去年の秋の氾濫《はんらん》の迹《あと》の恐ろしい大谷川の縁へ笹村は時々出かけて行った。石のごろごろした白い河原の上流には、威嚇《いかく》するような荒い山の姿が、夕暮れの空に重なりあって見えた。凄《すさま》じい水勢に潰《くず》された迹の堤の縁《へり》には、後から後からと小屋を立てて住んでいる者もあった。笹村は石を伝って、広い河原をどこまでも溯《さかのぼ》って見たり、岩に腰かけて恐ろしい静寂の底に吸い込まれて行きそうな心臓の響きに、耳を澄ましたりした。
 やがて高い向う河岸の森蔭や、下流の砂洲に繁った松原のなかに、火影がちらちらしはじめた。電《いなずま》が時々白い水のうえを走った。笹村は長くそこに留まっていられなかった。
 町をまた一巡《ひとまわ》りして宿へ帰って来た笹村は、この十日ばかり何を見つめるともなしにそこに坐っていた自分の姿を、ふと目に浮べた。机の上には来た時のままの紙や本が散らばっていて、澱《おど》んだような電気の明りに、夏虫が羽音を立てていた。
 その晩笹村は下の炉傍《ろばた》へ来て、酒をつけてもらったりした。炉傍には、時々話し相手にする町の大きな精米場の持ち主も来て坐っていた。
 翌朝九時ごろに、階下《した》へ顔を洗いに行った時、笹村はふと料理場から顔を出す女の姿を見た。薄い鬢《びん》を引っ詰めたその顔は、昨夜《ゆうべ》見た時よりも荒れて蒼白かった。顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6、288-上-8]《こめかみ》のところに貼《は》った膏薬《こうやく》も気味が悪かった。
「旦那《だんな》、ほんとに日光へ連れて行って下さいね。」
 女の口には金歯が光った。声もしゃ[#「しゃ」に傍点]がれたようであった。女は昨夜の挨拶にそこへ来ているのであった。
 午後に笹村は、長く壁にかかっていた洋服を着込んで、ふいとステーションへ独りで出向いて行った。そしてちょうど西那須《にしなす》行きの汽車に間に合った。



底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
   1967(昭和42)年9月5日初版発行
   1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2003年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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