青空文庫アーカイブ

あらくれ
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)やくざ[#「やくざ」に傍点]者
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     一

 お島が養親の口から、近いうちに自分に入婿の来るよしをほのめかされた時に、彼女の頭脳には、まだ何等の分明した考えも起って来なかった。
 十八になったお島は、その頃その界隈で男嫌いという評判を立てられていた。そんなことをしずとも、町屋の娘と同じに、裁縫やお琴の稽古でもしていれば、立派に年頃の綺麗な娘で通して行かれる養家の家柄ではあったが、手頭などの器用に産れついていない彼女は、じっと部屋のなかに坐っているようなことは余り好まなかったので、稚いおりから善く外へ出て田畑の土を弄ったり、若い男たちと一緒に、田植に出たり、稲刈に働いたりした。そうしてそんな荒仕事がどうかすると寧ろ彼女に適しているようにすら思われた。養蚕の季節などにも彼女は家中の誰よりも善く働いてみせた。そうして養父や養母の気に入られるのが、何よりの楽しみであった。界隈の若い者や、傭い男などから、彼女は時々揶揄われたり、猥らな真似をされたりする機会が多かった。お島はそうした男たちと一緒に働いたり、ふざけたりして燥ぐことが好であったが、誰もまだ彼女の頬や手に触れたという者はなかった。そう云う場合には、お島はいつも荒れ馬のように暴れて、小ッぴどく男の手顔を引かくか、さもなければ人前でそれを素破ぬいて辱をかかせるかして、自ら悦ばなければ止まなかった。
 お島は今でもその頃のことを善く覚えているが、彼女がここへ貰われてきたのは、七つの年であった。お島は昔気質の律義な父親に手をひかれて、或日の晩方、自分に深い憎しみを持っている母親の暴い怒と惨酷な折檻から脱れるために、野原をそっち此方彷徨いていた。時は秋の末であったらしく、近在の貧しい町の休茶屋や、飲食店などには赤い柿の実が、枝ごと吊されてあったりした。父親はそれらの休み茶屋へ入って、子供の疲れた足を劬わり休めさせ、自分も茶を呑んだり、莨をふかしたりしていたが、無智なお島は、茶屋の女が剥いてくれる柿や塩煎餅などを食べて、臆病らしい目でそこらを見まわしていた。今まで赤々していた夕陽がかげって、野面からは寒い風が吹き、方々の木立や、木立の蔭の人家、黄色い懸稲、黝い畑などが、一様に夕濛靄に裹まれて、一日苦使われて疲れた体を慵げに、往来を通ってゆく駄馬の姿などが、物悲しげみえた。お島は大きな重い車をつけられて、従順に引張られてゆく動物のしょぼしょぼした目などを見ると、何となし涙ぐまれるようであった。気の荒い母親からのがれて、娘の遣場に困っている自分の父親も可哀そうであった。
 お島は爾時、ひろびろした水のほとりへ出て来たように覚えている。それは尾久の渡あたりでもあったろうか、のんどりした暗碧なその水の面にはまだ真珠色の空の光がほのかに差していて、静かに漕いでゆく淋しい舟の影が一つ二つみえた。岸には波がだぶだぶと浸って、怪獣のような暗い木の影が、そこに揺めいていた。お島の幼い心も、この静かな景色を眺めているうちに、頭のうえから爪先まで、一種の畏怖と安易とにうたれて、黙ってじっと父親の痩せた手に縋っているのであった。

     二

 その時お島の父親は、どういう心算で水のほとりへなぞ彼女をつれて行ったのか、今考えてみても父親の心持は素より解らない。或は渡しを向うへ渡って、そこで知合の家を尋ねてお島の体の始末をする目算であったであろうが、お島はその場合、水を見ている父親の暗い顔の底に、或可恐しい惨忍な思着が潜んでいるのではないかと、ふと幼心に感づいて、怯えた。父親の顔には悔恨と懊悩の色が現われていた。
 赤児のおりから里にやられていたお島は、家へ引取られてからも、気強い母親に疎まれがちであった。始終めそめそしていたお島は、どうかすると母親から、小さい手に焼火箸を押しつけられたりした。お島は涙の目で、その火箸を見詰めていながら、剛情にもその手を引込めようとはしなかった。それが一層母親の憎しみを募らせずにはおかなかった。
「この業つく張め」彼女はじりじりして、そう言って罵った。
 昔は庄屋であったお島の家は、その頃も界隈の人達から尊敬されていた。祖父が将軍家の出遊のおりの休憩所として、広々した庭を献納したことなどが、家の由緒に立派な光を添えていた。その地面は今でも市民の遊園地として遺っている。庭作りとして、高貴の家へ出入していたお島の父親は、彼が一生の瑕としてお島たちの母親である彼が二度目の妻を、賤しいところから迎えた。それは彼が、時々酒を飲みに行く、近辺の或安料理屋にいる女の一人であった。彼女は家にいては能く働いたがその身状を誰も好く言うものはなかった。
 お島が今の養家へ貰われて来たのは、渡場でその時行逢った父親の知合の男の口入であった。紙漉場などをもって、細々と暮していた養家では、その頃不思議な利得があって、遽に身代が太り、地所などをどしどし買入れた。お島は養親の口から、時々その折の不思議を洩れ聞いた。それは全然作物語にでもありそうな事件であった。或冬の夕暮に、放浪の旅に疲れた一人の六部が、そこへ一夜の宿を乞求めた。夜があけてから、思いがけない或幸いが、この一家を見舞うであろう由を言告げて立去った。その旅客の迹に、貴い多くの小判が、外に積んだ楮のなかから、二三日たって発見せられた。養父は大分たってから、一つはその旅客の迹を追うべく、一つは諸方の神仏に、自分の幸を感謝すべく、同じ巡礼の旅に上ったが、終にそれらしい人の姿にも出逢わなかった。左に右、養家はそれから好い事ばかりが続いた。ちょいちょい町の人達へ金を貸つけたりして、夫婦は財産の殖えるのを楽んだ。
「その六部が何者であったかな」養父は稀に門辺へ来る六部などへ、厚く報謝をするおりなどに、その頃のことを想出して、お島に語聞せたが、お島はそんな事には格別の興味もなかった。
 養家へ来てからのお島は、生の親や兄弟たちと顔を合す機会は、滅多になかった。

     三

 然し時がたつに従って、その時の事実の真相が少しずつお島の心に沁込むようになって来た。養家の旧を聞知っている学校友達などから、ちょいちょい聞くともなし聞齧ったところによると、六部はその晩急病のために其処で落命したのであった。そして死んだ彼の懐ろに、小判の入った重い財布があった。それをそっくり養父母は自分の有にして了ったと云うのであった。お島はその説の方に、より多く真実らしいところがあると考えたが、矢張好い気持がしなかった。
「言いたがるものには、何とでも言わしておくさ。お金ができると何とかかとか言いたがるものなのだよ」
 お島がその事を、私と養母に糺したとき、彼女はそう言って苦笑していたが、養父母に対する彼女のこれまでの心持は、段々裏切られて来た。自分の幸福にさえ黒い汚点が出来たように思われた。そしてそれからと云うもの、出来るだけ養父母の秘密と、心の傷を劬りかばうようにと力めたが、どうかすると親たちから疎まれ憚られているような気がさしてならなかった。
 六部の泊ったと云う、仏壇のある寂しい部屋を、お島は夜厠への往来に必ず通らなければならなかった。そこは畳の凸凹した、昼でも日の光の通わないような薄暗い八畳であった。夫婦はそこから一段高い次の部屋に寝ていたが、お島は大きくなってからは大抵勝手に近い六畳の納戸に寝されていた。お島はその八畳を通る度に、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の蒼白い顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが慄然とするような事があった。夜はいつでも宵の口から臥床に入ることにしている父親の寝言などが、ふと寝覚の耳へ入ったりすると、それが不幸な旅客の亡霊か何ぞに魘されている苦悶の声ではないかと疑われた。
 陽気のぽかぽかする春先などでも家のなかには始終湿っぽく、陰惨な空気が籠っているように思えた。そして終日庭むきの部屋で針をもっていると、頭脳がのうのうして、寿命がちぢまるような鬱陶しさを感じた。お島は糸屑を払いおとして、裏の方にある紙漉場の方へ急いで出ていった。
 薮畳を控えた広い平地にある紙漉場の葭簀に、温かい日がさして、楮を浸すために盈々と湛えられた水が生暖かくぬるんでいた。そこらには桜がもう咲きかけていた。板に張られた紙が沢山日に干されてあった。この商売も、この三四年近辺に製紙工場が出来などしてからは、早晩罷めてしまうつもりで、養父は余り身を入れぬようになった。今は職人の数も少かった。そして幾分不用になった空地は庭に作られて、洒落た枝折門などが営われ、石や庭木が多く植え込まれた。住居の方もあちこち手入をされた。養父は二三年そんな事にかかっていたが、今は単にそればかりでなく、抵当流れになったような家屋敷も外に二三箇所はあるらしかった。けれど養父母はお島に詳しいことを話さなかった。
「貧乏くさい商売だね」お島は自分の稚い時分から居ずわりになっている男に声かけた。その男は楮の煮らるる釜の下の火を見ながら、跪坐んで莨を喫っていた。
 顎髯の伸びた蒼白い顔は、明い春先になると、一層貧相らしくみえた。
「お前さんの紙漉も久しいもんだね」
「駄目だよ。旦那が気がないから」作と云うその男は俛いたまま答えた。「もう楮のなかから小判の出て来る気遣もないからね」
「真実だ」お島は鼻頭で笑った。

     四

 お島は幼い時分この作という男に、よく学校の送迎などをして貰ったものだが、養父の甥に当る彼は、長いあいだ製紙の職工として、多くの女工と共に働かされたのみならず、野良仕事や養蚕にも始終苦使われて来た。そうして気の強い主婦からはがみがみ言われ、お島からは豕か何ぞのように忌嫌われた。絶え間のない労働に堪えかねて、彼はどうかすると気分が悪いといって、少し遅くまで寝ているようなことがあると、主婦のおとらは直に気荒く罵った。
「おいおい、この忙しいのに寝ている奴があるかよ。旧を考えてみろ」
 おとらは作の隠れて寝ている物置のような汚いその部屋を覗込みながら毎時ものお定例を言って呶鳴った。甲走ったその声が、彼の脳天までぴんと響いた、作は主人の兄にあたるやくざ[#「やくざ」に傍点]者と、どこのものともしれぬ旅芸人の女との間にできた子供であった。彼の父親は賭博や女に身上を入揚げて、その頃から弟の厄介ものであったが、或時身寄を頼って、上州の方へ稼ぎに行っていたおりにその女に引かかって、それから乞食のように零落れて、間もなくまた二人でこの町へ復って来た。その時身重であったその女が、作を産おとしてから程なく、子供を弟の家に置去に、どこともなく旅へ出て行った。男が病気で死んだと云う報知が、木更津の方から来たのは、それから二三年も経ってからであった。
 お島はおとらが、その頃のことを何かのおりには作に言聞かせているのを善く聞いた。おとらは兄夫婦が、汽車にも得乗らず、夏の暑い日と、野原の荒い風に焼けやつれた黝い顔をして、疲れきった足を引きずりながら這込んで来た光景を、口癖のように作に語って聞かせた。少しでも怠けたり、ずるけたりするとそれを持出した。
「あの衆と一緒だったら、お前だって今頃は乞食でもしていたろうよ。それでも生みの親が恋しいと思うなら、いつだって行くがいい」
 作は親のことを言出されると、時々ぽろぽろ涙を流していたものだが、終にはえへへと笑って聞いていた。
 作はそんなに醜い男ではなかったが、いじけて育ったのと、発育盛を劇しい労働に苦使われて営養が不十分であったので、皮膚の色沢が悪く、青春期に達しても、ばさばさしたような目に潤いがなかった。主人に吩咐かって、雨降りに学校へ迎えに行ったり、宵に遊びほうけて、何時までも近所に姿のみえないおりなどは、遠くまで捜しにいったりして、負ったり抱いたりして来たお島の、手足や髪の見ちがえるほど美しく肉づき伸びて行くのが物希しくふと彼の目に映った。たっぷりしたその髪を島田に結って、なまめかしい八つ口から、むっちりした肱を見せながら、襷がけで働いているお島の姿が、長いあいだ彼の心を苦しめて来た、彼女に対する淡い嫉妬をさえ、吸取るように拭ってしまった。それまで彼は歴々とした生みの親のある、家の後取娘として、何かにつけておとらから衒らかす様に、隔てをおかれるお島を、詛わしくも思っていた。

     五

 お島が作を一層嫌って、侮蔑するようになったのもその頃からであった。
 蒸暑い夏の或真夜中に、お島はそこらを開放して、蚊帳のなかで寝苦しい体を持余していたことがあった。酸っぱいような蚊の唸声が夢現のような彼女のいらいらしい心を責苛むように耳についた。その時ふとお島の目を脅かしたのは、蚊帳のそとから覗いている作の蒼白い顔であった。
「莫迦、阿母さんに言告けてやるぞ」
 お島は高い調子に叫んだ。それで作はのそのそと出ていったが、それまで何の気もなしに見ていたそれと同じような作の挙動が、その時お島の心に一々意味をもって来た。お島は劇しい侮蔑を感じた。或時は野良仕事をしている時につけ廻されたり、或時は湯殿にいる自分の体に見入っている彼の姿を見つけたりした。
 お島はそれ以来、作の顔を見るのも胸が悪かった。そして養父から、善く働く作を自分の婿に択ぼうとしているらしい意嚮を洩されたときに、彼女は体が竦むほど厭な気持がした。しかし養父のその考えが、段々分明して来たとき、お島の心は、自ら生みの親の家の方へ嚮いていった。
「何しろ作は己の血筋のものだから、同じ継せるなら、あれに後を取らせた方が道だ」
 養父は時おり妻のおとらと、その事を相談しているらしかったが、お島はふとそれを立聞したりなどすると、堪えがたい圧迫を感じた。我儘な反抗心が心に湧返って来た。
 作の自分を見る目が、段々親しみを加えて来た。彼は出来るだけ打釈けた態度で、お島に近づこうとした。畑で桑など摘んでいると、彼はどんな遠いところで、忙しい用事に働いている時でも、彼女を見廻ることを忘れなかった。彼はその頃から、働くことが面白そうであった。叔父夫婦にも従順であった。お島は一層それが不快であった。
 おとらが内々お島の婿にしようと企てているらしい或若い男の兄が、その頃おとらのところへ入浸っていた。青柳と云うその男は、その町の開業医として可也に顔が売れていたが、或私立学校を卒業したというその弟をも、お島はちょいちょい見かけて知っていた。
 気爽で酒のお酌などの巧いおとらは、夫の留守などに訪ねてくる青柳を、よく奥へ通して銚子のお燗をしたりしているのを、お島は時々見かけた。一日かかって四十把の楮を漉くのは、普通一人前の極度の仕事であったが、おとらは働くとなると、それを八十把も漉くほどの働きものであった。そして人のいい夫を其方退けにして、傭い人を見張ったり、金の貸出方や取立方に抜目のない頭脳を働かしていたが、青柳の顔が見えると、どんな時でも彼女の様子がそわそわしずにはいなかった。
 お島の目にも、愛相のいい青柳の人柄は好ましく思えた。彼は青柳から始終お島坊お島坊と呼びなずけられて来た。最近青柳がいつか養父から借りて、新座敷の造営に費った金高は、少い額ではなかった。

     六

 お島は作との縁談の、まだ持あがらぬずっと前から、よく養母のおとらに連れられて青柳と一緒に、大師さまやお稲荷さまへ出かけたものであった。天性目性の好くないお島は、いつの頃からこの医者に時々かかっていたか、分明覚えてもいないが、そこにいたお花と云う青柳の姪にあたる娘とも、遊び友達であった。
 おとらは時には、青柳の家で、お島と対の着物をお花に拵えるために、そこへ反物屋を呼んで、柄の品評をしたりしたが、仕立あがった着物を着せられた二人の娘は、近所の人の目には、双児としかみえなかった。おとらは青柳と大師まいりなどするおりには、初めはお島だけしか連れていかなかったものだが、偶にはお花をも誘い出した。
 お花という連のある時はそうでもなかったが、自分一人のおりには、お島は大人同志からは、全然除けものにされていなければならなかった。
「じゃね、小父さんと阿母さんは、此処で一服しているからね。お前は目がわるいんだから能くお詣りをしておいで。ゆっくりで可いよ。阿母さんたちはどうせ遊びに来たんだからね。小父さんも折角来たもんだから、お酒の一口も飲まなければ満らないだろうし、阿母さんだって偶に出るんだからね」
 おとらはそう言って、博多と琥珀の昼夜帯の間から紙入を取出すと、多分のお賽銭をお島の小さい蟇口に入れてくれた。そこは大師から一里も手前にある、ある町の料理屋であった。二人はその奥の、母屋から橋がかりになっている新築の座敷の方へ落着いてからお島を出してやった。
 それは丁度初夏頃の陽気で、肥ったお島は長い野道を歩いて、脊筋が汗ばんでいた。顔にも汗がにじんで、白粉の剥げかかったのを、懐中から鏡を取出して、直したりした。山がかりになっている料理屋の庭には、躑躅が咲乱れて、泉水に大きな緋鯉が絵に描いたように浮いていた。始終働きづめでいるお島は、こんなところへ来て、偶に遊ぶのはそんなに悪い気持もしなかったが、落着のない青柳や養母の目色を候うと、何となく気がつまって居辛かった。そして小いおりから母親に媚びることを学ばされて、そんな事にのみ敏い心から、自然に故ら二人に甘えてみせたり、燥いでみせたりした。
「ええ、可ござんすとも」
 お島は大きく頷いて、威勢よくそこを出ると、急いで大師の方へと歩き出した。
 町には同じような料理屋や、休み茶屋が外にも四五軒目に着いたが、人家を離れると直に田圃道へ出た。野や森は一面に青々して、空が美しく澄んでいた。白い往来には、大師詣りの人達の姿が、ちらほら見えて、或雑木林の片陰などには、汚い天刑病者が、そこにも此処にも頭を土に摺つけていた。それらの或者は、お島の迹から絡わり着いて来そうな調子で恵みを強請った。お島はどうかすると、蟇口を開けて、銭を投げつつ急いで通過ぎた。

     七

 曲がりくねった野道を、人の影について辿って行くと、旋て大師道へ出て来た。お島はぞろぞろ往来している人や俥の群に交って歩いていったが、本所や浅草辺の場末から出て来たらしい男女のなかには、美しく装った令嬢や、意気な内儀さんも偶には目についた。金縁眼鏡をかけて、細巻を用意した男もあった。独法師のお島は、草履や下駄にはねあがる砂埃のなかを、人なつかしいような可憐しい心持で、ぱっぱと蓮葉に足を運んでいた。ほてる脛に絡わる長襦袢の、ぽっとりした膚触が、気持が好かった。今別れて来た養母や青柳のことは直に忘れていた。
 大師前には、色々の店が軒を並べていた。張子の虎や起きあがり法師を売っていたり、おこしやぶっ切り[#「ぶっ」に傍点]飴を鬻いでいたりした。蠑螺や蛤なども目についた。山門の上には馬鹿囃の音が聞えて、境内にも雑多の店が居並んでいた。お島は久しく見たこともないような、かりん糖や太白飴の店などを眺めながら本堂の方へあがって行ったが、何処も彼処も在郷くさいものばかりなのを、心寂しく思った。お島は母に媚びるためにお守札や災難除のお札などを、こてこて受けることを怠らなかった。
 そこを出てから、お島は野広い境内を、其方こっち歩いてみたが、所々に海獣の見せものや、田舎廻りの手品師などがいるばかりで、一緒に来た美しい人達の姿もみえなかった。お島は隙を潰すために、若い桜の植えつけられた荒れた貧しい遊園地から、墓場までまわって見た。田舎爺の加持のお水を頂いて飲んでいるところだの、蝋燭のあがった多くの大師の像のある処の前に彳んでみたりした。木立の中には、海軍服を着た痩猿の綱渡などが、多くの人を集めていた。お島はそこにも暫く立とうとしたが、焦立つような気分が、長く足を止めさせなかった。
 休茶屋で、ラムネに渇いた咽喉や熱る体を癒しつつ、帰路についたのは、日がもう大分かげりかけてからであった。田圃に薄寒い風が吹いて、野末のここ彼処に、千住あたりの工場の煙が重く棚引いていた。疲れたお島の心は、取留のない物足りなさに掻乱されていた。
 旧のお茶屋へ還って往くと、酒に酔った青柳は、取ちらかった座敷の真中に、座蒲団を枕にして寝ていたが、おとらも赤い顔をして、小楊枝を使っていた。
「まあ可かったね。お前お腹がすいて歩けなかったろう」おとらはお愛相を言った。
「お前、お水を頂いて来たかい」
「ええ、どっさり頂いて来ました」
 お島はそうした嘘を吐くことに何の悲しみも感じなかった。
 おとらはお島に御飯を食べさせると、脱いで傍に畳んであった羽織を自分に着たり、青柳に着せたりして、やがて其処を引揚げたが、町へ帰り着く頃には、もうすっかり日がくれて蛙の声が静な野中に聞え、人家には灯が点されていた。
「みんな御苦労々々々」おとらは暗い入口から声かけながら入って行ったが、養父は裏で連に何か取込んでいた。

     八

 お島は養父がいつまでも内に入って来ようともしず、入って来ても、飯がすむと直ぐ帳簿調に取かかったりして、無口でいるのを自分のことのように気味悪くも思った。お島はいつもするように、「肩をもみましょうか」と云って、養父の手のすいた時に、後へ廻って、養母に代って機嫌を取るようにした。お島は九つ十の時分から、養父の肩を揉ませられるのが習慣になっていた。
 おとらは一ト休みしてから、晴れ着の始末などをすると、そっち此方戸締をしたり、一日取ちらかった其処らを疳性らしく取片着けたりしていたが、そのうちに夫婦の間にぼつぼつ話がはじまって、今日行ったお茶屋の噂なども出た。そのお茶屋を養父も昔から知っていた。
 此処から三四里もある或町の農家で同じ製紙業者の娘であったおとらは、その父親が若いおりに東京で懇意になった或女に産れた子供であったので、東京にも知合が多く、都会のことは能く知っているが、今の良人が取引上のことで、ちょくちょく其処へ出入しているうちに、いつか親しい間になったのだと云うことは、お島もおとらから聞かされて知っていた。その頃痩世帯を張っていた養父は、それまで義理の母親に育てられて、不仕合せがちであったおとらと一緒になってから、二人で心を合せて一生懸命に稼いだ。その苦労をおとらは能くお島に言聞せたが、身上ができてからのこの二三年のおとらの心持には、いくらか弛みができて来ていた。世間の快楽については、何もしらぬらしい養父から、少しずつ心が離れて、長いあいだの圧迫の反動が、彼女を動もすると放肆な生活に誘出そうとしていた。
 お島は長いあいだ養父母の体を揉んでから、漸と寝床につくことが出来たが、お茶屋の奥の間での、刺戟の強い今日の男女の光景を思浮べつつ、直に健やかな眠に陥ちて了った。蛙の声がうとうとと疲れた耳に聞えて、発育盛の手足が懈く熱っていた。
 翌朝も養父母は、何のこともなげな様子で働いていた。
 お花を連出すときも、男女の遊び場所は矢張同じお茶屋であったが、お島はお花と一緒に、浅草へ遊びにやって貰ったりした。お島はお花と俥で上野の方から浅草へ出て往った。そして観音さまへお詣りをしたり、花屋敷へ入ったりして、※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1-85-32に包摂、19-14]を消した。二人は手を引合って人込のなかを歩いていたが、矢張心が落着かなかった。
 おとらは時とすると、若い青柳の細君をつれだして、東京へ遊びに行くこともあったが、内気らしい細君は、誘わるるままに素直について往った。おとらは往返りには青柳の家へ寄って、姉か何ぞのように挙動っていたが、細君は心の侮蔑を面にも現わさず、物静かに待遇っていた。

     九

 何時の頃であったか、多分その翌年頃の夏であったろう、その年重にお島の手に委されてあった、僅二枚ばかりの蚕が、上蔟するに間のない或日、養父とごたごたした物言の揚句、養母は着物などを着替えて、ぶらりと何処かへ出ていって了った。
 養母はその時、青柳にその時々に貸した金のことについて、養父から不足を言われたのが、気に障わったと云って、大声をたてて良人に喰ってかかった。話の調子の低いのが天性である養父は、嵩にかかって言募って来るおとらの為めに遣込められて、終には宥めるように辞を和げたが、矢張いつまでもぐずぐず言っていた。
「ちっと昔しを考えて見るが可いんだ。お前さんだって好いことばかりもしていないだろう。旧を洗ってみた日には、余り大きな顔をして表を歩けた義理でもないじゃないか」
 養蚕室にあてた例の薄暗い八畳で、給桑に働いていたお島は、甲高なその声を洩聞くと、胸がどきりとするようであった。お島は直に六部のことを思出さずにいられなかった。ぶすぶす言っている哀れな養父の声も途断れ途断れに聞えた。
 青柳に貸した金の額は、お島にはよくは判らなかったが、家の普請に幾分用立てた金を初めとして、ちょいちょい持っていった金は少い額ではないらしかった。この一二年青柳の生活が、いくらか華美になって来たのが、お島にも目についた。養父の知らないような少額の金や品物が、始終養母の手から私と供給されていた。
 お島はその年の冬の頃、一度青柳と一緒に落会った養母のお伴をしたことがあったが、十七になるお島を連出すことはおとらにも漸く憚られて来た。場所も以前のお茶屋ではなかった。
 その日も養父は、使い道の分明しないような金のことについて、昼頃からおとらとの間に紛紜を惹起していた。長いあいだ不問に附して来た、青柳への貸のことが、ふとその時彼の口から言出された。そして日頃肚に保っていた色々の場合のおとらの挙動が、ねちねちした調子で詰られるのであった。
 結局おとらは、綺麗に財産を半分わけにして、別れようと言出した。そして良人の傍を離れると、奥の間へ入って、暫く用箪笥の抽斗の音などをさせていたが、それきり出ていった。
「まあ阿母さん、そんなに御立腹なさらないで、後生ですから家にいて下さい。阿母さんが出ていっておしまいなすったら、私なんざどうするんでしょう」
 お島はその傍へいって、目に涙をためて哀願したが、おとらは振顧きもしなかった。
 夜になってから、お島は養父に吩咐かって、近所をそっち此方尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。
 おとらの未だ帰って来ない、或日の午後、蚕に忙しいお島の目に、ふと庭向の新建の座敷で、おとらを生家へ出してやった留守に、何時か為たように、夥しい紙幣を干している養父の姿を見た。八畳ばかりの風通しのいいその部屋には、紙幣の幾束が日当りへ取出されてあった。

     十

 お島は養父が、二三軒の知合の家へ葉書を出したことを知っていたが、おとらが帰ってから、漸と届いたおとらの生家の外は、その返辞はどこからも来なかった。
 養父はどうかすると、蚕室にいるお島の傍へ来て、もうひきるばかりになっている蚕を眺めなどしていた。蚕の或物はその蒼白い透徹るような躯を硬張せて、細い糸を吐きかけていた。
「お前阿母から口止されてることがあるだろうが」
 養父はこの時に限らず、おとらのいない処で、どうかするとお島に訊ねた。
「どうしてです。いいえ」お島は顔を赧めた。
 しかし養父はそれ以上深入しようとはしなかった。お島にはおとらに対する養父の弱点が見えすいているようであった。
 もう遊びあいて、家が気にかかりだしたと云う風で、おとらの帰って来たのは、その日の暮近くであった。養父はまだ帳場の方を離れずにいたが、おとらは亭主にも辞もかけず、「はい只今」と、お島に声かけて、茶の間へ来て足を投げ出すと、せいせいするような目色をして、庭先を眺めていた。濃い緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々してみえた。
 お島は脱ぎすてた晴衣や、汗ばんだ襦袢などを、風通しのいい座敷の方で、衣紋竹にかけたり、茶をいれたりした。
「こんな時に顔を出しておきましょうと思って、方々歩きまわって来たよ」おとらは行水をつかいながら、背を流しているお島に話しかけた。その行った先には、種違いのおとらの妹の片着先や、子供のおりの田舎の友達の縁づいている家などがあった。それらは皆な東京のごちゃごちゃした下町の方であった。そして誰も好い暮しをしている者はないらしかった。そして一日二日もいると、直に厭気がさして来た。おとら夫婦は、金ができるにつれて、それ等の人達との間に段々隔てができて、往来も絶えがちになっていた。生家とも矢張そうであった。
 湯から上がって来ると、おとらは東京からこてこて持って来た海苔や塩煎餅のようなものを、明の下で亭主に見せなどしていたが、飯がすむと蚊のうるさい茶の間を離れて、直に蚊帳のなかへ入ってしまった。
 毎夜々々寝苦しいお島は、白い地面の瘟気の夜露に吸取られる頃まで、外へ持出した縁台に涼んでいたが、近所の娘達や若いものも、時々そこに落会った。町の若い男女の噂が賑ったり、悪巫山戯で女を怒らせたりした。
 仕舞湯をつかった作が、浴衣を引かけて出て来ると、うそうそ傍へ寄って来た。
「この莫迦また出て来た」お島は腹立しげについと其処を離れた。

     十一

 おとらと青柳との間に成立っていたお島と青柳の弟との縁談が、養父の不同意によって、立消えになった頃には、おとらも段々青柳から遠ざかっていた。一つはお島などの口から、自分と青柳との関係が、うすうす良人の耳に入ったことが、その様子で感づかれたのに厭気がさしたからであったが、一つは青柳夫婦がぐるになって、慾一方でかかっていることが余りに見えすいて来たからであった。
 お島が十七の暮から春へかけて、作の相続問題が、また養父母のあいだに持あがって来た。お島はそのことで、養父母の機嫌をそこねてから、一度生みの親達の傍へ帰っていた。お島はその頃、誰が自分の婿であるかを明白知らずにいた。そして婚礼支度の自分の衣裳などを縫いながら、時々青柳の弟のことなどを、ぼんやり考えていた。東京の学校で、機械の方をやっていたその弟と、お島はついこれまで口を利いたこともなかったし、自分をどう思っているかをも知らなかったが、深川の方に勤め口が見つかってから、毎朝はやく、詰襟の洋服を着て、鳥打をかぶって出て行く姿をちょいちょい見かけた。途中で逢うおりなどには、双方でお辞儀ぐらいはしたが、お島自身は彼について深く考えて見たこともなかった。そして青柳とおとらとの間に、その話の出るとき毎時避けるようにしていた。
 ある時そんな事については、から薄ぼんやりなお花の手を通して、綺麗な横封に入った手紙を受取ったが、洋紙にペンで書いた細い文字が、何を書いてあるのかお花にはよくも解らなかったが、双方の家庭に対する不満らしいことの意味が、お島にもぼんやり頭脳に入った。お島のそんな家庭に縛られている不幸に同情しているような心持も、微に受取れたが、お島は何だか厭味なような、擽ったいような気がして、後で揉くしゃにして棄てしまった。その事を、多少は誇りたい心で、おとらに話すと、おとらも笑っていた。
「あれも妙な男さ。養子なんかに行くのは厭だといって置きながら、そんな物をくれるなんて、厭だね」
 お島は養父母が、すっかり作に取決めていることを感づいてから、仕事も手につかないほど不快を感じて来た。おとらは不機嫌なお島の顔を見ると、お島が七つのとき初めて、人につれられて貰われて来た時の惨なさまを掘返して聞せた。
「あの時お前のお父さんは、お前の遣場に困って、阿母さんへの面あてに川へでも棄ててしまおうかと思ったくらいだったと云う話だよ。あの阿母さんの手にかかっていたら、お前は産れもつかぬ不具になっていたかも知れないよ」おとらはそう言って、生みの親の無情なことを語り聞かせた。

     十二

 近所でも知らないような、作とお島との婚礼談が、遠方の取引先などで、意いがけなくお島の耳へ入ったりしてから、お島は一層分明自分の惨な今の身のうえを見せつけられるような気がして、腹立しかった。そしてその事を吹聴してあるくらしい、作の顔が一層間ぬけてみえ、厭らしく思えた。
「まだ帰らねえかい」そう言って、小さい時分から学校へ迎えに来た作は、昔も今も同じような顔をしていた。
「外に待っておいで」お島はよく叱りつけるように言って、入り口の外に待たしておいたものだが、今でも矢張、下駄に手をふれられても身ぶるいがするほど厭であった。
 婚礼談が出るようになってから、作は懲りずまに善くお島の傍へ寄って来た。余所行の化粧をしているとき、彼は横へ来てにこにこしながら、横顔を眺めていた。
「あっちへ行っておいで」お島はのしかかるような疳癪声を出して逐退けた。
「そんなに嫌わんでも可いよ」作はのそのそ出ていった。
 作の来るのを防ぐために、お島は夜自分の部屋の襖に心張棒を突支えておいたりしなければならなかった。
「厭だ厭だ、私死んでも作なんどと一緒になるのは厭です」お島は作のいる前ですら、始終母親にそう言って、剛情を張通して来た。
「作さんが到頭お島さんのお婿さんに決ったそうじゃないか」
 お島は仕切を取りに行く先々で、揶揄い面で訊かれた。足まめで、口のてきぱきしたお島は、十五六のおりから、そうした得意先まわりをさせられていた。お島のきびきびした調子と、蓮葉な取引とが、到るところで評判がよかった。物馴れてくるに従って、お島の顔は一層広くなって行った。
 それが小心な養父には、気に入らなかった。時々お島は養父から小言を言われた。
「可いじゃありませんか阿父さん、家の身上をへらすような気遣はありませんよ」お島は煩さそうに言った。
「阿父さんのように吝々していたんじゃ、手広い商売は出来やしませんよ」
 ぱっぱっとするお島の遣口に、不安を懐きながらも、気無性な養父は、お島の働きぶりを調法がらずにはいられなかった。
「嘘ですよ」
 お島は作と自分との結婚を否認した。
「それでも作さんがそう言っていましたぜ」取引先の或人は、そう言って面白そうにお島の顔を瞶めた。
「あの莫迦の言うことが、信用できるもんですか」お島は鼻で笑っていた。
 王子の方にある生家へ逃げて帰るまでに、お島の周囲には、その噂が到るところに拡がっていた。
「それじゃお前は、どんな男が望みなのだえ」おとらは終にお島に訊ねた。
「そうですね」お島はいつもの調子で答えた。
「私はあんな愚図々々した人は大嫌いです。些とは何か大きい仕事でもしそうな人が好きですの。そして、もっと綺麗に暮していけるような人でなければ、一生紙をすいたり、金の利息の勘定してるのはつくづく厭だと思いますわ」

     十三

 盆か正月でなければ、滅多に泊ったことのない生みの親達の家へ来て二三日たつと、直に養母が迎いに来た。
 お島が盆暮に生家を訪ねる時には、砂糖袋か鮭を提えて作が急度お伴をするのであったが、この二三年商売の方を助けなどするために、時には金の仕舞ってある押入や用箪笥の鍵を委されるようになってからは、不断は仲のわるい姉や、母親の感化から、これも動もすると自分に一種の軽侮を持っている妹に、半衿や下駄や、色々の物を買って行って、お辞儀されるのを矜りとした。姉や妹に限らず、養家へ出入する人にも、お島はぱっぱと金や品物をくれてやるのが、気持が好かった。貧しい作男の哀願に、堅く財布の口を締めている養父も、傍へお島に来られて喙を容れられると、因業を言張ってばかりもいられなかった。遊女屋から馬をひいて来る職工などに、お島は自分の考えで時々金を出してくれた。それらの人は、途でお島に逢うと、心から叮嚀にお辞儀をした。
 大方の屋敷まわりを兄に委せかけてあった実家の父親は、兄が遊蕩を始めてから、また自分で稼業に出ることにしていたので、お島はそうして帰って来ていても滅多に父親と顔を合さなかった。毎日々々箸の上下しに出る母親の毒々しい当こすりが、お島の頭脳をくさくささせた。
「そう毎日々々働いてくれても、お前のものと云っては何にもありゃしないよ」
 母親は、外へ出て広い庭の草を取ったり、父親が古くから持っていて手放すのを惜んでいる植木に水をくれたりして、まめに働いているお島の姿をみると、家のなかから言聞かせた。広い門のうちから、垣根に囲われた山がかりの庭には、松や梅の古木の植わった大きな鉢が、幾個となく置駢べられてあった。庭の外には、幾十株松を育てある土地があったり、雑多の庭木を植つけてある場所があったりした。この界隈に散ばっているそれ等の地面が、近頃兄弟達の財産として、それぞれ分割されたと云うことはお島も聞いていた。
 いつか父親が、自分の隠居所にするつもりで、安く手に入れた材木を使って建てさせた屋敷も、それ等の土地の一つのうちにあった。
「ええ。些とばかりの地面や木なんぞ貰ったって、何になるもんですか。水島の物にだって目をくれてやしませんよ」お島は跣足で、井戸から如露に水を汲込みながら言った。
「好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ」
「憎むのは阿母さんばかりです。私はこれまで人に憎がられた覚なんかありゃしませんよ」
「そうかい、そう思っていれば間違はない。他人のなかに揉まれて、些とは直ったかと思っていれば、段々不可くなるばかりだ」
「余計なお世話です。自分が育てもしない癖に」お島は如露を提げて、さっさと奥の方へ入って行った。

     十四

 お島はもう大概水をくれて了ったのであったが、家へ入ってからの母親との紛紜が気煩さに、矢張大きな如露をさげて、其方こっち植木の根にそそいだり、可也の距離から来る煤煙に汚れた常磐木の枝葉を払いなどしていたが、目が時々入染んで来る涙に曇った。
「お島さん、どうも済んませんね」などと、仕事から帰って来た若いものが声をかけたりした。
「私はじっとしていられない性分だからね」とお島はくっきりと白い頬のあたりへ垂れかかって来る髪を掻あげながら、繁みの間から晴やかな笑声を洩していたが、預けられてあった里から帰って来て、今の養家へもらわれて行くまでの短い月日のあいだに、母親から受けた折檻の苦しみが、憶起された。四つか五つの時分に、焼火箸を捺つけられた痕は、今でも丸々した手の甲の肉のうえに痣のように残っている。父親に告口をしたのが憎らしいと云って、口を抓ねられたり、妹を窘めたといっては、二三尺も積っている脊戸の雪のなかへ小突出されて、息の窒るほどぎゅうぎゅう圧しつけられた。兄弟達に食物を頒けるとき、お島だけは傍に突立ったまま、物欲しそうに、黙ってみている様子が太々しいといって、何もくれなかったりした。土掻や、木鋏や、鋤鍬の仕舞われてある物置にお島はいつまでも、めそめそ泣いていて、日の暮にそのまま錠をおろされて、地鞴ふんで泣立てたことも一度や二度ではなかったようである。
 父親は、その度に母親をなだめて、お島を赦してくれた。
「多勢子供も有ってみたが、こんな意地張は一人もありゃしない」母親はお島を捻りもつぶしたいような調子で父親と争った。
 お島は我子ばかりを劬わって、人の子を取って喰ったという鬼子母神が、自分の母親のような人であったろうと思った。母親はお島一人を除いては、どの子供にも同じような愛執を持っていた。
 日が暮れる頃に、お島は物置の始末をして、漸と夕飯に入って来たが、父親は難しい顔をして、いつか長火鉢の傍で膳に向って、お仕着せの晩酌をはじめているところであった。外はもう夜の色が這拡がって、近所の牧場では牛の声などがしていた。往来の方で探偵ごっこをしていた子供達も、姿をかくして、空には柔かい星の影が春めいてみえた。
「まあ一月でも二月でも家においてやるがいい。奉公に出したって、もう一人前の女だ」父親はそんなことを言って、何かぶつくさ言っている母親を和めているらしかったが、お島は台所で、それを聞くともなしに、耳を立てながら、自分の食器などを取出していた。
「今に見ろ、目の飛出るようなことをしてやるから」お島はむらむらした母への反抗心を抑えながら、平気らしい顔をしてそこへ出て行った。切めて自分を養家へ口入した、西田と云う爺さんの行っているような仕事に活動してみたいとも思った。その爺さんは、近頃陸軍へ馬糧などを納めて、めきめき家を大きくしていた。実直に働いて来た若いものにくれてやった姉などを、さも幸福らしく言たてる母親を、お島は苦々しく思っていたが、それにつけても、一生作などと婚礼するためには、養家の閾は跨ぐまいと考えていた。食事をしている間も、昂奮した頭脳が、時々ぐらぐらするようであった。

     十五

 或日の午後におとらが迎いに来たとき、父親も丁度家に居合せて、ここから二三町先にある持地で、三四人の若い者を指図して、可也大きな赤松を一株、或得意先へ持運ぶべく根拵えをしていた。
 お島はおとらを客座敷の方へ案内すると、直に席をはずして了ったが、実母の吩咐で父親を呼びに行った。お島はこうして邪慳な実母の傍へ来ていると、小さい時分から自分を可愛がって育ててくれた養母の方に、多くの可懐しみのあることが分明感ぜられて来た。養家や長い馴染のその周囲も恋しかった。
「島ちゃん、お前さんそう幾日も幾日もこちらの御厄介になっていても済まないじゃないか。今日は私がつれに来ましたよ」おとらにいきなりそう言って上り込んで来られた時、お島は反抗する張合がぬけたような気がして、何だか涙ぐましくなって来た。
「手前の躾がわりいから、あんな我儘を言うんだ。この先もあることだから放抛っておけと、宅ではそう言って怒っているんですけれど、私もかかり子にしようと思えばこそ、今日まで面倒を見てきたあの子ですからね」
 おとらのそう言っている挨拶を茶の間で茶をいれながら、お島は聞いていたが、お島のことと云うと、誰に向ってもひり出すように言いたい実母も、ただ簡単な応答をしているだけであった。
 こんな出入に口無調法な父親は、さも困ったような顔をしていたが、旋て井戸の方へまわって手顔を洗うと、内へ入って来た。お島は母親のいないところで、ついこの一両日前にも、父親が事によったら、母親に秘密で自分に頒けてもいいと言った地面の坪数や価格などについて、父親に色々聞されたこともあった。その坪は一千弱で、安く見積っても木ぐるみ一万円が一円でも切れると云うことはなかろうと云うのであった。お島は心強いような気がしたが、母親の目の黒いうちは、滅多にその分前に有附けそうにも思えなかった。
「家の地面は、全部でどのくらいあるの」お島は爾時も父親に訊いてみた。
「そうさな」と、父親は笑っていたが、それが大見一万近いものであることは、お島にも考えられた。中には野菜畠や田地も含まれていた。子供が多いのと、この二三年兄の浪費が多かったのとで、借金の方へ入っている場所も少くなかった。去年の秋から、家を離れて、田舎へ稼ぎにいっている兄の傍には、暫く係合っていた商売人あがりの女が未だに附絡っていたり、嫂が三つになる子供と一緒に、東京にあるその実家へ引取られていたりした。父親の助けになる男片と云っては、十六になるお島の弟が一人家にいるきりであった。
 家が段々ばたばたになりかかっていると云うことが、そうして五日も六日も見ているお島の心に感ぜられて来た。母親のやきもきしている様子も、見えすいていた。

     十六

 お島は父親が内へ入ってからも、暫く裏の植木畑のあたりを逍遥いていた。どうせここにいても、母親と毎日々々啀みあっていなければならない。啀み合えば合うほど、自分の反抗心と、憎悪の念とが募って行くばかりである。長いあいだ忘れていた自分の子供の時分に受けた母親の仕打が、心に熟み靡れてゆくばかりである。一万二万と弟や妹の分前はあっても、自分には一握の土さえないことを思うと頼りなかった。それかと言って、養家へ帰れば、寄って集って急度作と結婚しろと責められるに決っていた。多くの取引先や出入の人達には、もうそれが単なる噂ではなくて、事実となって刻まれている。お島は作の顔を見るのも厭だと思った。あの禿あがったような貧相らしい頸から、いつも耳までかかっている尨犬のような髪毛や赤い目、鈍くさい口の利方や、卑しげな奴隷根性などが、一緒に育って来た男であるだけに、一層醜くも蔑視ましくも思えた。あんな男と一緒に一生暮せようとは、どうしても考えられなかった。実母がそれを生意気だといって罵るのはまだしも、実父にまで、時々それを圧つけようとする口吻を洩されるのは、堪えられないほど情なかった。
 大分たってから皆の前へ呼ばれていった時、お島は漸と目に入染んでいる涙を拭いた。
「私もこの四五日忙しいんで、聞いてみる隙もなかったが、全体お前の了簡はどういうんだな」
 お島が太てたような顔をして、そこへ坐ったとき、父親が硬い手に煙管を取あげながら訊ねた。お島は曇んだ目色をして、黙っていた。
「今日までの阿母さんの恩を考えたら、お前が作さんを嫌うの何のと、我儘を言えた義理じゃなかろうじゃねえか。ようく物を考えてみろよ」
「私は厭です」お島は顔の筋肉を戦かせながら言った。
「他の事なら、何でも為て御恩返しをしますけれど、これだけは私厭です」
 父親は黙って煙管を啣えたまま俛いてしまったが、母親は憎さげにお島の顔を瞶めていた。
「島、お前よく考えてごらんよ。衆さんの前でそんな御挨拶をして、それで済むと思っているのかい。義理としても、そうは言わせておかないよ。真実に惘れたもんだね」
「どうしてまたそう作太郎を嫌ったものだろうねえ」おとらは前屈みになって、華車な銀煙管に煙草をつめながら一服喫すと、「だからね、それはそれとして、左に右私と一緒に一度還っておくれ。そんなに厭なものを、私だって無理にとは言いませんよ。出入の人達の口も煩いから、今日はまあ帰りましょう。ねえ。話は後でもできるから」と宥めるように言って、そろそろ煙管を仕舞いはじめた。
 お島を頷かせるまでには、大分手間がとれたが、帰るとなると、お島は自分の関係が分明わかって来たようなこの家を出るのに、何の未練気もなかった。
「どうも済みません。色々御心配をかけました」お島はそう言って挨拶をしながら、おとらについて出た。
 そして何時にかわらぬ威勢のいい調子で、気爽におとらと話を交えた。
「男前が好くないからったって、そう嫌ったもんでもないんだがね」
 おとらは途々お島に話しかけたが、左に右作の事はこれきり一切口にしないという約束が取極められた。

     十七

 おとらは途で知合の人に行逢うと、きっとお島が、生家の母親の病気を見舞いにいった体に吹聴していたが、お島にもその心算でいるようにと言含めた。
「作太郎にも余りつんけんしない方がいいよ。あれだってお前、為ることは鈍間でも、人間は好いものだよ。それにあの若さで、女買い一つするじゃなし、お前をお嫁にすることとばかり思って、ああやって働いているんだから。あれに働かしておいて、島ちゃんが商売をやるようにすれば、鬼に鉄棒というものじゃないか。お前は今にきっとそう思うようになりますよ」おとらはそうも言って聞せた。
 お島は何だか変だと思ったが、欺したり何かしたら承知しないと、独で決心していた。
 家へ帰ると、気をきかして何処かへ用達しにやったとみえて、作の姿は何処にも見えなかったが、紙漉場の方にいた養父は、おとらの声を聞つけると、直に裏口から上って来た。お島はおとらに途々言われたように、「御父さんどうも済みません」と、虫を殺してそれだけ言ってお叩頭をしたきりであったが、おとらが、さも自分が後悔してでもいるかのような取做方をするのを聞くと、急に厭気がさして、かっと目が晦むようであった。お島はこの家が遽に居心がわるくなって来たように思えた。取返しのつかぬ破滅に陥ちて来たようにも考えられた。
「あの時王子の御父さんは、家へ帰って来るとお島は隅田川へ流してしまったと云って御母さんに話したと云うことは、お前も忘れちゃいない筈だ」養父はねちねちした調子で、そんな事まで言出した。
 お島はつんと顔を外向けたが、涙がほろほろと頬へ流れた。
「旧を忘れるくらいな人間なら、駄目のこった」
 お島がいらいらして、そこを立かけようとすると、養父はまた言足した。
「それで王子の方では、皆さんどんな考だったか。よもやお前に理があるとは言うまいよ」
 お島は俛いたまま黙っていたが、気がじりじりして来て、じっとしていられなかった。
 おとらが汐を見て、用事を吩咐けて、そこを起してくれたので、お島は漸と父親の傍から離れることが出来た。そして八畳の納戸で着物を畳みつけたり、散かったそこいらを取片着けて、埃を掃出しているうちに、自分がひどく脅されていたような気がして来た。
 夕方裏の畑へ出て、明朝のお汁の実にする菜葉をつみこんで入って来ると、今し方帰ったばかりの作が、台所の次の間で、晩飯の膳に向おうとしていた。作は少し慍ったような風で、お島の姿を見ても、声をかけようともしなかったが、大分たってから明朝の仕かけをしているお島の側へ、汚れた茶碗や小皿を持出して来た時には、矢張いつものとおり、にやにやしていた。
「汚い、其地へやっとおき」お島はそんな物に手も触れなかった。

     十八

 お島が作との婚礼の盃がすむか済まぬに、二度目にそこを飛出したのは、その年の秋の末であった。
 残暑の頃から悩んでいた病気の予後を上州の方の温泉場で養生していた養父が、急にその事が気にかかり出したといって、予定よりもずっと早く、持っていった金も半分弱も剰して、帰って来てから、この春の時に用意したお島の婚礼着の紋附や帯がまた箪笥から取出されたり、足りない物が買足されたりした。
 お島はこの夏は、いつもの養蚕時が来ても、毎年々々仕馴れた仕事が、不思議に興味がなかった。そして病床に寝ている養父が、時々じれじれするほど、総てのことに以前のような注意と熱心とを欠いて来た。家におって、薬や食物の世話をしたり、汚れものを洗濯したりするよりも、市中や田舎の方の仕切先を廻って、うかうか時間を消すことが、多かった。七つのおりからの、色々の思出を辿ってみると、養父や養母に媚びるために、物の一時間もじっとしている時がないほど、粗雑ではあったが、きりきり働いて来たことが、今になってみると、自分に取って身にも皮にもなっていないような気がした。或時は、着物の出来るのが嬉しかったり、或時は財産を譲渡されると云う、遠い先のことに朧げな矜を感じていた。そして妹達に比べて、自分の方が、一層慈愛深い人の手に育てられている一人娘の幸福を悦んでいた。
「お島さんお島さん」と云って、周囲の人が、挙って自分を崇めているようにも見えた。馬糧用達の西田の爺いから、不断ここの世話になっている、小作人に至るまで、お島では随分助かっている連中も、お島が一切を取仕切る時の来るのを待設けているらしくも思われた。
「くよくよしないことさ。今にみんな好くしてあげようよ。ここの身代一つ潰そうと思えば、何でもありゃしない」
 お島は借金の言訳に、ぺこぺこしている男を見ると、そういって大束を極込んだ。
 病気の間もそうであったが、養父が湯治に行ってからは、青柳がまたちょくちょく入込んでいた。それでなくとも、十年来住みなれて来ながら、一生ここで暮せようとは思えなくなった家に、めっきり親しみがなくなって来たお島は、よく懇意の得意先へあがっていって、半日も話込んでいた。主人に代って、店頭に坐ってお客にお世辞を振撒いたり、気の合った内儀さんの背後へまわって髪を取あげてやったりした。
「私二三年東京で働いてみようかしら」お島は何か働き効のある仕事に働いてみたい望みが湧いていた。
「笑談でしょう」内儀さんは笑っていた。
「いいえ真実。私この頃つくづくあの家が厭になってしまったんです」
「でも貴方にぬけられちゃ、お家で困るでしょう」
「どうですかね。安心して私に委せておけないような人達ですからね。何を仕出来すかと思って、可怕いでしょう」お島は可笑しそうに笑った。
 目こする間に、さっさと髷に取揚げられた内儀さんの頭髪は、地が所々引釣るようで、痛くて為方がなかった。

     十九

 お島は或時は、それとなく自分に適当した職業を捜そうと思って、人にも聞いてみたり、自分にも市中を彷徨いてみたりしたが、自分の智識が許しそうな仕事で、一生懸命になり得るような職業はどこにも見当らなかった。坐って事務を取るようなところは、碌々小学校すら卒業していない彼女の学力が不足であった。
 お島は時とすると、口入屋の暖簾をくぐろうかと考えて、その前を往ったり来たりしたが、そこに田舎の駈出しらしい女の無智な表情をした顔だの、みすぼらしい蝙蝠や包みやレーザの畳のついた下駄などが目につくと、もう厭になって、その仲間に成下ってまでゆこうと云う勇気は出なかった。
 お島は日がくれても家へ帰ろうともしず、上野の山などに独でぼんやり時間を消すようなことが多かった。山の下の多くの飲食店や、商家には灯が青黄色い柳の色と一つに流れて、そこを動いている電車や群衆の影が、夢のように動いていた。お島はそんな時、恩人の子息で、今アメリカの方へ行っているという男のことなどを憶出していた。そして旅費さえ偸み出すことができれば、何時でもその男を頼って、外国へ渡って行けそうな気さえするのであった。
「ここまで漕ぎつけて、今一ト息と云うところで、あの財産を放抛って出るなんて、そんな奴があるものか」
 お島がその希望をほのめかすと、西田の老人は頭からそれを排斥した。この老人の話によると、養家の財産は、お島などの不断考えているよりは、※[#「※」は「しんにょう+向」、第3水準1-92-55、40-6]に大きいものであった。動産不動産を合せて、十万より凹むことはなかろうと云うのであった。床下の弗函に収ってあると云う有金だけでも、少い額ではなかろうと云うのであった。その中には幾分例の小判もあろうという推測も、強ち嘘ではなかろうと思われた。
 小い子供を多勢持っているこのお爺さんも、旧は矢張お島の養父から、資金の融通を仰いだ仲間の一人であった。今でも未償却のままになっている額が、少くなかった。老人は、何をおいても先、慾を知らなければ一生の損だということをお島にくどくど言聴した。
 お島はそれでその時はまた自分の家の閾を跨ぐ気になるのであったが、この老人や青柳などの口利で、婿が作以外の人に決めらるるまでは、動きやすい心が、動もすると家を離れていこうとした。

     二十

 婚礼沙汰が初まってから、毎日のように来ては養父母と内密で談をしていた青柳は、その当日も手隙を見てはやって来て、床の間に古風な島台を飾りつけたり、何処からか持って来た箱のなかから鶴亀の二幅対を取出して、懸けて眺めたりしていた。
「今度と云う今度は島ちゃんも遁出す気遣はあるまい。己の弟は男が好いからね」青柳はそう言いながら、この二三日得意先まわりもしないでいるお島の顔を眺めた。青柳は頭顱の地がやや薄く透けてみえ、明みで見ると、小鬢に白髪も幾筋かちかちかしていたが、顔はてらてらして、張のある美しい目をしていた。弟はそれほど立派ではなかったが、摺った揉んだの揚句に、札がまたその男におちたと聞されたとき、お島は何となく晴がましいような気がせぬでもなかった。彼はその頃通いつつある工場の近くに下宿していて、兄の家にはいなかった。お島はこの正月以来その姿を見たこともなかった。一度自分に附文などをしてから、妙に疎々しくなっていたあの男が、婚礼の晩にどんな顔をして来るかと思うと、それが待遠しいようでもあり、不安なようでもあった。
 その日は朝からお島は、気がそわそわしていた。そしてまだ夜露のじとじとしているような畠へ出て、根芋を掘ったきりで、何事にも外の働きはしなかった。畑にはもう刈残された玉蜀黍や黍に、ざわざわした秋風が渡って、囀りかわしてゆく渡鳥の群が、晴きった空を遠く飛んで行った。
 午頃に頭髪が出来ると、自分が今婚礼の式を挙げようとしていることが、一層分明して来る様であったが、その相手が、十三四の頃から昵んで、よく揶揄われたり何かして来た気象の剽軽な青柳の弟に当る男だと思うと、更ったような気分にもなれなかった。おとらと三人でいる時でも、青柳はよくめきめき娘に成ってゆくお島の姿形を眺めて、おとらに油断ができないと思わせるような猥な辞を浴せかけた。
 作太郎はというと、彼も今日は一日一切の仕事を休ませられて、朝から床屋へいったり、湯に入ったりして冶していた。そしてお島の顔さえみるとにこにこして、座敷へ入って、ごたごた積重ねられてある諸方からの祝の奉書包や目録を物珍らしそうに眺めていた。
 頼んであった料理屋の板前が、車に今日の料理を積せて曳込んで来た頃には、羽織袴の世話焼が、そっち行き此方いきして、家中が急に色めき立って来た。その中には、始終気遣わしげな顔をして、ひそひそ話をしている西田の老人もあった。
「今夜遁出すようじゃ、お島さんも一生まごつきだぞ。何でも可いから、己に委して我慢をして……いいかえ」
 箪笥に倚りかかって、ぼんやりしているお島の姿を見つけると、老人は側へよって来て力をこめて言聴かせた。

     二十一

 お島が、これも当夜の世話をしに昼から来ていた髪結に、黒の三枚襲ねを着せてもらった頃には、王子の父親も古めかしい羽織袴をつけ、扇子などを帯にはさんで、もうやって来ていた。余り人中へ出たことのない母親は、初めから来ないことになっていた。
 川へ棄てようかとまで思余したお島が、ここの家を相続することに成りさえすれば、婿が誰であろうと、そんな事には頓着のない父親は、お島の姿を見ても見ぬ振をして、茶の間で養父と、地所や家屋に関して世間話に耽っていた。日頃内輪同様にしている二三の人の顔もそこに見えた。不断養父等の居間にしている六畳の部屋に敷かれた座布団も、大概塞がっていた。中には濁声で高話をしている男もあった。
 外が暗くなる時分に、白粉をこてこて塗って繰込んで来た若い女連と無駄口を利いたりして、お島は時の来るのを待っていた。女連は大方は一度か二度以上口を利合った人達であったが、それが孰も、式のあとの披露の席に、酌や給仕をするために※[#「※」は「にんべん」に「就」、第3水準1-14-40、43-6]われて来たのであった。その中には着物の着こなしなどの、きりりとした東京ものも居た。
 女達が膳椀などの取出された台所へ出て行く時分に、漸と青柳の細君や髪結につれられて、お島は盃の席へ直された。
「まあ今日のベールだね」などと、青柳が心持わなないているお島の綿帽子を眺めながら気軽そうに言った。そんな物を着ることをお島が拒んだので、着せる着せないで談がその日も縺れていたが、到頭被せられることになってしまった。
 盃がすむと、お島は逃げるようにして、自分の部屋へ帰って来た。それまでお島は綿帽子をぬぐことを許されなかった。
 着替をして、再び座敷の入口まで来たときには、人の顔がそこに一杯見えていたが、手をひかれて自分の席へ落着くまでは、今日の盃の相手が、作であったことには少しも気がつかなかった。折目の正しい羽織袴をつけて、彼はそこに窮屈そうに坐っていた。そして物に怯えたような目で、お島をじろりと見た。
 お島は頭脳が一時に赫として来た。女達の姿の動いている明いそこいらに、旋風がおこったような気がした。そしてじっと俛いていると、体がぞくぞくして来て為方がなかった。
「どうだい島ちゃん、こうして並んでみると万更でもないだろう」青柳が一二杯猪口をあけた時分に、前屈みになって舐めるような調子で、私とお島の方へ声をかけた。
 吸物椀にぎごちない箸をつけていた作は、「えへへ」と笑っていた。
 お島は年取った人達のすることや言うことが、可恐しいような気がしていたが、作の物を貪り食っている様子が神経に触れて来ると、胸がむかむかして、体中が顫えるようであった。旋てふらふらと其処を起ったお島の顔は真蒼であった。
 二三人の人が、ばらばらと後を追って来たとき、お島は自分の部屋で、夢中で着物をぬいでいた。

     二十二

 追かけて来た人達は、色々にいってお島をなだめたが、お島は箪笥をはめ込んである押入の前に直り喰着いたなりで、身動きもしなかった。
「これあ為様がない」幾度手を引張っても出て来ぬお島の剛情に惘れて、青柳が出ていったあとに、西田の老人と王子の父親とが、そこへお島を引据えて、低声で脅したり賺したりした。
「あれほど己が言っておいたに、今ここでそんなことを言出すようじゃ、まるで打壊しじゃないか」お爺さんは可悔そうに言った。
「ですから行きますよ。少し気分が快くなったら急度行きます」お島は涙を拭きながら、漸と笑顔を見せた。
「厭なものは厭でいいてこと。それはそれとして何処までも頑張っていなければ損だよ。なに財産と婚礼するのだと思えば肚はたたねえ」お爺さんは、そう言いながら、漸と安心して出て行った。
 しんとして白けていた座敷の方が、また色めき立って来た。ちょいちょい立ってはお島を覗きに来た人達も、やっと席に落着いて、銚子を運ぶ女の姿が、一時忙しく往来していた。
「おい島ちゃん、そんなに拗ねんでもいいじゃないか」作が部屋の前を通りかかったとき、薄暗りのなかにお島の姿を見つけて、言寄って来た。お島は帯をときかけたままの姿で、押入に倚かかって、組んだ手のうえに面を伏せていた。疳癪まぎれに頭顱を振たくったとみえて、綺麗に結った島田髷の根が、がっくりとなっていた。お島は酒くさい熱い息がほっと、自分の顔へ通って来るのを感じたが、同時に作の手が、脇明のところへ触れて来た。
「何をするんだよ」お島はいきなり振顧ると、平手でぴしゃりとその顔を打った。
「おお痛え。えれえ見脈だな」作は頬っぺたを抑えながら、怨めしそうにお島の顔を眺めていた。
 髪結が来て、顔を直してくれてから、お島が再び座敷へ出て行った頃には、席はもう乱れ放題に乱れていた。お島はぐでぐでに酔っている青柳に引張られて、作の側へ引すえられたが、父親や養父の姿はもう其処には見えなかった。作は四五人の若いものに取囲まれて、連に酒を強いられていたが、その目は見据って、あんぐりした口や、ぐたりとした躯が、他哩がなかった。

     二十三

 その夜の黎明に、お島が酔潰れた作太郎の寝息を候って、そこを飛出した頃には、お終まで残ってつい今し方まで座敷で騒いで、ぐでぐでに疲れた若い人達も、もう寝静ってしまっていた。
 お島は庭の井戸の水で、白粉のはげかかった顔を洗いなどしてから、裏の田圃道まで出て来たが、濛靄の深い木立際の農家の土間から、釜の下を焚きつける火の影が、ちょろちょろ見えたり、田圃へ出て行く人の寒そうな影が動いていたりした。じっとりした往来には、荷車の軋みが静かなあたりに響いていた。徹宵眠られなかったお島は、熱病患者のように熱った頬を快い暁の風に吹れながら、野良道を急いだ。酒くさい作の顔や、ごつごつした手足が、まだ頬や体に絡わりついているようで、気味がわるかった。
 王子の町近く来た時分には、もう日が高く昇っていた。そこにも此処にも烟が立って、目覚めた町の物音が、ごやごやと聞えていた。
「今時分はみんな起きて騒いでるだろうよ」お島はそう思いながら、町垠にある姉の家の裏口の方へ近寄っていった。
 山茶花などの枝葉の生茂った井戸端で、子供を負いながら襁褓をすすいでいる姉の姿が、垣根のうちに見られた。花畠の方で、手桶から柄杓で水を汲んでは植木に水をくれているのは、以前生家の方にいた姉の婿であった。水入らずで、二人で恁して働いている姉夫婦の貧しい生活が、今朝のお島の混乱した頭脳には可羨しく思われぬでもなかった。姉は自分から好きこのんで、貧しいこの植木職人と一緒になったのであった。畠には春になってから町へ持出さるべき梅や、松などがどっさり植つけられてあった。旭が一面にきらきらと射していた。はね釣瓶が、ぎーいと緩い音を立てて動いていた。
「長くはいませんよ、ほんの一日か二日でいいから」お島はそう言って、姉に頼んだ。そして、いきなり洗いものに手を出して、水を汲みそそいだり、絞ったりした。
「そんな事をして好いのかい。どうせお詫を入れて、此方から帰って行くことになるんだからね」姉は手ばしこく働くお島の様子を眺めながら、子供を揺り揺り突立っていた。
「なに、そんな事があるもんですか。何といったって、私今度と云う今度は帰ってなんかやりませんよ」
 お島は絞ったものを、片端から日当のいいところへ持っていって棹にかけたりした。日光が腫れただれたように目に沁込んで、頭痛がし出して来た。
「またお島ちゃんが逃げて来たんですよ」姉は良人に声かけた。
 良人は柄杓を持ったまま「へへ」と笑って、お島の顔を眺めていた。お島も眩しい目をふいて笑っていた。

     二十四

 晩方近くに、様子を探りかたがた、ここから幾許もない生家を見舞った姉は、養家の方からお島を尋ねに出向いて来た人達が、その時丁度奥で父親とその話をしているところを見て帰って来た。それらの人を犒うために、台所で酒の下物の支度などをしていた母親と、姉は暫く水口のところで立話をしてから、お島のところへ戻って来たのであった。
「島ちゃん、お前さん今のうちちょっと顔をだしといた方がいいよ」
 一日痛い頭脳をかかえて奥で寝転んでいたお島の傍へ来て、姉は説勧めた。
 お島は何だか胸がむしゃくしゃしていた。今夜にも旅費を拵えて、田舎の方にいる兄のところへ遠っ走りをしようかとも考えていた。どこか船で渡るような遠い外国へ往って、労働者の群へでも身を投じようかなどと、棄鉢な空想に耽ったりした。夜明方まで作と闘った体の節々が、所々痛みをおぼえるほどであった。
 姉婿も同じようなことを言って、お島に意見を加えた。お島はくどくどしいそれ等の忠告が、耳にも入らなかったが、何時まで頑張ってもいられなかった。
「ふん、御父さんや御母さんに、私のことなんか解るものですか。彼奴等は寄ってたかって私を好いようにしようと思っているんだ」お島はぷりぷりして呟きながら出ていった。
 外はもうとっぷり暮れて、立昇った深い水蒸気のなかに、山の手線の電燈や、人家の灯影が水々して見えた。茶畑などの続いている生家の住居の周囲の垣根のあたりは、一層静かであった。
 お島が入っていった時分には、もう衆は弓張提灯などをともして、一同引揚げていったあとであった。お島は両親の前へ出ると、急に胸苦しくなって、昨夜から張詰めていた心が一時に弛ぶようであった。
「御心配をかけて、どうも済みません」お島はそう言ってお叩頭をしようとしたが、筋肉が硬張ったようで首も下らなかった。
「何て莫迦なまねをしてくれたんだ」父親はお島に口を開かせず、いきなり熱り立って来たが、養家の財産のために、何事にも目をつぶろうとして来たらしい父親の心が、やっとお島にも見えすいて来た。

     二十五

 お島が数度の交渉の後、到頭また養家へ帰ることになって、青柳につれられて家を出たのは、或日の晩方であった。
 お島はそれまでに、幾度となく父親や母親に逆って、彼等を怒らせたり悲しませたり、絶望させたりした。滅多に手荒なことをしたことのなかった父親をして、終にお島の頭髪を掴んで、彼女をそこに捻伏せて打のめすような憤怒を激発せしめた。お島を懲しておかなければならぬような報告が、この数日のあいだに養家から交渉に来た二三の顔利きの口から、父親の耳へも入っていた。それらの人の話によると、安心して世帯を譲りかねるような挙動がお島に少くなかった。金遣いの荒いことや、気前の好過ぎることなどもその一つであった。おとらと青柳との秘密を、養父に言告けて、内輪揉めをさせるというのもその一つであったが、総てを引括めて、養家に辛抱しようと云う堅い決心がないと云うのが、養父等のお島に対する不満であるらしかった。
「だから言わんこっちゃない。稚い時分から私が黒い目でちゃんと睨んでおいたんだ。此方から出なくたって、先じゃ疾の昔に愛相をつかしているのだよ」母親はまた意地張なお島の幼い時分のことを言出して、まだ娘に愛着を持とうとしている未練げな父親を詛った。
「こんなやくざものに、五万十万と云う身上を渡すような莫迦が、どこの世界にあるものか」
 太てていて、飯にも出て来ようとしないお島を、妹や弟の前で口汚く嘲るのが、この場合母親に取って、自分に隠して長いあいだお島を庇護だてして来た父親に対する何よりの気持いい復讎であるらしく見えた。
 お島も負けていなかった。母親が、角張った度強い顔に、青い筋を立てて、わなわな顫えるまでに、毒々しい言葉を浴せかけて、幼いおりの自分に対する無慈悲を数えたてた。目からぽろぽろ涙が流れて、抑えきれない悲しみが、遣瀬なく涌立って来た。
「手前」とか、「くたばってしまえ」とか、「親不孝」とか、「鬼婆」とか、「子殺し」とか云うような有りたけの暴言が、激しきった二人の無思慮な口から、連に迸り出た。
 そんな争いの後に、お島は言葉巧な青柳につれられて、また悄々と家を出て行ったのであった。

     二十六

 その晩は月は何処の森の端にも見えなかった。深く澄わたった大気の底に、銀梨地のような星影がちらちらして、水藻のような蒼い濛靄が、一面に地上から這のぼっていた。思いがけない足下に、濃い霧を立てて流れる水の音が、ちょろちょろと聞えたりした。お島はこの二三日、気が狂ったような心持で、有らん限りの力を振絞って、母親と闘って来た自分が、不思議なように考えられた。時々顔を上げて、彼女は太息を洩した。道が人気の絶えた薄暗い木立際へ入ったり、線路ぞいの高い土堤の上へ出たりした。底にはレールがきらきらと光って、虫が芝生に途断れ途断れに啼立っていた。青柳がいなければ、お島はそこに疲れた体を投出して、独で何時までも心の限り泣いていたいとも考えた。
 けれどお島は、長く青柳と一緒に歩いてもいなかった。松の下に、墓石や石地蔵などのちらほら立った丘のあたりへ来たとき、先刻からお島が微な予感に怯えていた青柳の気紛れな思附が、到頭彼女の目の前に、実となって現われた。
「ちょッ……笑談でしょう」
 道傍に立竦んだお島は、悪戯な男の手を振払って、笑いながら、さっさと歩きだした。
 甘い言をかけながら、青柳はしばらく一緒に歩いた。
「御母さんに叱られますよ」お島は軽くあしらいながら歩いた。
「現にその御母さんがどうだと思う。だから、あの家のことは、一切己の掌のうちにあるんだ。ここで島ちゃんの籍をぬいて了おうと、無事に収めようと、すべて己の自由になるんだよ」
 威嚇の辞と誘惑の手から脱れて、絶望と憤怒に男をいら立せながら、旧の道へ駈出すまでに、お島は可也悶※[#「※」は「足+宛」、第3水準1-92-36、51-14]き争った。
 直にお島は、息せき家へ駈つけて来た。そしていきなり父親の寝室へ入って行った。
「それが真実とすれあ、己にだって言分があるぞ」いつか眠についていた父親は、床のうえに起あがって、煙草を喫しながら考えていた。
「彼奴はあんな奴ですよ。畜生人を見損っていやがるんだ」お島は乱れた髪を掻あげながら、腹立しそうに言った。そして興んだ調子で、現場の模様を誇張して話した。父の信用を恢復せそうなのと、母親に鼻を明させるのが、気色が好かった。

     二十七

 お島が不断から目をかけてやっている銀さんと云う年取った車夫が、誰の指図とも知れず、俥を持って迎いに来たのは、お島たちが漸と床に就こうとしている頃であった。
「何だ今時分……」玄関わきの部屋に寝ていたお島は、その声を聞つけると、寝衣に着替えたまま、門の潜りを開けに出たが、盆暮にお島が子供に着物や下駄を買ってくれたり、餅をついてやったりしていた銀さんは、どうでも今夜中に帰ってくれないと、家の首尾がわるいと言って、門の外に立ったまま動かなかった。
「きっと青柳と御母さんと相談ずくで、寄越したんだよ」お島は一応その事を父親に告げながら笑った。
 父親は、お島から養家の色々の事情を聞いて、七分通り諦めているようであったが、矢張このまま引取って了う気にはなっていなかった。作太郎と表向き夫婦にさえなってくれれば、少しくらいの気儘や道楽はしても、大目に見ていようと云ったと云う養母の弱味なども、父親には初耳であった。
「芸人を買おうと情人を拵えようとお前の腕ですることなら、些とも介意やしないなんて、そこは自分にも覚えがあるもんだから、お察しがいいと見えて、よくそう言いましたよ。どうして、あの御母さんは、若い時分はもっと悪いことをしたでしょうよ」お島は頑固な父親をおひゃらかすように、そうも言った。
 そんな連中のなかにお島をおくことの危険なことが、今夜の事実と照合せて、一層明白して来るように思えた父親は、愈お島を引取ることに、決心したのであったが、迎いが来たことが知れると、矢張心が動かずにはいなかった。
「作さんを嫌って、お島さんが逃げたって云うんで、近所じゃ大評判さ」とにかく今夜は帰ることにして、銀さんは、漸うお島を俥に載せると、梶棒につかまりながら話しはじめた。
「だが今あすこを出ちゃ損だよ。あの身代を人に取られちゃつまらないよ」
「作の馬鹿はどんな顔している」お島は車のうえから笑った。
 家へ入っても、いつものように父親の前へ出て謝罪ったり、お叩頭をしたりする気になれなかったお島は、自分の部屋へ入ると、急いで寝支度に取かかった。
「帰ったら帰ったと、なぜ己んとこへ来て挨拶をしねえんだ」養母にささえられながら、疳癪声を立てている養父の声が、お島の方へ手に取るように聞えた。
「お前がまたわるいよ」おとらは、寝衣のまま呼つけられて枕頭に坐っているお島を窘めた。
「それに自分の着物を畳みもせずに、脱っぱなしで寝て了うなんて、それだから御父さんも、この身上は譲られないと言うんじゃないか」
 剛情なお島は、到頭麺棒で撲られたり足蹴にされたりするまでに、養父の怒を募らせてしまった。

     二十八

 植源という父の仲間うちの隠居の世話で、父や母にやいやい言われて、翌年の春、神田の方の或鑵詰屋へ縁着かせられることになったお島は、長いあいだの掛合で、やっと幾分かを養家から受取ることのできた着物や頭髪のものを持って、心淋しい婚礼をすまして了った。
 植源の隠居の生れ故郷から出て来て、長いあいだ店でも実直に働き、得意先まわりにも経験を積み、北海道の製造場にも二年弱もいて、職人と一緒に起臥して来たりした主人は、お島より十近くも年上であったが、家附の娘であった病身がちのその妻と死別れたのは、つい去年の秋の頃だと云うのであった。
 鶴さんというその主人を、お島の姉もよく知っていた。神田の方のある棟梁の家から来ている植源の嫁も、その主人のことを始終鶴さん鶴さんといって、噂していた。植源の嫁は、生家の近所にあったその鑵詰屋のことを、何でもよく知っていたが、色白で目鼻立のやさしい鶴さんをも、まだ婿に直らぬずっと前から知っていた。その頃鶴さんは、鳥打帽をかぶって、自転車で方々の洋食店のコック場や、普通の家の台所へ、自家製の鑵詰ものや、西洋食料品の註文を持ちまわっていた。
 先の上さんが、肺病で亡ったことを、お島はいよいよ片着くという間際まで、誰からも聞されずにいたが、姉の口からふとそれが洩れたときには、何だか厭なような気もした。
「先の上さんのような、しなしなした女は懲々だ。何でも丈夫で働く女がいいと言うのだそうだから、島ちゃんなら持って来いだよ」姉は肥りきったお島の顔を眺めながら揶揄ったが、男のいい鶴さんを旦那に持つことになったお島の果報に嫉妬を持っていることが、お島に感づかれた。死んだ上さんの衣裳が、そっくりそのまま二階の箪笥に二棹もあると云うことも、姉には可羨しかった。
 結納の取換せがすんで、目録が座敷の床の間に恭しく飾られるまでは、お島は天性の反抗心から、傍で強いつけようとしているようなこの縁談について、結婚を目の前に控えている多くの女のように、素直な満足と喜悦に和ぎ浸ることができずに、暗い日蔭へ入っていくような不安を感じていた。養家にいた今までの周囲の人達に対する矜を傷つけられるようなのも、肩身が狭かった。作太郎に嫁が来たと云う噂が、年のうちに此方へも伝っていた。お島はそのことを、糧秣問屋の爺さんからも聞いたし、その土地の知合の人からも話された。その嫁はお島も知っている、男に似合いの近在の百姓家の娘であった。
「あの馬鹿が、どんな顔してるか一度見にいってやりましょうよ」お島は面白そうに笑ったが、何かにつけ、それを引合いに自分を悪く言う母親などから、そんな女と一つに見られるのが腹立しかった。

     二十九

 結婚の翌日、新郎の鶴さんは朝早くから起出して、店で小僧と一緒に働いていた。昨夜極親しい少数の人たちを呼んで、二人が手軽な祝言をすました手狭な二階の部屋には、まだ新郎の礼服がしまわれずにあったり、新婦の紋附や長襦袢が、屏風の蔭に畳みかけたまま重ねられてあったりした。蓬莱を飾った床の間には、色々の祝物が秩序もなくおかれてあった。
 客がみなお開きになってからも、それだけは新調したらしい黒羽二重の紋附をぬぐ間がなく、新郎の鶴さんは二度も店へ出て、戸締や何かを見まわったりしていたが、いつの間にか誰が延べたともしれぬ寝床の側に坐っているお島の側へ戻って来ると、いきなり自分の商売上のことや、財産の話を花嫁に為て聞せたりした。そして病院へ入れたり、海辺へやったりして手を尽して来た、前の上さんの病気の療治に骨の折れたことや、金のかかった事をも零した。先代の時から続いてやっている、確な人に委せて、監督させてある北海道の方へも、東京での販路拡張の手隙には、年に一度くらいは行ってみなければならぬことも話して聞かせた。そういう[#「そういう」は底本では「さういう」と旧仮名遣い、56-9]時には、お島は店を預かって、しっかり遣ってくれなければならぬと云うので、多少そんなことに経験と技量のあるように聞いているお島に、望みを措いているらしかった。
 部屋などの取片着をしているうちに、翌日一日は直に経ってしまった。お島は時々細い格子のはまった二階の窓から、往来を眺めたり、向いの化粧品屋や下駄屋や莫大小屋の店を見たりしていたが、檻のような窮屈な二階に竦んでばかりもいられなかった。それで階下へおりてみると、下は立込んだ廂の差交したあいだから、やっと微かな日影が茶の室の方へ洩れているばかりで、そこにも荷物が沢山入れてあった。店には厚司を着た若いものなどが、帳場の前の方に腰かけていた。鶴さんがそこに坐って帳簿を見たり、新聞を読んだりしていた。お島はそこへ姿を現して、暫く坐ってみたがやっぱり落着がなかった。
 二日三日と日がたって行った。お島は頭髪を丸髷に結って、少しは帳場格子のなかに坐ることにも馴れて来たが、鶴さんはどうかすると自転車で乗出して、半日の余も外廻りをしていることがあった。そして夜は疲れて早くから二階の寝床へ入ったが、お島は段々日の暮れるのを待つようになって来た、自分の心が不思議に思えた。姉や植源の嫁が騒いでいるように、鶴さんがそんなに好い男なのかと、時々帳場格子のなかに坐っている良人の顔を眺めたり、独り居るときに、そんな思いを胸に育み温めていたりして、自分の心が次第に良人の方へ牽つけられてゆくのを、感じないではいられなかった。

     三十

 麗な春らしい天気の続いた或日、鶴さんは一日潰してお島と一緒に、媒介の植源などへ礼まわりをして、それからお島の生家の方へも往ってみようかと言出した。同じ鑵詰屋を出している、前の上さんの義理の弟――先代の妾とも婢とも知れないような或女に出来た子供――のいる四谷の方へもお島は顔出しをしなければならないように言われていたが、それはもう商売上の用事で、二度も尋ねて来たりして、大概その様子がわかっていたが、鶴さんはそのお袋が気に喰わぬといって、後廻しにすることにした。
 お島はこの頃漸く落着いて来た丸髷に、赤いのは、道具の大きい較強味のある顔に移りが悪いというので、オレンジがかった色の手絡をかけて、こってりと濃い白粉にいくらか荒性の皮膚を塗つぶして、首だけ出来あがったところで、何を着て行こうかと思惑っていた。
 鶴さんは傍で、髷の型の大きすぎたり、化粧の野暮くさいのに、当惑そうな顔をしていたが、着物の柄も、鶴さんの気に入るような落着いたのは見当らなかった。
「かねのを少し出してごらん。お前に似合うのがあるかも知れない」
 鶴さんはそう言って、押入の用箪笥のなかから、じゃらじゃら鍵を取出して、そこへ投出した。
「でも初めていくのに、そんな物を着てなぞ行かれるものですか」
「それもそうだな」と、鶴さんは淋しそうな顔をして笑っていた。
「それにおかねさんの思いに取着かれでもしちゃ大変だ」お島はそう言いながら、自分の箪笥のなかを引くら返していた。
「でもどんな意気なものがあるんだか拝見しましょうか」
「何のかのと言っちゃ、四谷のお袋が大分持っていったからね」鶴さんは心からそのお袋を好かぬらしく言った。
「あの慾張婆め、これも廃れた柄だ、あれも老人じみてるといっちゃ、かねの生きてるうちから、ぽつぽつ運んでいたものさ」鶴さんはそう言いながら、さも惜しいことをしたように、舌打ばかりしていた。
 お島は錠をはずして、抽斗を二つ三つぬいて、そっちこっち持あげて覗いていたが、お島の目には、まだそれがじみ[#「じみ」に傍点]すぎて、着てみたいと思うようなものは少かった。
「そんなに思いをかけてる人であるなら、みんなくれてお仕舞いなさいよ。その方がせいせいして、どんなに好いか知れやしない」お島は蓮葉に言って笑った。
「戯談じゃない。くれるくらいなら古着屋へ売っちまう」
 左に右二人は初めて揃って、外へ出てみた。鶴さんは先へ立って、近所隣をさっさと小半町も歩いてから振顧ったが、お島はクレーム色のパラソルに面を隠して、長襦袢の裾をひらひらさせながら、足早に追ついて来た。外は漸くぽかぽかする風に、軽く砂がたって、いつの間にか芽ぐんで来た柳条が、たおやかに※[#「※」は「車へん+而+大」、第3水準1-92-46、59-5]っていた。お島は何となく胸を唆られるようで、今までとは全然ちがった明い世間へ出て来たような歓喜を感じていたが、良人の心持がまだ底の底から汲取れぬような不安と哀愁とが、時々心を曇らせた。今まで人に恵んだり、助力を与えたりしたことは、養父母の非難を買ったほどであったが、矜と満足はあっても、心から愛しようと思おうとしたような人は、一人もなかった。真実に愛せられることも曽てなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜み蟠まっているようであった。鶴さんは、それはそれとして大事に秘めておいて、自身の生活の単なる手助として、自分を迎えたのでしかないように思えた。駢んで電車に乗ってからも、お島はそんなことを思っていた。

     三十一

 奉公人などに酷だというので、植源いこうか茨脊負うか、という語と共に、界隈では古くから名前の響いたその植源は、お島の生家などとは違って、可也派手な暮しをしていたが、今は有名な喧し屋の女隠居も年取ったので、家風はいくらか弛んでいた。お島は一二度ここへ来たことはあったが、奥へ入ってみるのは、今日が初めであった。
 大秀の娘である嫁のおゆうが、鶴さんの口にはゆうちゃんと呼れて、小僧時代からの昵みであることが、お島には何となし不快な感を与えたが、それもしみじみ顔を見るのは、初めてであった。
 おゆうは、浮気ものだということを、お島は姉から聞いていたが、逢ってみると、芸事の稽古などをした故か、嫻かな落着いた女で、生際の富士形になった額が狭く、切の長い目が細くて、口もやや大きい方であったが、薄皮出の細やかな膚の、くっきりした色白で、小作な体の様子がいかにも好いと思った。いつも通るところとみえて、鶴さんは仕立物などを散かしたその部屋へいきなり入っていこうとしたが、おゆうは今日は更まったお客さまだから失礼だといって、座敷の床の前の方へ、お島のと並べてわざとらしく座蒲団をしいてくれた。
「そう急に他人行儀にしなくても可いじゃありませんか」鶴さんは蒲団を少しずらかして坐った。
「いいじゃありませんか。もう極のわりいお年でもないでしょう」おゆうは顔を赧めながら言って、二人を見比べた。
「貴女ちっとは落着きなさいましてすか」おゆうはお島の方へも言をかけた。
「何ですか、私はこういうがさつ[#「がさつ」に傍点]ものですから、叱られてばかりおりますの」お島は体よく遇っていた。
「でもあの辺は可うございますのね、周囲がお賑かで」おゆうはじろじろお島の髷の形などを見ながら自分の髪へも手をやっていた。
 性急の鶴さんは、蒲団の上にじっとしてはおらず、縁側へ出てみたり、隠居の方へいったりしていたが、おゆうも落着きなくそわそわして、時々鶴さんの傍へいって、燥いだ笑声をたてていたりした。広い庭の方には、薔薇の大きな鉢が、温室の手前の方に幾十となく並んでいた。植木棚のうえには、紅や紫の花をつけている西洋草花が取出されてあった。四阿屋の方には、遊覧の人の姿などが、働いている若い者に交ってちらほら見えていた。
「どうしよう、これからお前の家へまわっていると遅くなるが……」鶴さんは時計を見ながらお島に言った。「何なら一人でいっちゃどうだ」
「不可ませんよ、そんなことは……」おゆうはいれ替えて来たお茶を注ぎながら言った。
 それで鶴さんはまた一緒にそこを出ることになったが、お島は何だか張合がぬけていた。

     三十二

 日がそろそろかげり気味であったので、このうえ二三十町もある道を歩くことが、二人には何となし気懈い仕事のように思えた。鶴さんは植源へ来るのが今日の目的で、お島の生家へ行ってみようと云う興味は、もうすっかり殺げてしまったもののように、途中で幾度となく引返しそうな様子を見せたが、お島も自分が全く嫌われていないまでも、鶴さんの気持が自分と二人ぎりの時よりも、おゆうの前に居る時の方が、[#底本では「、」が「。」、61-15]話しの調子がはずむようなので、古昵みのなかを見せつけにでも連れて来られたように思われて、腹立しかった。二人は初めほど睦み合っては歩けなくなった。
「でも此処まで来て寄らないといっちゃ、義理が悪いからね」
 今度はお島が立寄るまいと言出したのを、鶴さんは何処か商人風の堅いところを見せて、すっかり気が変ったように言った。
「それ程にして戴かなくたって可いんですよ。あの人達は、親だか子だか、私なぞ何とも思っていませんよ。生家は生家で、縁も由縁もない家ですからね」お島はそう言いながら、従いて行った。
 生家では母親がいるきりであった。母親はお島の前では、初めて来た婿にも、愛相らしい辞をかけることもできぬ程、お互に神経が硬張ったようであったが、鶴さんと二人きりになると、そんなでもなかった。お島は母親の口から、自分の悪口を言われるような気がして、ちょいちょい様子を見に来たが、鶴さんは植源にいた時とは全然様子がかわって、自分が先代に取立てられるまでになって来た気苦労や、病身な妻を控えて商売に励んで来た長いあいだの身の上談などを、例の急々した調子で話していた。
「ここんとこで、一つ気をそろえて、みっちり稼がんことにゃ、この恢復がつきません」
 鶴さんは傍へ寄って来るお島に気もつかぬ様子であったが、お島には、それがすっかり母親の気に入って了ったらしく見えた。
「どうか店の方へも、時々お遊びにおいで下すって……」
 鶴さんは語のはずみで、そう言っていたが、お島は、何を言っているかと云うような気がして、終に莫迦々々しかった。それでけろりとした顔をして、外を見ていながら、時々帰りを促した。
「こう云う落着のない子ですから、お骨も折れましょうが、厳しく仰ゃって、どうか駆使ってやって下さい」母親はじろりとお島を見ながら言った。
 鶴さんは感激したような調子で、弁るだけのことを弁ると、煙管を筒に収めて帰りかけた。
「何を言っていたんです」お島は外へ出ると、いらいらしそうに言った。「あの御母さんに、商売のことなんか解るものですか。人間は牛馬のように駆使いさえすれあ可いものだと思っている人間だもの」

     三十三

 夏の暑い盛りになってから、鶴さんは或日急に思立ったように北海道の方へ旅立つことになった。気の早い鶴さんは、晩にそれを言出すと、もうその翌朝夜のあけるのも待かねる風で、着替を入れた袋と、手提鞄と膝懸と細捲とを持って、停車場まで見送の小僧を一人つれて、ふらりと出ていって了った。三四箇月のあいだに、商売上のことは大体頭脳へ入って来たお島は、すっかり後を引受けて良人を送出したが、意気な白地の単衣物に、絞の兵児帯をだらりと締めて、深いパナマを冠った彼の後姿を見送ったときには、曽て覚えたことのない物寂しさと不安とを感じた。
 それにお島は今月へ入ってからも、毎時のその時分になっても、まだ先月から自分一人の胸に疑問になっている月のものを見なかった。そうして漸とそれを言出すことのできたのは、鶴さんが気忙しそうに旅行の支度を調えてからの昨夜であった。
「私何だか体の様子が可笑いんですよ。きっとそうだろうと思うの」一度床へついたお島は、厠へいって帰って来ると、漸とうとうとと眠りかけようとしている良人の枕頭に坐りながら言った。蒸暑い夏の夜は、まだ十時を打ったばかりの宵の口で、表はまだぞろぞろ往来の人の跫音がしていた。朝の早い鶴さんは、いつも夜が早かった。
「そいつぁ些と早いな。怪しいもんだぜ」などと、鶴さんは節の暢々した白い手をのばして、莨盆を引寄せながら、お島の顔を見あげた。鶴さんはその頃、お島の籍を入れるために、彼女の戸籍を見る機会を得たのであったが、戸籍のうえでは、お島は一度作太郎と結婚している体であった。それを知ったときには鶴さんは欺かれたとばかり思込んで、お島を突返そうと決心した。しかし鶴さんはその当座誰にもそれを言出す勇気を欠いていた。そしてお島だけには、ちょいちょい当擦や厭味を言ったりして漸と鬱憤をもらしていたが、どうかすると、得意まわりをして帰る彼の顔に、酒気が残っていたりした。お島が帳場へ坐っている時々に、優しい女の声で、鶴さんへ電話がかかって来たりしたのも、その頃であった。そんな時は、お島は店の若いもののような仮声をつかって、先の処と名を突留めようと骨を折ったが、その効がなかった。お島はその頃から、鶴さんが外へ出て何をして歩いているか、解らないと云う不安と猜疑に悩されはじめた。植源の嫁のおゆう、それから自分の姉……そんな人達の身のうえにまで思い及ばないではいられなかった。日頃口に鶴さんを讃めている女が、片端から恋の仇か何ぞであるかのように思え出して来た。姉は、お島が片づいてからも、ちょいちょい訪ねて来ては、半日も遊んでいることがあった。
「それなら、何故私をもらってくれなかったんです」姉は、鶴さんに揶揄われながら自分の様子をほめられたときに、半分は真剣らしく、半分は笑談らしく、妹のそこにあることを意にかけぬらしく、ぽっと上気したような顔をして言ったことがあったくらいであった。
 お島はそれが癪にさわったといって、後で鶴さんと大喧嘩をしたほどであった。

     三十四

 鶴さんは、その当座外で酒など飲んで来た晩などには、時々お島が自分のところへ来るまでの、長い歳月の間のことを、根掘葉掘して聴くことに興味を感じた。結婚届まですましてあったお島と作太郎との関係についての鶴さんの疑いは、お島が説明して聴す作太郎の様子などで、その時はそれで釈けるのであったが、その疑いは護謨毬のように、時が経つと、また旧に復った。
「嘘だと思うなら、まあ一度私の養家へ往ってごらんなさい。へえ、あんな奴がと思うくらいですよ。そうね、何といって可いでしょう……」お島は身顫が出るような様子をして、その男のことを話した。
「嫌う嫌わないは別問題さ。左に右結婚したと云うのは事実だろう」
「だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも知らなかったんです」
「しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから可怪しいよ」
 最初は心にもかけなかったその籍のことを、二度も三度も鶴さんの口から聴されてから、お島は養家の人達の、作太郎を自分に押つけようとしていた真意が、漸と朧げに見えすいて来たように思えた。
「そうして見ると、あの人達は、そっくり私に迹を譲る気はなかったもんでしょうかね」お島は長いあいだ自分一人で極込んでいた、養家やその周囲に於ける自分の信用が、今になって根柢からぐらついて来たような失望を感じた。
 お島は、最近の養家の人達の、自分に対するその時々の素振や言に、それと思い当ることばかり、憶出せて来た。
「畜生、今度往ったら、一捫着してやらなくちゃ承知しない」お島はそれを考えると、不人情な養母達の機嫌を取り取りして来た、自分の愚しさが腹立しかったが、それよりも鶴さんの目にみえて狎々しくなった様子に、厭気のさして来ていることが可悔かった。
 二年の余も床についていた前の上さんの生きているうちから、ちょいちょい逢っていた下谷の方の女と、鶴さんが時々媾曳していることが、店のものの口吻から、お島にも漸く感づけて来た。お島はそれらの店の者に、時々思いきった小遣をくれたり、食物を奢ったりした。彼等はどうかすると、鼻ッ張の強い女主人から頭ごなしに呶鳴りつけられて、ちりちりするような事があったが、思いがけない気前を見せられることも、希らしくなかった。
 鶴さんの出ていった後から、自身で得意先を一循巡って見て来たりするお島は、時には鶴さんと二人で、夜おそく土産などを提げて、好い機嫌で帰って来た。

     三十五

 荒い夏の風にやけて、鶴さんが北海道の旅から帰って来たのは、それから二月半も経ってからであった。暑い盛りの八月も過ぎて、東京の空には、朝晩にもう秋めかした風が吹きはじめていた。
 鶴さんの話によると、帰りの遅くなったのは、東北の方にあるその生れ故郷へ立寄って、年取った父親に逢ったり、旅でそこねた健康を回復するために、近くの温泉場へ湯治に行っていたりした為だというのであったが、それから程なく、鶴さんの留守の間に北海道から入って来た数通の手紙の一つが、旅で馴染になった女からであることが、その手紙の表記でお島にも容易く感づけた。
 帰ってからも、そっちこっち飛歩いていて、碌々旅の話一つしんみり為ようともしなかった鶴さんが、ある日帳簿などを調べたところによると、お島はお島だけで、留守中に可也販路を拡めていることが解って来たが、それは率ね金払いのわるいような家ばかりであった。これまでに鶴さんが手をやいた質の悪い向も二三軒あったが、中にはまたお島が古くから知っている堅い屋敷などもあった。お島は少しでも手繋のあるようなそれ等の家から、食料品の註文を取ることが、留守中の毎日々々の仕事であったが、品物ばかり出て勘定の滞っているのが、其方にも此方にも発見せられた。
 悪阻などのために、夏中動もするとお島は店へも顔を出さず、二階に床を敷いて、一日寝て暮すような日が多かったが、気分の好い時でも、その日その日の売揚の勘定をしたり、店のものと一緒に、掛取に頭脳を使ったりするのが煩わしくなると、着飾って生家や植源へ遊びに出かけるか、昵みの多い旧の養家の居周やその得意先へ上って話こむかして、時間を銷さなければならなかった。養家では、作太郎が近所の長屋を一軒もらって、嫁と一緒に相変らず真黒になって働いていたが、お島はその方へも声をかけた。
「今度田舎の土産でもさげて、お島さんの婿さんの顔を見にいくだかな」作は帰りがけのお島に言ってにやにや笑っていた。
「まあそうやって、後生大事に働いてるが可いや。私も危く瞞されるところだったよ。養母さんたちは人がわるいからね」お島も棄白でそこを出た。

     三十六

 暫くぶりで、一日遊びに来た姉が、その日も朝から店をあけている鶴さんや、知りたくもない植源の嫁の噂などをして、一人で饒舌りちらして帰って行った。
 お島は気骨の折れる子持の客の帰ったあとで、気憊れのした体を帳場格子にもたれて、ぼんやりしていた。お島の体は、単衣もののこの頃では、夕方の涼みに表へ出るのも極のわるいほど、月が重っていた。
 旅から帰って来た鶴さんは、落着いて店で帳合をするような日とては、幾んど一日もなかった。偶に家にいても、朝から二階へあがって、枕などを取出して、横になっているような事が多かった。機嫌のいい時には、これまで口にしたこともなかった、猥らな端唄の文句などを低声で謡って、一人で燥いでいた。
「おお厭だ、誰にそんなものを教わって来ました」お島はぼつぼつ支度にかかっていた赤子の着物の片などを弄りながら、傍で擽ったいような笑方をした。
「面白くでもない。北海道の女のお自惚なんぞ言って」
「どうして、そんなんじゃない」と云いそうな顔をして、鶴さんは物珍しげに、形のできた小さい襦袢などを眺めていた。
「ちょいと、貴方はどんな子が産れると思います」お島は始終気にかかっている事を、鶴さんにも訊いてみた。
「どうせ私には肖ていまい。そう思っていれあ確かだ」鶴さんは鼻で笑いながら、後向になった。
「どうせそうでしょうよ、これは私のお土産ですもの」お島は不快な気持に顔を赧めた。「でも笑談にもそういわれると、厭なものね。子供が可哀そうのようで」
「此方の身も可哀そうだ」
「それは色女に逢えないからでしょう」
 二人の神経が段々尖って来た。そしてお島に泣いて突かかられると、鶴さんはいきなり跳起きて、家では滅多にあけたことのない折鞄をかかえて、外へ飛出してしまった。その折鞄のなかには、女の写真や手紙が一杯入っているのであった。
 今もお島は、何の気なしに聞過していた姉の話が、一々深い意味をもって、気遣しく思浮べられて来た。姉の話では、鶴さんの始終抱えて歩いている鞄のなかの文が、時々植源の嫁の前などで、繰拡げられると云うのであった。
「それは可笑しいの」姉は一つはお島を煽るために、一つは鶴さんと仲のいい植源の嫁への嫉妬のために、調子に乗って話した。
「その女というのが、美人の本場の越後から流れて来たとやらで、島ちゃんの旦那は碌素法工場へ顔出しもしないで、そこへばかり入浸っていたんだって。それで、その手紙にこんな事まで書いてあるんだってさ。これも東京の人で、彼方へ往く度に札びら切って、大尽風をふかしているお爺さんが、鉱山が売れたら、その女を落籍して東京へつれていくといっているから、それを踏台にして、東京へ出ましょうかって。ねえ、ちょいとお安くないじゃないの」
 姉は植源の嫁から聞いたと云うその女の噂を、こまごまと話して聞した。
「それに鶴さんは、着物や半衿や、香水なんか、ちょいちょい北海道へ送るんだそうだよ。島ちゃん確りしないと駄目だよ」姉はそうも言った。
「何に」と思って、お島は聞いていたのであったが、女にどんな手があるか解らないような、恐怖と疑惧とを感じて来た。

     三十七

 植源の嫁のおゆうの部屋で、鶴さんと大喧嘩をした時のお島は、これまで遂ぞ見たこともないようなお盛装をしていた。
 お島が鶴さんに無断で、その取つけの呉服屋から、成金の令嬢か新造の着る様な金目のものを取寄せて、思いきったけばけばしい身装をして、劈頭に姉を訪ねたとき、彼女は一調子かわったお島が、何を仕出来すかと恐れの目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1-88-85、71-3]った。看ればハイカラに仕立てたお島の頭髪は、ぴかぴかする安宝石で輝き、指にも見なれぬ指環が光って、体に咽ぶような香水の匂がしていた。
 旅から帰ってからの鶴さんに、始終こってり作の顔容を見せることを怠らずにいたお島の鏡台には、何の考慮もなしに自暴に費さるる化粧品の瓶が、不断に取出されてあった。夜臥床に就くときも、色々のもので塗りあげられた彼女の顔が、電気の灯影に凄いような厭な美しさを見せていた。
「大した身装じゃないか。商人の内儀さんが、そんな事をしても可いの」惜気もなくぬいてくれる、お島が持古しの指環や、櫛や手絡のようなものを、この頃に二度も三度ももらっていた姉は、媚びるように、お島の顔を眺めていた。
「どうせ長持のしない身上だもの。今のうち好きなことをしておいた方が、此方の得さ。あの人だって、私に隠して勝手な真似をしているんじゃないか」
 お島はその日も、外へ出ていった鶴さんの行先を、てっきり植源のおゆうの許と目星をつけて、やって来たのであった。そして気味を悪がって姉の止めるのも肯かずに、出ていった。
 おどおどして入っていった植源の家の、丁度お八つ時分の茶の室では、隠居や子息と一緒に、鶴さんもお茶を飲みながら話込んでいたが、お島が手土産の菓子の折を、裏の方に濯ぎものをしているおゆうに示せて、そこで暫く立話をしている間に、鶴さんも例の折鞄を持って、そこを立とうとしておゆうに声をかけに来た。
「まあ可いじゃありませんか。お島さんの顔を見て直き立たなくたって。御一緒にお帰んなさいよ」
 おゆうは愛相よく取做した。
「自分に弱味があるからでしょう」お島は涙ぐんだ面を背向けた。
 夫婦はそこで、二言三言言争った。
「私も、島のいる前で、一つ皆さんに訊いてもらいたいです」鶴さんは蒼くなって言った。
 そしておゆうがお島をつれて、自分の部屋へ入ったとき、鶴さんもぶつぶつ言いながら、側へやって来た。
「孰も孰だけれど、鶴さんだって随分可哀そうよお島さん」終いにおゆうはお島に言かけたとき、お島は可悔そうにぽろぽろ涙を流していた。
 夫婦はそこで、撲ったり、武者振ついたりした。
 大分たってから、呼びにやった姉につれられて、お島はそこから姉の家へ還されていった。

     三十八

 姉の家へ引取られてからも、お島の口にはまだ鶴さんの悪口が絶えなかった。おゆうに庇護われている男の心が、歯痒かったり、妬ましく思われたりした。男を我有にしているようなおゆうの手から、男を取返さなければ、気がすまぬような不安を感じた。
 お島は仕事から帰った姉の亭主が晩酌の膳に向っている傍で、姉と一緒に晩飯の箸を取っていたが、心は鶴さんとおゆうの側にあった。
「そうそう、こんな事しちゃいられないのだっけ。店のものが皆な私を待っているでしょう」お島は蚊帳のなかで子供を寝しつけている、姉の枕元で想出したように言出した。
「良人はあんなだし、私でもいなかった日には、一日だって店が立行きませんよ」
「今度あばれちゃ駄目よ」姉は出てゆくお島を送出しながら言った。
「どうもお騒がせして相済みません」お島は何のこともなかったような顔をして、外へ出たが、鶴さんがまだ植源にいるような気がして、素直に家へ帰る気にはなれなかった。
 外はすっかり暮れてしまって、茶の木畑や山茶花などの木立の多い、その界隈は閑寂していた。お島の足は惹寄せられるように、植源の方へ歩いていった。「鶴さんも可哀そうよ」そう言ってお島を窘めたおゆうの目顔が、まだ目についていた。北海道の女よりも、稚馴染のおゆうの方に、暗い多くの疑がかかっていた。
 大きな石の門のうえに、植源と出ている軒燈の下に突立って、やがてお島は家の方の気勢に神経を澄したが、石を敷つめた門のうちの両側に、枝を差交した木陰から見える玄関には、灯影一つ洩れていなかった。お島は※[#「※」は「木+要」、第4水準2-15-13、73-15]と欅の木とで、二重になっている外囲の周を、其方こっち廻ってみたが、何のこともなかった。
 車で家へ帰ったのは、大分おそかった。
「お帰んなさい」
 店のもの二三人に声をかけられながら、車から降りると、奥の方の帳場に坐っている鶴さんの顔が、ちらと見えたので、お島は漸と胸一杯に安心と歓喜との溢れて来るのを感じたが、矢張声をかける気になれなかった。
 上ってみると、二階は出ていった時、取散していったままであった。脱棄が投出してあったり、蔽いをとられたままの箪笥の上の鏡に、疲れた自分の顔が映ったりした。お島はその前に立って、物足りぬ思いに暫くぼんやりしていた。

     三十九

 お島は二三度階下へおりてみたけれど、鶴さんは、いつまで経っても、帳場から離れて来る様子もなかった。そのうちに表が段々静になって、夜が更けて来ると、店を片着けにかかっている物音が聞えたりして、鶴さんはやがて茶の間へ入って来た。お島は気持わるく壊れた髪を、束髪に結直して、長火鉢の傍へ来て坐ってみたりしていたが、頭脳がぴんぴん痛みだして来たので、鶴さんが二階へ上って来る時分には、彼女もいつか蒲団を引被いで寝ていた。
「お先へ失礼しましたよ。何だか気分がわるいので」お島はそう言いながら、呻吟声を立てていた。
 鶴さんは床についてからも、白い細長い手を出して、今朝から見るひまもなかった新聞を、かさこそ音を立てて、彼方かえし此方返しして読んでいるらしかったが、するうちに、それを投りだして、枕につくかと思っていると、ぱちんと云う音がして、折鞄を開けて、何か取出したらしかった。後は闃寂して、下の茶の室の簷端につるしてある鈴虫の声が時々耳につくだけであった。
 お島は後向になったまま、何をするかと神経を研すましていたが、今まで懈くて為方のなかった目までが、ぽっかり開いて来た。そして、ふと紙のうえを軋る万年筆の音が、耳にふれて来ると、渾身の全神経がそれに錘って来て、向返ってその方を見ない訳にいかなかった。
「何をしてるんです、今時分……」
 お島はいきなり声を立てて、鶴さんを吃驚させた。鞄のなかには、女の手紙が一二通はみ出しているのが見えた。
 鶴さんは、ちらと此方を見たが、黙ってまたペンを動かしはじめた。お島はいらいらしい目をすえて、じっと見つめていたが、忽ち床から乗出して、その手紙を褫奪ろうとした。
「おい、戯談じゃないぜ」
 鶴さんはそれでも落着いたもので、そっと書かけの手紙を床の下へ押込もうとしたが、同時に、お島の手は傍にあった折鞄を浚っていくために臂まで這出して来た。
「おい、ちょっと話がある」大分たってから、鶴さんは床のうえに起上って、疲れて枕に突伏になっているお島に声かけた。暴出すお島を押えたために、可也興奮させられて来た鶴さんは、爪痕のばら桜になっている腕をさすりながら、莨を喫していた。
 お島はまだ肩で息をしながら、やっぱり突伏していた。
「……お前のようなものに、勝手な真似をされたんじゃ、商人はとても立って行っこはありゃしないんだからね」鶴さんは、自分がこの家に対する責任や、家つきの前の内儀さんに対する立場などを説立ててから言出した。
「そんな事は、おゆうさんにでも聞いてお貰いなさい」お島は憎さげに言を返したまま、またくるりと後向になった。

     四十

 返したとも返ったとも決らずに、お島が時々生家や植源の方へ往ったり来たりしていた頃には、鶴さんの家も大分ばたばたになりかけていた。
 北海道の女の方のそれはそれとして、以前から関係のあった下谷の女の方へ、一層熱中して来た鶴さんは、店のものの一人が所々の仕切先をごまかして、可也な穴を開けたことにすら気のつかぬほど、店を外にしていた。
「子供だけは私が家において立派に育ててやるつもりです」
 鶴さんは、植源の隠居や嫁の前へ来ると、いつもお島の離縁話を持出しては、口癖のように言っていたが、お島に向ってもそれを明言した。
 植源の隠居に委してある、自分の身のうえに深い不安を懐きながら、毎日々々母親に窘りづめにされていたお島は、ある朝釜の下の火を番しながら、跪坐んでいたとき言を返したのが胸にすえかねたといって、母親のために、そこへ突転されて、竃の角で脇腹を打ったのが因で、到頭不幸な胎児が流れてしまった。
 その時お島は、飯の支度をすまして、衆と一緒に、朝飯の膳に向って、箸を取かけていた。もう十月の半で、七輪のうえに据えた鍋のお汁の味噌の匂や、飯櫃から立つ白い湯気にも、秋らしい朝の気分が可懐しまれた。
 女を追って、田舎へ行ったきり、もう大分になる総領の姿のみえぬ家のなかは、急に衰えのみえて来た父親の姿とともに、この頃際立って寂しさが感ぜられて来た。食かけた朝飯の箸を持ったまま、急に目のくらくらして来たお島は、声を立てるまもなく、そこへ仆れてしまったのであったが、七月になるかならぬの胎児が出てしまったことに気の附いたのは、時を経てからであった。
 一目もみないで、父親や鶴さんの手で、産児の寺へ送られていったのは、その晩方であったが、思いがけなく体の軽くなったお島の床についていたのは、幾日でもなかった。
 健康が回復して来ると同時に、母親と植源の隠居とのどうした談合でか、当分植源にいっていることに決められたお島は、そこで台所に働いたり、冬物の針仕事に坐ったりしていた。ぐれ出した鶴さんは、口喧しい隠居の頑張っているこの閾も高くなっていた。お島はおゆうの口から、下谷の女を家へ入れる入れぬで、苦労している彼の噂をおりおり聞されたりした。
「ああなってしまっちゃ、あの人ももう駄目よ」おゆうは鶴さんに愛相がつきたように言った。

     四十一

 一つは人に媚びるため、働かずにはいられないように癖つけられて来たお島は、一年弱の鶴さんとの夫婦暮しに嘗めさせられた、甘いとも苦いとも解らないような苦しい生活の紛紜から脱れて、何処まで弾むか知れないような体を、ここでまた荒い仕事に働かせることのできるのが、寧ろその日その日の幸福であるらしく見えた。
 植源の庭には、大きな水甕が三つもあった。お島は男の手の足りないおりおりには、その一つ一つに、水を盈々汲込まなければならなかった。そしてそれを沢山の花圃や植木に漑がなければならなかった。その頃かかっていた病身な出戻りの姉娘の連れていた二人の子供の世話も、朝晩に為なければならなかった。田舎で鉄道の方に勤めていた官吏の許へ片づいていたその姉は、以前この家に間借をしていたことのあるその良人が、田舎へ転任してから、七年目の今茲の夏、遽に病死してしまった。
 東北訛のその子供は、おゆうには二人とも嫌われたが、お島には能く懐いた。お島は暇さえあると、髪を結ったり、リボンをかけてやったり、寝起や入浴や食事の世話に骨惜みをしなかった。
 嫁にやられるとき、拵えて行ったものなどを不残亡くして、旅費と当分の小遣にも足りぬくらいの金を、少ばかりの家財を売払って持って来た姉は、まだ乳離れのせぬ小い方の男の子を膝にのせて、時々縁側の日南に坐りながら、ぼんやりお島の働きぶりを眺めていた。
「能くそんなに体が動いたもんだわね」
 姉は感心したように言をかけた。お島は襷がけの素跣足で、手水鉢の水を取かえながら、鉢前の小石を一つ一つ綺麗に洗っていた。夏中縁先に張出されてあった葭簀の日覆を洩れて、まだ暑苦しいような日の差込む時が、二三日も続いた。
「ええ、子供の時分から慣れっこになっていますから」お島は笑いながら応えた。
「子供を産んだ人とは思われないくらいですよ」
「だって漸う七月ですもの。私顔も見ませんでしたよ。淡白したもんです」
「それにしたって、旦那のことは忘れられないでしょう」
「そうですね。がさがさしてる癖に、余り好い気持はしませんね」
「矢張惚れていたんだわね」
「そうかも知れませんよ」お島は顔を赧めて、
「私が暴れて打壊したようなもんですの。あの人はまたどうして、あんなに気が多いでしょう。些いと何かいわれると、もう好い気になって一人で騒いでいるんですもの。その癖嫉妬やきなんですがね」
「でも能く思切って了ったわね」
「芸者や女郎じゃあるまいし、いつまで、くよくよしていたって為方がないですもの。私はあんなへなへなした男は大嫌いですよ」
「それもそうね。――私も思切って、どこか働きに行きましょうかしら」
「御笑談でしょう。そんな可愛い坊ちゃんをおいて、何処へ行けるもんですか」

     四十二

 夜になると、お島はまた隠居の足腰をさすって、寝かしつけてやるのが、毎日の日課であったが、時とすると子息夫婦に対する、病的な嫉妬から起るこの老婦の兇暴な挙動をも宥めてやらなければならなかった。
 四十代時分には、時々若い遊人などを近けたと云う噂のある隠居は、おゆうが嫁に来るまでは、幼い時から甘やかして育てて来た子息の房吉を、猫可愛がりに愛した。一度脳を患ったりなどしてから、気に引立がなくなって、温順しい一方なのが、彼女には不憫でならなかった。房吉は植木屋の仕事としては、これと云うこともさせられずに日を送って来たが、始終家にばかり引込んで、母親の傍に率つけられていたので、友達というものもなかった。絵の好きであった彼は、十六七の時分には、絵師になろうとの希望を抱きはじめたが、それも母親に遮られて、修業らしい修業もしずにしまった。
 寝るにも起きるにも、自分ばかりを凝視めて暮しているような、年取った母親の苛辣な目が、房吉には段々厭わしくなって来た。そして何時の頃からか時々顔を合す機会のあった、おゆうの懐かしい娘姿に心が惹つけられた。どんなことがあっても、おゆうちゃんを嫁に貰ってくれなければならない、房吉のそう言った辞が、母親の口から大秀やおゆうの耳へも入れられた。
 結婚してからも、どうかすると、おゆうから離されて、房吉が気鬱な母親の側に寝かされたり、おゆうが夜おそくまで、母親の側に坐って、足腰を揉ませられたりした。夜更に目敏い母親の跫音が、夫婦の寝室の外の縁側に聞えたり、夜の未明に板戸を引あけている、いらいらしい声が聞えたりした。
 お島が来てからも、おゆうが物蔭で泣いているようなことが、時々あった。
 家にいても、大抵きちんとした身装をして、庭の方は職人まかせにして、自身は花を活けたり、書画を弄ったりして暮している内気な房吉は、どうかすると母親から、聴いていられないような毒々しい辞を浴せられた。
「あれを手前の子と思ってるのが、大間抜だ」母親はそうも言った。
 衰えのみえる目などのめっきり水々して来たおゆうは、爾時五月の腹を抱えていた。日に日に気懈そうにみえて来るおゆうの媚いた姿や、良人に甘えるような素振が、母親には見ていられないほど腹立しくてならなかった。

     四十三

 お島の姉が、暑い日盛に帽子も冠せない子供を、手かけに負って、庭の方からまわって、おゆうを呼出しに来たとき、門のうちに張物をしていたお島と、自分の部屋の縁側で、髪を洗っていたおゆうを除いたほか、大抵の人は風通しの好さそうな場所を択んで、昼寝をしていた。房吉は時々出かけてゆく、近所の釣堀へ遊びに行っていたし、房吉の姉のお鈴は、小さい方の子供に、乳房を啣ませながら、茶の室の方で、手枕をしながら、乱次なく眠っていた。家のなかは、どこも彼処も長い日の暑熱に倦み疲れたような懈さに浸っていた。
 大輪の向日葵の、萎れきって項だれた花畑尻の垣根ぎわに、ひらひらする黒い蝶の影などが見えて、四下は汚点のあるような日光が、強く漲っていた。
 姉はおゆうと、五六分ばかり縁側で話をしていたが、やがて子供をそこへ卸して、袂で汗をふいていた。おゆうはまだ水気の取りきれぬ髪の端に、紙片を捲つけて、それを垂らしたまま、あたふた家を出ていった。
「きっと鶴さんが来ているんだ」
 お島はそう思うと、急に張物が手に着かなくなって、胸がいらいらして来た。
「姉さんも随分な人だよ」
 お島はいきなり姉の側へ寄っていった。
「どうしてさ」姉は這っている子供に、乳房を出して見せながら、汗ばんだ顔を赧めた。
「解ってますよ」
「可笑な人だね。解っていたら可いじゃないの」
「そんな事をしても可いんですか」
「いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ」
 二三度口留をしてから、姉の話すところによると、金の工面に行詰った鶴さんが、隠居や房吉に内密で、おゆうから少ばかり融通をしてもらうために、私と姉の家へやって来たのだと云うのであった。鶴さんが、そんなに困っているとは、お島には信ぜられないくらいであったが、姉の真顔で、それは事実であるらしく思えた。
「ふむ」お島は首を傾げて、「じゃもう、あの店も駄目だね」
「そうなんでしょう。事によったら、田舎へ行くて言ってるわ」
「芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。散々好きなことをして、店を仕舞うがいいや」
 お島は自暴に言いすてて、仕事の方へ帰って来たが、目が涙に曇っていた。せかせか出て行った今のおゆうの姿や、おゆうを待受けている鶴さんの、この頃の生活に荒みきった神経質な顔などが、目について来た。
 暫く経って、帰って来たおゆうの顔には、鶴さんのためなら、何でも為かねないような浮いた大胆さと不安が見えていた。
 おゆうの部屋を出て行く姉の手には、小袖を四五枚入れたほどの、ぼっとりした包みが提げられた。

     四十四

 堅い口留をして、ふとそれ等の事をお鈴に洩したお島は、それを又お鈴から聞いて、宛然姦通の手証でも押えたように騒ぎたてる、隠居の病的な苛責からおゆうを庇護うことに骨がおれた。
 宵の口に、お島にすかし宥められて、一度眠りについた隠居は、衆がこれから寝床につこうとしている時分に、目がさめて来ると、広々した蚊帳のなかに起き坐って、さも退屈な夜の長さに倦み果てたように、四下を見回していた。
 宵に母親に警め責められた房吉は、隠居がじりじりして業を煮せば煮すほど、その事には冷淡であった。遊人などを近けていた母親の過去を見せられて来た房吉の目には、彼女の苦しみが、滑稽にも莫迦々々しくも見えた。
「誰のためでもない、みんなお前が可愛いからだ」
 ※[#「※」は「兀+王」、第3水準1-47-62、83-17]弱かった幼い頃の房吉の養育に、気苦労の多かったことなどを言立てる隠居の言を、好い加減に房吉は聞流していた。
「不義した女を出すことが出来ないような腑ぬけと、一生暮そうとは思わない。私の方から出ていくからそう思うがいい」
 思っていることの半分も言えない房吉は、それでも二言三言辞を返した。
「そんな事があったか否か知らないけれど、私の家内なら、阿母さんは黙ってみていたらいいでしょう。一体誰がそんな事を言出したんです」
 隠居の肩を揉んでいたお島は、それを聴きながら顔から火が出るように思ったが、矢張房吉を歯痒く思った。
 無成算な、その日その日の無駄な働きに、一夏を過して来たお島は、習慣でそうして来た隠居の機嫌取や、親子の間の争闘の取做にも疲れていた。寝苦しい晩などには、お島は自分自身の肉体の苦しみが、まだ戸もしめずに、いつまでもぼそぼそ話声のもれている若夫婦の寝室の方へも見廻ってみる、隠居と一つに神経を働かせた。
「まあ、そんな事はいいでしょう」お島は外方を向きながら鼻で笑った。
「お前がそんな二本棒だから、おゆうが好きな真似をするんだ。お前が承知しても、この私が承知できない。さあ今夜という今夜は、立派におゆうの処分をしてみせろ。それが出来ないような意気地なしなら、首でも縊って一思いに死んでしまえ」
 それよりも、部屋で泣伏しているおゆうの可憐しい姿に、心の惹かるる房吉は、やがてその傍へ寄って、優しい辞をかけてやりたかった。妊娠だと云うことが、一層男の愛憐を唆った。
 お島にささえられないほどの力を出して、隠居が剃刀を揮まわして、二人のなかへ割って入ったとき、おゆうは寝衣のまま、跣足で縁から外へ飛出していった。

     四十五

 二時過まで、植源の人達は騒いでいた。
 お鈴と二人で漸と宥めて、房吉から引離して、蚊帳のなかへ納められた隠居が鎮ってからも、お島はじっとしてもいられなかった。
「どうしましょうね。大丈夫でしょうか」お島は庭の方を捜してから、これも矢張そこいらを捜しあぐねて、蚊帳の外に茫然坐っている房吉の傍へ帰って来て言った。
 房吉は蒼白めた顔をして、涙含んでいた。
「大丈夫とは思うけれど、偶然とするとおゆうは帰って来ないかも知れないね。不断から善く死ぬ死ぬと言っていたから」
「そうですか」お島は仰山らしく顫え声で言った。
「それじゃ私少し捜して来ましょう」
 お島が近所の知った家を二三軒訊いて歩いたり、姉の家へ行ってみたり、途中で鶴さんや大秀へ電話をかけたりしてから、漸う帰って来たのは、もう大分夜が更けてからであった。
「安心していらっしゃい」お島は房吉の部屋へ入ると、せいせい息をはずませながら言った。「おゆうさんは大丈夫大秀さんにいるんですよ」
 お島が、大秀へ電話をかけたとき、出て来て応答をしたのは、おゆうには継母にあたる大秀の若い内儀さんであった。
 おゆうが俥で飛込んでいった時、生家ではもう臥床に入っていたが、おゆうはいきなり昔し堅気の頑固な父親に、頭から脅しつけられて、一層突つめた気分で家を出た。鶴さんに着物を融通したり何かしたと云うことが、植源へ片着かない前からの浮気っぽいおゆうを知っている父親には、赦すことのできぬ悪事としか思えなかった。
 おゆうが帰って来たとき、お島は自分の寝床へ帰って、表の様子に気を配りながら、まんじりともせず疲れた体を横えていた。
 帰って来たおゆうが、一つは姑や父親への面当に、一つは房吉に拗ねるために、いきなり剃刀で髪を切って、庭の井戸へ身を投げようとしたのは、その晩の夜中過であった。おゆうは、うとうと床のなかに坐っている房吉には声もかけず、いきなり鏡台の前に立って、隠居の手から取離されたまま、そこに置かれた剃刀を見つけると、いきなり振釈いた髪を、一握ほど根元から切ってしまった。
「可悔い可悔い」跣足で飛出して来たお島に遮えられながら、おゆうは暴れ悶※[#「※」は「足+宛」、第3水準1-92-36、86-14]いて叫んだ。
 漸とのことで、房吉と一緒におゆうを座敷へ連込んで来たお島の目には、髪を振乱したまま、そこに泣沈んでいるおゆうが、可憐しくも妬ましくも思えた。
「みんな鶴さんへの心中立だ」お島は心に呟きながら、低声でおゆうを宥めさすっている房吉と、それを耳にもかけず泣沈んでいるおゆうの美しい姿とを見比べた。

     四十六

 情婦の流れて行っている、或山国の町の一つで、暫く漂浪の生活を続けている兄の壮太郎が、其処で商売に着手していた品物の仕入かたがた、仕事の手助にお島をつれに来たのはその夏の末であった。
「阿母さんは、一体いつまで私を彼処で働かしておくつもりだろう」
 植源の忙しい働き仕事や、絶え間のないそこの家のなかの紛紜に飽はてて来たお島は、息をぬきに家へやって来ると父親に零した。
 長いあいだ家へ寄つきもしない壮太郎の代りに、家に居坐らせるため、植源を出て来て、父の手助に働かせられていたお島は、兄に説つけられて、その時ふいと旅に出る気になったのであった。
「誰が来たって駄目だ。お前ならきっと辛抱ができる」
 お島に家へ坐られることが不安であったと同時に、田舎で遣かけようとしている仕事と、そこで人に囲われている女とから離れることの出来なかった兄の壮太郎は、そう言って話に乗易いお島を唆した。
 田舎の植木屋仲間に売るような色々の植木と、西洋草花の種子などを、どっさり仕込んで、それを汽車に積んで、兄はしばらく住なれたその町の方へ出かけていった。一緒に乗込んだお島の心には、まだ見たことのない田舎の町のさまが色々に想像されたが、これまで何処へ行っても頭を抑えられていたような冷酷な生母、因業な養父母、植源の隠居、それらの人達から離れて暮せるということを考えるだけでも、手足が急に自由になったような安易を感じた。
「みっちり働いて、お金を儲けて帰ろう」お島はそう思うと、何もかも自分を歓迎するための手をひろげて待っているような気がした。
 黝んだ土や、蒼々した水や広々した雑木林――関東平野を北へ北へと横って行く汽車が、山へさしかかるに連れて、お島の心には、旅の哀愁が少しずつ沁ひろがって来た。
「矢張こんなような町?」お島は汽車が可也大きなある停車場へ乗込んだとき、窓から顔を出して、壮太郎にささやいた。
 停車場には、日光帰りとみえる、紅色をした西洋人の姿などが見えた。
「とてもこんな大きなんじゃない」壮太郎は、長く沁込んだその町の内部の生活を憶出していると云う顔をして笑った。その土地では、壮太郎はもう可也色々の人を知っていた。
「どこを見ても山だからね。でも住なれてみると、また面白いこともあるのさ」
 汽車は段々山国へ入っていった。深い谿や、遠い峡が、山国らしい木立の隙間や、風にふるえている梢の上から望み見られた。客車のなかは一様に闃寂していた。

     四十七

 車窓に襲いかかる山気が、次第に濃密の度を加えて来るにつれて、汽車はざッざッと云う音を立てて、静に高原地を登っていった。鬱蒼とした其処ここの杉柏の梢からは、烟霧のような翠嵐が起って、細い雨が明い日光に透し視られた。思いもかけない山麓の傾斜面に痩せた田畑があったり、厚い薮畳の蔭に、人家があったりした。
 その町へ着くまでに、汽車は寂しい停車場に、三度も四度も駐った。東京の居周に見なれている町よりも美しい町が、自然の威圧に怯じ疲れて、口も利けないようなお島の目に異様に映った。
「へえ、こんな処にもこんな人がいるのかね」お島は不思議そうに、そこに見えている人達の姿を凝視めた。
 S――と云うその町へ入った時にも、小雨がしとしとと降そそいでいた。停車場を出て橋を一つ渡ると、直ぐそこに町端らしい休茶屋や、運送屋の軒に続いて燻りきった旅籠屋が、二三軒目についた。石楠花や岩松などの植木を出してある店屋もあった。壮太郎とお島とは、そこを俥で通って行った。
 町はどこも彼処も、闃寂していた。
 俥は直に大通の真中へ出ていった。そこに石造の門口を閉した旅館があったり、大きな用水桶をひかえた銀行や、半鐘を備えつけた警察署があったりした。
 壮太郎の家は、閑静なその裏通にあった。町屋風の格子戸や、土塀に囲われた門構の家などが、幾軒か立続いたはずれに、低い垣根に仕切られた広々した庭が、先ずお島の目を惹いた。木組などの繊細いその家は、まだ木香のとれないくらいの新建であった。
 留守を頼んで行った大家の若い衆と、そこの子供とが、広い家のなかを、我もの顔にごろごろしていた。
「へえ、こんな処でも商売が利くんですかね」
 部屋に落着いたお島は、縁端へ出て、庭を眺めながら呟いた。
「この町は先ずこれだけのものだけれど、居周には、またそれぞれ大きな家があるからね」壮太郎は、茶盆や湯沸をそこへ持出して来ると、羽織をぬいで胡坐を掻きながら呟いた。
 秋雨のような雨がまだじとじと降っていた。水分の多い冷い風が、遠く山国に来ていることを思わせた。ごとんごとんと云う慵い水車の音が、どこからか、物悲しげに聞えていた。

     四十八

 そこにお島を落着かせてから、壮太郎が荷物運搬の采配に、雨のなかを再び停車場へ出かけていってから、お島は晩の食事の支度に台所へ出たが、女がおりおり来ると見えて、暫く女中のいない男世帯としては、戸棚や流元が綺麗に取片着いていた。
 壮太郎は、夜までかかって、車で二度に搬び込まれた植木類を、すっかり庭の方へ始末をしてから、お島にはどこへ往くとも告げずに、またふいと羽織や帽子を被て出て往ったが、お島はその晩裏から入って来た壮太郎が、何時頃帰ったかを知らないくらい疲れて熟睡した。
 明朝目のさめたとき、水車の音が先ずお島の耳に着いた。お島はその音を聞きながら、寝床のなかにうとうとしていたが、今日から全く知らない土地に暮すのだと思うと、今まで憎み怨んでいた東京の人達さえ懐しく思われた。
 ここから二停車場ほど先にある、或大きな市へ流れて来て、そこで商売をしていた兄の女が、その頃二三里の山奥にある或鉱山の方に係っている男に落籍されて、市とS――町との間にある鉱山つづきの小さい町に、囲われていたことは、お島も東京を立つ前から聴されていた。女がまだ商売をしている頃から、兄はその市へ来て、何も為ることなしに、宿屋にごろついていたり、居周の温泉場に遊んでいたりしているうちに、土地の遊人仲間にも顔を知られて、おりおり勝負事などに手を出していた。女が今の男に落籍されてから、彼は少ばかりの資本をもらって、※[#「※」は「夕」の下に「寅」、第4水準2-5-29、91-5]縁のあったこのS――町へ来て、植木に身を入れることになったのであった。
 昼頃に雨があがってから、お島は壮太郎に連れられて、つい二三町ほど隔っている大家の家へ遊びに往った。そこはこの町の唯一の精米所でもあり、金持でもあった。大きな門を入ると、水車仕掛の大きな精米所が、直にお島の目についた。話声が聴取れないほど、轟々いう音がそこから起っていた。[#底本では「。」無し、91-10]
「この米が皆な鉱山へ入るんだぜ」
 壮太郎は、お島をその入口まで連れていって、言って聴せた。白くなって働いている男達と、壮太郎は暫く無駄話をしていた。
 主人は硝子戸のはまった、明い事務室で、椅子に腰かけて、青い巾の張られた大きな卓子に倚かかって、眼鏡をかけて、その日の新聞の相場づけに眼を通していたが、壮太郎の方へ笑顔を向けると、お島にも丁寧にお辞儀をした。柱の状挿には、主に東京から入って来る手紙や電報が、夥しく挿まれてあった。米屋町の旦那のような風をしたその主人を、お島は不思議そうに眺めていた。
「ここの庭さ、己が手を入れたというのは……」壮太郎は飛石伝いに、築山がかりの庭へ出てゆくと、お島に話しかけたが、そこから上へ登ってゆくと、小さい公園ほどの広々した土地が、目の前に展けた。
「へえ、こんな暮しをしている人があるんですかね」
 お島はそこから、築山のかかりや、家建の工合を見下しながら呟いた。
「ここへみっしり木を入れて、この町の公園にしようてえのが、あの人の企劃なんだがね。金のかかる仕事だから、少し景気が直ってからでないと……」
 兄はそう言って、子供のためのグラウンドのような場所の周にある、木陰のベンチに腰をおろして、莨をふかしはじめた。

     四十九

 直にお島は、ここの主人や上さんや、子供達とも懇意になったが、来た時から目についた、通りの方の浜屋と云う旅館の人達とも親しくなった。
 旅館の方には、お島より二つ年下の娘の外に、里から来ている女中が三人ほどいたが、始終帳場に坐っている、色の小白い面長な優男が、そこの主人であった。物堅そうなその主人は、大い声では物も言わないような、温順しい男であった。
 山国のこの寂れた町に涼気が立って来るにつれて、西北に聳えている山の姿が、薄墨色の雲に封されているような日が続きがちであった。鬱々するような降雨の日には、お島はよく浜屋へ湯をもらいに行って、囲炉裏縁へ上り込んで、娘に東京の話をして聞かせたり、立込んで来る客の前へ出たりした。
 一家の締をしている、四十六七になった、ぶよぶよ肥りの上さんと、一日小まめに体を動かしづめでいる老爺さんとが、薄暗いその囲炉裏の側に、酒のお燗番をしたり、女中の指図をしたりしていた。町の旅籠や料理屋へ肴を仕送っている魚河岸の問屋の旦那が、仕切を取りに、東京からやって来て、二日も三日も、新建の奥座敷に飲つづけていた。
 精米所の主人が建ててくれたと云う、その新座敷へ、お島も時々入って見た。糸柾の檜の柱や、欄間の彫刻や、極彩色の模様画のある大きな杉戸や、黒柿の床框などの出来ばえを、上さんは自慢そうに、お島に話して聞せた。
 河岸の旦那の芸づくしをやっているその部屋を、お島も物珍しそうに覗いてみた。それでも安お召などを引張った芸者や、古着か何かの友禅縮緬の衣裳を来て、斑らに白粉をぬった半玉などが、引断なしに、部屋を出たり入ったりした。鼓や太鼓の音がのべつ陽気に聞えた。笛の巧いという、盲の男の師匠が、芸者に手をひかれて、廊下づたいに連れられて行った。
 そこへ精米所の主人がやって来て、炉縁に胡坐をかくと、そこにごろりと寝転んでいたお爺さんは直に奥へ引込んで行った。精米所の主人の前には、直に銚子がつけられて、上さんがお酌をしはじめた。
「あれを知らねえのかい。お前も余程間ぬけだな」
 兄はその主人と上さんとの間を、お島に言って聞せた。
「あの家も、精米所のお蔭で持っているのさ。だから爺さんも目をつぶって、見ているんだ」
 兄はそうも言った。

     五十

 旦那を鉱山へ還してから、女が一里半程の道を俥に乗って、壮太郎のところへ遣って来るのは、大抵月曜日の午前であった。
 家が近所にあったところから、幼いおりの馴染であった、おかなと云うその女が、まだ東京で商売に出ている時分、兄は女の名前を腕に鏤つけなどして、嬉しがっていた。そして女の跡を追うて、此処へ来た頃には、上さんまで実家へ返して、父親からは準禁治産の形ですっかり見限をつけられていた。
 日本橋辺にいたことのあるおかなは、痩ぎすな躯の小い女であったが、東京では立行かなくなって、T――町へ来てからは、体も芸も一層荒んでいた。土地びいきの多い人達のなかでは、勝手が違って勤めにくかったが、鉱山から来る連中には可也に持囃された。
 おかなは朝来ると、晩方には大抵帰って行ったが、旦那が東京へ用達などに出るおりには、二晩も三晩も帰らないことがあった。二里ほど奥にある、山間の温泉場へ、呼出をかけられて、壮太郎が出向いて行くこともあった。
 おかなは素人くさい風をして、山焦のした顔に白粉も塗らず、ぼくぼくした下駄をはいて遣って来たが、お島には土地の名物だといって固い羊羹などを持って来た。
 女のいる間、お島は家を出て、精米所へ行ったり、浜屋で遊んでいたりした。
 精米所では、東京風の品のいい上さんが、家に引込きりで、浜屋の後家に産れた主人の男の子と、自分に産れた二人の女の子供の世話をしていた。
「浜屋のおばさんの処へいきましょうね」
 お島は近所の子供たちと、例の公園に遊んでいるその男の子の、綺麗な顔を眺めながら言ってみた。
「あ」と、子供は頷いた。
「阿母さんとおばさんと、孰が好き?」お島は言ってみたが、子供には何の感じもないらしかった。
 お島はベンチに腰かけて、慵い時のたつのを待っていた。庭の運動場の周に植った桜の葉が、もう大半黄み枯れて、秋らしい雲が遠くの空に動いていた。お島は時々炉端で差向いになることのある、浜屋の若い主人のことなどを思っていた。T――市から来ていた、その主人の嫁が、肺病のために長いあいだ生家へ帰されていた。

     五十一

 お島が楽みにして世話をしていた植木畠や花圃の床に、霜が段々滋くなって、吹曝しの一軒家の軒や羽目板に、或時は寒い山颪が、凄じく木葉を吹きつける冬が町を見舞う頃になると、商売の方がすっかり閑になって来た壮太郎は、また市の方へ出て行って、遊人仲間の群へ入って、勝負事に頭を浸している日が多かった。
 持って行った植木の或者は、土が適わぬところから、お島が如何に丹精しても、買手のつかぬうちに、立枯になるようなものが多かったが、草花の方も美事に見込がはずれて、種子が思ったほどに捌けぬばかりでなく、花圃に蒔かれたものも発芽や発育が充分でなかった。壮太郎はそれに気を腐らして、この一冬をどうしてお島と二人で、この町に立籠ろうかと思いわずろうた。
 山にはもう雪が来ていた。鉱山の方へ搬ばれてゆく、味噌や醤油などを荷造した荷馬が、町に幾頭となく立駢んで、時雨のふる中を、尾をたれて白い息を吹いているような朝が幾日となく続いた。小春日和の日などには、お島がよく出て見た松並木の往還にある木挽小舎の男達の姿も、いつか見えなくなって、そこから小川を一つ隔てた田圃なかにある遊廓の白いペンキ塗の二階や三階の建物を取捲いていた林の木葉も、すっかり落尽くしてしまった。
 それでも浜屋の奥座敷だけには、裏町にある芸者屋から、時々裾をからげて出てゆく箱屋や芸者の姿が見られて、どこからともなく飲みに来る客が絶えなかった。お島は町を通るごとに目についていた、通りの飲食店や、町がさびれてから、どこも達磨をおくようになったと云う旅籠屋などに、働きに入ろうかとさえ思ってみることもあったが、それらのお客が皆な近在の百姓や、繭買などの小商人であることを想ってみるだけでも、身顫が出るほど厭であった。
 裸になって市から帰って来ると、兄はよくお島のものを持出して、顔を知っている質屋の門などを潜ったが、それも種子が尽きて来ると、矢張女のところへ強請りに行くより外なかった。
 その使に、お島も時々遣られた。峠の幾箇もある寂しい山道を、お島は独りでてくてく歩いて行った。どこへ行っても人家があった。休み茶屋や居酒屋もあった。女の囲われている町では、馬蹄や農具を拵えている鍛冶屋が殊に多かった。
「おかなさんが、こんな処によくいられたもんだ」お島は不思議に思ったが、それでも女のいるところは、小瀟洒した格子造の家であった。家のなかには、東京風の箪笥や長火鉢もきちんとしていた。

     五十二

 けれど、そうしてちょいちょい往ってみる、お島の目に映ったところでは、おかなは兄の思っているほど気楽な身分でもなかった。おかなの話によると、鉱敷課とやらの方に勤めて、鉱夫達と一緒に穴へ入るのが職務であるその旦那から、月々配われる生活費と小遣とは、幾許でもなかった。もと居た市の方では、誰も知らないもののない壮太郎との情交が、鉱山の人達の口から、薄々旦那の耳へも伝わってから、金の受渡しが一層やかましくなって、おかなはその事でどうかすると旦那と豪い喧嘩を始めることすらあった。夏の頃から、山間の湯に行ってみたり、市の方の医者へ通っていたりしていたおかなの体は、涼気が経つに従って、いくらか肉づいて来たようであったが、やっぱり色沢が出て来なかった。それに何方を向いても、山ばかりのこの寂しい町で、雪の深い長い一冬を越すことは、今まで賑かな市にいたおかなに取っては、穴へ入るほど心細い仕事であった。どこか暖い方へ出て、もとの商売をしよう! おかなは時々その相談を、壮太郎にも為てみるのであった。
 旦那から少ばかりの手切をもらって、おかなが知合をたよって、着のみ着のままで千葉の方へ落ちて行くことになった頃には、壮太郎もすっかり零落れはてていた。月はもう十二月であった。山はどこを見ても真白で、町には毎日々々じめじめした霙が降ったり、雪が積ったりしていた。
 東京の自宅の方へ、時々無心の手紙などを書いていた壮太郎が、何の手応もないのに気を腐らして、女から送って来た金を旅費にして、これもこの町を立って行ったのは、十二月の月ももう半過であった。旅客の姿の幾んど全く絶えてしまった停車場へ、独遺されることになったお島は、兄を送っていった。精米所の主人や、浜屋の内儀さんなどに、家賃や、時々の小遣などの借のたまっていた壮太郎のために、双方の談合で、その質に、お島の体があずけられる事になったのであった。
 寒い冬空を、防寒具の用意すらなかった兄の壮太郎は、古い蝙蝠傘を一本もって、宛然兇状持か何ぞのような身すぼらしい風をして、そこから汽車に乗っていった。鳥打の廂から、落窪んだ目ばかりがぎろりと薄気味わるく光っていた。
 その日は、夕方から雪がぼそぼそ降出して来た。綿の入ったものの支度すらできなかったお島は、袷の肌にしみる寒さに顫えながら、汽車の出てしまった寂しい停車場を、浜屋の番傘をさして、独りですごすご出て来た。
「兄さんにすっかりかつがれてしまったんだ!」
 お島は初めて気がついたように、自分の陥ちて来た立場を考えた。
 達磨などの多い、飲食店のなかからは、煮物の煙などが、薄白く寒い風に靡いていた。

     五十三

 繭買いや行商人などの姿が、安旅籠の二階などに見られる、五六月の交になるまで、旅客の迹のすっかり絶えてしまうこの町にも、県の官吏の定宿になっている浜屋だけには、時々洋服姿で入って来る泊客があった。その中には、鉄道の方の役員や、保険会社の勧誘員というような人達もあったが、それも月が一月へ入ると、ぱったり足がたえてしまって、浜屋の人達は、炉端に額を鳩めて、飽々する時間を消しかねるような怠屈な日が多かった。
「さあ、こんな事をしちゃいられない」
 朝の拭掃除がすんで了うと、その仲間に加わって、時のたつのを知らずに話に耽っていたお島は、新建の奥座敷で、昨夜も悪好きな花に夜を更していた主婦の、起きて出て来る姿をみると、急いで暖かい炉端を離れた。そして冬中女の手のへらされた勝手元の忙しい働きの隙々に見るように、主婦から配がわれている仕事に坐った。仕事は大抵、これからの客に着せる夜着や、※[#「※」は、「糸+弟」、第4水準2-84-31、99-11]袍や枕などの縫釈であった。前二階の広い客座敷で、それらの仕事に坐っているお島は、気がつまって来ると、独で鼻唄を謡いながら、機械的に針を動かしていたが、遣瀬のない寂しさが、時々頭脳に襲いかかって来た。
 窓をあけると、鳶色に曇った空の果に、山々の峰続きが仄白く見られて、その奥の方にあると聞いている、鉱山の人達の生活が物悲しげに思遣られた。奥座敷の縁側に出してある、大きな籠に啼いている小禽の声が、時々聞えていた。
 市から引れてある電燈の光が、薄明く家のなかを照す頃になると、町はもう何処も彼処も戸が閉されて、裏へ出てみると、一面に雪の降積った田畠や林や人家のあいだから、ごとんごとんと響く、水車の音が単調に聞えて、涙含まるるような物悲しさが、快活に働いたり、笑ったりして見せているお島の心の底に、しみじみ湧あがって来た。
 その頃になると、いつも炉端に姿をみせる精米所の主人が、もうやって来て大きな体を湯に浸っていた。そしてお島たちが湯に入る時分には、晩酌の好い機嫌で、懸離れた奥座敷に延べられた臥床につくのであったが、花がはじまると、ぴちんぴちんと云う札の響が、衆の寝静った静な屋内に、いつまでも聞えていた。二三人の町の人が、そこに集っていた。
 酒ものまず、花にも興味をもたない若主人と、お島は時々二人きりで炉端に坐っていた。病気が癒るとも癒らぬともきまらずに、長いあいだ生家へ帰っている若い妻の身のうえを、独で案じわずろうているこの主人の寝起の世話を、お島はこの頃自分ですることにしていた。

     五十四

 新座敷の方の庭から、丁字形に入込んでいる中庭に臨んだ主人の寝室を、お島はある朝、毎朝するように掃除していた。障子襖の燻ぼれたその部屋には、持主のいない真新しい箪笥が二棹も駢んでいて、嫁の着物がそっくり中に仕舞われたきり、錠がおろされてあった。お島は苦しい夢を見ているような心持で、そこを掃出していたが、不安と悔恨とが、また新しく胸に沁出していた。
 お島は人に口を利くのも、顔を見られるのも厭になったような自分の心の怯えを紛らせるために、一層精悍しい様子をして立働いていた。そして客の膳立などをする場所に当ててある薄暗い部屋で、妹達と一緒に朝飯をすますと、自分独りの思いに耽るために、急いで湯殿へ入っていった。窓に色硝子などをはめた湯殿には、板壁にかかった姿見が、うっすり昨夜の湯気に曇っていた。お島はその前に立って、いびつなりに映る自分の顔に眺入っていた。親達や兄や多くの知った人達と離れて、こんな処に働いている自分の姿が可憐しく思えてならなかった。
 お島は湯をぬくために、冷い三和土へおりて行った。目が涙に曇って、そこに溢れ流れている噴井の水もみえなかった。他人の中に育ってきたお蔭で、誰にも痒いところへ手の達くように気を使うことに慣れている自分が、若主人の背を、昨夜も流してやったことが憶出された。そうした不用意の誘惑から来た男の誘惑を、弾返すだけの意地が、自分になかったことが悲しまれた。
「鶴さんで懲々している!」
 お島はその時も、溺れてゆく自分の成行に不安を感じた。
 お島は力ない手を、浴槽の縁につかまったまま、流れ減っていく湯を、うっとり眺めていた。ごぼごぼと云う音を立てて、湯は流れおちていった。
 橋をわたって、裏の庫の方へゆく、主人の筒袖を着た物腰の細りした姿が、硝子戸ごしにちらと見られた。お島は今朝から、まだ一度もこの主人の顔を見なかった。親しみのないような皮膚の蒼白い、手足などの繊細なその体がお島の感覚には、触るのが気味わるくも思えていたのであったが、今朝は一種の魅力が、自分を惹着けてゆくようにさえ思われた。
「郵便が来ているよ」
 不意にその主人が、湯殿のなかへ顔を出して、懐ろから一封の手紙を出した。
 それは王子の父親のところから来たのであった。
「へえ、何でしょう」
 お島は手を拭きながら、それを受取った。そして封を披いて見た。

     五十五

 山に雪が融けて、紫だったその姿が、くっきり碧い空に見られるようになる頃までに、お島は三度も四度も父親の手紙を受取った。
 冬中閉されてあった煤けた部屋の隅々まで、東風が吹流れて、町に陽炎の立つような日が、幾日となく続いた。淡雪が意いがけなく、また降って来たりしたが、春の日光に照されて、直にびしょびしょ消えて行った。樋の破目から漏れおちる垂滴の水沫に、光線が美しい虹を棚引せて、凧の唸声などが空に聞え、乾燥した浜屋の前の往来には、よかよか飴の太鼓が子供を呼んでいた。
「お暖かになりやした」
 浜屋の炉端へ来る人の口から、そんな挨拶が聞かれた。
 ちらほら梅の咲きそうな裏庭へ出て、冷い頸元にそばえる軽い風に吹かれていると、お島は荐に都の空が恋しく想出された。
「御父さんから、また手紙が来ましたよ」
 人のいないところで、帯の間から手紙を出してお島は男に見せた。
 正月頃までは、ちょいちょい嫁の病気を見にいっていた男は、この頃ではすっかり市の方へも足を遠退いていた。湯殿口や前二階で、ひそひそ話をしている二人の姿が、妹達の目にも立つようになって来た。
 そんな処に何時までぐずぐずしていないで、早く立って来い。父親の手紙は、いつも同じようであったが、お島の身のうえについて、立っているらしい碌でもない噂が、昔し気質の老人を怒らせている事は、その文言でも受取れた。
「どうしましょう」
 お島はその度に、目に涙をためて溜息を吐いたが、還るとも還らぬとも決らずに、話がぐずぐずになる事が多かった。
「御父さんは、私が酌婦にでもなっているものと思っているのでしょう」
 お島はそうも言って笑った。
 一緒に東京へ出る相談などが、二人のあいだに持上ったが、何もする事のない男は、そこまで盲目には成りきれなかった。市へお島を私と住わしておこうと云う相談も出たが、精米所の補助を受けて、かつかつ遣っている浜屋の生計向では、それも出来ない相談であった。
 一里半ほど東に当っている谿川で、水力電気を起すための、測量師や工夫の幾組かが東京からやって来たり、山から降りて来たりする頃には、二人のなかを、誰も異しまなかった。月はもう五月に入りかけていた。

     五十六

 嫁の生家や近所への聞えを憚るところから、主婦の取計いで、お島がそれとなく、浜屋といくらか縁続きになっている山の或温泉宿へやられたのは、その月の末頃であった。
 S――町の垠を流れている川を溯って、重なり合った幾箇かの山裾を辿って行くと、直にその温泉場の白壁や屋の棟が目についた。勾配の急な町には疾い小川の流れなどが音を立てて、石高な狭い道の両側に、幾十かの人家が窮屈そうに軒を並べ合っていた。
 お島の行ったところは、そこに十四五軒もある温泉宿のなかでも、古い方の家であったが、崖造の新しい二階などが、蚕の揚り時などに遊びに来る、居周の人達を迎えるために、地下室の形を備えている味噌蔵の上に建出されてあったりした。庭にはもう苧環が葉を繁らせ、夏雪草が日に熔けそうな淡紅色の花をつけていた。
 雪の深い冬の間、閉きってあったような、その新建の二階の板戸を開けると、直ぐ目の前にみえる山の傾斜面に拓いた畑には、麦が青々と伸びて、蔵の瓦屋根のうえに、小禽が怡しげな声をたてて啼いていた。山国の深さを思わせるような朝雲が、見あげる山の松の梢ごしに奇しく眺められた。
 繭時にはまだ少し間のあるこの温泉場には、近郷の百姓や附近の町の人の姿が偶に見られるきりであった。お島はその間を、ここでも針仕事などに坐らせられたが、どうかすると若い美術学生などの、函をさげて飛込んで来るのに出逢った。
「こんな山奥へいらして、何をなさいますの」
 お島は絶えて聞くことの出来なかった、東京弁の懐かしさに惹着けられて、つい話に※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1-85-32に包摂、105-2]を移したりした。
 山越えに、××国の方へ渉ろうとしている学生は、紫だった朝雲が、まだ山の端に消えうせぬ間を、軽々しい打扮をして、拵えてもらった皮包の弁当をポケットへ入れて、ふらりと立っていった。
「何て気楽な書生さんでしょう。男はいいね」
 お島は可羨しそうにその後姿を見送りながら、主婦に言った。
 三十代の夫婦の外に、七つになる女の貰い子があるきり、老人気のないこの家では、お島は比較的気が暢びりしていた。始終蒼い顔ばかりしている病身な主婦は、暖かそうな日には、明い裏二階の部屋へ来て、希には針仕事などを取出していることもあったが、大抵は薄暗い自分の部屋に閉籠っていた。
 夏らしい暑い日の光が、山間の貧しい町のうえにも照って来た。庭の柿の幹に青蛙の啼声がきこえて、銀のような大粒の雨が遽に青々とした若葉に降りそそいだりした。午後三時頃の懶い眠に襲われて、日影の薄い部屋に、うつらうつらしていた頭脳が急にせいせいして来て、お島は手摺ぎわへ出て、美しい雨脚を眺めていた。圧しつけられていたような心が、跳あがるように目ざめて来た。

     五十七

 浜屋の主人が、二度ばかり逢いに来てくれた。
 主人は来れば急度湯に入って、一晩泊って行くことにしていたが、お終に別れてから、物の二日とたたぬうちに、また遣って来た。東京から突如に出て来たお島の父親をつれて来たのであった。
 お島はその時、貰い子の小娘を手かけに負って、裏の山畑をぶらぶらしながら、道端の花を摘んでやったりしていた。この町でも場末の汚い小家が、二三軒離れたところにあった。朝晩は東京の四月頃の陽気であったが、昼になると、急に真夏のような強い太陽の光熱が目や皮膚に沁通って仄かな草いきれが、鼻に通うのであった。一雨ごとに桑の若葉の緑[#底本では「縁」と誤植]が濃くなって行った。
「東京から御父さんが見えたから、ここへ連れて来たよ」
 主人は或百姓家の庭の、藤棚の蔭にある溝池の縁にしゃがんで、子供に緋鯉を見せているお島の姿を見つけると、傍へ寄って来て私語いた。
「へえ……来ましたか」
 お島は息のつまるような声を出して叫んだなり、男の顔をしげしげ眺めていた。
「いつ来ました?」
「十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが此方へ来ている話をすると、それじゃ私が一人で行って連れて来るといって、急立つもんだからな」
「ふむ、ふむ」
とお島は鼻頭の汗もふかずに聞いていたが、「気のはやい御父さんですからね」と溜息をついた。
「それでどうしました」
「今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに引立てて連れて行こうという見脈だで……」
「ふむ」と、お島は蒼くなって、ぶるぶるするような声を出した。
「御父さんにここで逢うのは厭だな」お島は手を堅く組んで首を傾げていた。「どうかして逢わないで還す工夫はないでしょうか」
「でも、ここに居ることを打明けてしまったからね」
「ふむ……拙かったね」
「とにかく些と逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ」
「ふむ――」と、お島はやっぱり凄い顔をして、考えこんでいた。「東京を出るとき、私は一生親の家の厄介にはなりませんと、立派に言断って来ましたからね。今逢うのは実に辛い!」
 お島の目には、ほろほろ涙が流れだして来た。
「為方がない、思断って逢いましょう」暫くしてからお島は言出した。「逢ったらどうにかなるでしょう」
 二人は藤棚の蔭を離れて、畔道へ出て来た。

     五十八

 父親は奥へも通らず、大きい柱時計や体量器の据えつけてある上り口のところに、行儀よく居住って、お島の小さい時分から覚えている持古しの火の用心で莨をふかしていたが、お島や浜屋にしつこく言われて、漸と勝手元近い下座敷の一つへ通った。
「よくいらっしゃいましたね」お島は父親の顔を見た時から、胸が一杯になって来たが、空々しいような辞をかけて、茶をいれたり菓子を持って来たりして、何か言出しそうにしている父親の傍に、じっと坐ってなぞいなかった。
「私のことなら、そんな心配なんかして、わざわざ来て下さらなくとも可かったのに。でも折角来た序ですから、お湯にでも入って、ゆっくり遊んで行ったら可いでしょう」
「なにそうもしていられねえ。日帰りで帰るつもりでやって来たんだから」父親も落着のない顔をして、腰にさした莨入をまた取出した。
「お前の体が、たといどういうことになっていようとも、恁うやって己が来た以上は、引張って行かなくちゃならない」
「どういう風にもなってやしませんよ」と、お島は笑っていたが、父親の口吻によると、彼はお島の最初の手紙によって、てっきり兄のために体を売られて、ここに沈んでいるものと思っていた。そして東京では母親も姉も、それを信じているらしかった。
 それで父親は、今日のうちにも話をつけて、払うべき借金は綺麗に払って、連れて帰ろうと主張するのであった。
 お島はその問題には、なるべく触れないようにして、父親の酒の酌をしたり、夕飯の給仕をしたりすると、奥の部屋に寝転んでいる浜屋の主人のところへ来て、自分の身のうえについて、密談に※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1-85-32に包摂、109-4]を移していたが、お島を返すとも返さぬとも決しかねて、夜になってしまった。
「人の妾なぞ私死んだって出来やしない。そんな事を聴したら、あの堅気な人が何を言って怒るかしれやしない」
 浜屋が自分で、直に父親に話をして、当分のうちどこかに囲っておこうと言出したときに、お島はそれを拒んで言った。そうすれば、精米所の主人に、内密で金を出してもらって、T――市の方で、何かお島にできるような商売をさせようと云うのが、浜屋の考えつめた果の言条であった。春の頃から、東京から取寄せた薬が利きだしたといって、この頃いくらか好い方へ向いて来たところから、近いうち戻って来ることになっている嫁のことをも、彼は考えない訳に行かなかった。そしてそれが一層男の方へお島の心を粘つかせていった。
 奥まった小さい部屋から、二人の話声が、夜更までぼそぼそ聞えていた。
 その夜なかから降り出した雨が、暁になるとからりと霽あがった。そしてお島が起出した頃には、父親はもうきちんと着物を着て、今にも立ちそうな顔をして、莨をふかしていた。

     五十九

 お島が腫ぼったいような目をして、父親の朝飯の給仕に坐ったのは、大分たってからであった。明放した部屋には、朝間の寒い風が吹通って、田圃の方から、ころころころころと啼く蛙の声が聞えていた。
「今日は雨ですよ。とても帰れやしませんよ」お島は縁の端へ出て、水分の多い曇空を眺めながら呟いた。
「さあ、どういう風になっているんですかね、私にもさっぱりわからないんですよ。多分お金なんか可いんでしょう」
 ここに五十両もって来ているから、それで大概借金の方は片着く意だからといって、父親が胴巻から金を出したとき、お島は空※[#「※」は「りっしんべん」に「兄」、第3水準1-84-45、110-8]けた顔をして言った。
「それじゃ御父さん恁うしましょう。私も長いあいだ世話になった家ですから、これから忙しくなろうと云うところを見込んで、帰って行くのも義理が悪いから、六月一杯だけいて、遅くともお盆には帰りましょう」
 お島はそうも言って、父親を宥め帰そうと努めたが、こんな所に長くいては、どうせ碌なことにはならないからと言張って、やっぱり肯かなかった。田舎へ流れていっている娘について、近所で立っている色々の風聞が、父親の耳へも伝わっていた。
「立つにしたって、浜屋へもちょっと寄らなくちゃならないし、精米所だって顔を出さないで行くわけにいきやしませんよ。私だって髪の一つも結わなくちゃ……」お島は腹立しそうに終にそこを立っていったが、父親も到頭職人らしい若い時分の気象を出して、娘の体を牽着けておく風の悪い田舎の奴等が無法だといって怒りだした。
「お前と己とじゃ話のかたがつかねえ。誰でもいいから、話のわかるものを此処へ呼んできねえ」
 父親は高い声をして言出した。
 廊下をうろうろしていたお島の姿が、やがて浴場の方に現われた。
 お島は目に一杯涙をためて、鏡の前に立っていたが、硝子戸をすかしてみると、今起きて出たばかりの男の白い顔が、湯気のもやもやした広い浴槽のなかに見られた。
「弱っちまうね、御父さんの頑固にも……」お島はそこへ顔を出して、溜息を吐いた。
「何といったって駄目だもの」
 どうしようと云う話もきまらずに、そこに二人は暫く立話をしていたが、するうち※[#「※」は、「日」の下に、「咎」の「人」を「卜」に替えたものを置いた形、第3水準1-85-32に包摂、111-8]が段々移っていった。
 浜屋が湯からあがった時分には、お島の姿はもう家のどの部屋にも見られなかった。
 町を離れて、山の方へお島は一人でふらふら登って行った。山はどこも彼処も咽かえるような若葉が鬱蒼としていた。痩せた菜花の咲いているところがあったり、赭土の多い禿山の蔭に、瀬戸物を焼いている竈の煙が、ほのぼのと立昇っていたりした。お島は静かなその山のなかへ、ぐんぐん入っていった。誰の目にも触れたくはなかった。どこか人迹のたえたところで、思うさま泣いてみたいと思った。

     六十

 山の方へ入って行くお島の姿を見たという人のあるのを頼りに、方々捜しあるいた末に、或松山へ登って行った浜屋と父親との目に、猟師に追詰められた兎か何ぞのように、山裾の谿川の岸の草原に跪坐んでいる、彼女の姿の発見されたのは、それから大分たってからであった。
 赤い山躑躅などの咲いた、その崖の下には、迅い水の瀬が、ごろごろ転がっている石や岩に砕けて、水沫を散しながら流れていた。危い丸木橋が両側の巌鼻に架渡されてあった。お島はどこか自分の死を想像させるような場所を覗いてみたいような、悪戯な誘惑に唆られて、そこへ降りて行ったのであったが、流れの音や、四下の静さが、次第に牾しいような彼女の心をなだめて行った。
 人の声がしたので、跳あがるように身を起したお島の目に、松の枝葉を分けながら、山を降りて来る二人の姿がふと映った。お島は可恥しさに体が慄然と立悚むようであった。
 お島は二人の間に挟まれて、やがて細い崖道を降りて行ったが、目が時々涙に曇って、足下が見えなくなった。
 父親に引立てられて、お島が車に乗って、山間のこの温泉場を離れたのは、もう十時頃であった。石高な道に、車輪の音が高く響いて、長いあいだ耳についていた町の流れが、高原の平地へ出て来るにつれて、次第に遠ざかって行った。
 夏時に氾濫する水の迹の凄いような河原を渉ると、しばらく忘れていたS――町のさまが、直にお島の目に入って来た。見覚えのある場末の鍛冶屋や桶屋が、二三月前の自分の生活を懐かしく想出させた。軒の低い家のなかには、そっちこっちに白い繭の盛られてあるのが目についた。諸方から入込んでいる繭買いの姿が、めっきり夏めいて来た町に、景気をつけていた。
 お島は浜屋で父親に昼飯の給仕をすると、碌々男と口を利くひまもなく、直に停車場の方へ向ったが、主人も裏通りの方から見送りに来た。
「帰ってみて、もし行くところがなくて困るような時には、いつでも遣って来るさ」浜屋は切符をわたすとき、お島に私語いた。
 停車場では、鞄や風呂敷包をさげた繭商人の姿が多く目に立った。汽車に乗ってからも、それらの人の繭や生糸の話で、持切りであった。窓から頭を出しているお島の曇った目に、鳥打をかぶって畔伝いに、町の裏通りへ入って行く浜屋の姿が、いつまでも見えた。汽車の進行につれて、S――町や、山の温泉場の姿が、段々彼女の頭脳に遠のいて行った。深い杉木立や、暗い森林が目の前に拡がって来た。ゆさゆさと風にゆられる若葉が、蒼い影をお島の顔に投げた。
 自分を窘める好い材料を得たかのように、帰りを待ちもうけている母親の顔が、憶い出されて来た。お島はそれを避けるような、自分の落つき場所を考えて見たりした。

     六十一

 汽車が武蔵の平野へ降りてくるにつれて、しっとりした空気や、広々と夷かな田畠や矮林が、水から離れていた魚族の水に返されたような安易を感じさせたが、東京が近くにつれて、汽車の駐まる駅々に、お島は自分の生命を縮められるような苦しさを感じた。
「このまま自分の生家へも、姉の家へも寄りついて行きたくはない」お島は独りでそれを考えていた。
「何等かの運を自分の手で切拓くまでは、植源や鶴さんや、以前の都ての知合にも顔を合したくない」と、お島はそうも思いつめた。
 王子の停車場へついたのは、もう晩方であったが、お島は引摺られて行くような暗い心持で、やっぱり父親の迹へついて行った。静かな町にはもう明がついて、山国に居なれた彼女の目には、何を見ても潤いと懐かしみとがあるように感ぜられた。
 父親が、温泉場で目っけて根ぐるみ新聞に包んで持って来た石楠花や、土地名物の羊羹などを提げて、家へ入って行ったとき、姉も自分の帰りを待うけてでもいたように、母親と一緒に茶の間にいた。もう三つになったその子供が歩き出しているのが、お島の目についた。
「へえ、暫く見ないまにもうこんなになったの」お島は無造作に挨拶をすますと、自分の傷ついた心の寄りつき場をでも見つけたように、いきなりその子供を膝に抱取った。
「寅坊、このおばちゃんを覚えているかい。お前を可愛がったおばちゃんだよ」
 羊羹の片を持たされた子供は、直にお島に懐いた。
「何て色が黒くなったんだろう」姉はお島の山やけのした顔を眺めながら、可笑そうに言った。お島の様子の田舎じみて来たことが、鈍い姉にも住んでいた町のさまを想像させずにはおかなかった。
「一口に田舎々々と非すけれど、それあ好いところだよ」お島はわざと元気らしい調子で言出した。
「だって山のなかで、為方のないところだというじゃないか」
「私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ」
「島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ」
「嘘ですよ」お島は鼻で笑って、「こっちじゃ私のことを何とこそ言ってるか知れたもんじゃありゃしない。困って酌婦でもしていると思ってたでしょう。これでも町じゃ私も信用があったからね、土地に居つくつもりなら、商売の金主をしてくれる人もあったのさ」
「へえ、そんな人がついたの」

     六十二

 山の夢に浸っているようなお島は、直に邪慳な母親のために刺戟されずにはいなかった。以前から善く聴きなれている「業突張」とか「穀潰し」とかいうような辞が、彼女のただれた心の創のうえに、また新しい痛みを与えた。
 お島が下谷の方に独身で暮している、父親の従姉にあたる伯母のところに、暫く体をあずけることになったのは、その夏も、もう盆過ぎであった。素は或由緒のある剣客の思いものであったその伯母は、時代がかわってから、さる宮家の御者などに取立られていた良人が、悪い酒癖のために職を罷められて間もなく死んでしまった後は、一人の娘とともに、少ばかり習いこんであった三味線を、近所の娘達に教えなどして暮していたが、今は商売をしている娘の時々の仕送りと、人の賃仕事などで、漸う生きている身の上であった。
 昔しを憶いだすごとに、時々口にすることのある酒が、萎えつかれた脈管にまわってくると、爪弾で端唄を口吟みなどする三味線が、火鉢の側の壁にまだ懸っていた。良人であったその剣客の肖像も、煤けたまま梁のうえに掲っていた。
 お島は養家を出てから、一二度ここへも顔出しをしたことがあったが、年を取っても身だしなみを忘れぬ伯母の容態などが、荒く育ってきた彼女には厭味に思われた。色の白そうな、口髭や眉や額の生際のくっきりと美しいその良人の礼服姿で撮った肖像が、その家には不似合らしくも思えた。
「伯母さんの旦那は、こんなお上品な人だったんですかね」
 お島は不思議そうにその前へ立って笑った。その良人が、若いおりには、或大名のお抱えであったりした因縁から、桜田の不意の出来事当時の模様を、この伯母さんは、お島に話して聞かせたりした。子供をつれて浅草へ遊びに行ったとき、子供が荷物に突当ったところから、天秤棒を振あげて向って来る甘酒屋を、群衆の前に取って投げて、へたばらしたという話なども、お島には芝居の舞台か何ぞのように、その時のさまを想像させるに過ぎなかった。
「この伯母さんも、旦那のことが忘れられないでいるんだ」
 伯母と一緒に暮すことになってから、お島は段々彼女の心持に、同感できるような気がして来た。
「やっぱり男で苦労した若い時代が忘れられないでいるんだ」
 お島はそうも思った。
 そんなに好いものも縫えなかった伯母の身のまわりには、それでも仕事が絶えなかった。中には芸者屋のものらしい派手なものもあった。
 その手助に坐っているお島は、仕事がいけぞんざいだと云って、どうかすると物差で伯母に手を打たれたりした。
 重に気のはらない、急ぎの仕事にお島は重宝がられた。

     六十三

 客から註文のセルやネルの単衣物の仕立などを、ちょいちょい頼みに来て、伯母と親しくしていたところから、時にはお島の坐っている裁物板の側へも来て、寝そべって戯談を言合ったりしていた小野田と云う若い裁縫師と一緒に、お島が始めて自分自身の心と力を打籠めて働けるような仕事に取着こうと思い立ったのは、その頃初まった外国との戦争が、忙しいそれ等の人々の手に、色々の仕事を供給している最中であった。
 自分の仕事に思うさま働いてみたい――奴隷のようなこれまでの境界に、盲動と屈従とを強いられて来た彼女の心に、そうした欲望の目覚めて来たのは、一度山から出て来て、お島をたずねてくれた浜屋の主人と別れた頃からであった。
 東京へ帰ってからのお島から、時々葉書などを受取っていた浜屋の主人は、菊の花の咲く時分に、ふいと出て来てお島のところを尋ねあてて来たのであったが、二日三日逗留している間に、お島は浅草や芝居や寄席へ一緒に遊びに行ったり、上野近くに取っていたその宿へ寄って見たりした。
 浜屋は近頃、以前のように帳場に坐ってばかりもいられなかった。そして鉱山の売買などに手を出していたところから、近まわりを其方こっち旅をしたりして暮していたが、東京へ来たのもそんな仕事の用事であった。
「気を長くして待っていておくれ。そのうち一つ当れば、お島さんだってそのままにしておきゃしない」
 彼は今でもお島をT――市の方へつれていって、そこで何等かの水商売をさせて、囲っておく気でいるらしかった。
「今更あの山のなかへなぞ行って暮せるもんですか。お妾さんなんか厭なこった」お島はそう言って笑って別れたのであった。
 男は少しばかりの小遣をくれて、停車場まで送ってくれた女に、冬にはまた出て来る機会のあることを約束して、立っていった。
 東京で思いがけなく男に逢えたお島は、二三日の放肆な遊びに疲れた頭脳に、浜屋のことと、若い裁縫師のこととを、一緒に考えながら、ぼんやり停車場を出て来た。

     六十四

「どうです、こんな仕事を少し助けてくれられないでしょうか」と、小野田がそう言って、持って来てくれた仕事は、これから寒さに向って来る戦地の軍隊に着せるような物ばかりであった。
 それまで仕売物ばかり拵えている或工場に働いていた小野田は、そんな仕事が仲間の手に溢れるようになってから、それを請負うことになった工場の註文を自分にも仕上げ、方々人にも頼んであるいた。
「仕事はいっくらでも出ます。引受けきれないほどあります」
 小野田はお島がやってみることになった、毛布の方の仕事を背負いこんで来ると、そう言ってその遣方を彼女に教えて行った。
 毛布というのは兵士が頭から着る柿色の防寒外套であった。女の手に出来るようなその纏めに最初働いていたお島は、縫あがった毛布にホックや釦をつけたり、穴かがりをしたりすることに敏捷な指頭を慣した。「これのまとめ[#「まとめ」に傍点]が一つで十三銭ずつです」小野田がそう云って配っていった仕事を、お島は普通の女の四倍も五倍もの十四五枚を一日で仕上げた。
 手ばしこく針を動かしているお島の傍へ来て、忙しいなかを出来上りの納ものを取りに来た小野田はこくりこくりと居睡をしていた。
 平気で日に二円ばかりの働きをするお島の帯のあいだの財布のなかには、いつも自分の指頭から産出した金がざくざくしていた。
「こんな女を情婦にもっていれば、小遣に不自由するようなことはありませんな」
 小野田は眠からさめると、せっせと穴かがりをやっている手の働きを眺めながら、そう言ってお島の働きぶりに舌を捲いていた。
「どうです、私を情婦にもってみちゃ」お島は笑いながら言った。
「結構ですな」
 小野田はそう言いながら、品物を受取って、自転車で帰っていった。
 ホックづけや穴かがりが、お島には慣れてくると段々間弛っこくて為方がなくなって来た。
 年の暮には、お島はそれらの仕事を請負っている小野田の傭われ先の工場で、ミシン台に坐ることを覚えていた。むずかしい将校服などにも、綺麗にミシンをかけることが出来てきた。
「訳あないや、こんなもの、男は意気地がないね」
 お島はのろのろしている、仲間を笑った。
 車につんで、溜池の方にある被服廠の下請をしている役所へ搬びこまれて行く、それらの納めものが、気むずかしい役員等のために非をつけられて、素直に納まらないようなことがざら[#「ざら」に傍点]にあった。
「こんなものが納まらなくちゃ為方がないじゃありませんか」
 男達に代って、それらの納めものを持って行くことになったとき、お島はそう言って、ミシンが利いていないとか、服地が粗悪だとか、何だかんだといって、品物を突返そうとする役員をよく丸め込んだ。
 お島のおしゃべりで、品物が何の苦もなく通過した。

     六十五

 お島が自分だけで、どうかしてこの商売に取着いて行きたいとの望みを抱きはじめたのは、彼女が一日工場でミシンや裁板の前などに坐って、一円二円の仕事に働くよりも、註文取や得意まわりに、頭脳を働かす方に、より以上の興味を感じだしてからであった。
「被服も随分扱ったが、女の洋服屋ってのは、ついぞ見たことがないね」
 ちょいちょい納品を持って行くうちに、直に昵近になった被服廠の役員たちが、そう云って、てきぱきした彼女の商いぶりを讃めてくれた辞が、自分にそうした才能のある事をお島に考えさせた。
「洋服屋なら女の私にだってやれそうだね」
 仕事の途絶えたおりおりに、家の方にいるお島のところへ遊びに来る小野田に、お島がその事を言出したのは、今までその働きぶりに目を注いでいる小野田に取っては、自分の手で、彼女を物にしてみようと云う彼の企てが、巧く壺にはまって来たようなものであった。
「遣ってやれんこともないね」感じが鈍いのか、腹が太いのか解らないような小野田は、にやにやしながら呟いた。名古屋の方で、二十歳頃まで年季を入れていたこの男は、もう三十に近い年輩であった。上向になった大きな鼻頭と、出張った頬骨とが、彼の顔に滑稽の相を与えていたが、脊が高いのと髪の毛が美しいのとで、洋服を着たときの彼ののっしりした厳い姿が、どうかするとお島に頼もしいような心を抱かしめた。
「私のこれまで出逢ったどの男よりも、お前さんは男振が悪いよ」お島はのっそりした無口の彼を前において、時々遠慮のない口を利いた。
「むむ」小野田はただ笑っているきりであった。
「だけどお前さんは洋服屋さんのようじゃない。よくそんな風をしたお役人があるじゃないか」
 しなくなした前垂がけの鶴さんや、蝋細工のように唯美しいだけの浜屋の若主人に物足りなかったお島の心が、小野田のそうした風采に段々惹着けられて行った。
「工場から引っこぬいて、これを自分の手で男にしてみよう」
 薄野呂か何ぞのような眠たげな顔をして、いつ話のはずむと云うこともない小野田と親しくなるにつれて、不思議な意地と愛着とがお島に起って来た。
「洋服屋も好い商売だが、やっぱり資本がなくちゃ駄目だよ。金の寝る商売だからね」小野田はお島に話した。
「資本があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、些とした店で、どのくらいかかるのさ」
「店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、生やさしい金じゃとても駄目だね」

     六十六

 芝の方で、適当な或小い家が見つかって、そこで小野田と二人で、お島がこれこそと見込んだ商売に取着きはじめたのは、十二月も余程押迫って来てからであった。
 そうなるまでに、お島は幾度生家の方へ資金の融通を頼みに行ったか知れなかった。小いところから仕上げて大きくなって行った、大店の成功談などに刺戟されると、彼女はどうでも恁でもそれに取着かなくてはならないように心が焦だって来た。町を通るごとに、どれもこれも相当に行き立っているらしい大きい小いそれらの店が、お島の腕をむずむずさせた。見たところ派手でハイカラで儲の荒いらしいその商売が、一番自分の気分に適っているように思えた。
「田町の方に、こんな家があるんですがね」
 お島はもと郵便局であった、間口二間に、奥行三間ほどの貸家を目っけてくると、早速小野田に逢ってその話をした。金をかけて少しばかり手入をすれば、物に成りそうに思えた。
「取着には持ってこいの家だがね」
 持主が、隣の酒屋だと云うその家が、小野田にも望みがありそうに思えた。
「あすこなら、物の百円とかけないで、手頃な店が出来そうだね。それに家賃は安いし、大家の電話は借りられるし」
 幾度足を運んでも、母親が頑張って金を出してくれない生家から、鶴さんと別れたとき搬びこんで来たままになっている自分の箪笥や鏡台や着物などを、漸とのことで持出して来たとき、お島は小野田や自分の手で、着物の目星しいものをそっち此方売ってあるいた。
 もと大秀の兄弟分であった大工が愛宕下の方にいることを、思いだして、それに店の手入を頼んでから、郵便局に使われていた古いその家の店が、急に土間に床が拵えられたり、天井に紙が張られたり、棚が作られたりした。一畳三十銭ばかりの安畳が、どこかの古道具屋から持運ばれたりした。
 雨降がつづいて、木片や鋸屑の散らかった土間のじめじめしているようなその店へ、二人は移りこんで行った。
 陳列棚などに思わぬ金がかかって、店が全く洋服屋の体裁を具えるようになるまでに、昼間お島の帯のあいだに仕舞われてある財布が、二度も三度も空になった。大工が道具箱を隅の方に寄せて、帰って行ってから、お島はまたあわただしく箪笥の抽斗から取出した着物の包をかかえて、裏から私と出て行った。
 外はもう年暮の景色であった。赤い旗や紅提灯に景気をつけはじめた忙しい町のなかを、お島は込合う電車に乗って、伯母の近所の質屋の方へと心が急かれた。

     六十七

 ミシンや裁台などの据えつけに、それでも尚足りない分を、お島の顔で漸と工面ができたところで、二人の渡り職人と小僧とを傭い入れると、直に小野田が被服廠の下請からもらって来た仕事に働きはじめた。
「大晦日にはどんな事があってもお返しするんですがね。仕事は山ほどあって、面白いほど儲かるんですから」
 お島はそう言ってそのミシンや裁板を買入れるために、小野田の差金で伯母の関係から知合いになった或る衣裳持の女から、品物で借りて漸と調えることのできた際どい金を、彼女は途中で目についた柱時計や、掛額などがほしくなると、ふと手を着けたりした。
「みんな店のためです。商売の資本になるんです」
 お島は小野田に文句を言われると、悧巧ぶって応えた。
 まだ自分の店に坐った経験のない小野田の目にも、そうして出来あがった店のさまが物珍しく眺められた。
「うんと働いておくれ。今にお金ができると、お前さんたちだって、私が放抛っておきやしないよ」
 お島はそう言って、のろのろしている職人に声をかけたが、夜おそくまで廻っているミシンの響や、アイロンの音が、自分の腕一つで動いていると思うと、お島は限りない歓喜と矜とを感じずにはいられなかった。
 劇しい仕事のなかに、朝から薄ら眠いような顔をしている乱次のない小野田の姿が、時々お島の目についた。
「ちッ、厭になっちまうね」
 お島は針の手を休めて、裁板の前にうとうとと居睡をはじめている、彼の顔を眺めて呟いた。
「どうしてでしょう。こんな病気があるんだろうか」
 職人がくすくす笑出した。
「そんなこって善く年季が勤まったと思うね」
「莫迦いえ」小野田は性がついて来ると、また手を働かしはじめた。
 色々なものの支払いのたまっている、大晦日が直に来た。品物でかりた知合の借金に店賃、ミシンの月賦や質の利子もあった。払いのこしてあった大工の賃銀のことも考えなければならなかった。
「こんなことじゃとても追着きこはありゃしない」お島は暮に受取るべき賃銀を、胸算用で見積ってみたとき、そう言って火鉢の前に腕をくんで考えこんだ。
「もっともっと稼がなくちゃ」お島はそう言って気をあせった。

     六十八

 大晦日が来るまでに、二時になっても三時になっても、皆が疲れた手を休めないような日が、三日も四日も続いた。
 夜が更けるにつれて、表通りの売出しの楽隊の囃しが、途絶えてはまた気懈そうに聞えて来た。門飾の笹竹が、がさがさと憊れた神経に刺さるような音を立て、風の向で時々耳に立つ遠くの町の群衆の跫音が、潮でも寄せて来るように思い做された。
 職人達の口に、嗄れ疲れた話声が途絶えると、寝不足のついて廻っているようなお島の重い頭脳が、時々ふらふらして来たりした。がたんと言うアイロンの粗雑な響が、絶えず裁板のうえに落ちた。ミシンがまた歯の浮くような騒々しさで運転しはじめた。
「この人到頭寝てしまったよ」
 寒さ凌ぎに今までちびちび飲んでいた小野田が、いつの間にかそこに体を縮めて、ごろ[#「ごろ」に傍点]寝をしはじめていた。
「今日は幾日だと思っているのだい」
「上さんは感心に目の堅い方ですね」職人がそれに続いてまた口を利いた。
「私は二日や三日寝ないだって平気なもんさ」
 お島は元気らしく応えた。
 晦日の夜おそく、仕上げただけの物を、小僧にも脊負わせ、自分にも脊負って、勘定を受取って来たところで、漸と大家や外の小口を三四軒片着けたり、職人の手間賃を内金に半分ほども渡したりすると、残りは何程もなかった。
「宅じゃこういう騒ぎなんです」
 品物を借りてある女が、様子を見に来たとき、お島は振顧きもしないで言った。
 店には仕事が散かり放題に散かっていた。熨斗餅が隅の方におかれたり、牛蒡締や輪飾が束ねられてあったりした。
「貴女の方は大口だから、今夜は勘弁してもらいましょうよ」
 お島はわざと嵩にかかるような調子で言った。
 小野田に嫁の世話を頼まれて、伯母がこれをと心がけていたその女は、言にくそうにして、職人の働きぶりに目を注いでいた。女は居辛かった田舎の嫁入先を逃げて来て、東京で間借をして暮していた。着替や頭髪の物などと一緒に持っていた幾許かの金も、二三月の東京見物や、月々の生活費に使ってしまってから、手が利くところから仕立物などをして、小遣を稼いでいた。二三度逢ううち直にお島はこの女を古い友達のようにして了った。
「まあ宅へ来て年越でもなさいよ」お島は女に言った。
 女は惘れたような顔をして、火鉢の傍で小野田と差向いに坐っていたが、間もなく黙って帰って行った。
「いくらお辞儀が嫌いだって、あんなこと言っちゃ可けねえ」後で小野田がはらはらしたように言出した。
「ああでも言って逐攘わなくちゃ、遣切れやしないじゃないか」お島は顫えるような声で言った。
「不人情で言うんじゃないんだよ。今に恩返しをする時もあるだろうと思うからさ」

     六十九

 同じような仕事の続いて出ていた三月ばかりは、それでもまだどうか恁かやって行けたが、月が四月へ入って、ミシンの音が途絶えがちになってしまってからは、お島が取かかった自分の仕事の興味が、段々裏切られて来た。職人の手間を差引くと、幾許も残らないような苦しい三十日が、二月も三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた小い借金が殖えて行ったりした。
「これじゃ全然私達が職人のために働いてやっているようなものです」お島は遣切のつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中忙しかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。
 近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の空瓶にもう八重桜が生かっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も立退の請求を受けた。
「洋服屋って、皆なこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った」
 終に工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、店頭へ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている暢気そうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を強いて抑えるようにして笑いかけた。
「何に、そうでもないよ」
 小野田は顔を顰めながら、仕事道具の饅頭を枕に寝そべって、気の長そうな応答をしていた。
 お島はのろくさいその居眠姿が癪にさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような木片を取って、縮毛のいじいじした小野田の頭顱へ投つけないではいられなかった。
「こののろま野郎!」
 お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の頬桁を、厚い平手で打返さないではおかない小野田に喰ってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。
 殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に湧返っていた。
 暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は真蒼になって上って行った。
「あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の見損いです」お島は泣きながら話した。
「どうかして一人前の人間にしてやろうと思って、方々駈ずりまわって、金をこしらえて店を持ったり何かしたのが、私の見込ちがいだったのです」
 お島は口惜しそうにぼろぼろ涙を流しながら言った。
「どうしても私は別れます。あの男と一緒にいたのでは、私の女が立ちません」
 荒い歔欷が、いつまで経っても遏まなかった。

     七十

「どうなすったね」
 脇目もふらずに、一日仕事にばかり坐っている沈みがちなその女は、惘れたような顔をして、お島が少し落着きかけて来たとき、言出した。
「貴女はよく稼ぐというじゃないかね。どうしてそう困るね」
「私がいくら稼いだって駄目です。私はこれまで惰けるなどと云われたことのない女です」お島は涙を拭きながら言った。
「洋服屋というものは、大変儲かる商売だということだけれど……二人で稼いだら楽にやって行けそうなものじゃないかね」女はやっぱり仕事から全く心を離さずに笑っていた。
「それが駄目なんです。あの男に悪い病気があるんです。私は行ろうと思ったら、どんな事があっても遣通そうって云う気象ですから、のろのろしている名古屋ものなぞと、気のあう筈がないんです」
「そんな人とどうして一緒になったね」女はねちねちした調子で言った。
 お島は「ふむ」と笑って、泣顔を背向けたが、この女には、自分の気分がわかりそうにも思えなかった。
「でも東京というところは、気楽な処じゃないかね。私等姑さんと気が合わなんだで、恁して別れて東京へ出て来たけれど、随分辛い辛抱もして来ましたよ。今じゃ独身の方が気楽で大変好いわね。御亭主なんぞ一生持つまいと思っているわね」
「何を言っているんだ」と云うような顔をして、お島は碌々それには耳も仮さなかった。そしてやっぱり自分一人のことに思い耽っていた。時々胸からせぐりあげて来る涙を、強いて圧つけようとしたが、どん底から衝動げて来るような悲痛な念が、留どもなく波だって来て為方がなかった。どこへ廻っても、誤り虐げられて来たような自分が、可憐くて情なかった。
 小野田がのそりと入って来たときも、静に針を動かしている女の傍に、お島は坐っていた。どんよりした目には、こびり着いたような涙がまだたまっていた。
「何だ、そんな顔をして。だから己が言うじゃないか、どんな商売だって、一年や二年で物になる気遣はないんだから、家のことはかまわないで、お前はお前で働けばいいと」
 小野田はそこへ胡坐をくむと、袂から莨を出してふかしはじめた。
「被服の下請なんか、割があわないからもう断然止めだ。そして明朝から註文取におあるきなさい」
 お島は「ふむ」と鼻であしらっていたが、女の註文取という小野田の思いつきに、心が動かずにはいなかった。
「そしてお前には外で活動してもらって、己は内をやる。そうしたら或は成立って行くかも知れない」
「こんな身装で、外へなんか出られるもんか」お島ははねつけていたが、誰もしたことのないその仕事が、何よりも先ず自分には愉快そうに思えた。
 帰るときには、お島のいらいらした感情が、すっかり和められていた。そして明日から又初めての仕事に働くと云うことが、何かなし彼女の矜を唆った。
「こうしてはいられない」
 彼女の心にはまた新しい弾力が与えられた。

     七十一

 晩春から夏へかけて、それでもお島が二着三着と受けて来た仕事に、多少の景気を添えていたその店も、七、八、九の三月にわたっては、金にならない直しものが偶に出るくらいで、ミシンの廻転が幾どもばったり止ってしまった。
 最初お島が仲間うちの店から借りて来たサンプルを持って、註文を引出しに行ったのは、生家の居周にある昔からの知合の家などであったが、受けて来る仕事は、大抵詰襟の労働服か、自転車乗の半窄袴ぐらいのものであった。それでもお島の試された如才ない調子が、そんな仕事に適していることを証すに十分であった。
 サンプルをさげて出歩いていると、男のなかに交って、地を取決めたり、値段の掛引をしたり、尺を取ったりするあいだ、お島は自分の浸っているこの頃の苦しい生活を忘れて、浮々した調子で、笑談やお世辞が何の苦もなく言えるのが、待設けない彼女の興味をそそった。
 煙突の多い王子のある会社などでは、応接室へ多勢集って来て、面白そうに彼女の周囲を取捲いたりした。
「もし好かったら、どしどし註文を出そう」
 その中の一人はそう言って、彼女を引立てるような意志をさえ漏した。
「そう一時に出ましても、手前どもではまだ資本がございませんから」
 お島はその会社のものを、自分の口一つで一手に引受けることが何の雑作もなさそうに思えたが、引受けただけの仕事の材料の仕込にすら差閊えていることを考えずにはいられなかった。
 註文が出るに従って、材料の仕込に酷工面をして追着かないような手づまりが、時々好い顧客を逃したりした。
「ええ、可しゅうございますとも、外さまではございませんから」
 品物を納めに行ったとき、客から金の猶予を言出されると、お島は悪い顔もできずに、調子よく引受けたが、それを帰って、後の仕入の金を待設けている小野田に、報告するのが切なかった。それでまた外の顧客先へ廻って、懈い不安な時間を紛らせていなければならなかった。
「堅い人だがね、どうしてくれなかったろう」
 お島は小野田の失望したような顔を見るのが厭さに、小野田がいつか手本を示したように、私と直しものの客の二重廻しなどを風呂敷に裹みはじめた。
「どうせ冬まで寝しておくものだ」お島は心の奥底に淀んでいるような不安と恐怖を圧しつけるようにして言った。そしてこの頃昵みになった家へ、それを抱こんで行った。
 一日外をあるいているお島は、夜になるとぐっすり寝込んだ。昼間居眠をしておる男の体が、時々夢現のような彼女の疲れた心に、重苦しい圧迫を感ぜしめた。

     七十二

 それからそれへと、段々展げて行った遠い顧客先まわりをして、どうかすると、夜遅くまで帰って来ないお島には解らないような、苦しい遣繰が持切れなくなって来たとき、小野田の計画で到頭そこを引払って、月島の方へ移って行ったのは、その冬の初めであった。
 造作を売った二百円弱の金が、その時小野田の手にあった。細々した近所の買がかりに支払をした残りで、彼はまた新しく仕事に取着く方針を案出して、そこに安い家を見つけて、移って行ったのであったが、意いのほか金が散かったり品物が掛になったりして、資本の運転が止ったところで、去年よりも一層不安な年の暮が、直にまた二人を見舞って来た。
 荒いコートに派手な頸捲をして、毎日のように朝夙くから出歩いているお島が、掛先から空手でぼんやりして帰って来るような日が、幾日も続いた。
 仕事の途絶えがちな――偶に有っても賃銀のきちんきちんと貰えないような仕事に働くことに倦んで来た若い職人は、好い口を捜すために、一日店をあけていた。
 病気のために、中途戦争から帰って来たその職人は、軍隊では上官に可愛がられて上等兵に取立てられていたが、久振で内地へ帰ってくると、職人気質の初めのような真面目さがなくなって、持って来た幾許かの金で、茶屋酒を飲んだり、女に耽ったりして、金に詰って来たために、もと居た店の物をこかしたり、友達の着物を持逃したりして居所がなくなったところから、小野田の店へ流れて来たのであったが、その時にはもうすっかりさめてしまって、旧の小心な臆病ものの自分になり切っていた。
 来た当座、針を動かしている彼は時々巡査の影を見て怕れおののいていた。そしてどんな事があっても、一切日の面へ出ることなしに、家にばかり閉籠っていた。彼は救われたお島のために、家のなかではどんな用事にも働いたが、昼間外へ出ることとなると、釦一つ買いにすら行けなかった。点呼にも彼は居所を晦ましていて出て行く機会を失った。それが一層彼の心を萎縮させた。
 今朝も彼は朝飯のとき、奥での夫婦の争いを、蒲団のなかで聴いていながら、臆病な神経を戦かせていた。最初その争いは多分夫婦間独自の衝突であったらしく思えたが、この頃の行詰った生活問題にも繋っていた。
「私はこうみえても動物じゃないんだよ。そうそう外も内も勤めきれんからね」
 お島はこの頃よく口にするお株を、また初めていた。
 誰があの職人を今まで引留めておいたかと言うことが、二人の争いとなった。
「お前さんさえ働けば、家なんざ小僧だけで沢山なんだ」飽っぽいようなお島が言出していた。どんな事があっても、三人でこの店を守立ててみせると力んでいた彼女が、どんな不人情な心を持っているかとさえ疑われた。

     七十三

 二日ばかり捜しあるいた口が、どこにも見つからなかったのに落胆した彼が、日の暮方に疲れて渡場の方から帰って来たとき、家のなかは其処らじゅう水だらけになっていた。
 以前友達の物を持逃したりなどしたために、警察へ突出そうとまで憤っている男もあって、急にぐれてしまった自分の悪い噂が、そっちにも此方にも拡がっていることを感づいたほか、何の獲物もなかった彼は、当分またお島のところに置いてもらうつもりで、寒い渡しを渡って、町へ入って来たのであったが、お島の影はどこにも見えずに、主人の小野田が雑巾を持って、水浸しになった茶の間の畳をせっせと拭いていた。
 気の小さい割には、躯の厳丈づくりで、厚手に出来た唇や鼻の大きい銅色の皮膚をした彼は、惘れたような顔をして、障子も襖もびしょびしょした茶の室の入口に突立っていた。
「どうしたんです、私の留守のまに小火でも出たんですか」
「何に、彼奴の悪戯だ。為様のない化物だ」小野田はそう言って笑っていた。
 昨日の晩から頭顱が痛いといってお島はその日一日充血したような目をして寝ていた。髪が総毛立ったようになって、荒い顔の皮膚が巖骨のように硬張っていた。そして時々うんうん唸り声をたてた。
 米や醤油を時買しなければならぬような日が、三日も四日も二人に続いていた。お島は朝から碌々物も食べずに、不思議に今まで助かっていた鶴さん以来の蒲団を被って臥っていた。
 自身に台所をしたり、買いものに出たりしていた小野田には、女手のない家か何ぞのような勝手元や家のなかの荒れ方が、腹立しく目についたが、それはそれとして、時々苦しげな呻吟の聞える月経時の女の躯が、やっぱり不安であった。
「腰の骨が砕けて行きそうなの」
 お島は傍へ寄って来る小野田の手に、絡みつくようにして、赭く淀み曇んだ目を見据えていた。
 小野田は優しい辞をかけて、腰のあたりを擦ってやったりした。
「私はどこか体を悪くしているね。今までこんな事はなかったんだもの。私の体が人と異っているのかしら、誰でも恁うかしら」お島は小野田に体に触らせながら、この頃になって萌しはじめて来た、自分か小野田かに生理的の欠陥があるのではないかとの疑いを、その時も小野田に訴えた。
 お島は小野田に済まないような気のすることもあったが、この結婚がこんな苦しみを自分の肉体に齎そうとは想いもかけなかった。
 お島は今着ているものの聯想から鶴さんの肉体のことを言出しなどして、小野田を気拙がらせていた。男の体に反抗する女の手が、小野田の火照った頬に落ちた。
 兇暴なお島は、夢中で水道の護謨栓を向けて、男の復讎を防ごうとした。

     七十四

 小野田の怯んだところを見て、外へ飛出したお島は、何処へ往くという目当もなしに、幾箇もの町を突切って、不思議に勢いづいた機械のような足で、ぶらぶら海岸の方へと歩いて行った。
 町幅のだだっ広い、単調で粗雑な長い大通りは、どこを見向いても陰鬱に闃寂していたが、その癖寒い冬の夕暮のあわただしい物音が、荒れた町の底に淀んでいた。燻みきった男女の顔が、そこここの薄暗い店屋に見られた。活気のない顔をして職工がぞろぞろ通ったり、自転車のベルが、海辺の湿っぽい空気を透して、気疎く耳に響いたりした。目に見えないような大道の白い砂が、お島の涙にぬれた目や頬に、どうかすると痛いほど吹つけた。
 お島は死場所でも捜しあるいている宿なし女のように、橋の袂をぶらぶらしていたが、時々欄干にもたれて、争闘に憊れた体に気息をいれながら、ぼんやり彳んでいた。寒い汐風が、蒼い皮膚を刺すように沁透った。
 やがて仄暗い夜の色が、縹渺とした水のうえに這ひろがって来た。そしてそこを離れる頃には、気分の落著いて来たお島は、腰の方にまた劇しい疼痛を感じた。
 暗くなった町を通って、家へ入って行った時、店の入口で見慣れぬ老爺の姿が、お島の目についた。
 お島は一言二言口を利いているうちに、それがつい二三日前に、ふっと引込まれて行くような射倖心が動いて、つい買って見る気になった或賭ものの中った報知であることが解った。
「お上さんは気象が面白いから、きっと中りますぜ」
 暮をどうして越そうかと、気をいらいらさせているお島に、そんな事に明い職人が説勧めてくれた。秘密にそれの周旋をしている家の、近所にあることまで、彼は知っていた。
「厭だよ、私そんなものなんか買うのは……」お島はそう言って最初それを拒んだが、やっぱり誘惑されずにはいなかった。
「そんな事をいわずに、物は試しだから一口買ってごらんなさい、しかし度々は可けません、中ったら一遍こきりでおよしなさい」職人は勧めた。
「何といって買うのさ」
「何だって介意いません。あんたが何処かで見たものとか聞いた事とか……見た夢でもあれば尚面白い」
 それでお島は、昨夜見た竜の夢で、それを買って見ることにしたのであった。
 意いもかけない二百円ばかりの纏まった金を、それでその爺さんが持込んで来てくれたのであった。
 秘密な喜悦が、恐怖に襲われているお島たちの暗い心のうえに拡がって来た。
「何だか気味がわるいようだね」
 爺さんの行ったあとで、お島はその金を神棚へあげて拝みながら、小野田に私語いた。

     七十五

 燈明の赤々と照している下で、お島たちはまるで今までの争いを忘れてしまったように、興奮した目を輝かして坐っていた。何か不思議な運命が、自分の身のうえにあるように、お島は考えていた。暗い頭脳の底から、光が差してくるような気がした。
「ふむ、こう云うこともあるんだね」お島は感激したような声を出した。
「全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね」
「お上さんの気前じゃ、地道なことはとても駄目かも知れませんよ」
「面倒くさい洋服屋なんか罷めて、株でも買った方がいいかも知れないね」
「そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。私は二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった」
 職人は首を項垂れて溜息を吐いた。
「そんな事を言ったって、今更この商売が罷められるものか」小野田は何を言っているかと云う顔をして、呟いた。
 職人はやっぱり深く自分のことに思入っているように、それには耳も仮さなかった。
「私は早晩洋服屋って商売は駄目になると思うね。羅紗屋と裁縫師、その間に洋服屋なんて云う商人とも職工ともつかぬ、不思議な商売の成立を許さない時期が、今にきっと来ると思いますね」
 職人は興奮したような調子で言った。
「どうしてさ」お島は目元に笑って、「この人はまた妙なことを言出したよ」
「だってそうでしょう」職人は誰にもそれが解らないのが不思議のように熱心に、「だからお客は莫迦に高いものを着せられて、職人はお店のために働くということになる。その癖洋服屋は資本が寝ますから、小い店はとても成立って行きやしませんや。これはどうしたって、お客が直接地を買って、裁縫師に仕立を頼むってことにしなくちゃ嘘です」
「ふむ」とお島は首を傾げて聴惚れていた。今まで莫迦にしていたこの男が、何か耳新しい特殊な智識を持っている悧巧者のように思えて来た。
「君は職人だから、自分の都合のいいように考えるんだけれど、実地にはそうは行かないよ」小野田は冷笑った。
「だがこの人は莫迦じゃないね。何だか今に出世をしそうだよ」
 お島はそう言って、神棚から取おろした札束の中から、十円札を一枚持出すと、威勢よく表へ飛出して行った。
「おい、ちょっと己にもう一度見せろよ」小野田はそう言って、札を両手に引張りながら、物欲しそうな目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1-88-85、141-10]った。
「好い気になって余りぱっぱと使うなよ」
 お島が方々札びらを切って、註文して来た酒や天麩羅で、男達はやがて飲はじめた。

     七十六

 そんな噂がいつか町内へ拡がったところから、縁起を祝うために、鈴木組と云う近所の請負師の親分の家で出た註文を、不意に受けたのが縁で、その男の引立で、家が遽に景気づいて来た。
 月島で幅を利していたその請負師の家へ、お島は新調の著物などを着込んで、註文を聞きに行った。寒い雨の降る日で、茶の室の火鉢の側には下に使われている男が仕事を休んで、四五人集っていた。大きな縁起棚の傍には、つい三四日前の酉の市で買って来た熊手などが景気よく飾られて、諸方からの附届けのお歳暮が、山のように積まれてあった。男達のなかには、お島が見知の顔も見受けられた。
「お上さんは莫迦に鉄火な女だっていうから、外套を一つ拵えてもらおうと思うんだが……」
 金歯や指環などをぴかぴかさせて、糸織の褞袍に着脹れている、五十年輩のその親方は、そう言いながら、サンプルを見はじめた。痩ぎすな三十七八の小意気な女が、軟かものを引張って、傍に坐っていた。
「工合がよければ、またちょいちょい好いお客をおれが周旋するよ」
 親分は無造作に註文を決めて了うと、そう言って莨をふかしていた。今まで受けたこともないような河獺の衿つき外套や、臘虎のチョッキなどに、お島は当素法な見積を立てて目の飛出るほどの法外な高値を、何の苦もなく吹きかけたのであった。
「これを一つあなたのような方に召していただいて、是非皆さんに御吹聴して頂きたいのでございます。どういたしましても、親方のようなお顔の売れた方の御贔屓にあずかりませんと、私共の商売は成立って行きませんのでございます」
 男達はみんなお島の弁る顔を見て、面白そうに笑っていた。
「お上さんの家では、お上さんが大層な働きもので、お亭主はぶらぶら遊んでいるというじゃないか」男たちはお島に話しかけた。
「衆さんがそう言って下さいます」お島は赤い顔をして、サンプルを仕舞っていた。
「たまに宅へお見えになるお客がございましても、私がいないと御註文がないと云う始末でございますから。あれじゃお前が一人で切廻す訳だと、お客さまが仰ゃって下さいます」
 お島はそう言って、この商売をはじめた自分の行立を話して、衆を面白がらせながら、二時間も話しこんでいた。
「あの辺でおきき下さいませば、もう誰方でも御存じでございます。滝庄という親分が、以前私の父の兄で、顔を売っていたものですから、ああ云う社会の方が、あの辺ではちょいちょい私のお得意さまでございます」
 帰りがけにお島は、自分のそうした身のうえまで話した。

     七十七

 そんなような仕事が、少しばかり続くあいだ、例の金で身装のできたお島は、暮のせわしいなかを、昼間は顧客まわりをして、夜になると能く小野田と一緒に浮々した気分で、年の市などに景気づいた町を出歩いたり、友達のようになった顧客先の細君連と、芝居へ入ったり浅草辺をぶらついたりして調子づいていたが、それもまたぱったり火の消えたように閑になって、肆まに浪費した金の行方も目にみえずに、物足りないような寂しい日が毎日々々続いた。
 定りだけの仕事をすると、職人は夫婦の外を出歩いているあいだ、この頃ふとした事から思いついた翫具の工夫に頭脳を浸して、飯を食うのも忘れているような事が多かった。
 仕事の断え間になると、彼は昼間でも一心になってそれに耽っていた。時とすると夜夫婦が寝しずまってからも、彼はこつこつ何かやっていた。
「この人は何をしているの」
 隅の方へ入って、ボール紙を切刻んだり、穴を明けたり、絵具をさしたりして、夢中になっている彼の傍へ来て、お島は可笑そうに訊ねた。
「こう云う悪戯をしているんです」
 彼は細く切ったその紙片を、賽の目なりに筋をひいて紙のうえに駢べていながら、振顧きもしないで応えた。
「何だねその切符のようなものは……」
「これですか」木村はやっぱりその方に気を褫られていた。
「これは軍艦ですよ」
「軍艦をどうするの」
「これでもって海軍将棋を拵えようというんです」
「海軍将棋だって? へえ。そしてそれを何にするの」
「高尚な翫具を拵えて、一儲けしようってんですがね……この小いのが水雷艇です」
「へえ、妙なことを考えたんだね。戦争あて込みなんだね」
「まあそうですね。これが当ると、お上さんにもうんと資本を貸しますよ。どうせ私は金の要らない男ですからね」
「はは」と、お島は笑いだした。
「可かったね」
「こればかりじゃないんです」職人はこの頃夜もろくろく眠らずに凝り考えた、色々の考案が頭脳のなかに渦のように描かれていた。新しい仕事の興味が、彼の小さい心臓をわくわくさせていた。
「私ゃ子供の時分から、こんな事が好きだったんですから、この外にまだ幾箇も考えてるんですが、その中には一つ二つ成功するのが急度ありますよ」
「じゃ木村さんは発明家になろうというんだわね。発明家ってどんな豪い人かと思っていたら、木村さんのような人でもやれるような事なら、有難くもないね」
「笑談言っちゃ可けませんよ」
「まあ発明もいいけれど、仕事の方もやって下さいね、どしどし仕事を出しますからね」

     七十八

 お島たちが、寄つく処もなくなって、一人は職人として、一人は註文取として、夫婦で築地の方の或洋服店へ住込むことになったのは、二人が半歳ばかり滞っていた小野田の故郷に近いN――と云う可也繁華な都会から帰ってからであった。
 一月から三月頃へかけて、店が全く支え切れなくなったところで、最初同じ商売に取ついている知人を頼って、上海へ渡って行くつもりで、二人は小野田の故郷の方へ出向いて行ったのであったが、路用や何かの都合で、そこに暫く足を停めているうちに、ついつい引かかって了ったのであった。
 二人が月島の店を引払った頃には、三月ほどかかって案じ出した木村の新案ものも、古くから出ているものに類似品があったり、特許出願の入費がなかったりしたために、孰もこれも持腐れになってしまったのに落胆して、又渡り職人の仲間へ陥ちて行っていた。
 南の方の海に程近いN――市では二人は少しばかり持っている著替などの入った貧しい行李を、小野田の妹の家で釈くことになったが、町には小野田の以前の知合も少くなかった。
 主人が勤人であった妹の家の二階に二三日寝泊りしていた二人は、そこから二里ばかり隔たった村落にいる小野田の父親に遭って、そこから出発するはずであったが、以前住んでいた家や田畑も人の手に渡って、貧しい百姓家の暮しをしている父親の様子を、一度行って見て来た小野田は、見すぼらしげな父親をお島に逢わせるのが心に憚られた。東京に住つけた彼の目には、久しく見なかった惨めな父親の生活が、自分にすら厭わしく思えた。
 逢いさえすれば、路費の出来そうに言っていた父親の家への同行を、お島は二度も三度も迫ってみたが、小野田は不快な顔をして、いつもそれを拒んだ。
 八九年前に、効性ものの妻に死訣れてから、酒飲みの父親は日に日に生活が荒んで行った。妻の働いているうちは、どうか恁か持堪えていた家も、古くから積り積りして来ている負債の形に取られて、彼は細かな小屋のなかに、辛うじて生きていた。
 到頭お島がつれられて行ったときに、彼は麦や空豆の作られた山畑の中に、熱い日に照されて土弄りをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は慄然とするほど厭であった。一緒に行った小野田に対する軽蔑の念が一時に彼女の心を凍らしてしまった。

     七十九

 それでお島は、小野田が自分をつれて来なかった理由が解ったような気がして、父親が本意ながるのも肯かずに、その日のうちにN――市へ引返して来たのであった。自分のこれまでがすっかり男に瞞されていたように思われて、腹立しかったが、小野田が自分達のことをどんな風に父親に話しているかと思うと、擽ったいような滑稽を感じた。
 空濶な平野には、麦や桑が青々と伸びて、泥田をかえしている農夫や馬の姿が、所々に見えた。砂埃の立つ白い路を、二人は鈍い俥に乗って帰って来たが、父親が侑めてくれた濁酒に酔って、俥の上でごくりごくりと眠っている小野田の坊主頸をした大きい頭脳が、お島の目には惨らしく滑稽にみえた。
 この貧しげな在所から入って来ると、着いた当時は鈍くさくて為方のなかった寂しい町の状が、可也賑かで、豊かなもののように見えて来た。大きい洋風の建物が目についたり、東京にもみられないような奥行の深そうな美しい店屋や、洒落た構の料理屋なども、物珍しく眺められた。妹の住っている静な町には、どんな人が生活しているかと思うような、門構の大きな家や庭がそこにも此処にもあった。
 小野田の話によると、父親の財産として、少ばかりの山が、それでもまだ残っていると云うのであった。その山を売りさえすれば、多少の金が手につくというのであった。そしてそうさせるには、二人で機嫌を取って、父親を悦ばせてやらなければならないのである。
「そんな気の長いことを言っていた日には、いつ立てるか解りやしないじゃないか」
 お島はその晩も二階で小野田と言争った。時々他国の書生や勤め人をおいたりなどして、妹夫婦が細い生活の補助にしているその二階からは、町の活動写真のイルミネーションや、劇場の窓の明などが能く見えた。四下には若葉が日に日に繁って、遠い田圃からは、喧しい蛙の声が、物悲しく聞えた。春の支度でやって来た二人には、ここの陽気はもう大分暑かった。小野田はホワイト一枚になって寝転んでいたが、昔住慣れた町で、巧く行きさえすれば、お島と二人でここで面白い暮しができそうに思えた。上海くんだりまで出かけて行くことが、重苦しい彼の心には億劫に想われはじめていた。
「厭なこった、こんな田舎の町なんか、成功したって高が知れている。東京へ帰ったって威張れやしないよ」そう言って拒むお島の空想家じみた頭脳には、ぼろい金儲けの転がっていそうな上海行が、自分に箔をつける一廉の洋行か何ぞのように思われていた。

     八十

 其処をも散々遣散してN――市を引揚げて、どこへ落着く当もなしに、暑い或日の午後に新橋へ入って来たとき、二人の体には、一枚ずつ著けたもののほか何一つすら著いていなかった。
 鼻息の荒いお島たちは、人の気風の温和でそして疑り深いN――市では、どこでも無気味がられて相手にされなかった。一月二月小野田の住込んでいた店では、毎日のように入浸っていたお島は、平和の攪乱者か何ぞのように忌嫌われ、不謹慎な口の利き方や、遣っぱなしな日常生活の不検束さが、妹たち周囲の人々から、女雲助か何かのように憚られた。著いて間もない時分の彼女から、東京風の髪をも結ってもらい、洗濯や針仕事にも働いてもらって、頭髪のものや持物などを、惜気もなげにくれてもらったりしていた妹は、帯や下駄や時々の小遣いの貸借にも、彼女を警戒しなければならないことに気がついた。
「そんなに吝々しなさんなよ、今に儲けてどっさりお返ししますよ」
 それを断られたとき、お島はそう云って笑ったが、土地の人たちの腹の見えすいているようなのが腹立しかった。自分の腕と心持とが、全く誤解されているのも業腹であった。
 小野田にも信用がなく、自分にも働き勝手の違ったような、その土地で、二人は日に日に上海行の計画を鈍らされて行った。二人は小野田が数日のあいだに働いて手にすることのできた、少しばかりの旅費を持って、辛々そこを立ったのであった。
 一日込合う暑い客車の瘟気に倦みつかれた二人が、停車場の静かな広場へ吐出されたのは、夜ももう大分遅かった。
「どこへ行ったものだろうね」
 青い火や赤い火の流れている広告塔の前に立って、しっとりした夜の空気に蘇えったとき、お島はそこに跪坐んでいる小野田を促した。
 前に働いていた川西という工場のことを、小野田は心に描いていたが、前借などの始末の遣っぱなしになっている其処へは行きたくなかった。上海行を吹聴したような人の方へは、どこへも姿を見せたくなかった。

     八十一

 不安な一夜を、芝口の或安旅籠に過して、翌日二人は川西へ身を寄せることになるまで、お島たちは口を捜すのに、暑い東京の町を一日彷徨いていた。
 最後に本郷の方を一二軒猟って、そこでも全く失望した二人が、疲れた足を休めるために、木蔭に飢えかつえた哀れな放浪者のように、湯島天神の境内へ慕い寄って来たのは、もうその日の暮方であった。
 漸う日のかげりかけた境内の薄闇には、白い人の姿が、ベンチや柵のほとりに多く集っていた。葉の黄ばみかかった桜や銀杏の梢ごしに見える、蒼い空を秋らしい雲の影が動いて、目の下には薄闇い町々の建物が、長い一夏の暑熱に倦み疲れたように横わっていた。二人は仄暗い木蔭のベンチを見つけて、そこに暫く腰かけていた。涼しい風が、日に焦け疲れた二人の顔に心持よく戦いだ。
 水のような蒼い夜の色が、段々木立際に這い拡がって行った。口も利かずに黙って腰かけているお島は、ふと女坂を攀登って、石段の上の平地へ醜い姿を現す一人の天刑病らしい躄の乞食が目についたりした。
 石段を登り切ったところで、哀れな乞食は、陸の上へあがった泥亀のように、臆病らしく四下を見廻していたが、するうちまた這い歩きはじめた。そして今夜の宿泊所を求めるために、人影の全く絶えた、石段ぎわの小さい祠の暗闇の方へいざり寄って行った。
「ちょっと御覧なさいよ」お島は小野田に声かけて振顧いた。
 今まで莨を喫っていた小野田は、ベンチの肱かけに凭れかかっていつか眠っていた。
「この人は、為様がないじゃないの」お島は跳あがるような声を出した。
「行きましょう行きましょう。こんな所にぐずぐずしていられやしない」お島は慄えあがるようにして小野田を急立てた。
 二人は痛い足を引摺って、またそこを動きだした。
「何でもいいから芝へ行きましょう。恁うなれば見えも外聞もありゃしない」お島はそう言って倦み憊れた男を引立てた。
 食物といっては、昼から幾んで[#「で」は底本どおり、岩波文庫版では「ど」、151-11]何をも取らない二人は、口も利けないほど饑え疲れていた。
 川西の店へ立ったのは、その晩の九時頃であった。

     八十二

 長い漂浪の旅から帰って来たお島たちを、思いのほか潔く受納れてくれた川西は、被服廠の仕事が出なくなったところから、その頃職人や店員の手を減して、店がめっきり寂しくなっていた。
 そこへ入って行ったお島は、久しい前から、世帯崩しの年増女を勝手元に働かせて、独身で暮している川西のために、時々上さんの為るような家事向の用事に、器用ではないが、しかし活溌な働き振を見せていた。
 前にいた職人が、女気のなかったこの家へ、どこからともなく連れて来て間もなく、主人との関係の怪しまれていたその年増は、渋皮の剥けた、色の浅黒い無智な顔をした小躯の女であったが、お島が住込むことになってから、一層綺麗にお化粧をして、上さん気取で長火鉢の傍に坐っていた。
 始終忙しそうに、くるくる働いている川西は、夜は宵の口から二階へあがって、臥床に就いたが、朝は女がまだ深い眠にあるうちから床を離れて、人の好い口喧しい主人として、口のわるい職人や小僧たちから、蔭口を吐かれていた。
 お島は女が二階から降りて来ぬ間に、手捷こくそこらを掃除したり、朝飯の支度に気を配ったりしたが、寝恍けた様な締のない笑顔をして、女が起出して来る頃には、職人たちはみんな食膳を離れて、奥の工場で彼女の噂などをしながら、仕事に就いていた。
 彼らが食事をするあいだ、裏でお島の洗い灑ぎをしたものが、もう二階の物干で幾枚となく、高く昇った日に干されてあった。
「どうも済みませんね」
 ばけつ[#「ばけつ」に傍点]をがらがらいわせて、働いているお島の姿を見ると、それでも女は、懈そうな声をかけて、日のじりじり照はじめて来た窓の外を眺めていた。毛並のいい頭髪を銀杏返しに結って、中形のくしゃくしゃになった寝衣に、紅い仕扱を締めた姿が、細そりしていた。白粉の斑にこびりついたような額のあたりが、屋根から照返して来る日光に汚らしく見えた。
「どういたしまして」
 お島は無造作に懸つらねた干物の間を潜りぬけながら、袂で汗ばんだ顔を拭いていた。
「私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ」
「そう」
 女はまだうっとりした夢にでも浸っているような、どこか暗い目色をしながら呟いた。
「私の寝るのは、大抵十二時か一時ですよ」
「そうですかね」お島は白々しいような返辞をして、「でも可いじゃありませんか。お秀さんは好い身分だって、衆がそう言っていますよ」
 女は紅くなって、厭な顔をした。
「そうそう、お秀さんといっちゃ悪かったっけね。御免なさいよ」

     八十三

「どうです、今日は素敵に好いお顧客を世話してもらいましたよ」
 半日でも一日でも、外へ出て来ないと気のすまないようなお島は、職人たちの手がしばらく空きかかったところで、その日も幾日振かで昼からサンプルをさげて出て行ったが、晩方に帰って来ると、お秀と一緒に店の方にいる川西にそう言って声かけた。
「為様がないね、私がなまけると直ぐこれだもの」お島は出てゆく時も、これと云う目星しい仕事もない工場の様子を見ながら言っていたが、出れば必ず何かしら註文を受けて来るのであった。中には自分の懇意にしている人のを、安く受けて来たのだと云って、小野田との相談で、店のものにはせず、自分たちだけの儲仕事にするものも時にはあった。そんなものを、小野田は店の仕事の手隙に縫うことにしていたが、川西はそれを余り悦ばないのであった。
「ほんとに好い腕だが、惜しいもんだね」
 川西は、独り店頭にいた小僧を、京橋の方へ自転車で用達に出してから、註文先の話をしてお島に言った。彼はもう四十四五の年頃で、仕入ものや請負もので、店を大きくして来たのであったが、お島たちが入って来てから、上物の註文がぼつぼつ入るようになっていた。
 川西は晩酌をやった後で、酒くさい息をふいていた。工場では皆な夕方から遊びに出て行って、誰もいなかった。
「そんな腕を持っていながら、名古屋くんだりまで苦労をしに行くなんて、余程可笑いよ」
 川西は、傍に附絡っているお秀をも、湯へ出してやってから、時々口にすることをその時もお島に言出した。
「ですから私も熟々厭になって了ったんです。あの時疾に別れる筈だったんです。でもやっぱりそうも行かないもんですからね」
「小野田さんと二人で、ここでついた得意でも持って出て、早晩独立になるつもりで居るんだろうけれど、あの腕じゃまず難しいね」
「そうですとも。これまで散々失敗して来たんですもの」
「どうだね、それよりか小野田さんと別れて、一つ私と一緒に稼ぐ気はないかね」
 川西はにやにやしながら言った。
「御笑談でしょう」お島は真紅になって、「貴方にはお秀さんという人がいるじゃありませんか」
「あんなものを……」川西はげたげた笑いだした。「どこの馬の骨だか解りもしねえものを、誰が上さんなぞにする奴があるもんか」
「でも好い人じゃありませんか。可愛がっておあげなさいまし。私みたような我儘ものはとても駄目です」
 お島はそう言って、茶の室を通って工場の方へ入って行くと、汗ばんだ着物の着替に取りかかった。蒸暑い工場のなかは綺麗に片着いて、電気がかっかと照っていた。

     八十四

 九時頃に小野田が外から帰って来たとき、駭かされたお島の心は、まだ全く鎮らずにいた。人品や心の卑しげな川西に、いつでも誰にも動く女のように見られたのが可恥しく腹立しかった。
「へえ、私がそんな女に見えたんですかね。そんな事をしたら、あの物堅い父に私は何といわれるでしょう」
 お島は迹から附絡って来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場の隅に、慄然とするような体を縮めながらそう言って拒んだ。
 髯の延びた長い顎の、目の落窪んだ川西の顔が、お島の目には狂気じみて見えた。
「可けません可けません、私は大事の体です。これから出世しなくちゃなりません。信用を墜しちゃ大変です」お島は片意地らしく脅しつけるように言って、筋張った彼の手をきびしく払退けた。
 劇しい争闘がしばらく続いた。
 婉曲としおらしさとを欠いた女の態度に、男の顔を潰されたと云って、川西がぷりぷりして二階へあがって行ってから、お島は腕節の痛みをおさえながら、勝矜ったものの荒い不安を感じた。
 暫くすると、白粉をこてこて塗って、湯から帰って来たお秀が、腕を組んで、ぼんやり店頭に彳んでいるお島に笑顔を見せて、奥へ通って行った。
「ぽんつくだな」お島はそう思いながら、女の顔を見返しもせずに黙っていた。何のことをも感づくことができずに、全く満足し切っているように鈍い、その癖どこかおどおどしている女の様子に、妄に気がいらいらして、顔の筋肉一つすら素直に働かないのであった。
「小野田が帰ったら、今の始末を残らず吩咐けよう。そして今からでも二人でここを出てやろう」
 お島はそう思いながら、そこに立ったまま彼の帰りを待っていた。外は秋らしい冷かな風が吹いて、往来を通る人の姿や、店屋々々の明が、厭に滅入って寂しく見えた。浜屋や鶴さんのことが、物悲しげに想い出されたりした。
 その晩、小野田は二階でしばらく川西と何やら言合っていたが、やがて落着のない顔をして降りて来ると、店にいるお島の傍へ寄って来た。
「店が閑でとても置ききれないから、気の毒だけれど、己たちに今から出てくれというんだがね」
 小野田は言出した。
「ふむ」お島はまだ神経が突っ張っていて、こまこました話をする気にはなれなかった。
「己たちが自分の仕事をするので、それも気に加んらしい」
「どうせそうだろうよ」お島は荒い調子で冷笑った。
「出ましょう出ましょう。言われなくたって、此方から出ようと思っていたところだ」

     八十五

 翌日朝夙くから、お島はぐずぐずしている小野田を急立てて家を捜しに出た。
「また何かお前が大将の気に障ることでも言ったんじゃないか」
 小野田は昨夜も自分たちの寝室にしている茶の室で、二人きりになった時、そう言ってお島を詰ったのであったが、今朝もやっぱりそれを気にしていた。
「私があの人に何を言うもんですか」お島は顔をしかめて煩そうに応答をしていたが、出る先へ立って、細い話をして聞かす気にもなれなかった。
「それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか」
「でも何か言ったろう」
「煩いよ」お島は眉をぴりぴりさせて、「お前さんのように、私はあんなものにへっこらへっこらしてなんかいられやしないんだよ」
「だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ」
「ふむ。私よりかお前さんの方が、余程間抜なんだ。だから川西なんかに莫迦にされるんです。もっとしっかりするが可いんだ」
 それで二人は半日ほど捜しあるいて、漸と見つけた愛宕の方の或る印判屋の奥の三畳一室を借りることに取決め、持合せていた少ばかりの金で、そこへ引移ったのであった。
 そこは見附の好い小綺麗な店屋であった。お島はその足で直ぐ、差当り小野田の手を遊ばさないように、仕事を引出しに心当りを捜しに出たが、早速仕事に取かかるべく少しばかり月賦の支払をしてあったミシンを受取の交渉のために、川西へ出向いていった小野田が、失望して――多少怒の色を帯びて帰って来た頃には、彼女も一二枚の直しものを受けて来て、彼を待受けていた。
「どうです、同情がありますよ。すぐ仕事が出ましたよ。だから、ここでうんと働いて下さいよ」
 人に対する反抗と敵愾心のために絶えず弾力づけられていなければ居られないような彼女は、小野田の顔を見ると、いきなり勝矜ったように言った。
 部屋にはもう電燈がついて、その晩の食物を拵えるために、お島は狭い台所にがしゃがしゃ働いていた。印判屋の婆さんとも、狎々しい口を利くような間になっていた。
「それでミシンはどうしたんです」
「それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ」
「ふむ、悪い奴だね」お島は首を傾げた。「畜生、私を怨んでいるんだ。だがミシンがなくちゃ為様がないね」
 飯をすますと直ぐ、お島が通りの方にあるミシンの会社で一台註文して来た機械が、明朝届いたとき、二人は漸と仕事に就くことができた。

     八十六

 住居の手狭なここへ引移ってから、初めて世帯を持った新夫婦か何ぞのように、二人は夕方になると、忙しいなかをよく外を出歩いた。
 川西を出たときから、新しい愛執が盛返されて来たようなお島たちはそれでもその月は可也にあった収入で、涼気の立ちはじめた時候に相応した新調の着物を着たり着せたりして、打連れて陽気な人寄場などへ入って行った。
 行く先々で、その時はまるで荷厄介のように思って、惜げもなく知った人にくれたり、棄値で売ったり又は著崩したりして、何一つ身につくもののなかったお島は、少しばかり纏まった収入の当がつくと、それを見越して、月島にいる頃から知っていた呉服屋で、小野田が目をまわすような派手なものを取って来て、それを自分に仕立てて、男をも着飾らせ、自分にも着けたりした。
「己たちはまだ着物なんてとこへは、手がとどきやしないよ。成算なしに着物を作って、困るのは知れきっているじゃないか」
 着ものなどに頓着しない小野田は、お島の帰りでもおそいと、時々近所のビーヤホールなどへ入って、蓄音機を聴きながら、そこの女たちを相手に酒を飲んでいては、お島に喰ってかかられたりしたが、やっぱり自分の立てた成算を打壊されながら、その時々の気分を欺かれて行くようなことが多かった。
「あの御父さんの産んだ子だと思うと、厭になってしまう。東京へでも出ていなかったら、貴方もやっぱりあんなでしょうか」
 お島はにやにやしている小野田の顔を眺めながら笑った。
「莫迦言え」小野田はその頃延しはじめた濃い髭を引張っていた。
「だからビーヤホールの女なぞにふざけていないで、少しきちんとして立派にして下さいよ。あんなものを相手にする人、私は大嫌い、人品が下りますよ」
 お島はどうかすると、父親の面差の、どこかに想像できるような小野田の或卑しげな表情を、強いて排退けるようにして言った。小野田が物を食べる時の様子や、笑うときの顔容などが、殊にそうであった。
「子が親に似るのに不思議はないじゃないか。己は間男の子じゃないからな」
 小野田は心から厭そうにお島にそれを言出されると、苦笑しながら慍然として言った。
「間男の子でも何でも、あんな御父さんなんかに肖ない方が可いんですよ」
「ひどいことを言うなよ。あれでも己を産んでくれた親だ」
 小野田は終に怒りだした。
「お前さんはそれでも感心だよ。あんな親でも大事にする気があるから。私なら親とも思やしない」

     八十七

 そんな気持の嵩じて来たお島には、自分一人がどんなに焦燥しても、出世する運が全く小野田にはないようにさえ考えられてきた。彼の顔が無下に卑しく貧相に見えだして来た。ビーヤホールの女などと、面白そうにふざけていることの出来る男の品性が、陋しく浅猿しいもののように思えた。
「己はまた親の悪口なぞ云う女は大嫌いだ」
 顔色を変えて、お島の側を離れると、小野田は黙って仕事に取りかかろうとして、電気を引張って行ってミシンを踏みはじめた。
 そのミシンは、支払うべき金がなかったために、お島が機転を利かして、機械の工合がわるいと言って、新しく取替えたばかりの代物であった。そうすれば試用の間、一時また支払いが猶予される訳であった。
「こんな際どいことでもしなかった日には、私たちはとてもやって行けやしません。成功するには、どうしたってヤマを張る必要があります」
 お島はその時もそう言って、自分の気働きを矜ったが、何の気もなさそうに、それに腰かけている小野田の様子が、間抜らしく見えた。
 がたがたと動いていたミシンの音が止ると、彼は裁板の前に坐って、縫目を熨すためにアイロンを使いはじめた。
「ふむ、莫迦だね」
 お島は無性に腹立しいような気がして、腕を組みながら溜息を吐いた。
「一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか優だろう」
「生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり土弄りをして暮しているじゃないか」
「ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない」
「お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても得は取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、※[#「※」は「しんにょう+向」、第3水準1-92-55、162-10]に悧巧なんだ」
 小野田はいつもお島に勧めているようなことを、また言出した。
「意気地のないことを言っておくれでないよ。私は通りへ店を持つまでは、親の家へなんか死んでも寄りつかない意だからね」
「だから、お前は商売気がなくて駄目だというのだよ」
 仕事が一と片着け片着く時分に、二人はまたこんな相談に耽りはじめた。

     八十八

 上海へ行くつもりで、N――市へ立つ前に、一度顔出したことのある自分の生家の方へ、小野田がお島を勧めて、贈物などを持って、更めて一緒に訪ねて行ってから、続いて一人でちょいちょい両親の機嫌を取りに行ったりしていた。
「これだけの地面は私の分にすると、御父さんが言うんですけれどね」
 最初二人で行ったとき、お島は庭木のどっさり植っている母屋の方の庭から、附近に散かっている二三箇所の持地を、小野田と一緒に見廻りながら、五百坪ばかりの細長い地所へ小野田を連れて行って言った。
 雑木の生茂っているその地所には、庭へ持出せるような木も可也にあった。暗い竹藪や荒れた畑地もあった。周囲には新しい家が二三軒建っていた。
「ふむ」小野田は驚異の目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1-88-85、163-9]って、その木立のなかへ入って行った。夏草の生茂った木立の奥は、地面がじめじめしていて、日の光のとどかぬような所もあった。
「この辺の地所は坪どのくらいのものだろう」
 小野田はそこを出てお島の傍へ来ると、打算的の目を耀かして訊ねた。
「どの位だかね。今じゃ十円もするでしょうよ」
 お島は※[#「※」は「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45、163-14]けたような顔で応えたが、この地面が自分の有になろうとは思えなかった。
 生家では二三年のあいだ家を離れて、其方こっち放浪して歩いていた兄が、情婦に死訣れて、最近にいた千葉の方から帰って来ていた。一時生家へ還っていた嫁も、その子供をつれて、久振で良人と一緒に暮していた。兄は一時悪い病に罹ってから、めっきり健康が衰え、お島と山で世帯を持っていた頃の元気もなくなっていた。お島はあの頃の山の生活と、二三度そこで交際った兄の情婦の身のうえなどを想い出させられた。悪い病気にかかったというその情婦は、どこへ行っても兄に附絡われていて、好いこともなくて旅で死んでしまった。その時は、何の気もなしに傍観していた二人の情交や心持が、お島にはいくらか解るように思えて来たが、どこが好くて、あの女がそんなに男のために苦労したかが訝かられた。
「あの時は、兄さんはほんとに私をひどい目に逢わしたね」
 お島は長いあいだの経過を考えて、何の温かみも感ずることのできない恣まな兄との接触に、失望したように言出した。
 兄はその頃のことは想い出しもしないような顔をしていた。お島たちの寄ついて来ることを、余り悦んでもいないらしかった。
「あれはああ云う男です。人が悪いっていうんでもないけれど、人情はないんですね」
「早くあの地面を自分のものに書きかえておくようにしなくちゃ駄目だよ」
 小野田は、お島の投遣なのを牾しそうに言った。
「あの地面も、今はどうなっているんだか。あの御母さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね」
「それもお前が下手だからだよ」
 小野田はそう言いながら、望みありげに家へ入って来た。

     八十九

 小野田がこの家に信用を得るために、母親の傍に坐って、話込んでいるあいだ、お島は擽ったいような、いらいらしい気持を紛らせようとして、そこを離れて、子供を揶揄ったり、嫂と高声で話したりしていた。
「家じゃ島が一番親に世話をやかせるんでございますよ。これまでに、幾度家を出たり入ったりしたか知れやしません」
 母親はお島が傍についているときも、そんな事を小野田に言って聴せていたが、彼女の目には、これまでお島が干係した男のなかで、小野田が一番頼もしい男のように見えた。取澄してさえいれば、口髭などに威のある彼のがっしりした相貌は、誰の目にも立派な紳士に見えるのであった。小野田は切たての脊広などを着込んで、のっしりした態度を示していた。
 お島は自分の性得から、N――市へ立つ前に、この男のことをその田舎では一廉の財産家の息子ででもあるかのように、父や母の前に吹聴しずにはいられなかった。それで小野田もその意で、母親に口を利いていた。
「この人の家は、それは大したもんです」
 お島は母親を威圧するように、今日も皆が揃っている前で言ったが、小野田はそれを裏切らないように、口裏を合せることを忘れなかった。
「いや私の家も、そう大した財産もありませんよ。しかしそう長く苦しむ必要もなかろうと思います。夫婦で信用さえ得れば、そのうちにはどうにかなるつもりでいますので」
 母親の安心と歓心を買うように、小野田は言った。
 お島はその傍に、長くじっとしていられなかった。自分を信用させようと骨を折っている、男の狡黠い態度も蔑視まれたが、この男ばかりを信じているらしい、母親の水臭い心持も腹立しかった。
 嫂は、この四五年の良人の放蕩で、所有の土地もそっちこっち抵当に入っていることなどを、蔭でお島に話して聴せた。
「御父さんが、あすこの地面を私にくれるなんて言っていましたっけがね、あれはどうする気でしょうね」
 お島は嫂の口占を引いてでも見るように、そう言ってみた。
「へえ、そんな事があるんですか。私はちっとも知りませんよ」
「男だけには、それぞれ所有を決めてあるという話ですけれどね」
 お島はこの場合それだけのものがあれば、一廉の店が持てることを考えると、いつにない慾心の動くのを感じずにはいられなかったが、家を出て山へ行ってから、父親の心が、年々自分に疎くなっていることは争われなかった。
「行きましょうよ」
 お島はまだ母親の傍にいる男を急たてて、やっと外へ出た。

     九十

 狭い三畳での、窮屈で不自由な夫婦生活からと、男か女かの孰れかにあるらしい或生理的の異常から来る男の不満とが、時とするとお島には堪えがたい圧迫を感ぜしめた。
「へえ、そんなもんですかね」
 若い亭主を持っている印判屋の上さんから、男女間の性慾について、時々聞かされることのあるお島は、それを不思議なことのように疑い異まずにはいられなかった。
「じゃ、私が不具なんでしょうかね」
 お島はどうかすると、男の或不自然な思いつきの要求を満すための、自分の肉体の苦痛を想い出しながら、上さんに訊いた。
「でもこれまで私は一度も、そんな事はなかったんですからね」
 お島はどんな事でも打明けるほどに親しくなった上さんにも、これまでに外に良人を持った経験のあることを話すのに、この上ない羞恥を感じた。
「真実は、私はあの人が初めじゃないんですよ」
「それじゃ旦那が悪いんでしょうよ」
「でも、あの人はまた私が不可いんだと言うんですの。だから私もそうとばかり思っていたんですけれど……真実に気毒だと思っていたんです」
「そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい」
 上さんは、真実それが満らない、気毒な引込思案であるかのように、色々の人々の場合などを話して勧めた。
「まさか……極がわりいじゃありませんか」
 お島は耳朶まで紅くなった。若い男などを有っている猥な年取った女のずうずうしさを、蔑視まずにはいられなかったが、やっぱりその事が気にかかった。人並でない自分等夫婦の、一生の不幸ででもあるように思えたりした。
 朝になっても、体中が脹れふさがっているような痛みを感じて、お島はうんうん唸りながら、寝床を離れずにいるような事が多かった。そして朝方までいらいらしい神経の興奮しきっている男を、心から憎く浅猿しく思った。
「こんな事をしちゃいられない」
 お島は註文を聞きに廻るべき顧客先のあることに気づくと、寝床を跳おきて、身じまいに取かかろうとしたが、男は悪闘に疲れたものか何ぞのように、裁板の前に薄ぼんやりした顔をして、夢幻のような目を目眩しい日光に瞑っていた。
「それじゃ私が旦那に一人、好いのをお世話しましょうか」
 上さんは、笑談らしく妾の周旋を頼んだりする小野田に言うのであったが、お島はやっぱりそれを聞流してはいられなかった。
「そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう」
「莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく身上じゃありませんよ」
 お島は腹立しそうに言った。

     九十一

 五六箇月の間に、そこの仮店で夫婦が稼ぎ得た収入が二千円近くもあったところから、狭苦しい三畳にもいられなかった二人が、根津の方へ店を張ることになってからも、外の活動に一層の興味を感じて来たお島は、時々その事について、親しい友達に秘密な自分の疑いを質しなどしたが、それをどうすることもできずに、忙しいその日その日を紛らされていた。
 生理的の不権衡から来るらしい圧迫と、失望とを感ずるごとに、お島は鶴さんや浜屋のことが、心に蘇えって来るのを感じた。
「成功したら、一度山へ行ってあの人にも逢ってみたい」
 そんな秘密の願が、気忙しい顧客まわりに歩いている時の彼女の心に、どうかすると、或異常な歓楽でも期待され得るように思い浮かんだりした。一つは、妾になら為ておこうといったことのある、その男への復讐心から来る興味もあったが、現在の自分等夫婦には、欠けているらしい或要求と歓楽とに憧るる心とが、それを彼女に想像させるのであった。
 一旦田舎へ引込んで、そこで思わしいことがなくて、この頃また東京へ来て、日本橋の方の或洋酒問屋にいるとか聞いた鶴さんのことをも、時々彼女は考えた。植源のおゆうが、鶴さんの迹を追って、家を出たりなどして、あの古い植木屋の家にも、紛紜の絶えなかった一頃の事情は、お島もこの頃姉の口などから洩聞いたが、その鶴さんにも、いつか何処かで逢う機会があるような気がしていた。
 それに鶴さんや浜屋と、はっきりその人は定っていないまでも、どこかに自分が真実に逢うことのできるような男が、小野田以外の周囲に、一人はあるような気がしないでもなかった。成功と活動とのみに飢え渇えているような荒いそして硬い彼女の心にも、そんな憧憬と不満とが、沁出さずにはいなかった。
 お島はそれからそれへと、※[#「※」は「夕」の下に「寅」、第4水準2-5-29、170-6]縁を求めて知合いになった、自分と同じような或他の職業に働いている活動の女、独立の女、人妻になっている女などから聞される恋愛談などから、自分もやっぱり同じ女であることの暗示を得るような、秘密な渇望と幻想とに、思い浸ることがあったが、動もすると自分の目覚しい活動そのものすら、それらのぼんやりした影のような目的を追い求めているためですらないように思われたりした。
「お前さんは真実に好かんよ」
 肉体の苦痛を堪え忍ばされたあとでは、そうした男に対する反撥心が、彼女の体中に湧かえって来た。
 根津へ引越して来てからも、小野田に妾を周旋するということを言出してから、急に嫌いになった印判屋の上さんのところへ、お島はその時の自分の感情は、すっかり忘れてしまったもののように、ふと自分の苦痛を訴えに行くことすらあった。
「ほんとうに、あの人に妾を周旋してやって下さい。そうでもしなければ、私はとても自由な働きができません」
 お島はそう言って、熱心に頼んだ。
「笑談でしょう。そんな事をしたら、それこそ大変でしょう」
 上さんはお島の言うことが、総て虚構であるとしか思えなかった。

     九十二

 そこへ引越して行ったのは、その頃開かれてあった博覧会の賑いで、土地が大した盛場になっていた為であった。
 その家は、不断は眠っているような静かな根津の通りであったが、今は毎日会場からの楽隊の響が聞えたり、地方から来る色々な団体見物の宿泊所が出来たりして、近い会場の浮立った動揺が、ここへも遽しい賑かしさを漂わしていた。
 陽気がややぽかついて来たところで、小野田が出した懇ろな手紙に誘われて、田舎で毎日野良仕事に憊れている彼の父親が、見物にやって来たり、お島から書送った同じ誘引状に接して、彼女が山で懇意になった人々が、どやどや入込んで来たりした。世のなかが景気づいて来たにつれて、お島たちは自分たちの浮揚るのは、何の造作もなさそうに思えていた。
 この店を張るについての、二人の苦しい遣繰を少しも知らない父親は、来るとすぐ倅夫婦につれられて、会場を見せられて感激したが、これまで何一つ面白いものを見たこともない哀れな老人を、そうした盛り場に連出して悦ばせることが、お島に取っては、自分の感激に媚びるような満足であった。
 上野は青葉が日に日に濃い色を見せて来ていた。蟻のように四方から集ってくる群衆のうえに、梅雨らしい蒸暑い日が照りわたり、雨雲が陰鬱な影を投げるような日が、毎日毎日続いた。
 お島は新調の夏のコオトなどを着て、パナマを冠った小野田と一緒に、浮いたような気持で、毎日のように父親をつれて歩いたが、親に甘過ぎる男の無反省な態度が、時々彼女の犠牲的な心持を、裏切らないではいなかった。無知な老人の彳んで見るところでは、莫迦孝行な小野田は、女にのろい男か何ぞのように、いつまでも気長に傍についていて、離れなかった。驚きの目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1-88-85、172-6]って、父親の立寄って行くところへは、どんな満らないものでも、小野田も嬉しそうに従いて行って見せたり、説明したりした。
「それどころじゃないんですよ。私たちはそう毎日々々親の機嫌を取っているほど、気楽な身分じゃないんですからね」
 晩方になると、きっとお仕着せを飲ませることに決っている父親への、酒の支度を疎かにしたといって、小野田がその時も大病人のように二階に寝ていたお島に小言をいった。彼女は筋張った顳※[#「※」は「需+頁」、第3水準1-94-6、172-13]のところを押えながら、小野田を遣返した。
 お島はいつもそれが起ると、生死の境にでもあるような苦しみをする月経時の懈さと痛さとに悶えていた。
「それに私はこの体です。とてもお父さんの面倒はみられませんよ」

     九十三

「そんな事を言ってもいいのか」
 そう言って極つけそうな目をして、小野田は疳癪が募って来るとき、いつもするように口髭の毛根を引張っていたが、調子づいて父親を※[#「※」は「疑」の左側+欠」、第3水準1-86-31、173-4]待していた彼女に寝込まれたことが、自分にも物足りなかった。
 お島は煩そうに顔を顰めていたが、小野田が悄々降りていったあとでも、取つき身上の苦しさと、自分の心持については、何も知ってくれないような父親の挙動が腹立しかった。自分にどんな腕と気前とがあるかを見せようとでもするように、紛らされていた利己的な思念が、心の底からむくれ出して来るように感じて、我儘な涙が湧立って来た。
 お島がじっと寝てもいられないような気がして、下へ降りて行ったとき、父親はもう酒をはじめていた。小野田も興がなさそうに傍に坐っていた。
「どうもすみません」
 お島は何もない餉台の前に坐っている父親の傍へ来て、やっぱり顔を顰めていた。
「私はこの病気が起ると、もうどうすることも出来ないんです。それに家も、これから夏は閑ですから、お※[#「※」は「疑」の左側+欠」、第3水準1-86-31、173-15]待しをしようと思っても、そうそうは為きれないんです」
「そうともそうとも、それどこじゃない。私は一時のお客に来たものでないから」
 父親はいつまでも倅夫婦の傍で暮そうとしている自分の心持を、その時も口から洩したが、お島が積って燗ける酒に満足していられないような、強い渇望がその本来の飲慾を煽って来ると、父親はふらふらと外へ出て、この頃昵みになった近所の居酒屋へ入っていくのが、習慣になった。そして家でおとなしく飲んでいられないような野性的な彼の卑しい飲み癖が、一層お島を顰蹙させた。

     九十四

 山で知合になった人達が、四五人誘いあわせて出て来てから、父親は一層お島たちのために邪魔もの扱いにされた。
 連中のうちには、その頃呼吸器の疾患のため、遊覧旁博士連の診察を受けに来た浜屋の主人もあった。山の温泉宿や、精米所の主人もいた。精米所の主人は、月に一度くらいは急度蠣殻町の方へ出て来るのであったが、その時は上さんと子供をつれて来ていた。
 その通知の葉書を受取ったお島は、大きな菓子折などを小僧に持たせて、紋附の夏羽織を着込んで、丸髷姿で挨拶のために、ある晩方その宿屋を訪ねたが、込合っていたので、連中はこの部屋にかたまって、ちょうど晩酌の膳に向いながら、陽気に高談をしていた。
「えらい仕揚げたそうだね。そのせいか女振もあがったじゃねえか。好い奥様になったということ」
 精米所の主人は、浴衣がけで一座の真中に坐っていながら言った。
「御笑談でしょう」
 お島は初らしく顔の赤くなるのを覚えた。
「お蔭でどうか恁かね。でもまだまだ成功というところへは参りません。何しろ資本のいる仕事ですからね。どうか少しお貸しなすって下さいまし。あなた方はみんな好い旦那方じゃありませんか」
 お島はそう言って、自分の来たために一層浮立ったような連中を笑わせた。
 夜景を見に出るという人達の先に立って、お島も混雑しているその宿を出たが、別れるときに家の方角を能く教えておいて、広小路まで連中を送った。
「病気って、どこが悪いんです」
 お島はまさかの時には、多少の資本くらいは引出せそうに思えていた浜屋に、二人並んであるいている時訊ねた。浜屋がその後、ちょくちょく手を出していた山林の売買がいくらか当って、融通が利くと云う噂などを、お島はその土地の仲間から聞伝えている兄に聞いて知っていた。
「どこが悪いというでもないが、肺がちっと弱いから用心しろと言われたから、東京で二三専門の博士を詮議したが、事によったら当分逗留して、遊び旁注射でもしてみようかと思う」
「それじゃ奥さんのが移ったのでしょう。私は一緒にならないで可かったね」
 お島は可怕そうに言ったが、やっぱりこの男を肺病患者扱いにする気には成得なかった。
「あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか可怕くて、どうするもんですか」
「今じゃそうも行かない。これでも山じゃ死うとしたことさえあったっけがね」
「おお厭だ」お島は思出してもぞっとするような声を出した。「そんな古いことは言っこなし。あなたは余程人が悪くなったよ」

     九十五

 一日の雑沓と暑熱に疲れきったような池の畔では、建聯った売店がどこも彼処も店を仕舞いかけているところであったが、それでもまだ人足は絶えなかった。水に臨んだ飲食店では、人が蓄音器に集っていたり、係のものらしい男が、粗野な調子で女達を相手に酒を飲んでいたりした。暗闇の世界に、秘密の歓楽を捜しあるいているような、猥らな女と男の姿や笑声が聞えたりした。
 お島はその間を、ふらふらと寂しい夢でも見ているような心持で歩いていた。会場のイルミネーションはすっかり消えてしまって、無気味な広告塔から、蒼い火が暗に流れていたりした。
 浜屋の主人が肺病になったと云うことが、ふと彼女の心に暗い影を投げているのに気がついた。自分の世界が急に寂しくなったようにも感じた。しかし離れているときに考えていたほど、自分がまだあの男のことを考えているとは思えなかった。今のあの男とは全く懸はなれたその頃の山の思出が、微かに懐しく思出せるだけであった。あの時分の若い痴呆な恋が、いつの間にか、水に溶されて行く紅の色か何ぞのように薄く入染んでいるきりであった。
 自分の若い職人が一人、順吉というお島の可愛がって目をかけている小僧と一緒に、熱い仕事場の瓦斯の傍を離れて、涼しい夜風を吸いに出ているのに、ふと観月橋の袂のところで出会した。
「どうしたえ、田舎のお爺さんは」お島は順吉に訊ねた。
 二人はにやにや笑っていた。
「今夜も酔っぱらっているんだろう」
「ええ何だかやっぱり外で飲んで来たようでしたよ」
 お島はこの順吉から、父親が自分の嫁振を蔭で非して、不平を言っていることなどを、ちょいちょい耳にしていたが、それはその時で、聴流しているのであった。
「私のこったもの、どうせ好くは言われないさ。あの田舎ものにこの上さんの気前なんかわかるものかね」
 お島はそう云って笑っていたが、新しく入って来たものから、世間普通の嫁と一つに見られているのが、侮辱のように感ぜられて腹立しかった。
「お上さん今夜は好いことがあるんだから、何かおごろうか」お島は二人に言った。
「おごって下さい」
「じゃ、みんなおいでおいで」
 お島は先に立って、何か食べさせるような家を捜してあるいた。
「……上さんを離縁しろなんて言っていましたよ」
 風の吹通しな水辺の一品料理屋でアイスクリームや水菓子を食べながら、順吉は話した。
「へえ、そんなことを言っていたかい」お島はそれでも極りわるそうに紅くなった。
「へん、お気の毒さまだが、舅に暇を出されるような、そんな意気地なしのお上さんと上さんが異うんだ」

     九十六

 お島が毎日のように呼出されて、市内の芝居や寄席、鎌倉や江の島までも見物して一緒に浮々しい日を送っていた山の連中は、田舎へ帰るまでに、一度お島達夫婦のところへも遊びにやって来たが、それらの人々が宿を引揚げて行ってからも、浜屋の主人だけは、お島の世話で部屋借をしていた家から、一月の余も病院へ通っていた。
 田舎では大した金持ででもあるように、お島が小野田に吹聴しておいた山の客が、どやどややって来たとき――浜屋だけは加わっていなかったが――お島は水菓子にビールなどをぬいて、暑い二階で彼等を※[#「※」は「疑」の左側+欠」第3水準1-86-31、178-8]待したが、小野田も彼等から、商売の資本でも引出し得るかのように言っているお島の言を信じて、そこへ出て叮嚀な取扱い方をしていた。
 お島はその一人からは夏のインバネス、他の一人からは冬の鳶と云う風に、孰も上等品の註文を取ることに抜目がなかったが、いつでも見本を持って行きさえすれば、山の町でも好い顧客を沢山世話するような話をも、精米所の主人が為ていた。
「私がこの旦那方に、どのくらいお世話になったか知れないんです」
 お島はそう言って小野田にも話したが、そこにお島の身のうえについて、何か色っぽい挿話がありそうに、感の鈍い小野田にも想像されるほど、彼等はお島と狎々しい口の利き方をしていた。
 肉づいた手に、指環などを光せている精米所の主人のことを、小野田は山にいた時のお島の旦那か何ぞであったように猜って、彼等が帰ったあとで、それをお島の前に言出した。
「ばかなことをお言いでないよ」
 お島は散かったそこらを取片着けながら、紅い顔をして言った。たっぷりした癖のない髪を、この頃一番自分に似合う丸髷に結って、山の客が来てからは、彼女は一層化粧を好くしていた。指環なども、顔の広い彼女は、何処かの宝玉屋から取って来て、見なれない品を不断にはめていた。それが小野田の目に、お島を美しく妬ましく見せていた。
「その証拠には、お前は私のおやじがこの席へ顔を出すのを、大変厭がったじゃないか」
 私が出て挨拶をするといって、聴かなかった父親に顔を顰めて、奥へ引込めておくようにしたお島の仕打を、小野田は気にかけて言出した。
「だって可恥しいじゃないか。お前さんの前だけれど、あの御父さんに出られて堪るもんですか。お前さんの顔にだってかかります」
「昔しの旦那だと思って、余り見えをするなよ」
「人聞きのわるいことを言って下さるなよ」お島は押被せるように笑った。「あの人達に笑われますね。それが嘘なら聴いてみるがいい」
「そうでもなくて、あんな者が来たってそんなに大騒ぎをする奴があるかい」
「煩いよ」お島は終に呶鳴出した。

     九十七

 暑い東京にも居堪らなくなって、浜屋がその宿を引払って山へ帰るまでに、お島は幾度となくそこへ訪ねて行ったが、彼女はそれを小野田へ全く秘密にはしておけなかった。ちょっと手許の苦しい時なぞに、お島は浜屋から時借をして来た金を、小野田の前へ出して、その男がどんな場合にも、自分の言うことを聴いてくれるような関係にあることを、微見かさずにはいられなかった。
 浜屋はその通っている病院で、もう十本ばかり、やってもらった注射にも飽きて、また出るにしても、盆前にはどうしても一度は帰らなければならぬ家の用事を控えている体であったが、お島たち夫婦の内幕が、初め聴いたほど巧く行っていないことが、幾度も逢っているうちに、自然に彼女の口から洩聞されるので、その事も気にかかっているらしかったが、やっぱり自分の手でそれをどうしようと云う気にもなれないらしかった。
「そんな事を言わずにまあ辛抱するさ」
 お島はその時の調子で、どうかすると心にもない自分の身の上談がはずんで、男に凭れかかるような姿態を見せたが、聴くだけはそれでも熱心に聴いている浜屋が、何時でもそういった風の応答ばかりして笑っているのが物足りなかった。
「あの時分とは、まるで人が変ったね」お島は男の顔を眺めながら言った。
「変ったのは私ばかりじゃないよ」お島は男がそう云って、自分の丸髷姿をでも見返しているような羞恥を感じて来た。
「月日がたつと誰でもこんなもんでしょうか」
 お島は二階の六畳で疲れた体を膝掛のうえに横えている男の傍に坐って、他人行儀のような口を利いていたが、興奮の去ったあとの彼女は、長く男の傍にもいられなかった。
 部屋には薄明い電気がついていた。お島はどうしても直り合うことの出来なくなったような、その時の厭な心持を想出しながら、涼気の立って来た忙しい夕暮の町を帰って来たが、気重いような心持がして、店へ入って行くのが憚られた。
「己も一度その人に逢っておこう」
 小野田はお島から金を受取ると、そう云って感謝の意を表した。
「可けない可けない」お島はそれを拒んで、「あの人は莫迦に内気な人なんです。田舎にもあんな人があるかと思うくらい、温順しいんですから、人に逢うのを、大変に厭がるんです」
 小野田はそれを気にもかけなかったが、やっぱりその男のことを聴きたがった。
「それは東京にも滅多にないような好い男よ」お島は笑いながら応えたが、自分にも顔の赧くなるのを禁じ得なかった。

     九十八

 避暑客などの雑沓している上野の停車場で、お島が浜屋に別れたのは、盆少し前の或日の午後であったが、そんな人達が全く引揚げて行ってから、お島たちはまた自分の家のばたばたになっていることに気がついた。
 浜屋はお島に買せた色々の東京土産などを提げこんで、パナマを前のめりに冠り、お島が買ってくれた草履をはいて、軽い打扮で汽車に乗ったのであったが、お島も絽縮緬の羽織などを着込んで、結立ての丸髷頭で来ていた。
 足音の騒々しい構内を、二人は控室を出たり入ったりして、発車時間を待っていたが、このステーションの気分に浸っていると、自然に以前の自分の山の生活が想出せて来て、涙含ましいような気持になるのであった。
「どうでしょう。西洋人は活溌でいいね」
 日光へでも行くらしい、男女の外国人の綺麗な姿が、彼等の前を横って行ったとき、お島は男に別れる自分の寂しさを蹴散すように、そう云って、嘆美の声を放った。
「どうだね、一緒に行かないか」
 浜屋は瀬戸物のような美しい皮膚に、この頃はいくらか日焦がして、目の色も鋭くなっていたが、お島が暫くでも夫婦ものの旅行と見られるのが嬉しいような、目眩いような気持のするほど、それは様子が好かった。
 客車に乗ってからも、お島は窓の前に立って、元気よく話を交えていたが、そのうちに汽車がするする出て行った。
「そのうち景気が直ったら、一度温泉へでも来るさ」
 浜屋は窓から顔を出して、どうかすると睫毛をぬらしているお島に、そんな事を言っていた。
 お島はとぼとぼと構内を出て来たが、やっぱり後髪を引るるような未練が残っていた。
 盆が来ると、お島は顧客先への配りものやら、方々への支払やらで気忙しいその日その日を送っていた。そして着いてから葉書をよこした浜屋のことも忘れがちでいたが、自分たちの不幸な夫婦であったことが、一層判って来たような気がした。お島は時々その事に思い耽っているのであったが、それを小野田に感づかれるのが、不安であった。お島は可恥しい自分の秘密な経験を押隠すことを怠らなかった。
 暑い盛に博覧会が閉されてから、お島たちの居周の町々には、急に潮がひいたように寂しさが襲って来たと同時に、二人の店にもこれまで紛らされていたような、頽廃の色が、まざまざと目に見えて来た。
 多くの建物の、日に日に壊されて行く上野を、店を支えるための金策の奔走などで、毎日のようにお島は通った。やがてまた持切れそうもない今の家を一思いに放擲して了いたいような気分になっていた。
「ここは縁起がわるいから、私たちはまたどこかで新規蒔直しです」
 ここへ引移って来てから、貸越の大分たまって来ている羅紗の仲買などに、お島は投出したような棄鉢な調子で言っていた。

     九十九

 本郷の通りの方で、第四番目にお島たちが取着いて行った家を、すっかり手を入れて、洋風の可也な店つきにすると同時に、棚に羅紗などを積むことができたのは、それから二三年もたって、店の名が相応に人に知られてからであったが、最初二人がそこへ引移っていった時には、店へ飾るものといっては何一つなかった。
 愛宕時代に傭ったのとは、また別の方面から、お島が大工などを頼んで来たとき、二人の懐ろには、店を板敷にしたり、棚を張ったりするために必要な板一枚買うだけの金すらなかったのであったが、新しいものを築き創めるのに多分の興味と刺戟とを感ずる彼女は、際どいところで、思いもかけない生活の弾力性を喚起されたりした。
「面倒ですから、材料も私の方から運びましょうか」
 父親の縁故から知っている或叩き大工のあることを想出して、そこへ駈つけていった彼女は、仕事を拡張する意味で普請を嘱んだところで、彼は呑込顔にそう言って引受けた。
「そうしてもらいましょうよ。私達は材料を詮議している隙なんかないんだから」
 材木がやがて彼等の手によって、車で運びこまれた。
「どうです、訳あないじゃありませんか」
 大工が仕事を初めたところで、釘をすら買うべき小銭に事かいていたお島は、また近所の金物屋から、それを取寄せる智慧を欠かなかった。
「これから普請の出来あがるまで、何かまたちょいちょい貰いに来るのに、一々お金を出すのも面倒ですから、お帳面にしておいて下さいよ。少しばかりお手つけをおいてきましょう」
 お島は夜を待つまもなく、小僧の順吉に脊負いださせた蒲団に替えた、少ばかりの金のうちから、いくらか取出してそれを渡した。その蒲団は、彼女が鶴さん時代から持古している銘仙ものの代物であった。
「乗るか反るか、お上さんはここで最後の運を試すんだよ」
 萌黄の風呂敷に裹んだその蒲団を脊負いださせるとき、お島は気嵩な調子で、その時までついて来た順吉を励した。
「お前もその意でやっておくれ。この恩はお上さん一生忘れないよ」
 涙含んだような顔をして、それを脊負って行く順吉のいじらしい後姿を見送っているお島の目には、涙が入染んで来た。
「どうでしょう。職人は小い時分から手なずけなくちゃ駄目だね。順吉だけは、どうか渡職人の風に染ましたくないもんだ。それだけでも私たちは茫然しちゃいられない」
 お島は大工の仕事を見ている、小野田の傍へ来て呟いた。
 表では大工が、二人ばかりの下を使って、せっせっと木拵えに働いていた。

     百

 あらかた出来あがったところで、大工の手を離れた店の飾窓や、入口の戸に張るべき硝子を、お島が小野田に言われて、根津に家を持ったときから顔を知られている或硝子屋へ懸けあいに行ったのは、それから間もなくであった。
 お島はその日も、新しい店を持った吹聴かたがた、朝から顧客まわりをして、三時頃にやっと帰って来たが、夏場はどこでも註文がなくて、代りに一つ二つの直しものを受取ったきりであった。
 外は黄熟した八月の暑熱が、じりじり大地に滲透るようであった。蝉の声などのまだ木蔭に涼しく聞かれる頃に、家を出ていった彼女は、行く先々で、取るべき金の当がはずれたり、主が旅行中であったりした。古くからの昵みの家では、彼女は病気をしている子供のために、氷を取替えたり、団扇で煽いだりして、三時間も人々に代って看護をしていたりして、目がくらくらするほど空腹を感じて来た頃に、家へ帰って来たのであった。
 家では大工がみんな昼寝をしていた。小野田もミシン台をすえた奥の六畳の涼しい窓の下で、横わっていた。
 お島はそこらをがたぴし言わせて、着替などをしていた。根津の家を引払う前に、田舎へ還してしまった父親の毎日々々飲みつづけた酒代の、したたか滞っている酒屋の註文聞の一人に、途中で出逢って、自分の方からその男に声をかけて来なければならなかったことなどが、一層彼女の頭脳をむしゃくしゃさせていた。小野田がその父親を呼寄せさえしなければ、あの家もどうか恁か持続けて行けたように考えられた。あの飲んだくれのために、どのくらい自分の頭脳が掻廻され、働きが鈍らされたか知れないと思った。
「撲のめしても飽足りない奴だ」
 お島は、酔ったまぎれに自分を離縁しろといって、小野田を手甲擦らせていたと云う父親の言分から、内輪が大揉めにもめて、到頭田舎へ帰って行くことになった父親に対する憎悪が、また胸に燃えたって来るのを覚えた。小野田の寝顔までが腹立しく見返えられた。
「せっせと仕事をして下さいよ。莫迦みたいな顔して寝ていちゃ困りますよ」
 小野田が薄目をあいて、ちろりと彼女の顔を見たとき、お島はいらいらした声で言った。
 お島は台所で飯を食べている時分に、やっと小野田はのそのそ起出して来た。
「仕事々々って、そうがみがみ言ったって仕事ができるもんじゃないよ」
 小野田は火鉢の傍へ来て、莨をふかしはじめながら、まだ眠足りないような赭い目をお島の方へ向けた。
「それよりか硝子の工面もしなければならず、店だって飾なしにおかれやしない」
「知らないよ、私は。自分でもちっと心配するがいいんだ」お島は言返した。

     百一

 小野田はそこへ脱ぎっぱなしにしたお島の汗ばんだ襦袢や帯が目に入ったり、不断著を取出すために引掻まわした押入のどさくさした様子などを見ると、とても世帯は持てない女だといって、自分のために離縁を勧めた父親の辞が思い出された。
「技倆があるか何だか知らんが、まあ大変なもんだ。とても女とは思えんの」
 そうも言って、荒いお島の調子に驚いていた父親の善良そうな顔も思出された。
「朝から出て、あれは一日どこを何をして歩いてるだい」
 父親はそうも言って、不思議がったが、お島自身に言わせると、朝は誰かが台所働きをしてくれて、気持よく家を出なければ、とても調子よく外で働くことはできないというのであった。帰って来た時にも、自分を迎えてくれる衆の好い顔をでも見なければ埋らないと言うのであった。それで小野田は順吉と一緒に、どうかすると七輪に火をおこしたり、漬物桶へ手を入れたりすることを行っているのであったが、お島が一人で面白がってやっている顧客まわりも、集金の段になってくると、やっぱり小野田自身が出て行くより外ないようなことが多かった。
 夕方にお島は機嫌を直して、硝子屋の方へ出て行った。
「この店さえ出来あがれば、少し資本を拵えて、夏の末には己が新趣向の広告をまいて、有ゆる中学の制服を取ろうと思っている」
 小野田はそう言って、この頃から考えていた自分の平易で実行し易いような企劃をお島に話した。
「それには女唐服を着て、お前が諸学校へ入込んで行かなければならぬのだがね」
「駄目です駄目です。制服なんかやったって、どれだけ儲かるもんですか」
 そんな際物仕事が、自分の顔にでもかかるか何かのように考えているお島は、そう言って反抗したが、好い客を惹着けるような立派な場所と店と資本とをもたない自分達に取っては、そうでもして数でこなすより外ないことを小野田は主張した。
 学生相手の確なことはお島も知っていた。洋服姿で、若い学生だちの集りのなかへ入って行く自分の姿を想像するだけでも、彼女は不思議な興味を唆られた。
「そうすると、お前の顔は直きに学生仲間に広まってしまうよ」
 小野田はその妻や娘を売物にすることを能く知っている、思附のある興行師か何ぞのような自分の計劃で、成功と虚栄に渇いている彼女を使嗾する術を得たかのように、自信のある目を輝かしていた。
「ふむ」お島は自分がいつからかぼんやり望んでいたことを、小野田が探りあててくれたような興味を感じた。男が頼もしい悧巧もののように思えて来た。
「それは確にあたるね」お島はそういって賛成した。

     百二

 横浜に店を出している知合いの女唐服屋で、お島が工面した金で自分の身装をすっかり拵えて来たのは、それから大分たってからであった。
 新築の家はすっかり出来あがって、硝子もはまった飾窓に、小野田が柳原から見つけて買って来た古い大礼服の金モオルなどが光っていた。
 一度姿見を買ったことのある硝子屋では、主人はその申込を最初は断ったが、お島のことを知っている息子が、自分で引受けて要るだけの硝子を入れてくれた。
「老爺はああいいますけれど、お上さんの気前を買って、私がお貸し申しましょう。だから入れられるだけ入れてみて下さい。倒されればそれまでです」
 そしてその翌朝、彼は小僧と一緒に硝子を運びこんで、それを飾窓や入口のドアなどに切はめてくれた。
「お前さんは若いにしては感心だよ。そう云う風に出られると、誰だって贔屓にしないじゃいられないからね。また好いお得意をどっさり世話してあげますよ」
 お島はそう言って、その硝子屋を還した。
 看板を書くために、ペンキ屋が来たり、小野田が自転車で飛して、方々当ってみてあるいた羅紗のサンプルが持込まれたり、スタイルの画見本の額が、店に飾られたりした。
 白い夏の女唐服に、水色のリボンの捲かれた深い麦稈帽子を冠って、お島が得意まわりをしはじめるようになったのは、それから大分たってからであった。
「どうです、似合いますか」などと、お島は姿見の前を離れて、その頃また来ることになった木村という職人や小野田の前に立った。コルセットで締つけられた、太い胴が息がつまるほど苦しかった。皮膚の汚点や何かを隠すために、こってり塗りたてた顔が、凄艶なような蒼味を帯びてみえた。
「莫迦に若くみえるね。少くとも布哇あたりから帰って来た手品師くらいには踏めますぜ」木村は笑った。
 お島はその身装で、親しくしているお顧客をまわって行った。その中には若い歯科医や弁護士などもあった。
「どこの西洋美人がやって来たかと思ったら、君か」
 途中で行逢った若い学生たちは、そういって不思議な彼女の姿に目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1-88-85、190-14]った。
「その身装で、ぜひ僕んとこへもやって来てくれたまえ」
 彼等の或者は、肉づきの柔かい彼女の手に握手をして、別れて行ったりした。
「洋服はばかに評判がいいんですよ」
 お島は日の暮に帰って来ると、急いで窮屈なコルセットをはずしてもらうのであったが、薄桃色肉のぽちゃぽちゃした体が、はじめて自分のものらしい気がした。
 小野田は色々の学校へ新に入学した学生たちの間に撒くべき、広告札の意匠などに一日腐心していた。

     百三

 時間割表などの刷込まれた、二つ折小形のその広告札を、羅紗の袋に入れて、お島は朝早く新入生などの多く出入する学校の門の入口に立った。
「どうぞどっさりお持くださいまし。そして皆さん方へも、お拡めなすって下さいまし」お島はそう云って、それを彼等の手に渡した。
「私どもでは皆さんの御便宜を図って、羅紗屋と特約を結んで、精々勉強いたしますから、どうぞ御贔屓に……スタイルも極斬新でございます」彼女はそうも云って、面白そうに集ってくる若い人達の心を惹着けた。
「安いね」
「洋行がえりの洋服屋だとさ」
 学生たちは口々に私語きあった。
「おいおい、引札を撒くことは止めてもらおう。此方ではそれぞれ規定の洋服屋があるから」
 門番や小使たちは、学生の手から校庭へ撒棄てられる引札を煩がって、彼女を逐攘おうとした。
 お島は時とすると、札を二三枚ポケットから取出して、彼等の手に渡した。そして学校の事務員にまで取入ることを怠らなかった。
「品物を好くして、安く勉強すると云うなら、どこで拵えるのも同じだから、学生を勧誘するのも君の自由だがね」
 事務員はそう云って、彼女の出入に黙諾を与えてくれたりした。
 広い運動場に集っている生徒のなかへ、お島の洋服姿が現れて行った。
 時には一つの学校から、他の学校へ彼女は腕車を飛しなどして、せり込んで行く多くの同業者と劇しい競争を試みることに、深い興味を感じた。
 小野田や職人たちが、まだぐっすり眠っているうちに、お島は床を離れて、化粧をするために大きい姿見の前に立った。そして手ばしこくコルセットをはめたり、漸く着なれたペチコオトを着けたりした。洋服がすっかり体に喰っついて、ぽちゃぽちゃした肉を締つけられるようなのが、心持よかった。そして小いしなやかな足に、踵の高い靴をはくと、自然に軽く手足に弾力が出て来て、前へはずむようであった。ぞべらぞべらした日本服や、ぎごちない丸髷姿では、とても入って行けない場所へ、彼女の心は、何の羞恥も億劫さも感ずることなしに、自由に飛込んで行くことができた。
 朝おきると、懈い彼女の体が、直にそれらの軽快な服装を要求した。不思議なほど気持の引締ってくるのを覚えた。朝露にまだしっとりとしているような通りを、お島は一朝でも、洋服で出て行かない日があると、一日気分が悪かった。
 自転車で納めものを運んで行く小野田が、どうかすると途中で彼女の側へ寄って来た。
「惜い事には丈が足りないね」
 小野田は胴幅などの広い彼女の姿を眺めながら言った。
「どうせ労働服ですもの、様子なんぞに介意っていられるもんですか」
 二人は暫く歩きながら話した。

     百四

 月が十月へ入ってから、撒いておいた広告の著しい効験で、冬の制服や頭巾つきの外套の註文などが、どしどし入って来た。その頃から工場には職人の数も殖えて来た。徒歩の目弛いのに気を腐していたお島は、小野田の勧めで、自転車に乗る練習をはじめていた。
 晩方になると、彼女は小野田と一緒に、そこから五六丁隔った原っぱの方へ、近所で月賦払いで買入れた女乗の自転車を引出して行った。一月の余も冠った冠物が暑い夏の日に焦け、リボンも砂埃に汚れていた。お島はその冠物の肩までかかった丸い脊を屈めて、夕暗のなかを、小野田についていて貰って、ハンドルを把ることを学んだ。
 近いうちに家が建つことになっているその原には、桐の木やアカシヤなどが、昼でも涼しい蔭を作っていた。夏草が菁々と生繁って、崖のうえには新しい家が立駢んでいた。
 そこらが全く夜の帷に蔽い裹まるる頃まで、草原を乗まわしている、彼女の白い姿が、往来の人たちの目を惹いた。
 木の蔭に乗物を立てかけておいて、お島は疲れた体を、草のうえに休めるために跪坐んだ。裳裾や靴足袋にはしとしと水分が湿って、草間から虫が啼いていた。
 お島はじっとり汗ばんだ体に風を入れながら、鬱陶しい冠ものを取って、軽い疲労と、健やかな血行の快い音に酔っていた。腿と臀部との肉に懈い痛みを覚えた。小野田は彼女の肉体に、生理的傷害の来ることを虞れて、時々それを気にしていたが、自転車で町を疾走するときの自分の姿に憧れているようなお島は、それを考える余裕すらなかった。
「少しくらい体を傷めたって、介意うもんですか。私たちは何か異ったことをしなければ、とても女で売出せやしませんよ」
 お島はそう言って、またハンドルに掴まった。
 朝はやく、彼女は独でそこへ乗出して行くほど、手があがって来た。そして濛靄の顔にかかるような木蔭を、そっちこっち乗りまわした。秋らしい風が裾に孕んで、草の実が淡青く白い地についた。崖のうえの垣根から、書生や女たちの、不思議そうに覗いている顔が見えたりした。土堤の小径から、子供たちの投げる小石が、草のなかに落ちたりした。
「おそろしい疲れるもんですね」
 一月ほどの練習をつんでから、初めて銀座の方へ材料の仕入に出かけて行って、帰って来たお島は、自転車を店頭へ引入れると、がっかりしたような顔をして、そこに立っていた。
「須田町から先は、自分ながら可怕くて為様がなかったの。だけど訳はない。二三度乗まわせば急度平気になれます」お島は自信ありそうに言った。[#「言った」は底本では「言つた」]

     百五

 忙しいその一冬を自転車に乗づめで、閑な二月が来たとき、お島は時々疑問にしていながら、診てもらうのを厭がっていた、自分の体をふとした機会から、病院で医者に診せた。
「……毛がすっかり擦切れてしまったところを見ると、余程毒なもんですね」
 お島はそう言って、そこを小野田に見せたりなどしていたが、それはそれで真の外面の傷害に過ぎないらしかった。
 その病院では、お島の親しい歯科医の細君が、腹部の切開で入院していた。そこへお島は時々見舞に行った。
 そんなところへも自分の商売を広告するつもりで、看護婦や下足番などへの心づけに、切放れの好いお島は、直に彼等とも友達になったが、一二度体を診てもらううちに、親しい口を利きあう若い医師が、二人も三人もできた。
 段々肥立って来た、売色あがりの細君の傍で、お島は持って行った花を花瓶に挿したり、薄くなった頭髪に櫛を入れて、束ねてやったりして、半日も話相手になっていた。
「どう云うんでしょう、私の体は……」
 お島は看護婦などのいる傍で、いつかも印判屋の上さんに訊ねたと同じことを言出した。
「夫婦の交際なんてものは、私にはただ苦しいばかりです。何の意味もありません」
「それは貴女がどうかしてるのよ」
 患者は日ましに血色のよくなって来た顔に、血の気のさしたような美しい笑顔を向けて、お島の顔を眺めた。
「でも可笑いんですの。こんなことを言うのは、自分の恥を曝すようなもんですけれど、実際あの人が変なんです」
 お島は紅い顔をして言った。
「ええ、そんな人も千人に一人はありますね」
 お島が診てもらった医者に、それを言出すほど気がおけなくなったとき、彼はそう言って笑っていた。
 位置が少し変っているといわれた自分の体を、お島はそれまでに、もう幾度も療治をしてもらいに通ったのであった。
「当分自転車をおやめなさい。圧迫するといけない」
 お島は苦しい療治にかかった最初の日から、そう言われて毎日和服で外出をしていた。
 長いお島の病院がよいの間、小野田が、多く外まわりに自転車で乗出した。
 顧客先で、小野田が知合になった生花の先生が出入りしたり、蓄音器を買込んだりするほど、その頃景気づいて来ていた店の経済が、暗いお島などの頭脳では、ちょと考えられないほど、貸や借の紛紜が複雑になっていたが、それはそれとして、身装などのめっきり華美になった彼女は、その日その日の明い気持で、生活の新しい幸福を予期しながら、病院の門を潜った。

     百六

 小野田は時々外廻りに歩いて、あとは大抵店で裁をやっていたが、隙がありさえすれば蓄音器を弄っていた。楽遊や奈良丸の浪華節に聴惚れているかと思うと、いつかうとうと眠っているようなことが多かった。
 しげしげ足を運んでくる生花の先生は、小野田が段々好いお顧客へ出入りするようになったお島に習わせるつもりで、頼んだのであったが、一度も花活の前に坐ったことのない彼女の代りに、自身二階で時々無器用な手容をして、ずんどのなかへ花を挿しているのを、お島は見かけた。
 もと人の妾などをしていたと云う不幸なその女は、どうかすると二時間も三時間も遊んで帰ることがあった。上方に近い優しい口の利き方などをして、名古屋育ちの小野田とはうま[#「うま」に傍点]が合っていた。
「私だって偶には逆様にお花も活けてみとうございますよ」
 外から帰って、ふと二階の梯子をあがって行くお島の耳に、その日も午から来て話込んでいたその年増の媚めかしい笑い声が洩れ聞えた。嫉妬と挑発とが、彼女の心に発作的におこって来た。
 女が帰って行くとき、お島はいきなり帳場の方から顔を出して行った。
「お気毒さまですがね、宅はお花なんか習っている隙はないんですから、今日きり私からお断りいたします」
 お島は硬ばった神経を、強いておさえるようにして、そう言いながら謝礼金の包を前においた。
 もう三十七八ともみえる女は、その時も綺麗に小皺の寄った荒んだ顔に薄化粧などをして、古いお召の被布姿で来ていたが、お島の権幕に怯じおそれたように、悄々出ていった。
「この莫迦!」
 二階へ駈あがって往ったお島は、いきなり小野田に浴せかけた。毎日鬢や前髪を大きくふっくらと取った丸髷姿で出ていた彼女は、大きな紋のついた羽織もぬがずに、外眦をきりきりさせてそこに突立っていた。
「髯なんかはやして、あんなものにでれでれしているなんて、お前さんも余程な薄野呂だね」
 お島はそう言いながら、そこにあった花屑を取あげて、のそりとしている小野田の顔へ叩きつけた。吊あがったような充血した目に、涙がにじみ出ていた。
「何をする」
 小野田も怒りだして、そこにあった水差を取ってお島に投げつけた。彼女の御召の小袖から、水がだらだらと垂れた。
 負けぬ気になって、お島も床の間に活かったばかりの花を顛覆えして、へし折りへし折りして小野田に投りつけた。
 劇しい格闘が、直に二人のあいだに初まった。小野田が力づよい手を弛めたときには、彼女の鬢がばらばらに紊れていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。

     百七

 二人が階下へおりていったのは、もう電燈の来る時分であった。病院通いをするようになってから、可恐しいものに触れるような気がして、絶えて良人の側へ寄らなかった彼女は、その時も二人の肉体に同じような失望を感じながら、そこを離れたのであった。
「あなたは別に女をもって下さい」
 お島はそう言って、根津にいた頃近所の上さんに勧められて、小野田が時々逢ったことのある女をでも、小野田に取戻そうかとさえ考えていた。
「そうでもしなければ、とてもこの商売はやって行けない」お島はそうも考えた。
 産れが好いとかいわれていたその女は、ここへ引越してからも、一二度店頭へ訪ねて来たことがあったが、お島はそれの始末をつけるために、砲兵工廠の方へ通っている或男を見つけて、二人を夫婦にしてやったのであった。
 小野田がどうかすると、その女のことを思い出して、裏店住いをしている、戸崎町の方へ訪ねて行くことを、お島もうすうす感づいていた。
「あの女はどうしました」
 お島は思出したように、それを小野田に訊ねたが、その頃は食物屋などに奉公していた当座で、いくらか身綺麗にしていた女は、亭主持になってからすっかり身装などを崩しているのであった。
「いくら向うに未練があったって、あの頃とは違いますよ。亭主のあるものに手を出して、呶鳴込まれたらどうするんです」
 小野田がまだ全く忘れることのできないその女のことを口にすると、お島はそう言って窘めたが、別れてからも、小野田に執着を持っている女を不思議に思った。
「あいつの亭主は、そんな事を怒るような男じゃない、おれがあいつの世話をしていたことも、ちゃんと知っていて、今でもそういうことには無神経でいるんだ」
 小野田はそう言って笑っていた。
 二三日前から、また時々自転車で乗出すことにしていたお島が、ある晩九時頃に家へ帰って来ると、女から、呼出をかけられて、小野田は家にいなかった。
「どこへ行ったえ」
 お島は何のことにも能く気のつく順吉に、私とたずねた。
「白山から来たと云って、若い衆が手紙を持って、迎いに来ましたよ。私が取次いだんだから、間違いはありません」
 順吉はそう云って、まだ洋服もぬがずにいるお島の血相のかわった顔を眺めていた。
「じゃまた何処かで媾曳してるんだろうよ。上さん今夜こそは一つ突止めてやらなくちゃ……」
 お島は急いでコルセットなどを取はずすと、和服に着替えて、外へ飛出していった。時々小野田の飲みに行く家を彼女は思出さずにはいられなかった。

     百八

 秘密な会合をお島に見出されたその女は、その時から頭脳に変調を来して、幾夜かのあいだお島たちの店頭へ立って、呶鳴ったり泣いたりした。
 女はお島に踏込まれたとき、真蒼になって裏の廊下へ飛出したのであったが、その時段梯子の上まで追っかけて来たお島の形相の凄さに、取殺されでもするような恐怖にわななきながら、一散に外へ駈出した。
「この義理しらずの畜生!」
 お島は部屋へ入って来ると、いきなり呶鳴りつけた。野獣のような彼女の体に抑えることが出来ない狂暴の血が焦けただれたように渦をまいていた。
 締切ったその二階の小室には、かっかと燃え照っている強い瓦斯の下に、酒の匂いなどが漂って、耳に伝わる甘い私語の声が、燃えつくような彼女の頭脳を、劇しく刺戟した。白い女のゴム櫛などが、彼女の血走った目に異常な衝動を与えた。
 手に傷などを負って、二人がそこを出たときには、春雨のような雨が、ぼつぼつ顔にかかって来た。
 まだ人通りのぼつぼつある、静かな春の宵に、女は店頭へ来て、飾窓の硝子に小石を撒きちらしたり、ヒステリックな蒼白い笑顔を、ふいにドアのなかへ現わしたりした。
「お上さんはいるの」
 女は臆病らしく奥口を覗いたりした。
「旦那をちょっと此処へ呼んで下さいな」
 女はそう言って、しつこく小僧に頼んだ。
 小僧は面白そうに、にやにや笑っていた。
「旦那は今いないんだがね、お前さんも亭主があるんだから、早く帰って休んだら可いだろう」
 お島は側へ来て、やさしく声かけた。そして幾許かの金を、小い彼女の掌に載せてやった。
 女はにやにやと笑って、金を眺めていたが、投げつけるようにしてそれを押戻した。
「わたしお金なんか貰いに来たのじゃなくてよ。私を旦那に逢わしてください」
 女はそこを逐攘われると、外へ出ていつまでもぶつぶつ言っていた。そして男の帰って来るのを待っているか何ぞのように其処らをうろうろしていた。
「そっちに言分があれば、此方にだって言分がありますよ」
 亭主から頼まれたと云って、四十左右の遊人風の男が、押込んで来たとき、お島はそう言って応対した。そして話が込入って来たときに、彼女の口から洩れた、伯父の名が、その男を全くその談から手を引かしめてしまった。顔利であった伯父の名が、世話になったことのあるその男を反対に彼女の味方にして了うことができた。

     百九

 親思いの小野田が、田舎ではまだ物珍しがられる蓄音器などをさげて、根津の店が失敗したおりに逐返したきりになっている、父親を悦ばせに行った頃には、彼が留守になっても差閊えぬだけの、裁の上手な若い男などが来ていた。
 知った職人が、この頃小野田の裁を飽足らず思っているお島に、その男を周旋したのは、間服の註文などの盛んに出た四月の頃であったが、その職人は、来た時からお島の気に入っていた。
 自分でも店を有ったりした経験のある、その職人は、最近に一緒にいた女と別れてそれまで持っていた世帯を畳んで、また職人の群へ陥ちて来たのであったが、悪いものには滅多に剪刀を下そうとしない、彼の手に裁たれ、縫わるる服は、得意先でも評判がよかった。おっつけ仕事を間に合すことのできないその器用な遅い仕事振を、お島は時々傍から見ていた。体つきのすんなりしたその様子や、世間に明いその男は、お島たちの見も聞きもしたことのないような世界を知っていたが、親しくなるにつれて小野田と酒などを飲んでいるときに、ちょいちょい口にする自分自身の情話などが、一層彼女の心を惹いた。
「こんな仕事を私にさせちゃ損ですよ」
 彼はそう云って、どんな忙しい時でも下等な仕事には手をつけることを肯じなかった。
「それじゃお前さんは貧乏する訳さね」
 お島も躯の弱いその男を、そんな仕事に不断に働かせるのを、痛々しく思った。
「それにお前さんは人品がいいから、身が持てないんだよ」
 お島は話ぶりなどに愛嬌のあるその男の傍にすわっていると、自然に顔を赧くしたりした。黒子のような、青い小い入墨が、それを入れたとき握合った女とのなかについて、お島に異様な憧憬をそそった。
「いくつの時分さ」
 お島はその手の入墨を発見したとき、耳の附根まで紅くして、猥な目を※[#「※」は「目+爭」、第3水準1-88-85、204-3]った。男はえへらえへらと、締のない口元に笑った。
「あっしが十六ぐらいのときでしたろう」
「その女はどうしたの」
「どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう疾のむかしに忘れっちゃったんで……」
 暮に彼の手によって、濁ったところへ沈められた若い女のことが、まだ頭脳に残っていた。
「そんな薄情な男は、私は嫌いさ」
 お島はそう言って笑ったが、男がその時々に、さばさばしたような気持で、棄てて来た多くの女などに関する閲歴が、彼女の心を蕩かすような不思議な力をもっていた。
 蓄音器に、レコードを取かえながら、薄ら眠い目をしている小野田の傍をはなれて、お島はその男と、そんな話に耽った。

     百十

 小野田が田舎へ立ってから間もなく、急に浜屋に逢う必要を感じて来たお島が、その男に後を頼んで、上野から山へ旅立ったのは、初夏のある日の朝であった。
 病院で躯の療治をしてからのお島は、先天的に欠陥のない自分の肉体に確信が出来たと同時に、今まで小野田から受けていた圧迫の償いをどこかに求めたい願いが、彼女の頭脳に色々の好奇な期待と慾望とを湧かさしめた。いつからか朧げに抱いていた生理的精神的不満が、若いその職人のエロチックな話などから、一層誘発されずにはいなかった。
 そしてそれを考えるときに、彼女はその対象として、浜屋を心に描いた。
「あの人に一度逢って来よう。そして自分の疑いを質そう」
 お島はそれを思いたつと、一日も早くその男の傍へ行って見たかった。
 一つはそれを避けるために田舎へ帰った小野田がいなくなってからも、まだ時々店頭へ来て暴れたり呶鳴ったりする狂女が、巣鴨の病院へ送込まれてから、お島はやっと思出の多いその山へ旅立つことができた。
 全く色情狂に陥ったその女は、小野田が姿を見せなくなってからは、一層心が狂っていた。そして近所の普請場から鉋屑や木屑をを拾い集めて来て、お島の家の裏手から火をかけようとさえするところを、見つけられたりした。
 近所の人だちの願出によって、警察へ引張られた彼女が、梁から逆さにつられて、目口へ水を浴せられたりするところを、お島も一度は傍で見せつけられた。
「水をかけられても、目をつぶらないところを見ると、これは確に狂気です」
 責道具などの懸けられてあるその室で、お島は係の警官から、笑いながらそんな事を言われた。
「私は二三日で帰って来ますからね、留守をお頼み申しますよ」
 お島は立つ前の晩にも、その職人に好きな酒を飲ませたり、小遣をくれたりして頼んだ。
「多分それまでに帰ってくるようなことはないだろうと思うけれど、偶然として良人が帰って来たら、巧い工合に話しておいて下さいよ。前に縁づいていた人のお墓参りに行ったとそう言ってね」
 お島は顔を赧らめながら言った。
「可ござんすとも。ゆっくり行っておいでなさいまし」
 その男はそう言って潔く引受けたが、胡散な目をして笑っていた。
「真実にわたし恁ういう人があるんです」
 お島は終いにそれを言出さずにはいられなかった。
「けどこれだけはあの人には秘密ですよ」

     百十一

 博覧会時分に上京して来た、山の人たちに威張って逢えるだけの身のまわりを拵えて、お島があわただしい思いで上野から出発したのは、六月の初めであった。
 四五年前に、兄に唆かされて行った頃の暗い悲しい心持などは、今度の旅行には見られなかったが、秘密な歓楽の果をでも偸みに行くような不安が、汽車に乗ってからも、時々彼女の頭脳を曇らした。
 汽車の通って行く平野のどこを眺めても、昔しの記憶は浮ばなかった。大宮だとか高崎だとかいうような、大きなステーションへ入るごとに、彼女は窓から首を出して、四下を眺めていたが、しばらく東京を離れたことのない彼女には、どこも初めてのように印象が新しかった。高崎では、そこから岐れて伊香保へでも行くらしい男女の楽しい旅の明い姿の幾組かが、彼女の目についた。蓄音器をさげて父親を悦ばせに行った小野田が思出された。不恰好な洋服を着たり、自転車に乗ったりして、一年中働いている自分が、都て見くびっているつもりの男のために、好い工合に駆使されているのだとさえしか思われなかった。
「わたしは莫迦だね。浜屋に逢いに行くのにさえ、こんなに気兼をしなくてはならない。あの人はこれまでに、私に何をしてくれたろう」
 お島は口を利くものもない客車のなかで、静かに東京の埃のなかで活動している自分の姿が考えられるような気がした。慾得のためにのみ一緒になっているとしか思えない小野田に対する我儘な反抗心が、彼女の頭脳をそうも偏傾せしめた。何のために血眼になって働いて来たか解らないような、孤独の寂しさが、心に沁拡がって来た。
 桐の花などの咲いている、夏の繁みの濃い平野を横ぎって、汽車はいつしか山へさしかかっていた。高崎あたりでは日光のみえていた梅雨時の空が、山へ入るにつれて陰鬱に曇っているのに気がついた。窓のつい眼のさきにある山の姿が、淡墨で刷いたように、水霧に裹まれて、目近の雑木の小枝や、崖の草の葉などに漂うている雲が、しぶきのような水滴を滴垂らしていたりした。白い岩のうえに、目のさめるような躑躅が、古風の屏風の絵にでもある様な鮮かさで、咲いていたりした。水がその巌間から流れおちていた。
 深い渓や、高い山を幾つとなく送ったり迎えたりするあいだに、汽車は幾度となく高原地の静なステーションに停まった。旅客たちは敬虔なような目を側だてて、山の姿を眺めた。
 ステーションへつく度に、お島は待遠しいような気がいらいらいした。
 山の町近くへ来たのは、午後の四時頃であった。糠のような雨が、そのあたりでも窓硝子を曇らしていた。

     百十二

 目ざす町に近い或小駅で、お島は乗込んで来る三四人の新しい乗客が、自分の向側へ来て坐るのを見た。
 それらの人は、どこかこの近辺の温泉場へでも遊びに行って来たものらしく、汽車が動きだしてからも、手々にそんな話に耽っていた。山の町の人達の噂も、彼等の口に上ったが、浜屋々々と云う辞が、一層お島の耳についた。汽車の窓から、首をのばして彼等の見ている山の形が、ふと浜屋の記憶を彼等に喚起したのであった。その山は、そこから二三里の先の灰色の水霧のなかに幽かな姿を見せていた。
「あなた方はS――町の方のようですが、浜屋さんがどうかしましたのですか」
 お島は、断々に耳につくその話に、ふと不安を感じながら訊いた。
「私は東京から、あの人に少し用事があって来たものですが、お話の様子では、あの人があの山のなかで何か災難にでも逢ったと云うのでしょうか」
 遊女屋の主人か、芸者町の顔利かと云うような、それらの人たちは、みんなお島の方へその目を注いだ。
 金歯などをぎらぎらさせたその中の一人の話によると、浜屋は近頃自分の手に買取ったその山のある一部の森林を見廻っているとき、雨あがりの桟道にかけてある橋の板を踏すべらして、崖へ転り陥ちて怪我をしてから、病院へ担ぎこまれて、間もなく死んでしまったと云うのであった。
 お島はそれを聴いたとき、あの男が、そんな不幸な死方をしたとは、信じられなかったが、その死の日や刻限までを聴知ってから、次第にその確実さが感じられて来た。
「すれば、あの人の霊が、私をここへ引寄せたのかもしれない」
 お島はそうも考えながら、次第に深い失望と哀愁のなかへ心が浸されて行くのを感じた。
 浜屋へついたのは、日の暮方であった。以前よく往来をしたステーションの広場には、新しい家などが建っているのが二三目についたが、俥のうえから見る大通りは、どこもかしこも変りはなかった。雨がはれあがって、しめっぽい六月の空の下に、高原地の古い町が、澱んだような静さと寂しさとで、彼女の曇んだ目に映った。
 お島はその夜一夜は、むかし自分の拭掃除などをした浜屋の二階の一室に泊って、翌る日は、町のはずれにある菩提所へ墓まいりに行った。その寺は、松や杉などの深い木立のなかにある坂路のうえにあった。
 松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着の喘ぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。
 半日を浜屋で暮して、十二時頃お島はまた汽車に乗った。
「どこか温泉で二三日遊んでいこう」
 失望の安易に弛んだ彼女は、汽車のなかでそうも考えた。

     百十三

 途中汽車を乗替えたり、電車に乗ったりして、お島はその日の昼少し過ぎに、遠い山のなかの或温泉場に着いた。
 浴客はまだ何処にも輻湊していなかったし、途々見える貸別荘の門なども大方は閉っていて、松が六月の陽炎に蒼々と繁り、道ぞいの流れの向うに裾をひいている山には濃い青嵐が煙ってみえた。
 お島の導かれたのは、ある古い家建の見晴のいい二階の一室であったが、女中に浴衣に着替えさせられたり、建物のどん底にあるような浴場へ案内されたりする度に、一人客の寂しさが感ぜられた。
 浴場の窓からは、草の根から水のちびちびしみ出している赭土山が侘しげに見られ、檐端はずれに枝を差交している、山国らしい丈のひょろ長い木の梢には、小禽の声などが聞かれた。
「お一人でお寂しゅうございますでしょう」
 浴後の軽い疲をおぼえて、うっとりしているところへ、女がそう言いながら膳部を運んで来た。
 笑い声などを立てたことのない、この二日ばかりの旅が、物悲しげに思いかえされた。どこの部屋からか蓄音器が高調子に聞えていた。
 電話室へ入って、東京の自宅の様子を聞くことのできたのは、それから大分たってからであった。小野田はまだ帰っていなかった。
「好いところだよ。旦那の留守に、お前さんも一日遊びに来たらいいだろう」
 お島は四五日の逗留に、金を少し取寄せる必要を感じていたので、その事を、留守を頼んでおいた若い職人に頼んでから、そう言って誘った。
「それから順吉もつれて来て頂戴よ。あの子には散々苦労をさせて来たから、一日ゆっくり遊ばしてやりましょうよ」
 お島はそうも言って頼んだ。
 その晩は、水の音などが耳について、能くも睡られなかった。
 夜があけると、東京から人の来るのが待たれた。そして怠屈な半日をいらいらして暮しているうちに、旋て昼を大分過ぎてから二人は女中に案内されて、お島の着替えや水菓子の入った籠などをさげて、どやどやと入って来た。部屋が急に賑かになった。
「こんな時に、私も保養をしてやりましょうと思って。でも、一人じゃつまらないからね」お島は燥いだような気持で、いつになく身綺麗にして来た若い職人や、お島の放縦な調子におずおずしている順吉に話しかけた。
「医者に勧められて湯治に来たといえば、それで済むんだよ。事によったら、上さんあの店を出て、この人に裁をやってもらって、独立でやるかも知れないよ」
 お島は順吉にそうも言って、この頃考えている自分の企画をほのめかした。



底本:「あらくれ」新潮文庫、新潮社
   1949(昭和24)年10月31日発行
   1969(昭和44)年6月20日21刷改版
   1982(昭和57)年9月15日38刷
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2000年6月23日公開
2000年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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