青空文庫アーカイブ
高浜さんと私
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)「虚子《きょし》の人と芸術」について
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その頃|流行《はや》った
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(例)[#地から1字上げ](昭和五年四月、改造社『現代日本文学全集』月報)
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高浜さんとはもうずいぶん久しく会わないような気がする。丸ビルの一階をぶらつく時など、八階のホトトギス社を尋ねて一度昔話でもしてみたいような気のすることがある。今度改造社から「虚子《きょし》の人と芸術」について何か書けと言われたについて、その昔話をペンですることにする。
三十余年前のことである。熊本の高等学校を出て東京へ出て来るについて色々の期待をもっていたうちでも、一つの重要なことは正岡子規を訪問することであった。そうして、着京後間もなく根岸《ねぎし》の鶯横町《うぐいすよこちょう》というのを尋ねて行った。前田邸の門前近くで向うから来る一人の青年が妙に自分の注意を引いた。その頃|流行《はや》った鍔《つば》の広い中折帽を被《かぶ》って縞の着物、縞の羽織、それでゴム靴をはいて折カバンを小脇にかかえている、そうして非常にゆっくり落着いて歩いて来るのである。その時私は直感的に、これが虚子という人ではないかと思った。その後子規の所で出会ってその直感の的中していたことを知ったのである。中折帽に着流しでゴム靴をはいて、そしてひどく考え込んだような風でゆっくり歩いて来る姿をはっきり覚えているように思うのであるが、しかし、これはよくある覚えちがいであるかもしれない。それから前垂《まえだれ》のようなものを着けていたような気もするがこれはいっそう覚束ない。
子規に、その写生画を見せてもらっているうちに熟柿を描いたのがあった。それに、虚子|曰《いわ》く馬の肛門のようだ、という意味の言葉がかいてあった。私が笑ったら、子規は、いや本当にそう思ったのだから面白いのだと云って虚子のリマークを弁護したのであった。
子規の葬式の日、田端《たばた》の寺の門前に立って会葬者を見送っていた人々の中に、ひどく憔悴《しょうすい》したような虚子の顔を見出したことも、思い出すことの一つである。
千駄木町の夏目先生の御宅の文章会で度々|一処《いっしょ》になった。文章の読み役は多く虚子が勤めた。少し松山訛の交じった特色のある読み方で、それが当時の『ホトトギス』の気分と密接な関係のあったもののように感ぜられる。
私が生れて初めて原稿料というものを貰って自分で自分に驚いたのは「団栗」という小品に対して高浜さんから送られた小為替《こがわせ》であった。当時私は大学の講師をして月給三十五円とおやじからの仕送りで家庭をもっていたのである。かくして幼稚なるアマチュアはパトロンを得たのである。その後自分の書いたものについて、夏目先生から「今度のは虚子がほめていたよ」というような事を云われて、ひどく得意になったりしたこともあった。書かなくてもよいことを書いては恥を曝す癖のついたのはその頃からの病み付きなのである。
夏目先生、虚子、鼠骨《そこつ》、それから多分|四方太《しほうだ》も一処で神田|連雀町《れんじゃくちょう》の鶏肉屋でめしを食ったことがあった。どうした機会であったか忘れてしまった。その時鼠骨氏が色々面白い話をした中に、ある新聞記者が失敗の挙句《あげく》吾妻橋《あずまばし》から投身しようと思って、欄干から飛んだら、後向きに飛んで橋の上に落ちたという挿話があった。これが『猫』の寒月《かんげつ》君の話を導き出したものらしい。高浜さんは覚えておられるかどうか一度聞いてみたいと思っている。
虚子が小説を書き出した頃は、自分はもう一般に小説というものを読まなくなっていたので、随《したが》ってその作品も遺憾ながらほとんど読んでいない。ただ、何であったか、坊主の耳の動くことを書いてあったのを面白いと思ったことがあるくらいである。
千駄木の文章会時代のものはよく読んだ。他の連中の書くものに比べて、虚子のものには、それが表面上は単なる写生的のものでも、その裏面に何かしら夢幻的の雰囲気が漂っているような気がした。四方太氏の刻明な写生文などに比べて特にそんな気がするのであった。
近頃の『ホトトギス』で虚子の満州旅行記を時々読んでみる。やはり昔の虚子が居るような気がする。筆が洗練され、枯淡になっていても、やはりどこか昔の虚子の「三つのもの」や「石棺」時代の名残のようなものが紙面の底から浮上がって来るように私には感ぜられるのである。しかしそういう点を高浜虚子氏に対して感ずる人は割合に少ないかもしれない。丸ビル時代の『ホトトギス』しか知らない人にはちょっとそれが分りにくいのではないかと思う。
もう少しゆっくり考えてかく暇があったらもう少し面白い昔話が思い出せるかもしれないが、原稿|〆切《しめきり》という日曜日の朝のしかも出かけ前に書くのであるから遺憾ながらこれだけである。高浜さんには礼を失した点も多かろうと思うが昔に免じて御宥恕《ごゆうじょ》を願いたい。
[#地から1字上げ](昭和五年四月、改造社『現代日本文学全集』月報)
底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
1996(平成8)年12月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
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