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神話と地球物理学
寺田寅彦
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(例)皆|震《ゆ》りき
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(例)[#地から3字上げ](昭和八年八月、文学)
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われわれのように地球物理学関係の研究に従事しているものが国々の神話などを読む場合に一番気のつくことは、それらの説話の中にその国々の気候風土の特徴が濃厚に印銘されており浸潤していることである。たとえばスカンディナヴィアの神話の中には、温暖な国の住民には到底思いつかれそうもないような、驚くべき氷や雪の現象、あるいはそれを人格化し象徴化したと思われるような描写が織り込まれているのである。
それで、わが国の神話伝説中にも、そういう目で見ると、いかにも日本の国土にふさわしいような自然現象が記述的あるいは象徴的に至るところにちりばめられているのを発見する。
まず第一にこの国が島国であることが神代史の第一ページにおいてすでにきわめて明瞭《めいりょう》に表現されている。また、日本海海岸には目立たなくて太平洋岸に顕著な潮汐《ちょうせき》の現象を表徴する記事もある。
島が生まれるという記事なども、地球物理学的に解釈すると、海底火山の噴出、あるいは地震による海底の隆起によって海中に島が現われあるいは暗礁が露出する現象、あるいはまた河口における三角州の出現などを連想させるものがある。
なかんずく速須佐之男命《はやすさのおのみこと》に関する記事の中には火山現象を如実に連想させるものがはなはだ多い。たとえば「その泣きたもうさまは、青山を枯山《からやま》なす泣き枯らし、河海《うみかわ》はことごとに泣き乾《ほ》しき」というのは、何より適切に噴火のために草木が枯死し河海《うみかわ》が降灰のために埋められることを連想させる。噴火を地神の慟哭《どうこく》と見るのは適切な譬喩《ひゆ》であると言わなければなるまい。「すなわち天《あめ》にまい上ります時に、山川ことごとに動《とよ》み、国土《くにつち》皆|震《ゆ》りき」とあるのも、普通の地震よりもむしろ特に火山性地震を思わせる。「勝ちさびに天照大御神《あまてらすおおみかみ》の営田《みつくだ》の畔《あ》離《はな》ち溝《みぞ》埋《う》め、また大嘗《おおにえ》きこしめす殿に屎《くそ》まり散らしき」というのも噴火による降砂降灰の災害を暗示するようにも見られる。「その服屋《はたや》の頂《むね》をうがちて、天《あめ》の斑馬《ふちこま》を逆剥《さかは》ぎに剥《は》ぎて堕《おと》し入るる時にうんぬん」というのでも、火口から噴出された石塊が屋をうがって人を殺したということを暗示する。「すなわち高天原《たかまのはら》皆暗く、葦原中国《あしはらのなかつくに》ことごとに闇《くら》し」というのも、噴煙降灰による天地|晦冥《かいめい》の状を思わせる。「ここに万《よろず》の神の声《おとない》は、狭蠅《さばえ》なす皆|涌《わ》き」は火山鳴動の物すごい心持ちの形容にふさわしい。これらの記事を日蝕《にっしょく》に比べる説もあったようであるが、日蝕のごとき短時間の暗黒状態としては、ここに引用した以外のいろいろな記事が調和しない。神々が鏡や玉を作ったりしてあらゆる方策を講じるという顛末《てんまつ》を叙した記事は、ともかくも、相当な長い時間の経過を暗示するからである。
記紀にはないが、天手力男命《あめのたぢからおのみこと》が、引き明けた岩戸を取って投げたのが、虚空はるかにけし飛んでそれが現在の戸隠山《とがくしやま》になったという話も、やはり火山爆発という現象を夢にも知らない人の国には到底成立しにくい説話である。
誤解を防ぐために一言しておかなければならないことは、ここで自分の言おうとしていることは以上の神話が全部地球物理学的現象を人格化した記述であるという意味では決してない。神々の間に起こったいろいろな事件や葛藤《かっとう》の描写に最もふさわしいものとしてこれらの自然現象の種々相が採用されたものと解釈するほうが穏当であろうと思われるのである。
高志《こし》の八俣《やまた》の大蛇《おろち》の話も火山からふき出す熔岩流《ようがんりゅう》の光景を連想させるものである。「年ごとに来て喫《く》うなる」というのは、噴火の間歇性《かんけつせい》を暗示する。「それが目は酸漿《あかかがち》なして」とあるのは、熔岩流の末端の裂罅《れっか》から内部の灼熱部《しゃくねつぶ》が隠見する状況の記述にふさわしい。「身一つに頭《かしら》八つ尾八つあり」は熔岩流が山の谷や沢を求めて合流あるいは分流するさまを暗示する。「またその身に蘿《こけ》また檜榲《ひすぎ》生《お》い」というのは熔岩流の表面の峨々《がが》たる起伏の形容とも見られなくはない。「その長さ谿《たに》八谷《やたに》峡《お》八尾《やお》をわたりて」は、そのままにして解釈はいらない。「その腹をみれば、ことごとに常に血|爛《ただ》れたりとまおす」は、やはり側面の裂罅からうかがわれる内部の灼熱状態を示唆的にそう言ったものと考えられなくはない。「八つの門《かど》」のそれぞれに「酒船《さかぶね》を置きて」とあるのは、現在でも各地方の沢の下端によくあるような貯水池を連想させる。熔岩流がそれを目がけて沢に沿うておりて来るのは、あたかも大蛇《だいじゃ》が酒甕《さかがめ》をねらって来るようにも見られるであろう。
八十神《やそがみ》が大穴牟遅《おおなむち》の神を欺いて、赤猪《あかい》だと言ってまっかに焼けた大石を山腹に転落させる話も、やはり火山から噴出された灼熱した大石塊が急斜面を転落する光景を連想させる。
大国主神《おおくにぬしのかみ》が海岸に立って憂慮しておられたときに「海《うなばら》を光《てら》して依《よ》り来る神あり」とあるのは、あるいは電光、あるいはまたノクチルカのような夜光虫を連想させるが、また一方では、きわめてまれに日本海沿岸でも見られる北光《オーロラ》の現象をも暗示する。
出雲風土記《いずもふどき》には、神様が陸地の一片を綱でもそろもそろと引き寄せる話がある。ウェーゲナーの大陸移動説では大陸と大陸、また大陸と島嶼《とうしょ》との距離は恒同《こうどう》でなく長い年月の間にはかなり変化するものと考えられる。それで、この国曳《くにび》きの神話でも、単に無稽《むけい》な神仙譚《しんせんだん》ばかりではなくて、何かしらその中に或《あ》る事実の胚芽《はいが》を含んでいるかもしれないという想像を起こさせるのである。あるいはまた、二つの島の中間の海が漸次に浅くなって交通が容易になったというような事実があって、それがこういう神話と関連していないとも限らないのである。
神話というものの意義についてはいろいろその道の学者の説があるようであるが、以上引用した若干の例によってもわかるように、わが国の神話が地球物理学的に見てもかなりまでわが国にふさわしい真実を含んだものであるということから考えて、その他の人事的な説話の中にも、案外かなりに多くの史実あるいは史実の影像が包含されているのではないかという気がする。少なくもそういう仮定を置いた上で従来よりももう少し立ち入った神話の研究をしてもよくはないかと思うのである。
きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。少なくもわが国民の民族魂といったようなものの由来を研究する資料としては、万葉集などよりもさらにより以上に記紀の神話が重要な地位を占めるものではないかという気がする。
以上はただ一人の地球物理学者の目を通して見た日本神話観に過ぎないのであるが、ここに思うままをしるして読者の教えをこう次第である。
[#地から3字上げ](昭和八年八月、文学)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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