青空文庫アーカイブ

試験管
寺田寅彦

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白靴《しろぐつ》を出して見ると

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|靴《くつ》というものは

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+僉」、第4水準2-4-39]
-------------------------------------------------------

     一 靴のかかと

 夏になったので去年の白靴《しろぐつ》を出して見ると、かかとのゴムがだいぶすり減っている。靴自身も全体にだいぶひどくなっているから一つ新調することにした。買いに行った店にはゴムのかかとのが無かったのでそのかわりに、かかとの一隅《いちぐう》に小さな三角形の鉄片を打ちつけたのをなんの気なしに買って来た。それで、古いほうの靴は近所の靴屋へ直しにやって、そうしてこの新しいのをおろしてはいて玄関から一歩踏み出してみて、そうして驚いた。
 かかとの裏の三角形の鉄片がまず門内の敷石と摩擦してゴリゴリまたゲリゲリとすさまじい音を立てる。道路のアスファルトでも、研究所の床のコンクリートでも、どこを歩いてもこの小さな鉄片がなりに似合わぬ高く鋭い叫び声を発して自己の存在を強調する。その音が頭の頂上まで突き抜けるように響き渡って、何よりもまず気が引けるのである。人とすれちがう時などには特に意地悪くわざわざガリガリと強い音を出す。すると人がびっくりして自分の顔を見るような気がするのである。
 この一センチメートル三角ぐらいの鉄片は、言わば「やましき良心」のごとく、また因果の「人面瘡《にんめんそう》」のごとく至るところにつきまとって私を脅かすのであった。
 だれが考えたものか知らないが、この鉄片はとにかく靴のかかとの磨滅《まめつ》を防ぐために取り付けたものには相違ない。しかし元来|靴《くつ》というものは、「靴自身のかかとのすり減らないためにはくもの」ではなくて、生身の足を保護するためにはくものである。もし足はどうなってもいい、靴さえ減らなければいいというのならば、いっその事全部鋼鉄製の靴をはけばいいわけである。
 はきごこち、踏みごこちの柔らかであるということは、結局|磨滅《まめつ》しやすいということと同じことになるのではないか。靴底と地面との衝撃の結果として靴底が磨滅されるおかげで、不愉快な振動が肉体に伝わることを防止するのであろう。
 畳がすり切れて困るから、床を鋼鉄張りにするというのも同じような話である。
 こんな不平をいだいて、二三日歩き回っているうちに、不思議なことには、この靴底の三角の鉄片の存在を主張する叫び声がだんだんに、自然に弱くなって来た。ゴリゴリ、ゲリゲリと鋸《のこぎり》の目立てをするような音はほとんど聞かれなくなった。そうして、この鉄片の軽く地面をたたくコツコツという音が、次第にそれほど不愉快でなく、それどころか、おしまいにはかえって一種の適度な爽快《そうかい》な刺激として、からだを引きしめ、歩調を整えさせる拍節の音のようにも感ぜられるようになって来た。
 思うに、従来はいていた靴のかかとがだいぶ減って低くなっていたので、それに長い間慣らされた足の運びが、今度の新しい靴の少しばかり高いかかとに適応するまでに少しばかり骨が折れたものと見える。
 そのうちに、古いほうの靴のゴム底ができて来て、試みにそれをはいて歩いてみると、なるほど踏みごこちは柔らかいが、今度はあまり柔らか過ぎて、べとべとした餅《もち》の上でも歩くような気がする。はなはだたよりない気持ちがするのであった。
 これに似た他の場合を思い出す。
 半年ほど下駄《げた》というものをはかないでいる。そうして久しぶりに下駄をはいて四五町も歩くと、足一面が妙にひきつれたようになって歩けなくなる。おしまいには腰のへんまでひきつってしまう。それが、足袋《たび》をはいてだと、それほどでもないが、素足のままだと特別にひどいようである。
 はき物でさえ、そうしてはき物の大きさや素材のこんな些細《ささい》な変化でさえ、新しいものに適応するということの難儀さかげんがこれほどまでに感じられるのである。過去の世界で育ち過去の思想で固まった年寄りの自分らが、新しい世界を歩き、新しい思想に慣れるまでの難儀さ迷惑さはどのくらい大きいものか、若い人には想像するさえむつかしいであろうと思われる。

     二 草市

 七月十三日の夕方哲学者のA君と二人で、京橋《きょうばし》ぎわのあるビルディングの屋上で、品川沖《しながわおき》から運ばれて来るさわやかな涼風の流れに※[#「口+僉」、第4水準2-4-39]※[#「口+禺」、第3水準1-15-9]《けんぐ》しながら眼下に見通される銀座通《ぎんざどお》りのはなやかな照明をながめた。煤煙《ばいえん》にとざされた大都市の空に銀河は見えない代わりに、地上には金色の光の飛瀑《ひばく》が空中に倒懸していた。それから楼を下って街路へおりて見ると、なるほどきょうは盆の十三日で昔ながらの草市が立っている。
 真菰《まこも》の精霊棚《しょうりょうだな》、蓮花《れんげ》の形をした燈籠《とうろう》、蓮《はす》の葉やほおずきなどはもちろん、珍しくも蒲《がま》の穂や、紅《べに》の花殻《はながら》などを売る露店が、この昭和八年の銀座のいつもの正常の露店の間に交じって言葉どおりに異彩を放っていた。手甲《てっこう》、脚絆《きゃはん》、たすきがけで、頭に白い手ぬぐいをかぶった村嬢の売り子も、このウルトラモダーンな現代女性の横行する銀座で見ると、まるで星の世界から天降《あまくだ》った天津乙女《あまつおとめ》のように美しく見られた。
 子供の時分に、郷里の門前を流れる川が城山のふもとで急に曲がったあたりの、流れのよどみに一むらの蒲《がま》が生《お》い茂っていた。炎天のもとに煮えるような深い泥《どろ》を踏み分けては、よくこの蒲の穂を取りに行ったものである。それからというものは、今日までほとんど四十年の間ついぞ再びこの蒲を見た記憶がなかったように思うのである。
 この蒲の穂を二三十本ぐらい一束ねにしたのをそっくりそのままにA君が買おうとして価を聞くと、売り手のおかみさんが少し困ったような顔をした。「みなさん、たいてい二本ずつお買いになりますが」という。すると、他の客を相手にしていた亭主《ていしゅ》が聞きつけて「いけませんいけません」という。つまり、二本ずつは売るが一わは売らないというのである。伝統は尊重しなければならない。哲学者のA君は、とうとう十銭を投じて二本だけで満足するほかはなかった。
 少し歩いてからしなびた紅《べに》の花殻《はながら》をやはり二三本|藁包《わらづと》にしたのを買った。また少し歩くと、数株の菱《ひし》を舗道に並べて売っている若い男がいた。A君はそれも一株買った。売り手の男が、なんだかひどくなつかしそうな顔をして、A君の郷里はどこかと聞いた。
 この文化的日本の銀座の舗道の上に、びしょびしょにぬれて投げ出された数株の菱を見て、若い日の故郷の田舎《いなか》の水辺の夢を思い出す人は、自分らばかりではないと見える。
 神代からなる蒲の穂や菱の浮き葉は、やはり今でも日本にあるにはあるのである。精霊棚《しょうりょうだな》を設けて亡魂を迎える人はやはり今でもあるのである。これがある限り日本はやはり日本である。そんな事を話しながら一九三三年の銀座を歩くのであった。

     三 熱帯魚(その一)

 百貨店の花卉部《かきぶ》に熱帯魚を養ったガラス張りの水槽《すいそう》が並んでいる。暑いある日のことである。どう見ても金持ちらしい五十格好のあぶらぎった顔をした一人の顧客が、若い店員を相手にして何か話している。水槽につけた紙札に魚の名と値段が書いてある。目高《めだか》ぐらいの魚が一尾二十五円もするのである。金持ちらしい客は「フム、これは安いねえ」「安いんだねえ」と繰り返しながらしきりに感心している。若い店員は心持ち顔を長くしたようであったが、「はあ、……比較的に」と答えた。そうして、ずうっと胸をそらしたのであった。

     四 熱帯魚(その二)

 いろいろな熱帯魚をよく見ていると、種類によってやはり一挙一動にそれぞれの特徴があるように思われて来る。それを些細《ささい》に観察していると三十分ぐらいの時間をつぶすのははなはだ容易である。
 熱帯魚を見物したあとで、とある映画館へはいった。おりから映し出された映画は「三万両五十三次」とか題する時代劇であった。その中に、数人の浪士が、ちょこちょこと駆けずり回る場面がなんべんとなく繰り返される。なぜああいうふうにぎくしゃくした運動をしなければならないものかと思って見ているうちに、ふいと先刻見た熱帯魚を思い出した。スクリーンの長方形の格好もほぼあのガラス張り水槽と同じである。画面の灰色の雰囲気《ふんいき》が水のようにも思われる。その中を妙な格好をした浪士が、妙にちょこちょことあっちへ走り寄るかと思うと、またこっちへ駆け寄る。みんなでそろっておじぎをしたりする。それが、そう思って見ると、あの先刻見て来た熱帯魚の群れの遊泳するさまとかなりまで共通なところがあるように思われたのであった。

     五 熱帯魚(その三)

 喫茶店《きっさてん》の二階で友人と二人で話していた。椰子《やし》やゴムの木の鉢《はち》と入り乱れて並んだ白いテーブルを取りかこんだ人々の群れには、家族連れも多かったが、ともかくも自分らのように不景気な男ばかりの仲間はまれであるように見受けられた。
 テーブルの横の台の上に、ガラスの水槽《すいそう》が一つ置いてあって、その中にただ一匹の美しい洋紅色をした熱帯魚が泳いでいた。ベタ・カンボジャという魚らしい。それがただ一匹で泳いでいるのが、このいったいににぎやかな周囲の光景に対比していかにもさびしそうに見えた。自分がそれを指さして「さびしそうだねえ」と言ったら、友人の哲学者は「どうも少し病的のようだ」と答えた。魚が病的だというのか、そういうことをいうのが病的だか、それとも、こういう魚を飼うことがそうなのかわからなかった。魚はそのうちに器底に沈んで、あっちへ壁のほうを向いてしっぽをこっちへ向けたまま、じっとして動かなくなってしまった。つまらないから寝てしまったのかもしれない。

     六 音の世界

 ある日、街頭のマイクロフォンから流れ出すジャズの音を背後にして歩きながら、芭蕉翁《ばしょうおう》を研究しているK君が「じっとしていて聞く音楽と、動きながら聞く音楽とがある。じっとしていて聞くような音楽はもうなくなってしまいはしないか」という意味のことを言った。
 またある日、地下鉄からおりて歩きだすと同時に車も動きだして、ポーッと圧搾空気の汽笛を鳴らす、すると左の手に持っているふろしき包みの中の書物が共鳴して振動する。その振動が手の指先に響いてびりびりとしびれるように感じられた。
 研究室へ帰って新着の雑誌を読んで行くと「音の触感」に関する研究の報告がある。蓄音機のレコードの発する音響をすっかり殺してしまって、その上に耳を完全にふさいで、ただ指先の触感だけで楽音の振動をどれだけ判別できるかということを研究したものである。その結果によると、その振動が二つの音から成り立っている場合に、それが二つだということがちゃんと判別ができて、その上にそれがオクターヴか五度か短三度か長六度かということさえわかるものらしい。それでその著者は聾者《ろうしゃ》のための音楽が可能であろうということを論じ、また普通の健全な耳を持っている人でも、音楽を享楽するのに耳だけによるのではなくて実は触感も同時に重大な役目を勤めているのではないか、そうして、それを自覚しないでいるのではないかという意味のことを述べている。そう言われると、そんな気もする。少なくもジャズなどと触感とは縁が深そうである。
 夕方|藤棚《ふじだな》の下で子供と涼んでいた。「おとうさん、ウム――と言っていると、あの蚊がみんなおりて寄ってくるのね」という。
 自分の子供の時分、郷里ではそういう場合に「おらのおととのかむ――ん」という呪文《じゅもん》を唱えて頭上に揺曳《ようえい》する蚊柱《かばしら》を呼びおろしたものである。「おらのおとと」はなんのことかわからないが、この「む――ん」という声がたぶん蚊の羽根にでも共鳴して、それが、蚊にとってはすておき難い挑戦あるいは誘惑としての刺激を与えるせいであろうが、それにしても、その音源のどの方面にあるかということを一瞬間に識別するのはどういう官能に因るものか、考えてみると驚嘆すべき能力である。自分などは、往来でけたたましい自動車の警笛を聞いても存外それが右だか左だかということさえわからないことがあるのに、あの小さな蚊は即座に音源の所在を精確に探知し、そうして即座に方向舵《ほうこうだ》をあやつってねらいたがわずまっしぐらにそのほうへ飛来するのである。
 敵の飛行機の音を聞きつけてその方向を測知するという目的のために、文明国の陸軍では、途方もなく大きな、千手観音《せんじゅかんのん》の手のようなまたゴーゴンの頭のようなラッパをもった聴音器を作っている。しかし蚊のほうは簡単である。生まれた時からだれにも教わらずに役立つ最も鋭敏な優秀な器械を備えているのである。左右の羽根の刺激の不平均のために、無意識に自動的に羽根の動きの不平均が起こって、結局左右が平均するまでからだを回転させ、そうして刺激を増大するような方向に進行させるという自動調整器を持参しているのであろうか。
 銀座の楽器店の軒ばにつるした拡声器が「島の娘」のメロディーを放散していると、いつのまにか十人十五人の集団がその下に円陣を作るのも、あながち心理的ばかりではなくて、なにかわれわれのまだ知らない生理的な因子がはたらいているのかもしれない。
 朝九時ごろ出入りのさかな屋が裏木戸をあけて黙ってはいって来て、盤台を地面におろす、そのコトリという音が聞こえると、今まで中庭のベンチの上で死んだように長くなって寝そべっていた猫《ねこ》が、反射的に飛び起きて、まっしぐらに台所へ突進する。それももちろん結局は生理的であるとも言われようが、しかし、あらゆるいろいろの類似の「コトリ」という騒音の中で、特別な一つの種類であるところのさかな屋の盤台の音を瞬時に識別する能力はやはり驚くべきものである。
 近代の物質的科学は人間の感官を追放することを第一義と心得て進行して来た。それはそれで結構である。しかしあらゆる現代科学の極致を尽くした器械でも、人間はおろか動物や昆虫《こんちゅう》の感官に備えられた機構に比べては、まるで話にもならない粗末千万なものであるからおかしいのである。これほど精巧な生来持ち合わせの感官を捨ててしまうのは、惜しいような気がする。
 たとえば耳の利用として次のようなことも考えられる。
 すべての音は蓄音機のレコードの上に曲線として現わされる。反対にすべての週期的ないし擬週期的曲線は音として現わすことができる。たとえば験潮儀に記録されたある港の潮汐《ちょうせき》昇降の曲線をレコード盤に刻んでおいてこれを蓄音機にかければ、たぶんかなりな美しい楽音として聞かれるであろう。そうしてその音の音色はその港々で少しずつちがって聞こえるであろう。それでこのようにして「潮汐の歌」を聞くことによって、各地の潮汐のタイプをある度まで分類することができるかもしれない。あるいはまたこの方法によって、調和分析などにはかからない潮汐異常や、地方的固有振動を発見することもできるかもしれない。
 またたとえばひと月じゅうの気圧の日々の変化の曲線を音に直して聞けば、月によりまたその年によっていろいろの声が聞かれるであろう。その声を聞いてその次の月の天候を予測するようなことも、全く不可能ではないかもしれない。
 同じように米相場や株式の高下の曲線を音に翻訳することもできなくはないはずである。
 たとえば浅間温泉《あさまおんせん》からながめた、日本アルプス連峰の横顔を「歌わせる」ことも可能である。人間の横顔の額からあごまでの曲線を連ねて「音」にして聞き分けることも可能である。
 近ごろのトーキー録音方法の中でも濃淡式でない曲線式のを使えばこれはきわめて容易である。まず試みに各社名宝のスターの「横顔の音」でも聞かせたらどうであろう。

     七 においの追憶

 鼻は口の上に建てられた門衛小屋のようなものである。命の親のだいじな消化器の中へ侵入しようとするものを一々戸口で点検し、そうして少しでもうさん臭いものは、即座にかぎつけて拒絶するのである。
 人間の文化が進むに従ってこの門衛の肝心な役目はどうかすると忘れられがちで、ただ小屋の建築の見てくれの美観だけが問題になるようであるが、それでもまだこの門衛の失職する心配は当分なさそうである。感官を無視する科学者も時にはにおいで物質を識別する。むつかしやの隠居は小松菜《こまつな》の中から俎板《まないた》のにおいをかぎ出してつけ物の皿《さら》を拒絶する。一びん百円の香水でもとにかく売れて行くのである。一方ではまた、嗅覚《きゅうかく》と性生活との関係を研究している学者もあるくらいである。
 嗅覚につながる記憶ほど不思議なものはないように思う。たとえば夏の夕に町を歩いていて、ある、ものの酸敗したような特殊なにおいをかぐと、自分はどういうものかきっと三つ四つのころに住んでいた名古屋《なごや》の町に関するいろいろな記憶をよび起こされる。たとえばまた、銀座《ぎんざ》松屋《まつや》の南入り口をはいるといつでも感じられるある不思議なにおいは、どういうものか先年アンナ・パヴロワの舞踊を見に行ったその一夕の帝劇《ていげき》の観客席の一隅《いちぐう》に自分の追想を誘うのである。
 郷里の家に「ゴムの木」と称する灌木《かんぼく》が一株あった。その青白い粉を吹いたような葉を取って指頭でもむと一種特別な強い臭気を放つのである。この木は郷里の家以外についぞどこでも見たという記憶がない。近ごろよく喫茶店《きっさてん》などの卓上を飾るあの闊葉《かつよう》のゴムの木とは別物である。しかし今でも時々このいわゆる「ゴムの木」の葉のにおいに似たにおいをかぐことがある。するときっとこの昔の郷里のゴムの木のにおいを思い出すと同時にある幼時の特別な出来事の記憶が忽然《こつぜん》とよみがえって来るのである。
 なんでも南国の夏の暑いある日の小学校の教場で「進級試験」が行なわれていた。おおぜいの生徒の中に交じって自分も一生懸命に答案をかいていた。ところが、どうしたわけか、その教場の中に例のいやなゴムの葉の強烈なにおいがいっぱいにみなぎっていて、なんとも言われない不快な心持ちが鼻から脳髄へ直接に突き抜けるような気がしていた。それだのにおおぜいの他の生徒も監督の先生もみんな平気な顔をしてそんなにおいなど夢にも気がつかないでいるように思われた。それがまた妙に心細くひどくたよりなく思われた。
 たとえば、下肥《しもご》えのにおいやコールタールのにおいには、われわれに親しい人間生活の幻影がつきまとっている。それに付帯した親しみもありなつかしみもありうるであろう。しかし異国的なゴムの葉のにおいばかりは、少なくも当時の自分の連想の世界を超越した不思議な魔界の悪臭であった。この悪臭によって自分はこの現世から突きはなされてただ一人未知の不安な世界に追いやられるような心細さを感ずるのであった。もちろんその当時そんな自覚などあろうはずはなかったが、しかし名状のできないこの臭気に堪えかねて、とうとう脳貧血を起こしたのであった。
 もっとも幼時の自分は常に病弱で神経過敏で、たとえば群集に交じって芝居など見ていても、よく吐きけを催したくらいであるから、その時もやはり試験の刺激の圧迫ですでに脳貧血を起こしかけていたために、少しの異臭が病的に異常に強烈な反応を促進したかもしれない。
 それはとにかく、今でもいくらかこれに似た木の葉のにおいをかぐと、必ずこの昔の郷里の小学校の教場のある日のヴィジョンがありありと現われる。そうしてこれに次いでいろいろさまざまな幼時の記憶が不可解な感応作用で呼び出されるのである。

     八 鏡の中の俳優I氏

 某百貨店の理髪部へはいって、立ち並ぶ鏡の前の回転椅子《かいてんいす》に収まった。鏡に写った自分のすぐ隣の椅子に、半白で痩躯《そうく》の老人が収まっている。よく見ると、歌舞伎《かぶき》俳優で有名なIR氏である。鏡の中のI氏は、実物の筆者のほうを時々じろりじろりとながめていた。舞台で見る若さとちがって、やはりもうかなり老人という感じがする。自分のほうでもひそかにこの人の有名な耳と鼻の大きさや角度を目測していた。
 この人の芝居でいちばん自分の感心したのは船上の盛綱《もりつな》の物語の場である。しかしそれよりもこの人に感心したのは氏が先年H子夫人と同伴で洋行したときに、パリ在住の通信員によって某紙上に報ぜられたこの夫妻の行動に関する記事を読んだときである。パリのまん中でパリジャンを「異人」と呼び、アンバリードでナポレオンの墓を見て「ナンダやっぱりヤソじゃないか」と言ったとある。H夫人は、日本からわざわざ持参のホオズキを鳴らしながら、相手かまわずいっさい日本語で買い物をして歩いた。自分はこの記事を読んだときに実に愉快になってしまって、さっそく切抜帳の中にこれらの記事をはり込んだことであった。西洋人なら乞食《こじき》でも尊敬しようといったような日本人の多い中に、こういう純粋な日本人の江戸っ子が、一人でもまだ存在するということが当時の自分にはうれしかったのである。
 I氏の下側から見た鼻の二等辺三角形の頂角を目測しながら自分がつい数日前に遭遇したある小事件を思い出すのであった。
 ある途上で、一人の若い背の高い西洋人の前に、四五人の比較的に背の低いしかし若くて立派な日本人が立ち並んで立ち話をしていた。何を話しているかはわからなかったが、ただ一瞥《いちべつ》でその時に感ぜられたことは、その日本の紳士たちのその西洋人に対する態度には、あたかも昔の家来が主人に対するごとき、またある職業の女性が男性に対するごとき、何かしらそういったような、あるものがあるように感ぜられた。その西洋人がどれほどえらい人であったかは知らないが、単にえらさに対する尊敬とは少しちがったある物があるように感ぜられた。そうして、その時の自分にはそれがひどく腹立たしくも情け無くも思われまたはなはだしく憂鬱《ゆううつ》に感ぜられた。
 ことによると、実は自分自身の中にも、そういうふうに外国人に追従《ついしょう》を売るようなさもしい情け無い弱点があるのを、平素は自分で無理にごまかし押しかくしている。それを今眼前に暴露されるような気がして、思わずむっとして、そうして憂鬱になったのかもしれない。
 それはとにかく、自分はその同じ日の晩、ある映画の試写会に出席した。映写の始まる前に観客席を見回していたら、中央に某外国人の一団が繩張《なわば》りした特別席に陣取っていた。やがて、そこへ著名な日本の作曲家某氏夫妻がやって来てこの一団に仲間入りをした。まさに映写されんとする映画を作った監督はその某国の人であり、録音された音楽は全部この日本人の作曲である。見ているとこの外国人の一団はこの日本の作曲者を取り巻いてきわめて慇懃《いんぎん》な充分な敬意を表した態度で話しかけている。そうして、これに対するこの日本人は、たとえばまず弟子《でし》に対する教師ぐらいな、あるいは事によるともう少しいばった態度で、笑顔《えがお》一つ見せずにむしろ無愛想にあしらっている、というふうにともかくもその時の自分には見えたのである。それがなんとなくその時の自分には愉快であった。胸につかえていたものが一時に下がるような気がした。昼間見た光景がまさしく主客|顛倒《てんとう》したのである。しかしこの昼と夜との二つの光景を見る順序が逆であったら、心持ちはまたおのずからちがったことであろう。批判はやはり「履歴の函数《かんすう》」である。
 こんなことを思い出しながら俳優I氏の鼻や耳をながめていた。そうしてたとえば日本の学者や芸術家が一般にこのI氏の半分ののんびりした心持ちと日本人としての誇りとをもつ事ができたらどんなにいいだろうというような気がした。もちろん気がしただけである。
 蒸すように暑い部屋《へや》の天井には電扇がゆるやかに眠そうに回っていた。窓越しに見えるエスカレーターには、下から下からといろいろの人形《じんけい》がせり上がっては天井のほうに消えて行った。ところてんを突くように人の行列が押し送られて行った。
 気のついた時はもうI氏はいなかった。
 政党大臣や大学教授や官展無審査員ならば、ところてんのようにお代わりはいつでもできる。しかしI氏くらいの一流の俳優はそう容易には補充できない。
 そんな事を考えながら、自分もエスカレーターに乗ってM百貨店の出口に突き出されたのであった。
[#地から3字上げ](昭和八年九月、改造)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ