青空文庫アーカイブ
鎖骨
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)眉骨《びこつ》を打ったと見えて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)鎖骨|挫折《ざせつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年一月、工業大学蔵前新聞)
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子供が階段から落ちてけがをした。右の眉骨《びこつ》を打ったと見えて眼瞼《がんけん》がまんじゅうのようにふくれ上がった。それだけかと思っていたが吐きけのあるのが気になった。医者が来て見ると、どうも右肩の鎖骨が折れているらしいというので驚いて整形外科のT博士に診《み》てもらうとやはり鎖骨がみごとに折れている。しかしそのほうはたいした事ではない。それよりも右耳の後上部の頭蓋骨《ずがいこつ》をひどく打ったらしい形跡があって、そのほうがはなはだ大事だというので、はじめはたいした事でもないと思った事がらがだんだんに重大になって来た。T氏の話によると、頭を打ってから数時間の間当人はいっこう平気で、いつものように仕事をしていて、そうして突然意識を失って倒れることがよくあるそうである。
それは脳に徐々の出血があって、それがだんだんに蓄積して内圧を増す、それにつれて脈搏《みゃくはく》がはじめはだんだん昂進《こうしん》して百二十ほどに上がるが、それでも当人には自覚症状はない。それから脈搏がだんだん減少して行き、それが六十ぐらいに達したころに急に卒倒して人事不省に陥るそうである。それだから、頭を打ったと思ったらたとえ気分に変わりがないと思っても、絶対安静にして、そうして脈搏を数えなければならないそうである。そうして危険になったら脊柱《せきちゅう》に針を刺して水を取ったりいろいろのことをしなければならないそうである。
自分も小学生時代に学校の玄関のたたきの上で相撲《すもう》をとって床の上に仰向けに倒され、後頭部をひどく打ったことがある。それから急いで池の岸へ駆けて行って、頭へじゃぶじゃぶ水をかけたまでは覚えていたが、それからあとしばらくの間の記憶が全然空白になってしまった。そうして、今度再び自覚を回復したときは、学校の授業を受けおおせて、いつものように書物のふろしき包みと弁当をちゃんとさげて、通りなれた川ばた道を半ばぐらいまで歩いて来たときであった。そうして、いつものとおり、近所の友だちと話をしながら帰って来ていたのであったらしい。それにかかわらずその間数十分、あるいは一二時間の間の記憶が実にきれいに消えてしまっていたのである。それから宅《うち》へ帰っても、しかられるのがこわいから、この事は両親にもだれにも話さないでいた。考えてみると実に危険なことであった。
こういう場合に対する上記のT博士のいったような注意は、万人が万人日常よくよく心得ていなければならないはずであるのに、今度という今度までついぞ一度も聞いた記憶も読んだ覚えもない。学校でも教わったかもしれないが、教わらなかったような気がするし、また新聞雑誌などではとかく役にも立たない事や悪い事ばかり教わっても、この大切な事だけはどうも教わらなかったような気がする。教育が悪かったのか、自分の心がけが悪かったのか、両方が悪かったかである。こんなだいじなことは学校でも新聞でも三日に一ぺんずつ繰り返して教えていいかと思う。
天佑《てんゆう》と名医の技術によって幸いに子供は無事に回復した。骨の折れたのも完全に元のとおりになるのだそうである。
鎖骨というものはこういう場合に折れるためにできているのだそうである。これが、いわば安全弁のような役目をして気持ちよく折れてくれるので、その身代わりのおかげで肋骨《ろっこつ》その他のもっとだいじなものが救われるという話である。
地震の時にこわれないためにいわゆる耐震家屋というものが学者の研究の結果として設計されている。筋かい方杖《ほうづえ》等いろいろの施工によって家を堅固な上にも堅固にする。こうして家が丈夫になると大地震でこわれる代わりに家全体が土台の上で横すべりをする。それをさせないとやはり柱が折れたりする恐れがあるらしい。それで自分の素人《しろうと》考えでは、いっその事、どこか「家屋の鎖骨」を設計施工しておいて、大地震がくれば必ずそこが折れるようにしておく。しかしそのかわり他のだいじな致命的な部分はそのおかげで助かるというようにすることはできないものかと思う。こういう考えは以前からもっていた。時々その道の学者たちに話してみたこともあるが、だれもいっこう相手になってくれない。
しかし今度自分の子供の災難が動機になってもう一ぺんこういう考えを練り直してみたくなった。どうも人間のこしらえたものはとかく欠点だらけであるが、天然のものは何を見ても実に巧妙にできている。人間の五体でもけがをするとそこが痛む。動くとひどく痛むからしかたなくじっとしている。じっとしていれば直るものはひとりで直るようにできているものらしい。もし、これがちっとも痛くなかったら平気で動き回る。動き回れば傷も骨折もなかなか直るときはないであろう。
腸胃が悪いと腹が痛かったり胸が悪かったりするから食物を食う気になれない。もしもなんの苦痛もなかったら平気でなんでも食う。食えばいよいよ病気が重くなって行くに相違ない。風邪《かぜ》をひいて熱が高くなると苦しくて仕事ができなくなる。寝たくなる。寝れば直るが無理すると肺炎になる。
これらの平凡すぎるほど平凡な事実の中に、実に驚嘆すべき造化の妙機のあることに今まで少しも心づかないでいたのが、今度の子供の災難に会って始めて少しばかりわかりかけて来たような気がする。
犬や猫《ねこ》はこれをちゃんと心得ているようである。そうしてたいていのけがや病は自然の力で直してしまう。人間はわずかの知恵に思い上がって天然をばかにして時々無理なことをする。そうして失わなくても済むのに二つとない生命を失う場合が多いように思われる。
医術というものは結局こういう造化の天然の医術の幇助者《ほうじょしゃ》の役目を勤めるものであるらしい。名医はすなわちもっとも優秀な造化の助手であるかと思われる。
肉体における医者に相当して、精神の医者もあるはずである。そういう医者に名医ははなはだまれなように見受けられる。精神の胃が悪くて盛んに吐きけのある患者に無理に豚カツを食わせてみたり、精神の骨がくだけて痛がっているのに無体に体操をさせてみたり、そうかと思うとどこも悪くない人間にギプス包帯をして無理に病院のベッドの上に寝かせるようなことをする場合もありはしないかという心配がある。
それはとにかくわれわれ弱い人間が精神的にひどい打撃を受けたときに、頭がぼんやりしたり、一部の神経が麻痺《まひ》して腰が立たなくなったり、何病とも知れない病人同様の状態になって蒲団《ふとん》を頭からかぶって寝込んでしまったりする。あれもやはり造化の妙機であって、ちょうど「鎖骨|挫折《ざせつ》」のような役目をするためにどこかがどうかなるのかもしれない。
悲しいとき涙腺《るいせん》から液体を放出する。おかしいとき横隔膜が週期的|痙攣《けいれん》をはじめる。これも何か、もっとずっと悪い影響を救うための安全弁の作用をしているに相違ない。それで医術がもっともっと進歩すると、精神のけがでもこれら天然の妙機を人工的に幇助《ほうじょ》することによって楽に治療できるようになるかもしれない。
自分が今ここでこんな空想を起こしているのも、事によると子供のけがでびっくりして少し頭が変になったせいかもしれないし、それならばまた、こんな事をおくめんもなく書く気になるのは、その天然自然の治療法を無意識に実行しているのかもしれないのである。
[#地から3字上げ](昭和八年一月、工業大学蔵前新聞)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年7月6日作成
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