青空文庫アーカイブ

丸善と三越
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)丸善《まるぜん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時々|三越《みつこし》へ行く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正九年六月、中央公論)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)「クルイクシャンク/\」と言って
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 子供の時分から「丸善《まるぜん》」という名前は一種特別な余韻をもって自分の耳に響いたものである。田舎《いなか》の小都会の小さな書店には気のきいた洋書などはもとよりなかった、何か少し特別な書物でもほしいと言うと番頭はさっそく丸善へ注文してやりますと言った。中学時代の自分の頭には実際丸善というものに対する一種の憧憬《どうけい》のようなものが潜んでいたのである。注文してから書物が到着するまでの数日間は何事よりも重大な期待となんとも知らぬ一種の不安の戦いであった。そしてそれが到着した時に感じたあの鋭い歓喜の情はもはや二度と味わう事のできない少年時代の思い出である。
 東京へ出るようになってからは時々この丸善の二階に上がって棚《たな》の書物をすみからすみへと見て行くのが楽しみの一つであった。ほしい本はたくさんあっても財布《さいふ》の中はいつも乏しかった。しかしただ書棚の中に並んでいる書物の名をガラス戸越しにながめるだけでも自分には決して無意味ではなかった、ただそれだけで一種の興奮を感じ刺激と鞭撻《べんたつ》を感ずるのであった。神社や寺院の前に立つ時に何かしら名状のできないある物が不信心な自分の胸に流れ込むと同じように、これらの書物の中から流れ出る一種の空気のようなものは知らぬ間に自分の頭にしみ込んで、ちょうど実際に読書する事によって得られる感じの中から具体的なすべてのものを除去したときに残るべきある物を感じさせるのであった。今でも覚えているがあのころここの書棚の前に立って物色している時には自分の目が妙に上づりになって顔全体が緊張するのを明らかに自覚した。そして棚《たな》のガラス戸におぼろげに映る自分の顔をひそかに注意して見た事もある。それからまたある時自分にしては比較的高価な本を買った時に応接した店員の顔がどこかにちらとひらめいたと思われた冷笑の影が自分に不思議な興奮を与えた事も思い出される。あのころには書物の値段は正札でなく一種の符徴でしるしてあった。もっともその符徴はたいていだれでも知っていたので、秘密の暗号でもなんでもなくただ数字の代わりにかたかなを使ったというだけのものであった。たとえばアンカナというのは一円二十五銭の事であったが、これが自分の頭によく残っている。イタリアの地名のようだと思った事があるからそのせいだか、あるいはこの符号のついた本を比較的に多く買ったためだか、とにかくこのアンカナの四字が丸善その物の象徴のように自分の脳髄のすみのほうに刻みつけられている。
 昔の丸善の旧式なお店《たな》ふうの建物が改築されて今の堂々たる赤煉瓦《あかれんが》に変わったのはいつごろであったか思い出せない。たぶん自分が二年ばかり東京にいなかった間の事であろうと思う。元の薄暗い窮屈な室《へや》に比べて、天井の高い窓の多い今の二階の室は比較にならないほど明るく気持ちがいい。しかし自分にはどういうものか昔の陰気なほうが、少なくも自分の頭に巣くっている「丸善」という観念にはふさわしい。今の室はあまりに明るくあまりに楽に広々としているためにそこに陳列された書物が普通のデパートメントストアの商品のような感じがしないでもない。これに反して以前の窮屈な室へはいった時には、なんとなく学者の私有文庫を見せてもらうような気がした。これは、ある友人が評したように、つまり自分の頭が旧式であって、書物とその内容を普通の商品と同様に見なしうるほどに現代化し得ないためかもしれない。
 いろいろの理由からいわゆる散歩という事に興味を持たない自分の日曜日の生活はほとんど型にはまったように単調なものである。昼飯をすませて少し休息すると、わずかばかりの紙幣を財布《さいふ》に入れて出かける。三田《みた》行きの電車を大手町《おおてまち》で乗り換えたり、あるいはそこから歩いたりして日本橋《にほんばし》の四つ角《かど》まで行く。白木屋《しろきや》に絵の展覧会でもあるとはいって見る事もあるが、大概はすぐに丸善へ行く。別にどういう本を買うあてがあるわけではないが、ただ何かしら久しぶりで仲のいい友だちを尋ねて行く時のような漠然《ばくぜん》とした期待をいだいて正面の扉《とびら》を押しあける。
 正面をはいった右側に西洋小間物を売る区画があるが自分はついぞここをのぞいて見た事がない。どういうものか自分はここだけ、よその商人が店借《たなが》りして入り込んでいる気がする。どうしてこの洋品部が丸善に寄生あるいは共生しているかという疑問を出した時にP君はこんな事を言った。「書物は精神の外套《がいとう》であり、ネクタイでありブラシであり歯みがきではないか、ある人には猿股《さるまた》でありステッキではないか。」こう言われてみればそうであるが、自分はただなんとなくここをのぞく気にならないでいつでもすぐに正面の階段を登って行く、そして二階の床《ゆか》に両足をおろすと同時に軽い息切れと興奮を感じるのである。
 階段を上って右側に帳場がある。ある人はこれを官衙《かんが》の門衛のようだと言ったが、自分もどちらかと言えば多少そんな気がしないでもない。これは建築者の設計の中に神経過敏な顧客の心理という因子を勘定に入れなかったためであろう。
 自分はいつでもこの帳場の前を通ってまずドイツ書のある所へ行く。ここはちょっと一つの独立な区画になっている、戦争前には哲学、美術、科学とそれぞれの部門にわたって系統的に分類して陳列されていたのが、このごろではもう目ぼしいような物は大概売り切れてしまって、いろいろな部門のものが雑然と入り乱れている。ドイツ自身の欠乏と混乱とがこんな所までも波及しているかという気がする。実際鶏卵や牛乳や靴《くつ》の欠乏は聞くも気の毒な状態であるらしいが、ただ驚くのはかの国の科学者、特にペンと紙のほかには物質的材料を要しない種類の科学者が依然としてきわめて重要な研究の結果を着々発表している事である。
 ドイツ書の棚《たな》の前で数分を費やした後にフランスの書物の所へ出た時はちょうどベルリンから夜汽車でパリへ着いたというような心持ちがする。これはおそらくただ簡単に自分だけのある経験から生じる連想のためばかりではあるまい。ドイツ書の装幀《そうてい》なり印刷なりにはドイツ人のあらゆる歴史と切り離す事のできないものがあると同様にフランスの本にはどうしてもパリジアンとパリジェンヌのにおいが浮動している。たとえ一字も読めない人に見せてもこの著しい区別は感じられないではいられまい。自分はドイツで出版された仏文の本をもっている。かなりフランスくさくこしらえてあるが、しかしどう見てもそれはやはりドイツの本である。表紙に描かれた人物にもクラナッハやジュラーの影法師が見える。
 いつだったかこの仏書の所でフランスの飛行将校が小説か何かをひやかしているのを見かけた事がある。その時ただなんとなしにいい気持ちがした。この将校の顔から髪から髯《ひげ》からページを繰る手つきから、大きく肥《ふと》った指先までが、その書物と自然に調和して全体が一つのまとまった絵になっていた。今の日本の書物はどことなくイギリスやアメリカくさいところがある、そして昔の経書や黄表紙がちょんまげや裃《かみしも》に調和しているように今の日本人にはやはりこれがふさわしいような気がする。
 フランスの文学美術書が科学書といっしょに露店式に並べてある所がある、シャバンヌやロダンが微分積分と雑居してそれにずいぶんちりが積もっている事もある。それはいいがその隣にガラスの蔽蓋《おおいぶた》をして西洋向きの日本書を並べたのがある。あれを見ると自分はいつでもドイツで模造した九谷焼《くたにや》きを思い出す。
 自分の専門に関係した科学の書籍をあさって歩く時の心持ちは一種特別なものである。まじめであると同時に at home といったような心持ちであるが、しかしそこには自分の頭にある「日曜日の丸善」というものが生ずる幻影はなくてむしろ常住な職業的の興味があるばかりである。
 英米の新刊書を並べた露店式の台が二つ並んでいる。ここをのぞいて見ると政治、経済、社会その他あらゆる方面にわたって重大な問題を取り扱ったらしい書物が並んでいる。ロイドジョージとかウィルソンとかいう名前が目につく。そうかと思うと飛行機の通俗講義があったり探偵小説《たんていしょうせつ》があったり、ヘッケルの「宇宙のなぞ」の英訳の安値版がころがっていたりする。この露店の所へ来ると自分の頭が急に混雑してあまり愉快でない一種の圧迫を感じる。そして自分の日曜日の世界とはあまりにかけ離れた争闘の世界をのぞいて見るような気がして、つい落ち着いて見る気になれない。また実際ここはいつでも人が込み合っていてゆるゆる見ていられないのである。考えてみると近ごろ世間で騒がしくなって来たいろいろな社会上の問題が一部の人の信ずるようにおもに外国から流れ込んで来たとすると、そのような問題や思想の流れ込んだ少数な樋口《といぐち》の内でも大きなのはこの丸善の方数尺の書籍台であるかもしれない。それにしてはあまりに貧弱な露店のような台ではあるが、しかし熱海《あたみ》の間歇泉《かんけつせん》から噴出する熱湯は方尺にも足りない穴から一昼夜わずかに二回しかも毎回数十分出るだけであれだけの温泉宿の湯槽《ゆぶね》を満たしている事を考えればこれも不思議ではないかもしれない。ここから流れ出すものがたくさんな樋《とい》に分流しそれにいろいろの井戸から出る水を混じて書物になり雑誌になって提供される。温度の下がらないうちにと忙しい人の手で忙しく書かれた著書や論文が忙しい読者によって電車の中や床屋の腰かけで読まれる。それで二三か月も勉強すればだれでもラッセルとかマルクスとかいう人の名前ぐらいは覚える事ができるのだろう。
 街路に向かった窓の内側にさびしい路次のようになって哲学や宗教や心理に関する書棚《しょだな》が並んでいる。
 不思議な事に自分は毎年寒い時候が来ると哲学や心理がかった書物が読みたくなる。いったい自分の病弱な肉体には気候の変化が著しく影響する。それで冬が来るとからだは全くいじけてしまって活動の力が減退する代わりに頭のほうはかえってさえて来て、心がとかくに内側へ向きたがる、そのせいかもしれない。こんな気分の時にはここの書棚を物色する事がしばしばある。読んでみたい本はいくらでもあるが、時間と金との欠乏を考えるために、めったに買って読む事はない。ただいろいろの学者の名前と本の名前をひとわたり見るだけで満足する場合が多い。だれかが「過去の産出物の内で、目に見られ、手に触れる事のできる三つのもの」の一つとして書物を数えているが、この言葉をここでしばしば思い出す。そして書物に含まれているものは過去ばかりではなくて、多くの未来の種が満載されている事を考えると、これらのたくさんの書物のまだ見ぬ内容が雲のようにまた波のように想像の地平線の上に沸き上がって来る。その雲や波の形や色が何であってもそれはかまわない。ただそれだけで何かなしに自分の目は遠い所高い所にひきつけられる。考えてみると自分も結局は一種の偶像崇拝者かもしれない。しかしこんな偶像さえも持たなかったら自分はどんなにさびしい事だろう。
 P君は moral という文字と ethics という言語に対して不思議な反感をいだいている。そしてこれに相当する日本語に対してはいっそうはげしいほとんど病的かと思われるほどの嫌悪《けんお》を感じるようである。それで自分は丸善の書棚《しょだな》でこの二つの文字を見るとよくP君を思い出すのである。P君はこれらの言語を見るか聞くか――特にある人たちの口からこれを聞く場合には反射的に直ちに非常に醜悪な罪とけがれを連想するそうである。自分は充分にその異常《アブノーマル》な心持ちをくみとる事はできないが、ただ昔の宗教革命者などという人の内には存外P君のような型の人があったのではないかという気がしているだけである。
 この書棚の次には美術に関した書物がある。たいてい版が大きくて値段も高い。自分はここへ来た時によく余分な銭がほしいと思う事がある。この棚の前には安い小さい美術書を並べた台がある。ここで自分は時々買い物をするが、そのたびにいつでも店員の中のあるものが一種の疑いの目をもって自分を注目しているような気がしたり、あるいは自分の美術に対する嗜好《しこう》に同情をもっていないらしいある人たちのだれかが、不意に自分の肩をたたいて「相変わらずやってるね」とあびせかけられはしないかという気がする。いつかクルイクシャンクの評伝を買った時に、そばに立っていた年少の店員が「クルイクシャンク/\」と言ってクスクス笑った。その時自分はなぜか顔面が急にほてるような気がした。この少年はたぶんこの画家の名前がおかしいから笑っただけだろうが、自分はあの時どうしてあんな気がしたのだろう。こんな感じのする人はほかには少ないかもしれない。しかしよく考えてみると、自分は自分の手近な「義務」とあまり直接の関係のないあらゆる享楽を味わう時には、たとえその事自身が卑近な感覚的なものでなくてもなんだか一種の不安を感じる場合が多い。いつか田舎《いなか》から出て来た親戚《しんせき》の老婦人を帝劇へ案内して菊五郎《きくごろう》と三津五郎《みつごろう》の舞踊を見せた時に、その婦人が「あまりおもしろくて、見ているうちに、私はこんなにおもしろくてもいいのかしらんと思って、なんだかそら恐ろしくなりました」と言った。この婦人はずいぶん人生の不幸をなめ尽くしたような人であったから、特にそう思われたのかもしれない。しかしこの一例から考えても、同じような経験は存外多くの人に共通なものかもしれない。ウィリアム・ジェームスの心理学の中に「音楽の享楽にふける事でさえも、その人が自分で演奏者であるか、あるいはその音楽を純理知的に受け入れるほどに音楽的の天賦を有するのでなければ、その人の人格をゆるめ弱めるという結果を生ずるだろう。……この弊を矯《た》めるには演奏会で受けた感動を、その後に何か主動的な方法で表現しないではおかないという習慣をつければいい。それはどんな些細《ささい》な事でもかまわない。たとえば自分の祖母にやさしい言葉をかけるとか、乗合馬車で座席を譲るとかいうくらいな事でもいいが、とにかく何かしないではおかないようにするがいい」という一節がある。これを読んだ時になるほどと思った。昔から世界のいろいろな人種の間に行なわれた禁欲主義の根本に横たわる一面の真理に触れているとも思った。しかし美しい芸術が人の心に及ぼす影響はすぐその場で手っ取り早く具体的な自覚的行為に両替して、それで済まされるものだろうか。それではあまりに物足りない。たとえ音楽会の帰りに電車の中でけんかをし、宅《うち》へ帰って家族をしかったりする事があるとしても、その日の音楽から受けた無自覚な影響が、後に思いもかけない機会に、ある積極的な効果として現われる場合がかなり多いのではあるまいか。これは自分にとってはかなりに痛切な問題であるが、まだ充分ふに落ちるような解釈に到着する事ができない。
 丸善の二階の北側の壁には窓がなくて、そこには文学や芸術に関する書籍が高い所から足もとまでぎっしり詰まっている。文学書では、どちらかと言えば近代の人気作家のものが多くてそれらが最も目につきやすい所に並んでいる。中学時代にわれわれが多く耳にしたような著名な作家の名前はここではあまり目に立たない。ちょうど西洋の画廊で古い絵ばかり見て、日本へ帰って始めてキュービストやフュチュリストを見せられたような心持ちがする事がある。実際今の日本の文学者の前でホーマーとかミルトンとかいう名前を持ち出すのはだれでも気がひける事だろうと思う。文学に限らず科学の方面でも今どきベーコンやニュートンの書いたものを読むのは気がさすような周囲の状態である。古いものを新しい目で見るのや、新しいものを古い目で見るような暇つぶしの仕事は、忙しい今の時代には、暇人の道楽でなければ、能率の少ない事業として捨てられなければならないと見える。
 Everyman's Library などのぎっしり詰まった棚《たな》が孤立して屏風《びょうぶ》のように立っている。自分がいちばん多く買い物をするのはまずここらである。実際こんなありがたい叢書《そうしょ》はない。容易に手に入らないか、さもなければ高い金を払わなければならない物が安く得られるのである。戦争のために、この本の代価までが倍に近く引き上げられた事は、自分ばかりでなく多数の人の痛切に感じる損失であろうと思う。
 この叢書の表紙の裏を見ると“Everyman, I will go with thee and be thy guide in thy most need to go by thy side.”という文句がしるされてある。この言葉は今日のいわゆる専門主義《スペシアリズム》の鉄門で閉ざされた囲いの中へはあまりよくは聞こえない。聞こえてもそれはややもすれば悪魔の誘惑する声としか聞かれないかもしれない。それだから丸善の二階でも各専門の書物は高い立派なガラス張りの戸棚《とだな》から傲然《ごうぜん》として見おろしている。片すみに小さくなっているむき出しの安っぽい棚《たな》の中に窮屈そうにこの叢書《そうしょ》が置かれている。
 たとえば、昔の人は、見晴らしのいい丘の頂に建てられた小屋の中に雑居して、四方の窓から自由に外をながめていた。今では広大な建築が、たくさんの床と壁とで蜂《はち》の巣のように仕切られ、人々はめいめいの室のただ一つの窓から地平線のわずかな一部を見張っている。たださえ狭い眼界は度の強い望遠鏡でさらにせばめられる。これらの人のために、この大建築から離れた所に、小さな小亭《しょうてい》が建てられている。ここへ来れば自分の住まっている建築が目ざわりにならずに、自由に四方が見渡される。しかるにせっかく建てたこの小亭があまり利用されないでいたずらに風雨にさらされているとすればこれは惜しい事である。これは人々があまり忙し過ぎるせいかもしれない。そうだとすればこれらの人々を駆使している家主が責任を負わなければなるまい。しかし中には暇はあっても不精であったり、またわざわざ出かけるよりも室の片すみで茶をのんだりカルタでもやるほうがいいという人があるならばそれはその人々の勝手である。
 この叢書のへんまで見て来るとかなりくたびれる。特にここで何か買いでもすると、もう急に根気がなくなって地理や歴史などの所はほんののぞいて見るだけでおしまいにする場合が多い。決してこの方面の書物に興味がないわけではないが、ただ自然に習慣となった道順の最後になるために、いつでもここが粗略になるのである。一度ぐらいは、このなんの理由もなしに定めた順序を変え、あるいは逆にしてもよさそうなものであるが、実際にはそのような試みをした事はない。まさかに、右ききの人間は右回りの傾向があるとかいうわけでもあるまいし、体操の時に「回れ右」をするが「回れ左」はやらない事と関係があるわけでもないだろうし、ただ自分に限られた習癖に過ぎないかもしれない。しかしだれか物好きな人があって、丸善の二階で見張っていて、たくさんの顧客の歩く道筋を統計的に調べてみたら存外おもしろい結果が得られはしまいか。心理学者や生理学者の参考になるような事が見つからないとも限らない。それほどでなくとも、少なくも丸善の経営者が書棚《しょだな》の排列を変える時の参考には確かになるだろう。漁業者がたて網の中にはいった魚の回遊する習癖を知っているから、一度はいった魚が再び逃げ出さないような網の形を設計すると同じように。
 階段をおりる時に、新刊雑誌を並べた台が眼下に見おろされる。ここには、同じような体裁で、同じような内容の雑誌が、発音まで似かよったいろいろの名前で陳列されている。表紙だけすりかえておいても人々はなんの気もつかずに買って行くだろう。少年や幼年の読み物にしてもどれをあけて見ても中は同じである。そして若い柔らかい頭の中から、美に対する正しい感覚を追い出すためにわざわざ考案されたような、いかにもけばけばしい、絵というよりもむしろ臓腑《ぞうふ》の解剖図のような気味の悪い色の配合が並べられている。このような雑誌を買う事のできないほどに貧乏な子供があれば、その子は少なくもこの点で幸福であるかもしれない。なんというオリジナリティのない不健全な出版界だろう。
 階下の日本書や文房具の部は、たいていもうくたびれてしまって、見ないですます事が多い。それにこのほうは、むしろ神田《かんだ》あたりで別な日に見るほうがいいという気がするので、すぐに表の通りへ出てしまう。そして大通りの風に吹かれると、別の世界に出たような心持ちになってほっとするのが通例である。
 丸善を出てから銀座のほうへぶらぶら歩いて行く事もあるが、また時々|三越《みつこし》へ行く事がある。
 白木屋《しろきや》のへんから日本橋を渡って行く間によく広重《ひろしげ》の「江戸百景」を思い出す。あの絵で見ると白木屋の隣に東橋庵《とうきょうあん》という蕎麦屋《そばや》がある。今は白木屋の階上で蕎麦が食われる。こんなつまらない事を考えたりする。「駿河町《するがちょう》」の絵を見ると、正面に大きな富士がそびえて、前景の両側には丸に井桁《いげた》に三の字を染め出した越後屋《えちごや》ののれんが紫色に刷られてある。絵に記録された昔の往来の人の風俗も、われわれの目には珍しくおもしろい、中でも著しく自分の目につくのは平和な町の中を両刀をさして歩いている武士の姿である。
 富士山の見える日本橋に「魚河岸《うおがし》」があって、その南と北に「丸善」と「三越」が相対しているのはなんだかおもしろい事のように思われる。丸善が精神の衣食住を供給しているならば三越や魚河岸は肉体の丸善であると言ってもいいわけである。
 三越の玄関の両側にあるライオンは、丸善の入り口にある手長と足長の人形と同様に、むしろないほうがよいように思われる。玄関の両わきには何か置かなければいけないという規則でもあるのなら、そういう規則は改めたほうがいいと思う。
 入り口をはいると天井が高くて、頭の上がガランとしているのは気持ちがいい。桜の時節だとここの空に造花がいっぱいに飾ってあったりして、正面の階段の下では美しい制服を着た少年が合奏をやっている事もあった。いろいろな商品から出るにおいと、多数の顧客から蒸し出されるガスとで、すっかり入場者を三越的の気分にしてしまう。
 自分が用のあるのは大概五階か六階であるから、多くの場合にすぐ昇降機で上ってしまう。しかし、時にはすべての階をすみからすみまで歩かせられる事もある。歩いてみるとやはり歩いてみるだけの価値は充分にある。ずいぶんいろいろの物を覚えいろいろの問題にぶつかる、そしていろいろの人間のいろいろの現象を見せてもらう事ができる。
 世の中にはずいぶんいろいろな事が自慢になるものだと思う。ある婦人は月に幾回三越に行くという事を、時と場所と相手とにかまわず発表して歩く。またある学者は、まだ一度も三越に行った事がないという事を宣言するのを、その人のある主張を発表する簡易な方法の一つとして選んでいるように思われる。しかし自分のみならず多くの人は、三越に行く事を別に名誉とも恥とも思ってはいまい。
 正面の階段の上り口の左側に商品切手を売る所がある。ここはいつでも人が込み合っていて数百円のを持って行く人もあれば数十円のを数十枚買って行く人もある。そうかと思うと一円のを一枚いばって買って行く人もある。ともかくもここには人間の好意が不思議な天秤《てんびん》にかけられて、まず金に換算され、次に切手に両替えされる、現代の文化が発明した最も巧妙な機関がすえられてある。この切手を試みに人に送ると、反響のように速《すみ》やかに、反響のように弱められて返って来る。田舎《いなか》から出て来た自分の母は「東京の人に物を贈ると、まるで狐《きつね》を打つように返して来るよ」といって驚いた。これに関する例のP君の説はやはり変わっている。「切手は好意の代表物である。しかしその好意というのは、かなり多くの場合に、自己の虚栄心を満足するために相手の虚栄心を傷つけるという事になる。それで敵から砲弾を見舞われて黙っていられないと同様に、侮辱に対して侮辱を贈り返すのである。速射砲や機関銃が必要であると同様に、切手は最も必要な利器である。」いかにもP君の言いそうな事ではあるが、もしやこれがいくぶんでも真実だとしたら、それはなんという情けない事実だろう。
 一階から二階へ人を運ぶためにエスカレーターを運転している時がある。ある人は間違えてこれをライスカレーといった。これはあまり気持ちのいい物ではない。あの手すりの上をすべって行くゴムの帯もなんだか蛇《へび》のようで気味が悪いと言った人もある。自分はある日ここで妙な連想を起こした事がある。自分の子供を小学校へ入れてやると、いつのまにか文字を覚える算術を覚える、六年ぐらいはまたたくまにたって、子供はいつのまにかひとかど小さい学者になっている、実にありがたいものだと思わないではいられない。ちょうどエスカレーターの最下段に押して入れてやれば、あとはひとりで、少なくも二階までは持って行ってくれるのと同じようなものである。このごろは中学や高等学校の入学がだいぶ困難になって来たが、それでも一度入学さえすればとにかく無事にせり上がって行くのが通例である。これから見ると、昔の人は、不完全な寺子屋の階段を手を引いてもらってやっと上がると、それから先は自分で階段を刻んだり、蔓《つる》にすがって絶壁をよじるような思いをしなければならなかった。それで大概の人は途中で思い切ってしまっただろうが、登りつめた人の腕や足は鉄のようにきたえられたに相違ない。
 三越の商品のおもなるものはなんと言っても呉服物である。こういう物に対する好尚《こうしょう》と知識のきわめて少ない自分は、反物や帯地やえりの所を長い時間引き回されるのはかなりに迷惑である。そしてこれほどまでに呉服というものが人間に必要なものかと思って、驚き怪しんだ事も一度や二度ではない。「東京の人は衣服を食っているか」と言った田舎《いなか》のある老人の奇矯《ききょう》な言葉が思い出される。
 何番という番号のついた売り場に妻子をつれて買い物に来ている人が幾組もある。細君の品物を選《よ》り分ける顔つきや挙動や、それを黙って見ている主人の表情はさまざまである。いろいろな家庭の一面がここに反映している。いわゆる写実小説を見るよりはこのほうがはるかに興味があり、ためになる。同じ陳列台の前を行ったり来たりしている女の顔には、どうかすると迷いや悶《もだ》えやの気の毒な表情がありあり読まれる事もある。
 婦人の美服に対する欲望は、通例虚栄心という簡単な言葉で説明されているようである。かつて何かの雑誌で「万引きの心理」という題目で大いに論じたものを読んだ事がある、その中にもこの虚栄心の事がたいそう長たらしく書いてあったように記憶している。それを見ても通例女の虚栄心というものは、人間のあらゆる本質的欲求の団塊の、ほんの表面の薄膜に生ずる黴《かび》ぐらいのもののように取り扱われているようであるが、はたしてそんなものだろうか。このような婦人が、美服に対した時に、あらゆる理知の束縛を忘れ、当然な因果を考える暇もなく、盗賊の所行をあえてするようになる衝動はそれはど浅薄な不まじめなものばかりとも思われない。その衝動の背後には、卑近な物質的の欲望のほかに、存外広い意味において道徳的な理想に対する熱烈な憧憬《どうけい》が含まれているかもしれない。もしたとえば社会の組織制度に関するある理想に心酔して、それがために奪い殺し傷つける事をあえてする団体があるとすれば、どこかそれと共通な点がないでもない。この婦人の行為は利己的である、社会的理想はそんなものと根本的にちがっていると一口に言ってしまってもいいものだろうか。いったい普通に使われる利己と利他という二つの言葉ほど無意味な言葉は少ない。元来無いものに付せられた空虚な言葉であるか、さもなければ同じ物の別名である。ただ人を非難したり弁護したりする時や、あるいは金を集めたり出したりする時に使い分けて便利なものだからだれでも日常使ってはいるが、今自分の言っているような根本の問題にはなんの役にも立たないものである。だれかこの疑問に対して自分のふに落ちるような解釈をしてくれる人はないものだろうか。たとえばいわゆる共産主義を論じる学者たちが現在の社会に行なわれているこの万引きというものをいかに取り扱うかが聞きたいものである。
 三越へ来て、数千円の帯地や数百円の指輪を見たり、あるいは万引きの事を考えたりしているとだれかが言った寝言のようななぞのような言葉に、多少の意味があるような気がする。「富む事は美徳である。富者はその美徳をあまり多く享有する事の罪を自覚するがゆえに、その贖罪《しょくざい》のために種々の痴呆《ちほう》を敢行して安心を求めんとする。貧乏は悪徳である、貧者はその自覚の抑圧に苦しみ、富の美徳を獲得せんと焦慮するために働きあるいは盗み奪う……」
 呉服の地質の種類や品位については全く無知識な自分も、染織の色彩や図案に対しては多少の興味がある。それで注意して見ると、近ごろ特に欧州大戦が始まって後に、三越などで見かける染物の色彩が妙に変わって来たような気がする。ある人は近ごろはこんな色が流行すると言った。しかしある人はまた戦争のために染料が欠乏したからよんどころなくあんな物ばかり製造しているのだとも言った。もしこの二人のいう事がどちらもほんとうであるとすると、われわれの趣味や好尚《こうしょう》は存外外面的な事情によって自由に簡単に支配されうるものだと思う。もし試みに十年ぐらいの期間でもいいから、あらゆる染料の製造と販売と使用を停止してみたら、われわれの社会的生活にどんな影響が生じるだろう。実行はむつかしいが、こういう仮設を前提として一つの思考実験を行なってみる事は、はなはだおもしろくもあり有益でありはしまいか。もっともそんな事はもう社会学者や経済学者たちがとうの昔にやってやり古した事かもしれない。たぶんそうだろうと思われる。そうでなくては成り立ちそうもない学説やイズムがわれわれの目に触れるほどだから。
 三越の四階に食堂がある、たしか以前は小さな室であったのが、その後拡張されて今のような大きな部屋《へや》になったと思う。ちょっと清潔に簡便に食欲を満足させ、そうして時間をつぶすに適当なようにできている。普通の日本人の食事時間でない時でも不断ににぎわっている。草花鉢《くさばなばち》を飾ったり、夏は花を封じ込めた氷塊がいくつもすえられていて、天井には大きな扇風器が回っている。田舎《いなか》から始めて来た人などに、ここで汁粉《しるこ》かアイス一杯でもふるまうと意外な満足を表せられる事がある。ここの食卓へ座をとって、周囲の人たち、特に婦人の物を食っているさまを見ると一種の愉快な心持ちになって来る。ある人のいうようにあさましいなどという感じは自分には起こらない。呉服売場や陳列棚《ちんれつだな》の前で見るような恐ろしい険しい顔はあまりなくって、非常に人間らしい親しみのある顔が大部分を占めている。この食堂を発案したのはだれだか知らないが、その人はいろいろな意味でえらい人のように思われる。
 食堂のほかには食品を販売する部が階下にある。人によると近所の店屋で得られると同じ罐詰《かんづめ》などを、わざわざここまで買いに来るということである。買い物という行為を単に物質的にのみ解釈して、こういう人を一概に愚弄《ぐろう》する人があるが、自分はそれは少し無理だと思っている。
 ベルリンのカウフハウスでは穀類や生魚を売っていた、ロンドンの三越のような家では犬や猿《さる》や小鳥の生きたのを売っていた。生魚はすぐ隣に魚河岸《うおがし》があるからいいが、しかし三越でも猫《ねこ》や小猿やカナリヤを販売したらおもしろいかもしれない。少なくも子供たちに対する誘惑を無害な方面に転じる事になるだろうし、おとなに対しても三越というものの観念に一つの新しい道徳的な隈取《くまど》りを与えはしまいか。生き物だから飼っておくのはめんどうだろうが。
「三越に大概な物はあるが、日本刀とピストルがない」と何かの機会にたいへん興奮してP君が言った事がある。「帯刀の廃止、決闘の禁制が生んだ近代人の特典は、なんらの罰なしに自分の気に入らない人に不当な侮辱を与えうる事である。愚弄に報ゆるに愚弄をもってし、当てこすりに答えるに当てこすりをもってする事のできる場合には用はないが、無言な正義が饒舌《じょうぜつ》な機知に富んだ不正に愚弄される場合の審判者としてこの二つの品が必要である。」これには自分はだいぶ異論があったように記憶する。しかしその時自分の言った事は忘れてただP君のこの言葉のみが記憶に残っている。
 五階には時々各種の美術展覧会が催される、今の美術界の趨勢《すうせい》は帝展や院展を見なくてもいくぶんはここだけでもうかがわれる、のみならずそういう大きな展覧会に出ない人たちの作品まで見られる便利がある、そして入場は無料である。
 ここではまたいろいろの新美術品が陳列されている。陶磁器漆器鋳物その他大概のものはある。ここも今代の工芸美術の標本でありまた一般の趣味|好尚《こうしょう》の代表である。なんでもどちらかと言えばあらのない、すべっこい無疵《むきず》なものばかりである。いつかここでたいへんおもしろいと思う花瓶《かびん》を見つけてついでのあるたびにのぞいて見た。それは少し薄ぎたないようなものであったせいか、長い間買い手もつかずそこに陳列されていた。これと始めのうちに同居していたたくさんの花瓶はだんだんに入り代わって行くのに、これだけは木守りの渋柿《しぶがき》のように残っていた。ところがこのあいだ行って見ると、もうこの自分の好きな花瓶も見えなくなっていた。なんだかやっと安心したような気がしたがはたして売れたのか、あるいはあまり売れないのでどうにか処分されたのか、それもわからないと思った。
 六階にあったいわゆる空中庭園は、近ごろ取り払われて、今ではおもちゃの陳列所になっている。一階から五階までの間に群がっているたくさんの人の皮膚や口から出るいろいろのなまぬるいガスがここまで登りつめたのを、上からふたをしてしまったせいか、ここへ来ると空気が悪くて長くいるとこれが頭にきいて来る。そのせいでもあるまいが自分はここにあるおもちゃに対してあまりいい気持ちはしない。たとえばセルロイドで作ったキューピーなどのてかてかした肌合《はだあい》や、ブリキ細工の汽車や自動車などを見てもなんだか心持ちが悪い。それでも年に一度ぐらいは自分の子供らにこんなおもちゃを奮発して買ってやらないわけではない。おもちゃその物の効果については時々教育家や心理学者の講話を新聞や雑誌で読んでみるが、具体的に何商店のどのおもちゃがいいという事を教えてくれないのは物足りない。実際買おうと思って見渡す時に、自分が安心してこれならと思う品がまことに少ない。こんな親父《おやじ》を持った子供らは不仕合わせでないかと思う事もある。自分の子供の時代に田舎《いなか》でもてあそんだ自然界のおもちゃには充分な自信をもって子供らに与えたいと思うものがたくさんあるが、この三越にあるようなおもちゃについては、悲しい事に積極的にも消極的にも自信がない。おもちゃというものに関して書いた書物もずいぶんあるだろうと思うが、だれかえらい人のそういう著書があれば読んでみたいものである、ついでに「おとなのおもちゃ」にまでも論及したのであればなおさらおもしろく有益であろう。
 六階で以前のままなものは花卉《かき》盆栽を並べた温室である。自分は三越へ来てこの室を見舞わぬ事はめったにない。いつでも何かしら美しい花が見られる。宅《うち》の庭には何もなくなった霜枯れ時分にここへ来ると生まれかわったようにいい心持ちがする。一階から五階までありとあらゆる人工的商品をこまごま見せられて疲れかわいた目には特にこれらの草花が美しく見える。花ばかりでなくいろいろ美しい熱帯の観葉植物の燃えるような紅や、けがれのない緑の色や、典雅な形態を見ればたれしも蘇生《そせい》するここちのしない人はあるまい。そしてこのわれわれの衣食住の必要品やぜいたく品を所狭くわずらわしく置きならべた五層楼の屋上にこの小楽園を設くる事を忘れなかった経営者に対してたとえ無自覚にしろ一片の感謝を表しない人はないであろうと思う。
 しかしこのごろだんだんいろいろの人に聞いてみると、中にはあの温室へはいると気持ちがわるくなるという人もあった、花だって貧弱なのばかりじゃないかと言った人もある。

 丸善から三越へ回って帰る時には、たいていいつも日本銀行まで歩いてそこから外濠線《そとぼりせん》に乗る。どうかして電車がしばらく来ない時には、河岸《かし》の砂利置場《じゃりおきば》へはいってお堀《ほり》の水をながめたり呉服橋《ごふくばし》を通る電車の倒影を見送ったりする。丸善の二階で得たいろいろな印象や、三越で受けたさまざまな刺激がこの河岸の風に吹かれて緊張のゆるんだ時に、いろいろの変わった形や響きになって意識の上に浮かび上がって来る。かねてから考えている著書を早く書き初めなければならぬと思う事もある。あるいは郷里の不幸や親戚《しんせき》に無沙汰《ぶさた》をしている事を思い出す事もある。
 しかしまた時として向こう河岸《がし》にもやっている荷物船から三菱《みつびし》の倉庫へ荷上げをしている人足の機械的に動くのを見たり、船頭の女房が艫《とも》で菜の葉を刻んだり洗ったりするのを見たり、あるいは若芽を吹いた柳の風にゆらぐのを見たりしていると、丸善だとか三越だとかいうものが世にもつまらない無用の長物だという気がする時もある。
 電車に乗って帰って宅《うち》の門をくぐると、もうこんな事はすっかり忘れてしまって、それで自分の日曜日、あるいは日曜日の自分は消えてしまうのである。
[#地から3字上げ](大正九年六月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
   1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
   1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
2003年5月20日作成
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