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空想日録
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白熊《しろくま》を射殺し

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)防寒|長靴《ながぐつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年三月、改造)
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     一 白熊の死

 探険船シビリアコフ号の北氷洋航海中に撮影されたエピソード映画の中に、一頭の白熊《しろくま》を射殺し、その子を生け捕る光景が記録されている。
 果てもない氷海を張りつめた流氷のモザイクの一片に乗っかって親子連れの白熊が不思議そうにこっちをながめている。おそらく生まれて始めて汽船というものに出会って、そうしてその上にうごめく人影を奇妙な鳥類だとでも思ってまじまじとながめているのであろう。甲板の手すりにもたれて銃口をそろえた船員の群れがいる。「まだ打っちゃいけない。」映画監督のシュネイデロフが叫ぶ。銃砲より先にカメラの射撃が始まるのである。白熊は、自分の毛皮から放射する光線が遠方のカメラのレンズの中に集約されて感光フィルムの上に隠像《レーテントイメージ》の記録を作っていることなどは夢にも知らないで、罪のない好奇と驚異の眼をこの浮き島の上の残忍な屠殺者《とさつしゃ》の群れに向けているのである。撮影が終わると待ち兼ねていた銃口からいっせいに薄い無煙火薬の煙がほとばしる。親熊は突然あと足を折って尻《しり》もちをつくような格好をして一度ぐるりと回るかと思うと、急いで駆け出すが、すぐに後ろを振りむいて何かしら自分の腰に食いついている目に見えぬ敵を追い払おうとする様子をする。命取りの強敵はもう深く体内に侵入しているがそんなことは熊にはわからない。またあわてて駆け出す。わけはわからないが本能的に敵から遠ざかるような方向に駆け出すのである。右の腰部からまっ黒な血がどくどく流れ出して氷盤の上を染める。映画では黒いだけのこの血が実際にはいかに美しく物すごい紅色を氷海のただ中に染め出したことであろう。そのうちにまたいくつかの弾《たま》をくらったらしい。いくら逃げても追い駆けて来る体内の敵をまくつもりで最後の奥の手を出してま近な二つの氷盤の間隙《かんげき》にもぐり込もうとするが、割れ目は彼女の肥大な体躯《たいく》を容《い》れるにはあまりに狭い。この最後の努力でわずかに残った気力が尽き果てたか、見る見るからだの力が抜けて行って、くず折れるようにぐったりと横倒しに倒れてしまう。一方ではまた、何事とも知れぬ極度の恐怖に襲われて、氷塊の間の潮水をもぐって泳ぎ回る可憐《かれん》な子熊《こぐま》もやがて繩《なわ》の輪に縛られて船につり上げられる。そうして懸命の力で反抗しあばれ回る。「ひどく一同を手こずらせた」と探険隊長の演説の中でも紹介されているが、これは子熊の立場からは当然のことであろう。あばれる子熊の横顔へ防寒|長靴《ながぐつ》をはいた人間の足がいくつも飛んで来る。これも人間の立場からは当然であろう。やがて魂の抜けた親熊の死骸《しがい》が甲板につりおろされると、子熊はいきなり飛びついて母の首筋に食らいついて引きずり出そうとするような態度を見せる。おそらくこの痛手を負った母を引きずりながらこの場を逃げ出そうとするのであろう。その母はもうとうに呼吸が絶えており、そうして自分のからだには繩がかかっているのである。
 この母熊の肉は探険隊員のあまたの食卓をにぎわすと同時に隊員のビタミン欠乏症を予防する役に立った。子熊のほうはたぶんそのうちに東京の動物園に現われ檻《おり》の前の立て札には「従来捕獲されたる白熊の中にて最高緯度の極北において捕獲されたるものなり」といったような説明書がつくことであろう。そのころにはもうあの北氷洋上の惨劇も子熊の記憶からはとうの昔に消えてしまっているであろう。
 動物の目から見ればやはり人間は得手勝手なものに見えるであろう。氷海の無辜《むこ》の住民たる白熊《しろくま》に対してはソビエト探険隊員は残虐なる暴君として血と生命との搾取者としてスクリーンの上に映写されるのである。
 白熊がもしもチンパンジーであったら、この映画の観客に与える情緒は少しちがうであろう。チンパンジーの代わりにホッテントットであったらどうか。若干の道徳学者が人道論を持ち出して映画の公開だけは禁じられるであろう。
 チンパンジーは人間とはちがって動物だという。これは動物学者が人為的に勝手な理屈から割り出してきめた分類によるからである。西洋人も日本人も同じ人間だという。しかしA博士の研究によると、日本人は血管の分布のしかただけから見ても明らかに西洋人とちがった特徴をもっているそうである。言わば違った動物なのである。昔の攘夷論者《じょういろんしゃ》は西洋人を獣類の一種と思っていた。今の米国人の中にでも黒人は人間と思っていない仲間があることはリンチの事実が証明する。
 北氷洋の白熊は結局、カメラも鉄砲も繩《なわ》も鎖もウインチも長靴《ながぐつ》も持っていなかったために殺され生け捕られたに過ぎないように思われる。

     二 製陶実演

 三越《みつこし》へ行ったら某県物産展覧会というのが開催中であって、そこでなんとか焼きの陶器を作る過程の実演を観覧に供していた。回転台の上へ一塊の陶土を載せる。そろそろ回しながらまずこの団塊の重心がちょうど回転軸の上に来るように塩梅《あんばい》するらしい。それが、多年の熟練の結果であろうが、はじめひょいと載せただけでもう第一近似的にはちゃんと正しい位置におかれている、それで、あとはただこの団塊をしっかり台板に押しつけ固着させるための操作を兼ねて同時にほんの少しの第二近似を行なうだけである。さて、このすえ付け作業がすむと今度は、両手を希薄な泥汁《どろじる》に浸したのちに、その手で回転する団塊の胴を両方から押えながら下から上へとだんだんなで上げると、今まではただの不規則な土塊であったものが、「回転的対称」という一つの統整原理の生命を吹き込まれただけで忽然《こつぜん》として「生きて」来る。そうしてなめらかな泥汁にぬれた土の肌《はだ》も見る見る生き生きとした光沢を帯びて来るのである。次には、この土塊の円筒の頂上へ握りこぶしをぐうっと押し込むと、筒の頭が開いて内にはがらんとした空洞《くうどう》ができ、そうしてそれが次第に内部へ広がると同時に、胴体の側面が静かにふくれ出してどうやら壺《つぼ》らしいものの形が展開されて行くのである。それから壺の口縁の所のやや細かい形のモデリングが始まるのであったが、そうそういつまでも見ている暇がなかったから、そこまでで残念ながら割愛して帰って来たのであった。帰りの電車に揺られながらも、この一団のきたない粘土の死塊が陶工の手にかかるとまるで生き物のように生長し発育して行く不思議な光景を幾度となく頭の中で繰り返し繰り返し思い起こしては感嘆するのであった。
 人間その他多くの動物の胚子《はいし》は始めは球形である。そうして、その一方が凹入《おうにゅう》して壺形になるのが発生の第一階段である。粘土のかたまりから壺にできて行くのは外見上いくらかこれと似た過程であるが、しかし生物の胚子の場合に陶工の手の役目をつとめるものが何であるかはいかなる生物学者にもまだよくはわからないようである。それはとにかく、この胚子の壺の形がだんだんにどこまでも複雑な形に分岐し分岐して、それがおしまいにはクレオパトラになったり、うちの三毛ねこになったりするのである。クレオパトラでも三毛ねこでも畢竟《ひっきょう》は天然の陶工の旋盤なしにひねり出した壺《つぼ》である。この壺の中味が問題になるのであろう。
 粘土がなくては陶器はできないが粘土があっただけではやはり陶器はできない。これはあたりまえである。しかしこのあたりまえな事が時々忘却されるためにいろいろな問題が起こることがある。
 ある哲学者が多年の間にたくさんの文献を渉猟して収集し蓄積した素材の団塊から自身の独創的体系を構成する場合があるであろう。科学者でも同様な場合があるであろう。そういう場合に寄り集まった材料が互いに別々な畑から寄せ集められたものである以上各部分の間にはなんらの必然的な連絡はなく、従ってそれらの堆積《たいせき》はやはり単なる素材の堆積であり団塊であるというだけで、結局はその学者なる陶工の旋盤の上に載せられた粘土の団塊とたいした変わりはないであろう。もっとも文献の破片は一度すっかり細かにすりつぶされなければならないのであるが、すりつぶされても結局素材としてはもとのものの変形である。
 この素材の団塊からすぐれた学者が彼の体系をひねり上げる際にはやはり名工が陶器を作ると同様なものがあるような気がする。死んだ無機的団塊が統整的建設的|叡知《えいち》の生命を吹き込まれて見る間に有機的な機構系統として発育して行くのは実におもしろい見物《みもの》である。
 こういう場合に傍観者から見て最も滑稽《こっけい》に思われることは、この有機的体系の素材として使用された素材自身、もしくはその供給者が、その素材を使って立派なものを作り上げ、そうして名工としての栄誉を博した陶工に対して不平|怨恨《えんこん》の眼を向けるという事実である。つまり言わば某陶工が帝展において金牌《きんぱい》を獲たときにその作品に使われた陶土の採掘者が「あれはおれが骨折って掘ってやった土をそっくりそのまま使って、そうした金牌をせしめておきながら涼しい顔をしている」と言って憤慨するのと似たことが実際にしばしば起こるのである。あるいはまた、陶土採掘者が平気でいても、はたのものが承知しないで、頼まれもせぬ同情者となって陶工の「不徳義」を責めるような事件が起こることもある。陶工の得た名声や利得が大きければ大きいほど、こういう事件の持ち上がる確率が大きいようである。
 文学上の作品などでも、よくこれに類した「剽窃《ひょうせつ》問題」が持ち上がる事がある。大文豪などはほとんど大剽窃家である。
 哲学者科学者皆そうである。アリストテレースなどは臟品《ぞうひん》の蔵を建てた男である。仕事が大きいほど罪も深い。
 ダーウィンが彼の進化論をまとめ上げて、それが一般に持てはやされた時代には、おそらくダーウィンに対して前述の粘土供給者と同様の怨恨《えんこん》をいだき、ダーウィンを盗賊呼ばわりしたものが三人や五人は必ずあったであろうと想像される。これほど大きな仕事でなくても、もっと小さな科学者の小さなアルバイトについても、たとえば一人の教授がその弟子《でし》の労力の結果を利用して一つの小さな系統化を行ない、一つの小さな結論をまとめた場合に、その弟子が「自分の粉骨砕身の努力の結果を先生がそっくりさらって一人でうまい汁《しる》を吸った」と言って恨む場合や、また先生と弟子との間には了解が成立しているのに頼まれもせぬ傍観者がこれを問題にして陰で盛んにその先生を非難し弟子をたきつけるといったような場合は、西洋でも東洋でもしばしば見聞する現象である。もっとも中には、実際に、単に素材のみならず、その造型構成のイデーまでも弟子の独創によってできあがったものを、先生が、先生であるというだけの特権を濫用してそっくりわが物にして涼しい顔をする場合もないとは言われないが、またそうでない場合がずいぶんあるようである。弟子《でし》がいったい何をしていいか見当のわからない場合に、一つのものになる見込みのあるテーマを授け、それに対する研究進行の径路を指示するのはそうだれにでも容易なことではないのであって、これだけでも一つの仕事の骨格に相当する。そうして得た結果がいったい何に役立つか弟子自身には見当のつかない場合に、先生がそれを使ってともかくも一つのまとまった帰納とそれからの演繹《えんえき》をすることに成功したとすれば、この場合は明白に先生が陶工であり弟子は陶土の供給者でなければならない。それにもかかわらず、冷静な第三者の目には明白にこの場合に該当すると思われる場合においても、弟子が先生を恨みゴシップがたきつけるという事件の起こることが意外に多いように見受けられる。これは科学的のアルバイトというものの本性に関する認識不足から起こる現象である。そうした不平をいう弟子にはまた当然独創力に乏しい弱い頭の持ち主が多いわけである。もし独創力のある弟子なら、そんな些細《ささい》なものを先生にくれてやっても、自分の仕事は目の前にいくらでもころがっているからである。
 陶工が陶土およびその採掘者に対して感謝の辞を述べる場合は少ない。これは不都合なようにも思われるが、よく考えてみると、名陶工にはだれでもはなれないが、土を掘ることはたいていだれにでもできるからであろう。
 独創力のない学生が、独創力のある先生の膝下《しっか》で仕事をしているときは仕事がおもしろいように平滑に進行する。その時弟子に自己認識の能力が欠乏していると、あたかも自分がひとりで大手を振って歩いているような気持ちがするであろう。しかし必ずしもそうでないということは、ひとたびその先生のもとを離れて一人立ちで歩いてみればすぐになるほどと納得されるのである。しかし性《たち》のいい弟子《でし》は、先生の手足になってきげんよく元気に働いている期間にすっかり先生の頭の中の原動力を認識し摂取してわが物にしてしまう。そうして一本立ちになるが早いかすぐに自分の創作に取りかかる。これに反して先生が自分の仕事を横取りしたといって泣き言を言うような弟子が一本立ちになって立派な独創力を発揮する場合はわりに少ないようである。これは当然のことであろう。
 以上とはまた反対の場合もたくさんある。陶工が凡庸であるためにせっかく優良な陶土を使いながらまるで役に立たない無様《ぶざま》な廃物に等しい代物《しろもの》をこね上げることはかなりにしばしばある。これでは全く素材がかわいそうである。しかし学問の場合においては、いい素材というものは一度掘り出されればいつかは名工に見いだされて立派なものに造り上げられるもののように思われる。古い話ではあるがティコ・ブラーヘの天体観測の結果は、幾度か非科学的な占筮《せんぜい》の用にも供せられたのであろうが、結局は名工ケプレルの手によって整然たる太陽系の模型の製作に使われた。ニュートンはまたこのケプレルの作ったものを素材として、さらに偉大な彼の力学体系を建設した。これと同様な例をあげれば限りはないであろう。
 三越《みつこし》で陶工の作業を見た帰りの電車の中でこんな空想を起こしてみたが、あとになってもう一ぺん考え直してみると、陶工の仕事と学者の仕事との比較には少なからず無理なところがある。学問の場合には、素材というものの価値が実は非常に重大である。いい素材を発見しまた発掘するということのほうがなかなか困難であってひと通りならぬ才能を要する場合が多く、むしろそれを使って下手《へた》な体系などを作ることよりも、もっとはるかに困難であると考えられる場合も少なくはない。そうして学術上の良い素材は一度掘り出されれば、それはいつまでも役に立ち、また将来いかなる重大なものに使用されるかもしれないという可能性をもっている。これに反してその素材を用いて作り上げられた間に合わせの体系や理論の生命は必ずしも長くはない。場合によってはうちの台所の水甕《みずがめ》の生命よりも短いこともある。水甕の素材は二度と使えなくても、学説や理論の素材はいつでもまた使える。こういうふうに考えて来ると学問の素材の供給者が実に貴《たっと》いものとして後光を背負って空中に浮かみ上がり、その素材をこねてあまり上できでもない品物をひねり出す陶工のほうははなはだつまらぬ道化者の役割のようにも思われて来るのである。
 そうかと言って陶器の需要のない所には陶土の要求もあるはずはないのは言うまでもないことである。
 しかし、そういう理屈はいっさい抜きにして、あの陶工の両手の間で死んだ土塊が真に生き物のように生長して行く光景を見ている瞬間には、どうしても人間のものを生み出す創作能力の尊さを賛美しないわけには行かないのであった。

     三 身長と寿命

 地震研究所のI博士が近ごろ地震に対しての人体感覚の限度に関する研究の結果を発表した。特別な設計をした振動台の上に固定された椅子《いす》に被試験者を腰掛けさせ、そうしてその台にある一定週期の振動を与えながらその振幅をいろいろに増減する。そうしてちょうど振動感覚の限界に相当する振幅を測定する。次には週期を変えて、また同じ事をする。そういうふうにしていろいろな週期に対する感覚限界の振幅を求めてみると、おもしろいことには被試験者のそれぞれに固有な一定の週期のところで感覚が最も鋭敏である。すなわち、その週期の時に、いちばん小さな振幅あるいは加速度を感得しうるというのである。さらにおもしろいことは、その特別な週期が各人の身体の構造の異同で少しずつちがい、それが結局は各個人の、腰掛けた位置に相当する固有振動週期を示すものらしいということである。
 このおもしろい研究の結果を聞かされたときに、ふと妙な空想が天の一方から舞い下って手帳のページにマークをつけた。それを翻訳すると次のようなことになる。
 時間の長さの相対的なものであることは古典的力学でも明白なことである。それを測る単位としていろいろのものがあるうちで、物理学で選ばれた単位が「秒」である。これは結局われわれの身近に起こるいろいろな現象の観測をする場合に最も「手ごろな」単位として選ばれたものであることは疑いもない事実である。いかなるものを「手ごろ」と感ずるかは畢竟《ひっきょう》人間本位の判断であって、人間が判断しやすい程度の時間間隔だというだけのことである。この判断はやはり比較によるほかはないので、何かしら自分に最も手近な時間の見本あるいは尺度が自然に採用されるようになるであろう。脈搏《みゃくはく》や呼吸なども実際「秒」で測るに格好なものである。しかしそれよりも、もっと直接に自覚的な筋肉感覚に訴える週期的時間間隔はと言えば、歩行の歩調や、あるいは鎚《つち》でものをたたく週期などのように人間|肢体《したい》の自己振動週期と連関したものである。舞踊のステップの週期も同様であって、これはまた音楽の律動週期と密接な関係をもっている。
 現在の「秒」はメートル制の採用と振り子の使用との結合から生まれた偶然の産物であるが、このだいたいの大いさの次序《オーダー》を制定したものはやはり人体の週期であるという事はほとんどたしからしく自分には思われる。
 さて、われわれは時の長さをこの秒で測ると同時に、またそれを「感じ」る。多数の秒数が経過したということは、その間にたくさん歩きたくさん踊ったということであり、結局たくさんの「事」をしたことである。人間の人間的活動をそれだけ多くしたという事である。換言するとそれだけ多く「生きた」ということである。
 こう考えて来るとわれわれの「寿命」すなわち「生きる期間」の長短を測る単位はわれわれの身体の固有振動週期だということになる。
 そこで、今かりにここに侏儒《しゅじゅ》の国があって、その国の人間の身体の週期がわれわれの週期の十分の一であったとする。するとこれらの侏儒のダンスはわれわれの目には実に目まぐるしいほどテンポが早くて、どんなステップを踏んでいるか判断ができないくらいであろう。しかしそれだけの速い運動を支配し調節するためにはそれ相当に速く働く神経をもっていなければならない。その速い神経で感ずる時間感はわれわれの感じるとはかなりちがったものであろう。それで、事によるとこれらの一寸法師はわれわれの一秒をあたかもわれらの十秒ほどに感ずるかもしれず、そうだとすれば彼らはわれわれのいわゆる十年生きても実際百年生きたと同じように感じるかもしれない。
 朝生まれて晩に死ぬる小さな羽虫があって、それの最も自然な羽ばたきが一秒に千回であるとする。するとこの虫にとってはわれわれの一日は彼らの千日に当たるのかもしれない。
 森の茂みをくぐり飛ぶ小鳥が決して木の葉一枚にも触れない。あの敏捷《びんしょう》さがわれわれの驚嘆の的になるが、彼はまさに前記の侏儒国の住民であるのかもしれない。
 象が何百年生きても彼らの「秒」が長いのであったら、必ずしも長寿とは言われないかもしれない。
「秒」の長さは必ずしも身長だけでは計られないであろう。うさぎと亀《かめ》とでは身長は亀のほうが小さくても「秒」の長さは亀のほうが長いであろう。すると、どちらが長寿だか、これもわからない。さて、人間がいろいろの器械を作って、それを身体の代用物とする傾向がだんだんに増して来る。そうしてそれらの器械のリズムがだんだん早くなって来ると、われわれの「秒」は次第に短くなって行くかもしれない。それで、もしも現在の秒で測った人間の寿命が不変でいてくれればわれわれは次第に長生きになる傾向をもっているわけである。しかし人間の寿命がモーターの回転数で計られるようになることが幸か不幸かはそれはまた別問題であろう。

     四 空中殺人法

「神伝流游書《しんでんりゅうゆうしょ》」という水泳の伝書を読んでいたら、櫓業《やぐらわざ》岩飛《いわとび》中返《ちゅうがえり》などに関する条項の中に「兼ねて飛びに自在を得る時は水ぎわまでの間にて充分敵を仕留めらるるものなり」とか、「船軍《ふないくさ》の節敵を組み落とし、水ぎわまでの間にて仕留めるという教えはよほど飛びに自在を得ざれば勝利を得る事あたわず。よって平日この心にて修行すべきなり」とかまた「水ぎわまでの間にて敵を仕留めよ。陸地にてはいつも敵になげられよ。大地にわが体の落ち着くまでに敵を仕留むるの覚悟をせよ」とかいう文句がある。空中殺人法を説いたものである。現代では競技会でメダルやカップやレコードを仕留めるだけが目的の空中曲技も、昔の武士は生命のやりとり空中組み打ちの予行練習として行なったものと見える。
 ポアンカレ著「科学者と詩人」の訳本を見ていたら、「学者は普通に、徐々にしか真理を征服しないものであります。(中略)実際家は、そのように長くかからなければわからぬ真理はほとんど意に介しません。なぜなら、そのような真理は、実行の機が過ぎ去って、間に合わなくなってからわかって来るものだからです。(下略)」
 なるほど学者の仕事はとかくけんか過ぎての棒ちぎりになる場合が普通である。ダイナモができてからそれが発電する理由が証明されたり、飛行機が飛んでから、それが飛べる必然性が闡明《せんめい》されたりする。大地震が襲来して数万の生霊が消散した後にその地震が当然来るはずであった事が論ぜられたりするのは事実である。
 しかし必ずしもそうではないようである。学者がその仕事を「仕上げる」には長い月日を要するのは普通であるが、仕事をつかまえ、「仕留める」のにはやはり電光石火の空中曲技が必要な場合が多いように思われる。たとえば実験的科学の研究者がその研究の対象とする物象に直面している際には、ちょうど敵と組み打ちしているように一刻の油断もならない。いつ何時《なんどき》意外な現象が飛び出して来るかもわからないのみならず、眼前に起こっている現象の中から一つの「事実」を抽出し、仕留めるには非常な知能の早わざを要するものである。
 もっともいわゆる、ルーティン的な仕事であって、予定の方法で、予定の機械の指示する示度を機械的に読み取って時々手帳に記入し、それ以外の現象はどんな事があっても目をふさいで見ないことにする流儀の研究ではなんの早わざもいらない、これには何も人間でなくてもロボットもしくは自記装置を使えばすむことである。しかしこれでは決して予想以外の新しいことの見つかる気づかいはないであろう。瞬間に過ぎ去るような現象を捕えるのにはやはり「水ぎわまでの間に敵を仕留める」呼吸を要するであろう。またそういう瞬間的な現象でなく持続的な現象でもそれが複雑に入り組んだものである場合にその中から一つの言明を抽出するのはやはり一つの早わざである。観察者の頭が現象の中へはいり込んで現象と歩調を保ちつついっしょに卍巴《まんじともえ》と駆けめぐらなければ動いているものはつかまえられない。
 実験や観測でなくて純粋な理論的の考察であっても、一つの指導的なイデーが頭に浮かぶのは時としては瞬間的であって、そうして、かろうじて意識の水平線の上に現われるか現われないかという場合がある。それをうっかりしていると取り逃がしてしまって、再びはなかなか返って来ない事があるであろう。これを即座に捕え仕留めるのはやはり一種の早わざである。人間の頭の働き方はやはり天然現象に似た非再起的なトランシェントな経過をとる場合が多い。数学のような論理的な連鎖を追究する場合ですらも、漠然《ばくぜん》とした予想の霧の中から正しい真を抽出するには、やはりとぎすました解剖刀のねらいすました早わざが必要であろう。居眠りしながら歩いていたのでは国道でも田んぼへ落ちることなしに目的地へは行かれまい。
 実験科学では同じ実験を繰り返すことができるからまだいいとしても、天然現象を対象とする科学では、一度取り逃がした現象にいつまためぐり会われるかもわからないという場合がはなはだ多い。そういう場合において、学者は現象の起こっている最中に電光石火の早わざで現象の急所急所に鋭利な観察力の腰刀でとどめを刺す必要がある。そうすれば戦いのすんだあとで、ゆるゆる敵を料理して肉でも胆《きも》でも食いたければ食うことができる。
 実験的科学でも実は同様である。甲が同じ事を十回繰り返し実験しても気がつかずに見のがす事を乙がただ一ぺんで発見する場合はしばしばある。
 こういう早わざをしとげるためには、もとより天賦の性能もあろうが、主として平素の習練を積むことが必要で、これは水練でも剣術でも同じことであろうと思われる。
 学生の時分に天文観測の実習をやった。望遠鏡の焦点面に平行に張られた五本の蜘蛛《くも》の糸を横ぎって進行する星の光像を目で追跡すると同時に耳でクロノメーターの刻音を数える。そうして星がちょうど糸を通過する瞬間を頭の中の時のテープに突き止めるのであるが、まだよく慣れないうちは、あれあれと思う間に星のほうはするすると視野を通り抜けてしまってどうする暇もない。しかし慣れるに従って星がだんだんにのろく見えて来る、一秒という時間が次第に長いものに感ぜられて来る。そうして心しずかに星を仕留めることができた。
 水泳の飛び込みでもおそらく習練を積むに従って水ぎわまでの時間が次第に長くなって、ゆるゆる腰刀を抜いて落ち着いてねらいすまして敵を刺すことができるようになるのではないかと思われる。
[#地から3字上げ](昭和八年三月、改造)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
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