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軽井沢
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)矮小《わいしょう》な

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(例)毎朝|水鶏《くいな》が来て

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(例)ラジオの※[#「食+尭」、第4水準2-92-57]舌には
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 十五年ほど前の夏休みに松原湖へ遊びに行った帰りの汽車を軽井沢でおり、ひと汽車だけの時間を利用してこの付近を歩いたことがあった。その時の記憶と今度行って見た軽井沢とで、目についた相違はと言えば、機関車の動力が電気になっていること、停車場前に客待ちのリクショウメンがいなくなって、そのかわりに自動車とバスと、それからいろいろな名前のホテルの制帽を着た、丁寧でいばっている客引きの数が多いことぐらいである。山川の景色は百年ぐらいたってもたいして年は取らないのである。
 草津電鉄で、駅と旧軽井沢との間に通称「白樺電車」というものを通わせている。いかにも軽井沢らしい象徴的な交通機関である。柱や手すりを白樺の丸太で作り、天井の周縁の軒ばからは、海水浴場のテントなどにあるようなびらびらした波形の布切れをたれただけで、車上の客席は高原の野天の涼風が自由に吹き抜けられるようにできている。天井裏にはシナふうのちょうちんがいくつもつるしてある。なんとなく子供のうれしがるようなぐあいにできている。そうして、子供を連れて乗ったおとなもつい子供のような気持になる、といったような奇態な電車である。柱の白樺の皮がはがれた所を同じ皮で繕って、その上に巻いたテープには「白樺の皮をだいじにしてください」と書いてある。なるほど、だれでもちょっとはがしてみたくなるものと見える。この車を引っぱる電気機関車がまた実に簡単で愉快なものである、大きな踏み台か、小さな地蔵堂のような格好をした鉄箱の中に機関手が収まっている。その箱の上に二本鉄棒を押し立てて、その頂上におもちゃの弓をつけたような格好のものである。それでもこれが通ると、途中の草原につながれて草をはんでいる馬が、びっくりしてぴょんぴょんはねるのである。
 旧軽井沢の町はユニークな見ものである。ちょっと見ると維新以前の宿場のような感じのする矮小《わいしょう》な低い家並みの店先には、いわゆる「居留地」向きの雑貨のほかに、一九三三年の東京の銀座にあると同じような新しいものもあるのである。書店の棚にはギリシア語やヘブライ語の辞書までも見いだされる。聖書の講義もあればギャング小説もある。
 郵便局の横町にナンキン町がある。店にいて往来人をじろじろながめる人たちの顔つき目つきがどこかやはりちがう。なんとなくゲットーのような趣もある。周囲がみんななまけて金を使っている中でこの横町の人たちだけは懸命で働いて金をもうけているのである。
 このへんで道をきくと「これをまっすぐに、まっすぐに……」と言われるにきまっているらしい。まっすぐに行かれるように道ができているのである。
 ゴルフリンクの入り口でお茶を引いているキァデーの群れがしきりにクラブを振りまわしている。なんだか哀れである。昔とちがって今では貧民の子でも旧大名のお姫様のお供をして歩かれる。しかし日常生活の程度の相違は昔と同じか、むしろいっそう著しいであろう。子供らは得意になって殿様がたのような気持ちになってクラブをふるうているのである。リンクの入り口には「危険」だから入場するなというような意味の立て札がある。ちょっとしたアイロニーを感じさせる。垣根からのぞくと広々とした緑の海の上にぽつりぽつり白帆のように人影が見える。ゴルフをやらない人間から見ると、ゴルフをやっている人はみんな大貴族か大金持ちのように思われる。垣根ただ一重の内側の緑野は、自分らとは生涯なんの因縁もない別の世界のような気がする。しかしもしかこれで、何かの回り合わせで、自分でゴルフをやり始めたら、また現在とはよほどちがった気持ちで、この緑の草原が見直されることであろう。
 ゴルフ場からニューグランドへの、清流に沿うてゆるやかにうねり行く山腹の道路は、どこか日本ばなれのした景色である。樺や栃や厚朴《ほおのき》や板谷《いたや》などの健やかな大木のこんもり茂った下道を、歩いている人影も自動車の往来もまれである。自転車に乗った御用聞きが西洋婦人をよけようとしてぬかるみにすべってころんだ。
 至るところでうぐいすが鳴く。もしか、うぐいすの鳴き声のきらいな人があったら、一日もこのへんにはいられないであろう。しかしだれでもうぐいすの声を楽しまない人はない。思うにわれわれの遠い祖先が山林の中をさまよい歩いて、生きるために天然とたたかっていたころから、人間はだんだんにうぐいすに教育されて来たものと思われる。うぐいすの鳴くころになると、山野は緑におおわれ、いろいろの木の実、草の実がみのり、肌を刺す寒い風も吹かなくなるということを教えられたに相違ない。うぐいすの声がきらいな人などありようはない。
 星野温泉の宿の池に毎朝|水鶏《くいな》が来て鳴く。こぶし大の石ころを一秒に三四ぐらいのテンポで続けざまにたたき合わせるような音である。それが、毎朝東の空がわずかに白みかけるころにはきまってたたきに来る。そっと起き出して窓からのぞいて見ても姿は見えない。ひとしきり鳴くと鳴きやみ、あたりがしんとする。しばらくすると今度は一町ぐらい下のほうの池で鳴いているらしい。この水鶏が鳴いてからしばらくするとほととぎすが鳴いて通る。それがいつも同じ方向から鳴いて来て、また別のきまった方向へ鳴いて行くようである。それが通り過ぎてからしばらくすると、今度は宿の浴室のほうでだれかガーガーゲーゲーと途方もない野蛮な声を出して咽喉や舌のつけ根の掃除をする浴客がある。水鶏やほととぎすの鳴き声がいかにも静寂であるのに引きかえて、この人間の咽喉をせんたくする音が、なぜこんなにも不快であるのか、これも不思議である。鳥にはだれも初めから遠慮とか作法とかを期待しない、というせいもあるであろう。また、鳥の生活に全然没交渉なわれわれは、鳥の声からしてわれわれの生活の中に無作法に侵入して来るような何物の連想をもしいられないせいもあるであろう。蝉の声には慣らされるが、ラジオの※[#「食+尭」、第4水準2-92-57]舌にはなかなか教育されるのに骨が折れる。
 夕方歩いていたら、湯川の沢の蘆原の中で水鶏が鳴いていた。朝でなくても鳴くのである。ずっと離れた山すそにも、もう一羽別のが鳴いていた。沢のがだんだん近づいて行って、とうとう山すそのほうへ移って行くころには相手はもう鳴かなくなった。やがて水鶏の声はぱったり途絶えてしまって、十三夜ごろの月が雨を帯びた薄雲のすきまから、眠そうにこの静かな谷を照らしていた。水鶏の鳴くのはやはり伴侶を呼ぶのであろう。
 このへんには猫がいない、と子供らが言う。なるほど、星野でも千が滝でも沓掛《くつかけ》でも軽井沢でもまだ一匹も猫の姿を見ない。それが東京の宅《うち》の付近だと、一町も歩くうちにきっと一匹ぐらいは見つかるような気がする。日々に訪れて来るのら猫の数でも少なくはない。なぜだろう。宿の人に聞いてみると、いないことはない。現に近くの発電所にも一匹はたしかにいるという。宿では食膳を荒らす恐れがあるから飼わないそうである。宿で前に七面鳥を飼っていたが、無遠慮に客室へはいり込むのでよしたという。それにしても猫の少ないだけは確かである。ねずみが少ないためかもしれない。そうだとするとねずみの食うものが少ないせいかも知れない。つまり定住した人口が希薄なせいかもしれない。冬になればこのへんはほとんど無人境になるそうであるから。
 そう言えば、すずめもいっこうに見かけない。御代田《みよた》へんまで行くとたくさんいるそうである。このすずめの分布は五穀の分布でだいたいは説明ができそうである。人間は金のある所へ寄るが鳥獣の分布はやはり「すぐに取って食える食物」の分布できまるものらしい。
 星野に小さな水力発電所がある。六十五キロだそうである。これくらいのかわいいのだといわゆる機械的バーバリズムの面影はなくて、周囲の自然となれ合って落ち着いている。狭い発電所の構内には、おいらん草が真紅に美しく咲き乱れている。発電所から流れ出す水流の静かさを見て子供らが不審がる。水はそのありたけの勢力を機械に搾取されて、すっかりくたびれ果てて、よろよろと出て来るのである。しかし水は労働争議などという言葉は夢にも知らない。
 人間は自然を征服し自然を駆使していると思っている。しかし自然があばれだすと手がつけられないことを忘れがちである。全国至るところにある発電所の堰堤《えんてい》のどれかが、たとえば大地震のためにこわれたら、その時には人間の弱さがはっきりわかるであろう。気の狂った動物園の象ぐらいの事ではすまない。
 道ばたの白樺の樹皮を少しはがしてよく見ると、実に幾層にも幾層にも念入りにいろいろの層が重畳している。これにも何か深い「意味」があるであろうが、この薄層の一枚一枚にしるされた自然の暗号記録はわれわれには容易に読めない。まただれも読もうともしないようである。
 人間はなんと言ってもやはりいちばん人間に興味があるようである。軽井沢の町や新軽井沢の林間を歩いていて行き会う都人士は、みんななんとなく新軽井沢らしい顔と服装とをしている。若い女どうしは近よりながら、互いに用心深くお互いを偵察し合いながら行き違う。そうして何かしら小さな観察をし小さな発見をすることによってめいめいの小さなかわいいプライドを満足させているように思われる。
 雲取池《くもとりいけ》のみぎわのベンチに、五十格好の婦人が腰かけて、ハンケチで半面をおおったまま、いつまでもじっとして池の面をながめていた。相当な服装をしているが、いかにもやせ衰えている上に、顔一面に何か皮膚病と見えてかびでもはえたような肌合をしている。このへんを歩いている人たちの大部分は、西洋人でも日本人でも、男でも女でも、みんなたった今そこで生命の泉を飲んできたような明るい活気のある顔をしている中で、この老婦人だけがあたかも黄泉《よみ》の国からの孤客のように見えるのであった。「どうかするんじゃないかしら。」そんな暗い予感の言葉が同時に一行の口から出た。草津入浴のついでにこのへんを見物に来たのだろうというものもあった。しかし、当人は存外のんきに歌でも詠《よ》んでいたのかも、それはわからない。顔の粉っぽいのは白粉《おしろい》のつけそこねであったかも、それはわからない。
 軽井沢の駅へおりた下り列車の乗客が、もうおおかたみんな改札口を出てしまったころに、不思議な格好をした四十前後の女が一人とぼとぼと階段をおりて来た。駅員の一人がバスケットをさげてあとからついて来る。よれよれに寝くたれた、しかも不つりあいに派手な浴衣《ゆかた》を、だらしなく前上がりに着て、後ろへはほどけかかった帯の端をだらりとたらしている。頭髪もすずめの巣のように乱れているが、顔には年に似合わぬ厚化粧をしている。何かの病気で歩行が困難らしい。妙な足取りでよちよち歩いて来るそばを、駅員がその女の持ち物らしいバスケットをさげてすましてついて来た。改札口を出るとその駅員は、草津電鉄のほうを指さして何か教えているらしかった。女が行ってしまうとその駅員は、改札係と、居合わせた警官と三人で顔を見合わせて何か一言二言言ってにやにや笑っていた。
 同じ汽車でおりた西洋人夫婦が、純粋な昔のシナの服装をしたシナ婦人に赤ん坊を抱かせて、しずしずと改札口を出た。子供のかかえ方が日本人とはよほどちがっている。それが実にさもさもだいじなものを捧持《ほうじ》しているようなかかえ方である。よそ目にもはらはらするようなそこらの日本の子守りと比べて、このシナ婦人のほうに信用のあるのはもっともである。
 軽井沢から沓掛へ乗った一人の労働者が、ひどく泥酔して足元があぶないのに、客車の入り口の所に立ってわめいている。満州国がどうして日本帝国がどうかしたといったような事を言って相手を捜している。客車の中から一人洋服を着た若い学校の先生らしいのが出て来て、手を握ったり肩をたたいたりしてなだめている。労働者は喜んで何か口の中でもぐもぐ言いながらその若者を拝むようなまねをした。ちょっとした芝居であった。その車の入り口のいちばん端にいた浴衣がけの若者が、知らん顔をしてはいたが、片腕でしっかり壁板を突っぱって酔漢がころげ落ちないように垣《かき》を作っていた。新青年と旧青年との対照を意外なところで見せられる気がした。
 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間の斜面を白雲が幾条ものひもになってはい上がる。それが山腹から噴煙でもしているように見える。峰の茶屋のある峠の上空に近く、巨口を開いた雨竜《あまりょう》のような形をしたひと流れのちぎれ雲が、のた打ちながらいつまでも同じ所を離れない。ここで気流が戦って渦を巻いているのであろう。
 日によってはまた、浅間の頂からちょうど牡丹《ぼたん》の花弁のような雲の花冠が咲き出ていることもある。それからまた、晴れた日に頂上が全く見えないことがあるかと思うと、雨の降るのに頂上までありあり見えることもある。この天然の大仕掛けの気象観測機械を利用することを知らない科学はまだ幼稚なものである。
 グリーンホテルからの眺望には独特なものがある。常緑樹林におおわれた、なだらかなすそ野の果ての遠いかなたの田野の向こうには、さし身を並べたような山列が斜め向きに並び、その左手の山の背には、のこぎり歯というよりは乱杭歯《らんぐいば》のような凹凸《おうとつ》が見える。妙義の山つづきであろう。この山系とは独立して右のかたはるかにそびえている雄大な山塊は八が岳であろう。ここから見て初めて八が岳の大きさ高さが納得できるような気がした。
 ホテルの付近の山中で落葉松《からまつ》や白樺の樹幹がおびただしく無残にへし折れている。あらしのせいかと思って聞いてみると、ことしの春の雪に折れたのだそうである。降雨のあとに湿っぽい雪がたくさん降って、それが樹冠にへばりついてその重量でへし折られたそうである。こういう雪の山路に行き暮れて満山の雪折れの音を聞くということは、想像するだけでも寒いようである。
 ホテルの三階のヴェランダで見ていると、庭前の噴水が高くなり低くなり、細かく砕けたりまた棒立ちになったりする。その頂点に向かう視線が山頂への視線を越しそうで越さない。風が来ると噴水が乱れ、白樺が細かくそよぎ竹煮草《たけにぐさ》が大きく揺れる。ともかくもここのながめは立体的である。
 毎日少しずつ山を歩いていると足がだんだん軽くなる。はじめは両足を重い荷物のようにひきずり歩いていたのが、おしまいには、両足が立派な独立の存在となって自分で自分を運搬するばかりか、楽々とからだのほうをかつぎ歩くようになって来た。この傾向がどこまでも続いたら、おしまいには昔話の仙人のように雲に駕《が》して山から山を飛び歩けそうな気がする。仙人の話は存外こんな想像からも生まれ得たのである。
 碓氷峠を下って関東平野にかかると今さらに景色の相違が目に立つ。落葉松、白樺、厚朴、かえでなどの代わりに赤松、黒松、榛《はん》、欅《けやき》、桐《きり》などが幅をきかしている。そうして自由に放恣《ほうし》な太古のままの秋草の荒野の代わりに、一々土地台帳の区画に縛られた水稲、黍《きび》、甘藷《かんしょ》、桑などの田畑が、単調で眠たい田園行進曲のメロディーを奏しながら、客車の窓前を走って行くのである。何々イズムと名のついたおおかたの単調な思想のメロディーのようにあとへあとへと過ぎ行くのである。



底本:「日本随筆紀行第一一巻 長野 雲白く山なみ遙か」作品社
   1986(昭和61)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
   1961(昭和36)年5月
初出:「経済往来」
   1933(昭和8)年9月
入力:もりみつじゅんじ
校正:多羅尾伴内
2003年4月28日作成
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