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ジャーナリズム雑感
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瀑布《ばくふ》のごとく
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(例)撤《ま》き[#「撤き」はママ]広げ、
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いつかある大新聞社の工場を見学に行ってあの高速度輪転機の前面を瀑布《ばくふ》のごとく流れ落ちる新聞紙の帯が、截断《せつだん》され折り畳まれ積み上げられて行く光景を見ていたとき、なるほどこれではジャーナリズムが世界に氾濫《はんらん》するのも当然だという気がしないではいられなかった。あまり感心したために機械油でぬらぬらする階段ですべってころんで白い夏服を台無しにしたことであった。
現代のジャーナリズムは結局やはり近代における印刷術ならびに交通機関の異常な発達の結果として生まれた特異な現象である。同時に反応的にまたこれらの機関の発達を刺激していることも事実であろうが、とにかく高速度印刷と高速度運搬の可能になった結果としてその日の昼ごろまでの出来事を夕刊に、夜中までの事件を朝刊にして万人の玄関に送り届けるということが可能になった、この事実から、いわゆるジャーナリズムのあらゆる長所と短所が出発するのであろう。
ジャーナルという言葉には昔からいろいろな意味があることは字引きを見るとわかるが、ともかくも「日々」という意味から出て、それから日刊の印刷物、ひいてはあらゆる定期的週期的刊行物を意味することになったのだそうである。そういう出版物を経営し、またその原稿を書いて衣食の料として生活している人がジャーナリストであり、そういう人の仕事がすなわちジャーナリズムだとある。手近な字引きで引いたところではたったこれだけの意味しか書いてないのである。しかしきょうこのごろ日本でいわゆるジャーナリズムという言葉には、これ以外にいろいろ複雑な意味や、余味や、後味や、またニュアンスやがあってなかなか簡単に定義しひと口に説明することはできないようである。人に聞いてみても人によっていろいろと多少は解釈がちがう、のみならずまた同一人でも場合によっていろいろちがった意味にこの言葉を使うことがあるようである。文章の中に出現しているのでも前後関係で意味や価値にずいぶん大きな開きがあるようである。誠につかまえどころのない化け物のようなものであるが、ともかくもいわゆるジャーナリズムと称する「もの」があることだけは確実な事実である。ただ頭としっぽがどうもはっきりつかまえにくいだけである。このつかまえにくい頭としっぽをつかまえようというのではないが、世間にうとい一学究の書斎のガラス戸の中からながめたこの不思議な現象のスケッチを心覚えに書きとめておこうというのである。
ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする。その殺人現場における事件の推移はもちろん、その動機から犯行までの道行きをたとえ簡単にでも正確につきとめるためには、実は多数の警察官や司法官の長日月の精査を要し、しかもそれでもなかなか容易にはすみからすみまで明白にしにくいのが通例である。それを僅々《きんきん》数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末《てんまつ》を記述し関係人物の心理にまでも立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。
この不可能事を化して可能にする魔術師の杖《つえ》は何かと調べてみると、それは、言わば、具体的事実の抽象一般化、個別的現象の類型化とでも名づけるべき方法であると思われる。
殺人事件というものが古来一つもなかったらどうにもならない話であるが、幸か不幸か昔からありとあらゆる種類や型式の殺人事件の数が実におびただしい多数に上っており、そうしてそれらの一つ一つについてはまた実にいろいろの記録が残っている。古い昔から物語や小説や講談に、どこまでがほんとうでどこまでがうそかはわからぬようなものばかりではあるがとにかく記録が多数に残存し、われわれは知らず知らずそういうものに習熟していつのまにか頭の中にいろいろな殺人事件の類型を作り上げしまいこんでいるのである。それで今日ただ今眼前に一つの事件が起こったとき、その事件の内容の一端だけを知れば、それだけのわずかな資料によって当該事件がおよそどの型に属するかという漠然《ばくぜん》たる見当をつけることができるように、そういう準備がいつでもできているのである。その見当が当たっているか狂っているかは別問題であるが、見当をつけ得られるということが肝心の問題である。そこで某殺人事件の種取りを命ぜられた記者は現場に駆けつけて取りあえずその材料を大急ぎでかき集めた上で大急ぎでそれを頭の中のカタログ箱の前に排列してそうしてさし当たっていちばんよいはまりそうな類型のどれかにその材料をはめ込んでしまう。そうするとともかくもそこに一つのもっともらしい殺人物語ができあがる。もちろん事実の真相とどれだけかけ離れているかはこの際問題にしている暇はないので、ただいかにももっともらしくその場限りのつじつまが合っているということが大切なのである。さて、こういう記事を読む読者のほうの頭の中にもやはり同じ物語や小説やから収集したあらゆる類型がちゃんと用意されてあるのだから、新聞の類型的描写が自然にぴったりとこっちの持参の型のどれかにはまり整合する。従ってそれで完全に納得し、満足し、そうして自分では容易にできないのを他人のしてくれた殺人のセンセーションを享楽することができるのである。それがたとえ事実とどれほど離反していても、そんなことは元来加害者にも被害者にも縁故のない赤の他人の一般読者にはどうでもよいのである。「どこかに人殺しがあった」という事実だけが正確でうそでなければ、それ以外の間違いについて新聞社に苦情を持ち込むほど物ずきな読者はまれであろうと思われる。真相が少しわかりかけるころには読者も記者ももうきれいに忘れているのであろう。
そうはいうものの、同じ事件に関する甲乙二つの新聞の記事が、一つ一つ別々に見れば実にもっともらしくつじつまが合っているのに、両方を比較してみるとまるで別の事件のように思われるほどかけ違ったり事がらが反対になったりしている場合も決して少なくはないので、そういう時にはさすが楽天的なわれわれ読者もいくらかの不安と不満を感じないわけにはゆかないようである。
昔の新聞にはずいぶんおもしろい例が多かった。心中者の二人が死ぬ前に話し合った言葉などがさもそばで速記者が立ち聞きでもしていたかのように記録されていたりしたものである。それが近松《ちかまつ》や黙阿弥《もくあみ》張りにおもしろくつづられていたものである。これは実に愉快な読み物であったが、さすがにこのごろはそういうのは、少なくも都下の新聞にはまれなようである。しかし、本質的にはこれと同様な記事は今でも日々の新聞に捜せばいくらでも発見されるのである。
ある役所で地方技術官の集合があって、その第何日目かに大臣が出席して演説する予定になっていたところ、当日さしつかえができて大臣は欠席した。しかしその日の夕刊を見ると大臣がちゃんと出席して滔々《とうとう》と演説をしたことになっていた。
ある若い学者がある日ある学会である論文を発表したその晩に私の宅《うち》へ遊びに来てトリオの合奏をやっていたら、突然某新聞記者が写真班を引率して拙宅へ来訪しそうして玄関へその若い学者T君を呼び出し、その日発表した研究の要旨を聞き取り、そうしてマグネシウムの閃光《せんこう》をひらめかし酸化マグネシウムを含んだ煙を玄関の土間に残して引き上げて行った。翌朝の新聞に宅の下手《へた》な合奏の光景が暴露されているかと思って読んでみると「……同学士をH町の自邸に訪《と》えば」うんぬん、とあって、ちゃんとそのT氏の自宅においてT氏と会談したことになって記述されていたのである。
この二つの実例から見ても新聞記事にはちゃんとした定型が確立されていて、いかなる場合にでもそれを破ることが禁ぜられているらしく思われるのである。自分らのようなつむじ曲がりの読者にとっては、むしろ来るはずの大臣がその日来なかったという偶然の個別現象に興味があり、また論文を発表したある若い学者がちょうどその晩よそへ遊びに行ってそこで合奏をやっていた事実に意義を認めるのであるが、それを事実有りのまま書いたのでは、ジャーナリズムの鉄則に違反するものと見える。こういう事実を初めて発見してひどく感心してしまったことがあったのである。
このジャーナリズムの一相と見らるる「事実の類型化」はある意味では確かにうそをつくことであるが、しかしまたよく考えてみると、これは具体的個別から抽象され一般化された規準的事実の記述だと解釈されないこともない。
物理学の初歩の教科書を見ると、地球重力による物体落下の加速度は毎秒毎秒九・八メートルであると書いてある。しかしデパートの屋上から落とした一枚の鼻紙は決してこの方則には従わないのである。重力加速度に関する物理の方則は空気の抵抗や風の横圧や、偶然の荷電や、そんなものの影響はぬきにして、重力だけが作用する場合の規準的の場合を捕えて言明しているのである。そうしてまた、加速度の数値を五けた六けたまでも詳しく云為《うんい》する場合には、実測加速度から規準加速度を導出するためにいろいろさまざまの「補正《コレクション》」を要するのである。
これと同じように、新聞記事のうそも一種の「補正」と見れば見られないこともないような場合もたしかにありそうである。ただ不幸にしてこの場合には物理学の場合のように確実な物理の方則に準拠した「補正」の代わりに、個々の記者のいわゆる常識による類型化の主観的方便によるよりほかに一つもたよりになるような根拠がないからいささか心細いと言わなければならない次第である。
セザンヌがりんごを描くのに決して一つ一つのりんごの偶然の表象を描こうとはしなかった、あらゆるりんごを包蔵する永遠不滅のりんごの顔をカンバスにとどめようとして努力したという話がある。科学が自然界の「事実」の顔を描写するのはまさにかくのごとき意図によるものであろう。新聞記者が新聞紙上に日々の出来事を記載するにこの意図があるかどうかは明らかでないが、もしそういう意図があってそうしてそれを実行し成就しようとするならば新聞記者というものは、セザンヌやまたすべての科学者を優に凌駕《りょうが》すべき鋭利の観察と分析の能力を具備していなければならないことと思われるのである。新聞記者になるのもなかなかたいへんなことである。
翻って考えてみると、科学者自身の間にもまたこのジャーナリズムのそれのような類型的の見方をする傾向が多分に存在している。従来用い古した解析的方法に容易にかかるような現象はだれも彼も手をつけて研究するが、従来の方法だけでは手におえないような現象はたとえ眼前に富士山のようにそびえていてもいっさい見て見ぬふりをしているという傾向がたしかにあるのである。しかし、だれか一人のパイオニアーがその現象に着眼して山開きのつるはしをふるって登山道がつき始めると、そうすると、始めて我れも我れもとそのふもとに押しかけるようになるのである。これも科学的ジャーナリズムの発達のおかげで世界じゅうの学者の研究が迅速に世界じゅうの学者の机上に報道されるからである。三原山《みはらやま》投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えているような余裕はないのみならず、三原山時代に浅間《あさま》へ行ったのでは「新聞に出ない」のである。
このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撤《ま》き[#「撤き」はママ]広げ、あたかも世界じゅうがその類型で満ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、そうすることによって、さらにその類型の伝播《でんぱ》をますます助長するのである。ジャーナリズムが恐るべき性能を充分に発揮するのはこの点であろうと思われる。たとえば大新聞がいっせいにある涜職事件《とくしょくじけん》を書き立てると全国の新聞がこれに呼応してたちまちにして日本全国がその涜職事件でいっぱいになったような感じをいだかせる。冷静なる司直の手もまたいくぶんこれに刺激されてその活動を促進されることがないとも限らない。またたとえば忠犬美談で甲新聞が人気を呼ぶと、あとからあとからいろいろな忠犬物語がほうぼうから出て来て、日本じゅうが犬だらけになり昭和八犬伝ぐらいはまたたくひまに完成するのである。一犬は虚をほえなくても残る万犬の中にはうそ八百をほえるようなのもたくさんに交じるのであるが、それがみんな実として伝えられるのである。ジャーナリズムの指はミダスの指のように触れる限りのものを金に化することもあり、反対に金もダイアモンドもことごとく石塊とすることもある。キルケのごとくすべての人間を動物に化することもあるが、また反対にとんでもない食わせものの与太者《よたもの》を大人物に変化させることもできるのは天下周知の事実であって事新しく述べ立てるまでもないことであろう。そうしてだれしもそれを承知していながら知らず知らずこのジャーナリズムの魔術にかかってしまうのは実に恐るべきことと言わなければならない。
しかし、現在の日本のジャーナリズムがその魔術の呪縛《じゅばく》に破綻《はたん》を示してときどき醜いしっぽを露出するのはいわゆる科学記事の方面において往々に見受けられるのは注意すべき現象である。
もっとも二十年も昔と比べては今の新聞の科学記事は比較にならぬほど進歩したものである。昔ある大新聞の記者と称する人が現在の筆者をたずねて来て某地の地震についていろいろの奇問を連発したことがある。あまりの奇問ばかりで返答ができないからほとんど黙っていたのであるが、翌日のその新聞を見るとその記者の発した奇問がすべて筆者によって肯定された形で、しかもそれは記者の問いに対する筆者の答えとしてではなく筆者自身が自発的に滔々《とうとう》と弁じたような形式で掲載されていた。そうして「異変」という言葉がなんべんとなく記事の間に繰り返されているのをなんのことかとよく考えてみたら、それは「イオン」のことであったのである。
このごろの新聞の科学記事には、そういうのは容易に見当たらない。それというのも大概は科学者自身に筆を執らせてそれを掲載するという賢明な方法をとっているので、そんな滑稽《こっけい》な記事はありにくいわけである。しかし今でも科学者でない新聞記者の手になったらしい記事の中には時々おもしろい実例が見つかるようである。たとえば、つい近ごろ二三新聞に「重い水」のことが出ていた。たぶん外国からの通信の翻訳であろうと思うが、あの記事なども科学者の目には実に珍妙なものであった。よくよく読んでみるとなるほど重い水素Dからできた水のことと了解されるが、ちょっと読んだくらいでは実に不思議な別物のような感じを起こさせるという書きぶりであった。ゆがんだ鏡に映った自分の顔をはじめは妙な顔だがなんだか見たような顔だと思って熟視しているとだんだんにそれが自分の映像だとわかってくるようなものである。このようにゆがめられた事実の横顔の描写が単に科学記事だけに限られているのならば幸いであるが、こういうのを見るたびに、われわれ読者は、同じような歪曲《わいきょく》が政治外交経済あらゆる方面の記事にも多少ちがった程度で現われているであろうと想像しないわけには行かないのである。有限な型の中のどれかにすべてのものを押し込もうとすればどうしても少々押し曲げなければうまくはまるはずはないのである。ただ社会人事に関する限り定型のストックが科学記事の場合とは比較にならぬほど豊富だからたいていの場合にはそれほどひどく曲げなくても収まるようなちゃんとした型が見つかりやすいのに、科学方面はあまりの「かたなし」であるから事実の顔はだらしなくくずれてしまうのであろうと思われる。
新聞の科学記事でいちばん科学者を辟易《へきえき》させるものはいわゆる「世界的大発見」や「大発明」の記事である。十年も前に発見されている事実がきのう発見されたことになったり、至るところで以前から使い古されているものがおととい発明されたりしたことになったりして現われるのはきわめて普通なことである。どうしてそういう間違いが起こるかについては、たとえば十年前に発見されたある事実に関するある一局部のきわめて特殊な研究が新たに成功したというような場合に、新聞記事ではその研究者がその昔発見された事実自身を今日始めて発見したこととして誤伝される場合もしばしばある。たとえば太陽黒点と日本の一部分のある特定の気象要素との間に或《あ》る相関を見つけたというのが、太陽黒点が地球の気象に関係するという事を始めて見つけたかのごとく報ぜられるような種類のものがはなはだ多いのである。これは担任記者の専門知識の欠乏によるのはもちろんであるが、それよりも科学的研究というものの本質に関する極端な無理解がもとであると思われる。もっともそういう無理解は、何も新聞記者だけとは限らず、一般世間の相当教養ある人士の間にも共通であって、その根源は結局日本における科学的普通教育に非常な欠陥のあることを物語るものであって、何も新聞記者諸氏のみの罪ではないのである。しかし、せめて大新聞の記者だけでも、たとえ具体的の科学知識はもたずとも、一人の学者の科学的研究というものはたとえて言わば道ばたに落ちた財布《さいふ》を拾うたような簡単なものではなくてたとえばツェペリンの骨組みを作り上げるための一本一本のリベットにたんねんな仕上げをかけるようなものだとぐらいには考えてもらいたいものである。そうすれば、リベット一本仕上げた人を、あたかもツェペリン全部を一人で一夜に完成したように誤報する心配だけはなくなるであろう。
新聞の科学記事で往々世界的「大発明」として報ぜられるものの中には、専門家でないアマチュアの多年の苦心の結果と称するものが往々ある。そういう場合にはきっと、その発明者が素人《しろうと》であるという事自身が、その発明が専門家の発明よりも立派なものであることを証明するかのごとき錯覚を起こさせるような麻酔剤が記事の行文の間に振りかけられている。また苦心の年月の長かったこと自身がその発明の巧妙さを裏書きするかのごとき暗示がほのめかされている。しかし実際には多くの場合にこういう発明はかなり不完全なものであったり、実は新しくもなんでもないものであったりする。今の科学的な利器は単に独創的な素人の思いつきや苦心だけで完成するにはあまりに多くの専門的知識の素養を必要とする、という明白な事実が日本のジャーナリストに一般には認識されていないのである。
こういう状況であるから多くのアカデミックなまじめな学者たちはその仕事が「世界的大発見」「大発明」として新聞に発表されることを何よりもこわがっている。どうかして間違ってこの災害にかかると、当人は冷や汗を流して辟易《へきえき》し、友人らはおもしろがってからかうのである。せっかくの研究が「いかもの」の烙印《らくいん》を押されるような気味が感ぜられるからである。それでも気の広い学者は笑って済ますが気の狭い潔癖な学者のうちには、しばしば「新聞的大発見」をするような他の学者に対してはなはだしく反感と軽侮をいだくような現象さえ生じるのである。こうなるとジャーナリズムはむしろ科学の学海の暗礁になりうる心配さえ生じるのである。
純粋な物理学や化学の方面の仕事はどんな立派な仕事でも素人《しろうと》にはむつかし過ぎてわからないために、「こうした大発見」になる心配がまずまず少ないのであるが、たとえば気象や地震の方面だとその心配が多分にあるのである。そういう心配のありそうな論文でも発表しようとする場合には、その論文の表題を少し素人わかりの悪いものにしておけば、決してジャーナリストにつかまる心配がないということである。
発明発見、その他科学者の業績に関する記事の特種《とくだね》は、たった一日経過しただけで、新聞記事としての価値を喪失するという事実がある。この事実もまたジャーナリズムのその日その日主義を証拠立てる資料となるであろう。学者の仕事は決して一日に成るものでなく、それを発表した日で消失するものでもないのであるが、新聞ニュースとしては一日過ぎれば価値はなくなる。しかも記者が始めて聞き込んだその日を一日過ぎるとニュースでなくなるのである。それで、誤ってジャーナリストの擒《とりこ》となった学者はそのつかまった日一日だけどうにかしてのがれさえすればそれでもう永久に逃げおおせることができるのは周知の事実である。
こういう実に不思議な現象の原因の一つは新聞社間の種取り競争に関連して発生するものらしく思われる。その日に種にしなければどこか他の新聞に出し抜かれているという心配がある。しかし翌日の新聞をことごとく点検する暇などはない。そうして翌日は翌日の仕事が山積しているのである。
このようなただ一日を争う競争はまたジャーナリズムの不正確不真実を助長させるに有効であることもよく知られた事実である。他社を出し抜くためにあらゆる犠牲が払われ、結局は肝心の真実そのものまでが犠牲にされて惜しいとも思われないようである。事実の競争から出発して結果がうそ比べになるのは実に興味ある現象と言わなければならない。
新聞社のニュースの種取り競争が生み出す喜悲劇はこれにはとどまらない。甲社の特種に鼻を明かされて乙社がこれに匹敵するだけの価値のある特種を捜すのに「涙ぐましい」努力を払うというのは当然である。うそか真かは保証できないが、ある国でこんなことがあった、すなわち「あったこと」のニュースが見つからない場合に、めんどうな脚色と演出によって最もセンセーショナルな社会面記事に値するような活劇的事件を実際にもちあがらせそれがためにかわいそうな犠牲者を幾人も出したことさえ昔はあったといううわさを聞いたことがある。ジャーナリストの側から言わせると、これも読者の側からの強い要求によって代表された時代の要求に適応するためかもしれないのである。
昔はまたよく甲社でたとえば「象の行列」を催して、その記事で全紙の大部分を埋め、そのほとんど無意味な出来事が天下の一大事であるかのごとき印象を与えると、乙社で負けてはいないで、直ちに「かばの舞踊会」を開催してこれに報ゆるといったような現象の流行した国もあったようである。
またある「小新聞」で或《あ》る独創的で有益な記事欄を設け、これがある読者のサークルで歓迎されたような場合に、それを「大新聞」でも採用するようにと切望するものがかなりに多数あっても、大新聞では決してそれはしないという話である。これも人のうわさで事実はたしかでないが、しかし至極もっともな有りそうな話である。これも強者の悲哀の一例であろう。
こういういろいろの不思議な現象は、新聞社間の命がけの生存競争の結果として必然に生起するものであって、ジャーナリズムが営利機関の手にある間はどうにもいたし方のないことであろうと思われる。
ジャーナリズムのあらゆる長所と便益とを保存してしかもその短所と弊害を除去する方法として考えられる一つの可能性は、少なくも主要な新聞を私人経営になる営利的団体の手から離して、国民全体を代表する公共機関の手に移すということである。それが急には実行できないとすれば、せめて、そういう理想に少しでも近づくようにという希望だけでも多数の国民が根気よくもち続けるよりほかに道はないであろう。
現在のジャーナリズムに不満をいだく人はかなりに多いようであるが結局みんなあきらめるよりほかはないようである。雨や風や地震でさえ自由に制御することのできない人間の力では、この人文的自然現象をどうすることもできないのである。この狂風が自分で自分の勢力を消し尽くした後に自然になぎ和らいで、人世を住みよくする駘蕩《たいとう》の春風に変わる日の来るのを待つよりほかはないであろう。
それにしても毎日毎夕類型的な新聞記事ばかりを読み、不正確な報道ばかりに眼をさらしていたら、人間の頭脳は次第に変質退化《デジェネレート》して行くのではないかと気づかわれる。昔のギリシア人やローマ人はしあわせなことに新聞というものをもたなくて、そのかわりにプラトーンやキケロのようなものだけをもっていた。そのおかげであんなに利口であったのではないかという気がしてくるのである。
ひと月に何度かは今でも三原山《みはらやま》投身者の記事が出る。いったいいつまでこのおさだまりの記事をつづけるつもりであるのかその根気のよさにはだれも感心するばかりであろう。こんな事件よりも毎朝太陽が東天に現われることがはるかに重大なようにも思われる。もう大概で打ち切りにしてもよさそうに思われるのに、そうしないのは、やはりジグスとマギーのような「定型」の永久性を要求する大衆の嘱望によるものであろう。しかし、たまには三原山記事を割愛したそのかわりに思い切って古事記《こじき》か源氏物語《げんじものがたり》か西鶴《さいかく》の一節でも掲載したほうがかえって清新の趣を添えることになるかもしれない。毎日繰り返される三原山型の記事にはとうの昔にかびがはえているが、たまに眼をさらす古典には千年を経ても常に新しいニュースを読者に提供するようなあるものがあるような気もする。きのうのうそはきょうはもう死んで腐っている。それよりは百年前の真のほうがいつも新しく生きて動いているのである。
スコットランドの湖水に怪物が現われたというのでえらい評判であった。しかし現代のジャーナリズムは、まだまだ恐ろしいいろいろの怪物を毎朝毎夕製造しては都大路から津々浦々に横行させているのである。そうして、それらの怪物よりもいっそう恐ろしくもまた興味の深い不思議な怪物はジャーナリズムの現象そのものであるかもしれない。
しかし、象牙《ぞうげ》の塔のガラス窓の中から仮想ディノソーラス「ジャーナリズム」の怪奇な姿をこわごわ観察している偏屈な老学究の滑稽《こっけい》なる風貌《ふうぼう》が、さくら音頭の銀座《ぎんざ》から遠望した本職のジャーナリストの目にいかに映じるかは賢明なる読者の想像に任せるほかはないのである。
[#地から3字上げ](昭和九年四月、中央公論)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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