青空文庫アーカイブ


寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)稽古《けいこ》のお相手

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)実験用|水槽《すいそう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)これはドイツで 〔Dampflo:cher〕 と称するものだそうで
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 大学の池のまわりも、去年の火事で、だいぶ様子が変わってしまった。建物などは、どうでもなるだろうが、あの古い樹木の復旧は急にはできそうもない。惜しいものである。それでも、あの大きな木が、全部は焼けなくてしあわせであった。たとえば池の北側に、大きなまっ黒く茂った枝を水面近くまでのばしている、あの木などもこの池の景色をスペシファイする一つのだいじな要素になっているのだが、あれなどの助かったのはしあわせである。毎年この木の下で、ディップサークルをすえては、観測の稽古《けいこ》のお相手をして来た私には、特にそんな気がする。
 あの木の下の水面に睡蓮《すいれん》がある。これはもちろん火事にはなんともなかったに相違ない。ことしの夏、どこかの画学生が来てあれを写生していた。モネーの有名なシリーズがなかったら、ああいう構図は、洋画としてはオリジナルかもしれないが、今では別に珍しくはなさそうである。もっとも対象はいくら古くても、目と腕とが新しければ、いくらでも新しい「発見」はできるはずだろうが、私の見たできばえでは、そうでもなさそうであった。
 あの睡蓮は近ごろのものである。もとは河骨《こうほね》のようなものと、もう一種の浮き草のようなものがあったのだと記憶している。ことしは睡蓮が著しく繁殖して来た。紅白二種のうちで、白いほうが繁殖力が大きいように思われる。実際そうであるか、どうか、専門家に聞いてみなければわからない。事実はどうだか知らないが、もしそうだとすると、これは一つのおもしろい問題になりそうである。それから、もし、睡蓮が他の水草を次第に圧迫して蔓延《まんえん》するか、しないか、これも問題である。物好きな人があったら、年々写真でもとっておいて、あとで研究したらおもしろそうである。
 ついでながら、池には大きな鯉《こい》がかなりたくさんいる。あたたかい時候には時々姿を見せるが、寒中には、どうしているかさっぱり見えない。大きなすっぽんもいるそうだが、私はまだ見た事がない。あの火事では鯉やすっぽんもずいぶん驚いた事だろう。あの時に一度池の水の温度でも測ってみたらよかったと、あとで思いついたが、当時はそれどころではなかった。事によると薄いスプルングシヒトぐらいはできていたかもしれなかった。
 鯉については、某教授に関する一插話《いっそうわ》がある。教授が池を見おろしながら、小使いの某君と話していた。教授が「あいつを食ったらうまいだろうな」とひとり言のように言ったのに答えて、小使いが、あまりうまくないとか、苦《にが》いとか言ったそうである。これに対する教授の電光のようなリマークは「ヤ、貴様食ったな」というのであった、と伝えられている。事実は保証しない。
 鯉《こい》やすっぽんのほかに、ブルフログを養殖しようという話もあったと記憶しているが、結局おやめになったと見える。もしほんとうに、あすこに、大きなブルフログが繁殖して、大きな声でも上げているのだと、少なくも何事かを考えさせられそうである。場所がらだけに、少なくも新聞の青鉛筆子や漫画子の材料にはなっていたかもしれない。
 池のみぎわでおたまじゃくしの行列を見る事もある。あの行列の道筋に何か方則があるだろうか、水流と何か関係があるだろうか。そんな事をだれかと議論した事があった。もちろんなんの結論も得られなかった。
 冗談はさておいて、この池が、これまでに、いろいろのまじめな研究の材料を供給している事も、数え上げれば、少なくないようである。
 池中に棲息《せいそく》するある生物の研究を、学位論文の題目とした先輩が、少なくも二人はあるそうである。
 田中館《たなかだて》先生が電流による水道鉄管の腐蝕《ふしょく》に関する研究をされた時、やはりこの池の水中でいろいろの実験をやられたように聞いている。その時に使われた鉄管の標本が、まだ保存されているはずである。
 月島丸《つきしままる》が沈没して、その捜索が問題となった時に、中村《なかむら》先生がいろいろの考案をされて、当時学生であったわれわれがお手伝いをして予備実験をやった。なんでも大きなラッパのようなものをこしらえて、それをあの池の水中に沈め、別の所へ、小さなボイラーを沈めたのを鎚《つち》でたたいて、その音を聞くような事をやったように覚えている。第二次の実験は隅田川《すみだがわ》の艇庫前へ持って行ってやったのだが、その時に仲間の一人が、ボイラーをかついで桟橋《さんばし》から水中に墜落する場面もあって、忘れ難い思い出の種になっている。
 墜落では一つの思い出がある。三年生の某々二君と、池の水温分布を測った事がある。池の中島にガルバをすえて、小船でサーモジャンクションを引っぱりあるいては、時々の水温の水平ならびに垂直分布を測った。冬の最中のある日に観測中に某君が誤って水中に落ち、そのために病気を起こした事もあった。水温の分布はあまり珍しい事もなかったが、深い泥《どろ》の中の分布を測ったのは、いくらか珍しいほうかもしれない。
 この観測に使った小船は、今は理学部の北玄関の壁に立てかけて乾燥状態にある。もとは大きな盥《たらい》を浮かべて船の代わりにしたものであるが、いろいろの観測に必要だというので、水産講習所へ頼んで造ってもらったものである。池につないでおくと、たぶん職人か土方だろうが、よくいたずらをして困るので、ああして引き上げておくのである。ナンキン錠をいくらつけ換えても、すぐ打ちこわされるので、根気負けがしたのである。無論土方か職人のしわざに相違ない。
 池の周囲の磁力測量、もっとも伏角だけではあるが、数年来つづけてやって来て、材料はかなりたまっている。地形によって説明されるような偏差がかなり著しく出ていておもしろいから、いつかまとめておきたいと思いながらそのままになっている。池の断面の形をした鉄板の片を電磁石の間において、それに鉄くずを振りかけて、その磁力線の分布を、実地と比較した学生もあった。
 池の氷が張りつめた上に、雪が積もると、その表面におもしろい紋のような模様ができる。これはドイツで 〔Dampflo:cher〕 と称するものだそうで、この成因はあまり明らかでないらしい。田中阿歌麿《たなかあかまろ》氏著、「諏訪湖《すわこ》の研究」上編七一六ページにこれに関する記事と、写真がある。数年前の「ローマ字世界」にも田丸《たまる》先生が、この池のものについておかきになったのが出ている。先生がたのお手伝いをして、例の小船で調べて回ったこともあったが、とにかくおもしろい現象である。
 先年水温を測る時の目じるしに、池の中のところどころに立てておいた竹ざおが雪の薄くつもった氷の上に頭を出している場合に、さおの北側へ妙な扇形の模様ができる事があった。これもおもしろいものである。これに関してはかつて気象集誌に簡単な記事を載せておいた。
 池の水の振動、いわゆるセイシについては、本多《ほんだ》さんたちの調べた結果が、大学紀要の二十八巻の五に出ている。ブリキで作った小さな模型もあったはずである。この池の水の運動についてもまだ調べれば調べる事がいくらでも残っている。池の測深もその時やった結果が紀要に出ている。案外深い池である。
 自分の知っているだけの文献を数えてみても、これだけあるのだから、私などの知らない他の方面の学科に関するものをあげたら、ずいぶんな分量になるかもしれない。これから後にもまだどれだけの可能性があるかわからない。
 こんな事を考えてみると、あの池は、いつまでもつぶしてしまいたくない。大学の地面が足りなくなって、あらゆる庭園や木立ちがつぶされる時が来ても、あの池は保存しておいてもらいたい。景色や風致がどうであるというのではなくて、何かしら学術上の研究資料の供給所として、あるいは一つの実験用|水槽《すいそう》として保存してほしいのである。
 ついでながら、あの池の成り立ちについても問題がある。ある人の話では、元来あすこに泉があったのを、前田家《まえだけ》の先祖が掘り下げて、今の形にしたのだそうである。そう言えば池の西北隅《せいほくぐう》から水がわいているらしい。そのへんだけ底に泥《どろ》がなくて、砂利《じゃり》が露出している事は、さおでつついてみるとわかる。あの池から、一つの狭い谷が北のほうへ延びて、今の動物地質教室の下から弥生町《やよいちょう》の門のほうへ続いていた事が、土工の際に明らかになったそうである。この池の地学的の意味についても、構内のボーリングの結果などを総合して考えてみたら、あるいは何事かわかりはしまいか。こんな空想を描いてみる事もできる。

 文科の某教授がとった、池を中心とした写真が、何枚か今のバラック御殿の※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]間《びかん》にかかっている。今ではもう歴史的のものになってしまった。私はいつか、大学百景といったような版画のシリーズを作ったらおもしろいだろうと思った事があった。もしそんなものができるとしたら、その内の少なくも十景か十五景かの中には、きっと、この池の一部がはいっていたに相違ない。それほどに、この池は、風致の上から見た大学にとって特異なものである。それが一夜の火事でだいぶんに変わった。こういう変化は無論不可逆的変化である。これからさきどんなに美しく変わるかしれないが、大正十二年以前に、大学の門をくぐった人々の中にある「池」の影像はやはり火災以前のそれでなければならない。

 われわれの池が、いろんな小説や感想文の場面に使われた例もなかなか少なくなさそうであるが、このほうの文献はそのほうの専門家にお願いしたほうがよいと思うから、ここではいっさい触れない事とする。
[#地から3字上げ](大正十三年十一月、理学部会誌)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
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