青空文庫アーカイブ
一つの思考実験
寺田寅彦
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)椅子《いす》やテーブルが
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)邪教|淫祠《いんし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十一年五月、中央公論)
-------------------------------------------------------
私は今の世の人間が自覚的あるいはむしろ多くは無自覚的に感ずるいろいろの不幸や不安の原因のかなり大きな部分が、「新聞」というものの存在と直接関係をもっているように思う。あるいは新聞の存在を余儀なくし、新聞の内容を供給している現代文化そのものがこれらの原因になっていると言ったほうが妥当かもしれないが、それはいずれにしても、私はあらゆる日刊新聞を全廃する事によって、この世の中がもう少し住みごこちのいいものになるだろうと思っている。
新聞を全廃したらさだめて不便な事であろうと一応は考えられる。その不便を感ずる種類や程度はもちろん人々の位地や職業によっていろいろであろうが、不便ということに異議はなさそうである。しかしそれらの不便がどれだけ根本的な性質のものでどれだけ我慢のしきれない種類のものかという事は、少しゆっくり考えてみなければよくわからないと思う。われわれの日常生活に必要欠くべからざるものと通例思われている器具調度の類でも、実はそれを全廃してしまって少しもさしつかえのないものはいくらでもある。たとえば、西洋ならばどんな簡易生活でも、こればかりは必要と思われている椅子《いす》やテーブルがなくても決してさしつかえない事は多数の日本人に明瞭《めいりょう》である。また昔の日本の女になくてかなわなかった髪飾りや帯などは外国の女には無用の長物である。
新聞を必要とするように今のわれわれの生活を導いたものは新聞自身であるかもしれないとすると、新聞が必要がられるという事実だけでは決して新聞の本質的必要を証明する材料にはならない。
新聞の記事はその日その日の出来事をできるだけ迅速に報知する事をおもな目的としている。その当然の結果として肝心の正確という事が常に犠牲にされがちである事はだれもよく知るとおりである。しかしこの一事だけでも新聞というものが現代の人心に与える影響はなかなか軽少なものではない。ほかの事はすべてさしおいても、「おそくとも確実に」というあらゆる「真」の探究者に最も必要な心持ちをすべての人からだんだんに消散させようとするような傾向のあるのはいかんともしがたい。もっとも大概の人間には真に対する潔癖はあるから、そういう不正確な記事はたまたまその潔癖を刺激してかえってそれを亢進《こうしん》させるような効果がある場合があるかもそれはわからない。また大多数の人は始めから新聞記事の正確さの「程度」をのみこんでいて、従って新聞の与える知識には、いつでもある安全係数《セーフティファクトル》をかけた上で利用するから、あまりたいした弊害はないと考えられるかもしれない。有数ないい新聞ならば実際そうかもしれない。しかし正確でなくてもいいからできるだけ早く知るということがどうして、またどこまで必要であるかという事がいちばんの先決問題になる。
海外に起こった外交政治経済に関する電報は重要な新聞記事の一つである。こういうものがあらゆる階級の人に興味があるという事は望まるべき事でもあり、またそれが事実であるとしたところで、これらの報知を一日でも早く知る必要をほんとうに痛切に感ずる人が国民の中で何人あるかという事を考えてみなければならない。
次には内国の政治経済産業方面に関する記事でも、大多数の国民が一日を争うて知らなければならないものがどのくらいのパーセントを占めているかを考えてみなければならない。
全くとらわれない頭で冷静に考えてみた時に、これらの記事の大部分は、多数の「善良な国民」がたとえ一か月くらいおくれて知っても少しの不都合のないものであると私は考える。
ただ国民の中でおそらくきわめて少数なある種のデマゴーグ的政治家、あるいは投機的の事業にたずさわるいわゆる「実業家」のうちの一部の人たちは、一日でも一時間でも他人より早くこれらの記事を知りたいと思うだろう。そういう人々の便宜を計るという事がかりにいいとしたところで、そういう人はよしや新聞を全廃してもおそらく少しも困る事はあるまい。それぞれ自分で適当な通知機関を設けて知るだけの事は知らなければ承知しないに相違ない。これに反して大多数の政党員ないし政治に興味をもつ一般人、それからまじめな商業や産業に従事している人たちにとってたとえば仏国の大統領が代わったとかニューヨークの株が下がったとか、あるいは北海道で首相が演説したとか議会で甲某が乙某とどんなけんかをしたとかいう事を、二週間あるいは一月おそく知ったためにどれだけの損害があるかが私にはよほど疑わしい。
これらの記事がすべて正確であると仮定した場合でさえ、その必要が疑わしいくらいならば、記事が不正確である場合にはどうなるだろう。
こう言ってもおそらく私の言わんと欲するところは容易に通じないだろうと思う。それでくどいようでも同じ事を繰り返す事を許してもらいたい。
新聞を最も必要と感ずる人の種類を考えてみると、それは、広義における投機者であり、また一種特別な意味でのブールジョアである。いい意味での善良な国民、穏和な意味でのプロレタリアは、実際めいめいのまじめな仕事に真剣に従事している限り、拙速主義の疑わしい知識に飛びついて朝夕心を騒がせ気をいら立てる必要は毛頭ないのである。
あらゆる先入観念を捨て、あらゆる枝葉の利害を除いて最も本質的にこの問題を考えてみたならば、私がここに言っていることが必ずしも無稽《むけい》なものでない事が了解されはしないかと思う。
次に考えなければならないのはいわゆる社会欄である。この欄の記事の内容はかなり雑多な方面にわたっている。その中でも季節に関する年中行事の報道やあるいは近き未来に関する各種の予告などこういった種類のものを日々新聞で承知するという事は決して悪い事ではない。しかし今日実際に存在する新聞の社会欄で最も大きな部分を占めているのはこの種の事がらではない。この種の記事はかえってどこかのすみに小さな活字で出ている。これに反して驚くべく大きな見出しで出ているものの内で、知名の人の死に関する詳細な記事とか、外国から来た貴賓の動静とかはまだいいとしたところで、それらよりももっと今の新聞の特色として目立っているものは、この世の中にありとあらゆる醜悪な「罪」に関する詳細の記事である。この種の事実をわれわれが一日も早くしかも誤謬《ごびゅう》によってはなはだしく曲げゆがめられた形で知らなければならない必要がどこにあるか私にはわからないのである。
これらの報道は多くの人々の好奇心を満足させ、いわゆるゴシップと名づけらるる階級の空談の話柄を供給する事は明らかであるが、そういう便宜や享楽と、この種の記事が一般読者の心に与える悪い影響とを天秤《てんびん》にかけてみた時に、どちらが重いか軽いかという事は少し考えてみればだれにもわかる事ではあるまいか。
少し事がらがわき道へはいるが、新聞の社会記事ほど人間の心理を無視したものはまれである。もっともいわゆる「講談」のごときものも、かなり心理をゆがめたり誇張したりしてはいるが、ゆがめ方もあれまで徹底すればかえって害はなくなる。そうしてうそで固めたばかばかしい饒舌《じょうぜつ》の中におのずからまた何物かほんとうのものに触れているところがないでもない。しかるに普通の社会記事となって現われた、たとえば人殺しやけんかの表現が、ひとたび関係者の心理に触れる段になると、それらはもう決してわれわれ人間の心理でなくて全く違った「存在《ビーイング》」の心理になってしまっている。そしてそれがいかにももっともらしくほんとうらしく提供されているのである。
これはしかし記者自身が人間の心理を理解しないのではない、ただいわゆる社会記事の「定型」というものが、各種の便宜的必要からおのずからきまってしまって、それによらないわけには行かないためだという説明を、そのほうの事情に通じた人から聞いた事もある。
罪悪の心理がもしほんとうに科学的な正確さをもって書き表わされていれば、それは読者にとってはかなり有益であり、そうしてそういう罪悪を予防し減少するような効果を生じるかもしれない。これに反して罪悪の外側のゆがんだ輪郭がいたずらに読者の病的な好奇心を刺激し、ややもすれば「罪の享楽」を暗示するだけであったらその影響ははたしてどうであろう。
罪悪と反対な人間の善行に関する記事もまれには見受けるが、それがひとたび新聞記事となって現われると不思議にその善《よ》い事の「中味」が抜けてしまって、妙にいやな気持ちの悪い「輪郭」だけになっている場合がかなり多いように思われる。そういう種類の記事を読んでいて、人事《ひとごと》ながらもひとりで顔の赤くなる場合がありはしないか。
しかしこういう不満は今ここで論じている問題とは別問題である。
あらゆる記事がこれらの欠点を脱却して非常に理想的にできたとした上で、それをわれわれが日刊新聞によって朝夕に知る事がどれだけ必要かというのが現在の問題である。それが必要でないという事になれば、ましてや不完全不真実な記事を毎日あわただしく読む事の価値ははたしてどうなるであろう。
私がこういう事をいうのは畢竟《ひっきょう》あまりに新聞記事というものの価値に重きをおき過ぎるからの事だという人もあろう。
なるほど新聞記事をきわめて軽くしか見ていない人は事実上多数にあるかもしれない。しかし、そういうふうにして、元来決して軽く見るべきはずでない、あらゆる意味で重大な多くの事がらを、朝夕に軽々しく見すごすような習慣を養うという事自身に現代の思想上の欠陥の一つの大きな原因があるのではあるまいか。そのような習慣は知らず知らずわれわれを取りかえしのつかない堕落の淵《ふち》に導いているのではあるまいか。
ただ一つだけでも充分な深い思索に値するだけの内容をもった事がらが、数限りもなくただ万華鏡裏の影像のように瞬間的の印象しかとどめない。そのようにしてわれわれの網膜は疲れ麻痺《まひ》してしまってその瞬時の影像すら明瞭《めいりょう》に正確に認めることができなくなってしまうのではあるまいか。
こういう習慣は物事に執着して徹底的にそれを追究するという能力をなしくずしに消磨《しょうま》させる。たとえばほんとうに有益なまとまった書物でも熟読しようというような熱心と気力を失わせるような弊がありはしまいか。
このような考えから、私はいっその事日刊新聞というものを全廃したらよくはないかという事につい考え及んだわけである。今のところそれは容易に実行される見込みのない事である。しかし少なくもそういう事を一つの思考実験として考えてみる事はなんのさしつかえもなく、またあながち無意味な事でもないかもしれない。
私は現代のあらゆる忙しい人たち、一日も新聞を欠かし得ないような人たちが、試みに寸暇をさいてこういう思考実験をやってみるという事は、そういう人たちにとって非常にいい事でありはしないか、また多数の人がそれを試みる事によって前に言ったような新聞の悪い影響がいくぶんでも薄められはしないだろうかと思ってみた。
私はそういう実験を他人にすすめたいためにまず自身でそれを試みてみようと思い立った。その実験は未了でその結果は未成品に過ぎないが、それにもかかわらずその大要をしるしてみたいと思うのである。
実験を始める前に私はまず自分の過去の経験を捜してみた。
いつだったか、印刷工がストライキをやって東京じゅうの新聞が休んだ事があった。あの時に私はどんな気持ちがしたかを思いかえしてみた。あまりはっきりと思い出せないが、少なくも私はあの時そんなにひどく迷惑を感じたような記憶がない。もちろん毎朝見ているものを見ないという一種の手持ちぶさたな感じはあったに相違ないが、それと同時になんだか急に世の中がのんびりしたような気持ちがないでもなかったように思う。もっとも自分のような閑人《ひまじん》はおそらく除外例かもしれないから、まず大多数の人はかなり迷惑を感じたものと見たほうが妥当には相違ない。
まずだれよりもいちばん迷惑を感じたのは新聞社自身であったろうが、ここではそれは問題に入れるわけには行かない。それと前述の投機者階級を除いたその以外に迷惑したのはだれだったろうと考えてみた。
続きものの小説が肝心のところで中絶したために不平であった人もあろうし、毎朝の仕事のようにしてよんでいた演芸風聞録が読めないのでなんだか顔でも洗いそこなったような気持ちのする閑人《ひまじん》もあったろう。
こういう善良な罪のない不満に対しては同情しないわけにはいかない。しかし現在の実験を遂行する場合にこの物足りなさを補うべき代用物はいくらでも考え得られる。それにはいわゆる新聞小説よりももっとおもしろくて上等でかつ有益な小説もあろうし、風聞録の代わりになるもっとまとまった読み物もあるだろう。そういう書物を毎日新聞を読む時間にひと切りずつ読む事にしたらどうであろう。その積算的効果はかなりなものになりはしまいか。
まとまったものを少しずつ小切って読んで行って、そうして前後の連絡を失わないようにするという事は必ずしも困難とは限らない。事がらによってはかえって一時に詰め込むよりも適当に小切ったほうが理解にも記憶にも有効であるという事は実験心理学者の認めるところである。私の知っている範囲でも、毎日電車に乗っている間だけロシア語を稽古《けいこ》したり、カントを読んだりしてそれで相当な効果をあげた人さえある。しかしかりにそういう人が例外であるとしても、ともかくも毎朝新聞を読むのといいまとまった書物を読むのと比べてどちらが頭脳の足しになるかという事は、はじめから議論にならないような気がする。
それでも多くの人の中には新聞なら毎日読む気になるが書物と名のつくものは肩が凝ってとても読む気になれないという人があるかもしれない。それはおそらく習慣の養成でどうでもなるはずのものだとは思うが、どうしても書物のきらいな人があるとすれば、そういう人にはまたそれなりの新聞の代わりになるものはいくらでも考え得られる。
謡の好きな人はその時間に一番ずつうたうもよし、盆栽を楽しむ人は盆栽をいじるもいいし、収集家は収集品の整理をやるもいいだろう。
昼も夜も忙しい人は出勤前のわずかな時間までも心せわしさをむさぼるかのように急いで新聞を読む代わりに、さなくばめったに口をきく事のない家族とよもやまの談をかわすもいいだろう。あるいは特にそういう人たちはこの時間を利用して庭にでもおり、高い大空を仰いで白雲でもながめながら無念無想の数分間を過ごす事ができたらその効果は肉体的にも精神的にも意外に大きなものになるかもしれない。私はむしろ大多数の人のために何よりも一番にこのほうをすすめたいような気がする。そういうわずかな事によって人々の仕事の能率が現在よりもいくらかでも高められ、そうして人々の心持ちの平安はいくらかでも増し、行き詰まった心持ちと知恵とはなんらかの新しい転機を見いだしはしないだろうか。
小説や風聞録のようないわゆる閑文字について言われる事は、実は大多数の読者にとって、他の大部分のいわゆる重要記事についても言われるのである。多くの読者が社会記事や政治欄を読む心持ちが小説その他の閑文字を読む心持ちと根本的にどれだけ違うかという事はよくよく考えてみるとかえって容易にわからなくなって来る。差別の要点は記事の内容の現実性にあると考えてみても、読者自身に切実な交渉のない、しかもいわゆる定型のためにかえって真実性の希薄になった社会記事と、事実はどうでも人間の中身にいくらか触れている小説や風聞録との価値の相違はそう簡単には片付けられないものだと私は思う。しかしそこまで追究するのは刻下の問題ではない。
ここでは私もあらゆる政治欄社会欄等の記事の内容がすべての種類の読者に絶対的必要なものであると仮定する。そういう仮定のもとに新聞全廃の実験を遂行するとすれば、必然の結果として、何か日刊新聞に代わってこれらの知識を供給する適当な機関が必要になって来るのである。
この必要に応ずる最も手近なものは、週刊、旬刊ないしは月刊の刊行物である。名前はやはり新聞でもそれはさしつかえないが、ともかくも現在の日刊新聞の短所と悪弊をなるべく除去して、しかもここに仮定した必要の知識を必要な程度まで供給する刊行物である。
私はこの二三年ロンドンタイムスの週刊を取っている。これがロンドンで出てから私の目にはいるまでにはどうしてもひと月以上はかかる。しかし私はそれがために、英国や欧州のみならず世界じゅうにおける重要な出来事をあまりにおそく知ったために、著しい損をしたと思った事がまだないように思う。のみならず、こちらの新聞の電報欄の不徹底な記事で読んだ時はなんの事だかわからずにいたいろいろの事がらが、これを読んで始めてふに落ちる事もしばしばある。これはおそらく自分のような迂闊《うかつ》なものに限った事ではなく、始めにあげたようないわゆる善良にしてまじめな大多数の日本国民について同様に当てはまる事ではあるまいか。
もしそうだとすれば、内国におけるいわゆる重要な出来事を十日ないし一月おくれて、そのかわりまとまった形でかなり確実に知るという事もそれほど不都合であろうとは思われない。それで不都合を感ずる人はもちろんあってもそれは前に繰り返して指摘しておいた少数の除外例に過ぎない。そうしてそれらの人は日刊新聞がなくなったところで決して困りはしない。困るとしたところでそういう人々の便宜のために大多数の幸福を犠牲にする必要は少しもない。
あらゆる記事の中で、ほんとうにその日その日に知らなくては意味のないものは、捜してみると案外少ないものである。
まず天気予報などがその一つである。これは今のところ一週間も前から予報を出す事は困難であり、またきのうの天気予報はきょうにとっては無意味であるから、どうしてもこれだけは日々に知らしてもらう必要がある。もっとも天気予報というもののほんとうの意味や価値はとかく誤解されがちであって、てんで始めから当てにしていない人がかなり多数である。そういう人は天気予報など知る必要を感じないでもあろうが、多少でも天気予報の原理に通じ、予報の適用の範囲を心得ている人にとっては、これは時にとっては非常に重宝なありがたいものである。しかしこれとても必ずしも新聞によらなくても他に報知する方法はいくらでもある。処々の交番なり電車停留所に掲示するもいいだろうし、処々に信号の旗を立てるもいいだろう。
不幸の広告なども一週間とは待てない種類のものだと考えられるかもしれない。しかし私の考えでは、不幸の知らせは元来書状でほんとうの意味の知友にのみ出すべきもので、それ以外の人は葬式などがすんで後に聞き伝え、あるいは週刊旬刊でゆっくり知ってもたいしたさしつかえはないはずである。もしも国民の大多数の尊敬しあるいは憎悪するような人が死にでもすればそのうわさは口から口へいわゆる燎原《りょうげん》の火のように伝えられるものである。三月三日に井伊大老《いいたいろう》の殺された報知が電信も汽車もない昔に、五日目にはもう土佐《とさ》の高知《こうち》に届いたという事実がある。今なら電報ですぐ伝わる。
知名の人の旅立ちでも、新聞があるために妙な見送り人が増して停留場が混雑する。この場合にも前と同じ事が言われうる。
展覧会、講演会、演芸、その他の観覧物も新聞広告で予告を受けて都合のいいものかもしれない。しかしこれらの大多数は十日ぐらい前からプログラムの作れぬものでもなし、またそうでなくても適当な掲示やビラによって有効に知らせる事ができる。一般の人々が毎朝起きて床の中でいながらに知らなければならない性質の事でもない。そういう刺激の目にふれないという事は、仕事に没頭している多くの人のためにはむしろ有利なくらいである。
こういう新聞広告がなくなっても、芝居やキネマの観客が減る心配はないという事は保証ができる。興行者と常習的観客の間には必ず適当な巧妙な通信機関がいろいろとくふうされるに違いない。
その他の多くの広告はたいてい日刊新聞によらなくてもすむものである。たとえば書籍雑誌の広告にしたところで、おそらく日本ほど多数でぎょうぎょうしいのはどこの国にもないかもしれない。そして広告のぎょうぎょうしさと書籍の内容は必ずしも伴なわない。これも実は断然やめたほうがいい。私だけの注文を言えば、書店の店頭の大きな立て札もやめてもらいたいくらいである。そのかわりにまじめな信用のできる紹介機関がほしい。なるべく公平な立場からあらゆる出版物を批評して、読者のために忠実な指導者となるものがあってほしい。これは完全を望む事は困難でもある度までは不可能ではない。たとえば科学の方面で言えばネチュアーの巻頭の紹介欄のようなものでもかなり便利である。たとえいくらか批評の見地が偏する恐れはあっても、利害を離れたそれぞれの専門家の忠実な紹介である限り、勝手のわからぬ読者がとんだにせ物を押しつけられる恐れは少ない。
その他あらゆる商品の広告についても全く同様の事が言われる道理である。
単に体裁の上からでも毒々しい広告欄をのけてしまったら今の新聞はもう少し気持ちのいいものになりはしないだろうか。われわれが朝の仕事に取りかかる際に、もう少し清らかな頭をもって、神聖であるべきその日の勤めに対する事ができはしまいか。そうしてただいたずらにいらだたしい心持ちから救われて、めいめいの大事な仕事の能率を高める事ができはしまいか。
広告の次にいわゆる三面記事を取ってしまったらどのくらい気持ちがいいものになるだろう。昔「日本」という新聞があった。三面記事が少しもなくて、うるさいルビーがなかった。私は毎朝あれをただあけて見るだけで気持ちがよかった。ああいう新聞は今日では到底存在を維持しにくいそうである。
今年の正月にノースクリッフ卿《きょう》がコロンボでタイムスの通信員に話した談話の中に、「東洋の新聞の中では日本のがいちばん信用ができる。ただしいわゆる『第三面《サードページ》』として知られた notorious scandal のためにそこなわれてはいるが」とあった。この人のいう事がどこまで信用できるか私にはよくわからないが、ともかくも「第三面」は世界的の notoriety を保有している事になってはいると見える。
「三面」記事も純客観的に正しく書かれれば有益でありうる。たとえば議会や公判の筆記でも、それが忠実なものなら、すべての人の何かの参考になり、少なくも心理学者の研究材料ぐらいにはなる事が多い。それで日刊廃止の場合にこれに代わるべきものの社会記事はできるだけ純客観的で科学的であってほしい。そういう意味で有益なおもしろい記事をタイムス週刊の第一ページや処々の余白の埋め草に発見する事がある。
もしかりに私がこのような週刊や旬刊の社会欄を編集するとしたらどういう記事をおもに出すだろうと考えてみた。人殺しや姦通《かんつう》などを出すとしても、それらはなるべく少なくそして簡単にしたい。書くならばできるだけほんとうの径路を科学的に書く事によってすべての人の頭の奥に潜む罪の胚子《はいし》に警告を与えるようなものにしたい。しかしそういう例外な事件の記事よりも、日常街頭や家庭に起こりつつある、一見平凡でそうして多数の人が軽々に看過していて、しかも吾人の現在の生活に対して重要な意味のあるような事実を指摘し報道して、いくらかでも人々の精神的の幸福を増し不幸を予防するように努めるだけは努めたいものである。
裏町の下水に落ちている犬を子供が助けてやった事実でも、自転車が衝突して両方であやまっていた実例でも適当に描かれれば有意義である。公園の花だよりでも動物園の鳥獣の消息でもなんらかの深い観察があれば何物かを読者に与える。それよりも起こるべくしてわずかに起こらないでいるあらゆる過失や危険の芽を摘発し注意を与える事がいっそう有益である。たとえば電車や公共建築物設備の不完全あるいは破損のために将来当然に起こるべきけがや病害を、とかく不手回りがちな当局者に先だって発見し注意したい。電車の不完全な救助網や不潔な腰掛け、倒れそうな石垣《いしがき》やくずれそうな崖《がけ》、病菌や害虫を培養する水たまりやごみため、亀裂《きれつ》が入りかかって地震があり次第断水を起こすような水道溝渠《すいどうこうきょ》、こわれて役に立たぬ自働電話や危険な電線工事、こういう種類のものを報道して一般の用心と当局の注意を喚起したい。
社会の風教を乱すような邪教|淫祠《いんし》、いかがわしい医療方法や薬剤、科学の仮面をかぶった非科学的無価値の発明や発見、そういうものに世人の多くが迷わされて深入りしない前にそれらの真価を探求したい。官衙《かんが》や商社における組織や行政の不備や吏員の怠慢に対しても犀利《さいり》な批評と痛切な助言を加えたい。
これらのあらゆる探究摘発批評の動機が純粋に好意的のものでありたい。不備に対して当事者を攻撃し誹謗《ひぼう》する事よりもむしろ当事者の味方になり、そうして一般読者とともにその不備を除去する方法を講究する機関となる事を心がけたいものである。そういう心持ちがもう少しはっきり現われていさえすれば、現在の新聞でももう少し気持ちのよいものになりはしまいか。
以上の理想を実現させるためには新聞社はあらゆる実務や学術技芸はもちろん一般思想上の各方面について第一流の人たちを記者として網羅《もうら》しなければならない。これはずいぶん困難な事かもしれない。しかし私は「社会の先導者」としての新聞のほんとうの使命を果たすためには、それはむしろやむを得ない当然の事ではないかと思っている。あらゆる方面の文化の先達となるためには、なるだけの根底を作らなくては無理ではあるまいか。
このような考えから私の「実験」は一つの夢のような大新聞の設立に移って行った。
この社の主脳を形成するものは、あらゆる官庁学校商社のみならず、各政党や宗教家思想家のあらゆる団体の代表的人物を網羅したものでなければならない。そしてそれらの社員は単に寄書家という格で外様大名《とざまだいみょう》のような待遇を受けるのでなくて、その社の仕事の全体に参与しかつ責任を負うものでなくてはならない。これらの記者たちはそれぞれ専門の方面で一般のために有益であるべきあらゆる重要事項の正確な報道紹介や、災害の防止に関する適切な助言や注意を提供し、また公共事業に対する問題を提出して最善の方案を公衆に求める事を努めなければならない。もちろんこれらの人々は一方ではそれぞれの本来の職務に従事しているが、その職務時間の若干をさいて公衆のためにこれらの記事を草するという事は少しも不都合とは思われないのみならず、むしろそういう事は職務に付帯した義務の一部分と考えられない事はない。またそういうものを記述する事によって各自の職務の遂行上有益な啓示《ヒント》を得る場合もかなり多いだろうと思われる。
こういう大新聞社の経営を少数な資本家の手にゆだねるのは穏当ではあるまい、これはむしろ全国民自身か、少なくもその大部分の共同経営によるものとしなければなるまい。そうするためには経営維持に必要な費用は租税などと類似の方法で一般から集め、記者や編集員らも適当に組織された選挙制度によって定めるべきであろう。しかしこういう選挙制度にいつも付きまとう弊害を防止するためにはこれらの記者の地位を決して物質的に有利なものにしてはならない。記者たる事によって一身の利益を計るに便宜を得るような可能性は始めから除去するような制度組織が必要である。ほんとうに社会の利益のみしか考えない人ばかりならばその必要はないが、この用心はだれも知るとおり今のところどうしても必要である。
もしこのような新聞社ができたとすれば、それは従来の意味の新聞社とはだいぶちがったものになる。むしろ国民社会一般の幸福安寧に資すべき調査研究報告機関のようなものになってしまう。こういうものは全国にただ一つあって、各地には適当に支局を分配して、中央を通じて相連絡すればよい。
政治経済教育宗教学芸産業軍事その他ありとあらゆる方面にわたる現実の正確な知識を与え、一般の輿望《よぼう》に基づいて各当局の手の回らぬところを研究し補助して国家社会のあらゆる機関の円滑な融合を計るがために、こういう特別な一大組織を設けるという事は、むしろ一国の政府自身としても当然考えなければならない事のように思われる。単に小官衙《しょうかんが》の片すみの一課などに任しておくべきものではないとも思われる。
もっともいうまでもなく現在の新聞というものも本来はこの仮想的の一大機関と同じような役目を果たすために生まれたものであろう。ただそれが遺憾ながら理想的に行っていないために、ここにこのような問題が起こったわけである。
私の思考実験はまだわずかにこの程度までしか進んでいない。充分な洗錬を経ない以上、基礎前提にもまた推考の論理にも欠陥が多いかもしれない。それにもかかわらず私はこれだけの「実験」によって新聞というものに対する自分の考えにいくぶんかの進展を得、そして従来とはいくらか違った目で新聞に対する事ができるようになった。
こんな実験をやっている矢先に都下の有力な新聞で旬刊が発行されるようになった。私の思考実験の一半はすでに現実化されたようでもあるが、残る半分すなわち日刊の廃止という事はちょっと実現される蓋然性《がいぜんせい》が乏しい。
しかし旬刊週刊等の発行によって個人個人にこの実験を不完全ながらも遂行する事が可能になったように見える。すなわち旬刊週刊だけを読んで日刊には手を触れない事にすれば目的は達せられそうである。
私は軽卒にこの実験を人に強《し》うる気はないが、ともかくもまず自分で試みたいという希望はもっている。しかし現在の旬刊や週刊が依然として日刊と並行して出ている限り、またその編集方法が私の考えているのと同一でないとすると、結局私の考えている思考実験は到底実行する事はできそうもない。
日刊全廃というような問題を直ちに実行問題として考えるという事はあまりに現実を無視した痴人の夢であるかもしれない。しかし前にも述べたように、これをともかくも一つの思考実験としてできるだけ慎重に徹底的に考えてみるという事は、新聞読者にとってもまた新聞当事者にとってもかなりおもしろくもありまた有益な仕事であるに相違ない。そしてその結果はおそらくだれにもなんらの損害をも与えるような性質のものではないと信じている。
[#地から3字上げ](大正十一年五月、中央公論)
底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ