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俳句の精神
寺田寅彦
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(例)插入《そうにゅう》
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(例)多少|牽強付会《けんきょうふかい》の説と
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(例)[#地から3字上げ](昭和十年十月、俳句作法講座)
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一 俳句の成立と必然性
五七五の定型と、季題および切れ字の插入《そうにゅう》という制約によって規定された従来普通の意味での俳句あるいは発句のいわゆる歴史的の起原沿革については、たぶんそういう方面に詳しい専門家が別項で述べ尽くされることと思うから、ここで自分などが素人《しろうと》くさい蛇足《だそく》を添える必要はないであろう。しかし自分が以下に試みに随筆的に述べてみたいと思う自己流の俳句観のはしがきのような意味で、やはり自己流の俳句源流説を略記して一つには初心読者の参考に供し、また一つには先輩諸家の批評を仰ぎたいと思うのである。
俳句の十七字詩形を歴史的にさかのぼって行くと「俳諧《はいかい》の発句」を通して「連歌の発句」に達し、そこで明白な一つの泉の源頭に行き着く。これは周知のことである。
しかし、川の流れをさかのぼって深い谷間の岩の割れ目に源泉を発見した場合にいわゆる源泉の探究はそれで終了したとしても、われわれはその泉の水が決して突然そこで無から創造されたものではなくて、さらに深く地下の闇《やみ》の中にその出所を追究することができるということを知っている。それと同じようにわれわれはまた俳句というものの中に流れている俳句的精神といったようなものの源泉を、その詩型の底にもぐり込んで追究して行くと、その水脈のようなものは意外に広く遠い所に根を引いているのに気がつくであろう。たとえば万葉や古事記の歌でも源氏や枕草子《まくらのそうし》のような読み物でも、もしそのつもりで捜せばそれらの中にある俳句的要素とでも名づけられるようなものを拾い出すことは決してそれほど困難ではあるまいと思われる。
ここで自分がかりに俳句的要素とかいう名前で呼んでいるものは何であるかというと、それは古来の日本人が自然に対する特殊な見方と態度をさして言うのである。
日本人の対自然観が外国人なかんずく西洋人などのそれと比較していかなる特徴をもっているかということについては最近に他の場所でやや詳しく述べたからここでは詳細の解説は省略するが、その要点をかいつまんで言ってみると次のようなものである。
日本人は西洋人のように自然と人間とを別々に切り離して対立させるという言わば物質科学的の態度をとる代わりに、人間と自然とをいっしょにしてそれを一つの全機的な有機体と見ようとする傾向を多分にもっているように見える。少し言葉を変えて言ってみれば、西洋人は自然というものを道具か品物かのように心えているのに対して、日本人は自然を自分に親しい兄弟かあるいはむしろ自分のからだの一部のように思っているとも言われる。また別の言い方をすれば西洋人は自然を征服しようとしているが、従来の日本人は自然に同化し、順応しようとして来たとも言われなくはない。きわめて卑近の一例を引いてみれば、庭園の作り方でも一方では幾何学的の設計図によって草木花卉《そうもくかき》を配列するのに、他方では天然の山水の姿を身辺に招致しようとする。
この自然観の相違が一方では科学を発達させ、他方では俳句というきわめて特異な詩を発達させたとも言われなくはない。これは一見はなはだしく奇抜な対比のように聞こえるであろうが、しかし自分が以下に述べんとする諸点を正当に理解される読者にとってはこうした一見奇怪な見方が決して奇怪でないことを了解されるであろうと思われる。
日本人のこうした自然観がどうして成立したかという起原と理由については前に引用した他の場所でやや詳しく説明してあるから、ここではそれは略することとして、ここではこの日本人固有の自然観の特異性がいかなる形で俳句という詩形の中に現われて来るかを説明してみようと思う。
従来俳句について客観と主観ということが問題になることがしばしばあった。この句は純客観の句であるとか、あの句は主観の句であるとかいうような批判を耳にすることがある。便宜上こういう言葉を使って俳句の分類をするのも別にたいした不都合はないかもしれないが、自分の考えているような日本人の自然観を土台にする立場から見れば、こうした言葉はかなり無意味なものになって来る。なぜかと言えば人間と自然とを切り離して対立させない限り、主と客との対立的の差別はなくなってしまうからである。
一例として「荒海や佐渡《さど》に横とう天の川」という句をとって考えてみる。西洋人流の科学的な態度から見た客観的写生的描写だと思って見れば、これは実につまらない短い記載的なセンテンスである。最も有利な見方をしても結局一枚の水彩画の内容の最も簡単なる説明書き以外の何物でもあり得ないであろう。それだのにこの句が多くの日本人にとって異常に美しい「詩」でありうるのはいったいどういうわけであろうか。この句の表面にはあらわな主観はきわめて希薄である。「横とう」という言葉にわずかな主観のにおいを感ずるくらいである。それだのにわれわれはこの句によって限り無き情緒の活動を喚起されるのは何ゆえであろうか。
われわれにとっては「荒海」は単に航海学教科書におけるごとき波高く舟行に危険なる海面ではない。四面に海をめぐらす大八州国《おおやしまのくに》に数千年住み着いた民族の遠い祖先からの数限りもない海の幸いと海の禍《わざわ》いとの記憶でいろどられた無始無終の絵巻物である。そうしてこの荒海は一面においてはわれわれの眼前に展開する客観の荒海でもあると同時にまたわれわれの頭脳を通してあらゆる過去の日本人の心にまで広がり連なる主観の荒海でもあるのである。「大海《おおうみ》に島もあらなくに海原《うなばら》のたゆとう波に立てる白雲」という万葉の歌に現われた「大海」の水はまた爾来《じらい》千年の歳月を通してこの芭蕉翁の「荒海」とつながっているとも言われる。
もちろん西洋にも荒海とほぼ同義の言葉はある。またその言葉が多数の西洋人にいろいろの連想を呼び出す力をもっていることも事実である。しかしそれらの連想はおそらく多くは現実的功利的のものであろう。またもしそれが夢幻的空想的であるとしても、日本人のそれのように濃厚に圧縮されたそうして全国民に共通で固有な民族的記憶でいろどられたものではおそらくあり得ないであろうと思われる。
「佐渡《さど》」でも「天の川」でも同様である。いったいに俳句の季題と名づけられたあらゆる言葉がそうである。「春雨」「秋風」というような言葉は、日本人にとっては決して単なる気象学上の術語ではなくて、それぞれ莫大《ばくだい》な空間と時間との間に広がる無限の事象とそれにつながる人間の肉体ならびに精神の活動の種々相を極度に圧縮し、煎《せん》じ詰めたエッセンスである。またそれらの言葉を耳に聞き目に見ることによって、その中に圧縮された内容を一度に呼び出し、出現させる呪文《じゅもん》の役目をつとめるものである。そういう意味での「象徴」なのである。
こういう不思議な魔術がなかったとしたら俳句という十七字詩は畢竟《ひっきょう》ある無理解な西洋人の言ったようにそれぞれ一つの絵の題目のようなものになってしまう。
この魔術がどうして可能になったか、その理由はだいたい二つに分けて考えることができる。一つはすでに述べたとおり、日本人の自然観の特異性によるのである。ひと口に言えば自然の風物にわれわれの主観的生活を化合させ吸着《アドソーブ》させて自然と人間との化合物ないし膠質物《こうしつぶつ》を作るという可能性である。これがなかったらこの魔術は無効である。しかしこれだけの理由ではまだ不十分である。もう一つの重大な理由と思われるのは日本古来の短い定型詩の存在とその流行によってこの上述の魔術に対するわれわれの感受性が養われて来たことである。換言すればわれわれが、長い修業によって「象徴国の国語」に習熟して来たせいである。
ステファン・マラルメは仏国の抒情詩《じょじょうし》をおぼらす「雄弁」を排斥した。彼は散文では現わされないものだけを詩の素材とすべきだと考えた。そうして「ホーマーのおかげで詩は横道に迷い込んでしまった。ホーマー以前のオルフィズムこそ正しい詩の道だ」と言ったそうである。
この所説の当否は別問題として、この人の言う意味での正しい詩の典型となるべきものが日本の和歌や俳句であろう。雄弁な饒舌《じょうぜつ》は散文に任して真に詩らしい詩を求めたいという、そういう精神に適合するものがまさにこうした短詩形であろう。この意味でまた日本各地の民謡などもこのいわゆるオルフィズムの圏内に入り込むものであるかもしれない。
詩形が短い、言葉数の少ない結果としてその中に含まれた言葉の感覚の強度が強められる。同時にその言葉の内容が特殊な分化と限定を受ける。その分化され限定された内容が詩形に付随して伝統化し固定する傾向をもつのは自然の勢いである。さらばこそ万葉古今の語彙《ごい》は大正昭和の今日それを短歌俳句に用いてもその内容において古来のそれとの連関を失わないのである。またそれゆえにそれらの語彙が民族的遺伝としての連想に点火する能力をもっているのである。
しかしまたこれらの語彙の意義内容は一方では進化し発展しつつ時代に適応するだけの弾性をもっている。「春雨」はビルディング街に煙り「秋風」は飛行機の翼を払うだけの包容性を失わないのである。
こう考えて来ると、和歌と俳句は純粋な短詩の精神を徹底的に突きつめたものであり、またその点で和歌よりも俳句のほうがいっそう極度まで突きつめたものだということになるのである。
俳句における季題の重要性ということも同じ立場からおのずから明白であろう。限定され、そのために強度を高められた電気火花のごとき効果をもって連想の燃料に点火する役目をつとめるのがこれらの季題と称する若干の語彙《ごい》である。
有限な語彙の限定は形式の限定と同様往々俳句というものの活動の天地を限定するかのような錯覚を起こさせる。近ごろいろいろの無定形無季題短詩の試みがあるのは多くはこの錯覚によるのではないかと想像される。しかし人間と化合した有機的の「春雨」「秋風」はその言葉の外形は不変であっても、その内容は人間社会とともに進化の歩みを止めることはない。人間とその社会が新しくなれば、いっしょに新しくなって行くものである。詩形についても同様の事が言われる。人体の解剖学的構造は二千年前の先祖とほとんど同じでも人間の思想は決して同じところにとどまっていないのである。それと同じように、詩形は固定していてもそれに盛らるる精神的内容はいくらでも進化しうるのである。
十七字のパーミュテーション、コンビネーションが有限であるから俳句の数に限りがあるというようなことを言う人もあるが、それはたぶん数学というものを習いそこねたかと思われるような人たちの唱える俗説である。少なくも人間の思想が進化し新しい観念や概念が絶えず導入され、また人間の知恵が進歩して新しい事物が絶えず供給されている間は新しい俳句の種の尽きる心配は決してないであろう。
話が少し横道にそれてしまったが、ここで言わんとしたことは、俳句が最短の詩形であるがために、その語彙《ごい》の中に連想と暗示の極度な圧縮が必要であるということ、それからまたそういう圧縮が可能となるための基礎条件として日本人のような特異な自然観が必要であること、なおその上に環境条件として古来の短詩形の伝習によって圧縮が完成され、そうしてできあがった語彙の象徴的効力がそれぞれに分化限定されたこと、それらの条件が具備して、そこではじめて俳句という世界に類のない詩が成立したということである。
以上は俳句の内容に関することであったがその五七五の定型についてもその成立が決して偶然でないことは次の所説から理解されようかと思う。
ジュール・ロマンという人が、フランス人の作ったいわゆるハイカイを批評した言葉の中におおよそ次のような意味の苦言がある。「俳句の価値はすべての固定形の詩の場合と同様に詩形の固定していること、形式を規定する制約の厳重なことに存している。かつて仏国にソンネット詩形を取り入れたとき、多少この詩形の規則をはずれたようなものを作ったものもあって、いかもの扱いにされたことであったが、それでもその規則はずれの自由さはほんのわずかの程度のものであった。しかるにフランスのハイカイはなるほど三つの詩句でできているというだけは日本のに習っているが、一句の長さにはなんの制限もないし、三句の終わりの語呂《ごろ》の関係にも頓着《とんちゃく》しない。それでは言わば多少気のきいたノート・ド・カルネー(手帳の覚え書き)ぐらいにはなるかもしれないが、しかし日本俳句の力強さも、振動性も拡張性もない」というのである。外国人の所説としてはおもしろいと思われる。
実際短い詩に定型がなかったら「手帳の覚え書き」との区別はつきにくい。しかし「古池に蛙《かわず》が飛び込んで水音がした」がなぜ散文で、「古池や蛙飛び込む水の音」がなぜ詩であるか。それは無定形と定形との相違である。しからば前者の五、九、七、を一つの異なる定型としてはなぜいけないか。この疑問に答えるには日本における五七調の成立と、その必然性とを考えなければならない。
どうして日本に五、七あるいは七、五の律動が普遍化したかということはむつかしい問題である。今のところ明白な説明はできそうもない。私見によるとおそらくこれは四拍子の音楽的拍節に語句を配しつつ語句と語句との間に適当な休止を塩梅《あんばい》する際に自然にできあがった口調から発生したものではないかと想像されるのであるが、これについては別の機会に詳説することとして、ここではともかくそうしてできた五七また七五調が古来の日本語に何かしら特に適応するような楽律的性質を内蔵しているということをたとえ演繹《えんえき》することは困難でも、眼前の事実から帰納することができればそれで少なくもこの場限りの目的には充分であろうと思われる。
古事記などの古い部分に現われたいろいろの歌ではまだ七五の形は決定していないで、いろいろの字数の句が錯雑している。そうしてその錯雑した中に七五あるいは五七の胚芽《はいが》のようなものが至るところに散点していることが認められる。それがいつとはなしに自然淘汰《しぜんとうた》のふるいにでもかけられたかのようにいろいろな異分子が取り除かれて五と七という字数の交互的連続に移って行っている。こういう現象は決して権勢の力や金銭の力で招致することのできないものであって、やはり進化論的の意味での自然淘汰、適者生存の理によるものであろうと思われる。この七五、また五七は単に和歌の形式の骨格となったのみならずいろいろな歌謡俗曲にまで浸潤して行ってありとあらゆる日本の詩の領分を征服し、そうしてすべての他の可能なるものを駆逐し、排除してしまっている。これは一つの大きな「事実」である。そうだとすれば、これだけの強勢な伝播《でんぱ》と感染の能力を享有する七五の定数にはやはりそうなるだけの内在的理由があると考えるよりほかに道はないであろうと思われる。
要するに七五の定数律は人のこしらえたものではなくて、ひとりで生まれひとりで生長して来たものである。それで今にわかに人為的にこれを破壊し棄却しようとしてもそう急速には意のままにならないであろうと考えられる。これは理屈ではなくて事実なのである。
次には俳句が七五七でなくて五七五であるのはどういうわけかという疑問が起こる。和歌の上の句と同型だからというのも一つの説明にはなるが、それとは独立にも五七五のほうが短詩の形式としてすぐれていると思われる理由もなくはない。初五が短いためにそのあとでちょっとした休止の気味があって内省と玩味《がんみ》の余裕を与え、次に来るものへの予想を発酵させるだけの猶予《ゆうよ》を可能にする。中七は初五で提出された問題の発展であり解答であるので長さを要求する。最後の五は結尾であって、しかもそのあとに企韻の暗示を与え、またもう一ぺん初五をふり返ってもう一ぺん詠《よ》み直すという心持ちを誘致するためには、短いほうが有効であるかと思われる。これはあるいは多少|牽強付会《けんきょうふかい》の説と見られるかもしれないがしかしとにかく一応こういう説も立て得られるということは事実であろうと思われる。
次に「切れ字」というものの意義についてはすでに他の場所で解説したことがあるからここには略するが、これも要するに決して偶然なものでもなく、人工的のものでもなくきわめて自然で必要な短詩の制約の一つとして見るべきものである。
以上私は俳句の形式の必然性についてかなりくどくどしく述べて来たようであるが、そうしたわけは私の考えでは俳句の精神といったようなものは俳句のこの形式を離れては存立し難いものと考えるからである。その精神とはどんなものか、それについては章を改めて述べてみたいと思う。
二 俳句の精神とその修得の反応
この講座の編集者から私は「俳句の精神」という課題を授けられた。この精神とは何を意味するか私にはよくわからない。たぶん「わび」とか「さびしおり」とか「風流」とかいうことの解説を要求されていることかとも思われた。しかし、そういう題目については従来多くの先輩の各方面からの所論や説述があり、私自身にもすでにいろいろな場所で繰り返して私見を述べて来たことであるから、今さらにまた同じことを繰り返したくないような気がする。それでここではむしろ少しちがった角度からこの問題を考えてみたいと思う。
前に述べたように俳句というものの成立の基礎条件になるものが日本人固有の自然観の特異性であるとすると、俳句の精神というのも畢竟《ひっきょう》はこの特異な自然観の詩的表現以外の何物でもあり得ないかと思われて来る。
日本人の自然観は同時にまた日本人の人世観であるということもすでに述べたとおりである。「春雨」「秋風」は日本人には直ちにまた人生の一断面であって、それはまた一方で不易であると同時に、また一方では流行の諸相でもある。「実」であると同時に「虚」である。「春雨や蜂《はち》の巣つとう屋ねの漏り」を例にとってみよう。これは表面上は純粋な客観的事象の記述に過ぎない。しかし少なくも俳句を解する日本人にとっては、この句は非常に肉感的である。われわれの心の皮膚はかなり鋭い冷湿の触感を感じ、われわれの心の鼻はかびや煤《すす》の臭気にむせる。そのような官能の刺激を通じて、われわれ祖先以来のあらゆるわびしくさびしい生活の民族的記憶がよびさまされて来る。同時にまた一般的な「春雨」のどこかはなやかに明るくまたなまめかしい雰囲気《ふんいき》と対照されてこの雨漏りのわびしさがいっそう強調される。一方ではまたこの「蜂《はち》の巣」の雨にぬれそぼちた姿がはっきりした注意の焦点をなして全句の感じを強調している。この句を詠《よ》んだ芭蕉は人間であると同時に、またこの蜂の巣の主の蜂でもあったのである。
このように自然と人間との交渉を通じて自然を自己の内部に投射し、また自己を自然の表面に映写して、そうしてさらにちがった一段高い自己の目でその関係を静観するのである。
こういうことができるというのが日本人なのである。
こういうふうな立場から見れば「花鳥諷詠《かちょうふうえい》」とか「実相観入」とか「写生」とか「真実」とかいうようないろいろなモットーも皆一つのことのいろいろな面を言い現わす言葉のように思われて来るのである。
短歌もやはり日本人の短詩である以上その中には俳句におけるごとき自然と人間の有機的結合から生じた象徴的な諷詠の要素を多分に含んだものもはなはだ多いのであるが、しかし俳句と比較すると、和歌のほうにはどうしても象徴的であるよりもより多く直接法な主観的情緒の表現が鮮明に濃厚に露出しているものが多いことは否定し難い事実である。そうした短歌の中の主観の主はすなわち作者自身であって、作者はその作の中にその全人格を没入した観があるのが普通である。しかし俳句が短歌とちがうと思われる点は、上にも述べたように花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。「山路来て何やらゆかしすみれ草」でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍《かたわら》からもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。
短歌と俳句との精神というかあるいは態度というか、とにかくその内容に対する作者自己の関係の両者における相違をしいて求めてみると、その相違が主として上記の点に係わっているように思われる。このような差別の起こった一つの原因は、俳句の詩形が極度に短くなったために、もし直接な主観を盛ろうとすると、そのために象徴的な景物の入れ場がなくなってしまうので、そのほうを割愛して象徴的なものに席を譲るようになり、従って作者の人間は象徴の中に押し込まれ自然と有機的に結合した姿で表現されるよりほかにしかたがなくなる。その結果として諷詠者《ふうえいしゃ》としての作者は、むしろ読者と同水準に立って、その象徴の中に含まれた作者自身を高所からながめるような形になる。
この事と連関してちょっとおもしろい話がある。私の知っているある歌人の話ではその知人の歌人中で自殺した人の数がかなり大きな百分率を示している。俳人のほうを聞いてみると自殺者はきわめてまれだという。もちろんこれは僅少《きんしょう》な材料についての統計であるから、一般に適用される事かどうかはわからないが、上述のごとき和歌と俳句との自己に対する関係の相違を考え合わしてみるとおもしろい事実であろうかと思われる。いかなる悲痛な境遇でもそれを客観した瞬間にはもはや自分の悲しみではない。
歌人と俳人とではあるいは先天的に体質、従ってそれによって支配される精神的素質がちがっているのではないかという想像さえ起こし得られる。近ごろ流行の言葉を使えば、体内各種のホルモンの分泌のバランスいかんが俳人と歌人とを決定するのではないかという気もする。これはしかるべき生理学者の研究題目になりうるのではないかと思われる。
それはいずれにしても、上述のごとき俳句における作者の自己の特殊な立場は必然の結果として俳句に内省的自己批評的あるいは哲学的なにおいを付加する。「風流」といい「さび」というのも畢竟《ひっきょう》は自己を反省し批評することによってのみ獲得し得られる「心の自由」があって、はじめて達し得られる境地であろうと思われる。
風流とかさびとかいう言葉が通例消極的な遁世的《とんせいてき》な意味にのみ解釈され、使用されて来た。これには歴史的にそうなるべき理由があった。すなわち仏教伝来以後今日まで日本国民の間に浸潤した無常観が自然の勢いで俳句の中にも浸透したからである。しかし自分の見るところでは、これは偶然のことであって決して俳句の精神と本質的に連関しているものとは思われない。仏教的な無常観から解放された現代人にとっては、積極的な「風流」、能動的な「さび」はいくらでも可能であると思われる。日常劇務に忙殺される社会人が、週末の休暇にすべてを忘却して高山に登る心の自由は風流である。営利に急なる財界の闘士が、早朝忘我の一時間を菊の手入れに費やすは一種の「さび」でないとは言われない。日常生活の拘束からわれわれの心を自由の境地に解放して、その間にともすれば望ましき内省の余裕を享楽するのが風流であり、飽くところを知らぬ欲望を節制して足るを知り分に安んずることを教える自己批判がさびの真髄ではあるまいか。
俳句を修業するということは、以上の見地から考えると、退嬰的《たいえいてき》な無常観への逃避でもなければ、消極的なあきらめの哲学の演習でもなく、またひとりよがりの自慰的お座敷芸でもない。それどころか、ややもすればわれわれの中のさもしい小我のために失われんとする心の自由を見失わないように監視を怠らないわれわれの心の目の鋭さを訓練するという効果をもつことも不可能ではない。
俳句の修業はその過程としてまず自然に対する観察力の練磨《れんま》を要求する。俳句をはじめるまではさっぱり気づかずにいた自然界の美しさがいったん俳句に入門するとまるで暗やみから一度に飛び出してでも来たかのように眼前に展開される。今までどうしてこれに気がつかなかったか不思議に思われるのである。これが修業の第一課である。しかし自然の美しさを観察し自覚しただけでは句はできない。次にはその眼前の景物の中からその焦点となり象徴となるべきものを選択し抽出することが必要である。これはもはや外側に向けた目だけではできない仕事である。自己と外界との有機的関係を内省することによって始めて可能になる。
句の表現法は、言葉やてにはの問題ばかりでなくてやはり自然対自己の関係のいかなる面を抽出するかという選択法に係わるものである。
このような選択過程はもちろん作者が必ずしも意識して遂行するわけではないが、しかしそういう選択の能力は俳句の修業によって次第に熟達することのできる一種不思議な批判と認識の能力である。こういう能力の獲得が一人の人間の精神的所得として、そう安直な無価値なものであろうとは思われないのである。
一般的に言って俳句で苦労した人の文章にはむだが少ないという傾向があるように見える。これは普通字句の簡潔とか用語の選択の妥当性によるものと解釈されるようであるが、しかしそれよりも根本的なことは、書く事の内容の取捨選択について積まれた修業の効果によるのではないかと思われる。俳句を作る場合のおもなる仕事は不用なものをきり捨て切り詰めることだからである。
こういうふうに考えて来ると、俳句というものの修業が、決して花がるたやマージャンのごとき遊戯ではなくてより重大な精神的意義をもつものであるということがおぼろげながらもわかって来る。それと同時に作句ということが決してそう生やさしい仕事ではないことが想像されるであろうと思われる。
俳句の修業はまた一面においては日本人固有の民族的精神の習得である。本編の初めに述べたように俳句という特異な詩形の内容と形式の中に日本民族の過去の精神生活のほとんど全部がコンデンスされエキストラクトされている。これが外国人に俳句のわからない理由であると同時に日本だけに俳句が存在しまた存在しなければならなかった理由である。同じ理由から俳句を研究することは日本人を研究することであり、俳句を修業することは日本人らしい日本人になるために、必要でないまでも最も有効な教程であり方法である。これは一見誇大な言明のようであるが実は必ずしも過言でないことはこの言葉の意味を深く玩味《がんみ》される読者にはおのずから明らかであろうと思われる。
こういう意味で自分は、俳句のほろびない限り日本はほろびないと思うものである。
付言
以上は自分の自己流の俳句観である。現代俳壇の乱闘場裏に馳駆《ちく》していられるように見える闘士のかたがたが俳句の精神をいかなるものと考えていられるかは自分の知らんと欲していまだよく知りつくすことのできないところである。従って上記のごときは俳壇の諸家の一粲《いっさん》を博するにも足りないものであろうが、しかし全然畑違いのディレッタントの放言も時に何かの参考になることもあろうかと思って、ただ心のおもむくままをしるしてみた次第である。多忙と微恙《びよう》に煩わされてはなはだまとまりの悪い随筆になってしまったのは遺憾である。
[#地から3字上げ](昭和十年十月、俳句作法講座)
底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
※校正には、2001(平成13)年7月5日67版を使用しました。
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年9月5日作成
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